俺は静かにメガネを拭いた。

「さっきの先輩、すげえ面白かったっす」
 喫煙室に入って来るなり、後輩の発した第一声がこれだ。
「面白かったじゃねぇよ」
 俺は本日十二本目の煙草に火をつけた。
 仕事で致命的なミスを犯し、上司の逆鱗に触れ、散々だった。逃げるように先程から喫煙室に引き籠もっている。普段なら笑える後輩の冗談までもが、心臓を抉る凶器だ。
「こちとらマジで凹んでるんだっつーの」
 肺の隅々まで吸い込んだ煙を吐き出しながら呟く。
「だって、顔洗って来いって言われてメガネ拭く人、初めて見ましたもん」
 空気の読めない所がこいつの最大の魅力であり、最凶の欠点だ。
「俺の顔はメガネで成り立ってんだよ」
「ひゃは、だから可笑しいですってえ」
 やけに大声を出す後輩町田は、入社一年のひよっこだ。
 ひょんなことから趣味が同じと分かり連むようになった。俺の欲しかった可愛くて聞き分けの良い後輩とは程遠いが、こいつはこいつで一緒にいると良いこともある……はずだ。
「今日上がったら例のトコ行きましょうよ。こういう時は、ぱあっと楽しんで忘れちゃえばイイんすよ」
「いや、今悪い流れ来てるし。今日行ったら例の最悪パターンだって」
「大丈夫っす! オレ今週運勢良いんで、お裾分けします」
「前もそう言ってお前ばっかオイシい思いして、俺終電逃したろうが」
「あの日はたまたまっすよ。平気平気、今日の先輩はモテモテ間違いナシっす」
 何の根拠があるのか、町田はいつだって自信満々だ。
 結局俺は提案に乗る事にした。三十五歳独身、アパート直帰なぞ不健全極まりない。

「どうすか、今夜は?」
「急かすな。こういう大事なことはじっくり狙いを定めてだな」
「あ、ほら! 先輩ぐずぐずしてるから、あのコ行っちゃったじゃないすかー」
 騒がしい。こんな所で大声を出していたら通報され兼ねない。
「お前、口チャック」
「ひゃは、口チャックって、先輩いつの人すかあ」
 箸が転がっても可笑しい年頃らしい、町田は。
「もういい。俺はあっち見てくる」
「じゃ、オレの幸運飛ばしときますんで」

 数分後、俺は息をのんだ。
「どんぴしゃ好み、マジで町田ご利益か?」
 そっと艶やかなその体に忍び寄る。
 と、その時。
「あ! 先輩! オレ遂にやりました!」
 俺の指の先を目当ての虫達が飛び去る。最後の奴の尻からは飛沫を浴びる始末だ。
「……」
 振り向くと、町田の虫籠にはちゃっかり我が愛しのオオムラサキが居る。
「あちゃー 、顔洗いに退散します?」

「俺」と後輩町田の青臭い話。

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted