黄泉比良坂(仮)〈ヨモツヒラサカカッコカリ〉

長岡まさ

  1. 序章 そうしてそこへ辿り着く
  2.    序幕:少年
  3.    壱幕:色鉛筆
  4.    弐幕:木製の扉
  5. 第一章 始まりの合図の始まりは如何に
  6.    壱幕:酒瓶と鎌鼬
  7.    弐幕:茶と蓬
  8.    参幕:のっぺらぼう
  9.    肆幕:卑弥呼
  10.    __CALLING
  11.    __TALKING
  12. 第二章 
  13.    壱幕:骨董品
  14.    弐幕:白兎
  15.    参幕:銀鳩
  16.    肆幕:氷菓子
  17.    伍幕:

序章 そうしてそこへ辿り着く

   序幕:少年
   壱幕:色鉛筆
   弐幕:木製の扉

   序幕:少年

 私たちは、嘘っぱちに囲まれて暮らしている。

 明日のU市は雪の日(﹅﹅﹅)だと、昨日職場の人たちが話していたのを、突然思い出した。気象管理センターの決定だ。それならこのトンネルの向こうは、きっと一面の雪景色、なのだろう。
 立ったまま地下鉄の窓に映る自分の顔を見ながら、深く溜息を吐いた。友人との約束の時間は既に過ぎてしまっている。あと五分の道のりが長かった。
 連絡を入れられない私は手持ち無沙汰で、身体を捻って車内を見回した。目を引く色は椅子の褪せた青いクッションだけだった。乗客は皆虚ろな表情のまま、ここではないどこかへ目を向けていて顔を動かさない。
 ふとその人混みの途切れた先、一人の少年と目が合った。
 あの子だ、と咄嗟に思った。耳にかかるくらいのふわりと柔らかそうな髪、澄んだ白い肌、そして何より大きく真っ直ぐな瞳の少年。彼の視線を遮るものは何もない。
 静まり返った車内で、人目も憚らず声を掛けようかと口を開きかける。彼はそんな私を見つめたまま、すっと踵を返して行ってしまう。追うつもりは、もうない。

   壱幕:色鉛筆

「リセ、遅いよ」
 カフェテラスの路地に一番近い席、ホットスポットの真下で、友人カエデが手を振っていた。
「ごめん」
「もー、待ちくたびれて凍えるとこだった」
 全身黒ずくめの格好のカエデは、わざとらしく肩を抱いて震えた。
「えー、それ、あったかいんだよね?」
 彼女の着ている真っ黒なヒートウェアーをちらりと目で指す。
 一見薄手のヒートウェアーはそれ単体で十二段階の体温調節が出来ると聞く。実際に着てみたことはないし、世間でも好んで着る人はまだ少ない。あまりに身体に密着した生地のせいで、身体のラインが全て出てしまうからだ。カエデの抜群のプロポーションもやけに強調されていて、同性の私でも目のやり場に困った。
「それに今日、そんなに寒くないよ」
 軽く椅子を引き、スカートの裾を抑えながら、彼女の向い側に腰掛ける。カエデは不満げに口を尖らせた。
「えー、だってこの雪だよ?」
 カエデは大げさに右手を広げて、街並みを指し示した。きゅっと結ばれている彼女のポニーテールが、右に揺れる。そこで改めて、ああそうか、今日のU市は雪の日だった、と思い出した。
「そんな天気、関係ないよ。ほらここ、ホットスポットだってあるのに」
 私の指摘に、カエデは悪戯っぽく笑った。
「え、ああ、この木? やっぱりこれ、ホットスポットだったか。道理でちょっとあったかいと思った。ちょっとだけ、ね」
 彼女に釣られて私も笑う。他に客の見当たらないカフェの屋外に、二人の声が良く響いた。

 このテラス席は周りを取り囲むように、緑色のスポットライト型の暖房機が立っていた。光は淡く見えるが、発せられる熱は確かで辺りの空気はかなり暖かくなっている。ホットスポットは通常、景観を損ねないためにシステムが補正している。この店のそれは恐らく、小ぶりな街路樹の姿を纏っているのだろう。
 あれもそれも、ここにあるものは皆、何かしら別の姿を付されている。
 冷えた手を温めようと熱源に手を翳す。その姿を見て、カエデは大きな溜息を吐いた。
「なるほどね」
「ん?」
「それ。リセには木じゃなくて、ライトが見えてるって訳ね」
「だってこうしてるとあったかいから」
 彼女には、私が街路樹に両の掌を向けているように見えるのだろう。
「もうリセったら! またアイズして来なかったんだね」
「うん」
 カエデの顔は真っ直ぐに私の方を向いている。それでも彼女は、目の前に存在する現実の私を、確かにここに実体としてある私を、その瞳に映してはいない。

 街を行く人々は皆、お洒落な眼鏡を掛けている。巷での通称は“eyes(アイズ)”、眼鏡型のウェアラブル端末だ。
 私の幼い頃のアイズはまだ、現実の世界に情報を描き加えるようなものだった。しかし今では、皆の見ている世界は嘘っぱちとすり替わった。端末を身に着ける人間の、見たい世界がそこにはある。いや、誰かが作り上げる、その人間に“見せたい”世界が、だ。
「まだ、VRは嘘っぱちって思ってんの?」
 カエデはコーヒーカップを唇に当てながら、私の頬を指で突いた。
「うーん、まあ、そうだね」
 彼女は呆れた顔をしながら、空を撫でるような素振りをして、私のためにコーヒーを注文してくれる。アイズ不携帯の私では、コーヒーを一杯頼むだけで随分と手間が掛かってしまうからだ。
「そういう気持ちも分かるけどさあ。時代の流れっていうかさ、そういうのに逆らうって、ほんと生き辛いよ?」
「だよね」
 休みの日、私は極力アイズに触らない。キャビネットの一段目の引き出しにそっと仕舞っている。仕事中だって出来ることならば使いたくはないのだ。しかし会議室も休憩用談話室も、会議資料も意見箱も、全て現実世界にはないのだから、アイズ抜きでは文字通り話にならない。私の拘りも結局、背に腹は代えられない。
「全く手の掛かる親友を持ったもんだ」
 私の顔を覗き込みながら、彼女は楽しげにころころと笑った。
 カエデは数少ない、実際に会って話をする友人だった。彼女は今、服飾デザインの仕事をしている。勿論手で触れることのできる服ではなく、アイズ越しにのみ映る虚像の衣服だ。
「それはそうと、ね! リセ!」
「ん?」
「喜び給え! 今日はそんなリセのために、ちゃーんと持って来たんだから」
 彼女は丸テーブルの半分はありそうな大きめのケースを取り出した。中から厚手の紙が数枚出てきて、テーブルの上に並べられる。見るとそれは手描きの服飾デッサンだった。以前カエデに冗談半分で頼んだものだ。
「すごい!」
 手触りの存在する、正真正銘の画用紙だった。この図面のタッチはもしかして色鉛筆というものだろうか。
「でしょ、でしょ?」
 得意げに彼女は胸を反らした。
「ほんと、ありがとう。こんな高級なの頼むつもりじゃなかったんだけど。びっくりした」
 カエデと食事の約束をする時、それは決まって仕事が入っていない時期だ。つまり仕事が休日なら私のアイズも休職。アイズを着用せずにふらふらと家を出て、私は彼女の前に現われる。だから現実世界には存在しないカエデの作品を見たのは、片手で数えられる程しかない。
「どうせならうんと昔風に、と思ってさ」
「よく描けたね、大変だったでしょ」
「まあね。最近じゃ、手で直接描くことなんてないからね。すごい新鮮な体験だった。でも、ダテに時代遅れのリセの友達やってないから」
「時代遅れって。まあ、その通りだからしょうがないけど」
 彼女は豪快に笑った後、紙の端を軽く指で弾いた。
「で、何が一番大変だったと思う?」
「え、うーん、紙の調達? 画用紙ってB市くらいしかお店なかったよね? あ、でも画材もあれか」
「そ。正解は色鉛筆」
「あ、やっぱりこれ色鉛筆で描いてるんだ」
「そう。デザイン学校時代の先生に、古い画材コレクターの方がいてさ。今でも仕事で繋がりあって。その先生に連絡とって貸してもらった」
「よく貸してくれたね。すごく貴重なものなんでしょ?」
「うん、あたしたちの生まれる前から生産終了してる品だからね。でも先生、画材は使われてこそ、って人だからね。頻繁に手で描いてるんだって。リセとも気が合いそう」
 近くの一枚を手に取って眺めてみる。滑らかな線で描かれた、優しい雰囲気のエンパイアドレスだ。本物の色鉛筆画を見るのは初めてのはずなのに、どこか懐かしさを感じさせる柔らかさがあった。
「これ可愛い」
「でしょ? 実はそれ、今着てるの」
 彼女はドレスの裾を少し持ち上げるような仕草をする。
「ええっ、そうなの?」
 私の眼には黒いタイトなウェアーにしか見えないその上に、想像の中でオフホワイトの優雅なドレスを重ねる。
「髪もアップにして、赤いバラで留めてるんだ」
「へー」
「ね? アイズしてくれば良かったと思うでしょ?」
 先程運ばれて来たコーヒーに手を伸ばしながら、にやにやするカエデを睨む。
「その手には乗らないもん」
「ざーんねん」
 全く残念そうには見えない表情のまま、彼女は画用紙を私の方へと寄せた。
「これリセにあげる。要らないなら先生のとこ、持ってくけど」
「貰う! ありがと」
 三枚のデッサンを重ね、トントンと音を立てて角を合わせる。
「でも、ドレスにバラかあ。こんな普通の日に外で着てたら、街の中で浮いちゃわない?」
 何気ない疑問に、彼女は溜息で答えた。
「ほんとリセ、何時の時代の人間よ。これくらいのカッコ、みんなしてるって」
「えー」 
 今度は真昼間の、統率の取れない仮装行列が街を闊歩する様を想像する。
「最近の人はみんな変わってるなあ」 
「はいはい、リセおばあちゃん」
「おばあちゃんって、もう」
 文句を言いつつ、味気ないコーヒーを啜る。手の中の画用紙の質感と、色鉛筆の曲線美だけが鮮やかだ。
 もう一度、変なのと心の中で呟く。
「それより、それ」
 頭上からの声に驚いて顔を上げると、カエデは何時の間にか立ち上がっていた。
「飲み終わったら移動するよ! これからランチ行くとこ、予約時間過ぎたら入店出来ないんだから」
「はーい」
 返事をしながら立ち上がり、カップの底に僅かに残った液体を、ぐっと流し込む。後味はやっぱり、薄い単調な苦みだけだった。

「よし、記録終わり」
 自作のメモ帳を上着の胸のポケットへ、押し込むように仕舞う。
 最近、アイズ無しでは入店すら出来ない飲食店が多くなった。そこへアイズ無しで潜入すると色々な発見がある。カエデと食事をした後には何時も、気付いた事をメモするようにしている。
 カエデとは店を出たところで別れ、私は一人、U市を地下鉄の駅へと歩いていた。
 つい回り道をしたい衝動に駆られる。暫く仕事漬けだった日々からの解放感を、分かりやすく味わいたかった。
 左右に過ぎて行く景色を見ながらぼんやりと思う。
 飾り気のない殺風景な店の壁面には、きっと巨大なショーウィンドーがあって、色とりどりの商品を身に着けたAIが動き回っているのだろう。老朽化の目立つ建物も、華美な装飾データを重ねて豪華絢爛に輝いているのかもしれない。どれも、アイズの見せる嘘っぱちの世界だ。
 あなたの見ている世界は灰色だと、以前誰かに言われたことがある。
「あれは、誰だったかな」
 空を見上げながら考える。この小春日和の落ち着いた青空を、皆知らない。今日はほんのり大気が柔らかくて、時折吹く風が心地良いくらいだ。
 肌で感じることを忘れた人たちは、目で見る空を本物と勘違いする。気象管理センターによって決められた天気を、垂れ流されたその光景を、網膜に映し込む。何時しか思い込みの激しい脳に、身体は引き摺られていく。それは、淋しいことではないだろうか。
「どうして今日みたいな日、雪の日にしたんだろ」
 何処かへ行きたい気分だった。遠くへ、まだこの瞳で捉えていない所へ行きたい。

 駅前の大通りへと続く道の途中、交差点に差し掛かったところで、強い視線を感じた。
 辺りを見渡すまでもなく、進行方向の先に、こちらを向いている一人の少年がいる。これで彼と視線を交わすのは何度目になるだろう。私と同じ、眼鏡を掛けていない、あの少年だ。
 一瞬迷ったが、周囲の人たちの歩み出す動きをちらと確認してから、前を見据えたまま踏み出した。少年は交差点の向こうで動かずに、じっと私を見ている。また何時ものように、近付く手前で姿を消してしまうだろうという予想に反して、少年との距離はどんどん縮まって行く。
 ついにすれ違うかという刹那、彼の口が動いた。
「そこのお嬢さん、僕と一杯いかがですか」

   弐幕:木製の扉

「正直、初めてお見掛けした時は驚きました」
 少年は静かに、抑揚の無い声でそう言った。
「何に、ですか?」
 外見は私より一回り以上年下に見える彼の、余りに落ち着いた雰囲気に、つい敬語になる。
「日本でも有数の大都市であるU市に、ウェアラブル端末を不携帯の方がいらっしゃった事にですよ」
「はあ」
 少年の口調に圧倒され、気の抜けた返事をしてしまう。
「君も、してないですよね? アイズ」
 一呼吸間があってから、彼は首を縦に振った。
「はい」
「どうして、ですか?」
「それをお話するために、本日は時間を割いて頂きました」
 少し待ったが、その話の続きをこの場でするつもりはないようで、少年は黙ったまま前を向いて進んで行く。
 話が見えず、会話も続かず、一体どこへ向かうのだろうかと一抹の不安を抱きながら、横へ並ぶように付いて行く。

 少年は荷物を何も持っていなかった。今日は随分日差しが暖かいとはいえ、冬にしてはかなりの軽装だ。カエデが愛用しているヒートウェアーを使用している様子もなく、私と同じように無地の布製洋服を身に着けていた。
「どうかされましたか?」
 私の気遣わしげな様子を見て取ったのか、少年は口を開いた。
「あ、いえ、ごめんなさい」
 つい謝罪が口をついて出る。彼は表情を変えず、浅く息を吐いた。
「黙ったままお連れしたのでは、よりご不安を煽ってしまいますね、失念しておりました。外出先で言葉を発するのは苦手なもので、大変申し訳ありません」
「え、いや、その、すみません――」
 どうして謝っているのだろう。そもそもどうして見ず知らずの少年に誘いに素直に応じているのか、自分でも説明出来ない。ただ、彼の事が無性に気になっていた。
 度々私の視線の先に現われた、冷めた表情の少年。矢張り偶然ではなかったのだろう。追いかけても追い付く事のなかった彼が、今手に届くところにいて、その声は私に向けて発せられている。それは――
「――唐突な質問で大変恐縮ですが」
「は、はい!」
 我に返って慌てたため、かなりの大声で返事をしてしまった。
「貴女は何故、端末をご使用にならないのですか?」
「端末?」
 一瞬考えてしまったが、ウェアラブル端末、アイズの事だと気付いた。
「使わない理由。そうですね、うーん」
 曖昧な返答で誤魔化すことはしたくなかったが、正直に話そうか少し迷った。
「笑われちゃうかもですけど――」
「笑いませんよ」
 彼はきっぱりとそう言い切った。その真摯な瞳が煌めいた瞬間、この少年は嘘を吐かないと直感した。話したい、そう思った。
「――嘘っぱちって、思っちゃうんですよ。アイズ越しに見えるもの」
「嘘、ですか。変わった表現をなさいますね。仮想、ではないのですね」
「うーん、これはほんとに、私の、ただただ個人的な感覚で――」
 どんな言葉を紡げば伝わるのだろうと、頭の中で考えが渦を巻く。
「仮想って、(仮)(カッコカリ)って気分なんです。あ、仮想の“仮”に、丸括弧の。嘘っぱちも仮想も、実際に無いっていうのは変わらないんだろうけど――」
 自宅の居間の風景を思い浮かべる。アンティーク調のキャビネットにアイズを仕舞い込み、木製テーブルの上に紙の資料を贅沢に広げている、私の部屋。
「取材記事で言うと――あ、変な例えですね」
「構いません、お続け下さい」
「うーんと、雑誌記事の取材で例えると、ですね。(仮)は、まだこの企画の内容、構想段階ですよ、でも何時か実現させますよって感じ。でも、嘘っぱちは、そんな取材、そもそも考えてないですよ、というかそんな事件そもそも起こってないから、取材できないですよっていう――」
 ここまで言葉にしておきながら、要領を得ない話し方に気付いて急に恥ずかしくなった。
「あ、ごめんなさい、意味、分かんないこと言って」
「いえ、何となくですが、貴女がおっしゃりたいことは理解出来ました」
 思わぬ反応に、つい顔が綻ぶ。
「ふふ。嬉しいです」
「ご職業柄、考え付かれた比喩なのでしょう。実に貴女らしい表現です」
「そうかなあ。私、ルポライターなんて肩書きは付いてますけど、そんな大層な仕事――」
 ふと会話の流れに違和感を覚え、少年の顔を覗き込んだ。彼もこちらを見たが、その表情はぴくりとも動かなかった。
「私たちって、お話するの、今日が初めてですよね?」
「はい」
「そう、ですよね」
 彼は全く動じる様子がない。
「私について、不審に思われる点がおありかもしれませんが、今暫くご容赦下さい。この場では、お話し出来ないのです」
 何処へ辿り着けば聞けるのかと尋ねたくなったが、答えは貰えないだろうと口を噤んだ。

「先程の」
 二度目に路地の角を曲った時、少年の方から再び沈黙が破られた。
「お話の続き、聞かせて頂けませんか」
「続き?」
「まだ、あなたが『笑われる』とおっしゃったお話は、お聞きしていないように思ったものですから」
 少年の鋭い観察眼に、胸が高鳴った。彼の促すような頷きに小さく頷き返し、深く息を吸ってから話し始めた。
「――昔、大のアイズっ子だったんです、私。可笑しいですよね、今はこんななのに」
 自嘲気味に笑う私に、彼は同調しなかった。
「映像とかで見たことあります? 昔は、眼鏡ももっと重くて、がっしりした感じだったんですよ。網膜に照射されるレーザーも今より結構強くて。だから子供は基本使っちゃダメって、言われてたくらいだったのに」
 爪が掌に食い込むのが分かった。
「私が中学へ上がる頃やっと、生活を丸ごとカスタマイズ、みたいなのが流行り出して。私、周りのありとあらゆるものに嘘っぱちを重ねてた」
 思い出す。
「中学三年の冬、高校受験が終わった日。ちょっと時期外れの、雪が降った日で、その夜、父が、アイズ外しなさいって、ご飯食べてる時」
 思い出す。
「メニューも全部、覚えてる。ブリの照り焼きに、揚げだし豆腐に、大根とにんじんのお味噌汁に」
 思い出す。
「目の前に、いつものクッション、乗せた椅子に、お母さん、座ってて、笑ってて、美味しそうに、ご飯食べてて」 
 視界が滲む。
「でも、アイズ、外したら――」
 続きを話そうと思うのに、声が出なかった。代わりに嗚咽が酷くなる。
「――お母様は、いらっしゃらなかったのですね。それも随分と前から」
 少年は、優しい声音で言葉を継いだ。
 あの日、アイズを外した私の目の前に座っていたのは、ただの人形だった。私は一年半も前からそこに母が居ない事に、全く気が付いていなかったのだ。
 作り上げられた嘘っぱちは、大切で温かくて目を反らしてはいけないものを、全部覆い隠して遠くへ攫って行ってしまう。あの日、その真理を目の当たりにした。
「あの時は、どうして、もっと早く教えてくれなかったんだって、父を責めたけど、今ではちゃんと、分かります、私がバカだったって。何で、気が付かなかったんだろう」
 右手が急に温かく感じて、自然に顔を向ける。少年が私の拳を、小さな手でそっと開いてくれていた。
 繋いだ手をしっかりと握り、ぶれることなく前を見つめている彼の横顔に、思わず見惚れる。空いた左手でそっと涙を拭った。
「何故今日、U市に雪の日が採択されたのか、ご存知ですか」
 少年は立ち止まった。目の前の古びた雑居ビルの入り口横には下へと続く階段がある。
「何故、あの端末の通称が“eyes”と言うのか、お分かりになりますか」
 手を引かれるまま、彼に付いて行く。
「何故、多くの人間がこの社会から消え去ってしまった事実に、皆お気付きでないのか」
「それって、どういう――」
「お母さんに、もう一度会いたい?」
 少年のその最後の問い掛けは、木製の厚い扉の前に、年相応に幼く響いた。彼は、鈍く光る金属製の取っ手を引き下げ、重そうな扉を身体全体で押すように開く。

 カラン。
 鐘の音がする。
「ようこそ。Bar黄泉比良坂(よもつひらさか)へ。全てを、お話しします」

第一章 始まりの合図の始まりは如何に

   壱幕:酒瓶と鎌鼬(かまいたち)
   弐幕:茶と蓬
   参幕:のっぺらぼう
   肆幕:卑弥呼
   __CALLING
   __TALKING

   壱幕:酒瓶と鎌鼬

「わあ、綺麗――」
 第一印象は碧だった。
 扉を潜り抜けた正面、その壁の一部を切り取るように、飾り棚が設置されている。そこへ一際目を引く、クリスタルの置物が佇んでいた。大きな翼を広げ、長い髪を揺らしながら、今にも飛び立ちそうな女性の後ろ姿だ。
「いらっしゃい」
「あ、こんにちは!」
 奥から聞こえた柔らかな男性の声に、咄嗟に挨拶を返した。
「あら、随分と元気の良い子ね。ふふ」
 彼の反応に弾かれるように、頭に疑問符が浮かんだ。声質から予想していた返答とずれがあったせいだろうか。得体の知れない何かが、心に引っ掛かった。

 店内はこぢんまりとした薄明かりのバーだった。古い映画で見た様な、入り口から見て横に長い作りのフロアだ。凝った置物が所狭しと並び、至る所を飾り立てていた。
「あれ? ここ――」
 外から見た雑居ビルの様子を思い出そうとしたが、はっきりとは覚えていなかった。それでもこんなに奥行きの無い建物ではなかった気がする。バックバーの向こう側に、広く居住スペースを取っているのかもしれない。
 アイズで部屋の景色を自由にコーディネイト出来る現代では、地下でなくてもわざわざ窓を設置しない物件は多い。現実の窓から外を見るよりも、眺めたい景色を映し出し、確認したい景色を情報として検索した方が、遥かに便利だからだろう。今時窓の無い家なんて普通だって、とカエデにからかわれそうだが、窓の無い生活空間など私には手を出しがたい物件だ。
「ああ、気にすんな」
 黙り込む私の横を、軽やかに人の声が通り過ぎた。
「この店、狭いだろ? 奥行き無い訳も、後でちゃんと教えてやるよ」
「え?」
 困惑した。考えを見透かされたことよりも、今の言葉を発した主がどこに居るのか分からなかったからだ。
 カウンターから少し首を出し、こちらへ優しく微笑み掛ける、バーテンダーと思われる男性。その前に五脚並ぶカウンターチェアの一番奥に、今まさに座ろうとしている少年。そして、椅子の背から少しのスペースを挟んで、壁伝いに二つあるテーブル席、そのソファには誰もいない。
 今、この場に居るのは私を含めて三人だ。
「あんた、顔に出過ぎ。ほんと分かりやす過ぎんだって」
 ぽかんとする私に注がれる幼い笑い声に、思わず目を剥いて言葉を失った。
「こら、ヒミちゃん! 可哀そうでしょ。この子、混乱しちゃってるじゃないの」
 バーテンダーの男性が口元を手の甲で隠しながら、楽し気にうふふと笑う。
「え、え、あの」
 ここまで私を案内してくれた少年に、恐る恐る質問した。
「さっきの、コ、ですよね?」
「さっきの子って? オレの顔、何度も見てるんじゃないの?」
「え、だって、しゃべり方が――」
 自然と瞬きが多くなった。状況が全く掴めない。
 少年の荒っぽい口調も、男性の艶めかしい仕草も、摩訶不思議なこの空間も、全てが自分の中で要領を得なかった。
「あれ? ここってもしかして、私の夢の中? とか」
 次の瞬間、目の前にいる二人は大声を上げて笑い転げた。
 ただ茫然とその様子を眺めている内に、だんだんと思考が冷静になる。こんなに耳を刺激する夢があるはずはない。そして次第に、むっと怒りが湧いて来た。
「ど、どういうことですか? 笑ってないで、ちゃんと説明して下さい!」

「ほんとに、ごめんなさいね」
 目尻の涙を人差し指で拭いながら、先に笑いから抜け出したのはバーテンダーの男性の方だった。
「ようこそ、Bar“黄泉比良坂”へ。アタシがこの店のマスターよ。あなたを心から歓迎するわ」
 正直なところ、何から受け止めれば良いのか分からなかったが、外見から受ける印象と明らかに異なるマスターの話し方には、口を挟んではいけない気がした。
 彼は少しウェーブの掛かった明るい色の髪を揺らして首を傾げた。
「何か、アタシの顔に付いてるかしら?」
「あ、いえ、その――」
 慌てて何か言い訳をと考えたが、一体何を言えば正解なのだろう。
 マスターの顔立ちは端正で、切れ長な目元は涼しげだった。肩幅がしっかりしていて、カウンター越しに見える体つきは締まっている。年齢は三十代後半といったところの、カエデが好みそうなイケメンだ。
 目を離さぬまま次の言葉を紡げずにいる私に、少し困ったように微笑み掛け、マスターは奥の席を振り返る。
「ちょっと、ヒミちゃん、いつまで笑ってるの! 失礼でしょ」
 お腹を抱えながら、ひーひーと肩で息をし、少年はこちらを見上げる。
「ごめん。あんまり面白い反応だったからさ、つい」
 数分前までの能面のような表情の少年は、どこへ行ってしまったのだろうか。
「あれ、生真面目風のが好みだった? オレ、こっちが素だから」
 彼は真っ直ぐに右手を差し出した。それは紛れもない、先程も触れた幼い手だ。
「今更の自己紹介で悪いけど、オレ、ヒミコ。よろしく」
「ヒミコ、君?」
 不思議な名前。
 数歩近くへ歩み寄って、こちらも右手を差し出す。
「よろしくね。私は」
「あ、ちょっと待って!」
 名乗り掛けた所で、マスターから制止の声が上がった。
「ごめんなさいね。この店にはちょっとしたルールがあってね。皆、本名は名乗らない事になってるの」
「あ、はい。――え、じゃあ、ヒミコ君も本名じゃないの?」
「は? 当たり前だろ。ヒミコなんて名前、子供に付ける親いるかよ」
「そ、それはまあ、そうかもしれないけど――」
 奇想天外の連続で、ここにだけ常識を持って来られても困る。
 一昔前には、インターネット上で名乗るハンドルネームなるものが存在したと、文献で読んだことがあった。自分の素姓を明かさず、やり取りをするための手段だったらしい。
「所謂ハンドルネームってことですか?」
「あら、随分古風な単語知ってるじゃない。まあ、そんなところね」
 あらゆる情報が集約されたアイズを、何の躊躇いもなく使用している現代を思うと、とても新鮮な発想だった。今の私たちは、氏名や住所、生体ナンバーどころか、ともすると好みや生い立ちまで、アイズという看板に広告のごとく掲げて歩いているようなものだ。
「ちなみに。アタシはイタチよ。よろしくね」
「イタチさん、ヒミコ君――」
 口の中で一度呪文のように二人のハンドルネームを繰り返し、記憶にしっかりと書き込んだ。
「おかまだから、妖怪鎌鼬なんだよな」
 ヒミコ君がからかうように笑う。
「ちょっと! カマは余計よ!」
 イタチさんが右手をぶんぶんと振りながら猛反論する。
 どうもまだ、この二人のペースには付いて行けないが、マスターイタチさんの口調はやはり、そう言う事らしい。
「ということは、私も何か自分に名前を付けて名乗った方が、良いんですよね?」
 にこやかにイタチさんが頷く。
「ええ。でも、ゆっくり考えて良いのよ。何なら途中で改名しても構わないし。誰も文句は言わないわ」
「基本、ここのルール緩いからな」
「なる、ほど」
「まず、何か飲み物でもどうかしら? 座って」
 勧められた席の、一番手近なカウンターチェアに手をかけながら、イタチさんの背後に並ぶ酒瓶を見回した。バックバーも扉同様木製で、三段の棚いっぱいに未知の品々が整列している。
「あの、ジュースとかってありますか?」
「あら。お酒、飲めないの?」
「はい。ちょっと苦手で」
「ま、あんた、見るからにアルコール弱そうだしな」
「残念ね、とびっきりの秘蔵酒ご馳走してあげたかったのに。でも大丈夫。こーんなお子様もいるくらいだから、ノンアルコールも沢山あるのよ」
 急に話に巻き込まれたヒミコ君は、眉間に皺を寄せて口を尖らせた。
「お子様言うな」
「さっきのお返しよ」
「じゃあノンアルコールで、イタチさんのおすすめ、頂けますか?」
「分かったわ。アレルギーとか、好き嫌いとかはある?」
「いえ、何でも平気です」
「なら、出て来てからのお楽しみね」
 爽やかに微笑んで背を向けるイタチさんに、あっと声をかける。大事な事を忘れていた。
「あの、私今日、アイズ持って来てないんですけど、このお店のお会計――」
「何言ってるの、モチロンご馳走するわ。こっちの都合で来てもらったんだし。さっき大笑いしちゃった無礼、これで許してね?」
 朗らかにウインクすると、イタチさんはカウンターの先、横長の店内のさらに横奥へと引っ込んだ。
 男性のウインク、いや、生のウインクというものを初めて見た様な気がする。でも、その整った顔立ちからか、この数分ですっかり慣れてしまったのか、違和感はまるで感じなかった。
「あんた、ほんと抜けてんだな」
 横からヒミコ君の盛大な溜息が聞こえる。
「え?」
「この店、普通に端末の電子マネーも使えるけどさ。イタチもオレも端末してないだろ? 現金使えるっつーの」
「あ、そう言えば」
 街中に溢れるアイズに日々触れていて、アイズをしていない自分に違和感すら感じていたというのに、この短時間でうっかり忘れていた。
「すっかり、アイズ無しに驚かなくなってた。そうだね、そういう人が入れるお店ってことは現金会計あるってことだもんね」
 カエデに連れて行ってもらう所のように電子マネーでしか会計のできない店には、アイズを持たない人間だけでは入店出来ない。会計を受け持つアイズから個人情報と残高を読み取られ、承認を受けないと敷地に入る事さえ許されないのだ。
「あ、そっか」
 あることに思い至り、今度は私が、ふふふと笑う。
「ヒミコ君の顔に見惚れ過ぎたからかな」
「は? 何それ」
 ヒミコ君の頬がさっと紅く染まる。そんな彼の様子に、純粋な可愛らしさを感じた。
「ずっと見てたせいで、だんだん特別感、薄れちゃって。珍しいアイズ無しの人だ、って意識しなくなってた」
 彼の口調や態度は、外で話した時とは別人のごとく豹変したが、やはり悪い子ではなさそうだった。
「不思議――」
 ゆっくり、カウンターの向こうに広がる棚に目を移す。
 酒瓶について、静かに思いを巡らせた。
 どんな店でも、瓶の色形やラベルの装丁は、アイズ越しには賑やかに凝って映る。アイズ未装着の私にはそれが、いつも単調で面白みの無いものに見えていた。流石にラベルが白紙という事は無かったが、製造管理番号しか印字されていないものを、何度か見かけたことがある。
 しかし、この店の棚に所狭しと並べられている品々は、実に色とりどりだった。まるでアイズを装着していると錯覚しそうだ。眺めるだけでも全く飽きそうになかった。
「あんたさ」
 声を掛けられ、我に返って横を向く。
「聞かないのな、色々」
 一瞬何を言われているのか分からなかったが、すぐに思い至る。確かにそうだ、ここに着くまで頭の中に浮かんでいた無数の疑問が、いつの間にか消し飛んでいた。
「うーん」
 また、どんな言葉を選択すればこの気持ちが伝わるのだろうと、ぼんやり考える。
 店内に漂う非日常的な空気に、雑念を薄められたような感覚、そしてどことなく感じる安心感。
「ヒミコ君は、ちゃんと話してくれる気がするから――かな?」
 にっこりと隣の少年に笑いかける。
 彼はすっと目を逸らし、呆れているとも哀しんでいるともつかない、複雑な表情をした。
「あんた、もうちょっと人を疑うとか、した方が良い」
 とても小さな声で、彼はぽつりと呟いた。

   弐幕:茶と蓬

「お待たせ」
 奥の扉が開いて、イタチさんが戻って来る。その手には何故か歪な形の容器と、白くて丸い小皿が乗っていた。
「どうぞ、召し上がれ」
 目の前に置かれたのは、どうやら温かい飲み物を入れた湯のみと、和皿に乗った団子のようだった。
 店名から考えれば的外れでは無いのだろうが、バーの雰囲気とのアンバランスさで、咄嗟に言葉が出なかった。
「イタチ、これ何だよ」
 固まっていた私の代わりに、ヒミコ君が鋭く指摘する。
「見れば分かるでしょ? 緑茶と蓬(よもぎ)団子よ」
 のほほんとした答えが返る。
「特別なお客様には、特別なおもてなしをしないと。あ、お団子はね、中につぶあんが入れてあるの。唇に触れるものは全部手作りよ」
「あ、ありがとうございます」
 そっと手を伸ばし、まず湯のみを手に取る。容器自体にかなり厚みがあり、ずっしりと重かった。
「もしかして、この湯のみも手作り、なんて――」 
 我ながら突飛な発想だと思ったが、また笑われるのを覚悟で口にする。
「あら、分かる?」
 嬉々とした表情で、イタチさんは頷いた。
「そうなの。アタシのお手製。何でも形からって言うでしょ? 緑茶には湯のみ。丈夫に出来てるけど、一点物だから落とさないでね」
 話しながら棚をくるりと見回した後、イタチさんはまたひょいと奥へ引っ込んでしまった。
「忙しいヤツ」
 ヒミコ君は興味の無さそうな声でそう言い、私の前にある皿から素早く団子を掠め取った。
「あ」
「ま、気にすんな」
 ヒミコ君の小さな口に、団子の一つが吸い込まれる。その小さな人差し指が、口元から離れるまでを見届ける。
 頭では分かっていたのだが、食事をする姿を見てやっと、彼がれっきとした人間なのだという確信を持った。彼との常識外れな出会い方、その幼いながら整った目鼻立ちに、人ならざるものを連想してしまった私は、やはり抜けているのかもしれない。

 手にしている湯のみに口を付け、ゆっくり緑茶をすすった。
 顔を近付けた時から、今まで飲んだことのある、どんな飲み物とも違う事に気付く。渋く、深く、複雑な風味が口の中いっぱいに広がった。
「美味しい」
 吐息と一緒に心の声が零れる。何とも情けない単純な感想だ。
 あらゆる事象に解説を加えられるシステムが売りのアイズリポートモードのように、この味を的確に表記出来ないことをもどかしく感じた。
「それ、茶摘みもちゃんと手でやってんだ」
「え、茶摘み? 手で?」
「そ、朝っぱらから駆り出されてさ。今時、でっかい竹カゴ背負って、手作業だぜ? 栽培工場じゃなくて、こーんな角度の山の茶畑」
 ヒミコ君が腕で、三十度を優に超える斜面を表現する。
「ちなみにその団子もさ、田んぼでもち米から作ってるし、蓬も半野生の摘みに行ったし。茶畑の裏、開拓せずに残してあるから。小豆は流石に買ったヤツだったかな。煮詰めたのはオレだけど」
 胸の奥がじんわりと熱くなって、瞳に水分が集まった。
「は、何で泣いてんの?」
「ううん、泣いてはないよ」
 目頭を両の人差し指で押さえる。
「ちょっと感動しちゃって」
「どこに感動するとこ、あったんだよ」
 淡白にそう言いながら、ヒミコ君は床まで届かない足をぶらぶらと揺らした。
「だって、凄いことだよ。何て言うか、うーん、上手く言えないんだけど――」
 込み上げて来るものを、どんな言葉で形にしようか迷った。
「人の手で触れて作り上げる、確かさ。生きてる実感って言うのかな。地に足が付いてる感じが素敵って言うか、――あー」
 胸の内でじたばたと足掻くが、ぴったりの単語が浮かばない。
「ん?」
 首を傾げながら、ヒミコ君は二つ目の団子を口に運んだ。
「矛盾してるんだけどね、こういう時、ちょっとアイズに嫉妬しちゃう」
「端末に嫉妬? 何で?」
「リポートモード使うと、すらすら言葉が出て来るから」
「リポートモード? ってあれか、辞書みたいな解説が流れるやつ」
「うん。あれって、こういう時なんて表現すれば良いかなって迷った時、結構便利で」
「使ってるんだ?」
「うん、たまに仕事で。言葉の意味だけじゃなくて事典みたいに出来事とかも調べられるけど、気持ちの変換機能もあるんだよね。自分の思っている事を言葉で表してくれる機能。表現も的確だし。アイズに頼るなんてって、悔しくもなるんだけど」
「あー、あれはまあ――」
 どんなにアイズを遠ざけて生活しようとも、その甘い蜜を知っていて、その恩恵に与っている私は、どこまでも中途半端だ。情けなさでまた少し、目頭が熱くなった。
「また泣いてる」
「泣いてはないんだけど」
「あんたのスイッチ、よく分かんねぇな」
 ヒミコ君は苦笑いをしながら、すっと私の目尻に浮かんだ涙を小指で掬った。まるで年上の男性に諭されているようなその仕草に、ほんの少し鼓動が早くなる。
「ま、あんたもやらされることになるよ、その内」
「ふふ、楽しそうだね」
「いや、楽しいとか感動とか、そういうこと言ってられなくなるぞ、あれは」
「このお店は、旧式農家と兼業でやってるの?」
 このご時世、栽培工場以外で農作物を育てる旧式農家はかなり珍しい。
「んー、どっから話せばいいかなあ。それはサブって言うか――おい、イタチ!」
 彼は椅子の座面に膝をついて身を乗り出し、カウンターに手をついて奥の扉をどんどんと乱暴に叩いた。扉は案外薄いらしく、向こうから不明瞭ではあるがイタチさんの声が聞こえる。
 その間に、先程のヒミコ君の真似をして指で団子を摘み上げ、口に放り込んだ。
「うん」
 団子の柔らかな噛み心地、蓬の芳醇な風味と、餡子の程良い甘さ――頬が緩む。
「はあ、やっぱり美味しい」
「ほんと美味そうに食うな」
「だって美味しいもん。手作りの違いなのかな? 最近何を食べても、美味しいとか思わなかったのに」
「あんたさ」
 少し沈んでいるように聞こえたヒミコ君の声に、思わず顔を上げる。
「ヒミコ君?」
「いや、あのさ――」
「はいはい、ヒミちゃんお待たせ」
 開きかけた彼の口から次の言葉が出るよりも早く、イタチさんが扉の向こうから現われた。手には、二つの縦長のグラスがある。
「はい、いつものね」
 店内の薄暗い照明では上手く見分けられないが、果物を絞ったジュースのようだった。イタチさんは一つをヒミコ君の前に、一つを手に持ったままこちらを向く。
「色々と教えてあげたいことがあるのよ。ホント山のようにね」
「はい」
 居住まいを正し、真っ直ぐにイタチさんの顔を見る。
「まず、アタシがこの店のマスターで、この子がここの居候って言うのは、もう良いわね?」
 居候は初耳だったが、話の腰を折らないようにと頷く。
「で、アタシたちは同じ趣味を持った仲間同士、ここを拠点にして活動しているの。そこに、ええっと――」
 イタチさんは私の方を掌で指し示して、何かを思い出そうするかのように目を泳がせた。そう言えば、まだ名乗っていなかった事を思い出す。
「私の名前ですか?」
「ええ、そう、何て言ったかしらね――」
「あ、えっと。それじゃあ、ヨモギにします」
「は? ヨモギ?」
 隣から、ヒミコ君の抗議の色を帯びた声が上がる。
「ああ、そう言えば、まだ名前聞いていなかったんだったわね。ヨモギちゃん。いいわ、あなたにぴったり」
 蓬が似合う女というのは、一体どんな人物だろう。自ら採択しておきながら、いざぴったりだと言われると複雑な気分だったが、これで漸く二人の会話に混ざる事が出来る気がした。
「ええっと、どこまで話したかしら」
「同じ趣味の方で集まっているって――」
「そうそう。それで、そこにあなたも、ヨモギちゃんも是非、加わってもらいたいと思って。ヒミちゃんに様子を見に行ってもらってたの」
「それで何度も見かけて――」
「そういうこと」
 ごくりと喉を鳴らすように、ヒミコ君はジュースを一口飲んだ。
「オレはあんたの、ファンでもストーカーでもないからな」
 口元を拭いながら、彼は溜息を吐いた。
「オレ以外のヤツはさあ、キャラ濃いおかまだの、根暗コミュ障だの、怪しいおっさんだので、偵察には向かなかったからな」
 列挙された人々の内、最初の一名は何となく察しが付いたが黙っていた。
 失礼な話ではあるが、ヒミコ君以外の方が度々視界に現われていたら、何かしら身の危険を感じたかもしれない。確実に、一杯どうかと言われて、付いて来たりはしなかっただろう。
「私はこちらの皆さんの、御眼鏡に適ったって事ですか?」
「言い方は悪いかもしれないけれど、そういう事になるわね。あなたなら信用が置ける、ヒミちゃんの報告からそう判断したの」
 何だろう。果たして私のどこを見て、そう思ってくれたのだろうか。ヒミコ君の目に、私はどんな風に映ったのだろう。
「見ての通り、アタシもヒミちゃんも、端末をしていない。そしてヨモギちゃんも。ここがまず、分かりやすい一つ目の共通点ね」
 イタチさんは慎重に言葉を選びながら話しているようだった。
「アタシも全く使わないって訳には行かないんだけど、なるべくなら端末無しの生活をしたいって、そう思ってるの」
 その考えには心から共感できた。
「そしてね、もう一つの共通点は、過去にとても悲しい経験をしているという事」
「悲しい、経験――」
 この店へ向かう道中で少年に打ち明けたばかりの、苦しい記憶が甦る。顔の筋肉が強張った。
「その様子だと、直ぐに思い付いたみたいね」
 眉を下げて、イタチさんは力なく微笑んだ。
「過去の辛い思いを蒸し返すようで、本当にごめんなさい。――アタシたちはね、同じように大切な家族を失っている。ある日、忽然と姿を消す形で」
 店内に張り詰めたような沈黙が流れる中、イタチさんはグラスを煽った。

 あれ、と頭の中で考えが弾ける。何かが可笑しい、そう咄嗟に思った。でも、その何かが分からない。
「あんた、父親は居るんだろ? 母親が居なくなった時の事、何て聞いてる?」
「私――」
 居なくなった時? 忽然と姿を消す? そう言えば、この店に入る直前、少年が気になる事を言っていた。多くの人間が社会から消えたと――
「どうした?」
 ヒミコ君が首を捻って、私の顔を覗き込む。
 手が、震えた。
「そ、そんな――」
 背筋を一気に、冷たい感覚が伝う。カチカチと奥歯が音を立てた。
「わ、わた、し――」
 左肘の辺りの服が、くいと引かれるのを感じた。斜め下に視線を送ると、ヒミコ君の広げた右手がそこにあって、私の左手を呼んでいた。
 何時の間にか膝の上で堅く組んでいた両手を、ゆっくり解く。彼の右手に私の左手をそっと置いた。
 ヒミコ君は素知らぬ顔をして、正面を向いていた。繋いだ手をカウンターの下に隠すようにしながら、彼は空いた方の手で頬杖をついた。

   参幕:のっぺらぼう

「私、てっきり、お母さんは、死んじゃったって――」
 混乱する思考回路を何とか宥めて、やっと絞り出した言葉はそれだけだった。
 その可能性について、一度も考えなかった自分の浅はかさと冷淡さに戦慄した。何故、決めつけたんだろう。母の遺体は見ていない。埋葬した場所も聞いていない。それならば死んだのではなく、ただ自宅から居なくなったと考えるのが自然ではないか。
 店内のどこかから、さっきまでは聞こえなかった、ジーッという小さな音がした。一度気にしてしまうと、耳の奥が疼くような妙な電子音が、延々と鳴り続けている。

「息、ちゃんとしろよ」
 肩が揺れて、はっと我に返った。ヒミコ君が繋いだ手を軽く引っ張ったようだった。
「ほら、深呼吸」
 言われた通りに大きく息を吸う。店内に漂う優しい香りが肺に溜まり、鼓動の速さが緩んだ。
「平気か? 話すの、また今度でも良いし、今日はもう」
「ううん、大丈夫。ちょっと混乱しちゃって。急に、すみません」
 湯のみに残っていた緑茶で、少し唇を湿らせる。
「その様子からすると、ヨモギちゃんは、お母様が“亡くなった”と、ずっと思ってたのね」
「はい――」
 イタチさんは両手をカウンターにつき、目を閉じて細く息を吐いた。溜息というよりは、精神を落ち着かせるための動作のようだった。
「ヨモギちゃん、幾つか、聞かせて欲しいことがあるの」
 少し長めの前髪が、ふわりとイタチさんの右目部分に影を落とす。
「もちろん、強制はしないわ。答えたくない事は、そう言ってくれていいから」
「はい」
 向けられたイタチさんの視線からは感情が読み取れず、私は息を呑んだ。
「ちょっと、変なコト聞くわよ? まず、ヨモギちゃんのお母様が居なくなったのは、十二年前で合ってるかしら」
「――はい」
 十二年前の夏だ。頭の中のカレンダーが時を遡る。そして、私がその事実に気付くのは、一年半後の三月だった。
 何故、この人は母の“失踪”の年を知っているのだろう。
「“その日”がいつかは、正確には分からないわよね」
「夏の終わり、としか」
 あの日について何か、私の知らない情報が、知るべき真実が存在している。
「ごめんなさいね」
 私の意気消沈した反応に、イタチさんが慌てて手を振った。
「アタシの顔って、そんなに怖いかしら。責めるつもりじゃ全然ないのよ? その頃だと、ヨモギちゃんは、まだ中学生くらいかしらね」
「中学、二年でした」
「そう。お母様を失ったことには変わりないもの。その位の歳じゃ、その事実を受け止めるのだけでも、大変だったでしょう?」
「でも私、母のこと、ちゃんと確かめもせずに、自分の中で、終わったことに――」
「家族である自分が、心の中で、大切な人を殺してしまったって、そう思ったのね」
 辛い事実に力なく頷く。
「ヨモギちゃん」
 イタチさんは語気を強めた。
「アタシの言葉なんて、気休めにもなんないかもしれないけど。自分を責めちゃダメよ、絶対ダメ」
 唇がわななく。力を込めて涙を堪えた。
「大人は大抵ズルイ生き物なの。だから、物事を真っ直ぐ見ないで、穿った見方をしたりする。疑ったり、裏を読んだりね。アタシが気付いたのは、そんな汚い理由から。だから、そんなものに染まらなかった過去は、本来なら貴重な財産なのよ。それなら」
「イタチ」
 熱の籠った話の勢いを削ぐ様に、ぼそりとヒミコ君が口を挟んだ。
「あら、ごめんなさい。余計な話まで挟んじゃったわね。今のはあんまり気にしないで。いやねぇ、年を取ると説教じみちゃって」
 ほとんど空になっているグラスに、イタチさんは口を付けた。
「ヨモギちゃんはお父様がいらしたんだったわね。お父様からは?」
「いえ、詳しい話は、何も」
 共に食卓についていたのが人形だと知らされた夜、父は母が死んだとも、家を出て行ったとも言わなかった。ただ静かに、一年半前の夏の終わりから、食事を作っていたのは叔母だ、ということだけ告げられた。
 夫婦仲も親子の関係も悪くはなかったはずだ。本当に何の変哲もない一般的な家庭だった。だから、母が出て行ったとは微塵も考えなかった。子どもの私が頭に取り込んだのは、母の死という嘘っぱちだった。

「お母様が居なくなった後、代わりに、お家に増えたもの、あったでしょ?」
「え」
 質問する口調が少し尖ったように感じ、イタチさんの顔を見る。
「人間の子どもくらいある人形」
 急に悪寒が走った。記憶の中の、あの人形の姿が鮮明になり、息が苦しくなる。
「顔の部分に凹凸のない、のっぺらぼうの人形が」
「――はい」
「その人形、その後どうしたの?」
「父が、仕舞って」
「なら、まだ残してあるわね」
「はい、実家に、たぶん」
「どこかに、遺影と位牌も飾ってあったかしら」
「遺影?」
「あなたが死を連想したのは、きっとそれのせいね。今時珍しい、光沢紙に印刷された写真の」
「そう言えば、紙の写真が一枚、リビングに。微笑んだ母の顔の」
「位牌はどう? あー、正確には、位牌とはちょっと違うんだけれど。名前が彫ってあるブロックみたいな」
「黒い、このくらいの大きさの、ですか?」
 右手の人差指と親指を広げてイタチさんに示す。
「そう、そうよ。なら、やっぱり思った通りね」
 一体今、何について会話していて、何を自分が知らないのかさえ、全く分からなかった。
 ただ一人、大切なものから取り残されているような惨めさが全身を膜のように覆う。
「気にすんな」
 小さな声でヒミコ君が言う。
「いずれちゃんと話す。だから今は、あんまり根詰めんな」
「そ」
「皆そうなのよ」
 口を開きかけた私を無視して、悔しげな表情をしたイタチさんが、ほとんど独り事のように続ける。
「同じ境遇の家にはね、居なくなった人物の遺影と位牌、そしてあの大きな人形がある。大切な人と、誰かが取り替えたのよ」
 この社会から消え去ってしまった、多くの人間が、過去にとても悲しい経験、同じ境遇の家、取り替えた――?
「誰か?」
 薄く微笑む写真の母、黒い手のひらサイズのブロック、金色に輝く母の名、そして顔の無い子どもの人形――
「この失踪はね、本人の意思では決して無い。前触れなんてもちろん無い、まるで」
 イタチさんは声を低めた。
「神隠し」
 はっとした。
 居ても立っても居られない気持ちになり、勢い良くヒミコ君の顔を見る。
 彼は黙ったまま、所在無げに頬杖をついていた。その横顔は、ひどく大人びて見えた。

「お茶、冷めちゃったわね」
 振り返ると、さっきまでの深刻さが嘘のように柔らかな雰囲気のイタチさんが微笑んだ。
「もう一杯どうかしら? 淹れ直して来るわ」
 イタチさんは湯のみを持って奥の扉へ消えた。脳の情報処理よりも、心の追い付かない私に配慮してくれたのだろう。
 手を繋いだままのヒミコ君との間には、沈黙が流れた。
 ちっぽけな自分を、もう一人の自分が俯瞰しているような、奇妙な感覚がした。つい、独り言が声に出る。
「私、どうして考えなかったんだろう」
 母が生きていると、どこかで待っていると、何故信じて直ぐに探さなかったのか。何もしなかった十二年の歳月の重さに、胸が潰れる。
「手後れ、以外の選択肢をか?」
「――うん」
「あんたさ、自分の事、薄情者だとか思ってんなら、それ、違うから」
「え」
「オレにはイタチが居たからさ。あいつが気付かなかったら、多分オレもあんたと一緒だった」
 ヒミコ君はまるで他人事のようにそう言った。
「イタチ、オレの母さんと友達でさ。居なくなったその日に、何か可笑しいって気付いてさ。イタチの親父さんも前に失踪してて、それで」
 隣で淡々と真実を告げる彼から、目が離せなくなった。
「ヒミコ君も、お母さんを――?」
「うん」
 ああ、この子は哀しみも怒りもとうに通り越しているのだ。溢れ出す想いをそっと切り離して、そうしていないときっと、立っていられないくらい深く傷付いている。
 途端に彼を抱き締めたくてたまらなくなったが、唇を噛んで思い留まった。この子に、そんな半端な慰めは寧ろ失礼だと思った。
「でも、探す手立ては、ある」
「それって――」
「まだ手探りだけど、道が見つかりそうなんだ」
 そうか、と思い至った。
「だからあの時、お母さんにもう一度会いたいかって」
 ヒミコ君とイタチさんと私。三人の、大切な家族を失った者たちが、同じ店“黄泉比良坂”に会している。

   肆幕:卑弥呼

「はい、どうぞ」
 戻って来たイタチさんの右手には可愛らしいピンク色のティーポット、左手には幾何模様の入った二つのティーカップがあった。そのポットから例の湯のみへ注がれる緑茶で、白く湯気が上がる。
「それ。いい加減、急須に揃えろよ」
「良いじゃないの。この方が、紅茶淹れる時にも使えるでしょ?」
 イタチさんはカップにも同様に緑茶を並々と注いだ。
「何でも形から、じゃないのかよ」
「そこはまあ、臨機応変よ。大人のタ・シ・ナ・ミ」
 すらりとした人差し指を左右に振り、イタチさんは唇を尖らせた。ヒミコ君は眉間に皺を寄せて溜息を吐く。
「こいつ、口ばっかで、結構いい加減な性格なんだ」
「ヒミちゃんはねぇ。ちょっとおマセさんで、ひねくれちゃってるけど、根は良い子よ」
 お互いに睨みを利かせる二人はまるで、幼い兄弟のようだ。
 思わず、ふっと吹き出すように笑ってしまった。それを見て、イタチさんが目尻を下げる。
「うん、素敵。女の子はね、やっぱり笑ってる時が一番輝くの」
「イタチ、何だよ、その臭い台詞」
「私、もう女の子って歳でも無いんですけど」
「いいのよ。アタシより若いんだから、ジューブン女の子!」
「イタチが二十歳若返っても、危ないオッサンに変わりねぇけどな」
「ちょっと、ヒミちゃん!」
 テンポ良く交わされる言葉が小気味良い。
「あーあ、また変な名前のやつ増えんな。何で、思い付きで決めるかなー」
「ヨモギって変かな? そういうヒミコ君だって、随分変わった名前だと思うけど」
「そりゃそーだ。何てったって、日本で一番すげー人の名前だから」
 ヒミコ君は無邪気に笑った後、ほんの少し何かを思い描くように遠い目をした。
「え?」
「この子、ヒミコって名前、相当気に入ってるのよ。前に、このコの母親に貸してもらった紙の小説が家にあってね。そこから採ったの」
「小説――もしかして、夢幻泡影(むげんほうよう)シリーズとか」
「そう! それよ。ヨモギちゃんも読んだことあるの?」
「はい、高校生の時に」
「あら、まさかあんな古い作品で、同じの読んでるコが居るなんて。運命感じちゃうわ」
 本日二度目のウインクが、イタチさんの左目からばっちりと繰り出される。
 高校時代、紙の書物を読むのに夢中になっていた時期があった。
 私の入学当時、既に高校には図書室が無かった。学習資料の閲覧も趣味の読書も、アイズ一つで賄えたからだ。だがある時、処分し忘れられた小説が倉庫に幾らか仕舞われていたのを運よく見つけた。歴史上の人物をモチーフにしたシリーズ小説、夢幻泡影は、その一番奥に眠っていた段ボール箱から掘り出したものだ。その中の一冊に、確か卑弥呼の巻があった。
「ヒミちゃんもその小説読んだのよ。そしたらね、歴史上の偉人で力比べしたら、ヒミコは一番強いとか言い出して」
「だって、最強だろ」
 朧げな記憶だが、物語の卑弥呼は異能力者として描かれていた。女王として巫女として、国の未来を占いによって導き、天候を自在に操る術を心得ていた。そして彼女が死んだ際には天変地異が起こり、それを鎮めるために、大勢の者が卑弥呼の遺体と共に生きたまま埋め立てられた。その埋葬シーンはかなり衝撃的で、その部分だけ鮮明なイメージが脳裏に焼き付いている。
 大昔は教科書に掲載されていた人物だが、実在しないと立証されたためか削除になったと聞いた。卑弥呼に関して、小説以上の知識は持ち合わせていない。
「最強、かあ」
 内容は勿論フィクションだろうが、本当に未来を予見したり、天候を自由に変えられる人物がいたなら、ある意味最強と言えなくもない。
「雪も、降らせられたかな――」
 もし、雪を降らせられるのなら――

「話が逸れちゃったわね」
 イタチさんは笑って、ティーカップを手に取った。
「色々変な質問したせいで、嫌な思いさせちゃって。ごめんなさいね」
「いえ、そんな」
「辛い時はね、辛いって言って良いのよ。アタシたちはね、悲しくて辛い過去を背負ってる。そしてそれでも、前を向いて歩んで行かなくちゃいけない」
 一口緑茶を飲み、イタチさんはそっとカップを置いた。
「でもね、そのために、自分独りだけで踏ん張る必要なんてないの」
 彼の瞳に、私の顔が映り込んでいる。
「支え合って、手を取り合ってで良い。それで笑顔になれるなら、多少のカッコ悪さは脳内処理しちゃいましょ? 頑張れたとこだけ取り出して、都合良く解釈しちゃえばジョーデキよ」
 その全てを包み込むようにゆったりとした微笑みは、温かく私の心を撫でた。
「他にも、そういう連中がここには集まってるわ。ヨモギちゃん、これは本当に、アタシ達の我がままなお願いなの。良かったら、ここのメンバーになってくれないかしら」
 懇願するような口調で、イタチさんは目を細めた。
「たまに顔を出して、楽しくおしゃべりする、それだけでも歓迎するわ」
「あの、私」
 考え込む時間は必要無かった。まるで呼吸をするようにすんなりと言葉が出る。
「また来たいです! 寧ろこちらからお願いします。是非、メンバーに加えて下さい」
「うふ、そんな風に言ってもらえて嬉しいわ」
 悲しみを共有できる仲間が増える。私の知らない世界の果てにも、仲間と一緒なら辿りつけるのかもしれない。心強さと同時によぎった一抹の不安は胸の奥にそっと仕舞い込み、自らを鼓舞するように頷く。
「ま、交渉成立みたいだな」
 悪巧みをするような顔で、ヒミコ君がニヤリと笑った。
「交渉って何よ。全く、飛び上がっちゃうくらい嬉しいくせに。ヒミちゃんはホント、素直じゃないんだから」
「は? 何でそうなるんだよ」
「あら、じゃあ嬉しくないの?」
「逆に、こんなぼさっとしたヤツの世話しなくちゃと思うと、憂鬱なくらいだ」
「あーら、そう」
 含みを持たせるように頷きながら、イタチさんは口の端を持ち上げた。
「ヒミちゃんのその右手も、憂鬱なお世話の一環なのかしら」
「は?」「え?」
 二人同時に気の抜けた声が漏れる。
「お返事までキレイにシンクロしちゃって。このアタシが気付いてないとでも思ってたの? 全く二人して抜けてるんだから。見てるこっちが恥ずかしくなっちゃうわ」
 イタチさんは口元を手の甲で押さえながら、声を上げて笑った。
 顔が一気に熱くなり、火照る頬を右手で扇ぐ。ヒミコ君の方を向く事は出来なかった。
 随分長くそうしていて慣れたと思っていた手の繋がりも、意識してしまうと途端に指先に力を入れられなくなる。小学生くらいの子どもと手を繋いで、照れている大人なんて何とも情けない。しかし、彼の方に慌てる素振りはなかった。

 その日は、それ以上踏み込んだ話はせずに帰宅する事になった。きっとイタチさんの心遣いだったのだろう。
 席を立とうとした瞬間、左手が久しぶりに自由になったのが分かった。ヒミコ君は何か話したい様子だったが、両手を頭の後ろで組んで黙ったままだった。
「ごちそうさまでした。お茶もお団子も、すごく美味しかったです」
「次にヨモギちゃんが来る時は、もっと美味しいもの、用意しておくわね」
「はい。楽しみにしてます」
 母にまつわる情報が真実であれ、小さな可能性であれ、私の世界は最初にこの店の扉を潜った時とは大きく様変わりしていた。
 この店は、一体誰が名付けたのだろう。“黄泉比良坂”、VRに侵されない、日常とは全く違う香りのする店。うっかり何十年も過去へタイムスリップして来たような、異質な空間――

 店名の入ったマットレスの上に立ち、出入り口の取っ手に手を伸ばす。
「あのさ」
 漸く口を開いたヒミコ君の声に反応し、振り返る。彼は、こちらへ目を合わせようとはしなかった。
「オレ、ちょっと外は面倒だから、ここであれだけど」
「うん」
 少し言いにくそうにしてから、彼は言葉を選ぶように口にした。
「あんた、聞きたいことはさ、どんどん聞いた方が良い」
「うん?」
「聞きたいこと、聞かないとか。言いたいこと言わないとか。それって、なんかずっとモヤモヤしっぱなしだし。その、時期とか、順番とかも大事っていうか――」
「うん」
「だから、その――何かあったら直ぐ言えよ」
 優しさへの嬉しさからか、ほんの少し気障な口説き文句への恥ずかしさからか、また顔が熱い。彼のぶっきらぼうで真剣な申し出は、まさに男の子といった感じだ。
「うん、分かった。ありがとう」
 頷きながら一つ気になっていたことを、じゃあと切り出す。
「まずは名前、呼んでもらおうかな」
「は?」
「私の名前、まだヒミコ君からは呼んでもらってないよ」
 呆けたように口をパクパクとさせた後、ヒミコ君はこちらを向いた。
「あんたさあ! あーもう、オレ、結構真面目に言ってんだけど。ほんと呑気過ぎ」
「うふふふ。もう、ヒミちゃんたら。それくらいさらっと呼んであげなさいよ、男でしょ!」
 イタチさんがその小さな背中をばんと叩き、つんのめるようにしてヒミコ君はよろける。
「叩くなよ、イタチ」
 ヒミコ君は前髪を右手で掻き上げ、左手を腰に当て、大袈裟に溜息を吐いた。
「しょうがねぇな。オレの言いたいこと、そういう事じゃねぇんだけど――じゃあな、ヨモギ」
「うん。またね、ヒミコ君」
 胸の前で小さく手を振り、扉へ向き直る。
 振り向きざま、ヒミコ君のすぐ後ろにあったクリスタルの女性がこちらをじっと見ているように錯覚した。これも尋ねた方が良いことの一つに入るのだろうか。

 カラン。
 鐘の音が、非日常に区切りを付けるように、高らかに鳴った。
 店内のどこかから響いて来る、ジーッという異音が背後に遠ざかる。
「今日は、ありがとうございました」
 一礼して、木製の重厚な扉から手を離した。

   __CALLING

<FROM eyes認証ユーザー Rise_MIKAGE_368K5521d4>
<TO eyes認証ユーザー Kaede_SAGARA_341G6772w6>

__ON

「あ、カエデ、ごめん。今、時間平気?」
「うん、平気だけど、どうしたの!? 大丈夫!?」
「え、大丈夫だよ?」
「リセがコール掛けて来るなんて、珍しいからさー。何かあったのかと思って。心臓飛び出るかと思ったー」
「え、驚かせてごめん。何かちょっと、珍しい事してみたい気分だったから」
「何それ」
「ふふ」
「部屋、用意する?」
「ううん、音声だけで良いよ。私、自分のアバター、仕事用のしか作ってないし」
「ほんと、リセはズボラなんだから」
「あはは」
「で? 学校出てから初使用でしょ、アイズコール。それ程の事件って?」
「え、卒業してから使ってなかったっけ、私」
「うん、あれから初めて」
「そっかー。あ、じゃあ、大学の卒業旅行の時のが最後かな?」
「そ。あれからもう三年以上、リセからコール来たことありませんよー」
「あー、そんなにかぁ」
「で?」
「あ、そう、それがね。カエデにはいち早く教えたくて。今日ね、あの後、例の少年と話したの!」
「例の少年?」
「前に話した子、覚えてる?」
「ああ、あの、リセにしか見えないっていうストーカー少年?」
「そう! あ、だけど違う!」
「ははっ。ちょっと何、どっち?」
「ふふふ、ごめん。前に話してた少年っていうのは合ってるんだけど、ちゃんと普通に存在してたの。勘違いとか、幽霊とかじゃなかった」
「行く先々に現れるストーカーってのは?」
「それは――、半分正解? かもしれないけど」
「はははっ、何それ本当?」
「ほんとだって」
「会ったこと全部、リセの妄想とかだったら、流石のあたしでも引くよ?」
「そんなことないもん。ちゃんと手繋いだ時、感触あったし、すっごいあったかかったし」
「何? 手繋いだ? 何でいきなり、そんなことになってんの?」
「それはうーん、話すとちょっと長くなるんだけど」
「えー、気になる。なら、次のランチの時のツマミは、リセの妄想話で決まりだね」
「だから、妄想じゃないって」
「はははっ」
「その子に、素敵なバーも紹介してもらってね」
「え、子どもにバー?」
「あー、その子の、知り合い? の人がマスターさんで」
「へー、何て店?」
「あ」
「どうしたの?」
「これって、言っちゃいけない事だったのかも」
「何それー」
「うーんと」
「ん?」
「カエデ、誰にも言わない?」
「あたしは言わないけど。大丈夫? 何か、話しにくい事だったら」
「ううん。そんな深刻な話じゃないんだけど、うん。お店の名前ね、“黄泉比良坂”って言うの」
「ヨモツヒラサカ? あ、黄泉比良坂か」
「うん、U市の駅から、そんな遠く無いとこ」
「聞いた事無いなー。U市はよく行くのに。黄泉比良坂、あれだよね、死んだ人の世界との境目? みたいな」
「うん」
「確かリセ、前に仕事で取材してたよね、現物。あたし、記事見せてもらった気がする」
「――うん」
「リセ?」
「ううん、ごめん。今度、カエデにも紹介するよ。あ、でも、勝手に友達連れてったりしたらダメなのかな?」
「ちょっとー。やっぱり妄想なんじゃ」
「違うよー」
「はははっ」
「一見さんお断り、みたいなとこで。今度、マスターさんに会ったら聞いてみる」
「はいはい。楽しみにしております」
「あー、やっぱり信じて無いでしょ、カエデ。絶対連れて行って、私の妄想じゃないって、証明するんだから」
「そんなこと言ってー、訂正するなら今の内――」
「カエデ?」
「あ、ごめん。仕事先からかな? コール入った。切るね」
「うん」
「また近い内に連絡する。次のランチの計画立てよ。じゃね」
「うん、じゃあね」

__OFF

   __TALKING

認証ユーザー ITACHI_Yomotsuhirasaka
認証ユーザー _Yomotsuhirasaka

__CONTINUE

「あの子、ちゃんと駅まで戻れたかしら。回り道、ちゃんとして来たんでしょ?」
「うん」
「あら、随分暗い顔してるわねぇ」
「別に」
「なあに? ヨモギちゃんを仲間にって、あんなに推してたの、ヒミちゃんじゃない」
「だから別に、そんなんじゃないって」
「近くで見たら結構美人で、ドキドキしちゃった?」
「――」
「それとも、予想してたより純粋そうな子で、気が引けちゃった? ふふ、神妙な顔で、眉間に皺なんか作っちゃって。男前が台無しよ?」
「――」
「おらおら、元気出しやー」
「ちょ、イタチ。頭はやめろよ!」
「しゃーないやろ? 利用してんとちゃうねん。あの子が、ちゃんと聞きもせんで、ほいほい付いて来たっちゅーだけのこっちゃ。そんであんな」
「だから、やめろって、髪ぐっしゃになる。それに言い方! キャラ崩れてんぞ」
「あらあら、ごめんなさいな。ちいーと休憩や」
「あのなあ、普段からちゃんとやってないと、咄嗟に出るぞ、それ」
「はははっ。ヒミちゃんかて、内と外使い分けとるやろ? おんなじよーなもんやよ」
「オレのと一緒にすんな。ったく、あいつの前でやらかすなよ。お前、大事なとこでそそっかしいから」
「ヒミちゃんの、だいじーなお姫さんやもんな? ヨモギちゃん」
「誰が」
「はははっ。手なんか繋いで。後でモッチーに怒られんで?」
「別にログ消すんじゃねぇんだから、そんくらい良いだろ」
「ほんま過保護やなー。やっぱし惚れたんやろ、ヨモギちゃんに」
「勝手に言ってろ」
「もう、後戻りは出来へんよ?」
「後悔はしてねぇよ。ただちょっと、この先の事とか色々考えてただけ」
「ほんまにー?」
「――」
「ま、これ以上いじめんのは止めときますか。――んーと」
「おい」
「んー? 何?」
「探してもねぇぞ。タバコ、止めたんだろ?」
「あー、せやった。道理で胸の辺り、すーすーする思てたんや」
「なあ、イタチ、どうした? 変だぞ、お前。もしかして」
「いやいや、心配いらんよ。ちいーと疲れただけや。頭ん中、ごっちゃになってな」
「後ここ、オレ片づけておくから、お前は帰って休めよ」
「んー、せやな。今日のとこはヒミちゃんに甘えて。帰ってとりあえず一本」
「タバコは禁止な」
「へーいへい。ま、ちいーと休めば、――はぁ。ちょっと休めば平気よ」
「うん」
「ごめんなさいね。明日またゆっくり話しましょ」
「――うん。じゃ」
[バタン](__扉B開閉音一致)
「はぁ。――おい、テフ。どうせ聞こえてんだろ。さっきの、分かってるよな? あと、今の会話、女が帰った後からの部分、ログ残すなよ」

__DELETE

第二章 

   壱幕:骨董品
   弐幕:白兎
   参幕:銀鳩
   肆幕:氷菓子
   伍幕:

   壱幕:骨董品

「遅いな――」
 約束をしたカフェで、一人、カエデが来るのを待っていた。
 気象管理センターの発表する今日のU市の天気は「レベルEの晴れ」、青一色で塗り潰したような快晴だ。
 もう三十分以上、この場所から駅の方角を眺めているが、カエデは未だに現われない。連絡を取ろうと何度かアイズでコールを掛けているが、反応も無い。遅刻癖のある私をいつも笑って出迎えてくれていた、カエデの真黒なシルエットを探し続ける。
 今朝聞いたカエデの声が、脳内で繰り返し再生されていた。

 普段通り朝はゆっくり八時に起床し、身支度を整えてから朝食にした。使用済みの皿を食器洗い機に入れ、立ち上がったついでにと、木製のキャビネットからアイズを取り出した。
 今月は丸々休職期間に当たるが、休み中稀に職場から連絡が入っていることがある。確認すると、アイズの右レンズ上部に赤い点灯があり、着信があったのだと見て取れた。
「急な取材か、こないだの企画書のダメ出しかなー」
 アイズのレンズ越しに、嘘っぱちの世界が現れる。装飾など微塵も施していない、在りのままに近い自身の手足が見えた。現実世界と同じ配色、同じ配置の視界の右上部に、ふよふよと複数のアイコンが浮かんでいる。その中の一つ、点滅している水色の三角形に触れた。
 それは、映像の付いていない音声データで、開くと同時に聞き慣れた声が流れた。
「リセ? ごめん――」
「カエデ?」
「急で、悪いんだけど、今日のお昼、会えないかな? どうしても、早く伝えなきゃ、いけない事があって。例の、U市の、バー? お店の事、黄泉比良坂か。直接じゃなきゃ、話せないの。いつもの、あのカフェ、午前十一時に――」
 珍しく不明瞭な音声だった。アイズの調子が悪いのだろうか。碌にメンテナンスをしていなかったのが祟ったかもしれない。最後の部分に一際大きな雑音が入り、話している途中で再生が切れてしまった。
「午前十一時?」
 左手の甲に表示されている時刻を確認すると、午前九時半を過ぎている。家から駅まで徒歩二十分、U市までは地下鉄で四十分程掛かる。
「直接じゃなきゃ話せない、緊急の話――?」
 胸騒ぎに背中を押されるように、私は急いで家を飛び出した。

 駅の特別発券機と特別改札口を横目に、乗車ゲートを駆け抜けた。
 いつもは発券機に現金を入れて臨時ICカードを発行し、いかにも特別に設えられた改札を通る。アイズに不具合が出てしまった人や、眼球に何らかの支障があってアイズを掛けられない場合を想定して作られた設備だ。電車に乗るための通過儀礼を経ずに駅舎内に足を踏み入れるのは、何だかこそばゆかった。
 丁度発車する地下鉄に気付き、全速力で滑り込む。久々に走ったせいか、脇腹がきりきりと痛くなった。
「これは、アイズ、様々、かあ」
 常日頃のように改札を通っていたのでは、この便には間に合わなかっただろう。
 ドアが閉まるのと同時に、乗り込んだ駅名の文字が視界の左下で跳ねた。これで乗車の手続きは完了、降車する際に自動で、アイズに登録された口座から料金が支払われるはずだ。
 手近な席に着き、息を整える。気持ちを落ち着かせながら、カエデにコールを入れた。だが彼女からの反応は無かった。
 頭の中で色々な考えが纏まりなく渦を巻く。
 黄泉比良坂に関する話とは何だろう。昨日口にした事で鮮明に蘇った、母を失った時の震えがまた込み上げて来る。ヒミコ君やイタチさんの家族の失踪について知った時の衝撃が、不安を掻き立てた。

 カフェは思いの外賑わっていた。辺りを見回したが、カエデの姿は無い。時刻は午前十時三十九分、約束の時間まではまだ時間があったが、嫌な予感ばかりして気が気ではなかった。
 見晴らしの良さそうなカフェのテラス席を選び、とりあえずコーヒーを注文する。
 昨日裸眼で見た時には、周囲の擦り減った白い樹脂製だったイスとテーブルは、青銅色に輝くお洒落な作りをしていた。テーブルには赤のチェック模様のクロスが敷かれている。バラの刺繍が鮮やかに映えていたが、そっと触れた指先に、凹凸の感触は無かった。
「せめて、クロスくらい本物も敷かないと」
 独り事をわざと大きく声にした。
「やっぱり、うん、そうだよね。食事は実際に摂取しているんだから。クロスは必要物でしょ」
 カエデと母を重ねないように、外では話せないと言ったヒミコ君の台詞と、直接でなければ話せないと言ったカエデの言葉に、共通点を見出さないように、必死で別の事を考える。
「アイズしてこのカフェ来るの、何年ぶりかな」
 アイズ越しの新鮮な景色を見た。街は“不備の無い綺麗なもの”で覆われている。それが堪らなく恐ろしかった。
「――神隠し」
 少なくとも今、私は三人の失踪を知っている。黄泉比良坂には他にも、共通点を持ったメンバーが集まっていると言っていた。ヒミコ君は、多くの人間が社会から消えたとも言った。この状況で、待ち合わせに遅れている友人と失踪を結び付けてしまうのは、浅はかなことだろうか。
 
 今朝聞いたカエデの音声データが、雑音と混じり合いながら思考を巡った。
 時刻は午前十一時二十分を回っていた。
「あ、そうか!」
 もしや私の方が、待ち合わせの場所を間違えているのかもしれない。微かな希望を見つけ、ほっと胸を撫で下ろした。カエデが約束を破ったことは一度も無いし、今朝は慌てていたから私がメッセージ内容を勘違いしたのだろう。何だ、きっとそうに違いない。
 もう一度カエデからのデータを確かめるため、右上のアイコンに手を伸ばす。刹那、後ろでカチャッという小さな音がした。
「振り向かない方が良いだろうね」
「え?」
 後頭部に何かを押し当てられている感覚があった。
「僕は骨董品に目が無くてね。拘りの強い性格なのだよ」
 落ち着いた渋めの男性の声だった。日の光は真後ろから差しているはずだが、目の前の机上には自分の影しか見当たらない。
「これも僕の骨董コレクションの一つでね、手に入れるために随分苦労をした。何せ分母がまず少ないからね」
「あの」
 こちらの事情はお構い無しといった風に、男性は流れるように話し続けていた。何が何だか分からず振り返ろうとする頭を、ぐっと押さえ付けられる。
「だから、さっきも言っただろう。君の耳は節穴かい? 振り向かない方が良いと、親切に忠告したんだ。僕がこのコレクションの引き金を引いてしまうと、もう君と会話出来なくなってしまうかもしれないからね」
「引き、金――?」
「モデルは、二〇三〇年式の自動小銃なんだ、珍しいだろう? あれをさらに小型化してね」
「自動、ショウジュウ――?」
 この人は一体、何を言っているのだろう。
「ああ、そうそう。先にこれを尋ねるべきだったね。まあ、聞くまでも無いことではあるがね。相原楓(さがらかえで)さんを待っているのは、君で間違いないかな?」
 その一言は、弾丸のように私を貫いた。一瞬で頭の中が真っ白になる。
「どうして、カエデの名前を――?」
「質問に質問で返されるのは好かないな。おまけに僕は気があまり長く無い」
 頭を銃口と思われるものでこつんと突かれる。
「もう一度聞くよ? 君は相原楓さんを待っているのだろう?」
「は、はい」
「そうか、やはり。残念だね。彼女はここへは来ないよ。というよりも来られない」
 思わず唾を呑んだ。
「――何故ですか?」
「そんな分かり切ったことは、ちゃんと聞くのだね、君は。それともヤツの進言が効いたのかな?」
 嘲笑するような声が響いた。会話が何処か噛み合わない。
「君が悪いのだよ?」
「え?」
「君は“黄泉比良坂”を知っているね。知らないとは言わせないがね。ああ、もちろん本物ではないよ? ここU市にある、萎びたバーの方さ」
「――はい」
 ほんの一瞬迷ったが、正直に頷いた。
「うん、正直で宜しい。そして、君はあの店の事を相原楓に話した」
 鋭利な刃物で抉る様な痛みが、胸中を満たした。吐息が耳に掛かるほどの近さで、低音の僅かに楽しげな声がする。
「そのせいで彼女は目を付けられてしまった、この僕に」
「あの」
 無性に喉が渇いた。
「カエデは何も知りません。確かに私は、いつかカエデに、あのお店を紹介したいと思っていました。でもまだ」
「そんなのは瑣末な事だよ」
「瑣末って」
 声を荒げて振り向きそうになったが、出来なかった。首から上が固定されたようにびくともしない。
 カフェには他にも客がいたが、誰一人こちらに注意を向ける人はいなかった。巨大なバルーンにぶら下がったピエロや、スリットが腰まであるチャイナドレスの少女、仮装行列の様な人々は皆楽しげに談笑し続けている。
「カエデを返して」
 泣きそうになるのをぐっと堪えて、声を絞り出す。
「もちろんだとも。君の返答次第でね」

   弐幕:白兎

「僕はね、あの店の|ガ《・》|キ《・》に用があるのだよ」
 背後から投げ掛けられる言葉に弾かれるように、ヒミコ君の顔が思い浮かんだ。
「だから君は大人しく、僕をあの店に案内すれば、それで良い」
「案内?」
「ああ。このまま、おんぼろバーの前まで歩いてもらう。店の入り口を確認次第、相原楓を解放しよう」
 姿の見えない声の主は、ゆったりとした声音でそう言った。
「お店の場所なら、私に聞かなくてもアイズを使えば」
「そう思うかね? はは、マップでも見てみると良い」
 しめたと思った。アイズ越しに見ているものは、通常本人以外には認識できない。虚空を撫でる手の動きだけは誤魔化せないが、マップを呼び出すふりをして通報出来るかもしれない。
「おっと」
 大袈裟に驚くような声がして、再度銃口で頭を小突かれる。
「君は分かりやすい性格のようだ。マップ以外を呼び出すつもりなら、相原楓の事は諦めてもらうより仕方ない」
 はったりだと咄嗟に思う。
 アイズはカスタマイズの幅が無限にある。個人の好みに合わせ、アイコンの選択から操作方法まで千差万別だ。
 日常的に使用していない私のアイズでさえ、カスタマイズに凝っていた中学生時代の名残りで、初期設定とはまるで仕様が異なっている。私の目の前に広がるどんな嘘っぱちも、他者には視認はおろか想像もつかない――はずだ。
「さあて、どうする? 僕はどちらでも構わないがね」
 視線が刺さる。指先をじっと観察されている気がした。
 余裕たっぷりの相手の雰囲気に、心が揺らぐ。錯覚だと幾ら言い聞かせても、背後の人物にはその先にあるアイコンが見えているように感じられ、その不安を拭い切れない。
 歯がゆい思いを抱えながら、結局言われた通りにマップを選択した。
 両手の間に肩幅程度の四角い窓枠が現れる。その中に、小さくデフォルメされた私がいる。現在地だ。
 窓をスライドさせ、辺り一帯を確認する。Bar“黄泉比良坂”の名も、あの店が入っていたと思われる雑居ビルも、確かに地図上には存在しなかった。
「分かっただろう? 僕は嘘は吐かないさ。あの店は一見さんお断りらしくてね。直々に招待されないと、文字通り、あの店の敷居は跨げないという訳だよ」
「それなら、何処であのお店の情報を?」
「ははは、僕は嘘は吐かないが、真実を話すとは言っていない」
「私もまだ、一度しかあの場所を訪れた事はありません。前回は案内してくれた人がいたから見つけられただけで、私だって辿り付ける保証はありません」
「それで僕が、はいそうですか、と引き下がると思っているのなら、飛んだお花畑のお嬢さんだな」
「事実を言ったまでです」
 強く前方を睨みつけながら言い放つ。
「見かけによらず、君は気が強いようだ」
 男性は大口を開けたかのような豪快な笑い方をした。
「勘違いしないでほしいんだが。この場合要求をしているのは僕だ。その報酬を与えられるのも僕、それを握りつぶす事が出来るのも僕。何一つ、君に主導権は無い。君は大切な友人の相原楓か、赤の他人のガキ一匹か、どちらか好きな方を選ぶだけだ。僕のおもちゃとして差し出す用にね」
 まるで息子を諭す父親の様な語り口で理不尽を突き付けられる。この人物相手に、これ以上言葉で逃れようとしても無駄だと分かった。冷静になれ、と必死で自分自身に言い聞かせる。
 既に消えてしまったカエデと、狙われているものの今はまだ安全なヒミコ君。二人を助けるために、一体どう動けば良いのだろう。圧倒的に不利なこの状況で、今出来る事は何だろうか。
「分かりました」
「ん?」
「黄泉比良坂まで案内します」
「ほう」
 テラス席から立ち上がる私の背を、頭部に押し当てられていた銃口がなぞる。首から腰までを撫でられたような感覚に、思わず悪寒が走った。
「うん。なかなか良い身体をしている。悪くないね」
 独り言のように男性が呟いた。追い打ちを掛ける台詞に、背筋がぞっとする。
「だが、少し物足りないね。君、食事はきちんと三食取っているかね? やはり人間、健康的な肉付きが一番だ。もっとカルシウムとアミノ酸を多めに取りたまえ。そうだ、君も密着型ウェアでも着たらどうだね。はは。最近のヒートウェアーは素晴らしい。体躯が直ぐに判別出来るからね」
 男性はぺらぺらと一人で話し続けている。ヒートウェアーを愛用しているカエデの事を思い浮かべた。健康的な肉付きとは、特定の人物、カエデについて言っているのか。彼女の背を撫で回す男の姿を想像して、胸が悪くなった。
「カエデは何処にいるんですか」
「はは。教えないよ。ほら、さっさと案内を始めてもらおう。辿り着くまで僕は腕を上げたままだ。これではその内、痺れて誤射してしまうかもしれない」
 腸が煮えくり返るとは、こういう時に使う言葉なのかもしれない。最初に感じた恐怖はいつしか薄れ、怒りが数段上回っている。
 とりあえず、うんと遠回りをするつもりだった。
 前回ヒミコ君が案内してくれた時、Bar“黄泉比良坂”は随分と駅から遠い場所にあるのだと感じた。しかし店を出てどうやって帰ったものかと迷う暇もなく、すぐに見慣れた街並みを見つけた。店からたった二本東側の通りが、度々利用していた大通りだったのだ。ほぼ一直線に伸びたその道を辿り、十分後には地下鉄の車内から何も見えない窓の外を見ていた。
 あの日はてっきり、長く会話をするためにヒミコ君がわざと遠回りをしたのかと思っていたが、そうではなかったのだろう。付け狙う何者かから身を守るための手段の一つだったのだ。
 とりあえず、進もう。会話の中で何か有益な情報を得なければ。そう決心し、テラスの敷地を出る。
 視界の隅にカフェのマスコットキャラクターの兎が現われた。白兎は丁寧にお辞儀をしながら、またのご来店をお待ちしておりますと告げる。その真っ赤な目を見て、何故か因幡の白兎を思い出した。

 カフェから道は北へ伸びていた。Bar“黄泉比良坂”はここからだと北西に位置する。次に現れる角で東へ曲がり、店から少しでも距離を取ろうと思い付く。
 そして目指す道の先に差し掛かり、呆然とした。右へ曲がる道の先には、古びた建物の敷地が広がっている。
「え――?」
 少し前に来た時、ここはU市が整備した遊歩道だったはずだ。
「どうかしたかね? 今日は少し霧が出ているようだ。全く、僕の一張羅が湿気で傷んでしまわない内に早く案内してくれたまえよ」
 視界はいたってクリアだった。男性が出鱈目に話を作っているのか、それともアイズを外して見れば外界には本当に霧が発生しているのか。掌に感じる大気が湿っているようには思えない。目から入ってくる情報に呑まれた私の感覚が、現実を見失っているのかもしれない。
 仕方なく唯一の選択肢、目の前に続く道を直進する。
「折角の機会だ。楽しくお喋りと行こうではないか。はは」
 後ろからの陽気な声が苛立ちを誘う。
「君は、あの|ガ《・》|キ《・》の名前を知っているかね?」
「――いえ」
 尋ねられているのがヒミコというハンドルネームの事でも、本当に知らない本名についてでも、答えるつもりはなかった。
「そうだろう」
 男性は笑った。
「あれはね、そもそも名前なんて無いのだ」
 まだ知り合って浅いが、辛い現実に打ちのめされた私の手をずっと握っていてくれた彼をあれと呼ばれて、怒りが更に増す。
「おや、怒ったのかね? 君は実に感情に素直だね。後頭部から怒りを発せられるとは、もはやそれは特技と言えるだろうね」
 耳を閉ざして考える。この状況の打開策を練る事に意識を集中させなければ。
 どんなに遠回りをしても、流石にU市を出る訳にはいかない。稼げる僅かな時間だけで、カエデの居場所を聞き出し、ヒミコ君に危険を知らせる方法はあるだろうか。
「君は、人間ではない、ましてや生き物でもないものを如何に表現する? ショーウインドウの中を駆け回っているAIを掴まえて、初めましてあなたのお名前を教えて下さい、と尋ねた事があるかね?」
 落ち付け、冷静になれと心の中で繰り返す。今は無思慮な話に気を取られている場合ではない。投げ掛けられた問いを受け流しつつ、毅然とした態度で言葉を発する。
「私には経験がありませんが、そういう人が居た所で不思議じゃないと思います。あなたは尋ねた事があるんですか」
「いや、あれは尋ねるまでもなく、向こうからべちゃくちゃと話すだろう。実に口煩い。僕は好かないね」
「おしゃべりが好きでないのなら、お店の子に会って、どうするつもりですか」
「お店の子? さあね、きっと顔を歪ませる事態にはなるだろうがね」
 道はまだ直線に伸びている。
「暴力を振るう気ですか」
「まあ、僕は至って温厚な平和主義者だが、噛みつかれなければそうしてみたいものだ」
「カエデの誘拐は、平和主義に反しないんですか」
「誘拐等と人聞きの悪い。これは単なるゲームさ。まあ相原楓としてみれば、飛んだ災難だろうがね」
「彼女の様子はどうなんですか。食事は? 水は? ちゃんともらえているんですか」
 質問を間髪入れず畳み掛けた。話の主導権を握ることが出来れば、情報が引き出せる可能性も高くなる。幾分ペースを乱されたせいか、男性の声に棘が混じった。
「そんなことは知らんよ。食べたければ食べるだろうし、飲みたければ飲むだろうさ」
 鼻で笑い飛ばす様な言い方だった。作り話では無さそうだ。それが本当なら、今カエデは飲食が可能な場所に居て、ある程度手足を動かせる状態だという事になる。
「カエデは何処ですか」
 苛立ちに任せてぽろりと場所を口にしてくれないものかと素早く質問する。私の意思に反して、男性は一拍休止を挟んだ後、挑戦的な声音でゆっくり答えた。
「さあ、君が容易に連絡出来ない、何処かさ」
 考えろ。カエデから連絡があったのは何時だっただろう。そこから移動するとしたら何キロ圏内になるか。あの時の音声データに付いていた録音日時表示はどうだったか。着信を確認した時、何か可笑しな点は無かったか。
 あの時、確かに感じた違和感は何だった? 何かが思考の隅に引っ掛かっている。それは一体――

   参幕:銀鳩

 思考は高速回転している。身体は着実にBar“黄泉比良坂”へ近づいている。そして心は――

 考え事をしながら歩き続け、気付くと行く手に立て看板らしきものがあった。
 目を凝らして見ようとする動作を読み取り、アイズが対象を拡大する。
 それは花屋のブラックボードだった。今時珍しい、電子板ではなく木の板を加工した看板だ。それは間違いなく、何度も利用した経験のあるリアルショップ、本物の生花を取り扱った店のものだった。ということは、あの店の数メートル先は遊歩道の十字路になっている。
 次はそこを遠回りのために右へ曲がろうと思いながら、見慣れた店先に差し掛かった。強い花の芳香に珈琲豆の匂いが入り混じり、鼻孔を刺激する。
 歩き慣れた場所を行くほんの少しの安心感と、背後の男性を上手く騙そうと企む背徳感で、思考が不安定になった。それが気の緩みに繋がったのかもしれない。次の瞬間私の口から洩れたのは、実に間の抜けた困惑だった。
「ど、え?」
 どうして、という疑問と困惑の感嘆符が混じった。
「何だ、随分と間の抜けた台詞じゃないか。どうかしたのかね?」
「え。い、いえ」
「それなら早く進んでしまおう。いい加減、僕の手が痺れてしまう」
「で、でも――」
 明らかに変だった。
「幸い、迷う心配もない。さっさと左へ曲がりたまえ。留まる理由もないだろう。それとも、あの|ガ《・》|キ《・》への手向けに、花でも買っていくつもりかい?」
 男の挑発的な発言も左の耳から右の耳へと抜けていく。
 そこは、在って然るべき十字路ではなく――単調な一本道だった。
 花屋のブラックボードは、既に右手が届きそうな程の位置にある。手書きの店名、今月の誕生花をあしらった装飾、見間違える訳は無い。道を挟んで左には、やはり見慣れた雑貨屋があった。しかし、残る店は見当たらない。
 この界隈はカエデのお勧めスポットで、頻繁にショッピングに訪れる。十字路を囲むように花屋、雑貨屋、カフェ、アイズのアクセサリショップの四件が集まっており、その間を、ケーキを切り分けたようなクリーム色の遊歩道が走っていた。短期間で道向こうの人気店がニ店とも入れ替わるはずはないし、U市の整備済み街路が二本も廃止になるとは考えにくい。
 このまま左へ曲がってしまうと、Bar“黄泉比良坂”はもう目と鼻の先だ。一度引き返した方が良さそうだと、拳を握りしめながら決意する。
 すんなり応じてもらえるとは到底思えないが、後ろの人物の出方を窺うためにも提案した。
「すみません、道を間違えたみたいです。引き返した方が良いかもしれません」
「間違えた? ここまで道はどう見ても一本だったと思うがね? まあ、仕方がない。君が相原楓を諦めるというのなら、僕は止めないがね」
「道が変なんです! いつもの通りじゃありません。一旦確かな場所まで戻らないと。このまま進んでも、あなたの目指す場所へ辿り着ける保証はありません」
「何、道がない訳ではないのだ。何時か辿り着く。辿り着けるまでこうして歩くまでだ」
「でも、本当に何か可笑しくて――」
「それは可笑しいのだろう。君の頭がね?」
 意味のない押し問答に耳を貸している場合ではない。私の脳が正常であるなら、間違う可能性が高いのは、普段と違うのは、疑うべきは――目だ。
 この嘘っぱちを決して信じてはいけない、肉眼で確かめなければと、アイズに手を伸ばす。
「おっと」
 それを背後から両の手で阻まれた。
「道を歩くのに不必要な動作は見逃せないね」
 頭を固定され見えないが、確かに両手を捕まえられている感触があった。男性の声は耳元で笑っている。
 瞬時にあれ? と疑問符が浮かんだ。先ほどまで私の後頭部へ突き付けられていたはずの銃はどこへ行ったのだろう。そして閃いた。今ならこの人物の二つの手は私の両手を掴んでいて、銃口は後頭部に向けられてはいない!
 その後どうするかなどその時には考えなかった。思考よりも先に身体が動いた。
 振り解くというより引きちぎる様にもがき、走った。

 走る走る走る。
 とにかく追手と距離を取らなければ、その一心で左右の足で力強く地面を蹴った。
 だが、私のものとは別の足音が直ぐに聞こえ始めた。かなり速い。みるみる後ろへ迫り、直ぐに横に並ぶように聞こえ出す。
「目で見えるものに頼るな」
 ああ、あの言葉は一体いつ聞いたのだろう。誰かの力強い台詞が甦り、思考を掠めた。
 どこまでも一本に伸び続ける道、忽然と消えた人気店と十字路、見慣れた街並みとすり替えられた建物達――
 このままではすぐ横に聞こえる足音の主から逃げ切る事は出来ない。腕を振って全速力で走っているため、アイズを外す余裕はなかった。
 覚悟を決めるのだ。そう、視界を操作されている可能性に、体当たりで挑むしかない。
 両サイドの街並みに素早く視線を送り、直感で狙いを定めた。
「もう、どうにでもなれ!」
 あんなものは無かった、と感覚が叫んだ店のショーウインドに突進する。そして勢いもそのまま、全身で文字通り体当たりした。
 ガッシャーン。
 途端に大きな物が倒れるような金属音が辺りに響き、足元に砕けた何かが散らばる。
 一瞬、店のショーウインドを割ってしまった罪悪感と恐怖で身がすくんだ。だが、眼前に広がっているのは、パステルカラーのレンガタイルで飾られた、塵一つない地面だった。散らばったと思われるものも何も見当たらない。
 顔を上げても、誰一人こちらへ意識を向けている人は見当たらなかった。絵に描いたような平和な日差しの中を、まばらに人が歩いている。
「やっぱり」
 操作されていた。本来あるべきはずの道が、アイズ越しには見えていなかったのだ。
 後ろがどうなっているのか気になったが、今は振り返る隙さえ恐ろしい。そのままよろけた体勢を立て直し、先程まで消えていた道を急いで駆け抜けた。
 普段もっと運動しておくんだったと後悔するが、今更どうにもならない。懸命に動かす手足が重い。
 何処かの店に逃げ込もうか。いや、でも。
 カフェでも先程の通りでも、こちらを見もしなかった人々を思い出して、躊躇われた。街中の人間の助けは期待できない。とにかく今一番にすべき事は――
 後ろからの足音は、嘘っぱちのショーウインドを突き破った辺りから聞こえなくなっていた。とりあえずほんの数分身を隠すために、建物の間に見つけた細い通用路地に身体を滑り込ませた。
 歩きながら、カエデにコールを掛ける。
 しかし、矢張り繋がらない。
 そのまま地域社会保全保安センター、通称“全安”に通報しようとコール先を再選択した。事件、事故、災害救助から急病まで、あらゆる通報の第一段階は全安だ。
 男から聞き出せた情報は、カエデが拘束されてはいないようだということ、そして私が走り出すまでは無事だったということだけだ。それすら真実である保証はない。ちっぽけな一般市民で太刀打ち出来ないなら、一刻も早くカエデの救出を公的機関に託すしかない。
 幸いワンコールで繋がった。
「あのっ」
 焦りとほんの一握りの安堵感で胸がつかえた。そして、次の瞬間――
「やあやあ、全く。君の猪突猛進ぶりには驚かされるよ。はは」
 冷や汗が背筋を伝う。
 目の前には、コール先に繋がったことの証である全安のトレードマーク、オリーブをくわえた銀鳩が羽ばたいているというのに、そこから聞こえる声は――
「どう、して――」
 きっと、何かの間違いだ。指先が急激に冷えていく。
「す、すみません。かけ間違えたようです。失礼し」
「道を間違えたと言ったお次は、かけ間違えかね。君は随分と間違えるのが好きと見える」
 この声、この口調は――
「君はかけ間違えてはいないさ。全安に通報するつもりだったのだろう?」
 唇が震えて言い返せない。
「君の行動は分かりやす過ぎてゲーム性に欠けるな。まあ、店に頭から突っ込んだのは、さすがに想定外だったがね」
 あざ笑うような笑い声が、アイズを通して天から降り注ぐ。
 そこでようやく思い至った。視界の操作について気付いた時、即座に考えるべきだった。国が一括管理している公道や建物さえ、視界から消すことが出来るのだ。通報の可能性を先回りして、全安への通信妨害をすることなど容易いだろう。
 コツコツと、左右の外壁に反響した靴音が、次第に大きくなる。
「君がどこへ行こうと、逃げられはしないよ。さあ、大人しく」
 恐る恐る振り返った。だが、嘲笑が辺りに響くばかりでその姿は捉えられない。透明人間――これもきっとアイズの仕業だ。
 もう、駄目だ。
 絶望感で胸がいっぱいになった。それでも、狭い通路を奥へ奥へともがくように進む。進む以外に、出来ることが何も思い付かなかった。
 どうして今日に限って、アイズを装着したままカフェで待って居たのだろう。
 ――カエデと連絡を取るのに必要だった。急いで家を出たから、今日は財布も時計も持ってきてはいない。全てアイズで済ませるしかなかった、だから。
 どうして目に映るものを疑わなかったのだろう。
 ――ずっと、アイズと関わらないように生活してきた。幾重ものセキュリティを掻い潜る高度なハッキング技術が、いつの間にか出回っていたなど、知る由もない。私とは無関係な世界のはずなのだ、だから。
 どうしてまだ、アイズをしたままなのだろう。
 ――これを手放してしまったら通報はおろか、認証が必要な公的機関にも逃げ込めなくなる。それに、相手に拾われてしまったら、繋がりのある他の人間にまで危害が及ぶかもしれない、だから――仕方がない。
 仕方がない?
 無意味な自問自答が、頭の中でぐるぐると渦を巻く。
「我が国の情報管理は今やテッペキィ! 安心・安全・快適の三拍子がそろった、スッペシャル・シッステム!」
 週に数度流れる公共広告の、異様なテンションでまくし立てるマスコットキャラクターが、急に脳裏に浮かんだ。
「どこが鉄壁だ」
 国民には各々、唯一無二の生体番号が割り振られている。アイズから相手の生体番号を知ること自体は容易い。
 皆が個人情報を、文字通り目の前にぶら下げて歩いていられるのは、公的機関が一切の不正利用を厳重に取り締まっているからだ。本来は悪用されることなど有り得ない。しかし理論上、特定の生体番号で連動したアイズの追跡は可能なはずだ。
 もし何らかの方法でこのアイズを追尾されているのだとしたら。“御影理世”の番号が登録されているこのアイズは、世界にたった一つの私の発信機、これを持っている限り逃げ切れない。
 がんじがらめだ。
「どうすれば、どうすれば!」
 その時、突然視界の右上部に注意が向く。現れた黄緑色のアイコンは、拍子抜けするほど滑らかな動きで、ぷるんと輪郭を震わせた。

   肆幕:氷菓子

 アイコンは機能別に色分けしてある。黄緑はコールのリアルタイム受信の合図だ。名前は――
「カエデ!」
 足がもつれそうになりながら、通話のアイコンに指を伸ばす。また、第一声はあの人物の笑い声かもしれないと思うと、冷えた指先が僅かに震えた。
 触れた瞬間、黄緑のゼリー状の球体がぷるんと弾け、宙に浮かんだ“カエデ”の三文字がくるりと舞う。
「あ、リセ?」
 飛び込んできた音声に一瞬、耳を疑った。
「ごっめーん。何度も連絡くれてたよね? それがさあ」
 間延びしたあまりに平和そうなカエデの声が天から降り注ぐ。その緩やかな流れを遮り、勢い込んだ。
「カエデッ! 無事なんだね?!」
「え? 無事って? 何が?」
「なんだ、そっか。良かった、そうか」
「んん?」
 カエデは混乱したように、疑問符を幾つも浮かべたような声で唸った。
「良かった、ほんと」
 安堵で身震いした。同時に納得した。そうか、そうだったのだ。
「リセ、あたし話が全然読めないんだけど」
 自分の置かれた状況が凡そ把握できた。カエデの安全も確認できた。彼女はもう大丈夫だ。
 そうと分かれば、この次にすべきことは決まっている。
「ごめん、カエデ。ちゃんといつか説明するから!」
「え、ちょ、リ――」
 コール切断のアイコンを押す間も惜しく、カエデが何か言いかける言葉もそのまま、アイズを乱暴に顔から引き剥がした。
 全ての元凶はこれだ。情けなさと怒りでアイズを掴んだ右手に力が籠る。
 カエデからの音声メッセージ、そもそもあれが偽造だった。あの頭の可笑しな人物に出くわす前に、何故注意深く確認しなかったのか。視界の操作以前に、疑うべきところはそこだったのに。カエデが初めから攫われてなどいないと気付けていたら。
「こんなもの!」
 全身に溜まった苛立ちを両手の力に変換する。懇親の力を込められた私の眼鏡型ウェアラブル端末は、ぱきんと間抜けな音を出して二つになった。
 ふと、幼い頃に何度か食べたポッキンアイスが思い浮かんだ。細長い形状で、真ん中部分で二つに折れるようになっている、ビニール包装の氷菓子だ。一世紀前の復刻食品が流行った時期があり、大して美味しかった覚えはないのに、度々母にせがんで買ってもらった。握った手が冷えないようにと、母が両手に巻き付けてくれたイエローとオレンジのハンカチを思い出し、胸が熱くなる。もしかすると、あのハンカチを巻いてもらいたくて、あの氷菓子を食べていたのかもしれない。
 綺麗に左右に分かれたアイズの割れ目から、カラフルなの配線が幾本も覗いた。それを強くねじる様に引っ張る。数本の配線がぶちぶちと切れ、ようやくフレーム上で点滅していたランプが消えた。これでもう、この端末から位置情報が発信されることはないだろう。   
 何故だろうか。むくむくと勇気が湧き上がってくる。
 自由だ! この瞬間、私は、嘘っぱちの世界から解き放たれ自由になった。
 立ち止まり、勢いを付けて振り返る。だが、うっすらと立ち込める霧のようなもので追っ手の姿はおろか、数メートル先さえ見えなかった。
「追っ手も映像、だったりしないかな」
 いや、そんなはずはない。
 後頭部に突き付けられた銃口の感触も、両手を掴まれた感覚も確かにあった。あの男性は、私をいつでも捕まえられるという余裕から、ゆっくり移動しているのかもしれない。それならば、アイズからの位置情報発信がストップした今、異変に気付いて距離を詰めて来ても可笑しくはない。
 アイズを前方へ投げ、その上を強く踏みつけてから速足で進む。
 丁度よい具合に建物の隙間を抜け出た。
 薄暗い路地裏から広々とした明るい通りへ出ても、霧のせいで街はぼんやりと霞んでいた。まだ追っ手の気配はない。
「本当に霧、出てたんだな」
 この視界の悪さでは、追っ手もこちらを見つけるのに苦労するはずだ。用心しながら通りを横切り、再度別の建物の間の路地へ潜り込む。途端に息が詰まり咳き込んだ。
「え、何この臭い」
 嗅いだことのない臭いがした。腐敗臭だ。足元には所々湿った苔が生えており、路面タイルも割れや汚れが目立つ。
 U市内にここまで整備の進んでいない場所があることに、驚きを隠せなかった。
 アルファベット名が冠された市名の場所は、比較的新しい開発都市だ。表向きは塵一つないような管理の行き届いた街並みにも、こうしてくすんだ部分が生まれる。アイズの映像技術にかまけて、現物の補修や改善を怠るためかもしれない。嘘っぱちが現実を食っている、そんな思いがした。

 見慣れない場所をただひたすら進んだ。
 アイズを捨てた今、ここがどこなのか調べる手立てはない。手持ちの現金もなく、誰かに連絡をする手段もない。公共施設は勿論のこと、大抵の店には入店すらできない。騒ぎを起こして通りすがりの誰かに通報してもらうか、直接知人宅を訪問し、相手が外出するまで家の前で粘るくらいしか、思い付く選択肢がなかった。前者ではあの人物に再度捕まる可能性も高くなる。
 ぼんやりと窺える太陽の方角と、今まで移動した距離からすると、住宅地街が近いはずだ。
 とにかくBar“黄泉比良坂”から、ヒミコ君からは何とか距離が取れた。それだけでも十分頑張った。
 そう彼の顔を思い浮かべた刹那、真後ろから声がした。
「もしや、そこにいらっしゃるのは――」
 背筋がひやりとする。
「ヨモギさんですか」
「え?」
 その呼び名を知っている、この幼い声は――
 息を呑んで立ち止まり、そっと振り返る。
「やはり貴女でしたか」
 不自然なまでの丁寧な口調。そこには、初めに会話した時のヒミコ君が立っていた。
「この路地は通用ではありません。この視界の悪さで、その速度で歩いていては、苔に足を取られ、思わぬ怪我に繋がりかねません」
 彼は店の裏口と思われる扉を片膝で抑え、半身を乗り出すような恰好をしていた。両手で抱えるように大きな紙袋を持っている。店内に明かりは点いていないのだろうか。ヒミコ君の背後から覗くことが出来る扉の奥は、どこまでも真っ暗闇だった。
 良かった、彼はまだ無事だったと、安堵の吐息が漏れる。だがほっとしてはいられない。私を追っている人物は今も私を、そしてヒミコ君を探しているはずだ。
 彼より後方の路地を覗き込むように確認する。霧は立ち込めているが、追っ手の気配はない。ここで彼が捕まってしまうことだけは避けたい。
「ヒミコ君、ちょっとごめんね」
 そう口の中で呟きながら、ヒミコ君の肩に手をかけ、扉の中へぐいと押し込む。
「一体何をなさっているのでしょう?」
「ごめんなさい。この辺りはちょっとまずいから、暫く出て来ないで、お願い」
「まずい? 貴方はまた、何に首の突っ込ん」
「ええっと、また今度! ちゃんと説明するから!」
 焦る。まだ追っ手の姿は見えない。
 ヒミコ君をBar“黄泉比良坂”まで安全に送り届けることは難しい。現に此処にいるヒミコ君と所在不明の人物を確実に遠ざける方法――それは、彼が安全な場所に隠れている間に囮が動き回る人物に接触し、この近辺から確実に誘い出す事だ。
 忙しなく動く私の視線から何かを察したのか、ヒミコ君が怪訝そうな顔をする。
「何かあったのですね。って、あ、貴女、どうしたのですか、その膝は?」
 一瞬畏まった雰囲気が崩れかけたかと思うと再度持ち直し、ヒミコ君が私の膝を目線で指し示した。
「え、膝?」
 指摘されて初めて気が付いた。いつの間にか両脚の膝小僧を擦りむいていた。転び方を知らない小さな子供が思い切りスライディングした怪我のように、痛々しく広範囲に血がにじんでいる。
「気付かなかった――」
「怪我をする程の“まずい”事では、放っておく訳には行きません」
「あ、ヒミコ君」
 小さな体一杯で押し返され、よろけた私たちは二人とも路地へと出てしまった。
「申し訳ありませんが、こちらの店内へは私の一存ではご案内出来ません。Bar“黄泉比良坂”の方でしたら」
「駄目なの、それじゃ、その、ちょっと」
「何が“駄目”なのでしょう?」
 真実を話すのは躊躇われた。「私が囮になるから」と言ったところで、すんなり応じてくれるはずがない。しかし子どもに、ヒミコ君に危険な真似はさせたくなかった。
「あの、えっと、怪我は大丈夫だから」
「その痛々しいご様子では説得力に欠けます。行きましょう」
 紙袋を抱いたヒミコ君は、私を追い越すようにして路地を進もうとする。
「待って、ヒミコ君!」
「ほほう」
 聞き覚えのある声が耳を掠めた。ひゅっと音を立てて息を呑んだまま、呼吸が続けられない。
 第三者の声は、前方から容赦なく続いた。
「“ヒミコ君”か。まさかこんな所で出くわす事になるとはね?」
 霧の中、ぼんやりと霞んだ影が徐々に輪郭をはっきりとさせていく。
「いやはや、まずは前言撤回せねばなるまい。この僕が直々に謝罪しよう。悪かった、“君の行動は分かりやす過ぎてゲーム性に欠ける“等と。まさかあんな行動に出るとは! いや、愉快愉快!」
 棒立ちになった私達の前に、白い人型が姿を現した。白いスーツに白シャツ、白ネクタイ、磨かれた靴のつま先から深々と被ったシルクハットまで、全てが白一色だ。
「ははは。実際、君が僕を目視するのは今この瞬間が初だろう。初めましてと言っておこうかね?」
 楽しげな笑い声を上げながら帽子を軽く摘まんだ男性は、視線をこちらへ向けたまま会釈した。綺麗に撫で付けられた黒髪が、まるで作り物のようだった。
「どういう事でしょう、これは」
 ヒミコ君の腕の中で、紙袋がぐしゃりと音を立てる。
「先程おっしゃっていた“まずい事”とは、この方の事でしょうか」
 私は後ろからヒミコ君の肩にそっと手を置いた。
「――ヨモギさんの怪我の原因は、そこの貴方という事で、間違いはありませんか」
 声が心なしか震えている。
「怪我? 怪我をしたのかね。まあ、僕が手を下した訳ではない。そこの彼女が勝手に派手なスタントを極めたのだ。何、体験に痛みは付き物だ。だがまあ、僕も鬼ではない。治療を優先する事は約束しよう」
 帽子を被り直した男性はコツコツと靴音を鳴らしながら近付いて来る。このままでは――
「この子には!」
 咄嗟にヒミコ君の肩を引き、前に進み出る。
「この子には、手出しさせません!」
「ヨモギさん!」
 荷物を抱えたままの彼の片腕を後ろ手で掴み、自分の陰から出ないように固定した。
「ははは、映画のワンシーンの様だね。君が正義のヒーローで、僕が悪役だ! 実に面白い」
 男性が腰の辺りにゆっくりと右手を持っていく。拳銃を出すつもりだ、そう思って身構える。足が震えた。
 拳銃の弾は果たして、この距離で避けられるものなのだろうか。それでも、一か八か、走り出すしかない!
 ヒミコ君の腕を掴んだまま、力を込め地面を蹴りかける。
「ならばこういうシーンも良くあるだろう?」
 スローモーションの様に、帽子の陰で不敵に笑う口元が見えた。
「敵は最初から、一人ではなかった。なんていう展開がね」
 振り返るよりも先に、視界が何かで遮られた。同時に強い眩暈に襲われる。
 ふわふわと水面に漂う綿毛のような思考の片隅に、幼い溜息が聞こえた気がした。

   伍幕:

「気が付きましたか」
 誰かの声に弾かれるように目を開けると、そこは見知らぬ建物の中だった。
 視界の中は灰色一色。明かりらしきものは見当たらないが、それでもうっすらと周囲が見渡せる。
「あれ? こ、ここは――」
 無機質なコンクリート打ちっぱなしの壁に取り囲まれた小さな空間。サイコロの中にいるみたいだと、ふと思った。殺風景で冷たい世界の中央に、ぎしぎしと軋む一脚の椅子。そこに一人座らされていた。
「そうですね、敵の手中、と言った案配でしょうか」
 ヒミコ君の声だった。慌てて部屋の中をぐるりと見回したが姿は見えない。急に動いたせいか、思考に霞がかかったように酷くぼんやりとした。
「ヒミコ君、だよね? 大丈夫なの? 何処?」
「こちらはご心配には及びません。そんな事よりも、貴女は平気なのですか?」
「私――」
 視線を下す。手も足も拘束されてはいなかった。
「どれくらい眠ってたの?」
 薬品で眠らされている間に運ばれたのだろうか。焦点が上手く定まらずぐらぐらと揺れる視界に、さらに酔いそうだった。
「眠ってなどいませんよ。ほんの一、二分の出来事ですから」
「い、一、二分?!」
 すると、敵のアジトのすぐ近くにいたという事だろうか。それともここは、ヒミコ君の出てきたあの店の中なのだろうか。
「ヒミコ君、何処にいるの?」
「扉があるでしょう、その先です。貴女からすると、隣の部屋、という事になるでしょうか」
「隣――?」
 見ると一方の壁に頑丈そうな扉があった。鉄格子の嵌った小窓が付いている。
 ふらふらする足で立ち上がり、その小窓から隣の部屋を覗き込んだ。
「そんなっ! ヒミコ君っ?!」
 その痛々しい様子に、思わず大声で彼の名を叫んだ。
 ヒミコ君は両手を縛られ、天井から吊るされていた。つま先立ちで何とか上体を保っている状態だ。手首に食い込む縄に鮮血が滲んでいた。
「酷いっ」
「あー、そうですか」
 俯き加減のヒミコ君の目が僅かに泳ぐ。彼は言葉を濁してから頷いた。
「平気です。こちらは問題ありません」
 随分と落ち着いた声だが、そんなもの痩せ我慢に決まっている。
 鉄格子に手を伸ばし、思いきり乱暴に揺さぶった。勿論私の力ではびくともしない。扉には他に、取っ手も鍵穴も見当たらなかった。
 もう一度振り返って自分の立っている室内を見回す。使えそうなものは初めに座っていた椅子しかない。
「そうだ、これを使って」
 扉を壊すしかない。ひ弱な女性の力で壊せるかなんて、そんな事を考えている場合じゃない。そう思った時だった。
「ははははっ!」
 あの、男の、声がした。恐怖心は微塵も湧かなかった。むしろ怒りで頭が沸騰しそうだった。
「何処にいるのっ! ヒミコ君を解放してっ!」
「いやあ、一度こんな映画みたいなシチュエーションに挑戦してみたくてね。気に入ってもらえたようで感無量だ」
「何で、こんな酷い事! 人でなしっ」
「はははっ。この善良極まりない僕を捕まえて“人でなし”とは。いやはや愉快だな。きちんと約束は守ったというのに」
「やく、そく――?」
「膝の手当てをしてやったろう」
 よく見ると両膝に大きなメディカルシートが張られていた。自然治癒力を高め、細胞修復の活性化を促す薬品で構成されている湿布薬だ。
「まあ直接手当てしたのは僕の召喚した使い魔だがね」
「ツカイマ?」
 何を言っているのだろう。聞きなれない単語に一瞬思考を攫われそうになったが、今はそれどころではない。
「そんなことより、早くっ、ヒミコ君のっ、縄を解いてっ!」
「君に指図される筋合いはないな。しかし、そうだ。君が僕の質問に満足のいく答えを出すというのなら、直ぐに種明かしをしてやらんでもない」
 種明かし――?
「何でも、何でも答えます、だから彼を!」
 さも愉快という響きの高笑いが、四角い空間を埋め尽くす。狂っている、この声の主は狂っている。
「その辺りでお引き取り頂きましょう」
 ヒミコ君が絞り出すような声で訴え出た。
「これ以上、ヨモギさんの負担になる事は」
「君は黙っていたまえ、今は僕の時間だ。この意味が分かるだろう? 口答えをすると言うのなら、こちらにも考えがある、愉快な考えがね」
 男の声が止むと同時に、ヒミコ君の首元にぐるりと縄が掛けられた。
「そんなっ」
 縄はじりじりと機械で巻き取られるかのように左右に引っ張られていく。
「やめて! やめてっ! そんなっ、いやっ!」
 完全に声を失ったヒミコ君の口元から唾液が垂れる。
「はははは、これで分かっただろう? 黙っていた方が賢明だという事がね?」
 ぐったりとするヒミコ君を、鉄格子越しに見つめて叫ぶことしかできない。自分の無力さに絶望するしかなかった。
「では静かになったところで質問だ。まずは何から尋ねようかな。ふむ」
 わざとらしく焦らすように、姿の見えない声は唸った。
「君は何故、この男に執着している? 出会ってさして経ってはいない、取り分け縁の深い人間という訳でもない人物のために、何故身体を張る必要があるのだね」
「彼は、ヒミコ君は、大事な私の友人です」
 鉄格子を強く握り締め、泣き出しそうになるのをぐっと堪えて答える。
「友人。では君は一度会った人物は皆友人と名乗るつもりかね? ならば僕も既に君の友人という事になるな。それは良い! はははっ」
「人を見る目は、ある方です」
 怒りを含んだ声が掠れた。
「ほほう」
 意味ありげに男が唸る。
「良く選び抜いた友人、その友人のためなら何でもすると、そういう事かね。どんな憂き目に遭っても、見返りや希望がなくても」
「友人とはそういうものじゃないですか。ただ、その人のために何か出来たらって、何かしたいって、自然に体が動く。そういうものだと私は思います」
 両手に力を込め過ぎたせいで、指の先がどんどんと白くなっていく。私に今、出来ることはないのか。苦しむヒミコ君のために、私が出来ることは何か――
「なるほど、行動原理としては一理ある。つまり君は友人の優先度がかなり高い人物という訳かね。血の通った身内よりも赤の他人の友人の方が重要だと、そういうのだろう?」
「そんなの比べられません、家族も友人もどちらも大切で――」
「おや? それは可笑しな話だ。実の母親のためには何もせず、友人だと思う相手には命掛けで最善を尽くす。平等に大切にしているようには思えないがね」
 母親のためには何もせず――?
「どうして、母の事を――」
「それに君の原理には大きな落とし穴がある。君はこの男を友人と言うが、彼はどう思っているだろう? 君達の認識は共通かね? 君が一方的に、友人だと思い込んでいるだけではないかね? 例え裏切られても、同じ台詞が言えるかね? ああ否、失敬、少し語弊のある言い方だったかな。この場合勘違いと言うべきだろうか。それとも思い込み? 色眼鏡の方が良いかな?」
「う――」
 裏切られても? 勘違い――? この人は一体何を言っているのだろう。何故母の話を知っているのか。否、そんな事よりもヒミコ君をどうにかして救わなければ――!
 感覚のなくなった人差し指の爪が親指に深く食い込み薄皮を抉った。
「好い加減にして下さい!!」
 叫ぶようなヒミコ君の声。
「彼女の怪我をこれ以上増やすことは避けて下さいとお願いしていたはずです。約束を守って頂けないというのなら、これ以上は看過出来兼ねます」
 私の怪我――?
「だ、そうだ。やれやれ仕方がない、約束は約束だ。僕は嘘は吐かない主義だからね」
「ひ、ヒミコ君? どういう意味――」
「君の手の話だ。この男は、君がそんなに強く鉄パイプを握り締めるのが、余程気に食わないらしい。良いところだったのだが、やむを得ん。使い魔再召喚と行こうか、アーサー君」
「え?」
 次の瞬間、背後から覆い被さられるように両手を掴まれた。
「ちょっ、何っ」
 手の甲を固定され、無理やり拳を抉じ開けられる。同時に手の平に柔らかなものを握らされた。
「動かない、で」
 耳元で聞いたことのない声がした。落ち着いた男性の声だ。
「持ってて。だいじょーぶ、だから」
 ぶよぶよと柔らかな手の平の感触に、高ぶっていた感情がほんの少し鎮まる。ぼそぼそと話す背後の人物は、ごめんねと小さく付け足すと、私の両手を解放した。
 瞬時に振り返ったが、そこには誰もいなかった。手には半透明のゼリーのようなものが握らされている。メディカルシートと同じ科学的な匂いが辺りに漂っていた。
「今の人、何処から――?」
 ここはコンクリートで固められた狭い部屋の中で、見渡してもいるのは私一人。だが確実に、姿は見えないが触れられる人間がここにはいる。見えているものと、考えていることの相違。このパターンには勿論覚えがあった。そうか――
「再治療は済んだところで、再度おしゃべりの続きと行こうかね」
 その声には耳を貸さず、両手のゼリーを背後に向かって投げ捨てた。それは少し遠いところでぺしゃっと音を立てたが、振り返った先にそのゼリーは見当たらなかった。
「その前に」
 両手を耳の位置まで持ち上げる。
「これは」
 人差し指の先が、あるはずのない固いものへ触れる。
「外させてもらいます」
 私は嘘っぱちに指を掛け、それを再度はぎ取った。手を離れる瞬間、アイズのレンズに二人の人影が映り込んだのを見た。

黄泉比良坂(仮)〈ヨモツヒラサカカッコカリ〉

黄泉比良坂(仮)〈ヨモツヒラサカカッコカリ〉

世間ではすっかり、”eyes《アイズ》”と呼ばれる眼鏡型のウェアラブル端末が主流となった。 その流れに逆らい、「私」はある悲しい出来事の後から、アイズをなるべく遠ざけた生活を送っていた。 だが、U市に雪の日が採択されたある日、見知らぬ少年に導かれた「私」は、過去とそして未来と向き合うことになる。 ――近未来、VR技術が生活に溶け込んだ日本、その片隅にその店はあった。 Bar“黄泉比良坂”は、日常とは少し違う香りがする。 【近未来SF×日本古典風オカルト×人捜しミステリー】

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