三国志じいちゃんと僕
その1>いりぐち
「ノリちゃん!そろそろお布団に入りなさい!」
階下からママの声が聞こえてきた。
徳は遊んでいたおもちゃを渋々と片づけ始め
虎太郎(オス猫・3歳)を(半ば強引に)引き連れて、ベッドに潜り込む。
まだ、眠くなんかないんだけど
部屋の壁の向こうからトントントン‥と足音が聞こえてくると
開けっぱなしのドアの外から、ママが顔を出した。
既に真っ暗になった部屋の隅
大きな窓を頭にしたベッドの中に、こんもりとした塊を認めると
ホッと息をついて「おやすみなさい、また明日ね」
と 優しい声が塊に向かって振りかけられる。
どうやらママは、徳が行儀よく眠りについたと安心したようだ。
いつものことながら、ママはやっぱり“お人よし”だ
そんなに早く言う事を聞いて眠るはずがないって
きっと 徳が大人になっても疑わないに違いない。
「ニャ‥」
「しーっ」
布団の中で虎太郎が抵抗を始めたので、これが限界…と
虎太郎もろとも 布団を跳ね上げた。
「…」
幸い、ママはもういない。
静かに扉を閉めて 階下に降りて行った後だった。
「ぷはー
虎太郎もやっぱりまだ眠くないんだね?」
真っ暗闇にポトンと小さな音を立てて、虎太郎がベッドから飛び降りた。
全身をブルッと震わせて ぼさぼさになった毛並みを揃え始める。
暗い部屋の中に、ザリザリと毛づくろいする音だけが聴こえるのはちょっと不気味だ。
徳は慌ててベッドの脇の電気スタンドをつけた。
「ほら、まだ9時じゃないか。こんなに早く眠れるのなんて、3歳児までだぞ」
徳は今度の冬で、5歳になる。
本人は、5歳と言えば
立派な『大人子ども』だと思い込んでいる。ちなみに『大人子ども』というのは
年齢や体は子どもでも、頭の中身は大人になっているという
何処かの人気漫画の主人公みたいなものの事らしい。
勿論、徳が勝手に作った言葉だが
通う幼稚園では流行語大賞まで取った程の快作なのだ。
さて。
眠くない、けどバタバタと遊ぶ訳にはいかない
(ママに見つかったら一大事だ)
そんな夜のお楽しみは、本を読むこと。
しかも、ちょっと難しい“ご本”を読むことだ。
昼の間に、パパの書斎に忍び込み
これだと思った一冊をコッソリ借りてくる。
大きな本棚に収められた立派な本たちが
パパの手の上でめくられている所を見た事がないので
一冊くらい無くなってても気付かないだろうと
試しにやってみた。大成功だった。
それ以来、週に一度は『パパ図書館』から無断で一冊借り出している。
(実際、気付いている様子は無い)
“ご本”には難しい漢字や、平仮名でもどう読んだらいいか分からない言葉がびっしりで、内容の半分も理解できない。
でも、持ち上げられない程の重たさや
カッコイイ表紙を開くと広がる古いインクの匂いなんかを感じるだけで
何だかすごく頭が良くなっているような気がして
それだけでも徳は満足している。
そろそろ、ちゃんと読めるようになってるはずなんだけどなぁ
などと思いながら、おもちゃ箱の底に隠しておいた
『今週の一冊』を両手で持ち上げた。
『三国志演義』
『さん・こく』までは読める(ようになった)。
多分、何処かの国のお話だ(そりゃそうだ)。
こないだちょっと開いてみたが、今までのご本よりも
漢字がたくさん詰まっているようで
何となく、怖いのだが。
徳は意を決して最初のページをめくった。
と。
「子ども、そこな子ども」
何処かで声がする。‥いや、徳には確実に判ったのだが
あえて気付かないふりをして辺りを見回した。
毛づくろいを終え 虎太郎はいつの間にか
電気スタンドの灯りが届かない所で、丸くなっている。
虎太郎が喋ったとしても、それはそれで怖いと徳は思った。
するともう一度、今度はぐいっとパジャマの袖を引っ張られた。
「気付いておるのだろう、子どもよ?」
「…」徳は恐る恐る本に向き直る。
そうだ、やっぱり 声はココから聞こえているのだ。
「…誰?」
震える声を抑えつつ、聞いた。
相手が少し笑ったようで、空気が少しだけ揺れた。
「恐れることは無い。私はこの書物に描かれている者だ」
「‥ココに、出てくる人なの?」
「そういうことだ。
そなた、これから物語を読もうとしているのだろう?」
「‥うん」
「ならば話が早い。
どうだ、少しこちらに来て我々の相手をせぬか?」
「…僕が、そっちに行くの?」
「そうだ」
「行けるの?」
「そうだ」
「…そっちに行ったら、またココに帰ってこられる?」
そこまで問うと、相手はしばらく押し黙り 何やら考えているようだ。
どうやら、そこらへんの保証は出来ないらしい。
しかし
もしかしたら、帰って来られないかもしれないと言う心配なんて
せっかく開いた不思議な世界の入口を前に
子どもの好奇心が負けるはずがなかった。
「いいや。とりあえず行ってみる」
「ほう。来るか」
「うん、ちょっと待ってね」
徳はそう言うと、まずベッドに乗っかっている大きなクマのぬいぐるみを
いつも徳が寝ている場所に寝かせ 上からふんわりと布団をかけた。
そして、音を立てないように
洋服ダンスからお気に入りのシャツとズボンを取り出すと そそくさと着替え
暗闇に寝ている虎太郎を無理やり起こして、言った。
「虎太郎、僕が帰って来なかったら ママとパパのこと頼むぞ。
…あ、ついでに兄ちゃんのことも」
起こされて不機嫌な虎太郎は、眠そうに眼をしばたかせ
口を半開きにした。多分、ニャーと鳴いたつもりなのだろうが
寝ぼけてかすれた声は、残念ながら徳には届かなかった。
「お待たせ。どうやって行ったらいいの?」
徳がそう呼び掛けると、本の中からニュッと腕が伸びてきた。
「私の手につかまれ」
言われた通りにその腕をつかむと
「目をつむっているがよい」と続けて聞こえ、返事をする前に
すごく強い力で引っ張られた。
「う、わぁ!」
頭がグニャグニャするような、気持ち悪い感じがして
徳は涙が出そうになった。
必死にこらえて目をつぶる。
・・・・・
「‥子ども、子ども!」
随分長い時間だったような、ほんの一瞬だったような空白の後
再び声が聞こえて、目を開けた。
「着いたぞ」
「…」
真っ白な部屋のような場所に、大きな人が4人居た。
物珍しそうに 徳の顔を覗き込んでいる。
「よく、来たな」
さっき話していたのと同じ声だ。
ようやく姿が見えた。かがんでいるのでよく分からないが、すごく背が高そうだ。
長い黒髪をたらし、渦巻き模様のついたおかしな帽子を被り
フワフワした羽のうちわみたいなものを持っている。
「…おじさん達は、誰?」
徳は尋ねると、今度はその後ろに居た これまた大きな人が声を掛ける。
赤ら顔ですごーくヒゲが長い。徳がこれまでに見た事ないくらい、すごく大きい。
「こら、人に名前を尋ねる時は まず自分から名乗るものだぞ」
低くてよく通る声にそう言われ、徳は思わず肩を震わせた。
「まぁまぁ、ヒゲ殿」
そこを制して、髪の長い人が続ける。
「怖がることはない。関将軍は、本当は優しいお人だ」
関将軍、と呼ばれた人は照れくさそうに 自分のヒゲを撫でる。
「私は、諸葛孔明と言う。元は農業をしていたが、今は縁あって
この方たちと 国を立て直す為に奔走している」
「‥かんしょうぐん、さん。しょかつこうめい、さん」
徳は聞かされた名前を復唱した。
聞き慣れないので、何だか覚えにくい。
「こちらが、張将軍」
孔明が示した先に また大きな人が腕組みして構えている。
どんぐり眼に短い髪、口の周りのヒゲと言う顔は 何だか虎に似ている。
「よぉ」
「ちょうしょうぐん、さん」
睨まれているのかと怖がっていた徳に掛けられたのは、
何とも柔和な挨拶。意外な気がして、思わず笑ってしまう。
「そして、こちらが‥」
孔明の紹介を引き継ぐように、最後の人が挨拶してくれる。
「劉玄徳だ。よろしくな」
4人の中では一番優しそうな風貌をしていて、徳はようやく安心した。
耳がすごく大きい。こういうの、確か『ふくみみ』とかって言った気がする。
などと考えていた鼻先に、これまた大きな右手が差し出された。
「りゅうげんとくさん、よろしくお願いします」
徳は、その玄徳の右手を握り返した。
一同を改めて見回した後、徳はコホンとひとつ咳払いをして、
「僕は、徳です」と言った。
「のり、と言うのか」
玄徳がそう言って笑顔を見せる。徳もニッコリ笑顔で返した。
「はい。菜摘 徳、5歳です!」
「ははは、“のり”は元気が良いなぁ」
徳の返事を聞いて、玄徳は愉快そうに声を上げて笑った。
そんな二人の様子を少しの間一緒に微笑みながら見ていた孔明が、徳の真似をしたようにコホンと咳払いして言う。
「我々がいるこの世界は戦乱の地だ。
しかしどういう訳か、時折静かになって平穏な時間が訪れる。今がまさにその時。
“のり”よ、我らがこの物語世界を案内してやるから、楽しむが良いぞ」
「はい!」
徳が元気よく返事をすると、真っ白だった部屋がぱぁっと開けて
色鮮やかな街の景色に変わっていった。
その2>こっちの世界
大きな門から屋根から、とにかく朱色が際立つ建物だった。
門の扉は開かれているものの
徳と孔明たちが到着すると、一人の男の人に呼び止められた。
「劉玄徳とその一行か。何用だ?」
彼は関将軍(ヒゲ殿)や張将軍などと同じような、いかつい鎧を身にまとっている。
お城の門番みたいな人かな?
徳は、昔絵本で見た西洋のお城とそこで見張りをする兵隊姿の画を思い浮かべていた。
「急ぎ丞相殿にお目にかかりたいのだが」
唯一名前を呼ばれていた玄徳が、よどみなく答えた。
「急ぎの用とは?」
門番は尚も質問を浴びせてくる。
今度は孔明が進み出て、言い含めるように返答した。
「今は『休息時間』ですぞ。お気づきではないか?」
「…」
徳にはよく分からなかったが、その言葉は門番を納得させるのに充分だったようで
そのまま黙って、通してくれた。
『きゅうそくじかん』ってなんだろう?
孔明さんがさっき言ってた『へいおんなじかん』と同じ事だろうか。
徳がぼんやりと考え込んでいるのを見つけた張将軍が
「のり坊、どうした?」
と尋ねてきた。はっと我に返った徳が「ううん、何でもない」
と大人びて答えるので
「ほらほら、急ごうぜ!」と言ったか言わないうちに
ひょいと抱え上げて肩車をした。「うわぁ!」
一気に地面から引っぺがされたような気になって
たどり着いた先には、虎の顔が徳を待ち構えていた。
「ははは、気をつけろよ」
関将軍が笑う顔も、さっきより近くに見える。
見た目はちょっと怖いけど、張将軍は割と子供心が解っているみたいだ。
広い広い石畳の道は、奥にそびえる朱い建物に向かって伸びている。
普段より高い位置の風を浴びながら、徳は進んでいた。
◆
「丞相、玄徳の一行が目通りを申し出ております」
「‥玄徳だと?」
文机に向かい何やら筆を動かしていた男が振り返る。
他意はないのだろうが、その視線はいつでも相手を射すくめるようで
その瞬間 ピリリとした空気が広がるのだ。
が、次の瞬間 ふっと息を吐いて言った。
「‥休息時間だったな」
彼の様子を確認すると、声を掛けた方の男もホッと息をついた。
左目の方を眼帯で隠したその男が、徳たちの前に戻って来ると
いかつい顔に不思議な笑みを称えて 奥へ案内してくれた。
この世界に来てからと言うもの、怖そうな顔ばかりに出逢う。
ただ、いざ話してみるとみんな驚くほど優しいのだが。
◆
「…」
そこは、徳が今までに見た事が無いくらい広いひろい
いわゆる『宮殿』と言う雰囲気の部屋だった。
頑丈そうな柱や装飾の鮮やかな朱色が、まず目に飛び込んでくる。
目がチカチカする
徳は一度目をつむり、フルフルと頭を振った。
「曹丞相、ご無沙汰しております」
玄徳が一同から一歩前に進み出て、何やら不思議な仕草をしながら挨拶をした。
徳が怪訝にしているのを察したのか
「あれが、この世界での挨拶だ」と言う、孔明の小声が徳の頭の上に届いた。
ふぅん‥と徳も頷いて応える。
「‥ふん、『休息時間』でなければ貴様に此処の敷居はまたがせぬ」
徳たちよりも一段も二段も高い壇上に居る
その人の声は涼やかと言うより冷ややかにによく通り、徳を含めその場に居た全員の背筋を凍らせた。
徳は怖くて、その人の顔が見られないでいる。
しかし、これまた凛としてよく通る玄徳の声が穏やかに答えた。
「勿論、承知しておりまする」
玄徳がにっこりとして返した後、
「私とて、今でなければ此処に来る気は毛頭ありませぬ」と
少し声色を変えて付け加えたのを、徳は聞き逃さなかった。
この二人は、仲が悪いのかなぁ
怖くて、何だかお腹が痛くなってきた。
「…おっと、失礼。今日は客人を連れて参りましたのでな」
にらみ合う二人の間に割って入るようにして、
今度は孔明が言った。
「客人とな?」
壇上の彼は視線を孔明に向けて聞き返す。
「こちらに」と促されて徳は孔明の隣から、玄徳の前に出された。
鋭い視線が一気に徳を見つめる。
恐る恐る、目の前の人物を見上げた。
その男の人はきっちりとまとめ上げた黒髪に整った口ひげをたくわえ、
この部屋に負けないくらい鮮やかな色の着物と冠を着けていた。
切れ長の眼が睨み付けるように徳を捉えている。
目を合わせた瞬間、ピリピリと張り詰めた空気を感じた気がしたが
その次の瞬間、ふわりと緩んだ。その人が笑ったからだ。
「よく、来たな」
おじいさん‥と言うには少しだけ若いのかな?
何よりもその目力の強さが、彼の年齢を不詳にさせている気がする。
「うん‥
あ‥いえ、はい」
消え入りそうな声で返事をし、先ほど玄徳がしたように
見よう見まねの拝礼をする。あまり上手くいかなかった。
「ははは、良いよい。楽にせよ」
徳の様子を何処か愛おしむように微笑みかけ、
その人は壇上から降りてきて、目の前まで歩み寄って来た。
「殿!」
鋭く諫める声を聞いて、徳がビクリと肩をすくめた。
そこには目の前のおじさんより少し大きな‥やっぱりおじさん。
眼帯をして鎧を着けているので、恰好からして怖かった。
「良いではないか、元譲」おじさんを制するように手をかざし
徳に向き直って、その人はこう名乗った。
「わしは、曹孟徳」
「そうもうとく‥さん」
「そうだ。そなたの名前は?」
問い返されたので、徳は背筋を伸ばして応えた。
「徳。菜摘徳です」
「なつみ、のり…ふむ」
孟徳さんが口ひげに手を当ててふむふむと更に頷く。
そして、隣に控えていたさっきのおじさんに言った。
「ほれ、そなたも」
眼帯のおじさんは、渋々と言った雰囲気で
「俺は夏侯元譲だ」と名乗ってくれた。
「かこうげんじょうさん」
「わしの一番の腹心だ」
孟徳さんが付け加えると、元譲さんは何処か誇らしそうに胸を張った。
徳には『ふくしん』の意味がいまいち解らなかったが、
信用されている部下ってところかな‥と心の中で解釈する事にした。
ココでそんな事を聞いてしまったら、何となく変な空気になりそうだ。
とりあえず、子どもっぽくこう言っておく事にする。
「ふぅん‥仲良しなんだね?」
徳の言葉を聞いた二人が一瞬顔を見合わせ、
そして声を上げて笑った。
「徳は面白いな。
時が来るまで、玄徳たちと共にゆるりとせよ」
膝をつき徳と目線を合わせていた孟徳さんが立ち上がり
再び涼やかな声で言い放った。
その3>きゅうそく時間
「ねぇ、張将軍さん」
「-“さん”は要らんぞ、のり坊」
中庭がよく見渡せる離れの部屋に案内され、徳たちはしばらく思いおもいに過ごしていた。
玄徳は孔明と部屋の奥で何やら話し込んでいる。
関将軍はクマのように庭を歩き回っては立ち止まり、興味深そうに何かを眺めてはフムフムと長いヒゲをしごいている。
徳と張将軍は、並んで縁側に座って日向ぼっこをしていた。
徳は改めて聞き直す。
「じゃぁ…張将軍?」
「うん、何だ」
「『きゅうそくじかん』って、何?」
徳の質問に張将軍は途端に顔をしかめた。
「…ん? そりゃアレだ…。その、…なぁ、雲長兄貴!」
そして、すかさず関将軍を呼び寄せる。
「何だ?」話の途中から巻き込まれた形になって、関将軍は何の事かと首を傾げた。
張将軍の決まり悪そうな顔を見て、今度は徳が問いかける。
「関将軍は『きゅうそくじかん』のこと、知ってる?」
関将軍は徳たちの方へ近寄りながら、またもやヒゲをしごいて考える風をした。
これは、彼のクセかも知れないな…と徳は思った。
「この世界で時折訪れる静寂の時間だ。皆、いつの間にか心得ておるようでな。
その間は戦が止むようになったのだ」
「へぇ?何でだろう?」
「うーむ…」
今度は関将軍も答えに詰まってしまった。そこへ、ふわりと柔らかい風をまとって孔明が歩み寄る。
「それにはおそらく、“のり”の住む世界が関係している」
「僕の住む、世界…?」
孔明の言葉の意味が徳には解らなかった。
徳がさらに問いかけようとした時、庭先に入ってくる別な足音が聴こえた。
「“のり”よ」
「あ、孟徳さん」
孟徳は庭の中まで入って来ず、こっそりと呼び出すように徳に声を掛けた。
さっきの物々しい雰囲気とは何処かちょっと違っていた。
「少し、わしと話をせぬか?」
徳は一度孔明たちの方を見て様子を窺った。すると孔明が、室内の奥に居た玄徳の方に視線を移す。
徳に玄徳の細かな表情までは見えなかったけれど、孔明は心得たとばかりにひとつうなづき、
「行っておいで」と送り出してくれた。
「-はい!」
徳は孟徳の方へ駆け寄りながら、
もしかしたら今が『休息時間』でなかったら、この人たちは敵同士なのかも知れない…と考えていた。
◆
広いひろい宮殿の奥の方に、また別の部屋があった。
全体的に赤や金色の派手な装飾で飾られていた今までの部屋とは違い、ここはシンプルで落ち着いていた。
他の部屋もキラキラしてキレイだと思ったけど、徳はこういう部屋の方が好きだった。
「向こうの離れよりも少し陽当たりが悪いが…“のり”よ、寒くはないか?」
「大丈夫です」
徳が背筋を伸ばして答えると、孟徳は「そうか」と頷いた。
「-此処は、わしの隠れ家なのだ」
「かくれが?」
徳は少し大きな声で聞き返すと、部屋の入口に立っていた元譲がちらりとこちらを見た。
徳と目が合うと、瞬間的に厳しい視線を送ってきた。
一連の様子に気が付いた孟徳は、徳に笑いかけて頭を撫でてくれた。
「気にせずともよい。少しくらい騒いでも構わぬよ」
「でも…」
「元譲は元々ああいう顔だ。悪気は無い」
言われてみれば、確かにそうだ。
彼は恐らく見張り番の役目をしているのだから、いろいろと目を配るのは当たり前の事だろう。
そう思い直してもう一度元譲の方を見ると、今度はまたあの不思議な笑顔を向けて徳を見返してきた。
そう、別に怒っている訳ではないのだ。
「此処はわしが独りで考え事をしたり、休んだりする時に使う部屋だ」
「ひとりで?」
「うむ」
小さな部屋をぐるりと見渡し、徳が所在なく立ち尽くしていると
「-こっちへ」
と、孟徳が手招きして呼び寄せた。
部屋の中には机と反対側に置いてある簡素なベッド(とはこの時代に言わないだろうけど)だけ。
そのベッドの方に腰掛けるように指示され、徳は遠慮がちに従った。
腰掛けると、足が床に届かなかった。
徳の様子をじっと見つめていた孟徳が尋ねる。
「“のり”は、わしが怖いか?」
徳は一瞬ドキリとしたが、少し考えてから思い切って首を振った。
「ううん」
「そうか」
確かに初めは、すごく鋭い目をした怖い人なのかと思っていた。
けれど、徳に話しかける時は膝をついて目線を合わせてくれたり、少し小さな声でゆっくりと話してくれる。
きっと、本当は優しい人なんだろうな…と考えていたところだ。
「孟徳さんは怖くないよ。でも、とってもえらい人なんでしょう?」
徳が言うと、孟徳は少し意外そうな顔をした。
「偉い、と言うのが何を意味するのかにもよるが…
国を治める役割であることは確かだ」
「そういう人には、ちゃんとした言葉づかいとかしなきゃいけないから…何だか緊張しちゃって」
もごもごと口をすぼめて言う徳を、孟徳は思い切り笑い飛ばした。
それが思いのほか大きな声だったので、徳だけでなく外に居る元譲も驚いた。
「そんな事を気にするでないぞ。“のり”が喋りたいように喋ればよいのだ」
「…ホント? 怒らない?」
「怒るものか。わしは、そなたと気兼ねなく話したいのだ。
だからこそ、此処へ呼んだのだぞ」
孟徳はもう一度、徳の頭を撫でて答えた。そこで徳はようやくホッと息をついて、
「うん!」
と元気よく満面の笑みを浮かべた。それを見た孟徳が、満足げに頷く。
「-今はもはや、やたらとわしに気を遣ったり、恐れおののいたりする者ばかりで
対等に話せる相手などほとんどおらぬようになったのでな」
孟徳はボソボソと呟くようにそう言った。
もしかしたら、敢えて徳には聞こえないように言ったのかも知れない。
けれど、徳には孟徳の言葉もその意味合いも何となく理解出来ていた。
「…孟徳さん、寂しい?」
「…」
子どものまっすぐな言葉に、初め何と言って答えていいか迷っているような様子で
孟徳の視線が少しだけ左右に動いていた。
その間、部屋の中は何の音もしなかった。
もしかしたら怒らせてしまったかも知れない…
そう考えてドキドキする自分の胸の音だけが、徳の耳に響いていた。
けれど
「-そうだな、そうかも知れぬ」
やがて観念したように、孟徳が眉尻を下げて苦笑いする。
「初めは国を良きものにするべく、がむしゃらに闘い続けていた。
次第に付き従う者が増え、自分の位が上がっていき、わしの一言(いちごん)に
何千、何万もの人間の命運がかかってくるようになった」
そう話す孟徳の視線は、まっすぐ遠くを見つめている。
さっきみたいに迷っているようなものでは無かった。
「そうなれば、おいそれと与太話などしてもいられなくなるものだ」
「よたばなし?」
徳が首を傾げたので、孟徳は少し考えてから言葉を変えて言い直した。
「そうだな、他愛ない話とでも言うかな…。今、そなたとわしがしているような」
徳もうんうんと頷いて答える。
「ふつうのお話、ってことだね」「うむ、そうだな」
部屋の中に、穏やかな風が吹き込んでくる。
孟徳さんとのお話する時間は、孔明さんや玄徳さんたちとお話している時と違う不思議な感覚だ。
彼の雰囲気のせいで、少しだけピンと背筋が伸びるような感じがするけれど
玄徳さんと同じかそれ以上に優しくて温かい感じもする。
孟徳さんは、子ども好きなのかも知れない。
でも、会話の中では特に徳を子ども扱いしている様子は無かった。
「…やっぱり、孟徳さんはとってもえらい人だ」
「ん?」
「国のみんなの為に、頑張って働いているんでしょう?
そういうのって何か…僕のパパみたい」
「ぱぱ?」
「うーんと、お父さん」
「父親のことか」
「うん。ママが教えてくれたよ。パパが頑張って働いてくれるから、僕もママも兄ちゃんも幸せに暮らせるんだって。
だから、うちで一番えらいのはパパだって。
ママみたいにごはん作ってくれたり、いつも一緒に居てくれる訳じゃないけど、それは忘れちゃダメだって。
―孟徳さんは、きっと国の“パパ”なんだと思う」
「-…なるほど。それは光栄な話だな。
それにしても“のり”は、本当に面白い事を言う」
孟徳は何処か恥ずかしそうに笑った後、話を変えた。
それはもしかしたら、照れ隠しだったのかも知れない。
「随分と昔に一度だけ、“のり”と同じような子どもが遊びに来たことがあってな」
「…え、そうなの?!」
「うむ。 こうして同じように話をしたことがあるのだ。
―その子どもにも、今の“のり”と似たようなことを言われた」
孟徳はそう言うと、今度は懐かしそうに目を細める。
その子どもって、誰なんだろう?
徳は気になったが、何となく聞けなかった。
そのうちに孟徳がポツリと呟く。
「きっと、『外の世界』はあれから随分と時間が経ったのだろうな。
…我らはいつまでも、同じ時代で戦い続けるばかりだが」
きっと、こういう話はさっきまで居た大きな宮殿の中では出来ない。
徳にだって、そのくらいの事は解った。
「でも、パパだって日曜日はお休みしてるよ。毎日働いてたら疲れちゃうもん。
孟徳さんも疲れちゃうから、このお部屋を作ったんでしょ?」
「…ああ、そうだな」
「もっといっぱい、お休みすればいいのに」
「そういう訳にもいかない。この国にはまだいろいろな問題が残っておる。
それに、わしの意にそぐわない輩が
いつだって戦をしかけて、わしの首を狙ってくるのだ」
孟徳の言葉を聞いて、徳は一人の顔を思い浮かべていた。
「…玄徳さんも、その中の一人?」
孟徳は少し目を見開いて徳を見返し、しばらく黙っていた。
やがて、困ったような
少し悲しそうな顔をして答えた。
「-そうだ」
徳は、自分の胸のあたりがきゅうっと締め付けられるように痛くなった気がした。
その4>『徳』
徳がこちらの世界に来て、既に何日か経っていた。
その間、穏やかに時間が過ぎて行き
徳は何度か孟徳に呼ばれ、『隠れ家』でお話をしたり
この世界の事を教えて貰ったりしていた。
その日は、机に座って孟徳に漢字を教わっていた。
「“のり”と言うのはどういう字を書くのだ?」
丁寧に墨をすり終えた孟徳が、筆を持ち上げて徳に尋ねる。
徳はえーとね…と、空中で一度文字を書くように指を動かした。
「…ふむ。 こう、か?」
すると、心得たとばかりに孟徳が墨をたっぷりつけて、筆を走らせた。
「わぁ!すごい、よく分かったね!」
書き上げた漢字は『徳』。
一度で正解を出した孟徳は、心なしか得意げに胸を反らせてみせる。
徳も両眼をキラキラと輝かせて喜んだ。
「僕はまだひらがなしか書けないんだけど
パパから、自分の名前の漢字だけは教わったんだ」
「そうか」
改めて『徳』の字を眺め、孟徳は更に誇らしげに続けた。
「-わしも、同じ字を使っておるぞ」
「ホント?」
「『孟徳』の『とく』は、『徳』だ」
「すごい!お揃いなんだね!」
はしゃぐ徳の様子を嬉しそうに眺めて頷いた孟徳は、少し間をあけて
「うむ。
…それから、『玄徳』の『とく』も同じだぞ」と、言った。
「そうなんだ!」
徳は、ますます目を輝かせた。
「孟徳さんとも、玄徳さんともお揃いなんだね!すごく嬉しいなぁ」
徳の言葉を聞いて、孟徳は少し複雑な表情をした後で笑った。
「-そうか」
ほんの一瞬のことだったけど、徳は彼の様子にちゃんと気づいている。
―やっぱり、それだけでは二人は仲良くなれたりはしないよね…。
その後で、孔明たちが居る離れに戻ってきた。
宮殿の中を行ったり来たりしているので、その中で働いている人たちも次第に徳の事を覚えてくれる。
朱色の渡り廊下を渡る頃にすれ違ったキレイな女の人が、
「“のり”ちゃん、今日も元気ね」と声を掛けてくれた。「はい!」と徳も答えた。
「おや、のり坊。お帰り」
離れには珍しく玄徳の姿しか見えなかった。
「ただいま、玄徳さん」
キョロキョロと辺りを見回す徳の様子に気づいた玄徳が、笑って言った。
「孔明も雲長も、今日は翼徳も出ているよ。少し外の様子を窺いにね」
「ふぅん…」
思えば、いつも玄徳の周りには三人が誰かしらついていて、徳は彼と二人きりで話をした事が無かった。
今なら、孟徳さんとのことを聞けるかも知れない。
徳は、玄徳の元へ駆け寄って行った。
二人は並んで、縁側へ腰掛ける。
「さっきね、孟徳さんに漢字を教わったんだよ」
「ほう?」
「僕の名前は、孟徳さんと玄徳さんの『徳』と同じ字なんだって」
「-なるほど。この字、だな?」
そう言って、玄徳は手の平に『徳』と書いてみせた。「うん」と徳が頷く。
「そう言えば、翼徳…張将軍の字(あざな)も同じ『徳』だったなぁ」
「あざな?」
「普段の呼び名、と言うかな。孔明、玄徳、雲長、翼徳。のり、もそうだろう」
「孟徳、もだよね?」
「-ああ、そうだ」
そこまで話してから、徳は思い切って聞いた。
「-玄徳さんは、孟徳さんのことが嫌いなの?」
「…」
玄徳はしばらく何も答えず、黙って徳の顔を見つめていた。
玄徳の目は、何かとてつもない力を秘めていそうで
まっすぐに見ていると吸い込まれてしまいそうだった。
孟徳さんとは違うけど、この人もとても目力が強い人だ…と徳は思った。
「嫌い、と言うのは少し違うかも知れないな」
「…?」
「我らはそれぞれ、国を率いて戦っている。何千、何万もの民を率いているのだ。
―もはや、好き嫌いの問題で関われる相手ではないのだ」
それは、少し前に孟徳が話してくれた事と同じような意味の言葉だった。
徳の目に、孟徳と玄徳の姿が重なって見えた気がした。
そこでふと、徳は思いつく。
「…じゃぁ本当は、嫌いじゃないってこと?」
「-…」
玄徳が驚いた様子でもう一度徳を見つめる。
徳も、負けないように目を見開いて見つめ返した。
その表情がおかしかったのだろうか。少しして玄徳が声を上げて笑った。
「…ははは、のり坊には敵わないなぁ」
「昔…まだ私も孟徳殿も若かりし頃、確かに私は彼に憧れていたよ。
これでも一度は、志を同じくして戦ったこともある」
「ええ?」
「あの時は、我々よりももっと強大な権力者が国を我がものとして跋扈していた。
それでは駄目だと奮い立ち、共にその相手に立ち向かったのだ」
「…そうだったの」
「しかしその後…
孟徳殿はその権力者の椅子に座り、同じような振る舞いを始めた」
徳は必死で反論した。
「-それは、違うよ! 孟徳さんは、ちゃんと国の為に働いてるって言ってたもん」
玄徳は、徳の言葉に一度は頷いてみせたものの
その後で目を伏せ、半ばあきらめたように言った。
「そりゃぁ自分では何とでも言えるさ。
―と言うより…、ある者から見ればそれが良政なのかも知れないが
また別の者から見れば、悪政に見える。そういう事かも知れない。
…でも、それでは駄目なんだ」
「…」
「-のり坊には、少し難しいか?」
そう言われて、徳は少しだけムッとしたが
玄徳が言わんとする事をきちんと理解していたかと言えば…
やっぱり解らなかった。
「今、この世界は大きく三つに分かれているのだ。洛陽の孟徳殿、江東の孫家、そして我ら。
それぞれが、それぞれの志の下に大義をかざし、天下統一を果たすべく戦っている。
本当は、誰が正義か…ということは誰にも解らぬことなのかも知れない。
けれどもはや、今はただ一つの勝利の為に
そこに向かって、私も孟徳殿も…もう前に進むしかないのだ」
玄徳は、何処か寂しそうに微笑んで徳を見た。
やっぱり、その表情は孟徳のものとよく似ていた。
「のり坊の居る世界ではきっと、答えが出ている事であろう。
元の世界に戻って、そなたがもう少し大きくなったら、事の顛末を確かめるといい。
もしかしたら、私の方が『悪者』として語られているかも知れないがね」
僕は、孟徳さんも玄徳さんも優しくていい人だと思う。
でもきっと、この世界では
それだけじゃいけないってことなんだね…。
徳は、気づかないうちに泣いていた。
玄徳は、そんな徳をぎゅっと抱きしめてくれた。
その5>ぼくらの世界に
ガガガ…と大きな音が何処からともなく聴こえてきた。
いつも通り『隠れ家』に居た徳と孟徳の話もさえぎられるほどの大きさで、
そのうち地面も大きく揺れ出した。
「?!」
徳は何が起こったのか分からないのと怖いのとで、孟徳の着物の裾をぎゅっと握りしめた。
孟徳は徳をかばうようにして、自分の着物の内側にかくまった。
部屋の入口から、元譲が駆け寄ってきて更に二人を守るように身構えた。
「-始まったな」
「…何が、始まったの?」
大きな揺れの中で声を発することもままならなかったが、何とか言葉にして尋ねた。
孟徳はしっかりと徳の両手を握りしめ、膝を落として目線を合わせた。
「誰かが外側から“扉”を開こうとしておる。
―『休息時間』が終わるのだ」
◆
「-のり坊!!」
玄徳たちの居た離れの方まで何とか戻ってくると、孔明が迎えに来ていた。
孔明の姿を確認して、孟徳がそっと徳の背中を押した。
「徳よ」 「-え?」
「後は彼奴らに従え。元の世界へ帰る道に案内してくれるから」
「孟徳さんは?!」
「わしとは、此処でお別れだ。―また、戦いの準備をせねばならぬのだ」
「-! やだよ、そんなの!
まだまだたくさん、お話したいことがあるのにっ!」
徳は涙が半分くらいあふれ出した目で、必死に孟徳を見た。
すると孟徳は、今までで一番優しい笑顔を見せて言った。
「後はいつか、そなたの世界に行った時に話そう」
「のり坊、早く!」
孟徳の言葉に、孔明の声がかぶさるように聞こえた。
「え?! 何て言ったの?孟徳さんっ!」
徳はそのまま孔明の手に引き渡され、玄徳たちと共に宮殿を後にすることになった。
大きな地鳴りの響き渡る中、立ち尽くした孟徳は呟くように言った。
傍らに、元譲も構えて立っていた。
「-ありがとう そして、また会おうぞ」
関将軍の馬に乗せられて、徳は孟徳たちの元を離れていた。
辺りを見回すと、何となく景色が色味を失っているような
何処か白けた場所にたどり着いた。この世界に入った時、見た景色だった。
「さぁ、のり坊よ。我らとも此処でお別れだ」
関将軍の後ろについて来ていた孔明が、ひらりと自分の馬から降りてきて声を掛けた。
「ほらよっ」と、張将軍が徳を持ち上げて、馬から降ろしてくれる。
「-僕は…帰らなきゃいけないの?」
涙があふれ出て、既にしゃくり上げながら徳が聞いた。
「外側からの入口がいつ開くのか、我らには見当がつけられない。
今を逃したら、のり坊は次にいつ元の世界に戻れるか分からぬのだ」
孔明は続けて言った。「それに…、我らはまた戦いに戻らねばならぬから」
張将軍が、虎のような顔をくしゃくしゃに崩して笑いかける。
「なぁに、またどっかで会えるさぁ!」
関将軍も、長いひげをしごきながら笑う。
「そなたがこの物語を開けてくれれば、我らはいつでも此処におるぞ」
「孔明さん、張将軍、関将軍…」
少し遅れて、三人の後ろから玄徳が顔を出す。
三人は大きな体をよけて、玄徳を徳の前に誘(いざな)った。
「のり坊」
「…はい」
「今の私には、この世界がどうなるのか見通すことは出来ない。
―でも、いずれまた、孟徳殿とも仲良く酒が酌み交わせる事を目指したいと思う」
「…ホント?」
「ああ。
徳とまた会えた時、みんなで仲良く過ごせるのが一番…だろう?」
玄徳の最後の声を聞く頃、徳の目の前は真っ白になっていた。
みんなの顔がひと通り浮かんでいったかと思うと、
今度は真っ暗闇が、徳を包み込んで行った。
◆
「-のーり~! 朝だぞ、そろそろ起きろ!」
真っ暗だった視界がぱぁっと開けたかと思うと、頭の上から聞きなれた声がした。
「…あれ、…兄ちゃん?」
徳の目の前に居たのは、兄の悠だった。
徳からひっぺがした布団を抱えて、ニヤニヤと笑っている。
「何だぁ?寝ぼけてんのか?」
「…」
徳は起き上がってキョロキョロと辺りを見回した。
枕元には身代わりにしたハズのクマのぬいぐるみ、
足元には何食わぬ顔で毛づくろいしている虎太郎の姿も見える。
―夢、だったのか…
ぐすんとひとつ鼻をすすって、目をこする。小さな指に水滴が残った。
「-徳、泣いてんの?何か嫌な夢でも見た?」
その様子に気づいた悠が、覗き込んで聞く。徳はすぐに大きく首を横に振った。
「違う、とっても楽しかったよ…」
楽しかった。でも、何だか寂しい気持ちにもなった。
目が覚める直前の、おじさん達の顔を思い出した。
―あれはホントに、夢だったのかなぁ…
両手に残った、あの人の着物の裾の感触。
そこで、ふわりと微かに不思議なにおいがした。
お線香みたいな、そのにおいは
―あの人の、においだ。
徳がまだ寝ぼけていると思って、悠はやれやれと苦笑した。
そしてふと、ベッドの端っこに置き去りにされている本に目をとめる。
「…コレ、父さんのヤツじゃん。お前、読めたの?」
『三国志演義』…と悠が呟きながら表紙をめくろうとしたので、徳は慌てた。
「あ、待って!」
「…え?」
徳の止めるのも聞かず(と言うよりその前に)悠はパラパラ…とページをめくっていた。
・・・
けれども、特に何が起こる訳でもなかった。
静かになった部屋の外から、ママの声が聞こえてくる。
「徳!悠!ごはん冷めちゃうわよ!早く降りてらっしゃい!」
「わ、やべ!俺先に降りてるからな、徳も早く着替えて来いよ」
パタリと閉じた重たい本を机に置いて、悠は部屋を出て行った。
徳は少しの間ぼんやりとしたままだったが、虎太郎のニャーと言う声で我に返った。
ベッドから降りてパジャマを着替えて、いそいそと部屋を出る。
ママはキッチンでごはんとお味噌汁をよそう。
悠が受け取って、ダイニングのテーブルに配置する。
ことりと茶碗が置かれる音に気が付いて、読んでいた新聞をたたんでパパが顔を覗かせた。
焦げた鮭の皮のいい匂いに、鼻をひくつかせている。
今日は日曜日。朝からとってもいい天気。
虎太郎と一緒に階段を降りて、ダイニングの入口の扉を開けた。
「おはよう、徳ちゃん」
ママが声を掛けてくる。徳も「おはよう」と答えた。
そしてキッチンのカウンター越しに、白いご飯が盛られたお茶碗を手渡した。
「-はい。 コレ、“おじいちゃん”の分ね。持っていってあげて」
「-…え?」
徳が振り返った、その先。
パパの隣に居たのは―
「-“のり”よ、おはよう」
きちんとまとめ上げた黒髪に整った口ひげ。切れ長の目が、優しく笑っていた。
「…あ」
驚いた徳の表情を見て満足げに頷きながら、孟徳はもう一度呟いた。
「また会おうぞ、と言ったであろう?」
こうして、孟徳さんは僕の『じいちゃん』として 僕らの世界にやって来た。
あの後、玄徳さんと仲直り出来たのかどうか聞いてみたら
「別に、元々ケンカなぞしておらぬぞ」
と、笑ってごまかされてしまったけれど。
◆◆◆
三国志じいちゃんと僕
三国志武将各人の個性づけは、様々な文献史料を読んだ上で書き手が当創作世界に沿ってイメージしたものです。
無論のこと、実際のご当人たちの思想・信条・言動と一致するものではありません。
本作品は以前制作・公開していた漫画版の前日談的なお話です。