アイシャドー

 近頃田舎から国の首都近郊へ引っ越してきた。
 私は都会へ母と移り住む前、地元の高校を出て、住んでいた方田舎でとある地方の小さな劇団の役者として、一応は身を立てて、細々と生活して、生前祖母がたて、祖父の残した青みがかったの屋根の目立つ、日本家屋風の広い屋敷に女三人でくらしていた。私は父は小さいころからいなかったし親戚もないので、頼りは母だけだ。祖父が亡くなったのは、私が成人になる2日前だった。私は父が誰かもしらないし、そのことを聴くと母は肉体的にも精神的にも弱くなる、それはあとで説明する。祖父がなくなり、それからは本当に女三人、地元での生活に何かと不便をおぼえ、母も私を気遣っていたので、なるだけ生活の楽な、それでいて首都では田舎な方へこしてきた。女三人、しかし、都会へ出る前に祖母は帰らぬ人となったので、今は母と二人。
 祖母はうちの事がなんでもできて、母は心も体も弱かった、そのため中学に上がる前、化粧、初めてはアイシャドーの引き方をならったのはなんと祖母だった。祖母は母よりも若く見えた。祖母と母とは、性格の折り合いがつかない様子だった。よく不満や愚痴をいいあい、喧嘩が多かったが、いつも病弱な母のため、へなへなと祖母が言い合いに負けて折れて涙を流した。祖母の事は本当の母のように慕っていた。子どもの頃からずっとそうだった、それに対し、母に対しては今もそっけない部分を見せる事がある。きっとまるでどこか別の家の人のようなイメージが抜けきらないのだろう、いつも和服をきているし、髪はぱっつんだし、座敷にばかりいるので、まるで人形みたいなのだ。

 母は私にはいつも優しかった。それでいて、私の成長、生活、性格すべてに無関心だった。なぜなら私は、素顔は美しくない、母は美しいものが好きだった、私は化粧をしなければ美しくない、だからすっぴんの私に無関心だった。しかし母は化粧をしても美しくなく、自分が鏡に映るのを避ける生活をしていた、そのおかげで離れと奥座敷には鏡がなかった。祖母は化粧をしてもしなくても美しいものだった。実の母と違い、掃除、家事、洗濯、家のすべてのかじ取りをして、大黒柱のようだった。 

 小さなころから昔から、祖母とは毎日いろんな話していた、母とはときたま私と話すのだが、どこか遠くをみていて、私とは距離をおいていたので、ときたま母は、本当の母ではなく、私にとって祖母こそが本当の母ではないかと思うことがあった、それも無理はないだろう、母は病気をいいわけにいつも離れで一人、安い内職の針仕事をこなしていた。奥座敷にいることもあったが、そのときには母が主に世話をするペットの愛猫、タマの相手をしていて、そういうときは祖母にも私にもまったく反応しなく、自分の衣服の乱れも気にせずネコそっくりの動きで家中暴れまわるので、その狂気の光景はまるで飼い猫と、本当のノラ猫の様子だった。
 祖母は容姿だけではない。料理もできれば、歌も歌えて、小説などにも造詣が深い、姿勢も生活も、挨拶のしぐさひとつとってもも美しく、あらゆる文化に精通している、祖母の部屋は軽い図書館かというほどの本が並ぶ、帰ってきたらキッチンか居間にいて、おかえりと声がかかる、小学生の頃からずっと同じ、祖父も生きていたころは二人セットで暖かい声がかけられた、玄関から暖炉へ向かうその瞬間が、生涯で何度思い出しても一番安らかな記憶。すべてが完璧なのはいつも祖母である。それだけは絶対にいつまでも変わりないとおもっていた、それは母との対比の中で、成人するまで、ほとんどずっと変わらぬ、圧倒的な固定観念の一つだった。しかし、その意識が変わったのは、つい前年の事だ。
 
 つい前年、祖母は他界した。涙の葬儀を終え、しばらくして親戚に手伝いにきてもらい、一度家を片付けることになり。私は絶句した。母は珍しくそれを手伝いたがり、病弱な母や親せきから祖母部屋を片付けの最中、祖母の秘密を聞いた。祖母がひみつにしていたひとつの箱をみせられた。それは祖母の想いでや、記憶のつまった若いころの宝物入れのようなものだった。そこからは、映画俳優の写真や、いくつもの恋文、それは何人もの恋人と付き合ってきた証、俳優とキスをしている浮気の証拠もでてきたた。彼女がかつて、結婚前少し名のある映画俳優だった事は知らされていたが、まさかそんなところまで、芸能業界の情報まで詳しくしるはずもないし、祖母は話したがらなかったので、私は、無理に聞き出さなかった。
 私が驚き、涙も出せずに、その日の夕食の準備をしていると、母がその日珍しく、居間にきて、私と話をしたいという、それは祖母へのうらみつらみ、そして、母が小さいころうけた、ひどい仕打ちの暴露だった、そしてついに、私へのそっけない態度の理由を、母は祖母のせいだとした、私はあっけにとられたが、一つ納得したのは、母が祖母と仲が悪かったのは祖母が母に美を求めすぎたからだいう。そうか、探しだした祖母の宝物入れには、美学、芸術に関するいくつもの本があった、母が美にこだわるのは、映画俳優だった祖母の影響だったのか、それだけは間違いなさそうなのだ。

 祖母が体を悪くしたのは2年前、祖母はそれから見もしなかったテレビに夢中になった、私は年々祖母の弱っていく様子をみた。難病だったので、最後も近いという昨年末には医師との相談で、本人が自宅で看病されることを望み、某市病院から自宅ベットへ、それからは収入の少ない役者業を休業、私がつきっきりで世話をした、日々やせ細っていく祖母との一か月間の睨み合い、忍耐との対決、その間私はできるだけ、祖母の心が楽になるように、汗を流し疲れ果てながらも、奇妙な笑顔を消して崩さなかった。毎日お化粧をして、わざわざ、いもしない偽りの恋人をつくって、デートに出かけると嘘をついて時間をつぶす事もした。それはいつもの祖母ならば、私を心配して、男性とのおつきあいを気遣って、必ずそっちを優先するように指示するはずだったからだ。しかし、初めはそんな素振りがあったが、だんだん日にちがたちやつれてくると、祖母もさすがに気がめいり、私を片時も放さずそばにいるように懇願しはじめた。

 母は祖母がそんな様子になってから、ときたま介護の手伝いをしてくれた、その様子に祖母は嫉妬した態度をとる事もあった、ただ、私と母が話しているだけでもである。まるで人の豹変を見た気がした、性格はかわらないのだが、祖母は自分の顔を見ることをきらい、最後のあたりには自分の手や足さえ見えないようにつねに布団をかけておくよう訴えていた。まるで母そっくりだった。正直、これまでの私の母として、母のかわりにたくさんの生活、そして何不自由なく暮らすための知識を与えてくれて、男性の特性も教えてくれたのも祖母だった。だから一切、面倒に思わないつもりではいたが、性格の変わった祖母の面倒をみるのは、まるで他人の面倒をみているようで、どこか現実離れして、少しずつ確かに疲れはたまっていた。だからときたま、そっけない返事や、煩わしい態度をとったりして、そういうとき、祖母は必ず私のその様子を見透かしていた、それが少し悲しかった。

 しかしそれでも最後の顔は安らかだった。これはきっと主観だけではない、私は最後まで、祖母の為に生活していた。祖母には鏡が見えないように工夫して、テレビも電源をつけないときはカバーをしていた。
 毎日毎日そこで彼女から、作業終わりに、偉いねえと声を掛けられたり、どこからもってくるのか、飴玉をさしだされたりした。私は、祖母にときたま、こづかれたり、タオルを投げられたりしたが、くじけなかった。やっぱり、今まで与えられたものに比べて私のしたことはわずかなお返しに過ぎなかっただろう。しかし最後にも、毎日の作業のおわりにいうように、汗をふいたり、数時間ごと床ずれをふせぐための祖母の寝返りと手伝う作業をおえると、丁度朝10時頃だったか、いつもと同じ調子で、いつもと少し違う言葉、お疲れさま、とねぎらいの言葉をもらったのだ、そしてそのあと祖母の呼吸は薄くなっていき、心音を示す装置のテンポが緩やかになった、死が近い場所にある、それだけで不吉さを感じた、まるで一緒に私が死んでいく、そんな気がしていて、あっけにとられて動けなかった、あの時私にかけたことば。
 【お疲れ様】
 それが祖母の最後の言葉だったのだ。カーテンからふいている風が心地よい秋ごろのことだった。テレビには埃がつもっていた。
 
 それから、都会での生活が始まった。母は昔よりは随分常識人に振舞うようになった、といっても、心の病のせいで、まるで人形のようにじーっとしている事がおおいが、祖母と母と折り合いが悪かった理由は、夏も近づいてきた最近、つい2、3日前に朝仕事に出かける間際に母から話をきいた。母曰く祖母は若いころ、とても完璧主義者で、美しいものと美しくないものを冷徹なほどきっちりと区別し、差別していた。その評判は、映画業界では有名なうわさになるほどだったという。母は、完璧主義者だった若きころの祖母にとって、完璧に程遠い容姿と、完璧に程遠い才能をもつ存在だとして嫌悪されていた、そこであまりに厳しく、何事もきっちり決められ、何も満足に与えられず、無関心に育てられたのだそうだ。若いころの祖母は、外では私の知っている祖母と同じようにとてもいいひとだったが、家庭内では常にヒステリー気味でときたま暴力も振るうほどだったらしい。
 それからコーヒーをすすり、めずらしく朝食のパンを口にしながら、母は無表情で続きを話した。田舎からもってきた家具のひとつ、祖父の日曜大工でつくられた小さな椅子が、背もたれが母をささえていた。

 祖母の執拗なまでの美への執着、それはひどかったらしく、役者仲間や、仕事仲間にさえ、侮蔑の言葉を吐く事もあったそう。母は、そんな祖母が嫌いで、そのせいで心を病んだと思っているらしい。母が大学生になるまでは、どうやら祖母は役者をつづけていたらしく、母が大学生になったころ、田舎の私たちの前の住居で、居間で、祖母や祖父に対してそれまで一つも反抗しなかった母が、これまでの母へのヒステリーやらなにやらを責め立てたそうだ。祖父はその様子を悲しそうにみていたが、それまでヒステリーの兆候が目覚め始めていた母を、これからどう対応するか迷っている様子だったそうだ。祖母はというと、ただ母に言いたい事をすべて吐き出させた上で、これまでの祖母とはうってかわって、責任を感じたような表情で、母にそのことをいいわけぎみに涙し、ついに謝りだし、その際にはこんなことをいったそう。
 「私はもう役者はやめたわよ、あの頃、私はおごっていたの、有名になりすぎたせいなのよ」
 とそのときそんな事をいったそう、しかし私は病気で亡くなるまぎわまで、その病床で祖母が美しさに答えを見ていたのを知っている。母もまた日常的に美に固執している、私たちにとっての美とは、本当は何なのか、祖母も母も、本当には理解していないだろう。
 だからこそ、私は母にやさしくしようと思う。母は、かつての祖母の一部、今の病弱な彼女こそが、何の非もないはずだった祖母の本当の姿なのだから。都会にて、私は演技だけでは稼げなかった。それに母の分の稼ぎも必要だ、だから死に物狂いで働くつもり。私はもういくつもの顔を持っているし、何の不安もない、そして母や祖母にとって私は中途半端であり美しい人間とは言えないのかもしれない、けれど母よりかは、役者としての才能があったのだろうから。

アイシャドー

アイシャドー

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-13

Copyrighted
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