「ねぇ、ようすけ」
 あたしは隣に控える彼の名を、いつものように呼んだ。
「何でしょう、お嬢様」
 スーツをきっちり着こなした長身の彼は、コートの内ポケットから取り出した懐中時計を眺めていた。
「どうして相手の企んでること分かってるのに、こちらから動いちゃいけないのかしら」

 不思議で堪らなかったのだ。
 あの頃のあたしは幼かった。心を覗けるなんて素敵な能力は、使うことにこそ意味があると思っていた。

 やや沈黙があってから、彼はあたしに静かに問いかけた。
「では、今私が考えていることもお見通しですね」
 彼が俯きがちに微笑む。下から吹き上げてくるビル風に、前髪が躍っていた。あたしの黒く長い髪も流れるように宙を撫でる。
 ようすけの質問に答えるのはいつだって容易かった。
「えぇ、残念ながら今日の下着は赤じゃないわ」
「なるほど、それは残念です」
 あたしは口元へ手を当ててふふっと笑う。
「ようすけは、本当に赤色が好きなのね」
 彼のネクタイは紅緋に染め上げた一点もので、あたしが十二の時にプレゼントした品だ。
「えぇ。赤は、興奮を誘いますから」
「……ヘンタイね、貴方」
 彼の思考の中は赤で埋め尽くされていた。無駄なものの一切ない一色、それもひどく黒ずんだ赤だ。
「さあ、お嬢様。そろそろお時間です」
 先にようすけは屋上のフェンスを離れた。
 振り返ると、ベンチに置いていた着物入れの和装バッグを左肩に掛け、彼はこちらへ顔を向けている。整った彼の目鼻立ちが、おぼろげに霞んで見えた。
「先に行ってて」
 彼はあたしの要求に逆らって、ゆっくり左隣へ戻って来た。
 風がより強くなった気がする。

 視線をまた眼下へ戻した時には、もう先程の二人組は姿を消してしまっていた。
「今、追いかければまだ間に合うかもしれないわ」
 顔を上げて彼の表情を見ようとしたが、太陽の日差しで目がくらんだ。右手の平でひさしを作り、左手でようすけの袖を引っ張る。
「先手必勝って言うでしょう?」
「えぇ、ですから既に先手は打ってありますよ」
 あの人たちはこれから、あたしを攫いにやって来る。舞踊の稽古へ向かう道中を、灰色のバンに乗りこんだ五人組で襲うのだ。
 そして待ちかまえているあたしのパパの雇った人たちに掴まってしまう。
「人が死にそうなのに……」
 ぽつりと呟いたあたしの声は確かに小さかったけれど、それでもちゃんと隣の彼には聞こえるように言ったつもりだった。
 でも、ふいと覗いた彼の心は微塵も揺れなかった。

「あたし」とようすけの、ある昼下がりのお話。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-21

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