陸離

序章

風が南から吹き始めたか、と感じるか感じないかのところで、
突如として嵐のような突風に変わった。
2月の風は未だ冷たく、人々は首を縮めながら家路を急ぐ。
太陽が緩く西へ沈み、橙色と濃紺のグラデーションが駅前からのぞく空を彩る。
その女性の長い髪が突風に煽られる。しかし、駅前にたたずむその女性は微動だにしない。
駅の改札口から南はバスのロータリーになっていて、
向かって右側が降車側、左側が乗車側となっている。
影が長く伸びた乗車側のベンチ。その前で女性はようやく西の空から目をそらした。
目の前にバスが滑り込んでくる。
20分ごとにやってくるそのバスに、女性は乗る気配を見せない。
「お客さん、乗らないの?」
その声に女性は頷きで返した。
バスのドアが音を立てて閉まる。エンジンを唸らせながらロータリーを回っていたバスは、
駅の南口を緩やかに離れ始めた。

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太陽はすでに彼方に沈み、ロータリーの中央にある街灯がともると、
女性はようやくベンチに腰を下ろす。
表情はけして暗いものでないが、笑みはどこにも見られない。
誰か帰りを待っているようにも見えるが、女性は改札口を見ようとはしなかった。
ロータリーの右、降車側に面して、コンビニエンスストアがある。
ロータリーに面している、コンビニの大きな窓に一人の男が立っていた。
その男は、週刊雑誌を読むふりをしながら女性に強い視線を注ぎ続けている。
コンビニの店員がその様子を怪訝そうに眺めているのだが、声をかける勇気がないようだ。
そんなことを意に介しない男は、女性がベンチに座ったのを合図に週刊誌を棚に戻した。
そして、何かを買うでもなくそのままコンビニを出ると、まっすぐ女性に向かう。


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「ここからだと、宵の明星がよく見えるんですよね」
頭上から声が聞こえた。女性はベンチに座ったまま声のする方へ視線を移す。
背広が目に入る。藍色のスーツに身を包んだ男性が、じっとこちらを見ている。
にこやかな表情を貼り付けたまま、男性が言葉をついだ。
「あ、宵の明星を見てたんじゃないんですか?」
見たことがある男性だったが、女性は思い出すことが出来ない。
先ほど声をかけてきたバスの運転手に少し似ている気がするが、気のせいだろう。
「突然声をかけて迷惑ですよね?すいませんでした、失礼します」
軽く会釈すると、男性は女性のいるベンチから離れていく。


-------


「宵の明星って太陽と同じ方角に見えるんですって」
女性は男性に声をかける。
「え?」
男性は突然声をかけられて驚いたようだった。
「コンビニからずっと私を見てましたよね?」
その声に男性は狼狽を隠せなかった。
「いや、その、僕は、べつに見ていたわけじゃ・・・」
「宵の明星って知ってますか?」
狼狽している男に構うことなく、女性は話を続ける。
「この季節が一番よく見えるんですって。宵の明星」


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「宵の明星って知っていますか?」
男性は女性のその声を聴いた瞬間、何かにとらわれた。
それは恋と呼べるものなのか、男性には分からなかった。
だから、その後男性がベンチに座ったのも、女性と寒空の下で話したこともうろ覚えだった。
男性の名前は隆司、女性の名前は美南子。
その二人は、出会うべくして出会ったのである。


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「この季節が一番よく見えるんですって。宵の明星」
コンビニから見ていたその男性に声をかけたのはほんの気まぐれだった。
何も言わずに立ち去ろうとした男性に、私は声をかけた。
その事実は変わりようがない。
男性は狼狽しながらも、ベンチに座りながら照れ笑いをしている。
ずっとコンビニから私を見ていた男性。
その男性に声をかけた女性。
奇妙な二人が打ち解けるのには、宵の明星をあと数十回見る必要があるだろう。
男性の名前は司、女性の名前は南。
その二人は、出会うべくして出会ったのである。


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「・・・へぇ、それじゃあ、あの南口のロータリーって10年以上もあのままなんだ」
「そうなのよ、南。お母さんね、あのロータリーでパパと出会ったのよ」
「へぇ~」
「10年前にパパはバスの運転手をしてたんだよ?」
「バスの運転手?」
「そう。それでね、パパは私に声をかけたのよ」
「へぇ~」
「お客さん、乗らないの?ってね」
「うん」
「で、ドアを閉めて走り出したんだけど・・・」
「うん」
「気がついたら、目の前に息を切らしたパパが立ってたの」
「うん」
「で、『宵の明星』のことを話し出したのよね~」
「へぇ~」
「で、話し込んだんだけど、パパったらバスをほったらかしにして・・・」
「うん」
「その後こっぴどく怒られたんだよ、バス会社の人に。笑っちゃうでしょ?」
「何か今のパパらしいよね」
「うん、そう思う。でもね、南・・・」
「なに?」
「パパ、バスを止めて私に話しかけてくれたって分かった時、ちょっと嬉しかった」
「・・・のろけ?」
「ばか!」
「おーい、美南子。ごはんできたのか~?」
「・・・ママ。パパ呼んでるよ?」
「はいはい、相変わらず食い気だけは一人前だから。南、このおかずお願いしていい?」
「は~い」


・・・南が司に出会うのはそれからさらに二桁の年月が過ぎた頃のことである。

第一章

一目惚れだった。

いつものように駅を降りて、南口の改札を抜けると右手に見えるコンビニに入る。
そこで夕食代わりのおにぎりとお茶を買うこともあれば、
毎週読むほどではないが、たまに読みたくなる週刊漫画誌を立ち読みしたりする。
コンビニの店員も、平日のこの時間はいつも同じバイトで、
きさくに声をかけてきたりする、わけはない。
近所づきあいも減ってきて、近しい距離にいるにもかかわらず、
人とのコミュニケーションが苦手なあまり、距離感がつかめない人が多くなる現代社会。
コンビニのバイトが、毎日立ち寄る男性に声をかけることなどあるはずもない。
やはり、今の人間は、物理的距離感や精神的距離感がつかめなくなっているのか。
なんて、社会派ぶってみて考えたりすることはあっても、
そこから何かしらの結論が導かれるほど頭脳明晰ではない僕は、
早々に考えることをあきらめてみる。

その日も、駅の南口を降りてコンビニへ向かおうとしていた。
お気に入りの紅鮭ハラスのおにぎり138円と、ペットボトルの500mlのお茶125円、
合計263円の買い物をして、そのまま自分の巣へ帰ろうと頭の中で計画をして、
その通りの行動をとろうとしていたのだが、
そのコンビニの中で、女性ファッション誌を立ち読みしている女性を見つけた。
制服を着ているので、高校に通っている女子高生なのだろう。
かくいう僕も、その高校の制服を着ているのだから、見間違いようもない。
もちろん、女子用ではなく男子用であるのだが。

一目惚れだった。

急速に体温が上昇し、頬が紅潮するのがわかる。
こんな暑い夏の盛りなのに、頬が赤い男子高生がコンビニへ入ると、
確実に病気か何かと思われると危惧するのだが、
こういうときの思春期の男性は、理性よりも本能が先行する体質のようである。
何も考えずにコンビニへと入っていく自分がいた。
冷房の効いたコンビニは時間つぶしには最適なのだが、
何気ない風を装いながら、しかも本棚の脇をすり抜けつつ、
悲願の女性のご尊顔を拝そうという頭の中の計画はもろくも崩れ去る。
両手両足が交互に動かず、明らかに不審者めいた歩き方をしているのが、
頭の隅にいるもう一人の冷静な自分が関知している。
だから、そこからきちんと理性を奮い立たせるべきなのだがうまくはいかなかった。
ぎこちない歩き方のまま、本棚へと近づいて読み出したのは、
全く興味のない「週刊文春」の最新号であった。

ほんの1mほど左には、同じ高校の制服を着た女子が、
余裕綽々といった態でファッション誌を眺めている。
何をのんきに読んでるんだ、こっちのことも考えろ、という、
かなり自分勝手で理不尽な怒りを覚えながら、
一向に文字を追うことが出来ない週刊文春を読み続けていた。


「よぉ、司!どうした。そんな本なんか読んで」
そんな声がコンビニの入り口から聞こえてきた。
姿を見なくても分かる。
こんな無遠慮で無自覚で無神経な声を出すのはあいつしかいない。
僕は、そんな声が聞こえないふりをしながら立ち読みを続ける。
「おい、司。聞こえてんだろ?なにシカトしてんだよ!」
私には何も聞こえない。何も見えていない。
悪友で悪人で悪党でもある同級生の柊治人(ひいらぎなおと)が、
私には透明人間のように見えないし、声も聞こえてこない。

そんな大声に、コンビニにいる人々は無言の圧力を治人に向けているようだったが、
意外にもその声にいち早く反応したのは、くだんの女子高生だった。
「あれ?治人さん?治人さんじゃないですか」
その女子高生から発せられた声は、まさに天使のようだ。
この声を僕は一生聴き続けても飽きることはないだろう、
などと考えていたのかどうかはともかく、
この女子高生が、治人と顔見知りであることがかなりショックだった。
治人は僕からその女子高生へと興味を移したようで、
少し驚いた表情を浮かべながら、僕の後ろを通り過ぎて、女子高生へ近寄っていく。
「おお、南、南じゃねぇか、久しぶりだな~」
久しぶりだと!?俺が一目惚れした女性に対して、そんな言葉をかけられるほど、
その女性と何かしらの関係があるのか。あるのか?あるんだろう。


十分後に判明した事実は次の通りである。
まず、その女性の名前が「南」ということ。
そして、その南様と治人が幼なじみだということ。
南様が我々と同じ高校に通う一年後輩だということ。
そして、南様が現在付き合っている彼氏がいないということ。
それらの事柄を、僕は3人で隣の喫茶店に入って治人から強引に聴かされたのだった。

治人の強引さは折り紙付きなのだが、このときもそれは十二分に発揮された。
まず、南様に声をかけて、そのまま僕にも声をかける。
そして、邂逅した三人で隣にある喫茶店へといざなわれたのだ。
その手際はお世辞にも見事とは言えなかったが、何でも良い。
一目惚れした南様と一緒にいられることですべてはチャラだ。
まあ、治人が邪魔だったことは否めないが。


「司、おまえなんで週刊文春なんか読んでたんだよ」
「いや、あれは、その・・・」
「へぇ、司くんって時事問題に興味があるんですか?」
「いや、まあ、少しくらいなら興味はある、のかなぁ・・・」
「南、こいつ、そんな頭良くないから」
「うるせぇぞ、治人」
「でも、コンビニで真っ先にその雑誌を手に取ってましたよね?」
「ええ、まあ、毎週読んでるので、何となくでしたけど・・・」
「おまえの家にこんな高尚なもの、置いてたっけ?」
「だから、治人、うるせぇ」
「今年から導入される消費税の問題とか載ってますよね?」
「え?南さま、いやいや、南さんも週刊文春読んでるの?」
「いえ、父が良く買ってくるので、少し見る程度です。コンビニでいつも読んでる司さんとはレベルが違いますから」
「ああ、そう、ですか・・・」
「おい、司、おまえなんで顔が赤いんだよ」
「治人、おまえ、ほんとうるせぇ」
「ほんとだ、耳まで真っ赤ですよ、司くん」
「あ、いや、ちょっと、とととと、トイレに・・・」

そして、僕は今トイレに立てこもりながら、策を練っているところである。


---------


私こと桐野南(きりのみなみ)は、ようやくその日を迎えることが出来た。

いつも彼は駅の南口にあるコンビニに立ち寄っている。
買い物をしてバスに乗って、少し疲れた顔をしながら家路を急いでる。
今日も部活が延長して、駅前に着いたのは夜の8時前となっていた。
だから、今日この日、と決めた私としては、どこかで待っている必要があったのだ。

治人(なおと)は幼なじみとしか見てくれていないが、
私はそうではなかった。純粋に恋愛の対象として治人を見ている。
それが自分で分かっているだけに、何も言うことが出来なかった。
だから、今日この日、と決めた私としては、なにかを待っている必要があったのだ。

コンビニで待っていると、同じ高校の男子生徒が入ってきた。
ぎこちなく歩いている様子が少し変だとも思ったが、
おもむろに週刊文春を読み出した時に、笑いそうになった。
きっとこういう雑誌を読み慣れていないのだろう。
目次を見ることもなく、見開きの写真ページを食い入るように見ていたから。
それとなく見ていたら、入り口に治人の姿が映る。

心臓が飛び跳ねた。ドキドキした。
頬が赤くなってないだろうか、目は泳いでないだろうか。
治人が大声で呼びかけているのが、
隣で週刊文春を読んでいるフリをしている学生であることに気づいた時、
何でこっちに気づいてくれないんだろう、と思い、
隣の男子学生に理不尽とも言える嫉妬心を憶えた。

「よぉ、司!どうした。そんな本なんか読んで」
治人の声はバリトンのごとく大きく響く。その声が好きだった。
司、と呼ばれたその男子学生は、
おそらく聞こえているだろうに、まったく返事をしない様子。
どうやら、無視を決め込んでいるようだった。

ということは、この二人は同級生ということ?
友達同士のように見えるのだが、
となりの男子学生の様子を見るとそんな風にも見えない。

治人が気づくまで様子を見ようと思っていたが、
とうとう我慢できなくなり、自分から声をかけてしまった。
「あれ?治人さん?治人さんじゃないですか」
その声に最初に反応したのは、呼ばれた治人ではなく、
隣にいた司と呼ばれた男子学生だった。

正面からみると、少し頬が赤くなっている。
息を切らした様子もないし、どうして赤い顔なんだろう。
そのときの私にはそれくらいの感想しか持たなかった。

治人の薄い唇から大きなバリトンが再びこだまする。
「おお、南、南じゃねぇか、久しぶりだな~」
その声にも過敏な反応を見せた司は、
驚きとも悲しみともつかない表情を浮かべながら微笑していた。
その表情が妙に印象に残っているのはなぜなんだろう。
穏やかな表情だったからではないはずだが。。。

ともかく、治人は私のところへ寄ってきて、
おもむろに左手を差し出すやいなや、私の手を握ってきた。
そして、もう片方で持っていたカバンを司に預けて、
そのまま司の左手を握る。
そして、このまま我々3人はコンビニを後にして、
隣にある喫茶「シャガール」へと入ったのだった。

その男子生徒は、柏木司(かしわぎつかさ)と名乗った。
治人の仕切りで自己紹介をした後、
私と治人が幼なじみであること、
治人と司が同級生であること、
私が一年後輩の同じ高校であること、
そして無神経にも私には未だ彼氏がいないことを、
我が事のように面白おかしく話していた。


「司、おまえなんで週刊文春なんか読んでたんだよ」
「いや、あれは、その・・・」
「へぇ、司くんって時事問題に興味があるんですか?」
「いや、まあ、少しくらいなら興味はある、のかなぁ・・・」
「南、こいつ、そんな頭良くないから」
「うるせぇぞ、治人」
「でも、コンビニで真っ先にその雑誌を手に取ってましたよね?」
「ええ、まあ、毎週読んでるので、何となくでしたけど・・・」
「おまえの家にこんな高尚なもの、置いてたっけ?」
「だから、治人、うるせぇ」
「今年から導入される消費税の問題とか載ってますよね?」
「え?南さま、いやいや、南さんも週刊文春読んでるの?」
「いえ、父が良く買ってくるので、少し見る程度です。コンビニでいつも読んでる司さんとはレベルが違いますから」
「ああ、そう、ですか・・・」
「おい、司、おまえなんで顔が赤いんだよ」
「治人、おまえ、ほんとうるせぇ」
「ほんとだ、耳まで真っ赤ですよ、司くん」
「あ、いや、ちょっと、とととと、トイレに・・・」

そして、司はトイレへそそくさと入っていたのだった。


「なぁ、南」
治人は外のバスロータリーを見ながらつぶやくように言った。
「なに?」
治人のそんな様子を見ながら返事をする。
「あいつのことどう思う?」
「あいつって、司くんのこと?」
治人は少しも私の方を見ようとはしなかった。そのことに気づかないフリをしながら、
それでもきっかけを掴みたい一心で私は尋ねた。
「司くんって、なんで名前で呼ぶんだよ」
口をとがらせながら治人が言ったその一言。
沖縄生まれのような彫りの深い顔をしているのに、言っていることは子供のそれだった。
それでも治人がこっちを向いてくれることを期待して、ややうわずった声を出してしまう。
「だって、柏木さんって呼んだら他人行儀だし、司さんっていうのもおかしいじゃない?だから、司くんがいいかなと思って。変、だったかな?」
「いや、変じゃないけどさ・・・」
「で、司くんがどうかしたの?」
「あいつ、おまえに惚れてる」
何も言えなくなった。治人は伏し目がちになりながらも、ようやく顔を向けた。
「・・・聴いてるのか、南」
「聴いてるよ」
今度は私が口をとがらせた番だった。
「なんでおまえ、泣きそうな顔してるんだよ」
「だって・・・」
そこから先は会話にならなかった。
私は今日、一大決心をして、治人に言おうと決めていたのだ。
つきあってください、って。
でも、言えなかった。治人は本当に無神経だった。
司が私のことを好きだという。そんなことは誰にでも分かる。
彼がコンビニに入っていた時からわかってた。
だから、それを治人の口から言われることが無性に腹立たしかった。
泣きたくなった。怒りたくなった。

「どう、したのかな・・・」
トイレから戻ってきた司が、少し険悪になっている様子に困惑するように声をかけてきた。
「ううん、なんでもないんですよ、司くん」
私はようやく声を絞り出したが、向かいに座っている治人はむすっとしたままで、
声を発する気配が感じられなかった。


そこから先の記憶はあいまいだった。
会話を少ししたような気もするが、こんな状況では弾むはずもなく、
そのまま3人でシャガールを後にした、ような気がする。
司はここから10分ほど歩いたところに自宅マンションがあるらしく、
これからバスに乗る治人と私と一緒にバスを待っていてくれた。
誰も自分から声を出そうとはしなかった。

そして、そのまあ治人と2人でバスに乗り込んだ。

バスから見た司くんは張り付かせたような笑顔を浮かべて見送ってくれた。
ああ、このときの顔だ。
コンビニで驚きとも悲しみともつかない顔をしていた。あの表情。
私はその表情をやきつけながら、終始無言でバスに揺られ続けた。


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柊治人(ひいらぎなおと)は、その日息を殺して泣いていた。


学校の帰りにコンビニによるのがあいつの日課らしかった。
おにぎりとお茶をセットで買うのを何度か目撃したことがある。
いつも同じメニューなんだよな、と口に出して言ったこともある。
あいつは、それでも少し笑ってこう答えてくれる。

「うるせぇ、治人」と。

父親がつけてくれたこの名前を、子供の頃治人は嫌っていた。
「はると」と呼ばれたり、「ちじん」なんて呼ばれたこともある。
「治る」という字が入っているからという理由でいじめられたこともあった。
どうせ、傷もすぐ治るんだからいいんじゃないの、と。
小学生低学年の時はバカにされどおしだった。

だから、合気道を習い始めた。
きっかけは、電信柱に張られていた「合気道教室」というチラシだった。
それまで全くといって良いほど運動をしてこなかった治人だったが、
友達に馬鹿にされたくないという一心から、その道場の門をたたいた。
親にも内緒で合気道を習うことが出来たのは、
その道場の師範がかなり偏屈で変わり者だったこともあるのだが、
何より治人の資質がずば抜けて高かったことだろう。
生徒が一人しかいなかったのだから、それだけ教え込まれたとも言える。

そして、小学校の高学年になると、誰もからかわなくなった。
ガキ大将、というと古くさいかもしれないけれど、
同じ学年、下の学年のやつらから頭を下げられるのは気持ちよかった。


南とは家が近所だったし、それなりに仲が良かった。
だから小学2年生のとき、治人がいじめられているのに、
見て見ぬフリをして通り過ぎていったのを見た時、とてもショックだった。
でも、毎日会うわけだし、そんなことを話してしまうと一緒に帰れないと思って、
結局いつも通りにしていた。

でも、今にして思う。きっと冷たく当たっていたんだろうな、と。

司との出会いは高校に入ってからだった。
竹を割ったような性格だが、ものすごくシャイな男で、
頭は決して悪くはないはずなのに、どこか抜けている。
でも、周りにいる人たちを温かく見守っているような、達観したような眼差し。
司のことが気になり出したのは、きっと同じクラスになったからではない。
何か、言葉では言えないのだが、キラキラした感じがしたのだ。

仲良くなりたい、もっと司のことを知りたい。
程なくそう思い始めたのは、ちょうど同じクラスになって一月ほど経った頃だ。

同じ駅で降りて、治人はバス、司は徒歩で帰る。
バスの停留所で司と別れて、バスを待っているフリをしながら、
司が見えなくなるのを待って、後をつけたことは一度や二度ではない。
初めて司が治人を自宅に招待してくれた時、嬉しくなって、
家を知らないフリをしていたのに、司よりも先に歩いてた、なんてこともあった。

あいつといると楽しい。あいつといると嬉しい。
司は友達なのだ。友達でいてくれるのだ。
それが、治人にとっての安心感の礎にもなっていた。


部活帰り、治人は南口の駅に降り立った。
そして、右手に見えるコンビニを見る。
司だ。司がいた。声をかけよう、そう思った時。
ふと視線を右に振ると、立ち読みをしている南がいた。
同じ高校の制服。ファッション誌を何気なく見ているその顔。
あの頃の南とあまり変わっていない風に見えた。
少し栗色に髪を染めているのが、照明に当たってよく見える。

南を見たのは小学校以来だ。あれから疎遠になってしまっていた。
仲良く通っていた小学校時代は過ぎ、中学は別々になってしまった。
だから、南の姿を見て驚いた。同じ高校に通っていたのだな、と。


司がコンビニに入って挙動不審な動きをしたのを見て、すぐにわかった。
あいつ、南に惚れたんだな。
そのときの治人の気持ちはどう表現したら良いのか。
嫉妬心。恐れ。励起。どれもしっくり来ないが、
ただ一つ言えるのは、南に対してあまり良い感情を持たなかった、ということである。
司を困らせているのは、南なんだ。そう思い込んでいた。

だから、慌ててコンビニに入った。
そして、大きな声で言ってみたのである。
「よぉ、司!どうした。そんな本なんか読んで」 と。
コンビニに入った時から気づいていた。
司が読んでいる週刊文春に。
あいつはあんな雑誌を読まない。読めるわけがないのだ。
だって、あいつは・・・

「あれ?治人さん?治人さんじゃないですか」
南が治人に気づいた。気づいてしまった。
ここで無視するわけにはいかないから、何気なく声をかける。
「おお、南、南じゃねぇか、久しぶりだな~」 と。
不自然に聞こえなかっただろうか。
南に不快な感情を抱かせなかっただろうか。

司を落ち着かせるために、隣の喫茶店に行こうと決めた。
南の手をとっさに掴んでしまったのは成り行きだったとしか言いようがない。

そして、司に説明を始める。
きっと話すことで司が怒ることもわかっていたが、
司に対して嘘をつくことは出来なかった。
ただ、南が同じ高校に通っていることを知ったのはさっきだったのだが、
それは隠しておいた。南が傷つくことはしたくない。
彼氏がいない、といったのはとっさに思いついたリップサービスだったのだが、
南からは何の反応もなかった。きっと本当のことなのだろう。

ようやく司が落ち着いた。落ち着いてくれた。
その安心感が、治人にいたずら心を芽生えさせた。


「司、おまえなんで週刊文春なんか読んでたんだよ」
「いや、あれは、その・・・」
「へぇ、司くんって時事問題に興味があるんですか?」
「いや、まあ、少しくらいなら興味はある、のかなぁ・・・」
「南、こいつ、そんな頭良くないから」
「うるせぇぞ、治人」
「でも、コンビニで真っ先にその雑誌を手に取ってましたよね?」
「ええ、まあ、毎週読んでるので、何となくでしたけど・・・」
「おまえの家にこんな高尚なもの、置いてたっけ?」
「だから、治人、うるせぇ」
「今年から導入される消費税の問題とか載ってますよね?」
「え?南さま、いやいや、南さんも週刊文春読んでるの?」
「いえ、父が良く買ってくるので、少し見る程度です。コンビニでいつも読んでる司さんとはレベルが違いますから」
「ああ、そう、ですか・・・」
「おい、司、おまえなんで顔が赤いんだよ」
「治人、おまえ、ほんとうるせぇ」
「ほんとだ、耳まで真っ赤ですよ、司くん」
「あ、いや、ちょっと、とととと、トイレに・・・」

しまった、と気づいた時には遅かった。
司が慌ててトイレへと入っていく。私は司を傷つけてしまったのか。
どうしようもない後悔が襲い始めた。

そんな心の動揺を悟られたくなくて、ずっと窓の外を見ていた。
つい口を滑らせて出た言葉は、自分でも用意していなかった言葉だった。
「なぁ、南」
「なに?」
「あいつのことどう思う?」
「あいつって、司くんのこと?」
司くん。その言葉を聞いた時、治人は不快感に苛まれた。
理由は分からないが、何か心の底を激しく引っ張られている感覚だった。気を緩めると確実に飲み込まれてしまいそうだった。だから、つい言ってしまったのだ。
「司くんって、なんで名前で呼ぶんだよ」 。


そこから先は治人もあまり憶えていない。
司が南に惚れているとか言った記憶もあるのだが、定かではない。

結局二人でバスに乗り込んで一言も話すことがなかった。

バスを降りて、南と別れ際に「じゃな、南」と声をかけた。
「うん、またね」と南。
ぎこちない会話だったが、少しほっとした。

そして、治人はその日息を殺して泣いていた。
司の心を傷つけたこと。南の心を傷つけたこと。
自分が傷ついてしまったことに。

Intermission 1

その日の天気は曇り。
日差しは軽く、軽い運動をしたくなるような気もするが、
実際に身体を動かすのは面倒なので、とりあえず寝転がっている。

隆司にとって、休日の朝は文字通り「休む」ことを主眼としている。
だから、なかなか動かないし、動く気もない。

「ちょっと、お父さん!起きなさいってば」
南が、隆司のベッドにのっかってくる。
もう小学二年生にもなったというのに、いささかの女性らしさも見られないことに、
若干の憤りを感じながらも、やはり動く気はない。

「でやっ!!」
南は、あろうことか実の父親のいるベッドの上でジャンプをした。
当然ながら、隆司が寝ているところに足が直撃する。
引力と慣性のついた南の足が、ナイーブなところに当たってしまい、
隆司は声を出せずに苦悶していた。が、やはりベッドから起き上がろうとしないのは、
もはや意地以外のなにものでもないのだろう。

そして、南は観念したのか、ベッドから飛び降りて部屋を出て行ったようだ。
ドアの閉まる音がして、ようやく静寂が訪れた。
隆司は勝利に酔いしれながらも、少しの心の痛みも感じることもなく、
目を閉じ、ゆっくりとあちらの世界へと向かおうとしていた。

毎日乗りたくもない満員電車に1時間以上も揺られて、
全くやる気もなければ興味もない仕事をせっせとこなし、
付き合いたくもない飲み会に毎週末強制的に参加させられて、
結局支払いは上司である隆司になるという本末転倒もかくや、と思われる状況を、
粛々としながらこなしているのであるからして、
こうして休日にぬくぬくとベッドにこもることは、
そんな拷問とも言える修羅場をくぐりぬけている隆司としては、
本当に豊穣なる喜びと感じざるをえないのだが、
それにしても、さっきから足の方が熱いのだが、
昨日湯たんぽとか入れたっけかな、いや、今は冬じゃないし、
何でこんなに熱いんだろう、いや、ちょっと熱すぎるんじゃないか、
いや、熱すぎるというか、これは、これは。。。。

「熱湯じゃねぇか!!!」


説明しよう。
これは先ほど部屋を飛び出した南がしでかしたことである。
仕掛けはいたって簡単。

1.美奈子に頼んで、ポットを用意する。
※朝食で紅茶などを飲む桐野家では日常的に用意されているので大丈夫。

2.そのポットを美奈子の目を盗んで、隆司の部屋へ持ってくる。

3,直接足にかけると火傷をするので、手拭いを一枚用意する。
※隆司の部屋に常備されているフェイスタオルも代用可。

4.掛け布団を足側からひっぺがし、手拭い(またはフェイスタオル)を一枚かける。
※多少、肌が露出していても全く問題ない。

5.ポットのお湯をおもむろに手拭い(またはフェイスタオル)にぶっかける。

以上。
そして、南はこの手順を忠実に実行した、というわけである。
なんという素直さ、なんという可愛らしさ。
しかし、隆司はベッドの上で阿波踊りを踊っているような状態である。
足が真っ赤で、顔が真っ青で踊っている様は、まさに阿鼻叫喚の様相で、
南としては自分がしたことを、ほんの少しだけ後悔していた。


それから3分後。
美奈子は浴槽に水を張って、わが夫の足をおもむろに突っ込ませた。
もちろん、火傷した足を冷やすためだったのだが、
浴槽のへりに座っていた隆司は、美南子に足をつかまれた上に、
引っ張られたことでバランスを崩して、浴槽に倒れ込む。
溺れるような状態になった隆司だったが、むろん溺死するような浴槽ではない。
冷静さを取り戻した隆司は、火傷の痛みとずぶ濡れになった身体を抱えながら、
しずしずと自分の部屋へと戻っていった。


それからさらに10分後。
美奈子は、居間のテーブルの向かいに南を座らせる。
しかり飛ばそうと思っていたが、
隆司のあまりの滑稽な行動に、思い出し笑いをしながらのお説教とあいなった。
(筆者注:文面はまじめに語ってますが、笑いながらの会話だと思っていただけると幸いです)

「どうして、あんなことしたの?」
「ごめんなさい」
「もう、なんであんなこと思いついたの?」
「学校で見たの」
「学校で?」


さすがに、美奈子の笑いはおさまった。
「治人くんがいじめられてたの」
南は屈託のない笑顔で、とんでもないことを口にした。
幼なじみの柊治人(ひいらぎなおと)がいじめられていることを、
対岸の火事さながらに笑顔で報告しているのである。
「柊君?いじめられてるの?」
「うん、職員室からポットを持ってきた高柳が教室に座っていた治人君にポットのお湯をかけてたの」
美奈子は眉間にしわを寄せながら、南の話を聞いている。
これが本当のことだとすると、柊さんのお宅に行ってみなければならない、と考え始めていた。
「でも、治人君、お湯かけられても笑ってたんだよ」
「・・・・」
「だから、パパにも同じことをしたら笑ってくれるかなって」
「そ、そう、パパは笑ってなかったみたいだけどね」
美南子は表情が引きつるのを自覚していたが、なんとかごまかすことに成功した。
「もう、あんなことしちゃだめよ、南、わかった?」
「うん、わかった!」


隆司は、腫れ上がった足を見ていた。
居間での美奈子と南の会話はそれとなく聞いていたつもりだったが、
くしゃみを連発し、身体が振動する度に足がうずくように痛む。
悪気はないことはもちろんわかっている。
身贔屓かもしれないが、南は素直に育ってくれた。
だから、学校で起こったことも包み隠さず話してくれる。

しかし、ふと隆司は思う。
何かが少し違っているように思うのだ。
それが何か、隆司には説明できそうもないが。

曇った空から雨粒が落ち始めたのは、
それからしばらくしてからのことだった。

第二章

とあるパパはこう言っていた。
柳の枝に猫がいる。だから、ネコヤナギ。

え?ほんと?

うそである。

その天才のパパは、大昔にテレビアニメのオープニングでそう言っていたが、
それが嘘だと知ったのは、中学性の頃だった、と司は記憶している。


人は平気で嘘をつく生き物である。
他の動物も嘘をつくのだろうか。いや、そんなことはない。
理性というものが人間に備わっている以上、
犬や猿や雉などの動物が、自分の意思で嘘をつくとは思えない。
まったきヒトという生き物は、存在しないのかもしれないのだ。
などと、分析家ぶってみたところで、
一介の高校生に結論など何も出せるはずもなく、
ただ図書館の自習室で仕事を続けていた。


話は数時間前に遡る。

その日治人と司は、部活動をサボり、
その足で図書館へとやってきた。
もちろん、本を読むためなどではなく、昼寝をするためである。
図書館の、あの空調の整った環境は、昼寝には最高のシチュエーション、
その中で目を閉じ、あちらの世界へ赴くのはとてもしあわせなのだ。
だから、桐野南の姿が目に入るまでは、
ずっとカバンを枕にしようか、借りた本を枕にしようか悩んでいた。

「あ、司くん、治人さん」
南が声をかけてきた時、司はドキドキしてしまう。
不意打ちも不意打ち、大不意打ちであった。
ちょうどファミレスでチョコレートサンデーを食べようとして、
アイスが虫歯に直撃してしまったかのような不意打ちである。
「いや、あ、どうも・・・」
図書閲覧のコーナーに人はまばらだったのだが、
南のいるそこだけ後光が差しているように司には見えた。
もちろん、司だけである。

治人が終始無言でいることに、かなりの違和感を憶えたのだが、
その治人が南の向かい側の椅子に座ったので、
必然的に司は、南の隣の席に座ることになる。
その必然ももちろん司だけのものだが。

「勉強?」
司は隣にいる南をかなり意識しながらも、どうにか話しかけることに成功した。
顔は火照りそうなほどに赤い。
「うん、昨日提出した宿題でわからないところがあったから」
なるほど、南は分からないところがあると、
先生に聞くのではなく、図書館に調べに来るのだな。
司の「南ノート」に新たな1ページが刻まれた。
「へぇ、そうなんだ~」
会心の笑みを浮かべようと努力した司だったが、それは見事に失敗し、
やはり前回同様引きつった笑顔になってしまった。自己嫌悪。
「治人さんと司くんも勉強?」
まさか、枕のことで悩んでいたとは口が裂けても言えない。
「うんうん、そうそう」
「司、おまえ、寝るんじゃなかったっけ?」
無言だった治人が口を開いた。それがこの言葉である。
会話の流れから少しは察しろよ、治人、と言いたいのを懸命にこらえながら、
それでも引きつった笑顔を絶やすことなく司はごまかし続けようとする。
「・・・部活はどうしたの?」
「ああ、今日は図書館で調べ物したかったから、部長にお願いしてお休みにさせてもらったの」
サボり組とは大違いである。
「でも、思ったより早く終わっちゃったから、好きな作家の本を選んで読んでたんだけどね」
そう言いながら可愛く舌を出す南。
こういう定番の表情をしているのも可愛いよなぁ、と危うく口に出しそうだったが、
すんでの所でこらえることに成功する。

図書館で雑談をこれ以上続けるわけにも行かず、
三人は図書閲覧コーナーをあとにして、ロビーに戻ってきた。
そこは、丸いクッション型の椅子が4つ並んでおかれているだけの質素なものだが、
そこでなら雑談も出来そうだったので、座ることに決める。
南が真ん中左寄りに座ったので、治人はその右側、司は反対の左側に座る。
そして、会話が再開された。

「司、おめぇ、寝るんじゃなかったの?」
「治人、おまえ、うるせぇ」
「司くん、図書館で寝たりするんですか?」
「いやいや、そんなことするわけないじゃないですか、私は週刊文春を読むくらいだから、ちゃんと本を読むために来てるんですよ、いや、本当に」
「いや、本当に、ねぇ・・・ま、司がそういうんなら、そうなんだろうな」
「治人、おまえ、いちいちかんに障る」
「司くん、いつもどんな作家さんの本を読んでるんですか?私は川上弘美さんが好きなんです」
「ああ、川上さん、川上さんね、僕も好きですよ」
「え、ほんとうですか?私、センセイの鞄って本が好きなんですけど、司くんは?」
「ああ、カバン、カバンね、僕も読んだよ」
「司、じゃ、どんな話だったか教えてくれよ。俺、読んだことないから」
「ああ、私も聴きたいです。感想なんか教えてくれると嬉しいかも」
「ああ、カバンのお話でしょ?それは、あれだよ、淡い恋のお話なんだよ」
「うん、うん」
「へぇ~」
「確か、主人公の女性とその昔その女性の先生だった恩師と再会して・・・」
「そう、そうです」
「で、恋愛になるんじゃなかったっけ?」
「へぇ、司、ホントに読んでたんだな」
「司くん、ホントに読んでたんですね」
「え?あってたの?」

不意に言葉が止んだ。
すると、図書館の入り口から声がする。
「お、治人じゃねぇのか?」
見るからに柄の悪そうなやつが入ってきた。
長髪をなびかせながら、治人の前に仁王立ちする。
そして、南の向こう側にいる治人が驚きの表情を浮かべている。
「ヤ、ヤナギ・・・」

それが、小学生時代の治人の同級生であった高柳であることを知ったのは、
それからしばらくしてからのことだった。

--------


菜都美。これが彼女の名前である。
しかし、小学生の時にはあだ名で呼ばれていた。
ヤナギ、と。

男子をも震え上がらせたヤナギこと高柳菜都美が、
治人に目をつけたのは、小学一年生の春のことである。


菜都美のエピソードを語ると枚挙にいとまがないのだが、
幼稚園時代にあった「醤油プリン事件」があげられる。
その日、幼稚園で出される予定だったプリン。
きちんと皿に盛られていたその31個のプリンに、
菜都美が手近にあった醤油をばれないようにかけたのである。
もちろん菜都美が食べたのは、32個目のプリンであった。

そして「かくれんぼ逃亡事件」というのもある。
幼稚園年長組でかくれんぼをやることになった。
ルールはご存じの通り、オニとなった人が隠れた者達を狩るというゲーム。
そして、オニとなった菜都美がとった行動は至極単純、
10数えた後、逃げた者達を探し始めるのだが、
明らかに見えているのに、全く「みーつけた」と宣言することなく、
ただやみくもに歩き回ったあげく「みつからないよ~」と叫びながら、
幼稚園を堂々とサボって見せた、というものである。

他にも「園長先生の弁当食い逃げ事件」や「双六いかさま事件」、
「お昼寝中に先生の顔にペンで立派なひげを書き加える事件」などなど、
その幼稚園の歴史上稀に見る「いたずらの天才」ぶりを遺憾なく発揮し、
転校ならぬ、転園寸前まで追い込んだという伝説を持つ園児であった。


そんな菜都美が小学校へとあがってくる噂は学校内でも噂となった。
「やつがくる」という言葉は隠語として教師の内で囁かれ、
それがそのまま小学生の親にまで届くという有様である。

そして、治人はそんな菜都美に目をつけられたのだった。
幼稚園の頃と違い、物の分別が付く年頃であるにも関わらず、
菜都美は半ば執拗とも思えるほど治人に執着し続けた。
前回紹介した「熱湯ぶっかけ事件」もその一つである。

事の発端は、何をやっても怒らないという柊治人、という小学生を、
何とかして怒らせられないものか、と考えた菜都美が、
様々な手を思いついた中から、コレは効果的と思えるものをチョイス、
そしてそれを何の手を加えることもなく実行してのけた結果であった。

そして、治人は怒らなかった。

ニコニコと笑いながら、教室を悠々と出て行ったのだ。
水道の蛇口から出た水を、両腕にかけている間でさえ、
その笑みがたえることはなかった。

それでも、菜都美には見えた。
治人が目にたまった涙を必死にこらえているのを。

自分がしていることで治人を傷つけていることは承知している。
でも、心に芽生えた悪行を実行するという欲求を抑えつけることは、
この当時の菜都美にはできなかったのだ。
心の隅では謝りながら、それでも菜都美は治人をイジメ続けた。

そして、治人は変わった。

合気道を習い始め、みるみるうちに治人の身体が大きくなる。
頼もしくなっていく姿を間近で見ていた菜都美。
そこには、なよなよとした治人は微塵も感じられず、
雄々しくそびえるように鎮座する治人がいた。

そして、菜都美はおそらく気づかなかっただろう。
そんな治人をじっと見つめている二つの瞳に。
一年後輩の桐野南が、ニコニコ笑いながらその様子を見ていることに。



治人にとって、ヤナギは苦手な存在であった。
いじめられたことも憶えているし、思いだしてもいる。
目の前で仁王立ちしているその姿は、紛れもなく高柳である。

いじめられている時、一つだけかたくなに守っていたことがあった。
それは「決して泣かないこと」である。
いじめられても涙を見せてはならない、そして泰然自若としていること。
特に誰から教えられた、というわけでもないそのルールを、
治人は見事に実践し、それを守り続けた。

高柳のイジメは歯止めがきかないように見えた。
だから、決して反応してはならない、と思ったのだ。

いじめっ子はいじめられっ子の反応を楽しむ。
いやがる反応、泣き出す反応、そして怖がる反応。
それを待っているのだ。だから、笑ってやった。
気持ち悪がられもしたし、逃げ出すものもいた。
でも、治人はただ、ずっと笑っていた。


自分を変えたかった。いじめられるのは自分自身のせいだ。
合気道を始めるのにそれほど躊躇はしなかった。
一風変わった師範だったが、腕は確かだったらしく、
厳しくもありがたい修行に耐え忍ぶことが出来たのは、
ひとえに自分のがんばりである、と治人は思っている。

そして、中学校に入り、治人は菜都美から告白される。
そんな菜都美を、治人は見事にふってみせた。



「なんであのとき、つきあってくれなかったんだよ!!」
菜都美の治人への第二声は、そんな言葉で始まった。


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失意のどん底、このままどこかへ消え去ってしまいたい。
そんなことを思いながら、とぼとぼと家路を踏みしめていた。


図書館での騒動は、高柳の登場で幕を開けた。
「どうして付き合ってくれなかったんだよ!!」
そう言葉を発した高柳の風体を見た時、司は度肝を抜かれることになる。

長い黒髪につけられているのはドクロをあしらったモノクロのシュシュ、
そして耳には極太の銀のピアス、それだけ見れば不良のそれなのだが、
高柳の着ていた制服は、県内の有名進学校のそれだった。
ものすごい剣幕で治人にたてついているその様子は、
図書館にいる全ての人たちの耳目を集める結果となっていた。

それまで驚いた表情を見せていた治人だったが、
ようやく体制を整えたようで、司、南の方へ顔を向けると、
「おれ、逃げるわ」と言い残して、
仁王立ちしている高柳のそばをスルリと通り抜け、図書館入り口へ猛ダッシュ。
あっけにとられたのは司、南だけではなかったようで、
その様子をぼーっと見ていた高柳が、憤怒の表情を浮かべながら、
「こら、まて、治人!!」と巻き舌を駆使しながら追いかけていった。



治人は逃げた。小学校時代の思い出が走馬燈のように駆け抜けていく。
お湯をかけられたこと、膝かっくんをされたこと、
給食を残さず食べられたこと、そして、チョコをもらったこと。
菜都美からは何も言ってこなかったし、治人も何も聞かなかったが、
入り口の下駄箱の中に入ってた、チョコレート。
たくさんあるチョコレートの中、目に付いたものが一つ。
駅前の百貨店の小さな紙袋に入っていたそれは、
既製品などではなく、手作りのチョコレートだった。
不器用ながらもきちんと薄手の包み紙にくるまれたそのチョコは、
何となくハートの形らしき体裁を保っているように見えたが、味はとても塩辛かった。

手紙も何も入ってないそのチョコレートを、何の警戒もせずに食べたのは、
それを作ったのが菜都美だと気づいたからだった。
紙袋を開けた時にフワリとかぐわしいにおいがした。菜都美のにおいだった。
味はまずいし、形はいびつだったが、残さず食べた。
だれも傷ついて欲しくなかったから。傷つくのは自分だけで良かったから。

いじめっ子の菜都美がどうして治人にチョコレートをくれたのか、
そのときの治人はわからなかったが、
後に告白をされた時に、その理由を悟ったのだった。

「だからって、図書館にまできてあんなことする理由にはならないよな」
治人は図書館を出て全速力とはほど遠いスピードで走っていた。
ジョギング並のそのスピードに、菜都美はなんとかついてきている。
・・・昔から、足、遅かったよな、菜都美。
どういうわけだか、少しの恥ずかしさを憶えながら、治人は町中を走り続けていた。



菜都美は、あれからずっと治人のことが好きだった。
小学生の時、それが恋だと気づかなかった。
中学生になって、ようやくそれに気づいた。だから告白した。
何にも準備をしなかったから、治人は自分のことをふったのだ。
そう思っていた。
小学生時代にしていたいたずらのことなど考えにも及ばなかった。
あんなの、ただの遊びだったんだから。
治人は気づいてくれる、そう思っていた。でも、ふられてしまった。
でも、あきらめなかった。手を変え品を変え、挑戦し続けた。

友人と二人で歩いている治人を見つけたのは偶然だった。
図書館へ入っていくのを見た時、これはチャンスだと思い、
治人が一人になるまで待っているつもりだったが、
一向にその気配はなく、むしろ憮然とした表情で座っているだけの治人をみて、
いてもたってもいられなくなった。
ロビーに移動したのを見計らって、突入を試みた。

「なんで、なんで逃げるんだよ、治人。こんなに好きなのにさ・・・」
菜都美は必死の形相で治人のペースについてきている。
治人が手加減していることなどつゆほども思わず、足を送り続ける。
右、左、右、左、と交互に足を出しているだけなのだが、
時々もつれそうになるのを堪えながら、逃げる治人から視線を外すことが出来ない。

でも、その追いかけっこは、菜都美にとって決して不快なものではなかった。

-------


「びっくりしたね、司くん」
南は、外へ飛び出した治人を見やりながら、司にそう語りかけた。
右手で左手首をさすりながら出口を見つめている横顔に、司は返事をする。
「ああ、治人、逃げちゃったね。どうするんだろ、あいつ」
治人のことなど、本当はどうでもよかった。
今、司は気づいている。図書館のロビーで南と二人っきり。
これはまたとないチャンスなのではないか、いや、チャンスなのだ。
手を伸ばせば南がいる。そのことが司を興奮させる。

顔が赤くなるのを自覚するが、そんなことはどうでもいい。
今だ、今しかないぞ、柏木司。さあ、早く、心の叫びを声に出すのだ。
そうすれば、君は何かをえることが出来るのだ!!
君が好きな南は、今そこに、君の隣にいるんだぞ。
だから、治人のことはいいから、今自分がやりたいことをやるんだ。
さあ、言え、言うんだ、司。フレーフレー司!!
がんばれがんばれ、つかさ!!!

「ナレーション、うるさい」
あ、すいません。

その時、ほんの一時のことだったと思うが、司は南の左手を垣間見ることができた。
そこにあったものを見て、司は戸惑ってしまった。
何かの間違いだと思いたかった。でも、くっきりとそれは南の左手に残っていた。

「ところで、司くん。私のこと好きなんでしょ?」
その声に司は我に返る。
今日はよく不意打ちに遭う。司はそう感じていた。
南が口にしたのは、これから司が言おうとしていたことと趣旨が一致していたのである。
「う、うん。好きだよ」
顎を喉につけながら、そうつぶやくように言った司。
南の目には羨望とも諦観ともつかない表情が見えたが、それも一瞬のことで、
いつもの笑顔に戻ると、南は司の手を握りながら、こういったのだった。
「ごめんね、司くん。私、あなたのこと好きじゃないから。私は治人が好きなの」
何度目かのその南の不意打ちは、ここに極まった。
司はその言葉を脳内で反復し、そしてその意味を理解する。
玉砕。その二文字が頭の中で反響を続けていた。

そして、ここにいない男に嫉妬する。
なんで治人ばっかりもてるんだよ、あんなやつどこがいいんだよ。
そう南に言ってやりたかった。が、言うと怒るんだろうな、南ちゃんは。
だから言わなかった。そして、なんとか笑顔を顔に貼り付けることに成功すると、
顔を上げて、南を見つめる。
「そっか、治人のことが好きなんだ。そうだよね、幼なじみだもんね。俺なんかが入る余地なんてないんだよね」
自然と早口になっていた。何かを言わないと、何かがあふれ出しそうになる。
それを堪えることが、今の司にできないことは、司本人がよく分かっていた。

だから、逃げた。治人がそうしたように。
目の前の嫌なことから。
南から。
告白に失敗した自分から。
・・・司くん。そう聞こえた気がした。幻聴かもしれないけど。

失意のどん底、このままどこかへ消え去ってしまいたい。
そんなことを思いながら、司はとぼとぼと家路を踏みしめていた。



司を追いかけることは出来た。でも、南はそうしなかった。
自分が言ったことに嘘はない。それもわかっている。
でも、それよりも何よりも、自分の左手首を見られてしまったことが、
南をここから動けなくしてしまったのだ。

人が傷ついていること、自分が傷つくことに、
異常とも思えるほどの興味を感じるようになったのはいつのことだっただろう。

治人が菜都美にいじめられているのを見た時、かわいそうだと思った。
でも、それよりも、治人が傷ついている姿を見て興奮している自分がいた。
だから、南はその日家に帰ると、治人がされたように腕にお湯をかけた。
ポットを浴室に持ち込んで、左手に勢いよくかけてみる。

これで治人と同じになれる。そういう気持ちももちろんあったのだが、
それよりも、自分の肌が赤くただれていく様子を興味深く眺めていたのだ。
そして、笑みを浮かべた。
母親が慌てるように浴室に入ってきて水で冷やしてくれなかったら、
きっとその火傷の跡がのこっていただろう、とお医者さんは言っていた。

自傷行為。そういう言葉で呼ばれているのだそうだ。

その行為の爪痕を、司は見てしまったのだ。だから追いかけられなかった。
菜都美のように何も考えずに追いかけられたらどれほど良かっただろう。
南は、右手で左手をさすりながら思った。

人の身体が傷つくのは平気なのに、心が傷つくのは平気じゃないんだね、と。


------

僕は不器用だ。

司にとってその朝は非常に寝覚めの悪いものであった。
告白をして見事に玉砕された翌日、
ショックでも熟睡はできたようだったが、
そのショックから立ち直れない自分がそこにはいた。

だから、司は考える。
そうだ、ジョギングでもして身体を動かそう。そうしよう。

思い立ったら即実行。軽くシャワーを浴びて、
案の定、風呂上がりに見事に滑って転んで肩を強打、
親から「やかましい」と怒鳴られながらも、部屋で運動着に着替えようとして、
運動着が学校の運動服しかないことに気づいたので、
しかたなく、親にジャージを借りてそれを着たら見事にサイズが合わず、
父親の部屋へ行ってジャージを返した後、
母親に、何か運動が出来るような服ってないの、と聞いたら、
裸で走れば、というにべもない一言を言われて、
ふてくされながら自分の部屋へ帰りながら、
結局運動する気力が失せ始めて、そのまま部屋着に着替えて寝転がっていた。

「あれ、司、運動しないの?」
階下から聞こえてきたその母親の無神経な声に少しいらいらしながら、
掛け布団をひっかぶって、昨日のことを思い出そうとする。


・・・図書館で言われた一言が蘇ってきた。

ごめんね、司くん。私、あなたのこと好きじゃないから。私は治人が好きなの。

南があいつのことを、治人、と呼び捨てにしていたことを思い出す。
あいつはもてるんだな。そんなことを考える。
無性に腹が立ってきた。あいつのどこがいいんだろう。

そうだ、あいつの家に行って文句の一つでも言ってやろう。

思い立ったら即実行。軽くシャワーを浴びて、いや、もうシャワーは浴びたから、
部屋着からお出かけの服装に着替える。
あれ、やっぱり運動するんだ、という相変わらずの言葉を投げかける母を、
少しのいらだちとともに無視した司は、靴を履いて、足早にバス停まで歩いて行く。

朝の駅前は閑散としていた。休日だからか。
いつも朝夕と毎日通っているはずのその道が、なんだかいつもと違って見える。
ま、いいや、と思いながらバス停でバスを待っていると、
ちょうどのタイミングで目当てのバスが滑り込んできた。
シューという空気が抜ける独特な音を響かせながら前側のドアが開く。
硬貨を投入し、空いた席に座る。
誰もいない車内。いつもと違う光景に少し緊張していた。

独特の音を響かせてドアが閉まる。
エンジンが掛かり、司の座っている椅子に振動が伝わる。
ゆっくりと走り出すバス。そして1分ほどして次の停留所へ停車する。
何気なく外を見ると、一人の女性がバスを待っているようだ。
その女子高生を一瞥して、視線を反対側の窓に向けながら、
司は、治人にあったら何を言おうか、と考えていた。


バスを待っていた菜都美は、何も考えずに目の前に来たバスに乗り込んだ。

何か目的があったわけではなかった。
ただ、治人のいる家にどうしても足が向いてしまう。
いつものメイクはしていない。ピアスも外した。
普段の通り、学校へ赴く時の姿で、菜都美はバスを待っていた。
だから、バスに昨日見かけた彼を見つけた時、声を上げそうになった。
驚いた表情を押し殺しながら、彼とは正反対の側の前よりにある椅子に座る。
空気が抜けたような音がして、ドアが閉まる。
彼はこちらを見ることなく、窓に肘を預けながら黙って外を見ていた。

瞬間、心臓が跳ねた。
え?なんで?彼を見てどうしてドキドキするんだろう。
治人の友達、ってだけなのに。

昨日のマラソンで結局治人を捕まえることが出来ず、すごすごと家に帰った菜都美は、
その日悲鳴を上げていた足腰に湿布を貼り、
通っている塾へと向かうはずだったのだ。
だが、自然と足は治人のいる方角へと向かっていた。

母親はどう思っているだろう。塾をサボろうとしている自分の娘に。
勉強なんてつまらない、と思っているのに言おうとしない私に。

塾なんて行きたくない、そういえば全て丸く収まったはずなのだ。
でも、菜都美はそう言えなかった。だから言われるがままに高校を受験した。
そして、トップの成績で受験に合格してしまった。
治人と同じ高校に行きたかったのに、それができなかった。
いたずらばかりしていた小学生時代。それを封印した中学生時代。
でも、自分の心に嘘をつくことはできなかったから、
母親にだけは言った。私、この高校を受けたいの。
でも、母は冗談か何かと受け取ったようだった。

何言ってるの、菜都美、あなたの成績ならもっと上を目指せるじゃない。
ほら、この高校、県内でも有数の進学校ってことらしいのよ。
どう、菜都美、受けてみない?
断ることは出来た。そして、試験当日もそのことをずっと考えていた。
私が行きたいのはこの高校ではない、と。
でも、試験には合格してしまった。そう、合格してしまったのだ。

バスに乗り、揺られながら昔のことを思いだしていた。
右斜め後ろにいる彼のことが気になるのだが、振り向くことさえ出来ない。

なんで、ドキドキしてるんだよ、私の胸は。


司は、目的のバス停が次の次であることを確認すると、
ふとバスの車内を見渡した。
左前方に件の女子高生が座っているだけで、あとはガラガラだった。
相変わらずスピードの遅いバスだな、と言われなきいらだちを募らせながら、
やはり気になるのか、どうしてもその女子高生に目が行ってしまう。
あの制服、どっかで見た気がするんだけどな、はて、どこだっけ?
ま、いいや、とりあえず、治人に会って文句でも言わないと。
そう思いつつ、何を言おうか全く考えていない。

あ、そういえば。司はようやく思い出す。
昨日の図書館で見たあのケバい女。あれが着てた制服だよな。
確かあそこってかなり頭の良い学校だって聞いてたけど。
コスプレか何かしてたのかな、と全く関係ないことまで考え始めている。

うん、間違いない、あの制服だ。
昨日会った、確か高柳とか言ったあの女子。
あれからどうしたんだろうな。
そんなことを考えながら、やっぱり治人に言うべき言葉を探し当てられていない。


もしかして、同じところに行くのかな、私と。
菜都美はそんな思いつきをつぶやく。
友達同士なのだから、家に行くのは当たり前だし。

だから、ドキドキとまれっての!
何を意識する必要があるんだ。彼のことを。
私が好きなのは治人だろうが。だから、とまれっての!!
そう思えば思うほど、胸の高鳴りは止まりそうもなかった。

そして、バスのアナウンスが聞こえてくる。
目的の停留所の名前を告げる無機質な声が聞こえてきた。
すると、私がボタンを押す前に、ピンポーンという甲高い音が聞こえてきた。
彼が、右斜め後ろにいる彼が押したのだ。
二人しか乗っていないのだから当たり前のことなのだが、
その当たり前のことに、菜都美はなぜかまたドキドキしている。

一緒のとこで降りるんだ。
そのことを知って少しほっとしている自分を見つけ、菜都美は少しうつむいた。



バスが急ブレーキをかけて止まる。
つんのめる司。こういうとき、必ず司はどこかしらをぶつけてしまう。

やはりというべきか、この急ブレーキでしたたかに前の椅子に腕をぶつけてしまった。
痛い。
腕をさする司。視線を感じた。
いや、まさか。

そう思いながら見ると、件の女子が心配そうに見つめていた。
大丈夫ですよ、という意思をこめて手を軽く挙げたのだが、
それが怪我をした方の腕であることを思いだし、少し顔をしかめる。

相変わらず鈍くさい男だな、と半ば自戒する司だったが、
その時にはもう視線は感じなくなっていた。
運転手の謝罪のアナウンスが聞こえてきたが、全く耳に入ってこなかった。
少し気になっているのか、司は女子から目を離すことが出来なかった。



停留所に着いた。
菜都美は降りようとして、席を立ち後ろ側の出口へと歩き出す。
彼はその菜都美の所作をじっと見ていた。

やべ、気づかれたか。
そう思ったがどうやら杞憂だったようだ。
でも、その視線を感じ、またドキドキする心臓。
てめぇ、いい加減にしろよ、と心の中で独りごちた。


顔を真っ赤にしながら出口を慌てて降りる女子。
少し呆けてしまっていた司は、目的の停留所であることを思いだし、
慌てて席を立ちながら、ぶらさがっているつり革の一つに頭を強打してしまう。
それほど痛くはないのだが、でも、やはり痛い。
そそくさと出口へ駆け寄ろうとして、何かにぶつかる。
それが、出口で立ち止まっている女の子だと気づいた。

出口で何立ち止まっているんだ、そう声を出すことも出来たのだが、
出口前のその光景を見て、司も言葉を失ってしまう。


バスの停留所前の狭い路地に人影が見える。
二人だった。

南がいた。
そして、治人がいた。

南は頭を治人の胸に預けていた。
南の両の手は、治人の腰を抱えている。
とまどう表情に見える治人。
南の表情はここからはうかがい知ることが出来ない。
ただ、風に煽られて髪に隠れていた右耳が少しあらわになると、それは赤く染まっていた。

とまどい。混乱。
それらが同時に襲ってきた。

「あ、ごめん」
司はとっさに大声でそういうと、バスに戻り、
さっきまでいた席に座ってしまっていた。
件の女子も同じように身を翻して、席へと戻っていく。
何で彼女も戻ってきたんだろう、なんてことは考えられなかった。

ただ、その場から逃げ出したかった。
昨日したように、南から逃げたかった。

僕は不器用だ。僕には逃げることしか出来ない。


その光景は鮮明に焼き付いていた。
バス通りから死角になっている路地。
出口を出ると、その路地が垣間見えた。
そこで二人で抱き合っていたのだ。
菜都美は、怒りたくもなったし、文句も言いたかった。
でも、それができなかったのはなぜだろう。

右斜め後ろでうなだれている彼を見る。
その姿を見て、菜都美はなぜか立ち上がる。

いや、何をしようとしてるんだ、私は。
別に放っておけば良いじゃないか、そんなやつ。
なんで、声をかけようとしてるんだよ。

でも、足は止まらなかった。
うなだれている彼の肩に優しく右手を添えて、
菜都美はこう言っていた。

「おい、だいじょうぶか」

Intermission 2

愛想が悪い、とよく人から言われることが多い。
愛想が必要な職業、というわけでもないのにもかかわらず、
会社へと戻ると、決まって言われるのだ。
「もっと愛想よくできないのかね~」
残念ながら、それは無理、というものだ。
私には感情がない、わけではないと思うのだが、
人に対して感情を表現することにまったく長けていないことを実感する。

はるか昔、私が幼稚園にいたころ、
いじめにあっている園児がいた。
そいつに決まっていたずらを仕掛けてくるやつがいて、
よせばいいのに、いろいろといたずらを仕掛けていたのだった。
そういうときに、私は「や~め~ろ~よ~」とか「ちょっと男子~」とか、
お決まりのセリフを言うこともなく、黙々と絵本を読んでいた、ような気がする。

それから少しして、小学校へとあがり、
私はさらに愛想をなくしていった。
感情的に何かが欠落している、そのことは自覚しているのだが、
それがよいことなのか悪いことなのか、その時の私には判断ができなかったのだろう。
だから、笑わなくなったし、怒らなかったし、泣きもしなかった。
何をされても無反応だった私に対して、学校という世間の目は冷たかった。
いたずらされても無反応だと面白くないらしく、いじめはパタッとなくなってしまった。

中学生になったとき、奇特な変人に遭遇することになる。
廊下を歩いているときに声をかけられた。
「あれ、もしかして、美南子、美南子じゃないの?」
私の名前を連呼するその声、どこかで聞き覚えがあるのだが、
その時の私には思い出すことすら煩わしかったので、無視を決め込むことにした。
「ちょっと、覚えてない?幼稚園の時に一緒だった・・・」
覚えているわけないだろ、と言いそうになるのを堪える。
そして、少し首をかしげて見せる。
こうすると、どうやら私はかわいく見えるらしいのだ。

実はその言葉が嘘だと分かったのは、
菜々子のことを知ってからしばらくしてからだったろうか。
彼女は私と話したいがために嘘をついたのだった。
でも、なぜかそれに腹が立たなかった。

菜々子はよくしゃべる女性だった。
かくいう私も女性なのだが、その私から見てもよくしゃべる女性だった。
「今度さ、ディズニーランドが東京にできるんだって~」
「日曜日のスーパージョッキー見た?面白かったよね」
「おしん、見てないの?国民的ドラマなのに~」
などなど、当時の流行に乗り遅れることが、罪であるかのごときいいようである。
私はそれらのほとんどに相槌を打つか頷くかしかなかったのだが。

親友と呼べる女性。それが菜々子だったのだ。

そして、彼女は私の前から姿を消した。
アメリカに渡ったことは向こうからのエアメールで分かった。
手紙の内容は支離滅裂だったのだが、覚えていることは次の二つだけ。
1、こっちで知り合った日本人と結婚した。
2、子供が生まれたら、男だったら「尚」、女だったら「菜都美」にする。

なぜこんなことだけ覚えていたのか。
私はその手紙を破り捨てたのだった。そして火にくべた。
その焼けていく手紙をじっと見て、最後まで残っていた文章がそれだったのだ。

私がその時なぜ手紙を捨てたのか、今ならわかる。
親友であると思っていたのに、私は捨てられた。それが悲しかったのだろう。
そして、送られてきたエアメールを見て、さびしくなったのだろう。
だから、高校時代、私は二度死のうと思ったのだ。


最初は裏切られたのだとばかり思っていたのだ。
だから、人間不信になった。
無愛想で人間不信。そんな女子が学校にいたら、
それは餌食になることを意味する。

だから逃げようと思ったのだ。
餌食になることだけは避けたかった。

屋上へと向かい、金網に手をかける。
4階建ての校舎から眺める町並みは、
彼女の心とは裏腹に平穏そのものだったことがさらに恨めしさを倍加させる。

「じゃあね」
その声が天から降ってきた時、神様を想像してしまった。
「二回目だっけ?そこにくるのって」
ああ、神様が見ているんだな、と彼女は思ってしまう。
その声が彼女の意思をくじいてしまった。
力が抜けたようにその場にうずくまる。
「大丈夫?」
その声が屋上にある給水塔の上から放たれていることにようやく気づいて、
目線を上へと移すと、そこに眼鏡をかけた幼い顔がのぞき込んでいるのが見えた。
そして、その声が男の声だと気づくのに時間がかかったのだった。


隆司にとっては偶然でもなんでもないことだった。
屋上に来て思い詰めたように金網に手をかけようとしていた美南子を見て、
とっさに声をかけられなかったのが二月ほど前のことだった。
その時は自分から身をひいて、決意を行動に移さなかったようだったが、
今日は少し表情が違っているように見えたから声をかけてしまった。
でも、彼女の顔にほんの一瞬だけほっとした表情が垣間見えたので、
安心して給水塔を降りて、授業をサボっていたことを美南子に告げた。

「じゃ、授業サボって空を見てたの?」
「そう、空見てた。夕方になると明星が見えるんだよね」
「明星って?」
「金星のことだよ。明けの明星とか宵の明星って聞いたことない?」
「うん、知ってる、かも」
「この時間だとあれだけど、もう少ししたら宵の明星が見えてくるかも」
「そうなんだ」
「じゃ、約束しない?」
「え?」
「だから、約束。もし僕のこと覚えてたら、合い言葉を決めておくんだ」
「・・・突然何の話?」
「あ、そうか、何のことだか分からないよね。僕ね、今度引っ越すんだ。それでこの町を離れることになった。だから、もうこの学校にも来られないし、君にも会えない」
「今会ったばっかりなのに?」
「いや、僕は君のこと見てたんだけど・・・」
「え?」
「いや、なんでもない。だから、何年か経って僕がこの街に来た時に君を見つけたら、言うんだ。『宵の明星見てたんですか?』って」
「意味がわからないんだけど」
「何でも良いから約束してくれよ。いつか会うことがあったら、必ずそういうから。そしたら、君はこう答えるんだ。『宵の明星って知ってますか?』って」
「頭、大丈夫?」
「鈍感だな、僕が君のこと好きだってこと、どうして気づかないの?こうして明日町を離れる前に声をかけるのだって勇気がいったんだから」
「は、はぁ、そりゃどうも」
「ま、いいや。とりあえず約束してよ。合い言葉は宵の明星。僕は君を必ず迎えに行くから」
「・・・・」
「今は頭がおかしいと思ってくれても構わないし、実際そうなんだと思う。でも、5年後、10年後、いや、もっと時間がかかるかもしれないけど、きっとまた会いに来る。だから、それまで待ってて」

何とも面白いヤツだ。そう思った。
突然屋上にいて声をかけてきて、プロポーズしてきたのだ。驚かない方が無理だろう。
そして、隆司は町を離れていった。
その時の印象を忘れていたわけではなかった。
高校時代の苦い思い出。たった一度の告白。それだけで少し心が救われた気がした。


そして、それから9年11ヶ月の時を経て、二人はあの駅で再会を果たす。
隆司はバスの運転手として、そして美南子は宵の明星を待つ女性として。

最終章

司は頭が真っ白になっていた。
彼女からまさか告白をされるなど夢にも思わなかったのだ。

自分が好きだった人に告白をされる。
それは男ならば夢想したことは一度や二度ではないだろう。
男は女を追いかける。
追いかけて追い越して振り向いて、
そして、誰もいなくなったことを確認して落胆をする。
そんなことを繰り返して、男は一回りも二回りも大きくなっていくのだ。

だから、目の前にいる菜都美が告白をしてきたことは、
二回りどころではなく、まさに青天の霹靂ともいえるものだった。



あれから、一週間経った。
あれから治人にも南にも顔を見せていない。
学校を休んでないし、部活にも毎日で続けている。
そう、彼らが司を避けているのだろう。
だから、文句を言うことも、落胆した心を慰めることも出来なかった。

帰りのバスで、件の女性が声をかけてきた時は驚いた。
そして、それがあの図書館での暴走女子であることに気づいた時、
司は口を大きく開けて、菜都美を見上げてしまっていたものだった。

「大丈夫か」
つっけんどんに聞こえるその声。
でもその声を発した本人は、顔を赤らめてうつむいていた。
だから、司は笑顔を作ってこう答えたのだった。
「うん、ありがとう、菜都美ちゃん」
女性を「ちゃん」付けで呼ぶことなどめったにない司だったが、
このときは自然にそう答えていた。
だから、菜都美が照れ隠しなのか、「うっせーな、これが普段の私なんだよ」
と、唇をとがらせながらつぶやいたその声を聴く余裕が、司には生まれていた。


それから一週間後。
学校の正門前で待っていた菜都美を見つけた時、意外にも冷静になっている自分がいた。
司は、きっと告白されるのだろう、と予測していたのだ。
それは自惚れでもなく、予感めいた勘でもなかった。
純粋に、菜都美の行動を予測していたのだった。

そして、それは果たされた。
司はそれに応える。

「僕が桐野南を好きなことは知ってるよね?それを知ってて言ってるの?」
「ああ、知ってて言ってる、つもりだ」
菜都美の声は素っ気ない。普段からこの口調なのだろうか。

あの図書館の時のメイクは影を潜めてしまっていた。
顔はほとんどノーメイクだし、ピアスもつけていない。
進学校の制服を着ているごく普通の眼鏡っ子だった。
そして、司は限りなく「眼鏡」というアクセサリーに弱い、とつい今知った。

「じゃ、どうして、僕なの?」
「・・・わからないんだ」
「わからない?自分の気持ちが?」
こくりと頷いた。あの図書館での印象が強いせいもあって、
最初は警戒していたのだが、どうやらまともに会話は出来ている。
菜都美が顔を赤らめて俯いている姿を見たのはこれで二度目だ。

「私は治人が好きだ。好きだったんだ。でも、おまえが、おまえが気になった」
途切れ途切れにそうつぶやいた菜都美。
眼鏡がずり落ちそうになったので、慌てて司は菜都美の眼鏡に手を添える。
そして、同時に菜都美が眼鏡に触ろうとした時、お互いの指が触れあった。
またほぼ同時に互いの手を引っ込める。
きっかけとなった眼鏡は、そんなことを知らないまま、
校門脇に乾いた音を立てて落ちた。
「そっか、ありがとう、菜都美ちゃん」
「・・・いや、別にいい」
菜都美はそういうと、司が拾ってくれた眼鏡を照れくさそうに受け取った。


答えは決まっている。司は南が好きだった。
南は治人のことが好きだという。そして治人は・・・
でも、今目の前にいる菜都美は、司のことが気になると言っている。
「困ったな」
司は心の中でひとりごちた。

余計なことを考えてしまうのは司の悪い癖だ。
理由をいろいろ見つけて、消去法で自分の理屈を論破し続ける。
自分の気持ちは決まっているのに、あれこれと理由を見つけて、
相手の気持ちになっていろいろと考えてしまう。
その間、もちろん一言も言葉を発しない。
先にじれてしまったのは、やはり菜都美だった。

「断ってくれても全く構わない。でも、自分の気持ちには正直でありたいんだ。だから、今日、ここでおまえの返事を聴かせて欲しい。そういうのは女のエゴなんだろうな」
「いや、そんなことはないよ」
菜都美の言葉が司の心を突き刺す。
心は決まっていた、と思っていたのはどうやら間違いだったみたいだ。
司は迷っていた。

何と?

決まっている。

南と菜都美だ。


なぜ葛藤しているのか、司には理解できない。
その理屈を懸命に探していたのだが、見つかることはなかった。

「迷うことなどないと思うが。何をかんがえてるんだ、おまえは」
菜都美がそうまじめな顔をして言っているのを見て、気がついた。
ああ、そうか、僕は菜都美に一目惚れしたんだ、と。
バスで声をかけられた時。
菜都美がうつむいた時。
そして、校門で彼女が待っているのを見つけた時。
司は自分の心が冷静だったことを思い出す。
冷静だった、ということは好きではないってことじゃないんだ。
相手と自分の波長がピタリと合っているから、だから冷静でいられるんだ。
いや、そんなことはないだろう。
南がいた時の自分を思い出せ。
私は緊張して読めない雑誌を無理して読んでたではないか。
失読症を患っている自分には決して読めない雑誌を読んでいた。
だから、私は南が好きなんだ。
いや、僕は菜都美が好きだ。好きでいたいんだ。

そして、司は思い出す。
自分の父親が昔話で語ってくれたことを。

「昔さ、俺の父親が高校時代の頃の話なんだけどさ・・・」
そう話し始めた司は、菜都美の目をまっすぐ見つめ続けていた。
「屋上の給水塔で想い人を待ってたらしいんだよ。それで屋上に毎日上っては、給水塔の上にあがって彼女が来るのをずっと待ってたって。それで、彼女が姿を現したとき、父は狂喜したらしい。で、声をかけた。すぐにでも付き合いたかったらしいんだけど、自分は引っ越しをしてしまう。だから、今度この町に戻ってきた時、待っててくれるようにお願いをしたんだって。『宵の明星を見てたんですか?』っていう変な合い言葉を決めてね。もちろん、彼女は首をかしげてた。でも、それから何年も過ぎて、父はこの町に帰ってきたんだ。そして、彼女を見つける。で、声をかけた。最初は気づかなかったみたいだけどね。そう、それが今の母親。二人は必然的に出会ったんだな、って。父親が自慢げにその話を繰り返しするんだけど、もう僕は耳にたこができちゃったんだよ」
「それは、遠回しに私をふっている、という理解で良いのか?」
「いや、そうじゃないんだ。今すぐに答えを出せ、って言ったけど、すぐには答えを出せない。優柔不断だから。待ってて欲しいとは言わない。でも、待っててくれると嬉しい」
「それは、まだ脈があるってことか?」
「大ありだと思いますよ。だって菜都美ちゃんのこときらいじゃないし」
「・・・・そ、そうか。ありがとう」
「だから、明日。もう一度ここで会おうよ。合い言葉決めてさ」
「合い言葉?『宵の明星』っていうあれのことか?」
「うん、そう。宵の明星って、両親にとっては二人を結びつけてくれた大事な星らしいから。それにあやかりたいじゃない?」
「今、答えを聞かせてくれないのか・・・」
「ごめん、菜都美ちゃん。僕はまだ迷っているんだ。だから、待っててくれないかな」

菜都美は焦れていた。
司が少し大人に見えたからだろう。
菜都美は恋愛経験がほとんどないから、こういうときどうしたらよいかわからなかった。
上手くはぐらかされた、とも思ったが、司の表情は真摯そのものだった。
だから、司を信じた。信じてみた。

「わかった。性急に事を運びすぎたのは私だったようだ。すまない」
「いや、そんなことはないよ」
「でも、おまえのことは好きだ。これだけは変わらないから」
「・・・あ、ありがとう」
「じゃ、私は帰る」
そういうと、菜都美はくるりと向きを変え足早に校門から去って行った。


司が家に帰って冷静に今日の出来事を反芻してみる。
何であんな話をしてしまったんだろう、と少し後悔もした。
でも、きっと答えは見つかるはずだ、と自分に言い聞かせてみる。

と、そこで電話の音が鳴った。
母親が電話に出たようだ。そして大声で司を呼ぶ。
「つかさ~、桐野さんから電話よ~」

歯車がまた一つきしんだ音を立てた。
司は、自分の心に再び波紋が広がっていくことを感じながら、
階下にある母親に生返事をして、部屋を出て行った。
乾いた音を立ててドアが閉まる。

「・・・もしもし」
電話口に出てさほど大きくもない声でそういう司に、
南はさらに小さな声でこう応えた。

「宵の明星、見たことがありますか?」


---------


柊治人、17歳。
この時、彼は大きな岐路に立っていることに気づいた。
自分はいったい誰が好きなのだろう、と。
もがけばもがくほどに、その沼はヒルのように体にまとわりついて、
治人の心とともに暗い深い闇へと引きずり込もうとしている。
それに懸命に抗おうとすればするほど、
その努力を嘲笑うかのように、それは確かに存在し、そして飲まれていった。

きっかけはあの件だった。
そう、南との抱擁のシーンである。


「なんで、自分をそんなに傷つけるんだよ」
その言葉を発した刹那、南が抱きついてきたのだ。
唐突のことでとっさに行動がとれなかった治人の目の隅に、
バス停に止まったバスが見えたのは、
周りの視線を意識している以外の何物もなかっただろう。
だから、司の「ごめん」の声も、
そして、菜都美らしき女性が呆然としているのも、
目の端で捉えていたのだった。

だが、動けなかった。

司、違うんだ、司、これは南が抱きついてきただけなんだ。
俺は何にもしていない、何にもしてないんだ。
そう声に出して呼びかけたかった。
しかし、涙を流している南を司に見せるわけにはいかない。
だから、懸命にこらえた。後ろ髪をひかれる思いで。



南から声をかけてきたときは驚いた。
「治人さん、ちょっとお話があるんだけど・・・」
やけに深刻な表情でそう語る南の口が、
小刻みに震えているのを、治人は見逃さなかった。
だから、喫茶店とか図書館とか少し話せる場所へ行こう、と促したのだが、
「いや。そこの路地がいい・・・」
そういう南の表情が頑なな表情を崩さなかったこともあって、
治人はしかたなく路地へと入っていく。
少し進めばメインの通りへと抜ける近道だ。
学校の行き帰りにはよく通る。そんな路地を南が選んだ理由はわからなかった。


「自分のしていることが悪いことだとわかってはいるつもり、なんだ。でも、それを止めようとする心と、それを進めようとする身体がせめぎ合ってるみたいな感じ」
南は自分の行動が異常であることを告白した。
以前から、南の行動については気づいていた。気づいていたつもりだった。
でも、治人から声をかけたり、命令したりすることはできなかった。
南がそれで傷ついてしまうことが分かっていたから。
治人に好意を寄せていることは表情を見ていればわかる。
そう。治人もまんざらな気持ではなかったのだ。

だが、司のことを考えてしまう。
あいつは南のことが好きなんだ、と。



「学校ではあんな感じだけど、本当は、おれ、怖いんだよな」
治人は学校から帰るたびにそう思う。
学校で大声出したり暴れたりしている自分は本当の自分ではない、と。
だから、そのギャップにいつも悩んでいる。
司に対して。
南に対して。
菜都美に対して。

そして、家族に対して。

だから、この外面を脱ぎ捨ててしまおうと何度思ったかわからない。
でも、それを捨てることで、司やみんなが離れてしまうことが何より怖かった。
そう、これが柊直人なのだ、と自分にレッテルを張り続けてきた。
正しいことなのか、間違っていることなのか、今の治人にはわからない。
わからないなりに、ずいぶん悩みもしたし、傷つきもした。
司を殴ったこともある。その時も帰ってから大泣きした。
南にきつい一言を言ったこともある。その時も帰ってから後悔して一睡もできなかった。

自分は幼稚園、小学校のころのいじめられっこの時となんら変わってない。
外面が強くなった分だけ、内面がより弱くなってしまったのだ。



「なんで、自分をそんなに傷つけるんだよ」
自分の口からそんな言葉が出てきたことに、治人は少し戸惑っていた。
そんなことを言ってしまうと、南が傷ついてしまうのだ。

司と南が出会ったあの日の喫茶店の時もそうだった。
自分の発した言葉に、心底嫌気がさしていたのだ。
だから、泣きそうになった。自分が嫌いになった。
涙は堪えることができたけど、表情だけは取り繕うことができない。
司や南はあの時の自分のことをどう思っていたのだろう。
デリカシーがない奴だと軽蔑したのか。
口の悪い奴だな、と一笑に付してくれるのか。
どちらにしても、良い心証は持ってくれてそうもないみたいだった。
それがたまらなく悲しくて、切なくて、苦しかった。



路地へ向かう南の背中を見つめながら、治人は考えていた。
何を言おうとしているのだろう、いや、なんとなくはわかっている。
それをそのまま南に言わせてしまっても良いのだろうか。
それを知った司がどう思うのか考える。
菜都美のことを考える。なんでこんなときに菜都美のことを考える?
いくつかの自問を繰り返し、路地の真ん中、電信柱の近くで南は振り向いた。
少しはにかんだ表情を見せた南。かわいいと思った。

俺は南が好きなのか?

俺は司が好きなのか?

分からなかった。でも、このときは確かに南に気持ちが傾いていた。
司のことは頭から除外しようとしたができなかったので、
隅に追いやりながら、南の告白を待っていた。



菜都美のことを思い出していた。
やっぱりあいつのせいだったのかな、こうなったのは。
いや、そうじゃない、そうじゃない。あいつは全く悪くない。
自分が弱かっただけだ。だから合気道を習ったんだ。
合気道を習って、それで身体を鍛えて、心を鍛えて、強くなろうと思ったんだ。

誰のために?
自分のために。

合気道の先生は懇切丁寧に教えてくれた。そう思う。
それがいささか度が過ぎたものであったことも思い出す。
白髪で白髭の持ち主だった。その顔を思い出すだに寒気と怖気が駆け抜ける。
でも、強くなりたかったから続けた。
毎日、顔を近づけてくる師範。生徒は自分一人しかいなかった。
近所の人も言っていた。あそこの師範は変わり者だと。
そのことを身をもって知った治人は、稽古の間ずっと、師範のされるがままにされていた。

司のことを好きだ、と感じるようになったことに違和感を抱かなかったのは、
きっとその師範のせいだろう、と今にして思う。
だからといって、その気持ちに不純なものは含まれていない。
自分がそういう気持ちを持っていることを司に悟られたくはなかった。
だからはぐらかし、バカにし、からかった。
それは自分の本意とは正反対のことではあったのだが、
そうすることで、カムフラージュすることができていたのだと治人は思う。



「自分のしていることが悪いことだとわかってはいるつもり、なんだ。でも、それを止めようとする心と、それを進めようとする身体がせめぎ合ってるみたいな感じ」
「きっと私の体の中はそういう血が流れているんでしょうね。治人さんみたいに気丈にふるまうだけの余裕は私にはないし・・・」
「・・・でも、私はそういう治人さんと一緒にいたいと思ってる」
南の告白は続いていた。
自傷行為について、南が冷静に語るのを聞いたのはこれが初めてだった。
だから、驚く表情を作るのに苦労はしなかった。
南の自分に対する告白は、治人の声で中断させられた。
「なんで、自分をそんなに傷つけるんだよ」
すると、涙をためた南が治人に抱きついてきた。
それを治人は、南の肩に手を置いて、少し力を込めて引き離そうとする。
しかし、南の力は想像以上に強く、容易には離れられない。

目の端に司と菜都美を捕らえたのはそんな時だった。
絶望感と虚無感と何か得体のしれない感情が湧き上がってきた。
それは、寸前で聞いた南の告白とは正反対の感情であった。

司の声は南にも届いていたはずだった。それを聞いても何とも思わないのか。
見当違いも甚だしい苛立ちを抱えながら、治人は南に言い放つ。
「司はお前のことが好きなんだよ!わかるか、司はお前のことが好きなんだよ!」
その声にはっとした表情を浮かべた南は、治人を見上げるように見つめる。
「どうして、どうして、司くんのことばっかりなの?ねぇ、私が見えないの?ここにいる私が見えないの?司くんじゃなくて私をみてよ、治人さん!」
その声は真に迫っていた。
だから南を振りおどくことも忘れて、治人はただじっと南の目を見つめていた。

「治人さん、司くんのことが好きなの?」
それは青天の霹靂だった。治人にとってはまさに触れられたくないものだ。
だから、逃げたかった。南を振りほどいて、どこか遠くへ行きたかった。
あのことを知ってしまった今となっては、
司と南が結ばれることはないだろうことを知っているがゆえに。
「ああ、俺は司が好きだ。でも、おまえのことも好きだ、南」
卑怯なことを言っていることは百も承知だ。でも、これが精いっぱいの気持ちだった。


南の手から力が抜けた。
呆けている表情の南を見つめながら、ゆっくりと腕を引きはがす。
そして、少しずつ後ずさりながら、しっかりと南を見続けていた。
「南、おまえには司が似合いだと思う。だから、一緒にいてやれよ。あいつも喜ぶ」
「・・・無理だよ、もう私は司くんに・・・」
「いいから、一緒にいてやれって!!」
そういうと、治人は後ろを振り返り、脱兎のごとく走り始めた。
南の呼ぶ声が聞こえた気がしたが、気のせいだと思うことにした。



柊治人、17歳。
この時、彼は大きな岐路に立っていることに気づいた。
自分はいったい誰が好きなのだろう、と。
もがけばもがくほどに、その沼はヒルのように体にまとわりついて、
治人の心とともに暗い深い闇へと引きずり込もうとしている。
それに懸命に抗おうとすればするほど、
その努力を嘲笑うかのように、それは確かに存在し、そして飲まれていった。

まさか、司と南が、兄妹だったなんて・・・
俺は兄妹二人に惚れているのか。
帰路に立った治人は、少し笑みを浮かべながらとぼとぼと歩いて行った。


--------


治人が帰路についたその時、
南はその場にへたり込んで、大粒の涙を流していた。

想いが交錯している。
私が好きなのは治人だ。それは揺るぎない事実。
でも、司くんのことも気になっている、これもまた事実。
だから、その迷いを涙で洗い流してくれることを期待していた。
でも、思いは募るばかりだった。
治人を追いかけたかった。司くんをほっときたくなかった。
思っては消えていく思いは、次から次へ、涙としてあふれ出してくる。

南は、自分がひどい女であることを自覚していた。

治人をここに呼び出したのは、そう、この路地に呼び出したのは、
誰かに見て欲しかったから。この光景を。
人通りはそれほど多くなくても、必ず誰かが通る道を選んだ。

司くん本人が来るとはまさか夢にも思わなかったが。

治人が先に気づいたようだ。でも、私もすぐに気づいた。
1番見られてはいけない、いや、1番見て欲しかった司くんが来た。
それは偶然以外の何物でもなかったのだが、
結果として、南は治人への思いを本人に伝えること、
そして、司くんの思いを断ち切ることに成功した、ように思えたのだ。

だが。

現実は甘くない。思いはそれほど単純ではなかった。
私は治人が好き。私は司くんが好き。
揺れる思い。それは南を少しずつ蝕んでゆく。


サラリーマン風の男性が声をかけてくる。
「きみ、大丈夫か?」
しかし、南は首を横に振り続けた。激しく。
大丈夫なわけがない。
私は大事な人を袖にし、もう一人の大事な人に袖にされてしまったのだ。

と、南は、そのサラリーマン風の男性が持っているものに目が釘付けになる。
それは、たばこだった。銀紙を破り、ライターがそこに入っている。
南の心に衝動がわき起こる。いや、ダメだ、そんなことをしては。
もう一つの葛藤。治人と司のこと。そして、ライターのこと。
「たばこ吸いたいの?」
強い視線を感じ取ったその男性は、おもむろにそのたばこを差し出す。
「吸いたきゃ吸えば良いんじゃない?」
南は、驚きに思わずその男性をまじまじと見つめてしまった。
その瞬間、思っていた様々なことを忘れてしまう。


「未成年とか女性だとかそういうのはわかってるつもりなんだけど、でも、君は今このたばこを見てる。吸いたいんでしょ、桐野さん?じゃ、吸えば良いよ」
衝動に追い打ちをかけるような男性の声。
その声に、南はようやく冷静さを取り戻すことに成功した。
「それとも、君が欲しいのはこのライターかな?」
その男性が浮かべた不敵とも言える笑み。それを見た瞬間、南は凍り付いた。
「・・・お、おとうさん?」


柏木隆司がそこを通りかかったのは偶然ではなかった。
柊治人と南が一緒にいた頃から、その光景を見ていた。
自分の娘が泣かされているのを見るのは正直良い気分ではなかった。
今は私の子ではないのだが、それでも影になり、南を支えようと思った。

声をかけるつもりはなかった。そのまま離れることも出来たのだ。
でも、そうしなかった。できなかった。
震えながら涙を流し地面にへたり込む姿。気丈な娘が見せたその弱さに、
柏木隆司は反応した、いや、してしまったと言った方が良いか。
だから、たばこを差し出した。きっと南ならそれに気づくだろうと思って。

南の病気のことは分かっているつもりだった。
小さい頃、南が私の足に熱湯をかけたこと。そして入院したこと。
そんな記憶が蘇ってくる。あの頃が1番しあわせだったかも知れない。
南のそんな小さな異変に、私がもっと気づいていたら。
そんな思いもないわけではなかった。
でも、それは南自身が選んだのだ、と思うことにした。
冷酷かも知れないが、私にはその選択しか残されていなかったのだ。
だから、美奈子と別れた。
彼女に全ての負担を強いてしまうかもしれないが、それでも構わなかった。


「お父さん」
その声で、回想から覚めた。
柏木隆司は、南にほほえむ。
「桐野さん、司くんのことが好きなのか?」

「南、って昔みたいに呼んで」
「・・・司くんのことが好きなのか?南」
照れくさそうな元父親を見ながら、心が覚めていくのがわかる。
ライターから目が離せない。それをどう奪おうかと考えている。
そして、そのライターで。

「ライターはあげないよ、南」
柏木隆司はそういってたばこを背広の胸ポケットにしまい込む。
「もう一度、もう一度だけ病院へ行ったらどうだ?」
「父親面するのはやめてよ、父さん!」
その言葉にかすかな矛盾がこめられていることに、
言った本人である南も気づかなかった。
「父さん、どうして私の前から消えたの?あれから母さんがどんな目に遭ったから知ってるはずだよね?それなのに、どうして・・・」
治人と司のことで頭がいっぱいだったのに、
その上、自分の元父親のことにまで考えてしまうと、南は混乱してしまった。
だから、逃げだそうとした。怒りで肩を震わせながら、走り出そうとした。

だが、柏木隆司が南の二の腕を掴むのが早かったようだ。

「まて、南。話を聞きなさい」
「いや、離して!」
「南、おまえは病気なんだ。それは父さんも・・・母さんも知ってる。だから頼むから、もう一度病院へ行ってくれ、この通りだ。頼む」
「今そんなこと考えられるわけないじゃない!バカじゃないの!?」
「司のことか?」
「・・・」
「あいつはおまえのことが好きなんだそうだ」
「しってる」
ぶっきらぼうに南は応える。感情を抑え込んでいることがよくわかった。

隙があったと言わざるをえない。隆司はこのときのことをこう述懐する。

胸ポケットにしまっていたたばこを南に盗られた時、
思わず南の頬に一打浴びせてしまったのだ。
ライターを取り出し、火をつける南。その火を左手の方へともっていこうとする。
柏木隆司はそれをやめさせようとするが、
南はその火の付いたライターを隆司の方へとつきだした。
手を引っ込める。そして、左手首へ。
熱が伝わってくる。恍惚の表情を浮かべる南。
刹那、隆司の手が伸びる。ライターを取り返そうとする。
身をかがめる南。そして、鈍い音が路地に響く。

頭を抱えている柏木隆司が目に入ってきた。
件のライターは、路地の先で転がっていた。
南が持っていたライターを手ではねのけた隆司が、
勢い余って路地の壁に激突したようだった。

痛みを堪えながら、隆司は言いつのる
「電話をしてやってくれよ、司に」
「・・・なんで」
「おまえの気持ちがそうなんだろう?」
「・・・・」
「だったら、電話してやってくれよ、司に」
「・・・・」
「あいつはこのことは全く知らないはずだ。だから、電話してやってくれ」
頭の痛みは相当な物だと思うのだが、
その痛みに耐えながら、南を諭している元父親に苦笑する。
「もう行って。奥さんが心配してるよ」
「・・・」


今自宅の目の前の電話機の前で、南は受話器を上げる。
押し慣れていない電話番号を押す。
そして、聞き覚えのある女性の声。
数十秒後、司の声が聞こえてきた。

あの言葉を言わなければ。
そう、あの言葉だ。
これを言わなければいけない。


「宵の明星を、みたことがありますか?」


-------


菜都美は、そこで風に吹かれながら金網にもたれていた。
そこには足場はなく、ただ虚空が流れている。
金網にもたれながら、ただ沈みゆく太陽を何気なく眺めている。

その真下には大勢の顔が並んでいた。
米粒よりも小さく見えるそれを、菜都美は一顧だにしなかった。



あいつら、本当は心配してないんだろうな、私のこと。



この学校の連中は、物理的距離と精神的距離を心得ている。
だから、必要以上に他人には近づいてはこなかった。
それが菜都美には苦痛だった。

あいつは、柏木司はそうではなかった。
何故かはわからないが、あいつは私の心にするりと忍び込んできた。
だから、恋に落ちたのだ。
何故かはわからないが、あいつは私の心を盗んでしまったのだ。
だから、あいつを忘れられないのだ。



高柳菜都美は、ここにいる。



「宵の明星」の謎はすぐに解けた。
さして難しい謎でもないのだが、司から話を聞いたときにすぐにピンときた。

同音漢字をこの言葉に当てはめればおのずと答えが分かる。
「宵」は「好い」、「明」は「名」、「星」は「常」。
つまり、「常にあなたの名を好ましく思っている」ということになる。
これに隠された意味は、「あなたが好きだ」という符号である。
高校生が考えたにしては、よくできた符号だ、と菜都美は感心した。
が、いかにも高校生が考えそうなロマンチシズム全開の符号。
でも、菜都美はそういう符号は嫌いではなかった。
私も柏木司に「宵の明星を知っていますか?」と伝えたい。



それもかなわないのだろうな。



菜都美はひとりごちた。
はるか下を見はるかし、何故か治人のことを思い出した。
桐野南と抱き合っていた治人。
そして、桐野南を好ましく思っている柏木司。
その時ひょんなことから自分の名前のことに思い至る。

柊治人、「なおと」。
柏木司、「つかさ」。
桐野南、「みなみ」。
三人の名前の頭文字をつなげると、「なつみ」となる。
偶然の一致ではあるが、この緊迫した状況でふと安堵する菜都美であった。



突如大音響で屋上のドアが蹴り破られた。
こんなことをするのはあいつしかない、とはわかっているのだが、
振り向こうとしなかったのは、そのことを知って泣いている自分がいたからだ。

「菜都美、てめぇ、どういうつもりだよ、こんな真似して!」
治人の声だった。やっぱりあいつが来たのか。
柏木司ではなく、柊治人が来た。予想通りとはいえ少しさびしくもあった。
いや、本当はうれしかった。激しく心を揺さぶられる。



なんだ、まだ私はあいつのこと好きだったんだ。



治人がしきりに金網をよじ登ろうとしていた。
金網の内側で必死になって説得していた教師陣の声は全く心に響かなかったのに、
治人のその声ははっきり、菜都美の心に届いた。
「おまえ、自分が何してるかわかってのか?え!?言ってみろよ、ヤナギ!」
涙がとめどなく溢れ出してくる。もう止める気力もない。

私は屋上にやってきたのは、誰かを待っていたかったからだ。
だから、金網をよじ登り、屋上の縁に立っているのだ。
でも、私を想う誰かがきっと来てくれる。そう信じていた。
いや、信じていたのではない。わかっていたのだ。



ほんと、おまえは単純でいいよな、治人。



治人が必死になって自分を引き留めようと迫っている。
教師陣はそれが私への刺激になると考えているのか、
その治人の暴走を必死に食い止めようとしている。
「おまえ、おれのことが好きなんだろ?じゃ、今ここではっきり言えよ!こんなことでしか自分のことが伝えられないようなやつを、おれは好きになんかなれやしねーんだよ」

「ああ、そうだよ。私はお前のことが好きだ、治人」
その言葉が私の口から発せられた時、教師陣と治人との間で一瞬時が止まったように見えた。
意外に冷静に言葉がつむぎだされたので、言った当人が一番驚いていたんだが。
「じゃ、早くそこから出てこいよ、ヤナギ。どんだけ心配かけてんのかわかってるのか?」
「ああ、わかってるつもりだ。でも、そっちにはもういけないんだよ、治人」
「どういうことだ?」
「私は柏木司を好きになってしまったんだ。この気持ちに嘘はない。いや、勘違いしないでほしい。お前のことも好きなんだよ、治人。といっても理解されないんだろうけどな」
「おう、わかんねぇよ。わかりたくもねえよ、ばか」
そういって治人は屋上に座り込んだ。どうやら話をする気になったらしい。
少しなら付き合ってやってもいいか。そう思いながら菜都美は、
もたれていた金網を離れて、器用に上半身を反転させる。
そして、拘置所のそれと同じように、菜都美は治人と金網ごしに対峙した。



話を少し前にさかのぼらなければならない。
なぜ菜都美が屋上に来るに至ったのか説明が必要となるからだ。


柏木司と校門前で別れた菜都美は、まっすぐ自分の通う学校へと戻ってきた。
そこは進学校と名高いところで、自分が通いたいとは一度も思ったことがない学校だった。

柏木司にああはいったものの、答えはすでに出ていた。
柏木司は桐野南のことが好きだ。私のことは好きではない。
それは頭の中では理解できたとしても、心はそれを簡単に許容できなかった。

だから、混乱した。
身体と心が離れていくような感覚だった。

そして、菜都美は自分の学校に舞い戻ってきた。
部活動をしていたグラウンドを走って通り過ぎ、
校舎に駆け込み、土足のまま屋上を目指した。
必死の形相で駆け上る菜都美を見た学校の生徒は口をそろえて、のちにこう言ったという。
「あんな顔で走ってくる人に誰が声をかけられるもんですか」と。

そして、菜都美は屋上で悶々としていた。
心が苦しい。誰か助けて。そう心の中で叫んでいた。
もちろん誰も助けてなどくれない。
誰でもいい、私のことを思ってくれる人がここにきてくれたら。

騒ぎが起きれば、きっと人が集まるはずだ。
至極単純な方程式を解いたかのような感じで菜都美がその結論に至った後、
菜都美は金網をよじ登り、屋上の縁に立ったのだ。
グラウンドにいる野球部のひとりが大声を張り上げる。
そして、自然と視線が菜都美の方へと集中する。
叫び声のようなものも聞こえてくる。卒倒して倒れこむ姿も見えた。
睥睨して下界を見下ろす神になったかのような心持だったのも一瞬で、
そのあとは、例の混乱がまた襲い掛かってくることになる。


「治人、君は私のことが好きじゃないんだろ?だったらなんでここにいる?」
答えはわかりきっていたが、治人はやはり予想通りの答えを菜都美に返す。
「ここで飛び降りようとしてる女子がいる。高柳という女子生徒だ、って噂を聞いたからな。だからここにきた。お前、そういう普通の恰好もできるんだな」
後半は予想してなかったためか、顔を赤らめてうつむく菜都美。
「ま、そんなことはともかく、だ・・・ここに来たのは私を止めるため、ということで良いんだな?」
「ああ。そうでなきゃ、こんなに早くここに来られるわけねーだろ?」
「治人、いい加減その不良じみた口調、やめた方が良いぞ。無理してるのが一目でわかる」
「・・・・」
「お前は本当は気の優しいやつなんだから、無理して強がらなくてもいいんだよ」
本当は「気の弱い」と言いたかった菜都美だったが、さすがに治人も傷つくだろうからそれは封印しておいた。
「なんでも達観してるような口調で言うんじゃねーっての」
「お前のことなら何でも知ってるぞ。お前がなんで私にいじめられて泣かなかったのか、とかな」
治人は明らかに動揺している風だった。
「わからないとでも思ったのか、治人。君はいつもそういうところが抜けてるんだ。だから私みたいなやつに付け込まれてしまう。覚えておいた方が良いぞ」
「うるせー」
「まあ、その話はおいておこう。とにかく、君は私のところへ来てくれた。ということは桐野南のことはあきらめた、という理解でいいのか?桐野南は今頃柏木司へ電話しているんだろ?」
「ああ、たぶんな」
「で、治人、君は桐野南をあきらめて私のところへ来た。そういうことだな?」
沈黙。そして激昂が菜都美に襲い掛かってきた。

「おまえ、いい加減にしろよ。そういう風に考えてくるほど俺の頭は良くないことくらいおまえにもわかってるんだろ?自分に好意を持ってくれている人が、自分の学校で飛び降りようとしている。その知らせを受けていてもたってもいられなかっただけだよ。それだけお前のことを心配して駆けつけたんだよ。理屈なんてあとからいくらでもつけられるけどよ、今はとにかくヤナギのことを考えて駆けつけただけなんだよ。ふざけたことぬかしてんじゃねーぞ、このバカ!!」

菜都美は泣いていた。ただ、治人に頷き返しながら泣いていた。
「ありがとう、ほんとに来てくれたんだ、治人。ありがとう、ほんとにありがとう・・・」
かすれながらそう言い募る菜都美を、治人は呆然と見つめていただけだった。

その刹那、菜都美は踵を返し、屋上の縁へと戻る。

後悔はなかった。
そう、治人は屋上へ入ってくるときにこう呼んでくれたのだ。
「菜都美」と。あだ名である「ヤナギ」ではなく。
ただ一度だけだったけれど、それだけで十分だった。

金網の方を振り返り、そして、菜都美は少し微笑んだように見えた。

「じゃあね」

そして、菜都美の姿が屋上から消えた。


--------


その電話を受けたとき、司は戸惑っていた。

「宵の明星を見たことがありますか?」
この言葉が聞こえたとき、脳内に電流が走り抜けた、ように感じた。



南はこの言葉を言わなければ、と思って必死になるあまり、
「宵の明星を知っていますか?」というべきところを、
「宵の明星を見たことがありますか?」と言ってしまっていたことに、
言い終わってから気づいてしまった。

元父親であった隆司と出会ったとき、なんとなく予感めいたものは感じていたのだ。
私が好きなのは、治人さんではなく、司くんなんだろうな、と。


電話をかけるまで、さんざん迷っていた。
治人さんは今頃どうしてるんだろう、とか、
司くんとちゃんと話がしたい、とか、
菜都美って女の人、どうしたんだろう、とか、
お父さん、頭大丈夫かな、とか。
そういうことが混然一体となって南の頭の中を駆け巡る。
それは迷いながら、でも決して居心地の悪いものではなかった。

思い切って電話をかけてみよう。
そして、あの言葉をいって司くんに告白をするんだ。
そう決めたのは、二人の男性が私の背中を押してくれたから、かもしれない。

そして、南は受話器を上げ、あの言葉を司に投げかけたのだった・・・


--------


「はい、OK!ご苦労様~」
そういって、手を叩きながら学校のグラウンドを悠然と歩いてくる女性が一人、
ハワイアン柄のチュニックを身にまとい、さっそうと現れた。
騒ぎになっていた学校には警察はおろか、近くの交番から誰一人駆けつけてこなかった。
それもこれもみな、この女性の手引きがあったからにほかならない。
「菜都美~、だいじょうぶ~?生きてるよね~?」
その女性の目の前には大きなネットのようなものが見える。
野球場でもよく目にするあのネットと同じ色をしていた。
そして、その丸いネットの周りには、金属製の棒が数十本並んでいる。
見る人が見れば、それが衝撃防止用のネットであることがわかったはずだ。

顔の半分近くはあろうか、というサングラスをかけていたその女性は、
ネット上で顔を隠しながらうずくまっているわが娘に呼びかける。
「ちょっと、菜都美。けがしてないよね?大丈夫だよね?あなた、頭は良いけどこういうのはからっきしだったから、お母さん心配しちゃったんだけど・・・」
菜々子はそう言いながら、仁王立ちしながら、ネットを支える男たちに指示を飛ばす。
「ちょっと、あんたたち!!もっとネットをピンと張りなさいよ、ピンと!!菜都美がけがしたらあんたたちのせいだからね、ほんとに全く、高い金出して雇ってやってるってのに、こんなことすらできないなんて、ほんとに全く、使えないったらありゃしないわ。それでなくても、こっちは忙しい合間をぬってこうして娘の晴れ舞台を見に来たってのに・・・」

外野でわめいている声を聴いて菜都美はすべてを悟っていた。
あの母親が早々に手をまわしたのだろう。
金に物を言わせて、こんな大がかりなことをしているのだから、暇人もいいところだ。
そう思いながら、菜都美は泣いていた。

ほんの数分前までいたあの屋上から、治人がのぞきこんでいるのが見える。
そこには笑顔が張り付いていた、ように見えたが、錯覚だろう。
ここから表情まで読み取れるわけがない。
指の隙間から見えたその顔は、きっと忘れることができないだろう。

菜都美は「空中ブランコ」を思い出していた。
昔、母親である菜々子と一緒に見に行ったサーカス。
あの時、空中ブランコの演技をしていた人が失敗して、
地面にまっさかさまに落ちて行った。
だが、衝撃防止用のネットが張ってあったので、その男性は傷一つ負っていなかった。
ネットの上でおどけて、観客の笑いさえ取っていたのだから。
今の菜都美はその空中ブランコの失敗した男性さながらの状態だった。
ネットの中央で顔をかくしてうずくまる。

「ああ、もう、せっかくかっこよく決めたのに」
心の中でそう嘆息した菜都美だったが、決して落ち込んでいたわけではなかった。
冷静に現状を分析し始めたのである。

母親がどのようにしてこんな大仕掛けを用意できたのかは聞きたくもなかった。
どうせ、この騒ぎを聞きつけて、あわててわが父に連絡を取ったのだろう。
そして、警察や消防署に根回しして、出動を抑え込んだのだろう。
そこまでは良い。
だが、この衝撃防止ネットはいただけない。
何十人の屈強な男性に見守られるのは気持ちの良いものではない。

「どうせなら、治人に・・・」


菜々子も、高校に入るまでは本当に献身的な教育ママであったのだが、
どこかで頭のねじが緩んでしまったのか、今はこうしてバカなことを平気でし続けている。
高校を出てアメリカに渡った母。そしてそこで私を産んでくれた。
この世に生を与えてくれた、ということに関しては感謝している。
美南子という親友とは今でも連絡を取り合っているそうだ。
彼女の子供が、どうやら私と同い年であることもわかったのだが、
それが誰なのか、未だにわが母は口を割ろうとはしない。

「まあ、すべてを知ることは楽しみが減ってしまうことだからな、今後の楽しみにとっておいた方がいいだろう。さて、じゃやることをやってしまおうか・・・」
そういうと菜都美は、ネットの上を這いずり回り、ようやく地面に降り立つことができた。
「治人!いるんだろ!隠れてないで出てこい!」
メガネのブリッジを右手で上げながら、そう呼ばわる菜都美。

数分後、校舎の陰から姿を現した治人。
そして、治人が菜都美の目の前で立ち止まる。
その顔は真剣そのものだった。

先に口を開いたのは菜都美だった。
「今、私をビンタしようと思っただろう?」
「ああ、思った」
「でも、治人、君は心根がやさしい男だから、それはできないんだろうな」
「さあ、どうだろうな」
淡々とした会話に見えるが、どちらも涙を流した後で目が真っ赤にはれていた。
母である菜々子も神妙な面持ちでこの状況を見守っている。

「おまえ、最初からこれを狙ってたのか?」
「いや、これは・・・私の母の仕向けたことだ。私は一切関知してない」
「なら、本当に死のうと、思ってたのか?」
「ああ」
そして、治人の右手が振り上げられる。
「じゃ、覚悟はいいな」と治人。
「ああ、甘んじて受けよう」と菜都美。

甲高い音がグラウンドに響き渡る。
治人の右手は、空で止まったままだった。
そして、菜都美の右手が正確に治人の左頬をとらえていた。
治人が顔を真っ赤にして菜都美に対し反駁を試みる。
「お、おまえなぁ、なんで俺が叩かれなきゃなら・・・!?」
文句を言おうと思った治人の口をふさいだのは、菜都美だった。

最初に感じたのは菜都美の髪の匂いだった。
そして、柔らかくあたたかい何かが自分の口をふさいでいる。
そのあと、菜都美の腕が治人の首に絡まり、
押し倒されるようにグラウンドに二人が倒れこむ。
そのあとで感じたのは雨粒だった。いや、空は夕暮れ時、晴れていた。
目を開けると、涙を流した菜都美が眼前に迫っていた。

「ありがとう、治人。私はお前が好きだ」
そういった菜都美は、朱に染まった空をバックにとても映えていた。
「知ってたよ、バカ」
「だろうな。私はわかりやすいだろうからな」
「おい」
「なんだ、治人」
「おれもお前が好きになった」
「・・・」
菜都美の顔が赤くなったのは、夕日のせいだけではなかっただろう。


菜々子はその光景を見てニタッと笑みを浮かべる。
菜都美と恋人との逢瀬を邪魔しないように、周りに小声で指示を与えていく。
「よし、撤収!!で、学校の生徒のみんなも、とりあえず撤収!!」
そして、抜き足差し足で離れていくそのチームワークは、
お互いの秘密を共有することができたという安堵感から生まれたものなのだろうか。
教師陣も声を出せずにただ見守っていたが、ようやく本分を思い出したのか、
あわてて二人に駆け寄ろうとしたところで、
菜々子が顎を動かすと、屈強な男性陣が教師たちを羽交い絞めにしながら、
グラウンドから強制的に離されてしまっていた。
口にはハンカチを突っ込まれて声すら出せない哀れな有様であった。


「だから、俺とつきあえ」
治人は強気になって菜都美にそう言い放つ。
「・・・断る、と言ったら?」
「・・・そんな気がないくせに、そんな強がりいうんじゃねえっての」
「そうだな、私は治人が好きなんだったな」
「どこまでも冷静なやつだよな、おまえってさ」
「嫌いか?」
「いや、それで、そのままで、いいよ・・・」
「ああ、わかった・・・」
そして、二人は再び唇を重ねる。



二人きりのグラウンドの中で、菜都美の恋は成就した。



--------



「南ちゃん、どうしてその言葉を?」
司は電話をかけてきた南にそう問いかける。
言葉に詰まる南。
そうなのだ、司は何も知らないはずなのだ。
だから、この言葉の意味を知っている南を怪しんでいるに違いない。
が、次の司の一言はこうだった。
「ま、いっか」
その言葉を聞いた南は拍子抜けしてしまう。
緊張が一気に解けて、ようやく普段の会話ができそうだった。

「僕のことが好きなの?」
司はそういうと緊張からつばを飲み込んだ。その音が耳元にまで響いてくる。
「はい、そうみたいです」
南は快活な表情でそう答えていた。
「治人は、どうしたの?」
「治人さん、ですか・・・まあ、あれからいろいろあって・・・」
きっとこれから触れられたくないことを言われるのだろう。
そう覚悟していた南だったが、司はあっさりと、
「ふーん、そっか。ま、いいけど」

なんだろう、このイライラ感は。
南は少し苛立ちを覚えていた。だから、司に自分からこう切り込んだ。

「私と治人さんが抱き合っていたのを、司くん、見てたんですよね?」
「え、ああ。うん。見た、と思う」
さらにイライラ感が募る南は懸命にそれを抑え込んだ。
「じゃ、それに対して何か言いたいこととかないんですか?なんで抱き合ってたんだ、とか、治人とつきあうんじゃないの、とか。そういうことを聞かれるものだと思ってました」
「・・・南ちゃん、怒ってるの?」
「いいえ!!」
怒ってるじゃんか。司は心の中でそうひとりごちた。

「とにかく、さっきに返事をもらう前にそのことをお話ししようと思ってこうして電話しました。ご䌂迷惑でなければ、少しお時間よろしいですか!?」
「あ、は、はい!よろこんで!!」
われながら間抜けな返事をしてしまったものだ。
司は、のちにこう述懐することになる。

・・・こうして、司と南の電話による攻防戦が幕を開けた。


太陽はすでに彼方に沈み、ロータリーの中央にある街灯がともると、
女性はようやくベンチに腰を下ろす。
表情はけして暗いものでないが、笑みはどこにも見られない。
誰か帰りを待っているようにも見えるが、女性は改札口を見ようとはしなかった。

---------------------------------------------------------------------

「私、司くんのことが好きです」
「・・・」
「もしもし、聴いてくれてますか?」
「へ?ああ、うん、聞いてるけど」
「私のこと、好きなんですよね?」
「はい、好きですが」
「だったら、どうして返事してくれないんですか?」
「・・・」
「私のこと、嫌いになってしまったとか?」
「いや、そんなことはない、断じてないです」
「だったら・・・」
「ちょ、ちょっと待って、南ちゃん」
「・・・」
「治人のことは、いいの?」
「・・・」

---------------------------------------------------------------------

ロータリーの右、降車側に面して、コンビニエンスストアがある。
ロータリーに面している、コンビニの大きな窓に一人の男が立っていた。
その男は、週刊雑誌を読むふりをしながら女性に強い視線を注ぎ続けている。
コンビニの店員がその様子を怪訝そうに眺めているのだが、声をかける勇気がないようだ。
そんなことを意に介しない男は、女性がベンチに座ったのを合図に週刊誌を棚に戻した。
そして、何かを買うでもなくそのままコンビニを出ると、まっすぐ女性に向かう。

---------------------------------------------------------------------

「僕は治人を裏切りたくはないし、裏切るつもりもない」
「・・・・・」
「でも僕は今でも君のことが好きなんだ」
「・・・うん」
「南ちゃん、いや、南。君のことが好きなんだよ」
「・・・うん」
「でも、今僕は迷ってるんだ。君のほかにもう一人好きな人ができた」
「・・・うん」
「正直すぎるってことはわかってる。でもね、南。君には知っておいてほしいって思った。僕は君のことも好きだ。でも、菜都美ちゃんのことも好きなんだ」
「・・・・」
「突然こんなこと言って驚かせてしまってごめん」
「・・・うん、驚いた・・・」
「でも、今の自分の気持ちをどう言ったらいいのかな。迷っている、というよりも、結論を出したくない、っていうのがほんとのところなんだ。逃げてるって思われても構わない。男らしくないって思われるのも当然。でも、南には自分の気持ちに嘘をつきたくない。だから、こうしてすべてさらけだしてる」
「うん、わかってる」
「で、ぼくはどうしたらいいの?」

---------------------------------------------------------------------

「宵の明星って太陽と同じ方角に見えるんですって」
女性は男性に声をかける。
「え?」
男性は突然声をかけられて驚いたようだった。
「コンビニからずっと私を見てましたよね?」
その声に男性は狼狽を隠せなかった。
「いや、その、僕は、べつに見ていたわけじゃ・・・」
「宵の明星って知ってますか?」
狼狽している男に構うことなく、女性は話を続ける。
「この季節が一番よく見えるんですって。宵の明星」

---------------------------------------------------------------------

「今、こうして結論を出せないんだったら、自分の気持ちに整理がつくまで待っててあげる」
「え?」
「だって、司くん、今迷ってるんでしょ?」
「うん、そうなんだけど・・・」
「だったら私、待ってます」
「・・・」
「司くん、私のことそれまで好きでいてくれる、んだよね?」
「・・・うん」
「だったら、私待てるから。ちゃんと待てるから。だから、急がなくてもいいから心の整理がついたら・・・」
「南、あの・・・」
「今は!」
「・・・・」
「今は、何も言わなくていいから。だから、待ってる」
「・・・わかった。必ず連絡する」
「うん、待ってる」

そして、静かに司は受話器をおろした。

そして、静かに南は受話器をおろしてしまった。

----------------------------------------------------------------------

「この季節が一番よく見えるんですって。宵の明星」
コンビニから見ていたその男性に声をかけたのはほんの気まぐれだった。
何も言わずに立ち去ろうとした男性に、私は声をかけた。
その事実は変わりようがない。
男性は狼狽しながらも、ベンチに座りながら照れ笑いをしている。
ずっとコンビニから私を見ていた男性。
その男性に声をかけた女性。
奇妙な二人が打ち解けるのには、宵の明星をあと数十回見る必要があるだろう。

男性の名前は司、女性の名前は南。
その二人は、出会うべくして出会ったのである。

--------------------------------------------------------------------

出会いは高校のころだった。
司にとってそれは淡い恋だった。

あの時から、司が電話を切ってから、すでに10年の歳月が過ぎていた。
あれから司は南とは連絡を取っていなかった。
菜都美が治人と付き合うことになったことは、電話を切ってしばらくたったころに、
治人の口から聞かされた。
それを先に聞いていれば、きっと電話での展開はもっと違ったものになっていただろうに。


まあ、いまさら言ってもしかたないよな。


終わったことをくどくどと理屈っぽく考えてしまうのは司の悪い癖である。
そんな司が久しぶりにこの町へ戻ってきたのは、
菜都美から連絡をもらったからだった。

「司。君は南と別れたのか?」
「いや、別れたつもりはないけど」
「じゃ、10年間南をほったらかしにしたのは何か理由があるのか?」
「いや、それも特には・・・」
菜都美の口調は相変わらずのぶっきらぼうなものだった。
治人とはすでに6年前に籍を入れ、子供も二人授かっていたはずだ。
治人からの定期的な連絡は、メールでいつも受信していたのだが、
菜都美本人からの連絡はあの時以来10年ぶりであった。

「司、おまえ男としてそんなことをして恥ずかしくないのか?」
「え?」
「南はおまえを待っているんだ」
「・・・意味がよくわからないんだが」
「南は、ずっと、おまえを、待ち続けている」
「そんな大声出さなくても聞こえてるよ」
「じゃ、すぐにここに戻ってこい。駅前のロータリーに夕暮れ時に来ればいやでも分かる」
そして一方的に電話を切った菜都美。
憤懣やるかたない状況ではあったが、とにかく行ってみるか。

司は軽い気持ちでその駅へと降り立った。


---------------------------------------------------------------------------

太陽はすでに彼方に沈み、ロータリーの中央にある街灯がともると、
南はようやくベンチに腰を下ろす。
表情はけして暗いものでないが、笑みはどこにも見られない。
誰か帰りを待っているようにも見えるが、南は改札口を見ようとはしなかった。

ロータリーの右、降車側に面して、コンビニエンスストアがある。
ロータリーに面している、コンビニの大きな窓に司が立っていた。
司は、週刊雑誌を読むふりをしながら南に強い視線を注ぎ続けている。
コンビニの店員がその様子を怪訝そうに眺めているのだが、声をかける勇気がないようだ。
そんなことを意に介しない司は、南がベンチに座ったのを合図に週刊誌を棚に戻した。
そして、何かを買うでもなくそのままコンビニを出ると、まっすぐ南のいる方へ向かう。

「宵の明星って太陽と同じ方角に見えるんですって」
南は司に声をかける。
「え?」
司は突然声をかけられて驚いたようだった。
「コンビニからずっと私を見てましたよね?」
その声に司は狼狽を隠せなかった。
「いや、その、僕は、べつに見ていたわけじゃ・・・」
「宵の明星って知ってますか?」
狼狽している司に構うことなく、南は話を続ける。
「この季節が一番よく見えるんですって。宵の明星」
コンビニから見ていた司に声をかけたのはほんの気まぐれだった。
何も言わずに立ち去ろうとした司に、南は声をかけた。
その事実は変わりようがない。
司は狼狽しながらも、ベンチに座りながら照れ笑いをしている。
ずっとコンビニから私を見ていた司。
その司に声をかけた南。
奇妙な二人が打ち解けるのには、宵の明星をあと数十回見る必要があるだろう。

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「いつから気づいてた?」
「最初からずっと」
「そっか」
「そうだよ」
「じゃ、さっきの言葉は?」
「宵の明星のこと?」
「うん、そう」
「あの気持ちは本当だよ」
「そうか」

「どれだけ待ってたかわかる?」
「10年、だろ?」
「口で言うのは簡単だけどね」
「ごめん」
「あなた、私のこと嫌いになったの?」
「それは、ない、と思う」
「断言できないんだね、いくじなし」
「ごめん」
「困ったときに雑誌を読むふりをする癖、直ってないんだね」
「ごめん」
「いつまで謝り続けるの?」
「ご・・・いや、いい」

「さて、じゃ、10年ぶりに会えたことだし。どっか行かない?」
「どこへ?」
「どこでも」
「怒ってないの?」
「何のこと?」
「待たせたこと」
「うん、怒ってない」
「そっか」
「嘘に決まってんでしょ!」
「・・・いてて、何も蹴ることはないだろ?」
「司くん、あなた10年私のことほったらかしにしたんだよ!10年だよ!わかってるの?」
「・・・ご・・・」
「謝るのは無し」
「待ってるとは思わなかった」
「でしょうね。司くんにはこのこと言わないでって言っておいたから」
「誰に?」
「決まってるでしょ?私の初恋の人」
「治人のことか」
「そう。それに奥さんにもね」
「菜都美のことか」
「そう」
「そうか。あいつらずっと黙ってたのか」
「私がずっと口止めしてたからね」
「でも、ついに我慢の限界が来たんだな。菜都美の方が」
「本当はずっと連絡取りたがってたんだけどね。ずっと口止めしてた」
「よくあいつらがこれだけ黙ってたよなぁ」
「うん。そこだけは褒めてあげてもいいかも」
「いや、そういう問題じゃないと思うんだけど」
「で?司くん」
「はい」
「あなたはどこまで知ってるの?」
「何が?」
「いや、知らないなら、いい」
「そうか・・・」

「で、どこへつれてってくれるの?」
「いや、急に言われても、さ」
「あなたねー、女の子に告白させておいて、それはないんじゃないのー?」
「いや、その、だからさ、ちょっと・・・」
「いいから、黙って私についてこい!!」
「は、はい・・・」

・・・南が司に出会うのは、出会ってからさらに二桁の年月、
つまり10年が過ぎた頃のことである。

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南はずっと待っててくれていたようだ。
そして、僕は、柏木司はずっと南のことを忘れていなかった。
あの時、ああは言ったけど、
実はずっと南のことを考え続けていた。
そして、南と異母兄妹であることも知っていた。

治人が高校時代に血眼になって戸籍を調べ上げて、
この事実を知った時、愕然としたという。
それを彼は一生涯いうつもりはなかったようだが、
菜都美はそのつもりではなかったらしい。

菜都美からその事実を聞いたとき、
私はショックで何もできない状態が続いた。
だから、南から離れようと思った。
これだけ南のことを思っていたのに、である。

だが、菜都美は南の根気のようなものに負けてしまった。
彼女の司に対する思いは本物だった。
兄妹であることを知っているにもかかわらず。


出会うべきではなかったのかもしれない。
でも、僕と南は出会ってしまった。
そして、僕は片思いをした。

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「司くん、本当に何にも知らないんだね」
「ああ、ごめん」
「ま、いいか。些細なことだし」
「何の話?」
「ううん、こっちの話。じゃ、行こうか」
「ああ」


絡まった糸は徐々にほどけ、そして一本の赤い糸となった。
南の思いが司に届く。
そして、二人は恋に落ちた。


陸離

私の処女作にして問題作でもあります。
いろいろとフラグを付けてはみたものの、結局回収は全部できませんでした。

ネタバレです。

軽いところでいうと、
主人公四人の名前にはそれぞれ「木の名前」をいれています。
柏。桐。柊。柳。
それぞれどの主人公に当てはまるかは一目瞭然なので割愛します。

大きなところでいうと、
Intermission1と2、それぞれのお話。
気づいた人がいるかどうかわかりませんが、
それぞれの女性の名前が少し違っています。
「美奈子」と「美南子」。
このあたりのフラグがもうちょっと書ければよかったと反省しています。

司と南が異母兄妹であること。
それぞれの母親の名前が「美南子」「美奈子」であること。
作品中では多く語られていませんが、
一応そういう設定で書いていました。

恋愛小説とは名ばかりに、ミステリー風味となってしまいましたが、
最終章で、それぞれの恋が成就したので、作者としても一安心でした。


この小説は、私のmixiページで連載していたものを転載したものです。
その時の反響は、今思い出しただけでも鳥肌が立ちます。
おしなべて良好な反応だったこと、そして、最初の小説を書き上げることができたこと。
この二つは私の中で一つの財産となっています。

願わくば、これを読んだ皆様の貴重な時間が無駄にならないことをいのりつつ。

陸離

柏木司、桐野南、柊治人、そして高柳菜都美。 この学生4人がそれぞれの思いでそれぞれの恋に向き合います。 それぞれがギャップを抱え、もがき、苦しみ、 そして、最後には何かをつかむことができたのか。 恋愛小説ではあるが、少しミステリー風味。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第一章
  3. Intermission 1
  4. 第二章
  5. Intermission 2
  6. 最終章