その距離に足りないもの
第一章 六月の春
第一話 「マスク越しに」 side 有賀春基
第二話 「金曜日の白」 side 篠原瑞季
第三話 「涙のバニラアイス添え」 side 有賀夏帆
第四話 「問五」 side 岸田来夢
第五話 「車の中のグレー」 side 篠原瑞季
第六話 「黒猫の通り道」 side 有賀春基
第一話 「マスク越しに」 side 有賀春基
挿し込んだ瞬間、またかと思った。
案の定、朝出掛ける前にきちんと閉めたはずの鍵は開いていた。玄関口には見慣れたソーダ色のスニーカーが投げ出されている。
「ただいま」
大きなため息混じりに、リビングの方へ声を掛ける。珍しく返事が無い。ネクタイを緩めながら、自分の靴と散らかっている来訪者の靴を綺麗に並べる。すっかり最近の俺の日課だ。
一人暮らしと言いつつ、ただいまが言えるなんて贅沢だ、と仕事仲間からは何時もからかわれる。一理あるのかもしれないが、毎日のことともなると特に有り難さは感じられない。むしろ面倒にさえ思う。そのくせ帰宅の挨拶を欠かさず続けている辺り、俺は相当律義な性格らしい。
廊下からリビングに続く扉も、今日は開いたままだった。半ば肩を落としつつ部屋に入る。
「おい、上がったら鍵閉めろって」
「んー……」
顔は見えなかったが、レモン色のソファの上でだらしなく伸びているその姿は、間違いなく篠原だ。この部屋の主がどちらなのか、時折分からなくなる。
俺はそのままキッチンに入ると、ネクタイを尻ポケットに押し込みつつ湯を沸かす準備をする。烏龍茶の茶葉の香りに気分が和らぐ。自分用に薄めの一杯と、もう一杯はうんと濃いめだ。
「それにお前、リビングのドア開けっぱで」
「うーん……」
「どうした?」
いつもと様子が違う。対面式のキッチンから半身を乗り出し、リビングを覗き込む。俺の小言に言い返してこない篠原なんて、随分久しぶりだ。
「んー、何か、頭、痛くてさあ」
えへへ、と笑うその声は、少しくぐもっているように感じられた。
「はぁ? 風邪でも引いたんじゃないのか?」
「そうかも」
呆れた。沸かしかけていた薬缶をコンロから外す。
「そうかも、じゃねぇよ。さっさと帰れ」
代わりにシンク下の戸棚から小さな土鍋を引っ張り出した。
「えー、ふつー、病人に帰れとか言う?」
「普通病人は出歩かねぇよ」
「それもそーか」
小さく呟いて、篠原は乾いた笑い声を出した。無理して普段通り装ってんじゃねぇぞ、と俺は内心毒突く。
「……丸分かりだ、ばーか」
冷蔵庫の中に捨て台詞を低く吐きながら、卵やらネギやら、冷凍して小分けしてあるご飯やら、必要そうなものを取り出す。
「それに帰らせる、つったって二つ下の階だろ」
「無理」
「あのなぁ」
「階段、降りらんない」
「エレベーターあんだろ」
「そこまで、歩けない」
駄々をこねる子ども度合いが何時にも増して酷い。随分と大きな子どもがいたものだ。
「熱は?」
「……測ってない」
「お前なぁ」
小鍋に手早く下準備した諸々を投げ込んで、火に掛ける。横目で火加減を再確認しながらリビングに回り、本棚の上から救急箱を下ろす。体温計はその中だ。
「てか、すごい汗じゃねぇか」
黒い無地のTシャツも、白い薄手のジャケットも、湿って肌に張り付いている。額には玉の様な汗が浮いていた。肩で息をしている。
「外せよ、マスクしてると息し辛いだろ」
「だって、はるきにうつしちゃうから」
「だったら来るなよ」
マスクで菌は防げねぇぞ、と続けようと思ったが、あまりに熱っぽい篠原の瞳に、意地悪を言う気が失せた。
「今着替え出して来るから、待ってろ」
篠原の左手にそっと体温計を握らせ、隣の部屋へと続く引き戸を開ける。気になってキッチンを振り返ったが、鍋はまだ吹きこぼれてはいないようだ。
部屋の隅に置いてあるカラーボックスから、篠原のTシャツと短パンを選び出す。手頃な大きさで柔らかめのタオルも探し出し、篠原の頭に掛けた。
「着替える前にちゃんと身体拭けよ」
そのまま篠原には視線を合わせずに、土鍋の前まで戻って腕を組んだ。のそのそと起き上がる音がする。脱いだ衣服が、ばさりと音を立ててフローリングに落ちる。
「……はるき」
艶っぽい声がする。俺は無視を決め込む。調子が狂う。
土鍋から湯気が漏れ、俺はゆっくりと火を止めた。食器棚から小鉢とレンゲを用意する。
篠原が着替え終えたであろう頃合いに、鍋敷きをローテーブルに置きに行く。真っ赤なハイビスカスの鍋敷きは、篠原の親御さんがハワイ旅行の土産に買ってきてくれたものだ。
「ちゃんと挟んだか?」
無言で頷く篠原と、左の二の腕を抱くように抑えている右手を確認する。色素の薄い四肢が熱でうっすらと染まっている。足元に脱ぎ捨てられた衣服には、まだ篠原の体温が残っているような気がして触れなかった。
意識をキッチンから運ぶメインディッシュに集中させた。
土鍋の蓋を外すと、湯気の塊と共に卵とだしの甘い香りがする。いつもなら匂いだけで騒ぎ立てる篠原は、ただぼんやりと俺の手の甲の辺りを見ていた。
「食えるだけ食えよ」
梅の花をあしらった小鉢に、お粥と雑炊の合の子を少量よそう。
「ほら」
差し出した小鉢を篠原は受け取ろうとせず、首を横に軽く振りながらマスクを顎までずり降ろした。
「ん?」
篠原の意図が読めない。苦しいか、と尋ねようかと思った時、徐に篠原は口をぱかっと開けた。
「あーん」
思わず額に片手でチョップを入れる。触れた左手の小指にじわりと湿った熱が伝わる。
「いたい」
「こんくらいで痛い訳あるか」
「病人に、暴力とか」
「病人ならもっと大人しくしてろ」
指先の感覚だけがやけに敏感になる。柔らかな前髪の下からほんのり赤く染まった耳たぶまでをなぞる。
ピピピピ、ピピピピ。
電子音が響き、その先に伸ばしかけた左腕を引っ込めた。
「どうだ、熱」
「んー」
言わないところを見ると、さぞかし高いのだろう。横から覗き込むと、体温計の表示は三十七度丁度だった。
「呆れた、微熱かよ」
内心かなりホッとして、肩の力が抜ける。篠原は平熱が随分と低いため、もう一度でも高かったらタクシーを呼んで夜間診療にかかるつもりだった。
「とりあえずそれ食ってろ」
隣の部屋のクローゼットには、圧縮してある掛け布団とシーツが仕舞ってある。普段使っている敷き布団のシーツを外し、新しいものをセットする。
「布団、はるきのでいいよ」
「ばーか」
リビングに戻る頃には、小さな土鍋の中身はほぼ空になっていた。
「まだ何か食うか?」
篠原は首を横に振ると、顎にずらしていたマスクを元の位置に戻した。重そうに身体を持ち上げて立ち上がる篠原を、腕を組んだ状態で見守る。
「さっさと寝て、さっさと出てけよ」
「えー」
すれ違いざま、篠原はこちらには目もくれずぼそりと言う。
「ねぇ、はるき」
「ん?」
「好きだよ」
掠れていても、はっきり聞き取れた言葉に、俺の心臓はドクンと強く脈打った。
「何だよ、その色気のない告白は」
「えへへ」
篠原はドサッと倒れるように布団に寝転がった。
「今なら、襲い放題だよ」
無防備に両手を広げ、またもや、えへへと笑っている。
「ばーか、誰が襲うか」
「空気、読めないなぁ」
声がだいぶ眠そうだ。しゃがみ込み、首から下を覆うように掛け布団を被せる。
空気が読めないのはどっちだよ。
「もう寝ろ。明日の朝には叩き出すからな」
氷嚢と飲み物を用意しようと立ち上がり掛けた時、右手の袖口を引っ張られた。
「もうちょっと」
「は?」
「傍にいて、はるき」
このまま篠原に続きを言わせてはいけない、そう咄嗟に思った。
「ねぇ、はるき」
「ばか」
ごめんと言うべき台詞は、様々な理由を付けて俺の口癖に代わった。マスクの右上、目の下辺りに頬を添えるようにして口付ける。
顔が焼けるように熱い。ほんの一瞬大きく見開かれた篠原の瞳に、視線を合わせることはできなかった。
「はるき、今日はバカってばっかり言ってる」
「いつもだろ」
篠原は小さく、そうだねと返したようだった。
今度はしっかりと立ち上がり、キッチンへ向かう。製氷室の冷気が火照った頬を撫でる。
「こっちは明日も朝から大事な会議なんだ、風邪うつすなよ」
返事は無かった。氷がガラスに当たって、カランと良い音を立てた。
再度隣室へ戻ると、篠原はもう安心した顔ですうすうと寝息を立てていた。枕元にスポーツドリンクのペットボトルとグラスを並べる。額にそっと乗せた氷嚢は、篠原の呼吸に合わせて微かに動いた。
「少しだけ、な」
明日は朝から病院の手配だ。我ながらやはり、律儀で臆病な性格だ。
第二話 「金曜日の白」 side 篠原瑞季
目を開けると、天井が見えた。いつもの、寝室の天井だ。電灯からネコのマスコットが垂れ下がっている。暗闇では黄緑色に光る、白いネコだ。いつもと同じ、のはずだ。
それでも何となく、違和感があった。あったかい。そう、肩までしっかり布団を被っている。それに少し、優しい香りがする。
「そっか、はるきん家だ」
閃いた瞬間に自然と声が出た。
「そっかじゃねぇよ」
ぼんやりとした頭に、尖ったセリフの優しい響きがする。
「……はるき、まだ起きてるの?」
「寝惚けてんのか?」
すぐ近くで声がした。そちらにそっと顔を向ける。
はるきと目が合う。リビングとこの部屋の間の壁に凭れている。片膝を立てるような胡座をかいていた。桃色のマグカップが、口元に当てられている。
「……スーツだ」
「仕事だからな」
ネクタイの首元が緩められていて、ボタンが上から二つ開いていた。くっきりと浮かび上がっている、はるきの鎖骨が目に入る。その二つの骨の間に、無性に指を入れたくなった。
「カッコいい、ね」
「ん?」
はるきは何時だって、男前でカッコいい。
「……ネクタイ」
「ああ」
少し残念そうな声を出して、はるきはネクタイを摘み上げる。
「まぁ、近くで見なけりゃな」
気の抜けた台詞に、思わず吹き出してしまう。
「そんなこと言って、おじさん悲しむよ」
「だな」
大袈裟に肩を竦めて見せた後、はるきは屈託なく笑う。
歴代ウルトラマンが所狭しと散りばめられているネクタイが揺れる。有賀父が昇進祝いにプレゼントしてくれたらしい。このネクタイを目にするのは、これで三度目だ。
「今、何時?」
「九時半過ぎたとこ。朝の、な」
「そっか、もう金曜日、なんだ」
いつの間にか曜日が切り替わっている。世間が少し浮足立つ金曜日、こんな日は思ったままを言葉にするのが好い。
「朝、一番にね」
今朝の喉の調子は上々だ。
「おう」
続く言葉をはるきは待ってくれる。
「はるきの声、聞けるの」
「ん」
「久しぶりでうれしい」
長い腕が伸びてきて、前髪をくしゃくしゃとかき回される。
「えへへ、はるき照れてる?」
「ばーか、こんくらいで照れるかよ」
近付いたはるきから、コーヒーの香ばしい匂いがする。
「じゃあ、どのくらいなら照れる?」
「さぁな」
そのまま額を大きな手が覆う。指先だけほんの少し冷たい、いつもの手だ。視界が半分くらい遮られる。
「はるき」
「んー?」
「ありがとう」
「ばーか」
小指と中指の隙間から、ちらりと顔が見えた。今度は頬が僅かに紅潮した、と思う。その頬に触れたくなる。布団の中から自分の片腕を外へ出そうとする。でも、はるきには届かないと分かっていた。
はるきは伸ばしていた腕を引っ込める。すっと立ち上がる。背の高い彼の顔が遠のく。
明るい桃色のマグカップの底が見えた。白だ。手元と重なったはるきの表情には、上手くピントが合わせられない。
「お前も何か飲むか?」
「うーん、水、貰おうかな」
「スポドリもあんぞ、冷たく無いやつ」
「じゃあ、それ」
「あいよ」
キッチンへ向かう、はるきの背中をじっと見つめる。大きな黒い背中だ。昨夜の余韻を思い出して、その姿をそっと重ねる。
口にするか迷った。あの会話の続きを。
昨夜だって、きっとお互いに色々迷っていた。でも、分かっている。昨夜だけじゃない。ずっと二人とも迷子のまんまだ。
言葉は時に色んなものを壊すから。自分もはるきも、それを痛いくらい知っている。「だけど」と「だから」に続く二種類の思いを、頭の中で繰り返した。
「……はるきは、聞きたくなかった?」
プラスチックの、白くて小さなコップを持って、はるきが戻って来る。
「ん?」
問い掛けた言葉は届かなかったのだと思う。はるきはとぼけたように首を傾げた。
上半身を布団の上にゆっくり起こす。受け取ったコップは想像していたより、ずっと軽い。
「何でもない」
出掛かったどちらかの思いを、ごくりと飲み込んだ。スポーツドリンクをちびちびと喉へ送る。胸の奥のもやもやした部分に陰が差す。
コツ。
「ん?」
おでこの真ん中を、少し固いものでつつかれた。
「何、これ」
そのまま空いている左手で掴む。体温計だった。
「飲んだら計っとけよ」
「うん」
「もう伊東先生のとこ、電話してあるから。着替えたら出るぞ」
かかりつけ医の伊東先生の、白衣を翻す立ち姿が、一瞬で思い浮かぶ。
「え、病院行くの?」
「当たり前だ」
「はるき、仕事でしょ?」
毎週金曜日、昼前からはるきのところは会議がある。
「前原さんにはもう連絡した。今日の締め、一人でやるなら考えてやるってさ」
はるきの職場の上司、前原謙一郎さん。彼の柔らかな顔が浮かぶ。篠原家も有賀家も、昔から家族ぐるみでお世話になっている。まだ随分と若いのに温厚な物腰の、おじいさんみたいな人だ。
仕事の後片付けを一人でやれ、なんて、はるきの冗談だ。分かっていた。前原さんはそんなこと絶対に言わない。彼のことだから、凄く心配してくれているはずだ。「春基さん、瑞季さんの看病、しっかりしてやんなさい」とか言ったに違いない。
「いつもの『やんなさい』出た?」
「出た」
はるきは吹き出すように笑う。釣られてこちらも笑顔になる。
「やんなさい」は前原さんの口癖だ。小さい頃、よく二人で彼のモノマネをした。髪の毛をサイドで分けて、目を細く開けて、「やんなさい」と言うのだ。悪ふざけが過ぎて、お互いの父親にゲンコツを貰ったのを覚えている。有賀父の硬い拳を思い出した。
思わず頭に手をやる。同時にはるきも手を動かしていた。
「思い出すね」
「だな」
少しだけ、お互いに弱々しい声になった。
「ま、だから急いではねぇけどな。伊東先生のとこ、混むと面倒だろ」
「そうだね」
伊東診療所の待合室には、グリーンの長椅子が五脚ある。
問題は混むことじゃない。分かっていた。自分のせいだ。分かっている。でもこれは絶対に言葉にはしない。
「……甘やかされてるなあ」
はるきに沢山の荷物を押し付けている。自分の浅ましさを思った。
「熱、測るね」
「おう」
頭をポンと叩かれる。カーテンの隙間から、日の光が差し込んでいるのに、今更ながら気付いた。
ピピピピ、ピピピピ。
昨夜も聞いた電子音が響く。三十六度四分、昨日より熱は下がっている。
いつの間にか気付くと布団の隣に、水色の着替え袋と木彫りのトレーが置かれていた。コップをトレーに置き直す。はるきは洗面所のようだ。
のそのそと布団から出る。剥き出しになった脚が少しひんやりする。
袋の中には、グレーに黄色のラインのスウェットが入っていた。綺麗に畳まれている。きちんと間に見えないように下着が挟んであった。
「昨日、替えなかったっけ」
開いている引き戸からリビングへ顔を向ける。この角度から見えるのは、リビングの中央、ローテーブル辺りだ。はるきがキッチンに戻ってもこちらは見えない。
少し躊躇ってから、その場で黒い短パンを脱ぐ。
はるきの家にはよく泊まっている。脱衣所では抵抗なく裸になれる。でも、寝室ではやっぱり慣れない。微かな背徳感が、胸の奥を淀ませた。
「入るぞ」
はるきの声がして振り返る。
「何だ、布団畳んだのか?」
「うん、ダメだった?」
「いや」
「これ、外したけど」
手に持ったシーツを持ち上げて見せた。ふわりと空気をはらんだシーツが、一瞬二人の間を埋める。
「お前が自分から片付けとか、どういう風の吹きまわしだよ」
はるきの脛を目掛けて、えいと蹴りを入れる。
「イテ」
避け損なったはるきは、低く抗議の声を上げた。
「こんくらいで痛いワケあるかー」
斜め下から見上げながら、かき集めたシーツをぎゅっと抱き締める。
「何だ今度は俺の真似か?」
「はるきのマネするなら、バカっていっぱい言わなきゃ」
「ばーか」
片手のチョップが額へ飛んでくる。真白なシーツの塊を盾にする。
はるきの瞳が優しく揺れた。
第三話 「涙のバニラアイス添え」 side 有賀夏帆
602号室のインターホン、その電子音が二日酔いの頭に響く。
何時もはすぐ反応する部屋の主が、珍しく出て来ない。ハルのくせに、と心の内で舌打ちをする。
「ちょっとー」
もう一度インターホンを鳴らす。
ピンポーン、ピンポーン。
機械的な音が二回繰り返され、また静まり返った。
「ねー、いるでしょー」
隣近所の体裁なんて、この際関係ない。早く、一刻も早く、開けやがれこの野郎。
六月にしてはすっきりした天気の金曜日の朝、私の胸中はぐちゃぐちゃの土砂降りだ。
昨夜、見たくもないものを見た。その数秒を思い出しては、吐き気と悪寒が蘇る。
何がいけなかったんだろう。仕事が立て込んでいて今夜は帰れないかもしれない、と告げたのがまずかったのか。それとも、思った以上に電話での打ち合わせがすんなりと済んで、これなら帰れる、とあの最終電車に駆け込んだのが間違いだったのか。
馬鹿な問いが駆け巡る。
答えなんて端から分かっていた。昨日の行動が一つや二つ違っていたところで、いつかはこうなった。そもそも私達の歯車が狂い始めたのは、もっとずっと前なのだから。
「ねぇ! ちょっとー」
ガチャン。
「朝っぱらからうるせぇな」
やっと開いたダークグレーのドアから、低音の怒声が聞こえる。現れたスーツ姿の家主、有賀春基は、ネクタイを弄りながら眉を顰めた。
「なんつー顔」
「いつまで待たせんの。早く開けなさいよね」
「こんな時間から酔っぱらいの世話なんてしねぇぞ」
泣きそうになるのを必死に堪えて、俯いたままハルを押しのけて中に入る。
「おい、デカい靴、こんな狭いとこに散らかすなよ」
棘のある声で文句を言われる。
「ばっかじゃないの! ブーツ倒れただけでしょ。あんたが靴箱に余計なもん入れてんのが悪いのよ!」
ハルは男の癖に、細かいことをグチグチ言う。大雑把な私は言葉を選ばず、グサグサと言い返す。今はその、いつもと変わらない口の悪さに、いつもと変わらない反撃ができることが救いだ。
「そりゃ、こっちのセリフだ」
そのまま、冷凍庫の中のアイスソフトでも漁ろうと進みかけた時、部屋へ続く扉が少し開いて、可愛らしい顔がひょっこりと覗いた。
「あ、かほちゃん」
「え、ミズちゃん。来てたの? お、おはよう」
内心の動揺を必死に隠して、素早く笑顔を作る。私が手を振ると、ミズちゃんも細い指をひらひらと揺らした。
「おはよー……かほちゃん?」
ミズちゃんこと、篠原瑞季はハルと同い年の幼馴染みで、私とは六つ歳が離れている。あどけない顔立ちと言動とは裏腹に、勘が物凄く冴えていて、私が失恋すると一番に気が付くのは、大抵ミズちゃんだった。
歳を取るごとに別れの重みや痛みは変わっていく。今の私には、それを真正面から受け止めるほどの器も、笑って受け流すだけの気力もない。傷は酷く膿んでいる。汚い。そんな醜い物を、綺麗なこの子に触れさせる訳には行かない。
今日もここままでは悟られてしまう、と咄嗟に感じ、話題を別のところへ移す。
「てゆーか、ミズちゃん、何それ! その格好!」
一瞬きょとんとした後、ミズちゃんははにかむように笑った。
「えへへ、今日はスウェット」
淡い灰色に鮮やかな黄色の三本ラインが入った、何とも言えないセンスのスウェットだ。
「ちょっとハル! 何てもん着せてんのよ」
「何だって良いだろうが」
いつの間に先にキッチンへ入ったのか、銀のスプーンを持ったハルが顔を出す。
「病院行くだけで着飾ってどーすんだよ」
「スウェットで外出す気なの!? てゆーか、病院!? どうしたの?」
二重にやってきた情報に思考が混乱する。
「えへへ、風邪引いちゃった」
「えっ、大丈夫?」
ミズちゃんの身体が弱いことは、昔からよく知っている。低体温で免疫力が低いのだ。
「熱は? ご飯は食べた?」
とても幸せそうに笑った後、ミズちゃんはすっと手を伸ばして私の髪を撫でた。仄かに甘い香りがする。
「やっぱり、はるきのおねーちゃんだなあ」
今度はこちらが固まってしまう。
「熱計らせたし、飯も今食わせた」
ハルがぶすっとした様子で簡潔に説明した。
「そっか」
「熱はね、起きた時にはね、もう下がってたの。病院行かなくても、平気だと思うんだけど……」
ミズちゃんは私に向かって話しながら、ちらちらとハルの様子を窺っている。
「もう伊東先生には連絡したって言ったろ。早くしねぇと心配して、こっち来るぞ、あの先生」
「有り得る。あの先生、心配症だもんねぇ」
有賀家、篠原家共に掛かり付け医である伊東診療所の、もう還暦近い院長先生とは二十年以上の付き合いになる。私たちの成長をずっと見守ってくれている先生は、第二の祖父のような存在だ。
「そっかぁ。大先生、歩かせる訳にはいかないもんね……あ!」
一旦しゅんとした様子で頷いたミズちゃんは、ぱっと目を輝かせて私を見つめる。
「じゃあ、ちゃんと行くから、かほちゃんも一緒に見てもらお?」
「えっ」
返す言葉に詰まる。
「熱、あるでしょ?」
「あたしは……」
ひんやりしたミズちゃんの手が、柔らかく額を覆う。思わず目を瞑った。
「ほら、やっぱり」
「あんたもかよ」
キッチンから聞こえて来た呆れ声に向けて、鋭い視線を送る。
「いや、あたしは、あれ、そう、ただの二日酔いだから」
正確に言えば飲んだのは明け方で、禄に寝ていないから、ただの酔いとも言える。必死に化粧で隠したつもりの目の下の隈も、この至近距離では誤魔化し切れない。
ミズちゃんは首を振る。
「熱、あるよ」
その強い口振りからすると、本当に私は熱を出しているのかもしれない。体調管理すらできないなんて、何という大馬鹿者だ、と自分自身に腹が立つ。
「あ、うん。なら、一緒に診てもらおうかな」
「うん」
屈託なく笑うミズちゃんの声は、青空のように澄み切っている。
「かほちゃん。大丈夫じゃない時はね、そう言っていいんだよ」
「あ……」
バレてる、と気付いたその刹那、自分の顔が怯えたように強張ったのが分かって、慌てて下を向く。
「うん」
目頭が熱くなる。それ以上深く踏み込んでは来ない、ミズちゃんの優しさが有り難かった。
「大丈夫じゃない、かも」
小さな小さな呟きが、誰の耳にも届いていない事を身勝手に願う。意地っ張りな私の背中を、ミズちゃんはそっとさすってくれて、ハルは無言で濃いコーヒーを突き出した。
「あたしがさ」
運転席のシートベルトを締めながら、後部座席の二人に努めて明るく声を掛ける。
「今日ここ来なかったら、どうやって病院行くつもりだったの?」
「どうやって、行くつもりだったの?」
私のセリフを繰り返しながら、ミズちゃんは隣のハルを見上げている。
「そりゃ、姉貴に電話だろ」
踏ん反り返っている弟を、バックミラー越しに睨み付ける。
「は? あたしがあんたの頼み聞いて、わざわざここまで来る訳ないじゃない」
「いや、篠原が倒れたって言やあ、絶対来ただろ」
「ひどい! 倒れてはないよ」
ミズちゃんが憤慨して、ハルの太ももをパンパンと叩いている。
「倒れてただろうが。人の布団、占領しといて良く言うぜ」
「それはー、はるきが、一緒に寝てくんないから」
「ばーか」
二人の他愛のないやり取りを聞いていると、心の緊張が少し解れる。
「あのさー」
ごめんね、と心の中でミズちゃんに謝った。やっぱり醜いものを抱えたまま笑い続ける力が、未熟な私にはなかった。
「うん」
振り返らずとも、しっかりと聞いてくれているのが分かる。
「……あたしさ、昨日見ちゃったの」
「うん」
「あいつの浮気現場」
「うん」
「汚かった」
「うん」
「気持ち悪かった」
「うん」
「……もう、やだ」
我慢の限界だった。昨夜からずっと押し留めていた決壊が崩壊する。
アパートの駐車場に停めた赤い車の中、握り締めたハンドルに強く爪が食い込む。そこに突っ伏したまま顔が上げられず、もちろん車を発進させることもできない。全身を掻き毟りたい程の嫌悪感で、今にも吐きそうだ。
「やだ」
「うん」
「やだよお」
後ろから灰色の袖が伸びて来て、座席ごと肩を抱かれる。冷たい手が、開いた首元に触れて心地良い。そこから体内に清水が流れ込んで来て、私の身体の中の不純物を洗い落してくれるような気がした。
「かほちゃん」
「……うん」
「今夜は、うーんと美味しいもの食べよ?」
「うん」
今度は私が頷く番だ。
「かほちゃんの大好物の、サーモンとほうれん草の生パスタにね」
「うん」
「白ワインでしょ。それから、クルトンいっぱいのサラダに」
「うん」
「後は、デザートにね……」
「うん」
「ティラミス!」
頬を伝う涙が口の端に触れて、唇の隙間から滑り込む。しょっぱさと同時に、ファンデーションの苦みが舌に滲みた。
「しょうがねぇな」
盛大なため息が耳元で聞こえる。
「バニラアイスも足してやる」
一際大きなハルの手が、私とミズちゃんの髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「ちょっとハル! 何すんのよ!」
「そうだよ、はるき、大事な作戦会議中なのに」
「何が作戦会議だ、どうせ俺が作るんだろーが」
ハルは徐にドアを開けて外へ出ると、運転席側へ回って窓をコツコツと叩いた。渋々こちらもドアを開け、その不機嫌そうな顔を見上げる。
「何よ」
「ほら、さっさと席移動しろ。俺の出勤遅れて残業になったら、そもそも今夜の飯ねぇからな」
「……それは、困る」
素直に運転席を明け渡して車外へ出る。
夏の入り口の匂いがした。日差しの強さで目が痛い。
もう昼に近い六月の生温い風は、私の頬に残る涙の跡を、爽やかに撫でて行ったようだった。
第四話 「問五」 side 岸田来夢
とにかく、イライラする。家でも、学校でも、そして塾でも。
あたしは不幸だ。
父親の顔は覚えてない。
母親は最近、あんまり家に帰って来ない。
カレシは今きっと、アリサと保健室でヨロシクヤってる。
その上、あんな……。
ああ、あたしは不幸だ、不幸なんだ。
「せんせーさー、カノジョとかいないの?」
「いねぇよ。ほら、手止めんな」
講師用ブースの中央に、今日も強制補習スペースが作られている。あたしはそこの椅子に、さっきから縛り付けられたまま帰らせてもらえない。
「過去は? 何人ヤったことある?」
芯を出しては入れて、入れては出して、思わせ振りにシャーペンを弄る。
「セクハラすんな。ほれ次、って、お前、問五飛ばしてんなよ」
目の前に広げた国語の解答用紙を覗き込んで、有賀先生が文句を付けてくる。
「だあって、記述とかまじうざいんだってー」
「ほら、設問読む」
「ねー、せんせーさぁ、溜まってんなら相手してあげよっか?」
バン。
予想の上を行く大きな音に、本気でびっくりした。「きしだらいむ」と書かれた授業進度報告書のボードが、あたしの頭の上にある。
「いったー、うわ最悪。体罰じゃん、暴力教師」
目力で射殺すつもりだったのに、有賀先生は素知らぬ顔だ。
「ねー、塾ちょー、有賀せんせーが今殴りましたー」
ちょうど机の側を横切った塾長に訴え出る。
「お前、前原先生に絡むなよ」
軽く頭を下げた有賀先生に頷き、塾長は参考書が詰まった本棚の物色を始めた。
「さっさと次。問十二終わるまで、こっから逃がさねぇからな」
「うわ、まじうざ、監禁じゃん」
脚をばたつかせて抗議する。制服のチェックのスカートがめくれるようにと願ったけれど、全然上手くいかない。
「あたし今日、授業じゃないのにさー」
塾長は手に取った問題集で口元を隠しながら、ちょっと笑ったみたいだ。
「有賀先生、程々にしてやんなさい」
「あー、笑ってる。塾ちょーまで、あたしのことバカにしてんですかー」
「ほら、口より手、動かせ」
べっと舌を出してから、プリントをじっと見る。「問五、この時のサチ子の心情を分かりやすく六十字程度で書きなさい。ただし、文中に『母』『晴れ着』の二語を含めること。」
「あたしに命令してんじゃねーよ、問題文のくせに」
小声で言ったつもりなのに、有賀先生があたしの発言を拾って、豪快にため息を吐いた。
「問題文だって、好きでお前に命令してんじゃねぇだろうよ」
「棒読み。そんなん、あたしさらにカンケーないじゃん」
あたしはやっぱりその問題を飛ばして、問七の空欄に「きも」と書いた。
「ねーせんせ、怒ってる?」
「真面目に問題、取り組むっつーなら怒んねぇよ」
「そーじゃなくてー」
有賀先生はこちらを向いてくれない。今日の夕方の授業で返すテストの丸付けをしている。大きな手の甲に浮かぶ筋が動く度に、心臓がどきどきした。
「分かってて言ってんでしょ、まじうざー」
「お前なぁ、その口癖止めないか?」
「え、どれ?」
「まじうざって」
「うわ、せんせーが言うとさらにまじうざ」
「お前国語の成績良いんだからさ、普段の言葉遣いも何とかしろよ」
「えー、有賀せんせーだってさー、国語教師なのに、チョー口悪いじゃん」
「俺はほっとけ。就職できてんだから、良いんだよ」
「こほん」
奥の席から、塾長の渋い咳払い風の一言が聞こえる。
「すいません……」
有賀先生が小さくなって、苦笑いをした。可愛過ぎる。あたしはからかう様に大声で笑った。
このあんぽんたんな先生は知らないだろうけれど、あたしは国語が嫌いだ。うじうじ悩んでいる登場人物の気持ちを考えろ、なんてそんなの無茶ぶりだし、いとをかしなんて覚えた所で、人生素晴らしくなんてなりはしない。
でも、好きな人が国語科担当だから、国語の問題集を開いている時は余計に構ってくれるから、国語で良い成績を取るとすごくゆるい顔をするから、あたしは国語ばかり勉強する。国語国語国語、もうゲシュタルト崩壊だ。
「ほら、岸田、問五」
「そればっかじゃん」
「それが仕事だからな」
「じゃーさ、問十まで十分で解いたら、アイス奢ってくれる?」
「何で問十だよ」
「え、だって、十一記述なんだもん」
「駄目だ」
「いーじゃん、他のコに言わないから。アリサにも言わない。ね? いいでしょ?」
何でも打ち明ける親友……ということになっている、アリサにも内緒にする事を強調する。女子高生の友情を天秤に掛けた必殺アピールだ。
「ねー、塾ちょー、いいですよねー。有賀せんせーに奢ってもらっても」
塾長はもうさっきからずっと、こちらの会話を聞いていないふりをしながら、笑いを堪えている。
「今は授業時間外ですし、有賀先生が了承すれば、私は構いませんよ」
「えー、前原さん、酷いっすよ」
すかさず有賀先生が抗議の声を上げる。呼び方がさん付けになっているのが、少し気になった。
「その代わり、問十二まで、八分というのはどうでしょうか」
「おっ、それいいっすね」
したり顔をする有賀先生を見て、いらっとする。
「その顔まじうざ」
あたしは机をガタガタ揺らす素振りをしながら、プリントにそっと目を落とす。
「塾ちょーまで敵とか、まじありえないんですけど。でもいーよ、それで行けたらハーゲンだから」
「ハーゲンって何だよ」
「ハーゲンダッツ」
「あー、ならお前、これで負けたら、宿題倍な」
さらにニヤニヤしながら、有賀先生が賭け金を吊り上げる。
「は? 聞いてないし」
頭の中でサチ子が母について、晴れ着を着せて貰ったあの日について、心情吐露を始めている。
「じゃ、今からだかんね。塾ちょー計って下さいよ、この人じゃ信用できないから」
「岸田、お前な」
「分かりました。では、始めて下さい」
前原塾長の落ち着いた掛け声が、あたしの背中を押した。
「ねー、有賀せんせーってさ」
ガリガリ君を齧りながら、隣の先生を見上げる。あたしも高校生の割に背の高い方だけれど、やっぱり有賀先生は男だし、その中でも少し高めだ。
「名前」
「名前?」
「下の名前、はるきって言うんだねー。知らなかったんですけど」
「あ? ちげぇよ」
ガリっという音と一緒に、小さな氷の破片が飛び散った。有賀先生の右手の甲を、水滴が滑る。
「はるもと。季節の春に、基準の基で、はるもと」
「え、だって、昼間来てた人、はるきって呼んでたじゃん」
「あいつが勝手に呼んでんだよ」
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。あいつって何だよ。
「……じゃー、あたしもはるきって呼ぼっと」
「いや、お前は生徒らしく、敬意を込めて有賀先生と呼びなさい」
「まじうざー」
「それ止めろって」
「え? まじうざ?」
あたしは自分が一番可愛く見える角度を知っている。斜め下から、少し左頬を上げる様にして、右手でロングヘアーをかき上げる。
「じゃー、はるきせんせーって呼ばせてくれるなら止める」
「それは……」
初めて見る表情だった。
ほんの一瞬、あたしじゃなかったら気付かなかったくらいのほんの一瞬。有賀先生が困惑とか、戸惑いって言葉がぴったりの顔をした。分かってしまった続くセリフを、あたしは聞きたくない。
「ねー、そう言えばさー」
何で、あたしじゃないんだろう。
「今日来てた人ってさー」
それも聞くなよ、と自分の心が叫んでいる。
「どっちがせんせーのカノジョ?」
「だから、彼女はいねぇよ」
「目、腫れてた人は?」
「ああ。あれ、姉貴」
「え、せんせー弟なんだ、初耳」
有賀先生にお姉さんがいることは、実は知っていた。そのお姉さんが、塾長に気があるのも何となく知っている。
「ふーん、じゃあ、あの変なスウェットの人は?」
「……幼馴染」
間があった。変なスウェットって何だよとか、そういう返答が来ると期待していた。今、先生はその間に、何を込めたの?
「怒ったでしょ? あたしがヒッドイこと言ったから」
「いや、篠原はあのくらいで怒ったりしねぇよ」
「違うって、有賀せんせーが」
沈黙に棘が生えている。
「あたし、謝んないよ」
ガリガリ君の最後の一欠片を、口の中に押し込んだ。唇が冷た過ぎて凍える。
「謝んないから」
今日の昼過ぎ、高校を早退して、あたしは塾へ向かった。
今のカレシとは遊び半分の付き合いだった。だから浮気されようが平気だと思っていたのに、相手が悪すぎた。アリサの裏切りで心がずたぼろになった。
有賀先生に会いたかった。
前原学習塾は、いつも夕方からしか開いていないけれど、金曜日だけは午前から会議があって、先生たちが集まる。だから会えると思った。先生の顔を見ながら、ちょっとした軽口を叩きながら、過ごせればとりあえずは幸せだった。それなのに。
「あ」
塾の前の通りには、真っ赤な車が一台停まっていて、その外に四人の人影が見えた。
一人背の飛び出ている有賀先生に、すぐ気付いた。その向かいにこちらを背にした前原塾長。そして有賀先生の隣に、上下灰色のだぼっとした恰好をした人と、その隣にすらりとしたスーツの結構な美人。
美女の方には見覚えがあった。何度か塾長を訪ねて来ていた、有賀先生のお姉さんだ。
それじゃあ、隣の人は? 何でそんなに近付いて立ってんの? 手の指、当たってんじゃん。まじうざ。本当に、そういうの、止めてほしい。
「おお、岸田」
一番にあたしに気付いた有賀先生が、右手を挙げた。塾長はこちらを振り向いて、笑顔で迎えてくれた。
「お前、学校は?」
「早退した」
「体調は?」
「悪く、ないけど」
「ん、なら先入っとけ。薬師先生いるから、コーヒーでも淹れて貰え」
「わかった」
先生は事情も聞かず、迎え入れてくれた。あたしは熱くなった頬を隠すように、下を向いて塾の階段を上り掛けた。
「はるき、女の子に甘いんだから」
一瞬で思考回路がフリーズした。はるきって有賀せんせーのこと? 何で、何で名前で呼んでんの?
振り向くと、スウェットが有賀先生から片手チョップを食らっていた。頭、触ってもらってる。
「ねー、せんせー」
「何だ?」
「そのだっさいスウェットの人って、何? 社会不適合者? キチガイ?」
その場の空気が瞬時に凍りついた。
「岸田さん、そのような発言は失礼です。およしなさい」
すぐに塾長が仲裁に入ってくれた。それでも、もう、勢いの付いた悪意は止まれない。
「えー?」
あたしは鼻で笑った。
「だって変じゃないですかー。距離感とかまじきもい。有賀せんせーにべたべたしすぎってゆーか……」
スウェットの方じゃない、有賀先生の方が、こちらへ冷めた目を向けた。
「その人ってー」
続くあたしの言葉を、スウェットは慌てて否定するだろうと予想していた。それなのに、そいつはただ黙って静かにしていた。
酷く傷付いた顔をしたのは、あたしの大切な人の方だった。
第五話 「車の中のグレー」 side 篠原瑞季
「ごめんね」
車に乗り込んだ瞬間、かほちゃんが言った。随分と沈んだ声だ。
「どうしたの? かほちゃん」
窓から差し込む太陽の光が、眩しい。眩しくて、彼女の顔が見られない。
「謝ってもらうような事、何にもないよ?」
本当に、何も思い当たらなかった。
後部座席の少し硬めのシートに、伸びをしながらもたれかかる。見えた天井は、スウェットの色より濃いグレーだ。
「かほちゃんは、さっき、病院まで付いて来てくれたでしょ。待合室で、今夜の献立案に、スープ、追加してくれたでしょ」
はるきの作る、じゃがいもときのこのポタージュは絶品だ。彼女が口添えをしてくれなかったら、きっと、ディナーメニューは完璧にならなかった。
「かほちゃんには、今日も、たくさんしてもらってばっかりだよ」
これから家まで、車で送り届けてくれることも含めて。
今日も、今までも、そして少し傲慢だけれど、これからも。親友の姉は弟の付属品にまで、兄弟の温もりをくれる。
温かいものはうれしい。そしてちょっぴり、痛い。篠原瑞季なんかじゃ、何も、何一つ返せないから。
「あたしが、謙一郎さんに挨拶したいって言ったせいで、ミズちゃん、嫌な思い、したでしょ?」
かほちゃんの声は少し、震えている。そんな気がした。
一瞬迷う。「ねぇ、早く帰ろう?」って言おうか、「え、何の話?」って言おうか。そして選んだ返答は、正しくなかったかもしれない。
「あー、今の、女の子のこと?」
「うん……」
顔にかかる陽の光を避けて、身を乗り出す。バックミラーに映る、彼女の瞳に目を合わせた。
「悪くないよ、かほちゃんは」
本当に悪いのは、篠原瑞季だよ。
はるきを職場前に降ろした時のことを、彼女はものすごく後悔している。
伊東診療所を出て、前原学習塾前に着いた時。かほちゃんはほんの少し、緊張した面持ちで言った。
「ミズちゃん、今日、急いでる? 仕事は?」
「ううん? 急いでないよ。まだ次の依頼、来てないから」
「そっか」
ネクタイをいじりながら、運転席のはるきが振り返った。
「何だよ、姉貴。前原さんに挨拶したいとか言うんじゃねぇだろうな」
「ちょっとだけ……ここしばらく忙しくて顔、出せなかったし」
はるきは一瞬黙った後、声を落とした。
「本気?」
「うん」
ビニール袋がカシャカシャと音を立てた。伊東先生に用意してもらった氷の袋。冷したおかげで少しは収まっていたけれど、かほちゃんの目はまだ赤く腫れぼったい。
「不束者の弟が山のようにお世話になってるんだから。たまには賄賂くらい渡さなきゃ、謙一郎さんだって愛想尽かしちゃうかもしれないでしょ?」
「んだよ、賄賂って。また、塩瀬の羊羹でも取り寄せたのか?」
「ヒミツー」
泣き腫らした顔のままで、かほちゃんは前原さんに会おうとしている。それを、はるきは心配していた。彼女のことだから、後で自分の行動に嫌気が差したとお酒を煽りかねない。
それでも今のかほちゃんには、前原さんの澄んだ声が必要な気もした。だから、いいこと思いついたとばかりにはるきに提案した。
「なら、せっかくだし、三人で降りよう? ねーはるきー、いいでしょ?」
善は急げと、かほちゃんのバッグを彼女の膝に乗せた。ちょっと重いバッグの中身は、きっと例の羊羹だ。
「だね」
悪戯っぽく微笑む彼女に、笑顔を返す。
「篠原、お前も行く気かよ。んなカッコで俺の職場うろつくな」
「ちょっとだけだから、ね、お願いはるきー」
「いや、お前はここで待ってろ。姉貴一人の世話で十分だ」
「えー、前原さん、久しぶりに会いたいもん」
だだをこねると、はるきの眉間のしわが深くなった。
「もん、じゃねぇよ。せめて別の時にしろよ。今日は大人しくしてろ」
どうしても会わせたくない人がいると、ふと感じる。
「えー、いっつも今度って行って、連れてってくれないし。はるきの机、見たい」
「お前、見るだけで済まねぇだろ。てかそういや、病人だろうが。出歩くな」
「もう、ハル、頭固いんだから。良いじゃない、ミズちゃんも一緒で」
やり取りを横で見ていたかほちゃんが笑い出した。
「あんたが着せたんでしょ? だからスウェットのまま外出るの、反対したのに」
かほちゃんは、はるきが服装を気にしているのだと思ったみたいだ。
「格好が問題じゃねぇんだよ。てか、それ着せたの俺じゃねぇよ」
「え?」
「それ香純さんから。昨日の晩、篠原が俺ん家泊まるって連絡しといたら、朝、玄関のノブに掛かってた」
突然、母親の名前が出て、少しびっくりする。思えば、そうだ。
「あ、これ、お母さんからだったんだ」
「香純さん、服のセンスだけはなんつーか……すげぇな」
篠原香純は、服選びが絶望的に苦手なのだ。悪態を吐くのが仕事のようなはるきに、言葉を詰まらせるうちの母はやっぱり、すごい。
三人の笑い声が、車の中に響いた。
急に思い出し笑いをしてしまって、かほちゃんが少し首を傾げる。
「うん、やっぱり悪くない、かほちゃんは。前原さん、久しぶりに会えて、嬉しかったよ」
職場には連れて入れないと、前原さんに外へ出て来てもらった。そして、話が盛り上がっているところへ、あの子が通りかかった。
はるきの生徒さんは、艶やかなストレートヘアを靡かせていた。制服の赤いリボンが、とても良く似合っていた。彼女のすごく繊細そうで大きな瞳が、ぱっと見開かれる瞬間を、目撃した。
「車降りたのもね、自分で、そうしたかったからだし」
「でも」
「はるきの机、見られなかったのは、残念だったけど。それ以外は、今日はいい日だったよ?」
「……うん」
「それに、ああいう言い方されるの、慣れ……」
口が滑るって、こういうことだ。最後の一言は余計だったと、言いながら気付いた。「れ」で止めてしまった言葉に、上手く続く単語はない。
すっと目を伏せるかほちゃんに、何も返せない。
一度口から出てしまった言葉は、どうしたって戻って来ない。きっとあの女の子も、同じなんだと思う。
色んな思いがごちゃまぜになって、言葉になった。好きな人を苦しめたいわけじゃない。それでも、生み出された棘は、誰かを傷付けずにはいられない。
あの棘は真実だった。あの子の口にした言葉は、世間の、自分に対する正当な評価だ。
「あの子、はるきのこと、好きなんだね」
はるきはきっと、微塵も気付いていないだろうけれど。
「うん、あの様子だとたぶん」
「はるき、モテモテだなあ」
「あーあ、ほんとどこが良いんだか。姉じゃなかったら、あんな口悪男、関わりたくもないのに」
言いながら、かほちゃんは優しい、姉の顔をしていた。
「大丈夫かなあ」
「ん?」
「はるき、怖い顔してたから。あの子、怒られちゃう、かな」
「んー、どーかなあ」
車のエンジンがかかる。
「あ、シートベルト、ちゃんと締めてね」
「はーい」
ウインカーがかちかちと鳴って、車は道へ出る。窓から見える前原学習塾の看板が、どんどんと遠ざかった。
「ミズちゃんは強いね」
「どうして?」
「あの子の心配、してあげるなんてさ。あたし、もう少しあの子の近くに立ってたら」
彼女はハンドルから片手を外し、スナップを利かせて右手を振った。
「すぱーんって、手が出てた」
様子が想像できて、思わず笑う。
「かほちゃんこそ。優しくて、かっこいい」
辛い時に、誰かのために怒るなんて、自分には絶対出来ない。心から好きな人を目の前にして、泣き顔を武器にしないで笑いかけるなんて、出来ない。
やっぱり甘やかされているな、と感じた。
「ミズちゃんは、この後どうする?」
「んー、かほちゃんはお仕事でしょ?」
「んーと、ちょっと疲れちゃったから、今日は休みにしようと思って。実は事務所のコには電話してあるの」
「そっか」
出発前のかほちゃんの行動に、納得した。彼女がわざわざ仕立ての良いスーツに着替えたのは、前原さんのためだったようだ。
「ハルの部屋戻る? あ、この時間なら、香純さんまだ家にいるかな、お家の方に帰る?」
「うーん。かほちゃんはお昼、どうするの?」
「んー、今から帰って作るのもあれだし。といってハルのとこの冷蔵庫、勝手に使うとあの子五月蠅いし」
「良かったら食べに行こう?」
「え、うん。いいけど」
自分から、はるき以外の人を誘うのはすごく久しぶりだ。かほちゃんも少し、驚いたようだった。
「でも、体調は? ほんとに大丈夫?」
「うん。全然平気。でもお薬、ちゃんと飲んでから行くね」
「よし。じゃあ一回、篠原家寄ってから行こっか」
「うん」
「あ、着替えもね」
「だね」
クローゼットにしばらく掛けたままにしてある、モスグリーンのオーバーオールを、久しぶりに引っ張り出そうと思う。
第六話 「黒猫の通り道」 side 有賀春基
「有賀先生、ついにっすか?」
「ん? ついにって何がですか、薬師先生」
同僚の薬師隆之の浮足立った声に、手を休めず質問で返した。残り六枚で今日の授業で行ったテストの採点作業が終わる。
「やだなー、岸田さんっすよー、髪ロングの方の。告白されちゃいました?」
「あ?」
思わず教室内をぐるりと見渡し、前原さんがいないことを確認してしまった。生徒たちを大切に想っているあの人の耳には入れたくない台詞だった。
「あんた、よっぽど暇なんだな」
苛立ちでつい言葉遣いが乱れる。俺の嫌味を笑顔でかわしながら薬師は髪を弄った。
「あ、前原塾長なら大丈夫っすよー、もうご帰宅されてますから。今日の締め、オレなんで」
「そういう問題じゃねぇだろ」
俺は薬師を睨み付けてから、机に向き直った。赤ペンを握り直す。
内心、前原さんがいないことにはほっとした。彼に嫌な思いをさせたくなかった。そして、あの人の穏やかさが作り上げたこの塾の中で、そういう話を続けるつもりはない。
「岸田、英語の講座は取ってないですよね。薬師先生には関係ない生徒じゃないですか」
手を動かしながら、突き放すように告げる。
「もう就業時間終わってんですからー、そんな堅いこと言わずに、ね?」
薬師は少し長めの髪を揺らしながら、俺の手元を覗き込んだ。軽いノリで、けたけたと笑っている。
年齢は俺とそう変わらないはずだが、採用当時からの明るい髪色と童顔が手伝って、彼はその辺の男子学生のように幼く見えた。仕事以外で話すことはほとんどなかったが、今夜はやけに絡んで来る。
「ああそうですか、なら教師失格野郎はさっさと帰ったらどうすか。俺が締めておくんで」
「うわ、ひどい! 有賀先生の方が、よっぽど教師失格レベルの暴言じゃないっすかー、それで国語教師とか意味不明ですって」
そう言えば同じようなことを岸田来夢にも言われた気がする。
「つーか、うるせぇよ。こちとら忙しいんだよ」
「はいはい、じゃあ採点終わったら声掛けて下さいねー。オレ、チェックして来ちゃいますんで」
バインダーに挟まれたプリント類が、薬師の手の動きでばらばらと不規則に音を立てた。前原さん手書きの塾内戸締りチェック表だ。
「備品は丁寧に扱えよ」
薬師は、はいはいと適当な返事をしながら教室を出て行った。
俺はあのチャラチャラした英語教師が心底苦手だ。前原さんのことは尊敬しているが、あいつを採用したことだけは納得がいかない。語学が堪能で授業も生徒たちから評判が良いらしいが、そういう問題ではない。
「前原さん、人を見る目ねぇのかも」
勿論、俺も含めてだ。
残り五枚になった答案用紙の端をぺらぺらと捲った。その中に岸田来夢の名前を見つけて、俺はその一枚を引き抜き一度ペンを置く。全てのマスに正確に書き込まれた解答は、まるで採点用の見本のようだった。
岸田、来夢。
謝らないからと言って駆けて行った彼女の後ろ姿が、目の前をちらつく。
「ばーか」
誰に聞かせるでもなく、俺は悪態を吐いた。
最後の照明、前原学習塾と大きく書かれた看板のスイッチを切ると、通りの暗さがより際立った。
「今日もご苦労さまでしたー、有賀先生」
「ああ、ご苦労さま。んじゃ」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ! さっきの話の、続き!」
「何だよ、話すこたあ何にもねぇよ」
「真面目な話。岸田さん、何かあったんですか?」
「あー」
薬師の話し方は相変わらず軽薄な感じだったが目が真剣、に見えた。こうなると同僚である手前適当にあしらうのは悪い気がして、俺は質問に応じた。
「俺の知り合いが塾の前まで来てて、岸田と一悶着あったんだよ」
「それは大変でしたね……有賀先生を巡っての愛憎劇っすか」
一度神妙な顔を作っておきながら、ぬけぬけとまたその話だ。
俺は思わず軽蔑の眼差しを薬師へ向けた。苦笑しながら彼は手の平を見せ、まあまあというポーズを取った。
「その有賀先生の知り合いって、もしかして、例の子ですか? 同じアパートでよく部屋に上がり込んでるっていう」
「まあ、そうだな」
「一悶着って、何でそんなことに?」
「いや」
どう説明したものか迷う。そもそも無関係の人間に細かな事情についての説明義務はない。
岸田が何故、あんなにも篠原に噛み付いたのかは、実の所分からなかった。ただ、あの生徒は家庭に少々複雑な事情を抱えている。家庭や学校で思うところがあって、気持ちが昂ぶっていたのかもしれない。
篠原の方はというと、他人から罵声を浴びせられるのは初めてではない。あの場でも一人、けろっとしていた。本人より俺の姉有賀夏帆の方が、篠原を連れ出した責任を感じて堪えているだろう。
「岸田は早退して来たみてぇだし、学校で何かあったんだろ。ま、塾外のことに口を突っ込むつもりはねぇがな」
「えー、有賀先生、結構ドライっすねー」
俺は塾の講師であって教育者ではない。先生と呼ばれるのも正直未だに抵抗がある。
大学で教員免許は取得したが、それで子どもの人生を導ける程立派な人間になったとは思えない。せいぜい俺に出来るのは、大学受験に備えた問題の解き方を伝授することくらいだ。ましてや最近の女子高校生の考えていることなど、全くと言っていいほど分からない。
「まあ、単なる憂さ晴らしっすかねー、ま、岸田達ならやりそうですけど。あのグループって、裏でも何かしらやらかしてそうっすよねー」
薬師は意地悪く笑いながら言い放った。俺は胸糞が悪くなり、聞こえないふりをして歩き出した。横に並ぶように薬師も歩き出す。
「あーあ、オレも有賀先生の幼馴染さん会いたかったなー」
「は?」
急に話題の矛先が生徒から篠原に変わり、俺は呆気に取られて一瞬言葉を失った。そういうことか。
「結構小柄で可愛い子だって聞きましたよ? 理科の中野先生、知り合いなんすよね? 肌とか白くてすべすべだって」
「態度はでけぇけどな」
「のろけですかー? それ、有賀先生に甘えてるんすよー。いいなあー」
「へいへい。んじゃ、な」
これ以上、篠原のことを話題にしたくなかった。俺はそっけない態度を取り、薬師を撒こうと足を早めた。
「あ、先生、今夜どうですか? 飲みに行きません? 他にもちょっと色々聞きたいことあって」
薬師はへらへらしながら、なおも隣に並んで歩こうとする。
「俺は何も話すこたあねぇ」
「ちょっと、ちょっと、じゃあ一個だけ!」
「んだよ」
「有賀先生って篠原さん? でしたよね、その人と付き合ってる訳じゃないんすよね?」
またその質問か。いい加減うんざりして来た。
「……あいつは幼馴染だ」
「今後付き合う可能性とかは?」
俺は質問には答えず、手を振ってくるりと踵を返した。遠回りになるが、繁華街と逆方向へ行けば薬師も追っては来ないだろう。
「じゃあ、今度紹介して下さい! 篠原さんのこと!」
張り上げている薬師の声がどんどん遠くなる。
「勝手にやれ。俺を挟むな、以上!」
立ち止まらず前を向いたまま、怒鳴るように告げる。
どいつもこいつも、踏みこんで来るな。俺は早足になって通りを暗い方向へと急いだ。
「ねぇ、有賀先生!」
再び直ぐ後ろで声が聞こえ、さっと回り込んだ薬師に行く手を阻まれる。大きな声に驚いて飛び出したのか、黒猫がすぐ横を走り抜けて行くのが見えた。
「ほんとはオレ、見てたんすよ、講師ブースのとこの窓から。岸田が何か挑発してて、それでも篠原さん、穏やかそうな様子だったじゃないすか。線細いのに大人の余裕? っていうか大らかさ? みたいな。その姿が、何か胸にずどんと来たっていうか」
何を言っているんだ、こいつは。見た目が大学生なら、中身は中学生か。
「だあから、俺のいない所で勝手にやってろ」
「いいんすね? 有賀先生。オレ、結構本気スイッチ入ってますけど」
俺はもうその後の薬師の言葉は聞かずに、無言で暗闇へ足を踏み出した。
「ただいま」
「あーはるき! 遅い!」
玄関に入ると直ぐ、リビングへと続く廊下から篠原が飛び出した。昼間に来ていた灰色のスウェットは着替えたようで、白と水色のボーダー柄のTシャツに深緑色のオーバーオールを合わせている。
「もう、お腹ぺこぺこ!」
「んだよ、いたのかよお前ら」
俺は篠原を押しのけ、ソファで踏ん反り返ってテレビを見ている姉貴の頭を目がけて小ぶりなボトルを振り下ろす。
「イテ。何すんのよハル!」
抗議の声を上げながら頭上でボトルを掴んだ姉貴は、その内容を見てほくそ笑んだ。
「あ、黒猫ワイン! 分かってんじゃないの」
「黒猫?」
後ろから付いて来た篠原が、レモン色のソファに寄り掛かって透き通った青いビンを覗き込む。
「そ、ラベルに黒猫のイラストが入ってるの。ミズちゃん飲んだ事ある?」
「こいつ、あんたと違って酒は全然だぞ」
篠原の髪をぐしゃぐしゃと掻きまわしながら、俺は姉貴に忠告した。
「そんなことないもん! たまに飲んでるもん。のんあるとか」
負けじと篠原は、俺の手を身動きの取れないよう抑え込みながら言い返す。
「ばーか。まんま、ノンアルコール飲料じゃねぇか」
「そっか。これ九パーセントだから、ワインとしてはアルコール度数低めだけど、ミズちゃんいけるかな?」
「ま、篠原はせいぜい一口だな」
「えー、一口じゃ味、分かんない」
俺は再度篠原を押しのけながらレジ袋を持ってキッチンへ入った。またしても篠原がちょこちょこと付いて来る。
「お前、そういや病人だろ。うろちょろすんな、菌が飛ぶ」
直ぐに底の深めな鍋を取り出し、水を張って火に掛けた。
「えー、もう治ったもん。あ、ティラミス市販のだ」
レジ袋を覗いた篠原があからさまに残念そうな声を出す。俺はビニールに入れたトレーを取り出し、生鮭をまな板の上に乗せた。
「当たりめぇだ、今からデザートまで作ってたら何時になると思ってんだ」
「あ、バニラアイス、レディーボーデンだ。これ好きー」
篠原の声が途端に弾む。
「それ、冷凍庫入れとけ。んで、ほうれん草出せ」
「え、ほうれん草、冷蔵室?」
「いや、冷凍のヤツ。右隅のジップロック、一袋入ってる」
「はるき、相変わらずきっちりだね。良いお嫁さんになれそう」
「ばーか」
フライパンの上でバターとオリーブ油が跳ねる。食欲を誘う香りがキッチンに広がった。
「おし、サラダはお前作れよ」
「えー、何でー? 病人に、手伝わせる気?」
「ばーか、治ったんだろ。働け」
こうして篠原とキッチンに立つのは何時ぶりだろう。
もともと料理は好きだ。独り、料理のことだけを考えて手を動かしていると余計な事を考えずに済む。だが、たまにはこういう賑やかなのも悪くない。
「ねぇ、まだあ? あたしもうお腹空き過ぎて死にそうなんだけど!」
二メートルと離れていないリビングのソファから、姉貴の不機嫌そうな声がした。
「かほちゃん、お昼わざと、単品のミニ丼しか頼まなかったんだよ」
小声で篠原が耳打ちしてくる。
「今しばらくお待ち下さいませ、お客様」
声のトーンを少し上げ、笑いを堪えながら姉貴に声を掛ける。
「ハル、棒読み! 嫌味のつもり?!」
「ならあんたも手伝えよ。働かざる者食うべからずだ」
「仕方ないわね、このあたしに手伝わせるんだから、後五分で提供しなさいよ?」
タイミング良く鍋の湯が沸く。我が家のスパゲッティはゆで時間五分だ。
その距離に足りないもの