「あれは何」
「ん?」
 車の窓ガラス越し、(コエ)の指差す先を見る。対向車線の向こう側、ポストの赤色が少し浮き立つように見えていた。
「ポストだな」
 信号が青になり、再び車が走り出す。後ろへ遠ざかって行く赤い箱を目で追いながら、吟は再び隣に座る返閇(ヘンバイ)に尋ねた。
「ポストって何」
 すっかり視界から赤い色が消えた後も、吟はまだ窓ガラスに左の頬を付けて車の後方を眺めている。
「紙に文字を書いてあの中に入れる。すると自分の代わりに別の人が、それを相手の所に届けてくれる」
「相手……」
 吟の話し方は平坦で、感情が籠っているようには聞こえない。それでも返閇は、今の一言が持つ何処か冷えた響きに気が付いた。言葉選びに失敗したと感じた。吟にとっての“相手”とは、大抵決まって“敵”を表した。
 相手とは誰かと、吟は尋ねたりしなかった。
「吟」
 返閇は下を向いたまま、隣に座る少女に声を掛けた。吟は答えも振り向きもしなかったが、ちゃんと聞いていることは気配で分かった。この話題に触れて良いものか一瞬迷った。しかし、このまま他愛もない会話を続ける程の時間は無い。
「何故俺を見ない」
 低く籠った声になった。予想通り吟は反応しなかった。ひたすら窓の外を、光を失ったような瞳に映している。
「再会してからずっとだ。何故こちらを向かない」
 返閇は横目でちらと隣を盗み見たが、吟は少し首を傾げるような仕草をしただけだった。
 問い詰める気はなかったが、自然と語調がきつくなる。
「やはり俺たちが信用出来なくなったのか……今の俺は、お前の“敵”か?」
 言葉を重ねて踏み込んでも、やはり吟は無反応だった。

 沈黙に湿気が混じる。
 何時の間にか窓がほんの少し空いていて、車の走行音が大きく様変わりしていた。雨が降って来たのだ。
「あ、め……」
 黙り比べを破ったのは、意外にも吟の方だった。
「雨?」
 今度は返閇の問い掛けに、うん、と吟が頷く。相変わらず虚ろな目をしていたが、視線は幾分車内に向けられていた。
「……雨が降っていた、ずっと」
 吟は言葉を慎重に選びながら、額に指を立てた。
「でも、あの人が触った時、雨が止んだの、分かった」
 そうか、吟の言う雨とは、“あの音”のことかと気付く。何度か吟の頭を開いた際、途切れを知らず流れるノイズを、返閇も耳にした事があった。
「お前の言う、あの博士は、もう……」
 彼女から“あの音”と共に大切なものを奪った輩は、既に俺達の側ではない。

車内で交わされる、湿り気を帯びた二人の会話。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-21

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