チアーズ・トゥ・ルミナリー
1:末期の水
一杯のカクテルに混ぜるため、私は彼女の姿をつかまえた。アルコールに喜怒哀楽やら愛情やら淋しさやら、何かしらの感情を浸して飲み干す儀式。その行為が許されている限り、生きていけると、私は信じている。あるいは、混ぜ込むものがなくなったお酒、それこそが私の末期の水だとも。
薄暗い店内のひたと静かな空気と、幽かに流れるピアノの旋律。駅前の喧騒がこの世だとしたら、他に客のいないこのバーはあの世だと思った。それでもこの一杯に、恐怖は感じられなかった。目の前のオールデイ・カクテルは末期の水ではないから。
これは、命の水。口の中で呟いて、グラスを握った。私はまだ生きていける。
何もかもが満たされていて、だからこそ、何もかもを失いそうで恐ろしかった日々を。艶やかな黒髪、吸い込まれそうな瞳、整った鼻梁に、果実に似たあの唇と、妖精のようなクスクス笑いを。私は、きめ細やかな泡の一つ一つにその総てを包みこんだモスコー・ミュールを、決して忘れないだろう。誰も望んでいない決意は最高のガーニッシュのようで、嫌がらせのように爽やかな音を立てて喉に流れ込んでくる液体がグラスからなくなった途端に、私が思わず零した涙は、コースターに這う水滴に落ちた。
「飲みすぎですよ」
耳朶を打つ低い声に私は顔を上げた。駅前の大通りから迷路のような経路を辿った先にあるバー・レミントン。そのマスターが、いつもの目で私を見ていた。
「今日は、瑞月さんとご一緒ではないのですね」
「私だって、ひとりで飲みたい時くらいあります」
バーテンダーとしての腕は一流。人柄も性格も見た目も悪くないけれど、彼はいつも一段高い所から私を見据えて、何でもわかっているようなことを言う。
特に今回のマスターの言葉は、私との会話に下手な入り方をした。今は、今だけは聞きたくなかった名前を、いとも簡単に口にしてしまった。
「申し訳ございません。出過ぎた真似でした」
両手をカウンターの下で握り込む私を見て、察したのだろう。マスターは目を伏せ、小さく喉仏のあたりで咳をした。
「いえ、私の方こそ、すいません」
強く握ってしまったせいで、しわのできてしまったスカートが落とした視線に映る。滑らかな布に走る歪な破線は、まるで昔見た戦争映画のようだと思った。
戦争。今日をその愚行だとするならば、私の敗北だった。実力も、とった行動も、あらゆる面における完全敗北。心に無数の穴が開いた。その穴の奥をのぞき込み、私は彼女の後ろ姿を思い出してしまう。胃の中で、アルコールと一緒に濁り、渦巻いていた記憶を、あろうことかその欠片だけを、私は取り出してしまった。
もれた溜め息。二酸化炭素の中に、飲み込んだものは見当たらない。それは私の、頭の中へと舞い戻っていた。
「全然、楽しそうじゃないね」
最初に私へ向けられた、彼女の言葉。ファッション学科の付き合いで無理やり連行された、懇親会という名の合コンでの一幕だ。
国際的に活躍する人員を多く輩出するモードカレッジに私と彼女は通っていた。夢を追いかける道の上で、立ちはだかる壁にもがいていた私にとって、もはやその響きに入学当初ほどの名誉は無かったけれど、彼女にとっては違っただろう。世界的デザイナーである父と、国内最高峰モデルである母との間に生まれ、それに恥じぬ美しさをまとって大いに輝いていた彼女にとっては。自分の周りにある全てが、人生の演出道具に見えていたはずだ。
少なくとも、私の隣に悠然と腰かけてきた彼女に対して、当時の私はそう思っていた。
「なんですか」
「別に、そう見えたから」
私が所属する服飾デザインコースと彼女が咲き誇っているモデルコースとは深い交友がある。校内においては、そのほとんどがカレッジの誇る一大イベントであるファッション・ショーのためにあるようなものだが、そのパイプが卒業後に真価を発揮する例もある。そうなると、懇親会が数多く催されるわけだ。しかしモデルコースは文字通り、誰もかれもが美男美女だらけである。そんな集団との交友を深めるお酒とお食事の会が、次第に合コンよろしく出会いの場に変わっていくのは当然だった。
「ねぇ、名前を聞いても良いかな」
「朝見です」
「フルネームを教えてよ」
「朝見陽奈です」
「どういう字を書くの」
「太陽の陽に、奈良の奈ですけど」
「ヒナ、陽奈。へぇ良い名前。私は」
「知ってますよ。姫野瑞月さん」
「む、名乗らせてくれても良いじゃない。朝見さんって結構イジワルなのね」
「そんなことない。と思いますけど」
彼女に対して、私は自分が思った以上に卑屈だった。例えるならば彼女は太陽で、私は影。何か変な引け目のようなものを感じてしまった私は、冷たいトーンで彼女の言葉に応えてしまっていたのだ。
しかし彼女は、そのパッチリと開いた目を細める。そうしてふんわりと子猫のように、あるいは狡猾な狐のように、口の両端を持ち上げてみせた。
「気が合いそうだね、私たち」
馬鹿にされているのかと感じた。しかし一瞬で頭に上ってきた赤くて熱い感情が波のように引いていったのは、私を見る彼女の瞳の奥に小さな光を見たからだった。求めていた何かを探し当てたような、希望に満ちた光。すると、それの差していない今までの彼女の目は、ひどくつまらないものであるかのように思えた。
「ねえ、二人で抜け出そうよ。ここにいる人たち、みんな嫌な感じがするんだもん。性欲まみれの汚い感じ。あなたからはそれがしないから」
「何が言いたいの」
「別に。ただ、私たち多分、似ていると思うの」
彼女は私の手を握った。小さな手のひら。それなのに細くしなやかで長い指。キラキラとしたマニキュア。私とは似ても似つかないのに。
戸惑い。ただそれだけに支配された頭を何とか動かそうとする私に、彼女はその端正な顔を近づけてきた。キスよりほんの少し遠い距離。彼女の声を孕んだ蠱惑的な吐息が、私の鼻先をくすぐる。
「いいお店を知っているの。二人で飲み直そう。きっと楽しいよ」
まるで魔女に惑わされて、森の深くに連れ去られる人間の気分だった。それは残酷なおとぎ話で、私は、悪い魔女に食べられてしまうのだ。彼女の美しさの秘訣は、若い女性の生き血なのかもしれない。だけど、もしその美貌の一部になれるのなら、このまま彼女に殺されても良い気がした。その代わり、髪の毛の一本も、骨の一欠片も残さずに、私の総てを食べてもらうようお願いしてみよう。
彼女の人差し指の先を、少しだけつまんでみる。星の散らばる爪がピクリと動いた、その反応がおかしくて、私は微笑んだ。
「いいよ。私なんかで良いのなら、付き合ってあげる」
「すてき。あなた、最高ね」
そうしてこっそりと店を出てから、電灯の明かりに導かれるまま、私たちは夜道を歩いた。月に見下ろされながら太陽の隣を歩くのは、不思議と居心地が良い。
「あの店に私目当ての人が何人いたのかな」
「そりゃ、あの場のほとんどでしょ」
「本当にそう思うの」
「それ、どういう意味」
「ごめんなさい、何でもない」
月明かりが薄くて、彼女の表情はあまり鮮明に見えない。俯いた彼女は、前髪をかき分けて、視線だけでこちらを見た。
「あなたの目当ては誰だったの」
「そんなの無いよ。私は無理やり連れて行かれただけ」
「ふふ、良かった。朝見さんに言い寄られたら、私、断る自信がないもん」
「何それ。変なお世辞」
彼女が何を言いたいのか、何を思っているのかは分からない。それでも、今まで私の中で君臨していた彼女の姿はすでに影も形もなかった。とてもフランクで、まるでずっと一緒にいる親友のように感じる瞬間すらあった。それと同じくらいに、やはり掴みきれないところもあったけれど。
「お世辞じゃないよ」
「そんなこと言ったら、私だって同じ。あなたに付いて行っているわけだし」
彼女はこちらを振り返った。腰を折り曲げて、お辞儀のような体勢。長い髪がはらりと垂れる。
「迷惑だったかな。でも、朝見さん、ああいう場所嫌いでしょ」
「うん。まあ、そうね。私、ああいう飲み会って苦手で」
見透かされたのが少し癪で、苦し紛れの言い訳を付け足す。その言葉を聞いて、彼女の楽しそうな笑顔に輝きが増した。
「じゃあ、バーはどう」
「好き」
「わぁ、私たちって本当に似てる。それなら、今から行くお店はきっと気に入ると思うよ」
「姫野さん、良いお店をたくさん知ってそうだね」
「そんなことないよ。普通、普通」
くるくる、くるくる、両手を広げて回る、踊る。星のない夜空が、彼女のためだけに在った。まるで映画のワン・シーンだ。主演、姫野瑞月。舞台は、ある変哲の無い町。ならば今ここに立っている私は。彼女の人生にとって、私は、せめてエキストラくらいには映っているのだろうか。
「着いたよ。ここが、私の一番のお気に入り。あまり誰かに教えたりしないの」
細い裏道だった。灯りといえば街灯が数本くらいのもので、とても暗い。今にも消えてしまいそうなネオンが示す、その名前、『レミントン』。
焦げ茶色の扉に手を添え、彼女が振り向いた。サラサラとした黒髪が鼻先に触れる。その笑顔が私だけに向けられているという事実に、少し満たされたような心地がした。
しかしそのバーの中は、彼女の紹介にしてはやけに閑散としていた。今しがたベルの音と共に入ってきた私たちの他に客はいない。曲名の分からないピアノだけが耳に忍び込んでくる。バーテン服の男性が、私たちにジロリと視線を送った。
「こんばんは、マスター」
彼女は軽やかな足取りで、常連らしくカウンター席へと腰かける。
マスターの、見透かそうとしているかのような視線から目を逸らし、小さく会釈をする。そして逃げるように、私は彼女の隣の席へと体を押し込めた。
「瑞月さんがお友達を連れてくるなんて、珍しいですね」
とても柔らかく、深い低音。思わず見ると、涙袋のくっきりしたマスターの目が細められていた。安心感のある笑顔だった。
「初めてよ。こちら、朝見陽奈さん」
「いらっしゃいませ。何をお飲みになられますか」
案外、良い店なのかもしれない。知る人ぞ知る穴場ということか。埃の溜まっていそうな空気が、途端に何だかしゃれて感じられるから不思議だ。
黒革張りのメニューの中から、私が頼んだのは見栄を張ったファジー・ネーブル。カウンターの奥に見えるクレーム・ド・ペシェか、でなければカルーアくらいが女子らしいカクテルのベース・リキュールとしてはちょうどだろうと高を括ったのだ。少しでも可愛く見せようと思っての選択。そんな私の悪あがきを軽々と飛び越えて、彼女はキールをオーダーした。
「ずいぶん甘いお酒を飲むんだね。朝見さん可愛い」
髪を耳にかけながら、彼女はおかしそうに笑った。白ワインとカシス・リキュールに彩られた深紅の海がその細い指に抱かれて揺れていた。
二杯目は、私がゴールデン・デイズ。飲みやすいけどお酒の味。
彼女のオーダーはナップ・フラッペ。クラッシュアイスの白色の下に横たわる、ブランデーとキュンメルの黄金と、透き通るシャルトリューズ・ヴェール。色彩の絡まりが美しいカクテルだった。
「朝見さんってこの町の人なの」
それからしばらく、ぽつぽつと言葉を交わしながら飲み進め、やがて五杯目を数える彼女のカクテルが無くなりかけた時、彼女は唐突に問いかけてきた。
「うん。高校を卒業して、県外の大学に行ったんだけど、辞めて帰ってきたの。デザイナーの夢を諦められなくて。姫野さんは」
「高校卒業して、それからママの仕事について世界中を飛び回ってた。二年くらいかな」
「凄いね」
「私はすぐにでもモードカレッジに入りたかったんだけど。実際にプロの仕事を見てからだと得られるものも良くなるでしょ。って、ママに言われてそのまま」
「高校は、どこ」
「姫高」
姫高とは、海を臨む丘の近くにある私立の女子高だ。紺のブレザーの制服が可愛い。いわゆるお嬢様学校で、一度、姫高の生徒にごきげんよう、なんて挨拶された覚えがある。
「さすが、似合ってる」
「やめてよ。名所が血まみれの丘なんて、全然すてきじゃない」
「血まみれの丘って」
「あはは。やっぱりうちの生徒以外には伝わらないんだね」
「あの丘のことだよね。どうして、そんな物騒な呼び名をしているの」
「何代か前の先輩がそこで掴み合いの大喧嘩をしたんだって」
「それで、血まみれ」
「詳しくは知らないよ。私ね、血まみれの丘で夕日を見るのが好きだったんだ」
「へえ」
「夕暮れって、太陽が沈んで、月が出る時間。とっても綺麗で大好きなの」
「血まみれみたいで」
冗談のつもりだった。カクテルを飲み干す彼女のクスクス笑いがもう少し見たかったのだ。
「そうだね。あの夕焼けを見ている人の顔は、確かに血まみれに見えるかも」
感じたのは恐怖。アルコールか、それともその、血にまみれた夕焼けの景色かは分からないが、何かに酩酊した声色だった。ここではないどこかを見ているような虚ろな目だった。氷に触れて濡れた唇は、幽かに震えていた。
そしてその姿は、何よりも美しく見えた。
「良い名前。陽奈って」
「さては酔ってるでしょ」
「朝見さんって、太陽みたい」
「何か変だよ」
「ねえ」
彼女の指が伸びて、頬に触れる。伝って流れたグラスの水滴が、私の体温を奪いながら、首筋を伝って襟口に消えた。
「月は、自分で光っているわけじゃないの。太陽がいないと、誰に見向きもされない」
「どうしたの」
「私たちは似ているけれど、やっぱり違うのかも」
「ちょっと、姫野さん」
「私。私、あなたの名前だったら良かったのに」
涙。
それは、どうしようもなく、涙だった。瞳から生まれて、目尻を濡らし、柔らかなバラ色の頬を犯していく粒。その雫を拭った人差し指は、とても綺麗とは呼べないかたちをしていて、私は、星の見えない自分の爪先を他人のように思った。
「いつもこうなんですよ」
マスターが呆れたように眉を歪めながら言ったのは、彼女が小さな寝息を立てはじめた時だ。
「何かあると、この店へ来てはお酒を飲んで、こうやって眠ってしまうんです」
「お気に入り。って、言っていました」
「そうですか。それは、それは」
その言葉に、マスターは柔らかな笑みを浮かべて頷いてみせる。それから、グラスに水を注いで彼女の隣に置いた。
「今日は、朝見さんが居られたので少し驚きました」
「私も、何が何やら分からないまま連れて来られて。でも、来て良かったです」
「ありがとうございます。あの、朝見さん」
その声は、少し芯のある色をしていた。
「瑞月さんを、支えてあげて下さい」
「私がですか」
「彼女がここに朝見さんを連れて来た。僕はそういうことだと思います」
私とマスターとの会話は小さく短いものだったが、眠りが浅かったのだろう。彼女は小さく喉を鳴らしながら起き上がると、目の前に置かれていた水をぐいぐいと飲み、目を擦った。
「何の話をしていたの」
「大した話はしていませんよ。さあ、もうそろそろ終電も無くなります。朝見さん、お帰りは大丈夫ですか」
「あ、はい。駅の近くなので」
「瑞月さん。あなたの家、遠いでしょう」
「大丈夫、タクシーがあるし。なんなら朝見さんの家に泊まるから」
「えっ」
「駄目かな」
「だ、駄目、ではないけど」
首を傾げる彼女の仕草は、ズルイほどに、可愛い。
「ふふ、ありがとう。それじゃあ最後に一杯だけ」
「まだ飲むの」
「いつもの。ですか」
「ええ」
呆れ顔で問うマスターに、彼女はいじらしい笑顔で応える。
一瞬だけ肩をすくめたマスターは私たちに背を向け、酒瓶の並ぶ壁に手を伸ばし始めた。何のことだか一人分からない私は、ただ、綺麗に切り揃えられたマスターのシルバー・アッシュのうなじと、彼女の艶やかな黒髪とを見比べるしかなかった。
「ねえ、ショットガンって知ってるかな」
「散弾銃のことでしょ。ゾンビを一気に倒せるやつ」
「違うよ、ゲームの話じゃなくて」
バイオハザードが伝わるとは思っていなくて、他人事のような驚きを感じながら、私は彼女のクスクス笑いを眺める。唐突な言葉に混乱しながら考えてみた。
「じゃあ、お酒の名前。聞いたことないけど」
「お酒は正解。でも名前っていうと、ちょっと違うかも。飲み方っていうか、スタイルっていうか」
その言葉に頷いたマスターは、グラスにテキーラとジンジャーエールを半分ずつ注いで私たちの前にそれぞれ差し出した。それを見て、咄嗟に浮かんだ私の苦い表情を、見逃すマスターではない。
「テキーラは苦手ですか」
「あ、はい。何かクセが強くて」
「じゃあ飲んでみて」
「え」
「テキーラが苦手なら、多分ビックリするよ。私の真似をしてね」
彼女はその手で蓋をするようにしてグラスを持ち上げる。グラスの水滴が落ちた瞬間、彼女は小さく、見てて、と呟いた。
私が聞き返す間もなく、彼女は、グラスを勢いよく振り下ろした。厚い底とテーブルが音を立ててぶつかる。彼女の手の中で、ジンジャーエールの泡が弾けた。そして彼女は得意げな顔をして、呆然としている私をチラと窺うと、爽やかな音を立てる液体を一息に飲み干した。
「だ、大丈夫なの。テキーラでしょう、それ」
「ふふ。飲んでみたら分かるよ。朝見さんも、ほら」
彼女の頬に朱色が差している。薄暗い店内に浮かぶ潤んだ瞳とのコントラストが言葉にならないほど綺麗で、私は無意識に息を呑んだ。急かされるまま、グラスに蓋をするように持ち上げると、彼女の視線が注がれているのが分かる。左の薬指の付け根が微かに痺れた。
「おっかなびっくりじゃ駄目だよ、一気に」
言われるまま振り下ろし、感じる激しく鈍い衝撃。目で見るよりも鮮やかに弾ける炭酸の泡が、指と指の間から溢れ出す。
「陽奈」
彼女のその声が引き金だった。そして、身体の奥に流れ込んでくる冷たい液体。これほどまでにハッキリと、澱みのないアルコールの奔流を私は知らなかった。
ショットガン。
形容すべき言葉が、それ以外見つからない。
テキーラが持つ、説明の難しいクセが苦手だったけれど、その味は違った。スッキリとして飲みやすい。
「ね、驚いたでしょう」
想像を遥かに超えるアルコールの銃撃に、私の意識は撃ち抜かれたのだろう。微笑む彼女の唇が慌てたように丸くなるのだけが、ぼやけて見えて、そうして視界が暗転した。
2:太陽と月
マスター、と私が呼ぶと、グラスを磨いていたマスターが目を向ける。
「あの時。この店に私が初めて来た時のこと、覚えていますか」
「そりゃあ、忘れられませんよ。いきなり倒れられたんですから」
「う、ごめんなさい」
「いいえ。それから陽奈さんも常連になってくれましたからね。あれから滅多にショットガンはしませんけど」
「一人飲みの時には、ちょっと」
「はは。賢明です」
にこやかな声だった。笑っている時、マスターの低いバス・ボイスは少しだけ掠れる。それに気付いたのは、彼女に連れられてこの店を訪れた二回目の時だった。
その懐かしい響きが、記憶を鮮やかに蘇らせる。カクテルに混ぜた彼女の姿はもう、ほとんど完全に、私の思い出の中で輝きを取り戻していた。
「陽奈さんは、瑞月さん以上に分かりやすい」
「え」
「お酒を儀式みたいにして飲むでしょう。飲み方は人それぞれですから、私が口を出すことではないですが。少なくとも、お酒は嗜好品ですよ。楽しむものです」
「そう、ですね」
「楽しいお酒の味を知らないことはないでしょう。瑞月さんと一緒に、そのカウンターでお酒を飲む陽奈さんは楽しそうでしたよ」
マスターの言葉が、耳を通り越して、何かもっと深いところまで這入り込んでくる。目を逸らす私に、マスターはまた、喉の奥で小さく咳をした。
「昔、言われたことがあるんです。客の話を聞くことは、酒をつくることよりもお前の仕事だ、と」
「誰にですか」
「瑞月さんのお父様です。自信満々で、彼女とは大違いだ」
「お知り合いなんですか」
「ええ。ですが、やはり美味しいお酒を楽しんでもらうのが僕の仕事なんです。さっきの一杯は失敗作だ。だって、美味しくなかったでしょ」
血管の浮き出たマスターの手が、空になったグラスを持ち去る。代わりに置かれたジブラルタル・グラスは水で満たされていた。一つだけ浮かんだ大きな氷がゆっくりと回っている。あの夜と同じだ。
「お話、聞かせていただけませんか」
私は、グラスに伝う水滴を眺めていた。拭うことなく、ただそれがテーブルを濡らす姿に魅いられていた。
重力に囚われた水滴が、氷と出会うことはない。二人を隔てるガラスはあまりにも厚かった。透明で、目に見える距離にいながら。まるで悲劇だ。息絶えたロミオとジュリエットの二人でさえ、互いに触れ合っていたのに。触れ合う、というのはこれ以上近づくことができない距離だと何かの小説で読んだ。それでも、触れられないというどうしようもないことよりは満たされている。満たされている、ということもまた、それ以上がない状態だと思った。
鼓膜には届かぬ小さな音。崩れる水滴の静かな断末魔。それを合図にして、私は重い口を開いた。
「ねぇ。聞いて、陽奈」
晩夏。長いようで、終わってみれば何のことはない休み明けのモードカレッジは、にわかに忙しさをそのキャンパス中から発していた。
カフェテリアでファッション雑誌をスクラップしていた私に、彼女が駆け寄って来たのは、そんな夏の暑さが中途半端に取り残されたような晴れた日だった。
「なあに。瑞月」
あの夜、私は気付いたら自室のベッドに横たわっていた。目と鼻の先にあった彼女の寝顔は私の脳裏に深く刻み込まれている。それから私たちはトモダチになった。お昼を一緒に食べ、学校を出て、レミントンで共にお酒を飲んだ夜には、二人私のベッドで眠りについた。彼女の腰にホクロがあること、鎖骨を触られるのを嫌うこと、下唇を噛むくせがあることを私は知っている。
彼女との親交が始まってからしばらくは壮絶なものだった。太陽を真横にして過ごすわけだから当然といえば当然なのだが、なにせ私は注目されることに慣れていない。彼女に向けられる羨望、欲望、その他諸々を孕んだ視線。その光線が奇異に染まり私を見るのだ。その間にも、彼女は舞うように私のそばに居たがった。
「ファッション・ショーだよ。私、ランウェイのファイナル・モデルに選ばれたの」
彼女は本当に嬉しそうな笑顔を咲かせた。私の手をぎゅっと握ろうとした彼女を制し、持っていたハサミを筆箱の中にしまう。
もちろん、それは教えられるまでもないことだった。それなりに多くの学生がいるこの学校で、唯一そうと信じていなかったのが彼女本人だ。
それが彼女だ。
「陽奈がいてくれたからだよ。ありがとう」
ここ数か月を彼女と過ごす内に分かったことがある。彼女は、自分の持つ美しさを自覚こそしているものの、それを自信とは思っていない。その美しさを、輝きを、自身によるものだとは微塵も思っていないのだ。
私は昨晩彼女にしたように、その小さな頭を軽く撫でた。柔らかな髪が指をくすぐる。彼女は気持ちよさそうに目を細めて、またクスクス笑ってみせた。
「良かったね。私も頑張らなきゃ」
モデルコースからファッション・モデルが選抜されるように、服飾デザインコースでもドレス・デザインのコンペティションが行われる。コンペに出されたデザインは実際にドレスになり、それをモデルコースの人間が着てランウェイを歩くという寸法だ。更に、その中で最も優れているとされたデザインが、一番の注目の的であるファイナル・モデルの着るドレスになる。
そして私もまた、彼女との約束を守るためにそのコンペに向けて鋭意デザイン中というわけだ。
「陽奈の方はどう、順調なの」
「自分では良い感じだと思っているんだけど」
「ねぇ、ちょっと見せてよ」
「駄目」
「むぅ。陽奈のケチ」
「見たら面白くないでしょ。大丈夫だから、瑞月は本番まで体調管理」
「はーい。ねぇねぇ、じゃあ、今晩泊まっても良い。それくらいなら良いでしょ」
「昨日も泊まったじゃない」
「今日は、あんまりお酒を飲まないようにするから」
「まあ、私より瑞月の方がお酒強いけどね」
口では言いつつも、私は彼女を歓迎した。今では彼女が私の部屋にいない夜の方が少ない。変哲のないワンルームに、彼女の匂いが混じる感覚。もうずっと、色づくという言葉の意味を忘れていたことに気がつく。
身体を重ねた夜が、何度もあった。いつも始まりは酩酊。白い肌と吐息に目が醒めて、しかし互いに理性は捨てて。その夜に交わした彼女とのキスは、いつもよりアルコールの味が薄かった。
「ねえ、陽奈」
肩を上下させながら私の名前を呼ぶ彼女の姿は消え入りそうだった。名に恥じぬかたち。夜月の、静謐に満ちた瑞々しい美しさを柔肌にまとっている。私は瑞月から指を離し、その隣に横たわった
「なあに」
「どうして拒まないの」
ポツリと。夜を染めるフクロウの歌だけが聞こえる暗い寝室に、彼女の声が落ちた。
「嫌じゃないから。私、男の子を好きになったことがないの」
笑いを含ませてそう言うと、聞こえてきた小さく鼻をすする音で、彼女の泣き顔が脳裏に浮かぶ。首を回してみても、目に映るのは彼女の黒髪と、浮き出た肩甲骨、タオルケット。
「瑞月は男の子を好きになったこと、ある」
「あるよ。でも、彼女がいたこともある。私は性別じゃなくて、個性で人を好きになるみたい」
「すてきだね」
「そんなに良いものじゃないよ。だって、それは人の常じゃないもん。どうしても、どうしようもなく、少数派」
「……私のこと、好き」
「どうかな」
彼女が寝返りを打つ。目のあたりが少し赤らんでいた。乱れたシーツの波を一つ一つ崩しながら、彼女は私の唇を短く、しかし強く吸った。
「って言ったら、私を嫌いになるの」
短く首を振って応えると、頭のどこかで、彼女の言葉が流れた。
月は自分で光っているわけじゃない。太陽がいなければ、誰に見向きもされない。
「ならない。私たちは、似ているけど違うって、瑞月の言ったこと。何となく、本当に何となくだけど、分かる気がする」
「そう。ねえ、陽奈。私さっき、ちょっとだけ嘘を吐いた」
目だけで、彼女を見る。
「私はね、人を好きになるんじゃないの。みんな嫌い。その中で、たまにいる、私の太陽になってくれる人が嫌いじゃなくなるの。だってその人から嫌われたら、私は輝けなくなってしまうもの」
「何を言っているの」
「すごく、私はすごくズルイと思う。でも仕方ないじゃない。私のことを見てくれない人なんて、嫌いになって何が悪いの。みんな、私を見ているんじゃないの。私が輝いているんじゃないの。全部、ぜんぶ、ゼンブ、私の後ろにいる、パパやママの光よ。きっと私が姫野じゃなかったら、私はいなくなってしまうわ」
彼女は手で顔を覆い、漏れ出そうとする声を唇で噛み殺していた。輝く光は失われていた。彼女の手の届く範囲に居ながら、何もできない自分がひどくみじめだった。
「陽奈。私の、太陽になって」
胸がしめつけられるような言葉。それは、時折彼女が見せる恐ろしい影そのものに違いなかった。
私は、今にも壊れてしまいそうな彼女の白く柔い肌を抱き締めて、彼女の名を呼んだ。瑞月。名前で呼ぶ、ただそれだけのことが、彼女にとってどれだけの安堵を生んだのだろう。私の指が乱れた黒髪を梳く。その度に、彼女は嗚咽を漏らした。その涙の温度が肌を通して染み入る感覚に、私はある決意を胸に抱いた。
「ごめん。シャワー、借りるね」
ベッドが彼女一人分の重みから解放されて少しだけ軋む。シーツの上に落ちていた、彼女の長い髪の毛をそっとつまみあげた。かすかに、静かな匂いがした。
「瑞月が私を太陽だというなら、私はそれに応える。だから私の月になって。私が輝かせてみせるから」
シャワーを終えた彼女に投げかける、約束の形にした決意。彼女は、髪を拭くタオルの隙間から笑んで見せた。沁み込むような静かな笑みだった。雫のような光を感じた。
「私、今日はもう寝るわ。陽奈はどうする」
「もう少しデザインしようかな。締め切りも近いし」
「そう。じゃあ、コーヒーでも淹れるね」
「濃いやつをお願い」
「シュガー・スティックは一つ、ミルクは無しね」
「うん。さすが、よく分かってる」
その言葉通り、彼女は私の好みにピッタリ合ったコーヒーを淹れてくれた。そうして、彼女はちょうど私が忍び込めるスペースを空けて寝息を立て始めた。母の胸の中で眠りにつく赤ん坊のような、安らかな平和に満ちた表情を浮かべて。
彼女が淹れてくれたコーヒーを飲み干して、私は、彼女のためだけの、私だけの光を創り上げた。カーテンの隙間から差し込む朝日が、彼女の長いまつ毛を照らしているのを眺めながら。
3:命の水
迎えた秋。モードカレッジの一大イベント当日、ファッション・ショーが行われる大ホールで、私は人混みにその体を潜ませていた。モニターには、ランウェイを歩くモデル学科の人間のプロモーション・ビデオが流れている。凝った映像だ。
数々の美女が映っては消え、また移っては映りを繰り返すその煌びやかな映像の中に、彼女の顔が映し出された瞬間、言葉として聞き取れないほどに重なっていた無数の声が歓声へと収束した。ショーが始まるといったタイミングに観客の興奮を盛り上げる演出。そしてそれを最大限に活かして見せた、彼女のカリスマ性あるからこその一瞬。私は改めて、彼女の凄さを実感した。
照明が落ちた。静寂の後に押し寄せる、まばゆい光。大歓声と共に、華々しいショーが幕を開ける。
お腹の底を震わせるような音楽と共に、ランウェイがスポットライトに照らされた。最初に現れたモデルは、学科の中でもそれなりの人気を誇る生徒だった。紅いベルライン・ドレスをたなびかせる姿は絵本のお姫様のようで、ヒートアップした会場の空気を一気に引き上げる。
それからも、たくさんのモデルがランウェイの上を練り歩いた。その一人一人が華やかだ。しかし私は、今までにない緊張に胸を支配されていた。
何故なら、コンペに参加したデザインは、どの作品がどれだけの順位なのかを明かされていないから。最優秀とされたデザインを除いて、それを着るモデルの容姿とマッチしたものがショーで用いられているのだ。決まっているのは一つだけ。最優秀作品は、ファイナル・モデルが身にまとう。
ファイナル・モデルは姫野瑞月だ。審査委員会満場一致。過去に類を見ない最速決定だったらしい。彼女ならば、どんな服だろうと着こなしてみせるだろう。
彼女を輝かせる。そのためだけに、私はあのドレスをデザインした。彼女に着てもらうという、ただそれだけのために。他の人では、駄目だ。一人、また一人とモデルがランウェイ上に姿を見せる度に、私はその身体を見つめた。あれは私のデザインじゃない。それが分かると、ようやく深い息を吐き出せた。そんな激動を何度も繰り返す。何度も、何度も、何度も。果てしない時間が流れたような気がする。
しかし、その色が目に飛び込んできたのは、あまりにも唐突だった。
「わあ。あのカクテル・ドレス、綺麗な色」
隣に立っていた名も知らぬ女性の声を、私は遠くで聞いていた。そのドレスの色はナップ・フラッペ。積み重なる冷酷なアイス・クラッシュの下で、透き通って輝く月色のカクテル。出会った夜、月を飲む彼女の哀しいまでの美しさを、その色彩に落とし込んだ、私だけの、彼女のためだけの、ドレス・デザイン……。
足から力が抜ける感覚。私はこのまま崩れ倒れることを、誰かに許して欲しかった。埋めつくす歓声が遠ざかる。
ほとんど悲鳴に近い喝采に、私は大ホールへと引き戻された。惰性で投げかけた視線の先、彼女が、ランウェイに立っていた。まるで太陽のような、赤いプリンセスライン・ドレスを着て。
彼女は、美しかっただろうか。輝いていただろうか。ホール中に響き渡る称賛の叫びは、一体誰に向けられているのだろうか。
月なんて、どこにもいない。
思わず漏れた嗚咽。ふいにこちらを振り向いた彼女と、確かに目が合った。どんなに距離があったって、見逃せない。その潤んだ瞳。
そこが限界だった。私は周りの人間を無理やり押しのけ、叫びながら、何にも振り返らず走った。駆ける、駆ける。欠けた心の痛みから逃げるように。
「陽奈っ」
彼女が叫んだ私の名が、幻聴だったのかどうかは分からない。ただ背後から迫る会場の歓声に先までの興奮はなく、ただそこには、戸惑いと混乱だけが渦巻いていたようだった。
気付いた時には、私は駅の大通りで立ち止まっていた。見上げた夜空に星はなく、ただ鈍色の雲に塗り潰されていて、あまりにも残酷な景色だった。
涙を拭うこともせず、私はフラフラと大通りを離れ、迷路のような裏路地を進む。やがて視界の先に映り込んだ明滅するネオンサイン。示された五文字。安寧の場所。この世界中を探したとしても、私が逃げ込めるのはここ以外にない気がした。そうして私は、焦げ茶色の扉に縋りついたのだ。
これが全てだった。
起こったことをすべて話した私は、目尻が熱くなっていく感覚をどこか遠くから見ていた。マスターはグラスを磨きながら話を聞いていたが、そのグラスは既に綺麗になって棚に並んでいる。
「逃げて来たんです。彼女を輝かせられなかったから。太陽になんて、私は、なれなかったんです」
震える手に、グラスの氷が耳障りな音を立てる。目を伏せて、マスターは口を開きかけ、しかしその喉を動かせはしなかったようだった。
「私、もう、彼女に会えません。きっと彼女は許してくれない。ごめんなさいマスター。私、ここにも来られません。だって、彼女がいなかったら、私、このお店を知らなかった」
マスターの目が少しだけ哀しそうに瞬いた。
「瑞月さんのことを、忘れられるんですか。瑞月さんが、あなたのことを嫌いになるなんて」
「じゃあ、どんな顔して、どんな言葉をかければ良いって言うの。彼女から逃げ出した私なんかが、今さら、どんな」
感情が、とめどなく溢れる。
「教えて。誰か、誰でも、良いから」
ベルの音がした。
「陽奈」
私は、振り向くのをためらった。そこに立っているのだろうか。彼女が。どんな顔をして。それを見てしまうのが怖かったから、私は小さく目を瞑った。
衝撃。幾度も触れた愛しい体温が、背中いっぱいに広がる。
「陽奈。ごめんなさい、私」
「どうして謝るの」
「だって私、すぐに分かった。あのドレス、あなたの作ってくれたものじゃないって。着たくなかったよ、あんなの。だから、ランウェイの上で陽奈が見えた時、私、私は」
「瑞月は何も悪くない。全部、全部、私が悪いの」
身体に回された細い腕を払い、私は後ろを振り返った。
「なのに、どうして……」
目の前で立ちすくむ彼女は、ボロボロのドレスを着ていた。ナップ・フラッペ色のドレス、泣いている月。
「私の太陽だから」
聞いたこともない声色だった。涙交じりで、裏返っていたけれど、聞き零れない言葉。
「陽奈が、私の太陽だから」
彼女は私を抱き締めた。震えている体中で、強く、どの夜よりも強く、私を抱き締めた。
「陽奈が輝いていたら、私も輝けるの。同じだよ。陽奈が泣いていたら、私も泣いてしまう」
「やめてよ」
「ねえ陽奈、お願い。私から離れないで」
「やめてってば」
「陽奈が好きなの。世界で一番。一番だよ。陽奈じゃないと駄目なの」
私は泣いた。声を上げて、彼女の胸で。泣かないで、と、何度も彼女が呟く度に、涙が溢れた。彼女もまた、私をその身に抱いたまま涙を流す。
傷ついた月と太陽は、いつまでも互いに縋りついていた。
声にならない声を上げ、息すらまともにつけずに泣いて、泣いて。ようやく私たちの目から雨が止んだ頃には、私の両腕は彼女の身体にしがみついていた。
嗚咽が収まるまで、私たちは何も言わなかった。目すら合わせなかった。ピアノが間の抜けたように鼓膜を揺らす。彼女が息も絶え絶えに口を開こうとした時、私は小さく首を振った。
「私も」
上手く吸い込めない酸素を使って、ようやく私が発した言葉。
「私も好きだよ。瑞月。あなたが好き。私、もっと頑張るから。瑞月が世界で一番輝けるように、私も輝けるように、頑張る」
「じゃあ、私も。陽奈の光を少しも無駄にしないようにする」
「許してくれるの」
「怒ってないよ。許すも何も、ない。だから泣かないで。もう私たちの間に、悲しみなんて要らないでしょ」
彼女は真っ赤に腫れあがった目を細めて、微笑んだ。
「さあ座って、何か飲もうよ」
「何を飲むの」
「んー」
「ナップ・フラッペはどう」
「いやだよ。陽奈はただの星じゃなくて、私の太陽だもん」
「どういうこと」
疑問を呈した私に、彼女はクスクスと笑った。
「太陽は君、月は私。だからナップ・フラッペは、いや」
「ははは。上手いことを言いますね」
「な、何。どういう意味ですか」
マスターの少し掠れたバスが会話に加わった。彼女と一緒になって、笑っている。納得もいかず理解もできず、どうすれば良いのか分からない私に、しかしマスターは、ホッとするような優しい声色で言った。
「いつもの。は、いかがですか」
「いつもの、って」
「次は倒れないでくださいね」
マスターはウインクして、私たちの目の前に、テキーラとジンジャーエールが半分ずつ注がれたグラスを一つ置いた。見覚えのある色のお酒だった。
「あれ、一つだけ」
「お二人でどうぞ。一人では楽しくない儀式でも、二人でなら美味しいかもしれませんよ」
「何、それ」
「あははっ」
私と入れ替わって首を傾げるその姿に、私は思わず笑った。それを見た彼女もまた微笑み、そっと蓋をするようにグラスを持つ。
「陽奈」
「うん、瑞月」
私はその上から、自らの手を重ね合わせる。
『せーのっ』
声を合わせて、持ち上げたグラスをテーブルに振り下ろす。透き通った音がして、弾けた泡に、くすぐったそうな笑い声。溢れる炭酸もそのままに、彼女が飲み、私が飲み干す。頭を揺さぶるアルコールの弾幕の中で、私は柔らかな月と唇を重ねた。ショットガン。
このお酒は、命の水。
チアーズ・トゥ・ルミナリー