RRR
Ⅰ remain
「ごめんね」はまだ言えない
夏の日差し、願い、涙
そう、その物語は僕らに
「ごめんね」はまだ言えない
油蝉の騒音。
熱風を纏う頬。
もがくように息を吸う。
どうしようもなく、途方もない。
夏だ。
「だーかーらあ、タローさんお願いします!」
私は隣を歩く友人に、両手の平をぱんと合わせて頭を下げる。
「今度の夏祭り、きょーちゃんと行ってあげて下さーい」
「だから、じゃねぇよ。何でだよ」
不貞腐れたような声で、彼はこちらの頭目掛け片手チョップを繰り出した。私はひょいとその手を交わして、へへへと得意気に笑う。
「つーか俺の名前、太郎だけ切り取んなよ。柳付けろ、柳」
彼の名は宍戸柳太郎といった。
古風な名前とは裏腹に、目が隠れるくらい伸ばした前髪と、一つにまとめられそうなサラサラの後ろ髪を、輝くばかりに明るく染めていた。校舎の三階にある私の教室からでも、広々とした校庭の端にいる姿を見つけられるくらいには目立つ男子だった。それでも不良のレッテルは貼られていなかった、と思う。勉強はそこそこできて、当番仕事はサボらない。先生からの評判も悪くなかった。まあ、服装検査を除けば。恐らく女子からの人気もあった。家が近所でなかったら、幼馴染でなかったら、私が隣を歩くことは一生なかったかもしれないくらいには。
「にしても、今日もあっちいな」
「ふーん。柳太郎でも暑いんだ?」
もう日は暮れたというのに、制服が肌に張り付く感覚は昼間とそう大差ない。うちの高校の夏服はワイシャツ一枚で、サマーセーターの着用は認められていない。汗のせいで、今にも下着が透けそうな気がする。最悪だ。
熱を帯びた大気を行く柳太郎は、透き通るほど涼しげな顔をしていた。ボタンを開け払ったワイシャツをばたばたと揺らして、下に着た真っ赤なTシャツに空気を送り込んでいた。宍戸家の柔軟剤の包み込むような香りが脳裏をかすめる。
「柳太郎さ、今からきょーちゃんとこ行ってきなよ。夏祭り誘いに」
「は? だから何で飯田だよ」
私のクラスメイトの飯田京華は、高校の入学式の日、柳太郎に一目惚れしたらしい。彼が子犬に餌をあげていたところに出くわした訳でもなく、一緒に遅刻してこっそり式に忍び込んだ訳でもなく、ただ教室移動ですれ違った時に、ほのかに香った石鹸の匂いに惹かれたのだと言っていた。
まだ髪の黒かった頃の柳太郎の顔を、私は思い浮かべる。
「きょーちゃん、あんたに惚れてんだってば。夏祭り、一緒に行きたがってんの」
「へぇ、それは知りませんでした」
「知らないじゃないでしょ、あたし前にも言ったじゃん」
交差点に差し掛かる。歩行者用のあの信号が点滅を始めたのを見て、ゆっくりと歩みを止める。
「そんなら俺も言ってんじゃん。俺はお前一筋なのー」
背の高い友人から注がれるふざけた口調と、真摯で熱のこもった視線。胸の奥のざわつきに呼応するように、街路樹がざわざわと不穏な音を立てて風に揺れた。
「へー、それは知らなかった」
「もうさあ、しらばっくれんの止めろよ。俺が何回お前に告ったと思ってんだよ」
「さあねー」
「ほんとお前いい加減にしろよ」
うんざりしたような声、それでも彼の表情は楽しげで、口元は笑っていた。
「それはこっちの台詞ですう。いい加減、あたしのこと諦めなよ」
「すみませんね、諦めの悪い男で」
「ほんとだよ、そんなんじゃモテないぞー」
車は一台も通らなかった。人の姿も見当たらない。静まり返った街並み、蝉の鳴き声もいつしか聞こえない。信号がぱっと明るい青に変わり、横断歩道へ足を踏み出した。
「飯田が俺に惚れてんだろ? 俺ちゃんとモテてんじゃん」
「そこで、きょーちゃんの名前使うとか、卑怯」
「んじゃあ、モテない俺をお前が貰ってくれよって言えばいい?」
「あたしも使うな」
「やっぱお前は、手厳しいなあ」
示し合わせたかのように、交差点を渡りきった先にある馴染みの自動販売機の前で立ち止まる。
「お前何飲む? やっぱ午後ティー?」
「ん、ミルクね」
「あいよー」
私達は家路の途中、よくここで飲み物を買った。午後の紅茶のペットボトルを奢ってもらうのは、いつも決まって嫌なことがあった日だ。
柳太郎は肩に掛けたくたくたのスクールバッグからICカードを引っ張り出した。私も真似をして、きょーちゃんから貰ったクマのぬいぐるみ型のICカード入れを取り出して、その毛羽立った感触を確かめる。自動販売機から電子音と落下音が繰り返され、静かな交差点に波紋のように響いた。
「ほれ」
「ありがと」
手に取ったペットボトルの蓋が今日はやけにすんなり回る。
「柳太郎、本当にあたしのこと好きだね」
ミルクティー味の液体が喉を通過して行く。甘ったるい。甘過ぎて泣きそうだ。
「……悪いかよ、好きで」
「悪いよ」
無性に口の中が渇く。私は古いガードレールに座るようにもたれて俯く。スカートが擦れたせいか白い粉が舞い、制服の表面を微かに汚す。
「あーあ、あんたがまとわり付くせいで、あたし彼氏できないじゃん」
大袈裟な溜め息が耳元で聞こえた。横を向くと、柳太郎がガードレールに片手を突いてこちらを見ていた。
「いやそれ、どっから突っ込みゃいいんだよ」
彼の右手には鮮やかな緑の缶があった。気合いを入れたい時はメッツに限ると、昔柳太郎が言っていたのを思い出す。彼が器用に片手でプルタブを起こすと、炭酸がキラキラと星のようにはじけた。
「それよか、夏祭り。一緒に行こうや」
「行く訳ないじゃん」
「隣街のおっきいやつ、行ってみたいって言ってたじゃん。それならいいだろ」
「えー、もう素直にきょーちゃんと行ってよ」
「素直にって何だよ」
「だってきょーちゃんと柳太郎がくっつけば全部丸く収まるじゃん」
「収まんねぇよ。俺の気持ちはどうなんだよ」
「そんなの知るか」
最後の一言は思いの外沈んだ声になる。ああ、馬鹿みたいだ。
柳太郎はふわりと柔らかく笑い、身体を起こした。その動きを目で追う。彼はやったこともないくせに、腰を捻り、野球のピッチャーのように大きく振りかぶった。
一気飲みされたメッツの空き缶は放物線を描き、少し離れた金網のゴミ箱に、音もなく吸い込まれた。
そのたくましい背中を見ながら私は唇をかむ。
「きょーちゃんと最期まで一緒だったくせに」
柳太郎が振り向いた。
「ん、何だって?」
「知らない」
また彼を真似て、液体の半分残ったペットボトルを振りかぶって宙へ放る。飛距離三メートル。それは一度闇と混じり合ってどこに届く事もなく、べしゃりと奇妙な音を立てて地面に落ちる。
「明日香!」
気付くと私の名前を誰かが叫んでいた。道路の向こうから、兄が全速力で走って来るのが見える。
「そこ! 動くなよ!」
大人しく私はその場に立ち尽くしたまま、信号機の横にある街灯が照らす花を見ていた。大型のトラックが何台も、私達の間を通り過ぎて行く。漸く目の前の歩行者用信号が青に変わり、左右を確認し終えた兄の幸助が走り寄って来た。
「明日香っ! こんな、時間に、独りでっ、何、やってんだよっ」
息を切らした幸助が私の肩を力強く掴み、優しく揺さぶる。こんな時間……そう言えば今、何時だろう。
「物音で目、覚めたらお前、部屋にいないし! 制服もないし。父さんと二人で、探し回ったんだぞっ」
幸助は泣いていた。兄の泣き顔を、思えばこの一週間何度も見て来た気がする。先月俺は大人になったとしたり顔で嘯いていた兄が、今は顔をくしゃくしゃにして子どものように泣いている。
ぼんやり佇む私の背中を、幸助はごしごしと力任せにさすった。
「泣けよ、明日香。ちゃんと泣かないと、前、向けないから、な?」
私は聞こえないふりをして、うんと遠くに焦点を彷徨わせる。
ダメだよ、と心の中で、刺すような目をした私が低く呟いた。
泣くのは、謝罪をちゃんと口に出来た後だ。柳太郎への「ごめん」、きょーちゃんへの「ごめんなさい」、そして最後に、こうして私を支えようとしてくれた家族への「ごめんね」だ。それまで涙を流す訳にはいかないんだ。
背中に熱い視線を感じて、またあの日がふつふつと甦る。
振り返るまでもなく本当は分かっていた。記憶の中のいつかの柳太郎は、きっともの言いたげに微笑んでいて、私はどうしようもなく、独りぼっちだと。
夏の日差し、願い、涙
「百物語?」
「うん、そう。やっぱ怪しいかなぁ」
みんみん蝉の大合唱が、太陽からの熱を五倍増しにしている気がする。俺は額の汗を手の甲で拭った。
柏木華恵は俺の手にあるチラシを怪訝そうに覗き込み、うーんと唸る。
「怪しいっていうか……」
広い公園には俺と彼女の二人しかいないようだった。ベンチの真上には青々とした桜の葉が茂り、辛うじて影を作ってくれている。だが茹だるような暑さからは勿論逃れられない。
華恵はライムグリーンの日傘を傾けて言いよどんだ。
「明日香ちゃんのお友達のお葬式、先月だったよね? ちょっと、何て言うか、まだ一カ月だし。時間が経ってれば良いってものでもないけど……。ホラー系のイベントって、その……」
彼女は言葉を選ぶようにゆっくりとそう言った。
「ごめんね、上手く言えないんだけど」
「うん、分かってる。俺も不謹慎だよなって思ってる。でも、明日香が何かに興味示すなんて、あの事故の日以来初めてでさ。立ち直るきっかけになるなら、何でもやらせてやりたくて」
俺の四つ年下の妹、明日香は辛い出来事を目の当たりにして以来、固く心を閉ざしてしまっている。その妹が昨日の夜、突然一枚のチラシを持って俺の部屋の扉をノックしたのだ。明日香はただ一言、「ここに行きたいから車を出してほしい」と零した。
「そっか」
もう一度チラシに目を向け、華恵はその一部を声に出して読み始めた。
「『大切だったあの人に、あなたの思いを届けませんか。百の物語を』……」
覗き込む彼女の顔がすぐ近くにある。額に汗がにじんでいた。
「『紡ぎ終えた時、あなたの想い人が語りかけてくれるかもしれません』。これって……。参加は、誰でもできるんだね。主催は……」
彼女は主催者名の部分を指でなぞりながら、口をつぐんだ。
「うん。でもよく聞くじゃん。怪しい壺とか買わされたりさ、お祓いにうん十万必要だとか言われたりって。そんなのに騙されるかよって今は思ってられるけど、いざ行ったら雰囲気に呑まれたりすんのかなって……」
「周りに流されず、気持ちを強く持っていられるか、かな。……明日香ちゃんの方は、どう思ってるんだろう。どうしても届けたい思いがあって、藁にもすがる感じ、なのかな」
本心を言ってしまえば、行くか行かないかを悩んでいる訳ではなかった。俺は確実に明日香を連れてこのイベントに参加するだろう。妹がやっと自分の口から意思を吐き出したのだ。藁にもすがる思いなのは、俺も同じだった。
「俺達兄妹仲良かったし、妹のことは結構分かってるつもりだったんだけどな。今、明日香が何考えてるか、全然分からなくてさ。してやれることもないし、とんだダメ兄貴だよ」
「そんなことないよ。幸助は明日香ちゃんの力になってる、絶対」
「だと良いんだけどさ。……ごめんな、夏休みなのに、どこも遊び行けなくて」
昨年まで友人だった華恵は今は俺の恋人で、今年の夏は共に過ごす様々な計画を立てていた。その予定を全て白紙にしてしまった今でも、彼女は顔色一つ変えずこうして話を聞いてくれる。
人は一人で生きている訳ではないし、無論一人では生きていけない。
俺には支えてくれる華恵がいる。励ましてくれる友人も、共に苦難を乗り越えようとしている父さんと母さんもいる。だが明日香は、幼馴染と親友という大きな支えを一遍に失くし、家族の声も届かない冷たい殻に閉じ籠ってしまった。一人ぼっちじゃない、その一言がどうしても届かない。
「ううん、私は大丈夫」
華恵はとても穏やかにそう言ってくれた。
「うん……ごめん」
掠れた語尾が、真夏の大気に溶ける。華恵は日傘をくるりと回した。
「明日香ちゃんって、その、亡くなった男の子とは付き合ってたの?」
「どうだろ、はっきり聞いたことなかったけど、いい感じだった、かな。柳太郎、小さい時から明日香のお嫁さんになるとか言ってたし」
「お嫁さん?」
不思議そうな顔で、「お婿さんじゃなくて?」と華恵が首を傾げる。
「そ、お嫁さん。明日香、小さい頃はガキ大将みたいな感じでさ。短髪でいつもどっかケガしてて。柳太郎のが、背がこんな小さくて髪長めで、女の子みたいでさ。よく二人して俺の後ろ、ちょこちょこ付いて来てたなあ……。あ、やべ、ちょっと」
柳太郎と親交が深かったのは俺も同じだ。葬式では人目をはばかる余裕もなく号泣したし、ヤツの顔を思い浮かべる度、今でも涙腺が緩む。すかさず華恵がハンカチを差し出してくれた。
「ありがと」
目頭を押さえながら気持ちを落ち着かせる。顔を上げると、隣の華恵が俯いたまま静かに言った。
「そのイベントさ」
「ん?」
「私も行っていいかな?」
「え、いや、来てくれるのはありがたいけど、怪しいやつだったら、華恵まで巻き込むのは……」
「なら、尚更だよ。二人とも辛い思いでいっぱいいっぱいになってるところだし。第三者が見守れるなら、その方が少しでも安全だと思うの。何かおかしいなと思ったら、迷わず直ぐに連れて帰るから」
ほんの少し迷ったが、華恵の言う通りだと思った。俺も明日香も冷静に物事を判断できる自信がない。
「うん、ほんとありがとな。じゃあ、お願いする」
俺の返答に華恵は屈託なく笑ったが、その瞳が一瞬だけ寂しげに揺れたような気がした。
そう、その物語は僕らに
そのチラシは朝刊の間に、控えめに挟まっていました。
晴れた土曜日のことです。
「ある街の片隅に、いつもある物語。
涙を流している少年がいました。大好きな少女と一緒に過ごすことができなくなって、悲しくて悲しくて泣いていました。
涙を流している少女がいました。大好きな少年が突然街から姿を消してしまって、悲しくて悲しくて泣いていました。
少年は願いました。もう一度だけ少女に会いたい。彼女に言えなかったあの言葉を伝えたいと。
少女は願いました。もう一度だけ少年に会いたい。彼に言えなかったあの言葉を伝えたいと。
二人の願いはこの街の片隅で、そっと叶えられる日を待っています。」
手触りの良い薄水色の紙。色鉛筆タッチの挿絵。
そこには小さな物語が載せられていました。
橋本家の土曜の朝は随分のんびりです。
朝刊は大抵、昼食前の買物に出かけた母が帰宅時に回収しています。僕は滅多に新聞を読みませんし、ましてや新聞を取りに玄関先に出ようとなんてしません。車椅子ではポストまでの段差が億劫だからです。
それでもその日目覚めた瞬間、僕はある使命を感じました。外へ出なくては、ポストを確認しなくてはと。
僕はパジャマのまま車椅子を操り、苦心してポストへ辿り着きました。そうして見つけたのが一枚のイベントのお知らせです。
童話のような物語に目を通した後、紙を裏返しました。
「『百の物語で偲ぶ会』
大切だったあの人に、あなたの思いを届けませんか。百の物語を紡ぎ終えた時、あなたの想い人が語りかけてくれるかもしれません。」
どうやらこちらが表面のようでした。他に開催日時と場所、そして地図が載せられていました。
「主催者は……黄泉比良坂?」
この会ならば彼女の手がかりがつかめる。そう僕は直感しました。
「どうしたの?」
急に外へ出た僕を心配してか、母が玄関ドアから顔を出しました。
「母さん、今度行きたい場所があるんだけど」
母は嬉しそうな顔をして言いました。
「朝食、食べながらゆっくり聞かせて」
Ⅱ remember
◆
「ごめんね」はもう言わない 十八話
◆◆
そう、この香りをあなたに 三十三話
◆◆◆
「ごめんね」とただ伝えたい 六十六話
◆◆◆◆
そう、あの呪いは君に 九十八話
◆◆◆◆◆
◆
「一人持ち時間は二分四十七秒です」
薄暗い体育館の中に、女性の声が反響した。
彼女の首から提がっている「押野由佳里」と書かれたネームプレートが、提灯型のライトの光を反射してきらりと光る。落ち着いた様子でいささか冷たさを感じさせる口調は、この百物語のイベントの司会進行役に実に適任と思われた。彼女は手にしたボードに時折視線を落としながら、淡々と説明事項を読み上げる。
「インターバルの十三秒で次の方を指名します。指名された方はその場に起立して頂いて、すぐお話を始めて下さい。持ち時間を超過した場合には、運営側で強制的に終了させて頂きますので、予めご了承下さい」
まだ外は明るいはすだが、場内に張り巡らされた暗幕には微塵の隙間もなく、外界の様子は全く分からない。
「話し終えた方は、そのままステージ上へ移動して下さい。設置された蝋燭の火を一本吹き消し、受け持ち分終了となります。なお時間の都合上、前の話し手がステージへ上がるのを待たず、次の方のお話を開始して頂きますので、こちらもご了承下さい」
なるほど、体育館の奥にはステージがあり、蝋燭には既に火が灯されていた。随分と首の長いそれは、きっちり百本用意されているのだろう。準備が良い。空調のためか、はたまた別の要因か、幾本かの火がゆらゆらと不規則に揺れていた。
「時間は三分掛ける百話で三百分、会は合計約五時間掛かることになります。途中退席して頂いて構いませんが、その場合再び会場内へ戻ることはできません。また話し手が百人に満たない場合、目的が達成されなくても、そこで会は終了とさせて頂きます」
目的、という表現が少々気がかりだったが、それについての詳しい説明をするつもりはないようだった。
「なお、会場後方にある休息スペースやお手洗いのご利用は、退席には当たりませんのでご安心ください。セルフサービスでお飲み物と軽食等の用意があります」
軽食まで準備されているとは、誠に有難い。この度も大層過ごしやすい五時間となりそうだ。休息スペースとなっている体育館出入口脇の小部屋へ、既に熱い視線を送っている参加者もいるようだった。
大ざっぱに円を描くように置かれているパイプ椅子は大部分が埋まっていた。だが百人には少し足りない気がする。中にはただの冷やかしもいるだろうし、付き添いだけで話をするつもりのない者もいるはずだ。
このままでは百話に届かないかもしれない。足りなければ目的は果たされない。果たせない、のか? ならば、百話に届きさえすれば……?
司会者は手元のライトを消し、ステージの方角からぼんやりと浮かぶ明るさを頼りに、広い体育館の中をぐるりと見回した。
「拝見した様子では、出席者は既に百人を上回っているようですね。丁度時間になりました。始めさせて頂きます」
彼女の声が冷たく厳かに響く。会場内の至る所から、息を呑む気配が感じられた。
「では、最初の話し手を指名させて頂きます。どうぞ、あなたからです」
「ごめんね」はもう言わない 十八話
はい、私の番ですね。
すごく、個人的な話です。
あれは蝉のすごく五月蝿い日で。幼馴染の柳太郎と二人で、夏祭りの話をしてました。
途中で、親……友人のきょーちゃん、京華から電話が来たんです。「りゅーに話したいことがあるから、あの自販機のある交差点に連れて来て欲しい」って。前から、京華が柳太郎のこと好きなのは聞いてて。夏祭りに誘って、告白するんだなって気付きました。
その自動販売機は、よく柳太郎が午後ティー奢ってくれる所で。だから、けっこう普通に、喉乾いたって言って、連れて行きました。
辿り着く前、ですね。後ろから京華が走って来て。柳太郎と私の間に、割り込むみたいに並びました。
私は空気を読んだというか、後ろにずれて。二人の話、全然聞き取れなかったんですけど、柳太郎が京華の方見て、笑ったのはよく見えました、……凄く、嬉しそうに笑ってて。
その時やっと分かったんです。幼馴染って、ほんと微妙な距離感なんですよ。だから柳太郎のこと……好きだなんて、自分でも気付いてなくて。ほんと、呆れるくらい遅過ぎなんですけど。柳太郎の隣取られちゃうんだって、そこに私はもう居られないんだって、そう思ってやっと、ああ、柳太郎のこと好きだったんだなあって。馬鹿だなあって。
交差点まで来た時、京華が振り返って、早く帰ってよって目をしたんです。それで私の中の何かが、ぱちんって感じに外れて。
気が付いたら……京、きょーちゃんの、背中……突き飛ばしてました。力加減も全然、分からなくて。でも、歩行者用の信号は、ちゃんと青だったんです。だから、だから……それだけで済むはずだった。
信号無視したトラックの、クラクションの音……音で頭の中がいっぱいになって。倒れるきょーちゃんと、駆け寄ってく柳太郎、こうやって、一生懸命腕伸ばしてて、それが、見えて、スローモーションで。あたし、ただ、石になったみたいに、固まったまま、助けにも行かずに……
あそこには、二人分の花が活けてあります。毎週違う花なんです、すごい綺麗な。きっと、きょーちゃんのお母さんが、お店のお花持ってきて、活けてくれてるんだと思います。お葬式の日も、きょーちゃんのお母さん、あたしの背中撫でてくれて、それなのにあたしは……
あの日から、毎日、あの交差点に通って、きょーちゃんがあたしに会いに来るの、待ってるんです。でもまだ会えなくて、だから今日、ここに。
会わなくちゃ。あたしが死なせた。きょーちゃんに、どうしても、会わなくちゃ……
◆◆
明日香は泣いていた。腕を抱くようにして必死に耐えたが、それでも堪えきれず嗚咽した。
泣くつもりはなかった。奪ったものと同等のものを差し出して、それを贖罪にして、それで初めて泣くくらいのわがままは許される、そう自分に言い聞かせてきた。でも、それすらただの自己満足に過ぎない。加害者が死んだところで、既に断たれた二人の幸せな未来は戻って来ない。それなら一体、どうすれば良いというのだろう。
ステージへと向かいながら、さらに明日香は思った。
幽霊になったきょーちゃんが、あたしのことを呪ってくれるだなんて、恨めしいと殺してくれるだなんて、本気で考えていたんだろうか。
亡くした親友京華がどんな人物かは、明日香が一番よく分かっていた。いつでも元気いっぱいで優しく、少しお節介なくらいに面倒見の良い、向日葵の花のような子だった。彼女が明日香を傷付けることなどきっとない。例え幽霊になったとしても。
「それなら、あの日だって……」
ふと閃いたある考えに、声が震える。
きょーちゃんがあたしを仲間外れにして、帰ってなんて言うだろうか。もしあの日、振り返った彼女の瞳が、本当は別のことを言おうとしていたのだとしたら。そんな彼女を、あたしは……
幸助は見守るように明日香の数歩後ろを歩いた。妹の後ろ姿を見つめながら、内心ほっとしていた。ずっと涙一つ流せなかった明日香が、やっと泣いた。明日香はこれから少しずつ立ち直っていくのだろう。怪しいイベントかと身構えたりもしたが、ここへ連れてきて本当に良かった、そう思った。
ふと、付き添いで来てくれた恋人の華恵のことが気になり、幸助はぼんやりと明るいステージ上から暗がりを眺めた。先程まで座っていたパイプ椅子の辺りを探す。
あれが彼女だろうか。白い服を着ている華恵らしき人物の姿が、うっすら見分けられるような気がした。華恵の顔はこちらでも今の話し手の方でもなく、全く別の方角を向いているように思える。その視線の先に、何かあるのだろうか……?
華恵はある一点を凝視していた。今日は恋人の幸助と彼の妹の付き添いという名目でこの会に参加している。でも、意識は完全にそちらへ向いていた。黙っていてごめんなさい、と心の中で幸助に謝る。彼に正直に全てを打ち明けるには、まだ心も言葉も準備が整っていない。
身動きすらせず食い入る様に、ここへ来た本当の目的、その人の姿を見つめた。瞬きの間さえ惜しい。こちらへ早く気付いてほしいという願いと、このままずっと気付かないでほしいという祈りの境を、波間を漂う小舟のような不安定さで行ったり来たりしている。
これは悪夢だろうか、それとも達の悪い正夢なんだろうか。
体育館の中央付近から、すでに十九話目の話がなされている。話し手は、五、六人程のグループで参加している男子中学生の一人だった。指名された彼をからかうように、周りの中学生たちは暗がりの中で仕切りに目配せをしてささやきあい、スマートフォンで写真を撮っている。
きっとこの次に話し手に選ばれるのは、隅の方で頻りに髪をいじっているあの二人組の女子大生のどちらかだろう。開始から約一時間、飽きてしまう参加者がちらほら現れる頃合いだ。
亡くなった人への強い思いを抱えてこの会を訪れる人もいれば、肝試しの一貫で参加する人もいる。故人との思い出話を笑顔で語る老紳士や、学校の七不思議を臨場感たっぷりに語る小学生の女の子もいた。
誰が何のためにこの百物語を始めたのか、百話を語り終えた時一体何が起こるのか。この場にいるほとんどの者がその意味を、その真相を知らない。
それで良いのだと思う。それが良いのだと。
こうして今夜も新たな物語の数々が紡がれていく。
そう、この香りをあなたに 三十三話
僕の番、ですね。
車椅子なので、座ったままで失礼します。皆さん見ての通り、僕は両脚がありません。
あ、いえ、脚を捥がれたなんて、物騒な話ではないですよ。脚を失ったのは、単に僕の過失です。
話は、先月の終わり頃のことです。僕は街の大きな病院に入院していました。よくある話かもしれませんが、ある晩、声が聞こえて目が覚めました。
女性が、枕元にすっと佇んでいました。
幻想的、という言葉がぴったりの光景で。何というかこれも在り来たりな表現ですけど、白っぽくぼんやりとして見えました。その女性は鈴が鳴るような澄んだ声で、「ほしい」と言いました。彼女があんまりに綺麗だったせいもあって、僕は全然驚きませんでした。少し考えて「何が欲しいの?」と返しました。
元々、幽霊とか、そういうのは信じていませんでした。でも……よく言うじゃないですか、幽霊の問い掛けに返事をしちゃいけないって。だから何か言えば、何が欲しいのかって聞けば、お前の魂が欲しいって、言ってもらえる気がしたんです。つまりは、その時の僕はそういう気持ちでした。
彼女は首を横に振って、何か差し出しました。僕がベッドに寝たまま手を伸ばすと、もう彼女の姿はなくて。ただ人差し指と親指の間に、細かい葉がわさわさと茂っている小枝を摘んでいました。
翌日もその翌日も、夜中になると彼女は現れました。毎日、同じ植物の小枝を彼女は持ってきて、僕は彼女が消える度、それをゴミ箱へ放りました。
僕はその……高い所から落ちて入院することになったんですけど、その時の打ち所が悪くて、脚だけじゃなくて頭までおかしくなってたんだと思いました。
退院する前の晩、彼女がいつも現れる時間より前に、僕は窓まで這って行きました。脚はこの通りですから、腕の力だけで、すごく大変な思いをして。
入院して意識を取り戻した春の頃から、ずっと心に決めていたんです、その日にって。窓の前にある椅子によじ登って、窓を開けて、もう一度、今度は完璧に、全部終わりにするつもりでした。
僕が床から見上げると、彼女が窓の前に立っていました。泣いていた、と思います。その日だけは、はっきりと声が聞こえました。
「生きてほしい」
ずっと、僕にそう言ってたんだと気付きました。
きっと彼女がそうしたんでしょうね。ナースコールがいつの間にか押されていて、看護婦さんが駆けつけて来ました。それで、僕の情けない計画は失敗に終わったんです。
最後の晩にも彼女は、あの小枝を運んで来ていました。
調べてみたら、ゴールドクレストっていう木だったみたいで。その小枝は、今、挿し木にして部屋で育てています。木にも花言葉があるんですよね。それを知ったのは、退院して暫く経った後でした。
彼女が一体誰だったのか、今でも分かりません。
ええ、それで、車椅子にラベンダーのサシェを提げています。きっとゴールドクレストの花言葉を知っている彼女なら、この意味に気付いてくれると思うから。
◆◆◆
車椅子の少年は、黙ってタイヤを回し、ステージの方へと方向転換した。介助に付いている人の姿はない。タイヤの擦れた体育館の床が、キュッと寂しげに音を立てた。
会場内まで付き添うと言った母を、何とか説得して一人で参加した。僕の話は母に聞かせるようなものじゃない、そう思ったからだ。這ってでも階段を上り、自分の力だけで蝋燭を消したかった。どうしても、百物語を形作った一人としてその仕事を果たしたかった。
由佳里は次の話し手の指名を終えると、提灯型のライトを手に急いで車椅子の後を追いかけた。彼の辿った道には微かにラベンダーの香りが漂っている。どうもこの会場の空気にはそぐわない、豊潤で麗しい匂いだ。
少年に介助を申し出た。ステージへ続く木製の階段は、車椅子では登ることができないだろうと判断したからだ。彼は肩を貸してほしいと言ったが、幾ら少年とはいえ女性一人の力で脚のない彼を支え切ることは困難だった。仕方なく代役を買って出たが、彼は首を横に振った。
次の話し手がやって来るまであまり猶予はない。会の進行に支障が出ることはどうしても避けなければならない。これはとても大切なことだから。
頭を深く下げて頼み込み、最終的に少年側が折れた。彼は一つだけ条件を付けさせてほしいと言った。彼の要望通り、車椅子に括りつけられたサシェを外す。片手に収まる布製の匂い袋には、可愛らしい刺繍が施されていた。
由佳里はラベンダーの香りを引き摺るように階段を上り、ステージの端、一番遠い箇所の蝋燭をふっと吹き消した。
植物には花言葉がある。人間が勝手気ままに与えた意味が。それは木でも同様だ。
ゴールドクレストの花言葉は「不変」そして「真っ直ぐに生きる」。空に向かって清々しく伸びて行くあの木を見て、昔の誰かがそんな願いを付与したのだろう。
ラベンダーの花言葉は様々だ。清潔、疑惑、沈黙、エトセトラ。だが、きっとあの少年の意図した意味はあれだろう。待ち焦がれる思いからついに自身が一輪の花となってしまった、可憐な少女の伝説。その物語から取られた言葉「あなたを待っています」。
少年を救ったあの乙女が彼のメッセージを受け取ることができたなら、果たして彼女はどんな顔をしただろうか。
百物語の会は順調に三分の一まで進み、会場内に乱雑に置かれたパイプ椅子は、空席が目立つようになった。休息スペースで飲食をする者、話し終えそのまま帰る者、席に留まりひたすら耳を傾ける者。反応は様々だ。
頭数だけではまだ十分、八十以上の聴衆が存在する。百話達成は成るだろうか。オレはどこかのタイミングで、話し手として割り込もうか。それとも、きちんと由佳里が指名してくれるのを信じて待ち続けようか。
「ごめんね」とただ伝えたい 六十六話
え、俺もいいんですか? 良かった、やっぱりここで間違いじゃなかった。俺の声聞こえるんですね? 良かった。
柳太郎と言います。二、三時間前にここで話してた、今隣に座ってるこいつの幼馴染です。俺は交通事故で、既に死んでます。多分幽霊……なんだと思います。
こいつ、明日香は、俺の姿が見えてません。俺が今話してるのも気付いてないし。見た感じ、何人かいますよね、俺の声、聞いてくれてる人。これから話すこと、お願いです明日香に、伝えて貰えませんか。お願いです。
俺達は物心着く前から一緒でした。そりゃ男と女だし、ちょっと距離取ってた時期もあったけど、こいつはずっと一番大切で。よく「お前が好きだ」って口にしてました。途中から二人のギャグみたいになってて、明日香はへぇとかふーんとかしか言ってくれなかったけど、俺はずっと本気で告白してて。
近所の神社で、毎年夏祭りがあって。そこ、縁結びのジンクスがあるんです。だから明日香にそこで、めっちゃ気合い入れて、きちんとした告白するつもりでした。でも、やっぱり冗談だと思われたみたいで、祭り誘っても全然取り合ってくんなくて。
明日香の親友の飯田が、俺のこと好きだっていうのは、明日香から聞いてました。正直、本命いるのに、他の子の話されてもあんまり興味なくて、スルーしてたんですけど。
あの日、道で飯田と会って。俺、明日香とはクラス違うから、高校入ってからの教室での様子とか知らなくて、それを飯田が教えてくれて。そんで二人で、明日香の話で盛り上がっちゃって。気付いたら、こいつは俺達の後ろですごい暗い顔してて。それ見て飯田が言ったんです、「私のおかげでりゅーの恋は実るよ」って。俺、その時は飯田が何言ってるか分かんなかったんですけど。
それで飯田は先に一人で帰るって言って、交差点の信号が青になった瞬間、道路へ飛び出したんです。
トラックが迫って来るの見えました。俺は、咄嗟に飛び出ました。飯田を助けたいとかそういうんじゃなくて、あ、これ明日香にカッコいいトコ見せるチャンスじゃんってくらいの勢いで。でも、結局カッコつけるどころか、こんなことになって……
一緒に死んだ飯田はもう、この世にはいないんですけど、消える前に一度だけ、なんて言うか、幽霊同士で会って。その時言われたんです、「明日香は私のこと、突き飛ばしたと勘違いして苦しんでる」って。「明日香のこと助けてあげて」って。
でも、俺にはもう、こいつを助けることなんてできないんです。飯田は人助けできるみたいなこと言ってたのに、さっさと居なくなっちゃうし。こんなに側に居るのに、俺は明日香に、好きだった子にすら何もしてあげらんない、せめて俺の声が届けばって。でも、届かなくて、悔しくて……
◆◆◆◆
既に開始時の半数以下しか参加者は残っていなかったが、その割に場内のどよめきは大きかった。六十六話目から続けざまに、それまでとは異質な空気が流れたからだ。
司会者はある席に近付き、これまでと同様話し手の指名をした。そして、制限時間のカウントが始まる。
――二分四十七秒の静寂。
司会者は終了の号令を掛け、次の席へと指名に向かう。落ち着き払った彼女からは、ふざけているような雰囲気は微塵も感じられない。ステージ上の六十六本目の明かりは、その後直ぐふらりと消えたのだが、それを注視していた者は一体何人いただろう。
そして再び、百物語が始まってこの方一度も腰掛けられていない椅子の傍らに、司会者は提灯型ライトをそっと置いた。次の話し手のための静かなカウントが始まる。
由佳里は次の話し手の席まで早足で赴く。そして彼、もしくは彼女の目の前に立ち、真っ直ぐその目を見て「次のお話をお願いします」と告げる。
全て主催者から渡された台本の通りだった。指名の順は状況に沿って独断で決めて良いとのことだったが、おおよその主催者の意図は汲んでいるつもりだ。この場で必要なのは、気持ちを強く持ち続けること、そのための百話なのだから。
柳太郎は酷く驚いていた。届け届け届けと念じていた想いが、思いがけない形で実になった。司会者はこちらの目をしっかりと見てくれた。そして、ほんの少し表情を崩したように見えた。やっと何か、自分にもできることがある、そのための助けを得られると直感した。
会場内には俺と似たり寄ったりの姿の参加者が大勢いた。だが、それ以外に少なくても三人、この場で俺の声を聞いてくれた人がいる。既に話を終えて留まっている彼と、司会役を務めている彼女と、たぶん幸助兄の隣でずっと遠くを見つめている彼女も。
早くこの会が終わってほしい。その時が待ち遠しい。一刻も早く明日香にさっきの話を、俺の言葉を届けてほしい。
明日香は自分の話を終えた後も、会場内に残り続けた。蝋燭を吹き消し終えて戻ってから、一度も席を立たなかった。
途中で二度、カバンの中のスマートフォンが振動した。きっと父さんからのメッセージだ。心配をかけていると分かっている。それでも画面を見る気分になれなかった。
百話話し終えたら奇跡が起こると希望に胸を膨らませた訳でも、他の人の話を聞いて心を揺さぶられた訳でもない。向き合わなければ、考えなければいけないことへの焦りも、今は薄れている。
ただ何となく、その席が私の居場所だと感じた。まるで薄いベールに包まれているようなこの感覚を、席を立ったり他のことをしたりしてかき消したくない。ひどく収まりが良くて心地良かった。いつかの、柳太郎の隣に居た時みたいに。
華恵は確信した。
もうあの人は、私が今日ここにいることに気付いている。知っていてわざとこちらに視線を合わせないのだと。幸助は、私がただの付き添い以上の理由でここに居ることに、とっくに気が付いているようだった。それでも何も聞かず、ただ、私と妹の明日香ちゃんのことを見守ってくれている。
帰ったら、今度こそきちんと話そう。そして先に話しておかなかったことをきちんと謝りたい。明日香ちゃんとも、同じ傷を抱えた者同士もっと仲良くなれる気がする。そのためにも、私は最後までここに残らなければいけない。
そう、あの呪いは君に 九十八話
どうも。ここいらでネタ切れかな? では、オレの番と行かせてもらおうか。
今宵は聴衆諸君に、世にも珍しい呪いの手紙を披露しようと思ってね。いや、別段珍しくもないか、まあいい。早速聞いてくれたまえ。
「拝啓、橋本君。これは呪いの手紙です。
君は私の名前を知らないでしょう。
私の手掛かりを探して、きっと君は彼の会に足を運ぶだろうと、この手紙の代読を彼に頼みました。」
あ、そうそう、この“彼”とは無論オレの事だ。念のため注釈を。ええと、で、続きだな。
「君が命を粗末にする人だと、私は君の前に現れる以前から知っていました。
どうしてか不思議ですか。君のお母さん、美代子さんは、うちのお店の常連客でした。最近“フラワー飯田”から“京華”に店名を変えた、高架下の小さな花屋です。
私が病室を訪れた時、君はベッドで疲れた顔をしていました。不安定な存在である私の、君だけに見える幽霊の呼び掛けに、君はちっとも驚かなかった。むしろ進んで返事をしましたね。
あの時、怒っていたのですよ、私は。君がまた命を粗末にしようとしたことに。
君が両脚を失う程のケガをしたあの日、美代子さんが君のためにした、たくさんのことを知っていますか。私がトラックに跳ねられて病院に運び込まれた日、赤の他人の私に彼女が何をしてくれたか、知っていますか。
あの時君は何も知らず、何も知ろうとしなかった。君はたくさんのものを持っていたのに、それは当り前のものなんかじゃなかったのに、君は簡単にそれを捨てようとした。
それで私は決心しました。君を呪ってやろうと。大嫌いな君を呪い、大好きな美代子さんを救うために、私は君の枕元へ現れました。
君に手渡したゴールドクレスト、その花言葉が呪文です。花屋の娘だった私にふさわしい最期の呪い、絶対に君を逃してなんかあげません。だから私が消えてしまっても、呪いの効力が続くように、この手紙を書きました。
橋本君、君に第二の呪いを与えます。この先もし、最初の効き目が弱くなったりしたら、澤村(さわむら)明日香という人が、」
んん? もう持ち時間終了かい、参ったな。肝心なところが……まあいいや。
この手紙の続きに関心がおありの橋本某君、後日オレの事務所においで。高架下、祓い屋、黄泉比良坂、でネット検索すれば、どこかでヒットするだろう。
まあ君が、きちんと彼女の呪いにかかって、今ここに生きて参加しているならば、だがね。
ああ、分かったよ由佳里、元々オレの作ったルールだ、守るよ。
では、諸君。ご機嫌よう。
◆◆◆◆◆
残る蝋燭は三本。今からその内の一本が消されることになる。
階段脇には灯籠がぽつりと一つ置かれていた。減った本数では照らしきれない階段のために、少し前に由佳里が用意したものだ。ステージへの昇降程度には差し障りないが、仄かな明かりは実に頼りなげで、見通しをつけることなど叶わない。
もう終演が近いのだ。
張り巡らせた暗幕を剥いで、後片付けを始めてしまっても良いくらいだが、窓が剥き出しになったところでさして明るさは変わらないだろう。今夜は新月だ。
揺らぐように火が消える。あんなに長かった蝋燭も、随分短足になってしまった。
会場内に未だ留まり続けている物好きは誰だろう。移動している提灯が照らし出すのは空席ばかりだった。
由佳里は迷いのない歩き方で進んで行く。そして次の話し手として選んだ一人の前でぴたりと立ち止まった。
華恵と由佳里は真っ直ぐに見つめ合った。勿論初対面だったが、お互いに関係深い間柄だと気付いていた。
「次のお話をお願いします」
由佳里の呼び掛けに華恵は立ち上がり、ゆっくりと首を横に振った。
「ごめんなさい。話し手は他の方にお願いします。私は……この会の主催者に用があって、ここへ来ました」
納得したように深く頷いた由佳里は、周囲に顔を向ける。
「それでは」
途中まで出掛かった由佳里の言葉を制するように、「いやはや」とトーンの高い男の声が体育館に響き渡った。
そう、オレが、声を上げた。
「いやはや、非常に残念だがね」
体育館の端の暗がりから歩き出し、オレは由佳里の提灯を目指して移動する。ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ。
「どうやら、一人語りの物語はオレの九十八話で幕引きのようだ」
暗闇を行くオレに向けられる視線。そこに深い重みを感じる。
由佳里の右手を中心に丸く切り取られた光の中央、その辿りついた先には舞台の最後を飾る、然るべき人影が集まっていた。
薄ぼんやりと浮かび上がる、六つの顔を見回す。放心した女子高生澤村明日香、付き添いの兄澤村幸助、二人の幼馴染み宍戸柳太郎、車椅子の中学生橋本|裕樹(ゆうき)、司会進行役の押野由佳里、そして……
「やあ。久しいね、華恵」
被っていた帽子をちょいと持ち上げ、懐かしい顔に軽く会釈する。
オレを警戒してのことだろう幸助が立ち上がり、妹を背に隠すような格好で華恵の隣に並んだ。しかし明日香の視界には誰の姿も映っていない様子だ。
「あんた、さっき祓い屋とか言ってた……」
幸助の声は随分と棘のあるものだったが、無理もない。
先程読み上げた手紙の中で、オレは澤村明日香の名に触れた。見ず知らずの男が大切な妹の名前を口にしたとあらば、警戒するのは当然だ。あの手紙は書いた本人飯田京華と、宛先人の橋本少年にしか意味が通じないであろうことは、仲立ち人として重々承知している。
オレは幸助にも会釈をして言った。
「ああ、何せあの短時間で自己紹介をするとなると、それくらいの表現しか浮かばんのだ。祓っている訳ではないのだがね」
困惑しながら身構えている幸助に視線を送った後、華恵はぽつりと言った。
「やっぱり、そうなんだね、主催者。ほんと、久しぶり……」
何でもないような口調とは裏腹に、彼女の頬を涙が伝って零れ落ちる。オレは黙ってそれを見守った。
「華恵? 大丈夫か?」
幸助は動揺して華恵の顔を覗き込み、背中をさする。
「うん、ごめん、幸助。意味分からないよね、突然、こんな。もっと早く話しておけば良かった」
流れ続ける涙を拭うこともせず、華恵は言った。
「今日、私ね、この子に会いに来たの。それで一緒に行くって言ったの。幸助から話を聞いて、あの案内の紙を見て、こんな会思い付くのは一人しかいないって。こんな……酷いことするのは一人しかいないって思って」
酷いという言葉に合わせて、華恵はオレをきっと睨んだ。オレはそれも黙って受け止める。
だんだんと大きくなる彼女の声に、流石の明日香も我に返ったように顔を向けた。
「だって、今更……!」
華恵の叫びに澤村兄妹、幽霊宍戸、橋本少年は目を瞬かせて息を呑む。
「今更会いたくなかった。やっと忘れてしまえると思ってたところだったのに。何年も何年も、ずっと苦しんで来たのに!」
絞り出される華恵の嘆きに、明日香は自分の苦しみが重なるように思った。
「華恵さん……」
明日香は躊躇いがちに兄の恋人の名を呼ぶ。振り返った華恵の表情は、話し手を務め終えた時の明日香の顔によく似ていた。
「明日香ちゃん。もし、また会えるってもっと早くに分かってたら、こんなに辛くなかったかな?」
華恵の問いかけは明日香の心を鷲掴み、明日香は言葉を呑んだ。
この中で今の状況を把握しているのは、オレと華恵と由佳里くらいのものだ。由佳里は何も言わず、澄まし顔でオレの半歩後ろに控えていた。
微笑を絶やさないまま、オレは穏やかに皆へ告げる。
「機は熟した。今宵はもう遅い、これでお開きにしよう」
オレの発言の意図を素早く汲み取ったのだろう。由佳里は提灯を空いた椅子に置き、数段明るい懐中電灯を取り出すとさっさと歩き去った。その後ろを追おうとしたオレを、華恵の右手が引き留めようとする。
「だめ」
この三年間鍵を掛けたままだった扉を押し開くように、彼女の声は重たげだった。
「これが最後なんでしょう? ここを出てしまったら、もう会えないんでしょう? 私たちの百物語みたいに」
華恵の声に弾かれるように、積み重ねられた記憶が走馬灯のように駆ける。
「まだ何て言うか、決まってないよ私」
――彼に言えなかったあの言葉を伝えたいと。
「すまない、華恵」
――彼女に言えなかったあの言葉を伝えたいと。
「君を傷付けることは分かっていた。この百物語を始めた時から、華恵、君をもう一度泣かせる日が来ると思っていたのだ。でもどうしても、オレはこの会を、この名前を使いたかったのだよ」
「やっぱり、酷いよ」
華恵は泣き崩れた。幸助がその肩を優しく抱き寄せる。
彼女の隣に居られない自分を、オレは呪ったりしない。ただ「彼女に言えなかった言葉」はやはり言えないまま、オレは華恵の幸せを心中で願った。
「ここへやって来てくれた君に感謝する。こうして再会できた奇跡にも」
イベントの名「百の物語で偲ぶ会」も、「大切だったあの人に、あなたの思いを届けませんか」という文句も、勿論、主催者名「黄泉比良坂」も。
最初に使ったのは中学の時だ。
文集テーマ「怪談」に合わせて、文芸部部長が作った架空の設定。
そう、この百物語を考え出したのはオレの二つ年上の幼馴染、柏木華恵だった。
Ⅲ raise
夏の幻、物語、涙
「さよなら」はまだ言えない
秋の空、物語、笑顔
「さよなら」はもう言えない
「ありがとう」とただ伝えたい
そう、この言葉はあなたに
夏の幻、物語、涙
真上から照りつける太陽が眩しい。
八月の終わりから九月の始めへ。カレンダーを一枚めくったところで、何かが劇的に変わったりはしない。昨日は今日と陸続きで、今日は明日と繋がっている。
日差しは夏を引き連れたまま、我が物顔で通りに降り注いでいた。
商店が立ち並ぶ高架下への坂道を下りながら、華恵と並んで歩いた。彼女はライムグリーンの日傘をくるくると回しながら、俯いたまま何も言わない。
明日香とは、目的地である事務所の数件手前にある、小さな喫茶店で合流することになっていた。妹は自ら、橋本祐樹君を迎えに行くと言って、朝早くに家を出た。かつての親友の実家が営んでいる花屋に寄って、二人で献花してから向かうとのことだった。あの交差点にまた、瑞々しい白い花が並ぶのだ。
あの新月の夜、俺たちはどうやって次に集まる約束をしたのか。どうやって家に帰ったのか。
全てが夢か幻だったような、あやふやな記憶しかない。あの日の俺は、華恵と祓い屋だという男の意味の分からない会話を何もできず眺めていた。そうしている内に突然体育館の電気が付き、追い出されるように会場を後にした。
気付けばあれから茫然と一週間が経過していた。
明日香は少しずつ、生きる気力みたいなものを取り戻した。
橋本君は同じ学区内に住む中学生らしい。あれから明日香と毎日連絡を取っているようだ。きっと橋本君との交流が、妹の心の氷を溶かしてくれているのだろう。兄にはできなかった事を。
俺はといえば、この一週間をただぼんやりとやり過ごした。華恵と会話らしい会話はしていない。今日も待ち合わせ場所で会ってから、挨拶程度しか言葉を交わしていなかった。
つくつく法師の鳴き声が、近くの神社から辺り一面に響き渡っている。商店街が近いはずなのに人の賑わいは感じられない。蝉しぐれだけが二人の沈黙を埋めていた。
「……聞かないの?」
「え?」
隣からの声に弾かれるように横を向く。
「こないだのこと」
華恵はこちらを見ていた。息をのみ、おずおずと答える。
「聞いて平気?」
「うん、話さなきゃと思ってた。……怒ってる、よね」
「えっと、正直、何から聞けばいいのか分かんなくてさ、ごめん。でも、怒ってはないよ」
怒っている訳ではない、と思う、たぶん。ただきれいさっぱり気にしていないとも言いきれなかった。
あの男と華恵は知り合いで、それもきっとかなり親しい仲だったのだろう。俺は置いてきぼりを食わされて、単に嫉妬しているのかもしれない。
「あの人ね、幼馴染だったの。私が高校一年生の夏まで」
「まで?」
華恵の表現の仕方が引っかかり、首を傾げながら問い掛ける。
「うん、あの人……あの子、私の二つ年下でね。あの子が中学二年、私が高校一年の時に、事故で死んじゃったんだ」
「え?」
暑さで流れる汗と一緒に、背筋をひやりとしたものが流れた。
「信じられない、よね、こんな話。でもほんとなの」
彼女の目は真剣だった。華恵は冗談でこんなことを言う人ではない。俺は黙って華恵の話に耳を傾けながら歩いた。
「あの百物語の会、ね、もとは私が考えたお話なんだ。あの子、私が中学の時に入ってた文芸部の後輩で。毎年秋にね、文芸部で文集出すんだけど、ある年のテーマが怪談だったの。それであの子が、『怪談は怪談でも、人をあったかい気持ちにできる怪談がいい』って言って。それで私が考えたのが、百話揃ったら思い人と通じ合える百物語」
さらさらと流れ出て来る新情報が、上手く呑みこめない。
「え? じゃあ、あれって、そのお話の再現ってこと? もし百話、話せてたとしても、別に何も起こらなかったってことか」
何かが本当に起こるなんて、微塵も考えていなかった。だが、あの会の最後に感じた雰囲気に、思うところがあったのも事実だ。
「ううん、分からない。だって、主催者自身が既に亡くなっています、なんて。もうその時点で何が起きても可笑しくないもの」
微かに涙声になる彼女の言葉を、どうしても俺はすんなり信じてあげることができなかった。
「それは……他人の空似とか、文芸部時代のこと知ってる別の人、とかじゃなくて?」
「そうであってほしいなって、今でも思ってるよ。でも、そうじゃないって分かってる」
華恵はきっぱりとそう言った。
「事故の時、一緒に居たの。助けられなかった。……私ね、あの日から、ずっと息をするのが苦しくて。虚しさをかき集めたみたいな顔して生きて来た」
出会ったばかりの頃の華恵の顔を思い浮かべた。
「楽しいことがあっても心のどこかに穴が開いていて、そこから空気が抜けるみたいにしぼんでいく感じだった。表面では笑ってても、心がどこか遠いところで冷えていく感じ」
「うん」
「私、好きだったの。あの子のことが」
「……うん」
「そんな人生の中でね、幸助、あなたに出会えたことが、私の救いだった。こんな風に言っても、嘘臭く聞こえるかもしれないけど」
苦笑いをする彼女の右手に指を絡め、俺は強く頭を振った。
「そんなことない」
「ありがとう。……幸助を好きになって、あの子のことは忘れてしまえると思った。でも、向き合わなきゃ、何も変わらないって分かったの」
「うん」
なぜだろう、俺はいつの間にか、彼女につられるように泣いていた。
「明日香ちゃんの話聞いた時、彼女の気持ち、痛いほどよく分かった。辛い。この辛さは、一人じゃ絶対に乗り越えられない。……私たちの書いた文集の物語はね、そんな傷を抱えた人たちが集まり合って、語り合って、支え合って、そうして前を向くお話だった」
中学生の思い描いた、優しい癒しの怪談。無性に、その文集を読みたくなった。
「きっともう、会えない、あの子には。事務所に彼は居ない。そんな気がするの」
華恵の言葉は予言のようだった。
「それでも、行くんだね」
「うん。本当に卒業するために。あの子の面影から」
俺も彼はもう居ない、そんな気がした。あの帽子を被った、古風な喋り方をする華恵の幼馴染は、もう彼女の前に姿を現さない。それは俺にとっても、とても寂しいことのように思えた。
「さよなら」はまだ言えない
事務所の扉を三度ノックすると、中から声がして扉が開いた。
「ようこそいらっしゃいました」
聞き覚えのある凛とした声、あの夜司会をしていた女性が顔を出す。
色素の薄いショートカットの髪と澄んだ瞳、透き通るような白い肌が目を引いた。あの日は暗くてはっきりとは見えなかった顔が今、目の前で日の光を浴びている。その光景は何だかとても不思議なものに思えた。
「中へ、どうぞ」
「はい」
私は祐樹君の車椅子をぐいと押しながら、少し狭い事務所の入り口を潜った。後から兄の幸助と華恵さんが続く。
「そこのソファに、自由に腰掛けて下さい。今、飲み物と軽食をお持ちします」
「あのっ」
くるりと踵を返した女性に慌てて声を掛ける。
「何か、お手伝いできますか?」
私の申し出に、それまで無表情だった彼女がほんの少しだけ微笑んだ。
「お気遣い感謝します、明日香さん」
その笑顔に触れた瞬間、私は彼女に親近感を抱いた。古くからの友人のような、ふんわりと温かい気持ちだ。つられてこちらも顔が綻んだ。
「ではテーブルを拭いてもらえますか?」
「はい!」
「このくらいのおもてなししかできませんが」
数分で目の前のテーブルが華やいだ。このくらい、なんて謙遜が過ぎる。
たまごとレタス、ツナときゅうり、ハムとアボカド、いちごと生クリームの四種類のサンドイッチに、一口大のお惣菜が所狭しと並べられたオードブルの大皿。どれも美味しそうなものばかりだ。
「すごい! 豪華ですね!」
祐樹君がはしゃいだように車椅子から身を乗り出して目を輝かせている。
「甘いサンドイッチがある! これ全部手作りですか? お一人で?」
静かで大人びた印象だった彼も、こうしてみると中学生だ。そう言えば昨日電話で、デザートサンドイッチが大好物だと話していた気がする。
「大したものではありませんが、喜んで頂けて良かったです」
「ほんとすみません。押野さん、でしたよね? こんなにして頂いて」
幸助が恐縮したように頭を下げた。
「押野由佳里です。皆さん、気軽に下の名前でお呼び下さい」
由佳里さんは澄まし顔で淡々とそう言った。一見不機嫌そうにも見えるきりりとした表情は、彼女の他意はない素顔のようだ。
「あの、由佳里さん」
華恵さんが室内に視線を泳がせながら声を掛けた。きっとあの人のことを尋ねるつもりだ、直感でそう思った。由佳里さんも同じように察したのか、華恵さんの続く言葉を待たずに頷いた。
「はい、あの方ならもうここには居ません。恐らく戻って来ることもないでしょう」
一番大きな反応を見せたのは幸助だった。
「戻って来ないって、どういうことですか? 俺たちを集めたの、あの人なのに」
祐樹君と私は黙って話の行方を見守る。意外なことに、華恵さんは落ち着いた様子で笑った。
「何となく、そうじゃないかって、幸助とも話してたんです」
「じゃあ、俺たちが今日招待された理由って……?」
幸助の問いは誰に向けられたものでもないようだったけれど、由佳里さんは首を横に振って応じた。
「当初あの方が意図した理由は、私にも分かりません。でもせっかくの機会ですし、私の知りうる情報を皆さんにお分かちしようと、私の判断でお断りの連絡は入れませんでした」
今この事務所に集まっているのは五人。私と橋本祐樹君、澤村幸助と柏木華恵さん、そして押野由佳里さんだ。
「他にも誰か?」
私も気になったことを兄が先に言葉にした。今からさらにこの場に集まって来る人がいるかもしれない。
自然と視線が由佳里さんに集まる。彼女は含みを持たせるように一呼吸置いてから、口を開いた。
「あの会に最後まで残っていた方々をお招きしています」
「り」
裕樹君が何かを言いかけてやめる。私にはその「り」の後に続く言葉が分かっていた。由香里さんは裕樹君に視線だけで頷いた。
「あの子は……いつ?」
少しの沈黙の後、今度は華恵さんが質問した。「あの子」とはこの会の主催者のことだろうか。
「あの夜が明けて直ぐ出て行かれました。『できるならサポートしてくれたまえ』と言い残されて、そのまま」
「サポート? 何のですか?」
幸助が尋ねた。
「百物語の会の今後、でしょうね。“次世代の主催者候補”の、とでも言いましょうか」
由佳里さんは次世代と言った所で、私の方にちらりと視線を送った。心臓の鼓動が跳ねる。まさか、そうなのだろうか。
「探し出すことはできませんか? その人の行きそうな場所とか」
「幸助。あの子は、もう……」
三人の会話はもう、私の耳には入らなかった。次世代の百物語の会主催者候補、私と関係のある人、華恵さんの会いたかった人と似た存在……。
祐樹君と視線を交える。その目は「ですよね」と彼の思い付いたある人物について、同意を求めているように見えた。
きっと、そうだ、そうなんだ。
どうしようもなくわき上がる感情を抑えつけることができない。
その次世代は、柳太郎だ。
秋の空、物語、笑顔
「ああーっと、つまり?」
混乱する頭の中を必死に整理する。
「あの会の主催者は実は幽霊で、願いが成就したから成仏したっていうこと……?」
二人の話をまとめるとこういうことだろうか。言葉にしてみたもののいまいち呑み込めなかった。予想の斜め上を行く展開に、心も知識も付いていかない。いや、幽霊なんて突拍子もない発想に、理屈云々を求めても仕方ないのかもしれない。
「遠からず近からずかな」
華恵は串に刺さっていた一口大のソーセージをぽんと口に放りながら頷いた。
彼女からは今までの寂しそうで苦しそうな、あの何かを静かに耐えているような雰囲気がすっかり消えていた。華恵が一気に幼く無邪気に見えた。憑き物が落ちるなんて言葉は、こういうのを指すんだろうか。きっともう華恵は大丈夫だ、そう思った。
俺はちらりと明日香を見る。妹の落ち着き様にそわそわした気分になった。
押野さんが事態を把握しているのは当たり前だし、華恵は関係者でもあり元々の順応性も高い。だから彼女たちの反応は納得できる。でも明日香や橋本君まで、どうして澄まし顔なのかが腑に落ちない。
「感覚が可笑しいの、俺の方か?」
頭の中の混乱に、ほんの一握りの寂しさが混じる。でも同時に安堵もした。良かった。明日香は今、少なくとも苦しそうには見えない。
「申しわけありません。私の説明では分かりにくいですね」
呟くような俺の嘆きに、押野さんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「ああいや、そういう事じゃなくて、その、俺……」
幽霊なんて非科学的なものを受け入れられなくて、そう正直に言うべきか迷った。この場でその言葉を口にすれば、それを信じて支えにしている誰かを傷付けることになるかもしれない。何かを壊すことになるかもしれない。
「大丈夫」
華恵が手を繋いでくれる。
「何も、壊れないから」
俺は今日、明日香や華恵を励まさなくては、支えなくてはとここへ来た。それなのに、今励まされているのは俺の方だと思うと、奇妙な気分だった。
「……押野さん、気を悪くされたらごめんなさい。華恵も」
二人は順に頷いた。
「押野さんが作り話をしているとは思ってません。華恵のことだって信頼してます、本気で。だから、二人が話したことは真実なんだと思う。でも俺にとっての現実とは言えない」
それが本心だった。
「俺はやっぱり、形があるものを信じやすい。自分の目で見たものとか肌で感じたものが確かなものだって。だからあの人物が華恵にとって大切な人で、あの会が意味のあるものだっていうのは分かる。でもそれ以上は、今の俺には受け止めきれない。ごめんなさい」
話しながら、俺の脳裏をふとある考えがよぎった。
あの会の存在自体がひとつの物語だったのかもしれない、と。
華恵の零した涙がパズルのピースのように九十九話目を埋め、そして、俺達が集いあったあの夜という一話が、百物語を完結させた。その中に確かに俺も居たのだ。
百話揃った優しい怪談は、きっと誰かに、何かを残したはずだ。それは不思議と信じられた。
「ちょっと、外出て来ます。いいですか?」
俺の申し出に押野さんは頷いた。
「ええ、構いません」
「外の空気、吸って来る」
華恵は俺の言葉に、黙って繋いだ手を離した。
彼女は笑顔だった。その全てを受け入れてくれるような微笑みに微笑み返してから、俺は扉のノブに手を掛けた。
窓のない事務所の中では分からなかったが、空には少し雲が出ていた。遠く高いところに薄く広がる雲。秋はもう、すぐそこまで来ているようだ。
「さよなら」はもう言えない
「お兄さん、良い方ですね」
ストローから唇を離し、由佳里さんがそう言った。
さっきまで向かいのソファで唸り声を上げていた兄は、外の空気を吸って来ると事務所を出た。華恵さんも幸助を追って席を立ち、今はいない。
「兄は基本、すぐ人を信用するお人好しなんですけど、自分の目でしっかり確かめたいタイプだから。百物語とか幽霊とか、色々追い付かないんだと思います」
黙って話を合わせることもできたけれど、幸助はそうしなかった。何が納得できて、何が信じられないか、何を自分が知っていて、何を知らないのか。それを誤魔化したりしない真っ直ぐな兄を、私は誇りに思う。
「由佳里さんは寂しくないですか」
突然の私の問い掛けに、由佳里さんは首を傾げた。
「寂しい……?」
「何年もお二人で百物語の会、やってたんですよね? それなのに、前触れもなくいなくなっちゃうなんて」
いなくなると分かっていたなら、せめて別れのあいさつでも出来たなら。
「ああ、あの方のことですか……」
この事務所の中のそこかしこにきっと、あの人と由佳里さん、二人の思い出がある。
「この事務所の時給、いくらだと思いますか」
少し考えるような間を置いてから、由佳里さんは唐突にそう言った。
「え、時給ですか? うーんと、六百円とか」
きっとすごく安いのだろうと、思い付く最安値を口にする。彼女はくすりと笑った。
「六十円です」
「え」
あまりの数字に言葉が続かなかった。
「休憩時間にお茶菓子をあの方が差し入れて下さるんです。その代金を時間で割るとそうなります。ひどいでしょう? その上この事務所の家賃を払っているの、私なんです」
由佳里さんは笑っていた。
「その上、会場使用料にチラシの印刷費。これからは新しいお金の使い方を考えなければいけません。だからそれだけで忙しくて、しんみりしている余裕はないですね」
彼女の横顔はとても楽しげで、それでいてほんの少し寂しげに見えた。
彼女には別にちゃんとした本職があり、そのつてで安く借りているこの事務所も、今月いっぱいで出るつもりとのことだった。
この事務所がなくなってしまったら、柳太郎はどうなるのだろう。百物語の会は柳太郎が引き継いで行くのではないのだろうか。
「あの」
助け船を期待して祐樹君を見る。彼は目を輝かせながらいちごと生クリームのサンドイッチを頬張っていた。その幸せそうな様子に、思わず顔がほころんだ。
「この一週間、色んなこと考えてみたんです」
私は祐樹君と語り合ったこの一週間を思い浮かべた。
「そうですか」
由佳里さんは静かに頷いてくれた。
「良ければ明日香さんのお話、聞かせて頂けますか?」
「ありがとう」とただ伝えたい
百物語の会から戻った次の日、見知らぬ番号から電話があった。私はとっさに柳太郎ときょーちゃんの顔を思い浮かべ、急いで電話に出た。
「もしもし、澤村明日香さんですか?」
男の子の声だった。
「誰、ですか?」
「突然すみません、僕、橋本裕樹と言います。昨日の会に参加してた。車椅子の中学生、覚えてませんか?」
そう言えば、そんな子が居たような気もするし、居なかったような気もする。
「はい、何となく」
「実は今日の午前中に、あの会の主催者さんの事務所に行って来たんですけど、そこで澤村さんの連絡先知って、それで」
「え」
意味が分からない。どうして私の個人情報が独り歩きしているのだろう。昨日の話で、個人を特定できそうなことを私が言ってしまったからだろうか。それでも何故、この子は連絡先を聞いたりしたのだろうか。
「どうして事務所の人が番号を? 何の用ですか」
「あ、いえ、正確には事務所で渡された手紙に、飯田京華さんからの手紙に書いてあって」
剥き出しにしていた警戒心が、その名前を聞いた途端ぱちんと弾け飛んだ。
「きょーちゃん、からの、手紙……」
「あ、その、飯田さんからの手紙だっていうのも、さっきやっと分かったんですけど」
疑問が次々と浮かぶ。何が、どうして、どうなって……?
居ても立っても居られなくなった私は、見ず知らずの男の子に直接会う約束を取り付け、そのまま家を飛び出した。
遠目からでもその姿は直ぐに分かった。
「橋本君?」
「はい」
葉桜の茂る木の下、ベンチの横に並んでいる車椅子の背に声を掛けると、直ぐに返事があった。私は彼の前に回り込み、少し膝を曲げる。
「えっと……」
「澤村さん、ですね。昨日お会いしてるので、はじめましてって言うのもあれですけど」
「ごめんね。あたし昨日、全然周り見えてなくて、橋本君のことうろ覚えで。話してた内容もあんまり……」
「気にしないで下さい。百話もありましたし、覚えてないのが普通ですよ」
礼儀正しい真面目そうな子だった。目立った特徴のない、失礼を承知で言えば、クラスの中に居ても居なくても害のないタイプの子だ。ただどうしても、視線をやらないように注意すればするほど、車椅子の前に出ている膝辺りまでしかない脚が気になった。
「気になりますよね? 脚」
橋本君は嫌な顔一つせず、朗らかにそう尋ねた。
「あ、ううん。そんなことないよ。ごめんね、なんか」
気の利いた言葉が思い付かず、あからさまな嘘を吐いて誤魔化す。明らかに挙動不審だ。私の方が年上のはずなのに情けない。
「ほんとに気を遣わないでもらって大丈夫なんですけど、こういうのって、気にしないでって言われた側が戸惑うんですよね」
笑いながら橋本君はズボンの裾をすっと巻き上げた。
「お見苦しいですが、中身はこんな感じです」
剥き出しになった部分に視線を落とす。色白だがゴツゴツと骨ばった膝小僧が見えた。
「ものすごく酷いケガだったのに、ここまで残っただけでもありがたい話で。膝下、これだけしかなくても、ちゃんと動くんですよ」
橋本君が脚を動かしてくれる。初めて見る光景に私はじっと見入った。驚きはしたけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
「手術の跡とか、あんまり目立たないんだね」
「はい。今の医療技術ってすごいですよね。まだ完成してないんですけど、義足も本物の脚にしか見えないくらいよくできてて。つくづく技術の進歩って計り知れないなぁって感心しちゃいます。人間って素晴らしくできてますよね」
「人間が、素晴らしい?」
「はい。僕が知らなかっただけで、世界には色んな考え方や技術があって。ほんとに様々な人が息付いていて、それぞれに人生があって。僕は今まで、そういうことをちゃんと見て来なかったなあって、今更気が付いたんです。人間ってすごいなって。あ、すみません、関係ない話を」
頬をほんの少し染めて、彼は口をつぐんだ。反対に私は、彼の中学生とは思えない達観した発言にぽかんと口が開いてしまう。
「ううん、すごいね、橋本君。あたし、そんな風に考えたことなかった」
「僕もです。そういう考え方は飯田さんに、飯田京華さんに教わったんです」
可愛らしい微笑みだ。彼は車椅子の取っ手に掛けた鞄から一通の手紙を取り出し、私に差し出した。
「お読みになりますか?」
「これが、きょーちゃんからの、手紙……」
封筒の表には「橋本君へ」とだけ書かれていた。私宛ての手紙はないんだなと、心の奥がちくりと痛む。でも、そんなの当たり前だ。私は彼女に取り返しのつかないことを……
「これをお見せする前に、一つだけ」
私の思考を断ち切るように、強い口調で橋本君が言う。
「あの事故の時、飯田さんの背中に、あなたの手は触れていません」
「え?」
「飯田さんが亡くなったのは、あなたのせいじゃない。これは、気休めの嘘なんかじゃありません」
返す言葉が見つからなかった。彼もまたそれ以上何も言わず、私に手紙を読むよう視線で促した。
混乱したままの頭で、糊付けのされていない真っ白な封筒に震える指を差し入れる。私はそっと数枚の、懐かしい文字が並ぶ便せんを取り出した。
そう、この言葉はあなたに
澤村さんは僕の渡した手紙を、立ったまま読み始めた。最初は恐る恐るといった感じで、その内呆けたように口を開けて、そして最後には、瞳にいっぱい溜まった涙を零さまいと斜め上を向きながら。
表情のよく動く、純粋で可愛らしい人だと思った。あの柳太郎さんが惚れこんでしまうのも分かるほどに。
僕が車椅子でなかったら、あの震える肩に手が届いていたら、彼女を抱きしめていただろうか。泣かないで下さい、柳太郎さんもあなたには笑っていてほしいって言ってましたから、とか言って。
「信じてもらえましたか、それが飯田さんからのものだって」
「うん。うん」
首を縦に力強く振りながら、彼女は目頭を手で覆う。
「これは、きょーちゃんの手紙、だ」
昨日の百物語の会の九十八話目、主催者が読み上げた部分は、手紙のほんの触りに過ぎなかった。きっと彼の計算の内だったのだろう。読み進めれば進むほど、あの手紙は僕に宛てた内容から、澤村さんへ宛てた手紙へと変わっていく。僕がこうして彼女を探し当てることを前提とした内容に。
「あなたに、お話したいことがたくさんあります」
「うん。あたしも、君に聞きたいこと、たくさんある」
「良かったら、座って下さい」
隣のベンチに視線を送る。澤村さんは頷くと、車椅子の直ぐ隣、ベンチの端にそっと腰かけた。
手短に昨日僕が話した内容を、そして今日主催者の事務所を訪れて知った飯田京華さんに関する話を、澤村さんに伝えた。
「きょーちゃん、ずるいよね」
澤村さんが少し寂しそうに微笑む。
「あたしが第二の呪いなんて。そんなの聞いてないよ」
僕は空を見上げながら、澤村さんの言っている箇所を諳んじる。
「『橋本君、君に第二の呪いを与えます。この先もし、最初の呪いの効き目が弱くなったりしたら、澤村明日香という人が君を懲らしめにやって来るでしょう』」
「え、橋本君。手紙、丸暗記してるの?」
「いえ、その部分、何だか印象に残ってしまって。最初に澤村さんのお名前を聞いた段階では、会に参加されてた方とは思っていなかったので、懲らしめに来るって、どんな怖い人なんだろうって勝手に色々想像してたんです。まさか、昨日の話の“きょーちゃん”が、僕の探してた人と同一人物だったなんて」
偶然、ではないんだろうな。
「それも、主催者さんから聞いたの?」
「いえ、その辺りは……その」
ほんの少し迷ってから、思い切ってその名を口にした。
「柳太郎さんに」
宍戸柳太郎さん、飯田京華さんと一緒に交通事故で亡くなった、澤村さんの幼馴染の名だ。
「……え?」
僕の口からその名前が出るとは思わなかったのだろう。必死に隠そうとしているようだったが、かなり動揺しているのが手に取るように分かる。僕は言葉を選ぶようにゆっくりと切り出した。
「僕には、幽霊が、見えます」
唐突な告白に澤村さんは全く驚かなかった。
「以前はこうじゃなかったと思います。たぶんアパートの屋上から飛び降りた時、あの生死をさ迷った辺りから、こんな体質になったんじゃないかと」
彼女は僕の顔をじっと見つめ、それから静かに前を向いた。
「僕が始めて出会った幽霊が飯田京華さんでした。二度目の自殺を止めてくれた、僕の命の恩人。その次に幽霊に会ったのが、昨日の百物語の会場です。かなりたくさんの方が、あの会場には集まっていました。そしてその中で、言葉を交わした二人の内の一人が、宍戸柳太郎さんです」
「あそこに、柳太郎が……?」
「はい。澤村さんの隣の席、一つ空いてましたよね? そこに」
「隣、直ぐ隣に……」
「六十番台で話もされていました。幼馴染の明日香に、俺の言葉を届けてくれって。僕、体育館から出た後、柳太郎さんに声を掛けられたんです」
昨日の夜を回想する。会場を追い立てられるように出て直ぐ、彼に呼び止められた。
「彼からあなたの話を色々聞きました。今日、事務所の方と話していて、柳太郎さんの幼馴染の明日香さんと、僕への手紙の中に出て来た澤村さんが、どちらもあなたのことを指していたと気付いたんです。そして、あの約束の日の前にご相談したいことができて、電話しました」
あの新月の晩、僕らは一週間後の昼に事務所で顔を合わせる約束を、あの主催者の男性と取り交わした。こうして今日連絡を取らなくても、来週託された伝言を届けることはできた。でもその前にどうしても話したかったのは、もっと別の、彼女にとって大切な話があったからだ。
「今、柳太郎は?」
澤村さんは話の流れとは無関係に、そう尋ねた。知りませんと答えることもできたけれど、今僕が考え付く真実を伝える。
「……例の事務所に、いらっしゃるはずです」
案の定彼女は勢いよく立ち上がった。
「案内してもらえる?」
彼女の声は落ち着いていたが、焦点の定まらない目をしている。僕はゆっくりと首を横に振った。
「今はまだ、お二人を引き合わせる訳にはいかないと思います」
彼女にとって今会うことよりも、もっと大切なことがある。僕の拙い言葉で伝わるだろうか。そもそも僕の考えは当たっているのだろうか。迷いを打ち消すように深呼吸をした。
「聞いて下さい。僕があの会場で深く関わった幽霊は二人います。一人はもちろん柳太郎さん、そしてもう一人いる。その方の身の上は、これからの澤村さんと柳太郎さんに大いに関わって来るはずなんです」
彼女の瞳が僕の瞳を捉える。
「その話をどうしても、先にお伝えさせて下さい。それを聞いてももし、会いに行きたいと思われるなら、ご案内します」
なるべく感情的にならずに淡々と語った。澤村さんは口を挟むことなくじっと耳を傾けてくれた。
「……それは、誰?」
涙で潤んだその瞳を見つめながら、僕は言った。
「百物語の会の主催者、あなたが華恵さんと呼んだ女性の、幼馴染の方です」
RRR