被災地を歩く。後編
被災地を歩く。後編
2012年8月11日。その日から約1年3ヶ月。
声にならなかった。
カメラを手にし、そのファインダー越しに見る光景を目にすると、ぼくは声を失ったのだ。
あれから約一年半が経ち 、報じられる情報も少なくなるなか、自分の目で見て学ぼうと塩釜港を訪れた翌日にこの石巻港を訪問したのだが、ガレキの撤去こそ進んではいるものの、破壊された民家、水産工場、学校のその姿は、震災当時にテレビ越しにみた景色そのものだった。
その乱発により、安っぽさすら感じてしまう「がんばろう日本!」という言葉が虚しくぼくのこころを彷徨う。
津波により、建物の1階部分が根こそぎ破壊されるというその特徴的な被害状況は、地震そのものの被害をはるかに凌ぐ深い傷跡を残していた。
立ち止まることしかできなかった。
まるであの日のままかの光景をみて、果たしてここで写真を撮っていていいのだろうかと、罪悪感とも悲壮感ともつかない感情があっという間にぼくを埋め尽くしていった。それは"小さなメディアとはいえ、ちゃんと伝えなくては"という使命感などではない。ただ目の前に広がる光景を現実として受け入れることに必死だったにすぎなかったのだ。
上の写真は石巻漁港の写真だ。おそらく水産業者の建物と思われるが、何が建っていたのかが説明ができないほど、なんの形跡もないのがわかる。
さら地となった、震災後の石巻港を見渡しながら「これが現実なのかと」思うと本当につらい。部外者の人間は口にしてはならない言葉かもしれないが、その場からはやく立ち去りたいと思うほど「つらい」のだ。
ぼくが訪れた日はちょうどお盆の日にあたる。どこの墓も先祖を向かえようとお参りの賑わいをみせていたが、真新しい墓石がとても目立った。いったいどれほどの生活が一瞬にして流されたことか。普通に笑い、普通に泣き、普通に家族とに囲まれていた生活が流されたのだと思うと、自分自身が無力だと、ただ「無力」という言葉だけが頭を掠めた。
悲しみにくれる人にかける言葉などない。本当に悲しみを共有することを許されるのは、当事者意外にありえないからだ。「絆」「いまこそ団結」「日本の力を信じる。経済活動を止めない!」どれも立派で、精神そのものはすばらしいと思う。しかし、どこか薄っぺらく使ってはいないだろうか。その発せられる言葉に責任を感じているだろうか。ぼくはそう考えてしまう。
現地の復興はまだ始まったばかりだ。被災された方は上を向いて歩くことがままならずとも、それでも前を向いて歩いている。今回の旅で巡り合った方達は、そんなタフな人たちばかりだった。
そんな方々にひと一人ができることなど知れている。じつに些細なことしかできないのだ。立派な言葉を使い、それに酔ってはいけない、大事なのはどう向き合うか。どう寄り添うことができるのかを考えることなのだと思うのだ。
被災地を歩く。後編
はじめまして、相馬といいます。
農道市場というサイトを運営しています。http://noudou.jp/
そこで連載しているエッセイを抜粋して掲載させていただければと思っています。
今回は被災地、宮城県について書きました。