Missing
僕とヘジンが出会ったのは、僕が大学2年の春だった...
故郷を離れ、大学に通うために一人暮らしをしていた僕は
女手一つで、僕を大学に行かせてくれた母の負担を
少しでも軽くしたいと、レストランでアルバイトを始めた...
ヘジンは、僕と同い年だったが、幼い時に両親と死に別れ
高校を卒業した後、引き取られていた親類の家を出て
一人で暮らしながら、そのレストランで働いていた
先輩だったヘジンに仕事を教えてもらううちに
自然に、僕たちは愛し合うようになっていた...
出会ってから半年後に、ヘジンは僕の部屋に住むようになった
若かった僕たちは、無邪気で、大胆で、怖いもの知らずだった...
あの頃は、財布の中に1万ウォンしか無くても
僕たちは幸せだった...
僕が大学を卒業してすぐ、兵役に行くことになった時
『待ってる...』ヘジンはそう言った...
面会日には必ず、手作りの弁当を持って、ヘジンは僕に会いに来た
僕の母も、ヘジンを気に入ってくれたし、両親のいないヘジンも
僕の母を、自分の母のように大切にしてくれた...
優しいヘジンに愛されることが
いつの間にか、僕にとって当たり前のことになっていた
大学で美術を専攻していた僕の夢は、ソウルに行って
演劇の舞台装置を作ること...
兵役から戻った僕は、大学の教授のつてで
ソウルの演劇の舞台装置を制作する会社に就職することになった
僕たちは、両手でかかえきれないほどの夢だけを持って
ソウルの向かった...
お金の無い僕たちは、小さなオンボロアパートに住むことになったが
そんなことはへっちゃらだった、僕には見る物すべてが、新鮮で物珍しく
会社の先輩たちに誘われるままに、毎晩ソウルの街を飲み歩いた
ヘジンは、昼間働きながら、家事一切を引き受けていた
朝、起きて食事の用意ができていることも
きちんとアイロンのかかったワイシャツが揃えられていることも
どんなに遅く帰っても、ヘジンが起きて待っていてくれることも...
自分のことで精いっぱいだった僕は
すべて、当然のことのように思っていた
あの頃の僕は...本当に自分勝手だった...
ある日飲み歩いて酔いつぶれてしまった僕は
先輩のアパートに泊まり、次の日そのまま仕事に出かけた
夜遅く家に帰った僕に
『どうして、電話くらいくれないの?私がどのくらい心配したと思う?』
泣きながらヘジンがそう言った時...
『うるさいなぁ!俺はお前と違って忙しいんだ
先に寝てろよ、俺が帰るまで待ってなくていいよ!』
僕は傲慢だった...
ヘジンは何も言わなかった...
ただ、悲しそうに僕を見つめていただけ...
次の朝、出掛けるときにヘジンの姿が見えなかったけれど
朝食は作ってあったし...出かける準備もきちんと整えてあったから
何の疑いもなく、僕は仕事に出かけた...
まさか...ヘジンが僕から去って行くなんて...夢にも思っていなかった
ヘジンがいなくなったことに僕が気付いたのは
その日の夜遅くに帰って来てからだった...
朝、僕が食べた食器が そのままテーブルの上に置いてある...
でも、僕はまだ高を括っていた
『昨日のことで拗ねてるんだな...
どこかに泊まって...なに...明日になったら帰ってくるさ...』
ヘジンには、僕の所以外に行くところが無いということさえ
その時の僕は、忘れてしまっていた...
3日経ち、1週間が経ってもヘジンは帰らなかった...
ヘジンの勤め先に尋ねようにも
僕はヘジンがどこで働いていたのかさえ知らなかった
ヘジンは、話したのかもしれない...
でも、僕はきっと、上の空で聞いていたんだと思う...
一か月が経ち、ヘジンがかわいがっていた
鉢植えの花たちも枯れてしまい...
片付ける人のいなくなった部屋は
見る影もないほど散らかっていった...
僕は、故郷の母に電話をかけた
ヘジンが母のところにいるんじゃないかと...
母は、いつもと変わりなく
電話もしないと 文句を言い
ヘジンは、元気なのかと、僕に訊ねた...
サヨナラも言わず、置き手紙さえ残さないまま
ヘジンが僕の前からいなくなって 半年がたった時
国費留学生の募集ポスターが僕の目にとまった
僕は、迷うことなく留学生選抜試験を受けることにした
ヘジンのいないソウルでの生活は
僕にとって、耐えられないものだった...
ヘジンが僕にとって、どれほど大切な人だったか
馬鹿な僕は、その時になってようやく気付いたけれど
もう、ヘジンは僕の傍にはいない...
ヘジンの はにかんだ笑顔や
夢を語る僕に向けられた 優しい眼差しを想い出すたびに
僕の胸は、後悔で締め付けられたけれど...
もう取り戻すことはできない...
運良く、試験に合格した僕は、会社を辞め
日本に4年間留学することになった
日本の大学に通いながら
能や歌舞伎の舞台について、僕は学んだ
ヘジンを忘れるために、僕は勉強に没頭した...
4年後...ソウルに戻った僕は
独立して、舞台装置制作の仕事を始めた
日本の水墨画にヒントを得た独り芝居の舞台装置が
演出家たちに絶賛され
僕は舞台装置演出家として、徐々に認められるようになった
ついに国立中央劇場の舞台装置を演出してほしいと言う
依頼が僕の所にやってきた...
国立中央劇場の舞台装置を作りたい...
それは、大学時代からの僕の夢だった...
モーパッサンの女の一生をモチーフにした作品で
主演は、ベテランではないが
みずみずしい感性の演技で、最近頭角を表している
まだ若い女優らしい...
『先輩、知らないんですか?ソ・ヘジン
あっ、そうか...先輩は、日本から戻って
あんまり経ってないからなぁ...
彼女を使いたいって言う演出家が多いんですよ
今、演劇界で一番の注目株ですよ...
ソ・ヘジンの舞台を作れるなんて光栄だなぁ』
助手のカン・チュホが興奮した様子で僕に話しかける
ソ・ヘジン...僕は耳を疑った...
まさか...そんなはずはない...
そして、僕は苦笑した...
同じ名前を聞いただけで、こんなに動揺するなんて...
そう...僕はヘジンを忘れることができなかった
ヘジンを忘れるために、何度か恋愛のまねごともやってみたけれど...
いつも僕は上の空で、ヘジンの面影を求め続け
そんな僕に愛想を尽かし、彼女たちはみんな、僕から去って行った...
たぶん...僕は、ヘジンを心に抱いたまま
さみしい一生を過ごすことになるんだろう...
それは、ヘジンを傷つけた僕への 罰なのかもしれない...
その戯曲の題名は『ヨンヒの話』
ヤンバンの家に生まれたヨンヒの悲しい一生を描いたものだ
娘時代から、老年までを 一人の女優が演じるのだ
僕は、舞台を究極に簡素化し、照明とわずかの小道具だけで
時には荒れた農地を、時にはヤンバンの邸宅を表現しようと思っていた
簡素化された舞台は、役者によって生命を与えられ
役者の演技によって、観客は想像力を喚起され
そこに、荒れた農地や、ヤンバンの邸宅を見ることになる...
そんな舞台...日本の能の舞台が、僕にそのヒントをくれた...
そんな時、舞台関係者のパーティーに僕は招待された
助手のカン・チュホと一緒に僕はそのパーティーに参加した
僕にとって、雲の上の存在だった、演出家や脚本家が
大勢集まっていて、僕は挨拶まわりに忙しかった
チュホが僕の所にやって来て
『先輩、ほら、彼女ですよ...ソ・ヘジン...
うわぁ...やっぱりきれいだなぁ...』
チュホの指さす方に目を向けた時...
僕の時間が止まった...
そこにいたのは、まぎれもなく...僕が愛し、傷つけたヘジンだった...
大勢の著名人に囲まれ、美しく微笑む、女優、ソ・ヘジン...
『...先輩?どうしたんですか...?』
チュホの声で現実に呼び戻された僕は
あわてて、ヘジンに背を向けた...
僕には、ヘジンの前に出ていく勇気がなかった
あの頃とは比べ物にならないほど
綺麗になって...突然僕の前に現れたヘジン...
僕の心に、今も住み続けている、愛しいヘジン...
僕は、真っ青になっていたに違いない
『大丈夫ですか...?』チュホが心配そうに僕の顔を覗き込む
『チュホ...俺...なんだか気分がわるいんだ...
先に帰るよ...後を頼む』
そう言うと、僕は一人で会場から抜け出した...
仕事場まで、戻る途中 あんなに探し求めていたヘジンが
女優になって目の前に現れた驚きから
ようやく立ち直った僕は、少し冷静になって考えた...
どうして女優なんだ?
僕は、記憶をたどり、ヘジンの話したことを思い出そうとした...
女優になりたいなんて、ヘジンの口からは聞いたことがない...
そして僕は、今更のように気付いたのだった...
ヘジンが孤児だということ以外、僕はヘジンのことを何も知らなかった...
かおたんPC
詳細ヘッダー2018/11/2, Fri 02:54Message body
5年以上一緒にいたのに...
話すのはいつも僕で、ヘジンは、そんな僕の話を
優しい笑顔で聞いてくれていただけだった...
二人で語り合ったと思っていた時間...
語り手は僕、聞き手はヘジン...
ヘジンにだって、夢はあったはずなのに...
僕は、知ろうともしなかった...
そして、自分の夢に勝手にヘジンを巻き込んで
友達もいないソウルで、ヘジンを一人ぼっちにした...
ソウルに来てから、ヘジンが僕の前からいなくなるまでの1年間
僕は、ヘジンと一緒に出かけたことさえなかった...
僕が先輩と飲み歩いて、夜遅く帰るまでの間
テレビさえなかったあの部屋で、ヘジンは何を思っていたのだろう...
ヘジンは、一言も文句を言わなかった
ただ1度だけ、あの日、帰らなかった僕を責めた以外には...
僕は、そのただ1度だけのヘジンの抗議でさえ
冷たく跳ねのけた...
そして...ヘジンは、僕の前から姿を消した...
あれから5年...ヘジンがどんなふうに生きてきたのか
どうして、女優になったのか
僕には、知る術もなかった...
僕は、30歳になっていた
ヘジンと僕が出会ってから、10年の歳月が流れていたのだ...
パーティー会場から仕事場に戻ってきたチュホは
興奮冷めやらぬと言った口調で、今日仕入れた情報を
僕に話した
『先輩、やっぱりソ・ヘジンには、強力なバックがいましたよ
脚本家のカン・ユンホ!彼が、ソ・ヘジンをここまで育てたらしいですよ
そして、二人は今、交際中で...婚約発表も近いらしいですよ
そうだろうなぁ...カン・ユンホがついてたら、怖いもんなしですよね...
先輩、具合は良くなったんですか?働きすぎですよ...たまには休まないと...』
そうか...ヘジンは幸せなんだな...よかった...
そう思おうとしたけれど...僕は涙をこらえきれなかった...
『...そうだな、今日はもう仕事はしないよ、チュホ、お前も帰れ
俺は、少し寝るから...』
ソファーに横になり、チュホに涙を見られないよう
僕は、眠ったふりをした...
ヘジン...やっと逢えたのに...
こんなに近くにいるのに...
ヘジンの住む世界は、僕には手の届かない場所...
今の僕に出来ることは、ヘジンを想って涙を流すことだけだった...
でも...この業界にいれば...いつかはヘジンと会うことになるだろう...
ヘジンは、もう僕のことなど忘れてしまっただろうか...
それとも......
やめよう...かなわない期待をすると、よけいに辛くなる...
そう...ヘジンのために、最高の舞台を作ろう...
女優ソ・ヘジンが、最高に輝く、僕にしか作れない舞台を...
ヘジンへの愛と懺悔を込めて...
次の日から、僕は猛然と仕事を始めた...
僕のこだわりは、俳優の衣装にまでおよび
衣装担当のスタッフと何度も打ち合わせをして
結局、僕の意見を押し通し、俳優の衣装はすべて
光沢のある、真っ白な生地で作ることに決定した
今度の舞台を作るために、一番重要なのは
照明だった、舞台装置の担当が、そこまで口をはさむのは
おかしいと、ひんしゅくをかったが...
照明担当のスタッフも、とうとう僕の情熱に負け
僕の難しい注文を、引き受けてくれた...
舞台の制作もほぼ終わりに近づいた頃
関係者全体での最終打ち合わせが行われることになった...
覚悟はしていたが...やはり、僕には、ヘジンと会う勇気がなかった...
『だめですよ~、先輩が行かなくてどうするんですか!
いろいろ質問されても、僕には答えられませんよ~』
渋るチュホを...
『大丈夫さ、俺の伝えたいことは、全部伝えてあるし
お前だって、俺と一緒に頑張ったんだから
仕事のことは解ってるだろう?
それに、今日は、顔合わせの挨拶程度だろうから...
俺は、働きすぎで、熱を出したとでも言っといてくれ...』
そう言いくるめて 送り出した...
僕は、今の自分にできるすべてを、この舞台につぎ込んだ
ヘジンのために...
夕方、戻ってきたチュホは
『先輩、脚本家のカン・ユンホさんが、僕の所に来て
今度の舞台作りのコンセプトに共感するって言ってました
楽しみにしてるそうですよ、先輩によろしく伝えてくれって...』
と、僕に報告した
『カン・ユンホさんは、どんな人だ?』
聞かなくてもいいことを、僕は聞かずにいられなかった...
『噂では、気難しい人物だって聞いてたんですけど
そんな感じには見えなかったなぁ...
とても気さくで、優しそうな感じだったけど...』
『そうか...』
『どっちにしろ、僕たちには、ずいぶん好意的なんじやないかと思います
それにしても...ソ・ヘジンさん、僕すっかりファンになっちゃいましたよ~
スター女優なのに...僕にまで料理持って来てくれたり...
いやぁ...近くで見ると、ますます綺麗だったなぁ...』
話し続けるチュホの声を遠くに聞きながら
僕は、思った...
ヘジンが愛した人だ...
いい人に違いない...
少なくとも、僕よりはずっと、いい人なんだろう...
初日も迫り、舞台の通し稽古の日...
僕は、会場の端で、ヘジンを見つめていた...
ヨンヒを演じるヘジンは、凛として、美しかった...
本番さながらの、舞台稽古で、ヘジンは僕が予想していた以上に
僕の作った舞台装置を輝かせてくれた
まるで、僕の意図を、知り尽くしているかのように...
手を伸ばせば、そこにヘジンがいる...
今の僕には、それはうれしくて、そして...残酷なことだった...
この舞台が終わったら...ソウルを離れよう...
僕は、そう決心した...
国立中央劇場の舞台装置を作りたいという僕の夢は叶った
そして、何より...僕は、ヘジンの幸せを、近くで見守れるほど
出来た人間じゃない...
かおたんPC
詳細ヘッダー2018/11/2, Fri 02:54Message body
僕は、地方の小劇場で舞台装置制作の仕事をしようと思っていた...
チュホは、僕についてくると言ったが...
この仕事で、ソウルから離れるということは
第一線から、退くことを意味している...
チュホを、僕の巻き添えにすることはできない...
僕は、ソウルの仕事場を全部、チュホに譲ることにした
僕が、チュホに教えられることは
すべて教えてあったし、チュホは僕よりもずっと
社交的だったから、きっとうまくいくはずだ...
いよいよ、舞台初日...観客席でヘジンを見守りながら
僕は、泣いた...それは、感動と、後悔と、懺悔の入り混じった涙...
ヘジンは、素晴らしかった...明日になれば演劇評論家たちは
こぞって『ヨンヒの話』を、絶賛する記事を書くだろう...
帰りに寄るところがあるからと、チュホと別れ
僕は一人で夜のソウルの街に出た...
ヘジンと一緒に、ソウルに出てきたとき
僕はまだ若く、目の前にある夢をつかみたいと必死だった
そんな僕にとって、ソウルはとても魅力的な街だった
傍に、空気のように、優しいヘジンがいつもいたから...
そして、もうすぐソウルを去る僕は、敗者だった...
確かに...僕は、舞台装置制作者として認められたし
それなりの収入も得ることができた...
でも、幸せにはなれなかった...
空気のように、優しいヘジンが僕から去ってしまったから...
屋台で、一人飲みながら、いつまでも女々しく、僕は涙を流した...
予想通り、『ヨンヒの話』は絶賛され、ヘジンは一躍時の人になった
朝、テレビをつけると、いきなりヘジンが現れることもあったし
バスの車体には、ヨンヒに扮したヘジンの顔が大きく描かれていた
僕は、千秋楽を待たずに、ソウルを出ることにした...
僕の舞台装置の演出も評価されて、新しい仕事の依頼も増えた
『先輩...僕、自信無いですよ...』そう言うチュホに
『大丈夫さ、お前はこの仕事に向いてるよ、困ったことがあったら
いつでも電話してこい...出来る限りのアドバイスはするから...
ソウルに出て来た時には、必ずお前の所に行くからな』
そう言って、僕は故郷に向かう電車に乗った
母に会うのは、5年ぶりだった...
故郷の町で、母は一人で小さな居酒屋を切り盛りしていた
母の料理は評判がよく、小さな店の中は
常連客で、いつも賑わっていた...
母は、何も聞かなかった...
なぜ、ソウルから戻ったのか,,,
なぜ、ヘジンと別れたのか...
なぜ、ヘジンは女優になったのか...
何も聞かず、まるで、朝出かけた息子が帰ってきたかのように
『お帰り...』そう言って、僕を迎えた...
カウンターに座った僕の前に、僕の好物のチャプチェが置かれた
『大盛りにしといたからね!』母は、そう言うと
他の客の注文した料理を忙しそうに作り始めた
母の作ったチャプチェを頬張って、涙と一緒に、僕はそれを飲み込んだ...
故郷で、しばらくは何もせずにすごしたい...
僕は、そう思った
一度、頭の中を空っぽにしたかった...
空っぽになって、ヘジンのことを忘れたら...
また、新しい何かが、見えてくるかもしれない...
でも...ヘジンを忘れる自信は...僕にはなかった...
故郷での、平和で、変化の無い日々は、流れるように過ぎていき
母の手料理と故郷の自然は、傷ついた僕の心を、少しずつ癒してくれた...
僕は、母の店を手伝いながら
先のことは何も考えず、のんびりと毎日を過ごしていた。
僕の日課は、日暮れ前になると、実家から歩いて30分ほどの場所にある
小高い丘に登って、海に沈んでいく夕陽を眺めることだった...
雨の日以外、僕は毎日丘の上に立ち、夕陽を眺めた
沈む直前に、太陽は最後の力を振り絞るように
あたりを赤く染めあげる...その光景は、せつなく、美しく...
そして...悲しかった...
太陽は、月に恋をしているのかもしれない...
永遠に、一緒にはなれない月に、『僕は、ここにいるよ!』
そう叫んでいるみたいだ...
僕は、沈んでいく太陽に同情した...
日が落ちて、あたりが暗くなり始める頃、母の店を手伝うために、僕は丘をくだった...
チュホは、時々電話をかけてきて、僕にソウルの様子を知らせてくれた
『ヨンヒの話』は好評でロングランになり
チュホの仕事は順調だと...
『先輩のおかげで...』電話のたびに、チュホはそう繰り返した...
律儀なやつだ...
僕が故郷に戻って、半年が過ぎようとする頃
チュホから、久しぶりに電話があった
『ヨンヒの話』が、いよいよ千秋楽を迎えるらしい...
『先輩、千秋楽にはソウルに来てくださいよ~
関係者の打ち上げがあるんです
みんな、先輩に逢いたがってますよ』
『いや...俺は遠慮しとくよ...俺は途中で逃げ出した人間だ
みんなに合わせる顔がない...』
『そんなことないですよ~ヨンヒの話の成功の半分は
先輩の力みたいなもんなんですから...
あっ、そうだ...ソ・ヘジンさん、この舞台が終わったら
引退するらしいですよ...いよいよカン・ユンホ先生との結婚が
本決まりになったのかなぁ...これからって時に...
惜しいですよね...』
チュホとの電話を切って、僕はため息をついた...
ヘジン...とうとう結婚するんだな...
僕には、あの夕暮れの太陽のように
『僕はここにいる!』と叫ぶ勇気さえない...
ただ、ヘジンの幸せを、祈るだけだ...
かおたんPC
詳細ヘッダー2018/11/2, Fri 02:55Message body
数日後...
母の店を手伝う僕の耳に
『...ソ・ヘジンさん...』ニュースキャスターの声が飛び込んできた
反射的に、僕はテレビを見つめた...
毎回、生放送でゲストを迎え、インタビューをするという
芸能ニュース番組だった...
『今日のゲストは、昨日、千秋楽を迎えた、ヨンヒの話の主演女優、ソ・ヘジンさんです!』
キャスターがそう紹介すると、客席から拍手が起こった
『ヨンヒの話は、大好評で、ロングラン上演されましたが、聞くところによると
ヘジンさんは、この舞台を最後に、女優を引退なさるとか...?』
『はい、今までお世話になった先生方や、応援してくださった皆様には
大変申し訳ないと思うのですが...ヨンヒの話が、私の最後の舞台になります...』
『そうですか...これから女優として、花開く時だけに
残念に思われている方々も多いと思いますが、引退の理由は?』
『...私には、愛する人がいます...私は...とても不器用で
愛と、仕事を両立することができないのです
本当に、我儘な話ですが...女優ソ・ヘジンとしての幸せより
一人の女、ソ・ヘジンとして幸せになりたい...そう思うのです...』
客席から、賛同の拍手が起こる...
『そうですか...で、その、愛する人というのは、以前から噂のある
脚本家のカン・ユンホ先生ですか?』
『カン・ユンホ先生は...私をここまで育ててくださった恩人であり、師であり
私の最も尊敬する方です...でも、私と先生は、マスコミの方々が言われているような
そんな関係ではありません...』
『では、その愛する方というのは...?』
『あの...この場所をお借りして、その人に伝えたいことがあるのですが...いいでしょうか?』
『もちろんです!私達は感動の場面に立ち会えることになりますね!』
キャスターから渡されたマイクを握りなおし
ヘジンは、話し始めた...
『サンウ...見てくれているかどうか...解らないけど...
クォン・サンウ...あなたを愛してる...今までも、そして...これからも...
黙っていなくなった私を、許してくれないかもしれないけど...
あの時は、そうすることが、一番いいと思った...私が傍にいると
あなたは、夢を追いかけられない...そう思ったの...
あなたの作った舞台に立てることになった時、うれしかった...
だけど...私には、あなたの前に出ていく勇気が無かったの...
あなたから、拒絶されるのが、怖かった...
でも...このまま心を伝えずに離れてしまうのはいや...
もう、後悔しながら生きるのはいやなの...
サンウ、愛してる...私、あなたの傍に戻りたい...
クォン・サンウ...私、あなたを愛してる!...』
茫然とテレビを見つめる、僕...
店の中には、常連客の拍手が巻き起こった...
あれから、10年が経った...
僕とヘジンの間には、今年小学生になる、双子の息子と、娘がいる
ユチョンとユナだ...
母は、あいかわず元気で、今も居酒屋をやっている
僕は、ソウルと故郷を行き来しながら、舞台製作の仕事を再開した
チュホは、共同経営者として、喜んで僕を迎えてくれ、僕たちの仕事は順調だ...
ヘジンは...無口でおとなしかった昔が嘘のように...
強いオンマになった...
母の居酒屋を手伝いながら、二人の子供たちを育てている
僕は、月のうち10日間、ソウルで仕事に集中し
あとの20日間を故郷で、家族と一緒に暮らしている
母の持っている小さな土地で、僕は無農薬野菜を作り始めた
休みには、家族みんなで、弁当を持って、ハイキングに出かけたりする
あの日...ヘジンがテレビで、あの衝撃の告白をしなかったら...
そして、次の日、大きなトランクをかかえ、僕の故郷に来なかったら...
僕は、今でも、夕陽を眺めながら、後悔の日々を送っていたに違いない...
ヘジンと離れていた時間は、僕に一番大切なことを教えてくれた...
僕の幸せは、ヘジンと一緒に生きること...
畑で野菜を収穫して、家に戻った僕の耳に
ヘジンの大きな声が聞こえる...
『ユチョン!ユナ!いいかげんにおとなしくしなさい!
ほら、ちゃんと片付けて!もうすぐアッパがお帰りよ!』
舞台女優だっただけあって、良く通る声だ...
僕は、笑いながら玄関を開ける...
『ただいま~ホラ!い~っぱい採ってきたぞ~』
『あっ!アッパ~おかえり~!』子供たちが、僕に駆け寄ってくる
その後ろで、ヘジンが優しく微笑んでいる...
終
Missing