第8話-5
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ドワイア星系第4惑星ビタニカ、フェルデ国首都バリエナから距離にして389キロ。人間の数に換算すると389の位置にベストライ海溝は位置していた。
最深部の深さは調査の結果、5フェザキロ、つまり50000メートルだ。
地球上でもっとも深いマリアナ海溝は約11000キロであるから、その5倍の深さになる。当然、恒星の光が最深部まで届くこともなく、水圧も1平方センチメートルあたり5000キログラムの水圧がかかることになる。
ターミナズはどんな環境にも適用できる生命体であり、ミザンたちの種族によって遺伝子操作によって、さらに水圧に耐えられる生物へと人工的に変えられていた。
ヌークとの意識の統一によって、ミザンの支持で赤外線を反射する成分が強い、赤みがかった大海へと大きな水しぶきを上げてターミナズはもぐりこんだ。
浅井海域はまだ小さな水棲動物たちが泳ぎ回り、突如、現れたクラゲのような化け物に踊りき、逃げて行ってしまう。
それでも他の生物に刺激や恐怖心を与えない独特の水流をゼリー状の身体から散布して、極力、生態系へ影響を及ぼさないようにしているターミナズ。
さらに海底に潜っていくと次第に周囲は赤外線の反射を失い、闇が支配する世界へと変貌していく。
「ヌーク、点灯して」
ミザンが即座に言うと、ヌークと意識がつながったターミナズのゼリー状の肉体が鮮やかな七色に輝き始めた。まさしくそれは深海のクラゲと似ている発光行為だ。
それで周囲の状況が明らかになった次の瞬間、突如として目の前を巨大な黒い影が駆け抜けていくのが見えた。
驚いた様子の4人だったがすぐにヤダスがラエアに叫んだ。
「観測、忘れないで」
抜けているところのあるヤダスは、慌てて両腕を広げターミナズと意識をつなげ、ターミナズによる観測を開始した。この時、観測記憶はターミナズの内部に蓄積された水に記録されていく。
「ヌーク、光をさらに強く」
ミザンは黒い影の正体を知りたかった。
ターミナズの七色の輝きがさらに強さを増し、周囲の暗闇に光が広がる。
すると巨大な魚影と思しき姿が姿を現した。
「とんでもなく大きなビズね」
ビズとはティーフェ族の言葉でサメを意味する。別宇宙でも進化の結果としてサメは水中生物の頂点を極めていた。しかもその大きさはこの惑星ビタニカではとてつもなく巨大だった。
全長は900メートルを超えており、しかも群れで回遊していた。
地球上で最大の動物と言われるシロナガスクジラの最大全長が34メートル。絶滅したとされ、マリアナ海溝に生息しているのではないかと憶測されている巨大サメ、メガロドンの全長が20メートルであることを考慮すると、900メートルのサメというのは、想像を絶する大きさであり、水の中で生活し、文化圏を築き上げてきたティーフェ族ですらも、この巨大なビズの群れには、呆気にとられた。
「攻撃されるおそれはないみたいね」
ヤダスがミザンに向かってホッとした様子で言った。
しかしビズの群れは序の口でしかないことを、4人はすぐに知ることになる。海底をさらに潜っていった先に、黒い壁が現れた。推進はまだ海底までほど遠い。
「ヌーク、海溝を間違えたんじゃないでしょうね」
ヤダスが厳しい声で操縦者とも言うべきヌークを睨みつけるが、ヌークとターミナズの動きに間違いはなかった。それがすぐに証明されたのは、その海底がゆっくりと動いたからである。
「ラエア、動いてるものの全長を知ることはできる?」
咄嗟にミザンが叫ぶ。充満する海水とターミナズがつながることで、いわゆるスキャニングをすることが可能であった。
ラエアが両手を広げたまま一瞬、間をあけてから答えが帰ってきた。
「全長は1ガタ。特徴からして超大型の脊椎動物だと思うわ」
1ガタ。地球単位で1000を意味する。
つまり1キロの脊椎動物がこの海溝には存在するということである。
「攻撃性は感じられない。このまま通り過ぎるのを待てば、降りられそうよ」
ヌークが言う。
それにしてもここまで大きな生物がいるなんて。ミザンは海底にしか見えない黒いものがゆっくり動いていくのを見つめ、心中で唸るのだった。
やがて黒い生物の背中が見えなくなると、再び漆黒の奈落が彼女たちの前に大きく口を広げた。
ターミナズはまたゆっくりと潜水を開始した。それからも身体が金属でできた深海魚のような生物、眼のない軟体生物、スライム状の得体のしれない生物など、ミザンたちにとって有意義な時間が経過していった。
まもなく最深部に到達しようとしたその時、有意義な時間は無残にもガラスのように砕かれた。
「変ね。ターミナズが怯えてる」
ヌークが両腕を広げたまま、ターミナズの心を口で表現した。ターミナズとつながるということは、つまりターミナズの感情も入り込んでくるということである。ヌークはターミナズの心を今、理解できる状態にあった。
「怯えてる? そんなはずはないわよ。ターミナズはどんな状況にあっても、怯えることを知らない生命体なんだから」
ヤダスが若いティーフェ族の娘に厳しい言葉で言った。
だがヌークの身体にはターミナズの心の恐怖がどんどん伝わってくる。
何かが変だ。ミザンも異変に気付き始めた。海底は砂であると思っていたミザンの前には、すでに海底が見えてよいはずなのに、そこには漆黒がまだ続いているのである。
「ラエア、すぐ下の海底を調べて。何か変だわ」
両手を広げたラエアは少しの間、黙り込んだ。海水とターミナズがつながって送られてくる記憶を処理していたのだ。
訝しい感情がラエアの顔色を薄い青色に染めた。
「海底がない」
また何が抜けたことを言い始めた、と言いたげにヤダスが彼女を見た。
「わたしが調べてみる」
ヤダスが彼女から調査する権限を奪い、自ら両手を広げて海水とターミナズがつながる中で得られる記憶を整理する。すると一気にヤダスの顔が青く色づいた。
「海底が、抜けて無くなってる」
ヤダスの顔を一瞥してから真っ青に顔の色を変化させ、海溝の底を見る。確かにそこは漆黒がただ続いているだけだ。
「ラエア、海水の成分を調査してちょうだい。すぐに」
慌ててミザンが叫ぶ。
ラエアは腕を広げたまま、直結した海水の成分を分析する。
「特別変わったことはないみたい。至って普通の成分で、何か変化があるとうこともないし、変わった物質も検出されないわ」
一体なにが起こっているの。心中に言い合わらせないザワつきを覚えたミザンは、調査ということよりみ命の危険性を感じ取った。
「今すぐに上昇して。調査は打ち切りにします」
ヤダスは逆に漆黒の調査をすべきだ、と主張しようとした。けれどもミザンの頑固さを長年の付き合いから理解しているヤダスは、言葉を呑み込み、調査隊のリーダーであるミザンの指示に異議は申しでなかった。
ターミナズがゆっくりと海底から海中へ浮上を始めようとしたその時、七色に光るターミナズの輝きに何かが反射するのが見えた。
「ちょっとまって。あそこに何かあるわ」
ヌークの操作を停止させたミザンは、自ら割り込むようにターミナズと意識を直結させると、クラゲのような太い触手を、1キロ先の海溝壁面まで伸ばした。
海溝の壁面にそって海溝を降りていたので、海溝の壁面は意外と近くにあった。
触手が反射する物体をつかみ、そのままゆっくりとクラゲのようなゼリー状の体内へとそれを入れる。
ヌークに操縦権限を返すと、反射したその物体をミザンは手に取る。
直系が20センチほどの銀製の立方体が海底の壁面にあったのだ。
「これって――」
ミザンがそう呟いた刹那、ターミナズの巨体が上下左右に大きく揺れた。突如、海流が激しい流れを引き起こしたのだ。
「ヌーク、落ち着いてターミナズを安定させながら浮上するのよ」
混乱する色が顔に出ているヌークを落ち着かせるミザン。だが彼女もこの海流の激変がただ事ではないことをすぐに理解した。
これまであらゆる海底を調査してきたが、ターミナズをここまで翻弄する海流など経験したことがない。
急ぎ、ヌークはターミナズを海面へと浮上させようとする。
するとミザンは何気なく海底を見ると、漆黒が、海底を覆い尽くしていた漆黒がどんどん上昇してきているではないか。
さらに顔の色を青く染めたミザンは、ヌークへ、急いで、と叫びだかった。が、ここでヌークを焦らせたら、きっとあの漆黒に呑み込まれる。そう察し、あえて言葉を口から出さず、ヌークにターミナズの操縦を委ねた。
本当に長い間、4人は海底にいた気がした。まだ海水から出ないのか、皆がそう思い、下から迫る黒い何かに呑み込まれるのでは、と不安になった。
だが、4人の命はつながった。ターミナズは海底から凄まじい速度で空中へ飛び出した。まるで風船が水中から跳ね上がるように。
直後、真っ赤な海水は真っ黒に汚染され始めた。粘度の高い黒い物質に。
「あれは、なに?」
ヤダスが叫んだ瞬間、まるで黒い液体は答えるかの如く、無数の白い反転が黒い表面に現れた。目玉だ。無数の眼玉が黒い液体の表面に現れると、生物のようにウネウネとうごめき、海面へどんどんんと広がり、水中生物を次々と捕食していった。
ターミナズは急ぎ空中を上昇し、大気圏を突破、宇宙空間へと飛び出した。
そして4人は目撃した。赤い海が黒く染まり、大陸までも黒く侵食されていく光景を。
第8話-6へ続く
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