夏のおわり

大好きな父の田舎の風景をもとに書いた作品です。

 まばらに生える松の間に続く小道を、並んで歩いていた。
 僕は黙っていた。彼女がときどき何かぽつりぽつりと思い出話のようなことを話しても、相づちすら打たず黙って聞いていた。彼女もやがて何も言わなくなり、僕たちはよりいっそうひっそりと、松の間を抜けていった。ざく、ざく、ふたりぶんの足音が響く。久しぶりすぎるふるさとだった。
 唐突に少し強い風が吹き抜けて、彼女の黒い髪と白いワンピースを揺らしていった。長い裾のぱたぱた言う音の向こうに、寄せては返す波の音が聞こえる。彼女が髪を押さえて困ったようにちょっと笑い、なにか言った。風に流されたその声はうまく聞き取れなかったが、聞き返そうとも思わない。海は、もうすぐそこだった。
 松林を抜けるとすぐに砂浜で、その境にある低い堤防を越えると、かげにひっそりと、堤防に沿うようにしてひるがおが咲いていた。うすむらさきのその花を一輪摘んで、彼女の左の耳のところに挿す。ちょうどそのとき、厚い雲に隠れていた太陽が僕の真後ろから顔を出して、彼女は眩しそうに目を細めて笑った。小麦色に焼けた顔がくしゃり、と崩れる、この顔が僕は大好きだ。よく似合ってるよ。言う代わりにそっと頭を撫でると、彼女は顔は笑ったまま、目にほんの少しだけ寂しそうな色を浮かべた。
 彼女から目を離して海のほうに向き直ると、瀬戸内海のくすんだ海が視界に広がった。僕が最期に一度だけでいいから見ておきたかった海。曇っていて風もあるせいか、人影は見当たらなかった。ただ、波の音だけが辺りを満たしている。気配で、彼女も海のほうを見たのが分かった。彼女の手を取ってそっと握る。彼女も僕の手を握り返して、そして、言った。
「ほんとうに、わたしにできることはこれしかなかったの?」
 瀬戸内海に、僕の、僕たちのふるさとに、僕を連れて帰ってくれ――と頼んだのだった。彼女の夢のなかで。僕の身体はもう六日も前に死んでいて、だから、その夢を見た朝、僕が彼女の部屋に立っているのを見つけたとき、彼女はまず、幻覚だわ、と言ったのだった。声に出して。違う、と、僕は紙に書いて説明した。なぜだか現実世界では、僕は声を出すことが出来なかった。そしてふたたび頼んだ。僕をふるさとに帰してくれと。彼女はなにか決意を固めたかのように頷いて、そして、彼女の小さな車でここまで連れてきてくれた。
 僕はひとつ頷いて、それから思い直して首を横に振った。彼女が困惑したように僕を見つめているのが分かって、だからこそ海を見つめ続ける。僕は今からここにかえるんだ、と不意に思った。僕はふるさとの海にかえるんだ。
 唐突に、彼女がしがみつくようにして僕の手を握り締めた。驚いて彼女を見ると、じっと俯いて泣いていた。やめて、やめて、行かないで、ねえどうして、戻ってきたのに行っちゃうの――涙がゆっくり、彼女の足元の砂を染めかえてゆく。視線を砂浜に落とすと、僕の下半身は消えていた。左の指先も無い。ああ、行くんだ。声にならない呟きが洩れた。
 唐突に背後からまた陽光が射し込み、彼女ははっとしたように顔を上げた。まだ涙の光る瞳が大きく見開かれて、僕を見つめた。彼女と僕を繋いでいた右手が消え、彼女の手が宙を掻き、彼女は僕に向かいなにか叫んだ。聞き取ることは、できなかった。
 さよなら。
 僕はただ、そう口を動かして、潮風に溶けて消えた。
 夏はもう、終わろうとしていた。

夏のおわり

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夏のおわり

僕をふるさとに連れて帰ってくれ―― 夏はもう、終わろうとしていた。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-03-11

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