無題・1

久々の創作にリハビリ感覚で書き出したものです。まだ執筆中ではありますが、よろしくお願いします。

――また、だ。
目が覚めると、十二月だと言うのに体中が汗だくになっていた。息も忙しない。頭が重かった。真っ暗な空間。
瞬きをする。その僅かな間に、瞼の裏には夢で見た光景が広がる。人が倒れている。もう十年以上前に経験した地獄だ。その地獄から、私は生還した。

「大きな物音がしたけど、大丈夫?」

そう言って私の部屋を訪れる、女性の手によって。


――1。


「おはよう」

言いながら体を収めた朝のリビングは、いつもの気だるい空気で飽和していた。
男性と女性が一人づつ。私の父と母だ。リビングとつながったダイニングキッチンで、母は茶碗にご飯をよそっている。
父は自身の席から真っ直ぐに置かれたテレビに没頭中。NHKのニュース番組。天気予報の時間だった。

「おはよう。真紀」

キッチンから茶碗を持って、母が歩み寄る。
歳は40だったが、娘と言う存在……私がいるからだろうか、若々しい雰囲気の人だ。髪のツヤも私と遜色無い。これまでずっと、髪を染めたりして来なかった事が好影響だったとは彼女の談だった。

「はい、ご飯。昨日は随分早い時間に目を覚ましたみたいね」

あぁ、夢から覚めた後にやって来たのはこの人。そして、私を助けてくれたのも。

「ありがとう。うん、寝つきが悪くて」

素っ気無さを務めて言い放ち、ご飯を受け取る。湯気に包まれたそれは、冬の朝に悴んだ手を解してくれる。

「真紀、今日は夕方から雪らしい。遅くなる前に帰ってくるんだぞ」

私の言葉に何かを言おうとした母が発言をする前に、テレビを見たままの父が横槍を入れる。テレビを一瞥すればなるほど、周囲の県も夕方頃からは天気が崩れる予報だった。今は、窓の外に青空が覗いているのだけれど。

「うん。ありがとう。父さんも早めに帰ってきて。遅くなると迎えに行けない」

「あぁ、なるべく早めには帰るさ。傘を持っていくから、迎えは大丈夫だろうけどな」

父は言いながら薄らと笑みを浮かべる。堀の深い顔立ちと、短く整髪されたその容姿は、所謂『ちょい悪』のオヤジだと学校の仲間内では評判だ。確かに、母と同じ様に歳は感じさせない雰囲気があった。
彼は市内の会社へと電車で通勤している。傘を持つのを嫌うから、帰りに雨や雪となると私が迎えに行く様になっていた。

「それじゃ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

私と母の言葉に頷きを返し、父は食器を片付け、リビングを後にする。
玄関につながるドアが開き、閉じる。遠ざかっていく足音。

「真紀、今日は何時頃帰ってくる予定なの?」

母が食卓につきながら、私に問う。その手には彼女のお気に入りの桜が描かれた茶碗。

「今日は恵美達とちょっと街に寄ってくるかも」

「あんまり遅くならない様にしなさいね」

母が微笑を浮かべ、言う。

それに頷いた所で、背後のテレビからは『連続殺人』のニュースが流れてきていた。

『――犠牲者は四人目。またもや、犯人からのメッセージと思しき手紙が見つかっています。警察は一連の事件と同一犯人と見て――』

手紙が遺体の脇に置かれた殺人事件らしい。初めてこの事件が発生したのが先週だった。それから、今日……木曜日までの一週間と半週の間で、四人が殺されている。
メッセージはニュースでは発表されていなかったが、週刊誌等ではその一部が垣間見れた。内容に意味があるとは思えなかったが、少なくともその文型から見るに多少の学が感じられる事、殺人にも意味が無く犯人は快楽殺人者であろうと言う事は、週刊誌のコラムに書いてあった。

「物騒ね」

母がチャンネルを変えつつ、不機嫌に独りごちる。バラエティ紛いの情報番組にチャンネルを移し、納得した様にリモコンを置いた。

「あぁ。ただ、センセーショナルな話題だから取り上げやすいんだろうね」

言いながら、卓上に置かれた新聞の一面を見下ろす。
そこにも、殺人の件が大々的に記事となっていた。現場と思しき場所の写真が、鳥瞰の写真で刷られている。知っている場所。街の駅。その裏手に伸びた、細い路地だ。左右を昭和に立てられた鉄筋コンクリートのビルに挟まれた、寂しげな通りだった。その静けさが好きで、私は事あるごとにそこを通っていた。
警察車両、人だかり。駅裏の静かな路地には、私の好きだった静かさはもう失われていそうだ。

「何故か、人は他人が殺されるとか、そう言う話題に飛びつくもの。小説だけでいいのに」

悲しげな表情で、母は肩をすくめた。

「まぁ、そうだね」

返す言葉に迷って、発言はそれまでにした。
空になった茶碗と皿を携え、席を立つ。

「それじゃ、私もそろそろ行くよ」

「うん、気をつけて。行ってらっしゃい」

母の元気が戻りきらない表情に一笑を付して、私はリビングを後にした。



学校に着く頃、私は四人の友人と並んでいた。
途中の駅で待ち合わせをした、馴染みの顔ぶれ。

ここまでの道中で他愛の無い話をして来た所で、不意に列の左翼側を歩く遥香が件の話を切り出した。

「今朝の一面、見た?」

ふわふわの髪と大きな目が特徴の彼女は、視線を皆に配って言葉を続ける。

「あそこ、結構あたし達が歩いてた所だよね」

「……うん、そうだったね」

私から見て右側に立つ梢が、綺麗な黒のロングヘアを揺らして頷く。

「あの写真。一面を見て、驚いたよ」

梢は仲間内で最も背が低かった。しかし、落ち着きのある淡々とした口調は見た目と裏腹に大人びている。今日も、彼女はその口調で言葉を続けた。

「一昨日も歩いたよね。だから、余計に生々しく感じる」

「それ、分かる」

とは、右翼側の恵美。背が高く、細身のその体と落ち着いたメイクで女優を思わせる存在感を持っている。
グループ関係なしに様々な人々と話をする社交性を持ち合わせる等、ルックスも併せて学年内での人気も高かった。

「ちょっと怖かったよ。なんて言うか、その現場とニアミスした様な、さ」

「うん。私達の誰かがその標的になっていてもおかしくなかったかも知れない」

現に、今回の犠牲者は同世代の女性だった。故に、この話題に敏感なのも確かだった。

「でもさ、今回の子って無職だったんだよね」

「そうみたい。私達と同じ中学校を出てるから、高校を落ちてその後は悶々としてたんじゃないかな」

今朝のニュースと新聞だけでそこまで想像していたのか――、と私は梢の推理力に驚いていた。

「それで夜に出歩いてた所を殺されちゃったのかな」

遥香がうーん、と首を傾げた。

「無差別だからね」

恵美が呆れた様に首を左右に振りながら言った。
無差別――。だとしたら、私達の誰かが殺されてしまう可能性も有り得るのだろうか。

「怖いね」

私は、無意識の内に呟いていた。
皆がはっとした様に目を見合わせたのに気がつく。

「ま、こんな暗い話はこの位にしようか」

刹那の沈黙を恵美が破って、話題を切り替えた。……服の話題。
皆の声が遠くに聞こえた。過去の傷、と言うのは消えないのだろうと思った。その光景も、夢で見る程度なのに。記憶として、いつでも漁る事の出来る引き出しには入っていない。鍵を掛けた、その引き出しは一人でに開いて、中身は勝手に溢れ出す。迷惑、極まりない記憶。

「ね!真紀!」

と、遥香の声が耳元に聞こえた。皆が私を見ている。

「あ、うん。そうだね」

何の話題かは知らなかった。ただ、頭を垂れて笑顔を作る事に努めた。
その反応に皆『そうだよね!』とか言って話題を続けた。その気遣いが痛かった。傷が、傷を呼んでいる――その事実が、堪らなく厭だった。



――こんな光景を見るのは、この仕事を初めてから十年と言う時の中でも指折りで数えられる程度だ。
あちらこちらに血痕が飛び散っている。恐らく、その中心と思われる場所には一際濃い血溜まりの痕と地面にこびりついた肉の欠片が残っている。
ずっと遠くの方でテレビのアナウンサーが事件を報じるナレーションをしているのが聞こえた。その地獄の様相とは打って変わった日常的な音声。
これだけ日常の近くに非日常――地獄がある事に、気がおかしくなりそうだった。


「害者は」

制服姿の警官に問う。彼はハキハキとした口調でそこまでを案内してくれた。
現場からはわずかに離してある。……にも関わらず、現場周辺に飛び散った血痕で彼の者がそこで殺されたと言っても分からない様な場所だ。
遺体の入ったカバーを開く。酷い臭いだ。直視には耐えられない遺体……否、それは最早肉塊だと言うモノが、その中に収まっている。
顔面は半分以上が腐ったトマトの様に潰れてしまっているし、腕もあちらこちらに捻り曲げられている。特に酷いのが右。関節が五つある様になっていた。
下半身まではここで見る事が出来なかったが、仮に見れたとてこれ以上この遺体を直視するのは、人として不可能だと思った。
虚ろに見開いた左の眼が、最後にどんな光景を見たのか。想像に任せるしかあるまいが、その遺体の状況から言ってまともなモノは見ていないだろう。

「これまでの害者とは随分状態が違うんじゃ無いか」

カバーを閉じて、傍らにいた者に問う。

「はい」

彼は言葉少なく頷く。

「これまでの遺体は急所への一撃のみでした。しかし、今回の者は趣向が違いますね」

「趣向、ね」

言うと、彼は肩をすくめた。

「快楽殺人者故、殺すと言う事以外に快楽を見つけたのかも知れません。現場は酷い有様でした」

「だろうな」

「あの、血溜まりの所。あそこに遺体がありました。どうやら、最初の一撃では害者は死んでいなかったと思われます。血痕に紛れて分かりにくいですが、害者の足跡があります」

彼に伴って、その地点に足を運ぶ。確かに、血痕の中にコンバースの靴痕が見て取れた。

「逃げようとした、のか」

「恐らく、ですが。その後、顔面に一撃。それではあんなに変形はしなかった筈です」

いや、そもそも顔をあそこまで変形させるには人の一撃では足りないだろうと思う。

「得物は分かっているのか」

「まだ分かっていません」

「そうか」

返しながら、凶器が何だったかと考えを巡らせる。
重量のあるモノだろう。でなければ、人間をあそこまで滅茶苦茶には出来まい。

「ご苦労」

敬礼を返して、空を見上げる。左右を古びたビルに囲まれた細い路地。狭い空が、だんだんと灰色に侵食されているのが見えた。



「お疲れ」

校舎一階。いつもの広場。
今日も一日の授業が終わりを告げている。慌ただしく帰路へ着く者、部活へ意気揚々と向かう者――この広場は昇降口に面している故に、様々な人々を見る事が出来る。

「遥香は?」

恵美が辺りを見渡す。
まだ、三人しか集まっていなかった。遥香のクラスの面々は――と見渡して、そのクラスの面子が無い事に気がつく。
彼女のクラスの担任は学年中で最も若い女性だった筈だ。直感的に、昨日の事件が頭を過ぎった。
きっと、夜の街を出歩かない様に……とか、説明されているんだろう。担任のしっとりとした口調の言付けが容易に想像が出来た。

「あ、遥香だ」

梢が階段からこちらに向かって来る彼女を発見した。
全力疾走だったのだろう。私達の傍らに着いた彼女は肩を上下させる。

「ごめんごめん、先生の話が長くなっちゃって」

息の切れ間、彼女は胸の前に合わせた掌を揺らして言う。

「だろうと思ったよ――」

と、梢。

「――帰りはまっすぐ帰りなさいとか、夜の街には近づかないようにとか、そう言う事を言われたんでしょう?」

あぁ、梢も私と同じ考えを巡らせていた様だ。
遥香もそれに頷く。

「うん。今回の犠牲者はこれまでで一番若いだけに、先生も身近に感じたみたい。学区的にも被ってる中学校の卒業生だし」

「無差別だもんね」

恵美が言う。

「どうする?私達も先生の助言を聞くべきじゃない?」

私は彼女の提案にどうだろうか、と考えて皆を見回す。梢も遥香も、神妙な面持ちだ。

「事件が起きて昨日の今日だし」

恵美は私達が悩んでいるのを見て、更に言葉を続ける。

「今日くらいは助言を聞いてもいいんじゃ無いかなって私は思うな」

その、恵美のはっきりとした口調に梢が頷く。

「そうだね。今日は止めておこう」

「うん」

遥香も、梢に続いて顎を引いた。

「それじゃ、今日はそれぞれの駅で解散しよ」

私が流れを総括した。皆、納得した様に顔を上げて昇降口へと歩みを進める。

「そういえばさ、今日は雪が降る予報だったよね――」

遥香が昇降口を出た所で空を見上げた。

「――そろそろ、降り出すかなぁ」

梢が返す。

「どうかな。大分空は暗くなってるけど」

あぁ、そう言えば遥香は――と考えた所で、恵美が私の考えを言葉にする。

「遥香、今年で二回目の冬か」

「うん。やっぱり雪はワクワクするよ」

恵美が苦笑を交えて応える。

「へぇ、そうなんだ。私達からしたら電車が止まったりして迷惑な物ってイメージもあるけど」

「元々雪の無い地方から見たら、すごく綺麗だなって思う。積もったら全部が真っ白でしょ?素敵だよ」

「私達が見るのとは違う目で見ているって、不思議だよね。こんなにも違う印象があるのかと思うよ」

梢が白い息を吐きながら微笑を遥香へ向けた。遥香はそれに「そうだよね」と上の空で言葉を返す。
雪が降る――それに上ずっているのは、遥香だけでは無かった。
なんだかんだと言いながら、私達の誰もがそれに期待を持っている。
それを表す様に、皆が空をチラチラと見上げていた。
雪は、綺麗な景色を作ってくれるから。だから、嫌いにはなりきれないのだ。
雪の話題を続けながら、校門を出る。学校前の通りは生徒で溢れていた。その流れに入って、大通りへと向かう。

「大分寒いよね」

「雪だもん」

周囲でも、今日これからの天気を話題にするグループが多い。やはり、雪と言うのは不思議な魅力を持っているらしい。

「皆、雪の話してるね」

恵美に言葉を投げる。

「うん。やっぱり、明日の朝とかが心配だからじゃない?」

「そうかな――」

とは、遥香。

「――今夜、積もって欲しいって思ってるんじゃない?」

「そう思っている人もいるだろうけど……」

……それだけじゃあ無いでしょう、と梢が冷静に切り返す。

「だよねぇ」

はは、と遥香は冗談めかしく舌を出して見せた。

「そう言えば、皆クリスマスは予定ある?」

恵美が思い立った様に切り出す。

「今年はパーティーしようよ」

去年のクリスマス。それはもう、私自身の意思で思い出さないようにした記憶だ。男の人の声がかすかに蘇る。それを記憶と言う混沌とした引き出しに押し込んで、口を開く事で誤魔化した。

「いいね、何も予定無いし、もう予定入れておくね」

「私も行く」

梢が携えたカバンから手帳を出して、メモを入れている。

「25日だよね」

「勿論」

恵美が頷く。彼女が『遥香は――』と聞きかけた所で、遥香が首をかしげているのが目に入った。

「どうしたの?」

おもむろに私が口を開いていた。彼女のこんな様子は珍しい。

「うん。クリスマスでしょ?プレゼント、何がいいかと思って」

――あぁ、と皆が顔を見合わせる。

「遥香、そう言うのは参加表明してからでいいよ」

笑いを交えて、恵美が言う。

「そうそう。一瞬来ないかと思ったよ」

「遥香はいつも順番がおかしい」

梢が機嫌の悪そうな表情で呟く。

「あ、ごめん。行くのは当然だからつい……」

彼女のバツの悪そうな苦笑につられて、恵美と私が笑う。梢は呆れたように頭を振っていたが、その表情は優しかった。

「まぁ、いいよ。遥香も参加ね」

「何人くらい集めるの?」

ふと思った。恵美は様々な方面に顔が効く。と言う事は、声を掛けている人数も相当な筈だ。

「うーん、まだ分からないけどフタケタは集まるかな」

「凄い!本当にパーティーだね!」

遥香が体中で驚きを表現して見せる。

「楽しみにしてるよ」

「私も」

クリスマスまでは後二週間程だ。遥香の言っていた様に、プレゼントをどうしようか――なんて、私も踊る心を抑えきれないでいた。



家に着くと、ちょうど母は外出中だった。
誰も居ないリビングへと至る。静まり返った空気は、冷えて寂しさを増しているように感じられた。
ストーブのスイッチを入れる。カタカタと、ポンプの作動する音が漏れる。火がつくのには、少し時間が必要だ。

「寒い」

独りごちて、キッチンに立った。電気ポッドには湯が入っている。引き出しからティーパックを取り出して、カップに収めた。
湯を注ぐと、立ち上がる湯気が気持ち暖かさを提供してくれた。背後ではストーブが点火されている。ティーパックをシンクに投げ込んで、ストーブの目前にあるソファに身を沈める。
足元からは温風、手にはカップ。

「あぁ」

思い立って、テレビのリモコンを手にした。何かしら音があった方が、寂しさも緩和されると思った。
42型の液晶に、ニュースが映し出される。……あの、駅裏だ。

『事件から半日経った通りでは、人だかりが出来ています。現場の様子を伺い知る事は出来ず、警察による厳重な警備とブルーシートが異様な雰囲気を――』

一通り現場の解説を写した後は、犠牲になった少女の顔写真がテレビ画面に表示される。
中学の卒業写真だろうか。にこやかな表情でこちらを見るその顔に、胸が痛んだ。
卒業に当たって書いたと言う作文が、一行づつのピックアップで画面に移される。

『――卒業後は看護師を目指し――』

女の子らしい丸文字で書かれたその一分。高校に落ちた後も、その夢を見ていたのだろうかと疑問に思う。

『――様々な人を助ける事の出来る存在に――』

……あぁ。人には助けられる事無く、殺された。その事実が残酷に思えて、チャンネルを回した。
また、路地。先程の場所とは角度が異なる。もう、うんざりだった。瞬間でチャンネルを変える。路地、アニメ、サスペンスドラマ……と変えて行った所で、世界情勢の話題が映った。NHKだ。これが一番BGMに等しい。思って、リモコンを置いた。紅茶を啜る。口の中から鼻へと、アールグレイの香りが抜ける。飲み込むと、痛覚にも似た塊となって腹に落ちていくのを感じた。
なんともやり切れない気持ちだった。ニュースを見て、こんなに感情的になるのは初めてだ。同世代の少女だからか――と自身に問う。

「なんだろ」

呟いて、体の力を意識して抜いた。ソファの柔らかさが体を包む。
件のニュースは見るに耐えられない。少なくとも、これまでと同一犯だとして。これまでの事件は嫌悪感こそあったものの見るに支障は無かった筈だ。
しかし、今回は辛かった。犯人を憎む心が抑えきれなかった。我ながらおかしいな、とも思う。

「人は平等だ」

故に、これまでの犠牲者だって発生しては行けなかった。
それを弔わずして、今回の件だけを意識すると言うのはこれまでの犠牲者に失礼なのでは無いか。いや、そもそも殺人事件と言う全てを憎まずには矛盾が生じる。

「何考えてるんだろ」

昨晩、おかしな時間に目を覚ましてしまったせいで思考回路がおかしくなっている――。そう自分に言い聞かせながらテレビを消して、ソファを引き払う。
カップをテーブルに置いて、リビングを後にした。母はもうすぐ帰ってくるだろう。そう思って、ストーブはつけたままにしておく。

リビングのドアを出ると、ヒヤリとした空気が頬を舐めた。スリッパを履いているにも関わらず、床の冷たさが足の指を伝わる感覚がある。
廊下の突き当たり。たたきの手前で、左へと折れる。階段だ。
すぐに90度曲がったそこをそそくさと登って、左手のドアに体を滑り込ませた。
自身の部屋と言う空間に戻ってきた事が、不思議な安堵に繋がった。薄桃色の布団と、枕。そこに体を投げ込んで、目を瞑る。
――少しだけ寝よう。寝て起きたら、きっとまともになってるから。
暗闇。体の力が抜けていく。すぐに、私は睡眠に身を投じていた。



小学生の自分。それは、恐れを知らない、無邪気そのものだった頃の私。
学校が終わり、遊びにふけって、夜はぐっすりと寝る。その繰り返しだったあの毎日。その中で、私に恐怖を植え付けたその事件が起きた。
これは、夢だ。私の、過去の記憶を再生するだけの夢。故にその結末が変わるとか、何かしらその頃と違った動きを取れるかと言えば……それは無い。
見たくもない記憶を見せつけられて、勝手に終焉に辿り着く。その間、私はその残留した痛みに溺れ苦しむだけだ。

「――ただいま!」

そして、その記憶の再生が始まった。家のドアを開く。両手でノブを捻って、辛うじて開いた隙間に体をすべり込ませる。
家の中はいつも通り。廊下を駆けて行くと母がリビングで寛いでいる。父はまだいない。

「おかえり」

母の言葉。それに満面の笑みを返すワタシ。

「手、洗っちゃいなさいよ」

「うん!」

ランドセルをテーブルの上に載せる。
元気な、ワタシだ。洗面所まで駆け、忙しなく手を洗う。辺りに散った水滴を、後ろから着いて来た母が笑いながら拭き取る。

「お母さん!遊んでくる!」

そんな母に告げて、ワタシはリビングを後にしようとする。

「暗くなる前に帰ってくるのよ」

ワタシの背中へ向けられたその言葉に、ワタシは勢いよく振り向いて頷いた。そして、駆け出していく。
記憶の源流から十年以上経った今となっては、第三者の視点を自身の想像力の中で作り出しているらしく、ワタシの出て行く姿を見送っていた。
故に、ワタシの居なくなったこのリビングの光景はあくまでも想像の中で練られた物であって事実では無いのだろう。
母はずっとテレビを見ている。その光景に動きは無い。この平和も、と考えた所で頭が痛んだ。瞬間、時計に目をやると5時を回っている。あぁ、作り出した記憶故にここに厚みは無いのだろう。

「ただいまー」

ワタシの声が玄関から響いてくる。帰ってきた。もう、あの地獄の時間が近付いている。
……この後、私は疲れた体をソファで癒す。

「おかえりなさい。楽しかった?」

「うん」

もう、うとうとしているワタシ。
この時、寝ないで母を外出に誘っていれば――と思うが、何も出来ない。

「眠たそうね」

「うん」

消え入る様に頷いたワタシは、洗面所へ弱々しく歩いていく。
バシャバシャと言う、雑な手洗いの音が聞こえてきた。その間に母は台所に向かっている。

「今日はハンバーグよ」

母の甘い囁きにも反応無く、私はソファに倒れ込んでいた。

「あらあら」

ここで、私の記憶は眠りに沈んでいる。だから、いつの間に父が帰ってきたとか、そう言うのは全く分からない。ただ、再び加速した時間の中でいつの間にか父と母は『配置』に着いていた。ワタシが目を覚ます。食卓の上には、ハンバーグとご飯、サラダが並ぶ。
眠っていたワタシは元気一杯になった様で、歓喜を上げながらテーブルに着いた。父も食卓を前にしている。母が遅れて、食卓に着いた。

「いただきまーす!」

ワタシの号令。ワタシがハンバーグにナイフを入れるのを優しい表情で見る両親。そして、下手くそに切ったハンバーグを頬張る。満面の笑み。

「おいしい?」

母が聞く。
ワタシはハンバーグを頬張ったまま、大きく頷いた。

「それじゃあ、パパも食べてみようかな」

ワタシを見ながら、父がそんな事を柔かに言いながらナイフを持った。ハンバーグにナイフが入る。
ひと切れ。綺麗に出来上がったそのハンバーグをフォークで刺したその時、呼び鈴の音が部屋に飽和した。

「あら、こんな時間に」

母が驚きながら、食卓を立とうとする。それを、父が止める。

「いいよ。今まで料理して疲れてるだろ。食べてて」

にっこり。優しい表情でフォークを置いて、リビングを出て行く。
数秒の平和。ワタシがふた切れ目を作ろうとしたその時。

「なんだ……!お前は……っ!」

玄関から、父の叫び声が聞こえてきた。



署に戻る頃には、雪が降り出していた。
クラウンのドアを開くと、途端に肺を満たす乾ききった空気に咳が一つ出た。

「長谷堂さん、風邪ですか?」

後ろからのそんな声に振り向くと、長身に筋肉質の体を思わせる肩幅を持った男が目に入る。

「いや、風邪じゃあない」

「そうですか。今日は随分走り回っていたと聞いているんで、風邪をうつされたかと思いましたよ」

一言一言をしっかり発音する、野太い声。短くまとめられた髪と、繊細さの見えない雰囲気ではあるが、彼の捜査は緻密さで定評があった。

「今日はあまり人と話をしていないさ。そう言う飯原はどうなんだ」

「今ひとつですね。前件の害者の身の回りを漁ってみましたが――」

共通点はまるでありませんよ、と顔を顰める。

「――あぁ、殺され方もまるで違う。手紙を置いてはいた様だが。もしや模倣犯か」

「と、僕も思ったんですがね」

言いながら、彼が扉を開ける。その奥の空間へ一歩先に踏み入れると、飯原が後に続いた。
リノリウムの床とくたびれたクリーム色の壁が伸びている。
時折すれ違う者は、あまり生気のある顔をしていない。今件で随分と根をつめている部署が多いと言う噂も多方外れでは無いらしい。

「現場には共通点があるんですよ。必ず、遺体がある所の頭上にはネオンの看板があります」

「看板?」

今日の現場を思い返してみるが、その記憶は無い。

「えぇ。初めと二件目はスナックの看板ですね。今回は雀荘の看板が、夜になると煌々と辺りを照らす筈です」

「それじゃあ、害者は犯人の顔を見ていると?」

「それだけじゃなく、場合によっては犯人が目撃されているかも知れません。まぁ、場所が場所なだけに飲み歩いている者が多くて聞き込みは難航していますが」

害者が見ているとしたら犯人は害者の知人である可能性が出てくる筈だ。だが、害者に共通点は無い。
一件目は35歳の男性、二件目は56歳の男性。そして今回、17歳の少女――。
――夜の街絡みのトラブルか……と言う可能性が不意に浮かんだ。

「なぁ、今回の害者は高校に落ちたんだよな」

「えぇ。その後、フリーターとしてコンビニで働いていた様です」

「ふむ」

コンビニだけか?と疑問が浮かぶ。少なくとも、16、7歳の少女が夜の街で働いていたとしたら、証拠は残っていまい。

「あの近辺で、少女を違法に雇っている店の情報は無いか?」

「泳がせている物も合わせると、いくつか」

「だろうな。そこが怪しいとは、思わないか」

あぁ、この飯原と言う男の目を見くびった事は無い。今だって、彼がその可能性に気がついていると言う事は計算の内だった。

「三件程は回りました。常連の客も合わせて。害者の写真を見せましたが、今のところは反応無しです」

「そうか。そっちの方は任せていいか」

「勿論」

飯原は力強く頷く。
彼がそちらを当たるのならば、俺は男達と少女の関係性を探る必要があるだろう。夜の街――では無い可能性も加味しなければなるまい。
思いながら、オフィスへの扉を潜る。暖房で重苦しくなった空気に、上着を脱いだ。数人がコーヒーを啜りながらパソコンの画面と向き合っているが、皆疲れた顔をしている。
俺も、自身のデスクに座った。マウスを揺らして、画面を表示する。矢印が砂時計に変わった刹那の内、傍らに置かれた写真立てに目が行く。
高校生の息子が二人、そして、妻。三人が待つ自宅には久しく帰っていない。

「あぁ」

電話も三日程していない。今日は電話をしてやろうと、心を決める。
画面を一別すれば、まだ砂時計の表示が消えていない。そんな画面に見切りを着けて、俺は再び席を立った。

無題・1

無題・1

過去の記憶と、現在の事件に引きづられる少女の物語。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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