牛男

根木珠

牛男
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 〈(うし)〉の背中は、生まれつき奇妙に曲がっていた。〈牛〉は傴僂(せむし)だった。その風貌から、ひとは彼を〈牛〉と呼んだ。
 〈牛〉はその日、買い物をするために街へ向かっていた。曲がった背中が痛むので歩き回るのは大変だった。少し歩いただけで疲れてしまう。それ以上に、人々の視線が恐ろしかった。街の明るい雰囲気や人々の視線が、ここはお前のような醜い者のいる場所ではない、と言っているように〈牛〉は感じた。群衆のなかに身を置くことは常に苦痛だった。
 〈牛〉は、やっとの思いで目的の店を見つけた。店主が、
「いらっしゃい」
 と言った。〈牛〉は軽く会釈をし、いつものやつはあるか、と問うた。少々お待ちを、と店主は言い、奥に引っ込んだ。
 しばらくすると、店主は真っ赤な口紅を持って出てきた。〈牛〉はそれを受けとり、代金を支払うとすぐに店を出、足早に帰った。
 〈牛〉が屋敷に戻ると、主人はソファにもたれて茶を飲んでいた。
「ただいま戻りました」
 と〈牛〉は言った。
「ごくろう。それをここへ」
 主人は、口紅をしまっておくよう指示した。
「はい」
 〈牛〉は買ってきた口紅を抽斗にしまった。それから掃除を再開した。
 その夜、屋敷に来客があった。長い黒髪の、肌の白い、唇の赤い女だった。
 翌日、〈牛〉は荷車を押して歩いていた。主人に仕事を命じられていたのだ。暗い森へ入る。道が悪く、荷車が揺れた。すると、

 ごとり

 と音がした。
 荷車に詰めた、女の死体がたてた音だった。

 〈牛〉は物乞いをしていた。路地裏の一画が〈牛〉の居場所だった。ぼろをまとい、背中を丸め、ものも言わず身じろぎもぜず、人通りの多い道端にひたすら座り続けていた。〈牛〉のその異様な姿を見ると、通りかかった人々はみな不快げな顔をした。子どもたちは石つぶてを投げた。女たちは顔を背けた。
 座り続けて足が痛くなったため、〈牛〉は立ち上がり、辺りを少し歩いてくることにした。曲がった背中をよりいっそう丸め、なるべく人気のないところを選んだ。雑木林にさしかかった。少し進むと小径があらわれた。背の高い草が生い茂っていた。かき分けて歩く。ふと土の匂いが〈牛〉の鼻をくすぐった。ふと脇へ目をやる。ある場所だけぽっかりと、日の光がよく当たっていた。〈牛〉は導かれるようにして足を向けた。すると、少女がいた。その少女は花を摘んでいた。摘んだ花を繋げて輪にしているのだ。少女は〈牛〉に気がつくと、にこりと微笑みかけた。〈牛〉は狼狽えた。多くの場合、ひとは〈牛〉を見ると気味悪がった。この少女もまた、こわがって逃げるのだろう、と〈牛〉は思っていた。しかし少女は、そうしなかった。少女の微笑みに、〈牛〉は少しの間、戸惑っていた。すると、こちらへどうぞ、と少女が言った。〈牛〉は、おそるおそる少女のそばに近づくと、腰をおろした。それから、少女と同じように花を摘んだ。日だまりのなかでそうしていると、とても穏やかな気分になった。不器用な〈牛〉は、花を輪にするのに苦労していた。ひとつ作るのにも多くの時間を要した。ようやくできあがった花輪を、〈牛〉は、しげしげと眺めた。それはとても不格好で、まるで自分のようだと〈牛〉は思った。その様子を少女が見ていた。
「じょうず」
 少女は〈牛〉の花輪を褒めた。〈牛〉は顔をあげ、少女を見た。少女は微笑んでいた。柔らかい風が吹き、少女の髪をなびかせた。
「わたしね、この場所がすごく好きなの」
 少女は、作り終えた花輪を脇に置くと、草原に寝転がった。両手を広げ、大きく伸びをした。〈牛〉を見て、
「こうしてみたら?」
 と言う。〈牛〉は少女と同じように、花輪を脇にどけ、草原に寝転がり、伸びをした。丸まった背中では仰向けになることが難しく、〈牛〉は少し体を横に向けていた。すると少女と目が合った。草が鼻先にあたり、くすぐったくなって〈牛〉は鼻を掻いた。草花や土の匂いがした。ふと手のひらを見ると、乾いた土が指にこびりついていた。突然、少女がふふふと笑った。
「あなた、鼻についてるわ」
 先ほど掻いたときに、鼻に土がついたのだ。少女はおかしそうに笑い続けた。〈牛〉も、つられて笑った。
 遠くから、女の人の声が聞こえた。少女が突然、はっとしたように立ち上がった。服の裾についた草の葉を払うと、ママ! と言いながら声のするほうに駆けていった。かと思うと急に立ち止まり、くるっと振り返って、〈牛〉を見た。
「これあげる! 〈宝物〉なの!」
 そう言って手に持っていたそれを〈牛〉に渡し、そして去っていった。
 少女が〈牛〉に渡したものは、何の変哲もないカフスボタンであった。〈牛〉はカフスボタンを知らなかった。その〈宝物〉を、〈牛〉はその後もずっと大切に持っていた。声の持ち主は、少女の母親だ、と〈牛〉はあとになって気がついた。〈牛〉は、少女が置いていった花の輪を拾い、路地裏に戻った。

 翌日、〈牛〉が道端で毛布にくるまっていると、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。毛布から顔を出すと、昨夜毛布の横に〈牛〉が置いた花の輪は壊されており、辺りには花びらが散らばっていた。

 寒い日のこと。〈牛〉は突然、見知らぬ若者五、六人に襲われた。路地裏に座っていたところを囲まれ、耳を引っ張られ、頭を殴られ、腹を蹴られた。〈牛〉は痛さのあまり声も出なかった。意識が朦朧とするなかで、若者たちの笑い声が聞こえた。

〈牛〉は店の裏で残飯を漁っていた。すると猫が来て、獲物を掠めとっていった。

 ある朝、〈牛〉が目覚めると、顔のすぐ横に幼い少年がいた。驚いて起き上がると、少年は、ぬっと手を出した。その手には何かが握られていて、〈牛〉に渡そうとしている。〈牛〉は受けとる。匂いを嗅いで、どうやら食べ物らしいとわかる。少年はにこりともしない。食べ物を〈牛〉に手渡すとすぐに立ち去った。
 次の日もまた次の日も、少年は〈牛〉のもとへやって来た。少年はいつも、同じぼろを着ていた。
 少年は〈牛〉を、〈友だち〉と呼んだ。この路地裏に来て初めて〈牛〉は、友だちができた。少年はゆっくり話し始めた。家族のこと、家が貧しいこと、祖母が優しいこと。祖母が語って聞かせてくれるのだ、といって、物語を語り聞かせてくれもした。その物語に〈牛〉は心を奪われ、時の経つのも忘れた。
 ある日、少年は本を持ってきた。
「読んだげる」
 言うと少年は、本を朗読し始めた。
 それは一枚の木の葉が、生きて、死ぬまでのお話だった。
 〈牛〉は何も言わず、ただ黙って聞いていた。
 朗読が終わると少年は、〈牛〉の方を見た。
「どうしたの、そんな悲しそうな顔をして」
 〈牛〉は、指摘されてもまだ、自分がどうしてそんな顔をしているのかわからなかった。わからないので説明をすることができず、戸惑った。
 あ、と少年が声をあげる。
「ぼくもう帰らないと。お母さんに怒られちゃう」
 じゃあね、と手を振って、少年は帰っていった。
 少年はたびたび、〈牛〉のもとを訪れた。

 暑い日が続いていた。〈牛〉は川へ行き、水を浴びた。ついでにぼろぼろになった服も洗い、木の枝に干し、しばらくぼうっとしていた。服が乾いたか確認する。生乾きだが着る。いつもの路地裏に戻る。

 いつしか少年は来なくなった。
 〈牛〉は、食べ物をくれる人間がいなくなってしまった、と思った。これからは自分で探してこなければいけない。久しぶりに残飯を漁ると以前より惨めな気分になった。路地裏には〈牛〉と同じように、地べたに寝転んでいる人たちがいる。〈牛〉はその中から、すきっ歯の男を捕まえた。
「食い物をくれ」
 すきっ歯は酒を呑んでおり、酔っぱらっていた。
「傴僂にやるもんなんかねえよ」
 罵声を浴びせられ、顔へ唾を吐きかけられた。〈牛〉は激昂し、すきっ歯の顔を殴った。すきっ歯は驚愕した顔で〈牛〉を見て、
「いてえ。なにしゃあがんだ」
 叫び声が聞こえても構わず〈牛〉は殴り続けた。すきっ歯が言葉を発することもできない状態になって、やっと〈牛〉は落ち着いた。それからいつもの毛布に戻って、眠りについた。

 〈牛〉が路地裏でぼうっとしていると、小奇麗な格好をした紳士が歩いてきた。この辺では見かけないな、と〈牛〉は思った。その紳士は、ゆっくりと路地裏の様子を観察していた。〈牛〉のそばまで来、しゃがんで、〈牛〉と目線をあわせた。
 うちに来なさい。
 紳士が言った。え、と〈牛〉は聞き返す。紳士はもう一度はっきりと、うちに来なさい、と言った。

 見知らぬ紳士に拾われた〈牛〉は、その後、紳士の住む屋敷で働くことになった。仕事は簡単な掃除などである。佝僂(くる)ではつらかろうと紳士は言った。いえ、このくらいは、と〈牛〉は言う。この屋敷は広く、掃除をするだけでも体は痛むけれども、何もしないでいると落ち着かないのだった。
 
 紳士はある夜、女性を部屋に招じ入れた。
 翌朝〈牛〉が屋敷の掃除をしていると、主人の部屋に口紅が落ちていた。
「ご主人様」
 〈牛〉は紳士のもとへ行き、
「先日のお客様が、お忘れ物をしたようなのですが」
 と言って、口紅を紳士に手渡した。
「……ああ。返しておこう」
 紳士は口紅を受けとり、自室へ戻った。紳士にはとりたてて変わった様子はなかったが、〈牛〉はふと気になって、扉の小窓を覗いた。

 そこで見たものが、〈牛〉の人生を大きく変えた。

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 主人に、女を殺す性癖があるのを知ってからというもの、〈牛〉はいつもその後の処理を請け負うこととなっていた。主人が「無理をするな」と言うのももっともで、死体は重かった。それを毛布でくるみ荷車に乗せ、運んで森に埋める、という作業は〈牛〉の曲がった背中にかなりの負荷をかけた。それでも〈牛〉は死体を埋め続けた。
 森に着き、穴を掘る。女の死体に、真っ赤な口紅を塗ってやる。土を被せ、口紅を穴の傍に置く。この一連の作業を〈牛〉は、埋葬の儀式として行っていた。

11

 主人の友人男性が来ており、二人は居間で談笑していた。
 ではそろそろ帰ります、という男性の声が聞こえてきたため〈牛〉は見送りに玄関へ向かった。男性客は上着を取り、帽子を被った。その手元のカフスボタンは、片方だけ取れてしまっていた。
「ああ、すみませんが」
 男性は〈牛〉を呼んだ。
「大通りへはどう行ったらいいのですかね」
 〈牛〉が身振りで教えようとすると、男性は、
「すまんが、案内してくれんかね」
 と言った。〈牛〉は、かしこまりました、と言うと、男性を案内すべく外へ出た。

 歩いていると男性が話し始めた。
「いやあ、申し訳ない。土地勘がなくてね」
「いえ……。お気になさらず……」
「ところであのご主人なんですがね」
「はい」
「近ごろ、変わった様子はないですか」
 男性は〈牛〉の目を、まっすぐに見た。
「……いえ」
 少しの間があり、〈牛〉は、とくにありません、と答えた。
「そうですか……。いえ、妙な噂を聞いたものですからね。近ごろ、女性の行方不明が多いじゃないですか」
「そのことと、ご主人様が、何か」
 〈牛〉は男性の顔を見る。
「ああ、いえ。ほんの噂ですから。お気を悪くされたなら申し訳ありません」
 男性は左手で帽子を軽く上げた。〈牛〉は男性を見、いえ、と言った。この人は左利きなのだろうか、と思った。カフスボタンが取れているのも左側だった。そんなことを考えながら男性の顔を見ると、男性は〈牛〉の顔をじっと見ていた。〈牛〉はその、男性の射るような目から視線を外した。
「あ……大通りは、この先です……」
「おや、話しているとあっという間ですね。どうもありがとう」
 男性は会釈をすると、大通りへ向かった。〈牛〉は男性のうしろ姿を見ていた。
 と、
「ああ、そうそう、言い忘れていましたが」
 男性は振り返った。
「あの赤い口紅……」
 〈牛〉は一瞬、体がこわばる。
「なぜわざわざ、現場に残すんですかねえ? 足がつくようなものを。あ、いえ、こちらの話です」
 すみませんね、では。男性はにっこりと〈牛〉に笑いかけ、去っていった。

 その姿が見えなくなってもしばらくの間、〈牛〉はその場に立っていた。

12

 〈牛〉が居間の前を通りかかると、一階の居間から話し声が聞こえてきた。主人が、友人の男性と話しているのだ。
 男性が暇を告げる。〈牛〉は見送るべく玄関へ向かう。
「ああ、悪いのですが」
 男性は〈牛〉を見て、言った。
「まだ道を覚えていませんでね。ここへ来るときも人に尋ねながら来たものですから」
 そこまでお見送りいたしましょう、と〈牛〉が言う。男性はにこりとした。そして帽子を被りながら、いつもすまんね、と言った。帽子をとるのはやはり左手だった。そしてその裾にはカフスボタンがないままだった。主人は笑顔であったが、僅かに、猜疑と警戒がその顔に浮かんでいた。

 屋敷を出てから、二人はしばらく黙って歩いていたが、男性がふいに口を開いた。
「僕はね、彼とは長い付き合いなんですよ」
 彼とは主人のことだろう、と〈牛〉は思った。
 そして男性は語り始めた。

13

「僕はね、彼とは長い付き合いなんですよ」
「そうなんですか……」
 〈牛〉は男性を見ずに返事をした。
「そう。彼は昔から穏やかな性格でね。優しすぎるきらいがある」
 わかります。〈牛〉は心の中で同意する。
「見ているとね、はらはらするんだ」
 男性は、遠くを見ながらそう話す。
 〈牛〉は黙って聞いている。
「彼には思い詰めるところもあって。思慮深いといえば聞こえはいいんだがね」
「そうでしたか」
「まあ、そんな彼だから、君が慕うのもわかるよ」
「はあ」
「……話は変わるんだけれど、口紅の件ね」
「……」
「あれはさ、誰かがあえて置いていったことは間違いないんだ。だが、なぜ置いて行ったか……。僕はね、罪を被る気だと思うんだ」
 〈牛〉は静かに聞いている。
「つまり、死体を埋めて口紅を置いていった人間が、女性たちを殺害した人間とは別にいて、なおかつその人間の罪を被ろうとしている。そこまで甲斐甲斐しく働く理由は何か」
 男性は〈牛〉を見つめる。〈牛〉は前方を見ている。
「ただ慕っているというだけで、果たして、ここまでのことができるだろうか。いや、できるかもしれないが……、僕が思うに、この口紅を置いていった人間はおそらく」
 そこまで一息に喋ると男性は一呼吸の間を開け、再び口を開く。
「自らの破滅を、望んでいるんじゃないかな」

14

 屋敷に戻ると、主人が〈牛〉を呼んだ。
「どうだ最近、体のほうは」
 主人はソファにもたれ、茶を飲んでいた。
「はい、だいぶいいです……おかげさまで……」
「うん」
 窓の外を、主人は見ていた。
「牛、おまえの〈仕事〉のことだが」
 死体の処理のことだ。
「はい」
「時間帯と、道順を変えたらどうかね」
 主人は〈牛〉のほうを向き、物腰柔らかく提案をする。やはり、と〈牛〉は思った。やはり主人も、あの男性から何か言われたのだ。
 はい、と返事をすると軽く会釈をし、居間を出る。
 扉を閉めると〈牛〉は、ふっ、と息を吐いた。

15

 〈牛〉は、男性との会話を思い出していた。

 自らの破滅を望んでいる――、そうかもしれない。仮に、主人のために死ねと言われれば喜んでそうするだろう、と思った。
 主人に尽くすよりほかに、生きていく理由など、この世にしがみつく意味など、まったくないのだから。
 〈牛〉は、カフスボタンの取れた服を焼却炉に突っ込みながら、とりとめもなく考えていた。
 あの男性は結局、あの娘の父親だったのだろうか。

 確かめる術は、もうない。

16

 朝、目が覚めると体が痛く、起き上がるのが辛かった。昨夜の疲れが出ている。それでも少し、気分転換をしたい、と〈牛〉は思った。
 朝食を済ませると〈牛〉は、外套を着、長靴を履いて、散歩に出かけた。よく晴れた、風の冷たい朝だった。思い切り空気を吸い込むと、魂が浄化されるような気がした。空を見上げる。鳥が飛んでいた。

 歩いていると雑木林が見えてきた。〈牛〉は雑木林の小径に入っていく。〈牛〉はその風景に見覚えがあった。〈牛〉がまだ物乞いをしていたころに、訪れたことのある場所だった。ここで少女に会い、花輪を作ったのだった。ずいぶん昔のことのように感じられた。
 小径を進んでいくと草原があらわれた。
 そこに若い娘がいる。おさげを結い、美しい服を着ていた。眺めていると、その娘が振り返り、〈牛〉を見、すぐにまたどこか遠くを眺めた。〈牛〉はその娘が、いつかここで出会った少女だということに気がついた。あのとき、何の変哲もないカフスボタンを〈宝物〉だと言って〈牛〉にくれたのだった。〈牛〉はそれを、今でも大切に持っていた。娘は地面に座った。土がむき出しになっている。かつての草花はもうない。娘は地面に手をやると、花を摘むような仕草をした。娘はしばらくぼうっとしていた。〈牛〉は娘にカフスボタンの礼を言おうとして、あの……と話しかけた。娘は、あさってのほうを見ている。動きといえば、花を摘むような動作をしているだけだ。何もない土くれの上で。〈牛〉がもう一度、あの……、と声をかけても、やはり娘の反応はなかった。
 そして娘はおもむろに立ち上がると、幽霊のように歩いて、そのままどこかへ行ってしまった。

17

 〈牛〉は口紅を買いに、いつもの店に行った。店主に顔を覚えられており、何も言わなくても口紅が出てきた。買い物を済ませ屋敷に戻る。すでに客が来ているようだった。〈牛〉は主人と客の茶を用意し、居間へ運んだ。そのときふと、客の女が視界に入った。〈牛〉は、あっと息を飲んだ。散策したときに見かけた娘だった。これから殺されようとしている。その運命を知るはずもない娘はしかし、すべてを悟り、受け入れたかのような表情で、ソファに座り主人と語らっているのだった。なぜそう見えたのか、〈牛〉にもよくわからなかった。
 すぐに、というわけではない。
 女を招き、その夜すぐ殺すわけではない。しばらくは屋敷で過ごしてもらい、その間、お客様としてもてなす。そのあとで殺害するのだった。主人は一見すると穏やかな紳士なので、まず警戒されることはなかった。実際、主人は慈悲深い人間だった。

18

「かわいそうね」

 記憶。

 慈善活動をしているらしい中年の女が、〈牛〉に話しかけてきた。そして見たこともない食べ物と、数枚の紙幣を、〈牛〉に渡した。
「これは神からのお恵みです」
 〈牛〉は何も言わず、女の顔を見上げた。そのまま〈牛〉が黙っていると、女は不機嫌になった。
「……ああ、教養がないのね」
 女はそう言うと、隣の女に、教育を受けられない彼らがかわいそうだ、彼らの人権が侵害されている、という旨の話をしていた。隣にいた女も神妙な顔でそれを聞いていた。

 記憶はそこで途切れている。

19

 主人はあの女たちとは違う、と〈牛〉は思った。
 失踪しても捜索する身内のいない者。親のいない娘。天涯孤独の少女。旦那を亡くし生きる気力を失った女。そういう者ばかりを、屋敷に招待している。女たちもまた、主人のそういう行いを知っていて受け容れているかのようだった。
 二人が茶を飲んだ食器をテーブルからさげて洗い、〈牛〉は自室に戻りベッドに横になった。体を横たえると背中も少し楽になった。そして〈牛〉は、浅い眠りに落ちた。

20

 ある日、主人が病気をした。
 たいしたことではない、と主人は言った。しかしその症状は重く、日に日に悪化しているのだった。
「ご主人様……具合いが悪いのでしたら私が……」
 主人が自分で茶を淹れていた。〈牛〉は休みだった。
「問題ない。いいから休んでいなさい」
 そう言うと主人は、働き者の〈牛〉を無理やり休ませるのだった。

 翌日、〈牛〉が屋敷のそうじをしていると、
「牛」
 呼ぶ声がして〈牛〉は振り向いた。
「頼みたいことがある。あとで来なさい」
 一段落すると、〈牛〉は主人のいる居間に入る。
「失礼いたします」
「うむ」
 主人はソファにゆったり腰掛けていた。
 〈牛〉は床に転がっているものを見た。
「これは……」
 〈牛〉が主人に問う。
「それを、あとで処分しておいてほしい」
 〈牛〉はそれを見たことがあった。何度となく見た、はずだった。だが、すぐにはそれとわからなかった。
 床に転がっていたのは、いつも口紅を買っている店の、店主だった。
 〈牛〉は店主の顔を、よく見たことはなかったため、すぐにはわからなかった。
 不思議そうな〈牛〉を見て、主人が、これはあの店の者だと説明した。店主が死体になって初めてじっくりと顔を見ることができた。苦悶の表情はなかった。眠っているかのようで、今にも寝息が聞こえてきそうだった。
 主人が男を殺すのは珍しいことだった。〈牛〉は何年も従事してきたが、殺すのはいつも女だった。
 これは、と〈牛〉は思った。口紅はもう不要だということだろうか。容態がいつ急変してもいいように、準備をしているのかもしれない。
「牛」
「はい」
 主人は、〈牛〉の目をじっと見た。
「今まで、いろいろと、すまなかった。ありがとう」
 〈牛〉は、主人がもう長くないことを悟った。

21

 早朝、〈牛〉は目が覚めるとすぐに店主の死体を荷車に積み、森へと向かった。
 主人がもうすぐ死ぬ。このことについて自分は、何を思えばいいのだろう、どう感じているのだろう、そんなことを〈牛〉は考えていた。自分は今、落ち込んでいるのだろうか。戸惑っているのだろうか。これからどう生きていこうか。主人がいなければ自分は何をして生きていけばいいのか。何年もの間、屋敷で働くことで、主人に仕えることで自分は、この世にやっと留まっていられたというのに。誰かに必要とされることで、自分自身を赦せていたのに。

 どん、

 という音がして、〈牛〉は我に返った。何の音か、と思い〈牛〉は荷車の後ろや下、まわりを確認する。何もない。荷車のもとへ戻る。視界の端で、何かが、ふっと動いた。人間の息づかいのような物音を、〈牛〉は聞いた。何かがここにいる。

「牛さん」
 と突然、女の子の声がした。〈牛〉は驚き、ゆっくり横を見る。あっ、と小さく悲鳴をあげた。
 いつか花を摘んでいた少女が、そこにいた。
 自分は何を見ているのだろう。〈牛〉は戸惑った。これは一体、何だ。
「牛さん……、ねえ牛さん。あの人にそう呼ばれているんでしょう」
 〈牛〉はこくりと頷く。驚きと戸惑いで、声が出ない。
「あのね、牛さん……わたしね、お父さんとお母さんのことが大嫌いだったの」
 そうなんだ、と〈牛〉は頷く。
「だって、わたしがお花を摘んで帰っても、お母さんは、そんな汚いものを拾い集めてどうするんだ、って、わたしを叱ったわ」
 〈牛〉は黙っている。
「お父さんは、お酒ばかり飲んでいて、相手をしてくれなかった」
 少女は遠くを見ていた。
「それに、ふたりはこう言ったのよ。『おまえは少し、足りない』って。だからお勉強ができないんだって」
 少しの間。
「でも、あのおじさまは違ったわ」
 主人のことだ、と〈牛〉は思った。
「おじさまは、お花を見て美しいと言ったし、わたしのことを素直ないい子だって褒めてくれた」
 そうだね、と〈牛〉は呟く。
 だから、
「だから、わたしは」
 君は、
「おじさまに殺されたいと思ったのよ」
 再び、

 どん、

 という音がした。

 荷車にある、もうひとつの小さな死体がたてた音だった。

22

 主人の死後、〈牛〉は主人の知人宅を訪れた。主人が生前、〈牛〉の働き口を考えていたのであった。
 その男性は親切だった。多くの召使いを抱えていた。彼らは男性のことを〈旦那様〉と呼び慕っていた。食事や掃除、洗濯など、すべての作業は分担して行われていた。そのなかで〈牛〉は、中継ぎのような位置にいた。〈旦那様〉と直接やりとりをする役割を担った。食事を運ぶ。客からのことづてを伝える。郵便物を受け取り、渡す。そのような細々としたことが〈牛〉の仕事だった。

 そんなある日、〈旦那様〉の様子がおかしい、と〈牛〉は思った。
「おまえ……何を企んでいる……」
 〈牛〉には、何故そんなことを言われるのか見当もつかなかった。
 普段は穏やかでにこやかな〈旦那様〉が、今は眉間に皺を寄せ、いかにも神経質そうな顔でこちらを見ている。〈牛〉は戸惑いながらも笑顔で、どうなさったんですか、具合が悪いのですか、と尋ねるが、わしは気など触れておらん、と言う。

 翌日、〈旦那様〉の食器をさげると、
「食事はどうした」
 と〈旦那様〉が言う。
 え、と〈牛〉は驚く。
「さきほど召し上がったばかり……」
 言い終わるか終わらないかというところで〈旦那様〉は〈牛〉に飛びかかった。
 胸ぐらを掴まれた〈牛〉は、やっとのことで、
「お、おやめください」
 と絞り出すように声を出した。
 騒ぎを聞きつけた召使いたちが集まり、〈旦那様〉を捕まえた。

 〈旦那様〉はそれ以来、常に疑心暗鬼の心持ちで暮らすようになった。〈牛〉を疑い、そして攻撃するようになった。〈牛〉は、まるで〈旦那様〉の人格が変わってしまったようだ、と感じていた。もっと穏やかで心優しく、慈愛に満ちていたのだ。そこで〈旦那様〉お抱えの医師を呼んだ。診てもらうと、医師は、これは心の病だと使用人たちに説明した。
 〈牛〉はこの日から、より一層、甲斐甲斐しく仕えるようになった。これは本来の〈旦那様〉ではない、ご病気なのだ。
 自分がしっかり身の回りのことをお手伝いしなければ――。

23

 〈牛〉はその日、休暇をとっていた。

 散策しようと外に出た。

 屋敷から出ると春の陽射しが〈牛〉を包み込んだ。
 少し歩くと暑くなって、〈牛〉は上着を脱いだ。
 川を見つけ、その川を、上流へ向かって歩いた。

 川原には花が咲いていた。
 木々の葉が風に揺れた。
 小鳥の囀る声と木の葉の擦れる音が重なり、天然の音楽が奏でられていた。
 川の上流が近づくにつれ、道が険しくなってきた。
 大きな岩が転がっていた。傴僂である〈牛〉には、とても歩きにくかった。


 苔むした岩で足を滑らせ、
 〈牛〉は落ちて死んだ。





          ―了―

牛男

牛男

あるせむし男の半生を描く。 〈牛〉は、仕えている主人が実は、若い女性ばかりを殺害し続けていると知った。 その事実を知った〈牛〉は自ら、手伝いたいと申し出る。 死体の処理を続ける〈牛〉と主人の、奇妙な信頼関係が生まれるが――。

  • 小説
  • 短編
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