白鯨は知っている
僕は改めて彼の顔を見た。嘲笑うような表情の中、藍玉の二つ目がこっちに向けられている。それがあの日の海月と同じはずがないのに、重なって。
彼は自分を殺せと言った。殺せもしないくせに海月を求めるなと言った。まるで、自分こそが誰よりも海月の側にいて、誰よりも相応しい存在であるかのように。
「殺せもしない?」
随分勝手なことを言う。そう思って僕は彼に接近していった。僕よりも背が低くて、華奢で、中性的な顔立ちをしていて、もやしだし、弱そうに見える。
そんな彼を殺せないわけがないだろう。僕は彼の細い喉元を掴んで、強く締め上げた。
こんなことをされるなんて予想外だったのだろう。彼は藍玉を見開いて、ひゅ、と息を吐いた。僕の両腕を掴んで振り解こうとしたが、見た目通り随分非力で。
「ぐ、ぇ」
苦しげに声を上げて、僕の膝を蹴りあげたり腕を殴りつけて抵抗してくる。でも僕は、けして力を緩めようともせず、どんどん喉元に指を食い込ませていった。そのうち、彼の背後にあったベッドの上に押し倒すような形になって、彼の体に乗り上げた僕は体重もかけて、気管を、頸動脈を圧迫していく。焦って必死に僕の腕から抜け出そうとする彼は酷く無様に見えた。見開かれた藍玉が段々と光を失っていく。
「ほら、僕は君を殺せるぞ、海月に相応しいのは僕だ」
「ぁ……ッが」
頬は紅潮しだして、抵抗する力も弱まってきていた。口元と目元から透明の線が溢れだす。人間って、どれくらいで殺せるのだろう。僕は人間なんか殺したことはないから知らないけれど、これからそれを知ることになるのだろうか。
そのうち、彼の腕から力が抜けきって、だらんとベッドの上に転がった。ビク、と体がわずかに跳ねている。口元からは涎じゃなくて泡を吐き始めていて、なんだか魚みたいだな、なんて思って見下ろして、
こいつは魚じゃなくて人間なんだってことを、思い出した。
慌てて手を離すと、大きく生きを吸い込んで、ゲホゲホといくつか噎せ返る。
指先が震えた。
鼓動がうるさい。
僕は今、何をしようとしていただろう。
あれだけ真っ赤な顔をしていたのに、いつの間にか血の気が引いて青白い顔になった彼が、断続的に呼吸を繰り返していた。
しばらくして呼吸が整うと、彼は自分の口元と目元を拭って、僕の顔を見上げた。
「いきなり首絞めてくるなんて思わなかったけど、惜しかったね。殺しそびれちゃったみたいだね」
「……なに言ってるの」
彼は力なく笑う。僕を嘲笑っている。殺せなかった僕を。
もう一度彼の首元に掴みかかった。掌の下、呼吸と共に生暖かく上下して、脈打っている細い喉。僕の両手に、力は入らなかった。
「だから言ったでしょう。君に殺す勇気なんて無かったんだよ」
「そう、みたいだね」
彼が死にかけているのを見て、僕は怖くなったのだから。この掌の下で息づくそれを、止めることなんかできなかった。
人間は酷く脆いと言う。でも、この手で命を奪おうとすると、案外しぶとく、強く、生きようとするらしい。
彼がしぶとくて良かった。ボクは誰も殺さずに済んだらしい。
彼──鯨坂君は、ぼんやりと遠くを見つめていた。
「そうだよ。Y君には、殺す勇気なんかなかったんだ。だから君は、殺せなかった」
その藍の双眸をこちらに向けて、
「君は、海月を殺せなかった」
寂しそうに笑ったその顔に、海月の面影を見た。
白鯨は知っている