シグナル 花散る現象の駅

この作品を書き上げた今入院生活真只中・・なの少々ダウナー気味の展開の作品に(汗)まあ誰ででも踏み出す一歩が大切というメッセージもあり(泥棒の目)一人でも多くの方の心に届けよと願いつつ今日も点滴の日々(泣)新参者の第一作ですがよろしくお願いします。

理由もなく生まれた土地を離れてみたいと思った経験ありますか?

私は駅が好きだ。

万物あらゆる物の中でとかく駅と名のつくものならばバスの駅も電車の駅も私は好き。そこにいるだけで次の場所まで運んでくれるから。

ここじゃないどこか別の場所へと運んでくれる。ロマンがある。

だから私はナップサックに荷物をつめて、旅立つ前のほんのしばらくの間、この町のバスターミナルに住むことにした。それは私が中学を卒業して十五になった日のことだった。

勿論それは違法だった。私の年なら条例違反か。親同伴でなければ夜居酒屋にもカラオケにも入れてもらえない年齢だ。

ましてや女子。満喫やラブホに一人で泊まろうとすればすぐに補導されてしまうお年頃だ。とにかく私はいつも早く実家のあるこの町を離れてどこか遠くに行きたい衝動にとり憑かれていた。その感情は忽ち私の血を沸かし日々おさえられないものとなっていた。

しかし私には先立つ旅費がなかった。駅の中央にある待合いは最近立て直しされたばかりで清潔で広さも充分だった。金も行くあてもない私を雨風から守り温かく迎え入れてくれたのだ。

さいわいな事に駅には以前あった定期や回数券の綴りを売るための窓口は取り壊されていた。

累積する路線バスの赤字にたまりかねた市が民間のバス会社に委託金を出して経営を丸投げした結果がこれだ。

路線バスの本数は減り続けているのに建物だけが新しくなって無人になる。ここにはバスに乗り降りする人とそれ以外に必ず常駐していた駅職員は完全にいなくなった。

バスの駅のベンチに座っているだけで年寄りたちがいつもそんな話をするので学校の社会科の授業になど出なくても地元の地方自治や行政事情には自然と詳しくなるものだ。私はこの町が嫌いだが町について言えば事情通だった。

時々併設されたタクシーの乗り場からこちらを運転手が疑わしそうに私を見ている気がする。

気のせいかもしれないがこの町を出る前に通報されたり補導され家に返されるのだけは避けたいことだった。

私がこの駅を根城にしていることを知るのは今のところ朝掃除に来るお婆さんだけだ。

お婆さんはいつも野良ブラウスに息子か旦那が昔使っていたのではと思わせる男ものの黒縁で瓶底のようなレンズの眼鏡をかけて頭にはJA共済の文字が入ったタオルをまいていた。

顔は私が見た女の人の中でもっとも日焼けして浅黒い肌をしていた。どっから見ても農家のお婆さんという風体だった。

以前はフランケンシュタインみたいな顔をした白髪坊主のお爺さんが駅の掃除を担当していた。

早朝のバスの始発に合わせるようにお婆さんは掃除を開始する。主な掃除場所は待合いの隣にある駅のトイレだ。

多分年をとったので掃除の仕事もしんどくなってきたフランケン爺さんから引き継いだのだろう。

お婆さんは誰と話すでもなく、ただもくもくと昼まで掃除をして帰って行く。

時々前任のフランケン爺さんとお婆さんが話をしているのを目にする事がある。様子からして二人は近所なのか知りあいなのは間違いない。

けれど誰も掃除する二人の老人の事を気にかける者はいない。なぜならここは移動するための駅だから。

運行が終了する深夜待合い室もトイレも施錠されて電気も消されてしまう。

私は実はお婆さんから待合い室とトイレの鍵を密かに預かる身であった。理由は簡単で早朝私がお婆さんの掃除を手伝っているからだ。

ある朝掃除を手伝おうとした私をうさんくさそうに見て片手で追い払うしぐさをした。私がめげずに「お金はいらない旅人だ」と言うと掃除を手伝う事になにも言わなくなった。

「親戚の家を盥回しにされて酷い扱いを受けているので父方の祖父母の家に身を寄せるために旅費を貯めている」

そう私はお婆さんに身の上を話した。もちろん口からでまかせだった。

毎朝便器をブラシで擦りつけトイレのペーパーを取り換える手伝いを繰り返すうちにお婆さんは私に鍵の束を手渡した。

待合い室と男性と女性用トイレの鍵がひとまとめにされた束を私は手に入れる事が出来た。私の話を完全に信じたのか、無償援助で仕事が進むのが助かったからなのか、お婆さんはいつもなにも言わないので胸のうちはわからない。

それまでは昼に帰る時にバスの運転手に鍵を渡して帰っていたらしいが

「夜の施錠もやる」

そうお婆さんが運転手に言ってくれたらしい。

昼間の賃金だけで面倒な用事が済むなら運転手も世話がなくて助かると思ったのだろう。

待合いとトイレに金目のものなどなにもないが密室である以上は防犯上開けたままにするわけにはいかない。

市から委託された公共の私設ならば尚更だ。お婆さんも私が長くこの町に滞在するつもりはないと知った上で鍵を渡したのだろう。いかにも無責任でずさんなやりとりであっても私は当面の塒を確保出来たのだから感謝しなければならない。

私は日頃からトイレをきれいに掃除するのがとても好きだった。そんな私の仕事ぶりを見て彼女は私の事をほんの少しでも信用出来る娘だと思ってくれたのかもしれない。家出娘だけどね。

最近は仕事の合間や終わりに飴や自販機の飲み物をくれたりする事がある。

もしも「行くところがないなら家に」などと言われるようになる前に私はこの町を出なければと心の中で思っていた。

明け方掃除を終えた私はお婆さんと駅に別れを告げてバイト先に向かう。右手首に巻いた黒いシュシュは今ちょっとした流行だったけどバイト先では注意されたので外さないといけない。

これまで中学校にはほとんど通わなかった。それでも義理の父と母は私に進学先を用意してくれた。ここからバスでニ十分ほど西に行った場所にある公立高校の夜間部だ。担任と母が面談して決めた。

夜学に通いながら昼間はどこか近所でアルバイトでもすればいいという考えに私は惹かれた。バイトをすればここを出て行く資金が貯まる。学校も親も公認で働くことが出来てなおかつ脱走資金を稼ぐ事が出来るのは願ってもない事だった。

バイト先は県で知らない人はいない炭焼きハンバーグのチェーン店だ。

全国展開はしていないが地元では超有名なお店でテレビで紹介されたりネットで評判になり東京や他の地方からの来客も多い。

レジ打ちをしていると関西弁や他県の方言でお客さんに話しかけられる機会も少なくない。

地元出身のアイドルグループの女の子がネットで「大好き」と発言したりその子たちが主演をつとめた映画のロケ地にも店が使用されたこともありファンの間では聖地化しているらしい。

そんな事とは関係なく店はいつも死ぬほど忙しかった。

私の仕事はレジ打ちとドリンク場でドリンクは昔からソフトドリンクが一杯百円だった。

隔月のフェアの時は一週間料理にドリンクが無料でつく。一見ドリンクバーをつけた方が効率がよさそうだが一日どんなに暇でもハンバーグが六百食も売れる店で回転率を上げるためにドリンクバーなどないのが正解らしい。

キッチンで炭火で焼いたハンバーグを板鉄にのせて何度も運び、レア状態でお客様の前で切り分けるのは重労働だ。

私はまだハンバーグも運ばないしキッチンにも入らないが開店と同時に満席になるお店でドリンクやデザートを一人で作り、なおかつレジも一人でこなすのはなかなかしんどい仕事だった。

ドリンクは必ず料理の前に提供されなければならずレジでお支払いのお客様を待たせるようなこともしてはならない。

先輩の従業員にはいつも厳しく言われ遅れると必ず叱責された。店は常に忙しく客前以外では皆ひどく厳しい顔をして働いていた。

誰にも当たり散らす事が出来ないのでその怒りや苛立ちの矛先はいつもドリ場とレジの私に向けられた。

店長と社員以外は皆パートの女性ばかりが働く店なので「使えない」とか「遅い」とか聞こえるように悪口を言われるのは日常茶飯だった。

でも私は気にせずに働いた。仕事は朝の十時から午後の三時まで。本当にあっという間に時間は過ぎた。

そこから本来は夜学に通うのだが私は入学式の一日しか学校に行っていない。

やはりというか学校のクラスに集められ自己紹介した人たちは私の目には大変気持ち悪く見えた。

だからもういかなくて正解だと心の底から思った。中学の時の一日目同様にクラスに集められた同級生も皆宇宙人のように違和感があり気持ちが悪かった。

皆が皆違う顔をしているのは当たり前のことだ。男の子も女の子も歪なジャガイモのような顔をして皮膚にはぎらぎらした脂や面皰がういた顔であいうえお順に並べられた出席番号順に大人しく席についていた。

もう子供とは言えない風体は青少年少女と言うよりも成虫になりかけた昆虫のようでもあった。多分端から見れば私もその中の気持ちの悪い生き物のひとつだった。

今考えればそれはそれは仕方ないことなのだ。テレビのドキュメンタリーを見ていても生き物や生命力は旺盛なほどグロテスクなものだと私は思う。

私が彼らを気味が悪く感じたのは段々とそれに目や感覚が馴れていくことへの恐怖心から来るものだ。彼らは与えられた環境にたちまち順応し他者を受入れ誰もが感じた他人への違和感を麻痺させていく。

そこにいるのが当たり前のように脳は視覚を調整し肩を組んで歌ったりお互いの身体に触れたり舐めたりしたいと夢想するようになるのがおぞましい。実際そうするものもいただろう。

そしてひとつの生け簀に集められた養殖の魚である事になんら疑問も抱かずそこに用意された席に当たり前のように座り卒業までの日々を共に過ごすのだ。

そんなことが当たり前に受入れらる彼らを私はひどく薄気味悪いと感じていた。
彼らと日々を過ごすことは私にとって耐え難い苦痛以外の何ものでもなかった。

それで中学にろくすっぽ通わず家で読みたい本を読みネットで知りたいことがあれば検索していた。私にとって学校とは到底戻りたいと思える場所ではなかった。

無理矢理進学させられた夜学の机に座って一日目にも同じデジャブを感じた時それは私の中で確信に変わった。

引きこもりと笑われたって構わない。私は彼らよりも気持ちの悪い単一の唯一無二のグロテスクな生き物でいたいと心から望んだ。

今私が働くバイト先で私は自分が社会人なんて呼べる立場じゃないことはわかっている。ただのアルバイトでここは世間で言う社会ですらないのだろう。

ここで働くことは「使えないやつ」と思われたら公然と耳に入るように悪口を言われる。仲よく働く人たちもいるけどそれは仕事に慣れて迷惑をかけられない関係だからからお互いにそういう態度でいられるだけだ。

そんな環境が私にはむしろ清清しく思えた。目的の金が貯まるまでいる場所だと皆が明確に言葉や態度で示してくれる。

ここが私の終着点でずっといたい場所ならかなしい気持ちもなったことだろう。

だけど私はお客に聞こえないように(しかし同僚には聞こえよがしに)同僚や上司の悪口を口にしながら走りまわる店員にも、何時間も整理券を手に辛抱強く並んで待つお客様にもなりたくなかった。ただ通り過ぎるだけでいい。

通り過ぎる車窓から一瞬だけそんな風景を目にする旅人でいたいと私はいつも思っていた。

それでも毎日汗を流して働くことは嫌いではなかった。働けばそれなりの充実感と金を稼ぐことが出来たから。

ただ最近「仕事早くなったね」とか「頑張ってスペシャリストになってよ」「高校卒業するまでやるんでしょ?」などと言われることが増えると「早くお金貯めなくては」と焦る気持ちになるのだった。

夜を遮る四方のモルタルの壁とそこに貼られた特別指名手配の犯罪者たちのポスターや時刻表に囲まれ私は寝袋に潜り込んでベンチの隅で眠る。サッシの薄い扉は簡単に蹴破れるほど脆弱だけど一応内鍵もかけられた。

電気を消してしまえば誰も来ない。トイレも夜は私専用で使用するには鍵が必要だった。

入浴は近くにある漫画喫茶でシャワーを利用すればよかった。夜学の学生証は昼間町をうろついていても免罪符になるのでとても助かる。

塒の待合い室を出て夜中にトイレに起きる時、朝掃除を終えて仕事に向かう時、ふと足を止めてしまう風景があった。

私がこのバスターミナルに住もうと思った一番の理由はそこに美しい花が咲いていたから。

それは他の駅ではけして見ることが出来ない光景だった。待合い室を出るとすぐ右隣は公衆トイレ。その先には南向かいにあるタクシー会社のタクシーが駅から乗り換える客を速やかに乗せるための狭い車道がドライブスルーのようにある。

さらに駅と車道の向こう側には鰻の寝床ほどの細長い敷地に弁天堂の跡地がある。弁天堂は地元で知らぬ者はいない県内になん十店舗もある昭和の時代から続く弁当やおにぎりを売るお店だった。

私が生まれる前から弁天堂のおにぎりは地元で超美味しいと評判で最盛期には駅だけでなく商店街にもデパートにも出店していたらしい。

街に出た人は必ず帰りに弁天堂のおにぎりや弁当を買って帰るのが習わしだった。それをリクエストして待つのを子供たちは楽しみにしていた。

そんな話を母方の祖母に聞いた記憶がある。今で言うケンタッキーとかマクドナルドみたいなかんじだろうか。母が子供の頃から私が中学に上がるくらいまで弁天屋堂はここで営業していた。

実際食べたこともあるがそんなに美味しいと思ったことはない。普通のコンビニのおにぎりの方が私にはお米も具も美味しいような気がする。

なんか古い昔のおにぎりってかんじがした。おにぎりは好きだけど弁天堂のは味や見た目が時代遅れの食べ物だと私は思う。

コンビニどうしの激しい競走や商品開発がなかった時代はきっと家で食べるおにぎりよりずっと美味しくて特別なお店だったのだろう。

「新鮮なシラスと一緒に握ったお醤油のおにぎりがそれは美味しくてね」

祖母が懐かしそうにそう話していた。お出汁で炊いたご飯に近くの港で水揚げされた新鮮な釜茹のシラスをふんだんにまぶして握ったおむすび。

「あんたにも食べさせたかった」

そう言って在りし日の祖母は私の頭を撫でながら目を細めていた。ちなみに私は世の中で一番嫌いな食べ物がシラスだった。釜揚げしたのも乾燥させたジャコも大嫌いだ。生シラスなんて冗談じゃない。好きな人には申し訳ないがあんなもの喜んで食べる人の気が知れない。

密集した命の固まりが気持ち悪い。同じ教室に集められていた同級生たちの目をそのまま思い出す。同じ理由で私はシラス同様にこの町の名産品である桜海老も苦手。高価な値段で取り引きされる魚卵系の食品もすべてだめだった。

私が好きな食べ物は肉でも魚でも加熱していない生の肉だ。できれば血が滴るようなきれいな赤みの肉がいい。

変わっていると言われるけれど生の肉や鮪の赤みを食べる時に醤油やたれや薬味は必要ない。口の中でゆっくり噛みしめて血の味が溢れて舌の上でゆっくり熱で溶けてゆくのが好きだ。

母が今の男とつき合い始めてそろそろ籍を入れることを考え始めた頃私たちは町で一番高級な焼肉屋で初めて顔合わせを兼ねた会食をした。

その時食べた生レバやユッケの味が忘れられない。私が喜んで生肉ばかりおかわりするので家族での食事はいつもその店になった。

今はもうそんな風に肉や動物の内蔵を生で食べることは禁止になってしまった。日本中でたて続けにその年食中毒が頻発したためだった。

「こんな美味しいものを食べさせてもらえる男の人とならママが結婚結婚してもいいな」

子供心にそんなことを考えたりもした。
テナントが何年も入らず駅の横で今や廃墟同然の弁天堂だが衰退の原因は大ヒット商品で店の躍進の起爆剤となったシラスむすびだから皮肉な話だ。

弁天堂の創業者にはうまいおにぎりや弁当を開発する以外にも先見の明があったのだろう。

創業から弁当屋の経営が安定すると支店を次々に県内にオープンさせ自社工場を作り多くの従業員を雇い入れた。

そうして飲食店の経営で得た資金や人脈を元手にして市議会選に立候補しその年に市議に当選した。

創業者はそれまで経営していた従業員の中から信頼できる男を娘の婿に選び原場と経営を任せると自分は会長職に就いた。

食品会社と市議の二足の草鞋を履く事になったのだが主な目的は他の食品会社を買収することだった。

市議会で議長の立場にまでなる事でそれまで駅や公立の学校や病院などの公共施設に食事を提供していた会社を次々買収して自社の事業所に変えていった。

田丸屋という昔あった食品会社は県内の駅中で蕎麦やむすびを売る弁天堂の競合店であった。今では誰もその店の事も味も覚えてはいない。

田丸屋はとっくの昔に弁天堂に吸収されて今はどこにもその店の暖簾や看板を見ることはなくなった。弁天堂に比べ特別上手いと評判だったわけではない。

ただ県内の駅には必ず田丸屋は店舗を構えていた。おそらくは地元の議員が経営者の親族にいたとか駅という黙っていても売上が確約された場所に出店出来るコネクションがあったのだろう。

それは弁天堂にはないものであった。弁天堂は田丸屋を買収することで駅中やサービスエリアの立地で営業する権利を得たのだ。

県内でこれ以上ない立地と流通経路を確保した弁天堂の業績はそれからも右肩上がりで、その頃から県内でテレビのCMが毎日のように流れていたらしい。

祖母は昔子供の頃によく聞いた弁天堂のやたらご陽気なCMソング口ずさんでいた。私が物心ついてから弁天屋のCMなんてテレビで見たこともなければその歌もまったく聞覚えがなかった。

その年の夏祖母が好きだったという弁天堂のシラスむすびは発売され県内では品切の札が出るほど大ヒットした。

弁天屋はその年の夏に県内の食品会社としては老若男女問わず未曾有の食中毒患者を出したと当時の新聞に記載されている。

「大きく報じられて全国ニュースでも取上げられていたよ」

祖母の話だと通っていた近隣の学校も次々学級閉鎖になったらしい。原因となったのは自慢のシラスむすびだった。

弁天堂は県内全域に大きな新店舗を構えず自社製品を流通させるという当時画期的な試みに成功した。しかしその年発売したヒット商品の開発が感染源となり大規模な食中毒を爆発的に蔓延させるという致命的な失敗を犯してしまった。

食品会社としては一月や半年間の営業停止処分以上に会社の存続にかかわる大事件だった。

道の駅や電車駅の中にある立ち食い蕎麦やうどんをそのまま販売せずに讃岐のうどんをいち早く県内で販売したのも弁天堂だった。

出汁文化ではない地方でそのうどんは麺も汁も斬新で総菜屋の利をいかして揚げたての天ぷらも選べるスタイルは評判になった。

讃岐うどんの販売スタイルが日本中で定番になる三十年以上前の話だ。それまで吹いていた追い風は逆風に変わりひとつのむすびがきっかけで弁天堂は転落を余儀なくされた。

私はシラスが嫌いだから詳しいわけではないがシラスというのは元々シラスという種類の魚ではないらしい。

出世魚のように何か特別な個体の魚の稚魚の名前をシラスというのでもなくシラス科シラス目なんて魚の種類も図鑑には載っていない。

イワシや鯵や鯖といったこの辺の近海で捕れる魚の稚魚の十把一絡げを総称してシラスと呼ぶらしい。

地元の名産として食されるシラスはマイワシやカタクチイワシなどイワシの稚魚のことをさすらしい。

弱い魚と書いて鰯。親になってさえ身が脆く痛みやすい魚である。稚魚ならばなおのことその身は脆弱で痛みやすいのだろう。

生食にするならばよほど鮮度に気を遣わないと食あたりの原因になる。それは釜茹されたシラスでも同じで乾燥させたジャコとは違って取扱いには充分な注意が必要だった。

炊きたての熱々のご飯混ぜて握ったシラスのむすびは盛夏の気節には食中毒を起こす危険性はかなり高かった。

今の時代と違って昭和の時代流通の際の低温管理など杜撰だったのかもしれない。冷蔵庫ではない普通のトラックや電車の車輛にのせて常温のまま営業所まで運んでいた可能性は高い。

むすびを作る際従業員が手で直接握った可能性もある。魚介類の食中毒は乳製品の中毒同様に毒素が強く激しく苦しい下痢や嘔吐を伴うものらしい。

弁天堂のむすびを食べた就学児童の多くは顔中に黒い斑点ができ忽ち歩行も困難になるほどの激しい下痢や嘔吐や高熱にみまわれた。

祖母の通っていた小学校も軒並学級閉鎖が続きクラスの半分以上の生徒が一月以上登校できなかった。

「私かい?私は不思議とあたらなかったんだよ。昔からお腹は強い方で食あたりになんてなったことはないよ」

弁天堂のむすびを美味しく頂いて学校も休みになって祖母はご機嫌だったらしい。

「だからあんたも大丈夫な気がするんだ。あんた私に色々似ているから」

そうは言っても私はみちみちした小魚の群れなど一生口にすることはないだろう。祖母の顔をながめながら思った。

私たちの町には海もあれば港もある。海の水も砂浜も黒みをおびた灰色だ。気候は一年を通して温暖で周囲を森林と海に囲まれている。

魚も砂浜の色と似た灰色の鱗のが多いけれど海底はとても深く豊かな漁場となっているらしい。

ここから私電に乗りJRに乗り換えて駅三つで港の名前がついた町に出る。港に着く前の国道にも海岸線は広がっているが市の全長九キロの浜辺はすべて遊泳禁止となっている。

海が見渡せる国道の先にはにはどこもかしこも夥しい数のテトラポットばかりが視界に入る。

需要に応じてなのかテトラポット出荷製造数では全国一位らしい。母が幼稚園児だった頃一度だけ遠足で地元の鈴なり海岸に行ったと聞いた。

その鈴なり海岸もとうの昔に遊泳禁止となった。この市には海はあるが地元の人たちは夏になるとプールで泳ぐか白い砂浜のある伊豆や関西の海や沖縄まで遠出しなくてはならなかった。

母の幼い頃の写真を見ると浜辺で戯れる姿があった。地元の浜辺は子供たちの遠足の定番であった。

夏になると砂の造形大会が企画され砂で造られた見事な恐竜や動物で浜辺は埋め尽くされた。

町内会の小旅行では漁船がチャーターされて子供たちは漁船に乗り込み海原へ出ることが出来た。

漁船が仕掛けた網を皆で引き水揚げされた魚を網で焼いて皆で酒を飲みながら食べた。

その時期に捕れるシラスはやはり目玉で誰もがそれを目当てに浜辺を訪れた。

港の近隣にあるシラスの工場では一月から三月にかけて釜揚げシラスを求める人で連日車が押し寄せ長蛇の列が出来た。

小さな木箱に詰められた出来立ての釜揚げシラスは一折五千円近くまで値をつり上げても飛ぶように売れた。

年末年始の贈り物や土産に地元でこれほど珍重される品は当時他になかった。

今でも私の地元の人はスーパーで簡単に手に入るようになったシラスをあまり買わないし喜んで食べることはしないようだ。

港で捕れた立派な木箱に入ったものでないと美味しくないと年よりたちは口を揃えて言うのである。

一時期は儲かり過ぎてシラス御殿なんて呼ばれる家々が立つほど盛況だった加工場も法外に値段をつり上げ販売していた業者は客の信用を失い半分以上の工場が閉鎖された。

今は大手の会社や漁協が管理して漁港や道の駅などで適正な値段で取引されているらしい。

海の環境が汚染され浜辺の多くが遊泳出来なくなったのではないといつか市長がテレビで話していた。

地球温暖化により海の水位が増し浜辺を浸食しているからというのが理由らしい。最近国のあちこちで毎年起きている地震による大規模な津波被害も地球温暖化が原因なのかもしれない。

ひとたび近海を震源地にした大きな地震があればこの町も私のいるバスの駅も七分ほどで高波に呑まれると聞いた。

警報を聞いて七分ではとても助からないかもしれない。だから湾岸に沿うようにして造られた防波堤は役目を果たせず海と陸の堺はテトラポットで埋め尽くされている。

市では今後新たに九岬の人工岬の建設を予定していて今後防災のために市民が海で泳ぐという風景は見ることは不可能であるとの見解を示している。

海は町に製紙工場が誘致された昭和の時代よりも環境が整備されて魚も戻って来ている。昔海は工場の薬品や廃液の垂流しですさまじく汚染され遠くにいても悪臭を放ち網にかかるは背骨が曲がった奇形の魚ばかりがかかったと聞いた。

それも昔の話で今は世も末湾とかどぶ港と地元で言われた港も釣り人で賑わい魚も水揚げされるようになった。以前の美しさを取り戻した海だけど私たちそこに入ることは許されなくなっていた。

電車で通る湾岸の工場群の景色が私は好きだった。製紙工場の煙突は昔も今も飛行機がランプを指標にするくらい高く空に向かってのびている。

建物から無秩序に増設されはみ出したパイプは鉄で出来た内臓か歪な金管楽器のように見えて私は電車や車に乗りながら見る度に心が踊った。

旅立つ時にも見るだろう。夜の工場を電車の車窓から眺めるのもまた格別に違いない。港には製紙の原料となるコーンスターチやチップを積んだ異国から来たバルカーがいつも身を横たえていた。

あの横割に裂いた鯨のようなかたちの大きな船に潜り込んで見知らぬ国に行くのも悪くないなと私は眠りにつく前に夢想した。

寂れて大半の店がシャッターを下ろしたまま蛇の脱け殻のように風化した商店街もこの町もいっそのこと海の底に沈んでしまえばいい。

夢現の中で私はそんなことを考えた。母はバイトを始めた私の財布から時々お金を盗むけど別に私は嫌いじゃない。

義理の父も家に居たたまれなくて飛び出すような悪い人でもない。なのに心ならずそんなこんなことを考えてしまう私の心がきっと病気で間違っているのだ。

私はこの町に住むべき人間ではないのだ。探そう。新しい神に出会える場所を。そこには新しい神や新しいエロスな体験・・が待っているに違いない。

それを私はこれから探そうと思った。たとえばこの駅にある弁天堂が廃墟となっているのはなにも食中毒ばかりが原因ではないだろう。

かつてこの町にも新しい波が押し寄せた。それまで外国や都会にしかなかったコンビニやファーストフードの店が商店街に次々出来るようになると人は自然とそちらに流れて行った。

営業を再開した弁天堂も傷ついたブランド名を取り戻そうとしたが客数は年々減少していったのは時流の流れというものだ。それでも町の中心にある駅中や有名デパートに営業所を構え続けたのは地元食品会社としての意地やプライドもあったのだろう。

最近ではどこも駅で降りても弁天堂の看板は見かけなくなった。私の住む町にあるこの商店街でさえ少子高齢化や過疎化が進み魅力的な店は大きな駐車場を備えた郊外へと次々に店を移転させていった。すべては時代の流れなのである。

夜になると夏が近いことを教えてくれるのは町内のどこかから遅くまで聞こえてくるお囃子や宮太鼓を練習する音色だ。

祇園の祭がすぐそこまで近づいている。ちなみに有名な京都府の祇園祭とはなんの関係もないらしい。

一応この町にも八坂神社の分社はある。けれど昔からこの町の祭は弁天様を奉納するもので少し前まで名前も【弁天さん】と呼ばれていた。

弁天様はスサノオ神の娘らしいのであながち無関係とは言えないが。

大昔に海から船に乗って来た悪魔のような怪物が海や浜辺の村を荒らし困り果てた地主がスサノオをお祀りした祠に助けを求めたが願いは聞き入れてもらえない、どころかさらなる生贄を要求された。すると困り果てた地主や村人の前に弁天様が降り立ち異国から渡来した魔物を退けてくれた。

以来地主は弁天堂をお祀りする神社を建立しその感謝の気持ちを忘れないために怪物退治に使われた船に車輪をつけて宿場町だったこの町内を練り歩いた。

それがこの町の祭の起源だ。弁天堂の名前もその言い伝えから屋号を拝借したのかもしれない。

弁天様は昔からこの町に深い縁のある神様なのだ。「なら今まで通り弁天さんのお祭りでいいじゃん」と私は思う。

なにしろ海から来た魔物をやっつけてくれたのは親父ではなく娘の弁天様の方なのだから。手柄を横取りされたようで弁天様もさぞ気分が悪いに違いない。

しかし過疎化が進む町内でなんとかひとつ市も起爆剤が欲しかったのか名前をメジャーな祇園祭に変えた。

「昔はこの辺りは品川宿から近江まで続く旧東海道の宿場町として栄えていました。様々な文化の交流地点であった土地柄から京都府の祇園祭を直接踏襲するものではないが地域の発展や活性化をはかり過去の祭の文化を現代に甦らせる意味合いも含め弁天さんと呼ばれ親しまれた祭名から祇園祭に改名いたしました」

よくわからない説明が市の年中行事を記したHPに記載されている。要するに名前を変えて地域の祭からよりグローバルなイベントにしたいのでみんな来てね・・ということらしい。

『そんな安直な試みが成功するわけがない』

誰もがそう思ったが市や町内会はかなり本意気で十年以上の歳月をかけて祭のてこ入れに真剣に取り組んで来た。

地域の子供たちに幼い頃から学校や町内をあげて宮太鼓の練習を奨励した。

昔の言い伝えに準えて歩行者天国の商店街を練り歩く華やかな山車も今では二十数台まで増えた。

祭の日の来場者は最近では二十万を越えるとか。もはやなんの祭かわからないが路上にはよさこい躍りのコンテストまで開かれる盛況ぶりだ。

私のような人混みが苦手な人間がうっかり紛れ混んだらたちまち身動きがとれず過呼吸を起こして死んでしまうかもしれない。

六月の九日と十日の土日が祭の日だ。

そしてその気節はきまって雨に見舞われた。いったいどこから涌いたのかどこにこんなに人が隠れていたのかと思うほど商店街やバスの駅は人で溢れる。

そして祭が終わっても酔客や若者は駅にたむろしていつまでも家に帰らずにいた。

雨になれば宿のない私はどこにいけばよいものか。祭のお囃子を聞く度に私はそれまでにこの町を出て行くことを心にきめるのだった。

昔本来の旧東海道はもっと海沿いにあったらしい。しかし浜辺の集落と街道は度々地震が引き起こす津波によって村ごと海にのまれた。

弁天様の伝説はおそらくそうした災害から生れたものだと言われている。

アマテラス大神の天岩戸の伝説が派生した時期に金環食の起きたように。

津波の被害から逃れるために旧街道を内陸部に無理矢理湾曲させるかたちで今の場所に宿場町が出来た。それが私が今いる町のルーツだ。

おそらくその時に今の忌ま忌ましい祭も始まったのだろう。それでも昔は人と神様がもっと近くにいたのだろうと私は思う。津波が頻繁に起きて困るから神様にお願いする。

問題が解決したのは結局人の知恵や力でも万物や自然に神が宿ると古くから信じていた。そうして神話や伝説が生れたのだ。朽ち果てた弁天屋の店舗は蛻の殻でまるで参拝者の絶えたら古い社のように見えた。

祭で騒ぎに来る人の心にもこの土地にも神様なんてもういない。弁天様もスサノオもきっととっくの昔にどこかへ行ってしまったに違いないと私は思う。

だから私は自分だけの新しい神様がいる場所へと行こうと思ったのだ。私が駅が好きだから雨風をしのいで眠りについても誰も咎め立てたりしないからここにしばらく住もうと思った。

むしろ快適に寝泊まり出来ればトンネルでもどこでも実はよかった。私がここで足を止めてここに住もうと思ったのにはもうひとつ理由があった。

理由はそこに花があったから。

私がこの駅を訪れた時弁天堂は既に閉店して長年廃屋同前に寂れ果ていた。

入り口のドアには【テナント募集】貼りり紙がされていたがそれも経年のために劣化して埃をかぶっていた。ところがある日貼り紙は外されていた。

「今度はどんなお店が入るのかしら」

ベンチでそんな話をする人たちもいたが店は新しく開店する様子もなく空っぽのままだった。

私が駅を訪れると弁天堂の中は花の鉢で満たされていた。

ガーベラにベゴニア、ポインセチアにフリージアにハイビスカスそれから季節を忘れた向日葵の花。

私はショーケースの中に並んだケーキを眺める女の子のようにうっとりその花々の数を数え名前を唱えた。

世界中のありとあらゆる種類の花たちが狭い弁天堂の跡地のガラス越しに競うように咲き乱れていた。

どういう仕組みで産地も種も開花の気節も違う花たちがここで生かされているのか。誰がなんのために用意した空間なのか私にはまるで見当がつかなかった。

私はその不思議さに心を打たれた。しかし駅を訪れる人は皆この素晴しい温室に無関心だった。

誰もが通り過ぎるだけで立ち止まって見いる者もいなければその花の存在を口にする者もいなかった。


「もしかしたら私にしか見えない幻覚」

そう思ったりもした。しかしそこに花は確かに其処に存在し知らぬ間に何者かの手で毎日少しずつその鉢の数を増やしていった。

私はがここに暫く住むことに決めたのはそこが駅だから。私は駅が好きだから。どこか知らないここじゃないところへ私を運んでくれる場所だから。

そして寂れた弁当屋の中たくさんの花が手向けられていた。まるで旅立つ人を祝福するかのように私には思えたからだ。

そんな花たちに見いられたわけではないが私は発つ日がずいぶん予定より遅れてしまったようだ。そのまま花に見送られ駅を後にすればよかったかもしれない。

種明かしされたら手品のしかけも案外つまらないものだ。私はある日ふと気がついてしまった。

手入れもろくにされていない花はいつまでも枯れる様子もなくよくよく見ればそれらはすべて模造品の造花だった。

店に人が来ない理由はテナントに入った新しい主はおそらく造花の卸売業なのだろう。ここで商売をするのではなく注文を受けた造花をここから運ぶための倉庫として利用しているのだと察しがついた。

その証拠に店の隅に造花業者の会社名が印字されたダンボールが積まれているのを私は発見してしまった。店が弁天堂の外観のガラス張りのままだったので倉庫には見えなかった。それだけの話だ。

それでも映画館もつぶれ花屋も果物屋もとうの昔にシャッターを下ろしたままの町でここが一番華やかでここが美しい場所であることに変わりはなかった。


祭の日がやって来た。さいわいなごとに今年は雨にはならないようだ。私はいつも通り仕上に待合い室のガラスをタオルで拭いて駅を出た。

それから三時まで働いてから近くの公園に向かった。店も公園も商店街から離れた場所にあり山車も通らないので祭の客に出会すことはなかった。

祭があろうと無かろうと店はその日も忙しかった。私は公園で商店街から聞こえるお囃子の音を聞きながら一人でコンビニで買ったサンドイッチで遅い昼食をとった。

漫画喫茶でいつも通りシャワーを浴びた後で祭とはなにも関係ない市の中央図書館が閉館になる七時まで時間を潰した。

私の塒【駅】についた時時計の針は十二時を少し回ったところだった。駅には人っ子一人もいなかった。

たむろする輩もいなければベンチで眠りこける酔っ払いもいないことに私は一先ず安堵した。

思った以上にターミナルは祭の客が捨てたゴミが散乱していて、まるで爆撃された瓦礫の廃墟を連想させた。

お茶でも買おうと思ったが四台ある自販機の飲み物はすべて買われて売り切れの赤文字ランプが点いていた。

トイレも施錠する前に覗いて見たが想像以上に荒らされ汚れていた。これは明日の朝ゴミの掃除と片付けが大変だろう。

祭は明日の夜まで続く。朝には商店街の人たちも掃除に来るだろう。

明日このお婆さんに鍵を返してこの町を出て行く前にせめてもの恩返しに掃除を手伝って行こうと私は思った。

商店街にずらりと並んだ出店も今はテントがたたまれブルーシートが被せられていた。

居酒屋も明りを消して店仕舞の時間を過ぎていた。帰りの客を乗せて大忙しのタクシーも今は一台も見あたらない。

信号機が明滅する街灯の下で弁天堂の中に咲いた花たちだけがおとぎ話に出てくる竜の舌先のように赤々と暗闇の中で花びらを垂らせていた。

この花たちとも今夜でお別れだ。待合い室は外に比べたらさほど荒らされてはいなかった。私は中から施錠して寝袋を広げ明りを消して床についた。

一番遅くまでやっている駅前の居酒屋からは陽気な酔客たちの笑い声がもれていた。

なんの感傷も感情もわかないまま私は昼間の疲れからすぐに眠りについた。

真夜中に目が覚めた私は携帯のケースを開いて時刻を確認する。

画面上にとっくに着信拒否にしたはずの義父からまたメールや電纜の着信履歴が表示されていた。おそらく母の携帯から送って来たのだろう。

今どこにいるの?連絡して下さい。お母さんを心配させたくないです。今日病院でお前の弟が生れたよ。お母さんにまだ話してないから・・病院と部屋の番号を書いておきます。会いにいってあげてほしい。お前とも色々あったけど、ちゃんと話そう。今からでも遅くないさ。遅いなんてことはない。これから四人で家族として暮そう。本当の家族になろう。

我は携帯のケースをたたむと外に出た。
祭の客に蹂躙されたトイレは使いたくなかったが仕方ない。

外に出ると降りだした、篠突く雨に屋根のない路面は黒く濡れていた。明りに照らされた霧雨を眺めながら私は明日の祭が雨で流れることを願った。

寂れて野生の彼岸花に囲まれた社のような弁天堂の跡地が視界に入る。その入り口の前に異形なものがあった。

見た目を形容する言葉を私は見つけることができない。

しいて言うならそれは自動車よりも大きくて幅の狭い車輪がついた黒い城のように見えた。黒炎に呑まれる古城の影。複雑怪奇なからくり時計の歯車のシルエット。

見上げるような立派な体躯をしたニ頭の黒馬を従え御者は雨を避けるようにフードで顔を覆い静かに頭を垂れていた。

ひとたび馬が嘶けば雨曇から顔を覗かせた月に木霊が返る。

その馬たちの鬣よりも夜の帷よりもオニキスよりもスピネルよりもヴァンダの黒色をした名伏しがたい形状の棺馬車。

十八世紀まで英国などで身分の高い高貴な人の遺体を乗せるために作られた馬車だった。私はその馬車の智識を誰にも教えられたことも見たこともなかった。

けれど私はそれがとうの昔に廃れた棺馬車であることも、持主の名前も知っていた。無人のはずだった店の硝子扉が開き中から数名の従者が表に姿を現した。

ある者は私の前で恭しく膝をつき、ある者は私の右手を取り素早く口づけをして恭順と敬意を示してから馬車の荷台の中へと消えた。

主の棺馬車は世のありとあらゆる光を遮えぎり飲みこんでしまう真の漆黒。草に埋もれていた廃線の鉄道の線路の分岐が今私の目の前に拡がる。

あの御方の愛した黒色の蘭の名と同じ黒のヴァンダ。その名前を私は賜った。

それが私の本当の名だった。私はそれまで忘れていた唯一無二の忠誠を誓った主の名前を漸く思い出した。

旅立つ先にあるはずの永遠に茜色の陽が射し黄金の花が咲き乱れる黄昏の国。

そこで私は私の神である主といつか再会の時を迎える。そんな夢を幾度も幾度も見て枕を濡らし旅立ちを決めたのだ。

今や主の名も声も面影も蘇り私はガラス窓へと駆け寄った。美しい手向けの花に囲まれた象牙の棺は聖骸布を纏い静かにそこに横たえられていた。

私は思わずその御方の名前を口にした。すると棺の蓋は静かに開いた。

今日はお気に入りのシュシュをするのを忘れていた。主はそれを口でほどくのが好きだった。そんな記憶が蘇る。

バイトで普段しているサポーターを私は無意識に手首から外して地面に捨てた。

私の手首には止血のための繃帯が二重にも三重にも巻かれていた。

私は普段から自分の血を見るのがとても好きだから。時々手首に刃物を立てては皮膚を切り裂いた。

「それは私が孤独な人だから」

今の今まではそう思っていた。手首をの皮膚を切ることで人の心配や関心を集めたいからではない。ただ自分の血が流れているのを見ると安心した。

自分が今生きているを実感できるから、血の色が愉しいのだと。

でもそれは違っていて私の主は人の血が流れる様をなにより好んだ。私は主が愉こぶ顔を見るのが好きだった。

だから今私は孤独ではなかったと知った。私の気持ちに呼応するように止血帯から血が滲む。

目を覚ました私の主は生れたての赤子がそうするように口を開けそこから大きく外気を吸い込んだ。

「ヴァンダ」

主の口もとがそう呟いた。

「私の名前を呼んでくれた」

私を忘れず覚えていてくれた!私の胸は高なり、こみ上げる思いはすぐに涙となって溢れた。

生まれる前から待ち望んでいた。すべての日々が報われ私の中に穿たれた空虚が充たされてゆく。

見る見るうちにに周囲を埋めた花たちは色を失い花弁を散らし腐敗し、やがて枯れ落ちた。

主は飢えていた。

花の生気だけではとうてい足りぬ。いつしか凍結したように時が止まったなかで凝視する二つの瞳が私の止血帯から滲む血の赤色を映していた。

それはシグナルの明滅のように鼓動を通じて私の右手から眷属であることを報せるように送られたメッセージであった。

主の目覚めは私の生れたこの小さな世界の終わりを意味していた。主とともに眠りについていた者たちも疫病も古い名やかたちを変えて程無く目覚めるだろう。

旅の始りと思っていた駅は私が生れて最後に再び想い人と再会を果たす終着の駅だったという顛末だ。

国を追われ棲みかを焼かれ離ればなれになった私たち一族。幾度そのような輪廻の時を繰り返したのだろう。

その度に私は身を裂かれるような辛い別れを経験した。心優しき我が主は私が人の世に戻ることを望みもした。

そして私はいつもそれを拒んで共に生きる道と共に滅びの道を選んだ。いつも何処に生まれ落ちても彼は再会を約束しこうして迎えに来てくれると私は信じていた。それはいかなる信仰よりも強い。

目に見えぬ互いの緋文字で交わした盟約であった。このような辺境の地に船で辿り着き異教の神を後楯にした人との苛烈な戦いもあった。曾てはこの国の荒ぶる神でさえその力を怖れ身を隠した。けれど今この地にも住む人の心にも神の姿は既になく、とうの昔何処かに去った。

私たちは今もこうしてどの神々よりも遥かに永い時を過ごしている。

ふと心を過るのは今病院にいる母の面影であったりまだ見ぬ赤子の弟そして義父が送ってくれたメールの文面だった。

私は一人頷いた。それほど家族になりたいならば今から訪ねよう。生簀や網の中に閉じ込められた稚魚でありたいならば。糧となる贄は必要だ。

今からすべての眠りについた家々の扉を叩こう。我が主とともに。人のいる街から街へと。棺馬車に乗り永遠の旅を続けよう。この場所から。

明け方までにはまだ遠く祭はまだ始まってはいなかった。

シグナル 花散る現象の駅

読んで下さった方に心から感謝です。時間作は【中央線西八王子駅のメイド】という駅を題材にした作品を書きたい(全然違ってたらごめんなさい)駅マニアではないので時間の許す限り色々な作品を書きたいし読みたいなと思っています。

シグナル 花散る現象の駅

駅を題材にした物語をこれからいくつか書いて行きたいなと思っています。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-09

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