泡沫

泡沫

 水面に浮かび上がる泡。いくつもいくつも浮かび上がってきたそれはすぐに消えた。なんでもないことなのに、妙に胸騒ぎを覚える。海でも川でもお風呂でも、どこであろうと不安になる。「うたかたの恋」なんて言葉を耳にしたことがあるけど、うたかたは泡沫。つまり泡だ。すぐに消えてしまうことから儚いものの例えに使われる。でも、私の感覚はそれを知る前、もっと幼い頃からあった。

 数学の問題を解いていた手が止まる。電話が鳴っていた。時計を確認すれば午後11時を過ぎている。こんな時間に誰だろうと思っていると、電話のベルが止んだ。また間違い電話だろうかとぼんやり思いつつ、数式に意識を戻す。家の電話番号とどこかのカラオケ屋の電話番号が近いらしく、間違って掛けてくる人がたまにいるのだ。
「葉月」
 お母さんの声と階段を上がる足音が聞こえた。開いたノートの上にシャーペンを転がして椅子から立ち上がると同時に、ドアが開いてお母さんが入ってきた。
「着替えて。出掛けるから」
 何でこんな時間にと訊くことさえ許されないような空気だった。お母さんは青い顔で立っていた。夜中の電話とこの慌てよう、何かあったのだということはすぐにわかった。適当な服を着て階段を下りれば、もうお父さんは玄関に立っていた。
「何があったの?」
「父さんが風呂で意識を失ってるのを母さんが見つけた。病院に運ばれたが、まだ意識が戻らないらしい」
 その時、湯船に沈むおじいちゃんの姿がはっきり見えたような気がした。無数の泡が浮かび上がっては消え、やがて水面は静かになる。湯船に沈んだかどうかなんてわからないのに、頭からその映像が離れなかった。滑って頭を打ったとか何かの発作を起こしたとか、他の可能性だってあるのに。
 結果からいうと、おじいちゃんは溺死だった。病院に行ったが、意識が戻ることはなく、そのまま亡くなった。高齢者がお風呂で亡くなるのはそれほど珍しいことではない。お風呂場で亡くなる人は交通事故で亡くなる人の四倍だなんてデータもあるくらいだ。しかもその八割以上は高齢者らしい。でも、何かが引っかかっていた。

「これはなあに?」
 幼い私の声がする。畑の野菜を指差して、おじいちゃんに質問する。おじいちゃんはその一つ一つに答えてくれた。
「あ、これはにんじんだね」
「葉っぱだけでにんじんがわかるのか?」
「わかるよ」
「葉月はすごいなぁ」
 得意気に答える私の頭をおじいちゃんがなでる。日に焼けた手はお父さんのものより硬くてごつごつしていた。背後でかさりと音がして、私は振り向く。
「何の音?」
「ああ、罠にかかったんだよ」
 おじいちゃんは慣れた様子で手を伸ばした。檻のようなものの中に何かがいた。そこから出たいのか、狭い中を動き回っている。
「ネズミだ」
「ネズミってハムスターの仲間だっけ?」
「そうだな」
 私はハムスターを飼っていた。小さくてちょこまか動くハムスターをかわいがっていたから、興味がわいてネズミをじっと見てみた。正直、仲間には見えなかった。飼っているハムスターよりずいぶん大きく、元の色がわからないくらいに薄汚れたネズミは全く可愛くなかった。
「あんまり可愛くないね」
「可愛いもんか。こいつはガイジュウだよ、ガイジュウ」
 あの時は意味がわからなかったけど、今はわかる。害獣。畑を荒らしたり、病原体の媒介となったり、人間の生活に害をもたらす動物。
 私はおじいちゃんがネズミをどこかに逃がしてやるのだと思った。家に入ってきたトンボをお父さんが捕まえて外に逃がしてやったように。でも、違った。おじいちゃんが檻を持って歩き出したから、私はあとを追った。
 あっという間の出来事だった。畑の片隅に置いてあった水の入ったバケツの中に、おじいちゃんは何のためらいもなく檻を放り込んだ。水しぶきが上がって檻は沈んだ。ずっとそのままになっていたのか濁った水が入ったバケツ。その水面が浮かび上がってくる泡で盛り上がる。
「お義父さん、子供が見てるんですから」
 近くにいたお母さんが慌てた様子でそう言った。おじいちゃんを非難するような口調だった。おじいちゃんは何が悪いのかわからないような顔で笑っていた。多分、おじいちゃんにとってはそれが当たり前だった。私がアリを踏みつぶしてもなんとも思わないのと同じだ。
「葉月、こっちおいで」
「うん」
お母さんに呼ばれて歩き出す。気になって振り返ってみたけど、バケツの水面は何事もなかったかのように静かになっていた。
「ネズミは死んじゃったの?」
 お母さんは答えなかった。答えなかったから、そうなんだろうなと幼い私は思った。さっきまで動き回っていたあのネズミは呆気なく死んでしまったのだと。

 目が覚めると、嫌な汗をかいていた。今までずっと忘れていた。あの出来事は忘れても、どこか頭の隅に残っていたのかもしれない。だから、水面に浮かび上がる泡を見ると、妙な胸騒ぎがするのかもしれない。
 お母さんがおじいちゃんに何か言ったのか、たまたまそういう機会がなかっただけなのかわからないが、私がおじいちゃん家の畑で檻に入ったネズミを見たのはあの一回だけだったと思う。畑にいるネズミを目にしたことはあったかもしれないが、それは覚えていない。おじいちゃんはあの後も、ネズミが入った檻をバケツに放り込んでいたのだろうか。だとしたら、何匹のネズミがあそこで死んでしまったんだろう。
 おじいちゃんはネズミに仕返しをされたのかもしれない、なんて馬鹿げたことを考えてしまう。他人に嫌なことをすれば、自分に返ってくるというのがおじいちゃんの口癖だった。人じゃなくてネズミでも同じことなんだろうか。
 おじいちゃんの家に来た私は庭を歩いていた。畑の中に入っていくと、あの時と同じ場所に古いバケツが置いてあった。そっと近付いてみたが、バケツの水は濁っていなかった。中には何も入っていない。小さなゴミが浮いているだけだ。わかってはいたけど、少しほっとして息を吐き出した。その時、背後でかさりと音がした。ネズミがこっちを見ていたらどうしようと恐る恐る振り向いてみたけど、そこにいたのはお母さんだった。
「葉月、こんなところで何してるの?」
「なんとなく畑を見たかっただけ」
「そろそろ帰るから、おじいちゃんにもう一回手を合わせて来なさいよ」
「はーい。……ねえ、お母さん」
「なに?」
「ネズミの檻ってもう置いてないのかな?」
「ネズミの檻?」
 お母さんは不思議そうに繰り返す。全く記憶にないみたいだった。
「昔、おじいちゃんがそこのバケツに檻を放り込んだでしょ? ネズミが罠にかかったやつ」
「そんなことあった?」
 私もつい最近まで忘れていたんだから、お母さんが忘れているのも無理ないかもしれない。さすがに、おじいちゃんはネズミに仕返しされたんじゃないかとは言えず、私はまあいいやとだけ言った。
「じゃあ、行って来る」
 仏壇は奥の方の座敷にある。いつも線香の匂いがするこの部屋が小さい頃は苦手だった。部屋に入ってすぐ、遺影が目に入った。おじいちゃんが微笑んでいる。昔から置いてあった仏壇の横に白い布をかぶせた机があって、そこに遺影と花、ろうそくと線香がある。机の前に置かれた高級そうな座布団の上には何かがいた。思わず足を止めると、それはゆっくりと振り向いた。人間のような仕草で振り向いたそれはネズミだった。ネズミがちょこんと座布団の上に乗って、おじいちゃんの写真を見つめていた。目をこすってもう一度見た時、もうネズミはいなかった。逃げてしまったのかもしれないし、元からいなかったのかもしれない。
座布団に座った瞬間、ひやっとした。慌てて立ち上がって確認すれば、ちょうどネズミが乗っていた場所が濡れている。ああ、やっぱりと思った。檻に入ったままバケツの底に沈み、呆気なく死んでしまったネズミ。きっとネズミは、おじいちゃんの死を確認しに来たのだ。

泡沫

泡沫

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted