ミナミナミナミナミ!

ユキノシタ・ユキワリ

ミナミナミナミナミ!
  1. プロローグ
  2. 1 何も変わらない朝
  3. 2 チャイムと憂鬱な出勤
  4. 3 悪友とアイキ
  5. 4 誰も知らない私の悩み
  6. 5 嵐
  7. 6 ナミハルカという女の子
  8. 7 嵐の去った後
  9. 8 ナミの事情と妹たち
  10. 9 アイキの想い
  11. 10 ニチニチ暴走する
  12. 11 それぞれが思うこと
  13. 12 アルバイト!
  14. 13 出来ることをやろう
  15. 14 ミナトの深い失望
  16. 15 祭典劇が始まる
  17. 16 変態怪盗現る
  18. 17 夜が波立っていく
  19. 18 本当に望むもの
  20. 19 波立つ夜の顛末
  21. 20 どうしてそうなるの!

一大貿易都市ユカシカオリ市に住む少女、ミナワ・ミナトは一見完璧に見えながらも、自分にはどうにもできない悩みのドツボにずっぽりとはまり込んで人知れずもがいていた。確執を抱えた妹が大爆発した翌日、ミナトの前におとぎ話のように美しい少女が現れる。彼女は自分を宝石だと名乗り、自分たちを狙う敵がいると明かす。無垢で無邪気な彼女を守る為ミナトは否応なくも大冒険の波乱に巻き込まれていく…。そんなこと知ってか知らずか家族は勝手に行動し、周りを取り巻く人たちも好き勝手に生きている。果たしてミナトは自分自身を取り戻すことが出来るのか?天然ヘタレ少年との恋の行方はどうなってしまうのか?ミナトの波乱に満ちた日々が始まる…。

プロローグ

 窓の外では雪が降っている。凍えるばかりの北国の冬だ。降りしきる雪の向こうでは、銀に薄ら光る木立がこんもりと樹氷を付け高く伸びている。窓の外側には枠に沿って雪がたまり、内側の窓の水滴は冷気に凍り付いている。凍える月も分厚い雪雲でその姿を隠し、ただ風の音と何か獣の遠吠えが聞こえるだけだ。

部屋の中では時折薪のはぜる乾いた音だけが響く。誰も口を利かない。彼も言葉を発しないし、それに応えるものもいない。淡い光に照らされて、計器の類から伸びる影が不気味にちらちらと光る。プクリ、泡粒が弾けて小さな音を立てる。
 この部屋にはただ二人きり。彼と「彼女」。その「彼女」はガラス管の中、淡い燐光に包まれ、未だ生まれて来る前の眠りの中ににまどろんでいた。
 「彼女」こそが彼の愛した人と同じ存在。同じ顔、同じ肉体、同じ聖性を持つ、すなわち、「生まれ変わり」だ、と彼はそう信じるのだ。

 彼女は彼を愛してなどくれなかった。彼を素通りして別の男を選んだ。
 だが、このガラス管の中の「彼女」は、彼の物だった。生まれつき彼の物なのだ。そして、彼と、彼の生み出した大切な家族に、生き延びる未来を与えてくれる、希望の光なのだ。

「彼女」の表情はこの世の何者にも毒されず無垢そのものだった。いまだ自らに課せられた宿命の意図を、父なる者に挑もうとする、自らの父の意図を知らない。
 彼は愛しげに彼女を見つめる。だがその感情は人の常軌を逸したものだ。「狂気」、そう呼べるほどに。
 それ故、彼は神に憎まれる。それ故、彼は神を憎む。
 彼が愛することが出来るのは、神の創りたもうた被創造物ではない。彼が愛することが出来るのは、ただ、自らの創りだした被創造物、それのみなのだ。
 そしてそれを救う天使の翼・・・・・・。

 「聖女よ、」
 と彼はつぶやく。
 「我らに輝かしい未来と、新たな世紀を!」

1 何も変わらない朝

 鳥の声がする。海鳥の鳴き声だ。
 その日もミナトはこじんまりした部屋の、小さなベッドの上で目を覚ました。目を開くともう、朝日は部屋の奥のほうにまで差し込んでいる。
 朝型を自認するミナトの頭は、ほんの一瞬ではっきりとする。何の感慨も無く起き上がると、窓を大きく開け放つ。窓はすっかり海に面していた。素晴らしい眺めだ。まだほのぼの薄暗い海面では、沢山の漁船と、ぼやけはじめた漁火が、するすると滑るように漂っている。
 
だがミナトには、それらの景色の素晴らしさに感嘆している余裕は無い。ただ一息、爽やかな海風を胸に吸い込んだだけで、ミナトは窓枠から手を離す。清々しい朝だとかいい日になりそうだとかは思わない。すぐそこの椅子にかけてある、色のあせた普段着を着込み、清潔なエプロンをかけると、ミナトは振り返って部屋の入り口を見た。
 
それは、部屋の入り口と言って正しいかどうか疑わしいようなシロモノだった。壊れた洋服ダンスの扉をただはめ込んだだけの入り口。しかも、その扉がはまっているのも拾ってきたレンガをただ積み上げただけの壁だ。 そして、昨晩ミナトがいつもの通り引っ張ってきた重い洋服ダンスが、がっちりとドアをせき止めていた。

 それは、年頃の娘としての、首の皮一枚分の自意識の抵抗だった。
 
だが、ミナトはそのたんすを、全身の力を込めて動かす。これも日課となっているのだ。邪魔なたんすを動かして扉を開ける。向こう側はもう一つの部屋になっていた。簡素なベッドと机、小さなたんすが一組。そしてそのベッドには、ミナトと同じ年頃に見える少年が、実に幸せそうな顔で眠っていた。
 
ミナトは小さくため息をついた。彼は常に、ミナトより先に起きていたためしがない。
 それは世間一般から見ると、天使の様な寝顔と言ってさしつかえなかった。彼は本当に整った顔立ちをしていたし、眠ってはいても、穏やかな性格は伝わってくる。起きている時と変わりは無かった。

 しかしその事は、ミナトの心に苦く鋭く爪を立てる。それ故、ミナトはそのことを感じたり、考えないようにする。心に鎧をまとい、眉を吊り上げて彼の方をゆすぶる。
 「起きなさい、アイキ、朝だよ。」
 彼、ミナトの大家でもある、アイオイ・アイキは、うなり声を上げはするものの、全く起きる気配は無かった。これもいつもの事だ。

 ミナトは眉間にしわを寄せる。今度は肉に塩でもすりこむように、アイキの頬をぴしゃぴしゃたたく。かなり酷いことをしているのは分かる。だが、こうでもしないと彼は起きない。アイキは掛け布団を握り締め、顔を枕にうずめようとうなっていた。ミナトの眉がぴくりと上がり、がばり、と、掛け布団をはぐ。
 「起きなさい!朝よ、バイトに遅れる、今度はシーツを引っ張るから!」
 ここにきてようやく、アイキはその目を開けてミナトを見た。茶色い瞳がまだ夢の中にいるように、ミナトに視線を注ぐ。
その眼差しを見ると、ミナトは訳も無く苛々した。仏頂面でミナトは言う。
 「朝よ。」
 アイキは言った。
 「うん、分かってる。明るいし。」
 
ミナトはさっき開けたドアの反対側にある窓を、カーテンを開けて開け放つ。ぱっと、夏の朝の匂いがした。こちらの窓からは、長い長い石段が見える。この家、アイキのその祖父が建てた家に続くためだけの、石段だ。
 石段のずっと上の方には、水の国の首都、ユカシカオリの街並みが、朝靄にかすんでいた。他所から来た人は、皆びっくりするほど大きな都市だ。
ミナトはもう十年も、ここに住んでいるのだ。
今その大きな街はまだ、眠りに沈んだままだ。夜更かしの街っ子達はまだ、大半が夢の中に居る時間なのだ。だが、港町でもあるユカシカオリには朝早い人たちも当然居る。その一つが、貿易船と倉庫から積荷を動かす人々だった。
 「早くしないと遅れるよ。」
 ミナトはそう言ってアイキを急かした。アイキはベッドの上にぼうっと座って、空ろな目でこっくり肯いた。
 ミナトは、また寝なおしてしまうんじゃないかと内心危ぶんだが、さすがに同じ年頃の少年の着替えを見張るのはまずいことであるので、こう言い残して、部屋の隅にある梯子のような階段を下りた。

 「その寝巻き、洗うから下へ持ってきて。」
 アイキは眠そうに言った。
 「はあい。」

 梯子のような階段を降りると、両側に部屋のある、小さな踊り場に出る。そしてその下は普通の階段になっている。両側の部屋には、それぞれ、ミナトの母親と妹達が、まだ眠っているはずだった。だがミナトは彼女達をまだ起こさない。起こす時間ではないのだ。ミナトは黙って階段を下りる。

 一階の居間には、昨日の団欒の散らかりの後が目に付く。ミナトはとてもきれい好きの性質(たち)だった。長い髪をきりきりと一つに束ね、手早くそれを片してゆく。
 そうしているうちに、何とか着替えたらしいアイキが、まだとろんとした目で下へ降りてきた。どうやら寝直さずに済んだらしい。ひどい時には、またもう二三度、起こしに上がらないといけないのだ。

 まだ完全に、頭が目覚めていないアイキに、ミナトは水を入れたコップを手渡した。
 「今日は一度で済んだか、偉い偉い。」
 アイキはにへらっと、笑うと、黙って水をごくごく飲んだ。
 「じゃあ行って来るよ。」
 ミナトはその笑みを見ると、何故だか悲しくなった。それを声に出さないように、でも、あまり嬉しそうに見せないように、出きるだけ『普通』に、ミナトは言う。
 「じゃあ、行ってらっしゃい。気をつけて。寝ぼけて海に落っこちたり、積荷の下敷きにならないようにね。」
 だがその表情は、元々哀しげなミナトの顔を、更に哀しげに見せていた。
 アイキは一瞬何か口にしかけたが、また眠そうににっこり笑って、もう一度言った。
 「それじゃあ行って来るよ。」

 アイキが家を出て行くと、ミナトの顔は、益々哀しげになった。
 「どうしようもない。」
 ミナトは思う。
 だが、落ち込んだり、感傷に浸っている暇はミナトには無い。いや、作らない、それが正しい。
 アイキが置いていったくしゃくしゃの寝巻きを、洗面所においていた洗濯籠にぽんと乗せると、玄関を後にした。まだ時間が早いので、しっかりと戸締りをする。
 
長い長い石段を登る。慣れているとはいえ、かなり煩わしい。うっすら汗をかいて登り終えると、ミナトは共同の洗濯場へと向かう。まだ朝早いので、いつもの通り誰も居ない。
 ミナトは夏場の洗濯は嫌いだった。確かに冬は水が冷たいし、手もかじかむ。しかし、夏場の洗濯物の多さと、頻度に比べれば、まだましだと思う。
 他の家では、洗濯は週に一度と決めているところも珍しくないが、ミナトは二日以上着た服、特に下着の類をまた着るということが出来なかった。それは、八歳まで育った環境が、因っているところらしい。
 
ミナトは手際良く、下着、タオル、夏服、テーブル掛けに至るまで洗い終えると、きりきりと良く絞って、それをまたかごに放り込み、足早に家へと戻った。

 それから、台所から水桶を担ぐと、さっきの共同の水場へと、また石段を上がる。そして重い桶を持って、」それを下る。それを何度も繰り返して、ようやく水がめがいっぱいになると、ミナトはため息をついて、肩や腰をぱんぱんと叩いた。汗をかいたので、水がめの水から、コップ二三杯の水を飲み干す。日はもうすっかり昇って、昼間勤めに出る人々が、そろそろ起きだす頃だった。
 
ミナトは二階に上がり、まず母親の部屋をノックした。思ったとおり、返事は無い。ミナトは言った。
 「お母さん、入るよ。」
 ミナトの母は、まだ布団の中に居た。反対側の窓の方を向き、こちらには、少し白いものの目立つ、黒い、編んだ髪の束が見える。
 ミナトはそっと近寄り、母親の胸が静かに上下しているのを確かめて、ほっと息をついた。

 それは、ミナトやアイキのものと同じく、簡素な部屋だった。壁紙もカーテンも、とうに色あせている。一つ違っているのは、ミナトの母親の部屋には、古びた鏡台があることだろうか。それはその昔、アイキの祖母が使っていたものだった。

 ミナトは生家にあった、母親の白い鏡台を思い出す。母はその前に座って、流れるような黒髪を梳いていた。ミナトはその髪に、随分憧れたものだった。
 
今目の前にある鏡台脇の、小さなサイドテーブルの上に、読みさしの本が置いてあった。それは瀟洒な詩集だった。どうも、ミナトの生家から持ってきたものらしい。
 「また起きてたんだ。」
 ミナトは若い頃のお姫様気分の抜けない母親に、溜息をついた。
 「灯り代がもったいない。」
  
ミナトは、母親がまだ寝ているのならば起こすつもりは無かった。いつものことなのだ。すぐに部屋を出て、妹達の部屋をノックする。
 「ナギサ、起きなさい、朝よ。」
 ついでにドアノブを回してみたが、鍵がかかっている。もう一度声をかけると、中から鍵を開ける音が聞こえ、美しいが、少し青い顔をした少女が顔を出した。
 
「おはよう、お姉ちゃん。」
 「ミサキ、あんたが起きちゃったの、ナギサはまだ寝てる?」
 ミサキは言った。
 「ええ、今日掃除でしょ、手伝おっか。」
 「じゃあ、洗濯物干してて、あと、大鍋にお湯を沸かしてもらえたら。」
 「分かった。じゃあ着替えるからちょっと待ってて」
 そう言いながら、ミサキはベッド脇にかけてあった普段着を手に取る。それは、もう三年ぐらい着ている、擦れた夏服だ。だがその事について、ミサキは何も言わない。毎日勤め先の商店に通うナギサと違って、ミサキはこの家を出て、街へと続く長い石段を登るということが、ほとんど無い。
 ミサキはこう言うのだ。
 「この石段を登っているとね、このままあたしの心臓が張り裂けて、止まっちゃうんじゃないかと思うのよ。」
 
「お姉ちゃん、いいよ。」
 ミサキはすぐに部屋を空けた。そしてそのまま下へと降りて行く。入れ替わりに入ったミナトはナギサを起こしにかかる。肩をつかんでゆすぶる。
 「ナギサ、起きて、今日は掃除の日よ。」
 うーん、と唸るナギサは、ミナトから顔を背けてこうつぶやく。
 「後五分だけ、後五分だけ。」
 ミナトは言った。
 「あんたが居ないと掃除が何時まで経っても終わらないじゃない。あたしが出勤できなくなっちゃうでしょ。」
 それでもまだ、ナギサのほうがアイキよりも寝起きはいいほうだ。やがて、意を決して、がばりっと、起き上がる。
 「あああ、もう朝か、夏ってどうして夜が早く終わっちゃうのかな、何か急かされているみたい。」
 「暗いうちから起きなきゃ無いほうが嫌じゃない。」
 「でも、」
 ナギサは言った。
 「何か損をしているみたい。」
 
ナギサが起きたのを確認すると、ミナトは下へと降りた。一階ではもう、ミサキがかまどに鍋を掛け、火を起こしていた。慣れた手つきで火種を乾いた松の葉に薪に移してゆく。
 
ミナトは言った。
 「皆どうしてそう夜起きていたいのかしら。灯り代がかかるし、朝やったほうが感傷が防げるのに。」
 ミサキは言った。
 「あたしも夜好きだよ。夜には夜の秩序と情緒があるの。」
 「あんたも?」
 とミナトは言った。
 「でも、ナギサはただ寝ていたいだけかもね。」
 ミサキは言って、ちょっと笑った。
 「あともう一人、ただ寝ていたいだけの人がいるよ。毎朝アイキを起こすのは大変大変。でもどうして朝弱いのに早朝のバイトなんだろう。夜働けばあたしもこんな手間は無いのに。」
 すると、感情の無い声でミサキが言った。
 「きっと、お姉ちゃんに起こして欲しいんでしょ、毎日。」
 
ミサキの表情は、いつもと変わらないようにも見えたが、眼のそこが凍りついたように光って見えた。ミナトは、今のが失言だったと気付いたが遅かった。
 取り繕うまもなくミサキは言った。
 「洗濯物干してくるね。」
 そして、海へ面した庭へと降りていった。
 
どうして何時もこうなるのだろう。ミナトはどっかりと台所の椅子に、身を預ける。ミサキはミナトが彼女を傷つけても平気だと思っているのだろうか?それともうすいっぺらい偽善を振りかざしているように見えるのだろうか?
 だが違う、ミナトは思う。それもこれも、ミナトが病んでいるからなのだ。

しばらくテラスから、ミサキが庭につるしたロープに、洗濯物を干しているのを眺めていた。洗いすぎて薄くなった衣類が、夏の日差しにきらめいている。それをつるすミサキの体は、心配になるほど痩せて華奢だった。
ミサキはあまり動かない。仕事はお針子だ。一日中座っているせいか、とても食が細い。そればかりか、喘息と不整脈を抱えている。あの石段を登るのが恐ろしいのには、そんな理由があるのだ。
 やがて大鍋のお湯が煮え立ち、エプロンを締めながらナギサが降りてきた。あくびをかみ殺しながら言う。
 「お待たせしました。」
 「目は覚めた?」
 「なんとか。」
 二人はすぐに掃除を始めた。一階の全ての部屋にはたきをかけて、箒ではきだす それから二人は、さっき沸かしたお湯を水で埋め、拭き掃除を始めた。これが一番、骨の折れる仕事だった。雑巾を固く絞り、床や壁を拭く。手すりや窓枠も拭く。戸棚や椅子の縁も拭く。たとえぼろ家でも、それなりに居心地が良く過ごせるのは、ミナトとナギサのたゆまぬ努力のおかげだった。
ミナトはちょっと病的に、きれい好きすぎるほうだったが、別に掃除が好きわけではない。だが、ミナトは意図的に自分の仕事を増やし、片時も休まないように組んでいた。忙しいと思うことで、平静を保っているのだ。

今日はとりあえず一階部分だけ、明日は二階、明後日は三階、日々ぐるぐる回してローテーションを組んでいる。リビングの窓をピカピカにして、ようやく掃除はお終いになった。

 「さあ、朝ごはんにしなくちゃ。」
 バケツを提げて台所に戻ると、そこではミサキが包丁を持ちながら、どこかぎこちない笑みを浮かべていた。ミナトは言う。
 「悪い悪い、後はあたしがやるから。ナギサ、雑巾洗って。」
 どうしてあたしばっかりと、ナギサは脹れて雑巾を取る。ミナトの言葉にしかしミサキは、顔に笑顔を張りつかせてかたくなに拒んだ。
 「いいの、いいって、いいから、お姉ちゃん座ってて。」 
 「そう・・・・・・。」
 ミナトは台所の椅子に腰を下ろす。普段パタパタ働いているミナトにとって、他人の働いているのを黙って見ているのは、居心地の悪いものだった。

 手早く雑巾を洗ってきたナギサが、ミナトの隣に腰掛け、ミサキに聞いた。
 「ミサちゃん、今朝の朝食はなあに?」
 「何時もと同じ。」
 ミサキが言う。 
 「サカサキベーカリーのパンに、シラウメ産の固いチーズ、裏庭産のスモモ。」
 「じゃあお昼は?」
 「それも同じよ、チーズサンドにハーブのマリネ。」
 ナギサがえーっと、不満げな声を出す。
 「たまにはサーモンとか食べたいなあ。」
 言って椅子にふんぞり返り、足をぶらぶらさせる。
 「あんた、お行儀が悪過ぎるわ、それにあんまり無茶は言わない。」
 ミナトはたしなめて、自分は居心地悪げに几帳面に座りなおした。

 テーブルの上には、もう三人分のパンが並んでいた。これは、外出組みがお昼に持っていく物だった。体重をかけて、硬いチーズを押し切るミサキの背中をぼんやり眺めていると、ふと振り返ったミサキと気まずく目が合った。ミナトが反応に窮しているうちに、ミサキは何事も無かったかのように目をそらし、鋏を手に、お勝手から出て行った。

 ミナトは、ミントの葉を切る音を聞きながら、思わずため息をついた。落ち着かない姉の様子をナギサが笑う。
 「お姉ちゃん貧乏性。」
 「うるさいな・・・・。」
 人の気も知らないで。
 だが、ミナトは密かに、末の妹の鈍感さに感謝した。ナギサだけではなくミサキにも、こうある方が救いだろう。

その時玄関で、扉の開く音がした。アイキが帰って来たのだ。アイキは上着のポケットをごそごそ探りながら、皆の居る台所へと入ってきた。
 「おかえり、ご苦労様。」
 出迎えたミナトの手に、アイキはポケットから取り出した硬貨を置いた。
 「これ、今朝の分。」
 ミナトは神妙な面持ちで受け取り、枚数を確認した。
 「はい、確かに。」

 それから、一番額の少ない硬貨を一枚除いて、残りを全部、壁にかかっていた自分の鞄から取り出した茶色の大きな財布にしまった。そして、取っておいた硬貨を、アイキに手渡そうと振り返ると、ナギサが、歯の浮くように甘いものを食べた顔つきで、ニヤニヤ笑みを浮かべているのが目に入った。 
 「何よ。」
 「別に。」

 丁度その時、お茶に入れるミントを手に取ったミサキが、お勝手をあけて戻ってきた。ミナトは慌てて硬貨をエプロンのポケットに突っこむ。ミサキは、帰ってきたアイキに向かって一瞬笑みを浮かべたが、すぐに驚いたように目を丸くした。
 「えっ!お母さん?どうしたのこんなに早く!」
 振り向くと、何時もミナト達が出かけてしまうまで、起きてきたためしの無い母親が、寝巻きの上から青い毛織物のショールを巻いて、台所の入り口の戸枠に手をかけて立っていた。
 あまり眠そうにも見えない表情で、二時間は早起きの母親は娘達にこう言った。
 「何だかじっとしていられなくってね。あんまりお日様が明るいせいかしら。でも、そんなに珍しがっちゃ嫌よ、怠け者って、言われているみたい。」
 ミナトは言った。
 「そんなつもりじゃなくて。起きてていいの?」
 母親は少女みたいに、うきうきと笑って言った。
 「でも、とてもいい気分なの。夕方からこっち。」
 ミナトは何か引っかかるものを感じたが言葉を引っ込め、椅子を引いて言った。
 「ねえお母さん、とりあえず掛けて。」
 「ありがとう。」

 ミナトたちの母親、ミナワ・ミオは、もう五六年、性質の悪い貧血をわずらっていた。何しろ、貧血に良いと言う食べ物も、薬も、さっぱり効き目が無いのだ。若い頃の美貌をすっかり損なうほどに、血の気の薄くなった顔をして、一日中横になっている。とにかくだるく、気分が悪いのだと言う。
 医者によれば、たまにこういった病にかかる人も居るのだそうだ。ただ医者は、一年も二年も生存しているのならば、この先命にかかわる事態に陥ることは、無いだろうとも言っている。
 これは少なからずミナト達を安心させはしたが、また別の種類の重圧も与えていた。それはつまり、自力では働けない病人を、この先十年も二十年も、養っていかなければならないことを意味している。

 ミオは、年の割りに少女じみた仕草で、ミナトの引いた椅子に腰掛けた。そして、ミナトに向かって何故か少しはにかんだように微笑みかけた。
 何か意味ありげな母の態度に、ミナトは少し面食らった。おかしな予感がする。
 ミナトが首をかしげているうちに、ナギサがミオに話しかけた。
 「珍しがらないでって言ったってさあ、半年に一度も無いじゃない。びっくりしたって当然だよ。」
 「でも今はどんどん朝が早くなっていってるから。僕が倉庫まで降りていくうちに、もうすっかり明るくなってしまうほどにね。寝過ごしてられないって言う気持ちも分かるかな。」
 ミナトはこう、口を挟む。
 「あたしは寝過ごしてられないって言う誰かさんを起こすのに大変なんだけどな。いっつもお休みにはお昼まで寝ているくせに。それにお母さん、昨日遅くまで本を読んでいたんでしょう?そう思ってあたし、カーテンを閉めたままにしておいたのよ。」

 ミオはにっこり笑ってこう言った。
 「そうよ、でも、今朝はカーテンなんて意味ないほど、光が澄んで明るい気がしたの。それにとっても気分が良くて。あっ、そうそう、後で私の布団を居間に運んで、今日はミサキの仕事を手伝うつもりなの。」
 「あんまり無理しないで。」
 お茶を運びながらミサキが口を挟む。
 「分かってます、でも今日はとても気分がいいの。疲れすぎない程度にならばいいでしょ。」

 それはどこか何時もと違う朝だった。しかし、何が違うのかと言われれば、ミナトにははっきりと説明は付けられない。だが確かに、何時もと何かが違っていた。
 「小母さん、今日は食欲あるんだ。何時もよりペースが速いよ。」
 「まあ、やだ、アイキ君たら、女性に食欲の話題は禁物よ。それにほら、ナギサなんてもう三枚目じゃない。」
 「成長期なの!今食べなかったら胸ががりがりの洗濯板になっちゃうじゃない。身長だってもっともっと欲しいし・・・。」
 「いいのよ、あたしがあなたぐらいの頃はもっと食べてたんだから、ミサもナギサを見習いなさい。まだ半分しか食べてないわよ。」
 「朝はあんまりいらないの・・・。皆良くそんなに入るよね。あたしなんか胸やけがする。」
 「皆もう一仕事してるんだから。お掃除もお腹すくよね、お姉ちゃん。」
 「あ、うん・・・。」

 何時も通りのんきなアイキ。何時も通りこまっしゃくれたナギサ。何時も通りり気まずいミサキ。
 しかし珍しく早く起きてきたミオは終始上機嫌で、口も弾み、つられて何時も口数の少ないミサキもいつもより多少しゃべった。

 ただそれは、それだけの事なのかもしれない。母親が早く起きてきた事だって、そんなに深い意味があることではないのだろう。そういう日もある。そうでない日と同じように。

 しかし、ミナトは言いようの無い違和感を感じていた。何かがちりちり引っかかるのだ。
 最初は気のせいかと思い込もうとした。だが、すぐにあることに気付いた。母親とやたらに目が合うのだ。そしてその後、何か言い出しかねているとでも言うように、決まって微笑んで目をそらす。

 これはおかしい。

 しかしミナトは、この母の怪しい言動を、今ここで皆の見ている前で問い質すのには気が進まなかった。何か自分にだけ伝えておきたいことがあるのかもしれない。

 「ねえミナ、」
 不意にミオが話しかけた。
 「学校のほうはどう?お友達は出来た?」
 ミナトはため息をつく。
 「あのね、お母さん、あたしは生徒ではないの。皆さんが授業受けている間、あたしは書類とにらめっこなのよ。それに生徒さんだって良い家の子ばかりだからあたしと話が合うわけないし。」
 ミオは瞬間顔を曇らせる。
 「お父さんが生きていたらね・・・。せめてあたしの病気さえ・・・。」
 ミオは少ししょげたようだった。その言葉に、ミナトはのどが煮えそうになる。だが、慌てて付け足した。
 「あっ、でも・・・・、院長先生とは仲良くなったでしょう、個人的に勉強を教えてもらってるし、でも・・・・、友達とは言わないか・・・・・。」
 ミナトの言葉は詰まる。

 日々の暮らしを思い返して、ミナトは思う。自分には友達が居ない。ミオはそれを知らない。疑ってすらいないのかもしれない。ミナトの外での生活は、ミオにとって想像しがたいことのようだった。
 しかしミオは、深く考えることはしなかったようだった。こうミナトに尋ねる。

 「勉強のほうはどう?無理はしてない?」
 ミナトは努めて明るく言った。
 「全然無理なんかしてない。とても順調なの。もう後3年ぐらいして資格が取れたら、今度は教員として採用してくださるって院長先生がおっしゃってたわ。そうしたら、お給金だって良くなるし、暮らしももっと楽になるわ、きっと。」
 「ミナが先生か、かっこいい。」
 アイキが感心して言った。ミナトはこの話題になってほっとした。母親もきっと喜ぶだろう。

 だがミオは、何故か少し寂しそうな顔になってこう言った。
 「働いていない時は、勉強してばかりいるのね。お母さんがあなたぐらいの頃は、もっと違うことに夢中だったわ。そんなに勉強ばかりしていないで、たまにはデートでもして来なさい。ねえ、アイキ君。」
 ミナトの顔には血が上り背中が汗で冷たくなる。
 「何?何言ってるの・・・・?」
 アイキはといえば明らかに期待のこもった目でミナトを見ていた。この目を見てはいけないのだ。
 ミナトは焦りつつ、ミサキの方をうかがう。そこにはあからさまな変化は無い。だがミサキの表情は、容易に嘘をつくのだ。

 ミナトは慌ててごまかそうとした。
 「そんな相手、居ない居ない・・・。」
 ミサキは不快そうに目をそらす。そしてミナトはまた失敗したことを悟る。更に、アイキのあからさまにがっかりした表情を見て、ミナトの胸は砂でもまれているみたいに痛んだ。

 ミオとナギサはといえば、にやにやしながらミナトを見る。
 「またこの人は、そんなこと言っちゃって。」
 ナギサはミナトを肘でつつく。
 「ミナ。」
 愛しむような顔でミオが言う。
 「今夜あなたに渡すものがあるの。夕飯の後、皆でここに集まって。」
 何だろう?改めていぶかしげにミナトは母の顔を見つめる。この朝の様子のおかしさと、何か関係があるのだろうか。

 「あっ!」
 と、アイキが声を上げる。
 「今夜は九時まで稽古があるんだった。」
 ナギサが言った。
 「そっか、でも大丈夫、あたし達が地均ししててあげる。ね、お母さん。」
  そして母親に向かって、ニッ、と歯を見せて笑った。ミオはそうねと言って、ふふっと笑って見せた。
 ミナトはナギサを睨みつけた。

 この子、何か知ってるの?それにアイキまで・・・・・。

 しかしその事について、色々と詮索している暇はミナトには無い。これから身支度を整えて、仕事に出なければならない。

2 チャイムと憂鬱な出勤

 
 朝食が終わると真っ先に、ミナトは二階から母親の布団を運び出した。ソファーの上にそれを敷いて、ミオを座らせる。
 「くれぐれも無理しないようにね。疲れたらすぐ休んで。」
 そう言いながら、ミナトは母親の体に毛布を掛けてあげた。ミオは何度も肯きながらミナトを見つめ、またあの笑みを浮かべた。やはり変だ。

 ミナトは何か釈然としない気持ちで顔を洗いに行こうとしたのだが、鏡の前では既にナギサが、熱い湯をしみさせた布巾を片手に、寝癖を完全に放逐しようと、奮闘しているところだった。

 「ねえ、ちょっとどいて。」
 「待って!」
 ナギサは寝癖に納得がいったのか、ようやく布巾を置いた。だが、今度は淡いオーガンジーのリボンを多用した、手の込んだ、しかし大変見栄えのする髪型に取り掛かった。ナギサはエプロンも、「よそゆき」、のものに取りかえていた。エプロンにしろリボンにしろ、なけなしのこずかいを貯めて、自力で買った物だ。
 ミナトはため息をついた。

 「やけにめかし込んじゃって、一体どこへ行くっていうの。」
 「接客業!」
 ナギサは胸を張る。
 「リボンの数で売り上げが決まるとでもいうわけ?」

 ナギサが勤めているのは、居酒屋ではなく普通の酒屋だった。ナギサが働くに当たって、ありとあらゆるつてをたどって、やっと見つけてきた、「安心できる職場」だ。掃除と接客が主な仕事だが、時々は配達に行くこともあるらしい。

 「分かってないなあ。もしもあたしがぼさぼさの寝癖頭の冴えない顔で、お客様に応対したら、もちろんお酒は買えるけど、ただそれだけ、ただそれだけで終わっちゃう。
 でもあたしが、きれいに編みこんだ髪の毛に、透けるほど薄くて軽いリボンを六本揺らしてにっこり微笑み、小鳥のような声でこう言ったら、『いらっしゃいませ、どういった銘柄をお探しですか?またお越し下さい』、もちろんお酒もちゃんと買える。そしてその次にお酒が欲しくなったとき思うの。『そういえば、ヤマネコ酒店に居た女の子は可愛かっなあ、酒は別の店でも買えるんだけれど、あの娘の顔を見に、またあの店に言ってみようかな。』ね!これで商売繁盛よ。」
 ミナトはあきれて言葉も無い。

 更にナギサは続ける。
 「それに何時何処で出会いが待っているか分からないじゃない、あたしはどこへ行くにも手を抜かないことにしているの。お姉ちゃんとは違って、地味な事務職の女にはならないし、男の子だって、手近な所で手を打ったりはしないんだから。格好よくて、お金のある人を見つけて、玉の輿に乗るの。」
 「ちょっとそれってどういう意味!」
 言いたい放題のナギサに、さすがのミナトも聞き捨てがならない。
 「そういう意味!」
 言いながら鏡に向かって、振り向きもしない。

ミナトは今日何度目か分からない、ため息をついた。こうなったら何を言っても聞かないことは分かっている。疲れたように着けていたエプロンをはずし、さっき据わっていた椅子の上に、二つ折に掛ける。すると何かがチャリンと床に落ちた。ミナトは慌ててそれを拾う。さっき渡しそびれていた硬貨のことを、すっかり忘れていた。

居間では、朝食の片づけを手早く済ませたミサキが、仕事道具を広げている。ミサキはもう何年も使っているピンクッションを手前に置く。それはその昔、ミナトとミサキにお針仕事を教えてくれた、友達がくれたものだった。ミナトよりミサキの方が器用な性質だったのか、万能に見える姉よりも、珍しく上達が早いことを、ミサキはとても喜んでいた。そしてそれは、こうして実用的に役立っているのだ。ミサキが家にこもったまま出来る仕事といえば、お針子ぐらいしかない。
 とは言え、やはりお針子は大してお金にはならない。自分の食費さえ賄えているかも怪しい。しかし、働いている時の方が、ミサキも少しは楽しそうに見えた。

 ミサキが生地を広げるのを見ながら、ミオが昔は流行った恋歌を、鼻で歌っている。
 ミナトはわざと急いでいる振りをして、勢いよく居間を通りぬけ、階段を上がった。そのまま梯子を上ってアイキの部屋の下のハッチまで上がる。そして律儀に一度ノックする。

 「アイキ、ちょっといい?」
 「ああ、ミナ、入って。」
 ふたを押し上げて顔を出すと、逆行の中にアイキが机の脇に立って、鞄の中身を入れ替えているのが見えた。明るく静謐な陽だまりの中、光が当たり、アイキの茶色い髪が金色に見えた。。

 ミナトは床に降りると、アイキの傍らに立つ。アイキは顔を上げて言った。
 「何か用?」
 「うん、大した事じゃないの。」
 ミナとはそう言って、握っていた硬貨を差し出した。
 「これを、何時もより少し多かったでしょう、だから、お昼の足しにして。」
 アイキは目を丸くする。ここ一二年で、顎から頬にかけての線がシャープになったアイキだが、こんな顔をするとまるで女の子だ。

 そしてミナとの目を覗き込んでこう聞いた。
 「いいの?ほんとうに?」
 ミナとは肯く。そして硬貨をアイキの手に握らせながら言った。
 「だって、あれっぽっちじゃとても足りないでしょ、いいからとってて。」
 アイキは手の中の硬貨を見つめた。そして、何ともいえない表情でミナトの目を覗き込んだ。ミナトは反射的に身構える。
 まずい、ここはやり方を間違えたかもしれない、退避しなければ・・・・、ミナトは一生懸命部屋の外に出る口実を考え始める。

 だがアイキは、そのままぽつりとこう言った。
 「いつもすまないねえ。」
 ミナトは少し拍子抜けして言った。
 「それ、何のせりふよ。」
 「昔見たんだ、旅回りの一座さ。病気の父親とか母親とかが、健気な子供たちに決まって言う、お約束みたいなやつ、まあ、ネタだよネタ。」
 「それも、今あんたが勉強している演劇の技法とかに入っているの?」
 「ううん、ただのネタだから勉強なんかしない。」
 ミナトは言った。
 「下らないかも、それ。」
 アイキが笑う。
 「下らないか、ははは。」

 アイキは四年ほど前から国立の、もろもろの演劇人を養成するための機関、通称「アカデミー」に、通っている。当然学費もかかる。
 だが、アカデミーの上の人からアイキに声がかかった時、ミナトは強硬に入学を勧めた。お金なら何とかすると、押し通した。
 元々アイキは小劇団に子役として在籍していたのだが、子役上がりの俳優と、アカデミー卒の俳優とでは、まるで格という物が違ってくる。演じる上での技術というだけではなく、演劇史や理論、一般教養までも学べるのだ。
 もちろん叩き上げでもいい役者はいるし、学歴偏重はよくないという意見に反対なわけではない。アイキもそう言って、その誘いを固辞しようとした。だが、ミナトは、本心では入学したいという彼の気持ちを見抜いていた。
それもそうだろう、それは彼の両親がたどってきた道なのだったから。ミナトとしては、絶対にアイキに夢をつかんで欲しかった。その為には自分の事は、何を犠牲にしても構わないという覚悟も立てた。

 だがミナトには一つ誤算があった。

 晴れてアイキの夢が叶った時、自分はあの日望んだように振舞ってはならないのだ。

 アイキが少し申し訳なさそうに言った。
 「あっちのほうは大丈夫?つまり家計は・・・・。またむりしてるんじゃ・・・・。」
 やはりアイキは家計のことをだいぶ気にしているようだった。
 「平気、平気、気にしないで、ナギサが働き出してから、相当楽よ。昔と比べて段々良くなって言ってるの。本当よ。もう二度と学費滞納させたりしないから。だから、だから安心して勉強してね。」 

 アイキは少し黙った。そして今度は真顔で言った。
 「何時もすまないねえ。」
 「下らないって言った。」
 ミナトも真顔だった。

 沈黙が二人の間に横たわる。だがそれは距離ではない。言葉が何の意味を持たないだけだ。黙っていても、お互いの心が混ざり合いそうになっていることが、二人とも分かっていた。
 ミナトは動けない。言葉にも出せない。このままでは触れ合うばかりと分かっていても、足には力が入らない。頭は必死に部屋を出ろと命令している。だが、心も体も、反対を望んでいた。

 アイキの手が動いて、ミナトの肩に触れる、そうなるかと思えた瞬間、けたたましい区役所のチャイムが鳴り響いた。

 アイキがびくりとする。ミナトの金縛りも解けた。
 アイキが言った。
 「ああ、もう行かなくちゃ。」
 このチャイムの鳴る時間に家を出なければ、遅刻しそうになるはずだった。アイキが部屋を出て行く。

 梯子を降りるその瞬間、アイキはミナトを哀しげに見つめた。ミナトの元々哀しげな顔も、更に哀しげに見えた。それは、とどめられなかった。

 「行って来るね。」
 アイキが笑う。
 「行ってらっしゃい。」

 ミナトは真顔だった。
 それから階段を降りる音が聞こえ、行ってらっしゃいという声が聞こえ、最後に玄関の閉まる音が聞こえた。窓からは必死に石段を駆け上る、アイキの姿が見える。こちらに気がつくと、アイキはパタパタと手を振った。ミナトは小さく振り返した。

 アイキが見えなくなってしまうと、ミナトは深くため息をついた。そうして頭を抱え込んで、ベッドの上に座り込んでしまいそうになるが、慌てて立ち上がった。色々なことを考えるのには、ミナトは少し忙しすぎた。それをてこに無理やり自分を追い立てる。
 自室のドアを開け、古びた鞄に事務用品一式と、昨日の課題を詰め込む。それからそれを持って台所に降り、お昼に食べるパンをしまった。

 台所の奥にしつらえた洗面所では、ようやくナギサがすっかり満足行くまでなりを整えたところだったらしい。良く動く口が商売道具のナギサは、壁に掛けてある可愛らしいポシェットをつかむと、勢い良く飛び出して行った。
 「行って来まあす。」
 「行ってらっしゃい、早く帰ってくるのよ。」
 聞いちゃいないナギサの背中に向かって叫ぶと、ミナトはまた一つため息をついた。
 
「ねえお母さん、何とか言ってやって頂戴。おしゃれはいいけど、毎朝あれじゃあ・・・・・。」
ミオは裁縫する手も休めず、おっとりと返す。
 「そうねえ・・・。でも、元気が一番よ。ね、ミサキ。」
 ミサキは肯きながら、困ったように笑うだけだ。
 「もう、甘いんだから・・・・・。」

 ミナトはぶつぶつ言いながら、洗面器に張った水を取り替えた。そしてその水で、耳のしたまで丁寧に顔を洗う。タオルでしっかり水気をふき取ると、今朝初めて自分の顔を見る。

 少し蒼ざめて見えるほど白い顔の中で、物哀しげな勿忘草色の瞳がじっとこちらを見つめていた。
この大陸の出ではない、ミオの瞳は黒い。それを受け継いだ、妹二人の瞳は、暗緑色をしていた。そして父親は青い瞳をしていたという。
 庭先の香草で作った化粧水をはたきこみ、日焼け止め代わりにやはり庭先で取れた果実の油を、耳や、首の後ろにまで薄く塗りこむ。
 ささやかな化粧が済むと、今度は一つにしばった髪を解き、母が婚家から持ってきた銀の櫛で、腰まである長い髪を梳く。

 ミナトの髪の毛は、ミサキやナギサと違って、櫛で梳く意味が無いほど真っ直ぐだった。ほつれや絡まりも、櫛の歯に触れただけですぐに解けてしまう。だがミナトはこれが気に入らなかった。元々地味な自分の、面白く無さを強調してやいないか。母に似たほうが良かったのにと。髪の色は、赤みを隠したこげ茶色だ。三姉妹の中で一番暗い色だった。
 これについてもミナトは思っていた。どうせ黒っぽいのだったら、若い頃のミオの様に、まじりっけなしの漆黒の髪の方が良かったのにと。
 
とは言え、三姉妹はとても母親似だった。高価な人形の様に、端整で少し儚げな顔立ちをしている。一番母親似なのはミサキだった。髪の毛が栗色で、目の色が違うことをのぞけば、まるで若い頃のミオそっくりだ。若妻だった頃、ミオには沢山の信奉者が居たらしい。姉妹達はそんな昔話を、しょっちゅう聞かされていた。
 ただ、ミサキは体形だけはミオに似なかった。ミサキは病的に痩せているが、若い頃のミオは、それは素晴らしい女性美だったのだ。
その点で母親に似たのはミナトだった。しかし、ミナトにとってそれは恥ずかしいことだった。体形が分かるような服は決して着ない。
ナギサはまだ十一歳なので、将来の体形までは分からない。だが、姉妹達の中ではただ一人陽気そうな顔つきをしていた。ミオに言わせれば、三番目の姉に似ているという。

 ミナトの眉は、直線的な形をしている。ミオや妹達のように、曲線的で優しげな形ではない。きりりとした眉はミナトの顔を、妹達よりは険しく、又はどこか思いつめているかのように見せていた。ミナトにはそれも気に食わなかった。
ミナトは自分のことをひどい不美人などとは思っていなかったが、この年頃の少女達にありがちなように、自らの容姿に不当な評価を下していた。妹達の、薄くて品のいい唇と違い、上下供に肉付きのいい唇も、顔の中で目だって不恰好だと思っていた。瞳の色と同様、眉も口も、明らかに八つの頃死んだ父親に似たものらしい。その事は何時も、ミナトを複雑に苛立たせる。
 しかし、容姿に関する悩みは、ミナトの中でとても小さなことだった。
 一つには、長々と鏡を眺めて、自分の顔の新たな欠点を見つけて、さめざめと嘆いている時間があまり無いこともある。しかし一番に大きいのは、容姿の問題など吹き飛ぶほど、深く大きな悩み事が、ミナトの中に鬱蒼と根を張っていることだった。それに押しやられて、容姿の悩みはこうして、鏡を見たときにだけ片手間に思い出すのに過ぎない。

 ミナとは実にあっさりと鏡の前を後にする。
 何度も洗える丈夫な帆布の靴から、大事に履いている革靴に履き替え、さっきテーブルの上においていた鞄を手に取る。鞄と靴以外は、到底事務員にふさわしい格好ではないが、気にはしていない。ミナトは形から入る方ではないのだ。

 「それじゃあ行って来るから。お母さんのこと、くれぐれもよろしく。」
 居間で作業をしているミサキに向かって声を掛ける。
 「分かったわ、程々にしてもらうよう、良く見張っているね。」 
 ミサキの声は、まるで傍らの母親にに気を使っているかのように、明るかった。ミオが憤慨してまあまあと言っている。
 ミナトは玄関に向かう。
 「居てらっしゃい、ミナ。」
 母の声は歌うように聞こえた。うわの空の様に、ミサキの声も聞こえる。

 ミナトは玄関のドアを開けた。六月の青い空だった。ミナとはまた一つ、ため息をつく。
 何もかもが色鮮やかに映える光のシャワーだ。しかし、ミナトの心の悲しみを、より一層、影色濃く沈めてしまうのは何故なのだろう。
 世間が明るければ明るいほど、ミナトの心は沈んでゆく。幸せそうな世界で、自分だけは恩寵を求めてはいけない、そんな気がしてしまうのだ。

 さっきの母の、あの怪しげな態度が頭をかすめたが、六月の光のあまりの痛さに忘れた。
 ミナトは足早に歩き始めた。女学校は坂を三つ越えた、岬の上にある。

3 悪友とアイキ


 
アイキは北部花の国の演劇史Bの講義を受けていた。運命悲劇で有名なナラク派の系譜と、ここ水の国北部、北マンゲキョウ地方の演劇への影響などなど。講義の内容は退屈ではなかったが、アイキは少しうわの空だった。

 今朝のミナトの、あの哀しげな顔。触れ合えそうで触れ合えない二人。アイキはここのところ、ミナトが自分に対して意識的に距離をとろうとしていることに気付いてはいた。気付いてはいても、アイキはミナトの気持ちを疑っているわけではなかった。ミナトにアイキの気持ちが届いているように、アイキにもまた、ミナトの心が届いていた。事あるごとに、二人の気持ちは触れ合っているのだ。
 だが、具体的に行動を起こす段となると、何時もミナトは、アイキが伸ばす手の本の少し先のところに留まり、自らは決して近寄ってこなかった。
 精一杯に拒絶しながらも、だが、その悲しげな瞳はこうも語るのだ、「愛している」と。

 アイキはこの秋に十八になる少年だった。本当ならば、ミナトに触れたくて触れたくてたまらないのに、それはミナトも望んでいることのように思えているのに。何か深い訳でもあるのだろうか?そうでなくても、最近のミナトはとても苦しげに見えて、アイキを不安に掻き立てる。
 だが、とアイキは思い当たる。果たしてミナトが哀しげに見えないことなどあっただろうか?ミナトがアイキの家にやってきてから、もう十年になる。何時も何時も、ミナトはかげりを帯びていた。そればかりか、初めて会った時分、五つになるかならないあたりのミナトも、時折ふと、大人びた憂いを漂わせていた。

 そしてあの日、アイキが一生彼女を守ると決めた日には、ミナトは泣きじゃくっていた。
 ぼろぼろに泣いているミナトを見たのは、後にも先にもそれきりだったが、アイキはその涙の意味を知らない。教えてくれなかったし、今となっては聞いてはいけないことのような、そんな気がしていた。

 アイキには、ミナトがこのまま目の前から居なくなってしまうのではないかと思えてならないのだ。去っていくのではない。溶けて、消えてしまうのではないかと。

 そしてアイキは昨夜のことを思い出す。これはもしかしたらずるい事なのかも知れない。もっと勇気を出して、フェアな手順を踏みべきだったのかも。
 だがこのままでは、このままでは二人が結ばれない以上に、深刻な事態になるのではと、アイキの勘は警告していた。

 そして、ナギサの甘言に乗ってみることにしたのだ。

 「どうなるかなあ、ナギサは今晩言うだろうなあ・・・・。」
 アイキは口の中でつぶやく。さっきミナトにもらったコインを弄びながら。
 アイキは自分とミナトの運命を、しっかり結び付けておきたかった。その為に、ちょっとだけずるくなってみようかなあと思う。アイキの性分から言って、何かを仕組むとか企むとか、そんなことは全く馴染まない事なのだ。実際アイキがずるいと考えていることは、程度から言って、然程ずるいわけではない。ただアイキが馬鹿正直すぎるのだ。

 昨晩のナギサの言葉を思い出して、アイキは少しそわそわする。ずるいながらも思い切ってアクションを起こしたのだ。どういう反応が返ってくるか。少し不安なような、期待の入り混じったような・・・・・。

 時計が十二時を回る。大聖堂の鐘が鳴り響き、教授が言った。
 「それでは今日はここまで。」
 アイキはどこか落ち着かない気分で、思い切り伸びをして、鞄を提げる。校外へ出るのだ。
 
 「アカデミー」の建物は、街の目抜き通りにある劇場の裏手に隣接していた。通りに出れば、屋台で何か安くて腹に溜まるものが買えるはずだった。
 ぶらぶらと廊下を歩いていると、向こうから同期のギボウシュがやってきた。

 「よう。」
 とギボウシュが声を掛ける。
 「あてはあるのか?」
 「うん。」
 とアイキが答えた。ギボウシュは嬉しそうに、そのまま付いて来た。ご相伴に預かる気なのだ。アイキは何も言わない。過去に同じようなことも、これと全く逆のことも、同じくらいあった。

 ギボウシュも、大体アイキと似たような境遇にあった。しかし、彼を支えていたのは恋人ではなく、二人の姉だった。「アカデミー」でも、一位二位を争うほど女にもてないギボウシュは、よくその事について、くどくどとアイキを羨ましがった。

 彼は上背こそアイキよりも無いが、肩幅は倍ぐらいあって、筋肉質で、とにかくずんぐりむっくりとしていた。バリバリに硬い髪をぼさぼさと伸ばし、フケが肩にたまっている。四角い顔に、すっかり割れたあごの周りには、青々とひげの剃り跡が目立ち、不釣合いにパッチリした目を落ち着き無く動かし、せかせかと手足を動かすものだから、大抵の女生徒は、彼を避けて通っていた。

 対するアイキはといえば、全く柔和な少年だった。彼の顔かたちは、女優だった彼の母親に生き写しだった。体が細い分手足はまだまだ伸びそうな勢いで、ばねを感じさせる体つきだ。栗色の髪は長くも短くなく、服装も派手ではないが、趣味よくこざっぱりとしている。
 そんな二人が仲良く並んで歩くと、いかにも不釣合いで珍妙な印象を与えた。

 だがアイキはギボウシュが好きだった。彼は脚本科に在籍していて年も二つばかり上だったが、不思議と気が合った。アイキはよく人に慣れる性質で、つるむ相手には事欠かなかったが、中でもギボウシュに対して一番親しみを感じていた。彼らは劇場脇の道を、ぶらぶらと歩いて行く。


 ユカシカオリ市は古くから水の国の都として栄えてきた。市の中心部ともなれば、裏道だとても華やかだ。
 劇場の隣は国立の美術館となっていて、高名な建築家が心血を注いだその建物には、当時の若手画家による、壮麗なモザイク壁画の華が咲いていた。
 後に天才と呼ばれたこの画家のデザインした壁画のために、都見物の人々も足を運び、立ち止まって見惚れる人の姿も多く見られる。

 ユカシカオリは芸術の都だった。
 火の国ほどの科学力も無く、氷の国ほどの軍事力も無く、花の国ほどの資源も農地も無い、この国の人々の誇りはまず貿易と、そこからもたらされる富、それによって花開く文化芸術の類だった。

 政府は手広く人材を発掘する為、様々な制度をつくり、育成機関を設けていた。都では国中から集められた優秀な若者たちが、才を競い合っている。アイキもギボウシュも、その中の一人なのだ。
 劇場のはるか前方には、遠く国会議事堂の緑のドームが、見晴るかす海の青に溶け込みそうになりながらもきらめいている。商業の町であるこの都市は、良港に恵まれたことや、大陸西海岸の中心に位置していることもあって、古代都市国家時代から栄えてきた。国が統一され、当時の王家がこの地に都を定めると、海の道だけではなく、内陸部まで道が整備された。特に、流れ込むタチバナ河の上流に運河が張り巡らされると、内陸部はおろか、東隣の火の国からの物資も流れ込んだ。
 更に造船、航海技術の革新が進むと、遠く北は氷の国の氷河地方から、南は花の国、ミツバチ岬から、及びはるか南方のシラサゴ諸島からも、船は行き来し、ユカシカオリは交易の、正に大交差点となった。数多くの国々を結ぶ中継貿易は、この都に莫大な富をもたらした。それは共和制に移行した現代でも続いている。

 現在人口百万は下らないこの街では、近年過密化が叫ばれ、共和国政府は大規模な遷都計画を打ち出した。
はるか東の内陸の平原地帯にある、ツユシズクという湖中心に、大運河を引くのだという。そしてそこに新たな都を築くのだという。

 しかしそれは、遠い御伽噺のように響いた。相変わらず街の繁栄は続いている。表通りは毎日がお祭りみたいな賑やかさ。劇場の前ではまだ売れない芸人や、音楽家達が、売込みをかねた資金集めに、必死のパフォーマンスを繰り広げている。見物に足を止める人々が、あちらこちらで小さな輪を作っていた。

 アイキとギボウシュは、それを横目に屋台を物色する。観光客向けの、ぼったくりに近い名物の屋台には目もくれず、ただ腹にためるだけにあるような、安くて大きい店をあれこれ見てまわる。
 「いくら持ってる?」
 ギボウシュが聞いた。
 「10テキ」
 アイキは硬貨を手の中で転がす。
 「少ないな。」
 「贅沢言うなって。」

 散々見定めて、一番汚い店から古そうなパンを買おうと決めた時、彼らの肩に触れる者があった。
 「やめときな、顎が変になるぜ。」
 振り向くと、一級上の最上級生、イギス・エゴノが口はしを歪めて笑っていた。アイキは言う。
 「でもあれが、一番安くてでかそうだし。」
 イギスは歪んだ笑みを強めて言った。
 「だから、俺に任せときって。」

 そしてそのまま二人を、小奇麗で、上等そうな、つまりは高そうな屋台へと連れてゆく。そして売り子の女の子にむかって、さっきとは別人のように爽やかで親しげな笑みを浮かべ、「やあ」と、声を掛けた。
 「来ちゃったよ、どうしても君の顔が見たくなって・・・・、講義の間もね、君の顔ばっかり浮かんでね、身が入んないのさ。」
 女の子はぱっと赤くなる。すっと跪き、まるで芝居がかった調子で硬貨を差し出し、尚もイギスは続ける。
 「女王様、あなたの白き御手から10テキ分の糧を賜りたいのです。あいにく我らは貧しく、全財産はこれなる10テキ硬貨のみ!これこそが睡魔との闘い、昼の時間を永らえる命の兵糧なのであります。是非是非あなたの御手から相応の古き糧を!馬や牛の食らう馬草でも構いませぬ!あなたの手から下される食糧ならば、カビの生えたものであっても!」
 すると女の子は真っ赤になって、上等な分厚いハムと新鮮そうな野菜を沢山はさんだパンを三人分作って、イギスに渡した。イギスは驚いたような、いかにも申し訳ないというような真面目な顔になって、誠実に女の子に言った。
 「この埋め合わせはきっとするから。そう、僕がいよいよ本格的に売り出して、劇場対の馬車なんかが迎えにくるようになったらきっと、そのときは君を、本物の女王様みたいにしてあげる。」
 女の子はうつむき加減で、目をぱちぱちさせながらこう言った。
 「いいの、あたしは何時だっていいのよ。それより今週末会えるかしら?いつもの所で待ってるから。」
 イギスはいかにも恋してるといった表情で言った。
 「大丈夫さ。花束を用意していくよ。」

 イギスの後ろで、アイキとギボウシュは良心の呵責に必死で耐えていた。きっとその花束も、別の女の子から調達するのだろう。イギスというのはそういう男だった。

 彼は「アカデミー」の中でも目立つ生徒だった。怜悧で色気のある二枚目で、もういくつかの劇場からの引き合いもあるというような噂だった。

 アイキの大事な10テキ硬貨を女の子に渡し、三人分のご馳走をまんまとせしめたイギスは、女の子ににっこり笑ってその場を離れると、途端に元の悪魔のような顔になった。
 アイキがおろおろと言う。
 「一体何人目だよ、あの女の子にも手を出したのか?」
 イギスは涼しい顔で言う。
 「手を出すなんて人聞き悪いな。ただちょっと親しくお話しするだけさ。」
 だが彼女の方ではそうは思っていないだろう。上等のハムサンドだが、なかなかに複雑な味がしそうだ。それでも、アイキとギボウシュは、背に腹変えられないほど空腹だった。あの店のほうを申し訳なさそうにうかがいながら、パンに手を伸ばす。

 その時、ふっと言う苦笑の音が聞こえた。
 「イギス君、君はなかなか罪な男ですね。私の先輩にも居ましたよ、そういう男が。」
 振り向くと、ひょろ長い初老の紳士が微笑んでいた。
 「リクギ教授!」
 三人はひょこっと会釈をする。リクギ教授は古語と、古典作品の時代背景について教えていた。芝居と古典文学をこよなく愛し、筋金入りのロマンチストだった。
 傲慢な笑みを浮かべてイギスが言う。
 「教授、芸の肥やしですよ。その先輩とやらも、いい役者になったでしょう。」
 教授は少し遠い目をして言った。
 「ええ、とてもね。悲劇のヒーローの役をさせれば遠くの町からも、女の子が観に来たものです。でも、三十のとき女に刺されて死にましたが。」
 イギスが目をむいてぎくりとなる。ギボウシュが気味良く笑ってこう言った。
 「ははは、ざまあみろ、色男なんてみんな刺されて死んじまえ!」

 イギスが不快そうにこう返す。
 「お前はそう言うがなあ、こいつだって女に養ってもらってるじゃねえか。女の金でここに通って、おまけに一緒に住んでるんだろ。俺と比べてもひどいものさ。俺もさすがに学費だけは親に出してもらってるし。」
 アイキが落ちつか無げに目を動かす。ギボウシュは言う。

 「けどよ、アイキはお前とは違うだろ。後できちんと責任を取るつもりなのさ。それに、手は出してないって言うし。」
 するとイギスが馬鹿にしたように笑って言った。
 「手を出してない?そりゃあ病気だろう、そうでもなけりゃあ金にしか魅力の無い女なのさ。」
 すると今まで黙っていたアイキが猛烈にしゃべりだした。
 「違う、断じて違う、ミナはとっても綺麗だし、聡明だし、人のためなら自分も犠牲に出来る、そんな清らかな女性だよ。お金以外に価値が無いなんて、そんな、そんな馬鹿なこと・・・・。」

 イギスは、顔の目の前五センチのところで、役者特有のかつぜつの良さでまくし立てるアイキの勢いに恐れをなして、こう制した。
 「分かった、分かったって、だがよう、何でそんなに惚れてるんなら、何にも起きないんだよ。向こうにその気が無いのなら分かるが。お前の方だけがそう思ってるんじゃないのか?」
 アイキが真っ赤になって、それも否定する。
 「絶対違う。ミナの気持ちは伝わってくるよ。」
 イギスはまた問う。
 「じゃあ、何で何も起こらない。」
 ギボウシュも不思議そうに言った。
 「そんなに家族に気を使ってるのか?だが、俺だと三日と持たないね。」
 アイキは頭を抱えて考え込む。それを見ていたリクギ教授はこう言った。

 「まあ皆さん、ここは座ってお昼にしませんか。食べながら話すことにしましょう。私もこれからお昼なんですよ。」
 そう言って、三人を劇場の入り口の階段に座らせた。

 リクギ教授が屋台の包みを開くのを見て、アイキが問う。
 「何時も買い食いなんですか?」
 教授が答えた。
 「妻を亡くして長いですからね。さあ、いただきましょう。イギス君の恋人の厚意を無駄にしてはいけません。」
 恋人じゃないですって、とイギスが笑う。アイキは口に物を詰め込みながら言った。 
 「思い込みなんかじゃないって、本当だよ。目を見れば分かるんだ。でも、いつも手を触れようとすると苦しそうに拒絶するんだ。」
イギスは言う。
 「俺には逆に不思議さ。何で目なんていう、曖昧な理由だけでお前がそんなに確信していられることが。ちょっとすれた女なんて、目だけで嘘がつけるもんだ。」
 ミナはそんなんじゃないやと、アイキが不服そうに言う。
 イギスが言った。
 「仮に、彼女がお前を騙しているとして、何かメリットでもあるか?」
 「家賃がかからないことぐらいかな。でも、アパートを借りるとして、その家賃から僕の学費を引くと、マイナスになる。」
 イギスは眉を上げる。
 「ふうん・・・・。」
 「彼女がアイオイ君を騙しているということは無いと思います。私は前にお目にかかったことがありますが。」
 リクギ教授が言う。
 「学費が払えなかったことがありましたよね。三年以上前になりますか、私に借りた学費を、半年で返しました。あれは相当、努力されたことでしょう。」
 アイキが熱く語る。 
 「そうなんです、ミナは働きながら勉強をして、更に家事もこなして、それはそれは頑張っているんです。見ていて何か、申し訳なくなってくる位に。」
 「美人でしたか?」
 ギボウシュが聞く。
 「水に浮かぶ睡蓮のようでしたよ。」
 ギボウシュが物欲しそうな顔でアイキを睨む。
 「お前、病気だよ、何で一つ屋根の下に居て、何も起こらんのだ、俺に半分分けろ!」
 嫌だよ、とアイキが顔を歪める。ちきしょー、とギボウシュは叫んだ。通りの人々がいぶかしげにこちらを見ている。

 イギスは怪訝そうに言った。
 「まあそれなら、そんな風に出来た女なのは認めるさ。だがな、俺は何か引っかかるぜ。何ていうかさ、こう、完璧すぎるっていうかさ。生身の女なら、もっと我侭だったり、自分勝手だったり、欲張りだったり、うぬぼれ屋だったり、怠け者だったりと、とかく色々ややこしいものだぜ。何か裏があるというかさ、虚像を感じるのさ。」
 アイキは必死に言う。
 「虚像なんて、ミナとはこの十年ずっと一緒に居るけど、そんなもの感じたことも無かったよ!」
 ギボウシュが言った。
 「十年一緒に居て、兄弟みたいにはならなかったのか?」
 「お互い強く意識しあっていることを、ひしひしと感じて大きくなったよ。」
 イギスが言う。
 「そうか、そんならお前、彼女を抱け。」
 「は?」
 アイキが返す。
 「イギス、何、何言ってんだ・・・・・。」
 「子供が出来ちゃ困るのなら、せめて抱きしめろ。男としての意思表示をするんだよ。
 どんな反応が返ってくるか、恐れちゃいかん。」
 お前の話が本当なら、その女がお前を嫌っていることは無かろうと、イギスは続けた。
 「だがな、女にはな、いくら気持ちが伝わっていても、あまりにも長く待たせているうちに、離れていってしまう、そういう性質があるのさ。気があると思っていて、安心していて、手痛いサヨナラをされた奴を何人か知ってるぜ。お前もそうなりかけているのかも。」
 アイキは顔を引きつらせて黙る。

 「私もイギス君に賛成です。君は彼女を抱きしめるべきです。」
 リクギ教授も熱っぽく口をそろえた。
 「教授まで・・・・。」
 「怖いですか、アイオイ君、でもそこを乗り越えなければ、何も始まりませんよ。彼女の方から近づいてくることが無いということは、何か理由があるのでしょう。ここは君のほうから、一歩距離を詰めるべきです。」
 アイキがごくりとのどを鳴らす。口がからからになってきた。

 うおおー!とギボウシュが叫んだ。
 「ふおっ、抱きしめる?そんな事になっちゃうの?きゃー!」
 お前が興奮してどうするんだよと、イギスがあきれる。
 アイキはふと思う、昨日のたくらみについて彼らはどう思うだろう。思い切って切り出してみると、思いがけず反応は普通だった。
 「ふうん。」
 「へええ。」
 「ほう。」
 イギスは言った。
 「ま、お前にしちゃあ、よく考えたじゃないか。」
 「ずるくないか?」
 アイキは不安げに言う。
 「ほんのちょっとだろ。本体である気持ちに、傷がつくほどでもない。」 
 リクギ教授は言った。
 「アイオイ君、実は私も三十八年前、君と同じことをしました。」
 えっ、とアイキが振り向く。
 「教授、そしてどうでしたか、奥さんは怒らなかったんですか?」
 教授は柔らかく笑って言った。
 「結論から言うと、怒りましたよ。でも、すぐに許してくれましたよ。」
 そうですかと、アイキは言う。ミナトもすぐに許してくれるのだろうか?
 イギスが言った。
 「よし、じゃあ決まりだな。お前は今晩中に話しを決めるんだ。一体どんな具合だったか、明日たっぷり聞かせろよ。」

 アイキはカチカチになって言った。
 「うう、うん、頑張る・・・・・。」
 「私も成功を祈ってますよ。」
 リクギ教授も言ってくれた。
 「ちくしょー!」
 またもやギボウシュが奇声を発する。
 「何て、何て羨ましい悩みなんだ、アイキ、俺も、愛が、愛が欲しい・・・・。俺は女に金を求めるとか、献身を求めるとか、そんな贅沢なことを要求しているわけじゃないに!
 ただ、俺の夢の傍らで、にっこり笑ってくれる、可愛いい娘が居れば、ただそれだけで幸せなのに・・・。それなのに・・・、うがーっ!女の子たちは俺を遠目からちらちら見ては、1メートルも間を空けて通り過ぎるんだぜ!隣の席に座れば机は離すし、絶対に目を合わせてくれないし・・・、声を掛けても逃げるように去っていくんだぜ!なぜだーっ!」
 イギスが言う。
 「フケを何とかしろよ。」
 「きちんと髭剃れよ。」

 リクギ教授は黙って彼らのやり取りを聞きながら、穏やかに微笑んでいた。
 若い日の遠のいてしまった教授には分かっていた。こうした一見下らないやり取りの中にこそ、青春の美しさが宿るものだということを。今ふざけあえる友が、一生の宝ともなりうることを。
 教授は上を見上げた。劇場の屋根の先のところに、太陽と月の飾りを取り付ける作業が進められていた。夏至の祭りが近づいている。


 何と言うことだ・・・・。ユカシカオリ東署のユキヤマ・ナダレ警部は天を仰ぐ。
 警備は完璧だった。蟻一匹逃す事の無いと本部長が自負した包囲網。だが奴は・・・・・。

 ナダレはこの閑静な住宅街の屋根伝いに咲いた、鮮やかな虹の橋を睨む。それはもうそろそろ薄れかけていた。

 「これは・・・、魔法だ・・・。」

 窓際刑事のクモリ・ドンテンが目をぎらつかせてつぶやく。ナダレはその言葉にはっと我に返った。
 「カイセイ刑事、アマアシ刑事、すぐに捜査を進めます。あの虹のようなものを写す、機械の類があるはずよ。あれが消えてしまわないうちに、発見します。」 
 そして、妖しい光を目に宿したクモリ刑事に向かってはこう言った。

 「魔法?馬鹿馬鹿しい。この世に科学で解明できないことなど無いわ。少なくともあたし達だけは、そんなまやかしに引っかかってはいけないのよ。世間がどう騒いでも。」
 「だがしかし・・・・・。」
 「クモリ刑事!」
 ナダレは強く言う。
 「あなたは何度そうやって、神がかり的なことを主張して左遷されてきたの!今のままでは署内に留まるのも危ういわ。そうしたらお嬢さんたちはどうなるの?
 しっかりしなさいクモリ刑事!今時分のやるべきことは何?職務を果たしなさい!」
 そう言って、ナダレはクモリを追い立てて、部下の方へと歩いていった。

 だが、そんなナダレの胸にも、この消えかけた虹は不気味に影を落とす。
 これだけのからくり、準備にいくら時間がかかるだろう?この付近は一週間も前から厳重な警備が敷かれていたのだ。

 「魔法・・・・。」

 信じてしまいたい気持ちも分からなくは無い。だが彼女は筋金入りの刑事だった。職務を果たしなさい、クモリに言ったその言葉は、自分に向けた言葉でもあったのだ。

 正当な手段で蓄えられた市民の財産が、不当に奪われたのなら、何があっても犯人は挙げなければならない。たとえそれが魔法使いであっても、神であっても。
 それが、警察というものなのだから。

4 誰も知らない私の悩み

 「じゃあね、また明日。」
 「またね。」

 中庭の木陰で、さっきから話し込んでいた生徒たちが次々と帰ってゆく。
 めいめいに笑いさざめきながら、気配が去っていくのを感じ、ミナトは代数の問題を解く手を休め、その言葉の持つ響きの懐かしさにはっとした。

 遠い記憶が浮かび上がる。かつていたのだ、ミナトにも、そんなささやかな約束を交わす相手が。もう数年来、そんな言葉を口にしていなかった。
 
ミナトはペンを置き、窓の外の木立の中に、その面影を思い浮かべた。
 何時だって会えるのだと思っていた。その子が居て、自分が居て、そしてアイキが居て、来る日も来る日も楽しい日々だった。そんな日々が、ずっと続くのだと思っていた。

 しかし彼らは遠く離れてしまった。行く筋もの河を越え、数多の山を越えたとして、空しく影すらも望めない、遠い遠い所なのだと言う。
 しかし、そうした空間的な隔たりよりも、尚、苦く遠く感ぜられるのは、六年という歳月の隔たりだった。尺度によってはたった六年と言えることも出来る年月なのだろう。しかし、その間に何と多くの事が、変わってしまったことか。ミナトの胸に、やるせない思いがこみ上げる。

 何故、時は経つのか。何故、変わらずには居られないのか。六年の歳月はミナトから、かつてあったあの幸せ、美しいものを、冷酷に奪っていった。彼らは今の酷い自分を見たら、何と言うだろう。もう無邪気でも素直でも純粋でもない自分。

 そして、決断したことを実行できないでいる、弱い自分。

 ミナトの中で彼らの姿は今尚十二歳の子供のままだ。その澄んだ眼差しに照らされて、ミナトは思わずたじろいだ。頬杖を付いて、自分の手の影をじっと見下ろす。
 ミナトはまた、その頃の自分の姿を思い起こしていた。今よりもましな顔で笑えていたのだろう。その証拠にあの頃は、自分がどんな風に見えているかなんて、考えたことも無かった。
 今、出来うる限り『普通』でいようと神経をすり減らすミナトには、それは苦い事実だった。今の自分は、あの頃夢見たことや願ったことを、意図的に裏切っているのだ。
 そしてミナトはその隣に何時だって一緒にいた、アイキの姿を思い浮かべた。

 声が変わり、背丈はミナトを追い越した。だがアイキは何も変わらない。その夢や希望も、曇りの無い眼差しも、あのころのまま。そしてその瞳で変わらずにミナトを見るのだ。自分はこんなにすさんでしまったというのに。

 「そんな価値など無いのに。」

 ミナトはつぶやいた。

 その時不意に扉が開いて、この女学校の持ち主である、トソサン院長が顔を見せた。
 「あらミナトさん、まだ残っていたんですか。疲れたんじゃなくて?もう切り上げたらどうです。」
 肘を突き、手に頭をがっくり持たせかけているミナトを見て、院長が声をかけた。
 「ええ、大丈夫です。もうすぐ終わりますから。家であんまり遅くまでやると、灯り代が馬鹿にならなくて。」
 ミナトは慌てて笑顔を作る。中庭に面した事務室は、まだ充分明るかった。

 トソサン院長は、がらんとした事務室に足を踏み入れる。仕事は終わり、同僚達ももう帰ってしまった。仕事が終わった後、院長から課題をもらい、こうして一人勉強をすることは、日課となっている。
 院長はミナトの後ろに立ち、問題を覗きこんだ。
 「ああ、問5ですか。難しいでしょうこれは。でも、そうね、ここまで計算できたのなら、すぐ解けますね。」

 トソサン院長は、見かけは厳しく取り澄ましたように見えて、その実、角の無い、おっとりとした優しい人柄だった。十五年前に死んだ父親から、この学校を継いだのだという。
 ミナトはこの院長からいたく気に入られていた。

 最初ミナトは小間使いとしてこの学校に雇われていた。だが、賃金は低く、ミオが倒れたことも重なって、すぐにアイキの学費が払えなくなった。
 そこでミナトは仕事を増やして欲しいと、院長に頼みに言った。幸いミナトは数字に強く、書類仕事が得意だった。それで、事務や経理の手伝いをさせてもらうことが出来た。 更にミナトから、もろもろの事情を聞いた院長は、しっかり者のミナトを気に入り、資格を取ることを進めてくれた。ミナトは働きながら必死で勉強し、半年で資格を手に入れ、事務として正式に採用された。一家がようやく生活して行けるのは、正にこの院長のおかげだった。

 今、ミナトは教師になるための勉強をしている。これはトソサン院長たっての願いだった。良家の子女が集まる学校として、生徒達の手本となるような、凛々しい女性教師を、少しでも確保したいのだという。大都会のユカシカオリでもまだ、女性教師は多いわけではない。そして院長は、ミナとを正に自らの思い描く女性教師にぴったりだと考えているようだった。
 ミナトには、自分が教職にむいているかどうかなど分からない。ただ勉強は、特に数学は好きだった。そして、理論や理屈を分かりやすく解説するのも得意だった。
 だが、院長先生が望むように、真の意味で生徒たちを導くことが出来る教師になれるかどうかは、ミナトには分からない。多分なってみても分からないのよ、と院長は言う。
 
だがこれは、ミナトにとっても願っても無い話だった。
 アイキは後一年ほどで卒業となるが、すぐに芸で食べていけるようになるかは分からない。母にも、もっといい医者に診せてあげたい。ミサキにも楽しみを見つけてあげたい。ナギサにも新しい服を買ってやりたい。
 更にそうしたもろもろの事情に加えて、ミナトには教師という職業に対する、ある種の憧憬のような念がある。死んだアイキの祖母も教師だったのだ。

 ミナトが問題をすべて解いてしまうと、院長はゆっくりと窓のほうに歩を進めた。開け放した窓からは木々のそよぐ音に混じって、夕刻の町の喧騒が、切れ切れに、だがここまで響いていた。院長は窓枠に手を置き、身を乗り出すと、大きく息をすいこんで言った。

 「本当にいい季節だこと。私は一年のうち、この頃が一番好きなの。日が長くって、緑のにおいがして、町中お祭りの準備で賑やかで。お祭りが近づいてくると、ああもう、夏がくるんだなあって思うのよ。
 でも、夏やお祭りがそんなに好きって訳でもないの。夏もお祭りも、始まってしまえば頭が沸騰したみたいに訳が分からなくなるでしょ。私は皆がうきうきして、期待に胸を膨らませている、そんな空気が好きなの。だからやっぱり、私はこの季節が好き。お祭りの始まる前が。」

 「私もこの季節は好きですよ。後お祭りそのものも。だって私は丁度夏至の頃生まれたんです。だから、お祭りが近づくと、ああもうすぐ一つ大人になるんだなあって、背筋を伸ばして歩いてました。」
 ミナトは席を立って院長の傍らに並んだ。そして、ここ何年間か、祭りがくることを素直に喜べないでいることを思い出し、寂しく笑った。
 「まあ、それは初めて聞いたわ。幾つになられるの?」
 「十八です。院長先生。」

 窓の外を眺めながらミナトは言った。あの頃は一年過ぎるのがどれほど長かったことか。それが、何時の間に時がこんなに駆け足になったのだろう。ミナトはぼんやりとそんなことを思った。
 「まあ私ったら!」
 トソサン院長は、突然おかしそうに笑って言った。
 「私としたことが、あなたがあんまりしっかりしているものだから、もう二十歳を過ぎているような感覚だったんです。
 でも、そうですか。あなたはまだ十七だったんですね。そうしたら、後何年も経たないうちに、生徒とあまり年の変わらない先生が出来てしまうんですね。」
 「そこが心配なんです。」
 ミナトもそう言って笑った。そして、院長先生としばらく雑談してから、帰路に着いたのだった。


 ミナトの心は大概、院長先生と話しているうちに和んでゆく。だがこの日ばかりは違っていた。トソサン院長の好意と、穏やかな笑みでも溶かせないほど、悲しみに心が冷え込んでいた。
 一体どうしたというのだろう。自分には一人の友達すらいないことを思い出したからなのか。
 いいや、違う。ミナトには分かっている。

 アイキのことだ。行きがけに、危うく肩に触れるかと思った、アイキの手。

 ミナトは深くため息をつく。足取りは思い。こんな日が、月にニ、三度やってくる。

 やがて、岬の中腹にあるスズラン広場が見えてくる。広場に足を踏み入れたときにぱっと広がる海の青。この広場の景色はちっとも変わっていない。
 この景色は五百年前から変わっていないんだよと、子供の頃に教えてくれた、優しいお爺さんがいた。もう見ないということは鬼籍に入ってしまったのだろうが。この広場はミナトの小さい頃の遊び場だったのだ。

 ミナトは海側のベンチにがっくりと腰を落とす。もう駆け回ったりすることも無いが、腰掛けて広場の様子を眺めるのは好きだった。
 広場の中央では、もう、お祭りに為の柱を立てる作業が始まっていた。その周りを、子供たちがはやしながら跳ね回っている。あの子供たちはかつての自分の姿だ。
 それをぼんやり眺めながら、ミナトの心は過ぎ去った日々のことを彷徨っていた。

 先刻トソサン院長に十八になるといった時、ミナトは内心どきりとしたものだった。
 十八になる、それは、ミナトがこの町に来て、十年にもなるということを意味している。六年の隔たりが、万里の距離にも勝るものならば、十年の歳月は、もっと取り返しの付かない変化を、ミナトにもたらしていた。

 おそらく、この街に来る前のことをはっきり覚えているのは、姉妹達のうちミナトだけなのだろう。あの家を出たとき、ミサキは五歳、ナギサは一歳。そしてミナトは八歳だった。 ミナトは物心付くのがだいぶ早いほうだったようだ。自分達一家が暮らしていた家の姿をぼんやりと思い浮かべてみる

 それは白い大きな館だった。部屋が幾つもあって、前後には広い庭があり、薔薇や紫陽花の植え込みや、珍しい石楠花の紅い花まであった。この海岸沿いにしばらく北へ上がった、アジサイという街にあったのだと母は言う。

 その館は広かったので、今となっては正確な間取りや、庭の構造までもは思い出すことは出来ない。だがミナトは、八歳だった自分の眼で見た世界ならば、ありありと思い出すことが出来た。
 寝室のたんす脇に背の伸びた印につけた傷、母の白い鏡台と好きだった青い宝石、ベッドカバーの花模様や可愛がっていたお人形、お気に入りの服と天使のブローチ、裏の庭で見つけたカタツムリ、そして門に伝っていた紅い薔薇の芳しい香り。それらのことなら今でも、鮮やかに脳裏に思い描くことが出来るのだ。

 そして、その部屋からも海が見えたこと、そのこともはっきり覚えていた。
 「ぼくんちのまどからもうみがみえるよ。」
 初めて出会った日、アイキはそう言った。多分本人は覚えていないだろう。まだ、五歳やそこらの頃だ。大人達が下で話しこんでいる間に、ミナトはアイキを子供部屋まで引っ張っていった。同じ年頃の遊び相手が出来たのが嬉しかった。男の子なら、ままごと遊びの相手をしてもらえる。二人の周りをおもちゃのお皿やお人形が取り囲んでいた。

 「でも、ぼくのおうちからはおふねもみえるよ。まっしろいほをつけてね、あかやきいろのはたをさして、きらきらひかっていっぱいとおるよ。どうしてここにはおふねがいないの?」
 小さいミナトは得意げに言った。
 「お父さんが言ってた。ここは海が浅くて岩が多いから、お船が近づくと沈んじゃうの。お船は時々、遠くの方にちらりと見えるだけなの。」
 そして、ミナトは確かこう尋ねたはずだった。
 「あなたは大きくなったらお船に乗るの?、船乗りになるの?」
 「うううん、ぼくはふなのりにはならないよ。」
 アイキは瞳を輝かせる。
 「ぼくはね、ヤクシャになるんだ!ぼくのおかあさんはね、ミナツキ座のジョユウだったんだよ。おとうさんはオオドウグだったんだ。だから、ぼくもおおきくなったら、オシバイするひとになるの。」
 小さいミナトは感心して言った。
 「すごいすごい、がんばって、アイキ君。」
 するとアイキはこう言った。
 「ねえ、ぼくがヤクシャになって、おかあさんとおなじブタイにたてたら、そのときはミナトちゃん、みにきてくれる?」
 「うん、行く、きっ行くわ、そのときは呼んでね。」
 それが最初だったのだ。

 それからもアイキの祖母は、小さいアイキをつれて、幾度と無く館を訪れた。アイキの祖母、スミイト先生は、ミナトの母、ミオの家庭教師だった。とは言え、ミオが小さい頃から面倒を見てきたわけではない。ミオがミナワ家に嫁ぐにあたって、外国の山奥の辺鄙なところで育った、学も教養も礼儀作法もなっていない、十六の娘を、ミナワ伯爵夫人に仕立て上げるために雇われたのがスミイト先生だったのだ。

 急ごしらえの貴婦人を作る間に合わせのような関係ではあったが、ミオとスミイト先生の間柄は、極めて深いつながりとなった。大見得を切って家を飛び出し、誰からの助けも無いまま、慣れない生活に戸惑うミオにとって、スミイト先生は唯一、心の内を語ることが出来る人物だったのだ。
 
その頃既に、アイキの両親は亡く、スミイト先生は、死んだ夫が建てた家に孫息子を引き取って育てていた。スミイト先生が来るときは、何時もアイキも一緒だった。スミイト生が来ると、ミオは先生にかかりきりとなった。ミナトは、それを心待ちにしていた。ミサキは今よりももっと弱々しかったし、ナギサはまだ生まれてもいなかった。近所に同じ年頃の子もいなかった。ミナトは同い年なのに体も小さく、少し幼い所のあったアイキに、すっかりお姉さん風を吹かせていた。
 大人達が話しこんでいる間、ミナトはアイキを館のあちこちに引っ張っていった。そうしてままごと遊びをしたり、春には甘い蜜の花をむしったり、夏には百合の花粉で服をだめにしたり、そんな風に日々は過ぎていった。

 そのうちに、スミイト先生がミオを尋ねる頻度は、段々と増えていった。その頃になると、母親が、スミイト先生にしか心許して話すことの出来ない理由が、ミナトにもおぼろげながら分かっていた。しかし、ミナトは素知らぬふりをしていた。母親が、その事を、子供たちには知られたくないと思っていることも分かっていたのだ。
 スミイト先生が来ると、相変わらずミナトはアイキと遊んだ。
 生栗を食べておなかを壊したり、雪だまを投げてびしょぬれになったり、そんな風にして、また日々は過ぎていった。

 父親の死、その事については事故だと聞かされてきた。家でもそういうことになっている。
しかし、ミナトは、一度たりとも信じたことは無かった。
 あんなことが起きる少し前、ミナトが父親の苦しげな言葉を聞いていたことは、母親でさえも知らぬことだ。

 父親について思い起こすとき、ミナトが思い出すことが出来るのは、その大きな手と、亜麻色の髪を丁寧になでつけていたことだけだ。
父親と一緒に海に消えた馬車や、二頭の馬についての方が、まだよく覚えているくらいなのだ。当時の母の様子はとてもよく覚えているというのに。 亜麻色の髪に縁取られた父の顔は、まるで絵の入っていない額縁の様に真っ白なのだ。

 あるいはこれは、ミナトが意識的に記憶の中から排除したものであるらしかった。幼年期の思い出は、父親に関する事柄だけが、寒々しい空白として、大きく抜け落ちている。

 ただあの夜聞いた父の言葉、そしてあの美しい女性の姿を除いては。
 
父親が死んでしまった後、母と娘は、その館を去らなければならなくなった。出て行ったのではない。追い出されたのだ。
 ミナトの父は、ミオと結婚する際、一族に対して相当な無理を通したらしい。祖母も叔父も、幼いミナト達を抱いたことすらなかった。父が死んでしまえば、彼らがミオや、その娘達を、家に留めて置く何の理由も無かったのだ。
 ミオにはこうなることは予測できていた。だが彼女に何が出来ただろう。実家に戻れる当ての無い、ミオの頼れる相手はといえば、スミイト先生だけであった。そして、先生は母娘を拒みはしなかった。

 ある晴れた日、ミナトは生まれた家を後にした。母に手を引かれ、わずかばかりに残された荷物を持ち、小さいミサキの手を引いて。
 ミナトは晴れた日の光の中に、そのときの母の姿を思い出す。

 まるで御伽噺のお姫様みたいだった母親が、粗末な服をまとい、おしろいも紅も差さない化粧気の無い顔には、苦悩のかげりが暗く、目の下に現れていた。
 その時ミナトは、永遠に魔法の解けてしまったことを知ったのだ。

 詰草の生い茂った坂道で振り返ったのが、あの白い家を見た最後になった。母娘は、一番近い港から船に揺られてユカシカオリへと向かった。

 波止場では、スミイト先生がアイキの手を引き四人を待っていた。ミオは、先生の顔を見たとたん、糸の切れたように泣き伏した。
 子供たちは目を丸くして、それを眺めていた。

 しかし、その涙の意味について、正しく理解できたのはミナトだけだったろう。ミナトは泣いている母親を見ようとはしなかった。ただずっと、目を伏せていた。

 それからわずか二年後に、スミイト先生は亡くなってしまった。しかし、彼女の残した恩恵は大きかった。

 晩年のスミイト先生は、家庭教師をやめ、近くの貧しい人々のための小さな学校で、子供たちに読み書きや計算、世界の有様について教えることを、ライフワークとしていた。アイキだけではなく、ミナトもそこへ通うようになった。スミイト先生と共同で学校を運営していた先生方の厚意で、先生の死後も、二人はそこに通うことが出来た。
 スミイト先生は家では、ミサキやナギサにも勉強を教えてくれた。先生の死後は、ミナトやアイキが二人の先生になった。ミナトが事務の仕事を出来るのも、ナギサが商店に就職できたのも、ひとえにスミイト先生のおかげなのだ。おかげで水商売に身を落とさなくとも、何とかやってい行ける。

 ミナトは優しいが、一本筋の通ったところのある先生の口ぶりを、懐かしく思い出す。
 先生がミナトに教えてくれたのは、勉強だけではない。家事の方法や料理、買い物の仕方、家計のやりくり、そういったものは全て、母に代わってスミイト先生から教わったものだ。

 ミナトは今、切に思う。先生が今ここに生きていれば、と。

 昔、ミナとの世界は単純だった。魔法は解けてしまっても、まだミナトは自分を信じることが出来た。
 今、ミナトの世界はぐちゃぐちゃだ。このもつれにもつれた心の糸を、どうやって解いたらいいの?と、ミナトは心の中にいる先生に問いかけ続けていた。

 私はどう振舞えばいいだろう?先生なら教えてくれるだろうか?先生であれば分かるだろうか?今それを教えてくれる人は誰もいない。ミナトは怖いぐらいに一人だった。

 何時の頃からなのだろう、ミナトはもう、心のままに振舞うことが出来ないのだ。
 きっかけはそう、ミサキの想いに気付いたことだった。姉妹達のうちで、一番弱々しいミサキは、幼い頃からどこか鬱屈を抱えていた。彼女は何時も、素直でも正直でもないのだ。だから、ミナトは気付くのが遅れたのかもしれない。そして、気付いたときにはもう、取り返しの付かぬほど、ミサキは冷たく凍り付いていた。

 ミナトは最初のうち、月並みな行動を取ろうとしていた。すなわちミサキに譲ろうと。
 だが、ミナトは自分を疑い始めたのだった。これは本当に正しいことなのだろうかと。

 自分が正しいと思ってきたことは、偽善だったのではないか?ミサキの為を思ってしていると思っていても、それはただの自己満足ではないのだろうか?

 それはかえって、ミサキの心を傷つけるのではないか?

 ではどうすれば良いのだろう?どうすれば皆が幸せになれるのか?

 母やナギサの幸せは、ミナトを脅かさない。二人は尚、単純な世界にいるのだから。だがミサキは、多分ミナトを憎んでいる。そして慕ってもいるのだ。ありふれた姉妹以上に。
 ミサキはミナトがいなければ、生きてはゆけない。そのことが一番、ミサキを傷つけている。だからミサキは、ミナトが妬ましいのだ。ミナトの物が欲しくて欲しくてたまらないのだ。そしてそれは、裏返しの愛情の表現に他ならない。
 ミナトもあるいは、ミサキを憎めば話は単純なのだろう。気持ちをさらけ出し、醜い部分を見せ合って。
 だが、ミナトには出来ないのだ。良い子ぶっているとミサキに蔑まれても、ミナトの中に堰き止められた感情は、体の中でどんなに渦を巻いていたとして、外の世界に言葉となって、或いは涙となって、発露するということが出来ないのだ。それを求められても、まるで羽も無いのに飛べと言われているかのように、ミナトにはそれをすることが分からないのだ。

 恐らくは、ミナトはミサキよりも正直ではないのだ。

 ミサキは意図的に嘘をつく。だがミナトは、何が嘘で、何が本当なのか知ることが出来ないのだ。知ることが出来ず彷徨っているのだ。本当だと思っていることが偽りで、でも偽りは偽りで。一から十まで、ミナトには自分の何もかもが信じられない。それだというのに傍目には、ミナトは、完璧な娘に見えるらしいのだ。それは、重圧以外の何物でもなかった。

 皆自分の外面しか見ていない。内面はこんなに醜いのに。頭がいいだとか、働き者だとか。
 確かにミナトは家族の為に、身を粉にして働いている。だが、ミナトには分からないのだ。それが果たして本当に家族を思ってしていることなのかどうか。
 ミナトは何かそこに、言いようの無い虚偽の匂いを感じ取るのだ。中身の無い、空ろな行為のように思われるのだ。
 それが、ミサキには分かるのだろう。

 だが、ミナトはそのことを改めることが出来なかった。自分の内実が暴露されるのが怖かった。
 ミナトの家の均衡は、ミナトの嘘の上に成り立っている。今それを露にすれば、一瞬で崩れ去ってしまうことは、目に見えている。
 そして何より理屈ぬきに、ミナトは正体を見破られてしまうことが怖かった。恐ろしくてたまらないのだ。失望され唾棄され、呆れられ見捨てられ、あらゆる悪い結末が怖くてならなかった。 
母はミナトに感謝しているのだろう。ナギサはミナトを信じきっている。

 アイキは、そしてアイキは、ミナトをまるでこの世で一番大切な宝物のように見るのだ。それはこの上なくミナトを苦しめた。

 こんな嘘で塗り固めた空ろな女なのに。そんな価値など何処にも無いのに。

 最初ミナトは怯えていた。丁度アイキが『アカデミー』に通い始めた頃だった。世の中には、自分なんかよりも、もっと素晴らしい女の子が沢山いる。アイキはその事に何時気付くだろう。『アカデミー』に行けば、全国から才気あふれる美少女達が集まっているのだ。いつ自分がつまらない女だということに気付いてしまうだろうか?ミナトにはそれが何より恐ろしかった。
しかし、ミナトに出来ることはといえば、働いてアイキの学費を払い、家を居心地よく整えて、安心して自分の道に打ち込めるよう、心を配ることのみだ。そしてそれは、ミナトの、自分の中で一番許せない、『尽くす』という偽善だったのだ。

 何と言う矛盾だろう。自らの欠点の穴埋めに、最も欠けている部分であがなわなければならないとは。ミナトはアイキのために仕事を増やし、資格を取り、感謝され、そして、とても苦しくなった。やればやるほど駄目なのだ。何をしても良いことにならないのだ。

 ただ、自分が自分である限り。

 だからミナトは思うようになった。アイキを引き止めてはならないと。彼だけはこの狂った世界に毒されてはいけない。それこそが、最上の、愛情の表現ではないのだろうか。アイキは自らと同じように、芝居を愛し、志を同じうしてお互い高め合い、二人手を取ることで更なる飛躍が望める相手と出会うべきなのだ。
 そんな相手と出会ったのなら。自分など、一生をとして愛するには足りぬ、愚かしい女だと知るだろう。二人の関係は、ままごとにちょっと毛が生えただけの幼いものであったと気づくだろうと。

 ミナトは恐れつつもその事を、アイキがばつが悪そうに言い出す日を、今日か明日かと待ち構えるようになった。その為に、不用意な言動を避け、不自然にはならぬほどの距離を置き、冷やかしの言葉にはなるべく反応せぬように、日々身を慎みながら。
 もし、アイキが「アカデミー」の女の子ではなく、ミサキを選んだとしても、それはそれでよいとも思った。少なくとも自分よりはましなのだ。そして、ミサキの願いも叶うのだから。
 その日がきたら、にっこり笑って祝福しよう。そう言い出すのを、ずっとずっと待っていたことも言おう。
 自分はちっとも傷ついてはいないのだと。誰も悲しい思いなどしてはいなかったのだと。
 
 しかし、その日は待てど暮らせどやってこない。
 二人の間の変化とは言えば、ミナトの置いたわずかの距離だけ。しかし、そのことがより一層二人を意識させる。事態はミナトから見て、益々悪い方向へ向かっていた。 

 幼い頃は、針で指をつついたようにささやかだった胸の疼きは、この頃になると、何か、異様な激しさと痛みを伴って、ミナトの体をさいなむようになってきた。口には出さずとも、アイキの方でも、それが大体似たような具合であることを、ミナトはひしひしと感じ取っていた。いや、性差を考えれば、それはアイキにとってこそ拷問のようなものなのだろう。何か起きたとき、果たして自分は本当に責任が取れるだろうか?毎夜扉の前にたんすを置く好意は、自分に対する戒めでもあるのだ。

 ミナトは、必死の思いで身を律しながら、何だか、小さすぎるトランクに、いっぱいの荷物を詰め込んでいるような気分になるのだ。いくら押し込めど押し込めど、金具は止まらずにまたふたが開く、それでもまた押し込もうとする。とうとう金具ははじけ飛んでしまう。そしてミナトは途方にくれる。一体どうしたらよいというのか?
 苦悩の積もるあまり、家を飛び出そうとしたことだってあった。だが、ミナトがいなければ一体誰が一家の暮らしを支えてゆくのか。ミナトの逃げ道は何処にも無いのだ。

 考えてみれば、これほど無駄で無意味な努力というものは無い。自分で自分の幸せを、台無しにするための努力など。
 そしてもう、その事は、ミナトにも分かってきているのだ。

 しかし、ミナトには自分が止められない。彼女を動かしているのは、何か暗い力を秘めた、とてつもなく巨きなものだった。それはミナトに、ひたすら自分を追い込むことを要求するのだ。もっと自分に鞭打ち、痛めつけろと言って責め苛むのだ。
 ミナトはこの、自分に取り付いた考えを、無意味な妄想だと退けようともした。そんな事のために、他人の心を誘導しようと、日々神経をすり減らすなど、滑稽であるばかりか傲慢ですらある。
 しかし、駄目なのだ。何度振り切ろうとしても、その度、ミナトに取り付いた何かは、引力の様な恐ろしい力でミナトを引き戻す。まるで、巨大な星に引き付けられるちっぽけな林檎のように、ミナトはそちらの方に魅せられ、逆らうことが出来ないのだ。

 ミナトはもう、自分の倒錯ぶりに、ほとほと愛想が尽きていた。そして、自己嫌悪は益々その巨大な何かを大きくするのだ。

 この悪循環の渦の中で、ミナトは訳も分からぬまま走り続けている。そしてそれを思うとき、父親の、うめきにも似た、あの苦しげな言葉が、鮮やかに蘇るのだ。
 「助けてくれ、ニヌリ、恐ろしいんだ、まるで、悪魔の御する馬車にでも乗っている気分なんだ。馬は火を吐き狂ったように猛り続ける。車輪はきしみ、深い轍がそれをとらえる。
 その轍は、ああ、その轍は、真っ直ぐに奈落のほうへと伸びてゆくんだ。どうすればいい?ニヌリ、それを止めるには、どうすればいいんだ!教えてくれ、教えてくれニヌリ!」
 「あら貴方、狂った馬は死ぬまで走り続けるもの、深い轍は決して外れぬもの。 そして、悪魔は貴方を奈落へ導くもの。
 止められやしないわ、貴方、墜落するまでは決して、決して。」
 


 「号外!号外!」
 新聞売りの少年が鳴らすベルの音に、ふっとミナトは現実に帰る。

 日が長いので、広場にはまだ、昼間の名残の熱気が漂っている。だが、子供達も、そぞろ歩きの老人も、勤め帰りの人々も、そろそろ帰路に着く時間だった。これから夕飯の買い物をして、食事の用意をしなければならない。

 すっかり遅くなってしまったと、慌てて立ち上がろうとしたとき、少し頭がぶれたような感覚があって、ミナトはまた座りなおした。
 トソサン院長が言った通り、少し疲れが溜まっているらしい。この心の落ち込みようも、そこから来ているのか。

 「今夜は早く寝なくちゃ。」
 そうつぶやきながら、ミナトは改めて立ち上がると、足早に市場のほうへ徒歩を進める。
どんなに辛くとも、どんなに疲れていても、ミナトには感傷に浸っている時間など満足に無いのだ。そして、忙しさこそ、ミナトの最大の救いだった。忙しく働いている時にだけ、その苦悩を少し忘れることが出来るのだ。

 広場を出ようとするミナトに、新聞売りの少年が、無造作に号外を押し付けてゆく。手の中に入った号外を何の気無しに見た時、ミナトは思わず絶句した。



   ヘイゲイ新聞                  六月一日    号外号
   

  今日、六月一日昼頃、過去二年ニ於イテ火都コウバイ、花都ヒトヒラヲ騒ガセシ、怪盗ヨセアツ面相ヲ名乗ル男ガ、ユカシカオリ市郊外在住、自営業、ケッサイ・ゲップ氏(五十一歳)宅ニ侵入、秘蔵ノ絵画二点、(時価五十億ハイ相当)ヲ盗ミ、逃走シタ。
犯人ハ事件ノ八日前ニ予告状ヲ送リツケ、犯行ヲ予告ス。警察関係者等ガ厳重ナル警備ヲシイテイタニモカカワラズ、大胆ニモ犯行ハ行ワレタ。市ノ警察本部モ一様ニ衝撃ヲ隠セナイ。
 警視庁ハ、予告状ノ筆跡、犯行ノ手口ナドカラ、犯人ヲマンゲキョウ地方ヲ北上中トミラレル、ヨセアツ面相ニ間違イナイモノト断定。モハヤ、水都ユカシカオリヘノ上陸ハ時間ノ問題ト見テ、市民ニ警戒ヲ呼ビカケテイル。
 又、コノ事件ヲ受ケテ、事態ヲ重ク見タ警視庁ハ、ゼンテンコウ長官ヲ中心トスル、特別対策本部ヲ設置。ヨセアツ面相ニ、徹底的ニ対抗スル構エヲ見セテイル。


 ミナトの度肝を抜いたのは、その怪盗ヨセアツ面相の人相書だった。

 彼は、大体のところ、二十四、五歳と見られる青年だった。顔は整っていてとても美しい。だが、そのいでたちは余りにも滑稽だった。
 モノクロの新聞画では色合いまでは分からないが、ブロンドと見える巻き毛を腰のあたりまで伸ばしている。それはいい、それはいいのだが、頭の上に、黒っぽい色の唐草模様のスカーフの様な物を、ほっかむりに被っている。これは、変装の意図があるのだろうかとミナトは思う。顔を隠さなければならない事をした事が無いミナトだが、泥棒は、顔を隠さなければやっていられないことぐらいは想像が付く。だがその奇妙なほっかむりは、彼の鼻の下で結ばれていて、その美しい目も、形の良い鼻も、丸見えになっているのだ。普通変装するのであれば、まず目と眉を隠すだろうに。

 首から下は、上流階級の貴公子よろしくタキシードを着込み、ひらひらのシャツを着て、大きなリボンを締めている。腰には広いサッシュとサーベル、だがその下は・・・・・・、シラサゴ諸島の住民がつけているような、腰みのを付け、更にその下は、筋骨たくましい太ももと脛に、針金のような脛下をさらしている。
 足元はくりくりした目の亀をかたどった可愛らしいスリッパを履き、そして背中には、大天使のように輝かしい翼を生やしている。何もかもがちぐはぐで滑稽だった。

 ミナトの足はもう止まりかけていた。
 「何これ・・・・、本当にこんな人間が実在するの?」
 そうつぶやきながら首をひねる。散歩の途中らしい中年の男性が、大きな声でこういうのが聞こえた。
 「ヨセアツ面相だと、何てイカレた野郎なんだ!けしからん、実にけしからん!」
 そう、それは、イカレているとしか言いようの無いいでたちだ。その姿で盗みを働くなど、正気の沙汰とは思われない。
 その滑稽さは、先程からのミナトの苦悩を、一時的にせよ、吹き飛ばすに足る作用を持っていた。ミナトはヨセアツ面相のことを考えながら、市場へと歩き出した。
 

5 嵐


 その夜、市場から帰るあたりで崩れ始めた空は、夕食が終わる頃になるとぐずりだし、季節外れの嵐が来た。雨の、軒やガラス戸を叩くばらばらという音が、薄暗く明かりの灯った部屋の中に響いている。
 海側の窓からは、遠くの灯台の光が、カーテンをすり抜けて点滅している。反対の、街側の窓の向こうには、石段の上にぼんやりと、この嵐でも眠らない街の灯りが雨粒ににじんでいた。

 ごうごうという風の音を聞きながら、だが一家は安心していた。幸い、アイキの祖父が建てたこの家は、内装こそ古びているが、とても堅固で頑丈だった。雨漏りも隙間風も入っては来ない。

 ミナトの家では、ヨセアツ面相の人相書の話題で大いに盛り上がった。ナギサは勤め先から、ヨセアツ面相に関する様々な噂を仕入れてきていた。
 「何でもさあ、ケッサイ氏の絵を盗んだときには、虹の橋を渡ったって話だよ。さっき店に来た記者の人が言ってた。部屋の窓から隣の塔まで、突如出現した虹の橋を渡って逃げたんだって。屋根から屋根伝いにね。」
 「じゃあ、あの翼は飾り物?」
 「うーん、でも、飛んで現れたり逃げたりしたこともあるって話。あれは、魔法使いって人も多いよ。幽霊やら魔物やらを、引き連れたりしてたこともあるみたい。」
 ミサキですらも興味津々と言った風に、身を乗り出す。
 「ヨセアツ面相に付いて来た幽霊はどうしたの?」
 「それがね、そのお宝の元の持ち主の幽霊で、今の持ち主が、如何に卑劣な手段でその宝を奪ったのかを、切々と語ったらしいよ。その持ち主は、お宝を盗まれた挙句、刑務所に入ったって。」

 ミサキが感心したように言う。
 「義賊でもあるんだ。」
 ミナトは言った。
 「あたしに言わせれば、あれが一体何をしたいかわかんないわ。盗みたいの?目立ちたいの?どうしてそんなことするんだろう。」
 ナギサはさらっと言う。
 「きっと、どっちもなんでしょ。」

 警察は、市民に注意を呼びかけているようだが、姉妹はのんきなものだった。注意すべきは、もっとお金のある家の話だろう。しみったれたこそ泥ならともかく、派手好きで鳴らしている怪盗が盗みに足る宝物が、この家においてあるはずも無い。三人は皆他人事と、めいめい勝手にしゃべくりあっていた。
 だが、ミナトは気付いた。ミオが何かそわそわと落ち着き無げに目を動かしているのだ。

 「お母さん?」
 ミナトは声をかけた。
 「どうかした?」

 ミサキもナギサも話を止めてミオを見る。
 「うん、ちょっと待ってて、今朝あなたに渡すものがあるって言ったでしょ。」
 ミオはゆっくり立ち上がると、貧血でフラフラする体で二階へ上がっていった。ミナトははっとする。今朝のこと、あの変な人相書きで忘れていた。一体ミナトに渡すものとは何なのだろう。
 ミナトはナギサに言う。
 「何なの、あたしに渡したい物って。あんた、何か知ってるんでしょう。」
 だが、ナギサはかぶりを振る。
 「知らない、渡す物については知らない。あたしが知っているのは又別のこと。」

 すると、フラフラと居間に戻ってきたミオが、どこか戸惑ったような表情を浮かべてミナトの前に座った。
 「何もこんな怪盗が、世間を賑わせている時に当たるなんてと思うのだけど・・・・・。」
 そう言いかけて、ミナトに右手を差し出す。
 ミオの右手には古びた、だが物の良さそうな、ジュエリーケースのようなものが乗っていた。
 三人は驚きと供に、少し蒼ざめる。

 「お母さん、まさか、まさかそれって・・・・・・・。」
 お宝・・・・・・。ミサキがつぶやく。
 ミオは必死に言った。
 「絶対に誰にも言っては駄目よ。ここにいない人では、アイキ君にしか言っては駄目。これがここにあることは、今まで私だけの秘密にしてきたの。内緒であの家から持ってきたの。ここにこれがあることが分かれば・・・・。」
 取り上げられてしまう、あなた達の叔父さんに、と、ミオは言った。

 ミオがゆっくりとケースを開ける。中からはこの世ならぬ輝きを放つ大きな宝石が現れた。
 それは海を思わせる、幻想的な青さだった。
 三人は思わず息を呑む。こんなに間近で宝石を見るのは、ミナトにとって久しぶりだ。そして、はっと思い出す。と同時に背筋がすうっと冷たくなる。
 「これって、もしかして・・・、『月の涙』!」
 「そうよ。」
 と、ミオは言った。ミナトの顔面から血が引く。

 「『月の涙』?」
 ミサキとナギサがオウム返しにする。どうやら、覚えていたのはミナトだけだったらしい。
 「これは代々、ミナワ家の女主が受け継いできたものなの。お父さんが死んだとき、持っていた宝石は全部取り上げられちゃったんだけど、これだけは必死で隠して持ってきたの。だって、悔しくって・・・・。お父さんからもらった物を、全部無くしてしまうなんて・・・・・。」
 ミナワ家の女主は私よ、と、ミオは言いたかったのかもしれない。ミナワ伯爵の妻は私よ、と。しばし三人は呆然と、その青い宝石を眺めていた。

 ミオがミナトの手に、『月の涙』をそっと乗せる。ひんやりした感触に、ミナトの震えも大きくなる。
 「『月の涙』は、とても希少なブルーダイヤモンドなの。百カラットもあるのよ。海のようなマリンブルーをしているでしょ。とても珍しい上に、偉大な研磨師が磨いた素晴らしいカットを持っているの。そして、初代ミナワ家当主の妻に、当時の国王が、忠義への感謝として贈ったという、歴史的価値も備えているの。」

 三人はどんどん怖くなってきた。そんな物が、今までこの家にあったなんて。一応戸締りはするにせよ、忍び込もうと思えば簡単に出来るような家だ。おまけに女ばかり四人、唯一の男性には、とても用心棒など務まらない。その上、昼間は病人だけになってしまう。
 「家、セキュリティーなってないし・・・・。」
 ナギサが呆然とつぶやく。
 三人は思い知った。‘持たざる‘という事の、気楽さを。これではおちおち眠ってもいられない。

 「これをミナトに引き継ごうと思うの。」
 と、ミオは言った。ミナトはいぶかしげにこう聞いた。
 「どうして?何で今日なの?お母さんはまだ生きているし、当分死にそうにもないし。だって、お医者様だってそう言ってるじゃない。」
 すると、ナギサが我が意を得たり、という顔になって、そっか、と言った。
 ミナトは警戒する。
 「何なの?あんたが知っているっていうのはこの事?お金がかかることだったら駄目だからね。」
 ナギサは甘えた声で言った。
 「やだなあ、お姉ちゃん、あたしがいっつもおねだりばかりの極楽トンボなんて思わないで欲しいな。もしも、お姉ちゃんがお金掛けたくないんなら、全然かかんないことだよ。」
 だったら何よ、とミナトが返す。
 「愛の問題よ。」
 ミオがにこにこして言った。
 「そう、愛!」
 ナギサが口をそろえる。

 ミナトは途方も無く悪い予感に身を振るわせた。
 「愛・・・・・。」

 「単刀直入に言うけどさあ、お姉ちゃん、アイキ君と結婚しない?今すぐに。」
 「え!」
 ミナトの頭は真っ白になった。ナギサの言葉はミナトが常々恐れ、そして避けようとしてきた問題の核心を、そのものずばり突いてきた。ミナトは一言も発せずに硬直する。ミサキの顔を見るさえも浮かばない。尚もナギサはまくし立てた。
 「ほら、どうせ遅かれ早かれそうなるんだったらさあ、ここいらでスパッとすっきりしておいた方がお互いの為よう。お姉がお金掛けるの嫌なら、お役所に行って届けるだけでも済むんだしさあ。あとはあの、見苦しい壁を取っ払っちゃえば、それだけで、次の日からあたし達は昨日と同じように生活出来るって訳よ。ね、お金かかかんないでしょ。」

 「そんなこと、急に言われても・・・・・・。」
 ミナトはようやくそれだけ言うことが出来た。

 「急にって、お姉ちゃん何時からそうやってんのよ。あたし達が何も知らないとでも思ってんの?本当はずっと待ってたんじゃない? ははん、そうやって、一度は焦らして見せるつもりだな。憎いねっこの!」
 ナギサはそう言っておじさんのように笑った。

 「お母さん、何とか言ってやってよ!」
 ミナトは母親に助けを求める。だが、すぐに気付く。母が、幸せそうに自分を見つめるその意味に。

 「本当にここいらではっきりしなければ駄目よ。あなたは一家の暮らしのこととか、将来の仕事のためとか、働くか勉強するか、そればっかりじゃない。もっと自分自身を可愛がって欲しいのよ。それには恋するのが一番なのに。なのにあなたは、いい人が身近で思ってくれていても、それを隠そうとして・・・・。お母さんとても心配なの。
 ミナトは照れているの?小さい頃はアイキ君のお嫁さんになるっていつも言っていたじゃない。アイキ君だって今も同じ気持ちよ。皆あなたたちの幸せを願っているのよ。あなたがぐずぐずしている間に、アイキ君を誰かに取られちゃったらどうするの?」
 皆、ミナトがその、取られることを待っているなんてことは、夢にも考えていないのだ。

 ミオが優しく言った。
 「ミナ、あなたが身を固めるときは、この「月の涙」をあなたに引き継ごうと思ってきたのよ。これからはあなたがこの家の女主人として、これを保管してて欲しいの。決して表向きには出せないけれども、大事にしてね。これが私たちとお父さんをつなぐ唯一の証なのだから。」

 ミナトの声はあまりの動揺に上ずる。
 「何、何でそんなことになっちゃったの?」
 ミオが言った。
 「私も常々あなたのことを心配していたところだったんだけど、昨夜ナギサがアイキ君を連れてきて、そういうことで話を進めて欲しいと・・・。」
 「はっ?」
 ミナトが驚きの声を上げる。そしてナギサにこう問い質す。
 「あんた、アイキに何て言ったの?」
 
ナギサがふっふーんと鼻を高くする。
 「何だかんだ言ったって、やっぱり気になるんじゃない。
 あのね、アイキ君、本当は卒業して一人前の役者になったら、正式にプロポーズするつもりだったんだって。でもね、あたしが、それじゃあ何時になるかわかんないよって言ったら、うーんて考え込んでた。
 でも、今度は男としてのけじめがどうのこうのって言う訳よ。だからあたし言ってあげたの。女はあんまり待たせると不安になるものよって。そしたら又アイキ君、うーんて唸って考え出したんだ。
 それであたし、駄目押しにこう言ってあげたの。
 お姉ちゃんは今のところ、他に男っ気の無い生活してるけど、この先何年も待ってって事になると、どうなるか分かんないよ。お姉ちゃん、取られちゃうかもしれないよ、ほら、あの人男受けいいから。そしたら、ミナがそれで良いんなら、それもいいかなって言ったよ、確かに。
 だから、ここで、お姉ちゃんが『うん』と言いさえすれば、めでたく話が成立するって事。どう?アイキ君と今すぐ結婚しない?」
 ミナトの頭はくらくらしてきた。全く思考が働かない。どうにかしなきゃという言葉だけが上滑りでスルスルする。

 得意げな様子のナギサに、ミナトはやっと返す。
 「大体何で、ここであんたがアイキをたきつけるのよ?何の意味があるの?」

 するとナギサは急に真面目な顔になって言った。
 「だってそうなってくれないと、あたしのほうでも色々と困るんだもん。あたし達ずっとここに住んでるけど、本当はこのお家アイキ君の所有物でしょ。もし、アイキ君がお姉ちゃんとは別のお嫁さんをもらったら、この家はあたしの家じゃなくなっちゃう。
 そりゃあ、あたしはじきにお嫁に行っちゃうだろうけどさあ、やっぱりここは、あたしのお家じゃないと嫌なの。ここに帰って来られなくなっちゃうじゃない。」

 ミナトは深いため息をついた。姉妹は皆、実家の無い苦労を、母の姿から学び取っている。そう思うことの不合理はどこにもない。ナギサにとってはごく自然な発想だった。
 だが、伏兵だった。一番歳の幼い妹と、病身の母親に何も気取られまいと、細心の注意を払ってきたことが、こんな風に裏目に出るなんて。まさか、ナギサが自分の勝手な都合で、こんな風に大胆な行動に出るなんて。 

 だが、ミナトは必死の抵抗を試みる。
 「もう、あたしのあんたの都合で結婚させる気?そんなにこの家がいいのだったら、あんたが結婚しちゃえば。」
 ナギサがそれを一笑に付す。
 「またまたそんなこと言っちゃってえ。やあよ、あたしは。だってアイキ君はナギサのお兄ちゃんだもん。
 それにあたしはお金の無い男はいや。玉の輿狙いなの。アイキ君と結婚したら、ずーっと働いてないと駄目じゃない。そんなの嫌だもん。
 それに、アイキ君て、何かぼうっとしてて間が抜けてて頼りないし、どっかぱりっとしないよねえ、いざというときなんかも全然役に立たないし。まあ、性格はいいんだけどね。でもすぐに騙されるし、お金のこととかも無頓着だし、あれは絶対貯まんないね。
 お姉ちゃんてさ、玉の輿似合わないよね。ほら、才能はあるけどお金と権力は持ってないみたいなさ、そういう物になるかならないか分かんない人の御尻叩いて地道に尽くしてさ、そうして後になってから、自分がここまで来れたのも、皆彼女のおかげですみたいな事を言われるのがイメージよね。
 ほら、アイキ君とお姉ちゃんはこんなにお似合い。スルッと決断しちゃってよ。」
 何もそんなにぼろくそに言わなくてもと、ミナトの真っ白になった頭にぼんやり浮かんだが、何も言葉にならなかった。

 そしてナギサは、傍らの、二番目の姉に向かってこう言った。
 「ね、ミサちゃん、ミサちゃんもそう思うでしょ?」
 ミナトの背筋に戦慄が走る。今のやり取りは逐一、ミサキの目の前で行われていたのだ。

「そうね、その通りよ。」
 ミサキは抑揚のない声で言った。
 「おめでとう、お姉ちゃん。」
 それは冷たく、だがその分、底の知れない怒りを感じさせる声だった。ミサキがミオとナギサの前でこんな声を出すのは、初めてかもしれない。
 ミサキの顔は真っ蒼になっていた。もうこれ以上、あふれ出る感情を隠し通すのは不可能だった。

 ナギサが、何が起きたのか判らないというように姉の顔を見る。ミオも怪訝そうに黙る。
 「だって、そうでしょ、お姉ちゃんとアイキ君とのことはもうとっくに決まったようなものじゃなかったの?お母さんもナギサも、こんなにずっと期待して待ってるんでしょ。
 アイキ君の方がその気になっていさえすれば、これ以上もう言うことは無いじゃない。何を今更そんなに渋っているの?それとも・・・・、それとも何かどうしても、あの人と一緒になるわけにはいかない事情が、この家にはあるとでもいうの?」
 ミサキの瞳が挑戦するように光を放つ。

 ミナトは必死に言う。
 「そうじゃないの、これは純粋にあたしの中だけの問題で・・・・・・。」
 ミサキは苛立ちを隠さなかった。
 「へえ、お姉ちゃんの中に、アイキ君との結婚を渋る理由があるんだ!もしかして他に好きな人が出来たとか。 嘘よね、そんなの見ていて分からないとでも思ってるの!」
 「確かに他に好きな人はいないけど、でも、無理なの、あたしでは駄目・・・・・、アイキを駄目にする・・・・、 あなたに気を使ってるわけではないけど、でも、あたしでは駄目なの・・・・、とにかく駄目なのよ、分って!」
 だがその言葉に、ミサキは激昂した。
 「何処があたしに気を使ってないってのよ!そうやって自分を卑下すれば人が喜ぶとでも思ってるの!どうしてよ、どうしてそんなにあたしに気を使うの?どうしてそんなにいい子ちゃんなの?そんなの・・・・、そんなの見せつけられるだけ惨めなだけなのに・・・・。」

 真蒼な顔でミオがミサキに問いかける。
 「ミサ、ミサ・・・、いつからなの・・・?」
 「知らないわよ。」
 ミサキの目から涙が零れ落ちた。ミナトが母親とナギサに隠し通そうとした様に、ミサキもまた、二人にだけは知られたくなかった。その為にずっと嘘をついてきた。
 だが、限界だった。とうとう自分から何もかも壊してしまったのだ。

 「知らないわよ・・・、気付いたらアイキ君しかいなかった・・・。優しいし、いつもかばってくれたし・・・・・。でも、アイキ君があたしに優しいのは、あたしがお姉ちゃんの妹だから。分かってたわ・・・・、ずっと分かってたけど・・・・。」
 ミサキの顔が涙に歪む。
 「ミナ、知ってたのね、あなたは・・・、それで・・・。」
 つぶやくようにミオが言う。だがそれはミナトの悩みの半分でしかないのだ。
 「どうして相談してくれなかったの?ミサ、もしそうだったら、母さん色々考えたのに・・・・。」
 「言ってどうするのよ!」
 ミサキが牙をむくように言った。
 「お母さんに言って、それでアイキ君はあたしのこと見てくれるの?言ってお母さんがあたしの味方になってくれたの?そんなはずないじゃない、お母さんもナギサも、お姉ちゃんを応援してたじゃない!ずっとずっと、小さな頃から・・・・。
 お姉ちゃんはあたしと違って頭が良くて働き者で、ずっとこの家を支えてて・・・・、それなのに・・・、あたしはろくに働けもしない・・・、性格だって捻じ曲がっててしまったし・・・・。
 アイキ君があたしを好きになるなんてありえないのよ!醜い醜いひねくれ者のこのあたしを好きになるなんて!
 でも・・・、悔しかった・・・、あたしはここにいるのにお姉ちゃんの影みたいで・・・、ここにいるのはあたしなのに、確かにあたしなのに・・・・。」

 「ミサ・・・、」
 ミオはミサキの手に肩を回して抱き寄せようとした。だが、ミサキはそれを振り払って言った。
 「さわらないで、哀れまないでよ!同情なんて大嫌い!お姉ちゃんもそうよ、何時だってあたしの顔色をうかがって・・・、あたしに譲ろうだなんて、そんなこと本気で思ってたの?惨めになるだけよ!どうしてそんなにいい子ちゃんなの?はっきり言えばいいじゃない、アイキ君に手を出さないで、それは自分の物だって!あたしみたいにうんと醜くなって!」
 余りの激昂にミサキの息が荒くなる。ミナとはおろおろと言った。
 「ミサ、ミサ、落ち着いて、発作が起きちゃう・・・。」
 「発作なんて、起きるんだったら起きればいいのよ!」
 ミサキが叫ぶ。
 「そうよ、この悪い心臓と気管支のおかげで、あたしは自分の食い扶持を稼ぐことさえ出来ないの!こんなに生活ががぎりぎりだってのに。
 あたしだって・・、あたしだってアイキ君の夢のために働いてあげたかったわ、働いて感謝されたり労わられたりしてみたかったわよ!
 お母さんもナギサも、こんなに惨めなあたしより、よく出来たお姉ちゃんの方がいいでしょ?お姉ちゃんとアイキ君に一緒になって欲しいんでしょ?あたしがいるのが邪魔なんでしょ?あたしがここに居る事で、この家の幸せを邪魔しているのよ・・・。あたしなんて・・・、あたしなんて・・・・、この世に生まれてこなければ良かったのよ!」
 そう叫ぶとミサキは部屋を飛び出した。止めようと手を掛けたミオは、その勢いに振り払われ、よろけて転ぶ。ナギサが慌てて助け起こす。
 ナギサは大きく目を見張っていたが、余りの展開に心がついてゆく事が出来なかった。母親を抱えて呆然と座り込む。

 ミサキは勢いに任せて部屋を飛び出すと、そのまま玄関へと駆け抜ける。
 ミナトは一瞬気が抜けてしまいそうになったが、すぐに我に返り、ミサキを追う。

 玄関の扉のところでミサキは、今帰ってきたばかりのアイキとぶつかる。アイキは突き飛ばされ、尻もちを付いて少し驚く。
 「あれ、ミサ?」
 そして、ミサキの顔が涙でぼろぼろなのを見てぎょっとした。

 すぐにミナトが後を追って家を飛び出す。後ろでアイキが何か叫んでいたが、ミナトに聞き取る余裕は無かった。
 ミサキは乱れた呼吸であんなにも恐れていた石段を駆け登る。ミナトはそれを見て蒼くなる。
 「ミサ!駄目よ心臓が!」
 だが、ミサキは止まらない。振り向きもしない。ミナトも慌てて石段を駆け上がる。だが、何か神がかり的に力を増したミサキの足に、とうとう追いつくことが出来なかった。一番上の石段を登り街へ曲がるる角を曲がったところで、ミサキの姿は忽然と見えなくなってしまった。

 呆然と立ち尽くすミナトの肩に、激しく雨が降り注ぐ。ミナトの頭に浮かぶ想いは一つだけだった。
 「探さなくちゃ・・・・。」
 ミナトはすぐに駆け出す。家からほとんど出ない、ミサキが頼れる友達など、居ようはずも無い。夏場とは言え、この雨の中を虚弱な体でさまよえば、一体どうなってしまうのだろう。
 「探さなきゃ、一刻も早く、家につれて帰らなきゃ・・・。」

 だがそんなミナトの体が一滴の雨粒にも見えてくる程、ユカシカオリの街は巨きく、そして高くそびえているのだ。
 しかしミナトは、その迷路のような街に飛び込んでゆく。その姿はまるで、殉教者のように見えた。


 その夜一晩中、ミナトはユカシカオリの街中を走り回った。繁華街から貧民街、花街までをも探し回った。
 嵐のユカシカオリは、普段より人通りこそ少なかったが、雨を気にしない人々や、家でじっとしていられない遊び人が、雨風にすらはしゃいで、笑いあいながら闊歩していた。
 ミナトは傘も差さずに走った。走って走って走った。ずぶぬれで走り回るミナトを街の人々は、珍しげに、だが無関心にながめる。誰も、ミナトを芝居の登場人物のように、好奇の目で見ながら、自分達は自分達の夜を過ごすことに夢中なのだ。
 ミサキとは違い、気管支も心臓も丈夫なミナトだが、胸は破れそうになり、息は上がってくる。疲れが溜まっていたからか、心なしか足もふらつき、眩暈までした。

 だがミナトは走るのを止めなかった。それ以外どうしたらいいのか分からないのだ。この街のどこかに、ミサキはいるのだろう。ミサキがこの雨の中傷つき、ずぶ濡れになってさまよっているのならば、自分もそうしないわけにはいかない。同じ痛みを負うべきなのだ。
 しかしミナトには分かっていた。それすらも自分に対する言い訳なのかもしれない。ただ、痛みを感じることが、探しているということが重要なのだ。自分の為にそうしているのだと。
 だが、いくら探しても、走り回ることの不可能なミサキの体では、そんなに遠い所へと行けないはずなのに、ミサキの姿は何処にも見つからなかった。どうして?とミナトは震える。もしや、もしかして・・・・。ミナトの頭に最悪に事態が浮かぶ。ミナトは何度か、海や川に身投げした女の子の亡骸が、空しく引き上げられるところを見たことがある。

 「ミサ、お願いだから馬鹿なことは考えないで・・・。」
 ミナトは荒い息でつぶやく。

 疲れた足をがくがくと震わせながらも、だが、ミナトには分からない。果たして自分は本当はどう思っているのかが。確かにミサキには死んだりして欲しくは無い。体を壊すようなことはして欲しくない。確かに胸は痛みはする。だが、ミナトにはそれが悲しみなのか、怒りなのか、憎しみなのか、それが良く分からなかった。そして心の中で激しい痛みを伴う何かが渦巻いていても、ミナトには涙さえ湧いてこないのだ。さっきのミサキはあんなに素直に涙を流していたのに。
 さっきミサキは、自分をミナトの影の様だと言った。だが、ミナトに言わせれば、自分こそ正に影のようなものではないか。日が当たらないのではない、実体が無いのだ。他人が存在することでしか、存在を感じられないのだ。それこそ正に影ではないのか。そして、影に人を愛することは出来るだろうか?

 ミナトは体の震えと心の震えにおののきながら、一晩中走り回った。それだけが唯一、苦しみを避ける手立てだった。体を痛めつけることで、心の痛みを麻痺させているのだ。

 そして、ミサキの影すら見つけられないまま、冷酷に夜が明ける。雨は深夜に峠を越えて、強い風と小雨が嵐の名残を残していた。その中を、ミナトは茫然と家へと向かう。
 今帰らなければ仕事に間に合わなくなる。本当だったら休んででも探すべきなのだろう。本当にミサキを心配しているならば。だが、無断で休むということが許されるはずも無い。今、職を失う訳にはいかなかった。そして、ミナトはそんな自分にも失望する。影のような自分に。

 家のそばの海岸に近づくと、海風で体の熱が奪われて、ミナトはぞくぞくと体を震わせた。走るのを止めていても、胸はきりきりと痛く、息をするたびにおかしな音がする。がくがくする膝でとぼとぼと歩きながら、ミナトは早く着替えなければと思った。きっと、朝食はナギサが何とかしてくれている。

 ふと、角を曲がったとき、黒い傘を差したアイキとはちあわせた。二人は一瞬目を合わせると、少し気まずそうにそらした。

 「ミナ、ずぶ濡れだよ。」
 アイキが言った。ミナトは一言だけ言った。
 「うん。」
 アイキはミナトに傘を差し出す。
 「もう意味が無いぐらいに濡れてるからいらない。」
 ミナトは言ったが、アイキは傘を押し付けた。そして、黙ってミナトと供に家へと向かった。

 「バイトは休んじゃったよ。」
 「うん。」
 そして二人は又しばらく黙る。二人は昨日までの、見つめ合ったまま動けない二人ではなかった。お互いの気持ちが確かなことが、直接ではないにせよ、言葉となり、公になってしまったからだ。

 「昨夜のこと、おばさんから聞いたよ。」
 アイキがぽつりと言う。
 「うん。」
 ミナトにはそれしか言えなかった。

 何とはなしに、気まずい風が二人の間にはある。だが、その一方でアイキの方はほっともしていたのだ。今までミナトが自分に距離を置くその理由を図りかねていた。何故気持ちが伝わってくるのに手が届かないのか。望んでいるであろうことと反対に拒み続けるのか。アイキにはその理由がはっきりしたように思われていた。
 そうか、ミサキに気を使っていたのか。それは確かに厄介なことだろう。色々とこれからももめるだろう。
 だが、それは、今までアイキの考えていた最悪のシナリオでは無かった。ミナトの気持ちも自分へと向いているのだ。それは、確かなのだ。

 「おばさん、泣いてたよ。自分は何も見えてなかったてさ。」
 「お母さんのせいじゃない。あたしがミサのこと、ちっとも分かってなかったから・・・・。」
 「ミナ、」
 アイキが強い口調で言った。
 「そんな風になんでも一人で抱え込んじゃ駄目だ。そりゃあこれは繊細な問題だし、僕が出来ることなんて限られてるけど・・・・、でもさ、ミナだけが責任を感じることじゃない。多分、ぼくら皆少しずつ無神経だったんだよ。僕もナギサもおばさんも。あんな風になるまで誰も気付かなかったなんて・・・、皆ちょっとづつ悪かったんだ。ミナとミサだけ苦しめて、自分達はのんきでいたんだから・・・、付けが回ってきたんだ。僕はその穴埋めをしたいんだ。ちょっとでもいいから・・・、そうでもないと気が済まないよ。僕はミナが苦しむのを見ると、余計に苦しくなるから・・・・。」
 そう言ってアイキは、ミナトをじっと見つめた。ミナトは言う。

 「あたしは本当にミサキを心配しているわけではないかもしれない。ただそういう風に見えるだけで。自分でも分からないの・・・、本当はどっちなのか。」
 「そんな事あるはずが無い!」
 アイキが強く言った。
 「見てれば分かるよ、ミナは何時だって皆なの為を思っているじゃないか、何時も何時も自分を犠牲にして、僕はそんなミナの為に何かしてあげたいんだよ!何時も支えてもらってばかりだけど、ミナを守ってあげたいんだよ!小さい時からずっとずっと、そう思ってきた・・・・、ミナの悲しみや苦しみを払ってあげたい。それが出来ないのであれば、僕の夢や野心も、皆影みたいに色あせてしまうんだ!」

 ミナが好きなんだ。アイキは必死に言った。

 それはミナトが一番恐れ、かつ心の奥底では一番求めていた言葉だった。ミナトの体から力が抜けそうになる。
 瞬間、あの、暗く巨きな何かがミナトを捕らえる。

 「やめてよ・・・。」
 ミナトはアイキに背を向け、石段を降りようとする。だが、アイキはそれを、ミサキへの遠慮と取る。アイキはミナトを捕らえる巨大な何かのことを知る訳も無い。

 アイキはミナトの方へ足を踏み出す。ミナトは背を向け、何時も精一杯に拒んできたその瞳は、こちらを向いていない。

 アイキはミナトの体に手を掛け、後ろから抱きしめた。昨日の昼の、悪友と恩師との約束が、彼に力を与えていた。
 ミナトの体は、胸の甘い痛みに千切れそうになった。頭は振りほどけと言っているのに、体の力は抜けて足が崩れ落ちる。

 そして、そのままミナトは昏倒した。急にぐったりとなったミナトを抱えてアイキは驚く。そして、その体が異常に熱いことに気が付いて、狼狽した。
 疲れが溜まっていたことに加えて、この雨に当たられて、熱が出たのだ。

6 ナミハルカという女の子

    
その日一日、ミナトは三階の自室に寝かされていた。たまにふっと目が覚めても、それが夢なのか現実なのか、判断が付かなかった。そしてミナトは現実から逃げたかった。このまま消えてしまいたかった。

 さっきアイキが言った言葉、自分が何時も皆のためを思っていると・・・・。それが何よりミナトを苦しめた。
 「かいかぶりよ・・・。」
 そんなはずはないのだ。自分がよく分かっている。アイキは自分の虚像を愛しているのだ。そして自分はそれを被り続けるしかないのだ。だが、その為にミサキを傷つけてしまった。

何故それが分からないのだろうか? 

 アイキだけではない。ナギサも母親も、皆偽りのミナトを真実と信じている。一晩中走りまわって熱を出したミナトを、誰もがいたわるのだ。皆、ミナトを妹想いの娘だと騙されているのだ。違う、違うのだとミナトは思う。自分がこうして仮面を被ってきた陰で、ミサキは一体どんな想いをしてきたのだろう?自分が正直でないばっかりに、ミサキを常に脅かしているのだ。
 心ははやり、ミサキを探したいと思うのに、ミナトは意識を保つことさえままならなかった。体が全く言うことを聞かなかった。まるで溺れるように、夢と現のあわいを行ったりきたりする。そして、夢の中でも、ミナトはミサキを探していた。
 高く巨きなユカシカオリの街はすっかり水に沈み、魚の様な人の様な人々が、街角を泳いでいる。その中を、ミナトも魚になってミサキを探していた。だが、いくら泳ぎ回ってもミサキは見つからなかった。何処にもいないのだ。走っていた時そのままに、ミナトの息使いも荒くなる。
 その時、細くて柔らかい手が、ミナトの頬に触れた。

 「お母さん・・・・。」

 ミナトはすがるように思う。小さい頃熱を出した時、何時も母親がこうしていてくれた。水仕事などしたことの無い、白くて優しい手だった。誰かが話しているのが聞こえる。

 「きっと過労がたたったのね。ニ三日休まないと駄目よ。」
 これは母だろうか。

 「ええそうね、本当にミナって働きすぎだから。昨夜も傘も差さないで無茶をするんだもの。きっとこの風邪は、神様からの休日ね。休め休めって言われているのよ。」

 誰?とミナトは思う。
 それは若くて高い、女性の声だった。ナギサの声ではない。ナギサの声はもっとパンチが利いているし、それにまだ子供のものだ。ミサキのものでもない。この声はもっと、ふわふわと無邪気で甘く澄んでいるのだ。
 ミナトははっとする。この手、この手は一体誰のものだろう。ミオの手はかつては柔らかだったが、もうだいぶ荒れて硬くなってきている。ナギサの手はもっと小さい。ミサキの手はもっと細くて骨ばっている。
 これは、誰のものだろう、誰の・・・・。そう思いながら、やっとはっきり目を開けることが出来た。

 目も覚めるような銀色の巻き毛が、ベット脇に流れていた。熱で力の入らない視線をやっと動かして、ゆっくりと見上げる。そしてミナトは驚愕した。

 それは非現実的なまでに美しい少女だった。輝くようなプラチナの巻き毛を膝下まで伸ばし、海のように青い瞳は、大きく、しかも子犬のように愛くるしい。すっきりと丸い額を出して、頬はまるで薔薇色、唇は赤ちゃんのように生まれたてに見える。
 青いストライプのシャツワンピースを着て、白い飾り気の無いエプロンを締め、頭にはリボンを巻くという、ユカシカオリの一般的な街娘の格好をしているが、それが抜け出してきた王女に変装させたとでも言うように、全く不釣合いだった。

 この少女にはまるで、生活の澱というものが全く無いのだ。

 彼女はミナトが目を開けたのを認めると、にっこり笑ってこう言った。
 「ミナ、良かった、目が覚めたのね。お水飲まない?」
 見れば彼女は脇に、水を張った洗面器を置いて、濡れタオルを手に持っている。ミナトは混乱する。何で自分は見ず知らずの女の子に、いきなり看病されているのだろう。この綺麗な女の子は一体誰だろう。

 「だ、誰?」
 ミナトはようやく言った。すると女の子は、にっこり笑ってこう言った。
 「あたしの名前はね、ナミダノウミ・ナミハルカ。ナミって、呼んでね。」
 あっけに取られつつミナトは言った。

 「ナミ・・・さん?それで、ナミさんは一体どういういきさつで、あたしの看病をしてくれているんでしょう。」
 すると、その、ナミハルカと名乗る少女は左手を振って言った。
 「ナミさんだなんて、敬語使っちゃ嫌よ。あたしのことは、ナミ、って、呼び捨てにして。」

 訳も分からずミナトはこう言い直す。
 「え?ナミ・・・は、どうしてあたしの看病なんかしているの?」
 「だって、」
 とナミが言う。
 「ミサは飛び出しちゃったっきり帰ってこないし、ナギサは仕事があるし、ミオは疲れさせちゃ悪いし、アイキ君は、アイキ君は自分が看てるって言ったんだけど、でもあたしが付いてるからって、ミサを探しに行ってもらったの。」
 ミナトは益々混乱する。
 「でもどうして、一体何の義理があってそんなことするの?あなたとあたしは今日初めて会ったはずよ。」
 するとナミは、輝くような笑顔を向ける。
 「あたしはミナのこと、とっても良く知ってるわ。だって、生まれた時からずっとずっと見てきたのよ。あなたがハイハイしている時も、初めてしゃべった日も、生まれた家を出るときも、それからもずっと、あたしこの家であなたのことを見てきたのよ。」
 ミナトは訳が分からなくなる。
 「でもあなたは昨日までここに居なかったじゃない。あなたとは今日初めて会ったわ。この家に住んでいるのは、あたしとアイキとお母さんと、それに妹達だけだったわ。」
 だが言いながらミナトは何だか不安になる。果たして本当にそうだったのか、そう思えるほどに、ナミは当たり前の様な顔をしているのだ。
 「人間ではね。」
 と、ナミが言う。
 「は?」
 ミナトは一瞬あっけに取られる。
 「人間ではって、じゃあナミ、あなたは人間じゃあないの?」
 そんな問いにあっさりナミは肯く。
 「そうよ、今は人間の姿をしているけど。」

 大丈夫だろうか、この娘、と、ミナトは心配になる。こんなに綺麗で可愛らしいのに、ちょっと頭がおかしいんじゃないのだろうか?尚もナミが続ける。
「あたしはね、宝石なの。宝石の精。主である貴婦人を守護する大地の眷属。あなたは昨夜、あたしを受け継いだでしょ。その時からあたしの主は、ミオからミナになったの。末永くどうぞよろしくね。」
 そう言ってナミが、花の様に笑う。ミナトはナミの話が、妙に辻褄が合っていることに不安になった。
 「じゃあ何?あなたはその『月の涙』の精だっていうの?」
 「そうよ、あたし『月の涙』なの。」
 ナミはあっさり肯定する。嘘をついているような顔ではない。否定的感情の全くない顔。ミナトは風邪のせいもあって、頭がくらくらしてきた。そんなミナトにナミが、ちょっと申し訳なさそうに言った。

 「実はね、ちょっと色々事情があって、宝石の姿で居るわけにはいかなくなったの。それでしばらく人の姿でいることにしたのよ。ミオは少し頼りの無い主だったけど、ミナはとってもしっかりしているから、あたし達を助けてくれるかもしれない。そう思って人の姿になったの。しばらくご厄介をかけるけれども、どうぞよろしくね。」
 ナミはそう言ってにっこりと微笑んだ。それは、女のミナトでも惚れ惚れとするほど可愛らしい微笑だった。

だが、それはミナトの苛立ちに余計に火を注ぐ。
 「どうせ嘘をつくんならば、もっとましな嘘を考えなさい。そんなこと誰が信じるの?宝石が人になるなんて聞いたことが無いわ。」
 「でもそうなの。あたし『月の涙』なの。昨夜までミオの部屋の、ジュエリーケースの中であなたのことを見守ってきたのよ。
 ね、ミナ、人間て面白いわね。あたし常々思ってきたの。ミナやミオやナギサと、お話できたらいいのになあって。あたし話してみたい事がいっぱいいっぱいあったのよ。千年間、ずっと主の貴婦人とお話してみたかったけど、我慢してきたの。宝石って言うのもなかなか苦労があるものなのよ。ミサとはまだ話せてないけど、夢かなっちゃった。」
 明るい笑顔、甘い声、満ち足りた気配。ミナトの頭はくらくらと痛くなる。だが荒い息の中、力を振り絞り必死に抵抗した。

 「ねえ、話をはぐらかさないで。質問に答えなさい。あなたは何処の誰なの。どうしてここでこんなことしているの?本当の事しゃべってよ。」 
 だが、ナミはこう繰り返す。
 「答えてるじゃない。あたしは『月の涙』よ。それ以外の何者でもないわ。
 ねえ、ミナ、イワシの燻製って美味しいわね。さっき昨夜の残り物を食べたの。ほら、アイキ君、昨夜晩御飯食べ損ねた分。あたしは千年生きてるけど、物を食べたのは初めてだったのよ。物を食べるのって、楽しいわね。あたしは何時も、貴婦人達の胸元で、美味しそうなお料理を見てきたけど、いつかあんなのも食べてみたいなあ。どんな味がしたんだろう。ああ、でも、別にご馳走作れって言っているわけじゃあないから。今このお家がぎりぎりなのはあたしも知ってるもの。ちゃんと心得てます。でもいつか、ミナの得意料理、ローストポークのオレンジソースは食べてみたいなあ。何時も誕生日とかに作ってるじゃない。」

 何でこの娘は自分の得意料理のことまで知っているのだろう。ミナトはあっけに取られる。誰がそんなこと教えたのか。
 大体、何でミオやアイキもこの娘に堂々と、ミナトの看病を任せているのだろう。さっきはミオと穏やかに話をしているのも聞こえてきた。ミナトには分からない事だらけだ。
 苛立ちつつ、また詰問しようとして、ミナトは声を出そうとしたが、お腹に力を入れようとすると目の前が真っ暗になって息が切れ、四肢がしびれて力が抜けた。一瞬また気が遠くなりそうになる。その様子に、ナミが心配そうに声をかける。
 「ミナ、大丈夫?あんまりお話させないほうが良かったかしら。ごめんね、あたしも根がおしゃべりなものだから。ミナとお話できたのが、つい嬉しくって。あ、そうだ、お水飲まない?」
 そういえば、口も喉もからからだった。ナミが水差しからコップに水を注ぎ、ミナとに手渡す。ミナトはやっとの思いで少しだけ起き上がる。

 ぬるくなった水を飲みながら、ミナトは今ここでナミについてあれこれ問い質すのは止めにしようと思った。熱で頭が回らないし、声を出すのもつらかった。一つのことに意識を集中することは今は無理だ。
         ~そう言うんなら、じゃあ今はそういうことにしといてあげる。後できっちり説明させよう~
 ミナトは心の中でそう思った。

 「何か食べられそう?さっきミオがおかゆ作ったのよ。」 
 その言葉に、ミナトは母親のことを思い出す。
 「お母さんは、お母さんはどうしてるの?」
 ナミは悲しそうに言った。
 「自分は駄目な母親だって。ミナのこともミサのことも、全然見えて無かったって。そして、すごくすごく、ミナとミサのことを心配している。だって、ミナは倒れちゃうし、ミサは帰ってこないし。」

 その言葉に、ミナトは自分が母親を深く失望させたことを知った。結局自分は上手くやろうとして、それに失敗したのだ。昨日までミナトが神経をすり減らし、必死に保ってきたことの全てが、めちゃくちゃに壊れていた。何もかもが台無しだった。
 そしてどうやら、ミサキはまだ見つかっていないらしい。ミナトは布団の中でいてもたってもいられなくなる思いだった。

 だが、ミナトは動けなかった。悔しいが、全然力が入らないのだ。さっき母が言った通り、ニ三日寝ていないと、動き回ることは出来ないだろう。それ程重症の風邪だった。

 ナミが言う。
 「アイキ君は、「アカデミー」を休んで、今もミサを探しに言ってるわ。あたしも後で探しに行くことにしたのよ。だから、お願いだから自分だけをそんなに責めないでね。」
 ミナトはぼんやり思う。今朝、アイキにも同じ様なことを言われた。

「自分は自分を責めているのだろうか?そしてそうだとしたら誰のために?」
ミナトは心で思う。それが自分では一番に許せないのだ。

 「ミナが自分を責めても誰も喜びはしないのよ。あたしだって、ミナが苦しむのを見るのはとても辛いわ。」
 そう言うナミの眼差しに、ミナトはどきりとする。
 それは、少しの曇りもかげりも無い、まっさらな眼差しだった。その青さに、ミナトは『月の涙』のきらめきを思い出す。そして慌てて気を取り直す。

 「誤魔化されたりしないんだから。」

 ナミはミナトから空になったコップを受け取る。
 「ミナ、もっと自分をいたわってね。大事にしてあげてね。あたしの幸せはミナの幸せなんだから。そうだ、おかゆ食べられそう?」
 ミナトは自分の体と相談する。 
 「多分無理だわ。」
 「何も欲しくないの?」
 ナミが心配そうに言う。ミナトは少し考えて言った。
 「ローズヒップティーなら・・・、蜂蜜を入れて。風邪の時にはいいって、昔スミイト先生が言ってた。」
 ナミは勢いよく立ち上がる。
 「なら、持ってくるから。スミイト先生かあ、懐かしいわ。ミナはスミイト先生が大好きだったわね。」

 ナミの背中を見ながらミナトは思う。スミイト先生のことまでも知ってるなんて。この娘一体何者なのだろう。
 だが、考えはまとまらなかった。深く考えようとすると、頭が余計に痛くなった。今ここで、これ以上詮索するのは無理なのだ。まずは、体を治すことだ。治してから、きっちり話を・・・、
 「きゃー!」

 そう考えるミナトの耳に、勢いよく梯子を転げ落ちるナミの悲鳴が聞こえてきた。
 「いたたたたた・・・・、あ、これが痛いってことか。二本の足って、バランス取るのが難しいのね。気をつけなくっちゃ。」

 そんな独り言に、ミナトの困惑もいっそう深くなっていった。本当に彼女は誰なのだろうか?

7 嵐の去った後

 その後、ナミの持ってきたお茶を飲んだ後、ミナトはまた眠りに落ちた。夢の中でミナトは、結婚式に出席していた。ユカシカオリの結婚式は、通常屋外で行われる。祭壇のある公園は、だが、すごい嵐だった。雨風に耐えながら、ミナトは思う。誰の結婚式だっただろう?
やがて入場してきた花嫁は、若き日のミオだった。ミナトの思い出の中の肖像画から抜け出てきたように、真っ白い衣装を着て、幸せに頬を染めている。
 そして新郎は・・・・、そう、ミナトの父、たった二十八歳でこの世を去った、ミナワ・トバリその人だった。だがその顔は、相変わらずのっぺらぼうのままだ。

 「ほら、ミナ、ちゃんと祝福してあげて。」
 何時の間にか傍らに立っていたアイキがそう促す。
 二人は手を取り合って、ミナトの前に歩み寄る。ミオがお姫様のようににっこり笑ってこう言う。
 「ミナ、私たちとっても幸せよ。今度はあなたたちの番ね。アイキ君と仲良く。」
 父親がミナトの手を取る。
 「ミナ、大きくなったね。」
 そうしてミナトの顔を覗き込む。ミナトはその目を見るのが嫌さに、はっと目を覚ました。

 部屋はもう、オレンジ色に染まっていた。ミナトの頭越しの窓枠とベッドの頭の影が、ずっと部屋の奥の方まで伸びている。
 しみじみと明るく軽やかな夕焼け。長い長い六月の日が暮れる。太陽はもう海に沈んだ頃だろうか。じきに夕闇がやってくるのだ。雨の気配はもう何処にもなかった。

 ミナトは窓の反対側に、やっとの思いで寝返りを打つ。さっきまでナミが座っていたはずの椅子には、ミオが座り、心配そうな面持ちでミナトを見つめていた。
 ミナトは分からなくなる。あれは夢だったのかしらと。夢のように綺麗な女の子がいて、自分の事を宝石だといって、ミナトに、もっと自分をいたわるように、そう言ったことは夢ではなかったのか。

 恐る恐る母親に聞く。
 「あ、あの、ナミは?」
 ミオはこう言った。
 「ナミちゃんならミサを探しに行ったわ。」
 逆にミナトは驚いた。あれは、あの女の子はやはり夢ではなかったのだ。ミナトは言った。
 「夢を見たの。一つは街中水に沈んで、みんな魚になって泳いでいるの。それで、あたしも魚になってミサを探すんだけど、見つからないの。もう一つは、嵐の中で結婚式をしているの。新郎新婦もお客さんもみんなびしょ濡れで、それも変なの、あたしとアイキが見ているというのに、新郎新婦はお父さんとお母さんなの。」
 ミオは寂しげに笑って言った。
 「熱がある時は、水に濡れる夢を見るものなのよ。昔母さんも溺れる夢を見たことがあったわ。」

 ミナトは昨夜のことには触れなかった。そんな勇気は何処にも無かった。そしてミオも何も言わなかった。
 ミナトは昨日の朝からの、母親のうきうきと浮かれた様子を思い出す。ほんの一日前のことだ。その母親が、今は別人のように沈んでいた。
 ミナトは思い知る。母親の期待を裏切ってしまったのだ。そして、自分の思いを通すということは、即座に、母親の期待を裏切る結果となると知った。どこをどうやってもかみ合うことはない。

 「アイキ君が心配ね。昨日から寝ないでミサを探しているのよ。あなたみたいに熱を出したりしたら大変なんだけど・・・。」
 その言葉にミナトは、今朝、期せずして抱きしめられた感触を思い出す。アイキを拒めばまたアイキまで傷つけてしまう事になるのだろうか?
 だが、ミナトは拒まずにはいられなかった。居心地の良いこと、満たされること、良い匂いのする方へは絶対に行ってはならない。始めから、ミナトの魂は損なわれているのだ。救われてはいけないのだ。

 ミナトはこうつぶやく。
 「お母さん、あたしは一体どうしたらいいのかしら。」
 ミオは切なそうにこう言った。
 「ミナ、幸せになりなさい。」

 それから何度も、ミナトは眠ったり目覚めたりした。真夜中過ぎに目を覚ましたときには丁度、部屋ににアイキが入ってきたところだった。ミナトが目覚めたのを見ると、にっこりと微笑んだ。
 ミナトは聞いた。
 「ミサキは?」
 アイキは穏やかに言った。
 「帰って来てるよ。」
 ミナトの顔がぱっと輝く。
 「本当?あの娘具合は悪くないの?」
 アイキは答えた。
 「別にどうということも無いみたい。何でも、すぐに喘息で動けなくなったところを、近くの家の人に保護されていたみたいだよ。発作もすぐに治まったそうだし、多分、ちょっと気まずかったのさ。さっきふらりと帰ってきたって。」
 ミナトは安心のあまり、余計に体から力が抜けていく思いがした。

 ミナトは聞いた。
 「アイキ、あんたは体は何処も悪くない?昨夜は雨に濡れただろうし。ほとんど寝てないんじゃ・・・・。」
 アイキは笑って言った。
 「まあ確かに寝不足でふらふらだけどさ。その外は別に何ともないよ。どうせ明日は祝日だし、ゆっくり寝てるさ。」
 ミナトには、アイキがなるべく自分に心配をかけないように話していることが、見て取れた。
 「ミナの方こそどうなのさ。少しは良くなったの?顔は真っ赤だけども。」
 ミナトは言った。
 「まあ、朝に比べれば。」
 そしてミナトは目を伏せた。今朝のことを思い出した。アイキはミナトを抱きしめて、好きだとはっきり言ったのだ。ミナトはアイキを、どうしようもなく意識せずにはいられなかった。

 昨日まで、二人はお互い距離を測ってきた。ミナトはなるべく開けるように、アイキは折を見つつ近づけようとしてきた。それは緊張に満ちた駆け引きだった。だが、アイキはもうそれを止めていた。彼が最初に心の内を見せたのだ。後はどんどん近くに迫るだけだ。
 アイキはミナトの目を深く見つめていた。もう隠したりためらったりすることもない。ミナトにはそれが一番怖かった。
 ミナトが仕向けようとしてきたように、誰も傷ついてなどいなかったということには、もうすることは出来ない。
 ミサキが傷つき、ミナトが悩んできたことは、全部ではないにせよ、白日にさらされていた。そのせいで、ミオもナギサも深く傷ついてしまった。
 せめてアイキには、余計な傷を負わせたくなどなかった。だが、どうすれば自分には答えられないということを分かってもらえるだろう。自分は価値のない人間だということをわかってもらえるだろう。ミナトは目を伏せ、自分を温かく見つめるアイキと目をあわせないようにしながらそんなことを考えていた。

 「アイキ。」
 「なに?」
 「ごめんね。」
 とミナトは言った。
 「別にいいんだよ。どうってことないって。それよりミナの風邪の方が心配だよ。こじらせたりしない様に、ちゃんと治さないと。」
 アイキがミナトを安心させようとそう言った。だが、ミナトは目を伏せたまま言った。
 「ごめんね、本当にごめんね・・・・。」
 「だから、いいって。」
 アイキが首を振る。しかし、ミナトはそのまま顔を布団で覆い隠してしまった。アイキが戸惑ったように言う。
 「ミナ、泣いてるの?」
 「違うわ。」
 ミナトが強い口調で否定した。
アイキは、かろうじてのぞいているミナトの頭をぽんぽんと叩いた。
 「大丈夫だよミナ、ミナには僕が付いてるし、決して気が変わったりしないから。ミサには今度きちんと話をするよ。大丈夫だよ、多分時間が解決すると思う。きっと全て上手くいくよ。僕は頑張るから、頑張るからさ。」
 ミナトは布団を被ったまま、震えていた。それは何より嬉しく、そして辛い言葉だった。
 ミナトは真っ二つに引き裂かれているのだ。事がどっちへ転んでも、ミナトは苦しまずにはいられない。不幸になれば不幸だし、幸せになっても不幸をやめてはいけないのだ。
 そして、今となってしまっても尚、アイキを騙し続けていることに、強烈な罪悪感を持つのだ。。そしてそのまま意識は薄らいでいった。

 次に目を覚ました時には、もう日がだいぶ高くなっていた。
 ミナトはぼんやりと窓の方を見る。そして少し頭を動かしてみた。くらくらと痛くなった。まだ熱は下がっていないらしい。昨日と違って、少し重い咳も出ている。だが、全体から見ると、昨日よりはだいぶ回復してきたように思える。ミナトは少し、我に返っていた。思考力が少しだが、戻ってきている。

 寝返りを打って反対側を見ると、ナミが椅子に座っているのが見えた。
 「おはよう。調子はどう?」
 ナミが聞く。
 「少し良くなったみたい、昨日よりは。あの・・・・、ミサはどうしてる?昨夜帰ってきたって聞いたんだけど・・・・。」
 ナミが答えた。
 「うん、ミサは昨夜帰ってきたけどね、今出かけてる。」
 「出かけてる?」
 ミナトは驚く。あのミサキが、どんな大切な用事でもなかなか出かけたがらないミサキが?
 「何処へ?」
 ナミが答えた。
 「その、ミサが昨日まで保護されてたっていう家。何でも、お友達が出来たんだって。ほら、今日は祝日でしょ。」

 ミナトは何だか不思議な気分だった。ミサキは積極的に人の輪の中に入っていくほうではない。かなり人付き合いが苦手なほうだ。
 「お友達って・・・、どんな子なんだろう。」
 ナミが言う。
 「きっと、ミサと合う子なのよ。でも良かったわね。ミサが何ともなく帰ってきて。あたし安心したわ。どうなることかと思ったけど。
 それに、ミサにお友達まで出来てあたし嬉しい。あたし密かにミサのことも心配してきたから。年に数えるくらいしか家を出なかったし、家にいるときのミサは、いっつもつまらなさそうだったのよ。口には出さなかったけど、ミナやナギサが帰ってくるのをいつも待ってた節があるわ。」
 こう言って、ナミはミサキに友達が出来たことを喜んでいたが、ミナトは少し複雑な気がした。何か不安のようなものを感じた。そしてナミが、ミナト達が家を留守にしているときのミサキの様子を語ることに、戸惑いを感じた。それはミナトが予想していたミサキの姿とは違っていたのだ。
本当ではないに決まっている、ミナトは思う。ナミがそんなこと知っているはずは無いのだ。

 だが、ミナトはそれを胸のうちにとどめてこう聞いた。
 「ナギサは?」
 ナミが答えた。
 「ナギサはお友達の所。クルミちゃんとか、アヤメちゃんとかのお家。ナギサはね、あれから珍しくとても落ち込んじゃって、色々と話を聞いて欲しいんだって。まあ、無理もないけどね。」
 クルミやアヤメは、家に出入りしているナギサの仲良しの女の子達だ。ミナトはため息をつく。これからナギサとどう接していけばいいだろう。そう悩むミナトにナミが言った。
 「アイキ君は寝てるわ。ほとんど二日間寝てなかったのよ、アイキ君。」
 その言葉に、ミナトは真夜中の出来事を思い出した。昨夜のアイキの眼差しや、心のこもった声が、脳裏に蘇ってくる。顔にはぱっと血が上り、だが胸はとても痛む。
 「だから、目が覚めるまでゆっくり寝かせて置いてあげようって、さっきミオと話してたの。」
 ナミがそう言った。
 ミナトはふと気付く。
 「ナミ、あなたもミサキを探しに言ってくれたの?」
 「うん、そうよ。」
 と、ナミは答えた。
 「でもね、探しにいったのはいいんだけど、道に迷っちゃって・・・。本当に大きな街なのねここは。ほら、あたし、この家から一度も外出したことがなかったでしょ。十年も住んでいるのにとっても不案内なの。北区だけで、アジサイの五倍はあるのかしら。」
 その言葉にミナトは思い出す。ナミが自分を「月の涙」だと名乗ることを。

 ミナトには、宝石が人の姿になるなどとても信じられない。だがナミは、初対面のはずなのに、実によく、ミナトやその家族のことを知っているのだ。親しみを感じるほどに。

 だが、とミナトは思う。そんな事はあるはずが。ないのだ宝石が人の姿になるなんて。何かナミの方で、事情があるのに違いない。それか本当にナミの頭がおかしいかだ。
 それにしても、家族はどうしてナミをすんなり受け入れているのだろう。ミナトは首をかしげる。だが、今はまだ、ミナトにははっきり問い質す気力は戻っていなかった。

 「ナミ、ご飯もらえる?」
 ミナトは聞く。ここは早く回復しなければ。ナミが嬉しそうに言った。
 「ミナ、よかった、食欲出てきたのね。あのね、今日はおかゆだけじゃなくて、イチゴがあるのよ。」
 「いちご?」
 そう、とナミが言う。
 「ミサがもらってきたの。」
 そういうとナミはパタパタと部屋を出て下へ降り、そしてまた派手に階段を転げ落ちた。

 おとといの出来事についで、ひどい風邪に罹ったことで、ミナトの思考能力は大分混乱していた。冷静に、正常な判断が下せなくなっていた。それがどうやら戻りつつあるらしかった。まともに考えられるようになれば考えられるようになるほど、ミナトの焦りは大きくなっていった。
 ミサキの爆発でうやむやになってくれたが、結婚話が持ち上がっている。しかも、ミサキを除く全員がそれに乗り気だった。はっきり好きだとも言われたし、とっさとはいえ、ミナトも想いを口にしてしまった。もうすっかりばれているのだ。そこから破談にする理由を考えるのは容易ではない。

 ミナトは自分の考え方が、一般的ではないことはよく分かっている。それで人を納得させる説明になるかどうか、かなり怪しいものだ。
 一番望ましいのは、アイキに自分とは別の恋人が出来ることだった。そう考えて、だが、ミナトはまた罪悪感に震える。結局アイキを都合のいい様に操ろうとしているのだ。それは、普通の心理とはかけ離れていた。

 どうして自分はこうなのだろう?ミナトはため息をつく。
 こんな自分にかかわるだけ時間の無駄なのに、どうしてアイキは自分以外のもっと素敵な女の子を見ようとしないのだろう。「アカデミー」に行けば、幾らでも居そうなものなのに。

 午後になるとミナトの熱もだいぶ下がり、少し食欲も出てきた。何か水気のあるものが食べたいと言うと、ナミではなくアイキが、庭で取れたスモモを持って入ってきた。目が覚めたばかりらしく、眠そうな目をしていた。そしてミナトに、スモモの皮をむいて食べさせてくれた。
 ミナトには何だかそれが悩ましい行為に思えて、余計に焦りを感じた。ナミは気を使っているつもりなのか、下から上がってこなかった。ミナトは目を伏せて、なるべくアイキを見ないようにしていたが、アイキのほうでは、ずっとミナトの目を覗き込んでいるのが分かった。それは傍目にも、あまりにも甘やかな情景だった。
 それが分かる分、ミナトの焦りも大きくなる。このままではなし崩し的に縁談が決まってしまうだろう。ミサキの事を理由に拒むことは出来るけれど、そんなに長い期間は無理だ。 
 「どうしよう・・・、どうしよう・・・、どうすれば・・・。」
 ミナトの頭の中では、そんな言葉がぐるぐると渦を巻いていた。

 「まあ、あいつにしては良くやった方なんじぇねえの。」
 イギスがギボウシュに言う。ギボウシュは、顔にピエロの化粧を塗ったくりながら相槌を打つ。
 「まあな。」

 ここはユカシカオリの南区にある遊園地、イザヨイ園のバックステージだ。ギボウシュはここでピエロのアルバイトをしている。イギスは例によって入園料をごまかし、ここまで入り込んで茶を飲んでいる。ギボウシュがつまらなさそうに言う。
 「それにしてもよう、妹と三角関係だったなんて、何てベタな話なのかねえ。」
 イギスが言った。
 「現実なんて得てしてありきたりさ。ベタなもんだよ。だからベタがベタなのさ。」
 そうかねえ、とギボウシュがつぶやく。
 「脚本家から言わせてもらえれば、それは怠慢だな。ストーリーは常に新鮮でなくてはな。のんべんだらりと生きている大衆を、はっと目覚めさせる位に。人間の運命が、神の書く芝居なら、きっと神様は駄目な作家だな。おれ以下さ。」
 「お前が神以上かよ。」
 そう言って、イギスが笑った。

 「それにしても、あいつの結婚話はどうなっちまうのかねえ。」
 ギボウシュがつぶやく。
 「まあ、消えはしないだろうな。第一に、あいつにとって宿願なんだろ。ずっとその娘を思ってきたわけだしさ。ここまで期待しちまえば、諦めもつかないさ。
 その上経済的にも好都合だし。あいつにしたって、いつ食っていけるようになるかどうか分からないんだから、嫁さんが教師の資格を取れば、食いっぱぐれる心配もなくなる。
だが、その妹のほうが落ち着いてからだろうけどな。」

 二人は昨日の昼休みに、一度「アカデミー」に顔を出したアイキから、一昨日アイキの家で起こった嵐のような出来事について聞かされていた。
 二人は口をそろえた。
 「何だ、そういう訳だったのか。」
 二人にしても、事態がはっきりしたように思われていた。
 「それで、お前は思いを伝えられたのか?」
 ギボウシュが親身に言った。
 「何とか・・・。昨日言われたように抱きしめたし、好きだとも言ったし・・・。でもその後、すぐにミナは倒れてしまったけど。」 
 そうかそうかと、ギボウシュはアイキの頭をなでた。

 「僕は早く帰って、ミナを看なきゃ。」 
 いやっ、と、イギスが遮る。
 「お前はずっと妹のほうを探せ。こういう場合、妹の方を優先させた方が、姉にとっての受けがいいもんだ。特に、妹に気を使うような姉ならな。」
 アイキが目を丸くする。
 「そうなの?」
 うんうんとイギスが肯く。こんな、ミナトが聞いたらきっと怒ったであろう会話が、交わされてもいたのだ。

 それにしてもよう、とギボウシュがイギスに訴える。
 「三角関係なんて、どうして女の子はこう、限られた男に集中しちまうもんかねえ。俺を選んでくれたら大歓迎なのに。
 三角関係かあ、はあ・・・・、うらやましい。いや、二人といわず、三人といわず、五人とか六人とかの女の子に、ギボウシュ君好きよ、とか、ギボウシュ君はあたしの物よ、とか、ギボウシュ君を盗らないで、とか、みっちり囲まれて、キャーキャー言われてみたいもんだぜ、一度でいいからさ。」
 はあ、とギボウシュがため息をつく。
 「男の夢ってやつか。」
 イギスは余裕の表情だ。ふんとギボウシュが言う。
 「俺はお前のやり方なんて認めねえんだ。恋は常に真剣でなくてはな。と、じゃあ俺は行くぜ、出番だからな。お前もせいぜい、入場係のご機嫌でも取ってろ。」
 そう言い捨てると、ギボウシュは表へと出て行く。イギスもお茶をぐいっと飲み干し、その場を後にした。
 

 ふふふっ、と、意地悪そうな女の子の笑い声が響く。
 ギボウシュののぞいていた、鏡の張り付いている薄い板のような壁、その反対側に張り付いている鏡の前に、女の子が座っている。何しろ壁は天井の下部分が完全に区切られていないものだから、今の会話は丸聞こえだった。
 「いい話聞いちゃった。」
 それは勝気そうな美少女だった。
 「あいつに恥をかかせてやるんだから。」
 女の子はそうつぶやいた。
 
 彼女、スイバ・スグリもまた、「アカデミー」の生徒だった。級はイギスと同じ最上級生だ。スグリには、何としてでもギャフンと言わせたい女生徒がいた。やはり、イギスと同級の、ニッシャ・ニチニチだ。彼女もまた、イザヨイ園のカフェーでアルバイトをしているはずだ。

 スグリの方は、何もこんなところで働かなくとも、学費が払えないわけでも遊興費がないわけでももない。スグリの父親は、市の芸術委員会のお偉いさんなのだ。言わばお嬢様だ。
 しかし、その事でこんな噂が流れていた。彼女が入学出来たのは、父親が何らかの圧力をかけたからだと。スグリにはこれが我慢ならなかった。だからこんな遊園地でパントマイムのアルバイトをして、何とか評判をあげようと奮闘している。だが、悲しいことに、スグリの成績は筆記も実技も、下から数えたほうが早いのだ。しかし、スグリは事あるごとに、父親の威光を傘に来て高圧的な態度をとる。彼女はあまり周りから好かれてはいなかった。

 そんなスグリと真っ向から火花を散らしているのがニチニチだった。女王様スグリと義侠心の強いニチニチは全くそりが合わなかった。二人とも気が強いだけにお互い一歩も引かず、聞こえるように悪口を言い合っているのだ。
 そしてつい最近、スグリはニチニチが、一級下のアイキのことがいいね、と言っていたと小耳に挟んでいたのだ。これは何と格好の題材なのだろう。スグリの心は、意地の悪い喜びにうっとりとなる。

 そしてスグリは、マイムの化粧を半分落としたままその席を立ち、衣裳の上にマントをひっかけて、いかにもぶらり、というように外出する。財布を片手にニチニチの働くカフェーのカウンターに座って、紅茶を注文した。金髪に丸顔、青くて丸い目をした可愛らしい顔だちの少女が、あからさまにいやな顔をする。ニチニチだ。

 「何でここまで来て、あんたの顔を見なくちゃいけないの。」
 「すごい話聞いちゃったんだから。聞かないと絶対後悔するわよ。」
 注文をとりに行くニチニチに、スグリが言う。
 「アイオイ・アイキ君、彼、縁談話が持ち上がってるんですってね。」
 ニチニチはぎょっとしてスグリを見る。
 「ほらほら、興味あるでしょ。」
 尚もスグリは続ける。
 「彼ね、お祖父さんの建てたうちに住んでるんでしょ、それがね、同居している一家との長女との縁談話なんですってよ。さっき彼のお友達が話してたけど、どうやらその家が欲しいらしいのよ。」
 険しい表情でニチニチがスグリの前に紅茶を置く。
 「きっと、財産の問題もあるのよね。詳しくは聞かなかったけど、彼とても悩んでるみたい。」
 怒った顔をしてニチニチが言う。
 「乗っ取られそうって事?」
 そう言うことね、とスグリが言った。
 「そんな事、あなたに黙って見てられるかしら。」
 ニチニチとしては、これがスグリからの情報だという事が腑に落ちなかった。だが、如何にもありそうな事に思われたのだ。アイキの縁談が、強要されたものであって欲しいという気持ちがそれを信じさせた。
 ニチニチは言った。
 「これであんたの全てを許したとは思わないで。でも、ありがとう。」
 スグリは鼻で笑った。紅茶を飲み続ける。そして、腹の中ではおおはしやぎで笑い転げていた。
 

 その日の夜、ミナトは部屋ではなく、台所で夕食を取った。熱を出してからは初めてだ。
 あの騒ぎから二日、ミナトは何だかとても気まずかった。出来るなら避けて通りたかったが、そんなことは無理に決まっていた。それは家族というものの宿命なのだ。

 だが、意外にも、ミオもナギサも落ち着いた様子だった。嬉しそうではないにせよ、ミナトが恐れていたほど落ち込んではいない。

 ナギサとは倒れてから初めて顔を合わせた。
 「お姉ちゃん、少しは良くなったの?」
 ナギサが言った。
 「まあ・・・・。」
 ナギサがふっと、渋そうな笑みを浮かべていった。
 「まあ、人生苦いって事かね。でも、全然気が付かなかった。お姉ちゃんもミサちゃんも、隠すの上手過ぎ。あたしも色々突っ走っちゃって・・・。その、ごめんね。でも、間違ったことはしてないって思ってるからね。こうしてミサちゃんにもお友達が出来たことだし。いいほうに転んでくれたから。
 ミサちゃんのお友達、とっても面白い人なんだって。何かとても変わってるみたい。ミサちゃん言ってたよ、自分は今までとても狭い世界しか見てなかったって。世の中にはこんな人もいるんだって。はなしててこう、パアット新しい世界が開けたんだって。」
 ミナトはぼんやり思う。ミサキはナギサにはこんな話もするのだと。
 「でも、夕飯時にも帰ってこないのね。ご迷惑じゃないかしら。」
 「結構お金のある家だってよ。夕飯のグレードもきっと家より高いのよ。いいなあ、あたしも牛肉とか食べたい。」
 ナギサがイワシの燻製をかじりながら言う。ミサキはその「お友達」の家からまだ帰っていないのだ。
 「いいじゃない。何ヶ月も家から出ないで悶々としているよりはずっと。
 それに、今のあの子には、家族以外で自分の思いを受け止めてくれる相手が必要なのよ、きっと。あたし達じゃあ駄目だわ、あたしもナギサも、何の救いにならない。」
 ミオが言った。ミオもナギサも、ミサキに新しい世界が出来たことを、良しとしている様だった。

 「ねえ、ミサの分のお魚、食べちゃってもいい?」
 ナミが聞く。
 「いいけど、アイキ君はもっと欲しいんじゃないの。」
 ミオが言う。それに答えてアイキが言った。
 「じゃあ、半分こしようよ。一尾ずつ。」
 「やったあ。」
 すぐさまナミは手を伸ばす。その様子をミナトは困惑して眺めていた。誰もがナミがここにこうしている事に、何の疑念も感じていないかのようだ。

 「ナミちゃん、イワシ好きだっけか。」
 ナギサがたずねる。
 「うん、とっても美味しい。」
 ナミが輝くような笑顔で言った。
 「そうか、あたしはもっといいおかずが食べたいけどなあ。こんな貧乏食の代表みたいなやつじゃなくって。海老のカクテルとか、サーモンのマリネとか、ロースとビーフとか、カツレツとか。」
 ナギサが宙を見ながらうっとりという。ナミが言った。
 「七月のミサのお誕生日には、きっと何時も通りミナがローストポークを作ってくれるわ。あたし、楽しみに待ってるの。」
 ナギサが足をぶらぶらさせる。
 「まだ一ヶ月以上あるよ。はあ。」
 あまりにも馴染んでいるので、ミナトとしてはかえって、ナミの素性を聞きだすことがためらわれた。
 
ミナトは分からなくなる。みんながこんなにナミと自然に過ごしているということは、もしかしたら自分のほうがおかしいのではないだろうか。何らかの理由で自分が忘れているだけで、本当はずっとナミと一緒に過ごしてきたのではないのだろうか? 自分の認識は果たして本当だったのか。
 だがミナトは思い出す。ナミは確か、昨日初めて物を食べたと言っていた。人としてはこの家に居なかったとも。ということはつまり、家族の方がナミに誤魔化されていると、ナミ本人が言っていることになる。
 やっぱり正しいのは自分のほうだと、ミナトは思う。どういう方法を使ったのかは分からないが、ナミはこの家に入り込んで、当たり前のように家族として生活しているのだ。

 でも一体何のために?とミナトは疑問に思う。ミナトには、ナミが家に入り込むそのメリットが分からない。何が良くて家なの?とミナトは思う。
 どちらかというまでもなく貧乏なほうだし、権力や名誉も持っているわけでもない。『月の涙』という反則のような宝物はあるが、とそこまで考えて、ミナトはナミが、自らを『月の涙』と名乗っていたことを思い出す。

 そのことなのだろうか。それしか思い浮かばなかった。そうだ、それに違いない。でも、ナミはどうしてあれがここにあることを知ったのか。そして何をしようとしているのか。また新しい疑問も増える。

 「ミナはお魚食べないの?」
 ナミが無邪気に聞く。その様子からは、狡猾さも邪心も、微塵も感じさせない。何かをたくらんでいる人間の目ではなかった。余計にミナトは混乱する。そしてナミに答えて言った。
 「今日は無理。お粥だけでいいわ。でも・・・、その、ナミはよく食べるのね。」 
 そうかなあ、とナミは顔を赤くした。これも演技なのだろうか、とミナトは分からなくなる。
 もし演技だとしたら、ナミは相当な手錬れだ。だが、もし本気だとしたら・・・。むしろ、その方がミナトには理解に苦しむところなのだが。

 しかし、それを信じてしまいたいほどに、ナミの笑顔は魅力的に映った。ミナトにはどうしても、ナミが嘘をつくような人間であるとは見えなかったのだ。
 ナミがミナトに向ける眼差しは、子犬のように純真で真っ直ぐだった。ミナトは思う。こんな目をすることができる人間がいるのかと。 そしてそれがただの幻想だとして、そうだとしても壊したくない、何だかそんな気持ちになってしまうのだ。

 だからなのか、ミナトは今ここで、家族が見ている前でナミにあれこれと問い質すということが出来なかった。もし何か事情があるのなら、ナミを傷つけてしまうかもしれない。
 それにミナトはもうこれ以上、家の中で揉め事を起こすのはいやだった。慎重に皆の挙動を見守り、機会をうかがう。

8 ナミの事情と妹たち

 そして夕飯も終わり、ナギサが後を片付け始めた。ミオはソファーの上でうつらうつらしている。アイキは自室にこもって、脚本をぶつぶつと繰り返している。

 部屋へ戻るときに、ミナトはナミに声をかける。
 「ナミ、ちょっといい?部屋へ来て。」
 「なあに?」
 そう言いながら付いて来たナミに、ミナトは意を決してこう切り出した。

 「ナミ、あなた本当は誰なの?」
 「誰って、ナミハルカよ。」
 ナミはそう言った。
 「だから、名前じゃなくって身元のほうよ。何処に住んでるの?お父さんとお母さんは心配してない?」
 ナミは不思議そうに言った。
 「何処に住んでるかって、あたしはずっとこの家に住んでるのよ。その前はアジサイの白露館、もっと前にはミナワ郷のお城に居たわ、持ち主の貴婦人と一緒に。」
 「それじゃああなたは絶対に、宝石の『月の涙』だって言うのね。」
 「そうよ、あたし『月の涙』 よ。」
 ナミはそう言い張った。
 じゃあ、とミナトは言った。
 「証拠を見せて。あなたが今は人の姿になっているって言うのなら、宝石の姿になって見せて。」
 ナミは困ったような顔を見せた。

 「ええ・・・、でも・・・、今あたしが宝石の姿になるのはすごく危険なの。さらわれてしまうかもしれない。」
 不穏当なナミの言葉に、だがミナトは、ほら見なさいという顔をする。
 やっぱり嘘なのだ、宝石だなんて。
 「宝石の姿になって見せたのなら信じようと思ってたけど、やっぱり無理ね。お家の人が心配してるわ。」
 するとナミが意を決したように言った。
 「そんなに言うんだったら五秒だけ、五秒だけよ。あたしのこと信じてくれるんなら。ミナに疑われたままなんて、あたし一番辛いもの。」

 ナミはそう言うと、そっと目を閉じた。
 ミナトは目を見張る。ナミのからだが朝の海のように青い光に包まれ、すうっと薄らいでゆく。透明に眩く輝くその光はやがて一粒の涙型になり、ミナトの手に落ちた。
 ひんやりとした感触、しっとりした重み、紛れもなく『月の涙』だった。
 息を呑んだその刹那、またその石は光に包まれ、今度は人の姿へと変化する。それは、さっきまでと何も変わらないナミだった。

 ミナトは愕然とする。ナミは本当に、『月の涙』だったのだ。言葉もないミナトに、ナミは一生懸命言う。
 「ね、信じてもらえた?本当に「月の涙」だったでしょう。」
 そうして、窓の方を心配そうに見回す。
 「誰もさらいに来てない?見つかってないかしら。」
 ミナトはあっけに取られてナミを見つめる。これは夢ではない、現実なのだ。自分で見てしまっては信じるしかない。ナミは『月の涙』なのだ
 ナミはもう一度言う。
 「ね、信じてもらえた?」
 ミナトは無言でうなづいた。ナミはにっこり微笑みながらも、尚窓の方を気にする。そこでミナトは気付く。

 ナミは本当に『月の涙』だった。とすれば、ナミがわざわざ人型を取ってまでしてミナトの前に現れたということは、ナミが言うように、「見つかり」、「さらわれる」危険が迫っているということも本当らしいということだ。
 ナミは何に捕まる事をそんなに恐れているのだろう。呆然としつつ、ミナトは必死に思考力を手繰って聞いてみる事にした。

 「ナミ、あなたは見つかるとかさらわれるとか、そう言ってるけど、一体何にさらわれるの?誰かあなたを狙っている人達がいるの?」
 「本当に信じてくれたのね。」
 ナミはほっとしたような表情を見せたが、すぐに真剣な顔になって言った。

 「危険が迫っているのは、正確にはあたしだけじゃあなくて、あたし達なの。あたしたち意思を持った宝石達。最近のことよ、あたしのように意思を持った位の高い宝石達が、次々とさらわれていて・・・。
 誰が何の為ににそうしているかは分からないわ。でも、あたしも最近は何時も怯えていたの。何時あたしもさらわれるんだろうって。
 それにも増して心配だったのは、あたしの六人の妹達の事なの。
 あたしたち、ダイヤモンドの七姉妹は、千六百十二年前に世界各地で掘り出されて、偉大な研磨師、ギコウ・サイゲイ、つまりはあたし達のお父様によってカットされ、、魂の在り様を形作られたの。魂そのものは、もう母である、大地の懐に生まれたときには既に宿っていたものだから。
 それから千年間、あたし達はいろんな王侯貴族の元を渡って歩いたの。そして約六百年前、水の国の国王だったウシトラ王から、忠義への感謝と封土の証として、七人の諸侯のその妻達に、あたし達は贈られることになったの。初めて別れ別れに。
 あたしが贈られたのは、ミナワ・ヒオ。ミナワ郷が伯爵領として正式に封ぜられた時の、最初の領主の妻だった女性。彼女のことは忘れられないわ。」
 と、懐かしむようにナミは言った。そして尚も続ける。

 「あたし達姉妹はそれぞれに、主の貴婦人を守り、尽くしていきましょうね、って言って別れたのよ。でもあたし達は寂しかったわけじゃないわ。あたし達にはテレパスという能力があるの。お互いの考えを疎通できるの。もっとも、あんまり遠くに離れたり、人型を取ったりすると使えないんだけど。あたし達はその能力を使って、楽しくおしゃべりしたりしていたのよ。
 でも最近の不穏な動きで・・・・。あたし達のうちでもう二人、捕まってしまったらしいの。もうどうしていいか分からないわ・・・、ナクツルちゃん、ササラちゃん・・・。あたしにしたって身の安全は全く保障できなかったし。
 でもつい三日前、姉妹ではないのだけど、親しく連絡を取り合っていた宝石の一対の、片割れの方から、こんな事を伝え聞いたの。事情でね、その娘は人型を取り、もう片方は宝石の形を取っていたのだけれど、宝石のままだった方だけが捕まり、人型を取っていたその子のだけが助かったの。同じ家に住んでいたのに。」

 ミナトは言った。
 「それはつまり、宝石のままだと捕まってしまうということになるの?」
 ナミは言った。
 「おそらくは。その娘は危険を冒して一分間だけ宝石の形を取り、考えを伝えてくれたわ。彼女が言うのには、誰かは知らないけれど、あたし達をさらっていく者は、意思を持った宝石を感知できる‘何か‘を持っているらしいって。それが、人型を取っている時だけは、反応しないのだろうって。彼女も長く宝石の形で居ることは出来ないから、詳しい考えは聞けなかったけど。とても思慮深い娘なのよ。
 その日、ミオがミナに家督を譲ろうとしていることを知って、これを機に、人型を取ることにしたの。前にも言った通り、ミナはミオと違ってしっかりしてるから。確かにミナはただの女の子だし、捕まった妹達を助け出すのは難しいけれど・・・、でも、まだ無事でいる妹達に危険を知らせる手伝いをしてもらえればって・・・。」

 ミナトは何かまだ、現実を受け入れられずにいた。信じられないのではない。消化できないのだ。ナミが本当に宝石の精だっただけでもとんでもない飛躍なのに、宝石の姉妹達だとか、テレパスだとか、狙われているだとか、また熱が上がってきそうになる。

 しばらく黙って考えた後、ミナトはこう言った。
 「あなたはどうやって捕まったっていう妹達が、その、魔の手に落ちてしまったことを知ることが出来たの?」
 ナミが答える。
 「宝石達の間で噂になっていたから。誰それが捕まった、あそこの宝石がさらわれたって。直接テレパスは使えない距離でも、風の噂に伝わってくるの。それに一部は新聞なんかでも取り上げられているし。捕まったって言う宝石達は、呼んでも答えなくなるの。あたしもお友達が捕まったとき、何度も呼びかけてみたわ。でも通じないの。まるで膜が張ったみたいに。人型を取ったときとも遠くにいるときとも明らかに違っていたから、それで宝石達の間では大騒ぎになっているのよ。」

 ミナトは少し考える。
 「あなたは今、人型でいるっていう事は、テレパスは使えない訳ね。」
 そうよ、とナミが肯く。
 「ということは、妹達を見つけるためには、一つづつ後をたどって、人力で探し歩かなければいけないってことよね。」
 そうよ、とまたナミが言う。ミナトは頭を抱える。いかなる方法さえ思いつかない。可能そうな手段が無い。
 「どれだけ無理なこと言ってるか分かる?」
 ナミはしょげ返る。
 「やっぱり無理かしら・・・。」
 「大体、宝石何ていったらお金持ちの持ち物だから、あたし達とは世界が違うわけだし、何処そこにナミの妹がいるなんて情報なんか、入ってこないわ。家にあなたがいるのが奇跡なのよ。それとも、その六人の諸侯の後胤をたどれば、何とかたどり着ける?」
 「無理よ。」
 とナミが言う。
 「正当な持ち主に継承されたのはあたしとあともう一人だけ。その子はとっても遠くにいるの。」
 状況はどんどん絶望的だ。

 「でも。」
 とナミは言う。薔薇色の頬がさらに熱く上気する。
 「でも、ミナが力及ばないって言っても、あたし一人で妹達を探すわ。探して危険を伝えるわ、誰に無理って言われても!あたしはお姉さんなの。
 世界であたしだけはあの子達を見捨ててはいけない、あたしだけはあの子達の味方でいなきゃ。あたしはあの子達を守らないといけないのよ!」

 必死にそういうナミの瞳は熱くて真っ直ぐだった。心の底からそう思っているのだろう。ミナトにはそれがまぶしく、そしてとても苦かった。
 ミサキとナギサの顔が浮かぶ。自分にはそういう風には出来ないのだ。自分はナミの様に、純粋にも無私にもなれない。自分の都合のために妹たちを欺いている。そしてその事こそが、ミナトを苦しめ続けている。

 でも、とミナトはふと思う。ナミに力を貸してやりたい。もちろん出来ることなどほとんどない。ナミの妹達のことなど、想像の外だ。
 でもナミだけならば、とミナトは思う。ナミだけはせめてここにかくまって守ってやれないだろうか。多分このナミの様子では納得しないとは思うけれど。
 ミナトはもうナミを放っておく事ができなくなっていた。たった一日、そばにいてくれたに過ぎない。だが、自分と話すことができて嬉しい、こんな非常時にもかかわらず屈託なくそう言ったナミの言葉を思い起こすにつけ、そんな風に思われて仕方なかった。

 ミナトは言う。
 「分かった。あなたの気持ちは。妹達を探したいってことも。でも、あたしに出来ることっていったら限られてくるわ。それに本当にここに居て安全かどうかも分からない。
もしかしたら妹達を探すことで、その、敵に居場所を知られるなんて事にもなりかねないかも。
 そもそもその、敵って言うものの正体すら良く分かっていない訳だし。あたしとしては、あなたにそんなに無茶なことはして欲しくないの。もちろんあたしも様子を見ながら協力するから。危なくないことを確認しながら探しましょう。だから今は少し様子を見て。あなたの今の主として、あたしにはあなたを守る義務が生じたと思わない?」

全く自分という人間は保身と誤魔化しだけには長けているらしい。協力すると言いつつも、ただこの状態を、現状を維持するための口濁しにすぎないのは分かっていた。
 しかし、言いながらミナトは不思議だった。自分の中に、こんな言葉が眠っているなんて知らなかった。まるで別の人間がしゃべっているかのようだ。
 でもそれは、まぎれもなく自分の言葉だった。自分が全て考えてしゃべっていた。ミナトの戸惑いに気付くはずもないナミが、満面の笑顔になって言った。
 「ありがとうミナ!あたしのことを心配してくれたの?あたしとても嬉しい。分かったわ、無茶はしない。それにあたし、もう少しこの街に慣れないと駄目ね。人間らしい行動とかにも。敵の事もよく分かっていないわけだし。
 あたし、人型でいる時にも、ミナの為に、一生懸命尽くすわ。ミナが少しでも幸せでいられるように。あたし頑張るから、ありがとう、とても嬉しい、とてもとても嬉しい!」

 そう言うと、ナミはミナトに抱きついた。ナミの髪の毛は夕御飯に食べた、イワシの燻製の匂いがした。とてもナミが本当は人間ではないなんて、信じられなかった。

 それは本当に、まるで人間そのものだった。

 ミナトの胸に不思議な感情が湧く。それは痛みとか悲しみとか、苦痛を伴うものではない。漣のように心を揺らし、自分の体温よりも2℃高い温度で広がっていく何か。
 何と呼ぶのだろう、この気持ちを。ミナトにはそれを名づける言葉がなかった。


 「すぐに途切れてしまったわ。流れ星よりも一瞬。これでは細かい場所までは特定できないわね。でも、ユカシカオリの辺りかしら?」
 亜麻色の髪の少女がつぶやく。
 「うむ。」
 と、彼は言う。彼女は気弱で儚げでで引っ込み思案な娘に見えた。だが彼は知っている。この若い協力者の頭の中には、悪魔の様な知識と知恵が、体系化されて宿っているのだ。
 「息子には伝えるか。」
 「一応ね。向かっているのよね。」
 少女が答える。
 「何か、あれらにも対抗手段って物が有るのかしらね。」
 「だとしても手に入れるだけだ。」
 彼は迷いも動揺もなくそう言う。選択肢など他にはない。そう、彼にはもう、手段など選んではいられないのだから。
 

 「ねえ、ナミ、あなたはうちの家族には、一体どういうことになってるの?みんな当たり前のようにあなたと打ち解けているけど。」
 その晩眠るために部屋にやって来たナミに、ミナトは聞いた。どういう訳か、ナミはミナトと同室になっていたのだ。ミオの着古した寝巻きを着込んだナミは、それはね、と言う。
 「あたしを人として認識してもらってるの。人としてずっとこの家に居たって。だって、あたしが十年この家に住んでたのは事実なのよ。そう思ってもらってるの。細かい設定では、白露館から付いて来た、ミナの乳姉妹っていう風な。」
 ふうん、とミナトは言った。そんなものはミナトにはいなかったが。

 「あっ、でも。」
 と、ナミが付け足す。
 「アイキ君には本当のことを言ったのよ。」
 「はっ?」
 ミナトは思いがけないことに、声をひっくり返す。
 「だって、ミナはアイキ君にだけは隠し事しちゃ駄目だから、だから教えたの。」
 じゃあ、アイキは昨日から全部分かっていて、気安く雑談したり、スモモを受け取ったり、気を使ってもらったしていた訳だ。ミナトは聞いた。
 「アイキにしたって、そう簡単には信じなかったんじゃない?」
 「ううん。」
 とナミはすぐ否定した。
 「すぐにあたしの言うこと全部信じてくれたわ。そして、協力してくれるって約束してくれたわ。」
 ミナトは頭を抱える。何て、何て簡単に人を信じてしまうのだろう?人がいいにも程がある。そしてアイキの行く末が心底心配になってくる。

 「あいつったらもう・・・。」
 「ミナ。」
 ナミが言う。
 「アイキ君て、いい人ね。とっても魂がきれいな人ね。」
 「好きになったら。」
 ミナトは言う。アイキの相手がナミだったら、きっとものすごく納得がいく。ミナトの想う世界は全て正しく収まるだろう。だが、ナミは一笑に付した。
 「やあね、冗談でしょう?それに第一、あたしは宝石だもの。宝石は人間の男の子なんて、好きにならないものよ。それに人間の男の子も、宝石には恋出来ないでしょ。犬と花が恋出来ないのと一緒よ。」
 つまりこんなに綺麗なのに、ナミには恋愛が不可能らしい。ふうんと残念そうに、ミナトがつぶやく。

 「ねえ、」
 とミナトが言う。
 「ナミの妹達って、どんな娘たちなの?その・・・、ナミは随分と大切に思っているみたいだし・・・、ちょっと、興味ある。」

 言いながらミナトは思う。ああ、自分はナミの事が知りたいのだ。
 ミナトは脇目も振らずに生きてきた。必要なことしか話さず、無駄な付き合いも避けてきた。
 そんなミナトが、昨日突然舞い込んできた蝶のようなナミに、とても惹きつけられている。ナミをもっとよく知りたいと思っているのだ。

 「うん。」
 と、ナミは嬉しそうに言った。
 「あたしが長女のブルーダイヤモンド、ナミハルカでしょ、あたしの次に磨かれたのは、ホワイトダイヤモンドのナクツルちゃん。とても大人びた、優しい娘だったわ。見ているだけで心が静まるような光を放っていたわ。捕まってしまった娘の一人なのだけど・・・。
 次が、グリーンダイヤモンドのヒスイコちゃん。とっても涙もろいの。宝石の姿のときにも、涙をためたように輝いていたわ。
 その次はブラックダイヤモンドのアゲハちゃん。アゲハちゃんならきっと、ミナも知ってるはず。」
 「えっ」
 と、ミナトは驚く。
 「知ってる?あたしが?」
 そう、とナミは念を押す。
 「ミナのお友達でいたでしょう?キリエちゃん。あの子のお母さんが、アゲハちゃんの持ち主だったわ。」
 ミナトは驚愕する。それは忘れ得ぬ親友、六年前に街を去った、ミナトの幼馴染ではないか。

 「キリエ、キリエのお母さん、イツさん・・・。」
 「そう、イツさん。彼女が母系で代々受け継いできた宝剣に、アゲハちゃんはいたの。」 
 その宝剣には見覚えがあった。確か素晴らしい輝きを放つ、黒い宝石も見ていた。ちゃんと。
 「あの頃はあたしも嬉しかったわ。だって、同じ町内にアゲハちゃんはいたんですもの。毎日のようにおしゃべりしていたわ。あたしを受け継ぐミナと、アゲハちゃんを受け継ぐキリエちゃんが仲良くしているのを見ているのは、あたしたちにとって、とっても嬉しいことだったのよ。
 だから、アゲハちゃんが山の向こうに帰ってしまうときは、とっても寂しかったわ。あの地は遠すぎて声が届かないから。」
 ミナトも思い出す。それは、ミナトにとってもとても寂しい出来事だった。

 「次はイエローダイヤモンドのハチミツちゃん。彼女はちょっと変わっててねえ、美しい物や人に目がないの。美少年や綺麗なご婦人を見るたびに、キラーンて、光ってたわ。
 次はレットダイヤモンドのササラウメちゃん。この娘はとっても熱い娘なの。でも決して表には出せないのよ。見ているだけで魂が燃えてしまいそうな光を放っていたわ。
 最後はピンクダイヤモンド、バラノビシュちゃん。この娘が一番姉妹達の中で、艶やかでつやっぽい光を放っていたわ。人型を取ったときも、一番美人なのよ。」
 そんな風に語るナミの口調はとても自慢げで嬉しそうだった。本当に妹達を大事に思っているのだろう。

 ミナトは聞く。
 「もうどれくらい、あなた達は会っていないの?。」
 ナミが答えた。
 「百年いや、三百年位かな。でも、最後にお話したのはアゲハちゃんと、六年前。ヒスイコちゃんとは五十年前。後の娘達とはもう久しく話してないわあ。」

 ミナトは言った。
 「そんなに長いこと離れ離れなの?不安になったりしない?相手が今どんなだか。変わってしまったりしてないか、あるいは、自分のほうが見る影もなく変わっているんじゃないのかとか・・・。」
 ナミは笑って言った。
 「そんなこと!だってあたし達は同じ人に創られて、五百年も一緒だったのよ。姉妹なんだもの。その時間の重みは、何物にも代えがたいわ。最初はちょっと緊張したり照れたりもするだろうけど、すぐに時間が戻っちゃうの。まるで今まで何百年も離れていたことが嘘だったように、当たり前のように打ち解けられるものよ。
 ミナだって分かるでしょう?ミサとナギサがいるんだから。一緒の人から生まれて、一緒に育ってきたんだもの。兄弟って、そういうもののはずよ。それにあたし達は不滅の象徴ダイヤモンドだもの。変わるなんて事ありえないわ。」

 ミナトはそれを聞いているうちに、何故だか突き放されたような気分になっていった。何だか、さしのべら手を前に逡巡し、ようやく握ろうと決心した瞬間、手を引っ込められてしまったような。

 ミナトは思う。ナミは自分とは違うのだ。この上なく清らかで純粋な結晶で出来ているのだ。塵芥に満ちた世俗の娘とは違うのだ。その妹達もまた。だが自分は・・・。

 「ああ、ミナ。」
 とナミが言った。
 「月がもうあんなところに、風邪引きさんはもう寝なきゃ。あたしも寝ることにしよう。」
 ナミはミナトのベッド脇に、どこかから拾ってきた、古いマットレスを運び込んでいた。それにこの間ミナトが洗っておいた、シーツをかぶせる。

 「そんなんで眠れるの?ゴミじゃない、それ。」
 ミナトが言う。だがナミは満足げに笑ってこう言った。 
 「大丈夫よ、だってあたし、お姫様じゃないもん。」
 そういうとナミは布団にもぐりこんだ。そして実にすんなりと寝息を立てる。後にはすっかり心の冷え込んでしまったミナトが残った。

 分かっている。ナミは何も意地の悪いことや、ミナトをとがめるようなことは言っていない。ただ求められるまま、自分のことを語っただけなのだ。
 あんなにも素直に人を愛したり、自分を信じたりすることが出来たら、ミナトの問題も意味を持たないのだろうか?

 だがミナトはナミではなかった。ミナトはダイヤモンドではない。不完全で不純で傷つきやすい、あまりにも愚かなただの人間だ。
 そしてちっぽけな人間のミナトは、心の底から救いを求めていた。人はその愚かさゆえに、何かもっと大きなものに畏れを抱き、そしてすがることで救いを求めることだとミナトが聖典を教わった年老いた司祭は言っていた。

 ミナトの中に上へ上へと見上げるような渦が、炎を巻いて立ち上っている。その炎はミナトの心を焼く炎だ。見えないのにいつも、それは確実にそこにあった。どうしようもないことが起きた時、望みたくない事実に気づいた時、それは赤みを増して火力を上げる。渦の廻りはミナトに、何か大きなものに対してすがることへ誘惑する。
 
 「すがりなさい、任せなさい、さればこそ人は、大道に乗ることが出来るのです。」
 司祭の言葉が頭に響く。幼いミナトは信じていた。彼の言うように願った、祈った、その結果・・・・・。

 寝床の中で仰向けになり、大きく目を見張って、ミナトは思わずつぶやく。
 「どうか、どうか神様・・・。」
 そしてその自分のつぶやきに顔をこわばらせる。そして首を横に振った。それはミナトにとって、禁句だった。ミナトは必死に抵抗する。今にも泣きそうな顔をしてこう言う。

 「神様はあたしを許してはくれない・・・、あたしは救いを求めてはいけない・・・。」
 そして目を閉じて大きなものに、『神様』、にすがりたくなる気持ちと戦っていた。ミナトは完全に独りで、何者にも寄りかかってはいけないのだ。それこそが正しい行動なのだ。
 まだ熱は完全には引いていなかったらしい。ミナトもすぐに眠りに落ちていった。

9 アイキの想い

 次の朝、アイキは休みを挟んで二日ぶりに登校した。正直なんとなく心が重かった。やはりミサキのことにとても責任を感じていた。

 その、ミサキの方はといえば、なるべくアイキと顔をあわせないようにしていた。何度か視線が合ったが、まるで怒っているような無表情で、鉄面皮のような顔をしたミサキはアイキを無視した。一言もしゃべらない。どちらにしたってお互いきまずい。アイキにとってはミサキの反応が分かりやすいことに返ってほっとしていた。だが、ミナトにもそう話したように、いつかはきちんと話をつけなければならないだろう。そのことを思うととても気が重かった。

 どうしてこんな事になってしまったのか・・・。アイキは重いため息をつく。ミサキの事は妹のように思ってきた。ミサキは、アイキが自分に優しいのは、ミナトの妹だからだと叫んだが、それは当たりではない。アイキにしてみれば、妹の様に接した結果だったのだ。それが、裏目に出てしまった。実際将来は義理の妹になればいいとも思ってきた。その点では、ミサキはナギサと同じ並びだった。

 アイキにはどうしても、ミサキの気持ちに応える気にはなれなかった。これが縁の薄い、軽薄な間柄であれば、もしかしたらもしかして、よこしまな気持ちも持ったかもしれない。しかし、アイキにとってミサキは『妹』だった。恋愛感情はなくても、『妹』のようにを大事に思っている。それ故、尚更無責任に期待を持たせるようなことは出来なかった。だが、あんな事があった以上、どうしても意識はしてしまう。だから気まずいのだ。
今まで自分が信じて足を立ててきた生活の基盤が、いかに脆い物だったのか、アイキは思い知っていた。

 「それにしても、ミナ・・・。」
 ミナトは全部知っていたのだ。知ってそれをどうも出来ずに苦しんできたのだ。だからあんな風に、身動きがとれずに拒み続けてきたのだ。

 ミサキに後ろめたい一方で、アイキはほっともしていた。ミナトの気持ちがはっきりしたと思っているからだ。自分の気持ちもちゃんと伝えた。ミナトの態度には手ごたえも感じている。きっとはっきりとした返事をしないのは、ミサキに気を使っているからだろう。ミサキに後ろめたいながらもアイキの優先順位はミナトが先だった。アイキにとって、三姉妹のうち、ミナトだけが特別だったのだ。そうなってしまった理由は説明できない。だがそのきっかけの方は、はっきりと覚えていた。

 ある日、アイキの祖母は幼いアイキに言った。ミナトたち母子が、この家で一緒に住むことになった、これから港まで四人を迎えに行くと。

 それまでアイキは祖母とたった二人だけの家族だった。優しいお父さんお母さん、一緒に遊び喧嘩する兄弟達、アイキはそんな友達の賑やかな家庭にあこがれていた。

 祖母は優しい人だった。二人でいて不自由は感じたことがない。
 だがその話を聞いたとき、アイキはとても嬉しかった。アイキはミナトもミオもミサキも、赤ちゃんだったナギサも大好きだった。これでこの家も賑やかになる。きっと楽しいだろう。
 幼いアイキには想像も出来なかった。ミナトたち母子がこれまでの暮らしを続けられず、父親を亡くしてこの家に来るというその訳が。波止場で泣き崩れたミオを見て、アイキは始めて何か事情のあることを悟ったのだ。

 わずかな荷物を家に運び込んだ後、祖母は言った。
 「さあ、後はこれからにしてお茶でも飲みましょう。」
 だが、居間のテーブルにはミナトだけがいなかった。祖母は言った。
 「ミナちゃんを探してきて。」

 アイキはすぐに探しに行った。二階にミナトはいなかった。梯子を上り、三階に出ると、ミナトは窓越しに海を見ていた。今丁度、ミナトのベッドがおいてあるその場所だった。

 「ミナ。」
 アイキは言った。
 「お茶にするって。さっきおばあちゃんがケーキ焼いたんだよ。」
 そう言って歩み寄り、ミナトの顔を覗き込んだ。そのときの衝撃を、アイキは忘れられない。

 ミナトは泣いていた。いつも気丈だったミナトが、海を見ながら声を殺し、ぼろぼろと涙をこぼしていた。アイキはどうしたらいいのか分からなかった。アイキの顔を見ると、ミナトは言った。

 「どうして祈ったことや願ったことが、人を苦しませるの?夢や望みが人を殺してしまうの?もう何もほしがっちゃいけない、何も願ってはいけない。神様はあたしを許してはくれない・・・。」

 その瞳を見たときに、アイキは何か激しい感情の刃が突き刺さったと思った。苦く痛みを伴うくせに対極に生命そのものを輝かせるような、泉のように湧き上がってくるような、訳の分からない強大な『何か』が。少し大きくなって、人はそれを恋と呼ぶことを知った。その時のアイキには分からなかったことだが。
 ただその時、八歳のアイキは思ったのだ。世界でミナトだけは幸せでなければいけない。もしもミナトの中に、癒されない痛みや悲しみがあるのだとしたら、自分がそれを払ってあげたい。いいや、払ってあげるとしたらそれは、自分でなければいけない、そうでなければ自分の存在は否定されるのだ。

 ミナトを守ってあげたい。それが、それこそが、自分の生まれてきた意味なのだと。

 アイキはミナトをぎゅっと抱きしめた。こうすることでミナトが泣き止むかどうかは分からなかった。だが、アイキはそうしたかった。
アイキがもっと小さい頃、母を求めて泣いたとき、祖母はいつもこんな風にしてくれたものだ。アイキは思った。こうすればミナトにも、自分が独りきりではないことが分かるのではと。自分だけは何時でも何時までも味方なのだと分かるのではないかと。

 その時からずっと、アイキにとってミナトは特別な女の子なのだ。その日からずっと。
 
 アイキは講義の後、学内のリハーサル室で稽古に出た。十月の芸術祭で出演する芝居の稽古だ。
 「アカデミー」の中は幾つものグループに分かれている。そのグループにはそれぞれ、脚本家コース、演出家コース、舞台芸術コース、役者コースなど、様々な分野の生徒たちが分担し合い、それぞれ作品を作り上げる仕組みになっていた。
 そして、機会ごとに学内だけではなく、対外的にも発表される。そこは生徒達にとって、劇団や劇場関係者への、アピールの場でもあるのだ。卒業を一年後に控えたアイキにとっても、それは気の抜けない舞台だった。

 稽古の後、アイキは演出担当のナナフシに、家での出来事を相談した。
 ナナフシは、一旦別の仕事に就いた後、演劇への夢を諦めきれずに「アカデミー」に入り直した変り種だった。歳も二十八と、アイキより一回り上だ。

 アイキは言った。
 「どうしたものかなあ、ナナフシ。もうミサに何を話していいのやら・・・。きちんと説明すれば余計傷つけてしまうような気がするし、でも何もしないって言うのも、あまりにも無責任かなあ。でもどうしてもミサのことは、そういう風には見られないんだよ。」

 ナナフシは言った。
 「そっちの方ならばどうとでもなるさ。そのミサとやらも分かっているんだよ。結論は自分でもしっかりと出ている。だから、それが言葉となって爆発したのさ。多分時間が解決するだろう。お前が無理して空回りする必要も無い。」
 アイキはほっとしたように言う。
 「そうか、雨降って地固まるていうから。じゃあ、これからいい方向へと進むかなあ。」
 しかしナナフシは、そこで額を曇らせる。
 「いや、それは甘いと思う。」
 「え?」
 「確かにその妹の方はな、時期に元気になるだろう。だがその、お前の思ってきた娘のほうは何も解決していない。まだ何も語ってはいない。
 これまでのお前の話を総合すると何か引っかかるしこりのようなものを姉の方に感じる。俺の勘ではその娘は深い闇を抱えている。」
 「え・・・。」

 もう一雨二雨来るぞ、とナナフシは言った。

10 ニチニチ暴走する


 
 アイキは帰る道すがらぼんやりと不安だった。さっきのナナフシの言葉が胸に引っかかる。これ以上何かあったら家族はばらばらになってしまいやしないだろうか。

 「ミナに闇・・・?」
 アイキにはよく分からなかった。一昨日の晩、頭から布団を被って、必死に謝り続けていたミナトの様子を思い出す。あれは自分が今まで思っていたような意味ではなかったのだろうか?

 その時地図の様なものを手にした女の子が困ったようにうろうろしているのに行き当たった。アイキは驚いて声をかける。
 「ニチニチさん?」
 ニチニチはアイキの顔を見ると少しばつの悪そうな、ほっとしたような表情を見せた。本当はアイキのいないうちに家に乗り込むつもりだったのだ。
 「どうしたの?ニチニチさん、地図なんか持って、道に迷った?」
 「ああ、実は君の家に行くつもりで・・・。」
 「僕の家?それならこっち、案内するけど、一体どうした訳で僕の家なんかに・・・。」
 「どうしたってある筋からアイキ君の家の事情を聞いて・・・。縁談が持ち上がってるんだって?」
 少し決まり悪そうにニチニチが言った。アイキは驚く。
 「去る筋って何処から・・・。」
 ニチニチは真っ赤になって言う。
 「その、あたしの知り合いで、君の友達が話してるのを聞いたって人がね・・・。アイキ君が困っているっていうから、そのほっとけないと思って。」
 アイキはぽかんとして言う。
 「困ってるって?まあ、困ってるけど。正直どう運んだらよいものやら・・・。女性にはどうやって言い含めていけばばいいかよくわかんないんだよね。」
 ニチニチは急に張り切る。
 「そ、その為にあたしが来たんだから!大丈夫、彼女は絶対にあたしが説得してあげる。やっぱり君は、好きな人と結婚しないと。」」

 お互いは事情がかみ合っていないことが分かっていない。二人とも自分に都合がいいように曲解しているのだ。
 ニチニチの頼もしい宣言に、しかしアイキは言った。

 「ええ・・・、でも、これは多分僕が自分で解決しなければならない問題じゃないのかなあ・・・。そんなことで頼ったら余計心証が悪くなるんじゃ・・・。」
 だがニチニチは言う。
 「でも、君一人じゃ無理っぽいんでしょう?こういうのは同じ女同士の方が上手くいくもんよ。君は彼女に弱りどころを握られてるんでしょ?それじゃ話すものも話せないわ。だからあたしが行く。」

 ニチニチの士気は自らの言葉に煽られてぐんと高くなる。だがそれは恋心というより、持ち前の闘争心によるところのほうが大きかった。
 「ああ、でも、それはさすがにまずいかと・・・、ああ、ねえ、ニチニチさん?」
 だがニチニチはアイキの腕の根っこをつかんで強引に前進する。
 「さ、案内しなさい!」

 ニチニチの勢いに負けたアイキは、ついついニチニチを家まで案内する。分かりにくい路地を通って、岸壁へ出る。その先は何もないようにニチニチには見えたが、アイキは言った。
 「あ、あのう、ここだよ、ここから降りるんだけど・・・。」
 岸壁に伝う長い石段を下りると、まるで小さなバルコニーのように岩にへばりついたアイキの家が見えてくる。アイキが言った。
 「あれが僕の家。」

 ニチニチはあれっと思う。思っていたのよりもっとずっと小さい。ニチニチは不安になって聞く。
 「アイキ君、遺産ってどれぐらいあるの?」
 「遺産?」
 アイキは困ったように笑う。
 「そんなものあの家だけだよ。遺産なんて有ったら、もっと楽に暮らせるんだけどね。」
 どうも話がおかしい。ニチニチはそう思い始めた。

 屋内に入ると、ニチニチの不安は一層高まった。気の毒になりそうなほど、古びた内装。ニチニチの安アパートの方が、よっぽどましだ。アイキが言う。
 「まあ、古めかしいけどミナが掃除頑張ってくれてるから。不潔ではないよ。ねえ、本当に行くつもり?」
 「愚問。」
 下がりそうな士気を必死に保ってニチニチが切り捨てる。ここで上手に軌道修正が出来る位だったら、ニチニチはきっとかなり尊敬されてていただろう。

 そのとき二人の声を聞きつけて、ナミが出迎えた。晩御飯の支度の手伝いをしていたらしく、洗い物の濡れた手を簡素なエプロンで拭きながらいそいそと出てくる。華美な髪はリボンで一つにまとめ、そこら辺の娘たちと明らかに同じような格好をしているというのに、そこから光り輝く光は六等星と満月を比べるかのようだ。
 「お帰り、アイキ君。お客様?」
 「うん、『アカデミー』の先輩。」
 ニチニチは現実感のないナミの美貌に衝撃を受ける。美人ぞろいの『アカデミー』にもこんな美少女はいない。蒼くなって聞く。
 「もしかしてこの娘?」
 「違うよ、この娘はミナの乳姉妹で・・・。」
 「ナミハルカです。ミナに御用事?」
 ナミがにこやかに言った。ニチニチはほっと胸をなでおろす。さすがにこんな綺麗な子が相手では、さすがのニチニチも自信がない。そして、この綺麗な少女と乳姉妹だとかいう『ミナ』、と呼ばれる娘が当のアイキの案件の当事者であるらしいことを知った。

 アイキがナミに聞く。
 「ミナの調子は?」
 「午後には熱は下がったわ。でもまだ本調子ではないみたい。仕事は明日からにするって。今はベッドで勉強してる。今日ぐらい休んでおけばいいのに、何もしないでいるのは苦痛なんだって。ミナって風邪より先に貧乏性治した方がいいかもね。」
 ニチニチがらしくもなく口ごもりながら言う。
 「あの、病気なの?」
 ナミが笑って答える。
 「二日前に風邪を引いたのよ。でももう大丈夫よ。無理さえしなければ。」

 ニチニチの胸にまた不安が渦巻く。弱っている敵を攻撃するのはニチニチの趣味ではない。思わず士気が下がりそうなニチニチにアイキが言った。
 「やっぱりいいよ、ニチニチさん。僕は自分の気持ちははっきり言い続けようと思うよ、今はまだ曖昧な答えしか返ってこないけど。その、やっぱり僕は一番好きな人と結婚したいし、そのためには自分だけの力で頑張らないと。そうじゃないと・・・」

 しかし、逆にその言葉に下がりかけていたニチニチの志気が、ぐっと上がる。
 「いんや、まかせておいて!」
 ニチニチは胸を張る。そしてその勢いのままアイキを強引にせっつき、案内させて三階へと上がり、ミナトの部屋のドアを勢いよくあけた。

 とたんにニチニチの志気はまた下がりそうになる。そこにいたのはニチニチの想像とは全くかけ離れた娘だった。まるで悲恋小説の挿絵から抜け出てきたような切々とした美少女ではないか。ニチニチが思い描いていたような、傲慢だとか、強欲だとか、計算高いとか、そんな風は微塵も感じさせない。感傷的に過ぎるほどに健気な少女に見える。
 その上、あの綺麗な女の子は、もう風邪が治るところだと言っていたが、ニチニチの目にはそう映らなかった。まるで不治の病に冒された、これから死んでいく人間のように、ニチニチには見えた。ニチニチは今更のように、様子がおかしいことを認識する。

 でも、アイキ君は確かに困ってるって・・・、好きな人と結婚したいとも・・・。

 ニチニチの頭に色々な考えが浮かぶが、上手に修正することは出来なかった。ニチニチはとても思い込みが激しい性質だった。

 ニチニチの前に座る少女は驚いたようにニチニチを見る。それはそうだろう、見ず知らずの人間が、急に部屋に入ってきたのだから。
 「どなた?」
 彼女が小首を傾げて尋ねる。ニチニチの声はなかなか出てこなかった。頭が真っ白になっていた。 様々なパターンの言葉の攻撃が頭をよぎるが、ニチニチの勘ではこの少女はそんな言葉を投げつける訳にはいかない種類の人間だ。でも、アイキに大見得を切った以上は彼女を説得しないと。逡巡するニチニチを前に、一方のミナトは安堵とおののきに震えていた。
 遂に、遂にこの時がやってきたのだ!
 今目の前に立つ少女は愛らしく、瞳は明るく生気に満ち満ちている。明るい家庭で育った、明るい未来が待っている少女、神様に愛されている少女。

アイキを奪っていける少女。

 仁王立ちに立ち、瞳に闘志を宿らせて、男気を漂わせてニチニチは立っていた。尚更悲しげな目の前の少女の様子に、冷や汗がだらだらと流れる。
 「あの・・・。」
 とミナトが口を開く。
 「ご用件は?」
 ミナトには察しがついている。彼女が何をするためにここへ来たのか。だが正当に手順を踏む。それは外してはいけないものだ。
 「え、それはその・・・。」
 ニチニチは口ごもる。全く何といっていいか分からない。何かが想像とずれていて、決定的におかしい。しかし、逡巡するニチニチにミナトの方からこう切り出した。
 「アイキを奪いに来たのね・・・。」
最初に顔を見た時から分かっていた。彼女こそがそうであると。だが、ミナトにはいつもの慎重さが欠けていることも確かなのだ。

意外なミナトの言葉に、ニチニチは尚更狼狽する。だが、全く相手にされていない、ニチニチはそう悲しくもなった。
 「あ、あなたが悪いんです。だって、家と財産目的で結婚しようだなんて。アイキ君困ってました。あたし黙って見てられないから。そりゃあ、あたしが選んでもらえるかどうかは分からないけど、でもこうでもしないと気が済まないから。
 大体ずるいです、どういう手段を使ったかは分からないけど、脅迫して結婚させようなんて・・・。アイキ君言ってました。一番好きな人と結婚したいって。」

 それを聞くと少女はとても悲しげな顔をした。勢いのままにしゃべっていたニチニチの胸に、また不安がよぎる。
 「あの、その、そういう事情でよかったんですよね?あたし間違ってないですよね?」
 だが、そのミナと呼ばれる少女はやはり悲しげに言った。
 「そう。アイキはそう言っていたの。一番好きな人と・・・。」
 そう言って彼女はうつむいた。青ざめた顔が余計にかげる。ニチニチの不安はどんどん大きくなっていく。今更ながらこれがスグリからの情報だったことを思い出す。

 「あなた、アイキのことが好きなの?」
 彼女が言った。まるで歓迎しているかのようにも聞こえる。
 「だったら何!」
 ニチニチは開き直った。自分は優越感を感じるための慰み者にされているのだろうか?
 「『アカデミー』の方?」
 彼女は聞いた。これはまるで期待しているかのようにも聞こえる。ニチニチは思う、こんな不毛な会話は沢山だと。だが、隠す意味は見つからず、ニチニチは正直に答えた。
 「そうよ。」
 「演劇を愛してらっしゃるの?」
 「そうよ、あたしの家族は演劇一家なの。でも何でそんなこと・・・・。」
 「ええ、いいえ・・・・。」
 彼女は言葉に詰まった。ニチニチは相手の態度の理由が分からずにいぶかしんだ。先ほどから、何かが確実におかしい。『ミナ』と呼ばれる少女の態度には明らかに違和感がある。
 「あなたは何を言いたいの?」
 
 少女は悲しげに目を伏せる。
 「今まで会った事なかったから、アイキを好きになってくれる人。」
 彼女の話ぶりはまるで、そのことを待ち望んできたかのようだ。彼女もアイキを好きなはずではなかったのか?ニチニチはいぶかしげに言う。
 「ええ?でも、『アカデミー』にはまだ何人かいると思います。結構目立つから。優しい人だし。でも、それとどういう関係が?あたしを見下して馬鹿にしてるの?」
 違うわ、とミナと呼ばれる少女は言った。瞳はニチニチではなく、二人の中間の床を見つめている。掛け布団を掴んだ手は固く握られ、唇は紫色に黒ずんで見える。やはり体調がすぐれないのか。
 「家まで乗り込んできたのはあなたが初めて。あたし待ってたの、あたしからアイキを奪ってゆける女の子を。綺麗で強くて優しくて・・・、あなたみたいに演劇を愛していて、アイキと釣り合う女の子を。」
 
 それはいつもの用心深いミナトにしては、軽々しい言動だったといっても良い。いくらニチニチが自分の理想に見合ったアイキの相手に見えたとして。
 ミナトは多分追い詰められ、焦っていたのだろう。だから自分の前に都合よく現れたニチニチに、あっさりと自分の内実を打ち明けてしまった。こんな事はかつて無い事だった。

 アイキは自室でうろうろしていた。ついついニチニチを通してしてしまったとは言え、こうなった以上隣のミナトの部屋の様子がものすごく気になる。ニチニチさんは上手くやってくれているだろうか。気になるあまり、ドアの薄い板切れに耳をくっつける。そこへお茶を持ってきたナミがやって来て、アイキに言う。
 「アイキ君、何しているの?」
 「シーッ。」
 アイキが制す。思わずナミも、アイキに習って耳をくっつける。中はどうなっているだろうか。二人は気になって仕方がない。

 
 「それってどう言うこと?あなたもアイキ君が好きで、ついでに財産も欲しくて脅迫してるんじゃないの?」
 ドアに耳をくっつけているアイキが思わずひっくり返りそうになった。
 ミナトは苦しげに言った。
 「好き、だけど・・・。でもあたしでは駄目。あたしでは釣り合わないの。」
 ドアの外のアイキの顔が赤く鳴って青ざめた。
 ニチニチの不安はどんどん大きくなっていく。
 「ええと・・・、あなた、家と財産が欲しくてアイキ君を脅迫してるんじゃないの?」
 ミナトは言った。
 「家も財産もいらないわ。ただアイキに幸せになってほしいだけ。」
 はめられた!ニチニチはそう悟った。スグリめ!

 「ええと、つまりは、あなたと結婚したら、アイキ君が幸せになれないと、そういうこと?」
 どうして?とニチニチは息も絶え絶えに聞く。彼女の理屈は訳が分からない。何かが決定的にずれている。世界の常識から彼女の心理がその中心をずらして傾いてる。何がそんなに釣り合わないのか、その理由が、根拠が、ニチニチにはさっぱり分からなかった。
 「見たところとても綺麗だし、あたし一目見て負けたって思ったもん。釣り合う釣り合わないは、アイキ君が決めることなんじゃ?」
 狼狽しきったニチニチは当初の目的をすっかり忘れている。強すぎる義侠心のままに、ニチニチは思わず敵に塩を送る。彼女は心の底からのお人よしなのだ。
ミナトは目を伏せ、とても言いにくそうに、だが意を決して切り出す。本音駄々洩れのニチニチに毒されたのか、こんなことを人に話すのは初めてだった。

 「あたしは中身のない空ろな女なのよ。ぱっと見は人からは良く出来ているように見えるらしいけど・・・、内実は伴ってないの。どう言っていいんだろう?魂・・・、魂が欠けているの。とても人を愛したり愛されたり、そんなことは無理なように出来ているの。
 不幸なのよ、あたしと供に一生生きていくのは・・・。その事に早く気が付いて欲しかったの。人生を棒に振る前に。あたしのことを忘れさせて欲しいの。
 それがあたしに出来る唯一のことだから・・・、あたしは・・・、神様に幸せを許されていないの・・・。」
 

 ばん、と、扉が開いた。真っ青になったナミとアイキが立っていた。それを見てミナトが凍りつく。
 「ミナッ!」
 とアイキが叫ぶ。
 「どうしてだよ、何で、何で、僕が好きなら飛び込んできてくれないんだ!一昨日ちゃんと言っただろ、好きだっって。どうして・・・、何で・・・。
 一緒にいて不幸だなんて・・・、そんなこと思ったこともないよ。僕は、ミナさえいてくれれば幸せなんだ、ずっとずっと、ミナがこの家に来た日から、そればかり思ってきたんだ!」
 ミナトの心に新鮮な痛みが走る。一番恐れていた事態。避けようとしてきたことが起こったと知る。
もう何もかもお終いなのだ。一番隠しておきたい部分、見られたくない部分を自分は自ら暴露してしまったのだ。

 ナミはおろおろと言った。
 「ミナ、どうして神様が許してくれないの?どうして魂が欠けているの?あなたはいつだって一生懸命で愛情深い女の子じゃない。」
 「止めてナミ・・・。」
 ミナトは言った。 
「そう言われるのが一番つらいの。一生懸命なのは自分の内側の醜いところを隠すためよ。だから人に尽くすの。だから愛情深く見えるの。でも見えるだけなの。中身は空っぽなのよ。みんな騙されているのよ。」
 「そんなことない!」
 アイキは叫ぶ。
 「あるわ!」
 ミナトも叫ぶ。もう何が何だか訳がわからない。必死にせき止めていたものが堤を破って激流となってあふれ出る。何時の間にかこの騒ぎに、ナギサもやって来て、あっけにとられたまま話に聞き入っている。一歩下がってミサキが狐のような顔つきでミナトを眺めていた。
 ミオも、ミナトたちの母親も後ろの方に顔を見せた。一見鬼のように怖く見える形相だった。それを見たミナトは母の悲しみを悟り、ますますいたたまれなくなり、その一瞥の他にミオを見る勇気が出なかった。

 「そんなうわべだけの愛情だったら、僕らがそんなにあっさり騙され続けているわけがない!一週間や二週間ではないよ、十年もさ。そんはず無いだろ!」
 アイキが声を荒げる。
 「でもそうなの。」
 ミナトは認めない。
 「ずっと怯えてきたの。何時見破られるだろうって。でもみんなずっと騙され続けてた。だからそのうち自分が益々嫌になったの。嘘をついて信頼されている自分が。ミサキはあたしなんかよりずっと正直よ。でも、そのせいであの子も苦しんだのよ。」

 「やっと本心を見せたじゃない。」
 ミサキがナミの後ろから言った。何も感情が無いかのような冷たいよそよそしい顔をしていた。
 「お姉ちゃんもあたしと同じよ、同じぐらい醜い。人間なんて一皮向けば同じ。安心したわよ、正直。知ってる?血も内臓もとても温かいものなのよ、ツツが言っていた。」
 そう低い声で淡々と言うと、くるりと後ろを向き部屋を後にする。
 「友達のとこ行ってくる。」
 「ミサ!」
 ミオが止めようとするがミサキは振り向きもしない。

 ミオは瞳をぎらぎらと光らせてミナトを見ていた。だが、その目には涙がたまり、への字に結ばれた唇は、それそのものが驚きと深い悲しみの表現なのだった。
 自分は何と言うことを言ってしまったのか。誰にも知られたくないと思ってきたのに。だが、悲しいほど涙は出てこなかった。まるで真夏の太陽のように乾いた痛みが心を突き刺す。

 「あの・・・。」
 すっかり小さくなったニチニチが居心地悪そうにうかがう。
 「幸せを許されていないってなことですが・・・、じゃあ・・・、あなたはこの先何を望むの?何が欲しくて生きるの? 普通人は幸せになりたくて頑張るけど。」

 ミナトは今更ながら思い返す。
 「それは・・・、アイキや家族が幸せな人生を送ることだけど・・・。」
 それ以外の理由を考えたことが無かった。それしかないだろう。
 ニチニチが言う。
 「それにはあなたが幸せでいることが必要不可欠なのでは・・・。」
 ミナトは口ごもる。正論だった。理屈では分かってはいるのだ。だが、どうしても受け入れきれないことだった。
 「だから・・・、自分の事なんか忘れて欲しいの。あたしは愛される価値なんてない・・・。」
 「そんな事!出来るはず・・・。」
 アイキの影からこそこそとニチニチが口を挟む。もはや何のためにここへ来たのかも考えの外だ。ニチニチはただ、目の前の人が微笑みを取り戻すことのみを考えていた。
 「あの・・・、許されていないとか、価値が無いとか言っているけど、あなたが勝手にそう言っているだけじゃあ・・・。ここにいるほかの誰もそんなこと望んでいないようよ。」
 「でも・・・。」
 ミナトは顔をこわばらせる。そして意を決して言った。
 「あたしには神様にそういわれているように確実なことにそう思える・・・。」

 何かスイッチが入ってしまったような顔でニチニチが言った。
 「それで、あなたは自分を殺すの?それとも神様を殺すの?」
 「え?どうしてそうなるの?あたしは死ぬ気もないし、神様を殺すだなんて・・・・。」
 ミナトの言葉にニチニチが言った。
 「だって、いつの時代も神様から許されていないと考える人間の取る行動はこの二パターンだわ。
 一択め、神様の言う通りに自分を殺して今の世界を保とうとする。二択め、神様を殺して自分が生きていられる世界に作り変えようとする。いわゆる革命ね。あなたはどっちを選ぶの?」

 ミナトは戸惑う。
 「そんなこと考えたことも無いわ!死んでしまうにしてもいろいろとやらなくちゃいけないことだらけだし、神様を殺すなんてあたしにはできっこないじゃない。」
 「出来たら、どっちも出来たらどっちを選ぶの?」
 ミナトは思った。自分だけが居なくなった世界、自分と言う存在の痕跡が全くなくなった世界。
 平和で充足していて、誰も憎み合ったりイライラしてなどいない世界。しかし微かに怒りのようなものも感じる。

 そして神様がいなくなった世界を思い浮かべてみた。
 それは殺伐としていて自分が今まで感じてきたような自然の美や奇跡などが、全く失われていた。
 しかし、それを悲しいと思うのと裏腹に、なんだか清々したと言うような感情が心にわだかまるのが感じられた。
 「これは、神様に対する怒り?」
 ミナトは心で戸惑った。自分は神様に対して怒っている?今まで考えてもみなかった。しかし、ミナトはこの感情を掴みつぶした。それを抑え込んでこう言った。

 「あたしは自分を殺します。」
 ミナトは厳然たる様子だった。
 「ミナ!」
 アイキが叫んだ。
 ニチニチも言う。
 「それはつまりは自殺願望よ。」
 言いながらニチニチはこの自分の性をのろった。彼女はやたらに分析能力があるのだ。おまけにおせっかいで人情家で、弱っている人を見るとうっかり助けたくなってしまう。自分の真意に気付いていない人を見ると、ご親切にも丁寧に教えたくなってしまうのだ。


 ニチニチの鋭い分析に、一同は静まり返った。
 ミナトは初めて知った。自分の抑えがたい衝動が一体どこへ続いて、いるのかを。そして、神様に対して強い怒りのようなものを持っているということも。そのどちらもが、はっきりと身を亡ぼすことだった。
ミナトの魂は深い轍に捉えられ、奈落へと墜落するまで止まれないのだ。

 ミナトは呆然と目の前の家族を見た。皆悲しみにくれ、おろおろと狼狽している。彼らはミナトにとっての彼岸にいた。住んでいる世界が違うのだ。生きている原理がまるで違っているのだ。

 幸せでいたい人々。

 だが彼らの幸せはミナトゆえに破壊され脅かされていた。ミナトだって彼らの幸せは壊したくない。だから自分を愛して欲しくないのだ。皆自分と同じぐらいミナトに絶望してくれたら、こんなに悩みはしないのだ。
 ミナトは目を閉じて頭を抱える。どうして自分はこうなってしまっったのか。ミナトには分からなかった。もう何も言いたくない、何も聞きたくない。

 「ミナ、お母さんなんだってするわ!今度からあなたに甘え過ぎない、ちゃんと務めを果たすから・・・、だから・・・。」
 ミオがミナトに駆け寄って言った。
 ミナトは頭を抱えたまま体を固くし、首を横に振った。
 「いや!さわらないで!そんなこと今更言わないで!もう手遅れよ!」
 ミナトはミオに触られることを強硬に拒否した。ミオはミナトの両腕に手をかけ強引に、自分の胸に抱きとろうとした。ミナトは思わずミオを力まかせに突き飛ばした。
 力のない人形のように、ミオの体は転がった。

 ミナトは茫然としてミオを見た。まるで枯れ木のように軽い体。ミオはうずくまったままで嗚咽を漏らした。
「お姉ちゃん!」
抗議するようにナギサが言ってそして絶句した。
「奥様、お部屋に行きましょう。」
ナミがミオを助け起こして連れて行く。ナギサも後へと続く。

アイキは怒ったような顔をして、じっとミナトを見つめる。ミナトは耐えきれず再び頭を抱えこむ。
 その場の空気に耐えられず、ニチニチがこそこそと部屋を出て行く。部屋にはミナトとアイキの二人だけになった。
 「どうしてさ、さっきは僕のことを好きだと言ったよね、確かに言ったよね。」
 ミナトは答えない。
 「じゃあ何で、自分では駄目何ていうのさ?資格が無いなんて。それを決めるのは僕のほうだろ!」
 ミナトはやはり答えない。
 「つまりさ、それは言い訳なの?本当は別に好きな人がいるとか、僕が好きじゃないとか・・・。」
 「好きよ!」
 ミナトが叫ぶ。
 「あたしだって、あなたのことが大好き、他の人のことなんて見た事ないわ。ずっとずっと好きだった。だから駄目なの。あたしの世界の法則は、そういう風に回るの。
 分かってる、あたしはとても変なことを言ってる、間違ってる、病気なのよ!
 でもあたしはそういう風にしか生きられないの、だから・・・、巻き込まれたくなかったら、あたしを見捨てて・・・、あたしを嫌いになって・・・。」
 そい言うと、ミナトは頭から布団を被った。アイキは呆然とその場に立ち尽くす。彼の世界は崩れ落ちてしまったのだ。

 そして、アイキは部屋を出ると、そのまま家を後にした。その晩彼は帰ってこなかった。

 「ごめんねナミちゃん・・・、あたしはもっとしっかりしていないと・・・。
 どうも駄目なのよ。何かって言うと涙ばかり・・・。この間のミサが飛び出した時も、おろおろと取り乱すばかりで。今度からはちゃんとしなきゃと思ってたのに・・・。」

 ナミはミオの部屋ですっかり焦燥したミオの前に膝を突いていた。激しい動揺は収まったが、まだ手が震えている。
 「いいのよ、奥様。落ち着いてからゆっくり思っていることを話しましょう。そのときはミナも落ち着いているわ。今、お互いの気が昂ぶっている時に何か言ったって、どうしようもないと思うわ。」
 とは言うものの、正直ナミにもどうしたらいいのか分からない。元の主の悲しむのを見るのはつらかった。

 「きっとあたしが弱いからね、ミナがあんな風になってしまったのは。ミサキのことといい、あまりにも負担をかけすぎたから・・・。それで何ともないと思ってたから・・・。慢心しきってたから・・・、あの子は強い子だって。」
 ミオが顔を歪める。ナミは必死に言った。
 「そんなことないわ。奥様は奥様なりによくやってます。きっとそのことではないのよ。」
 と言いつつも、ナミにもミナトが蝕まれてしまったその理由は皆目見当が付かない。ナミは胸を痛めていた。持ち主を守護する宝石であるナミは、ミナトが幸せでいることをひたすら願っているのだから。

 一階の居間で、ナギサはこんな家族のごたごたに巻き込まれてしまったニチニチに謝っていた。
 「本当にごめんなさい。家の醜いところを見せてしまって・・・。でもどうして、お姉ちゃんはあなたにそんなこと話したんだろう?」
 「ええと・・、まあ、それは人徳よ、きっと人徳よ!」
 ニチニチは誤魔化した。先ほどこの妹から、結婚したがっていたのはアイキの方で、家が欲しいというのも、この妹が結婚後も帰ってこられる実家が欲しいため、アイキと姉を結婚させたいという、全く予想外の要求であったことも聞かされていた。ここでアイキの縁談をぶち壊しに来た何て言ったら、それこそニチニチの面目は丸つぶれだ。

 「でもまさか、アイキ君のほうも彼女を好きで、縁談に乗り気だったなんて。」
 ニチニチは頭の中だけでつぶやく。家や財産を乗っ取るだとか、全部作り話だ。まさに、ニチニチはスグリにはめられたのだ。

 それにしても、とナギサが言う。
 「ニチニチさんて頭いいですね。とっても頼りになりそうだし。今度また何か問題が起きたら、相談に乗ってくれませんか?」
 元気のしぼんだナギサは、素直で謙虚な女の子だった。すがるようにニチニチを見る。ニチニチはこういう眼差しに、事の他弱かった。思わずこう請合ってしまう。
 「ああ、あたしで良かったら何時でも・・・。」
 ナギサの顔がぱっと輝く。丁寧にお辞儀をして言った。
 「ありがとうございます。」

 こう言われて、アイキの家を後にしたニチニチだが、ため息をついてなみだ目だった。何しろ、好きな男の子が別の女に、好きだ好きだと連呼するのを聞いてしまったのだ。
 「はあ、人生最悪の失恋だ・・・。」
 ニチニチはつぶやく。今日のこの滑稽な自分自身は泣くに泣けない。
 「それもこれもスグリのせいだ!今日のところはせいぜい鼻で笑ってなさい。後ですぐに十倍返しにしてやる!」
 そして闘気に目をらんらんと光らせ、復讐プランを練りながら家路に着くのだった。

 その日ミナトは部屋から一歩も出なかった。誰にも合わせる顔が無かった。どうせ明日になれば顔を会わせない訳にもいかない事は分かっている。だが、一時しのぎの逃避と分かっていても、ミナトにはそうするしか出来なかった。

 ミナトは暗い部屋の中で、相変わらず頭から布団を被り身を震わせていた。さっき、アイキが珍しく怒りを見せたとき、ミナトはとてつもない悲しさに襲われたのだ。

 「他に好きな人がいるの?」

 その言葉はミナトの胸を切り裂いた。嫌って欲しい、見捨てて欲しい、そうも願っていると言うのに、ミナトはアイキに嫌われるのがこんなに悲しいのだ。
何て我が侭なのだろう?何て矛盾しているのだろう?どうして自分はこんなにも心弱いのだろうか。ミナトはこの日が来るまで最後の時には、もっと自分は動じないものと思っていたのだ。それなのに、アイキの激しい感情に、ミナトの心はそのよりどころを失いそうになる。
皮肉なことに、アイキが去っていかないことを前提に、ミナトの心は強くあったのだ。

 ドアが開く、誰かが入ってくる。誰であってもミナトは語る言葉なんて無いのに。体をびくりとさせて動かない。
 「ミナ・・・。」
 ナミの声だった。ミナトは振り向くことが出来なかった。どんな顔をしてナミを見ればよいのだろう。
 ナミはミナトのベッドに腰をかける。
 「ミナ、まだ泣いてたのね。」
 ミナトは言った。
 「泣いてなんかいない。涙が出てこないの。あたしは本当は、悲しんでなんかいないのよ。正そう言う風に自分で思いたくて・・・、そして周りからそう見えるだけで・・・。
 だっておかしいじゃない、溢れ出るものがあたしには全然無いの、何も湧いてこないの!心の中はいつも空っぽで、苦しみも悲しみも、全部偽物なのよ。ただ自分には、苦しくて悲しいと思う心があるって、信じたいだけなのよ。」

 ナミは言った。とても優しい声だった。
 「違うわ、ミナは泣いているのよ。涙が出なくても泣いているの。涙が出ないのは、涙の出口が凍っちゃったからよ。そういう人、時々いるの。あんまり辛い事があると、人は時々そうなるの。だから、大丈夫、ミナは空ろなんかじゃないわ、心が冷たいわけでもないわ。
 ミナは悲しいの、アイキ君が怒ったことが、ミオやナギサを悲しませたことが、ミサを傷つけたことが。本当にみんなを愛しているのよ。そうでなきゃ、あんなに毎日早起きして、洗濯したり掃除したり、仕事の後は勉強したり、そこまで頑張ったりは出来ないわ。愛してもいない人のために、雨の中街中熱が出るまで探し回ったりも出来ないわ。
 大丈夫、ミナはとても優しい女の子よ。世界中が否定しても、あたしが知ってるわ。」

 その時、ミナトの中の何かが氷解した。体が震える、息も震える。喉の奥のほうから声にならない声が洩れ出た。 そして次の瞬間、ミナトの目からは大粒の涙がこぼれ出た。
 「ううう・・・。」
 涙は後から後からあふれ出て、ミナトは枕に顔を埋めてしゃくりあげた。
 ナミはミナトの背中を優しくなでていた。ずっとそうしていてくれた。ミナトが泣き疲れて眠るまで、そうしていてくれた。

11 それぞれが思うこと

 そのころアイキは、ギボウシュの部屋に転がり込んでいた。アイキはとても混乱していた。激しい動揺による怒りが一段落してみると、戸惑うばかりだったのだ。ミナトの気持ちは全く理解出来なかった。
 夜に開いている店に入ろうにもお金なんてないし、ここで新しい女の子と遊んで気を紛らわす甲斐性は、アイキには無かった。

 そして、今のアイキにある唯一の財産は、友人だけだった。
 アイキの話を一通り聞いて、ギボウシュは言った。
 「そりゃあ、前衛か?グシ派ともラカン派とも違っているようだが、まあ、古典ではないな。だが、神と人間なんて、まるで古代劇だな。」
 アイキは眉間にしわを寄せて言う。
 「芝居じゃないんだって!現実だよ現実。人事だと思って・・・。なあ、好きだから駄目って事ってあるの?」

 ギボウシュは言った。
 「俺に聞かれてもなあ。自慢じゃないが、この歳まで全く浮いた話など無いからな。イギスに聞けよ、そんなに経験者の話が聞きたきゃ。」
 「嫌だ、あいつの部屋に行ったら、今度はどんな女の子が出てくるか・・・。」
 アイキは素早く却下する。前にもとても嫌な出来事があったのだ。ギボウシュは今度は真面目に考えて言った。

 「まあ、一つだけ俺にも言える事はなあ、その、ミナって娘の自己評価があまりにも低すぎるってことだろうな。
 世の中色んな奴がいる。根拠無く自信満々の奴から、いつもへこへこしてる奴まで。大体皆、人が自分をどう評価するでそれが定まってくると思うんだがな。だがその娘は他人がどんなに自分を高く評価しても、それが信じられないんだろう。あまりにも自分が低いから、人が自分といて幸せだとか、そんなこと考えられないのさ。そういうことなんじゃないの?俺なんて、価値に見合わない評価ばかりでぶすぶすしているがな、芸術でも恋愛でも。」

 アイキは少し考える。そして心細げに言った。
 「自分に価値がないと言うか、まるで元から損なわれている、もう取り返しの付かないような言い方をしていたんだ。
 魂が欠けているって・・・。それってどういうことだろう?だってギボウシュ、人はお皿ではないよ。」
 そうなんだがなあ、とギボウシュは言う。
 「心の傷はなかなか消えないって言うだろ。誰の心も博物館に並んでる古土器みたいにつぎはぎ修復されてぼろぼろなんだぜ。
 もしかしたら、過去に何かあったのかもな。その、お前の家に来る以前に。その娘の父親は事故で死んだんだっけか?」
 「そうだよ。嵐の晩に、馬車で海に落ちたんだって。」
 「ふうん、お前とにてるなあ。」
 とギボウシュはつぶやいた。
 「お前のところは両親二人供だっけか。」
 「そうだよ。でも僕は一歳だったから、全く覚えていない。でもミナは、八歳のときだから、お父さんの死んだ状況もよく分かっていたんじゃないかなあ。その後、家にいられなくなった経緯とか。ギボウシュはそのことと関係あるって思うの?」
 「まあ、無いとは言わんが。だがよ、俺はどうにも腑に落ちないなあ。婆さんや叔父貴に邪険にされたって、そこまで傷つくか?小さい子にとっては、母親こそが全てだろうが。いくらそいつらに疎まれたって、母親と一体化した立場に居たんなら、そいつらを敵視して、そして事は済む。」
 「じゃあ、ギボウシュは何が原因だって思う?」
 
ギボウシュはふっと息を吐く。
 「俺が知るかよ。お前が分からんものは俺も分からん。お前より事情を知ってるわけがあるまい。その事が関係しているかもしれないし、全く別に、お前すら知らない事情があるのかも知れん。どっちにしろアイキ。」
 ギボウシュはアイキの目を見た。
 「何?」
 「確かに人間はお皿じゃない。欠けて傷がついた人間に価値が無いなら、この世はガラクタの海さ。俺も、お前もな。そう言ってやれ。そんな事、問題にならないほど好きなんだって伝えるんだよ。魂の欠けた彼女にふさわしいのは、同じくぶち壊れた自分だって言ってやれ。それともお前、今日の出来事で彼女に幻滅したか?冷めちまったか?」
 「いいや。」
 アイキは言った。心が奮い立った。
 「ならそうしろ。俺もお前もイギスとは違う。器用なことなんぞ出来っこない。だがな、不器用には不器用の戦い方がある。
 誠意が無いんなら、誤魔化し様は無いが、あるんなら問題は無い。嘘をつくな。包み込んでやれ。」
 アイキは言った。
 「ありがとう、ギボウシュ、その通りだよ。」
 こうしてその晩アイキは、ギボウシュと一晩中話し続けた。眠気は何時までたってもやってこなかった。
 

 ユカシカオリの東側、シノノメ市の郊外、ユカシカオリへと続くタチバナ河の水面に、大きな船団が下ってゆく。まるで御伽噺の情景を見るごとく、船団は実に雅やかだった。龍をかたどった朱塗りの船首に、贅を尽くした華麗な装飾。蓮をかたどった赤い灯りが灯され、水に映りするすると滑る。まるで夢幻の装いだ。周囲は屈強の護衛船で固められてはいるが、戦うための船団ではない。
 その中でひときわ大きく、豪奢な船の中で、彼女が目覚める。大きな翡翠の瞳をぱっちりと開く。

 「夢を見ました。」

 その言葉に、まるで番犬の様にそばに控えた黒髪の淑やかそうな少女が、恭しく紙と筆を差し出す。彼女はさらさらと墨汁を含んだ筆を走らせ、人の顔を描く。
 「この者です。この者が、秘密の一端を握っているのです。次期に我等の前にも姿を現すことでしょう。」
 その紙を、また黒髪の少女が恭しく受け取る。

 船の窓から夜半の月がのぞく。ここは寝室。全てにおいて贅を尽くされ、そうであるのに何もかにもが洗練されていた。ここで見る夢とは一体どんなであろうか?これを彼女の眠るためだけに作った者の、権勢と趣味の程がうかがい知れる。
 だがよく見れば、そこには歳若い乙女の寝室にはふさわしくないとも思える、呪いじみた像や宝剣、画図の類が目に付く。衝立はよく見れば巨大なお札のようだし、人形の類は全て神をかたどったものだ。絵画は美しくはあるが呪術との関連を思わせる題材だった。天蓋も、床敷きも、布団や枕でさえ。

 「はあ、見の引き締まる想いです。これから、この私の巫女姫としての資質と行動が問われてゆくのです。この様な時代に生まれついたのは、月華富神様の思し召しでありましょうか。もしそうであるのなら、この蝶虹、謹んでその御神命を果たしてご覧に入れましょう。
 我等朱家がコウバイにて皇位を守っている間は、魔神など決して復活させませぬ。決して、決して。」

 
 次の日、アイキはギボウシュの家からバイトにいき、そのまま「アカデミー」に登校した。家に帰ることも考えたが、勇気が出なかった。ミナは泣いただろうか、ぼんやり思う。

 校門の前では、いつもより少しざわついた生徒達が、一人の少女に視線を注いで指差していた。ナミだった。
 ナミは体の前で手を組んで、心細げに突っ立っていたが、アイキの姿を見とめると微笑んで手を振った。
 「アイキ君、よかった、ここでよかったのね。人に道を聞きながら来たのよ。迷っちゃうかと思った。」
 ナミの華やかな容貌は、『アカデミー』の生徒達の間でも際立っていた。一人の顔見知りがアイキに聞く。
 「知り合い?」
 「まあ。」
 アイキはナミを、脇のほうへと連れて行く。ここでは目立ちすぎるだろう。二人は建物の影のほうに移動した。アイキが言った。
 「ここならいいよ。何か話があったの?」

 捨てられた子犬のように心もとない顔をして、ナミが言う。
 「アイキ君、ミナを許してあげてね。昨日アイキ君、怒ってたから・・・。」
 アイキは思わず黙る。そして少し考えながら言う。
 「怒ったっていうかね、何かそういう風にするしかなくて・・・、ああいう風に言っちゃったけど、本当に怒ってたかどうかは分からないよ。悲しみの表現がそうなったんだと思う。僕も何て言ったらいいか分かんないんだ。」

 ナミが必死に言った。
 「アイキ君、ミナを見捨てないでね。あたしはミナを守護する宝石だから、絶対的にミナの味方だし、アイキ君にはアイキ君の人生があって、選択する権利があるのも分かってる。あたしが言ってるのは身勝手な理屈だわ。
 でも、ミナは絶対にあたしがこっち側へ連れて来るから。ミナがどうしてあんな理屈に取り付かれたのかは分からないけど、もう一度、神様の祝福や、幸せな人生が信じられるように、あたし頑張るから・・・。だから、だからその時まで待っていて欲しいの、アイキ君。あたしだけはミナの味方だから。」
 アイキは真顔でそれを聞いていたが、やがて少し笑って言った。
 「ナミだけじゃない、僕もミナの味方だよ。僕もミナの幸せを願ってる。そして、自分も幸せになりたい。帰結される答えは一つ、だろ?」
 ナミがほっとしたように、目を潤ませて微笑む。
 「ありがとう、ありがとうアイキ君。」

 「で、聞きたいことがあるんだけど、ナミ。」
 アイキが切り出す。なあに、とナミが返す。
 「昨日のミナの台詞で、気になる所があったんだ。『神様に許されていない』って。
 実はね、昔一度だけ同じことをミナが言ったことがある。一度きりだけど、その時ミナは泣いていて、とても辛そうだった。忘れもしない、ミナが僕の家に来た日だよ。
 ナミはミナを生まれたときから知っているんだろう?それが、何を意味しているのか分かるかい?考えたくは無いけれど、ミナは何かしでかした?」
 ナミは驚いて首を振る。
 「そんなこと、全く思いつかないわ。ミナは小さな頃から、優しくて清らかな女の子だったわ。
 そりゃあ、小さな子供だったからには、いたずらや我が侭や、かんしゃくを起こすこともあったけど。神様に許されないなんて、そんな大それたこと起こしたこと無かったわ。あり得ない、そんなこと。」

 アイキは少しほっとしたように言う。
 「そっか、そうだよな。僕もミナがそんなことしたなんて考えられない。でもじゃあ、ミナは何をそんなに気に病んでいるんだろう?」
 ナミも言った。
 「あたしにも分かんない。」
 その時、『アカデミー』のチャイムがなり始めた。生徒達が慌てて構内に駆け込む気配が伝わってくる。遅刻は欠課扱いとなってしまうのだ。アイキは慌てて言った。
 「僕もう行かなくちゃ。ナミ、帰れる?」
 「目印つけてきたの。」
 ナミが持っているのは赤いチョークだった。
 「あたし、自分が方向音痴って気づいたのよ。だから角を曲がるとき、これで印を書いてきたの。でも、迷っちゃうかな?」
 そう言いつつもう、ナミは家とは反対のほうへと歩き出してしまう。アイキが慌てて止める。
 「ナミ、ナミ、そっちじゃないって。反対、反対!右だよ!右!」
 ナミが頬を染めて頭に手をやる。木漏れ日の中ナミの銀の髪に光が躍っている。
 「あ、しまった・・・。」
 そして、ナミの髪に躍る光そのもののような無上の笑顔をアイキに向けた。それは人に希望と平和をもたらす類の笑みだった。
 「ありがとう、アイキ君、ほんとにありがとう。」
 この笑みを向けられて不快になる人があろうか?ナミは足早に構内へと歩を進めるアイキに両手を振って繰り返す。
アイキはこの笑みだけで何だか救われた様に思うのだった。

 その日、実を言うとミナトは、朝起きるのが怖かった。起きればすぐにアイキを起こさなくてはならないと思っていた。
 だがアイキは家に居なかった。ドアを開けると机もベッドも昨日のままで、主のいない部屋は散らかったまま伽藍としていた。
 これがミナトの胸にはこたえた。果たして自分は決心したように、アイキを自由にして、そのまま彼のいない人生を送ることに耐えられるだろうか?ミナトはつくづく自分の甘さを思い知る。

 一階に降りると、ミオが居間のソファーの上に膝を抱えて座っていた。まるで叱られた小さな女の子の様だった。ミナトには声をかける勇気が出なかった。だがミオのほうから声をかける。
 「おはよう。昨夜は眠れた?」
 「うん。図太いかな?」
 いいえ、とミオは言う。
 「目が真っ赤にはれてるわ。仕事に出るまでに水で冷やしておきなさい。今日から行くんでしょ?」
 ミオが精一杯のいたわりを見せている。努めてどっしり構えているように見える。
 「うん。」
 「アイキは家に居ないの?」
 ミオは少し言い難そうに言った。
 「昨日家を出たっきり・・・。でも心配ないわよ、アイキ君に限っておかしなことはしないと思うわ。お財布も持っていなかったし、きっとお友達のところにでも泊まったのよ。」
 「ミサは帰ってきた?」
 ううん、とミオは首を振る。
 「帰ってないわ。お友達が出来たのはいいけど、こう何日も続くと、ご迷惑にならないか心配になってくるわね。」
 「本当ね。」
 とミナトは言う。心がざらざらする。そしてこう切り出した。

 「ねえ、もしかして待ってた?」
 とげの有る言い方。それは当のミナトにとっても意外だった。ただそれは何でもない言葉に不機嫌の衣をまとって転がり出てきた。
 母親が精いっぱい自分を労わろうと努めているのに?昨日のことについて一言も責めるようなことも言っていないのに?だがミナトの体に渦を巻いていたのは底知れない苛立ちだった。
 「そうよ。あなたの起きる前の起きていようと思ったの。これからは毎日早起きするわ。ミナに色々と力になってあげられるくらいにしっかりするつもり。だから何時だって頼ってくれていいのよ。あなたよりは長く生きているし、その長く生きてきた間に恋もしたし、子育てだってしたんだから。母さんはあなたに幸せに生きて欲しいのよ。」

 だが、ミナトはますます訳の分からない苛立ちにかられる。
 「じゃあ、ミサキは?あたしがこのまま幸せになっても幸せになれる?」
 「ミサにももちろん幸せになって欲しいわ。今度帰ってきたらきちんと話を聞いて・・・。」
 「多分無理よ。」
 ミナトの言葉には棘があった。
 「そんなこと・・・。ちゃんと話をすれば、分かり合えるものよ。」
 「分かりあうって、何を分かりあうの?」
 たぶんそんな事ミサキも求めてはいない。あの子は何かほかに世界を見つけてしまったのだろう。なんとなく解る。 人の幸せが自分の不幸となることもある。自分の幸せが人の不幸となることもまた。そんなことミオだって解っているはずだ、ミオならば確実に。
 「ミナ?何を言っているの・・・?ねえ、怒ってる?母さん何か悪いこと言った?」
 「無理なのよ。」
 ミナトは心の中でつぶやく。お母さんには救えない。ミサキも、自分もまた。母親だけではない、アイキもナギサも誰も彼も、自分たちを救うことはできないのだ。そしてそのことをもう自分もミサキも求めてはいない。

 「ミナ、おはよう、ああ、奥様もおはよう。」
 眠い目をこすりながらナミが階段を降りてくる、と、残り三分の一ほどのところでズダダダと尻餅をつきながら落っこちる。
 「ナミ!大丈夫?」
 二人は慌ててナミを助け起こす。
 「あ、痛たたたた・・・・。ごめんなさい、階段ってどうも苦手。」
 ナミはお尻をさすりながら照れ笑いをした。
 「もう気をつけなさい。何回落ちれば気がすむの?家の中の階段ならまだ痣で済むけど、家に続く石段で転んだら命に関わるんだから。」
 そう、ナミをたしなめながら、ミナトはふと気付く。つい今まで心の中にわだかまっていた苛立ちが小さくなっているのだ。

 「ミナ、今日は早起きしてお料理に挑戦よ。朝ご飯を作ってみたいの。まず何をすればいいの?」
 あきれたようにミナトは言う。
 「ナミ、朝はたいした料理なんかしないから、こんなに早起きじゃなくっても十分よ。チーズを切ってパンにはさむだけ。」
 「あ、そうなんだ、了解!」
 そう言ってナミは無邪気に微笑んだ。
 「じゃあ、時間が来るまでお庭でお花を見てましょうよ、ミナも一緒に行こう。」
 ナミはミナトを勝手口の方から引っ張っていく。

 外に出たとたん、ぱっと朝露の匂いがした。まだ空気はひんやりとしている。この時間のこの庭がこんなに美しい事は知らないでいた。まだ低い太陽に閉じたままの花がゆっくりと開いてゆく。家庭菜園の機能の強いたいしたことの無い庭だ。ナミが千年以上にわたって見てきたであろう贅を尽くした麗しい庭園には敵うべくも無い。
 だがナミは無邪気に開き行く蕾に目を輝かせて歓声を上げる。
 「わああ、ミナ、綺麗綺麗、お日様が上がったことがちゃんと分かるのね。」
 ミナトは分からなくなる。自分は誰にも救えないと思ってきた。愛する人にも神様にさえ。
 だがナミは・・・、ナミなら・・・。ナミはミナトの心に風穴をあける。誰にも出来ていなかったことが出来る。だが、ミナトにはまだ信じるだけの確信がもてない。信じてしまうのが怖いのだ。

  その日はまだミナトは掃除を取りやめ、ナギサに洗濯をしてもらった。
 朝ご飯が終わると、ナミがふらりと何処かへ出かけた。すぐ戻ってくると言い残して。

 ナギサはさすがに元気が無くしょげかえっていた。昨日のことには何も触れなかったが、その目がミナトに衝撃を受けたことを語っていた。ナギサにしてみれば、天地がひっくり返るような出来事だったのだ。
 ナギサが出かける間際、ミナトは言った。
 「ごめんね。」
 ううん、と、ナギサは弱々しく笑って手を振った。

 学校では院長先生が、ミナトの顔を見るとほっとしたように笑ってくれた。
 「まあ、良くなったんですね。熱は下がったの?」
 「はい、ご迷惑をおかけしました。」
 いいのよ、仕方ないから、と先生は言った。学校へは、アイキがミサキを探すがてら伝えてくれたらしい。だが、アイキは余計なことまでは言わなかったようだ。ミサキやニチニチのことなど思いもよらず、院長はミナトに言う。
 「でも今日まではまだ無理しちゃ駄目ですよ。お仕事が終わったら、すぐ帰って休むことです。」
 確かにいつもと体の感じが違っている。この学校まで登ってくる時に、何だかとても体が重かったのだ。それでミナトは院長先生の好意に甘えることにした。またぶり返しでもしたら話にならない。

 帰る道すがら、ミナトはいつも通り買い物をする。あんな事があったのに、こうして普段道理のことをしている自分が不思議だった。もっと居たたまれなくなると思っていた。

 「今日はイワシが安いな。」
 一人二尾、アイキは三尾と考えて、ふと不安になる。アイキは帰ってくるだろうか?だが、帰ってきたとき夕御飯が無かったらどう思うだろう?ミナトはアイキの分もやはり買うことにする。あの家はやはり、彼のものなのだから、帰る場所なのだから。
 いつものように十一尾と考えて、あっとミナトは思う。
 「そっか、ナミの分。」

そうすると、十三尾。あれ、とミナトは思った。という事は、、一尾5テキの魚を十一尾買うことにすれば、55テキ、十三尾だと65テキ、その分のお金は家の家計を・・・。
とんでもない事に気付いたミナトは、勢いよくい家に帰るとナミを呼んだ。そしてそのまま自室へとナミを連れて行く。

「ナミ、あなたは一昨日から普通に御飯食べてるのよね。」
 「そうよ。」
 とナミが答える。
 「宝石であっても必要なの?」
 「人間の姿でいるときには、食べないと死んじゃう。」
 ミナトは愕然とする。
 「あのね、ナミ。」
 ミナトはナミの肩をつかむ。
 「家は今、余裕が無いの。あなた一人分の食費もこのままだと払えなくなる。」
 「と言う事は・・・。」
 「働いてもらわないと困るの!」

12 アルバイト!

 次の日、ミナトはナミと一緒に職安にいた。なるべくは仕事を休むわけにもいかないので、午前中だけ休みをもらった。こんなに休んだことは初めてだ
 だが、今までのナミの様子からして、一人で職を探させるのはとても不安だ。人を疑うことを知らないナミは、悪徳業者の格好の餌食となる可能性もある。
 取りあえずは、施設の利用の仕方だけでも教えないと。何しろ昨日まで、ナミは職安の存在すら知らなかったのだから。

 ミナトは甚だ不安だった。昨日聞いた話によれば、条件の良い職場は到底望めない。
 昨日ミナトはナミにこう聞いた。
 「あなた、読み書きは出来る?」
 ナミは答えた。
 「半分なら。」
 「『半分』て?」
 ええとね、とナミが言う。
 「文字は読めるけど、書けないの。文字を書いたことは一度も無いから。」
 つまりこういう事らしかった。千年もの時の中で、貴婦人達と一緒に文字に接していたので読むことは出来るが、実際にペンを持って書く機会が無かった、故に読めるけど書けないと。ミナトは諦めた。これでは書類を扱う職種は無理だ。では、商店はどうだろう?
 「計算は出来る?」
 「両手より多いのは無理。」
 ミナトは頭を抱える。
 「じゃあ、料理は?」
 「今日まで包丁握ったこと無かったわ。第一、物を食べたのはこの間が初めてだったの。」
 これでは味覚も当てにならない。
 「何か特技とかある?」
 ナミは首をかしげる。
 「わかんない・・・。」

 ミナトは焦った。これでは後は、水商売か、体力勝負の仕事しかない。
 ミナトは前の晩のナミの温もりを思い出していた。涙が出たのは何年ぶりだったろう?ナミの手も言葉も、全てが温かかった。思わず信じてしまいそうになっていた。ナミだけは何があっても味方でいてくれると。ミナトはナミの本質的な優しさを知った思いだった。だからこそ、そんなナミには自分を安売りするような職種には就いて欲しくなかった。ナミには笑って働いて欲しいのだ。
 ミナトこの新しく自分に生まれた感情にとまどっていた。これも偽物の思いやりなのだろうか。だが、ナミの顔を見ていると、不思議とそうしたくなってしまうのだ。

 ナミを促して、棚に並んだ求人票を物色する。時給、時間帯、場所、少しでもいいものを選ばないと。
 その時急に部屋の中央で、歓声が上がった。女の子たちの声だ。
 「何だろう?」
 二人は近寄ってみることにした。
そこには若い女の子たちが群がっていて、輪の中心には、市の職員のバッチをした女の人が二人、何か説明をしていた。

 女の子たちが口々に言う。
 「研修と一晩でそんなにもらえるの?」
 「あたしも一応、十五歳以上、二十五歳未満だけど・・・。」
 市の職員は女の子たちに促す。
 「はい、並んで並んで、これから審査を行います。」
 好奇心を刺激されたナミが、輪の上からひょいと頭を出して覗き込む。そして、市の職員とばっちり目が合った。職員の目がぱっと輝く。

 「ちょっと、そこのあなた。」
 「はい?」
 市の職員がナミに近寄る。
 「ちょっとくるっと回ってみて。」
 言われるがまま、ナミはくるりと一回りする。輝くような銀の髪がふわふわと舞い、スカートの裾が、ひらりと広がる。陽だまりが形を作って降りてきたかのようだった。一同はその美しさに思わず見入る。
 「歩いてみて。」
 ナミは、何のことか分からないまま歩く。姿勢もよく、実に優雅だった。市の職員が言った。
 「笑顔もいいわね、完璧よ。あなたみたいな人には、是非来て欲しいわ。」
 あの、とミナトが聞く。
 「お話が見えないんですけれど、一体何の募集なんでしょう?」
 市の職員はこう言った。
 「ああ、聞いてなかったのね、あなた。今月の夏至祭りにあわせて、火の国の皇女、蝶虹公主様がお見えになることはご存知?
 皇女様は只今長い外遊に出ておられて、大きな船団を組んでタチバナ河を西に下っておられるの。ご到着は二十日。そして、二十三日にアクロポリスで開かれる祭典劇を、船の上からご鑑賞なされる予定なのよ。」
 もう一人の職員が言う。
 「その時皇女様の船団に、お菓子やお酒を配る、接待役を募集していたの。まあ、位の低い家来達の接待は水商売の女達に任せるのだけれど、皇女様やその側近の方々をおもてなしするのに、さすがにそれでは申し訳が無いという意見が所内で上がって、市の女性達の中から素人の人限定に、募集を募っていたの。」
 「条件は容姿と物腰で、市在住の十五歳以上、二十五歳未満、ていうことになっているわ。あなたなんて正にうってつけね。何て素晴らしい。」

 ナミは言った。
 「あの、あたしで大丈夫なお仕事なんですか?」
 市の職員は笑顔で言った。
 「是非来ていただきたいわ。」
 「やります!」
 ナミは即答する。
 ミナトは焦った。とても不安だ。ナミをそんな大それた場に出すなんて。すると市の職員がミナトに言った。
 「あなたもどうです?」
 「え?」
 「あなたにも是非来ていただきたいわ。あなたのような容姿の方は、外国の方がとてもお喜びになるの。」
 「私、ですか・・・?」
 職員が言った。
 「報酬は三日の研修と、一晩の仕事で、一人6ハイ。もちろんきちんとした市の仕事で、いかがわしいことなどは決してさせない約束となっています。」
 「一人6ハイ・・・。」
 ミナトは驚愕する。二人合わせればミナトの一ヶ月の収入と、差して変わりない。ナミがミナトの手を取っていった。
 「ミナ、やりましょう、あたしやるわ!食い扶持を稼ぐために頑張る。ミナと一緒だと嬉しいな。」
 その笑顔にミナトは不安を募らせる。とても一人でさせる訳にはいかない。
 それに・・・、一人6ハイ、何と魅力的な響きなのだろう?ミナトは一瞬悩んだが、次の瞬間決断した。

 「その仕事、あたしもやります!」

 ミナトは市の職員の出した契約書にサインをした。次いで、ナミにつづり方を教えてサインをさせた。甚だ不安だ。だが、そうなってしまったことは仕方が無かった。やると言ってしまったのだから。
 ナミの戸籍はどういうからくりか、しっかり台帳に記載されていた。市の職員は、細かい条件や日程を書いた紙をミナトとナミに渡して、他の女の子たちの審査を始めた。

 女の子たちは皆羨ましそうに、ミナトとナミを見ていた。それもそうだろう。年頃の女の子が如何にもやってみたい仕事なのだから。
 それから二人は再びナミの職を探したが、お掃除会社の募集しか、可能そうな仕事は見つからなかった。 ナミは掃除のやり方は見て知っているらしかったが、問題は体力だ。如何にも非力そうなナミの腕を見て、ミナトはため息をついた。
 ナミは、
 「あたし頑張る。」
 と言っている。だが、ミナトは今日のところは保留にすることにした。ミナトはナミにこう言った。
 「明日から掃除を手伝って。後、毎日水汲みの仕事をしてみなさい。接待のバイトが終わるまでに、どれだけ体力がつくか、見てからにしましょう。」
 そして、真っ直ぐ家に帰るようにナミに言いつけて、自分はそのまま出勤した。

 だが、ミナトが帰った時、ナミはまだ帰っていなかった。寄り道でもしているのか、それとも道に迷ったのか。ミナトが心配して探しに行こうかと思っているうちに、ナミが帰ってきた。
 ごめんね、とナミは言った。お砂糖漬けの花のような笑顔だった。
 「結婚式の行列を見かけて付いて行っちゃって、それから道に迷ってしまったの。」
 「あなたは少し、街に慣れた方がいいかもね。」
 「そうみたい。」
 と、首をかしげてナミは言った。
 そこへ、ミサキが鞄を抱えて玄関を出て行こうとする。以前は心配になるほどのはかなげな笑顔を作っていたが、今は眼をすがめにして口をへの字にしている。素直では無く見える素直な表情だ。清々しくなるぐらいミサキは変わった。

 「ミサ、出かけるの?」
 「悪い?」
 「いいえ、でもほとんど毎日だから・・・。」
 「このうちにいると血が通ったまま心臓が腐っていきそうになるの。外の方が息がつける。」
 
ミナトは少し逡巡したが、意を決して尋ねる。
 「ねえ、ミサ、あたしと顔を合わせるのがそんなに嫌?」
 ミナトはミサキにつられて素直に言った。ナミが淡く微笑んだ気配がした。ミサキは一息ついて遠い目をする。
 「あたしは生きたまま死にたくないの。雑草じゃないから生きられる場所でなければ生きられないわ。そしてそれはここではない。根っこの代わりに足がついているあたしは、陽の当たる場所に歩いてくの。そこでは水の味さえ格別なのよ。
お姉ちゃんはここで生きればいい、心が死を向いているお姉ちゃんにはふさわしいはず。そして段々腐っていけばいい、望み通り。御飯はいらない。十時には帰る。」
 そして、二人の顔も見ずに、仏頂面のまま扉を開けて出て行ってしまった。

 「心配しているの?」
 ナミが聞く。ミナトはぼんやり肯いた。ミサキの言葉はこう何というか、詩か小説の一説の様だった。ミナトとは語るべき尺の違う言葉たち。ミサキが手の届かない場所に行ってしまったような心持がする。
 「じゃあ、今度お友達を家にも連れていらっしゃいと言ってみたら?ナギサのお友達も、週末には家で大騒ぎしているじゃない。」
 「そっか、そう言ってみることも出来るか。」
 ミナトは言った。何だか簡単なことのようで本当にそれだけのことなのだろうか?一度顔を見ても見たいし、お世話になっているお礼も言ったほうがいいだろう。だが、まるで可能なこととは思われない。

 「まあ、ミサは今日もお出かけなの?」
 後ろからミオが声をかける。前よりもしゃんとした服を着て、髪もまとめ、心なしか背筋まで伸ばしているようにも見える。ミオは精一杯頼もしくあろうとしているのだろう。努めて余裕のある表情を作っているのがよく分かる。
 だが、それを見ると、ミナトは何故だかとても苛々した。何故だろう?自分でも説明が付かなかった。
 ただ、ミオのおそらくは必死に作っているだろうと察しが付く落ち着きを見るにつけて、腹のそこから怒りがこみ上げてくるのだ。

 何だか今、自分が難しい状況にあることの全てをミオのせいにしたかった。
 ミナトはそれを、努めて出さないように努力した。
 「今日はイカを買って来たんだけど、おかず余っちゃう。」
 ミナトは声の高低を、努めてコントロールして日常を装う。自分でも嘘はうまい方だと思う。
 「アイキ君にあげなさい。あれくらいの男の子は、何時もお腹をすかせているものよ。」
 「うん。」
 ミナトは母親の顔を見ないように言う。ミオが行ってしまうと、ナミが怪訝そうに言った。
 「ミナ、何か怒ってる?」
 「え・・・、何で?そんなことないけど・・・。」
 「それならいいけど。とてもいつもと違う顔をしていたから。」
 ナミはまるでミナトの心を見透かすかのように言った。どうしてナミには分かってしまうのだろう。ナミはまるで、ミナトの心のスイッチを知っているかのようだ。
 十年間凍り付いていた、ミナトの涙を解凍した時もそうだった。ミナトよりも良く、ミナトのことを知っている。

 そのときドアが勢い良く開いて、ナギサが大またで入ってきた。
 「ただいまあ、ミサちゃんは今日もお出かけ?さっきそこで行き会ったけど。」
 ミナトが答えて言う。
 「ええ、そうよ。」
 そして少し考えてこう言った。
 「ねえ、ナギサ、あんたはミサのお友達の家について何か聞いてるんじゃないの?詮索するわけではないんだけど、ちょっと心配で・・・。」
 ナギサは腕組みして唸った。
 「ううん、まずはお金持ちよ。」
 「それは知ってる。」
 「それでね、結構鋭敏な趣味の持ち主なんだって。ちょっと世間一般からずれてるって。こうさ、棺桶から出てきたような衣装とか持ってるんだって。愛でる花もペットも、なんか普通じゃないって。こことは別天地みたいだって。」
 「ずれてる・・・、棺桶・・・・。」
 「ほら、ミサちゃんの友達が出来てから使う言葉とか変わったでしょ?」
 「変わった?あたしは前からそんなに話してないから・・・。でもあんたが変わったって言うなら変わったのかも・・・。」
 「あのね、本質とか深層とか、抽象的って言うのかな?そんな言葉を使うようになった。聞いてみた?ミサちゃんの言葉、詩になったみたい。」
 「ふうん・・・。」
 そしてミナトは何もない空を見つめる。ナギサを見ているようで見ていない、自分の中だけを見ている瞳。そして悔しげに言った。
 「ミサもあんたにはそんなこと話すのね。あたしには硬い鎧を着て話してるみたいに冷たい言葉しか返って来ない。あたしが何を言っても気に入らないのね。」
 するとナギサはまた腕組みをした。
 「お姉ちゃんも遠慮なく本音で話せばいいのに。その気を使ってる風なのが余計ミサちゃん気に入らないのよ。ミサちゃんプライド高いから。」
 でも・・・・、とミナトは言いかけて、少しうつむく。
 「ナギサ、あんたには信じられないかもしれなくても、あたしって人間は自分の本音が何処にあるのか、それが良く分からないの。自分が本当はどうしたいのか、どう思っているのか、それが行方不明なのよ。
 昨日だってニチニチさんに言われるまで自分がなにを望んでいるのか分からなかった・・・。本当はミサに何を言いたいのか、何時も分からなくて。だから、あの娘を苛付かせるうわべだけの言葉しか出てこないの。」
ミナトはやっとのことで本音を漏らす。それも本音とは言えるのかという様な本音だ。

 するとナギサは事も無げに言った。
 「お友達作ったら?」
 「え?」
 「そう、お友達よう!あたしだって一人で悩んでると自分自身が訳分かんなくなることもあるけど、そんな時こそ友達が役に立つの。あたしの悩みを聞いて、色んな事言ってくれるし、その子に分かるように話すだけでだいぶ違うよ。
 お姉ちゃんは何でもかんでも自分だけの力で何とかしようとしすぎだと思うよ。自立心もいいけど、度が過ぎると毒になるよ。だから一昨日言ってたみたいに訳の分かんない願望なんか持つのよ。」
 ナギサは言って、少し怒った顔をした。ミナトはまたうつむく。
 「あんたも怒ってる?」
 ナギサは口を尖らせる。
 「怒ってるかもね。あたしは絶対に認めないよ!あたしはお姉ちゃんがアイキ君と別な人と一緒になるのも、 その逆も、絶対に嫌だからね。その結果お姉ちゃんが望みどおりに死んでしまうのも絶対に無し!この家はお姉ちゃんとアイキ君の!そしてあたしの帰る所!」
 「ナギサ・・・。相手がミサでも嫌?」
 「気持ち悪い!何ていうか、生理的に嫌なの、お母さんに彼氏が出来るより嫌!
 ねえ、お姉ちゃん、それって今まで堅いと思ってた大地がゆさゆさ揺れて地面が割れて裂け目に落っこちちゃう位の事なんだから・・・。」
 ミナトは力無く謝る。
 「ごめん・・・。」
 ナギサは両手で握りこぶしを作って強く言った。
 「謝んなくっていい!あたしはお姉ちゃんに遠慮なんかしないから、言いたい事言うから、したいようにするから!絶対にお姉ちゃんは幸せになる!絶対あたしの望み通りなる!」

 ミナトはナギサの目を見ることが出来なかった。この真っ直ぐさに答えられるものは、ミナトの何処にも無いのだ。したいようにしてしたいようにすることほど難しいことはない。ミナトにとってはそうだった。
 するとそれまで黙って聞いていたナミが宝石の目をきらめかせて、ナギサの手を取って嬉しそうに言った。
 「ナギサ、あたしも同じ、ミナは絶対に幸せになるわ、そう決めてるの。一緒に頑張りましょうね。」
 ナギサは嬉しそうを通り越して明らかに調子に乗った顔になってこう言った。
 「そっかあ、ナミちゃんもか!お姉ちゃんとアイキ君をくっつけて、このお家を生涯あたしたちの実家にする共同戦線張ろうよ!」
 「そうね、共同戦線、その言葉って素敵!まずはどんな作戦立てればいいかしら?」
 「そりゃあ、さっき言った通りお友達とかかな?あ、でも、アイキ君とデートのセッティングとかもいいかも、ああ、後、ライバル大作戦とか・・・。」
 「ミナのライバルに現れてもらって、恋心を煽ろうって言うのね?」
 「ああ、でも、今のお姉ちゃんだったら逆効果かも、そのままあっさり譲ってしまいそう、だからここはお姉ちゃんの方にちょっかいをかけるいい男に現れてもらって・・・。」
 「あのう・・・、ねえ・・・・。」
 どんどん暴走していく二人にミナトは恐れをなしてたしなめようとしたが、止まらなかった。そんなミナトにナギサが追い出すように言う。
 「お姉ちゃんは早く御飯作ってきて。あたしお腹がすいた。ナミちゃん、あたしの部屋においでよ。」
 「分かったわ。ミナ、イカは焼くの揚げるの?」
 「ああ、揚げようと・・・。」
 「お姉ちゃん、ちゃんとソースも作ってね。ナミちゃん行こう。」
 ナギサがナミの腕をつかんで階段を上がってゆく。まるで三文ロマンス本に書いてあるようなベタな展開のてんこ盛りにミナトは戦々恐々としていた。これ以上自分の世界を乱してほしくないのに。

 一つの家族であっても、家族それぞれが違うことを考えているようだ。ミオの考え、ミサキの考え、ナギサの考え、それらがすべてミナトの思いと不協和を奏でている。ばらばらに、崩れる方に、すれ違う方に、触れ合えば傷つくほどに、ベクトルが驚くほど違う。

 アイキはどう思っているのだろう?激しく好きだと言われたことを思い出す。そこから逃げたくなってしまうことが全ての元凶なのに、そうではなくなったと言われることほど怖いことは無ない。

 今まで通り、とミナトは思う。結局、これまで通りの関係を崩したくないのだ。自分で呆れるほど卑怯な考えだった。ミオも、ミサキも、ナギサも、アイキも、ずっと変わらずこのままでいることが一番楽なのだ。
だが、変わらないものなど無いということは、ミナトの根幹を作っていることでもあるはずだった。だから自分はそうなのだ、そうだというのに・・・・。

階段の一番上で不意に光がさしたと思った。朝の光のように白い熱の無い光。
「ナミ・・・。」
ミナトは気付いた。それは光のようなナミの髪の毛だった。まるで天窓でも出来てしまったかのようだ。暗い我が屋に差し込む光。白い光。朝の光。一瞬碧い目でナミがミナトを見て笑った。そうだ、変化はもう起こってしまっている。今まで通りではいられない、今まで通りではない、もうない!

 その日の夕御飯の時ミナトとナミは、夏至祭りの日に火の国の皇女の接待のアルバイトをすることになったと報告した。その話を聞いたナギサは、口を尖らせて羨ましがった。
 「いいなあ、そのバイト。華やかな場で、貴公子とかいっぱいいて、出会いが沢山ありそうで・・・。あたしも、あたしもやりたい。まだ募集してる?」
 「無理よ。」
 と、ミナトは言った。
 「十五歳以上、二十五歳以下だから。あんたはどう見たって、十三歳以下にしか見えないわ。」
 ナギサはふくれて言った。
 「あああ、もっと胸があったらなあ・・・。そしたら十五で通るのに・・・。火の国の皇女様かあ、きっと豪華なお船なんだろうなあ・・・。
 それに、聞くところによるとすごく格好いい将軍様がいるんだって。ヨウ何とかって言う。」
 「ヨウ将軍?あんた、皇女様のことも噂に聞いてたの?」
 そうよ、とナギサが肯く。
 「火の国の皇帝の一人娘で、何か、不思議な力があるんだってさ。地震の予知とかしたり、殺人の犯人をぴたりと当てるんだって。火の国の皇室の女性って、時々そういう人が出るらしいよ。
 それでね、父君の満充帝は花の国の王族で入り婿なんだけど、その時一緒に付いて火の国に渡った軍人の子供が、そのヨウ何とかって将軍なんだって。
 はあ、ヨウ将軍の妻になれれば、あたしも火の国でマダムになれるのに・・・。本当に惜しいなあ・・・。」
 ミナトは苦笑いして言った。
 「そうがっかりしないの。臨終収入が入るから、あんたにもなんか買ってあげる。」

 重い視線を感じて目を上げると、アイキが何か訴えるように見ている。
 「何?」
 ナミが言った。
 「やあねえ、ミナ、アイキ君はミナに言い寄る男が出てこないか心配しているのよ。心配しないでアイキ君、ミナの事はあたしがしっかり見守っているから。」
 どっちが心配なんだか、とミナトはため息をつく。自分とナミとでは比べ物にならない。アイキが決まり悪そうに言った。
 「僕もその日、その芝居に参加するんだ。もちろん出演じゃなくて、バックスタッフだけど。『アカデミー』の生徒は裏で何やかにや、雑用としてこき使われるんだ。もちろんただで。」

 そして少し残念そうに言った。
 「でも、惜しいな。僕もミナが綺麗にしているところ見てみたかったな。こういう機会しかないんだったら。」
 ミナトは口ごもってうつむく。照れているのが隠せなかった。そしてそんな自分が許せない。
 一体アイキはこの間、何を聞いていたんだろう?自分に絶望するように言ったのに。あの時確かに怒っていて、失望したものと思っていたのに。

変わらないことは悩みに成り得るのか?

 そしてミナトは、それを聞いていたナミの瞳がきらりと光ったのには気が付かなかった。

 次の日からナミは、早朝からの水汲みと掃除に汗を流した。ミナトから見ると相当きつそうだったが、ナミは絶対に根を上げなかった。
 重い桶を持って石段を降りるのはとても辛いのを、ミナトは身をもってよく知っている。だが、ナミは途中で息が切れて立ち止まっても、諦めずにまたすぐに歩き出した。

 ミナトはナミを見直した。見かけによらず根性はあるらしい。
 掃除も率先して頑張った。おかげでナギサがさぼり気味になるほどだった。
 これならば、あと少し体力が付けば、お掃除会社で働けるかもしれない。ミナトはそう思ってほっとしていた。

13 出来ることをやろう

 
 ミナトは三年ぶりにキリエに手紙を書いた。だが、望みがかなえられる当てはないのだ。キリエ故郷に帰ってしまった後、ミナトは五通手紙を書いて送った。だが、返事が来たことは一度もない。
 キリエが返事を書かなかった訳ではないことは、ミナトにも分かっていた。馬で移動生活を送るキリエに、手紙が届いていなかったのだろう。
 キリエに届ける手段が不確かなことを悟って、ミナトは手紙を書くことをやめた。そして、孤独を受け入れた。思い出の中だけに友達を押し込めた。
 だが、ミナトはナミのためにも何かはしなくてはならない。派手に探すことは危ないかもしれないが、少なくともキリエの所にナミの妹が有るということは確実と思われた。
 そのためミナトはキリエに手紙を書いた。ナミの事、ナミの妹達のこと、迫っているらしい危機の事、そしてナミの妹の一人がキリエの元に有るということ。出来るなら速やかに、危険を避けるため、「アゲハ」というブラックダイヤモンドに、人型をとってもらうようにして欲しいと心を尽くして書き綴った。

 キリエは信じるだろうか?ミナトにはそうは思えなかった。ミナトの覚えているキリエはそんな性格ではなかった。だが、この手紙がキリエの家で少しでも話題になれば、アゲハに自主的に人型を取ってもらえるかもしれない。そう、一縷の願いを託していた。
 アゲハの付いた宝剣は、何時も家族の団欒の中、居間にすえつけられた祭壇に掲げられていたのだ。キリエが手紙のことを口にすれば、アゲハにも届くかもしれない。

 だが、手紙が確実に届くという保障は何処にもない。むしろ届かない可能性のほうがずっと大きい。
 まだ上手くいくかどうか分からないのに、ナミは大喜びしてミナトに礼を言った。
 「ありがとうミナ、これでアゲハちゃんも助かるわ。」
 だが、ミナトにはどうしても楽観は出来なかった。
 「分かってるナミ?あたしは五通も書いたのよ、でも返事は一度も。保証はないからね。言っておくけど。それに、届いたとして、半年はかかるわ。これでニ年音沙汰がなければ、また別の手段を考えないと。とても気の長い話なのよ。」
 自らも歯がゆさを押さえ、ミナトはナミに言い聞かせた。出来ることはとても限られていた。

 それからミナトは、ナミの妹達の、分かっているだけで一番新しい持ち主を聞き出した。
 「ササラちゃんは確か、二百年前にオークションにかけられて、火の国に渡ったはず。皇室に連なる誰かに競り落とされたらしいわ。でも、捕まってしまったみたい。ナクツルちゃんは三百年前に持ち主の貴婦人の副葬品として、墓に埋められたの。そして捕まってしまったわ。」

 ミナトは聞く。
 「捕まっていない娘は?」
 「ハチミツちゃんは二百年前、持ち主の領主が氷の国に寝返ったとき、そのまま彼の地へ渡ったはず。その後のことは良く分からない。
 バラノビシュちゃんは、代々母系で来たから、あっちこっちへ嫁いで行方が良く分からないの。でも、北のほうだったはず。
 ヒスイコちゃんは五十年前、水の国から花の国の大公爵家へと、持ち主の貴婦人が嫁いで行ったわ。その結婚式の時、一度話してるの。」
 「大公爵家?」
 「そう。ハルニレ公爵家。」
 「聞いたことあるわ。」
 ミナトでも知っている外国の有力貴族だ。今の当主は確か、国王のいとこに当たると聞いている。
 「その家のことなら少し、調べられるかも。」
 ミナトの心に希望が差した。五十年前ならば、今もその家に有る可能性も高い。ちょっとでも何か出来るかもしれない。

 ミナトは休日を待ち、ナミを連れて、国立図書館へと向かった。市の東側、高台の上に石造りの中世の城を改造した図書館が、緑の木々の中に見えてくる。この時代の建築物特有の、どっしりとした石組みに蔦が絡まって、その古めかしさを一層増していた。同じ時代の建物が廃墟となっている例も多いが、ここは三百年前から図書館として利用されていることもあって、その時代ごとに修復され、かなり良く保存もされている。

 急な階段を汗をかきながら上り、ミナト達は石構えの門をくぐる。ここへは市民が自由に出入りできるのだ。受付もせずにミナト達はそのまま中へと入ってゆく。

 図書館は大広間を改造した閲覧室に、数多くある小部屋を利用した会議室、勉強室など、色々な機能が付いている。
閲覧室にはこの時代の建物にしては珍しい大きな採光窓から、六月の光が燦燦と差し込んでいた。それが、ここが図書館として利用されることとなった、大きな理由でもあるのだ。外観は古めかしいが、内装は良く整備されて清潔ですらある。

 ずらり並んだ本の数々に浮かれ、ナミがわあっと声を上げる。
 「わあ、ここウシトラ王の離宮だったところね。懐かしいわあ、夏は良くここで酒宴が開かれたのよ。
 それにこんなに本が沢山。召使が本に変身したみたい。あたしの呼んだことの有る本もあるかしら?「薔薇の眠り」を読んでみたいわ。ヒオが好きだった本なの。」
 ミナトはナミを叱り付ける。
 「ナミ、静かに。図書館では大声を出さない。」
 ナミは小声になってミナトを突っつく。
 「ねえ、あの人たちは何している人?黒いベストの人達。ちょっと裁判官みたい。眼鏡の人が多いわね。でも梯子に登ったりもしているけど・・・。」
 「あれは司書の人達よ。ここの本を管理している人達。あの人たちを通してここの本を借りたり、見せてもらったりするの。」
 「シショ?ここでは偉い人なの?でもどうして梯子に登っているの?」
 「本を整理しているのよ。蔵書は全て分類されて番号がふってあるの。それを並べているんでしょ。ナミ、図書館来たことないの?」
 するとナミがきょろきょろしながらこう言った。
 「無いわ。だってあたしの貴婦人達には本を借りるって言う習慣が無かったから。問屋さんから目録が送られてきて、欲しい本は片っ端から注文してたわ。
 ミナ、図書館って面白いわね。あたしこんなに沢山の本が並んでいるのを見たのは初めて。お城の蔵書室も中々のものだと思っていたけど、ここまでではなかったもの。こんなに沢山の本を自由に読めるなんて、ユカシカオリの市民はとっても贅沢ね。ミナは良く来るの?」
 ミナトは少し決まりが悪そうに言った。
 「いいえ、あんまり・・・。本を読んでいる暇が無くて。嫌いなわけではないのだけれど・・・。」
 「そうね、ミナは館では良く本を読んでいたわね。ミサキに読んであげたりもしていたわね。」
 ミナトは少し驚いたようにナミを見た。
 「忘れてたわ、そんな事・・・。」
 ナミはにっこり笑う。
 「あたしはとっても良く覚えているわ。ミオの鏡台のところでこっそり大人の詩集を読んだりもしてたでしょ。ミオは今でもあれをよく読んでいるのよ。」

 そのとき入り口のほうから四五歳の小さい子供たちがわらわらと入ってきた。司書の制服に白いエプロンを着けた女の人が子供たちを引き連れている。
 ナミが興味をそそられて聞いた。
 「何があるんですか?」
 「これから絵本の読み聞かせなんです。興味があったら是非おいでください。」
 調子よく付いていきそうになるナミをつかんで引き戻すとミナトは言った。
 「ほら、ふらふらしない!あたし達は本を読みに来たわけではないのよ。ヒスイコちゃんの情報を探さないと。」
 そしてそのまま新聞の閲覧コーナーへと引っ張っていく。ここでは数多の本だけではなく、国内の有力紙、海外の新聞さえ過去百年にわたって閲覧することが出来た。東隣の火の国は文字が違うが、花の国ならば共通だ。ミナト達にも読める。

 ミナトは花の国の王立紙、スズラン時報を今年の分から逆に、遡って調べていった。慣れない外国の言い回しに苦戦して調べながら、ミナトは段々に複雑な気持ちになる。出来る事ならばしなければならない。だが、今していることはミナトの一番欠けた部分だ。
 すなわち、「尽くす」、という偽善。
 自分はナミの為にそれをしているのだと思おうとしていたが、本当は違うのではないか、とミナトは思うのだ。ナミの為ではなく、ナミに嫌われないために。
 ナミはミナトは本当に愛情深いとそう言った。本当にみんなを愛していると。
 だが、ミナトにはそれを信じる気にはなれなかった。ただ、そう思ってくれているということが嬉しいというだけで。ナミもまた、自分に騙されている、ミナトにはそう思えた。

 だが、ミナトはナミに嫌われたくはなかった。その為にはナミの為に何かしないといけない。力を貸さなければならない。何しろ、ミナトはナミの姉妹達のことが良く分からないのだ。どうでも良いとは言わないまでも、ただ話に聞いているの過ぎないのだから、ナミの様に心から案ずるという事は出来ない。
 ナミの妹達よりも、ナミの身を守る方がミナトには重要だった。そしてそれは、ナミが大事だというのは、自分を無条件に慕ってくれる存在をつなぎ止め、自分を誤魔化そうとしている事の様にミナトには思えた。

 自分はそんな事の為に、こうしているに過ぎないかもしれないのだ。それは一番許せないことのはずだった。
 だがミナトは不思議と心が高揚していた。後ろめたいという気持ちはそれほどは大きくない。どうしてなのかはミナトにも良く分からない。
 しかし、手続きをして閲覧する新聞を出してもらう時、紙面の保護のため布の手袋をはめて古いインクの匂いをかいだとき、ミナトの心は訳もなくわくわくした。まるでお祭りが始まる時のようだ。

 王党派の愛読する「スズラン時報」というこの新聞は、王族や有力貴族の話題に満ちていた。その中で、ハルニレ家のことは今の当主、ハルニレ・ホオの話題を中心に、少なからず触れられていた。
 だが、ミナト達が知りたいのは政治や権力のあれこれではなく、あくまでもナミの妹、ヒスイコのことだ。もしかしたらゴシップの方が当たりが出るだろうか?

 調べ始めてから二時間が経ち、このままでは埒が明かない、そう思い始めた頃、ミナトはある記事にぶつかった。ちょうど三十年前の記事だった。
 「これ見て、ハルニレ家の一人娘、ハルニレ・ミズナラが、シラサゴの小さな島の首長、ソテツに嫁いだって。何でも親の反対を押し切っての大恋愛だって・・・。」
 何処かで既視感のある話にミナトは少し胸が苦しくなる。ナミが言う。
 「あった、こっちにも。どうやら当時、花の国で大騒動になったゴシップらしいわね。」
 しばらくその関連の記事を調べたミナトはとうとう発見した。
 「ナミ、大当たり!ここ、これ見て、ハルニレ・ミズナラが家を飛び出したとき、二百カラット、時価八十億タバのグリーンダイヤモンド、「草原の星」を持って出たって。」

 「ヒスイコちゃんよ!」

 ナミが叫ぶ。だがここは図書館だ。周りの人々が一斉にナミを振り向く。ミナトは慌ててナミの興奮を抑える。
 「ナミ、図書館では大声を出さない。」
 しかし、ミナトにも嬉しさは隠し切れない。
 「でも良かった。ここまで現在から遡って調べてみて、「草原の星」が盗まれたって記事がないってことは、まだヒスイコちゃんは無事だって事ね。でも、問題はそこから。どうやって危機を知らせればいいのか。」
 「手紙を出せばいいわ。」
 ナミはこともなげに言う。
 「キリエちゃんと違って居場所がはっきりしてるんだから、出せば届くんじゃない?」
 「無茶言わないで!」
 ミナトが困ったように言う。
 「シラサゴの住所なんて知らないわ。それに、仮に大公爵家に出したとして、あたしなんかが出した手紙が取り次いでもらえるはずがないわ。」
 でも、とナミが自信満々で言う。
 「大公爵家とまではいかなくても、ミナだってミナワ伯爵家の令嬢じゃない。気後れする必要はないと思うわ。」
 「そんな・・・。」
 と、ミナトはあきれて言う。
 「水の国で爵位なんていったら名前だけなのよ。何の特権もないの。法律の上では四民平等なんだから。特にあたしなんて財産も何も持ってないし。あたしみたいに母親の家柄がない娘なんて、相手にされっこないわ。それにミナワ伯爵令嬢は、今はあたしの従妹が名乗っているはずよ。」

 ナミの瞳が訴えるようにミナトを見る。
 「あたしはミナなら何にも恥じる必要ないと思う。あくまで正当な跡継ぎはミナよ。」
 「出したって、恥をかくだけよ。」
 だがナミは、思いを込めてミナトを見つめる。
 「ミナならば大丈夫。あたしの貴婦人ですもの。」
 ミナトはしばし逡巡していたが、やがて意を決して肯いた。
 「分かった。書くわ。」

 その日ミナトはへそくりを崩して、なるだけ高級なレターセットを買った。そして、駄目で元々とハルニレ・ミズナラに宛てて、ヒスイコの安全を確保するよう手紙を書いた。ミオの隠し持っていたミナワ家の女主の印を貸してもらって、きっちりと封も押した。

 出来ることは全てやった。これで駄目だったら仕方がない。なにか新しい方法を考えるしかない。ミナトはもう、破れかぶれだった。だが不思議なすがすがしさも感じることも事実だ。

 ミナトは思う。今、自分は今までにない、新しいことをしている。日常の細々した繰り返しの外にあることをしているのだ。ナミの存在が、自分をそれとつないだのだ。
 小さい頃本で読んだ冒険物語の英雄はきっとこんな気持ちだったろうか?ミナトの内側と外側、その両方で水が流れ始めていた。
 キリエに手紙が届くことはないかもしれない。ハルニレ・ミズナラに便りが回されることはないだろう。
 だが、自分はそれをしたのだ。少なくとも行動したのだ。
 不思議なことに、ミナトがちょっと前まで感じていたような後ろめたさは小さくなっていた。ほんの少しだが、ミナトが今まで見ていた未来とは、違う明日が見え始めていた。


 やがてどんどん日が過ぎて、夏至祭りの日が近づいてきた。十七日で学校はお休みになり、十八日からミナトとナミは研修に入った。
 意外にもナミの評価は高かった。ミナトはまたナミを見直す。ナミによれば、この千年間、様々な貴婦人たちの胸元で、彼女に仕える人々がどんな風に立ち振る舞うか、つぶさに見て知っていたのだ。
 講師の先生は喜んでナミにこう言った。
 「素晴らしいわあなた、容姿も華やかだし。あなたには是非皇女様についていただきたいわ。」
 ミナトは嬉しい反面、とても不安だった。もし粗相でもしたらどうなるのか。ナミには突発的に転んだり落ちたりする傾向がある。

 だが、ミナトもナミと別れて組まれることは結局無かった。ミナトもナミと同じく、A グループだったのだ。何しろミナトは八歳までは礼儀作法の先生が付いていたし、スミイト先生に厳しく仕込まれていたのだから。とりあえず、ナミの顔が見えるところに配属されたことに、ミナトはほっとした。


 「将軍、兵を隠す小部屋の準備、整いました。」
 うむ、と肯き、彼は目で確認する。ここには約二十名の弓兵が隠れることが可能だ。周りの小船にも同じような細工が施されてある。事があれば、四方の船から弓や銃で狙い撃ちにされることだろう。
 まともな人間であればひとたまりも無い。まともな人間ならば・・・。彼の目が鋭く光る。

 「よう、楊黒錬殿、今度の捕り物、お前さんの出番か、はたまたわしの術のほうが物を言うか。」
 金ぴかの衣をまとった中年の男が彼に声をかけた。彼、楊監は答えて言う。
 「どちらでも良い。網ならば幾重にもかけていたほうが確実だ。」
 楊監にとって自らに功が出るかどうかは関係が無かった。五日前に届いた予告状。夢のお告げが確かならば、それは彼らが何としてでも食い止めたい凶事の先触れとなるのだ。

 止めねばならぬ、帝室に仕えるものとしての使命だ。
 そんな彼らに後ろから声をかける者がある。

 「牛飛道師、黒練には私が秘策を与えます。これならば、敵が人外の者であっても、通常の攻撃で討つことが出来ます。」
 それは頭の剃り跡も青々しい少年僧だった。目には瓶の底の様に厚いめがねをかけている。いかにも非力な細い体には、墨染めではあるが、そこそこ高位の僧侶が纏う衣を身に着け、柔らかく穏やかに微笑んでいた。
 彼は楊監に一本の矢を示す。そしてその尾羽に手にした矢立でさらさらとなにやら書き込んだ。

 「なるほど、考えたな小倉庵、尾羽に写経するとは。」
 小倉庵、と呼ばれた僧は微笑んで言った。
 「これでこの矢には明王の力が宿ります。」
 それにしても、と小倉庵は言う。
 「こうばたばたしていては、街へ出る暇もありませんね。」
 「俺は別に街など見物しに行きたいわけではない。お前も人ごみは苦手なのだろう。」
 楊監は言った。それに笑って小倉庵が答える。
 「確かに私も見たいわけではありません、が。あなたは予言を受けているでしょう。この都から花嫁を連れて帰ると。」
 楊監は少し赤らんでいった。
 「確かにそうだが、今はそのようなことを言っている場合ではないだろう。俺には将としての務めがある。それに、女には不自由したことが無い。」

 「不自由などしなくとも、真に寄り添ってくれる伴侶ではないでしょうに。」

 ひひひ、と牛飛が笑う。
 「まあまあ、楊黒錬殿、大丈夫ですぞ。公主様のお力は正に絶大、いくら船上に詰めていようとも、お前さんの花嫁はきっと、この船の上までも追っかけてきましょうぞ。」

 楊監は仏頂面だ。冷やかされるのは苦手だった。だが、公主の予言に全く興味が無いわけではなかった。

 確かに楊監は、女に不自由したことは無い。だが、それはあくまで遊びの上でだ。家柄容姿ともに恵まれた彼には、常に実に多くの女達が群がっていた。だが彼には、その女達の背後に、打算や欲望が透けて見えるのだ。それを知れば知るほどしらけてしまう。

 彼は何処か女というものに冷めていた。しかしその反面、限りない憧れを抱いているのも事実だった。打算ではなく、真の愛情をくれる相手に。
 彼の主君、蝶虹公主は予告状の届いた日、彼に言った。

 「運命の相手が現れます。あなたはこの都から、美しい花嫁を連れて帰るでしょう。」
 その言葉は彼の胸を、ざわざわと波立たせる。そして、使命感から来る緊張に張り詰めてもいる。
 楊監の心は何時に無く高揚していた。何かが起きる、きっと起きる、予言の力など無くとも感じ取ることが出来る。

 「公主様は?」
 牛飛が聞く。小倉庵が答えて言った。
 「夢殿に篭っておられます。公主様も御力を尽くしておられるのでしょう。事が事ですから。」
 皆、先見の力を持った、公主へのいたわりを思った。彼らとは責任の度合いが違う。

 その頃彼らの主君、公主は、夢殿で目覚めたところだった。そしてしばらくそのまま考え事をしていた。やがて枕の下から、白木の懐剣を取り出して、傍らの、小柄で淑やかそうな少女に差し出した。
 「これを。」
 少女は不服そうに言った。
 「このような物では戦えませぬ。」
 「良いのです。」
 公主は言った。
 「あなたは戦うべき時ではありません。闇は闇にまぎれて動くもの。花火のように打ち上げる鳴り物とは違います。あなたは我等皇家の懐刀、切り札です。それをゆめゆめ忘れぬよう。
 我等の用意したこの餌、敢え無く失うこととなるでしょう。それを今見ました。しかし、この事は伏せておきなさい。知らせぬことが、実現の条件です。
 そしてこの一件で我等の長い序章の旅は終わりを告げ、この都で、新たなる運命の輪が広がってゆくのです。
 そしてここからが真の戦い。麗都、あなたは公の場では、その鋭い爪も牙も隠し通すことです。それでこそ、あなただけの真の戦いが可能となるのだから。
 ここから始まる運命の輪が、どのような未来へ私達を導くのかは、まだ分かりません。しかし、私は負けませぬ、負ける訳には行きませぬ。」

 麗都は言った。
 「公主様のその御覚悟、この麗都が手となり足となり、お守りする所存にございます。公主様のものには遠く及びませぬが、この私の覚悟、お受け取りください。」
 公主は答えた。
 「ありがとう、麗都。」

14 ミナトの深い失望

 仕事当日、ミナトとナミはしっかりお昼を食べてから、集合場所に向かった。そこは、アクロポリスの劇場の楽屋の片隅にある、大きな部屋だった。古の時代、大部屋の役者の控え室だったところだ。
 そこで、集められた女の子たちは、衣装係の、流行の服の見本市のような女性に、すごい速さで衣装を割り当てられていった。彼女には一目見ただけで、サイズだとか、その人には何が似合うだとかが分かるらしい。
 彼女はミナトを見ると助手に指示を出して、すぐさま忘れな草色のサテンのドレスを選び出した。それを機械的に押し付けて、また次に控えたナミを見る。
 ナミには水色のファーの一番目立つドレスを選び出すと、彼女はまた言った。
 「次。」
 ナミが笑って言った。
 「同じブルーね。」

 急かされるように着替えたミナトは少し焦った。体の線が分かるのだ。自分では決して着ない服だった。 それは別にぴちぴちしているわけではないのだが、ミナトの女性らしい体つき、特に胸の辺りが強調されて見えた。
 「どうしよう・・・。」
 恥ずかしくて目を白黒させていると、同じく着替えたナミが言った。
 「すっごく良く似合ってる。さすがミオの娘だわ。まるでお姫様みたいね。絵に描いてとっときたいわ!」
 ミナトはナミの姿を見て言った。
 「その言葉、すっかりお返しするわ。」

 そう、ナミこそ正に、お姫様のようだった。光り輝く銀の髪が絶妙な艶をまとった青いファーに映えて高め合っている。淡い青みのドレスはナミの薔薇色の肌をより生き生きとに見せ、その中で碧い海の瞳が楽しそうに微笑んでいた。
あんな街の片隅のボロ家で、毎日水汲みの体力づくりをしているなんて、誰が信じるだろう?イワシの燻製をご馳走だと思っているなんて・・・。

 周りの女の子たちも皆、感心したようにナミを見つめている。ミナトはここへ来て、初めて心細くなってきた。容姿の審査で選ばれただけあって、皆選りすぐりの美少女ばかりなのだ。衣装に着替えてしまうと、それがより一層際立ってくる。ナミを一人にするのが心配でここまで付いて来てしまったが、自分なんて場違いなんじゃないだろうか・・・、そんな考えが頭をよぎる。

 だが、ミナト達はまた急かされるように、鏡の前に座らされる。そこへ、動きやすそうな格好の女の子達が、たまに男の子も混じっていたが、年配の女性の指示のもと、ぞろぞろと入ってきて、一人づつ衣装に着替えた女の子たちの後ろに付いた。

 年配の女性が言う。
 「はい、では皆さん、始めて下さい。いいですか、これは舞台用のメイクではありません。あまりやり過ぎないように。あくまでもナチュラルに。」
 この指示のもとに、女の子たちは一斉に髪を整えにかかる。ミナトは自分の後ろに付いた髪の短い女の子に聞いてみた。
 「あれは先生なんですか?」
 はい、と彼女は答えた。
 「あたし達みんな、『アカデミー』の舞台メイク、衣装科なんです。市の方でも何か予算の関係とかで、ただで使えるあたし達がこき使われるんです。でも、場数を踏むのはいいことだし。」
 そういえばアイキも似たようなことを言っていた。

 内心引け目を感じているミナトに、女の子は話しかけた。
 「普段髪はどうしているの?」
 ミナトは答える。
 「特には何も・・・。ただ束ねるぐらいで。つまらない色をしているし。」
 女の子は言った。
 「そんな事無いわ。すごく素直でさらさらの直毛だし、色味も複雑で素敵よ。もったいない。ああでも、ひっつめるのは似合わないかも。結うのであれば、緩やかの方がいいわね。」
 そう言いながら、女の子は手際よくミナトの髪を編みこみ、半分ゆったりと結い上げて、毛先にこてを当ててカールを散らした。銀色の花飾りを華やかに髪に差す。

 ミナトは鏡越しに彼女の仕事振りをずっと眺めていた。こんなに長い間鏡を見ていたのは、初めてだった。
 隣のナミを見ると、いつものリボンの代わりに、花冠を頭に載せてピンで留めていた。ナミに付いた女の子がミナトに付いた女の子に言っている。
 「こんなに素敵な髪だから、小細工なんかしない方がいいと思うの。」
 そうね、と相手の女の子が言ってミナトに聞いた。
 「お友達なの?」
 「ええと、何て言うか、ルームメイトで・・・。」
 「乳姉妹なの。」
 と、ナミが言う。
 「こう見えてもミナは本当は、伯爵家の令嬢なんだから。」

 やめてよ、トミナトが顔をしかめる。恥ずかしいとかこそばゆいとかそういう次元ではない、ミナトにとってそれは、癒えていない傷をじくじくされるのと同じだった。しかし、女の子たちは感心したように言った。
 「あ、でも分かるかも。」
 「え?」
 「あなたは何だか他の娘たちとは雰囲気が違っているから。」 
 ミナトが言う。
 「でも、館で暮らしたのは八つの時までなのよ。」
 それでも、と彼女は言った。
 「育ちが違っているように見えるわ。少なくとも、無知で無学な町の女の子には見えないわね。こう見えてもあたし、いろんな人のメイクをしているの。だから、見ただけで大体分かっちゃうの。」
 そういいながらも彼女はミナトの顔に、化粧を施していく。ミナトは化粧なんてもちろんしたことが無い。女の子はまるで呪文のように、ナチュラルにナチュラルに、とつぶやきながら、肌を整え眉を整え、目にラインを引き、口紅を差した。最後に金粉を入れたラノリンを唇や目の際、まつ毛に乗せた。
 「これ、舞台用でとても流行ってるの。」

 その頃になると、他の女の子たちの化粧も大体終わっていた。ミナトはいつもと違う自分の顔にとても戸惑っていた。唇はこんなに赤くて目立ち過ぎやしないか?こんなに眉の形を変えてしまってもいいのか?これはもしかして『詐欺』にあたるのではないか?しかし、他の娘たちも、大体似たような様子なのだ。

 そしてミナトは気付く。綺麗に化粧をした自分の顔は思いの外、若き日のミオに良く似ているのだ。ミナトは複雑な思いで鏡の中の自分を見る。
 「アカデミー」の生徒達は、先生の指示のもと去っていった。なんでも次に他の予定が控えていて、ぐずぐずしている暇の無いそうだ。口々にありがとうございましたなどと言いながら部屋を出て行く。

 すっかりなりを整えたミナト達に、チーフであるマンジュシャゲさんがこう言った。
 「では皆さん、これから四時まで自由時間です。いいですか、四時集合です。四時には必ずこの部屋に集まっていてください。それまでは話すのもよし、アクロポリスを見学するのもよし、でも、くれぐれも道に迷って遅れないように。あと、物は食べないで下さい。口紅がはげますからね。」

 女の子たちはざわざわと話し合いながら、丸くなって座り込んだり、連れ立って出て行ったりした。
 「ミナ。」
 ナミがミナトの腕をつかむ。
 「こっちよ、こっち、来て欲しいところがあるの。」

 アイキは古代劇場の脇にある桟橋で、荷物を運んだり降ろしたりしていた。先日話していたただ働きの件だ。若くて無駄に体力と時間のあるアイキ達は、一番不足しているお給金抜きで駆り出されている。ミナト達に化粧を施してくれた生徒達は経験という報酬を得ていたようだが、アイキ達にとってはそれすら関係が無い。純粋な意味での無償労働だ。
際限なく運ばれてくる運搬物をひたすらに積み降ろしいていたアイキ達だが、何か訳ありげな小船に運搬船が捕まって、流れが滞った。

 「ありゃ何だ。」 
 「ケーサツっぽいな。」
 「あれか?ヨセアツ面相か。」
 皆口々に言う。そして、指示を出していたリーダーが言った。
 「あれが来るまで少し休んでろ。」

 アイキはぶらぶらと、楽屋のほうへ歩き出す。古代の劇場を見るのは好きだった。こういう時でないと見学は出来ない。舞台の方へはもう近づけないかもしれないが、衣裳部屋跡とか、控室跡とか、この時代の建物にはそういうバックヤードさえ特別な意匠を施してあるのだ。これを見ない通はいない。
以前入った時の土地勘を基に控室跡に向かっていると、角を曲がって息弾ませ、誰かが歩いてきた。
 「あっ、いた、アイキ君。」
 それは美しく装ったミナトとナミだった。氷でできた花のように華やかなナミの姿ではあるが、だが一番に目に入って心を苦しく締め付けるのは、アイキにとってはやはりミナトの方だった。美しく着飾ったミナトの姿に、アイキの心臓は止まりそうになる。

 「ミナ・・・。」
 肌は何時もより透明で、瞳は影を宿して大きく、唇は薔薇色だ。まるでアイキのイメージの中のミナトの美しく夢のような部分を、そのまま抜き取って形どっているみたいだ。
 アイキはその一言の他、しばらく何も言えずに口ごもった。都合が悪いのではなく、ばつが悪いのでもなく、ただ感動していたのだった。まるで震えが来るほどに。
 それを感じて取ったミナトは、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にさせて、ナミを問い詰める。
 「ナミ、どういうこと!」
 ナミは言った。
 「アイキ君がミナが綺麗にしてるところ見たいって言ったから、今朝アイキ君が使われているっていう所を聞いて、探してみたの。」
都合が悪く困る事態であるはずなのに、どうしてこの心は甘い喜びなんか感じるのだろう?ミナトにはそれが、この上なく汚いことのように思われる。
困り果ててどうすればいいか分からず、すがるようにナミを見るミナトだが、頼みの綱のナミは・・・・。

「じゃああたしはここで。」
ナミはそう言い捨てるといたずらな笑顔を残し、そのまますたすた去っていく。ミナトは慌てて後を追おうとしたが、アイキが手をつかんで引き止めた。
 「ミナ・・・、その・・・、少し歩こうよ。」
 アイキの目は彼にしては大胆な行動の割には、心細そうに見えた。実際彼は、思わず引き止めはしたものの、次に何をしていいかが分からなかった。どのように振舞えば、ミナトの心を引きとめられるだろう。

 「手を握れ。」
 と、心の中のイギスが言った。アイキは少し引っかかるものを感じたが、ミナトの右手をしっかりと握る。だが、またその先はどうしたらいいのか分からない。

 急に手を握られたミナトは体が震えそうになったが、勢いに任せて振りほどくことは出来なかった。こういう時のミナトは、少し気弱なぐらい相手に配慮してしまう。彼女の悪い癖だ。
 一度握られてしまうと、ミナトはそこからもたらされるときめきに抗えなくなった。まるでとろけたバターの上を歩いているような足取りに思われる。体が、頭が、熱もないのにふわふわする。理性は、頭は、躍起になってミナトに言う、振りほどけ、慎め、身を律せよ、だが、そんな簡単なことがどうしてできない!心とは、恋心とは、なんて我儘で脆弱なのか?

 ミナトは言った。
 「変じゃない?慣れない格好をしているけど、何か、体の線が分かって恥ずかしいの。」
 アイキは言った。
 「変じゃないよ。とっても綺麗だ。絵に描いて取って置きたいぐらい。」
 改めてアイキはミナトをじっくりと見る。確かに体のラインははっきりと分かる。だが、下品ではない。むしろ高貴な女性の様に見える。明らかに『アカデミー』の女の子とは違う。胸元にぐっと視線が引き付けられるが、アイキはそれをミナトにばれないように、ちらちらとはずした。

 ミナトは言った。
 「でも、綺麗って言ったら、ナミの方がずっと・・・。」
 「そうだね、ナミはとても綺麗だったね。」
 そう言って、アイキは考えた。確かにナミはとても綺麗だ。うっとり見惚れて感心するほどに。だが、それ以上の気持ちは不思議と湧いてこないのだ。どうしてだろうと考えて、はたと気付いた。

 「そっか。」
 アイキは言った。
 「ナミを見て綺麗だとか可愛いだとか思う気持ちは、宝石を見て、ああ、綺麗だな、と思う気持ちと一緒なんだよ。いくら綺麗でも、宝石には恋出来ないし。だからナミは無防備なのかも。」
 ミナトもその言葉がとても腑に落ちた。
 「なるほど、確かに。」

 それから二人はしばらくその辺りをぶらぶらと歩き回った。ナミの話題が尽きてしまうと果たして、一体何を話せばいいものか?アイキはこの古代劇場で上演された、数々の古代劇の話しをした。そしてそれに基づいたプログラムである、今回の祭典劇の説明もした。次は、次は何を話せばいい?黙るな、沈黙するな、引き留めるのだ、アイキの心ははやった。

 「ミナは仕事だから、じっくり鑑賞できないとは思うけど、花火だけでも見ものだよ。都中の花火師が、腕を振るったものだからね。僕は裏にいるから見られないけど、この上演にかかわれるだけでも名誉だよ。」

 そんな話を必死に話した。滔々と、淀みなく、いつもより五割り増し饒舌に。だが、アイキはそれほどそんな話がしたかったわけではないのだ。ミナトにしても、そんな話を喜ぶ訳ではないとも思っている。
 だが、このまま話すのを止めたら、この握った右手を放さなくてはならないではないか!アイキは必死だった。どうせ舞台が終われば二人して同じ家に帰るのに、明日も明後日も顔を合わせることになるはずなのに。だが、まるで三十年ぶりの逢瀬のように、アイキには思われてならないのだ。そして、この後三十年も逢えないかのようにも思われる。ミナトはいつになく従順で大人しい。この魔法が、手を離したら解けてしまう!

 だが、その時、表のほうからアイキの仲間が数人やって来てこう言った。
 「おい、船が付いたぜ。」
 そして、手をつないで頬を染め歩く二人の姿を見て目を血走らせた。
 「この娘は・・・。」
 「もしかして、お前の女か?」
 アイキは思わず言った。
 「うん、そうだよ。」
 ミナトは慌てて言う。
 「ちょっと、何言って・・・。」
 だが、例の悪い癖で強く否定は出来ない。
アイキはこういうミナトの性格を利用しようとして言った訳ではない。ただ、仲間に対して、少しばかり見栄を張りたかっただけなのだ。

 だが、その言葉に仲間達は殺気立った。
 「お前、いかにも経験無いなんて面しやがって。」
 「その裏で上手いことやってやがったんだな。」
 「チクショー、貴族は許せん、貴族は許せん!」
 「革命だー!」
 そう口々に叫ぶと、アイキをひょいと担ぎ上げて、丸太でも運ぶように何処かへと駆け去っていった。担がれたアイキが間抜けな声を上げて弁明しているが誰も耳を貸さない。
後に残されたミナトは呆然とするばかり。しばらく口をあけて見送っていたが、やがて気付く。
 「あっ、集合!」
 恋の魔力は時間という現実に敗れ、ミナトは我に返った。足早に元居た楽屋の方へと戻るのだった。


 四時少し前、ミナトは楽屋へと戻ていた。思いの外時間が経っていた。ナミは、少し心配したと言っていた。
 「ミナったら、中々帰って来ないから。連れ出したあたしが責任感じちゃった。」
 そして、ミナトをのぞきこんでうふふと笑った。
 「どうだった?アイキ君とはお話出来た?」
 姉のような労わる眼差しにミナトは目を伏せる。
 「まあ・・・。」
 ミナトは口を濁す。
 「話すって言ったって、いつも話してるじゃない、毎朝毎晩。」
 「でも、二人っきりになる事ってあまり無いから。いつもミオやナギサも一緒で。それに、特別綺麗なミナを、アイキ君に見て欲しかったの。あたし、ミナとアイキ君には、絶対に幸せになって欲しいの。」

 ミナトは怒ったように言った。照れ隠しも入っていた。
 「ナミには関係のないことよ。どうしてそんなにあたし達にかまうの?」
 「だって、当然よ。」
 ナミは言う。
 「あたしの持ち主はミナなんだもの。持ち主の幸せを何より優先するのは宝石の使命なんだから。」

 ミナトは少し引っかかった。
 「持ち主の幸せを優先?」
 「そうよ。ミオのときはトバリ様があんなことになってしまったから・・・。あたしは自分の無力を痛感したわ。だから、だからミナにだけは絶対に・・・。」

 ミナトは気付く。宝石であるナミが自分の事を絶対に考えるのは、ただ、ナミの現在の所有者がミナトであるからに過ぎないことに。

 つい半月前までナミはミオの物だった。その時はミオが何よりナミの世界の中心だったのだ。

 そして仮に、ナミがミナトの他の人の手に渡れば、その人がナミにとって絶対となるのだ。

 ミナトの胸に、苦い失望が広がってゆく。

 やっと見つけた宝物が、中身の伴わない偽物だった、そんな気分になっていく。
 持ち主が絶対、それは宝石であるナミにとってごくごく自然な理屈なのだろう。ナミは顔を曇らせたミナトを見て、不思議そうにたずねる。

 「ミナ、どうかした?」
 「何でもない。」
 ミナトは言って目を伏せる。せっかくの友情に水を差されたようだった。
 ミナトは嬉しかったのだ。ナミに小さいときから見てきたと言われた時、ミナは優しい女の子だと、自分が知っているといわれた時。とてもとても嬉しかった、なのに・・・。

 ミナトは気持ちをコントロールして、なるべく失望を顔に出さないように努めた。だが、あまり上手くいかなかった。どうしも不機嫌な顔の表情になってしまう。
 ナミが心配そうに言った。
 「どうしたの、あたし何か変なこと言った?」
 「何でもないの。」
 ミナトはふてくされたように言う。
 「ナミは悪くないわ。」

15 祭典劇が始まる


 
 ミナトが戻って間も無く、マンジュシャゲさんが点呼を取った。全員がそろっていることを確認すしたマンジュシャゲさんは、三十人の少女達を引き連れて桟橋へと向かう。
 そこはさっき、ミナとがアイキと歩いた場所だった。数人の少年達が、何か運んだり下ろしたりしている。アイキを連れ去った仲間の幾人かも見えたが、アイキの姿は見えなかった。

 桟橋には綺麗に飾り付けられた手漕ぎの中型船が止められ、中にはユカシカオリ地方の様々な特産品、ぶどう酒やら果物やら、お菓子やらが積み込まれていた。それを配る手順は、事前の研修で打ち合わせてある。マンジュシャゲさんが言った。
 「ミナワさん、クリイガさん、マツカゼさん、ハチリハンさん、ノワキさん、ドバトさん、メナミさん、レキレキさん、あなた方は武官の方々をおもてなしする予定でしたね。」
 呼ばれたミナト達はマンジュシャゲさんの前に集まる。

 「良いですか、武官の方々には、この銀の壷に入った葡萄ジュースを差し上げてください。昨晩申し入れがあって、祭典とは言え、皇女様をお守りする立場の者として、酒を入れて職務に付くわけには行かないとのことだそうです。見間違えないで下さいね。金の壷にはお酒が入っています。いいですか、銀の壷の方ですよ。」
 ミナト達は口々に返事をした。だがミナトの心は落ち込んだままだった。暗い顔のミナトにマンジュシャゲさんが言う。
 「ミナワさん、笑顔、笑顔、もっと明るい顔をなさい。」
 「はい、申し訳ありません。」
 ミナトは慌てて表情を作る。
 そしてその言葉に、いよいよ緊張が高まってくる。もう仕事まで間もないのだ。華やかな場も、人目につくことも苦手だった。なのに、こんな所まで来てしまって。
 一方のナミはと言うと、船の飾りや忙しそうに準備する人々、様々な特産品に浮かれてきょろきょろと見入っている。そしてそばの女の子と達と、花火が楽しみねえ、とか、皇女様はどんなお方かしら、とか、何の不安も緊張も無い様子でしゃべくり合っている。
 ミナトはため息をつく。自分がこんな所へ来たのは、ナミのためだったのに。ナミを守るためだったのに。ナミにとって自分は、数多くいた持ち主の中の一人に過ぎないのだ。
 出来るなら一人逃げ出してしまいた位だった。だが、ここまで来て投げ出すのは無責任だ。それはミナトが一番嫌うことだった。

 ミナトは腹をくくることにした。そして、船に乗る。五時の鐘の音を合図に、船が桟橋を出る。もう後戻りは出来ない。

 ユキヤマ・ナダレは三人の部下とともに、小型のボートに乗り、会場の警戒に当たっていた。
 予告状が届いたのは丁度一週間前。大胆にも特別対策室の扉の前に、真っ赤な薔薇の花束とともに置かれていた。
 「鎮国青帝剣」、それが標的の名前だ。
 火の国の皇室に、古代より伝わる宝剣。現在の水の国の歴史よりも古い代物だ。皇女の外遊に伴って、各国に公開されている宝物の一つだ。大胆にも怪盗は、皇女の元にも同じ予告状を送りつけている。

 今回の作戦は、皇女の護衛の者達と対策本部との共同戦線とのことだったが、誰もそれを信じていない。皇女の側は、こちらに構わず色々と船に小細工をしたり、独自に自衛の手を打っているようだ。彼らとしては、自国の宝を守るのは、あくまで自国の兵であるべきと考えているのだろう。もっともな事だ。
 対するこちら、水の国の警察は、自国内での犯罪行為は、自らの手で取り締まりたい。そうでもなければ対面にかかわる。これも当然のことだ。
 宝剣を乗せた皇女の船には、警官達を配備することを拒まれた。そして、ナダレ達はこうやって、小型の高速船で会場を巡回している。
 ナダレは思う。派手なことばかりやって来た怪盗だが、ここまで派手なシチュエーションは今までにもなかったものだ。ここまで、一般の無関係な人々の目がある中での犯行予告。

 ほんの少し、ほんの少しでいい、ぼろを出さないものか。多くの人々が集まり、様々な人が様々なものを目撃する中で、少しでもつながる情報が欲しい。そう信じたい。
 そう思いながら、ナダレは鋭く船上の人々を観察していた。

 「何でこんな事に・・・。」
 アイキはため息混じりにつぶやく。いや、うめくと言った方がいい。胃と肺が圧迫されて息も苦しく、鬱血して何だか頭もぼうっとするぐらいだ。何しろ彼は、アクロポリスの劇場の地下室の一角にある太い柱に縛り付けられていた。全く手は動かせない。足は何とか動くが、いくらじたばたやっても逃れられる道理は無い。

 さっき彼を拉致して行った仲間は、勢いに任せてアイキをここにくくりつけて行ってしまった。文字通り行ってしまった。会場遠く離れたここでは、アイキの助けを呼ぶ声を聞き付ける者も無い。
仲間たちは言った。
 「終わるまでここで反省してろ。俺達のひがみを思い知れ!」
 という事は、劇が終わるまでこのままだろうか?アイキは途方に暮れる。トイレに行きたくなったらどうするのだろう。

 と、その時、入り口の方で人の声がした。アイキの顔がぱっと輝く。どうやら女の子のもののようだ。
 「おおい、助けてくれないか。」
 だが、声の主は聞いてはいなかった。声の主はおそらく二人、会話らしきものが聞こえてくる。

 「どういう事?こんなところに呼び出して。あたしは劇中の、沈黙劇のパートに出なきゃならないの。用があるならさっさとして。」
 「それよ、あたしが賭けたいのは。」
 アイキは気付く、これはニチニチだ。自分の見え方をコントロールしない話し方。

 「スグリ、この間は良くも良くもやってくれたわね!あたしのおせっかいを利用して、乙女心を踏みにじるなんて。なんてひどい嘘。」
 底意地の悪くて気取った声が、やはり底意地の悪い笑みをかみ殺しているように答えた。
 「信じるほうが悪いのよ。あなた程度の単純な頭の人があたしに歯向かうなんてミドリムシが白鳥をライバル視する様なものよ、数千億年早いわ。そんな単細胞で、よく『アカデミー』に入れたものね。笛吹ケトルみたいな頭じゃ演技の心なんて理解できないでしょうに。」
 「うるさい!笛吹ケトルは偉大な発明よ!それに白鳥なんて大して賢くもないわ!たとえるんだったらせめて類人猿になさい。まあ、あんたあんまり賢くないからイメージだけで白鳥なんて言ったんだろうけど、単細胞の証明よ、それ。それに、あたしのほうがあんたよりずっと成績は上だわ。親のコネで入ってきたくせに、偉そうな事言うな!」

 スグリの声が怒気をはらむ。
 「コネなもんですか!ちゃんと実力で入ったわよ。あたしがここに入るために、どれだけ努力したか分かる?一日に十四時間勉強して、演技の家庭教師もつけてたんだから!」
 ニチニチは鼻で笑う。
 「はっ!それだけやってこのざまなの?あたしとは才能のスケールってものが違うわね!それこそミドリムシが白鳥と張り合っているわ!」
 スグリの声が怒りに震えだす。
「あなた、言ってはいけないことを言ったわ!このあたしをぬめぬめした単細胞に例えるなんて・・・・、ただじゃ済ませない!」

 「ただじゃ済ませないのはこっちの台詞よ!」
 ニチニチが言い放つ。
 「あたしはあんたに仕返しをしないときがすまない。でも卑怯なのは嫌。あんたが使ったような汚い手口はあたしの美学に反するの。卑怯な手口へはあえて正々堂々と、これぞあたしの生き様よ!
 スグリ、あたしと女同士の勝負をしなさい。劇の出演を賭けて、このドアをはさんでお尻相撲をするのよ! あんたが勝ったらそのまま劇へ出演なさい。でもあたしが勝ったら、あたしはあんたをここに閉じ込めて、あたしが劇に出演するわ。そのために稽古もしてきたのよ。舞台監督にはちゃんと許可も取ってあるし、舞台に穴をあけることも無いわ。」
 ニチニチの声が誇りに輝いていた、実に誇りの無駄遣いだ。

 「ちょっとあなた、正気?本気で言っているの?」
 スグリの声がひっくり返る。
「あたしはいつも本気よ。さあ、スグリ、勝負よ!」
 「ねえ分かってる?あたしがこの舞台にかける気持ちを。ここで注目を集めてスターダムに乗りたいのよ。卒業までもう間もないし。お願いだからここから出して!」
 「あたしの屍を越えてゆけ!」

 さあっ、と言うニチニチの声が響く。それからしばらくなし崩し的に二人の気合の声が響いていたが、すぐにスグリの悲鳴が聞こえて、ニチニチの声が言った。
 「ざまあみろ!あたしはこの半月、毎日三時間お尻相撲のトレーニングをしてきたのよ。」
 そして、重い扉の閉まる音と錠のかかる音がした。後に残されたスグリの声がおろおろと響く。
 「ねえ、ちょっと、ねえったら!」
 アイキは呆然と上を仰ぐ。鍵までかけられてしまった。

 アクロポリスの劇場は、ソデフリの入り江の北岸に、高い崖をくりぬいて作られていた。波の静かなソデフリの入り江は、小さめの船を停泊させるのに適していいる。古代においても裕福な市民や貴族はここに舟をとめて、様々な舞台を鑑賞していたのだと言う。

 今劇場は、国の文化庁の管轄下にある。普段は保存のため、一般の人々が立ち入ることは出来ないが、年に数度、イベントなどにあわせて公開されている。そして今回のように特別大きな祭りの時には、この舞台を使って、古代さながらの催し物が開かれる。今夜も、約七〇艘の小型、或いは中型船が、舞台を半円に囲むように取り巻いて泊められている。もちろん、国や市のお偉いさん、国賓クラスの招待客など、チケットを手に入れることが出来るのは、ほんの一握りの人々に過ぎない。

 ミナトも、「アカデミー」に入ったアイキから、この様なイベントがあることは聞かされてきたけれど、自分が目にしたり、参加するなどと言うことは想像もしていなかった。舟という舟は花や星の飾りで化粧をし、ランタンの明かりは船の上だけではなく、水面からも照り映えて、今日が特別な日であることを歌っているようだ。その船の上の人々もミナトなど見慣れぬぐらい華やかで高価な装いをしている。楽団の練習する音色が、ちぎれ千切れにここまで届いてきた。

 反射的にミナトは思い出す。八歳まで過ごした世界を。それは痛みを伴う記憶だった。
 ミナトは思う。今晩限りでこういった世界から、縁を切ろうと。やはり自分には場違いだ。
 こんな衣装も化粧も要らない、街の片隅にある粗末な小さい家こそが、今いるべき自分の世界なのだ。それすらも自分には過ぎたものなのだから。
 周りの女の子たちが思いがけず飛び込んだ華やかな世界にほほを染めている。ミナトは思う。ナギサが来られれば良かったのにと。ナギサならば、願っても無い状況だったろうに。

 ミナトは傍らのナミを見る。ナミは以外にも落ち着いていた。ミナトにも少し考えて分かる。ナミにとって、この様に華やかな世界こそが日常だったはずなのだ。ミナワの家は裕福だった。その女主人に代々受け継がれてきたのだ。ナミにとってはミオやミナトの代になっての貧しい生活こそが異質だったのに違いない。

 ミナトはナミに対して申し訳が無い気持ちになった。あの家を出てからナミは一度も、その主たるミオやミナトの胸を飾ることは無かったのだ。ナミは言っていた。自分たち宝石にとって、主の貴婦人の胸元を飾ることほど名誉なことは無いのだと。
 もうふてくされたような気持ちは残っていいなかった。代わりにとても深い失望が、ミナトの胸を沈める。やはり自分は望んではいけないのだ。

 視線に気が付いてナミがミナトを見る。
 「何?」
 「何でもない。」
 ナミがミナトをのぞきこむ。
 「ミナ、緊張してるの?」
 「少しね。慣れてないから・・・。」
 大丈夫よ、とナミが微笑む。
 「ミナ、大丈夫、あたしが付いてるから。」
 ミナトは複雑な気持ちになった。付いているのと思っていたのは、心配でここまで来てしまったのは自分の方だったはずなのに。それに、さっきのやり取りをナミは気にしていないのだろうか?ミナトは恐る恐る聞く。
 「怒ってないの?」
 「何が?」
 ナミの瞳はまっさらで、心からの思いやりに満ちていた。ミナトは耐え切れず目をそらす。
 ナミがこんなに優しいのは、自分が主であるからで、それがなくなればナミはきっとこんな目で見てはくれなくなるのだろう。有りの侭の自分にはこんな風に優しくされる価値がないのだ。ミナトの心はすっかり後ろ向きになっていた。

 「何でもない。」
 ミナトはそう言って目を伏せた。ナミが少し怪訝そうにミナトを見る。

 舟と言う舟は、舞台が良く見えるように岸に近く係留されているので、目的の船までは桟橋を出ていくらも無い。
 火の国の皇女の舟は、舞台の真正面、一番いい場所に泊められていた。周りをぐるりと、武装した兵士の乗った護衛船が取り囲んでる。それに少し間を置いて、他の舟々が船首を舞台に向けて泊まっていた。
 皇女の左隣の舟に乗っているのは、新聞で似顔絵しか見たことが無い大統領だ。その隣に座るのは、やはり新聞でしか知らないゼンテンコウ長官。だがその顔は、この様に晴れやかな席のわりには何処か険しい。

 しかし、ミナトにそんなことを気にしている余裕はない。あっという間に舟は、皇女の主船に横付けされて少女達に梯子を遣って上るように指示が出された。

 そして、皇女のきらびやかな船の上に、ミナト達は降り立った。次には積荷をしょった青年達が登ってくる。そして全て移し終えると、同じく降り立った市長のジュンポウ氏が、皇女に向かって挨拶を始めた。
 ミナト達は火の国の礼法に従って、皆頭をたれ、膝を折って座っているので、皇女がどんな方でどんな座にいるのかはまだ見えない。だが、ミナトはこの方が気が楽だった。劇の間中、こうして頭を下げていられたら、どんなに楽だろう。それなら粗相をする心配も無いのに。
しかし、市長の挨拶は思いの外短かった。すぐにミナト達にはマンジュシャゲさんから指示が出る。
 「ミナワさんはあちらの若い武官の方、楊監様に付いて下さい。」
 ミナトは何か思い出しそうになったが、考える余裕はなかった。銀の壷から赤紫色のジュースを汲んで、その武官、ヨウカンとか言う若者の前につつましくかしずいた。

 まずナミが、皇女の前に進み出ると膝を折って深く一礼し、皇女が手にした杯に、ヤマブキ産の葡萄酒を注ぐ。頭を下げているミナトからは見えなかったが、周りの様子からして、粗相というものは無かったようだ。

 ナミは皇女を控えめに見て、にっこりと微笑んだ。その瞳に、皇女の目は釘付けとなる。
 「金剛魔宝娘娘・・・。」
 だが、その意味を知る者は、この場にもほとんどいない。ミナトには、そんな小さな呟きさえも聞こえなかった。

 それを合図に、ミナトは深く一礼し、楊監の持つ、ガショウ島産の青いガラスの杯に、ジュースを注ぐ。青い杯の中の赤紫色の液体は、長い夕暮れの光の中妖しい光を放っていた。
 やがて、全ての重臣達に酒やジュースが注がれ、皇女が乾杯の音頭を取る。
 「水の国と我が国の友好に・・・。」
 青に紫に光を放つ杯のが頭上に掲げられ、やがて祝宴となった。

 ミナトは伏目に皇女の方を見る。やはりどんな方なのかはとても気になる。
 皇女の周りには、赤に金糸の刺繍を施した天幕が張られている。海風にはたりはたりとはためくその中に、赤漆と螺鈿、金の細工も見事な玉座が据えられ、そこに、不釣合いなほど小柄で華奢な少女が座っていた。

 その彼女、皇女様の姿は、豪奢な玉座からとても浮いて見えた。何しろ彼女の服装は、異国情緒あふれるも、奇抜なほど現代的だった。
 赤い前合わせの火の国風の上着は、見た事のないほど短く、袖はとても硬い素材で出来ているのかぴんと立っている。下はレースをふんだんに使った内着、これも通常ではないものだ。そしてスカートはまるでほおずきのように丸く、腿のあたりまでしか隠していない。足には黒くつやつやとしたニーハイのブーツを履いて、手は内着の袖を長くたらして指の先も見ることは出来ない。
 ユカシカオリには、多くの火国人が訪れている。故に、ミナトとて彼らの姿を見る機会も多い。だが、皇女のような服装をした者は見たことが無かった。
 特に変わっているのは、その髪やスカートに付いた星飾りだった。それは多分薄い瑪瑙かなんかで出来ているのだろう。五角形の色鮮やかですべすべとした星飾りを、皇女は幾つも身に付けていた。それはむしろもう、未来的と言った方が正しいくらいだ。
 服装に合わせて、軽い茶色の髪も奇抜に結い上げている。火の国の人々は、大概黒っぽい髪をしている。ミナトは思い出す。ナギサによれば皇女の父帝は花の国の王族だ。そういえば、花の国の王に近い人々特有の鮮やかな緑の瞳をしている。
 その緑の瞳は大きくくりくりとしていて、とても愛くるしい。美しい顔立ちはしているも、ナギサから伝え聞いていた、巫女姫としての神秘性は感じられない。むしろ、明るく活発な少女に見える。
 ミナトは意外な感を持った。予想していた姫とは違っていたのだ。
 皇女が何かナミに話しかけている。言葉を交わす必要はないと言われていたが、話しかけられたのに答えないのは無礼に当たる。ナミがにこやかに答えている。

 その後ろ、皇女の左側に、何か祭壇のようなものが見える。そしてそこには神の像などではなく、一振りの剣が収められていた。美しいと言うよりは、古すぎて崩れ落ちてしまいそうな剣だ。ミナトは火の国の歴史の古さを思う。そして意識を皇女の方から目の前のヨウカンとか言う武官へと移す。とにかくここは、無事に終えなければならない。

 ミナトは改めて目の前の楊監を見た。彼は赤みの差した黄金の髪をしていた。瞳も強い緑色で、やはり火の国の人々の一般的な容姿からは外れている。
 そしてミナトはやっと気付く。彼がナギサの言っていた、ヨウ何とか将軍なのだと。なるほど、ナギサが言っていたように、彼は素晴らしい美青年だった。黄金の髪はさらさらと流れるようだし、少し削げた様な頬も野性味を強調している。背も高く体つきも良く鍛えられたくましい。目は少したれているが、甘さや優しさは感じられない。まるで鷹の様に鋭い眼光を放っている。

 そして、ヨウカンの鋭い目線がミナトの瞳を捕らえた。ミナトは思わずぎくりとする。
 武人とはこういうものなのだろうかとミナトは思う。この様に晴れやかな席でも、この様に緊張の糸を切らさずに張り詰めた目をしているものなのか。
 もちろん水の国にも軍人はいる。ユカシカオリの郊外にも陸軍と水軍の基地がある。だが、ミナトには軍人の知り合いなどいなかった。アイキを始めとする演劇青年達、事務の同僚達など、ミナトの知っている男性達と目の前の楊監とは、まるで別の生き物のようにミナトには映った。

 ミナトはこの楊監の担当になったことについてあまり喜ばしいとは思うことが出来なかった。ただでさえ緊張しているのに、この様にぴりぴりした人が相手では、緊張も倍になる。きっとナギサが今夜の事を聞いたら、地団太踏んで悔しがるのだろう。だがミナトは出来れば、武人ではなく文人の担当が良かったと思う。

 震えを抑え、ミナトは楊監の杯にジュースを注いだ。そしてまた楊監と目が合う。思わずそらしそうになった視線をかろうじて踏みとどまり、ミナトは無理やりに笑みを作った。きっと変な顔になっていただろう。だが、何とか研修で教わった通りにミナトはした。

 楊監はミナトの目を睨みつけたまま杯のジュースを一気に飲み、また杯をミナトに差し出す。ミナトはまたジュースを注ぎ、こう言った。
 「あの、さっきからお飲み物ばかりお召しですけれど、お口安めに何か召し上がりませんか?」
 あのペースで飲んでいては、腹が変になるのではと思ったのだ。酒ならばともかく、彼が飲んでいるのはジュースなのだから。
 「もらおう。」
 と、彼は言った。ミナトは舟の左舷に置かれている食料の中から、何種類か見繕って綺麗に皿に盛り付け、楊監に差し上げた。楊監は物も言わずそれを受け取ると、それを右側の台に置く。

 「そなた。」
 と、楊監は聞いた。
 「歳は幾つだ。」
 ミナトは震えを抑えながら言った。
 「十七・・・、いえ、十八になりました、今日。」
 ミナトはやっと思い出した。今日は自分の誕生日だったのだと。何だか色々とありすぎて、すっかり忘れていたのだ。
 「そうか。」
 と、楊監は言った。
 「俺と同じだな。俺も来月で十八だ。」
 楊監はミナトを睨みつけてにこりともしない。ミナトは笑顔を作ることも忘れて目を伏せる。
 「はあ・・・。」
 そして、適当に相槌を打っておきながら、はっと思い当たった。お若いのにご出世なされてご立派ですとか、何か気の利いたお世辞の一つや二つを言えたら良かったのにと。
 どうやら本当に、ミナトは接客に向いていないようだ。

 やがて舞台上では文化庁の長官が挨拶をし、楽団の音も賑々しく、祭典劇が始まった。この舞台の企画には、市の芸術の粋と財力が注ぎ込まれている。脚本、演出、出演、舞台美術、全てにおいて現代のユカシカオリで可能な限り最高のものだ。
 アイキは言った。ちょっとでも楽しんでおいで。だが、ミナトにはそんな余裕はなかった。眼光鋭くにこりともしない楊監の脇で、命が縮まりそうだった。
 ミナトは思う、アイキこそこの舞台が見られればよかったのにと。裏方で参加するのも名誉だと言っていたが、本当はこの、最高の舞台を見てみたかったはずなのだ。

 彼の母、スミイト・ヒマワリはかつて、この祭りの祭典劇でヒロインを務めたのだという事、それが何よりアイキの誇りだった。

 そんな事を思いながら、ミナトは舞台の上に目をやる。そこは正に、光の世界だった。見ていると、まるで自分がその光に溶けて消えてしまいそうに思う。
 やはり、ここは自分の居場所ではないのだ。どんなに明るく輝かしくとも、それはミナトのための光ではない。まるで光はミナトをあざ笑うかのように感じる。

 そんなミナトに楊監は言う。
 「そなた、芝居は好きか。」
 びくびくしながらミナトは答える。
 「あ、ええ、まあ、家族が演劇の養成所に入っております。彼の出演する舞台をたまに見に行く程度ですが、全く知識が無いわけでもありません。」
 「そうか。」

 この将軍は、自ら話を振っておきながら、全く会話を続ける努力というものをしない。その後何度も、彼はミナトに話しかけたが、結局会話は知りきれトンボに終わる。ミナトはその度に、何かまずいことを言ったのではないかと冷や汗をかいた。だが、その割には彼の方からミナトに質問をするのだ。ミナトは思う。ただ黙って酌をするだけのほうがましなのにと。

 ミナトはナミの方を見やる。ナミは皇女とその御付の侍女達と、和やかに過ごしているように見えた。
 ミナトは思う、心配して付いてくる必要なんてなかったと。ナミの方がはるかに、こう言った場に耐性があるのだ。それなのに自分は、余計なおせっかいを焼いて。自分がいなければ心配だなんて、思い上がって。
明るい光に照らされて、ナミは水を得た魚のようだ。ミナトは訳もなく落ち込んでゆく。まるで、自分の存在など必要ないと言われたみたいだった。

 「女性に話しかけるときにはその様に怖い顔をしてはいけませんよ、黒練。」
 将軍の左背後から話しかける者があった。
 「俺は怖い顔をしているか。」
 「はい、とても。私が少女なら、逃げ出しますね。」
 それは小柄で、空豆の様な頭を青々しく剃り上げた少年僧だった。眉は墨で書いたように濃く太く、目には瓶の底のように分厚い眼鏡をかけている。年の頃は、十四、五歳だろうか。その少年僧の言葉に、今まで猛禽のようだった楊監の顔に、初めて色が浮かぶ。彼は少し決まり悪そうに頬を歪め、赤らんだ。

 少年僧は言った。
 「私、コウバイの洛願寺の善哉上人の名代として公主様に付き従う、小倉庵安古と申します。申し訳ございませんね。将軍の無愛想に少し怯えさせてしまって。
 しかし、悪気は無いのですよ。あなたのことを気に食わないわけではないのです。許してやって下さい。」
 そして柔和に微笑んだ。
 彼は、非力そうなとても細い体に総絹の墨染めの衣を着て、金糸で織って銀糸で刺繍をした、確か、袈裟とか言う僧衣を斜めにまとっていた。それは、貧弱な彼の体には不釣合いで、すっかり服に着られているように見える。だが、彼、小倉庵と名乗った少年僧は、この怖い楊監と対等に話をしていた。堂々と進言して、臆するところが無い。

 「黒練、少し肩の力を抜きなさい。あなたが一人で気張っても何にもなりませんよ。」
 楊監は言った。
 「うるさいな、この様な性分なのだから、仕方があるまい。今すぐには変えられぬ。」
 だがそれからは、ミナトにとってとても楽になった。楊監との会話に、小倉庵が助け舟を出してくれるようになったのだ。

 「そなた、この街の生まれか?」
 「え、いいえ。ユカシカオリから少し北のアジサイという街の生まれでございます。」
 「そうか。」
 話を続けぬ楊監を補うように小倉庵が言う。
 「いつごろここに移られたのですか?」
 「はい、八つの頃です。丁度十年になりますか。」
 楊監が目も動かさずに言う。
 「ご両親と一緒に参られたのか?」
 「いいえ、父が他界し、母と妹たちとこの街へ来たのです。」
 小倉庵が眼鏡の奥の目をいたわるように細めていった。
 「きっとご苦労なされたのしょうね。私も六つのときに両親を亡くしています。この世は無常、人の命も定めとは言いますが、別れとは切ないものでございます、本当に。」
 それは心から実感のこもった言葉だった。おそらくは火の国で位が高いであろう小倉庵という僧が、異国の取るに足らない自分のような者にも、心を砕いて接してくれている、それが良く伝わってきた。ミナトは心が温まる思いだった。小倉庵という人物に、少なからず好感を抱く。

 彼は、火の国を中心に、ここ水の国でも多くの信徒を抱える仏経教の僧侶だった。僧侶である者に対して、厳しい戒律を架す事ではミナトやアイキ達、聖道教と同じだ。
 水の国では信仰の自由が認められ、様々な宗教が混在している。その中でも仏経教徒は、争いを好まぬ人々と言う印象が、ミナトにはあった。その印象に忠実に、小倉庵は柔和な人柄だった。

 「あの、黒練というのは何なのですか?小倉庵様は楊監様のことをそうお呼びになりますが。」
 「ああ、それは字です。火国人の文官や武官は皆持っています。第二の名前というかあだ名というか。親しい間柄の人に限りその名で呼び合います。」
 「オグラアンというのも字なのですか?」
 小倉庵は笑って言った。
 「いいえ、それは号です。私はコウバイの洛願寺の敷地内に小倉庵という庵をいただいて住んであります。その名をとってそう呼ばれているのですよ。」
 「小倉庵は元の名を気に入ってはいないのだ。そちらで呼ぶほうが無礼だろう。」
 楊監がにこりともせずに言った。
 小倉庵が遠い目をして言う。
 「まあ、その庵にも久しく帰ってはいませんが。」
 「皇女様はもう二年、外遊なされているのですって?」
 「はい、今年の夏で、丸二年です。さすがにコウバイが懐かしいですね。洛願寺の梅の花を思い出します。
 コウバイの春は素晴らしいです。目を閉じていても花の香りが漂っていて。もしもコウバイに来ることになったら、ぜひとも洛願寺の梅園をご覧になっていって下さい。きっと忘れられない眺めになることと思います。」
 「俺は月傘池の睡蓮の方がいい。」
 楊監が言った。そうですかと小倉庵が笑う。
 ミナトは言った。
 「でも多分、私はコウバイまでは行けませんわ。おそらく私などは、一生この街から出ずに終わるのでしょう。でも、だからこそ、異国のお話をうかがえて嬉しいです。」
 楊監の目に、少し影が差した。

 小倉庵のおかげで少し緊張の緩み、その場の空気に慣れてくると、この場に流れているのが独特の空気であることが、ミナトにも分かってきた。ぴりぴりしているのは何も楊監だけではない。他の武官達は肝心の舞台には気もそぞろで、皇女のほうと周囲の舟舟を油断ない目つきで見回している。ミナトに話しかけるだけ、楊監の方に余裕があったのだ。

 一方の文官たちはというと、一見優雅に酒を酌み交わし、談笑しているように見えるが、その表情は何処か硬く、酒を入れるペースも遅い。ミナトがジュースを補充するため、壷の置いてある所まで行くと、酒もジュースもとても余っていた。
 小倉庵こそ落ち着いた様子であるように見えるが、彼の後ろにいる数人の僧侶達も、どこか張り詰めた空気を感じさせる。彼らは武官ではないし、教義で酒を禁じられているわけでもないのに飲んでいるのはジュースだ。そして皆一様に、皇女の方、いや、その向こうの祭壇の方を気にしている。

 何だろう、とミナトは思う。何か問題でも起きたのだろうか。
 だが、ミナトはそれを聞くことはしなかった。おそらくは、自分には関わりの無いことなのだ。ミナトはただ一介の町娘で、たまたま仕事で彼らと出会ったのに過ぎない。
隣国の、それも皇族の問題に興味を示すのは不躾に過ぎる。小倉庵がいくら自分を思いやってくれていても、それはこの場限りのものなのだろうから。自分が関わってはいけないことなのだ。

 楊監が言った。
 「何か塩気のあるものをもらえるか。」
 何も気付いていないような顔をしてミナトが言う。
 「かしこまりました。近海で取れた、ホタテの干物をお持ちしましょう。」
 そしてミナトがホタテを皿に盛り、楊監がその干物を口に入れて強そうな顎で一噛みした時、舞台のへりの辺りから、無数の花火が打ち上げられた。舞台のフィナーレを飾る花火だ。

 ミナトは思う。確かに素晴らしい。無数の光はミナトの心の中までも照らすかのようだ。ミナトはほんの少しだけ、現実を忘れ見入っていた。
 小倉庵が言った。
 「素晴らしいですね。思わず見惚れます。」

 このアルバイトももう終わるのだ。今夜はとても緊張したし、疲れること、慣れないことばかりだった。深い失望と幻滅も味わった。
 だがミナトは思った。小倉庵のような人と出会えてよかったと。ただそれだけは、不思議とそう感じられた。
 周りの舟からも、どよめきのように歓声が上がっている。
 だが、その刹那、歓声は悲鳴へと変わった。

16 変態怪盗現る

 それは恐怖の叫びではない。言うなれば、有名な人を目にして興奮する叫び、あるいは、見たくないものを見てしまった叫びだ。

 花火とともに観客の頭上に打ち上げられた人物は、実にけったいな服装をしていた。
 輝く金髪、緑のほっかむり、真っ赤なタキシード、腰のサーベル、そしてその下のこしみのと脛毛、大きな白い翼、皆誰ともなしに叫ぶ。

 「ヨセアツ面相!」

 そこから先は大混乱だった。巡視していた船上の警察官がヨセアツ面相に向かって一斉に発砲する。だが、彼には当たらない。距離がありすぎる。警察に支給されているオボロヨ式の拳銃では、頭上はるか上を飛び回るヨセアツ面相を捉える事が出来ないのだ。
 彼は挑発するように、わざと高度を下げ、当たるか当たらないかぎりぎりの距離のところまで降りてはまた逃れる、それを幾度も幾度も繰り返しながら、会場の隅々までくまなく、まるでサービスとでも言うように顔を見せ付けた。盗人のくせに顔を隠す意図など、さらさら無い。まるで、これ見よがしに目立とうとしている。

 ミナトはあきれて口をぽかんとあけ、酒器を抱えたままそれを見ていた。
 一体どうやって宙に浮かんでいるのだろう?どうして花火から現れたのだろう?ミナトには分からない事だらけだ。
 やけに警察が多いと思っていたが、こういう事だったのか。公表されてはいなかったが予告でも受けていたのかもしれない。

 他の女の子たちも驚きの悲鳴を上げて浮き浮きそれを見ていたが、ミナトは気付く。小倉庵や楊監、他の武人文人達、皇女にすらも驚きの色が無いのだ。皆一様に顔をこわばらせ、固唾をのむ、といった表情でその様子を見守っていた。

 彼らが気にしていたのはこのことか。ミナトは直感した。

 やがて、警察の発砲の音が段々と止む。弾が切れたのだ。警官たちは空の薬きょうを放って恨めしげに、ヨセアツ面相を見上げる。解答は天を指さし腰に手を当て、ひときわ高く哄笑した。そして、 彼は嬉しげに、ユカシカオリの民謡、「カイゾメブラリ」を歌いながら、白い翼で空中を舞いつつダンスをした。
 「ブラリ ブラリ カイゾメブラリ
 フツカノオヒハ ハレテサンサン
 アカイキグツヲ イモトニカオウ」
 そう歌いながら、ヨセアツ面相は悠々とした仕草でミナトの乗っている皇女の舟へと舞い降りる、と思ったその刹那、皇女の舟を護衛する周囲の舟舟から弓矢がいっせいに射掛けられた。

 ミナトは目をそむける。血を見ることになるのか。
 だがヨセアツ面相は、何が嬉しいのか笑い続けていた。そして笑いながら口から燐のような青い火を吹いた。青い火は彼の体の廻りで渦を巻き、射掛けられた矢をことごとく燃やし尽くす。周りの舟々からまた悲鳴とも歓声とも付かない声が上がる。

 「むむ、あやつ天峰の秘法を使っておるな。」
 そう言いながら、金ぴかのなりをした中年の男が、ミナトの傍らの楊監の方へと駆け寄ってきた。酒器をまだ手放さず、歩き方からしてしたたかに酔っている。
 「道士、あれ程酒は程ほどほどにと釘を刺しておいただろうに。」
 楊監が苦言を言う。だが男は悪びれる様子も無く言った。
 「悪い悪い、だが仕込みは十分、術には影響させんよって。それ、黒珠八精陣、発!」
 そう彼が言うが早いか、皇女の船の中央から昼の海のように青い光が八角の形に発光し、空中のヨセアツ面相に水面に映る陽光のような光の網が投げかけられる。まるで蜘蛛の巣のようだ。良く見ると、八角の角の位置に何か呪文のような文字や法具の様な物が仕掛けられている。これが仕込みなのだろうか?
 ミナトは思う。やはり彼らは怪盗の襲来を知っていたのだ。

 青い光の網は、ヨセアツ面相に絡みつき、彼の動きを封じた、かに見えた。だが、彼に触れたとたん、光の網は朽ちたくず糸のようにずたずたに千切れて光を失う。
 顔を曇らせ方師がつぶやく。
 「水龍の法に耐性があるのか。天峰の秘法を操り、道法陣にも明るい。あやつ何者だ。」

 すっかり光が消えてしまうと、ヨセアツ面相が言った。
 「麗シキ公主様、楽しんでいたダケたでしょウか?私が今夜何ヲシに参上しタか、お分かりでスネ。お約束ノ品物を頂戴いたしマス。」
 そう言うが早いか、手にした黄金のフックの付いた長い釣竿を振り回し、皇女の傍ら、祭壇に捧げられた古びた宝剣を引っ掛けてそれを手にした。誰も動くいとまがなかった。
 「ミッションコンプリート!」

 ミナトは目を見張る。おそらくは自分には関係の無いことなのだろう。昨日までであれば、この事件は興味本位で片付けられる程度のことだったろう。
 だが、ミナトは何だか悔しく感じた。あの宝剣が彼らにとってどんな意味を持つのか分からない。だが、とても大事な物なのだろう。表情や気配で分かる。それがむざむざと奪われてしまうのか。

 楊監や小倉庵とのかかわりはささやかなものだ。ほんのちょっとすれ違いざま、振り返っただけに過ぎない。だが、ミナトはただこうしてそれを眺めていることが悔しかった。
 ミナトには何の力もなかった。家族のごたごたの中でも無力なミナトは、何処にいても何の力も無い。歯がゆさにミナトは苛立つ。

 だが、楊監も小倉庵も、落胆の色は見せなかった。彼らはまだ諦めてはいなかったのだ。
 小倉庵とその後ろの僧侶達が数珠を振りかざし、読経を始めた。びいんと張った声が船上に響く。その言葉の意味はミナトには分からなかった。だが、小倉庵の細く小さな体に非常なほど力がみなぎり、気迫の声は彼の体を数倍大きく見せた。
 金ぴかの道士が叫ぶ。
 「よし、炎善如来浄法経、これで木行の法は使えぬ。紺珠八星陣、赤瑛七星陣、発!」
 その言葉とともに、船上から青い光の網と、赤い光の蔓が二重になってヨセアツ面相へと伸び、今度は確かに捕まえた。
 「よし、捕らえたか!」
 ミナトは頭がくらくらしてくる。今夜見ることは、学校で教わったのと違う事だらけだ。大体にして人が花火から現れたり、空を飛んだり、それだけでも信じがたいのに、少しだが口を利いた人々は、皆当たり前のように、「魔法」、そう呼べそうなありえない術を使っている。

 ヨセアツ面相はここへ来て始めて顔を曇らせ、サーベルを抜き、やっきに蔓を断ち切ろうとする。だが、陣から伸びる蔓は、断ち切られた後からもまたどんどん伸びてきて絡まる。
 「さすガは公主の護衛、中々やりマスね。」
 楊監が剣を抜き号令する。
 「金虎隊!」
 その言葉に、船の後方、障子を立てかけた小部屋かと見えていたついたてが倒れて、弓を番えた小隊が現れた。
 「射方始め!」
 楊監が叫ぶ。びゅうびゅうという音とともに、赤い光をまとった燃えるように輝く矢が無数に、ヨセアツ面相へと飛んでゆく。光の軌跡が線を描いて流れる。まるで逆さまの流星。
 ヨセアツ面相は口から火を吹いてそれを退けようとするが、完全には上手くいかない。彼の体には数本、いや、もっと、赤く光る矢が突き刺さる。船上からでもはっきりと見えた。
 ミナトは思わず顔を覆い目をそらした。いくら怪人じみた怪盗とは言え、血を見るのは嫌だった。

 だが、思いがけず指の隙間からちらと見た目が、その怪盗とばっちり合ってしまった。背筋が凍る。ヨセアツ面相はにやりと笑った。

 その刹那、ミナトの肩に重い衝撃が走る。肩に、ヨセアツ面相の持つ釣竿のフックが引っ掛けられ、あっという間にミナトの体が宙に浮く。悲鳴を上げる暇もない。気づくとミナトは空中で炎の矢の集中砲火を受けている怪盗に抱えられていた。
 楊監が真っ青になって叫ぶ。
 「射方止めい!」

 ヨセアツ面相がふふふと笑って歌う。
 「ブラリ ブラリ カイゾメブラリ
 フツカノツキハ サエテコウコウ
 ブタノマルヤキ オトトニカオウ」
 ミナトの体はまるで何かに支えられてでもいるように宙に浮いた。ヨセアツ面相うはミナトの手を取り、まるでダンスでも踊っているかのようにくるくると回った。
 思わず覗き込んだヨセアツ面相の顔は、まるで古代の彫像のように整っていた。その間抜けなほっかむりさえなければ見惚れるほどに。

 だが、ミナトはぞっとした。その瞳、藍色の双眸は何も見ていないかの様に、虚ろに深くうがっている。
 それは人間の、生き物の目ではなかった。
 ヨセアツ面相は、ミナトに上品な笑みを浮かべていった。
 「お嬢さん、アナタは神を信じてイますか?」

 「ミナッ!」
 下のほうからナミの叫び声が聞こえる。見るとこちらへ駆け寄ろうとするナミを、懐剣を逆手に構えた小柄な侍女が制している。
 「お下がりください。」

 ぎしり、という音を立てて船が揺らぐ。下方を見てミナトはぞっとした。およそ、本の挿絵でしか見た事のない生き物、この世にいるはずの無い者達、鱗のはった鳥、羽の生えた魚、人と蜥蜴の相の子、虫と蛇と人を混ぜたもの、それらのどれでもないもの、東西を問わぬ魑魅魍魎の類が、海の中から船へと這い上がろうとしていた。
 船上からは、今更のようにミナトの同輩の少女達の恐怖の悲鳴が響く。道師が慌てて言う。
 「いかん、船が沈められる。悔しいがこの陣は仕えぬか。」
 そしてヨセアツ面相を捕らえていた二つの光は色を失い、代わりに船全体を包む新たな陣が生まれた。

 楊監が仁王立ちして鬼の形相でこちらを睨んでいる。
 「黒練!」
 小倉庵が叫ぶ。
 「これを使え!」
 小倉庵は船の飾りに取り付けてあった大きな日の丸の扇を手にすると、矢立てでさらさらと筆を走らせた。墨汁の絵の様な火国文字の書かれた扇は、小倉庵の手を離れると楊監の膝の高さに水平に浮いた。
 「鳥馬飛翔。」
 すぐに楊監は小倉庵の意図を知る。
 「下は任せた。」
 そう言うが早いか、楊監はその扇の上にひらりと飛び乗る。そしてそのまま空中のヨセアツ面相の前へ一気に飛び上がる。鋭くとがった楊監の顔は、だがしかし、生き生きとして見えた。

 「面白ーイ。一対一デスか。デハまず名前を名乗るノガ礼儀でしょウ。」
 ヨセアツ面相の言葉に楊監が言い放つ。
 「偽名を使う男に名乗る名など無い。」
 ヨセアツ面相はにやりと笑う。
 「そうデスカ。デモ、知っていまスヨ。満充帝メイルの重臣、周栗威夢の長子、姓は楊、名は監、字は黒練、ソノ若さで将軍ノ地位に上り詰メタ、武術の天才。」
 「調べていたか。」
 楊監が吐き捨てる。
 「いざ、尋常に!」
 そして楊監の足の下の扇が、鳥とも馬ともつかないいななきを上げ、そのまま彼を乗せてヨセアツ面相へと突進した。

17 夜が波立っていく


 
 ユキヤマ・ナダレは焦っていた。巡視していた彼女の舟は会場の端の方にいたのだ。事が起きてすぐ大急ぎで船を向かわせたが、完全に出遅れていた。皇女の船の上では赤に青に光が走り、混乱の様子がここまでも届いている。

 「急いで。」
 ナダレは部下にこう命ずる。舟を漕いでいるのは歳の若いカイセイ・マブシとアマシ・ヨワシの二人の刑事だ。
 「急いでますよ、最大限。」
 カイセイがぼやく。彼らとて焦りは一緒だ。
 通り過ぎていく周りの舟々からは、野次馬根性丸出しの無責任な歓声が上がる。
 「面白い、もっとやれ。」
 「すごいもの見ちゃった、明日自慢しないと。」

 ナダレは内心舌打ちをする。人事だと思って。如何に面白かろうと犯罪は犯罪だ。しかも、他国の宝をここで失えば外交にも影響しよう。第一警察の面目は丸つぶれではないか。
 「あれ・・・?」
 ふいにアマアシ刑事が声を発した。
 「あの・・・、あの舟おかしくありませんか、この・・・、この騒ぎの中、誰も外に出ていません・・・。あの・・・、あの、気のせいかもしれないですけど・・・。」
 消え入りそうな声で言う。

 ナダレはアマアシの示した方向を睨む。それは中型の手漕ぎと見える船だった。だが、今漕ぎ手の姿は全く無い。甲板は狭く、大きなな船室が広く場所を占めている。
 およそ、芝居見物には不向きな船だ。しかも誰一人、この騒ぎを見ることもなく、船の上はひっそりとしている。まるで、闇の中に身を沈めているようだ。

 ナダレは言った。
 「近づけて。」
 えっ、とアマアシは小さく叫ぶ。
 「で、でも、ヨセアツ面相は・・・。」
 「近づけて、責任なら私が取ります。」
 それは十三年、現場の刑事をしてきた勘だった。怪しい・・・、ナダレの心には確信めいたものが浮かぶ。

 舟はすぐにその船に横付けされ、アマアシを除く二人の部下とともに音をなるべく立てずに乗り移る。
 「何か聞こえるな。」
 クモリ・ドンテンがささやく。
 「オルガン?いや、蒸気か。」
  確かに腹のそこに響くような重厚な音がかすかに響く。息を潜め、足音を忍び、拳銃を構えて、三人は慎重に船室へと近づく。扉の前で合図をし合い、一気にドアを蹴破る。銃を向け叫ぶ。
 「誰かいるのか!」
 そこで三人が見たものは、意外な光景だった。
 広く暗い船室いっぱいに何かの図形が光を放っている。それは彼らの知識の中で一番適切な言葉を用いれば、魔方陣、そう呼ぶべきだろう。そしてその光の図形の中央に、大きなオルガン、そうとしか言いようの無い機械が据えられている。だが音楽はしない。オルガンの上に作りつけられた大きなフラスコには蛍光色の液体が満ち、大きな犬がそれに浸っている。そして、オルガンの様なものの演奏席には茶色い髪の、少年から青年に変わろうかという年頃の、若い男が一人座り、鍵盤を抑えていた。

 それは一見して女性的に過ぎる柔和な顔立ちの美少年だった。だが、その表情は陰鬱で硬く暗い。彼は乱入してきた三人の刑事達を一瞥する。その茶色の瞳に静かな敵意が光る。そして優雅に鍵盤を押し変えた。
オルガンのパイプから太くかすかな音がして蒸気が漏れる。そのとたん三人の体が宙に浮く。まるで見えない何かに抱えられているかのように持ち上げられ、部屋の外、そして船の外まで運ばれて遠ざけられる。そして、派手な水しぶきを上げて、三人は海に落ちた。何が起こったのか、全くわからない。
 幸い三人が落ちたのは元の小船のすぐそばだった。着衣での水難訓練もつんでいる。アマアシが慌てふためいて水中の三人を引き上げにかかる。
 だが、三人がやっとの思いで元の小舟に上がることが出来たその頃には、あの、怪しい少年を乗せた船は、跡形も無かった。

 「船は?」
 ずぶ濡れのナダレがせき込みながらアマアシに詰め寄る。
 「あの船は何処へ消えたの?今ならまだ後を追える。」
 アマアシは泣きそうな顔で言った。
 「分かりません・・・。」
 「どっちの方へ逃げたのよ!入り江の外にも包囲網を敷いているのよ。」
 「無理です。」
 と、アマアシは答えた。
 「あの・・・、沈んだんです、海中に・・・。まるで鯨みたいに・・・。どっちへ逃げたかなんて分かりません。」
 ナダレは呆然と暗い海面を見詰めた。舞台上のかがり火と、船舟のかがり火が明るく光を放っているが、今は夜だ。海に沈んだ船を捜すのは不可能だ。

 「何者でしょう、あの男。しかも、水にもぐれる舟なんて、聞いたことありません・・・。」
 カイセイがらしくない戸惑いの声を発する。
 「魔法だ、あれぞ正しく・・・、魔人と、魔人の船だ!」
 クモリが熱に浮かされたようにつぶやく。
 「クモリ刑事!」
 ナダレは叱責する。
 「またそんな事を。アマアシ刑事、カイセイ刑事、すぐ署へ戻ります。シュンメ刑事を呼んで、似顔絵を作成してもらいましょう。あの少年の身元を割り出します。急いで。」


 「さあ、どうしたの?続きは無いの?」
 湿った地下室にスグリのサディスティックな声が響く。アイキはため息をついた。これで何度目だろう。体はまだ柱に縛り付けられたままだ。
 「さあ、もっと不幸話を教えて、そうじゃないと・・・。」
 アイキはほとんど涙目でスグリを見る。拒否権は無いのだ。

 ニチニチに閉じ込められたスグリに助けを求めたまではいい。地下室から出られなくとも、体が自由になれば数倍ましだ。だが、アイキを発見したスグリはアイキの縄を解いてくれることは無かった。
 「分かる?あたし今、最高に悔しくて苛々しているのよ。」
 そしてこう言った。
 「もう、あいつ、絶対に許さない!絶対に百倍返しよ!今の気分で誰かを助けてあげるなんて、あたし的にあり得ない。むしろ誰かを見下して、八つ当たりして、傷ついた心を慰めないと。ねえ、あなた、何かあなたの知っている不幸話をしなさい、今すぐに。」
 「不幸話・・・?」
 「そう、不幸話。他人が馬鹿を見たり、苦しんだり、不幸になったり、そういう話をあたしに話して楽しませなさい。」
 「そっ、そんなこと言われても・・・。」
 するとスグリは出し抜けに、アイキの大切な髪の毛を数本引っ張って抜いた。
 「痛っ!」
 アイキが悲鳴を上げる。
 「ほら早くしなさい。じゃないともっと抜くわよ。」
 スグリは非情に言い放った。仕方無しにアイキは話し始める。

 「あの、僕の友人のギボウシュなんだけど・・・、家に借金の請求書が届いて・・・、それを彼の二番目のお姉さんが見つけて、それで、誰にも知られないように送金したんだ。」
 「それで?」
 「それで、彼の上のお姉さんはすごくきつい人で・・・、結局見つかって、家中巻き込んで大喧嘩になって・・・、でもさ、ギボウシュには全く身にに覚えの無い借金だったんだ。」
 「つまりは詐欺?」
 そう、アイキが肯く。
 「それで、どうなったの?一家離散?それとも身売り?」
 スグリが身を乗り出す。
 「いや、知り合いの弁護士さんに頼んで、お金返してもらって・・・、痛っ!」
 アイキが叫ぶ。スグリがまたもやアイキの髪の毛を抜いた。
 「つまんない!全然詰まんない!もっと暗くてどろどろしていて、過激な情念渦巻く話は無いの?もっとあたしを愉しませてよ。」

 それからもうかれこれ二時間ばかり、アイキはスグリに自分の知っている不幸話を話し続けているのだ。もういい加減疲れてきたし、喉はからからだ。だがスグリには、彼を解放するつもりはさらさら無いらしい。 サディスティックな喜びに目をらんらんと輝かせ、嬉しそうに笑ったり、つまらないと怒り出してアイキの髪を抜いたりしている。あまりの辛さと情けなさに、アイキは涙が出そうだった。
 そしてもう、アイキの不幸話のレパートリーは底を尽きようとしてた。どうしよう、このままでは丸坊主にされてしまう。
 すると、スグリは言った。

 「あなた自身の不幸話は?まだ話してないわよね。あなたと縁談の持ち上がっている娘の話でもいいわ。許してあげる。妹ともめているんでしょう。」
 そう言ってスグリは、底意地の悪そうにアイキに向かって微笑んだ。
 アイキは背筋に冷たいものを感じる。今まで、ミナトに関わる話だけはあえて避けて話していたのだ。
 「でも、それを話したら僕の信用が・・・。でも、何でそれを知っているの?」
 「去る筋からね。」
 スグリは言う。
 「信用なら問題ないわ。あたし誰にも話さないから。自分が聞くだけで愉しんでいるの。大丈夫よ、あたしを信用して。」

 アイキにはとても信じられそうに無かった。スグリは平気で人を裏切れる人間だということは、アイキにはとっくに分かっている。
 だが、分かってはいても、逆らうことは出来ない。それは、つまりはスグリがそういう人間だからだ。
 口の滑りも重く、アイキは話し始める。
 「その、ミナ・・・、僕の想ってる人がそっけない素振りだったのは、その妹も僕を好きだったからだって、皆想っていたんだけど・・・。」
 「けど?」
 スグリが目を輝かせて覗き込む。
 「他に男がいた?」
 「違うよ。」
 アイキは素早く否定する。
 「それが、どう説明していいものやら・・・。自分には、僕と寄り添う資格が無いって・・・。好きだから、自分みたいに魂の欠けた人間とは一緒になっちゃいけないって・・・。」
 「はあ?何それ。」
 スグリがぽかんとする。
 「何かの言い訳じゃない?」
 「そうも思ったんだけど、ミナは本当に悩んでて・・・。その・・・、ニチニチさんの言うのには、消極的な自殺願望だって。自分の存在を跡形も無く消してしまいたいんだって。」
 「面白いわ、それ。」
 スグリは真顔で言った。
 「面白い?」
 「そうよ、今まであなたが話した話の中で、一番面白い。でも、何でここであいつ、ニチニチが出てくるのよ。」
 「それは、ミナの悩みを聞きだしたのはニチニチさんだから。話をつけてあげるって、家に来たんだよ。」
 そう、とスグリは言った。
 「あいつ、何か勘違いしてなかった?」
 「少しだけ。」
 とアイキは答える。
 「後は何も。とても鋭く分析してくれて、すごく助かったよ。あのまま知らないでいたらと思うと、ぞっとするよ。」
 スグリは暗い顔で言った。
 「そう、あいつ、恥をかかなかったの。そう・・・。」
 「恥?」
 アイキは目を丸くする。何か気に入らないことでも言っただろうか?もう髪を抜かれるのは嫌だ。
 「いいえ、何でもないわ、今の話気に入った。」
 「じゃあ、この縄を解いてくれる?」
 そのとき大きな爆発音が鳴り響いた。花火の音だ。
 「これでフィナーレね。どうせもうすぐみんなが来るわよ。あたしが解くまでも無いわ。」
 どうしても助けてくれないのかと、アイキはかなり落ち込んだ。
 だが、その助けはなかなかやってこなかった。外が大騒ぎになっていることは、二人とも知らない。

18 本当に望むもの

 ミナトは生きた心地がしなかった。空中に浮かんだヨセアツ面相に、頭を後ろにする形で抱えられてりる。ヨセアツ面相はミナトを抱えたまま、楊監と壮絶な一騎打ちを演じていた。前から攻撃を仕掛けてくる楊監が見えない上に、右に左に振り回され、時には上下ぐるりと一回転する。声を上げる余裕も無い。口を開けは舌をかみそうになる。
 ミナトは恐怖と嫌悪感で頭がしびれそうだった。というのも、ミナトの頭の位置からして、ヨセアツ面相のむき出しの足から生えている、針金のようなスネ毛がちくちく顔に当たるのだ。身をよじって何とか避けようとしてるが、振り回されるので上手くいかない。そうしているうちに、ヨセアツ面相がミナトに言った。

 「お嬢さん、スネ毛はお嫌いデスか?デモあまり、暴れナイほうがいいデスよ。コノ腰蓑の下ハ、シラサゴの礼法にのっトッて何もハイてませんデスかラネ。メクれ上がりマスヨ。」
 ミナトの中に強烈な生理的嫌悪感が生まれる。思わず顔を真っ赤にして、両手でヨセアツ面相の足をぽかぽか叩いた。足もじたばたさせる。
 そこに、隙が生まれた。

 扇の上に載った楊監がひらりと身を翻し一回転する。そして、ヨセアツ面相の背中にしょった宝剣を掴み、奪い返すとそのまま切りかかる。だが、怪盗はこの攻撃をかろうじてよける。そしてそのまま二人は空中でにらみ合った。下からは歓声がどよめきのように上がった。
 「赤馬牢籠鉄陣、発!」
 牛飛方師の声が響く。船上から船の形に赤く発光する。その光は空中に浮いているヨセアツ面相をもまるで鳥籠のように閉じ込める。下の混乱の中で、新たな陣を素早く敷いていたのだ。赤い光は、船に這い上がろうとする人外の者どもをも退けているのが、ミナトからも見えた。

 楊監がにやりと笑う。だが、あくまでも怪盗は不敵だった。
 「ホほう、そうきまシタか。それなラバ私ニも考えがアリマス。」

 そう言いながら怪盗は、ミナトの両脇を抱えて高くかざした。そしてそのまま振り回す。天が地が、ぐらぐらと回る。ミナトを支えていた正体不明の力は失われ、重力が不意に戻ってきた。ナミの悲鳴が聞こえる。
 「このお嬢さん、夜ノ海に投げ入れマショう。運良く引き上げラレマすかネ。」
 助かるはずもない。そんなことは誰にだって分かりきっていた。
 楊監の顔が苦痛にゆがむ。怒りを込めた目でヨセアツ面相を睨みつけながらこう言った。
 「やはり義賊というのは体のいい仮面に過ぎぬか。婦女子を盾にとって恥を知ることも悪びれることもない、神に大逆する痴れ者め!」

 「いいんですよ。」
 ヨセアツ面相は言った。
 「このおジョウサン、あなた方ニ、何ノ関係モありマセンよ。この様ナ他国ノ下々の者が死んデモ、あなた方ニハ痛クモ痒クモない。その宝剣とヒキカエニするニ値しない、小物デスよ、小物。」
 ミナトもそう思った。こんな魔法じみた術を使い、命まで張って守りたい宝剣なのだ。おそらくは予告を受けた時から綿密に警戒してきたのだろう。

 きっと何にでも変えがたい宝物。
 ミナトは自分のこの命が、一振りの宝剣に勝っているとはとても思えなかった。塵芥(ちりあくた)のように軽い命だ。楊監だって、それは良く分かっているのだろう。

 ミナトは目を閉じた。そして、放り投げられるのを待つ。これが定めだったのだ。自ら命を絶つ結果にならなかったことを、ミナトは感謝した。

 だが、何時までたっても楊監は切りかかってこなかった。ミナトはうっすら目を開けてみる。
 彼、楊監は苦しげに顔を歪め、血走った目でヨセアツ面相を睨みつけていた。だが、彼は全く動かなかった。ぎりぎりと歯を食いしばりながら、それでもぴくりとも動かない。

 その時、
 「ミナを放してー!」
 そんな高く細い声がして、ミナトは思わずそちらを向いた。
 ナミだった。ナミがいつの間にか皇女の後ろの帆柱に登り、ロープに釣り下がってこちに飛び込み、体当たりを食らわせようと、すごい速さで飛んできた。

 「ハハハ!何と。」
 だが、そんな直線的な攻撃が怪盗に利くはずもない。ヨセアツ面相は難なく避け、ナミはそのまま遠心力のままに、振り子のようにぶらりぶらりと振れた。
 「きゃー!」
 絹を裂くようなナミの悲鳴が聞こえる。
 「ナミ!」
 ミナトも叫ぶ。
 何でだろう?自分なんかのために。こんな価値のない、虚ろな自分なんかのために。
 ミオがミナトにナミを引き継いだから?ミナトがナミの持ち主だから?
 「ミナ、大丈夫!」
 かろうじてロープに摑まってナミが叫ぶ。
 「ミナのことはあたしが必ず守るから、必ず助けるから。だから、だから、幸せになってね!あたしはミオの物だったときから、ミナが大好きだったの。」

 ミナトの腕が振るえる、足も震える。ナミは何と言ったのだろう?持ち主ではなかったときから大好きだったと。
 確かに一番にではなかっただろう。ミオの次かその次か・・・。だが、ナミはミナトを案じてきたのだ。ずっとずっと前から。ミナトが傷を負うその前から。

 どうしてこんな自分が好きになれるのだろう?これほど穢れた自分をだ。でも、嬉しい、理屈ぬきに嬉しい、その言葉こそ、その一言こそ、本当に自分が望んでいたものだったのではないだろうか?

 見捨てられることでもなく、失望されることでもなく・・・。

 楊監がナミに叫ぶ。
 「絶対に手を離すな!必ず助ける。」
 そして、ミナトに向かってもこう言った。
 「そなたもだ、諦めるな!」
 ミナトの震えは収まらない。思わずこう呼びかけた。
 「でも、でもその剣は、とても大切な物では・・・。」
 「だが、そなたは必ず助ける。何か方法があるはずだ!」

 その時、下から凛と涼やかな声がした。
 「宝剣をお渡しなさい、楊監将軍。」
 「公主様!」
 下からどよめきが上がってくる。皆狼狽した声をしている。
 「しかしながら公主さま、これでは・・・。」
 皇女が前へ進み始める。その表情に恐れや迷いはない。
 「この宝剣、今夜ここで一度失うことは分かっておりました。欲しいのでしたら持ってゆけばよいのです。
 その代わり、そのお方をお放し下さい。我が国の兵が水国人を見殺しにしたとあっては、お父様のお立場が危うくなりましょう。」

 ヨセアツ面相が言った。
 「ホう、これハ物分りの良い公主様ダ。さあ、将軍、ソれを渡してくだサイ。アナタ方が持ってイテハ、いけないモノだ。」
 「その言葉、そっくり返す!」
 そう叫びながら楊監は、宝剣を放った。ヨセアツ面相はにやりと笑ってそれをつかみ、代わりにミナトを楊監に向かって投げた。楊監は物も言わずミナトを受け止める。そして宙ずりになっているナミを助けに向かった。

 皇女が言った。
 「私達はあえてここでこれをあなたにお渡しします。これを我等の敗北と受け止めてもらっては困ります。後三振り、こちらにはあるのです。そして、あなた方の持っていない切り札も、こちらにはあるのです。それをここであなたに宣言いたします。ゆめゆめお忘れなき様。」

 その言葉が終わるか終わらないかの刹那、方師の張った陣を打ち破って、金色の輝く大きなシャチが、船上に飛び上がった。
 驚く人々を尻目に、ヨセアツ面相はその鼻先に乗ると、派手な笑い声とともに海上を飛び上がりながら去っていった。その姿すらしばらくすると、海に沈んで見えなくなる。
 楊監をはじめ、火の国の臣下達は、悔しげにそれを見送る。皇女だけが静かな面持ちで、それを見つめていた。

 楊監が二人の少女を抱えて静かに船上へと降り立つ。そこにはもう陣の光は見えない。
 「やれやれ、楊黒練殿、両手に花だな。」
 「道士、茶化している場合か。」
 ミナトは船の上に足が付いたとたんその場にへたり込んだ。
 「ミナ!」
 叫びながらナミが抱きつく。顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
 「大丈夫?どっか痛いところはない?」
 「どうしてあんな無茶なんかをしたのよ!」
 ミナトは湧き上がる涙を抑えきれずに言った。
 「素手で怪盗に挑もうなんて、どうかしてる!」
 だって、とナミが言う。
 「だって、ミナを守るのはあたしだから。あたしの使命だから。」
 ナミの表情には、一点の曇りも無かった。

ミナトは思う、自分はナミに何を求めていたのだろう?無条件にに自分を愛してくれるのなら、自分もまた愛すと。しかし、それこそが自分の突きつけた条件だったではないのか?

 どんな条件が付いていようとも、ナミにとってミナトは一番大切なものなのだ。

 そしてナミは言った。ミオのものだったときからミナトが大好きだったと。

 それで十分ではないだろうか?ミナトにはそれ以上のことは望めなかった。
 本当にこれで十分なのだ。

 世界は満ち足りるのだ。

 ミナトは泣いた。けれど悲しみの涙ではなかった。ナミがいてくれることへの感謝の涙だった。二人はそうしてしばらく、手を取り合って泣いていた。

 「ご迷惑をおかけしました。」
 何時の間にか皇女が歩み寄ってきていた。そして、頭を下げる。
 「え・・・、そんな、もったいのない・・・。」
 他国の皇女に頭を下げられるなんて、とんでもない話だ。ミナトは狼狽して言った。
 「俺からも侘びを言おう。この様に巻き込む結果となってしまって。本来ならば予告状が届いた時点で、そなた達を船上に上げる話は断ろうかと思っていたのだが・・・。」
 楊監も言った。
 「私が、あなた方をお引き受けしようといったのです。それが我らにとって、新たな展開をもたらすことになろうと。」
 皇女がそう言った。
 「私達は、また近いうち再び見(まみ)えましょうぞ。」
  ミナトは不思議な気持ちでそれを聞いていた。この皇女にはやはり不思議な力があるのだろうか?
 分からない。ミナトの混乱した頭でそれ以上考えるのは無理だった。

19 波立つ夜の顛末


 それからも大変だった。ミナトや公主の船に乗っていた他の少女達は、警察にあれこれと質問された。火の国の家臣たちを、直接取り調べることは条約上出来ない。そこでミナト達、船上にいた接待係が対象となった。特に、ヨセアツ面相に直接抱えられたミナトは、根掘り葉掘り質問された。

 「何?扇に上に人が乗った?口から火を吐いた?嘘ついてませんか?どうやってそうしたのか分かりますか?」
 だが、当然のことながら、ミナトには何も答えられない。火の国の人々が使った術についてもあれこれ質問されたが、当のミナトにも分からない事だらけなのだ。
 警察は、ヨセアツ面相を裏で支えている組織だとか、テクノロジーについて知りたがっていた。だがそんなことがミナトに分かるはずもないのだ。

 警察の人が言った。
 「何か些細な点でも気付いたことは?」
 「さあ・・・、あの、気が動転していたので・・・。」

 ミナトは結局火の国の人々が使った術について、彼らに質問することはなかった。聞くべきではないと思ったからだ。実際聞いてみたとして、教えてはくれなかっただろう。他の少女が火の国の文官に聞いているのを聞いた。
 「あのう、あの術は何なんですか?何で光が網のようになったんですか?」
 「火の国の術だよ。」
 彼はそれ以上何も言わなかった。

 やっととりあえず警察から解放されたと思ったら、今度は記者達が待ち構えていた。ユカシカオリにある21の新聞社と、その周辺の10の新聞社から記者たちが送られて、ミナト達をぐるっとか込みこんで質問攻めにした。
 「ヨセアツ面相は何処から現れたんですか?花火と一緒に打ち上げられたって本当?」
 「目撃談によると、皇女の船から光の網が出現したり、人が空を飛んだって言うけど、見たんですか?」
 ここでも、特に、ヨセアツ面相に直接人質にされて空を飛んだミナトに、質問が集中した。ミナトはもう訳が分からなかった。
 「空を飛んだ時、どういう気持ちでしたか?」
 「怪盗は紳士的でしたか?」
 「今のお気持ちは?」
 ミナトは頭を抱えてつぶやく。
 「早く家に帰りたい・・・。」

 そんな時ミナトたちに救いの主が現れた。
 「記者の方々、お退きください。我々は、公主様の命により、この方々を家まで送りしなくてはなりません。さあ、皆さん、こちらですよ。」
 それはあの少年僧、小倉庵だった。火の国の武官達が記者の渦の中から少女達を連れ出して、桟橋脇のロータリーの方へと連れて行く。
 「北区の方は右手の馬車、南区の方は左、中央区は手前、東区は奥の馬車になります。」
 今夜の事件で疲れた様子の少女達は、皆ほっとしたように、火の国の武官達にお礼を言っていた。

 ミナトも小倉庵に丁寧に頭を下げる。
 「どうもお世話をおかけします。おかげで助かりました。このままでは夜が明けるまで帰れないと思っていたところでした。」
 小倉庵は丁寧に言った。
 「いえいえ、ご迷惑をおかけしたのはこちらの方なのですから。巻き込んでしまう結果となってしまって。あなたには特に。」
 その時マンジュシャゲさんが駆け込んできた。
 「皆さん、お給金を忘れてますよ。色々あった分、しっかりもらっていってください。」  
 ミナトはもらっている間に、また記者たちがやってこないか心配したが、記者たちは火の国の武官達に制されて、恨めしげにこちらを眺めているだけだった。
 馬車に乗りつつミナトが言う。
 「でも、明日になればまた、家まで押しかけてくるかもね。」
 本当に迷惑な話だ。ミナトに語るべき情報などないのに。
 ナミが言った。
 「じゃあ、今日は早く帰ってゆっくり寝なきゃね。」
 ミナトとナミが家まで帰り着いたのは12時を回った頃だった。

 「遅い!」
 とナギサが叫んだ。
 「もうお姉ちゃんたら遅いんだから。誕生日でしょ?あたし、ご馳走創って待ってたんだから、ほら!」
 ナギサは鍋の中身を見せる。中には海老とトマトのスープが入っていた。
 「ごめんなさい、本当に色々とあって・・・。」
 「ほら言っただろ、ヨセアツ面相が皇女の船を襲って大騒ぎだったらしいよ。それで遅くなったの?」

 結局アイキが開放されたのは、騒ぎに気を取られた仲間達がアイキのことを思い出してからだった。
 フィナーレから二時間後、アイキはすぐにミナトがいると思われる桟橋へと向かおうとしたが、警察と火の国の武官に阻まれて、仕方無しに家まで帰ってきたのだ。

 「もう本当に大変だったんだから!」
 ナミが言った。そしてミナトに代わって、今夜の出来事や経緯を三人に話して聞かせた。
 「ええっ!ヨセアツ面相に人質にされたのってミナだったの!」
 「しかも、楊監将軍に助けられたなんて!」
 三人とも目を丸くして驚いた。
 「おかげで警察と記者に質問攻めにされて、今の時間になっちゃったのよ。」

 ミナトが思った通り、ナギサは地団太踏んで悔しがった。
 「ずるーい、ずるーい、いいなあ、あたし、あたしも行きたかった・・・、楊監将軍と親しく口を利いて、おまけに助けてもらったりして・・・。あたしならそれをただでは終わらせないのに、心に入り込んで恋に発展させ、玉の輿に乗るのに・・・。悔しいっ!どうしてあたし、十五じゃなかったんだろう!」
 「親しく口を利いたって言ったってねえ。」
 ミナトがあきれる。
 「楊将軍はとても無愛想な方で、会話なんて続かなかったんだから。それに、あたしを助けてくださったのは、正確には皇女様よ。」
 でも、とナギサが言う。
 「楊将軍はお姉ちゃんを助けるために戦ったんでしょ。」
 「宝剣を取り戻すためよ。」
 「でもずるい、そんなシチュエーション、めったに無いし。ああ、あたしならそこで恋を芽生えさせるのに・・・。」
 ナギサがソファーに腹ばいになって手足をばたばたさせる。

 「ねえミナ。」
 アイキが言った。
 「その・・・、楊将軍て格好いい人だった?」
 少し驚いてミナトが返す。
 「え、まあ、評判通りだったけど。でもなんであんたがそんなことを聞くの?」
 するとミオが笑って言った。
 「まあ、ミナったら、アイキ君はミナがコウバイに連れ帰られることにならないか、心配しているのよ。」
 アイキが決まり悪そうに顔を歪める。
 「そんな事あるはず無いでしょ。」
 ミナトはため息をつく。
 「あたしなら!」
 ナギサが叫ぶ。
 「火の国に連れてて帰られたい!コウバイでマダムになりたーいっ!ああーっ!」

 「ねえ、アイキ。」
 ミナトが聞く。
 「そっちはどうだったの?舞台の裏方でも、やっぱり大騒ぎになった?」
 アイキが暗い顔をする。
 「それが、良く分からないんだ・・・。」
 「分からない?」
 「なんか、こう、心が痛くなるようなことがあって・・・、とても傷ついたよ・・・。そのことについては誰にも話したくないんだ。特にミナには。」
 あんな姿、ミナトにだけは知られたくなかった。
 「そう、そうなの・・・。」
 ミナトはアイキを見る。心なしか落ち込んだ顔をしている。腕には何か、紫色の跡のようなものが、半袖のシャツからのぞいていた。

 だが、ミナトはそれ以上聞くことはやめた。ナギサがスープを温め始めていた。そして五人は遅い遅い夕食を食べた。もう空腹かどうかも解らなくなっていた。ミサキは昼頃家を出てから帰っていない。

 食後、ミオがミナトに小さな包みを渡していった。
 「ミナト、プレゼントよ、みんな5テキずつ出して買ったの。ミサもね。」
 ミナトは驚く。
 「そんな、いいのに、気を使わなくても。」
 「安心して、大した物じゃないから。」
 ナギサが言った。
 「アイキ君が選んだのよ。開けてみて。」
 包み紙を解くと、それは小さな厚い本だった。「ソケイジュ」とタイトルが記してある。
 「小説だよ、古典の。」
 アイキが言った。
 「『アカデミー』の中の、古本コーナーで買ったんだ。」
 ナギサが言う。
 「あたしはペンダントとかの方がいいって言ったんだけど。」
 アイキが言う。
 「ナミがさ、本当の貴婦人になるためには、アクセサリーよりもよっぽど必要だって。」
 ミナトはナミを覗き込む。
 「そうよ。」
 とナミが言った。
 「ミナはもっと、自分の他の人たちがどういう世界を持っているか、知る必要があると思うの。特に、先生になるんなら尚更ね。」
 ナミはミオを見る。
 「そうでしょ、奥様。」
 その通りよとミオが肯いた。アイキが言う。
 「色々と忙しいとは思うけどさ、ちょっとづつでも読んでみて。なるべくミナが好きそうな話を選んだんだ。」
 「ありがとう・・・。」
 ミナトは言った。誕生日にプレゼントがあるのは久しぶりの事だった。皆、あの事件があってから、ミナトに対して気を使っているのだろうか?ミサキもお金を出したというのが少々意外な気もするが。
 だが、ナミの言葉が胸に響いた。確かにスミイト先生も、トソサン院長も、ミナトの先生は二人とも教養豊かだった。後を追うのなら、自分もそうあるべきなのだろう。
 ミナトは微笑んでもう一度言った。
 「ありがとう。」


 その夜、疲れているのにミナトはなかなか眠れなかった。脇ではナミが、すうすう寝気を立てている。
 目を閉じてみると、より鮮やかに、さっきのあのきらびやかな宴、火の国の家臣たちとヨセアツ面相の戦いが蘇る。

 あれは、一体なんだったのだろうか。

 多分明日になれば、新聞に自分のコメントが載るだろう。警察も新聞も話を聴きに来るかもしれない。
 だがもうそれは終わったことなのだ。二度とはないことなのだ。

 そう考えてまた、ミナトはぼんやり思う。自分は案外楽しんでいたのではないのかと。命を失う危険にあっていても、それをもう二度とないなんて懐かしんでいるということは。

 皇女や小倉庵、そして無愛想な楊監の顔が頭に浮かぶ。おそらくはもう会うことのない人々。住んでいる世界が違う人々。

 だが、ミナトの心に彼らとまた出会えることが出来るような、より深く関われるような、不思議な期待が育ってきていた。さっきの皇女の、あの言葉が響いているのだろうか?

 そして、ナミの叫びが漣のようにミナトの体の中に響いていた。

 「あたし、ミオの物だったときからミナのことが大好きだったの。」

 ミナトはやっと気付いていた。ミナトが本当に望んでいたのは、自分を見捨ててもらうことではなく、どんなに不完全な絆だとしても、大好きだと言われることだったのだ。

 だが、矛盾している。絶望するほど愛せない自分の事を、他人に愛してもらいたいなんて。
 それでも、ナミはそうしてくれた。どんなに理に縛られたからであるにせよ、ナミにとってミナトが一番なのだ。
 その気持ちに応えるのにはどうすればいいだろう?

 「あたしの幸せはミナの幸せ」

 ナミは良く口にする。それはミナトにとって、一番難しい、抵抗の強いことだった。
ミナトには思えない、自分が幸せになってもいい人間だと。ミナトは常に神様に断罪されているのだから。
 だから、自分を愛する人々を、こっそり遠ざけようとしてきたのだ。自分を愛することを無意味だと思わせようとしてきた。

 だが、人の心は変えられない・・・・。ナミも、ミサキもナギサもミオも、そして、アイキもそうなのだ。

 そして、彼らの幸せを望むなら、自分は幸せでなくてはいけないのだ。
 ミナトはまだ迷っていた。自らの理に従い、神様の言う通り自分を殺すのか、それとも自分を愛する人々の望むまま、このまま光の差すほうへと無理やりに行くのか。

 神様が許してくれなくても、生きて行けるのか?

 ミナトにはいくら考えても分からなかった。
 窓の外には月が浮かんでいた。そして波間にその淡い光が映る。さざ波の音が響くだけの静かな夜。その光を眺めながら、ミナトはとても遅くに眠りに落ちた。

20 どうしてそうなるの!

 次の日、ミナトは珍しく寝坊をした。昨夜遅かった上に、とても深く疲れていた。その上どうせお祭りで仕事もないという安心感も手伝っていた。
 だが、ミナトは嵐の勢いでたたき起こされる。

 「ミナッ、ミナッ、大変!」
 ナミが血相を変えて飛び込んできた。涙目になっている。
 「どうしたの?何かあった?」
 ぼんやりしながらもまずい事態を幾つか浮かべたが、そのどれともナミの動揺は釣り合わないものだった。
 ナミが泣きそうに言った。
 「大変よ、アイキ君が、アイキ君が、警察に連れて行かれた!」
 「えっ?」 
 ミナトはナミの言葉が信じられずに唖然とする。
 「ヨセアツ面相事件の不振人物に良く似てるって、でも・・・、でも・・・、そんな訳ないのに!」
 ミナトは愕然としてナミを見つめる。それが夏至祭り二日目の朝のことだった。


                                 ミナミナミナミナミ!2 に続く

ミナミナミナミナミ!

前回掲載させていただいたのとは大分カラーの違う作品でした。概要でも書いたテーマの通りにポジティブな作品となりました。友人たちの評価によるとこちらの方が一般受けするもののようです。長い続き物の話のこちらが一話分です。ちょうど震災の頃書いていました。停電の続く中、蝋燭の明かりで推敲分を執筆していたのを思い出します。現在三話目までが形になっています。まだ結末は見えていません。自分としては等身大の主人公のお話だと考えています。読んでいただいた方に共感していただき、少しでもわくわくやドキドキを感じていただけたらなあと思っています。ありがとうございました。

ミナミナミナミナミ!

通常の文体で書かれた連載物。最初センチメンタルな描写がありますが、後に書いてありますテーマの性質上、中盤終盤と明るくなります。ハイファンタジーに属しますが冒険の旅はありません。しかし活劇やコメディー要素もあります。読んでいただいた方から、『昔なのか現代なのかはたまた少し未来にもとれる』、と評された都市が舞台です。簡潔に言うと、悩みのドツボにはまり込んだ女の子が、少しずつアクションを起こし解放されていくお話です。多彩な登場人物にも注目していただきたいです。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
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