淡い光の向こう側へ
ある日の昼休み。私はその日も、飲み物を買いに行くために学校の東階段を使っていた。中央階段と違い、東階段には窓がない。だからとても暗い。いつもと同じように4階から3階へ、3階から2階へ、2階から1階へと降りている途中の出来事だった。各階の壁には膝ほどの高さに非常口ランプが備え付けられている。普段ならその存在を気に留める人なんていない。しかし、その日だけは違った。階段を降りていると、いつもは昼休みでも静かな東階段が、階下からの生徒たちの声に侵食されていた。珍しいな、などと思いながら、踊り場から2階の光景を見て私は衝撃のあまり全身が硬直した。ランプには悪魔のような赤い目と口をした化け物の顔が浮かび上がり、周辺の床を暖色系や水色の淡い光で染め上げていた。そしてその光が足元にあたった生徒たちが、ランプもとい壁の中に吸い込まれていくのを目撃した。2階は瞬く間に混乱に陥り、集まった生徒たちはどんどん吸い込まれていった。私は「ここにいてはいけない」と思い、3階へ走り逃げた。
ところが何ということであろうか。私が3階へ行くとそこでもランプにはあの化け物の顔が浮かび上がり、廊下を歩いていた他の生徒たちは光に足元を取られ、壁の中へと消えて行った。怖くなった私は、もう自分がどこにいるのかすらも分からなくなる程に必死で走った。当然校内には至る所にランプが設置されており、かの化け物はランプのある場所にはどこにでも出現できるようだった。もう校内中が大騒ぎだ。大勢の生徒たちが恐怖の中走り回った。廊下は生徒たちで溢れかえり、気が付けば私もみんなも全体の流れに沿って逃げることしかできなくなっていた。少なくない生徒たちが行く先々でランプの中に吸い込まれ、人数は次第に減っていった。
そうして校舎中を逃げ回った末に行きついた場所で、きっと皆同じことを思ったはずだ。「嵌められた」と。そこは体育館だった。四方にランプが設置されている。きっとあの化け物は、この場所で一気に残りの生徒たちを吸い込むために私たちを誘導したのだろう。まもなくして四方から発せられた淡い光が床を覆い、皆もろともに吸い込まれていった_ハズだった。それなのに、どういう理屈か私一人だけが広い体育館に取り残された。ワケが分らなかった。孤独と恐怖に苛まれながら「私もいっそ吸い込まれて消えてしまいたい」と強く祈った。次にまた化け物の顔が浮かび上がったとき、何を考えたか私は自分からその顔に触れた。すると「これで全てが終わったんだ…」という安堵の言葉と共に私もランプの中に吸い込まれた。
そう思っていたのに、ああ。人生とは残酷なものだ。今目の前に広がっている光景は、さっきまで走り逃げていた学校の廊下にそっくりではないか。おそらくパラレルワールドとかの類だろう。昼休みだというのに教室には友達が一人で本を読んでいるだけで、他に誰もいない。それどころか空間全体が灰色で、空気が重く、周りにあるすべての物からとても切ない想いが伝わってくる。ふと、窓の外に目をやると、どす黒い雲が立ち込めており、街全体が静まり返って生の気配がしない。ちらほらと廊下の向こう側から歩いてくる知らない誰かの表情も、この世のものとは思えないほど暗く、冷たい印象を受けた。表情だけではない。体感気温も10度くらいだ。まるですべての存在が歴史上体感してきた「悲しみ」「恐怖」「痛み」「苦しみ」「嫉妬」という負の感情の一切が集まったような重圧が私を襲い、発狂寸前だった。
_あれからどのくらいの時間がたっただろう。そこから先のことはよく覚えていない。
淡い光の向こう側へ
ミサーケの世界観的に言えば、これがきっと「地獄」と呼ばれている世界の一つなのだろうと思った。一番最初に悪魔のような化け物の顔を見た時点でおそらくこの世界の私は死んでいたのだろう。あとのことは私の深層願望が反映されたものだろう。吸い込まれた先の世界において、友達一人と知らない誰かしか見えなかったのは、きっと元の世界で「人を人と認識する」という当たり前のことが完全にはできていなかったからなのだろう。それと同時に、自己に対する激しい蔑みも上乗せされていたというのもあるのだろう。当時は自分自身のことを含め、誰にも敬意を払っていなかったように思える。「想い」というのは伝染するものだ。その強い想いは一定層に広く伝わり、遂には「学校」という場そのものが低級世界へと反映されたものだろう。それならば元の学校に通っていつも通り普通に生活している「私」も存在しているハズだ。なのに、「元いた世界で吸い込まれた私」がこの地獄で過ごしたのは、「私」という個の魂が最も強く抱いている想いがこの地獄にふさわしいものだったからだろう。つまり、鏡に映った自分の内面に自己を乗っ取られた形だ。そしてその像こそが「私」という魂の本質になったがために存在する世界が変わっても、意識が連続している。