朗らかに笑う人

「もうしっかりしてよね」
「すまん。急ぎだったもんだから……」
 携帯をお父さんへと手渡す。
「鈴村さん、急患です」
「ん、わかった」
 じゃあな、と白衣を翻してお父さんは廊下を走っていった。
 雑賀総合病院。地元の大きな病院の一つ。お父さんはそこに勤務する医者だ。患者を全力で救おうとするその姿勢は本当にかっこいいと思う。……携帯を忘れるような慌ただしいところがたまに傷だけど。
 私も踵を返す。受付にあるサーバーの水でも飲んで一息つこうかな。
 そうして、廊下の角を曲がったとき。
 見覚えのある顔が突然現れた。
「あっ……」
「梨花、先輩?」
 すらりと伸びた長身。肩あたりで切った髪型。くりくりの目は、今大きく見開いている。
 間違いない。
 梨花先輩だ。
「せ、先輩! お久しぶりですっ!」
「う、うん。久しぶり。元気にしてた?」
 私達は二年ぶりの再会だった。



 小峰梨花。朗らかに笑う人。
 私の憧れの人。いや、それどころかみんなから憧れられていたと思う。
 何を隠そう、梨花先輩は私も所属するバスケ部のエースだったのだ。動きの一つ一つが流線形を描くように動いて、それはもう見事だった。
 もちろんそういうプレーも憧れだったけど。もっと私が好きになったのは梨花先輩の人格だった。
 とにかく笑顔を浮かべる人だった。軽薄な笑みじゃなくて、心地の良い笑顔。試合に負けたときも、仲間を励ますためにずっとその笑顔を振りまいていた。人一倍努力している自分が、一番辛いはずなのに。
 私は梨花先輩のその優しさも強さも憧れになっていった。
 様々な出来事が重なって会うことができずにいたけれど。
 それどころか、もう会えないのかもしれないとも思っていたけれど。
 運良く出会うことができた。私は心から嬉しいかった。



 梨花先輩は青い患者衣を着ていた。見舞いやただの診察ではなく、ここに入院していることがわかる。
 特に体に傷とかは見られない。
 私の心配の眼差しを察してか、梨花先輩は自ら説明をした。
「全然大丈夫だよ。少し疲れちゃっただけだから」
「そ、そうなんですか」
 うん、と梨花先輩は笑顔を浮かべる。初めは動揺していたようだったけど、懐かしいその笑顔を見て私は不思議と安心した。
 実際自由に歩けているのだし、本当に大したことはないのだろう。私はそう思うことにした。
「中学のバスケ、最後の試合はどうだった?」
「決勝で負けました。やっぱり梨花先輩の存在は大きかったなあって、みんな口を揃えて言ってましたよ」
「はは、恥ずかしいな。高校に入ってからはどう?」
「もうすぐ最後の試合があるんです。勝ってみせますから!」
「おっ、期待しとくよー」
 楽しい会話を交わしながら、私達は病室へと辿り着く。梨花先輩はゆっくりとベットへと仰向けになった。
「あ、そうそう。何でこの病院に居るの? お見舞い?」
「この病院にお父さんが働いていて、忘れ物を届けにきたんです」
「へぇー……。お父さんに感謝しなきゃね。また会えたわけなんだし」
「ふふっ、そうですね」
 そういえば、と気になっていたことを尋ねる。
「何で先輩は転校しちゃたんですか?」
 梨花先輩は地元の進学校に入ったと聞いて、私もその高校に入ることになった。しかし、私が進学すると、入れ違うように梨花先輩は別の高校へと転校してしまった。誰に聞いても、理由はわからないようだった。
「ああー……、それはね……」
 と、歯切れ悪そうに梨花先輩は口ごもる。
「それに先輩は中学の頃も突然そっけなくなっちゃったし」
 私が中学二年生、梨花先輩が最後の試合を控えていた真夏の頃。梨花先輩はあまり交流しないようになった。私だけじゃなくて、部活のメンバー全員とまるで関係を切り離したがるように。
 元の梨花先輩が全くいなくなってしまったわけでもなくて。優しさや、笑顔はそのままだった。きっと、梨花先輩の周りの環境じゃなくて、自分自身の中で何かが変わってしまったんだと思った。だから聞きたくて仕方がなかった。
「どうしてなんですか?」
「……」
 梨花先輩はついに喋らなくなってしまった。
「先輩――」
「入るよ」
 私の言葉を途切れさせたのは、ドアを開ける音だった。目で追うと一人の男の人が立っている。
「ノックくらいしてよね」
「悪い。取り込み中だったか。後で来るよ」
 そう言って去っていく。
「今のって――」
 佐伯先輩、だろうか。確か、梨花先輩と付き合っていた人だ。今はもう別れているはず。いつ別れたのか、何で別れたのかはわからない。
「ごめん」
 梨花先輩は申し訳なさそうに言った。
「今日は一旦帰って欲しいな。ほら、待たせちゃ悪いし」
 私は梨花先輩に詰め寄り過ぎたことを反省して、その言葉に従った。
「また来てね」
 少しだけ悲しげな顔をしているのが、とても気がかりだった。



 短針が十二時近くを指す頃、お父さんが帰って来た。お父さんはテーブルに並べられた夕食を温め始める。私も席について、お父さんに尋ねることにした。
「小峰梨花、って人わかる?」
「ん? わかるもなにも俺がその人の主治医だよ」
「えっ、嘘」
「本当だよ。何で千尋が知ってるんだ?」
 お父さんは不思議そうに聞き返す。
「私の先輩なんだよ! 話したことはあると思うんだけど」
「あー、えー、そうだったか?」
「そうだよ……」
 慌ただしいに付け加えて、忘れっぽいという弱点も考えた方がいいかもしれない。
「で、どうなの?」
「何が?」
「病気とか……病状とか」
 お父さんは眉をひそめる。
「患者の情報はむやみやたらに言わないんだよ」
「むー。……まああんまり知ろうとするのもよくないか」
 そこで会話は終わる。お父さんはもくもくと夕食を口にし始める。
 私はそろそろ寝ることにしよう。
 そう思い立ち、部屋から出ていこうとすると、「待った」と呼び止められた。
「何?」
「思い出してきた。梨花ってお前の大好きな先輩だろう」
「えっ、う、うん」
 大好き、という印象だけがお父さんの中で残っているとしたら、凄く恥ずかしいんだけど……。
「親しかったのか?」
「よく話してたけど」
「……見舞いによく行くと誓うなら、話してやらんこともない」
 私は目の色を変えて飛びついた。
「行くっ。というかそのつもりだったし」
「……わかった」
 座りなさい、と私を促した。
 お父さんは箸を置いて、私と向き合う。神妙な顔つきになっていた。
「梨花さんはな――」

「――深刻な癌なんだ」

 私は言葉を失った。



 末期癌という耳慣れない言葉に、私の頭は理解が追いつかなかった。いや……理解したくなかっただけかもしれない。
 梨花先輩が抱える病気。それは日本人の死の大きな要因の一つ。癌、だった。
 癌が発覚した直後は余地があって、摘出に成功したという。しかし、癌は残酷にも梨花先輩の身体を蝕んでいた。
 全身転移。手の施しようがない程の状態。
 最近になってそれが確認されたらしい。

「余命はもって半年だ」
「そんな……」
「癌患者は心のケアも大事だ。――できれば側に居てやってくれ」
 私は頷くことも忘れて、その場で固まったままだった。
 梨花先輩が、癌。頭の中で何度も反芻する。
 ようやく呑み込めたのは次の日の朝のことだった。
 会いに、行かなくちゃ。



 病室のドアを開ける。梨花先輩はこちらに気づいてゆっくりと笑みを作った。
 私は一歩ずつ近づいていく。でもその足取りは思ったより重いものだった。泥水に踏み入れているかのような感覚だった。
 私は力なく座った。
「また来てくれたんだ。ありがとう」
「はい――」
 聞かなくてはいけない。握り拳を作りながら、口を動かす。
「癌、なんですか」
「――バレてた?」
「お父さんに教えてもらいました。――本当、なんですか?」
 お父さんが言うんだ。事実であることは理解していた。でも納得はできていなかった。本人の口からそうだと聞くまでは、納得なんてできるはずがなかった。
「そうだよ。それもエグいやつ」
 梨花先輩は躊躇することなく断言した。明らかに笑顔は消えている。
「もしかして転校したのって、病気療養とかが理由なんですか」
「――まあ、そんなところかな」
「す、すいませんでした」
 私は頭を下げた。
「ちょ、どうして?」
「私先輩がそんなことになってるとも知らないで、口うるさく聞いてしまって……。本当にすいません」
 いいって、顔あげて、と梨花先輩は言ってくれる。
「じゃあ、寿命のことも聞いた?」
「……はい」
「そっかー……」
 風でカーテンが揺れる。無言になった二人の空間を通り抜けていく。
 逡巡の末に、梨花先輩は言葉をゆっくりと発する。
「――天罰なんだよね」
「天罰、ですか?」
「うん、天罰。この癌は私にとって罰なんだよ」
 私は短い間に何度も思考する。天罰、とはなんだろう。何に対する罰なのだろう。私にとって完璧だった梨花先輩の持つ罪など、思いつくことは遂にできなかった。
 でも、その答えは突拍子もなさすぎて。私の虚を突いた。
「私――レズなんだ」
「……」
 まるで熱に支配されたかのように頭は沸騰してろくに回らない。今、なんて。
「レズビアン。同性愛者。――驚いて声も出ない感じ?」
「え、えっと……」
 レズ。レズって、あの。女の人が女の人しか愛せないという、あのレズなのだろうか。梨花先輩が?
「何かの冗談ですか?」
「私嘘つくの嫌いだもん」
 その通りだ。梨花先輩は嘘はつかない。
「ずっーと、隠してきたんだ。中学二年に涼君と付き合ってわかった。私男の人を好きになれないんだ、って」
「もしかして、別れたのって」
「そういうこと。……涼君、凄くショックそうな顔してたなぁ」
 そんな。
 そんなことって。
 頭がぐちゃぐちゃだ。何もかもを真っ白にしたい。いや、嘘という黒でも塗りたくってもいい。今胸の内にある灰色の事実を消し去ることができれば、何だってよかった。
「ねぇ、私のことどう思う?」
「……」
「突き放すならそうしてくれたほうが、私は気が楽だよ」
「いや、私が先輩を突き放すなんて――」
 言葉を詰まらせた。
 憧れだった梨花先輩は、果たして今居るのだろうか。現に私は梨花先輩のことを、底まで理解していたわけではなかった。なら、私の頭の中に居る、私の理想の梨花先輩は最早どこにも居ないのではないか。
 思い出が瓦解していく。元あった形を崩し、淡く揺れて消えていく。
「……失礼します」
 私が取れた行動は、逃げること、だった。
 目を背けることで忘れてしまいたかった。いっそ無かったことにできやしないだろうか。また明日くればいつも通りの笑顔を浮かべて迎えてくれる梨花先輩がいやしないだろうか。
 ……現実、なんだよね。
 だから私は逃げている。背を向けて走り出している。
 病室を出ると佐伯先輩とぶつかりかけた。
「……ごめんなさい」
「あ、ちょっと」
 呼び止められたけれど、私は足を止めなかった。振り返ることもなかった。
 現実を知った私にできることは、その現実から遠退くことだけだったのだから。



 二週間経った。日常は淡々と繰り返して、私が知ったことなんて無かったことなんじゃないかという気もしてくる。でも私を現実へと再び戻したのは、お父さんが家を飛び出したそうとするその日のことだった。
「どうかしたの」
「梨花さんが倒れた。手術することになるかもしれん」
「えっ」
 お父さんの顔は真剣そのもので、刻一刻を争うことを予感させた。
「わ、私も行く」
「……お前見舞いには行ってあげたんだろうな」
「そ、それは」
 私は梨花先輩のことを思い出すだけで、胸が苦しくなった。そんな状態で行けるはずもなく、私は梨花先輩の告白以来、一度も病室を訪れたことはなかった。
「……まあいい。車に乗れ」
「……うん」
 行く権利などあるのだろうか。
 そう思いながら、未だに告白を嘘と言う梨花先輩に期待している自分がいることに腹が立った。
 下唇を強く噛んだ。

 手術室前のソファーに私は座る。赤色のランプが不気味に光り、影を作った。
 しばらくすると佐伯先輩が駆けつけた。息を切らして、私を一瞥した後、すぐに私の傍へ歩み寄った。
「容態は……!」
「良くはない……みたいです。乗り切れるかは、半々といったところって」
 お父さんはそれ以上の説明はせず、手術室へ走っていった。
「……ありがとう」
 佐伯先輩はソファーに腰掛け、力なくうなだれた。
 沈黙が続く。心臓を冷たい手に握られたような緊張感に包まれていた。
「――あのさ」
 唐突に佐伯先輩は顔を上げた。
「鈴村千尋、で合ってる?」
「は、はい、私の名前です」
「部活の後輩だったんだよね」
「はい」
 佐伯先輩は深く座り直す。
「梨花がよく言ってた。小柄で無邪気な後輩だって」
「私は佐伯先輩のことよく聞きましたよ。しっかりとした落ち着いた人だって」
 少しだけ静かになって、私達は小さく笑った。
「何だか恥ずかしいね」
「そうですね」
 こうやって面と向かって話すのは初めてのことだった。
「聞いたんだよね、梨花のこと」
「あのこと、ですか?」
 うん、と佐伯先輩は頷いた。
「やっぱり知ってたんですね。佐伯先輩も」
「そうだね。知っているのは君と、俺と、梨花の両親くらいだけど。……どう? そのこと知って」
 私は言葉に困った。
 複雑な感情から上手く言葉を作れない。何が本音で、建前なのか。その境界線は自分でも曖昧になっていた。
「……わかりません」
 それが正直なところだった。
 でも佐伯先輩はそれ以上問い詰めることはなく、そうだよね、と理解を示してしてくれた。
「俺も初めて聞いた時はそうだったなぁ。言い表せないけど、こう……、色々ぐちゃぐちゃになるっていうかさ」
「佐伯先輩もそうだったんですね」
「うん。真夏の頃だったかな」
 佐伯先輩は遠くを眺めるような顔をした。
「その日は夏祭りだったんだ。俺が誘って、梨花は笑顔で応えてくれた。屋台を回ったり、花火を眺めたり。凄く良い雰囲気だったと思うんだよ。でも、帰り道にさ。突然握っていた手が振りほどかれたんだ。振り向いたら梨花は子供みたいに泣きじゃくってた。何でって聞いたらさ」

『私、涼君のこと好きになれない』

「辛かったよ。でも自分がレズであることを自覚した梨花こそ辛かったろうね。……あの時の俺はそんなこと考えることもできなくて。気づいたら夜道で一人になってた。何か声をかけることもできなかったんだ」
「……それは、辛いですよね」
「まあね」
 と、佐伯先輩は苦笑する。
「秘密を知っているわけだし、その縁あって別れた後でもよく話すよ。見舞いにも行くし。それに――支えてあげたいって思うんだ」
「支えて……」
「うん。梨花は普通であろうとした。だから俺と付き合った。けど、本当の自分は違うことを知ってしまった。見える世界が逆さまになる思いだったと思う。だから、俺が少しでも支えられたらって。何も言うことができなかった自分は、もう懲り懲りなんだ」
 佐伯先輩の意思は固いものだった。
「今度は君の番だよ」
「わ、私ですか」
「うん。君のこれからはどうするの」
 ……考えて、わかる。
 そうか。私は現実から逃げ出したと同時に、答えを出すことを拒んでいたんだ。これからのこと。これからの梨花のこと。どう思うか。どう接するか。その答えをずっとうやむやにしたかったんだ。
「私は……」
 言葉が喉元でつっかえる。
 支えてあげたい、そう言えばいいのに。私はいつまでも口が動かないまま。
 本当に支えることができるのだろうか。私の中の梨花先輩は、今や幻のように揺らめく。梨花先輩が世界が逆さまに見えているなら、私は歪んで見える。
 そんな私が――支えることなんてできるの?
「わたし、は――」
「考えてみてほしい」
 佐伯先輩は私の言葉を塞いだ。
「梨花が告白したその重みを」
 佐伯先輩は目線を合わせてくる。訴えかけてくる。
「中学の頃に突然梨花が話さなくなった時があるだろ」
「……はい、ありました」
「ちょっどその時に、梨花はレズだとわかったんだ」
 時期的には確かにぴったりだ。
「もう意味がわかるよね。みんなから離れようとした意味が」
「……はい」
 梨花先輩は私達と接する度に、心が締め付けられる感覚を覚えたはずだ。話す度に、自分がレズという事実を脈打つように頭に叩きつけられる。だから、離れようとした。……そういうことだろうか。
 その旨を伝えると、佐伯先輩は小さく頷いた。
「じゃあ、第二問だ」
「えっ、あ、はい」
「君が高校に入ったとき、梨花は転校したでしょ。その理由は?」
「療養のためではないんですか?」
 違うよ、と佐伯先輩は否定する。
「梨花は君が同じ高校に入ってくることを知って、別のところへ行ったんだ」
「そ、それって」
「そうだね」

「梨花は君のことが好きだったんだよ」

「小柄で無邪気な女の子に恋をしてしまったんだ。――その本人にレズであることを打ち明けたんだよ」
「――ッ」
「その告白の重みが、わかったでしょ?」
 梨花先輩――。
 やっぱりあなたは、優しくて強い人です。
 私が知らないことがあったとして、その根本は全く変わってなかったんですね。
「ううっ……」
 あの笑顔がまた見たい。
 心地の良い笑顔をまた浮かべてほしい。
 優しさも強さも、私に見せて欲しい。
「梨花先輩――」
 私は溢れ出る涙の中で、再び会えることを強く願った。
 なんてワガママなんだろう。
 でも、それでもいい。
 私、あなたに会いたいです。もう一度だけでも。
 その朗らかな笑顔を、もう一度だけ。

 お父さんが出てきた。汗をかいて、容易にはいかなかったことがわかる。
「一命はとりとめた」
「……! よかった……!」
 横目で佐伯先輩を見ると泣きそうな顔をしていた。
「ただしばらくは安静にしないといけない。少しだけ待ってろよ」
「うん」
「わかりました」



 一週間後、お父さんから面会の許可を貰った。私はその日に学校が終われば急いで病院へと向かった。
 ノックをする。
「どうぞ」
 と、声が返ってくる。
 私はそのドアを開けた。
 梨花先輩は目を見張る。驚きを隠せていないようだ。疲れきった顔、痩せた体、頭はニットで隠されている。……闘ってるんだ、私の知らなかったところで。
 私は席に座った。
「――驚いた。もう来ないかと思った」
「迷惑、ですか?」
 梨花先輩は首を振った。
「嬉しいよ。……迷惑だったのは私の方。千尋を無意味に混乱させちゃったんだもん。私が悪いんだよ」
「先輩は悪くありません!」
 私は声を荒げてしまう。
「私が全部悪いんです」
「どうして?」
「私は今までの梨花先輩が嘘なんだって思ってしまいました。でも、そんなことなかった。梨花先輩は強いままでした。優しいままでした。知らないことがあったからって、見限ったのは私なんです。私が全部、全部悪いんですよ」
 だから、と付け足す。
「これから償わせてください。出来る限りのことはしたいです。梨花先輩のために、したいんです」
「……そう」
 梨花先輩は徐々に笑みを取り戻していく。
 そう、この笑顔。これが私は見たかったんだ。
「じゃあ、まずは色々話そうか。――隠し事無しで」
「はい。……って、隠し事無しってどういう!?」
「そりゃそうだよー。私は秘密言ったんだから、千尋にも秘密の一つや二つ言ってもらわないと割りに合わないなぁ」
 悪い笑顔を浮かべてる。こんな顔もできるんだ……。
「それじゃあまずはコイバナからいこうかな。本音で話してよ~」
「うう、お手柔らかに……」

 私達は様々な話題を話した。
 私の所属するバスケ部の成績、後輩や先輩のこと、学校生活の愚痴、それから、コイバナも。
 楽しくって仕方なかった。看護師さんから少し注意されるくらい、話が弾んでしまった。
 梨花先輩だ。私の記憶の中に生きている梨花先輩に違いなかった。秘密を抱えてても、難病を抱えてても。梨花先輩はここにいた。
 そして、夕暮れがやってきて、私は帰ることにした。
「ふぅ、笑いすぎて喉が痛いよ」
「今度のど飴買ってきますよ。ずっーと、話続けましょう」
「おっ、コイバナの続きでもする? 将来の婿さん談義でもしちゃう?」
「か、勘弁ですよー」
 はははっ、と梨花先輩は笑う。敵わないなあ、この人には。
 そして、さようなら、と言おうとしたとき、梨花先輩は提案をした。
「――ハグ、しない?」
「えっ――。うーん……、いいですよ」
「ほ、本当に? いいの?」
「はい。思いっきりどうぞ!」
「変なとこまさぐるかもよ?」
「それは……嫌ですけど」
「ありゃ、勢いじゃだめかー」
 私はゆっくりと梨花先輩に近づいた。
「それじゃ、いくよ」
「はい」
 何故か鼓動が逸る。
 少しずつ身を寄せ合って、手を伸ばす。
 ゴツゴツした肩甲骨にぶつかる。梨花先輩の体は明らかに脆くなっている。
 でも、生きている。仄かな温かさも。脈打つ感覚もある。確かに梨花先輩は生きようとしているんだ。
 梨花先輩――。この熱も感触も、消えてしまうのだろうか。いつか忘れてしまうのだろうか。
「ぐすっ」
 初めに泣き始めたのは梨花先輩だった。
「ごめん。ごめんね。なんか、すごく、悲しくなっちゃってさ」
 耳元で呟くように伝えてくる。
「先輩、泣かないでくださいよ……。私も……泣きそうになっちゃいます」
「うん、ごめん……ごめん」
 二人の嗚咽がじきに混ざって。
 この時間は永遠に感じられた。



 日々は過ぎていく。私は可能な限り病室へと出向いた。その度に梨花先輩は笑顔で迎えてくれた。毎回話は大きく盛り上がって、本当に楽しい空間だった。
 話すだけではなくて、色んなことをした。例えば、病室の窓から花火を眺めた。流れ星も見たりした。高校最後のバスケの試合を映像に撮って、病室で映した。結果は優勝だった。梨花先輩はまるで自分のことのように喜んでくれた。
 あとは、中学のバスケ部のメンバーを集めてクリスマスパーティとかもした。
 梨花先輩の目は輝くようになっていった。でも同時に、体がだんだん弱くなっていっていることも、気づいていた。
 そして時々ハグをした。体温も感触も忘れないように。涙はやがて流すことはなくなった。幸せだけが段々と込み上げてくるようになったからだと、私は思う。

 そんな時間はすぐに過ぎていって。
 再会から半年。梨花先輩の寿命が近づいてきていた。



 お父さんからの電話を受けて、私は飛び出すように学校を抜け出した。
 病院には先に佐伯先輩とご両親がやって来ていた。
 以前とは真逆の状況だった。
「佐伯先輩――」
 佐伯先輩は顔を上げた。目を真っ赤にしていた。
「今日が山場だって」
「先輩は、戻ってきますよね!?」
「……待とう。待つしかないよ」
 あの時とはまるで違う空気感に包まれた。もう一言も喋ることはなかった。
「先輩……」
 まだ話したりません。まだ一緒に居たいんです。
「でも梨花は、頑張ったよ」
「……そうですね」
 確かに佐伯先輩の言うとおりだ。梨花先輩は生きて生きて、生き抜いてみせた。
 どんな結果になったとしても、受け入れよう。
 数時間後――。
 手術室のランプが消えた――。



 それからはあっという間だった。
 梨花先輩の顔は穏やかな顔つきだった。笑顔は浮かべていないけど、苦しみから解放されたような、そんな顔だった。
 お通夜に行って。ご両親に話しかけられた。
「自分が死んだら伝えてくれって」
「『私のことは忘れて生きてね』と、言い残したよ」
 そんな、無理ですよ。
 三日経てばきっと梨花先輩に対しての涙は枯れて。
 三週間経てばきっと気持ちは落ち着き始めて。
 三ヶ月経てば記憶は薄れ始めて。
 三年経てばもう忘れているかもしれない。
 みんなはそうかもしれない。
 でも私は無理です。絶対に。私はあなたのことを忘れたくなんかない。
 私は今、お墓の前に座っている。もっと話したかったなあ。もっと梨花先輩のこと知りたかったなあ。
 涼しい風が頬を撫でて、綺麗な花を揺らした。

 小峰梨花。朗らかに笑う人。
 私の憧れの人。
 強さも優しさも持っていた。今でもあなたは私の憧れなんですよ。
 朗らかなあの笑顔は、今もなお私の胸の内にある。

朗らかに笑う人

朗らかに笑う人

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-09

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著作権法内での利用のみを許可します。

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