死神は林檎しか食べない
人間の魂は脆い。ちょっとした衝撃ですぐに壊れてしまう。まるで硝子玉のようだと常々思う。わたしは、もとは人間だったが、今は死神をやっている。寿命を終えた生者の魂を狩り取り冥府に運ぶ。今にも消えてしまいそうな蝋燭の火を一瞬で吹き消すような仕事だ。死者の魂を現世に放置すると、やがて悪霊になる。悪霊が蔓延れば、生と死の境界が曖昧になり、現世の均衡が崩れる。
人間には「えんがちょ」と呼ばれ、不吉なものとして扱われることもあれば、不浄を呼ぶ存在として疎まれることも多い。しかし、これは現世の均衡を保つための大切な役割だ。
仕事が終わるといつも嫌になる。
――なんでわたし、こんなことやってるんだろう。
答えなど返ってくるはずもないのに、つい自分自身に問いかけてしまう。人の魂を狩る時にはいつも助けてくれ、死にたくないという声がきこえてくる。死の使いである死神にそんなことを頼むのはお門違いもいいところなのだが、黙って聞き流しているとそのうち消えてなくなるので、そのまま放っておく。声が聞こえなくなると、わたしはほっとして胸をなでおろした。これで人の魂を狩るのは何回目だろうか。
――そんなこと、いちいち覚えてないな。
事務的に表現するとしたら、とどのつまり、死神は魂を管理する仕事で、それ以上でもそれ以下でもない。表面的な性質が似ているせいか、天使や悪魔と間違われることも多いが、実際はそれらとは相容れない存在である。
基本的に人間の魂の寿命というのは、生まれた頃に決まっている。寿命は長かったり短かったりと人によってさまざまだが、いずれもその人間が生まれ持った宿命だ。イレギュラーとして、天変地異だとか無差別な殺戮だとかでランダムに死者が選別されることもあるが、普通は寿命にそって人間としての生涯を終える。寿命を終えた魂は、最後の審判にかけられ、輪廻の輪に乗り、次の転生を待つことになる。人間として死んだ魂が生まれ変わった時に、また人間として転生できるかどうかはその魂の前世の行いにもよるが、正直なところ真相はさだかではない。まれに輪廻の輪から外れる奇特な魂というものがあるらしく、死神として生を受けた者はこれに該当するとのことらしい。
思えば、死んでから冥界に来たのが運の尽きだったと思う。自分がどのように死んだのか、今は何も思い出せない。これは後になって同僚から聞いたのだが、生前の記憶がない死神というのはめずらしくないという。ひとつだけ言えることは、死神になった者は現世に何らかの心残りがあるということだけだ。
現世では、真夏になると心霊番組を見かけるようになる。ブラウン管ごしに高校生くらいの仲が良さそうな女子グループの写真が表示される。この写真を徐々に拡大してゆく。目を凝らしてよく見てみると、写真のすみっこのほうにもやもやっとした人影のようなものが写り込んでいるのがわかる。しばらく間をおいて、ナレーターが「おわかりいただけただろうか」とお決まりの台詞を述べた。写真がフェードアウトして画面が切り替わり、演者たちがぞっとするとか、これは祟りだよ、とか、この中の誰かを恨んでるんじゃないの、とかいうようなことを口々に言っていた。人間だった頃はそんなものかな、と聞き流していたが、今は少し違う。
死神は俗にいう人外である。吸血鬼が写真に写らない人外であることは有名だ。死神は人外だが、写真に写る者もいるらしい。死んだ人間からつくられた死神が写り込んだと仮定すると、もとが人間なのだから、写真に写ったとしても不思議ではない。現世で言うところの幽霊のようなものである。ただ、死神が写真に写るといっても生身の人間ほど鮮明に写るわけではない。人影のようなものがぼやけて薄く写っていたとか、ぽわぽわとした人魂のようなものが写るなど、それらしきものの形が見てとれるだけで、あまり写真映えはしないようだ。人間がそのようなものを見つけて、これは心霊写真だと騒ぎ立てることがよくある。そういえば死神になってから、わたしは心霊写真を怖いと思わなくなった。
冥界でも、死神には感情がないとみなされていることが多い。感情がない死神のほうが多くの魂を回収することができるので有能とされる。感情がある者は無用な情に流されて任務を遂行できない。そのため、感情がある死神は欠陥の烙印を押され、人知れず処分されてしまうのだと聞いたことがある。
人間からつくられた死神には感情がある。感情をもつ死神は、そのことを隠して常に冷静な判断を下し、職務を全うしなくてはならない。死んでからも墓に入る心配をしなくてはいけないというのは実にままならない。もしも、なにかのはずみで、この重大な秘密を暴かれるようなことがあれば――死神としての人生の終了…すなわち第二の死、それこそ一巻の終わりだ。
冥界に来たばかりの頃、わたしはとても空腹で、そのため死にかけていた。自分が何者かもわからず、頼れる相手もいない。わかっていることといえば、自分は死んだからここにいるということだけ。わたしは孤独だった。何もできず、うずくまっていると、どこからともなく天使…ではなく、冥界の王と呼ばれる存在があらわれ、そいつから差し出された林檎を何の疑いもせずに食べてしまった。我ながら馬鹿だなと思う。異世界の食物を何の疑いもなく口にするのは間抜けもいいところだ。
冥界というのは、おおかた死者しかいない世界だが、冥界の王には権力があり、強大な力もあるので、たいていのことは何でもできる。権力者の性質というのはどこでもさほど変わらないらしく、あれはすべてのものに対して利用価値があるかどうかで判断するきらいがあった。わたしは、なぜか利用価値があると判断されたようだが、あんなやつに使い潰されて第二の人生を終えるなんて死んでも嫌だった。
わたしは、冥界の王に渡された林檎を食べた時から、林檎を食べずにはいられない身体になった。林檎と名のつくものならば、りんごジュースやアップルパイといった林檎を加工した食物でも代用が可能である。学校の校則よりもゆるいが、わたしがこの制約に縛られながら生きているのは確かである。とどのつまり、林檎を食べなければ、この身体が消滅してなくなるというだけのことだ。
しかしながら、せっかく死神とはいえ生を受けたのだから、このまま大人しく消えてやるというのも癪だ。というか、そうなるとあいつの思い通りみたいでなんだか気に入らない。どうせならやれることをやってから消えてやろうと思っている。
あの時、冥界の王に差し出された林檎を食べなければ…人間として死んだ時に成仏できていれば…死神になって人間の魂を狩る苦しみを味わうこともなかったのだろうか。今更過去を悔やんでこんなことを言ってもしょうがないのだが、わたしはこの虚しい問いかけをせずにはいられなかった。
死んだように生きている。生きているのに死んでいる。
――はたしてどちらのほうが幸せなのか、わたしにはわからない。
死神は林檎しか食べない