深大寺の大晦日

藤谷 雅彦

 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、大地震、そして津波、さらに原発事故。船井は勤務先、東京都心の十二階建ての十階にいた。昭和の四十年代終わりか五十年代初めの古い建物、揺れが怖いのではなく、少し前のクライストチャーチの建物のように崩壊するのではないかと怖かった。そしてあのひとのことを思った。

 平成六年の夏の終わり、あのひと、菊川 やえに出会った。学生時代の友人の小さな集まり、やえは友人の知合いの素敵な女性として招かれていた。それぞれの職場の近況、趣味、最近読んだ本、見た映画、上司に付いて初めてゴルフに行ったこと、先週末の結婚披露宴の二次会で可愛い女性と一緒になったこと。取り留めなく話が続いた。船井の隣に座ったやえは微笑みながら聞き、時折話した。座も寛いで、個々に話すようになって、船井はやえと二人で話した。
 外資系の広報に勤務していること、広告代理店に勤めている野口 美沙と一緒に仕事をして以来、時折、夕食をともにすること、美沙がこの集まりに連れてきてくれたこと。
 終電近く、美沙とやえがともに高円寺に住んでいることもあり、船井は二人をタクシーで送ることになった。やえを先に降ろし、美沙の住むアパートに向かう間、美沙が言った。
「いいひとでしょう。今度食事にでも誘ってあげて。」
船井は喜んでと応じた。

 三度目のデートは、十月初めの週末、やえの希望で深大寺だった。船井は名前はよく聞いていても訪れたことはなかったが、やえは少し前まで調布に住んでいたこともあって、馴染み深い場所だった。調布駅からバスで深大寺へ、バス停から左右の木々、お店を眺めながらやえに付いて歩き、本堂へ赴いた。千三百年の歴史、深い緑に囲まれた寺の大きな本堂。やえの隣で船井はお参りをした。理由はなかったが、何時になくこの静穏な時を大事に思い、無心の祈りを続けた。やがて隣のやえに想いがゆき、祈りを終えて、隣を見た。長い間の祈りに、やえは船井を見ていた。瞳と瞳が重なり、自ずと微笑みが生じた。そのまま二人は歩き始めた。
 本堂を離れ、境内のみどころを周り、船井とやえはお楽しみの深大寺蕎麦の店に入った。のんびりとしていたので二時近くになっていた。これほどに蕎麦の店が並ぶとどこにすればよいかと迷うと思ったが、やえは馴染みの店なのか、迷わずに一軒に入り、船井の了解を取って、お気に入りを二つ頼んだ。
 そのとき、船井は小川の姿を見た。背の高い、やや年上の男性と腕を組んで歩いていた。やはりどの店にするか、話しているようだった。別れを告げられてから半年か、幸せそうな様子に、船井は少し表情が歪んだが、なぜかそれだけのことだった。蕎麦が来て、やえに寺の歴史、蕎麦の由来を聞きながら、食した。特に深大寺縁起、縁結びの由来を話している間、やえは楽しそうでもあった。
 蕎麦を食べ終えたにもかかわらず、蕎麦屋の並ぶ界隈を散策し、船井はやえと小物、雑貨を売る店で珈琲と甘味を口にした。もう少し何か食べたいなと船井が言って、やえにあきれられたときに、店に男女二人が入ってきた。小川と連れだった。小川は船井を認めると、まだ見ていたかった様子の連れを伴って出て行った。船井はやえの言葉に甘味を諦め、帰途に着いた。
 バスの中でも電車の中でも、やえは黙っていた。船井は思い当たることがなかったので、疲れたのだろうかとそのままにしていた。高円寺の駅に着いて、それでは、と船井が言うと、やえが船井を見据えるかのようにして言った。
「あなたのことを聞いてもいいかしら。」
船井は最初やえが何を言い出したか解らなかった。
「僕の何を。仕事は大したことはないというのはこの間話したし、趣味というほどのものもないということも、、、」
「さっきの女性のこと。」
「さっきの、、、。」
「お蕎麦の店の前を通って、小物の店に入って来て、すぐに出ていったひとのこと。」
船井は気づかられぬように努めたものの、すべてを知られていたことに驚いた。しかしやえの様子の理由は解らなかった。
「前に付き合っていて、振られた女性。」
「そう。」
予想していたことを確かめたはずなのに、まだ納得のゆかぬ顔をしていた。
「振られたときは、未練もあったし、辛かったし、でも半年経って、今日、見かけて、終わったことだと自覚した。」
「そう。」
やえは黙っていた。
「本当だよ。」
やえは応えなかった。
「嘘なんてつくわけがない。」
やえはなおも黙っていた。船井は言わざるを得なかった。
「あなたと一緒にいたから。」
やえはそれでも黙っていた。その代わり、やえは船井の手を引いて、自宅、アパートの一室に連れ帰った。
 やえは無言のまま早めの夕食を作った。そして二人は黙って食した。
 その後、やえは灯りを消して、座った。
「ごめんなさい。そのひとに嫉妬したの。」
船井はやえの言葉が解らなかった。
「まだ会って間も無いのに。でも嫉妬したの。」
船井は頷いた。
「私のことは美沙さんから聞いているでしょう。」
船井は再び頷いた。
 やえは外資系の本社から派遣された上司と恋に落ちたが、彼には本国に家族があった。離婚するので待ってほしいと言われ、交際を続けたが、本社の役員に栄転し、やえとのことはなかったことにして、本社と家族の元に帰って行ったのだった。
「深大寺も以前、幾度か出かけたの。今日一緒に行ってもらったのも、昔の思い出を消すため。深大寺は好きなのに、昔の思い出に縛られてゆけなくなっていたから、あなたの力を借りたの。」
やえは船井に頭を下げた。
「美沙とはまだ付き合っている頃に知り合ったの。仲良くなって、何でも話すようになって、彼女は彼とのことに強く反対したの。いずれ帰る人、あなたのことは一時のことに過ぎないって。彼女は正しかった。」
やえは笑った。
「でも、今思うと、よく解らないの。本当に結婚できると思っていたのか、結婚したいと思っていたのか。彼に、家族のこと、奥さんのことを聞いても、少しも嫉妬しなかった。」
やえが船井を見た。
「嫉妬なんていう気持ちは忘れていた。それを今日感じたの。嫉妬したの。出会って間も無いあなたの、おそらくは昔の人に。」
 やえが救いを求めるように手を伸ばし、船井はその手を自らの手で包んだ。その夜、二人は結ばれた。
 それからはことの進みは早かった。やえは年末で会社を辞めて、一旦神戸の実家に帰り、就職活動をしつつ、結婚の準備をすることになった。
 大晦日、船井とやえは深大寺に出かけた。寒いにもかかわらず大勢の人で賑わっていて、除夜の鐘がようやく聞こえるほどだった。船井が甘酒を二つ頼もうとしたが、やえは船井のを少しもらえばよいからと、一つだけにした。しかしやえは船井に抱きすくめられるようにして飲んでいるうちに、殆どを飲んでしまった。残り少ない甘酒のコップをやえは微笑みで包んで手渡した。船井は苦笑で受け止めた。
 初詣客の中、船井とやえは本堂で年始のお参りをした。後ろの大勢の客に長くはいられなかったが、それでも二人のときが永く続きますようにと船井は真摯に祈った。

 年始、やえは実家に帰った。
 平成七年一月十七日午前五時四十六分、阪神淡路大震災。やえは船井の思い出にのみ残った。

深大寺の大晦日

深大寺の大晦日

  • 小説
  • 掌編
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