*星空文庫

バク転道場

川崎家狼 作

バク転道場
  1. 出会い
  2. 足踏み
  3. 事情

出会い

 
 男は五十歳を迎えたばかりであった。その人生は、実に静かなものであった。目立った才能も、整った容姿も、男には何一つ備わっておらず、かといってそれを悲観することもなかった。とにかく何事においても関心するということが無く、正でも負でも、陽でも陰でも、明でも暗でも、エネルギーの発生源といったものが男にはどこにも見当たらなかった。強いて言うなら、無があった。全く覇気のない男であった。

 オフィスビルの入り乱れる都会の一等地にそれはあった。煌々とそびえ立つ建物と建物の隙間を埋めるように新築された七階建てのテナントビル。バク転道場はその一室で門を構えていた。オフィス街には似つかわしくない汗臭さが外からでも伝わってきた。昼休みのOLやサラリーマンは、さぞ不思議がった。まず、こんなところでバク転道場などという奇妙な商売が成立するのか。家賃は払えるのか。普通このような道場は下町情緒溢れる場所の小汚いビルで構えるものではないのか。そして、誰が許可をしたのか。街の景観を大きく乱す事はないものの、空気が合わない。街の大半がスーツを着た人で溢れかえる中、稀に赤や黄色、はたまたピンクに至るまで、目が眩むほどカラフルなハチマキを巻いた体操着の人間が、スクランブル交差点に混じっている。それはスーツの群れの中にあっても一目で見つけられるくらい目立っていた。まるで何か恐ろしい新興宗教の信者でも見ている様であった。

 男は仕事を終え、帰路についていた。その道中は、いつ何時であろうと、ハプニングなど起こる気配すら無く、常に予想通りであった。安いスーツのボタンを開けてネクタイを少しだけ緩めたら、あとは真っ直ぐに家の玄関を目指すだけのことであった。の、はずだった。
 その日は一日中鈍い雲が空全体を覆っていた。傘が要るのか要らないのか、朝からずっとはっきりしない様子であった。夕方、「とうとう雨が降ることはなかったな」と皆が気を緩めた瞬間、見計らったように小雨が降ってきた。が、小雨から本降りになることはなかった。ずっと小雨だった。本当に煮え切らない天気だった。
 男も同じように思い、ふと目線を上にやった。ビルの中腹あたりの窓に「バク転道場」の文字が書かれてあるのを、ビニール傘越しに見た。妙な字体だった。
「何だ、あれは」
 男は今さら気がついた。
 なんせ会社でも仲のいい同僚は一人も居ないので、誰かと世間話をすることが無い。その絶好の機会である昼休みにも、噂の美味い店にランチに誘ってもらうこともなく、誘うことは勿論なく、ましてや一人で外食なんてするはずがなかった。ただ毎日オフィスの中で決まったコンビニ弁当を食らうだけであった。全く誘われなかったわけではないが、どんな美味い飯にも興味を示さないので、次第に同僚も誘う事を諦めていったのである。どんなにお洒落なファッションビルが建とうとも、どんなに話題の商業施設が出来ようとも、男には関係がなかった。男の世界には必要がなかった。バク転道場が出来てから、既に一年が過ぎようとしていた。
 道場の窓までは高さがある為、部屋の中の詳しい様子を覗き見ることが難しく、壁の色が青いことぐらいしか分からない。耳から得られる情報も乏しく、時折キュッ、キュと床の擦れる音は聞こえてくるものの、道場馴染みのあの豪勢に行き交う声の応酬は聞こえてこなかった。空手の道場とはまた違うからだろうか。その他は、ただただ酸っぱい人の気配とその臭いが漏れてくるだけであった。
 
 男はそれを確かめると、無言でその場を後にした。

足踏み

 男は足踏みをしていた。あの日、バク転道場の文字を目にしてからというもの、すっかり心を奪われてしまい、道場の前を通る度にその場に留まり、イチ、ニ、イチ、ニ、と、文字通りの足踏みをするようになった。その時間はしばらく続き、その場から離れられなくなるのであった。男はなぜ自分がそのような行動をとってしまうのか、理解できずにいた。無趣味の頂点を極めたようなこの男は、何かに心を揺り動かされたことなど一度もない。胸をざわつかせる感情が何なのか、自分で説明することができずにいた。
 この日も足踏み開始から既に五分が経とうとしていた。周りの人々はそれを好奇の目で眺めている。
「いつまでこんなことをしているんだ俺は。今この時間で何本の電車を乗り過ごしたと思っている」
 いつだってそういう損得勘定は働く男だった。これまでの人生において一切の無駄を省いて生きてきた男は、娯楽などに対する造詣も浅く、無駄の中にこそ人生の面白味があるという事実を全くもって理解出来ていなかった。もっとも、街行く人々の中にバク転道場に心を揺り動かされるような者は一人も居なかったが。

 来る日も来る日も男は道場の前で足踏みをした。その時間は日に日に長くなり、三週間後には遂に一時間に達しようとしていた。そして、遅刻が嵩んでいき、欠勤までするようになった。男はやがて会社をクビになった。
 振り返ってみれば、新卒から五十になるまでよく続いたもんだ。役職が与えられることもなく、これといって大きな仕事をやり遂げたわけでもない勤続二五年の平社員を、今の時代どこの会社が面倒を見てくれよう。退職金が支払われなかったのはかなりの痛手ではあったが、無趣味な男には相当な貯金があったので、このまま独り身で生きていけば、よほど長生きでもしない限り生活に困ることはない。男に焦りは生まれなかった。
 
 
 会社をクビになって何カ月かが過ぎた。男は久し振りにかつての通勤ルートを歩いていた。目的はなかった。相変わらず覇気のない日々を過ごしていた。
 あの道場もまた変わらず隆々とそびえ立っていた。
 男は道場の通りに入った。その道に道場があることはしっかり覚えていた。何日振りに歩いていようが、あの強烈な出来事は男の脳裏にしっかり焼き付いて、忘れ去ることの方が難しかった。男は無意識のうちにそれを何十メートルも先から視界でとらえながら歩いていた。そして道場の前に着くと、例のごとく足踏みをした。
 よほどタチの悪い薬物に手を出してしまったんだなと周りに思わせるような、相当狂った様子であった。
 しばらくすると、道場から出てきたと思しき男がビルから現れた。ピンクのハチマキを巻いていた。額の汗を含んだハチマキは所々色が濃くなっていた。
 練習がハードなのだろうか。先生は厳しい人なのだろうか。そんな事を想像していると、そのピンクのハチマキに会釈をされた。
 男は、色々と頭で巡らせている思いを見透かされたような気分になった。そして、急に恥ずかしくなった。目ん玉はひん剥いていたりしなかっただろうか。ピンクハチマキに会釈の奥底で笑われていたかもしれない。ピンクハチマキは既に背中を向けながら歩き去っていったので、表情を伺い知ることはできないが、きっとニヤついているに違いない。あんな澄ました顔で会釈をしていたのに!良からぬ想像ばかりが膨らむと同時に、バク転道場にすっかり翻弄されている事実にハッとし、自らを哀れんだ。
 その日以降、またあの足踏みの日々が始まった。
 
 もちろん、職務質問もされた。目撃者はもう無視は出来ないほどの態であったので、仕方ない事だった。警官であれば誰が何と言おうと職務質問を行わなければならなかったし、ただの一般市民ならば110番するのが最低限の義務であった。中には警官でない者も男に声を掛けた。それは、相当勇気ある猛者か、何も考えてない馬鹿だけだった。それでも声をかける一般市民の数は多くいた。
 ある日の昼下がり。市民の連絡を受けた警官が、男に近づきこう言った。
「はい、ちょっと君、いいかな」
「何ですか」
「何してんの」
「別に悪いことはしてませんけど」
「あのさ、名前教えてくれるかな」
「何でですか」
「ちょっとね」
 警官も、何でと言われて返事に困った。というか、怖がっていた。これまで色んな人間に声を掛けたが、こんな怖い人間を警官は見たことがなかった。バッドトリップガンギマリでヨダレダラダラの若者、イキッたチンピラ、キーキーうるさい女、ベロベロに酔っ払い、自分は死んだ方がマシだと泣き叫ぶ身なりの不潔な情けない男。そのどれよりも男が一番怖かった。両太腿を高く上げながら規則正しいリズムで足踏みを刻み続け、視線は窓一点をとらえて離そうとしない。しかし、その目には全く覇気が無い。その状態を保ったままで自分の職務質問に応えてくる。これを怖がらない奴がどこにいるんだと警官は思った。パトロールの途中に出くわしたのであれば、必ず見て見ぬ振りをするだろう。連絡してきた市民が、恨めしく思えるほど警官は怖がっていた。
「ちょっとねって、何も悪いことしてませんよ」
 男はそう言う際も、目線を窓から離さない。
「名前分かるモノあるかな」
「保険証でいいですか」
「ああ」
「ちょっと待ってください」
 男は財布からそれを取り出そうとするのだが、足踏みに動きをとられ、なかなかスムーズに事を運べなかった。
「その動きをやめなさい!」
 警官は恐怖に任せて強く言った。
「いや、無理なんですよ」
「何でだ!」
「何故かはわかりません。けど足踏みがやめられないことがそんな悪いことなんですか?」
 警官の恐怖は強くなる一方だった。もう会話をしているだけで怖かった。男は未だに警官の目を見ようとしなかった。
「悪いことではない。ただ、身分証をさっさと見せて欲しいだけなんだ」
 警官は、怖すぎて半ば投げやりになっていた。
「確認したって何もないですよ」
 男も言ったが、誠に説得力が無かった。現に足踏みが全くもって不自然だ。言っている事とやっている事がチグハグなのは自分でもじゅうぶん分かっていたが、身分を証明すればまだ理解してくれる可能性もあるかもしれないと、信じるしかなかった。
 そんな事をしていると、今度は助っ人の先輩警官がパトカーに乗って現れた。無線で連絡を受けたらしい。
「どうしたどうしたぁ」
「あ、先輩」
「何してんだぁ」
 先輩警官は拍子抜けな甲高い声を出す。
「いや、まあ、ただの職務質問なんですけど」
「どうしたのさぁ」
 先輩警官はあまり物事を敏感に察知するタイプではなかった。声の調子の通りの人間だった。
「少し手こずってしまって」
「手こずるって何をさぁ」
「すいません」
 説明しないといけないほど空気が読めない警官は、その後も矢継ぎ早に質問を繰り返すのだった。
「じゃあ君、これに乗って」
 先輩警官がパトカーを指して言った。
「どこに連れて行く気ですか」
 男は足踏みを続けながら言った。
「どこでもいいんだよぉ。黙って言うとおりにしなさぁい。」
 先輩警官は男の話を聞こうとしなかった。そして後輩に他の細かい指示を出しながら、自分は男に近づき距離を詰めると、足踏みしている太腿を片腕に抱え、そのまま逆の腕に男の首を抱えてパトカーまで運んだ。レスキュー隊の様だった。一連の作業は流れるようで、一変の調子も崩す事なく淡々とやってみせた。
「い、命知らずだ」
 後輩警官が呟いた。

 パトカーは近くの警察署に向かっていた。
「何にもしてないですって」
「うるさいよ。いいから黙って座ってろ」
 そう言ったのは後輩の方だった。男の足踏みはすっかり終わっていた。足踏みをしていない男は、ただの男だった。
「何の用事があるって言うんですか。警察だからって何してもいいわけじゃないでしょう」
「いいか、だいたいな、君たち一般市民はな、いくらなんでも警察をナメすぎなんだよ」
 職務質問での不甲斐なさを取り返そうとしているのか、あの時怯えていた自分の態度を無かったことにしようとしているのか、後輩の警官は威勢が良かった。
「黙って言う事を聞いていれば良かったものを」
 後輩の口が塞がる様子は無かった。完全に安堵しきっていた。先輩警官の真似をして威厳を見せつけているつもりなのだろうが、恐らくこのパトカーの中で、男が座りながらでもあの戦慄の足踏みをポンと再開したならば、簡単に大人しくなるのが予期できる非常に浅ましい態度であった。が、男はしなかった。
 
 警察署は、どのデスクも書類が山ほど積まれていて、灰色の壁は塗装のヒビがたくさん入っていた。その中を通され、男は身分証以外の持ち物、そして尿を検査された。
 怪しいものは何もなく、もちろん尿の反応も陰性だった。取り調べを受ける男の表情は怒っていた。
「だから言ってるでしょう。これ訴えたら勝てますよ。あなた達が騒ぎを大きくして、沢山の人にジロジロ見られた。そしてこうやって無理矢理僕を連れ出して。尊厳もヘッタクレもありゃしない。時間を返して下さい!」
 真っ当な訴えだった。電車の本数で換算すれば相当な数を逃しただろう。
「訴えればいい。訴えられるもんならな」
 調書にペンを走らせながら後輩警官は言った。すっかりいつもの調子を取り戻していた。新たにスーツを着た署の人間も現れた。そしてその人間も男をなだめるようにこう言った。
「いいかい。世の中な、みんなが居心地よく過ごせなきゃいけないんだ。分かる?君があんな事をしていたら、みんな気持ち悪がることくらい簡単に分かるだろ」
「気持ち悪がるって、何も悪いことしてないでしょう」
「善いか悪いかじゃないの。みんなが不愉快になること自体がダメなの」
「みんなみんなって。猿の一つ覚えじゃあるまいし。第一、あそこに居なかったアンタに言われる筋合いは無い」
 珍しく男の気が立っていた。しかし、その場にいる他の人間たちは至って冷静だった。
 一人の怒れる男に、その他大勢の大人たちは極めて無慈悲だった。皆一様に作業の片手間で男を相手した。灰色の壁の塗装がまた一つ、剥げ落ちた。
 
 数時間後、男はお咎めなしで放免された。
 署を出た男は、もう一度入り口を振り返り、叫んだ。
「ぶっ殺してやる!」
 その声は大通りの車の喧騒に混ざって響いた。
 
 木刀を構えた門番の署員は、微動だにしなかった。
 
 
[#改丁]

 男は翌る日、腹をくくった。そしていつもの道を歩いた。
 
 ビルの自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り込んだ。案内板を見ると三階にそれがあると書いてある。大理石のプレートにテナント名がひとつひとつ彫刻された随分と金のかかった案内板だった。男はその案内板に従い、3のボタンを押した。
 男はゴクリと生唾を飲んだ。次の瞬間、男の中で時間の流れが明らかに変わった。とにかく全てがスローになった。閉のボタンを押してから扉が実際に閉まるまで非常に長く感じ、男は最初、ボタンの感度を疑った。そして、反応するまで連打した。
 ほどなくして扉は静かに閉まった。

事情

 
 芸能界に憧れを抱いていたので、テレビを観るのが好きでした。音楽番組なんかは食い付きながら観ていました。流行りの歌も流れれば、昔の歌も流れる。歌はそれぞれの時代を彩り、その移ろいを見れば、自分が生まれる以前の世界がどんな様子だったかが分かりましたし、今の世界情勢がどんな状態にあるのかさえ正確に分かる気がしました。
 お笑いも芝居も観ました。それぞれ好きでしたが、音楽の持つそういう特性に、より惹かれました。僕の時代は音楽番組が全盛だったことも関係してるかもしれません。
 特に勢いがあったのは男性アイドルでした。ダンスの振り付けがどんどん難しくなったり、歌詞もそれまでの発想とは一八〇度変わり、愛だの恋だのばかりじゃなくなりました。そういった歌もありましたが、目線がどこか今までとは違いました。アイドルの歌の詞に「ムカつく」という言葉が出てきたとき、幼かった僕は、俗に言うカルチャーショックを受けました。その時はぼんやりでしたが、大人になってそれを振り返った時、あれはまさに時代の移り変わりを目の当たりにしていたんだと分かりました。
 曲調もどんどん洋楽の要素が入ってきていて、僕が好きだったアイドルグループなんかは、ある時からファンク一色に染まりました。それもドのつくほどのファンク。よくファンクの程度を表すのに、真っ黒だとか、ドス黒だとか、要するに黒ければ黒いほどファンクの要素が濃いということなんですが、なかなか黒めのファンクをやっていました。それまでのアイドルソングの概念を完全に壊していました。果たして、本当にアイドルとして売れたいという気持ちがあるのかと疑いたくなるほどカッコよかったです。
 そういう体験を重ねるうちに、だんだんと僕はアイドル文化そのものに興味を持つようになりました。女性アイドルも男性アイドルも、分け隔てなく関心を抱き、系譜を辿ってその文化を学ぶようになりました。
 そこで僕はバク転に出会ったのです。
 アイドル文化も現代ではさまざまな形式がありますが、黎明期はやはり今と比べると簡素的ではあったようです。「歌って踊れる」という謳い文句がありますが、今でこそ古くなってしまったこのフレーズも、かつては非常に斬新でハイレベルな様子を表したコピーだったのです。歌、ダンス、それに加えて、お芝居、コント、楽器演奏に司会業…。沢山の能力を要求され、沢山の無理難題を突きつけられ、アイドルたちは進化していきました。
 金に目のくらんだ悪い大人たちに指示されたという見方も出来ます。そう考えると、その過程にアクロバットを導入しようと考える安易な人間がいてもおかしくはありません。
 バク転なんてその他の能力と違い、身の危険を伴います。それを思うと、もう人ごとのように考えられなくなりました。そして、アイドルがコンサートでバク転を披露しているのを見ると、涙が溢れてくるようになりました。そうやってどんどん僕の意識はバク転に向くようになりました。
 ステージの上手から下手まで、花道の端から端までをバク転で移動するアイドルもいます。サーカス団に入った方が良いんじゃないかと思うほど華麗にやってのけます。華麗にやってのければやってのけるほど、見ているこっちは泣けてきます。裏で相当な努力をしているのが丸見えなのです。ステージではあんなにニコニコしているのに…そのギャップがあまりにも大きすぎるのです。相当な努力を重ねた挙句、もしかしたら病んでしまって、深刻な闇を抱えているかもしれない。そう思い始めると最後、どんどん妄想は膨らんでしまい、もうキリがありませんでした。
 次第に僕もバク転ができるようになりたいと思うようになりました。
 でも、僕は特段運動神経が良いと言うわけではありません。自分にバク転なんて出来るのだろうかという心配もありましたが、それよりも自分も一心同体となってアイドルの苦労を分かってあげたい気持ちが強かったのです。なので、どうにか自分にバク転を教えてくれる人を探さなくてはなりませんでした。
 高校二年の七月。僕はクラスの同級生に声をかけました。その子は体操部に所属していてバク転はお手の物といった感じで、よく体育の時間にはクラスメイトに頼まれ披露していました。
「ちょっといいかな」
 と声をかけたら、
「どうしたの」
 と返ってきました。
 最初のひと声をどうしようか相当考えたので、今でもそのやりとりは覚えています。あまり親しくはなかったので、返事が返って来ただけで、少しホッとしました。その同級生は真剣に体操にのめり込んでいたのもあって、あまり趣味や話が合うタイプでなかったのです。かたやこっちの趣味はアイドルですから。体操にのめり込んでいなくとも、通じ合うのはなかなかの業だったと思います。なので、僕は普段から周りに合わせていました。自分の趣味を公にせずに過ごしていました。ストレスはあまり感じませんでしたが、まあ、何となくでいいからアイドルが分かる友達と話が出来たらいいな、ぐらいには考えていました。ある種の憧れみたいなものです。憧れなので、実現できなくても良かったのです。
「あの、バク転を教えて欲しいんだ」
 単刀直入に言いました。どのように伝えようか迷いましたが、理由を話し出すと長くなるし、まず警戒されると思ったからです。すると、
「どうして?」
 と、すかさず訊かれてしまいました。
 半分、諦めかけました。
「モテたいんだ」
 折れた気持ちとは裏腹に、実際はひと呼吸を置くこともなく、僕は適当な理由でその場を凌いでいました。よほどバク転が出来るようになりたかったんでしょうね。
 同級生は「んー」と言って考えていました。その子はサッパリとした性格で、体操以外のことには無頓着というか、例えばクラスの誰と誰が仲が悪いとか、誰が誰を好きだという話にはあまり興味を示さないタイプでした。彼の口から出た「んー」も、そんなに頭を抱えて考えるといった感じではなく、現実的に考えてそれが可能なのかどうなのか、ただそれだけを考えているような、そんな感じでした。
 すると、
「ウチの体操部に来ればいいじゃん」
 と言われました。(ひる)みました。全く予想しなかった答えだったからです。言われてみれば、それが一番効率的です。親しくもない人間にマンツーマンでバク転を教えてやるほど暇な体操部員なんかじゃありません。それでも、その「んー」の一瞬でベストな案が思いつき、そして提案まで出来るところが、彼の最大の強みでした。僕なら相手の顔色を伺い、毎日自分の時間を大幅に割いて手取り足取り教えてしまったでしょう。
 結局、夏休みに入ってから僕はその体操部に通うことになりました。当初、手続きの段階をひとつひとつ踏んでから正式に入部する心算でいたのですが、通う理由がただバク転を会得したかっただけということ、それに僕が怯んでいたことを見透かした同級生の彼が、機転を利かせて顧問に根回ししてくれていたこと、それらの理由からわざわざ入部までしてもらわなくても、気が向いた時にだけ通えばいいと言ってもらい、入部するにまでは至りませんでした。
 それでも、いざ通い始めてみると申し訳ない気持ちがこみ上げてきました。そりゃ、部員のみんなはバク転なんかよりもはるかに難易度の高い技を練習している中、でんぐり返しもままならない運動音痴が一人で何も出来ずにただ呆然と立ち尽くしていて、足手まといなのは火を見るよりも明らかなのですから。
 とりあえず、僕は見学をしていました。練習を眺めている最中も、時折あの気の毒なアイドルを思い返しながら、自分のバク転に対する意志がどれ程のものなのかを確認したりしました。
 途中、気が付いたことが幾つかありました。簡単にクルクル回っているようで、アクロバティックな動きを取る前、どの部員も必ず一瞬、キリッとした顔つきに変わります。どういうことかというと、皆一様に気を引き締め直しているのです。これは僕の予想ですが、きっと自分たちがどれ程危険な運動を行っているのかということを、指導者にまず最初に叩き込まれているのでしょう。最初の教えとして言われたことというのは、いやでも覚えるので、ウマい部員もヘタな部員も関係なく、それだけは決して忘れてはならないと、もはや体に染み付いてしまっているのが見ていて分かりました。体育の時間にクラスメイトのバク転の要求に応えていた彼も、思い返せばたまに断ることがありました。場の空気はシラけましたが、それでも断らなければならないほど繊細な問題だったのかと思うと、悪ノリしていたクラスメイトが腹立たしくもなりました。同時にやはりアイドルのことが頭を過ぎります。アイドルはその繊細な問題を抱えながらも、笑顔だったり、歌だったり、その他様々なことにも気を遣ってパフォーマンスしないといけないわけですから、その苦労は、それまでの僕の想像の遥か斜め上を行く大変さだったということです。僕は体操部の練習を眺めながら号泣していました。
 もうひとつ、バク転している時の着地音を忘れてはいけません。結構な音がします。それだけ衝撃が大きいということです。ステージの上下(かみしも)をバク転で行き来するあのアイドルは、花道の端から端までバク転で行き来するあのアイドルは、一回一回着地するたびにその衝撃を足に受けているわけです。また、宙返りの時の着地音はひとしおに大きかったのですが、アイドルがコンサートで披露するアクロバットは、最後は必ず宙返りで締めます。バク転の連続で受けた足の衝撃だけでもじゅうぶん痛いだろうに、最後の宙返りでその何倍もの衝撃を受けているのです。私はさらに号泣しました。
 どうにか痛みを和らげてあげたい。そんなことを考えても、現実的に無理なことは僕にだってわかります。だからこそ、自分がバク転を会得するしかなかったのです。アクロバットをする上での心構えや、足に受ける衝撃を、自分の体でもって感じ取るしかなかったのです。体操部に誘われた時は確かに怯んでしまいましたが、こぼれ落ちる涙の粒が更に自分の意志を固めてくれました。
 顧問の先生は僕のバク転の練習に、入部して間もない部員を当てがってくれました。
「最初はまずブリッジだな」と、一年後輩の部員がボソッと独り言を言いました。
「はい」と僕は敬語で答えました。
「あ、すいません、こっちの独り言です」と、その後輩は申し訳なさげに言いましたが、僕は「気にしなくて大丈夫です。僕は敬語で話しますが、あまり気を重くしないで下さい。あくまでここでは僕が後輩です」と、先にひとこと断りを入れておきました。その会話を皮切りに、バク転会得への道の第一歩は踏み出されました。
 バク転の練習は困難を極めました。そりゃそうです。運動神経が良くても会得するのは難しいのに、運動神経が悪い僕が簡単に出来るわけがない。それでも体操部員の人たちは温かい目で見守ってくれました。自分が休憩時間に入ったりした時には、僕のところへ寄り添ってアドバイスをくれました。
 よく言われたのが恐怖心。まずこれを無くさないといけないのだけれども、これが本当に難しいということでした。僕は最初、危険な事を行なっているという意識は絶対持っておかないといけないと思っていたので「え、そうなんですか」と訊き返しました。
 詳しく聞くと、恐怖心と危機管理は別物だという話でした。当時高校生の僕には難しい話でしたが、何となく頷いておきました。
 そのあとの会話が印象的だったのですが、「これは追い追いで良いんだけど、空間に引かれた軸の線を見るとやりやすい」とアドバイスされ、一瞬の間もなく覆い被さるように「だからそれわかんねーから。俺らでもわかんねーのに、難しいこと言うなよ」と続きました。
 難しいことを言ったのは同級生の彼でした。それを引退間近の三年生に咎められていました。いつも言っていることだったらしく、天才肌の彼は独特の感覚を持っていて、部員たちは頭に巨大なクエスチョンマークを描くことがしばしばあったようです。僕は笑いながらそのやりとりを眺めていました。
 家に帰った後も、バク転の事を考え続けました。その日部員に言われたアドバイスをなぞりながら、家では実際に練習することはできませんでしたが、イメージだけは描きつづけました。
 実際、イメージするだけでもだいぶ違いました。むしろ闇雲に練習を重ねるよりも効果があるんじゃないかと思うときもありました。要するに出来るのか出来ないのか、どっちのイメージを強く持つかで決まるのです。細かい要素は他にもあるんですが、根底のイメージがズレてしまえば出来るものも出来なくなってしまいます。家に帰ってからのイメージトレーニングはそういう意味でも大切な意味を持っていました。はじめは技術的なイメージを描いていたのですが、だんだんメンタルイメージに傾いてきましたね。どの世界にも共通して言えるんじゃないでしょうか、最終的にはメンタルが全てを決めると。
 もちろんそうしているうちも、アイドルの事は忘れませんでした。コンサート映像を見ては泣き、バク転のイメージトレーニングをしている時も、アイドルの気持ちを重ねて泣きました。よりアイドルの気持ちが分かるようになっていました。
 
 その年の夏休みは本当に楽しかったです。異常気象という言葉が生まれたのはこの頃だったと思いますが、連日猛暑が続きました。そんな中でも体操部には一時間かけて自転車で通っていました。全く苦にはなりませんでした。それほど練習が楽しかったからなのでしょうが、今思えば若かったからでしょうね。今同じ事をやればきっと死んでしまうと思います。
 あと、台風も尋常じゃない数が発生し、上陸しました。注意報なら大丈夫でしたが、警報が出ると部は休みになってしまいます。それがすごく嫌でした。警報は警報でも、大雨警報なら休みにならずに済みました。休みに切り替わるのは暴風警報が出たときでした。休みを告げる連絡網が回ってきた時は本当にがっかりしました。
 

『バク転道場』

『バク転道場』 川崎家狼 作

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-12-07
Copyrighted

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