漢を襲う

佐藤

  1. 漢を襲う
  2. 漢を襲う 登場人物&勢力図

漢を襲う

 幾百本目かの木簡を墨にて汚し、未だ壮志の著し切れぬを憾みに思う。
 あるいは李老のごとく、文字のみにては道の無窮を説き切れぬと諦め、片言隻句として書き切ってしまえばよかったのやも知れぬ。しかし僅か千余の句にて、天下の民をいかほど掬い上げられよう。一の王の、百の行いが、千の臣をして、万の令をなさしめ、はじめて億の民を慰撫するに足る。また万の令を行き届かしむには、それこそ億の文字ですら説き得まい。ならば孤人(こじん)が経世済民を願わば、厭かず筆を執る以外になかろう。
「果てなき智謀の賜物かよ、陳廷尉(ちんていい)
 背後よりの低く抑えた声に、その赫赫(かくかく)たる気炎は覆い隠し切れずにあった。
 筆を止め、身体ごとを声の主へと向ける。いたく戦焼けした肌が、もとは白肌であったと言われても得心する者のほうが少なかろう。鋭き双眸の周りを幾筋もの刀傷が縁取る。黄金色の瞳は、どこか鷹のごときをも思わせる。
 さほど上背があるわけではない。しかし、巨きい。隣に立つ文官の方が、上背のみならばよほど高い。彼の者を姿態にて判ずれば、必ずや見誤りを招こうというものだ。
 平伏する。
「斯様なむさ苦しきあばら屋にまでお越し下さるとは、存分のお持て成しもなし得ねば、孤人、汗顔の至りにございます」
「漢人どもの迂遠な言い回しは性に合わん。言い重ねさせるな、廷尉。おれにはきみの鬼謀が要る」
「――お戯れを」
 平伏のまま述べたとて、鷹を見失いはせぬ。覇たる者の圧である。ただ在るを以て余人を平伏なさしむ、その猛き気を浴びるは、怖ろしくもあり、またどこか心地好くもある。
「それに、石并州(せきへいしゅう)。廷尉などと、孤人の身に余る官名にてお呼びなさいますな。この賎しき身、ただ元達(げんたつ)とのみお呼び下されば宜しいのです」
 隣の文官が僅かに気色ばんだ。
 その若さを、微笑ましくも、羨ましくも思う。鷹より迸る覇気を導くには、若く精強なる鞘が求められよう。そう、まさしく文官のごとく。この老骨では、能わぬのだ。なれど、若き鷹を導き得ぬことに口惜しさは覚えながらも、その鷹より求められていることには、少なからぬ喜びがあった。
「口惜しいな」
 鷹が、苦笑した。
「おれは、きみの(ちょう)王にはなれんのか」
「充ち満ちた龍玉を、どうして枯れ枝が支えられましょう。ましてや、(かん)王すら支え切れなんだ非力にては」
「廷尉を排せるは、僣人(せんじん)の盲目故にございます」
 割って入る、文官の声。やや熱く、やや固い。
「廷尉は、まさしく漢王の張子房(ちょうしぼう)にあらせられた。漢王の威徳は論ずるまでもなく、我らは廷尉の手腕にも心服しておりました。また廷尉が未だ衰えぬこと、この書斎を埋める億兆もの文字が物語っておりましょう。この乱世において――」
「そこまでだ、張賓(ちょうひん)
 鷹の制止は、実に間合いを心得たものであった。文官、張賓よりの二の句は現れぬ。また、ただひとつのやり取りが、両名の息の合いようをも示しているかのようにも感ぜられた。
「認めるしかなかろう。おれらでは陳廷尉、いや、陳元達(ちんげんたつ)どのは動かせんよ。手腕云々の問題ではない。おれの側に貴様がおり、高帝(こうてい)の側には子房があった。漢王と元達どのも、またその例に違わん、と言うことだ」
 鷹の気配が、寄る。
 肩に、その手が乗った。
「面を上げてくれ、元達どの。ならば、おれも今は、ただの石勒(せきろく)だ。去まし日に同じ主を仰いだ友として、主のことを、きみと語らい合いたい。だが、なにぶんおれには学がない。なので、きみの話を補足してくれる張賓の同席を許してはくれまいか」
 顔を上げれば、鷹――石勒の破顔があった。
 漢王麾下(きか)にては万余の兵卒を率い、その苛烈なる差配を以て数多なす朝敵を打ち払った驍将である。改めて、実感せずにおれぬ。石勒の、この人を引きつける笑みこそが、この者をして驍将たらしめたのであろう。
 張賓を見る。その目つきは鋭く、凍てついている、と評さねばならぬ。なれど石勒の熱き眼差しとで比ぶれば、不思議と釣り合いの取れた組合せなのでもあろう。
 主従の形は、主従の数だけある。漢王と孤人とは明らかに違う、しかし確かな紐帯を目の当たりとし、図らずも方寸に、ことり、と落ちるものがあった。
 得心する。孤人は、この時を以て、生を全うするのだ。
「漢王はあざなのごとく、大海にも等しきお方。孤人の浅才にて、その広きを、その深きをいかほど語り得るのやら、いささか心許なくはありますが」
 鷹が、満足げに目を細めた。



 王としてではなく、一なる敬すべきお方として語らう為にも、敢えてあざなにてお呼び致しましょう。匈奴(きょうど)を統べる屠各(とかく)部の主家、攣鞮(れんてい)氏の正嫡たる攣鞮淵(れんていえん)。また|洛陽《》に人質として身を預けられてよりは、()帝より(りゅう)姓を下賜せられ、劉淵(りゅうえん)と名乗るよう命ぜられておりました。その字が、元海(げんかい)
 魏国の末期、権臣たる(しん)公・司馬昭(しばしょう)が、内にては魏の旧臣遺臣を大方掌中に収め、外にては(しょく)の地にあらせられた(かい)帝・劉禅(りゅうぜん)様に捕縛の辱めをなし、洛陽へと引き連れていた頃のことです。衆人が魏晋革命に何ら疑いを交えぬ、そのような折でありました。
「高帝、自ずから兵を統べ、往きて匈奴を撃てり。冬の大寒雨雪に遭い、兵卒の十に二、三は指を堕とせり。冒頓(ぼくとつ)は敗走を装い、漢兵を誘う。漢兵は冒頓を撃たんと()うも、冒頓は精兵を(かく)し、その羸弱(えいじゃく)なるを前面に配す。漢軍三十二万、匈奴を北に逐う。その多くは歩兵なり。高帝は先んじて平城(へいじょう)に到れるも、多くの歩兵は未だ到らず。冒頓、精兵四十万騎を従え高帝を白登(はくとう)にて囲む。七日の間、漢兵高帝を救い得ず」
 背筋を伸ばして正座し、元海様が朗々と唱されたは史記第百十巻、匈奴列伝の一節。漢の祖、高帝・劉邦(りゅうほう)様が宿敵の項羽(こうう)を討ち果たし、いよいよ世に覇を唱えんとした頃の物語です。突如漢の地に襲いかかり、高帝を捕らえた北の覇、冒頓単于率いる匈奴。それはまた、元海様が興した国の名を漢と名付けるに当たる端緒とも申せましょう。
「何度聞いても痛快だな。最大の敵を倒し、世に敵はなし、とでも言わんばかりの劉邦。その鼻っ柱を、いきなりへし折る冒頓。元海、孫としてもさぞ誇らしかろう」
 元海様に語り掛けたるは、仕立てのよい着物や、また正座をも崩していた王弥(おうび)でした。あの型に填まらぬ異才は、元海様のご学友であった折にても、やはりあの通りの振る舞いでおりました。
「尊き父祖の活躍さ。喜びなき筈がない。だが私は、この敗北を残した漢をこそ、重んずべきと思う」
「あん?」
 訝る王弥に、覚えず孤人(こじん)が口を挟みます。
「君子は己が過ちを過ちと見、初めて君子足り得ましょう」
 才気を恃みとし、殊更に弁を振るう、後顧するだに緊縮窮まりなき所業でありました。
「史記にて論ぜらるるを敢えて(ただ)さず、高帝の失策を残し置く。刊行をお許しになった宣帝(せんてい)の、先人の失策に学び、弛むまいと心する気概を見るかのようです」
「どうかね。武帝(ぶてい)の逆撃のお膳立てにも思えるがな」
 さりとて王弥もまたひとかどの論者。論を以て攻めれば、またその裏には(ばく)すべき論を抱いてもおりました。
 高帝を大いに破りたる、匈奴。ひとときはかの漢帝国を臣従に近い形にまで遇し得ておりました。なれど代が下り、武帝の御代、帝の勅を承けた衛青(えいせい)霍去病(かくきょへい)の両将が匈奴の軍を大いに打ち破り、漢匈彼我の立場を逆転せしめたのであります。
 宣帝は、その武帝の後継。なるほど、高帝の失策が、先帝の偉業を讃えるに恰好の題材であると言われてしまえば、その理の前に黙り込むしかありませんでした。
「そ、それは――」
 孤人の未熟は、今に始まったことでもありません。まして往時は、ただの文弱の徒。王弥、そして元海様のごとく、文武両道に通暁する歴々の、端にして要を衝く言葉には、しばしばやり込められたものです。
 孤人が詰まったところに、ほっほ、と義父上、陳寿(ちんじゅ)様が肩をお揺すりになりました。
 義父上は、それまでは上座にて、黙して我らの対話をお聞きになっておられていたのです。
 元海様、孤人、同席の学友ら、そして王弥までもが襟元を正し、義父上のお言葉を聞き漏らすまいと、面持ちを引き締めます。
「劉左賢(さけん)、元達、そして阿豹(あひょう)。闊達に論じ合うは良い。彼我の論の狭間にこそ、未知の珠玉を見出せよう」
 左賢は元海様の匈奴中における官名、阿豹は王弥のあだ名です。義父上は何故か、王弥だけは字でなく、あだ名でお呼びになります。手の掛かる子ほど可愛いとは申しますが、義父上にとっての王弥は、まさに斯様な子弟であったのやも知れません。
「故にこそ、論の違うを重んじよ。優劣は、あるいは存するのやも知れぬ。なれど論の深まるより先に優劣を仮定するは、得難き玉をも見失い兼ねぬ」
 孤人と王弥とで、不承不承に見合うのです。孤人らが為そうとしたのは、まさしく義父上のご指摘のごとく、対手の論に穴がある、と決めて掛かっての論難でありました。
 儒家、道家、法家。または武官文官。いずれの者らもがなす論戦とは、己の是、対手の非に基づくことが常。無論正しきことではあるのでしょう。なれど対手の論を知り、学び、重んじた上で此方の論を為さば、双方の見聞がより深まりうる。孤人も決して長からぬ宮仕えにて、少なからず目の当たりとしたことでもあります。
 余談ながら、後年、義父上は魏、呉、そして蜀漢の三国が並び立った折の事跡を、敢えて鼎立(ていりつ)を保ちたる「三國志」として撰ぜられました。至尊たる皇帝はただ一人と申せど、天下が三つに割れていたのは疑いなき事です。そのお言葉を借りれば、かの書にて義父上は、天の違うを重んぜられた、となるのでありましょうか。
「阿豹。武宣は戦勝を誉れとしたのであろうか」
「誉れとし、また謳い上げるを責務としたのではないか。天に覇たるの漢を、大いに示さねばならなかったはずだ」
 頷き、孤人に目を転じます。
「元達。宣帝の覇業、いかに評する」
「勇武の誉れ高き武帝を失い、大いに揺らいだ漢朝を建て直されました。その御業は中興の祖と呼ぶに相応しきものに思われます」
 やはり頷き、最後に、元海様に向かい合われました。すると元海様は少し困ったような、曖昧な笑みをお浮かべになりました。
「高帝の敗績、武帝の捷。天下の万象は在るべくして在るものにございます。なれば在るの在るをこそ容れ、なすべきをなす。これぞ正道と申せましょう。確かに、宣帝は尊ぶべき業を為されました。私は宣帝のごとき英賢なぞ持ち合わせぬ凡俗にはございますが、帝がお示しになった、正道を全うせんと精進を怠らぬ姿勢であれば、なんとか追従能いましょう」
 と、ここまでを淀みなく述べられて後、元海様は小さく吐息をお漏らしになりました。
「誠に、先生の人使いの荒きこと。偶にはご自身で調停をなされたらいかがです」
 義父上が、満足そうに目を細められるのでした。
 元海様は、孤人と王弥との論を踏まえ、加えてその目途を、天下万民よりご自身へと向け直されました。経世済民の志は、修身をこそ基とすべき。ここに到り、孤人は恥じ入り、王弥はむくれました。
「壮士を導くに、儂はいささか老いておるよ。この場に左賢が居ますに、何を差し出がましき口を挟む必要があろう」
「では、そのお言葉のみ、有り難く頂戴致しましょう」
 元海様が恭しく拱手なさりました。
 その物腰たるや、実に堂々としたものでありました。年の頃は孤人らよりも下、元服したばかりではありましたが、既にして人を統べんがための術を知悉なさっておられたかのようでした。
 と、そこへ、室外よりの声が届きます。
「ほう、懐かしき声が聞こえるな」
 それを耳にするや、義父上の容色が転じました。

 やおらお立ちになり、慌てふためくご様子で入り口に向かわれます。手ずから戸をお開けになれば、その向こうには、恰幅の良い、ひと目で名士と知れるお方がいらっしゃいました。
 義父上が、速やかに拝跪(はいき)いたします。
 そのただならぬご様子を見、室内の誰もが、何事かも解し得ぬまま、義父上に倣いました。
「陛下! よもや、斯様な場にて拝顔の誉れを賜りますとは!」
 陛下、と義父上がお呼びになったのは、他でもありません。(しょく)の地にて漢再興の大業を為された昭烈(しょうれつ)帝・劉備(りゅうび)様のご嫡子。懐帝・劉禅様にございました。司馬昭の手にて洛陽に遷されてのち、帝の位は剥奪。劉備様の故地である、安楽(あんらく)の地に封じられておいででした。
「これ、陳令史(ちんれいし)。今や吾は国を失い、魏国の一封爵(ふうしゃく)に過ぎぬ。旧官で呼ぶは、(けい)に僭逆の嫌疑が掛かろうぞ」
「何をおっしゃいますやら。陛下とて、愚人(ぐじん)を令史とお呼びではございませぬか」
 ふむ、と劉禅様はその豊かな顎髭をしごかれます。令史、とは蜀の地に義父上が在らせられた折の官名です。
「そうであったな。吾もまだ、この境遇に慣れぬようだ」
 劉禅様が室内に目を転ぜられました。思い掛けぬ貴賓の来訪に固まる孤人らではありましたが、その中にあり、元海様は泰然となさっておいででした。
「なるほど」
 劉禅様が目をお細めになります。
「芽吹いておるな、令史。さすがは洛陽、天下の枢要。人士にも恵まれておるようだ」
「若木の日増しに伸び太りたるを見届けるは、この上なき欣喜にございます」
「誠に、な」
 仰るや、劉禅様は入室なさり、義父上の肩に手を置かれました。その後、下座に着かれるのでした。
「令史よ。卿の講義、久方振りに受けたくなった。続けよ」
 戸の外にて侍っていた近習らが銘々に顔を合わせては、嘆息を漏らしておりました。彼の者らのうち一人が劉禅様の隣に着座し、他の者らは室外にて待機。予期せぬ運びに孤人らは戸惑いましたが、
「安楽公にお伺いしたいことが」
 ここで物怖じせぬのが、王弥でした。
 玉座を失ったとは申せど、かつては文武百官を統べられたお方。そのようなお方を前に、王弥は笑みをすら浮かべておりました。その心胆は、やはり並外れていた、と評せざるを得ません。
 ましてや、呈した議が議にございました。
「過日の歓待の宴にて、公は蜀での日々を思い出すことはない、と仰せになったとか。これは亡国の主たるの責を擲たれたかのように聞こえまするが、いかがでありましょう」
 場が、凍てつくのを感じました。
 劉禅様が洛陽に引き連れられ、魏帝よりの封爵を受け。王弥が持ち出したるは、その後に開かれた宴における一幕の言葉です。宴のまこと華やかなること、劉禅様は大いに楽しまれたご様子であらせられたとか。そこへ司馬昭が「蜀の地のことを思い出すことはございますかな」と問うたところ、劉禅様は王弥の呈すがごとくお答えになりました。
 お言葉を聞くや、司馬昭らは劉禅様を大いに軽侮したそうです。お父上亡き後、社稷(しゃしょく)を守らんと、文字通り身命を挺して国をお守りになった漢臣諸氏の尽力。その全てを、劉禅様は打ち棄てられたのだ、と。
 劉禅様はわずかに微笑まれました。孤人には、困ったようにも、泣き顔のようにも見えました。
「忘れたと申せば、果たして吾が咎は解け去るのであろうかな」
 問いに対する問いを、孤人も、王弥も、学友らも(にわか)には解せずにおりました。
 そう。劉禅様のお言葉を、逸早く汲まれたのは、やはり、と申しましょうか。元海様でした。
「社稷の毀損、則ち不孝」
 つ、と涙が零れ落ちました。
「公は、魏将入蜀の報を聞くや降ぜられたと伺っております。故に豊かな巴蜀(はしょく)の地が血火に没することもなく、また漢の遺臣らも、その多くが禄を保たれたまま魏に仕えるを許されたとか。臣民の安寧を思えば、公はご英断を下された、と申すべきでございましょう」
 褒めやそしつつも、その面持ちは悲しみをたたえておられました。
 劉禅様としても、元海様の振る舞いに感じるところがあったのでしょう。言葉を受けてより暫しは訝るようでしたが、やがて、やさしげな笑みを元海様にお向けになるのでした。
「其方は?」
新興(しんこう)の劉淵、と申します」
「新興……そうか、其方が、匈奴(きょうど)左賢王の。道理で目を惹く訳よ」
 元海様は劉禅様に改めて拱手し、その後、言葉をお継ぎになります。
「帝は万民の父なれど、また天の子とも申せましょう。なれば公は、親を二度喪われたのですね」
 事ここに到り、ようやく孤人も元海様の涙の理由に辿り着くのでした。
 幼き頃、元海様は母上を喪われました。その時の慟哭の甚だしきこと、衆人は驚くと共に、その孝悌(こうてい)の篤きに深く感じ入ったそうです。
 またその深きお心は、他者の悲痛をも深くお汲み取りになるのでありましょう。見れば、劉禅様も知らず知らずの内に涙をお零しになっておられました。従者がそれに気付き、慌てて拭き取ろうとしました。
「良い。暫し、このままで」
 みだりに君子が涙をお見せになるなど、常ならばあってはならぬはずのことでした。なれど両名共にそれを隠そうとする素振りは一切なさりませんでした。
 わずか、数語のやり取り。忽ちの内に元海様と劉禅様のお気持ちが通じ合われたことを実感するのです。
 義父上が仰りました。
「高帝が冒頓単于に敗して後、冒頓単于には高帝の公主(こうしゅ)()されました。以後、代々漢室と攣鞮氏は深き姻戚の間柄。故に、劉左賢はまた、漢の子でもございます」
 涙ながらに、二度、三度と。劉禅様は頷かれます。やがて袖口にて涙を拭われると、それでも幾分の潤みは抜き切れぬ眼差しで、元海様を見られるのでした。
「劉淵殿、吾が遠き弟御よ。こうして其方と会えたこと、嬉しく思う」

 ――この日より遠き後、離石(りせき)にて、元海様が漢王を名乗られたとき。
 孤人は、深く通じ合われたお二方のお姿を、鮮明に思い出したのです。



 木剣を打ち合う音が洛陽城武範殿(ぶはんでん)前庭(ぜんてい)に響き渡ります。
 打ち合うは王弥と元海様。ともに着物をはだけられ、各所に生々しい痣を残しながら、その鋭気は離れた場にて侍る孤人をも打ち据えて参りました。
 カン! とひときわ高い音を立て、両名の木剣が交わります。
「元海! 今日はもう少し粘ってくれよ!」
「今日こそ一本取ってみせるさ、阿豹」
「よく言った!」
 易々と王弥が元海様を振り払います。
 たたらを踏んだ元海様に向け、鋭く踏み込む王弥。狙うは胴薙ぎ。木剣にあってなお対手を両断しかねぬ一振りでした。
 なんとか防ぐ元海様でしたが、元々崩れていた所に襲いかかる一撃は、更に元海様の備えを危うきものとします。木剣を手放しこそせずに済んだものの、王弥に対し、正中を晒すことになりました。
 阿豹、そのあだ名の通りの獰猛なる笑みを浮かべ、王弥が狙いたるは、喉元狙いの突き。練武の場とは言え、いえ、練武の場なればこそ、王弥はその鋭き武を出し惜しみしませんでした。
 元海様も、王弥の剣をある意味では信頼しておりました。王弥の踏み込みにあわせ、自らの肩を投げ出します。
 王弥の顔に驚きが走り、しかしそれは忽ち愉悦の情に取って代わりました。
 ――などと語りますが、お恥ずかしながら、これらは後に元海様より伺った話に則っております。孤人がかの剣戟(けんげき)にて解し得たのは、王弥に振り払われた元海様が、一息もなせぬ間に王弥に組み敷かれていたことでした。
 元海様が突きを読むであろうことを、更に王弥が読み、対処をなした、とのことです。
 ボグン、と鈍い音が鳴りました。
「狙いは良かったがな」
 倒れる元海様の腕をねじ上げる王弥。その剣は数歩先に転がっております。
 決め手である突きを捨て、剣を手放し、懐に飛び込んできた元海様の勢いを逆手に取り、元海様の腕を絡み上げたのです。
 傍目に見ても、元海様の肩があらぬ方向に曲がっていたのがわかりました。鋭き踏み込みと踏み込みとが噛み合えば、その一挙が侮れぬ威力を帯びるのは已むを得ぬことでした。
 が、
「げ、元海様!」
 往時の孤人が、それを易々と受け容れることができるはずもありません。傍らの茶を零したことにも気付けず、慌てふためき、両名へと駆け寄るのでした。
「騒ぐな、元達」
 額に脂汗しつつも、元海様が仰ります。その低き声色は、むしろ孤人を落ち着かせんと図られていたのではないか、と思えてなりません。
「し、しかし……」
「武の行き着く先は、殺。肩のひとつふたつが何程か」
 痛みに眉を顰めながらも、努めて元海様は穏やかに仰るのでした。
 王弥は元海様より離れると「お守りの過保護にも困ったものだ」と一言、そして自らが持ち込んでいた酒瓶を呷ります。
「王弥! やり過ぎではないのか!」
莫迦(ばか)な。武とは痛みよ。痛みなくして、高まるものかよ」
 この時も、孤人は王弥に対して何も言葉を返し得ませんでした。孤人はどこまで行っても文人にございます。武人の語る痛みなぞ解せる筈もありませんでした――もっとも、文人の言葉が余人を御し得ぬこと、これもまた痛みであると、後に気付くのですが。
 近習が駆け寄り、元海様の外れた肩を嵌め合わせます。外れた折と同じく激痛の筈でしたが、唯々として元海様は受け容れられました。
 巻布にて、腕周りが固定されます。
「此度こそは一本を取れると思っていたのだかな」
「逸り過ぎだ。豹は牙を突き立てるに、時の至るまで険気を殺す」
「敵わんな」
 汗を拭き、はだけた上衣を改めて羽織りながら。王弥が、どこか愉しそうな笑みを浮かべました。
「だが、それも爪牙あってのことだ。鈍くはなかったぞ、元海」
「精進するさ」
 慌てて膏薬の手配をする孤人を見て「何を大袈裟な」と王弥が、元海様が笑うのです。空回りしていることに気付かずにもおれませんでしたが、何かをせねば、と逸っていたのはよく覚えております。
 前庭から涼風のよく届く武範殿上階に移り、改めて元海様、王弥、そして孤人の三名にて卓を囲みました。
「それにしても、元海。貴様には充分な声名がある。智謀もある。にもかかわらず、何故武を望む」
 近習が出した茶になど目もくれず、王弥は自らの持ち寄った酒を呷るのでした。眉をしかめる孤人を、元海様が窘めてこられます。
「時宜は才に、ことのほか冷たい。武の重んぜられた漢朝の創業にあたり、智謀の臣、随何(ずいか)陸賈(りくか)は武功無きゆえに軽んぜられた。翻って、高帝亡き後の守勢の世ともなれば、武勇こそあれ知見の乏しい周勃(しゅうぼつ)灌嬰(かんえい)は、政局より取り残された。いま天下は晋の元に収まりつつあるが、文武何れかに偏れば、変事の折には社稷の臣としての責務を果たし得なかろう」
「ほう」王弥が酒杯を持ったまま、にやりと口端を持ち上げます。
「揺らぐか、馬の天下は」
 王弥が徳利を元海様に突き出します。元海様は言葉には応えず、代わりに徳利よりの酒を受けました。そして元海様、王弥、孤人の目は、洛陽城の中央、大いに賑わう南宮へと向くのです。
 晋公・司馬昭が魏帝・曹奐(そうかん)を擁立して後薨去、爵位を継いだ司馬炎(しばえん)は人臣の極みたる王位に進爵。曹奐よりの禅譲(ぜんじょう)(みことのり)を二度固譲(こじょう)し、三度目に受諾。帝となりました。
 南宮にては司馬炎登極(とうぎょく)の宴が盛大に催され、晋朝万年の栄華を祈念する言葉が溢れかえっておりました。
 王弥よりの酒を、一息に飲み干されます。
「天下に安寧があれば、それで良いのだが」
 司馬昭の手腕は、魏国中の晋国を他に並ぶ事なき雄国へと育て上げは致しました。なれど未だに、呉の地にて大勢力を保つ孫皓(そんこう)塞外(さいがい)の民を糾合(きゅうごう)大単于(だいぜんう)を僭称する禿髪(とくはつ)樹機能(じゅきのう)など、司馬氏にまつろわぬ者らも多くありました。
 これら残された朝敵を討ち果たすため、司馬炎が引き連れる勇将賢官、数多の顕才は、父より引き継いだ臣下。無論その多くは司馬炎と共に晋室の枢機(すうき)に携わり、次なる世の主として司馬炎を尊んで参った事でしょう。なれど大いなる父公が振るった手腕とは、いやでも見較べられるものでありました。
「元海、そう言えば貴様は、何度か司馬炎に謁見しておったな。どうだ、貴様の目より見て」
「果断、ではないな。だが、しなやかではある。長らく魏国の内で育ってきた晋室は、既にして守勢の時期にある。こと社稷を保つのであれば、恐らく父御よりも巧みであろう」
「そうか。では、次の世は?」
 ふたたび、王弥が徳利を突き出します。
 やはり元海様は、何も語らず、杯を受けるのでした。

 司馬炎の嫡子、皇太子・司馬衷(しばちゅう)。後に起こる皇族同士の権勢争い、いわゆる八王の乱のさなかに立つこととなる彼の者は、既にしてその暗愚さを宮中にても後ろ指さされておりました。
 漢の国とて、高帝お一人でその隆盛を作られたわけではありません。むしろ皇后(りょ)氏による簒奪(さんだつ)の危地にすらあった中、後継たる文帝(ぶんてい)の手によって救い出される事で、ようやく孤人らの知る栄華が生まれたのです。それほどに、後継の存在とは、重いもの。
 全てが終わった今だからこそ分かるのですが、禅譲の折、既にして晋は外戚(がいせき)らの手に没しておりました。中でも司馬衷の母の一族、楊氏(ようし)と、司馬衷の妃の一族である賈氏(かし)。両氏の権勢は殊の外大きく、彼らは時に手を携え、時には反目し合い、晋の社稷を私せんと蠢くのです。
 司馬氏の天命は、あるいは彼の者らが食い潰した、と断じてすら良いのやも知れません。



 晋朝がなって後、孤人は三国志(さんごくし)編纂をはじめとした義父上の職務を補佐することとなりました。なのでおよそ二十年ほどでしょうか、元海様の側からは離れております。故に、ふたたび見えるまでの元海様については、伝聞でしか存じておりません。
 細君・呼延(こえん)氏を娶られ、先主に恵まれたこと。また変事にて天涯孤独となった主上を養子に迎え入れられたことなどは伺っておりました。長じては元海様の(するど)き剣となったお二方ではありますが、孤人の知らぬ間には、ただの父と子であった時期もあったのでしょうか。
 ここで、少し孤人のことも話しておきましょう。生まれは元海様と同じく匈奴は屠各部、ただし属家のひとつ(こう)氏の庶子(しょし)ゆえ、貴種、と言うわけではありません。騎射を尊ぶ匈奴部族の中にあり、専ら猟書を好んでおりましたため、部人らとはなかなか折が合いませんでした。その中でただ元海様のみが孤人や、孤人の読む書に興味をお持ちくださっておりました。そして元海様が質として洛陽に遷されるとき「君にとっては宝の山だろう」と、孤人を伴にお誘いくださったのです。
 洛陽は、元海様のお言葉通りの場でした。あらゆる賢、あらゆる智が集まるのが都であった、と申せましょう。同じく人の腐臭も多く集まるのには辟易甚だしくもありましたが、それも竹簡にさえ埋もれてしまえばあずかり知らぬ所となります。
 見知らぬ文字を追い、心ときめかせているだけであった孤人です。(たか)尚学(しょうがく)の志、と余人より称されるのは過分な話ではありましたが、そう見做されていたことで義父上に見出され、あまつさえ養子にまで迎えて頂けたのですから、この点は皆々に感謝するべきなのでありましょう。
 司馬炎が帝位に立ち、およそ十年。先に名を出した禿髪樹機能、そして孫皓の討伐をなし、遂に天下が晋の旗ひとつの元に纏まる日がやって参りました。為された覇業のその偉大さに、孤人もこの方寸(ほうすん)にささやかな熱きを感じずにはおれませんでした。
 とは申せど、いつまでも慶賀しているわけにも参りません。史書を編むとは、即ち大いなる晋朝の成り立ちをいかに万民に知らしめるかを伝える行いとも申せます。(おう)氏、夏侯(かこう)氏など、義父上以外でも史書を編まんと志す者がおりました。彼の者らの筆に負けぬよう、各地の史料、事跡を知る者よりの聞き取りなど、義父上の書により重みをもたらせるよう、方々を訪ね回る毎日でした。
 また宮中にて書の編纂に携わっておれば、ただそれだけ、と言うわけにも参りません。後進の育成も、孤人に課せられることとなりました。
 目眩もせんばかりの多忙な日々の中ではありましたが、多くの才知溢れた学徒と接する機会を得、いたく刺激を受けたものです。
 中でも、際立って印象深かった人物がおりました。司馬氏一門きっての俊才と名高き司馬越(しばえつ)司馬睿(しばえい)。その両名に付き従う、琅耶(ろうや)王導(おうどう)――石并州のお耳には、どれも苦く響く名にございましょうが、ご寛恕(かんじょ)ください。彼の者らは、やはり在りし日にも傑出していたのです。
 三名は、特に孤人が携わっていた三國志の時代に強く興味を懐いておりました。義父上の業績を語る、またとなき機でもあります。彼らの質問に対し、しばしば孤人は熱く語ってしまったものです。
「各々方が、三国で特筆に能う、と思う人物は何方であろうか」
 ふと気まぐれに、三名に尋ねたことがありました。
 ――この辺りで、いちど断りを入れさせて頂きます。
 晋朝にあれば、司馬姓を冠する多くの貴顕について語らざるを得ません。されど彼の者らを並べて姓名にて称せば、混同の畏れを免れることは叶いますまい。そこで爾後(じご)に語る、帝位に就いた者以外の司馬氏一門については、(いみな)の後ろに司、と付けて呼ばせて頂きます。即ち司馬越は越司(えつし)と、司馬睿は睿司(えいし)と称します。
魏武(ぎぶ)曹孟徳(そうもうとく)
 逸早く答えたのは、越司でした。
「彼の者の貴賎を問わぬ人士の涵養(かんよう)は、己自身も決して貴からぬ身上に生まれた所に端を発しておろう。なれど彼の者は、覇たるを産むは名でなく、実であると天下に知らしめた。今上の元で社稷を輔弼(ほひつ)するに当たり、我等とて魏武に倣い、名の虚実の先を見極め、晋朝の礎石たるの一を組み上げねばならぬ」
 静かで、しかし烈気を伴った声。眼鋒鋭く見据えるは、天。隙あらば孤人にも論にて躍り掛からんとするかのようです。
 越司の隣、柔和な笑みにて、その鋭き論を聴き留めるが睿司でした。折に触れては小さく頷きます。そして、越司の論が区切りを見せたところで、取り決めでもあったかのごとく、言葉を継ぐのです。
「礎石の一。まさしく我等が目指すべき所。故に、(それがし)は呉の張昭(ちょうしょう)をこそ刮目すべき人物と見ます。孫堅(そんけん)孫策(そんさく)両名が呉の地にて幕府を開き(おお)せ、そして長らくの間この晋朝の敵足り得たのも、張昭が中原よりの官臣、呉越(ごえつ)に住まう人士を束ね得たからこそと言えましょう。礎石を然るべく組み上げるためには、卓越した統領が求められます」
 越司が不快そうに眉根を寄せます。そこへ睿司が、曖昧な笑みを向けるのです。不思議な間柄の二人でした。仲が良いような、悪いような。よく噛み合いはするようでしたが。
「睿。(おれ)では済士を束ね切れぬとてか」
「可、否の問題ではないのですよ。兄上の英賢に疑義の紛れる余地はありません。しかし、ひと一人の目には、おのずと限りがあります。ならば兄上は、某をいま一つの耳目となされば良いのです」
 兄上、と呼んではおりますが、越司と睿司は兄弟ではありません。司馬昭、そして司馬炎が「一門を皆家族と思い、尊べ」と詔したに従っていたのです。
 魏室を打ち立てた曹操の嫡子、曹丕(そうひ)。彼の者は兄弟間で骨肉の皇位争いをなしたため、血族を信じることができませんでした。故に一門を冷遇致しました。斯くして魏の宮中には曹氏間の紐帯が失われ、そこに司馬氏の付け入る隙が生じました。
 司馬炎は、(よこしま)な手管にて玉座を手にしたことを痛いほど実感していたようです。なればこそ一門に曹氏の(てつ)は踏ませるまい、そう考えたのでしょう。
 睿司の発言に得心し切ったようでもありませんでしたが、とは言え越司もそれ以上の反駁(はんばく)はなしませんでした。代わりに、両名の後ろにて侍る、王導に目を転じるのです。
「王導。(けい)はどうなのだ」
 促しを受け、まず王導は拱手(きょうしゅ)を致しました。
 越司、睿司は司馬氏一門でも特に顕名。その両名に侍ることが許されている、と言うだけでも王導がいかに重要な家門にあるかを示しております。
 その王導は、
愚臣(ぐしん)は、蜀の伏龍(ふくりょう)鳳雛(ほうすう)の明暗にこそ、強く心惹かれております」
 言葉ぶりはさておき、徒に両名に(おもね)る所もありませんでした。
 越司が魏の創始者、睿司が呉の丞相を(あげつら)うのです。魏の人物を上げれば越司に、呉の人物であれば睿司に坦することとなります。ならば両国外より人物を持ち出すは中立を宣ずるがごときもの。
(かん)(ちょう)両名とは別の意味で劉備(りゅうび)の手となるべく期待された両名にはございましたが、片や忠烈の大宰相となり、片や巴蜀の片隅で土となりました。ただし、いずれにせよ両名は人事を全うせん、と戦い抜いております。その先にある結果に関わらず、愚臣もまた両名のごとく力を尽くし、晋室の礎石となりたく思います」
 王導の物言いに、ふと過日の元海様を思い起こし、つい孤人の顔が綻んでしまうのでした。やはり如才なき者は、居る所には居るものです。
 越睿両司の言を受け、素知らぬふりをしながらも、最終的には両名を立てる形での発言となす。孤人には到底なし得ぬ即興の、言葉を用いた舞い、とでも申しましょうか。
 越司は幾分苦い顔を浮かべ、睿司は、その曖昧な笑顔を崩さぬままでおりました。

 司馬炎死去前の、ある穏やかな日のことにございました。



 魏武・曹操が大々的に整備した町、(ぎょう)
 船にて黄河(こうが)を遡ること三日で洛陽に辿り着くかの町は、北に幽州(ゆうしゅう)冀州(きしゅう)を望み、東には青州(せいしゅう)、南に豫州(よしゅう)兗州(えんしゅう)徐州(じょしゅう)、更には長江(ちょうこう)の先、揚州(ようしゅう)へと、多くの地方に出るに当たっての起点となっております。まさしく、交通の要衝と呼ぶべき町であります。
 故に晋室は、この地に重鎮を配しておりました。司馬倫(しばりん)――以降は倫司(りんし)と呼びます。この地を任ぜられるのは、即ち通商、兵権に跨がる大権を握るに等しく、晋室中に於いても倫司の発言力が決して小さからぬものである、と言う証左でありました。
 その倫司に、元海様は招聘(しょうへい)を受けておりました。そしてご家族共々この招聘に応じ、鄴へと転居。また元海様を慕う多くの人士が鄴へ集った、との話を聞いております。あのお方であれば容易く人を引きつけるだろう、と深く納得したものです。
 翻って、孤人が居残る洛陽。司馬炎が病を得て死に、司馬衷が次なる帝として立ちました。先だって述べたとおり、暗愚なる司馬衷は皇太后の一族、楊氏の傀儡(かいらい)。一方で帝に妃を献じ得た賈氏(かし)にしてみれば、傀儡の付随に過ぎぬ立場など到底受け容れられたものではありません。たちまち宮中にて、楊氏排斥の政変が起こりました。斯くして宮中に賈氏の独裁体制が生じます。
 この件に関し、因果応報、と述べるのも幾分躊躇(ためら)われます。そもそも威徳(いとく)赫赫(かくかく)たる故に帝は帝足り得るのです。(あき)らかならぬ帝権に対し、いかほどの権門が洛陽に頭を垂れたままでおれましょう。
君側(くんそく)(かん)を断たねばならぬ」
 倫司が、醜態を晒す宮中の奸賊らを討滅せん、なる名目の元立ったのも、当然の帰結である、と申せました。またこの動きに、他の司馬氏一門も呼応します。倫司を首魁とし、軍勢が洛陽入り。賈氏一門の栄華は瞬きにも満たぬものと果てました。
 これにて大団円、世は並べて事もなし、となってくれれば良かったのですが、ご存知の通り、この変事は、更なる大乱の嚆矢(こうし)にしかなりませんでした。
 魏室の過ちを反例となし、晋室は宗族に大権を与えました。換言すれば、それは司馬氏内に勢力が分散していた、ともなるのです。
 親、兄弟ですら食み合うが権臣のならい。倫司に呼応した各地の司馬氏とて、内心では尊位(そんい)虎視眈々(こしたんたん)と狙っておりました。そしてまた、司馬氏に追従し、天下に名を為さん、と目論む豪族らも加わります。斯くして後の世に八王の乱と呼ばれる内乱が起こるのです。
 賈氏打倒が成るや、倫司は懦弱なる司馬衷に帝たるの資格なし、と帝位を剥奪、自ら次なる帝を名乗りました。これが他の一門に倫司打倒の大義名分を与えました。
 八王、なる名がつくほどです。実際は八ではきかぬ、多くの司馬氏が倫司排除に声を上げました。とは申せど、その全てを拾い上げる必要もありますまい。越司と睿司、そして幽州に拠点を築いていた司馬騰(しばとう)――騰司(とうし)の三名を上げてしまいさえすれば事足りましょう。特に騰司、及びその配下たる王浚(おうしゅん)祁弘(きこう)は、石并州にとっても看過し得ぬ名でありましょう。
 ともあれ、今は倫司に話を戻しましょう。

「白髪が増えたな、元達」
 並み居る壮士らの先頭に立ち、(きら)びやかな甲冑に身を固め。その口許には見事な美髯(びぜん)を蓄えた元海様ではありましたが、衆人を惹き付ける笑みは変わらず、いえ、寧ろより眩きものとなっておりました。
「此度の御活躍、孤人の耳にも届いております。中でもご子息、劉聡(りゅうそう)様、劉曜(りゅうよう)様のお挙げになった武功が際立っておられたとか。龍の子は、やはり龍なのですね」
「宮仕えは君に(おもね)りを教えたか。似合わんぞ」
「まさか。衷心(ちゅうしん)よりの言葉にございます」
「では、そういうことにしておこうか」
 倫司が動いた、と言うのであれば、無論元海様もそこには従っておりました。この時には既に先主(せんしゅ)、そして主上(しゅじょう)も武将として長じておりました。
 ――王を、元海様とお呼びするのです。今この場だけは先主を劉聡様と、主上を劉曜様とお呼びさせて頂きましょう。
 若き日の元海様を彷彿とさせる怜悧(れいり)さに、覇気を併せ持った劉聡様。対して白き髪、赤い目という、異相以外の何者でもない佇まいの、劉曜様。
 良くも悪くも人目を引かずにおれぬのが、劉曜様のさだめなのでありましょう。この時も、覚えず孤人は不調法にも程がある眼差しを劉曜様に投げていたようでした。
「おい」
 劉曜様の赤き瞳が、孤人を射抜くのです。
「殺されたいようだな、貴様」
 衆人の居並ぶ中にも関わらず、劉曜様は剣をすらりと抜き放ちました。

 義父上の霊廟の前にて、いかほど拝跪(はいき)していたことでしょうか。ようやく顔を上げた元海様の額が、いたく赤くなっておりました。どれほど強く、額を床に押し付けておられたのかが窺えます。
「元達。先生は、いかに身罷られた」
「安んじてはおられました。晋に遷らされてより後、仕えるべき主を失い、ならばせめて主の事跡を(つまび)らかにせん、と記した三國志。それが司馬炎の意に適い、他の史家の仕事に大きく優越致しました。痛快哉(つうかいかな)、が遺されたお言葉です。近くには司馬炎の意を全うせん、との企図が、やがて千乗の光陰の彼方、漢室の皇統の賞揚に繋がるのだ、と」
「先生らしい」
 涙しつつ、元海様は微笑まれました。
「先生のお言葉は、その全てに罠を疑わねばならなかった。ならばその畢竟(ひっきょう)の大作は、そのものが大いなる罠、と見做すべきであろう。これは、いつまでも読み解き切れそうにはないな」
 元海様の後背に、欣然(きんぜん)たる面持ちにて頷く劉聡様。一方では、憮然と塞ぎ込む劉曜様。劉曜様の頬は赤くなっておりました。劉聡様が、唐突に剣を抜いた劉曜様の、その頬を張られたのです。
 劉聡様の怒りようの烈しきこと、却って元海様が止めに入らねばならぬほどでありました。
 倫司の尖兵として軍を率いた元海様は、その精兵らを自在に操り、瞬く間に洛陽を制圧致しました。その戦働き振りは、都の住民に匈奴兵の苛烈なる強さを刻みつけるに至りました。
 都の住民。そう、孤人が寄食していた陳家にても、この点は全く変わりません。
 都に住まう漢人らに取り、匈奴とは兇暴たる蛮夷(ばんい)。どう言い繕ってみたところで、孤人は匈奴の(すえ)です。元海様が軍功を上げれば上げるほど、孤人は陳氏の家人より(はばか)られるようになりました。
 漢族、匈奴。義父上のごとく、分け隔てなく接して下さる方が寧ろ、(まれ)なのです。元々義父上以外よりさほど歓迎されている訳でもありませんでしたが、劉曜様の振る舞いは、孤人に対する警戒、嫌悪の念をより高めるに至ったよう感じております。

「元達。洛陽も、そろそろ潮時ではないか」
 元海様が、孤人に仰りました。
「と、申しますと――?」
 韜晦(とうかい)ではありませんでした。己が真に欲していた言葉など、そう簡単に気付けるものではありません。欲していた、欲し過ぎていたがために、却って汲み取りきれなかった、と申すべきでありましょう。
「倫司は、越えてはならぬ一線を越えた。この先洛陽は大いに荒れよう。その趨勢を占うは、容易きことではない。が、何れにせよ多くの民が巻き添えとなろう。そこに君も付き合う必要はない」
 民、の一言に重きがなされたのを感じ取るのです。
 天下の安寧。
 過日、元海様が述べられた言葉を思い出しました。元海様の思いは、日に日に踏み(にじ)られているような物でした。
 乱を治めるだけの力を持ち得ず、ならばせめて乱を司り、あたら火の粉を撒き散らさぬよう試みる。後日元海様は、猛毒を呑む思いで、そう決意した、と仰りました。胸中の苦しみは、いかばかりであったことでしょう。
 また劉曜様には、どれだけその思いが伝わっていたのでしょうか。

 やがて孤人は、洛陽を下る決意を致しました。三國志にまつわる取材にて各地にそれなりの伝手は出来ておりましたが、向かう先は新興、そう、孤人や元海様の生まれた地と致しました。
 間もなく、更なる火の手が上がりました。その火は瞬く間に晋国全土を覆い、各地に悲憤を撒き散らします。また各地にては、晋に押さえ込まれ、不遇を託っていた諸族が不穏な動きを示しておりました。その中には、匈奴諸部族もおりました。
 元海様は、匈奴を説得し、倫司の先鋒として糾合する、と言う名目で并州に遣わされました。そして并州に到達するや、匈奴を吸収し、独立を宣言。
 この頃匈奴に、単于(ぜんう)はおりませんでした。元々単于は略称であります。正しくは「撐犁孤塗(とうりこと)単于」となり、撐犁が示すは天、孤塗が示すは地。即ち天下を統べるもの、と言う意味となります。漢の例に倣い、皇帝と並び立たせることは、即ち天が二つある、と認めるに等しきこと。故に魏が匈奴を服属させて後、匈奴諸部を束ねるのは単于に次する王の職掌となっておりました。その王の名は、左賢王。
 左賢王、即ち元海様の名代として、匈奴諸部を束ねていた王は呼延翼(こえんよく)、と申します。元海様の妃となられた呼延氏のお父上です。攣鞮に連なる屠各部主家のひとつ、呼延氏の首長です。元海様は、表では倫司に服従する体を取りつつ、裏では呼延翼様との連絡を密に重ねておりました。

 八王の乱は、結果としては元海様を覇道に導く好機となりました。しかし、そのことをいかほど元海様は喜ばれていたことでしょうか。
 後日、離石(りせき)にて改めて拝顔叶ったときの元海様は、既にして幾分の陰りを帯びておられたように思います。



 八王(はちおう)の乱に話を戻しましょう。
 洛陽入りし、司馬衷を廃位。帝位を僭称した倫司ではありましたが、その動きを他の司馬氏が黙って見過ごす筈もありませんでした。司馬穎(しばえい)――穎司(えいし)を筆頭とした、倫司打倒の軍が立ち上がります。
 とは申せど、その結束は決して固くはありませんでした。遥か天の彼方と見做されていた極位(きょくい)が外戚の手で、宗室の手で、「ただの地位」にまで堕していたのです。誰もがどう他者を出し抜き、自らを極位に据えるか。目論むるは、そればかりでありました。
 互いに疑心暗鬼ともなれば、その動きはどうしても鈍くなろう、と言うもの。元海様の率いる倫司軍にしてみれば、彼の者らを叩き潰すなど訳もない事でした。
 ただし、倫司もこのまま洛陽に居れば、いつまでも狙われかねぬ、と判断したようです。司馬衷を連行、鄴へと帰還致します。
 帰還後、鄴にて論功行賞がなされました。
 この時勲功一等とされたのは、側近の孫秀(そんしゅう)
 ただし、孫秀がなしたるは、司馬衷が隠し持っていた、漢代より伝わる玉璽(ぎょくじ)を見つけ出したこと。無論、倫司登極の名分を得た、と言う意味では大功ではあるのですが。
 一方で多くの血を流し、倫司台頭の原動力となった元海様らには、申し訳程度の恩賞しか出されませんでした。その行いが何を招くかに考えが及ばぬのですから、倫司も中々の太平楽である、と申すより他ありません。倫司討つべし、の謀議が脹れ上がるのを、どうして元海様が留められたでしょうか。
 ここで、一度申し上げておきましょう。
 はじめ元海様は、幕下の倫司打倒の機運を挫かんと、言葉を尽くしておられました。ただし、それは晋室への忠誠からではありませんでした。水面下で動く匈奴諸部との連携を目立たせたくなかったのです。
 斯様な折、倫司洛陽入りの際には静観を貫いていた騰司が動き出しました。騰司本人はともあれ、その配下が、かの王浚です。鄴内の不穏な動きを察知し、機到れり、と騰司に進言したのでしょう。鋭き戦局眼である、と申さざるを得ません。
 北のかた、幽州に拠点を構えていた騰司は、その後背に塞外の民、著名なところでは鮮卑(せんぴ)宇文(うぶん)部や(だん)部、そして烏丸(うがん)を抱えておりました。いずれも匈奴に劣らぬ凶猛(きょうもう)なる騎馬の民。しかし驍将祁弘(きこう)が、その恐るべき武にて諸部を鎮圧。更に王浚が硬軟交えた交渉にて彼の者らを服属なさしめておりました。
 故事に照らせば、魏武曹操の青州兵(せいしゅうへい)吸収を引き合いにすべきでありましょうか。低めに見積もっても、この頃の騰司の軍勢は突出していた、と申し上げるべきでありましょう。
 騰司のこの動きを、倫司は大いに懼れたそうです。宮廷内では南遷(なんせん)の建議も持ち上がりました。
 この動きを叱咤なされたのが、元海様でした。次のように、そのお言葉が残されております。
「陛下の威徳は(あまね)く四海に充ちております。何程の者が陛下のために命を捨てることを憚りましょうか。王浚など所詮ひよっこ、辺境の夷狄(いてき)を従えた程度で思い上がっているに過ぎませぬ。にも拘わらず陛下が鄴を下れば、未だ滅し得ぬ逆賊どもは、たちまちに陛下を侮りましょう。天下に覇を唱えるためにも、陛下はこの鄴にて王浚らを迎え撃つべきなのです。ただ一方では、并州の匈奴らが騰司に呼応しかねぬ情勢下でもあります。騰司らのみであれば、匹夫の専横と断ずれば済みましょう。しかし、そこに匈奴が加われば、決して侮れぬ武威を得ましょう。そこで陛下、どうか私を匈奴らの地にお遣わせ下さい。畏れ多い事でございますが、私めは匈奴の帥を拝命しております身。彼の者らを必ずや説得し、当方に引き入れてみせましょう。そして事成らば、王浚どもを脇腹より食い破り、その首をこの鄴へ持参致しましょう」
 記録に残っているこの進言は、果たしてどこまで正しいものなのか分かりません。分かっているのは、この言葉に元海様の真意はまるで表れていないこと、そして倫司が元海様を愚かにも匈奴諸部に向け派遣したこと、であります。ともなれば一言一句のことごとくを信じるわけには参りませんが、それに類した言い回しにて倫司を説き伏せられたのは間違いなきことでありましょう。
 元海様は、呼延翼様率いる匈奴諸部に合流するや、即座に推戴(すいたい)を受け、匈奴|大単于としての名乗りを上げます。即ち、「帝」をこれ以上奉じる気はない、と天下に宣ぜられたのです。

 倫司の強勢は、元海様率いる匈奴騎兵にその淵源がありました。その匈奴騎兵が離脱した、ともなれば、以降の顛末を想像するのはそう難しいことでもなかろうか、と思います。
 あえなく、倫司は滅びました。北より騰司に烈しく追い立てられたところに、南より越司の軍が強襲。倫司は殺され、司馬衷の身柄は越司の元に遷されました。
 その後には、騰司、越司、元海様が争い合う事となりました。
 そしてここに、匈奴に押さえ込まれていた鮮卑慕容(ぼよう)部が加わります。宇文部、段部より更に北方にて逼塞していたかの者らが、越司の支援を受け、急速に力を付けて参ったのです。



 孤人が改めて元海様の幕臣となったのは、臣下よりの単于推戴を元海様が受諾なされた後。ただし漢朝再建は未だ為されておりませんでした。
 この点につきましては、明確に述べておくべきでしょう。孤人は、元海様の単于推戴なる功を疎んだのです。
 幾許(いくばく)の春秋をこそ経ましたが、孤人が陋巷(ろうこう)蟄居(ちっきょ)する文弱の徒であるに変わりはありません。たとい元海様の号令の元といえど、文武百官を総べる器が孤人にあるとは到底思えませんでした。
「一番目立たぬ機を狙ったか。君らしいな」
 拝跪する孤人を、元海様はわざわざ玉座から降り、お出迎え下さりました。匈奴驃騎(ひょうき)数万余、漢人明賢数千余を従える、堂々たる覇王の、しかし孤人は只の旧知に過ぎません。過分な待遇と恐縮しつつも、(はなは)だ熱きを胸に詰まらせれば、涙を禁ずるは到底なし得ぬ業でありました。
 とは申せど、旧交を温めんがために参ったわけではありません。元海様が天下に覇たるを扶翼(ふよく)せん、と志したのです。涙を拭うと、口許を引き締め、顔を上げ、元海様を見据えました。その深き眼差しに、かすかに惑いが生ぜられました。
 敢えて構わず、孤人は口火を切りました。
「まずは拝命(はいめい)の儀、誠にお疲れ様でございました。時に大業の第一歩は既に成り、天下は単于の覇業、その行く先に注視しておりましょう。()らば、いまは速やかに単于の威徳(いとく)、その広大無辺たるを大いに示すべき、と愚考致します」
 元海様、いえ、匈奴諸部を取り囲むは、何れもが容易く斬り伏せるも叶わぬ難敵ばかり。彼の者らを蕩尽(とうじん)せんと志すのであれば、祝辞を述べる暇すら惜しい。故に孤人は、主の許しも得ずに面を上げ、更には不敬も顧みず、性急とも言える上奏に打って出ました。
 旧友の顔が、たちまち主の顔に切り替わりました。孤人の焦燥を、元海様は、十全にお汲み下さったのです。
(しか)りである。ならば、|()がなすべきを述べよ」
 速やかなる受容への歓喜と、ようやく愚考の試しの場を得たことと。血湧き肉躍るとは、恐らく斯様な折に用いるべきなのでありましょう。
 かねてより孤人が抱えていた、万余の詞。みだりに洩らさぬ為にも、一度口許を引き締め、拱手致します。
「なすべきは、漢朝光復(こうふく)
 十余年もの間、抱いていたその一言を、遂に口外致しました。
 元海様が息を呑まれたのを察します。
「――続けよ」
「単于の御意向、民庶(みんしょ)の安寧である、と愚考致します。()らば名にて実を牽引するが上策でありましょう。在りし日の漢とて、その末期(まつご)頽廃(たいはい)の極みに堕しておりました。魏晋の乱淪と較べたところで、そこに何程の差がございましょう。なれど(うずたか)く積み重なった春秋は、漢の名より腐臭を箕帚(きそう)致しました。民庶は百載(ひゃくさい)の覇の輝かしきをのみ見上げております。幸いにも、単于は漢室の皇統をお継ぎであらせられます。そも漢室に於いて、正嫡ならざるが極位を継げぬ理由とはなり得ません。文帝(ぶんてい)は庶子、光武(こうぶ)は傍流、昭烈(しょうれつ)に至りては更にその遍方(へんぽう)。にも拘らず、何れもが大いなる民心を得るに至りました。先人の有徳こそが継承の証であます。なれば単于に漢の宗廟(そうびょう)を継げぬ理由はございません。また、単于の元には、精強なる万億の暁勇(ぎょうゆう)が集っております。漢の名は、この大いなる武に大義をも授けましょう。さすれば単于の威徳(いとく)は、晋室が招いたこの混迷を打ち払う清風となりましょう」
 幾分の早口上にはなっていたように思います。伝うべきを、余すところなく伝え切れたのでしょうか。述べ足りぬところはあったでしょうか。幾ら顧みたところで詮無き事です。なすべきことをなした。後は、主に全てを委ねるのみ。あるいは、刑場に赴く咎人(とがびと)とは、あの折の孤人のごとき心地なのやも知れません。
 暫しの黙考、やがて、元海様が苦笑されました。
「恐ろしいな、元達。君の示す道は、転び方を間違えれば大逆ともなろう」
「然りでございます。他ならぬ、単于以外にはなし得ぬことかと」
「言うてくれる」
 元海様が壇上に戻られます。玉座に、深く腰掛けられました。
「天意とは、いかなる物であろうか。何ゆえ天下に塗炭(とたん)の苦しみを味わわせるのか。天ならざるこの窮身(きゅうしん)では、所詮無窮無辺(むきゅうむへん)の、更にその果てを覗き見るは叶わぬ。ならば、この頭上に広がるを我が天となすより他なかろうが」
 元海様が、天を仰ぎます。
 覚えず孤人も、それに倣っておりました。
「――(ちょく)が要るな、元達」
 その、小さな呟きに。
 時を得た。
 孤人の気宇は、高まるのでした。  

 離石にて匈奴諸部を従え、受禅(じゅぜん)の儀に臨まれる元海様。煩瑣(はんさ)なる式辞を滞りなくこなされ、紫衣(しい)(まと)い、文武百官に南面致します。孤人の起草した竹簡を広げ、堂々たる音声を以て、詔勅(しょうちょく)を読み上げられました。
「昔、太祖(たいそ)高帝はその神武を以て期に応じ、大業を開かれた。太宗(たいそう)文帝(ぶんてい)は明徳を重んぜられ、漢朝の繁栄を確固たるものになさしめられた。世宗(せいそう)武帝(ぶてい)夷蛮(いばん)を打ち払い、漢の威徳を更に大いなるものとした。中宗(ちゅうそう)宣帝(せんてい)は人士を広く募られ、宮中には顕才が多く集うに到った。祖宗(そそう)らの偉業は、三皇五帝(さんこうごてい)()()王、(いん)(とう)王、(しゅう)(ぶん)王の業にも勝るものであった。(しか)るに元帝(げんてい)成帝(せいてい)の世には多くの不幸があり、また哀帝(あいてい)平帝(へいてい)は玉座を碌々温めることも叶わず崩ぜられた。為に賊臣王莽(おうもう)による篡逆(さんぎゃく)()を招くこととなった。そこへ世祖(せいそ)光武帝(こうぶてい)が聖武をもって漢の天を恢復(かいふく)なされた。顯宗(けんそう)明帝(めいてい)肅宗(しゅくそう)章帝(しょうてい)は光武の覇業を()け、漢朝の示す火徳は更なる安寧を得た。なれど和帝(わてい)安帝(あんてい)より後、皇綱は再び漸頹(ぜんたい)の憂き目に遭った。黃巾(こうきん)の賊は九州を嘗め尽くし、四海は乱れ、遂には董卓(とうたく)の暴虐を蒙り、更には曹操、曹丕親子によって凶逆の変が為された。献帝(けんてい)の無念を、蜀の地に在った烈祖(れっそ)昭烈帝が晴らさん、と立ち上がるも、皇阼(こうそ)の奪還はなし得ず、(あまつさ)え懐帝には虜囚の辱めが為されてしまった。社稷が淪喪(りんそう)されてより、四十余年が経つ。ここに到り、天は漢室に(もたら)された禍を(あわ)れみ、司馬氏宗族を相争わせんとお仕向けになった。ために黎庶(れいしょ)は塗炭の苦しみを味わうも、それを救う者はいまだ現れぬままでいた。いま、私は群公よりの推戴を受ける身となり、畏れ多くも三祖の業を継ぐ事となった。我が愚昧(ぐまい)を顧みれば、斯くなる大業を為さんと志すには戦惶(せんこう)留め切れぬ。但し漢室の味わった大恥(たいち)は未だ(そそ)がれてはおらず、社稷にも主無きままである。よって銜膽(せんせん)棲冰(すいひょう)し、群議に従い、我が業を務め上げるを、ここに宣ずるものである」

 斯くして元海様は、漢を襲われました。
 それはまた、司馬氏に対する明確な宣戦布告と呼ぶべきものでもありました。



 漢光復の大業は、元海様の大徳あらばこそなし得ました。なれど、これは飽くまで始まりに過ぎませんでした。その旗は、司馬氏を打倒せねば、ただの大仰な飾りにしかならぬのです。
 離石が大いに沸いていた頃、洛陽にても八王の乱、その趨勢がほぼ決しておりました。勝者は、越司。
 乱のさなか、司馬衷が死去。ここで越司は、逸早く次なる晋帝、司馬熾(しばし)を推戴しました。司馬熾の名の下、残存諸王を屈服せしめ、大権を手にしたのです。
 越司は、やはり傑物の類である、と評さざるを得ません。
 いまし日には倫司打倒に参じこそしたものの、そこで元海様より手痛い敗績を被っております。自らの無力を実感したのでしょうか、再起にあたっての手続きは、その後の動きよりすれば、実に入念なものであったことが窺えます。
 睿司に揚州の経営を任じ、王導と供に長江を渡らせ。旧|呉都・建業(けんぎょう)にて人士取り纏めをなさしめました。肥沃(ひよく)江南(こうなん)の地は、孫氏の手により豊穣な実りをもたらす地に発展を遂げておりました。加えて江南は、戦乱打ち続く中原より、長江の天険にて大きく隔たれております。逸早くこの地を抑えることにより、越司は潤沢なる軍資を得ました。
 騰司。倫司討伐後、王浚に北地を固めさせ、鮮卑や烏丸を従え南下、鄴入り。叛乱の芽は、祁弘が速やかに刈り取って回ったそうです。騰司は越司の実の弟でもあります。宗族同士が互いの血で血を洗う中、心許せる(ともがら)に要地を抑えさせたことは、越司にとり、いかほどの安寧となったことでしょう。
 また西方にては、同じく越司の弟である摸司(もし)長安(ちょうあん)に駐屯。西の端、涼州(りょうしゅう)を守る太守、張軌(ちょうき)と連携し、漢を牽制しておりました。
 以上のごとく、諸王を討伐する傍ら、中原を大いなる盤面と見立て、元海様が易々と身動きできぬよう仕立て上げたのです。
「見事なものだな」
 地図を眺め、元海様もそう洩らさずにはおれませんでした。
「いかに(ほころ)びを見出し、衝くか、ですな」
 同じく地図を眺め、宿老、呼延翼(こえんよく)様が仰ります。その指が幽州の南東、青州を示しました。
「時に、王。青州に蔓延(はびこ)る山賊のこと、ご存知にありましょうや」
「山賊?」
「ほぼ、軍と申し上げても良いでしょう。騰司が鄴を迂闊に離れられぬほどの勢力を保ち、方々を荒らし回っているのだとか」
「なるほど。此方に引き込むことができれば心強いな」
 元海様の言葉を聞き、呼延翼様が、に、と笑みを示されました。初老に差し掛からんとする勇将とは思えぬ、いたずらじみたものでした。
「王ならば、彼の者らを引き入れるのにさほどの苦労は致しますまい」
「何故、そう思う」
「この山賊どもを率いている者の名をお伝え致しましょう。王弥、と申すのですよ」
「――!」
 がた、と椅子を倒し、元海様が立ち上がられました。

「よう元達! 相変わらずの時化た面だ」
「よもや、貴様の顔を再び目の当たりにせねばならんとはな」
 元海様のことです。恐らく、孤人と王弥が再会すればどうなるのか、も踏まえた上で、孤人を使者にお選びになったのでしょう。無論、元海様以外で王弥が警戒せずに済む相手、と言うことでもあるのでしょうが。
 洛陽にあった頃の奔放な貴公子然とした有り様はどこへやら、まるで(くし)の通らぬ髪に髭、そこかしこにどす黒い染みを残す粗衣(そい)。極めつきは、その首飾りです。人骨をつなぎ合わせ、そこに玉をはめ込むという代物でした。
「聞いたぞ。元海に漢王を名乗らせたそうだな。随分とえげつない手を使う」
「世に王を収める器がないのだ。ならば作るしかなかろう」
「おーおー、怖ことを言ってくれる」
 徳利(とっくり)を掴むと、ぐいとひと飲み。更にはそのまま、こちらに投げて寄越します。孤人の後背に控える侍従らが色めき立つのが分かりました。
「構うな、大事ない」
 徳利を受け取ると、王弥に倣います。毒など入れていない、と言う、王弥なりの気遣いです。飲まぬは、ともすればかの難物を敵に回しかねません。
「――!」
 ならば、(あお)った酒のそのいと強きは、王弥の策であった、としか申せませんでしょう。口が、喉が、目の奥が焼けます。噴き出すわけにも参りません。孤人は堅く目を瞑り、臍下(せいか)に圧を込め、何とかその一口を飲みきりました。
 王弥と、その取り巻きは大笑い。後に侍従に聞いたところによると、孤人は涙も(はなみず)もまったく留めおけずにいたそうです。
「いや、元達! 男になったな!」
 王弥が肩を組んで参りました。幾許(いくばく)かの()えた匂いを嗅いだ、ような気もしております。身中を暴れ回る酒精のために、碌々頭も回らぬ有様でありました。
 王弥の潜みたる屋敷、その奥の間に通され、ようやく水にありつきました。
「少しは強くならんと、女に見下されるぞ」
「それで結構」
 何とかそう返すと、頭を振りました。いつまでも呆けた頭ではおれぬのです。
「余計な前置きは要るまい。王が、(けい)の力をお求めだ」
「まぁ、断る理由もねえな。いいぜ」
「――何?」
 肩透かしを受けた、と言うのが正直なところです。
 王弥よりの返答は、余りにあっさりとしたもので。内心でどのように思うところがあろうとも、己の値を吊り上げることに腐心してこよう。そう予期し、手立てを揃えていたのですが。
 に、と王弥が笑います。
「その顔が見たかった」
「貴様、(たばか)るのも――」
「あぁ、いいいい。元海と戯れるなら兎も角、お前とやり合うのは疲れるだけだ」
 不遜にして、傲慢。とは申せど、実を求めるに愚直。たちまちのうちに、眼眸(がんほう)が鋭きを帯びるのです。
青州賊(せいしゅうぞく)だ何だいわれてるがな、正味のところ、祁弘から逃げ回ってるようなもんだ。あれは化け物だ、手が付けられん」
「貴様をして、そこまで言わしめるのか」
「言いたかないがな。だが俺とて、ただ逃げ回るのは性に合わん。見させて貰ったさ。あいつらを、つぶさにな」
 そう言うと、王弥は顎で背後に指示を飛ばしました。
 ――この折でしたね。石并州、あなた様に初めてお目にかかったのは。
(ろく)、地図だ」
「は」
 今でも覚えております。并州の、あの佇まい。あの頃の并州は、全てを憎んでおられた。王弥に(きょう)じておりながら、へりくだるつもりなど微塵もない、とその気影にて語っておられた。ひと目にて、稲妻に近しきが総身を走りました。
「ん? どうした、元達」
「今の少年は?」
「あぁ、勒か。拾ったんだよ、戦場でな。聞けば騰司に捕まり、奴隷として売り飛ばされたって言う。奴を殺したい、って抜かしやがったから飼ってるが、これが思い掛けねえめっけもんでな」
 地図を持って参られた并州に対し「遅せえ」と鞭を飛ばす王弥。今にして思えば王弥なりの英才教育だったのやも知れませんが、無論、并州が王弥を許す理由にもなりますまい。
 地図を広げると、石を置いて行きます。
「この石が騰司ども。で、こいつが俺」
 と、王弥が自らを示すために置いたのは、玉。
「玉は王に使え」
「うるせぇな、そこじゃねえだろうが。いいか、さっきも言ったとおり、祁弘がいる限り、騰司を狩るのはほぼ無理だ。だが、祁弘と、その手下どもの間になら付け入る隙がある」
「鮮卑兵、烏丸兵か」
「ああ」
 次に王弥が取り出したのは、碁石でした。祁弘を示す石の周りに白の碁石を、また騰司らを示す石の北にも、同じく白を。そして、更にその北方に、黒の碁石を配します。
「黒は?」
慕容廆(ぼようかい)だ」
 思わず、孤人は王弥の顔を覗き込んでしまいました。
 慕容廆。鮮卑、慕容部の王。
 今でこそ慕容部は漢朝と境を接しておりますが、この頃は段部、宇文部よりも更に北の地に跋扈しておりました。荒涼たる北地を駆け回る彼の者は、群狼と評される鮮卑らの中にあって、なお狼に近しかった、と申せましょう。
 八王の乱の争乱を嫌った漢人らの中には并州、幽州を越え、更にその北、慕容らの地にまで逃れてた者もおりました。彼の者らを得た慕容廆は、急速に力を付け、狼たるを保ちながらも、中原を噛み砕かん、と爪牙を研いでおりました。
「慕容が脅威となれば、祁弘に従う者らがいつまでも南地にかかずらってもおれぬ、と?」
 王弥が頷きます。
「加えて、祁弘はともあれ、結局のところ騰司、王浚は鮮卑烏丸らを駒としか見てねえ。ここにつけ込みゃ、打開の芽もあるだろう。が、今の俺には、それをなす口は兎も角、金がねえ」
 そして、王弥が掴むは、金塊。どっかと、離石に置くのです。
「と、言うわけだ。宜しくな、金蔓さんよ」
 王弥の、この奔放な振る舞いに。
 もはや孤人は、苦笑するより他ありませんでした。



「隣をよろしいか、世龍(せいりゅう)殿」
(いや)だ、と言えば、諦めてくれるのか?」
 孤人への、并州の返しは、実に素気なきものでしたね。
 懐かしきやり取りです。ここからは、并州。敢えて在りし日のごとく、世龍殿、とあざなにてお呼びするをお許し下さい。
 青州は王弥の潜んでいたねぐらより、并州、離石への旅路。斯の折にて世龍殿と交わしたやり取りは、今でも鮮明に思い出すが叶います。

「アンタは人相見なのか?」
「は?」
 出し抜けの問いに、孤人は答える言葉を持ちませんでした。面目なき限りです。発すべき言葉を見出せず、いたずらに世龍殿を苛立たせてしまいましたようにも思います。
「前にも似たようなことがあった。ニヤニヤしながら、おれにすり寄ってきた奴がいた。そんなに(けつ)族は珍しいか」
 寄らば斬る、とばかりの険気。常の孤人ならば怯み上がり、問い掛けたるを大いに悔いたことでしょう。なれどあの折にては、不思議なことに、心地よささえ覚えていたような気がします。
「いえ。珍しいのは、あなた様の目です」
「何?」
 ここで初めて、世龍殿。あなた様の目の険が薄らいだのを感じました。
「鋭くも、雄々しい。気高き猛禽のごときを感じます」
「――莫迦な」
 自ずから述べるべきではなかろうとも思いますが、孤人は不器用です。対手に応じて振る舞いを変ずるを不得手としております。それが、却って奏功(そうこう)したのであろう、とは思います。一つ間違えれば、あの場にて孤人の首は転げ落ちていたのでしょうけれど。
 無尽の紺碧の下、ただ馬上の我と彼とがあるのみ。世龍殿、あの折にても、あなた様は天を仰いでおられましたね。同じでした。元海様も、黙考の折には、よく見上げておられた。
「馬に乗らずば碌々駆けるも能わず、この細腕では、(ともがら)も守り切れん。地べたを()うこの愚物だ、烏滸(おこ)がましいにも程がある」
「君子とは、常に己が足らざるを知り、学び続けるものです」
「ああ言えばこう言う。人相見の方が余程ましだな」
 孤人としては至極真面目に答えたつもりではあったのですが、確かに、屁理屈と取られても仕方がありませんでしたね。
「まあ、いい。ならば元達殿、おれからもひとつ聞いて良いか」
「何なりと」
「不思議で仕方がないのだ。あの王弥が、ああも易々と王への北面を受け容れたのが。王とは、いかなるお方なのか」
「孤人と王弥が惹かれて()まぬお方です」
「答になっておらんぞ」
「では、言い換えましょう。孤人も捉え切れぬのです。深くもあり、広くもある。厳しくもあり、優しくもある。実に様々なお顔をお持ちです。敢えて評せば、折々の顔がいずれも時宜に適っておられる、と言ったところでしょうか」
 ふむ、と顎髭を(しご)く世龍殿に、故もなく若かりし元海様が重なりました。
(らち)もないな。ここは言いくるめられておくしかなさそうだ」
 今少し世龍殿と話してはいたかったのですが、王弥に来られてしまっては、それも叶わぬ事でしたね。孤人の元を離れる世龍殿を密かに見送ると、王弥とは離石に着いた後の摺り合わせ、段部宇文部調略にまつわる展望、鄴、洛陽攻略の見立て等を話しました。
「時に、元達。勒は面白かろう」
 出し抜けの言葉ではありましたが、不思議と慌てることなく応ずるが叶いました。頷きます。
「あの若さで、深く見えている。と言って激情を押し殺している訳でもない。才だけではないな。場数も踏んでおろう」
「大分使い倒したしな。何度か祁弘に当てもしている。勝てはせんが、死ぬこともない。どころか、気付けば戦地で子飼いを見出し、そいつらを操って手前好みの戦場を(あつら)えやがる。見物だぜ。一戦のごとに差配が鋭くなってくのはな」
「それで、大分手下を失ってもいるようだな」
「アイツさえ生き延びりゃいいのさ。アイツが伸びりゃ、手下どもなんざいくら死んだところでおつりが来る」
 こともなげに言い切る王弥の割り切りにはうすら寒きを覚えましたが、とは申せど、故にこそ王弥は苛烈なる戦場を生き延びて来れたのでしょう。経緯がどうであれ、生き延びた末に、騰司らが捨て置けぬ力を持つに到ったのです。
「しかし、驚いたな。アイツは普段、子飼いども以外にゃろくすっぽ口もききゃしねえ。だってのに、元達。お前とは随分喋ってたな。この二十年で、いったいどんな人垂らしの術を学びやがったんだ」
「人垂らしなど……」
 敢えて申せば、孤人の訥訥(とつとつ)たる振る舞いこそが却って世龍殿をして警戒を解かしめたのでありましょう。故に孤人は、濁した先の言葉を敢えて継がずにおきました。王弥には解し得まい、と思ったのです。
「まぁいいさ。聞けば元海の息子どもと、勒は年かさも近いらしいな。そこにブチ込めば、アイツも更に伸びるだろうよ」
 呵呵(かか)大笑(たいしょう)する王弥をよそに、ふと劉曜(りゅうよう)様の赤き瞳が浮かびました。
 それは、予感とも呼ぶべき物だったのでしょうか。

愚人(ぐじん)敬則(おうけいそく)、幽州奸賊の蟠踞(ばんきょ)(にく)み、士人糾合(きゅうごう)し兵を()つるも、鮮卑驃騎の勢を留む能わず、以て漂泊(ひょうはく)の難を得る。しかして愚人の艱難(かんなん)、少なからずも漢王の覇業に()せん。北辺の紐帯、(けだ)し緊密ならず。罅隙(かんげき)甚だ大ならざると(いえ)ど、漢王の威光にて徳化をなし得ん。斯くて奸賊討滅の機、必ずや漢朝に訪れん」
 どこに隠しおおせていたのやら、元海様に拝跪する王弥は髭を、髪を整え、折り目整った朝服、冠を身につけ、見事な口上を述べ上げました。いまし日の王弥を知らぬ漢人官僚らは、離石に登城した折の野盗然たる姿との隔絶(かくぜつ)に、少なからぬ驚きを禁じ得ぬようでした――無論その有り様を眺めたいがための手立てであったのでしょうが。
「この位でいいか、元海。面倒くせえ話は無しだ。叩くぞ、騰司どもを」
 拱手(きょうしゅ)をしながらも、その物言いは飽くまで傲岸、不遜。呼延翼様ですらその振る舞いには苛立ち、怒りを禁じ得ぬようでありました。
「徳とは、その者が持つ志を強く保ち、貫くを意の基とする」
 口上のみにて廷臣らを大いに揺さぶる王弥を前に、やはり元海様のみが、その泰然たるを保っておられました。
「ならば、王弥。卿もまたすぐれた徳者である、と呼ぶべきなのだろう」
 元海様が、天に手を掲げられます。
「精兵らよ、時はいたれり! 社稷を踏み躙る兇暴の徒を打ち払い、天下に万年の安寧を!」
 その大喝は、会堂をひと息のもとに呑みました。
 天下を荒らす、司馬氏との戦いが。ここに始まったのです。



「で、どうすんだ?」
 開口一番、王弥が一同を見回します。
 漢王の私的な会食の場、と言う名目です。上座に元海様が着座こそなされるものの、八名が車座となって料理、酒を取り囲みます。
 元海様の両隣には孤人と呼延翼様。孤人の隣に劉聡様、呼延翼様の隣に劉曜様。王弥は元海様の対面に付き、両側には部将の曹嶷(そうぎょく)、参謀の張嵩(ちょうこう)(はべ)っておりました。
「北の騰司に王浚、西の涼州を治める張軌は守りの一手の装いだが、いつ動くとも限らん。南西では摸司と氐羌(ていきょう)がよしみを通じ、また南に越司、南東は睿司に王導。全く、見事な蓋だ。とりあえずどこかに風穴を開けねばやっておれん。さあ漢王、どこから手をつける?」
「下らぬ韜晦を申すな」
 呼延翼様が、若干の苛立ちを隠さぬままに言葉を繰り出しました。
「どの方面も到底(おろそ)かには出来ぬ。故にこそ、其方には騰司攻略の大役が任ぜられておるのだ。よもや今更策無し、などとは抜かすまいな」
「怖えぇよ爺さん」と、全く怯える素振りも見せず、王弥は(うそぶ)きます。
「言われなくとも、騰司については動いてるさ。だがな、こっちがお仕事してる合間に鍋の底が抜け落ちました、とかご勘弁願いてえんだよ。何も、細かい方策を聞こうってんじゃねえ。この大いなる漢の覇業、どう完遂なさるお積もりか。その道筋くらいは聞いたところで減りゃしねえだろう」
 呼延翼様だけではありません。劉曜様の顔つきにも苛立ちがありました。劉聡様は泰然となさっておられる風でありましたが、やはり、やや、固い。
 対する曹嶷、張嵩は、共に王弥の元で修羅場を潜り抜けてきた強者。瞬く間に張り詰めた場をいつでも破れるよう、薄ら笑いの向こうに、険気を匿するのでした。
「元達」
「は」
 苦笑なされた元海様の、ただの一言。
 やはりのこの手の役回りなのだ、と、孤人は内心にて盛大なる嘆息を漏らすのでした。
喫緊(きっきん)に於いては、摸司、越司、睿司の三者は捨て置き得る」
 ここで言葉を切り、耳目を集めます。
「過日、益州(えきしゅう)にて巴氐(はてい)李雄(りゆう)が晋軍を排除、帝位を僭称した、とのこと。彼の者を捨て置けば晋室にとりても大いなる災いとなろう。故に摸司は、寧ろ李雄に目を光らせねばならぬ。次に睿司と王導は、いまだ呉越の蛮の寧撫に奔走している。その業をなし得れば脅威足り得ようが、一朝一夕では済むまい。最後に越司、この三者の中でもっとも警戒せねばならぬのは間違いがないが、どうにも奴は今、晋帝との連携に齟齬(そご)を来しておるようだ。辺縁の動きが、いささか鈍い。ならば今は、この三者については最低限の守りで良い、と見る。無論油断など出来たものではないが」
 ほう、とひとしきりの関心を示した後、王弥がぐいと上体を孤人に傾けました。
「後回しにして、それで後々面倒なことにはならねえのか?」
「ならば逆に問うが、両面(りょうめん)摩滅(まめつ)の末の滅亡が、貴様の望む趨勢(すうせい)か? 騰司はまさしく後顧(こうこ)の憂い。ここを除かずして越司と向き合わば、延々と限られた士卒らを損耗し続けよう」
 激することなく、ただ、断じる。
 いかに迷わず、投ずべきに投じ、殺すべきを殺すのか。王弥とて、手立てに絶対がある、とは思ってもおりませんでしたでしょう。求められるは、率いる者の断固たる不退転。すべきである、せねばならぬ、などと言った迂遠(うえん)な物言いでは、到底間に合わぬのです。
 しばし孤人と見合った後、王弥の目は元海様へと転じました。元海様からの付言は、ありませんでした。
 わずかに、王弥の口端が持ち上がります。
「速やかに騰司を()て、って訳だな。無茶言いやがる」
 戯れ言めかした物言いにより、触れなば裂けんばかりであった場の気が和らぐのでした。孤人の隣で劉聡様が静かに、しかし大きく息を吐かれました。
「きみが無茶に付き合うとは、毛頭思えんがな」
 元海様が仰ると、「この野郎」と王弥は手元の酒杯を乾します。
「まぁ、速やかに、はこっちも願ったりだ。決めるなら手早くやらにゃならん。どのみち祁弘に大きな綻びは望めねえ。強引に口を開け、そこに楔を手早く打ち込むしかねえ」
 王弥の言葉を、孤人が受けます。
「鮮卑か」
「ああ。知っての通り、俺は祁弘に散々に追い立てられた。もちろんただ追い立てられたわけじゃねえ。こっちの手の者をじわじわと植え込んで行った。ただし、そいつらには手前以外に誰が入り込んでんのかは教えてねえが」
 こともなげに言い切る王弥。孤人の背に寒気が走りました。
 潜り込ませた間者は、陣中で誰が味方かも分からぬまま日々を過ごすことになるのです。事が洩れたところで、殺されるのは自分ただひとり。また騰司側に寝返ってみたところで、露見すれば結局王弥の手の者に殺されることになるのでしょう。
 間者を送り込むというのは、斯様なことなのでしょう。しかしながら、長らく宮中深くにおり、兵法とは縁遠きところにおりました孤人では、王弥の手口、その人命の甚だ軽き扱いが、どうにも易々とは受け容れられずにおりました。
「祁弘のいまの強さは宇文、段、烏丸諸部の騎兵にある。一方北の外れでは鮮卑|慕容部が力をつけてきている。奴らの南下は避けられん。そこで、対慕容の協力を餌に、宇文らの本体をこちらに寝返らせる。ともなれば、祁弘の指揮下にある鮮卑どもも、祁弘に従う理由を失う」
「随分易々と言い切るではないか。成算は立っておるのか?」
 呼延翼様が、さながら遠雷のごとき声色で疑義を投げつけられました。
「なきゃ言わねえよ、こんな事。ただな、爺さん。さっきも言ったが、こんだけやって祁弘に開けられんのは、ようやく針のひと穴だ。鮮卑なんざ率いてなくとも、元々奴は強ええ。鮮卑らを調略したところで、すぐに立て直してくるだろう。だから、穴を開けた側からこっちの軍をねじ込み、一気に決めにゃならん。早すぎても、遅すぎても失敗する」
「ほう」呼延翼様が腕組みします。
「その方でなくばできぬ、とでも言わんばかりではないか」
「ああ、無理だろうな」
 即座に切り返す王弥に、呼延翼様がむぐ、と言葉を詰まらせました。
 元海様が苦笑致します。
「阿豹、そう舅御(しゅうとご)をいじめてくれるな。私と元達、それときみの侍従以外、きみを知らんのだ」
「おいおい、問いに答えただけだぜ。心外だな」
「仕方あるまい、きみの答は鋭すぎるのだ」
 侍従に告げ、王弥の杯に改めて酒を注がせます。普段は酒を(たしな)まれぬ元海様でありますが、敢えて王弥のひと飲みに合わせ、ご自身も杯をお傾けになりました。
「それで、阿豹。私からは、何をすれば良い?」
「金。それと、速ええ奴を貸してくれ。鮮卑どもを落とすにゃ、どうしても先立つもんが要る。いざ落としました、って段に到って、鄴をぶっ叩ける奴がいねえんじゃ世話もねえ。祁弘の僅隙(きんげき)(あやま)たず撃てる位に、速ええ奴が要る」
「なるほど」
 元海様が、暫し黙考致します。
「ならば、玄明(げんめい)永明(えいめい)を貸そう。また監軍(かんぐん)に元達をつける」
 この提言に、孤人らは大いに驚いたものでした。
 玄明は劉聡様の、永明は劉曜様のあざなです。即ち元海様は、帰順して間もない外様に過ぎぬ者に、迷わず大権をお預けになったのでした。
「父上!?」
 さしもの劉聡様も、この発言には恐慌を禁じ得ませんでした。やおら立ち上がり、元海様をにらみ付けられます。暫し目を合わせた後、劉聡様は劉曜様に目を転ぜられます。
「永明、そなたからも何かないのか! いくら父上と言えど、無謀にも程がある!」
 なれど、当の劉曜様は寧ろ愉快きわまりない、と言った面持ちでおりました。
 王弥と呼延翼様とのやり取りが交わされていた折、始めこそ王弥への敵愾心(てきがいしん)を隠し切れずにいた劉曜様でありましたが、王弥の切り返しを聞くにつけ、感心の容色(ようしょく)を示しておりました。果てには王弥の発言に、愉快そうに頷く始末。
「兄上、落ち着かれよ。我らが属し、また監軍には元達ぞ。仮に王弥に異心(いしん)あらば、我らの手で(ちゅう)せば良い」
 劉曜様の言葉を受け、納得したわけでもありますまい。が、ともあれ劉聡様は着座なされました。
「元海。言ってくれるな、貴様の養子も」
 凶暴なる笑みを、王弥が浮かべます。
「存分に、使い倒してくれ」
 元海様が、鷹揚(おうよう)に述べられました。



 王弥との宴席の後、離石の町へとふらりと出られた元海様を、孤人は慌てて追うのでした。
 酒精に酔ったと嘯かれては、常にては(まみ)えることもなき士人らの集いに交わり、語らいあう。元海様の悪癖です。もっとも語らいあうごとに、孤人らが見逃していた才を拾い上げて来られるものですから、どうしても強き諫止(かんし)は叶わぬのでしたが。
 であるならば、せめて見失わぬようにする。何者と語らいあったかを把握し、元海様の臨時の任官に即応じるよう計らう。また、いざというときには語らいを止め、対手(たいしゅ)を処断するも辞さぬとご理解頂く。以上の密約を、孤人との間に結んで頂いておりました。
「ここにいたか、世龍殿」
 王弥の言う子飼い、陣中に轟く異名としては十八騎(じゅうはっき)の面々と、世龍殿は酒杯を重ねておりましたね。
 その気配が、ぴたりと止んだ。
 さもありなん、と申すより他ありません。町の酒亭におよそ似つかわぬ、地味でこそあれ、あからさまに仕立ての良い平服を羽織った士大夫に、孤人がごときしかめ面が追従(ついしょう)しておるのです。たちまち向けられた殺気に、武の心得なき孤人などは、元海様の供でなければ腰を抜かしていたことでしょう。
 その世龍殿が振り返るなり示された驚愕は、ご本人を前に申し上げるのもおかしなものではございますが、実に鮮やかなものでした。
「へ……!」
 陛下、と言い掛けた世龍殿の口を、元海様が塞がれました。
「う、うむ。平陽(へいよう)令ぞ。隠密ゆえ余り騒がれたくはないのだ」
 仰って、元海様は孤人に必死の目配せをなさりました。
 世龍殿の後背には、色めき立つ十八騎のお歴々。
 全く、このお方は――斯様な場にて、孤人も幾度嘆じたことでありましょう。
呂越(りょえつ)様。士大夫ともあろうお方が、みだりに他者と交わられませぬよう」
 あげつらった偽りの名に、見るからに元海様の面持ちが不快を示されます。
 呂姓は高帝の妃、ひとときは漢朝を転覆せしめかけた呂氏に通じます。漢末の呂布(りょふ)を挙げても良いでしょう。諱は、言うまでもなく越司より。戯れも大概にして頂きたい、と言う孤人の祈念(きねん)は、さて、どこまで通じましたことやら。
 元海様が離れた後、世龍殿の胡乱(うろん)げな眼差しが酷く痛かったのを、よく覚えております。
「勒、何なんだこいつらは」
「敵ではない。旧知だ」
 十八騎の一、あれは孔萇(こうちょう)殿にありましたでしょうか。後にその勇武甚だしきを、よく耳にしたものです。
 元海様の無作法で、盛り上がっていた酒亭が大いに凍てついたのを感じました。元海様は軽く亭内を見渡すと、ふむ、と顎髭をしごかれ、亭主を招きました。
「亭主、騒がせてしまったな。侘び代わりにこれを受け取ってくれ」
 懐より取り出しましたるは、袋に詰まった金子。
 冷ややかであった亭主の目が、今にも零れ落ちんばかりに剥き出しとなりました。
「し、ししししし士大夫様! こ、こんな……」
「これで亭内の者ものに振る舞ってくれ。出し惜しみなくな」
「う、承りましてございます!」
 全く、手慣れたものです。恐らくはあの金子で、亭のひと月分の売上は(まかな)えたことでありましょう。
 各席に酒が、酒肴が供されると、先程までとは比べものにならぬ喧噪が亭内に充ち満ちるのでした。
「お歴々。暫し、世龍殿をお借りしてよろしいかな」
 世龍殿の卓を殊更にもてなすように、と手配した上での申し出です。十八騎の面々も満面の笑みで、とまではゆかぬものの、とは言え断る口実も見出せぬようでした。
 亭を出て、庭先に(しつら)えられた長いすに元海様と世龍殿が並び腰掛けられ、孤人はお二方に近侍(きんじ)
 上弦の月が良く冴えた、風の心地良き宵の口にございましたね。
「友に恵まれているようだな」
 主から差し出された徳利ともなれば、しりぞけるわけにも参りませんでしたでしょう。とは申せど、お受けになった世龍殿の振る舞い、その堂々たること、覚えず孤人は唸ってしまったものです。
「あいつらのお陰で、生かされています」
 元海様は頷くと、徳利を傍らに置かれました。
「間もなく、君たちを血河に投げ込まねばならん。その前に、君とは話しておきたかった。阿豹と元達は、何事につけても反りが合わん。にもかかわらず、君については見立てが合致した」
「ただの偶然でしょう」
「そうだな、偶然だ。だが古の人は、それをこう呼んだ。天の配剤、と」
 元海様が、手を掲げられました。
 向けたる先は天の北極、北辰(ほくしん)
「おれは、天なぞ信じませんよ」
 孤人の見立て違いでなければ、凍てついた世龍殿の振る舞いには、僅かながらの動揺があったよう思います。
「信じずとも良い、それでも、天は我らが頭上にある」
 北斗の七星を辿り、紫微(しび)の垣根を周し。内に潜りては先に勾陳(こうちん)、次いで北極(ほっきょく)の星官へ。
「私には親しい史官がいてな。かれから教わったことがある。天文に依れば、遥か殷周(いんしゅう)の昔、北極に鎮座する帝星(ていせい)は、今よりも北辰に寄っていたのだそうだ。しかるに千載(せんざい)の果て、いま帝星は徐々に北辰より離れつつある」
 まさか、と思いました。
 その話は、孤人も聞かぬではありません。しかしながら、それを認めるは、帝の崇尊(すうそん)なるに(きず)をつけるがごときもの。故に、公的な記録として残る事はありません。
「かれは、更に言うのだ。同じく千載もの先ともなれば、北辰には、勾陳の星官にて最も輝く、正妃の星が据えられよう、とな。にわかに信じがたい話ではあったが、かれは嘘をつくような人柄でもなく、また、常日頃の建言も当を得ていた。ならば疑義を差し挟む余地もない。可笑しくなったよ。天ですら、変ぜざるを得ぬものであったのだ」
 今でも、覚えております。
 元海様の言に、世龍殿は、まさしく刮目(かつもく)されておりましたね。お二方が同じく天の子であらせられたからこそ、通じ合われたのでしょう。
 元海様に導かれた、と言うわけでもありませんでしたでしょう。しばし元海様を見据えられた後、天を仰がれ。
「天――」
 そう、世龍殿は仰せになりました。
「世龍殿。きみは、天に正しく怒っているのだろう」
 元海様のお言葉は、孤人にはまるで解し得ぬものでした。ならば、この非才に許されるのは、元海様の言が、深奥を示されているのであろう、と推測するのみ。
「また怒りに等しく、正しく(おそ)れてもいる。然りなのだ。天は甚大である。なれど無尽(むじん)ではない。我々は人として人を統べ、天に抗うのだ」
 天に向く元海様の手が、握り拳を作りました。それはあたかも、北辰を握りつぶされるかのような。
 天に、抗う。
 斯様なことが果たし得るのか。孤人には皆目見当がつきません。
 あの折、世龍殿は、どのようにお感じになられましたでしょうか。この節穴では、察すること能いませんでした。

 お二方に、しばし、言葉はありませんでしたね。
 やがて亭内より、世龍殿が呼ばれ。跳ねるように世龍殿が、元海様をご覧になられました。
 元海様が、頷かれます。
「構わぬ。良き時を過ごさせてもらった、世龍殿。明日からは互いに慌ただしくもなろう。君の奮武、楽しみにしている」
「――粉骨砕身の働きにて」
 幾分の惑いも交えた拱手の後、後顧を示されながらも世龍殿が場を辞され。元海様はふ、と微笑まれると、徳利に手を掛けられるのでした。
 すかさず、孤人はそれを取り上げます。
呂平陽(りょへいよう)酒精(しゅせい)は、病魔を養います」
 元海様が孤人を見られました。寸刻の驚きが、力なき微笑みに変わります。
「何を、まさか。私は、至って壮健だ」
「|()|()|()の話をしております」
 漢王劉元海は、天下に覇たるを示す、まさにその歩みを進めたところ。王の気宇(きう)は四海を多い、万民黎庶に安寧をもたらすための戦いをなす。病魔になど冒されるはずがない。冒されるはずがないのです。
 故に孤人は、飽くまで目の前の方に向け、(かん)じました。その身人臣(じんしん)に過ぎぬのであれば、病魔に冒されるも、やむを得ぬ仕儀(しぎ)と申せましょう。
 元海様は、それでも抗弁を志されたのでしょう。孤人の顔を見、しかし、ややあって嘆ぜられました。
「いつから、気付いていた?」
「疑いはひと月ほど前より。平陽令に万一があれば、臣下は行く先を見失います。故に懼れながら、内密にて探らさせて頂きました」
「そうか」
 再び、元海様が天を仰がれました。
「ならば元達、教えてくれ。この天への怒り、果たして、届きはするのかな」
 元海様が洩らされた、その呟きに。
 余人(よじん)なくば、孤人は投地(とうち)叩頭(こうとう)し、大いに悲嘆の声を上げたことでありましょう。



 射兵に給する矢の中に、赤い布を巻き付けたものを数本ずつ交える。
「合図に応じ、この矢を一斉に放つ。こいつが鮮卑どもの調略を物語るしるしだ。既に噂は行き渡らせてる。あとは、然るべき機に弾くだけだ」
 そう言い残し、王弥は鮮卑らの元に向かいました。
 鄴の町の前に精甲鋭矛(せいこうえいぼう)を煌めかすは、かの王弥をして「化け物」と言わしめた驍将、祁弘の率いる軍。眺望の利く高台より孤人は戦を見届けておりましたが、生き物のごとくうねる劉聡様、破城槌のごとき衝撃を呈する劉曜様の両軍を絡め取り、いなし、はじき返す。軍容でありながらにして、まさしく砦、と呼ぶべきでありました。
 崩れかけたお二方の軍の隊列に、世龍殿の手勢が遊軍として補修に回られていたのを、幾度か認めました。遠方より推移を見届けられた孤人であれば、補うべきがいずこであるかは分からぬでもありません。なれど世龍殿は、怒号溢れる戦地のただ中にてその離れ業をなされていた。鷹の目でも持ち合わせずば、あの様に潮流を読むは叶いますまい。

「玄明、永明。お前らの戦積を聞いた。なるほど、元海が推すだけのことはある。だが、分かっているだろう。それでも、祁弘には足らん」
 世に覇を唱える漢王の世子を前にしてすら、王弥の振る舞いは常通り。かの宴席にて王弥を受け容れた劉曜様はまだ良いでしょう。劉聡様は、王弥のこの直言に対し、やはりと申しましょうか、噛みついてくるのです。
都督(ととく)の仰ること、もっともでありましょう。ならば我らをあたら犬死にさせよう、と言う腹づもりでいらっしゃるのか。公算なき令にはこの玄明、従う気はございませんぞ」
「死ねって言ってんだ。だがな、犬死にさせる気はねえぞ。お前らの後ろに勒をつける。こいつさえいりゃ、お前らが多少押されようともそうは崩れねえ。日にちを稼げ。その間に、俺が鮮卑どもを墜としてやる」
 お二方の目が、世龍殿に向く。
 この時が、お二方と世龍殿の初の顔合わせでありましたね。そう年かさの変わらぬお三方、とは言え陣の最奥に侍る将としては、どなたも、余りにお若かった。
「コイツには、戦ってもんをとことん叩っこんである。特に乱戦死戦はお手のもんだ。頼りにしていいぜ」
 にやりと、王弥が告げました。
 この言い回しでは、却って反発を招くようなもの。あからさまに鼻白む劉聡様と、面白い、とばかりに笑う劉曜様と。

 戦の初日は、これで世龍殿が両皇子に試されるが決まったようなものです。
 遠目から見ても、敢えて過酷な場に世龍殿が駆り出されるのが分かりました。
 そのお二方が、初日を終え、世龍殿を受け容れておられた。
 共に本物の名将である、と言うことなのでしょう。祁弘という高く立ちはだかる壁に対しては、強き味方は幾ら居ても良い。打ち解ける、のとは違いましたが、二日目以降の陣立てをすり合わせるに当たり、お二方が世龍殿と同じ目線にて戦場を語っておられたよう感ぜられました。
「三軍で最も柔軟に動けるのは、やはり世龍、貴様だ。王弥の見立て通りに動くは癪だが、四の五のも言っておれん」
 劉聡様が地図に目を走らせます。初日の衝突は、ほぼ五分と五分。なにせ漢軍は、何の小細工も無しで鄴に進攻しました。祁弘が罠を疑い、様子見の用兵となったのもやむを得ぬ事なのでしょう。とは申せど孤人にしてみれば、初日のぶつかり合いにして、既に気が遠くならんか、と言う激しさではありましたが。
「世子、滅晋(めっしん)。明日も祁弘は大きく動くまい。いかに奴を本陣に釘付けに出来るかが、この戦の成否を分ける。迂闊(うかつ)に戦を動かし過ぎれば、奴を引っ張り出すことになる。ひとたび奴が動けば、大いに血嵐(けつらん)が吹き荒れよう」
 滅晋、と呼ばれた劉曜様が舌打ちをなさいました。
「下らん。奴がのこのこ出てくれば、この矢で射殺してやるに」
 劉曜様が(もてあそ)ぶは、劉曜様のために仕立てられた、ひときわ大きな矢。
 漢将随一の剛力と、精妙なる弓矢の腕前を兼ね備える劉曜様は、それまでにも最前線にて多くの晋将を射殺す武勲を上げておりました。とは申せど立場は飽くまで養子。世子たる兄の劉聡様は漢の軍中に於いても車騎(しゃき)大将軍、漢の旧制に倣った高位に就いておりましたが、嫡流(ちゃくりゅう)にない劉曜様には、旧制に基づいた官位を与えること叶いませんでした。
 代わりに、元海様が劉曜様のために新設された将軍号。それが滅晋大将軍でした。烈武を讃えるのみならず、司馬氏そのものを誅滅するに足るほどの武。それが劉曜様に対する、元海様の見立てであった、と申せましょう。
「滅晋の武に疑義の余地はない。ならばこそ、やがて訪れる転機のため、いまは大いに弦を引き絞って頂きたい」
 世龍殿にしてみれば、劉曜様の言には大いに障りもありましたことでしょう。しかし険も、(かん)もおくびに出さず奏じておられた。内心はともあれ、見事な振る舞いだ、と、お三方のやり取りを伺いながら思っておりました。

 膠着せる戦局が、それから数日。やがて祁弘が遂に動くと、戦の様相が瞬く間に塗り替えられていくのが解りました。
 鮮卑らを従える祁弘であれば、その本分はやはり攻め手にありましょう。それまでに示していた受けの手際も恐るべきものでありましたが、いざ動かば、たちまち大いに二軍を押し込んでいくのが解りました。これが驍将の采配、孤人は世龍殿ほど深く軍略に通じる訳ではありませんが、戦の目に見えて動くを見るにつけ、戦慄を禁じ得ませんでした。
「お、王弥のからの報せはまだか!」
 監軍幕(かんぐんまく)詰めの文官が、狼狽した声を上げます。
 本陣から少々後ろに設えられた監軍幕では戦況の集積、輜重(しちょう)の管理、離石よりの伝達の預かりなどを行っておりました。武士がおらぬでもありませんが、詰めるはほぼ戦の心得無き文官たち。祁弘が本陣を食い破れば、たちまち抗う術もなく蹂躙されてしまいます。孤人とて戦死や虜囚(りょしゅう)の辱めへの恐れは少なからず抱いておりました。なれど、表に出してはならぬ。恐れは瞬く間に伝播(でんぱ)し、人から思考を奪い去ります。
 彼の者に叱責を加えようとした、その時でした。
「漢兵らの背を支える者が先に揺らいでいかする!」
 裂帛(れっぱく)の一声が、幕中に刺さりました。
「王が文武を分け配したは、武には武の、文には文の任を全うせよ、とのお心である! 我らの揺らぎが、いま戦う車騎や滅晋の根底を揺るがせにし兼ねぬと知れ!」
 見れば、先の声を上げた文官の前に、長身(ちょうしん)痩躯(そうく)の青年が立っておりました。その両手には竹簡を抱えたまま。声を上げた側よりそれぞれの竹簡に目を通しては決裁をなし、各方面に引き渡しておりました。
 気にて場を圧せども、その手は止まらず。――お恥ずかしながら、いま思い出しました。あの青年は張賓殿、貴方さまでございましたね。
「そこまで」
 両名の間に、孤人が分け入ります。
怯懦(きょうだ)も然り、憤怒(ふんど)も然りだ。激情も、時には良い。なれど我らは何のために此処に在る。情ではなく、智を費やす為であろう」
 地に転がるいくつかの竹簡を拾い上げ、目を通します。内容を踏まえ、然るべき人物にそれぞれを渡す。監軍幕に余剰(よじょう)の者など一人としておりません。一人の智が止まれば、監軍幕の、ひいては漢軍の思考が、止まる。
 孤人は張賓殿の肩を、そして張賓殿に圧され尻込みしていた文官の肩を、それぞれに叩きました。示したは、あくまで笑顔。監軍たる孤人が揺らいでは始まりません。
 とはいえ戦況は、時を追うごとに劣勢となって参ります。
 さては王弥が失敗したのか。
 成功はしたが、予想外に手間取ったのか。
 どう表向きに述べてみようとも、不安がよぎるのは致し方のない事でありました。張賓殿の強きには憧れも覚えたものです。
 息せき切った報せが孤人らの元に届いたは、まさに斯様な折でした。
「北方に紅白の狼煙あり! 繰り返す、北方に紅白の狼煙あり!」
 紅白の狼煙。それは、王弥の到着を知らせるもの。
 監軍幕より外に出れば、狼煙の向こう、軍勢の進む砂埃が上がるのが見て取れました。
「王弥……!」
 覚えず、握り拳を固めておりました。
 戦場の怒号行き交う中、世龍殿はどのように叫ばれたのでしょうか。
 一斉に赤き矢が投げ掛けられると、再び戦場がうねったのがわかりました。

 趨勢を決定づけたのは、王弥軍が姿を現したこと。
 いくつもの旗が翻っておりました。王弥の王、宇文部の宇、段部の段。
 しかし、最も目を引いたのは、いま一つの「王」の旗でした。



「よもや斯様(かよう)な形にて、幽州に見えようとは。戦の景色、その模糊(もこ)たるを実感しております」
「済まぬな、阿弘(あこう)。これも乱世の習いよ」
 鄴都宮城、謁見(えっけん)の間にて向かい合うは祁弘と、王浚。
 片や総身を桎梏(しっこく)にて(いまし)められ、片や甲冑を身に纏い、対手(たいしゅ)を見下ろす。
 王弥の調略が鮮卑らのみならず、王浚にまで向けられていた。目を疑いました。
 居てはならぬ筈の男が居る。
 また同じ王姓と申せど、王弥と王浚に係累(けいるい)はありません。いかなる折衝がなされたのか、後に王弥に問えど、王弥は薄く笑うばかりでした。
 王浚は(きびす)を返すと、壇上に立つ劉聡様に向け、優美なる一礼を呈しました。
「漢王世子、劉車騎。愚臣投身の受諾に、欣喜(きんき)と恐縮とを負いつつ、謝辞(しゃじ)言上(ごんじょう)致す。自ら衰亡の途を辿る晋へ、旧臣のせめてもの礼として、(まつご)(けん)ずべく専心して参る」
 仰々しくも、決して礼に適った言い回しでは、ない。頭は垂れつつも、内心で劉聡様、ひいては漢朝を軽んずるが在り在りと見て取れました。
「大儀である。朝敵を誅し、天下に漢の在るを、卿の戈矛(かぼう)を以て(せん)ぜよ」
 王浚の底意に気付かぬ劉聡様ではありませんでしたでしょう。なれど、振る舞いによっては幽州より馳せ参じた鮮卑兵らが牙を剥く事も有り得ます。返答は、飽くまで穏当なものとならざるを得ませんでした。
 祁弘の隣、同じく桎梏に縛められた小男が、咬まされた猿轡(さるぐつわ)の奥にて、何事かを(わめ)きます。
 小男は、騰司でした。
 王弥らの出現により、大いに揺らいだ祁弘軍。漢の三軍は機を逃さず晋軍を割り、見事祁弘を捕らえた。お三方の手腕に、改めて驚嘆致しました。
 主将が落ちたとは申せど、鄴の常駐には、未だ少なからぬ士卒がおりました。しかし祁弘の敗北を聞くや、騰司は配下を捨て、単身逃亡を試みた。無論、世龍殿がそれを見逃すはずもございませんでしたね。
 大将が見せた無様な振る舞いに、戦意を喪ったのでしょう。鄴城の門は、戦い無しで開かれました。攻城戦の備えが全て不要となったは、僥倖(ぎょうこう)であった、と申せましょう。何せ鄴城の堅牢たること、決して長安にも、洛陽にも引けを取りません。仮に抵抗あらば、いかほどの時と犠牲が必要となった事でしょう。
 縛められながらも泰然と坐す祁弘、士卒に押さえつけられ、口を塞がれながらも藻掻く騰司。どちらが主で、どちらが属なのか。解ったものではありません。
「晋の猿は喧しいな。早々に煮るか」
 劉聡様の、薄刃のごときひと言。騰司が強ばり、うなだれます。
 謁見の間、上座に立つは劉聡様。都督として全軍を統べた王弥ではありましたが、論功の場においては「面倒くせえ、お前がやれ」と、飽くまで劉聡様の右に立ちました。そして劉聡様の左には、孤人。
 王浚は拱手の後、群臣の列に加わりました。
 鄴が降伏したといえど、城内にはいかなる火種が残るとも知れません。謁見の間に集うは、ほぼ文官ばかり。主だった将兵は、世龍様にも携わって頂きましたとおり、鄴城内の検分、場外の警護に当たって頂いておりました。
「さて、両名の処遇、いかしたものかな」
 劉聡様は群臣を見渡されました。
 騰司に関しては、論ずるにも値しませんでした。長く漢を煩わせた怨敵でありつつも、いざ刃を合わせれば、およそ将にそぐわぬ振る舞いを呈した。抱え込むに、およそ意義を感じません。
 問題は、祁弘でした。猛将として大いに漢を脅かしては参りましたが、将兵らよりの信が(あつ)く、その武を取り込むが叶わば、漢軍は更なる高みへと辿り着きましょう。
 なれど、漢軍は多くの輩を、他ならぬ祁弘によって葬られております。その一身に浴びたる憎悪は、果たして武功に釣り合いますものやら。議論は、紛糾の装いを呈しつつありました。
 と、謁見の間の扉が不意に開け放たれました。
「なんだ、まだちんたら戯れてたのか」
 姿を見せるは、白髪に灼眼の偉丈夫。
 劉曜様です。
 甲冑に、筒袖(とうしゅう)に、見るも新しき血糊をつけたまま。その後ろには幾人もの士卒らを率いておりました。
 室内が、賊もかくや、と言う劉曜様の闖入(ちんにゅう)にざわめきました。
「永明、場を(わきま)えよ」
「弁える? それは俺の台詞だ、兄上」
 劉曜様が合図を出すと、その後ろより飛び出す壮士が、二人。
 彼らは、迷わずに騰司と、祁弘を斬り捨てました。
 噴き出す血に、床が濡れる。
 集う者らの悲鳴が上がりました。
 だん、と劉聡様が強く踏み出されます。
「永明! 血迷ったか!」
 過日、孤人を前に気色ばんだ劉曜様を、劉聡様が怒気にて圧せしめた事がありました。かの折の劉聡様は、往時とは比べものにならぬほどの圧を以て、劉曜様を指弾なされた。
 なれど劉聡様の将器が育まれておるのならば、劉曜様もまた将器を育んでおります。劉聡様の怒気を前に、劉曜様が引くことはありませんでした。
「それもこちらの台詞だ、兄上! いまだ各地に晋賊が跋扈(ばっこ)する中、いつまで落とした城、倒した敵に(かかずら)っておられる! 我らに課せられたは、より速やかに、より多くを殺し、晋を滅ぼすことではなかったか! ならば次を見据え、後顧の憂いを断つをこそが上策であろう!」
「――後顧だと? 貴様、まさか」
 謁見の間の隣には、屋上に通ずる階段がございました。高所より、鄴の町並みを一望することが叶います。
 劉聡様の後を追い、孤人を含めた何人かが屋上に向かいました。途中から、様々な物の焼け焦げた匂いが、鼻を()くようになります。
 外に出れば、立ち尽くす劉聡様と、その向こう、至る所より立ち上る黒煙が認められました。
「やってくれたな、永明……!」
 この日鄴では、万に上る殺戮がなされたと、後に報告を得ております。

 間もなく離石より、劉聡様、劉曜様、孤人は召喚を受けました。
 王浚は慕容に備えるべく幽州へ帰還。
 王弥と世龍殿は鄴に駐屯でしたね。
 ここに、張賓殿も携わっておられたのですか。
 では、劉曜様のなした行いが、お二方を結び付けた、と言う訳なのですね。人と人との繋がりは、何とも奇なるものです。
「永明。改めて問おう、何故鄴にて無法を働いた」
 縛られこそせぬものの、武装は全て解かれ、玉座の正面にて土下座の体でいる劉曜様。
 報せを聞き、元海様は大怒なされた、とのことではありました。なれど孤人らが到着した折には、恐らく怒り疲れてしまったのでしょう。悄然(しょうぜん)たる面持ちであらせられました。
「懼れながらこの永明、無法とは思っておりませぬ」
「ほう?」
 床に額をつけたまま、劉曜様が隣に立つ孤人に目配せをなさりました。訴え出たい、とのことでしょう。劉曜様に代わり、孤人が元海様に目線を配しました。
 元海様が、大きく嘆ぜられます。
奏上(そうじょう)を許そう。(おもて)を上げよ」
「は」
 顔を上げ、居住まいを正し。劉曜様は、大きく息を吸われました。
漢楚(かんそ)争乱の折、我らが太祖高帝は、はじめ項籍(こうせき)よりの敗績(はいせき)(こうむ)ること甚だしく、鴻門(こうもん)に至りてはその命数(みょうすう)(すべから)く項籍の掌上(しょうじょう)に在ったと申せましょう。彼の地にて項籍が高帝を(しい)さずに置いたが故に、籍は垓下(がいか)にて楚歌(そか)を耳しております。高皇の(わざわい)()ぐるも、大いに勝するも、共に我等には(よみ)すべき事。なればこそ我等は、籍の轍をこそ踏まぬが求められましょう。鄴都陥落せりと申せど、大漢を周する賊が尽きたわけではありませぬ。寧ろ鄴を得たことにより青兗豫徐各州の賊の姦寇(かんこう)を蒙る恐れを得た、とすら申せます。晋賊を打ち払うには洛陽、長安を落とさねばなりませぬが、二都を攻めるに当たり、我等は常に鄴に背を見せねばなりませぬ。守将を置けば良い、それも然りでありましょう。なれど晋賊の衆たるや雲霞(うんか)のごとし。数に劣る我等漢軍は、いかにして後顧の憂いを断ち得ましょう。賊軍の軍旅に糧秣(りょうまつ)の給しうるを妨ぐが上策と申せます。ともなれば、冀州はひととき荒土に帰すべきなのです」
 一切の(よど)みなく、朗々と、劉曜様は論ぜられました。
 なれど論は、語気を強め、更に続くのでした。
「敢えて頓首(とんしゅ)し、申し上げる! 王の覇業、甘い、と申し上げざるを得ぬ! 覇たるの徳行とは何程(なにほど)か! (せい)桓公(かんこう)は覇者でありながら、何故玉体(ぎょくたい)を朽ちさしめた! 徳行に(もと)(しん)嬴政(えいせい)は、何故皇帝の号を称し得た! 高皇の聖徳(しょうとく)(まった)きなれば、基より臣下に叛心(はんしん)の芽生える由はあろうか! 然るに(かん)(ほう)(えい)は何の故に誅さるるや! そも火徳(かとく)の至りたるが真なれば、王莽、曹丕の凶逆も起こりえぬ! 覇は(つね)に武と共にあり! 武、即ち殺! まつろわぬ晋賊に示すべきは徳ではない、殺である! 殺した先に徳を示されるのならば、それもまたよろしかろう!」
 気炎を吐く、とはまさにこの折の劉曜様にこそふさわしい言葉でありました。一通りを言い切られた後、再び額を床に打ち付けられます。
「――言いたいことは言えたか、永明」
「一句の残余もなく」
「そうか。ならば余からも申し渡そう。卿が殺したが皆晋の士卒であれば、それも止む無きことであろう。なれど、卿は刃もたぬ細民(さいみん)をも多く殺した。正しき主に巡り合えなかったことを、卿は罪と申すか?」
 劉曜様は、言葉を返しません。
 言葉が見出せなかった、のではありますまい。おそらく、互いの見据える先が余りにも違っているのだ、と、察せられたのです。
「滅晋は、卿には過ぎた刃であったようだ。平虜(へいりょ)将軍へと降号、三月の蟄居を言い渡す。覇業は殺すのみにあらず。民を救い、初めてなし得るものである。この言葉の意味、噛み締め置くように」
 宣ぜられると、元海様は立ち、謁見の間を辞されようとなさいました。
 そこへ、
「まつろわぬ民など、殺し尽せばよかろうに」
 斯く、劉曜様が、呟かれた。
 振り返る元海様の面持ちが、激憤に染まっていたのがわかりました。
 それが間を置かず、苦悶に変わる。

 ――元海様がお倒れになったことは、到底隠し得るものではありませんでした。
 慕容が、越司が。党をなしての逆撃により、瞬く間に、漢は未曽有の危地に陥った。呼延翼様をはじめとし、多くの将が命を落とされました。
 斯様な危地が、却って世龍殿の勇躍に利したとは――全く、あまりの皮肉に、もはや孤人も笑う以外の評を思いつきません。



 離石に次々ともたらされる、劉曜様の、世龍殿の戦勝報告。病床の元海様に代わり万騎を動かす劉聡様にとっても、お二方の働きはさぞ頼もしく映ったことでしょう。
「これならば、玄明に(とく)を譲っても障りはなさそうだな」
「何を仰いますやら。戦場を駆けられぬが口惜しい、とご尊顔(そんがん)には記されております」
 孤人は薬湯を煎じると、寝台に横たわる元海様に差し出します。
 謁見の間で倒れられてより、数日。なんとか喋るまでは回復されたものの、その僅かな日々にて、元海様の気精(きせい)はすっかり抜け落ちてしまっておりました。
遺詔(いしょう)の草案は、書き上がったか?」
「は、読み上げます」
 (かたわ)らの竹簡を開きます。
 ――途端竹簡が、文字が滲みました。
「これ、元達」元海様が苦笑なさりました。
「私はまだ壮健だ。君にも言っただろう、万が一に備えて、と。我ら武人には、いつ不慮の死があるとも知れぬのだ。此度の件で、身につまされた」
 袖にて目元の()を払った後、孤人は「全くです」と嘯きました。
「王が倒れられた、それだけで晋賊より甚大なる逆撃を受けたのです。これに懲りて、ご自愛下さいますよう。ましてや夜の町への行幸(ぎょうこう)などもっての外です」
「それは約束し切れんな」
「何としてでも、守って頂きます」
 改めて、竹簡に目を落とします。
 遺詔に曰く。晋賊蕩平(とうへい)がなされるまでは、国は戦時である。(ちん)の葬儀は薄葬(はくそう)を以てなし、必要以上の期日、費用を掛けぬようにせよ。任地にある将兵は任地を離れることを禁じる。また、我が(しゃく)を継ぐ王には、|聡を任じる。併せて|曜を韓公(かんこう)に、石勒を趙公(ちょうこう)に任じる。聡の双翼(そうよく)として、良くこれを助け、晋賊を打ち払い、天下臣民に安寧をもたらすようにせよ――云々。
 漢臣の中でも、世龍殿の躍進は著しいものであった、と申せましょう。并州刺史(しし)叙任(じょにん)も、この折でしたね。
 一通りを聞き遂げ、元海様は大儀そうに頷かれました。
 息をつくと、枕に頭を沈められます。
「これで、大きな荷を下ろせたかな」
「何の。朝廷には、王の印璽(いんじ)を待つ事案が日ごとに増えております」
「恐ろしいな。それを聞くだけで命数(みょうすう)が尽きてしまいそうだ」
 元海様が、孤人が笑いました。
 劉聡様は良く百官の助けも得られ、数多の政務をこなしておられました。元海様のお手を煩わせるほどのものは皆無、と呼んですら良かったほどです。
 孤人も少なからぬ政務に追われる日々を送ってはおりましたが、元海様直々のご要望と言うこともあり、しばしば傍らに侍るを許されておりました。
 とは申せど、それは漢臣の内、最も元海様の衰微(すいび)せるを目の当たりにせねばならぬ立場にあった、と言うことでもありましたが。

 そして、あの秋の昼下がり。
 夏を惜しむかのごとき日差しが柔らかな暖かみを残す、あの日。
「聞いたぞ、元達。また世龍殿が勝ったそうだな」
 斯様な報せは届いておりませんでした。
 いえ、無いわけではありません。
 ただし、届けうる、全ての報せは伝え切っていたはずでした。
 薬湯を取り落としそうになります。気を取り直し、何とか笑みを(つくろ)いました。
「誠に。世龍殿の威名、もはや天下に知らぬ者もおりますまい」
 うむ、と元海様は微笑まれました。しかし、その微笑みが、すぐさま曇る。
「私は、高帝のようにはなれなかったな」
「まさか。その偉業、高帝に勝るとも――」
「そうではない。私は、韓信(かんしん)を殺せなかった。殺したいと、思えなかったのだ」
 万感を込めたお言葉だったのでしょう。
 それが孤人の拝聴(はいちょう)叶った、最期のお言葉でした。


 ――さて。
 ここからは、ふたたび王、とお呼び致しましょう。

 韓信殿、とあなた様をお呼びするのは、さすがに(たわむ)れが過ぎるでしょうか。お許し下さい、一度、お呼びしてみたかったのです。
 王が崩ぜられると、間もなく王弥が、王浚が、乱を起こしましたね。両名は王にであれば北面(ほくめん)するのもやむなし、|先主に従う理由はなし、と考えていたのでしょうか。離石にあっては并州の両名に対する捷報(しょうほう)を聞き届けるのみでしたが、そう容易(たやす)き相手ではなかったであろう、とは想像がつきます。
 また時を同じくして、越司が病死した。
 まこと天の配剤とは、人の身にては読み切れぬにも程があります。越司の手腕に大いに頼っていた晋は、瞬く間に瓦解。漢を斯くも苦しめた険敵(けんてき)が、ああも易々と墜ちるとは。
 ともあれ後顧の憂いを除き、洛陽、更には長安を落とし、王の大願を果たされた先主は、満を持して帝位にお就き遊ばされた。
 公の爵位(しゃくい)にあった者のうち功績甚だしきは王へと進爵。なるほど、并州。あなた様は、確かに趙王にお就きになられた。
 なれど、ご寛恕下さい。主上が趙帝(ちょうてい)を名乗られた以上、孤人はあなた様を趙王とお呼びするは叶わぬのです。
 帝位に就いて間もなく(ほう)ぜられた先主。その後は長子、劉粲(りゅうさん)様がお継ぎになられた。
 しかし劉粲様、及び周辺の者らは、常より主上に怯えておりました。強く、苛烈なる主上が王弥王浚の(なら)いにはならぬと、どうして信じることができたでしょう。誅滅(ちゅうめつ)の動きになるのは仕方のない事だったのやもしれません。
 問題は、その手続きが余りにも稚拙(ちせつ)に過ぎた事でありましょう。動きを気取られると、却って主上に大義名分を握られ、郎党共々敗死。
 帝位に就くや、主上は国号を趙、と改められた。すでに趙王のあなた様がいらっしゃるにもかかわらず。誰が見ても、并州を排せん、と企図された振る舞いでありました。
 とは申せど、今にして思えば、むしろお二方が共にあったことの方が、稀なることであったのでしょう。龍と虎とが同じ場にありながら、争い合わずにおれたようなものです。
 止めようのない事でした。故に孤人は、何の手立ても講じることも叶わぬまま、お二方の懸隔(けんかく)の広まるを、ただ、見届けるより他ありませんでした。

 ――あぁ。
 思いがけず、長々と話し過ぎてしまったようです。

 近頃折に触れ、義父上が(せん)ぜられた「三國志」を読み返すことがあります。この書は、孤人には、義父上が抱かれた漢再興の願いに思えて仕方がないのです。
 司馬炎に献ずる書でありますから、魏を、晋を正当と記さねばならぬは避けようがありませんでしたでしょう。なれど昭烈帝の項にては、明確に「皇帝」と記しておられている。司馬炎も、よくもこの表現を許したものであります。
 三国志にては、漢の正統なる継承者が昭烈であった――と、控え目ではありながらも、斯く宣ぜられております。故にこそ孤人は、王に劉禅様の跡を継がれるよう説きました。
 魏は簒奪者(さんだつしゃ)、王莽のごとき()であり、いくら正当な手続きを踏んだからと言って、漢の祖霊が斯様な凶逆を許すはずがありません。まして、簒奪者から更に簒奪をなした晋の正統性など何程のものがありましょう。
 王の徳望、その不尽たるに、孤人は確信いたしました。黄巾の跋扈より揺らぎ、またひとときは潰えまでした漢の威信(いしん)は、王の践祚(せんそ)を以て蘇るのだ、と。
 なれど、蓋を開けてみれば、どうでしょう。
 王が崩ぜられて後、国内は乱れ、あまつさえ漢の名をすら失うありさま。それもこれも、孤人が王に漢を襲わしめんと奏ぜねば起こり得なかったことでしょう。
 悔恨の念は、今も我が身を苛んでおります――敢えて、断じましょう。孤人こそが、漢を殺すに至ったのです。

 并州。
 孤人に天の意は伺えず、ただ人の意がいま、主上と并州のお二方に集っていることがわかるのみ。お二方の雄才が、天下をいかに導くのか。不遜(ふそん)な物言いではございますが、その行き着く先が楽しみでなりません。
 社稷の(けが)れは、孤人が請け負いましょう。并州におかれましては、天を懼れず、ご雄飛下さいますよう。

 孤人の()れ言に最後までお付き合い下さり、感謝、深甚(しんじん)()えません。
 并州の武運長久たるを、お祈り申し上げます。


 ○


下官張賓、貞賢を具す


 孔萇(こうちょう)殿。
 貴公が武にて、下官が文にて趙王を支えるようになり、十余年。気付けば、貴公との縁も随分と浅からぬものとなった。
 同じ主を(いただ)きつつも、貴公とは決して馬が合ったとは言えぬ。だが共に誓った、僣主(せんしゅ)劉曜打倒の日が迫れば、狭隘(きょうあい)なるこの器に押し寄せる思いとて、決して少なからぬものがある。
 なので、孔萇殿。
 下官(かかん)の独り言に、どうかひととき、付き合っては下さるまいか。

 以前王に連れられ、陳廷尉の(いおり)に伺ったことがある。そう、漢の光文帝(こうぶんてい)、劉淵様を陰に日向にお支えになった、あの御方だ。
 その日王と下官は、廷尉より光文にまつわる、短からぬ物語を頂戴した。
 話を終え、下官らが席を辞した、その夜。廷尉は毒を仰ぎ、身罷(みまか)られた。遺書に曰く、「人臣たるの為すを全うせり」とのことであった。
 廷尉は私財を貯め込まれることもなく、残されたのは室内にあった数万余語の言葉のみ。しかも、それらの引き渡し先に、下官をご指定なされた。
 下官と廷尉には、あの日以外では面識らしき面識もない。碌々その意も汲めず、さりとて崇敬すべき先人のお気持ちを無碍(むげ)にするわけにも行かぬ。車に山積さる竹簡を引き取り、幾つかを(ひもと)き、ああ、と嘆ぜずにはおれなかった。
 光文と、その扶翼たる廷尉。両名の言にしばしば現れたは「万民の安寧」であった。それを裏付けるかのごとく、竹簡には、いかにして万民を寧撫(ねいぶ)しうるか、その思索に満ちていた。
 廷尉は、劉曜の属であるを貫かれつつも、民を、王に託されたのだ。また王の腕として、下官をお認め下さった。不遜を憚らずに申さば、廷尉の思いは、光文の思いともほぼ一であったのだろう。身の引き締まる思いであった。
 もっとも、責務の重き故に、貴公とは少なからずぶつかり合ってしまったな。下官の如才(にょさい)の故に、貴公に少なからぬ不快をもたらしたるは、誠に申し訳なく思う。

 廷尉は、光文の物語を語られるに際し、ご自身の苦境に対しては全く触れられなかった。有り得ぬ事である。簒奪の逆を為した劉曜に対しても忠実に仕えられた廷尉であったが、劉曜の振る舞いたるや、忠に仇にて返した、と言えるものであった。
 献策、諫言の議を為せば、たちまち劉曜は怒り、廷尉を獄に繋いだ。左右の必死の献言(けんげん)にて意を改めた劉曜は廷尉を獄より放つと自らの不足を謝罪したが、時が下れば、また廷尉の奏上に怒り、獄に繋ぐ。
 やがて徐々に玉座より遠ざけられ、臣らと会った頃には、もはや蟄居にも近しい有様であった。
 周辺も、劉曜の怒りを懼れ、廷尉に近寄らぬようになっていた。その心中たるやいかばかりであっただろうか。にも拘らず、廷尉は仰った。「暇が出来たのだ、ならばこそ、やれることもあろうと言うものよ」と。そして王に竹簡の山をお見せになった。
 あの尽きせぬ壮志、頭が下がるばかりであった。

 廷尉のお言葉が、いま、ただならぬ重みを以て下官に問うてくる。天とは何か、王とは、民とは、と。
 廷尉の話を伺ってより、王の言葉には天、と言う言葉がよく出てくるようになった。ただそれは、無心に畏敬するのとは趣が異なっているよう思う。大いなる物として見、しかして時に怒り、時に挑まんとされるかのようである。
 遙かな昔、三皇五帝は血統を己が正嫡(せいちゃく)たるの証とはなさず、その徳望をこそ証となした。ならば王が光文、昭武(しょうぶ)を継ぐも、有り得ぬ事ではない。
 一方で、劉氏の漢朝が百載を統べたのもまた事実である。
 何故(なにゆえ)に天は、王と劉曜とを並べ立たせたのであろうか。徳望を大いに損なってこそあれ、劉曜の率いる士卒は多く、また強い。下官も貴公も、なせることは全てなした。それで、ようやく五分に届くか、である。あとは王の器が、全てを物語るのであろう。

 詰まらぬ話をした。
 何を胸に抱こうとも、我らが勝てば良いのだ。
 王の剣として、共に、朝敵を討ち果たそうぞ。


 ○


 石勒は曰く。

「劉曜が兵を成皋關(せいこうかん)()らば、上計なり。
 洛水(らくすい)(はば)むるは、其の次なり。
 洛陽に()し守らば、(とら)うるを()らん。」

 諸軍の成皋に集まるに、
 歩卒(ほそつ)六萬、騎二萬七千。

 勒は曜の守軍(しゅぐん)無きを見、
 大いに(よろこ)び、手を()げ天を指せり。
 又た自らの額を指して曰く。

「天なり!」



  ――資治通鑑(しじつがん) 巻九十四 晋十六より

漢を襲う 登場人物&勢力図

漢を襲う 登場人物&勢力図



 劉淵  匈奴。字は元海。本作の主人公。
 陳元達 匈奴。劉淵の側近。本作の語り手。
 石勒  羯。字は世龍。
 張賓  漢人。石勒の参謀。
 劉聡  匈奴。字は玄明。劉淵の息子。
 劉曜  匈奴。字は永明。劉淵の族子。
 王弥  漢族。字は敬則。劉淵の学友。
 曹嶷  王弥の司馬(軍務副官)。
 張嵩  王弥の長史(諸務取締役)。
 呼延翼 匈奴。劉淵に娘を嫁がせた。


 司馬昭 魏国の権臣。三國志の英雄司馬懿の子。
 司馬炎 晋国初代皇帝。司馬昭の子。
 司馬衷 晋国二代目皇帝。司馬炎の子。
 司馬熾 晋国三代目皇帝。司馬衷の弟。
 倫司  司馬倫。八王の乱を起こした人物。
 孫秀  倫司の侍従。
 越司  司馬越。八王の乱を勝ち抜いた人物。
 睿司  司馬睿。越司の属。のちの東晋元帝。
 王導  越司の属。のち睿司と共に江南入り。
 騰司  司馬騰。越司の弟。東北地方にて勢力を築く。
 王浚  騰司の属。
 祁弘  王浚の属。際立った驍将。
 摸司  司馬摸。越司の弟。長安にて氐羌と誼を通じる。
 劉琨  後漢皇族にして晋の将。拓跋と結ぶ。

その他
 陳寿  漢人。陳元達の義父。三國志を編纂した。
 劉禅  漢人。三國志の英雄劉備の息子。
 慕容廆 鮮卑慕容部の大人。



勢力図
                          1     /  __
                               /  /  |
    (塞外)              ________/平 |  |
                     /    幽   ・・・|  _|
                  2  |     3    _/ / _
                   _/       ___/   |_/
              ____/・・・・・・・・|      
             /     ・       |      ___
\            |     ・        \_____/  |
4|           |5    ・    6   ・ 7      /
涼|           |  并  ・・・・・冀  ・ ・  青__/
 |           |・    ・    ・・・  ・・・ /
 \          / ・   ・  兗   ・  ・   |
  \________/  ・・・・・・     ・  ・    \
・・・`     雍    ・  司  ・   ・・豫  ・ 徐  \
  ・     8    ・  9   ・・・     ・     \
   ・・・・・・・・・・    ・・・        ・      \
   ・   ・  ・     ・   ・・    ・・・・・・・・・・|
 秦 ・ 梁 ・   ・・・・・  荊  ・   ・    楊     |
・・・10    ・             ・・・・     11    |
         ・・・             ・          |

1 鮮卑慕容氏  2 鮮卑拓跋氏&劉琨  3 鮮卑段・宇文&烏丸&王浚
4 前涼(張軌)  5 漢(劉淵)  6 鄴(騰司&祇弘)
7 青洲賊(王弥) 8 長安(氐羌&摸司)  9 洛陽(司馬熾&越司)
10 成(李特)  11 建業(睿司&王導)

漢を襲う

漢を襲う

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
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