旅人のくちばし(上)

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旅人のくちばし(上)
  1. 1.コウノトリの旅人
  2. 2.足跡
  3. 3.青い雲
  4. 4.セピア色の旅路
  5. 5.異国、故郷
  6. 6.掴んだ食糧

※こちらの小説はカクヨムにも掲載しています。
※全12章(うち9章まで執筆中)随時あげていこうかと……。
※名前が変なのは仕様です。許してください。

「みてみん」に投稿させていただいた本作の地図画像です。
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同じくキャラクターのイメージ画像です。
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1.コウノトリの旅人


 五十年間都会のフリスアで暮らしてきたディフカにとって、このパルテリアみたいな田舎の暮らしはいまいち理解できなかった。

 人々は皆怠惰で、妙に馴れ馴れしく、呑気だ。



 ここの宿の支配人になって十年が経過した今も、気難しいディフカはいつも不機嫌なまま。きちんと整えた髪も茶色い口髭も、その仏頂面で無駄にしてしまう。



「あほの不始末を庇うあほもいるから困ったもんだ」



 と、今日もディフカは下ごしらえをしながら、目の前に座った客人に悪態をついた。



「だからあいつはいつまで経っても進歩しない」

「そうは言っても洗い立てのシーツが落ちてたんだぞ? そのままにするわけにもいかないだろ。拾った後はどうすればいい? 俺が抱いて温めておけと?」



 と、大柄なその客人はにやけながら言った。



「それに、俺は庇ったんじゃない。注意しに行ったんだ。わざわざディフカを呼んだ方が良かったか? 包丁止めて、手を洗って、その手を拭いて、それで階段上ったらいつもの説教じゃないか。何が楽しいんだ、それ」



「先ほど二階から笑い声が聞こえてきた。あれのどこが注意だ。少しは真面目に叱ってくれ。お前も見てるだろ、エク。俺が何度口酸っぱく言ったってあいつはああなんだ。俺はお前に期待してるんだぞ」



「お、じゃあディフカの気持ちに応えてやらないと。人をあほ呼ばわりしたから、それに見合った働きしか出来ないがな。……けどディフカ、いつも言ってるけどいいじゃないか別に。シーツを落としたり、客室に箒を置きっぱなしにしたり、それを伝えたら今度は持ってたバケツを置き去りにしたり……。ここは小さな村。宿もこの一軒しかないんだ。皆、泊まらせてくれるだけありがたいと思っているよ」

「……そうか。じゃあ、そこが煤だらけなのも気にしないわけだな」



 煤? とエクは、カウンターに置いていた肘を裏返した。



「うわっ。何だ? やけに黒いじゃないか」



「俺がここに来たときには既にこうなってた。大方、濡れた薪を使ったんだろう。あいつは薪をくべるとき手袋をするからな。雨が降っていたというのに、確かめなかったんだ」



「ディフカも酷いな。何で教えてくれなかったんだ」

「夕食の時間でもないのに、ここに誰かが座るなんて予測してないからな。俺を邪魔しに来た罰だろう」



 不服そうに口を尖らせるエクを一瞥し、ディフカは、かん、と音の聞こえてきた天井を見上げた。



 しばしの間を置いて、あ……、という声が天井から聞こえてくる。



 ディフカは呆れ果てたように鼻から大きくため息を吐いた。傍に落ちた玉ねぎの皮が、その鼻息で吹き飛んだ。



「今来たら拭かせるつもりだ。それまで我慢するんだな」


 少しすると、空になったブリキのバケツを持って、誰かが階段を降りて来た。



 金色の髪に、大人の男性らしい体格に似合わぬあどけない顔。早朝の東の空を思わせる、独特の淡い青緑の瞳……。



 青年はバケツと雑巾をドアの傍に置くと、思い出したようにディフカのいるカウンターを見やった。



「あ、さっきの煤は取れていました? かまどの隣は見てなかった気がしたんですけど……」

「いや、大丈夫だったみたいだぞ。かまどの周りだけはな」



 そっか良かった、と安堵の笑みを浮かべる青年に、ディフカは呆れたように目を細めた。



「かまどの周りだけなら拭けていたんだ。つまり、こういうことだ」



 カウンターの表面をなぞって、ディフカはそれを青年に見せつけた。その指が黒く汚れているのを見て、青年はようやく理解したように、あ、と声を漏らした。



「カウンターまで煤が飛んでたって話みたいだぞ、ペティア。最初からそう言えばいいのに、ディフカってやつは何でこう回りくどく説明するんだろうな」



「とりあえず、部屋の掃除が終わったならテーブルを拭いてくれ。お前がしでかした不始末だ。自分で片付けろ」



 ディフカはそう冷たく言って、じゃがいもの皮を剥きだした。

 だけど、ペティアと呼ばれた青年は、はい、と返事をするだけで、すぐに取り掛かるでもなくきょろきょろ辺りを見渡していた。



「あれ、ディフカさん、ふきんは? テーブル用のふきんは皆、さっきテナさんが洗いに行っちゃったんですけど……」



「ふきんくらい何でもいい。いいから、隅々まできちんと拭くんだぞ。客ももうじき入ってくる、その前に終わらせてくれ」



 ペティアは隅に置かれたたらいに水を入れ、バケツに掛けた布を濡らしてからカウンターを拭き始めた。



 その間も、ディフカはペティアが気になって、目でちらちらとペティアの様子を見ていた。

 役立つ尻だろ、と煤で汚れた尻を上げるエクと笑いあいながらも、ペティアは言われた通り、きちんとテーブルと椅子についた煤を拭いている。



 途中、ペティアが裏返した布は、案の定煤で真っ黒になっていた。

 ふん、と鼻を鳴らし、ディフカはそこではっと目を開いた。



「おい!」



 と、ディフカは叩きつけるように包丁をじゃがいもを置いた。カウンターを出てずんずんとペティアのもとに歩み寄ると、勢いよくその布を奪った。



「こんなので拭くやつがあるか!」

「え……でもさっき、何でもいいって」

「だからってこの雑巾はないだろう! これはさっき、お前が床に零した水を拭くときに使ったものじゃないか!」



 毎度毎度面倒を起こしやがって……、とぶつぶつ文句を垂れながら、ディフカは雑巾をたらいに投げ入れた。



 ペティアと関わるとろくなことがない。いらない仕事が増えるだけだ。

 最近朝起きると枕にびっしり毛が落ちているのだが、あれは多分ペティアのせいだろう。白髪が増えてきたのも、恐らく、きっと、ペティアのせいだ。



「俺も勉強しておくべきだったな。お前にやらせるより自分でやった方が早いって」

「ごめんなさい……在庫も少ないって聞いたから、新しいふきんも下ろさない方がいいかと思って」

「いざというときのために残しておけと俺は言ったんだ。今のがそうじゃなかったら、いつ下ろすというんだ、お前は」



 そのとき、丁度裏口の方からペティアを呼ぶ声が聞こえてきた。ペティアは返事をすると、もう一度ディフカに謝ってから食堂を出て行った。



 ディフカはいつもより大げさにため息をついて肩を落とした。じゃがいもの皮も剥き終え、煤を拭くために棚から一枚新しいふきんを取り出した。



「もともと、あいつがあの男を雇ったんだ。あいつが全部面倒を見ればいい」

「別に奥さんだけの判断じゃないだろ。ディフカも働き手を欲しがってたんじゃないか」

「俺が望んだのはあんなのじゃない。もっとしっかりした子だ。それなのに、あいつが妙なお節介を起こすから、俺が毎日苦しめられているんだ」



 ディフカの妻のテナがペティアを雇うことに決めたのは、ディフカを案じてのことらしかった。



 テナ曰く、当時のディフカはこの村の雰囲気に溶け込めずどこか孤独で、どちらかといえば明るい性格のペティアを雇えば少しはディフカの緊張も解ほぐれるのではないかと思って雇うことに決めたのだそうだ。



 それにペティアは、ディフカの出した条件通り若くて体力のある男の子だった。

 だからディフカも、妻の勧めにのって雇うことにしたのだが、今となってはそんな思惑を抱いていた妻に全てを任せてしまったことを後悔していた。



「あわよくば跡継ぎに、とも考えていたんだが、あんな男じゃ到底無理だろうな。残飯処理しか役立った記憶がない」



「なんで。確かにたまに変に抜けてるけど、そんな働きぶりも悪くないし、料理の腕もいいじゃないか。ディフカがちょっと神経質過ぎるんだよ。案外合ってるんじゃないか? あの子には」



「……まあ、確かにな。お前のような客がほとんどのこの田舎の宿なら、あいつにはぴったりかもしれない」



「また田舎って……俺の村じゃないが、失礼だぞ、ディフカ。もうなんだかんだで十年もいるんだし、お前の第二の故郷のようなもんじゃないか。奥さんみたいに、この村のことも好きになってくれよ」



 エクを睨みつけて、ディフカはそこをどくよう無言で手を仰いで見せた。

 エクの座っていた椅子の表面を拭き、ディフカは裏返したふきんが汚れていないのを確かめて、隣の椅子も拭き出した。



「ま、一理あるな。お前の言う通り、ここを好きになるべきかもしれん。正直俺は、前いたホテルの支配人にここで働くよう言われただけで、この村に思い入れも何もないんだが、特に行く当てがあるわけじゃないし、ほぼここで一生を終えるようなもんだから、受け入れるべきなのは確かだろう」



 と、ディフカは手を止めて、綺麗なふきんを畳みなおした。宙で慣れたようにふきんを畳むその顔は、どこか儚げだ。



「しかしな、エク。ここに来るまでの五十年間は、ずっとあの都会で過ごしてきたんだ。あの場所と違い過ぎるここを受け入れるなんて、薄情な俺の嫁以外、出来る奴なんてそうそういない。……俺にとって、故郷はいつまでもあの場所だけなんだ。だから、いくらあいつが気を遣ってあんな男を雇ったって、六十も過ぎた俺の気持ちは変わらないさ」


―――――

 テナに休憩を取るよう言われ、ペティアは宿の裏口から外に出た。

 北国のパルテリアは夏が短い。そのため、九月の前半でも、夕方になると冷たい風が吹く。



 二年前に編んだお気に入りの緑のニット帽を被りながら、ペティアは馬小屋の奥にあるパルティア山を見つめた。

 巨大なパルティア山は今日もいつものように、雪をかぶった鋭い先端を暮れ行く桃色の空に向けている。



 あそこにいる登山客はもうテントを張っただろうか……。



 そんなことを考えながら村の入り口でもある寂れた広場へやって来ると、ペティアはぽつんと置かれた噴水の傍まで歩いていった。



 古びた噴水の水面には、様々な色を混ぜた夕暮れの空が映っている。



 噴水の縁に腰かけて、ペティアは冷たいその水を手でゆっくりかき混ぜた。その奥に見える、木や草を描いた鮮やかなタイルの底は、いつ見ても綺麗だ。



 ふと、そこで、ペティアは目の端に何かを捉え、少し離れたところにある花壇の方を見やった。

 古びたリュックを足元に置いて、草臥れた服を着た六十代くらいの男が、花壇の縁に腰かけている。



 眠っているのだろうか。ペティアがじっと見つめても、ぐったり頭を垂らしたまま、微動だにしない。



 ペティアはそっと立ち上がって、男の傍に近づいた。

 すると、数歩もしないうちに男の呼吸が聞こえてきた。



 男との距離は、まだそれほど近くない。寝息にしても変だ。

 ペティアが更に近づくと、男のその呼吸はだんだんと苦しそうなものに変わっていった。妙な不安を覚えながら、ペティアは早足で男のもとに向かっていった。



「あの……」



 と、ペティアは、男の反応がないのを見、顔を覗き込むようにして屈み込んだ。



 陰になってよく見えないが、男の顔中に、汗の粒がまぶされているのが見える。男はペティアに気づくとゆっくり顔を上げて、申し訳なさそうに笑みを浮かべた。



 その瞬間、ふっと糸が切れたように男が倒れだした。ペティアは慌てて男を抱き留め、大きく目を開いた。



 男の体は、気味が悪いくらい熱い。



「あ、あの……大丈夫ですか? お医者さん、呼びますか?」

「……ああ……」



 やっとの思いで絞り出したような声を聞いて、ペティアは男を花壇の縁に寝かせると、急いで医者を呼びに向かった。


 医者の家へと駆けていく途中、ペティアは村長の家の前で二人の男女が話をしながら歩いているのを見つけた。

 二人がこちらに気づいて足を止めると、ペティアも足を止め、苦しそうに息をしながら二人のもとへ近づいた。



「あ、アシェット……お父さんは? 広場に、すごく具合の悪い人がいたんだ。熱も酷くて汗も出ていて……とにかく、苦しそうだった」

「病人か?」



 大人びた印象の青年が、その言葉を聞いて険しい顔を浮かべた。



「父は今不在だ……明日の夕方まで帰ってこない。俺では恐らく、応急処置ぐらいしか出来ないだろう。……広場だな?」

「うん。とりあえず、花壇に寝かせておいたけど……」

「わかった、今行く。その間、看病していてくれ。……それじゃあネリー、行ってくる。しばらくかかりそうだ」



 アシェットはそう言うと、急いで道具を取りに家まで向かっていった。残されたネリーは、ちょっと待って、とペティアを呼び止めると、中から数枚布を持ってきてそれをペティアに渡した。

 ありがとう、と礼を言い、ペティアはすぐさま男のもとへと駆けていった。


 すっかり暗くなってしまった広場に辿り着くと、花壇の縁に寝かせて置いた男は、いつの間にか地面に転がり込んでいた。

 男の症状は先ほどよりも悪化しており、ペティアが抱え上げても目も開かず、高熱にうなされていた。


 ペティアはアシェットが来るまでの間、男の汗を拭いていた。

 小さなこの村には、医者はアシェットの父一人しかいない。ちょっとした怪我や病気くらいなら、息子のアシェットも医者代わりを務めれるのだが、男のこの症状は見るからに重いものだ。正式な免許もないアシェットにはどうも出来ないかもしれない。



 だけど、今は彼以外、頼る当てもない。



 今か今かとアシェットの帰りを待っていると、遠くからアシェットが、リュックを背負って帰って来た。


「これは……想像していたよりも、ずっと重いな……」



 長い付き合いのペティアも、聞いたことがないくらい深刻な声だった。



 アシェットは男の前に屈み込んで、眉間にしわの寄ったその顔をじっと見つめた。

 話しかけてみるも、男は答えるように一瞬唸り声を高くするだけ。ひとまず持ってきた水を飲ませると少しは楽になったのか、ほんの僅かに荒かった呼吸を落ち着かせていった。



「とにかく、安静にさせた方がいいだろう。どこかいい場所はないだろうか……」

「えっと……あ、僕の部屋は? 宿ならここから近いし」

「宿? ……けど、それでは客に……」



 と言いかけて、アシェットは口を閉ざすとすぐに立ち上がった。今は、躊躇する時間すら惜しい。



「決まりだ。行こう。その人のことは任せる。俺は荷物を持っていくから」



 星の灯りだした村を駆け、二人は宿を目指した。


 裏口から入った宿では、既に客が食堂に集まって夕食を待っていた。暗い廊下をそっと渡って階段を上ろうとすると、食堂からの光に、すっと影が翳された。



 熱気か苛立ちか、頬を火照らせたディフカが、暗闇の中にいるであろうペティアを睨んだ。



「随分と長い休憩だな。お前がいないせいで、今どれだけ忙しいと」



 と、そこまで言って、ディフカは口を噤んだ。

 ペティアの隣にはアシェット、肩には見知らぬ男がいる。暗くてはっきり見えないが、男はペティアの肩で死人のように項垂れていた。



「ごめんなさい、ディフカさん。なるべくすぐに仕事に戻りますから」



 呆気にとられるディフカを置いて、二人は狭い階段を上っていった。

 ペティアの部屋は、客室が三部屋しかない三階の奥にある。



 狭い廊下を渡り、部屋に入ると、二人は窓の前に置かれたベッドに男を寝かせた。

 アシェットはペティアから布を受け取って、男の汗を拭いた。



「ひとまず、俺一人で看病しておく。ペティアは構わず仕事へ行ってくれ。その間、何の病気なのか調べておくつもりだ」

「じゃあ、何かあったら言いに来てね」



 ペティアは最後に水のある場所を教えると、部屋を出て食堂に戻った。

 ディフカは簡単に経緯いきさつを尋ねるだけで、後は小言も垂れず、黙々と仕事を続けていた。


 三階で寝ている男のことなど知らない食堂は、いつもと変わらぬ光景だ。酒で顔を真っ赤にしたエクも、隣の座る常連客と談笑しあっている。



 そんな中で、ペティアは茫然と、先ほどの男のことを考えながら仕事をしていた。

 カウンターのエク達に、今日は元気がないな、と言われたが、そんな自覚はなかったから、うーん……そうかな? としか答えられなかった。



 元気がないように見えたのは、あの男のことを心配しているからなのだろうか……。何となく、それだけではないような気がする。



 ペティアはその後も何度も、男を見かけたときのあの瞬間を思い出していた。

 今思えばあれは、不思議な時間だった。


 客が部屋に戻り、テーブルの皿を片付けていると、珍しくディフカがテナを通して今日は終わるよう伝えてきた。



 しきりに天井を見つめるペティアの気持ちを察してくれたのかもしれない。



 ペティアはそれに応えて、すぐ部屋に向かっていった。部屋のドアを開けると、アシェットが本から顔を上げて振り返った。



「後はいいのか?」

「うん。具合はどう?」



 そうっとドアを閉め、ペティアはアシェットの隣から男を覗き込んだ。

 あのときから変わらず男の呼吸は辛そうで、何度も拭いたはずの体から、また粘り気のある汗を出していた。けれど、暖かなベッドに横になったからか、幾分か楽になったように見える。



 しかし、アシェットの顔は暗い。



「やはり……重い病気でないわけがなかったな……。毒に侵されているみたいだ、この人」

「毒……?」

「ああ。以前、どこかで毒蛇に噛まれたことがあるんだろう。簡単に資料を読んだだけで断言はできないが、恐らくそうだと思う」



 本を照らしていたランタンをペティアに渡し、アシェットはもう一度本に目を通した。



「この毒蛇の毒は、どうやら遅効性らしいな。それも極端な。これによると、毒蛇に噛まれた人は、噛まれてから約半年後に死亡するらしい。ほんの微量でも、一度体内に入れば徐々に毒が広がって、ある程度の量になるとこういった症状が起こるそうだ。安静にしていれば一時的に収まるようだが、その後は急な激しい痛みに襲われ、死亡する……。今のこの症状は、どうやらその前兆らしい。何と言えばいいのか……言葉が出ない」



 これ以上出来ることもなく、アシェットは静かに本を閉じて立ち上がった。



「生きれたとしても長く持たないだろう……持ったとしても半日から一日だと、これには書いてある。蛇に噛まれたとききちんと診断を行っていれば、恐らく医者から余命を言い渡されたはずだ。この人も、もう理解が出来ていると思う」



 リュックの中に本をしまって、アシェットはそれを背負った。



「ペティア、エクさんの部屋は?」

「いつものところだよ。えっと……二階の階段のすぐ傍の」

「そうか。じゃあ、隣町から父を呼んでくるように頼んでくる。それから、少しの間ここを頼む。俺は一度夕食を取りに帰って、また戻ってくるつもりだ」

「この人のことは、どうすればいい?」

「とりあえず汗を拭いて、時々水を飲ませてやってくれ。それくらいしか、俺にももう出来ない」



 部屋を出たアシェットに代わって、ペティアはベッドの前の丸椅子に座り、じっと男の顔を眺めた。



 顔を光らせていた汗も、苦しそうだった寝息も、今はだいぶ弱まってきている。



 険しく潜めていた眉も緩んでいて、寝顔も幾らか穏やかだ。これも全て、この先に控えた死の前兆なのだろうが、とてもそうには見えない。


 この人は一体、どんな人なんだろう……。


 男が危篤状態だということも忘れ、ペティアはぼんやりとそんなことを思っていた。



 短くばっさり切り落とした黒い髪。

 髪と同じように白い毛を混ぜた、ぼさぼさとした口髭。

 鍛えられた体に似合わず服は汚れていて、静かになった寝顔はどこか子供っぽい印象を受ける……。



 男の唸り声にはっとして、汗を拭き、水を飲ませたときだった。ふと、ベッドの隣のリュックが目に入り、ペティアはゆっくりとそこに目を落とした。



 急いでいて無造作に置かれたリュックは、蓋が開いていて小さな雪崩が起きたように中身を零している。

 衣服やランタンや食糧……。男が旅をしていた証拠が、そこに転がっている。



 ペティアは水の入ったコップを椅子の隣に置いて、覗き込むようにそれを見つめた。



 一番下には、赤くて角ばったもの――ハードカバーの本がある。

 本の表紙には何か文字が書かれているが、暗くてよく見えない。ランタンを持って翳してみるも、やはりよく見えなくて、ペティアはつい、その本を手に取った。



 本の表紙には、見辛い黒の字で大きく文字が書かれていた。


「『フィツエルネス』……」



 不思議な響きだ……。

 そう呟いた瞬間、自分の中で何かが開ひらけていくのを感じた気がする……。



 ペティアは無意識に本の端を掴み、そっと中を開けた。



 二八八八年八月二〇日



 今年の日付だ。日付の下には、五行ほどの短い文が書かれている。



 ペティアは前へ、後ろへとページを捲って、男が書いたのであろう本の中を確かめた。



 どうやらこれは、表紙に書かれている『フィツエルネス』に関しての日誌らしい。フィツエルネスという不思議な言葉が、日毎に綴ったページのあちこちに散りばめられている。



 この男はどうやら、そのフィツエルネスを探す旅をしていたようだ。


「それ、その人の本か? いいのか、勝手に読んで」



 背後からの声に、ペティアは思わず本を閉じた。



 ドアの前に立っていたアシェットは、その黒い巻き毛に透明な粒をまぶしていた。

 さーっ、という音が窓から聞こえてくるが、知らぬ間に外では雨が降っていたらしい。



「後は俺が看病しておく。ペティアはゆっくり寝ていてくれ。……それで、俺がいない間、何か異常はなかったか?」



 えっと……、とペティアは目で天井を見ながら考え込んだ。日誌を読んでいたから断言はできないが、特におかしなこともなく、静かに眠っていた気がする。



「うん。最初見たときと比べたら、全然落ち着いてきたよ」

「そうか……けど、それでも一瞬なんだろうな……」



 ペティアに退どけてもらった椅子に、アシェットは座った。そんなアシェットの後ろで、ペティアは閉じた本をまた開き、最初のページに目をやった。



 二八六〇年二月二八日



 自信はないが、確かこんな日だったと思う。



 この日は記念すべき日だ。

 今はもう亡き私の甥、そして、最高の友人であった彼との素晴らしきフィツエルネス探しの旅は、ここから始まったのだ。


―――――

 客もいなくなり一人きりになった食堂の中で、ペティアはカボチャスープの余りを皿に盛っていた。

 昨晩の男がいるあの部屋では、今もアシェットが寝ずに男の看病をしているのだろう。

 あれから二人はどうなっただろうか……。カウンターにスープを置き、様子を見に行こうと階段を上ると、頭上からアシェッの声が落ちて来た。



「目を覚ましたみたいだぞ」



 欄干から顔を覗かせたアシェットは、遠くから見てもわかるほど眠そうな顔をしている。ゆっくりと落ちてくる瞼を必死に押し上げて、アシェットは階段を降りて来た。



「説明は一通りしてきたつもりだ。……どうやら、昨晩の推測は間違いではなかったらしい。あの人も、自分の状況を理解していた。今は、一人にした方がいいだろう。そう思って下りてきた」



 アシェットは食堂に入ると、ペティアが用意してくれた朝食の前に腰を下ろした。ペティアはカウンターの中に入り、開けっ放しの鍋に蓋をして振り返った。



「後で会いに行ってもいいかな?」

「そうだな。今すぐはやめた方がいいだろう。一応死ぬ前なんだ。本当はその人の自由にさせた方がいい」

「具合はどうだった?」

「昨日のことが嘘みたいだ。確かに顔色は良くなく声も少し張りがなかったが、危篤というのが信じられないくらい明るい笑顔を見せていたよ」

「そうなの? どんな人だった?」

「穏やかで人当たりのいい人……だったな。少ししか話せなかったから、はっきりとは言えないが」



 そっか、とペティアは言うと、急に静かに食堂を出て行って、二階の客室を掃除しに向かった。



 無心でドアを開け、シーツを剥ぎ、それを丸める。そこでペティアはぴたりと手を止めて、何かを考え込むように立ち尽くし、丸めたシーツをベッドに置くとすぐに食堂に帰っていった。



「ねえ。あの人、朝食はいらないのかな?」



 突然舞い戻ってきたペティアに、スープを啜っていたアシェットはゆっくり振り返った。



「そういえば聞いていなかったな。廊下の箱に古い呼び鈴があったから、何かあればそれで知らせてくれとは頼んだが」

「じゃあ、聞いてみた方がいいね」

「まあ、食事に関してはそうだな。……ところで、空いている客室を貸してくれないか? 仮眠を取っておきたいんだ」



 ペティアは朝食を食べ終えるアシェットを待ってから、二人で階段を上っていった。アシェットの頼み事などすっかり忘れて、まっすぐに男のもとへ向かっていくペティアを見、アシェットは開けっ放しの客室を見つけて中に入ると、丸まったシーツを適当に伸ばしてベッドに横になった。



 自分の部屋へとやってきたペティアは、いつものようにドアノブを掴み、そこではっとした。今この部屋には、目を覚ました昨日の男がいるんだった。ペティアは緊張を覚えながら、こんこん、とドアをノックした。



「ああ、入っていいよ」



 ドアの向こうから聞こえてきたのは柔らかな声だった。ペティアはそうっとドアを開け、中に入った。男はベッドのすぐ横の窓ガラスに手を当て、外を眺めていた。



「あ……おはようございます」



 うん? と男はペティアに振り返り、目を丸めた。

 さっきの黒髪の青年じゃない……。けれど、どこか懐かしい顔だ。



「あの、気分はどうですか?」

「ああ……今はまだ、これから死ぬっていう実感が沸かないね。まだ少し苦しいところはあるけど、昨日ほどではないよ」



 と、男は目を細めて微笑しながら言った。アシェットの言う通り、穏やかで人当たりのよさそうな人だ。



「君はもしかして、昨日私を見つけてくれた人かな?」

「え……はい」

「やっぱりそうか。さっきの若いお医者さんから聞いたよ。友達が私を見つけてくれたんだ、って……。助けてくれてありがとう。そして、すまない……。こんな体だから、いずれ誰かに迷惑かけるとは思っていたんだが、その通りだったみたいだよ。ごめんね」

「いえ、いいんです。あ、それからアシェットはお医者さんじゃないですよ」

「そうなの? しっかりした感じの子だったから、てっきりそうだと思っていたんだが……」

「お父さんがお医者さんなんです。だから、その助手をしていたアシェットも、病気や怪我には詳しいんですよ。軽いのだったら治せるみたいです」

「そういえばさっき、言ってたような気がするよ。隣の村に今、父を呼びに行ってるって。すっかり忘れていたみたいだ」



 ははっ、と寝癖を揺らして、男は笑った。年は取っているが、若々しさを感じる笑顔だ。朝日が当たっているせいか、深い青の瞳も輝いているように見える。



 あれ、こっちがアシェットの言う穏やかで人当たりのよさそうな人かな、とペティアは思った。



 どちらにせよ、今から亡くなるようにはとても思えない。



「それにしても、私の病気を当てるなんて驚きだな。まだ若いのに」

「アシェットは僕の一つ下なんです。本当に頭が良くて真面目で、この間村長の娘のネリーと婚約したのも一緒に村を支えていきたいからだって言ってました。……あ、それからアシェットは、来月フリスアの大学に行くんです。この村にはアシェットのお父さん一人しかお医者さんがいないから、正式な医者になるために」

「そうか、それは頑張らなければいけないね。なるほど、お医者さんが一人か……。ここに来たのは初めてだが、昔はもっと賑わっていた印象があったんだけどね」

「はい……僕が生まれた辺りからどんどん人が減っていって、今学校に通っている子供達も五人ぐらいしかいないんです。僕のときも年の近い子はネリーしか残ってなくて、十歳のときにアシェットが引っ越してきてから少し賑やかになったんです」



 そんなアシェットがさっき、客室を貸してくれ、と言っていたことを思い出して、ペティアは静かに目を瞠った。



「あ、そういえば僕、朝食をいるかどうか聞きに来たんでした」

「朝食か……じゃあ頂こうかな。こうなってみて改めて思うよ。食事をしている瞬間が一番幸せだって」

「わかりました。ごめんなさい……ちょっと喋りすぎちゃって。今持ってきますね」



 と、ペティアはドアの方へ向かおうとして足を止めた。



 今この瞬間を逃してしまえば……。

 もう二度と、あの言葉には会えなくなってしまう……。



 そんな気がして、ペティアはゆっくり男に振り返った。そして、しばしの間を空けて口を開いた。



 不思議な力がこの言葉は宿っている……そんなふうに思えた。



「あの……フィツエルネス、って何ですか?」



 男は驚いたように口を開け、ふふっ、と微笑した。



「恥ずかしいな……あの本、見たんだね」



 あ……、とペティアは思わず声を漏らした。昨日のあの本は、既にリュックに戻してある。

 けれど、男は気にすることもなく、ただ照れたように苦笑していた。



「フィツエルネスは……そうだな。私が長い間追い求めてきたものだよ。まあ、それはちょっと大げさだったかな。けど、あながち間違いではないよ。あれをどこまで読んだか知らないけど、そのための日誌を用意するくらいフィツエルネスは六十年という私の人生の中で、大きな役割を果たしてくれたんだ。……あ、そこから本を取ってくれないか?」



 ペティアはリュックの一番上に置かれた例の本を手に取った。

 赤いハードカバーの表紙に、朝でも見辛い黒の字で書かれた『フィツエルネス』の文字。それを受け取ると、男はまるで赤子を見るかのような優しい目で、しばらくの間その表紙を見つめた。



 左手で優しく表面を撫でてから、そっと本を開く。

 一つ一つ、時を刻むようにページを捲っていく男の姿を、ペティアは静かに見守っていた。



 その時間は、男が最期だということを改めて知る、何とも奇妙な時間だった。


「ああ、すまない。フィツエルネスが何なのかっていう話だったね」



 男はページを捲っていき、あれ? と声を上げた。



「この辺りに小さな紙が挟まっていたはずなんだけど、君、知らない?」



 ペティアはぱちくりと目を瞬かせた。そんな紙、挟まっていただろうか……。

 リュックの中を確かめて、それらしいものがないのを確かめると、ペティアは周囲を見渡した。一緒に床を探していた男が、あ、と呟いて笑い出した。



「君の足元に落ちていたよ」



 ペティアは自分の足元に目を落とした。靴の先端から、酷く黄ばんだ紙が僅かに姿を覗かせている。落ちている、というより踏んでいた。ペティアはそれを、何度も紙を折り曲げながら拾った。手の平ぐらいのその小さな紙には、靴の跡がついている。



「どれ?」



 と、男は、不安げな顔のペティアの横から紙を覗いた。

 靴の裏に油がついていたのだろうか。古びた紙を透けさせる油汚れで、中に描かれていたものはうっすらとしか見えない。



「ああ、いいよ、このくらい。フィツエルネスもね、結局は大体こんな感じだから。……実はね、長い間探しておきながら、私もはっきりとしたことは分からないんだよ。だけど一応、鉱物って言われているんだ、フィツエルネスは」

「鉱物?」

「ああ。私も、私のように数少ない探究者もそうだと信じている。まだ誰も見たことはないからね、実際は何なのかわからないけど、とりあえずそういうことにされているんだ。……というのも、フィツエルネスという言葉は、大昔に詠われたという詩に一度登場したきりで、資料もそんなに残されていないんだよ。だから詩に一度書かれたきりの、本当にあるかどうかわからないフィツエルネスは、あまり研究する人もいないんだ。このアチサテンタには、フィツエルネスの他にも魅力的な伝説や謎があるからね。東部に点在している遺跡のこととか、かつて存在していた未知の生物のこととか、それこそここの山のこととか……だから、千年以上経った今でも謎が多いんだよ」



 男は受け取った紙を見つめると、もう一度それをペティアに見せた。



「ほら。少し見辛いが、四角いのが描かれているだろう。これがフィツエルネスだって言われているんだ」



 再び紙を手にとって、ペティアはそれを凝視した。踏んでしまったせいで汚れてはいるが、よく見ると靴跡の奥には、日に焼けた薄い線で何かが描かれていた。



 浮かび上がって見えたその絵は、一見するとクッションのようだ。綺麗な正方形の中心が丘のように膨らんでいる。更に細かく見ると、石の表面には光沢が描かれていた。石らしい凸凹もなく、つるつるとしている。



 これが、フィツエルネス……。



「その絵は大昔に私が描いたんだよ。フィツエルネスを教えてくれた人が描いた絵を、そのまま模写したんだ。色は……初めはつけようと思ってたんだけどやめてしまった。詩には、空を映したような美しい色、というふうにしか書かれてなかったみたいだから、その人は綺麗な虹色にしてたんだけど、もともと絵の下手な私が色を塗ったら魅力を失くしてしまうような気がしてね……。だけど、不思議な形をしているだろう」



 ペティアは嬉しそうに笑みを浮かべて頷いた。男は紙を受け取ると、ゆっくり窓の外を見つめた。けれど男の目は、目に映る風景よりもずっと遠くを見ているようだった。



「……私はね、世界中の山という山を巡ってきたんだ。人生全てを、このフィツエルネスに注いできたと言っても可笑しくないよ」



 そう言った男の顔はどこか儚げだ。だけど、男はすぐにまた笑い出した。



「やっぱりそれは言い過ぎかな。途中、家族も出来て、もう一つの人生を歩んだ時期もあったんだ。……だけど、こうしてまた旅をすることにした」



 男のその気持ちは、何となくペティアにもわかる。

 きっと、忘れられない存在だったのだろう。

 先ほどまでの男の目がそうだ。フィツエルネスのことを話す男の目は、楽しげだった。



「……ああ、ごめん。私のことが聞きたかったわけじゃなかったね」

「いいえ。おじさんの話も面白そうです。フィツエルネスの話と同じくらい。あ、僕最初は、フィツエルネスが何なのか聞きたかったんですけど、何だかおじさんの話も聞きたくなってきました。あ、でも、嫌でなければですけど……」

「ううん、全然。私の話も聞いてくれるのか、嬉しいね。君には二つの意味で感謝しなければ。……ああ、いや、ごめん、三つだった。朝食のこと、すっかり忘れてたよ」



 朝食、と聞いたしばらく後で、ペティアは思い出した。最近どこかで聞いたなと思ったら、取りに行こうとしていたんだった。



「じゃあ、また話を聞きに来てもいいですか?」

「ああ、いいよ。大歓迎だ」

「僕……そのフィツエルネスに、興味があるみたいなんです」



 ペティアはそう言って少し俯いた。何だか恥ずかしくて、どこか怖い。



 だけど男の顔を見た瞬間、そんな気持ちは和らいだ。男はゆっくり口を開いて、安堵の笑みを浮かべている。



「君がそう思ってくれて、とても嬉しいよ」



 ねえ、と、廊下に出ようとするペティアに男は言った。



「鉱物とは言ったけど、私はフィツエルネスが、ただの鉱物ではないような気がするんだ。私が追いかけてきたフィツエルネスはきっと、美しい色の石だけに留まらない……もっと、素晴らしいものが詰まっているんだと思うよ」



 まだ誰も見たことはないが、きっとそうなのだろう。

 穏やかな男の笑顔に、ペティアはそっと微笑み返した。



 本物のフィツエルネスに出会えなくてもなお、男は幸せそうな顔をしている。



 男はまだ、フィツエルネスを追いかけているんだ。ペティアは何となくそんなふうに思った。



―――――

 朝食を持って中に入ると、男は窓を開けていた。外から流れてきた風で、カボチャスープのいい匂いがしてくる。

 男もきっと、この味を気に入ってくれるはずだ。男の傍に近づくと、男はペティアの持ってきた朝食に、お、と目を留めた。



「これは確か、ラグムンクだね。前の町で食べたよ。じゃがいもが入っていて美味しかった。へえ、ホワイトソースも掛けるのか」

「これはこの宿だけなんですよ。パルテリアラグムンクって言って、前の宿主さんが考えたみたいなんです」

「カボチャスープもある」

「あ、はい。これも毎朝出しているんです。カボチャが好きだから何となく作ってみたらお客さんが気に入ってくれて……それから出すことにしたんです」

「カボチャが好きなの?」

「はい。お菓子にも料理にも合うし、僕の好きな緑で……あ、あと形も可愛い」

「そうか……よし、君の情熱を確かめるためにもよーく味わって食べなければ。でもまずはラグムンクかな」



 男はひとまずラグムンクを切ると、ふと顔を上げて、突然くすりと笑い出した。



「あの子達、まだいたよ」



 窓を向いて微笑する男の目線を辿ると、そこには木があった。木には、真っ白な鳩が二羽、こちらを向いて留まっている。



「さっき君が部屋を出てすぐに来たんだよ。白い鳩なんて珍しいね。サギとかマガンならここに来るまでの間何度も見たんだが、白い鳩はこの辺りじゃおろか、全然見ることもないからね」

「そうなんですか? 僕は小さいときから何回も見てますよ。群れでいることの方が多いって聞くけど、僕が見るのはいつも、一羽か二羽かな……。あ、でも、ステッツアさんも珍しいって言ってたからそうなのかもしれません」

「ステッツアさん?」

「あ、はい。ステッツアさんは、僕の母親代わりをしてくれた人なんです」



 男は意外そうに目を丸めて、声の聞こえてきた外を覗き込んだ。ここの持ち主だと思われる小奇麗な格好の男が、箒を持って歩き回り、傍から出てきた女と何か話している。



「なるほど、あの人がそうなのか」



 え、と男の隣から窓の外を見下ろし、ペティアは苦笑しながら首を振った。そこにいた恰幅のいい女は、ステッツアではなくディフカの妻のテナだった。



「あの人は違います。僕、ここに雇われたんですよ。あのときは確か一五歳だったから……そっか、もう五年も経つのか」

「へぇ、私はてっきり、ここの子だと思ってたよ。……確かに似てないね」

「僕の両親は、僕が四歳くらいのときに亡くなったみたいなんです。お父さんは旅先で事故に遭って亡くなって、お母さんは多分、ここの山のどこかで亡くなってしまったんじゃないかってステッツアさんが言ってました」



 正確には、ペティアの母は亡くなったのではなく行方不明ということになっていた。だけど、彼女のことをよく知るステッツアは、きっとどこかで死んでしまったのだろう、と信じ込んでいた。



 ペティアの母は、誰よりも息子を愛していた。たとえ母親よりも、おもちゃや犬やおやつばかりに関心を持つような息子でも、愛する自分の子供だと、夫が旅に出た後も大切に育てていた。



 だから、そんな彼女が急に息子を置いて出て行くはずがない。

 きっと、誰にも見つけられないところで死んでしまったのだろう……。

 確かな証拠があるわけでもなく、ステッツアはそう思っていた。


 ペティアが話すには、ステッツアは村のただ一人の助産師で、村にやってくるなり突然出産することになった彼女と親しくなり、その後も彼女の面倒を見ていたらしい。



 ステッツアが見たところによると、村に最初に来たとき彼女は大体今のペティアと同じ二十歳ぐらいだったそうだ。父親もその上くらいで、ペティアはその話を思い出すたび、自分のような年でもう子供がいたのかと奇妙な気持ちになった。



「なるほど、君の両親は若くして君を産んだんだね。私と正反対だ。私は遅くに家庭を持ったからね……妻が娘を産んだとき、私はもう四〇だった……」



 ゆっくりと朝食に目を落とし、男は小さく切ったラグムンクを口にした。美味しい、と呟いてカボチャスープに目を留めると、男は何かに気づいて、あれ? と声を漏らした。



「スプーンがない」

「置いてなかったですか? じゃあ、今持ってきますね」



 スプーンを取りにペティアが部屋を出て行くと、男は仕方なくサラダの盛られた小皿に手を伸ばした。

 すると、小皿の影から、ないと思っていたスプーンが出てきた。男はペティアに申し訳なく思いながらもサラダを食べ、今度こそスプーンを掴んでカボチャスープを飲み始めた。スープはその匂いを裏切らず、甘くて美味しかった。



 しばらくして、ペティアがスプーンを持って帰って来た。男の手にスプーンがあることにも気づかず、ペティアはトレイの上にそれを置くと、ゆっくり食べてください、と言って、慌ただしく部屋を出て行った。



 一口一口を愛おしむようにゆっくりと口にして、男が最期の食事を終えたときだった。ペティアが丁度部屋に戻って来て、フォークとナイフ、二つのスプーンが並べられたトレイを机に置いて、再び廊下に出て行った。

 廊下にはいつの間にか、水の入ったブリキのバケツとたらいが並べられている。その奥には、丸まったシーツの山もあった。



「そっか、すまないね……仕事をしなくちゃいけなかっただろう」

「いいえ、いいんです。それにさっき約束しましたし。話を聞かせてくれるって。だから、ほら。ここでシーツを洗えば、話をしながら仕事もできるなって思って持ってきました。あ……えっと、迷惑ですかね? いい案だと思って持ってきちゃったけど」

「いや、構わないよ。どうぞ、中に入って。話をしよう」



 ペティアは安堵したように頷くと、用意したそれらを隅に置いて早速シーツを洗い始めた。



「そういえば、さっきから気になってたことがあるんです」

 と、シーツに石鹸を擦りつけながらペティアが尋ねた。



「さっき、世界中の山を巡って来たって言ってましたけど、この山にもフィツエルネスはあるんですか?」

「ああ、それか。残念なことに、ないみたいなんだよ。フィツエルネスの研究では珍しいことに、それは確かなことなんだ。君は勿論、この村の歴史は知ってるだろう? それが何よりの証拠なんだよ」



 小さい頃に習った記憶では、この村は確か、約二百年前に出来たはずだ。それまでこの村と隣町の間には巨大な川があり、それが長い間この場所を隔離していたそうなのだ。



 というのも、その川は曰くつきの川として恐れられていて、誰もその向こう側に渡ろうとする者がいなかったらしい。今でこそ渇水して大きなくぼみがあるだけだが、当時は巨大なだけでなく川の流れも凄まじくて、橋を架けようとすれば必ず死者が出るほどだった。



 それに、各地で戦争が盛んに行われていた時代だったため、貴重な人材を削ってまで川を渡ろうと考える国もいなかった。

 だからこの場所は長いこと、高く聳えるパルティア山だけが有名になる未開の地とされていた。



 そんな川が勢いを失い、ようやく橋が架けられるようになったのは約二百年前。

 昔、どこかの山から帰ってきた男がフィツエルネスの話をした、といった詩が詠われたのは、今から約千年前のことだ。



 そういったわけで、このパルティア山にフィツエルネスはないとされていた。



「おじさんはどうしてここに来たんですか?」

「医者に言われた余命が近くなってね……ここの山に登りに来たんだよ。このパルティア山は、世界で一番高い山だって聞いたからね」

「そうみたいですね。けど、許可書をもらってくるか、一度試験を受けないと頂上まで登れないですよ。そうじゃなきゃ危ないらしくて」

「へぇ、やっぱりそうだったか。いろんな山を登って来たから話したら登れるんじゃないかと思ったんだが……どのみち無理だったみたいだね。……とりあえず、最期に自分が旅した世界を見てみたかったんだ。パルティア山の山頂からは、アチサテンタ中を見渡すことが出来るって、昔先生から聞いたからね」

「先生?」

「私にフィツエルネスを教えてくれた人だよ。そのとき一緒にいた私の友人達も、先生のその話に影響されて、何人かは初めの頃、一緒に旅をしていたんだ」



 確か十六歳のときだった……、と、男は遠くの雲を見つめて言った。友人達と近所の山に遊びに行ったとき、山の深部の方から、リュックを背負って下ってくる先生の姿を発見したのだ。



 先生はその後生徒達を家に招待し、これを探しに山に行っていたのだと、机から一枚紙を取り出した。そこには美術の教師らしく、息をのむほど美しい絵本のような絵柄で、虹色の不思議な形の石が描かれていた。



 自分がここで教師をすることにしたのはこのためでもある、と、そのとき先生は話していた。そう言った先生の顔がどこか恥ずかしそうだったのを、今でもはっきりと覚えている。


「先生も私と同じ理由で、この山に一度登ってみたいと思っていたんだけど、不自由な体になってしまって、その夢は絶たれてしまったんだ。私もいつか登ってみたいと思ってここに来たんだが……結果は知っての通りだよ。けど、君のような人に会えたから、それはそれで満足かな」


 それからしばらくの間、二人は会話を楽しんだ。

 フィツエルネスのために国を飛び越え、アチサテンタ中を回ったという男の旅の話は、まるで小説を読んでいるかのようで面白く、たくさんの驚きがあった。

 男が主に旅をしていた場所は、風景のよく似た山だった。だから、途中飽きてくることもあったけど、毎日同じことは起こらないものだと、男は笑いながら話していた。


 シーツを洗っていたペティアの手は、いつの間にか止まっていた。木の枝にいた二羽の鳩も、そうしているうちに姿を消していた。



 男の最期は近づいているはずだ。



 だけど、それが嘘に思えるくらい、この瞬間は二人にとって楽しいものだった。



 今までの人生を振り返る男の顔は嬉しげだ。目は微かに潤んでいるように見えるけど、それよりもずっと、生き生きとしている。



 最期って何? 意味すら忘れてしまうほどだ。



 今では曖昧になってしまった記憶もある、と男は話していたが、そのとき見た未来のことは、鮮明に思い出せているみたいだった。


「そっか……じゃあ途中、どこかの町で長居したこともあったんですね。それも何だか、面白そうだな」


 そんな話をした辺りからだった。男の返事がだんだんと遅くなり、声にも張りがなくなってきた。



 見ると、男は両手で胸を押さえていた。必死に堪えているようだが、昨日のような荒い息も漏れている。



 ペティアはすぐに男のもとへ飛んでいった。



 とうとうやってきたみたいだ。



 男の顔色は酷くて、もう戻りそうもない。


「あ、あの、アシェット……アシェットを呼んできます!」



 ペティアが急いで部屋を出て行こうとしたときだった。男が震える手でペティアの袖を掴み、短く何かを囁いて、手を離した。



 途切れ途切れではっきりとは聞こえなかったが、男は、ありがとう、と言ったようだった。ペティアは頷くと、ドアを開けて廊下を駆けていった。



 男の目は朦朧もうろうとしていて、ペティアの輪郭はあっという間にぼやけてしまった。


 ペティアがアシェットと一緒に帰ってくると、男は窓辺にぐったりと寄りかかっていた。苦しげな息はまだ続いているが、目はもう閉じたまま、開くことも出来ないみたいだ。



 二人がどうすることも出来ずただ男の前で立ち尽くしていると、遠くから、からからと馬車の音が聞こえてきた。エクが医者を連れて帰ってきたらしい。



 馬車の音が鳴りやむ頃には、男の荒い呼吸は消えていた。ペティアはゆっくりと反応のない男の手を掴み、アシェットを見上げた。

 アシェットがこちらを見返すと、後ろからエクとディフカ、それから医者のアシェットの父がやってきた。医者は男の姿を一目見るなり、手首を掴んで脈を測った。


「亡くなったのはいつだ?」



 すぐには答えられなかった。それすら知らなかったのだ。



「恐らく、今さっきだと思う。俺がここに駆けつけたときはまだ息をしていたんだが、間もなく消えてしまった」

「来るのが遅かったか……。旅の者らしいな。名前は?」



 え……、とアシェットは目を見開いた。思い出せないということは、聞いていなかったのかもしれない。



 大変なことをしてしまったのではないか、というような青ざめた顔で首を振ると、アシェットは急いでペティアに振り返った。



「俺がいない間に、何か聞かなかったか? この人の名前とか」



 同じように目を瞠ったまま、ペティアは、ううん……、と首を振った。後ろで沈黙していたディフカが、頭を抱え、はあ……、とため息をついた。


 フィツエルネス……。


 ふと、そんな言葉が頭を過った。



 だけどそれは、男の名前ではなかった。



―――――

 名前を聞きそびれたせいで、男の小さな墓石には『二八八八』と寂しく没年だけが刻まれることになった。名前は分かり次第、そこに記すことになっている。今、フリスアから呼び出した連邦の警察が、男の残した私物を頼りに身柄を調査していた。


 あれから五日が経過したが、パルテリアの宿はいつもと同じ光景を見せていた。もともとペティアの部屋だけで起こった小さな出来事だ。旅の男の話は少し噂が流れる程度で、後は通り風のように消えていった。



 だけど、ペティアだけは様子が違っていた。いつにもましてぼうっとしていて、失敗して叱られた後も妙に整然としていた。ペティアは亡くなったあの男のこと、そして、フィツエルネスのことをずっと考えていた。たまに我に返るときもあったが、気づけばまた同じことを考えていた。



 だから、夜の宿に珍しくやって来たアシェットにも、ペティアは最初気づかなかった。



「ペティア。具合でも悪いのか? 俺がさっきからエクさんと話していても、全然気づかないじゃないか」



 名前を呼ばれ、ペティアは今ようやく気づいたように、目の前のカウンターに座るアシェットを見やった。



「最近はずっと上の空みたいだな。前に外で声をかけたときも、全然見向きもしなかった。体の具合はいいんだろう?」

「一応……」

「じゃあ何か、気になることでもあるようだな」



 うん……、と手を止めたペティアの傍にディフカが近づいてくるのを見ると、アシェットは、後で聞く、と小さな声で囁いて、何事もなかったかのように夕食をとった。


 やがて客が減り、ディフカも食堂を出て行くと、アシェットは食器を片付けるペティアにそっと近づいた。



「気になることというのは、先日亡くなった、あの男の人のことだな」



 ペティアは静かに頷きながら、テーブルの食器を一つにまとめてアシェットを見た。



「ねえ、アシェット。フィツエルネスって知ってる?」



 フィツエルネス? と不慣れな言葉を呟いて、アシェットは首を振った。



「そうだよね……。この間亡くなったあの人、そのフィツエルネスを探していたみたいなんだよ。謎に満ちた、不思議な鉱物なんだって。なんでも大昔からその存在が知られているのに、見た人は一人きりで、最初にフィツエルネスのことを話したその人以外、今になっても見た人がいないんだとか」

「随分と怪しい話だな……。それであの人は、そのフィツエルネスを探しにここに来たのか」

「ううん。ここにはないんだって。それだけはわかってるみたい」



 真面目な顔で話すペティアを、アシェットはじっと見つめた。



「……そのフィツエルネスが気になるから、最近茫然としてたのか」

「そうみたい……それが一日中、頭から離れなくて……」

「なるほど。なら、調べてみたらどうだ?」

「調べる?」

「ああ。今でこそ寂れてしまったが、このパルテリアも昔は、鉱山業で栄えていたんだ。村長の家になら、何か鉱物に関する資料もあるかもしれない。フィツエルネスの情報ももしかしたら載っているかもしれないし、そうしているうちに気持ちも収まるだろう。そのためだけでも十分調べてみる価値はあると思う。後でネリーにも事情を話しておこう」


 そう提案された次の日から、ペティアは毎晩のように村長の家に通って鉱物の資料を読み漁った。村の学校にもなっているだけあって、村長の家には、村で一番というくらいたくさんの本が置いてある。

 しかし、どれだけ資料を読んでも、目ぼしい情報はなかった。ようやく名前を見つけたと思っても、フィツエルネスはページの隅に小さく『大昔に詠われた伝説の鉱物』と載っているだけ。そこに書かれた詳細も、男の話したものと変わりなかった。


 フィツエルネスのことを調べるたび、関心はどんどん深まっていく。


 あの人を惹きつけたフィツエルネスとは一体、どんなものなんだろう……。



 そう、今夜も考え事をしながら宿に帰ったときだった。客も眠り、しんと静まり返った食堂を歩いていると、月明りに照らされたテーブルの傍から突然影が動き出した。



「随分と熱心に勉強しているじゃないか」



 そう言って近づくディフカの顔は、どこか不満げだ。



「毎夜毎夜こんなに遅くに帰ってきて……一体何を調べてる」

「フィツエルネスという鉱物です。ディフカさん、知ってますか?」



 いや、とディフカは、首も振らずに即答した。ペティアが何を調べているかなんて関係ない。どうせ『仕事に集中できる方法』でもないのだ。



「アシェットからそれを調べないとお前の気が収まらないと聞いていたんだが……どうだ? 気は収まったか?」

「いいえ……多分、まだだと思います。調べてみても、知っていることばかり書かれていて……」

「まあ、仕事終わりに調べに通うのはお前の勝手だ。そのことに関しては、俺も何も触れない。……けど、そればかりに気を取られ過ぎて、仕事を疎かにしてしまうのは考えものだな。ただでさえお前はどこか抜けているんだ。それを助長されては、正直こっちも気が滅入る。お前には厳しいかもしれないが、仕事と自分のことはきっちり区別しろ。そのくらいお前にも出来るだろ」



 ディフカは暗闇の中で、ペティアが静かに目を落とすのを確かめながら深く息を吐いた。



「どうすればいいか、よく考えておくんだな」



 そう言って、ディフカは食堂を出て行こうとした。しかし、ペティアの返事は聞こえてこない。



 気になって振り返ると、ペティアは落としていた目線を上げて、じっとこちらを見ていた。暗闇の中でうっすらとだが、ペティアが口を開くのが見えた。



「あの……僕、旅に出たいんです」



 ディフカは唖然とした。それがまるで、先ほどの答えであるかのような言い方だ。



「旅……?」

「はい。僕、この間亡くなった人のように、フィツエルネスを探す旅に出たいんです。フィツエルネスが何なのか……どうしても気になって」



 ペティアは言いながら、突然そんなことを言い出す自分に驚いていた。けどその直後、何故驚いているのか不思議に思った。答えは既に出ていたはずなのに。



「……じゃあ、ここを出て旅に出ると言うのか。そのフィツなんたらという、わけのわからないものを探しに」

「はい」

「どこにあるんだ、それは」

「わかりません。ここの山以外としか」



 ディフカは呆れたように肩を落としてため息をついた。

 アシェットから話を聞いたときから、正直胡散臭い話だとは思っていた。そのフィツエルネスとやらを見た人が最初の一人しかいないというのなら、その人の作り話ではないのだろうか。



「あの……駄目ですか?」

「駄目に決まっているだろう。第一、お前に出来るわけがない」

「そうですか?」

「ああ。逆に、よく疑わなかったな。お前みたいにいつもへまばかり起こしているようなやつに、まともな旅が出来るわけないだろう。俺はそう思う。世の中を甘く見ない方がいいぞ」

「甘く見たつもりはありません。いつものような失敗も、起こさないつもりです」

「起こすだろう、必ず。そうやってお前は五年間ここでやって来たんだ。それにお前は、居場所もはっきりしないものを探しに行くんだろう? お前には厳しすぎる。分かってるのか?」

「はい。だから、長い旅にもなるし、あの人のように大変な思いをすることになるかもしれないと思っています。……だけど、どうしてもやってみたいんです」

「お前に出来るか! 甘く見るな!」



 ディフカの怒号が、夜の宿に響いた。

 一階のディフカの寝室から恰幅のいい女――テナが、うるさいじゃない、と小声で言いながら現れた。



「一体何? お客さんまで起きちゃうでしょ。あんたねぇ、お客さんを起こさない程度に注意するって自分で言ったじゃない」

「その話じゃない、黙ってろ。いいかペティア。俺はお前を心配して言ってるんだ。今のお前のようなやつに、とても旅なんて出来ない。ましてや長旅だ。ただでさえ厳しいんだ。下手をすれば、帰ってくることすら出来なくなる。それがどうして、お前になら出来るというんだ」

「……旅? ペティア、旅に出るの?」



 テナを無視して、ディフカは続けた。



「いつも仕事でやっているような小さな失敗なら許してやる。どうせ隣町からの見慣れた客しかやってこないような緩い宿だ。俺が一人で騒いでいるだけで、お前の間抜けな性格には誰も気に留めない。しかし、それはここだけだ。他の場所、特に、都会は違う」

「都会に行くなんて言ってません」

「ここを出れば別世界だと言ってるんだ。今までの常識も通用しない。そんな安直な気持ちでいると、いつか必ず後悔する羽目になるぞ」

「けどそれって、ずっとここにいても同じだと思います」

「お前というやつは……何も分かってないな!」



 ディフカの大声が、再び宿に響き渡った。



「路頭に迷ってからじゃ意味ないんだ! ここでだったら、お前の知り合いがいるだろう。けどここを出たら誰がお前を知ってる? 誰が世間知らずなお前を助ける?」



 ペティアは不服そうに口を噤んだ。自分が世間知らずだなんて思ったことはない。たとえそうだったとしても、確かめる術はここにはない。



「いつものような小さなドジだったら、問題ないかもしれない。だが、ペティア。お前のような素直なだけの性格では、とても世を渡ることなんて出来ない。それに、お前が探すのは、その得体のしれない鉱物だろう。見つけられる保証はどこにもない。はっきりしていたとしてもだ、望む結果になるとは限らない。見くびるな……!」

「別に、見くびっては……」



 と、そこまで言いかけたとき、テナが二人の間に割って入って来た。ディフカを見上げるその顔は、険しくありつつもどこか切なげだ。



「いい加減にして。お客さん本当に起きちゃうよ。そんな話はあとにして、今日はもう寝るよ、寝る。明日に差し支えるからね」



 ディフカの腕を強引に引っ張って、テナは食堂を出て行った。


 あいつも俺を舐めやがって……。



 そんな悔しげなディフカの声が、暗い廊下から聞こえてきた。


―――――

 そういったことがあってから、ペティアとディフカの間には、妙な緊張感が漂っていた。



 ペティアもいつになくはげしく眉根を寄せ、旅を認めてもらうため、珍しく問題も起こさず静かに、けれど怒った様子で淡々と仕事をこなしていた。



 しかし、ディフカは一つもそんなペティアを認めなかった。


「俺が旅を認めないことに不満があるようだがな、旅に出ればどんなに頑張っても上手く行かないことなんて山ほどあるんだ。それを理解できないうちは、お前の旅なんかとても認められないな」


 周りに客がいなくなったのを見計らうと、ディフカは時折そんなことをペティアに言い聞かせていた。ペティアは固く口を閉ざしたまま。一言も喋らず、ただ不機嫌そうに目を細めるだけだった。


 ある夜、夕食を取り終えたペティアが何も言わず食堂を出て部屋に戻ると、後ろから、あいたっ、と女の声が聞こえてきた。振り向くとテナが、ペティアの開けたドアの角に膝をぶつけ、両手で摩っていた。



「あれ、どうしたんですか?」

「ああ……。これ、しばらく取り換えていないだろうと思ってね」



 テナは手にしたシーツをペティアに見せると、一緒に部屋の中に入ってベッドのシーツを取り換えた。

 日焼けで黄ばんでいたシーツを剥ぎ、真新しい真っ白なシーツを敷く。シーツを照らした青い月光が分厚い雲に覆われると、テナの目にちかちかと白い光を残して部屋が真っ暗になった。



「ペティア。まだランタンをつけていなかったの?」

「あ、はい。ちょっと待っててください」



 部屋を歩き、ペティアは足にからんと何かをぶつけてそこに屈み込んだ。ぼうっと、と柔らかな光がそこに灯る。ランタンの周りには、衣類や食糧、リュックが置いてあった。



 ディフカには、絶対旅を認めない、と言われていた。けれど、ペティアは気づけば毎晩、無意識のうちに旅の準備を進めていた。



「もうその気になっているんだね、ペティア」

「はい……今まで部屋で何をしていたのか、思い出せなくなって……」

「何となくわかるね、その気持ち」

「あ、テナさんはどう思ってますか? 僕の旅のこと」

「そりゃあ認めているよ」



 と、テナも一緒に荷物の前で屈みこんだ。



「ペティアがそこまでしてやってみたいって思うことなんだ。あたしは賛成だよ。ま、ペティアがいなくなって寂しい気もするけど……あの人ほど反対はしないさ」



 リュックの中身を確かめて、今度砂糖漬けをあげようか、と言うと、テナはペティアを一瞥して、小さな声で言い出した。



「あのね、ペティア。ディフカの気持ちも分かってやってちょうだい。あの人も、ここに来るまでいろいろあってね……いや、別に、旅をしてたってわけじゃないんだ。ただ、目指していたものがあの人にも一応あって、それが一瞬で消えてしまったんだよ」

「……僕、ディフカさんが昔、フリスアの宿で働いていたっていう話しか聞いたことありません」

「そうだよねぇ……あの人意地っ張りだから、あまり話さないものね。……あのね、あたしもだけど、ディフカは昔、フリスアの大きなホテルで働いていたんだよ。ディフカはあのときから真面目だったから、働きぶりも認められて、いずれそのホテルの支配人になる約束をされていたんだ。……ああでも、初めはそんな話はなかったんだよ。支配人になる人は他にもいたしね。けど、その人はわけあってホテルをやめたんだ。だから、その代わりにディフカにどうかって話が来たんだよ」



 疲れた足を押さえながら、テナはゆっくり立ち上がった。



「そうお願いされたもんだから、ディフカも張り切っちゃって……。あんな性格だから、支配人に恥じない人間になるよう一生懸命努力したんだ。ちょうどあたし達には子供もいなかったし、その点ではディフカも仕事に専念出来て良かったと思う。だけど、知っての通り、ディフカは結局そのホテルの支配人にはなれなかったんだよ。最初に決めていた、ディフカの前の支配人候補が帰ってきちゃってね……それで、ディフカとの話は取りやめになったんだ。まあ、元に戻ったってことなんだけど。……だから、ディフカはそのときのことを悔しく思って、それであんな偏屈になったのよ。他の宿の支配人になってほしいってそう慰めのように言われてここに来たとき、ディフカは初めて振り回されたって感じたんだわ」



 隣で立ち上がったペティアを見ながら、テナは微笑を浮かべ、ふぅ、と肩を落とした。



「ディフカにも困ったものよねぇ。ペティアに当たったって仕方がないのに。けど、ディフカのあれは忠告だと思ってやってよ。たとえ本気でペティアを心配してたって、絶対良いふうには言わない人なんだから、あの人。……あれ?」



 と、テナは、ペティアの後ろを凝視した。



 ペティアが振り返ると、開いたままのドアの向こうから、いつものしかめっ面をしたディフカが現れた。



「普段階段なんか上らないお前が珍しく上っていったと思ったら、こんなくだらないことを言うためだったのか」

「くだらないなんて……。あたしはあんたの誤解を解こうと思ったんだよ? あんたがいつまで経っても言わないもんだから」

「頼んでもないのに余計なことをするな」

「そう冷たいこと言わないでよ。あたしはあんたの味方だよ。結婚したときからね」

「なら、ペティアの旅にお前も反対と言うわけか」

「別に」

「ほら。嘘つきやがって」



 ディフカはペティアの傍にリュックを見つけると、そこに歩み寄って中身を確かめた。

 衣服、食糧、ナイフ、地図……。本意かどうかわからない、余裕をもってすかすかに空けたリュックまできちんと用意されている。



「ここでの仕事はどうでもいいというわけか。準備だけは立派にしやがって」



 ディフカは睨むようにペティアを見やった。



「だがな、いくら準備が良くたって、結局は順風満帆になんか行かないんだ。この数日で、お前にも少しはそれがわかっただろう」



 ははっ、とテナが、快活にそれを笑い飛ばした。



「ほら言ったでしょう? 心配しててもどうしても憎まれ口を叩くんだって」

「心配なんかじゃない。俺は本当にこいつには無理だと思っているだけだ。正直、賭けてやりたいくらいだ。こいつには絶対出来ないってな」



 真正面からペティアを見、ディフカは鋭く目を尖らせた。



「俺はお前が泣いて帰って来たとしても、絶対に受け入れないからな。変えるなら今のうちだぞ。それでも出るっていうのか?」



 ペティアはゆっくりと頷いた。今までディフカと会うたび逆立っていた眉は、今は少し緩やかになっている。



「ディフカさんの言いたいことは、僕にも何となくわかります。……だけど、やっぱりそれが、僕が旅に出れない理由なのが納得できません。だから、行きます。あれから何回か考えてみたんですけど、どうしてもそうしたいみたいなので」

「ディフカ」



 と、不満げなディフカを見て、テナが諭すように言った。



「いい加減つまらない意地はやめようよ。確かにペティアの言葉に不安はあるよ。けどさ、ペティアならきっと、不器用ながらもやっていける。ディフカに五年も文句を言われ続けた人が、どうして辛いことに耐えれないって。保証なら既にあるでしょ?」

「どこがだ。いつも同じことばかり言わせやがって。少しも改善する気がないじゃないか」

「そうでもないよ。ペティアはよく頑張ってる。……ディフカ、疲れてるんだね。あんたもよく頑張ってるよ。たまには自分へのご褒美に休暇もいいんじゃない? 仕事ならほら、前病気にかかったときに代わってくれた人もいるし、冬になれば職を欲しがる人も出て来るし」



 それでもディフカは顔をしかめている。けれど、しばらくの間を置いて、ディフカは言い出した。



「……わかった。ペティア。お前の旅を認めてやる。だけど、お前がもし帰って来たとしても、俺は絶対お前に情けなんかかけないからな。それだけは覚えていろ」



 突然のディフカの許しに、ペティアとテナは目を瞠った。ペティアはその目を徐々に解いていくと、嬉しそうに頷いた。



「はい、ありがとうございます。ディフカさん」



 ディフカは何も言わず、部屋を出て行った。

 先ほどのペティアの笑顔を思い出しながら、口だけだがな、とディフカは思っていた。

2.足跡


 僅かに赤みを帯びだした朝の空を遠目にして、ペティアは懐かしい道を歩いていた。



 出発はまだだが、もうすでに旅の装いは出来てある。

 藍色のシャツに、緑の上着。履き慣れたジーンズと、テナと相談して決めた歩きやすいブーツ……。勿論お気に入りのニット帽も被って、石垣の向こうを見やる。



 そこから朝露を浴びた草原と、奥に見える森を眺めていると、前方から五十代ほどの女がやってくるのが目に入った。女はペティアが嬉しそうにしてこちらに駆けて来るのに気づくと、ふと数日前のことを思い出して、ああ、と呟いた。



「旅に出たがってたって聞いたけど……とうとう出ることにしたんだね」

「ステッツアさん、知ってるの?」

「ペティアのところのテナさんから、大体の話を聞いたんだよ……。そっか……じゃあ、ディフカさんも許してくれたんだ……あとで礼を言わないとね」



 よく耳を澄ませなければいけないような、特徴的な小さな声でステッツアは言った。

 ふくよかで大きな体に、耳にも垂れて来ない焦げ茶の短髪。一見すると男のようにも見えるが、気弱に落ちた瞼と柔らかな物腰から来るどこかミステリアスな雰囲気は、紛れもなく女性のものだ。



「テナさんから聞いたけど……何だかペティア、よくわからない鉱物を調べに行くんだって?」

「うん。フィツエルネスって言うんだよ。僕にそれを教えてくれた人も、アチサテンタ中を探し回ってたみたいなんだけど、詳しいことは結局よくわからなかったみたい。僕も本で調べてみたけど、細かいことは書いていなくて……それで、旅に出ることにしたんだよ。だから、長旅になると思う」

「そうだろうね……じゃあ、それで挨拶に来てくれたんだ。準備の方は大丈夫? 体調も悪くない?」

「昨日、お医者さんにいろいろ診てもらったんだ。一本怪しいのがあったから、奥の歯は抜いたよ。あと、なるべく馬車は使わず歩くようにしたら、運動不足にならずに済むって」

「そう……着替えはいらない? 昔のはまだ残ってるけど」

「え、だってもう大きすぎて着れないし」

「そうだね……でも、ちょっと家に寄っていって」



 ステッツアはペティアと一緒に家へと向かいだした。


「フィツエルネス、ね……。何だか懐かしい気分になるような、不思議な響きだよ……」

「ステッツアさんもそう思う? 僕も初めて聞いたとき、そうだったんだ。それで気になっているうちに、こうして旅に出ることにしちゃった」

「そう……ペティアもやっぱり、あの二人の子なんだね」

「何で?」

「あんたの両親のピエドとアースも、旅をしてここに来たんだよ。だから、ペティアもいつか、あの二人みたいに旅をするんじゃないかって、少し予感がしてたんだ。まぁ、思っていたのとは違う理由だったけどね……。だから、少し不安で……ピエドも結局、あんた達を残して旅に出て、そこで死んでしまったから」


 ペティアの父――ピエドは、ペティアがまだ四歳の頃、そして、アースが消息を絶つ二か月ほど前に、二人を置いて旅に出たのだという。旅の理由はアースも話さなかったからわからなかったが、とりあえずアースが言うには、三か月もすればすぐに帰ってくるような話だった。



 だが、ピエドはそのまま旅に出たきり、アースがいなくなった後も帰ってくることはなかった。



 初めはただ、帰りが遅いだけなのだと思っていた。だから、アースが突然姿を消した後も、彼女の友人であるステッツアが、ピエドが帰ってくるまでの間ペティアを預かることになっていた。


 しかし、結局ピエドが帰ってくることはなかった。


 彼が死んだとわかったのは、それから三年後のことだった。どこかの山で三年前、若い青年が、突然の土砂崩れに巻き込まれて死んだという話を聞いたのだ。



 ステッツアがその話を聞いたのは、当時まだ七歳の言葉足らずなペティアからだ。山に行く際は気を付けるようにと先生がしていた話だったから、詳しいことはペティアにもわからなかった。

 だから、最初気に留めなかったステッツアがそれがピエドだと気づいたのは、そこから更に二年後のことだった。


「お父さんのことは、あまり覚えてないな……」

「日中はずっと石切り場に働きに行っていたからね。アースといることの方が長かったから、無理もないよ」


 家へと着くと、ステッツアは中から何かを持ってきてそれをペティアに見せた。

 ステッツアの手にしっかりと握られていたそれは、小さな鍵だった。

 鍵には覚えがある。父と母、そして小さな自分……。かつての自分達の家――ステッツアの家の離れの鍵だった。



「これを持って行って。短い間とはいえ、ペティア達の家だったから……。そうだ、ペティア。久々に家に寄っていかない? その方が二人とも喜ぶよ、きっと」



 ペティアを連れて、ステッツアは家のすぐ傍にある小さな離れへと向かっていった。



 山の麓の林を背にしてひっそりと建ったその離れは、もともとはステッツアの家の小屋だったため、三人の家族がやっと住めるくらい小さい。だけど、ピエドもアースも、不便に思っている様子はなかった。むしろ、家を与えてくれたステッツア達家族に感謝していたし、この家をとても気に入っていた。



 鍵を差し込んでドアを開け、ステッツアはペティアと二人、すっかり埃っぽくなってしまった家に入った。



 今は誰も住まなくなった家の中は再び小屋として使われていて、木箱が幾つか入口の前に置かれていた。けれどそれ以外は、きちんとペティア達家族が住んでいた頃の名残がある。



 狭苦しく置かれたイスとテーブル。暖炉の向かいに置かれたベッド……。小さい頃、そのベッドに寄りかかりながら、窓の外の景色をぼんやり眺めていた。

 ベッドの上に置かれた犬のぬいぐるみも、とてもお気に入りだったのを覚えている。素材が良くふわふわしていて、一時期はそれを頭に敷かないと眠れなかった。



「アースのことは覚えているだろう?」

「うん……今思えば、大人しい人だったよね。僕が何か悪いことしたら注意してくれたけど、それ以外はただ僕の傍にいて、じっとこっちを見てた気がする」

「ペティアの母親だからね……少しぼうっとしてたよ。けど、ペティアのことはとても大事にしてた。少し危なっかしく思えるくらい、不器用ではあったけどね……」



 その頃のことを思い出して、ステッツアは優しく微笑んだ。アースもペティアと同じで少し抜けていて、子育ても覚束なく、いつも自分がアドバイスをしたりしていた。



 だけど、それでもアースのやり方はどこかぎこちなく、二人の親子のやり取りは端から見ていれば奇妙なものだった。ピエドがいればやっと親子らしく見えたけど、あの頃はよく、アースとペティアにひやひやさせられていた。

 けど、今思い返してみれば、それも楽しい思い出だった気がする。


「アースがいなくなったときのことは、今でも忘れないよ……。あまり泣く子じゃなかったペティアが、涙を浮かべてアースを探していたんだ。ああ、やっぱりお母さんが好きなんだ、って、当然のことながら思ったよ……。けど、林の中で珍しい鳥を見つけたらしく、すっかり機嫌直しちゃって……なんてげんきんなんだろう、ってあのときはすっかり呆れたね。……けど、まあ、そんなげんきんなペティアに、私も助けられたんだけどね……」


 二人は外に出て、改めてその小さな家を見やった。今はもう誰も住んでいないただの小屋だが、そんな懐かしい思い出話の後では今もそこにピエドとアースが住んでいるように思える。



 ペティアはステッツアから鍵を受け取り、しっかりとドアを閉め、それを握りしめた。

 今まで自分の面倒を見てくれた母親のようなステッツアに別れを告げ、抱き合って、ペティアは宿へと帰っていった。


 宿に戻って、ペティアは裏口に用意したリュックに温まったその鍵をしまった。



 すると、頭上に影が落ちてきた。見上げると、そこには静かな笑みを浮かべたアシェットがいた。



「きちんと確認はしたか? 俺もこの間、それで失敗した」

「うん、大丈夫だよ。テナさんに手伝ってもらって、もう何回も確認したから」

「そうか、ならいい。……ところで、昨日この話を聞いた後で思ったんだが、どこか目星はあるのか? どこにあるかわからないらしいが、闇雲に探すわけにもいかないだろう」

「うーん……あ、そうだ。それもテナさんに相談したんだけど、まずフリスアでしばらく情報を集めたらいいんじゃないかって。あそこは大きな街だから、誰か知っている人もいるかもしれないからって」



 そうだな、と安堵の笑みを浮かべてアシェットは頷いた。

 フリスアはここから真南にある大きな街だ。歩けば一瞬間はかかるが、それでもここパルテリアから一番近い都会だ。そこでなら、ペティアが求めている情報も手に入るかもしれない。



「それに、そこにはフリスア大学がある。フィツエルネスのことも何か知っているかもしれない。アチサテンタ中にある研究所とも繋がりがあるだろうから、行ってみたら案外何かわかるかもしれないな」

「わかった。じゃあ行ってみるよ」

「俺も来月には行くんだ。そのときはもう、ペティアはいないだろうが……」



 そんな話をしていると、食堂の方からテナとディフカがやって来た。テナの影で、ディフカは相変わらず不機嫌に口を噤んでいた。



「そろそろ出発するの?」

「はい。ステッツアさんにも挨拶してきたので」

「そう……。じゃあ、はい、ペティア」



 と、テナは小さな袋をペティアに手渡した。袋はずっしりと重くて、中から金属のぶつかる音が聞こえてくる。



「何だか忘れていたような顔をしてるね。覚えてない? 毎月の給料は半分だけでいいって、働き始めの頃言ってたじゃない。何でも欲しかった毛布が売れてしまったから、しばらく使う予定はないって」

「毛布……あ、そういえばそうでしたね。忘れてました。良かった」

「きちんと五年分の給料が入ってるはずだよ。大丈夫。ディフカはくすねたりしないはずだから」



 当たり前だ、とディフカが、固く閉ざしていた口を開いた。



「へまが多いから安いままではあるがな、俺はそんなにいい加減な人間じゃない。何度ペティアを叱りつけたと思っているんだ。自分が正しくなくて叱れるか」

「素敵。流石ディフカだよ」



 ペティアは受け取った金をリュックにしまい、それを背負った。そこで、ペティアはステッツアに言われたことを思い出して、ディフカの前に立った。



「あの、ディフカさん。今までありがとうございました」

「悪いが、礼を言われるようなことをした覚えはない。お前を叱ってばかりだったからな。むしろ、迷惑をかけられたとしか記憶にない」

「じゃあ、ごめんなさい。けど、ディフカさんにはやっぱり感謝してますよ。こうして旅に出ること、許してくれたし。……あ、それによく考えたら、ディフカさん五年も僕をここに置いてくれたんですよね」

「他のところで働けるとはとても思えないからな」

「あ、そっか。でも、ここで学んだことは結構ありましたよ。だから、これからの旅では、あまり他の人に迷惑をかけないようにします。ディフカさんに言われたこととか思い出しながら」

「一体この先、何人にそう言うつもりだ」

「うーん……わかりません。じゃあ僕、そろそろ行きますね。テナさんもありがとうございます」



 気を付けていくんだよ、とテナはペティアを抱きしめた。

 ディフカは胸元で腕を組んだまま。握手を交わすでもなく、ただ疑うような目でペティアを見るだけだった。


 二人に別れを告げると、ペティアは宿を出て行った。アシェットは友人の旅立ちを見送るため、近くまでだがついてきてくれた。



「ペティア、くれぐれも気を付けて行くんだぞ。旅ではいつ何が起きるかわからない。俺達もいないんだ。だから、たとえ何か起きたとしても、慌てないで対処するように」

「うん。ありがとう。でも、心配しなくていいよ。ディフカさんから何度も聞いたから」

「それだけ価値があるんだ。……とにかく、怪我や病気には気を付けてくれ」



 ぼんやりと色を出してきた青空に見守られながら、ペティアは一人山道を下りだした。

 林に挟まれてだんだんと姿を小さくしていくペティアの後姿を見ながら、アシェットはペティアの旅を応援するように、そっと微笑んだ。



 その頃、宿の玄関で見送りをしていたディフカは、今はもうすっかりペティアもアシェットも見えなくなった広場の方を見て、ぼそりと呟いた。



「忘れ物をしたと言って、帰ってきたりはしないだろうな」



 へっ、と隣のテナが失笑した。



「ディフカったら、間が悪い上に人も悪いね。そんなのペティアが旅立つ前に直接言えばいいのに。後で心配するよりだったらさ」

「そうじゃない」



 遮るような言い方だったが、その言い方に珍しく怒気は込められていない。



「あいつはひとまずフリスアを目指すらしいな……俺も行こうと思ってる」



 え、と、テナが丸めた目でディフカを見上げた。



「行くってディフカ。フリスアに?」

「勿論そうに決まってる。あいつにまともな旅が出来るわけがない。しかも、行く先は都会だ。このぬるま湯でぬくぬく育ったような男だからな。大変な目に合う前に連れ戻した方がいいだろう」

「じゃあ何? ディフカが代わりにその石を探しに行くというの? はっ。ペティアは二十歳の大人だよ? 子供じゃないんだよ。ましてや私達の子でもない。人の人生にケチつけるなんて……ディフカったら、何可笑しなこと言ってんだか」

「そう言うならお前の方こそ俺のやることにケチつけるんじゃない。お前とは夫婦だが、同じ人間じゃない」

「宿はどうするの」

「手伝いを呼べばいいんだろう? 誰かに手伝ってもらって休暇をとる。この間まですっかり忘れていたが、お前に言われて思い出した。それだけで済む話なんだ、簡単だ」


 ……あたしの旦那は物わかりのいい人だね。

 ペティアの元上司は最低だけど。



 呆れて出ないと思っていたその言葉は、テナの知らぬ間に、口から零れていた。



―――――

 深い森に挟まれた長い坂道を、ペティアは新鮮な気持ちを覚えながら下っていた。



 自分は今、憧れの旅をしている。そんな気持ちで歩けば、どのものも皆、特別なものに思えてくる。



 パルテリアにいる間何度も見ていた空も、針葉樹も鳥達も、全てが何かしら、新しいものに見えた。地面に足つく感覚も、いつもと違う。今は、一つ一つが違うものであるかのように、無意識にその感覚が足に刻み込まれていた。



 ここは、フィツエルネスを教えてくれた、あの男も歩いてきた道だ。



 あの人も、こんな気持ちで旅をしていたのだろうか……。そんなふうに男の気持ちを想像しながら、代わり映えのしない山道を楽しげに下っていく。



 しばらくすると、ペティアの目の前に大きなくぼみが現れた。くぼみは、一直線に伸びた山道を遮るように、真横に細長く伸びている。胸ほどの深さのあるくぼみに入ると、ペティアはあちこちに、突出した岩や、小さな石がたくさんその中に落ちているのを見つけた。



 ここは、渇水した川だ。東側を向けば、くぼみは見えなくなるくらいまでまっすぐと伸びている。西側を向けば、かつて滝があったのだろう、巨大な崖があった。



 二百年前まで、ここには激流が走っていたんだ。その跡を探すようにじっくりとくぼみを観察しながら、ペティアはくぼみを通り抜け、再び坂道を下りだした。


 正午を過ぎた頃だった。疲れた足を、木の根に押し付けながら休憩していると、見慣れた馬車が坂を上ってくるのが目に入った。



「何だか貴重な光景を見せられているな」



 思った通り、エクの馬車だった。



「ディフカからお許しが出たのか?」

「はい」

「いやぁ、信じられない。一応あんなでも、ペティアを認めるなんてことあるんだな。じゃあもう一日待ってくれれば良かったのに。そしたら俺の町まで送って行けたじゃないか」

「いいですよ、急いでないので」

「けど疲れるぞ? パルテリアにはないが、他の町に行けば、馬車で好きなところに連れてってくれる商売もあるんだ。たまに使ってみるのもいいかもしれないな。楽だぞ」

「うーん……楽しそうだけど、いいです。お金が無くなったらどこかで働いて稼ごうと思ってはいるんですけど、どうせなら美味しいものに使いたいので……。それに、歩いた方が健康にいいってお医者さんも言ってたので。また服を買い直すのも面倒だし」

「なるほど、現実的な考えだ。……それじゃあ、俺はそろそろ行くかね。餞別せんべつの金は……うーん、手持ちもないから、このリンゴにしよう、リンゴ。品物のリンゴだけど、まあ、どこかで落としたことにすればいいさ。直接会ったことはないだろうけど、ペティアは多分、この農家のお得意さんなんだろう。ならいいな。それじゃ、気を付けて行けよ」



 夕方になる頃には、ペティアはエクの住んでいる隣町へと着いていた。



 宿をとって寝るまではよかったが、朝目が覚めると、ペティアは旅をしていたことなどすっかり忘れて、まだ仕込みを始めたばかりの食堂に入っていった。そこでペティアは、傍にいたエプロン姿の男がディフカではないことに気づいて、旅をしていたことを思い出した。



 長い間宿で働いていたためか、そういったことは何度もあった。入って来た客に、テーブルから挨拶することもあって、そのたびに静かになった食堂の中でぼりぼり食べ物を噛む音を響かせていた。


 旅は発見の連続だった。山を降りて空気も変わったあたりから、辺りの風景は、ペティアにとって珍しいものになっていった。



 一番ペティアが面白く感じたのは、景色が開放的なことだった。町を出て郊外を歩けば、一面畑と平原が広がっていて、空と地面の境目がぐるりと見渡せるぐらいに見通しが良くなる。ペティアが二十年間住んでいたパルテリアは山の中にあるため、郊外に出て遠い境目を見ようとしても、どこかで必ず針葉樹にぶつかるのが当たり前だった。



 細い幹の間から見える地平線は、ペティアのお気に入りだった。

 日が沈む頃になると、まっすぐに伸びた不思議な色の線が、木と木の間で一層強く光るのだ。



 天高く伸びたパルティア山の山影は、日を増すごとに薄れていく。



 ペティアは少しでも大きな街に来ると、そこが目指しているフリスアではないかと思い、町の人に尋ねた。

 けど、そのたびに、まさか、と笑われてしまった。フリスアは、ペティアが今まで見てきたどの町とも違うらしい。地面からして違っているらしく、一目で大都会フリスアだとわかるそうだ。


 そんなフリスアに着いたのは、旅を始めてから一週間後のことだった。


 その日、宿に泊まりそびれ、草原で野宿をしていたペティアは、寝返った先の朝の光で目を覚ました。東の空から上りだした朝日の傍で、ペティアの瞳と同じ、淡い青緑の空が現れている。



 ペティアは起き上がって、くしゃみをした。この辺りはパルテリアよりも暖かい気候だが、朝はやはり寒い。ペティアは腕を摩りながら、フリスアがあるという南を見た。昨日はもう眠くて真面目に見なかったが、そこにはうっすらと建物の影がある。フリスアだ。



 ペティアはリュックの中のパンを食べてから、早速そこへ向かいだした。


 初めてやって来たフリスアは、まるで別世界だった。話に聞いていた通り、地面からして違っていて、石を敷き詰めた地面の上を、馬車がからからと音を立てながら通っていた。



 白くて上品なフリスア特有の建物も、遠くから見たのと同じように大きく高くて、隙間なく並んでいる。景色も音も空気も、石畳を歩く感覚も、どれも皆、初めてのものだ。大きなガラス窓を張った建物も、初めは随分と開放的な家だな、と思っていたけれど、よく見れば皆、店だった。その周辺は全てそうらしく、どの店も、店の名前を書いた窓の向こうに美術品のような商品を並べていて、見ているだけでも楽しかった。



 フリスアはアチサテンタの中で一番先進的な街だと言われている。まだ見てはいないが、井戸へ水を汲みに行かなくても、好きなときに水の方から建物の中にやってくるらしい。

 大きく、かつ、住みやすい街だ。皆が憧れるのも頷ける。



 だけど、驚くのは何も、それだけではなかった。朝露が消え、建物の間から朝日が差し込むようになると、フリスアの町はあっという間に人でいっぱいになった。



 大きなフリスアを見て回り、広場のようなところに来たときだった。ペティアは噴水を見つけ、そこに近づいた。



 やはり、フリスアの噴水は違う。大きさはパルテリアの噴水と大差ないけれど、広場がお洒落なパラソル付きのテーブルと、たくさんの人で賑わっているからか、水も輝いて見える。



 そんな水に手を触れ、立ち去ろうとしたときだった。あっ! という声と共に、太ももに何かがぶつかってきた。見ると、足元には、白い塊と、砕けてしまった何かの容器が落ちていた。



 白い塊が、どろっと石畳に溶けていく。



「あー! どうするんだよ、まったく!」



 子供の大きな声が聞こえ、ペティアは振り向いた。八歳くらいの小さな少女が、自分の隣でしゃがみ込んでいる。後ろにいた三人の少年達が、その落ちたものを見て、あーあ、と残念そうに声を揃えた。



「ほら、レイム。よそ見してるからだよ」



 レイムと呼ばれた少女は、落ちたそれを悲しげに見つめると、きっ、と太い眉を逆立たせてペティアを睨んだ。



「あたしの大事なアイス、落としやがって!」

「え、ごめん。全然気付かなくて……」

「せっかく今年最後のアイスにしようと思ってたのに、どうすんだよ」

「どうしよう……えっと、もうこれ売ってないの?」

「売ってるよ。けどもう、あたしの口には入らない……。最後のアイスなんだ。お小遣いも全部使い果たして、これで最後だと覚悟を決めたのに……」

「そうなの? じゃあ、僕が買うよ」



 すると、むっとしかめていたレイムの顔が、みるみるうちに明るくなっていった。



「本当?」

「うん。これ、アイスっていうの? 僕も食べてみようかな」



 レイムに案内されて、ペティアは広場の隅にある小さな露店に向かった。先ほどレイムが落としたアイスクリームという食べ物は、最近ここフリスアの名物となったデザートらしく、毎年この時期にだけ売られるそうだ。



 カップに盛られた丸いアイスクリームは、とても美味しそうな見た目をしていた。アイスには好きなソースがかけられるようで、ブルーベリーを選んだペティアのアイスには藍色のソースがかかっていた。



 初めてのアイスは不思議な食感だった。とても冷たくて、口に入れた瞬間、溶けると同時に甘みが広がるのだ。

 花を模したカップも食べられるらしい。けれど、木の板で出来たスプーンは流石に食べられないから、ゴミ箱に捨てなければいけない。その際は、そこに染みついた甘みをよく吸ってから捨てるのだと、レイムは説明した。



「初めて食べるんだろ? どう?」



 噴水の縁に腰かけて、レイムは尋ねた。ペティアはレイムとその友達の少年達にじっと見つめられながら、じっくりとアイスを味わっていた。



「名物になる理由もわかるだろ」

「うん。これ、美味しい。最初持ったとき冷たかったから、ちょっと意外だったけど」

「これ、今日で終わりなんだよ。だから来年まで待たなきゃいけないんだ。けど、これでしばらくは我慢できるな。最後にこんなに食べれたんだ。なにせ、さっきのはもうほとんど食べ終えてたからな」



 アイスを口にしながら、ペティアは、ふうん……、と呟いた。



 このアイスは、フリスア大学がとある料理店と協力して開発したものらしい。

 ペティアはレイムのその話を意外そうに聞いていた。てっきり専門的なことを学ぶ場だとばかり思っていた大学が、まさかこのアイスも作っていたなんて思いもよらない。



「あ、そうだ、レイム」



 と、ペティアは思い出したように尋ねた。



「そのフリスア大学ってどこにあるか知らない? ちょっと調べたいことがあって」

「調べたいこと? 何だ、その調べたいことって」



 うーん、とペティアはアイスを食べ、そのまま答えなかった。

 あの男以外、フィツエルネスを知っている人に会ったことはない。まだ子供だし、言ったところで分かるだろうか……。



 何? 何? と、レイム達に体を揺さぶられてせがまれた後、ペティアは言い出した。



「フィツエルネスっていう鉱物だよ」

「フィツエルネス……?」



 そう呟いて、レイムは首を振った。隣の少年達も、なんだそれ、と囁きあっている。



「そうだよね……。僕も詳しいことは分からないんだ。だから、そこに行けば何かわかるかと思って」

「じゃあこれ食べたら案内するよ。運動しないと、太ってしまう」



 アイスを食べ終えて、ペティアはレイムに言われた通り、スプーンに染みついた甘みをめいっぱい吸い込んだ。冷たくて苦い後悔の味が、ペティアの口の中に残された。


 それからレイムに案内され、ペティアはフリスア大学へと向かった。

 フリスア大学は、広場と繁華街から少し離れた静かな通りにあった。案内されたのは正門ではなかったが、塀の奥に見える建物は大きくて、ペティアは思わず圧倒されてしまった。こんなに巨大な建物は、今まで見たことがない。



 ペティアはレイムに礼を言おうと、後ろに振り返った。けれど、そこに既にレイムの姿はなく、並木の向こうに、腹を抱えて去って行くレイムと思わしき後ろ姿が見えるだけだった。そうっと門を潜り、ペティアは中に入った。傍を歩いていた学生に、ペティアは事情を説明した。



「ああ、フィツエルネスですか。聞いたことはあります」



 学生の意外な反応に、ペティアは少し安堵した。けれど、詳しいことは知らないらしく、教授に尋ねてみます、と言って、学生はペティアを連れて校舎を案内した。



 今まで宿屋以外の大きな建物に入ったことがなかったペティアは、たくさんの部屋があることに驚きながら辺りを見渡していた。だけど、その中に、あのアイスを作っているような場所は見当たらなかった。



「鉱物に関する講義は私も何度か受けたことがあります。けど、そのフィツエルネスの詳しいことは教わったことがないので、恐らくまだ、研究が進んでいないのだと思います。教授も多分、私と同じで詳しいことはわからないのだと思いますが、毎年卒業生が何人か、アチサテンタ中の研究所へ研究員として働きに行くので、それに関する研究所のことなら教えてくれると思います」



 応接室に通されると、ほどなくしてその教授がやって来た。教授は学生から大体の話を聞いていたのか、手には既に地図を持っていた。



「フィツエルネスを専門に研究しているところはありませんが、鉱物の研究をしているところならありますから、そこへ一度伺ってみてはどうでしょう? 連絡を取らなくなって久しいのですが……確か、ラクマノルにあったはずです」

「えっと……あ、フリスアがここですね」

「はい。なのでラクマノルは、ここからずっと南下することになります」



 地図の中のフリスアを指差して、教授はゆっくりと、なぞるように道順を示した。フリスアを南に出て森を通り、広い平野をひたすら進めば、そのラクマノルに着くそうだ。



 ペティアは持ってきた地図にメモを取ると、教授に礼を言ってフリスア大学を後にした。


―――――

 都会のホテルは村の宿とまるっきり違っていて、内装も、そこで働く人達も、フリスアの雰囲気と合わさって上品だった。



 ペティアは部屋の中で、そんな今までと違う雰囲気に驚かされながら、綺麗な絨毯の上を歩き、上質なベッドに弾むようにして座ったりしながら、しばし休憩を取っていた。



 部屋の中には、壁に突き刺さった細い鉄の管もあった。その傍には蛇口がついていて、それをひねると、下に置かれたたらいの中に、管の先から水が注がれた。水は濁りもなく綺麗だ。ペティアは両手でそれを掬い、口に含んだ。そして顔を歪め、すぐにたらいに吐き出して、さっきのアイスのように何か美味しい食べ物はないかと、再びフリスアの町を歩き出した。


 早朝に見た太陽は、西の地平線へと下りようとしていた。人の多い繁華街を歩いていたペティアは、そこで興味深いものを見つけ、足を止めた。



 あのホテルの内装のようなお洒落なカフェの中で、何人かが談笑しながらデザートを食べている。変わった形のケーキや、小さな葉っぱとクリームを乗せたパイ……。ガラスの向こうの老淑女が、ペティアの視線に気づいて奇妙な目でこちらを見返した。けれど、ペティアは気づく様子もない。



 すると、隣の方から、またいらしてください、と女の声が聞こえてきた。隣の店のその店員は、客を見送ると、ペティアに気づいてにこやかに微笑んだ。



「旅の方でしょうか? 履きのいい靴があるんですが、見ていかれませんか?」



 ペティアはそこへ向かって、言われた通り靴を見た。確かに中もふかふかで、履き心地のよさそうな靴だ。デザインも美しく、それでいて他にはない斬新さもある。



 どうぞ履いてみてください、と言われ、ペティアはその通りに靴を履いた。中は見た目以上に心地よく、中敷きの柔らかい感触が、疲れた足を癒すようだった。



「これ、いいですね。足の裏も気持ちよくて、これなら疲れないかもしれません」

「素材にもこだわっていて、水も弾きやすいようになっているんです。普段はこちらのブーツを履かれているんですか? 見たところ冬用のブーツのようですが、そちらは冬のみにして、こちらと併用してみるのもいいかもしれませんね」

「うーん……確かにいい靴ですね。ちなみにいくらするんですか?」



 値段を言われ、ペティアはぎょっと目を丸めた。その値段なら、宿に一週間は泊まれる。



「えっと、ごめんなさい……僕、そんなにお金使いたくないので」

「あ、では、是非他のもご覧になってください。これより手ごろな値段の靴は何点か置いてあるので」



 店の中に案内され、ペティアは靴を見て回った。すると、客が一人入ってきて、ペティアの傍にいた店員を呼んだ。



「この靴のもう少し小さいのはないか? 妻に買っていこうと思っているんだが」



 逆光で姿は見えないが、どこか聞き覚えのある声だ。店員が奥の部屋に靴を確かめに行くと、その客はペティアの傍に近づいてきた。服装こそ違うが、客は、ペティアの見知った顔をしていた。



「あ……ディフカさん?」

「まったくお前という男は、つくづく期待を裏切らせてくれないな」



 ディフカはペティアの腕を引っ張ると、また来る、と奥の店員に言って外に出た。靴屋を離れて、ディフカはすぐに、ペティアの腕を離した。



「ほらそうだ。どうせこうなるだろうと思ってた」

「ディフカさんどうしたんですか? 宿は? 僕はてっきりパルテリアにいると思ったんですが」

「お前を連れ戻すために休暇を取った。お前のことだから、都会で餌食になっていると思ってな。そしたら案の定そうだ……こんなんじゃ、数日後には全財産使い果たしてるだろうな」

「そうでもないですよ。さっきの靴も買いませんでしたし」

「そうじゃない。簡単に誘われてしまうのが問題なんだ。善良な人間なら良いが、悪い人間は必ず甘い言葉で相手を誘い込む。それで今みたいに素直に乗っかってみろ。結局苦い思いをするのは自分だけだ」



 確かにそうかもしれない、とペティアはディフカが来たことを不満に思いながら聞いていた。さっきのアイスなんかは、まさにそうだった。



「とにかく、まんまと思惑に引っかかるようなお前に、旅は厳しいということがしっかりと俺の目にも証明されたんだ。だから、一緒に帰るぞ。ありがたく思え。今なら前にした約束も取り消してやる」

「え、今からですか?」



 と、ディフカはペティアと一緒に空を見上げた。空はうっすら暗くなっていて、フリスアの白い建物も、僅かに橙色に染まっていた。



「そんなわけがあるか。とりあえず、手ぶらで帰るつもりはないからな。明日、お前と一緒にパルテリアに帰る。今夜は宿に泊まるぞ。いいな」



 ペティアはディフカと一緒に渋々ホテルに戻っていった。パルテリアに帰ることを認めたわけではないが、ディフカがまだ宿をとっていないみたいだったから、仕方なく一緒のホテルに泊まることになった。



 けれど、ペティアがホテルに案内すると、ディフカは途端に表情を曇らせた。受付をするときも、ディフカはカウンターの奥を見やって、突然わけのわからない提案をしだした。



「ペティア。お前が受付をして来い。ちなみに部屋は二人用だ。今夜はお前と同じ部屋で寝る」

「え、どうしてですか。自分でやってください。それに、急にそんなこと言われても困ります」

「いいからそうしろ。その方がお前も見張れる」

「嫌ですよ。それから僕、パルテリアにはまだ帰りません。フリスア大学にも行って、研究所の場所も聞いてきたんです。ディフカさんだって、僕が旅に出るとき留めなかったじゃないですか。今更そんなこと言われても、納得できません。もう仕事も辞めたし、関係ないはずです」

「うるさい。いいから、頼んだぞ。金も、今はお前が払ってくれ」



 ペティアが何かを言い返す前に、ディフカはさっさとその傍を離れていった。ディフカの話は無茶苦茶だ。旅立つときも、自分を引き留めたりしなかったから許してもらえた気になっていたのに……。今だってそうだ。何故か、先ほどとった部屋をやめて、二人部屋にしろだなんて言ってくる。



 ペティアは顔をしかめ、ひとまずディフカの言われた通りに受付をした。今ここでパルテリアに帰る気なんて毛頭ない。このために、涙を流して奥歯も抜いたのに。



 旅はする。必ず。



 ペティアの意志は、旅立つよりも固くなっていた。


「とりあえず、部屋の鍵はもらってきましたよ。でも僕は帰りません。そもそも、どうしてディフカさんがそんなに僕に拘るのか、わかりません。あんなに遠いのにわざわざ追いかけてきて……」

「それは、お前がパルテリアの外でやっていけないのをこの目で確かめたかったからだ。連れ戻そうと思ったのも善意のつもりだ」



 ディフカは意外にもすぐに答えてくれた。だけど、その目はどこか、周りを気にしているかのように泳いでいる。



「とにかく、その話は後にしよう。人前だ。注目を浴びる」

「あ、ごめんなさい……。けど、絶対に帰りませんからね。こんな形でパルテリアに帰るなんて嫌です。何度も言いますが、これからも旅を続けるんです」

「さっきも言った。話はみんな後だ。……それから、夕食は外で好きにとって来い。間違っても変な店には入るなよ。俺は残る。ついでに俺の夕食に、パンか何か買ってきてくれ。ああ、金は払う」



 ディフカから金を受け取り、ペティアは夕食を取りに町に出た。そこでレイム達家族に出会い、彼らと一緒に、近くのレストランで夕食を取ることになった。



 レイム達との夕食は楽しかった。勧められた料理も美味しく、その間は悩みも吹き飛ぶようだった。レイム達家族は皆、フリスアで生まれ育ち、そこから離れたことのない人達だ。だから、たった一週間だけのぺティアの短い旅の話も興味深げに聞いてくれた。ペティアが旅で見つけた発見は、彼らにとってはまた違う発見だった。


 けれど、そんな楽しいひとときも終わり、再び一人で夜の町を歩き出すと、ペティアはディフカのことを思い出して辛い気持ちになった。



 ディフカに何と言われようと、旅は続けるつもりだ。

 だけど、どう説得しよう……。



 そもそも、どうしてディフカは自分の旅の成功と失敗ばかりに拘るのだろうか。思い通りに行かないことは、そんなに辛いだろうか。



 ディフカが自分を追いかけてきたことに確かに不満はある。だけどそれよりも、ディフカのその執念が妙に気になった。



 必ず旅に出るって、ディフカさんに伝えるんだ。



 どうして今、旅を諦められるんだろう。アシェットやテナさんに教えられて、フリスア大学まで行ったのに……。


 だけど、そんな固い決意も、部屋に戻った瞬間どこかへ消えてしまった。部屋に入っても、中は灯りもなく暗いだけ。鍵もかかっていなければディフカの姿もなく、ペティアは思わず放心してしまった。買って来たパンも、いつの間にか床に落ちていた。



―――――

 ホテルのレストランは、十年前と変わらず落ち着いた雰囲気をしていた。ディフカはそんな懐かしいレストランを隅から隅までじっくりと見渡し、カウンターで酒を飲んでいた。



 あれから少し変わったところはあるが、どれも皆、覚えのあるものばかりだ。忘れかけていた小さな思い出まで、鮮明に蘇る。



 ディフカはそこから奥の厨房を覗き込んだ。昔、そこでよく、厨房の狭さを仲間と嘆いていたものだった。

 だけど、今はその要望も通ったのか、以前よりも広くなっている。



 きっと支配人が、従業員のためにと広げてくれたのだろう。そんなことを思いながら、また一口酒を飲んだ。あの人は本当に仲間からの信頼も厚くて、支配人になるに相応しい人だった。



 ことん、とカウンターにグラスを置いて、ディフカは寂しげに俯いた。

 すると、入口の方から、見覚えのある男が姿を現した。ディフカは思わず顔を背けた。従業員の中でひと際上品な格好をした男は、確かめなくてもここの支配人だということは分かっている。支配人は厨房へ向かうと、そこでコックと話をしだした。



「ご苦労様。今夜は穏やかな客入りだな。……ところで、長らく休止していた料理を、来週再開させることにしたよ。高騰していた海鮮類も、ようやく取引していいだけの額に落ち着いてきたからな。これを楽しみにしていたお客様には悪いことをしたな……」

「ええ……けど、良かった。あの料理、人気でしたからね。海も遠いですし。……あ、そういえば以前、西部の方でしたかね。海の近くからやってきたお客さんが、海鮮を使った料理を食べていかれたんですよ。だけど、海鮮類は鮮度が大事だから、やっぱりここの味は落ちるって言っていました」

「ここに来るまで、早くても四日はかかると聞いたからな……。そればかりは、仕方のないことなのかもしれない」

「だけど、そのときは春だったんです。ですから、冬に来て同じ料理を注文していかれたときは、美味しいって言っていただけましたよ。鮮度はやっぱり落ちるけど、春と違って道中傷むこともないですから、もしかしたら、この時期の方が美味しくいただけるのかもしれません」

「そうか……では、冬季限定ということにしておこう。百年以上続くホテルだからな。中途半端な料理を出して、名前を汚すわけにはいかない。わかった。よく検討しておくよ」



 厨房とレストランの様子をじっくりと確かめて、支配人は去って行った。ディフカはそれを見届けると、さっとカウンターを立ち上がって会計を済まし、そのあとを追いかけて行った。


 支配人は、ホテルの裏側にある洗濯場にいた。街の明かりで、僅かにしか見えない星空の下で、支配人はそこで見回りをしていた洗濯係の女と話していた。



「……こればっかりはどうしようもありませんね。年のせいですもの」

「ははっ。年のせいなら仕方がないな。私も最近、椅子から立ち上がるのが億劫なんだ。それにすっかり老眼になってしまって……以前よりも書類を睨む時間が増えてしまった」

「あら、老眼なら最近、私にもありますわ。なので、汚れも見落とすことも多くなって、最近入った新しい子に指摘されてしまったんです」

「ああ、この間のか。慣れては来ているのか?」

「ええ、だいぶ。なかなか正直で、はっきりとした物言いの子ですわ。言葉もちょっと鋭くて、この間指摘されたときも、どきっとしてしまいました。だけど、アドバイスをちゃんと聞いてくれるいい子です。手荒れが気になるって、毎日のように言ってはいますけど」

「手荒れか……私もそんなに肌が丈夫な方ではないからな……昔はよく、手を荒らしていたものだ」

「あら、そうなんですか?」

「ああ。今はそういう仕事もやらなくなって、毎日見回りと、机仕事だけだからな。手荒れの心配はすっかりなくなったよ」


 それから少し話をすると、支配人は女と別れ、洗濯場を後にした。ディフカは再び支配人を追いかけようとし、そこでそっと足を止めた。



 何だか少し、気が変わった。



 あの人は本当に、支配人の仕事をしているんだ……。毎日机に座って書類を確認したり、今みたいにホテルの見回りをしたり……。



 ディフカは一瞬俯くと、ゆっくり部屋に戻りだした。

 胸の中は奇妙な感覚だった。こんなにすっきりしているのは久々過ぎて気味が悪い。


 部屋に戻ると、ペティアはベッドの上でドアに背を向けながら寝転がっていた。ペティアはディフカに気づいて起き上がると、強気な目でディフカを見つめた。



「ディフカさん、部屋に残るって言ったのに……こんなに長い間部屋を出るなんて、聞いてません」

「確かに言わなかったな……それはすまない」



 ディフカは隣のベッドに腰かけると、撫でるようにそっと隣のパンを掴んだ。



「きちんと買ってきたんだな……ありがとう。ところで、お前はどうしてこのホテルを選んだんだ?」

「え……ただ、通りがかりに見つけたからです」

「そうか、そうだな。俺が昔働いていたホテルの場所なんて、誰にも教えなかった」



 そう言いながらパンを食べだすディフカを、ペティアは不思議そうに見ていた。パンを食べる音だけが響く、長い沈黙が続くと、ペティアはやがて、真面目な顔で言いだした。



「……ディフカさん。僕、やっぱり旅を続けます。折角ここまで来て、諦めるなんて出来ません。ディフカさんが、どうしてそこまで上手く行くか行かないかに拘るのかわからないけど、僕は、それがそんなに大事なこととはとても思えないんです。旅立つ前から、僕は何が起きても全部自分で責任を取る気でここまで来ました。だから……駄目ですか、どうしても」



 真剣なペティアの目を見、ディフカは少しの間を空けて静かに笑い出した。その笑い声は、ディフカにしては珍しく明るいものだった。そんな話、すっかり忘れていた。



「ああ、そうだったな……。別にいい、もう好きにして」

「え……?」

「今じゃ、どうでもいいんだ」



 ペティアは唖然とした。あんなに悩んでいたのに、こんなあっさり許してもらえるなんて。



「え……でも、ディフカさん。さっきまで全然僕の話聞いてくれなかったのに……」

「この短い間に気が変わったんだ……」



 千切ったパンを掴んだ手を見て、ディフカは呟いた。

 パルテリアを発って四日は経つが、手はまだ、がさがさと荒れている。早朝に井戸から汲んでくる水は、しびれるくらい冷たかったな。そのくせどの時期も台所は暑くて、来る客は皆好きなことを言い合い、あの狭いカウンターをうるさくしていた……。



「ペティア」



 と、パンを摘まんだ手を下ろして、ディフカは尋ねた。



「お前は以前、テナから俺の昔話を聞いたな。俺が以前、ホテルの支配人から、跡を継いでくれるよう頼まれたこと」

「はい……聞きました」

「あまりに急だったから、俺も初めはその気がなかった。だけど、期待をされているうちに、だんだんとその気になって来てな。いつ本当の支配人になってもいいよう、一生懸命仕事に打ち込んだんだ。……だけど、本来なるべき人が帰ってきて、そんな淡い俺の期待は裏切られてしまった。折角期待に沿えるようやってきたのに、支配人は都合が悪かったんだろう。他の宿の支配人になるよう、俺をパルテリアに追い払ったんだ。……けど、ほんのついさっき、そんなのはどうでもよくなってしまった。俺はホテルの支配人の仕事に憧れていた……だけどどうやら、昔だけだったみたいだな」



 ディフカはそっと顔を上げた。

 何故か今では、パルテリアの宿の思い出の方が懐かしく思える。



 常連客に対しても素っ気ない態度を取るのは、フリスアのホテルで働いていた頃からすれば信じられないことだ。だけど、そんな嫌な人間であるはずの自分を、彼らは認め、受け入れようとしてくれていた。

 長らく住んでいたこの都会――フリスアと、パルテリアという田舎は、常識が、違っていた。


「十年という時間は、案外長いものだな。今まで気づかなかったみたいだが、どうやら俺が思っている以上に、あの仕事はつまらなくないらしい。……奇妙なもんだな。そう思ったとき、俺をパルテリアに追いやったあのときの支配人が、途端いい人に見えた……」



 そう言ったすぐ後で、ディフカはむっと、いつもどおりのしかめっ面をした。



「まあ、あの人がやったことは、一つも正しいこととは言えないがな」



 けれど、険しいはずのディフカの表情は、どこか柔らかだ。ペティアはそんなディフカを見て、自分も思わず笑みを浮かべた。



 そういえば、フィツエルネスを教えてくれたあの男とディフカは同じような年だったな、とペティアは思った。何となく、ディフカのその穏やかな笑顔に、あの男の笑顔が重ねて見えたのだ。



「ペティア」



 と、掴んでいたパンを食べてから、ディフカはペティアを見た。



「正直、俺は今でもお前がきちんと一人旅できるとは思っていない。これから先、何かしら大変な目に合うだろう、きっと。旅なんかしてなくたって、なるときはなるんだ。けど、それでもわがままを言わないで、さっきお前が言ったように自分で責任を負えるなら、俺は心置きなくお前を旅に出せると思っている。どうだ、出来るか?」

「……はい」

「そうか、じゃあいい。いいか、そう言ったからには、必ずそうしろ。俺は明日、パルテリアに帰る。十年離れている間に、すっかり居心地の悪い街になったな、フリスアは」


 翌朝、ペティアとディフカがホテルを発とうとしたときだった。二人とすれ違った男が、ディフカに目を留めて、慌てて声をかけた。



 ディフカは驚くでもなく、整然とした様子で振り返った。そんな気は、何となくしていたのだ。



「ディフカ……十年振りだな。まさか、ここに泊まっていたなんて……。あのときからちっとも変わってないな……髭を伸ばしてたのは意外だったけど」

「ここに来るまで暇がなくてな。泊まったのはたまたまだったが、いいホテルになったじゃないか。新しい支配人のおかげだな……前よりもずっと良くなっている」

「ありがとう。ディフカはどうだ? 他のところで宿をしていると聞いたけど、元気にしてるか?」

「ああ勿論。……元気にしているよ」



 穏やかな笑みでそう返すと、ディフカはペティアと共にホテルを去って行った。


 早朝のフリスアは朝露が漂っていた。ペティアはディフカと別れ、だんだんと濃い水色に変わっていく空を仰いだ。



 旅はまだ、続けることができるんだ。



 少し湿気を帯びた、パルテリアとは違う空気を、ペティアは思い切り吸い込んだ。

3.青い雲


 青臭くなった空気の匂いを嗅ぎながら、ペティアは木の下で屈み込んでいた。ランタンは掴んだ手を柔らかく照らすだけ。その先は、雨の白い線が光るだけで真っ暗だ。



 今夜はここで野宿をするべきだろうか……、と、ペティアは泥みたいになった土を触りながら思った。



 この深い森の中には町があるらしいが、こんな状況ではとても探しに行けない。先ほども、雨の中探しに出かけたのだが、大きな雨粒が折角開いた瞼を閉ざしてしまって、断念せざるを得なくなってしまった。



 ペティアはそのまま空を見上げた。葉の隙間からも雨が零れてきているが、ここならまだましだろう。



 寝袋を取り出すと、ペティアはリュックごとその中に入った。濡れないよう頭もすっぽりとその中に隠し、木に寄りかかってゆっくり眠った。



「ん」



 それから一時間ほどが経過した頃だろうか。



 ペティアの足を何かが踏みつけ、音をたてて倒れ込んできた。



 寝袋から顔を出すと、その何かがこちらに気づいて暗闇の中硬直した。

 うっすらと浮かび上がる細長いシルエットは、どうやら人間らしい。こちらが唖然としていると、そのシルエットは微かに後ずさった。



「ひ、人……ですか……?」

「あ……はい」



 聞こえてきたのは若い女の声だった。女はそのまま黙り込んでしまったが、穏やかなペティアの声に、安堵している様子だった。



「えっと……マッチどこだったかな」



 暗がりの中、手探りでマッチを取り出し、ペティアは火を起こしてランタンに灯すと、一瞬で浮かび上がった女の方に目を向けた。


 白い肌に、どこか儚げな青い瞳。短い黒の上着と、胸から尻までをぴたっと覆った藍色のワンピース。その下に伸びた足には、膝までの黒いスパッツが履かれている。



 こちらを見つめる女と同様に放心していると、木の葉から滴り落ちて来た雨粒で、蓋を開けたままのランタンの火がふっと消えた。

 ペティアはもう一度火を起こし、今度はしっかりとランタンを掴んでから女を見やった。



 背中までまっすぐに伸びたその黒髪は、雨を受けてか艶やかに光っている。そんな女をしばし見つめて、ペティアはふと、その後ろに目を留めた。あの細くて白い線はもう見えない。



「あれ……雨が止んでる」



 ペティアは手を伸ばして雨を確かめた。微かにぽつぽつと聞こえてくる音はどうやら雨だれのようで、曇ってはいるが、雨は止んでいるようだった。



「少し前までは月も出ていたの。けど、また曇りだして……。ランタンも持ってこなかったから何も見えなくなってしまって、とりあえず戻ろうとしたらここであなたを踏んづけてしまったみたい。ごめんなさい……寝ていたのに」



 いいえ、とペティアは首を振った。女の声はその見た目と同じく、大人っぽくて落ち着いていた。



「ところで……どうしてこんなところで野宿をしていたの? 町はすぐなのに」

「え……でも、それらしいものも見えなかったし……。それに、雨が降ってて真っ暗だったから、今日は野宿をした方がいいと思って……」

「確か、この辺りに看板があったはずよ。私の記憶が正しければだけど……。えっと、そうね……どうしましょう。私は町に帰ろうと思ってるけど、あなたはここで野宿をした方がいいかしら?」

「あ……いいえ、僕も行きたいです」

「じゃあ、お詫びに案内するわ」


 二人はランタンで辺りを照らしながら町まで向かっていった。

 女はレノアと言うらしく、その町に住んでいるのだという。どうしてこんな夜中に町の外に出たのかと尋ねると、レノアは髪を耳にかけて俯きながら、気分転換だ、とだけ答えた。



「……これじゃあ、わからないわね」


 とある茂みの前で足を止めて、レノアが言った。レノアが見つめる茂みの先には、僅かにだが白い板が姿を覗かせている。レノアが、ぐい、と周りの草を手で寄せると、そこには、『ブレスデン』と書かれた看板が立っていた。



「夏の間に草が伸びて、そのままだったのね。うちはきちんと整備したのに……」

「『ようこそ』って書いてある……。じゃあやっぱり、この傍なんですね。全然見えなかったけど……」

「そうよね……。この辺りにも街灯を置こうという話も出ているんだけど、まだ取り掛かる気はないみたい。町の経費は皆、古城の補修代に行くもの」



 ふうん……、と呟きながら、ペティアは再びレノアと歩き始めた。

 何だかよくわからない話で、どう返答していいかわからない。けど、少し気になって、ペティアは間を置いてから尋ねた。



「古城……?」

「ええ、そう。……あなたは、ここに観光しに来たわけではないの?」

「いいえ。ラクマノルに向かっている途中なんです。観光もいいけど」

「そう……旅の途中なのね。てっきり観光客かと思っていたわ。……ブレスデンはね、長い歴史のある町なの。昔は騎士の国って呼ばれていて、小さいながらも強国ラクマノルと長い間対立してたのよ。ラクマノルも歴史のある町だけど、ブレスデンの方が歴史的遺産が多く残っているから、今は観光客も多いのよ。その古城も、目玉の一つなの」

「そういえば、昔授業で習ったかも……。今は観光地なんですね。それはちょっと知らなかった」

「ええ。だから、どうしても古城の補修の方が優先されるの。毎年春から秋にかけてお客さんが大勢来るから。……観光事業は大変だわ。連邦で唯一、貴重な歴史的資料のある街だものね」


 話をしているうちに、二人はブレスデンの入口へと着いた。分厚かった雲も今は消え、いつのまにか月も出ている。



 ほら、すぐでしょ、と言われてペティアが前方を見やると、そこには巨大な門が立っていた。門には、何年前からかわからない(つる)つるが、門を隠すようにしっかりと絡みついている。そんな弦の間から見える門の漆喰は、欠けたりひび割れたりしていて、そこには古さもそうだが、長い歴史を感じた。



 二人は門を潜って町の中に入っていった。潜った先に見えた町は、まるで森と同化しているみたいで、弦の絡まるレンガの建物の周りを、巨大な木が囲んでいた。



 どうりでここを見つけられなかったわけだ、とペティアは奥の建物からの明かりを見て思った。

 そんな町の明かりも全て、この森が隠していたのだ。



「ブレスデンは小さな国だったから、自衛だけはしっかりしなければならなかったのよ。だからこんなふうに、森の中に身を潜めることにしたらしいわ」



 とても不思議で面白い町だ、とペティアが言うと、レノアはそう説明した。そのため例の古城も、他の国のものと比べて背が低いのだそうだ。



「宿は確か、この町に三軒はあったはずよ。……けど、私も一緒に行かなければね」



 レノアに連れられて、ペティアは深夜のブレスデンを歩き出した。町の中央には大きな円形の花畑があって、そこには月を仰ぐかのように、秋の花が咲いていた。



 レンガの住宅が並ぶ通りを歩くと、ペティアは風変わりな景色に思わずぽかんと口を開けた。



 月光で優しく映し出されるだけだが、レンガの建物には、ピンクや水色、黄緑色の、柔らかなパステルカラーが塗られている。たくさんの色を混ぜた鮮やかな塀は、長い歴史の中で形を崩したのか、道に沿って波打っているようにも見えた。



 歴史のある町だから観光客が多い、とレノアは言うが、きっとそれだけではないだろう……。そんなことを考えながら歩いていると、ペティアは後ろからレノアに呼び止められた。気づけばレノアを追い越して先に進んでいたみたいだった。


「……駄目ね」



 と、レノアは宿の扉を掴んで呟いた。どうやら鍵が掛かっているらしい。



「こんな時間だもの……やっぱりもう閉まっているみたい」



 二人は仕方なく、他の宿も当たってみることにした。

 けれど、二軒目の宿も同じように閉まっていて、三軒目の宿は開いていたものの満室だったため、結局今夜泊まれる宿はないようだった。


「ごめんなさいね、連れまわしてしまって……」

「いえ、いいんです。ありがとうございます」



 空はすっかり晴れてしまっている。何かを考えるように俯くレノアの隣で、ペティアが手を摩っていると、レノアは突然、覚悟を決めたように顔を上げた。



「じゃあ……私の家に泊まりに来る? 開いてる部屋が一つあるの」

「え……いいんですか?」

「ええ。宿が開いてないんじゃ仕方がないもの。……ただ、ちょっと……」

「……ちょっと?」



 レノアは何も答えず、俯いて、そのまま歩き出していった。

 二人は再びもと来た道を戻って、入口の門の前まで向かっていった。この門のすぐ傍に、レノアの家があるらしい。



 すると、前方の暗闇の中から、ぬっ、と影が現れだした。



「レノア……!」



 レノアははっと立ち止まり、影を確かめて、目をそらした。

 こちらへとやって来たのは、六〇手前くらいの女だった。女は短くふんわりとした金の髪を光らせながら、心配そうな目でレノアを見やり、隣のペティアを一瞥してから尋ねた。



「レノア……一体どこに行ってたの、こんな時間に。さっき起きたら姿が見えなかったから、私、探したのよ?」



 レノアは少しずつ女に目線をやりながら、ごめんなさい、と呟いた。その眉は潜んでいて、言い方もどこか素っ気ない。



「ちょっと家を出たらこの人に会ったの。それで一緒に宿を探していたのよ」

「……そうなの?」

「ええ。……でも、どの宿も空いてなかったから、結局家に泊まらせることにしたの。急だけど、大丈夫?」



 ええ、まあ……、と、女は未だ不安げな様子で頷いた。

 レノアは女の返事を確かめると、すぐに家へとペティアを案内しだした。ペティアはレノアの後を追いかけながら、後ろからついてくる女に振り返った。レノアの話を訝しんでいるのか、女の顔は、どこか釈然としない様子だ。



 だけど、レノアはその通りのことを言っている。



 町から出ていた、とは言っていないだけで。


「さ、入って」



 と、レノアは真っ暗な家の中に入って、ペティアを中に通した。



「……そういえば、夕食は食べたの? 何か作った方がいいかしら?」

「いいえ。さっきリュックのパンを食べたので。……あ、でも、明日の朝の分はないです」

「じゃあ作っておくわ。……叔母さん」



 と、テーブルの上の蝋燭に火をつけて、レノアは女に尋ねた。



「今日は私の部屋で寝てもらっても大丈夫かしら?」

「いいけど……レノアはどうするの?」

「私は父の部屋で寝るわ。そうすれば丁度いいでしょ」



 そうね、という女の返事も待たずに、レノアは暖炉の横にある部屋へとペティアを連れて行った。

 

 部屋は宿とは違い、簡素でありつつも本棚やクローゼットがあって生活感があった。部屋の角には、大きな鞄が少しだけ口を開けて置かれている。レノアが蝋燭のある机へ向かうと、女が隅に置かれたその鞄を持ち上げて、散らかってるでしょ、と言いながら机の上を片付け始めた。



「……そうだ、あなた、名前は?」



 と、女はペティアに振り返って尋ねた。



「ペティアです」

「そう、ペティアさんね。私の家じゃないけど、ゆっくり休んでいって。……ああ、私はユッタよ。それじゃあ、おやすみなさい」



 机を片付け終えると、ユッタは鞄を持って部屋を出て行った。レノアが机の上の蝋燭に火を移すのを見ながら、ペティアは言い出した。



「最初、レノアさんのお母さんだと思ってました。けど、違ったんですね」

「ええ。叔母さんは私の母の姉なの」

「私の家じゃない、って言ってましたけど、一緒に住んでいるわけじゃないんですか?」

「ええ。でも、かれこれ三カ月は一緒にいるわね……。私の母は、ずっと前に亡くなったの。父も今、わけあって不在で、それで私の面倒を見るために、わざわざ遠くから来てくれたのよ。……私ももう二十四だし、大丈夫だって言ったんだけど、叔母さん、心配性だから」



 それじゃあまた明日ね、と言って、レノアはさっさと部屋を出て行った。



 ペティアはリュックを下ろし、上着を脱ぐと、灯してもらったばかりの蝋燭を吹き消してベッドに入り込んだ。

 先ほどまでユッタが寝ていたらしいベッドはほんのりと温かかった。窓の奥から聞こえてくる雨だれの音を耳にしながら、ペティアは柔らかいベッドの中に吸い込まれるようにして眠っていった。



―――――

 翌朝部屋を出ると、レノアとユッタの二人は朝食を取っていた。



 サラダとウインナーと目玉焼き……それらが乗った一枚のプレートが既に席には用意されている。



 挨拶をしたペティアがレノアの隣の席に着くと、ユッタは嬉しそうにバスケットから一つ、パンを差し出した。ライ麦で出来たパンは少し硬く、ほんのり黒かった。



「ペティアさん、って言うのよね。ぐっすり眠れたかしら?」

「はい」

「昨日は大変だったでしょう。あんな時間になるまでずっと町を探してたの?」

「いいえ。最初は森の中で野宿をしてたんです。そしたらレノアさんと出会って、町に案内してもらったんです」



 ユッタは驚いたような顔で、真正面に座るレノアを見やった。ペティアはそこで、レノアが町の外にいたことをユッタは知らなかったことを思い出した。けれどレノアはパンにバターを塗るだけで、特に弁明もしなかった。



 朝食を食べ終えると、ペティアは席を立って、食器をユッタのいる台所に返した。そのまま部屋へ帰ろうとすると、ペティアはあるものに気づいて、足を止めた。



 昨日は真っ暗で気づかなかったが、玄関の隣には大きな扉があった。扉は黒い木でできていて、どこか重厚な雰囲気を醸し出している。

 ペティアはそっと傍に近づいて、扉と扉の間に出来た細い隙間を見やった。隙間からは、白い光が漏れていた。



「レノアさん」



 と、ペティアは尋ねた。



「この部屋は、何ですか? 他の部屋の扉とちょっと違うみたいですけど……」

「そこは、演武場よ」



 テーブルを拭きながら、レノアは答えた。



「……演武場?」

「ええ。そこで観光客にレイピアの試合を見せているのよ」

「……レイピア……」



 ブレスデンの伝統文化なの、とレノアの代わりにユッタが説明した。



 騎士の国、と呼ばれていたブレスデンは大昔、そのレイピアを主な武器と使用していたらしい。他国が他の様々な剣を使って戦う中、ブレスデンだけはレイピアを使用し、レイピアの技術と戦術においては右に出る国がいないくらい長けていたのだそうだ。



 門のすぐ傍にあるレノアのこの家は、かつては兵舎があった場所だったという。この扉の先の演武場もその一部で、レノアの家は戦争の終わった約百年ほど前から、伝統文化のレイピアを見せ、歴史を伝えているのだそうだ。


 ユッタは重いその扉を開けて、中を見せた。中は広く、一面木の板を張り付けていて、少し改装しているようだった。



「入ってみてもいいですか?」



 ペティアはユッタと一緒にレノアの方に振り返った。レノアは畳んだふきんをテーブルに置き、そっと顎を引いた。



「そうね……まあ、構わないわ」



 三人は演武場の中に入って、広い部屋の中央に立った。

 大きなガラス窓から差し込む光が、演武場の中を明るく照らしている。演武場には家の玄関とは別の、外へと繋がる扉があって、その傍には観客用のベンチが六つ程と、角を小さく区切るようなカウンターが置かれていた。



 ペティアはゆっくりと歩きながら演武場の中を見渡した。壁に掛けられたボードには、レイピアの概要や歴史など、レイピアに関することが事細かに記されている。



 扉の真正面には、本物のレイピアが、まるで祀まつられているかのように飾られていた。レイピアは針のように細長い。柄の部分には、そこを掴む手を覆うように丸みを帯びた装飾がされていて、よく見るとブレスデンの象徴であろう木が描かれていた。



「本とかで見たことはあるけど、実際に見るのは初めてです。この演武場、レノアさんのなんですよね?」

「まあ……父が不在だから、今はそうなるわ。もともとここは、母のだったの。だけど、母は早いうちに亡くなって、跡継ぎの私もまだ小さかったから、代わりに不慣れな父がやることになったのよ」

「じゃあレノアさん、これ使えるんですね」

「ええ。一応、小さい頃からやっていたから……」

「へぇ……何だかカッコいいですね。これ、重そうだし」

「そうでもないわ。前に古城に置いてあったこれとは別の剣を持ってみたんだけど、そっちの方が断然重かったし」



 ふうん、とペティアは改めて壁に飾られたレイピアを見やった。確かに他の剣と比べたら軽い部類だろう。だけど、そんな重い剣もありながら、どうしてこの国ではレイピアばかり使われていたのだろうか。こういうのはてっきり、重くて大きなものの方が強力だと思っていたのに。



「えっと……その試合っていつ頃始まるんですか?」



 え、とレノアは不意を突かれたように目を瞠った。



「ごめんなさい……今は休業中なの」

「そうなんですか? ……どうして?」

「大した理由はないわ。……ただ、もうじき冬になるでしょ? そうなれば、観光客も少なくなるもの」



 そっか、と残念そうに肩を落とすペティアの横から、やってみましょうよ、とユッタが言い出した。その声は二人を驚かせるくらい突然で、妙に意欲的だった。



「折角だもの。見ていってもらいましょう。ペティアさん、旅をしているのよ。この町の文化にも触れてもらいたいわ」



 ユッタは早速、部屋の隅にある物置に向かっていった。そこにはレイピアが数本しまわれている。



「でも叔母さん、相手がいないわ。父もいないし、今から手伝いを呼びに行くわけにもいかないでしょ?」

「だったら私が相手になるわ。十年前にやったっきりね。覚えているかしら……」



 ユッタは二本レイピアを取り出して、その片方を右手で掴んだ。



 戦争も終わり、今は見世物になったそのレイピアは、真剣そっくりだが、先端は尖ってなく丸くなっている。

 ユッタは持ってきたレイピアをひとまずペティアに持たせてみた。大きな窓から差し込む光を受けて、レイピアは白銀に光っていた。



「うーん……やっぱり重かった」



 ペティアはレイピアを下ろしてそれをレノアに手渡した。レノアは気乗りのしない様子で受け取ると、じっとレイピアに目を落とした。



「難しいことはしないでね、レノア。私、十年振りなのよ。だから、少し手加減してちょうだい」



 理解したのかする気がないのか、レノアは曖昧に頷くだけだ。だけど、演武場の中央へとゆっくり進んでいくレノアを見て、ユッタは安心したようにそっと微笑んでいた。



 ペティアは一番前のベンチに腰掛けて、二人の試合を観戦することにした。中央に集まった二人は、少しの距離を離して向かい合うと、試合前の儀礼なのか、音を消すような静かな動きで、剣を顔の前に突き立てた。



 呼吸するのすら躊躇われるような、一瞬の沈黙だった。



 すると突然、何かが破裂したような大きな声が上がり、先ほどまでの静寂を破って、二人が相手に襲い掛かった。



 日の光を受けたレイピアが、細い光と光を交差させる。光は相手の体を何度も横切り、突いて、離して、払うを繰り返した。



 十年振りだというユッタは、体はしっかり覚えていたのか、老体にもかかわらず、機敏な動きでレノアの攻撃を避けていた。レノアも負けじと、汗を散らしながら必死に攻防を続ける。



 やっ! はっ! という二人の掛け声が、演武場内に響き渡った。



 やがて、レノアがひと際大きな掛け声を上げて、勢いよくユッタにレイピアを突き付けた。そこで、少し体勢を崩してしまったレノアに運悪く二の腕を突かれたユッタは、真剣な表情から一変、笑みを浮かべてそうっと動きを止めた。


 白熱とした二人の戦いはそこであっという間に幕を下ろした。

 呆気に取られていたペティアは、ゆっくり手を浮かせると、拍手をしだした。

 試合を見てみたいと言い出したのは歴史の勉強感覚だったのに、いつの間にか、そんなことも忘れてのめり込んでしまった。



「すごい……感動しました。こんなに迫力があって……それに、えっと……とてもかっこよかったです」

「そう? ありがとう……」



 レノアは額に溜まった汗を拭いて、レイピアを掴んだ自分の手に目を落とした。



「レノア、強いわ……」



 と、微かに震えた足で歩きながら、ユッタが言った。



「私の話した通り、難しいことは一切やらなかったのに、付け入る隙が一つもなかったもの。十年振りとは言っても、結構覚えてたみたいなのよ、私。それなのに、かわすのだけで精一杯だったわ」

「そうでもないわよ……」



 レノアが失笑しながら首を振った。



「叔母さんもその割に粘っていたし、私も結構いっぱいいっぱいだったのよ。母と比べたらまだまだだわ。未完成の技もたくさんあるし」

「ネーシスの技だって、結局完成してないわよ」



 レノアの手からレイピアを取って、ユッタは静かに言った。



「レノア。あなたが小さかったからそう見えただけ。ただ、ネーシスはそんなに気張ってなかったのよ。だからお客さんにも楽しんで見てもらえたんだわ」



 レノアは俯くだけで何も答えなかった。その顔には小さな笑みが灯っていたが、それはすぐに消え去ってしまった。



―――――

 演武場を後にし家の中に戻ると、ペティアは部屋から荷物を持ってきてそれをテーブルに置いた。



 ユッタは朝の残りのライ麦パンを紙に包んで、それをペティアに手渡した。

 先ほどあの重いレイピアを握ったからか、その手は少し、ぷるぷると震えている。



 ペティアは礼を言ってそれをリュックにしまうと、レノアと一緒に外に出た。


 朝のブレスデンは色鮮やかだった。花畑の花とパステル色のレンガの建物が、緑の森のキャンパスの中でたくさんの色を散りばめている。



 遠くの青空の下には古城と思わしき鉛色の屋根があって、町の建物の間からひょこっと姿を覗かせていた。



「あの、本当にお世話になりました。それじゃあ僕、行きますね。お二人とも、お元気で」

「ええ、また会いましょう」



 玄関の前に立ったユッタが、笑顔で手を振った。ペティアはユッタに見えるように大きく手を振り返すと、傍のレノアにもう一度礼を言った。



「あの……昨日の夜は本当にありがとうございます」

「いいのよ。でもペティア。私、あなたの足を踏んだのよ?」

「あ、そうでしたね。うーん……でも、そうならなかったら僕、昨日は一晩中あの寒い中にいたわけだし、いいですよ。ベッドも暖かかったし、おかげでぐっすり眠れました」

「そう、ならいいわ。……けど、変な話ね」



 ふふっ、とレノアは肩を上げて笑った。

 さようなら、と手を振ってペティアと別れようとすると、レノアは自分達を横切った郵便屋が、大きな荷物で玄関を塞いでいるのを見て、



「待って。送っていくわ」



 と、ペティアの傍に駆け寄った。二人は入口の白い門を潜って町の外に出た。

 からからと音を立てた馬車が、二人と入れ違っていく。また、観光客が来たらしい。



「今度来るときは古城も見ていきますよ」

「そのときはちゃんとこの町を見つけてあげてね」



 と、歩きながらレノアは皮肉っぽく返して苦笑した。



「あ、あと、もう一度あのレイピアの試合を見たいです。そのときはちゃんとお金も払って」

「え……そう? けど、さっきのと大体一緒よ。あまり変わらないわ」

「そうなんですか? うーん……でも、それでもいいかな、楽しかったし。昔の人はすごかったんですね。男だけど、僕には難しそう」



 隣を歩いていたレノアが、ふっと足を止めた。ペティアが不思議に思って振り返ると、レノアはそうしなければいけないように微笑んで、



「それじゃあ、この辺にするわ。気を付けていくのよ」



 と、手を振って、森の中に溶けていくように帰っていった。



 ペティアは、はい、と手を振り返すと、名残惜しそうに何度もレノアの方に振り返りながら、木漏れ日の揺れる森の中を歩きだした。

4.セピア色の旅路


 ラクマノルへと続く平野に、ペティアは少し飽きていた。



 ブレスデンの森を抜けて十日は経つが、未だにラクマノルらしきところへは着かず、辺りの風景も変わらない。

 珍しいものといえば、最近西にうっすらと見えだしてきた山影ぐらいなもので、他は何日も見て来た空と草、たまに見る林だけで、ほとんど殺風景に近かった。



 日が進むにつれて色を変えていく空と大地は、確かにこのような場所だと見ごたえがあるかもしれない。西の地平線に太陽がとっぷり浸かる様も、じっくり眺めることが出来て、決してつまらないわけではない。



 手編みのニット帽が証明しているように、もともと飽きっぽい性格ではなかった。



 けれど、こうも変わり映えのない風景が続くと、道を外しているのではないかと危惧してしまう。たまに馬車とすれ違うからその心配はいらないのだが、この風景がこの先もずっと続いていくような、そんな不安が時折頭を過るのだ。


 水たまりを踏みながら、黙々とそんな平野を歩いているときだった。ペティアはふと、隣を歩く自分の影が薄くなっていくことに気づいた。辺りも何だか薄暗い。空を仰ぐと、薄黄色の空を、灰色の雲が覆い隠そうとしている。



 雨だ。



 ぽつりと小さな雨粒が指に触れ、雨はそれを皮切りに、ざあっ、と激しく音を立てて降り出した。

 ペティアは前方に林を見つけると、急いでそこに駆けだした。この地方のこの時期は天候が崩れやすいようで、ブレスデンの森を抜けた辺りから、こういったことは何度も繰り返していた。



 林に入ると、小さな家を見つけた。家は空き家なのか、窓が外れかけていて、人が住んでいる様子は見当たらない。伸びきった雑草の上には折れた梯子が横たわっていて、ペティアはそれに足をぶつけながらひとまず玄関の前に向かった。ここなら屋根があるから、雨を凌ぐことができる。



 一息つくと、ペティアは家の玄関をじっと見やり、念のためドアをノックした。返事は聞こえてこない。鍵もかかっていないのか、試しにドアを開けてみると、ドアは抵抗もなく簡単に開いた。



 ペティアはそうっと中を覗いた。中はがらんとしていて、確実に人が住んでいないらしい。



 一旦ドアを閉めて、ペティアはドアの上部に刻まれた小さなマークをまじまじと見つめた。家の古さに反して、そのマークは比較的最近刻まれたように見える。簡単な丸の中に何かの頭文字が入っているみたいだが、一体これはなんだろう……。



 とりあえずドアを離れ、ペティアは小雨に変わった空を見上げた。空では灰色の雲が、黄色く浮かんだ他の雲と混ざりながら西に消えようとしている。それを目で追いかけ、ペティアは雨の向こうに、夕日が触れて滲んでいく、地平線の光を見つけた。もうじき夜になるらしい。



 今夜はここで野宿をしよう。家に入っていいのか気になるけど、屋根もあるからここでもいっか。



 ドアの前に座って、ペティアはぼんやり前方を見つめた。だんだんと紫色に変わっていく空。

 そこに、黒い粒が浮かんでいる。渡り鳥だ。



 そんな渡り鳥を見つめて、ペティアは夕食のパンを取ろうとリュックに手を入れた。

 すると、目の端に何かが映って、ペティアは振り返った。白くて小さな鳥が二羽、ペティアの目の前を掠るように飛んでいく。あれは、パルテリアにいたときにも何度も見たあの鳩だ。



 あの鳥も、渡り鳥だったんだ……。



 そんなことを思いながらパンを食べ、寝袋に入り、その日はドアに寄りかかって眠った。


―――――

 次の日も、ペティアは平野を歩いていた。

 昨晩は雨風が酷く、平野は水たまりや、どこからやって来たのかわからない葉っぱで散らかっていた。


 正午を過ぎた辺りだった。



 昨日よりもくっきりと浮き出た山影を見つめて歩いていると、近くに何か、妙なものを見つけた。

 近づいてみると、馬車だった。けれど、馬はいなくひっくり返っている。馬車は牧草を積んでいたのか、大きな布と草が、泥だらけの馬車の下敷きになっていた。



 ふと、ペティアはそこであるものを見つけた。



 形を見る限り女性のだろうか……丸まったまま微動だにしない手が、馬車の下から助けを呼ぶように伸びている。



 ペティアはすぐさま屈み込み、恐る恐るその手を掴んだ。白い指が微かに反応し、まだ生きているのが確認できた。



「あの、聞こえますか? 大丈夫ですか?」



 けれど、返事は聞こえてこない。



 一体どうすればいいだろう……、と辺りを見渡していると、遠くの方から男が一人、こちらに向かってくるのが目に入った。男はペティアの視線に気づいたのか、こちらが呼ぶ前に走って来た。



「ああ、気にしないでくれ。俺の馬車なんだ」



 と、男は苦笑し、汚れてところどころ傷んだ馬車を下から上まで見やった。



「いやぁ……ひでぇ有り様だな。大事な商売道具だってのに……これじゃあ修理もままならない」

「これ、おじさんの馬車なんですか?」

「ああ」

「この馬車の下で誰か、下敷きになってるみたいなんです」

「人?」



 と、ペティアの目線を辿った男の顔が、一瞬で青ざめた。ペティアに掴まれたその手はぴくりとも動かない。気力を失くしたその手を見て、男は思わず膝を震わせた。



「う、嘘だろ……? 俺は、そんなつもりじゃ……」

「とりあえず、この人を助けないと。中から苦しそうな息が聞こえてくるんです。えっと……まず、この馬車をどかした方がいいですね」



 その言葉に、男は目を瞠った。どうやらまだ、自分は過ちを犯していないらしい。



 男は隣からその手を掴み、手首の内側に二本の指を押し付けた。脈はある。それに、よく耳を澄ませてみると、ふう、ふう、という息が、馬車の下から聞こえていた。



「……わかった。ちょっと待ってろ。俺が今、助けを呼びに行ってくるからな。その間に、そうだな……布を留めたロープをナイフか何かで切ってくれ」



 男はすぐさま来た道を引き返して救援を呼びに行った。


 それからしばらくすると、男は三人の救援と共に馬車に乗って帰ってきた。

 ロープを掴んで荷馬車から下り、男は早速それを壊れた自分の馬車に繋いで引っ張った。後ろから馬車を押すペティアの力も借りて、馬車は五分と経たないうちにどかすことができた。


「……ありゃ……女の子か?」


 馬車の下から現れたのは、ペティアと年の近そうな少女だった。

 緩やかなポニーテールが、辛そうに目を閉ざす少女の頬にかかっている。枯れた草と同じ色をした、膝までのワンピース。太ももを覆う分厚い黒のタイツと、膝をすっぽりと隠したロングブーツは、牧草と泥ですっかり汚れていた。



「おい、大丈夫か?」



 聞こえているのかいないのか、少女は、ううっ……、と小さく唸るだけだ。ペティアは男に言われた通り少女を抱き上げると、馬車の中にそっと寝かせた。


「ミヒに預けたら、すぐに医者を呼びにいかないと……おい、あんた」



 男に呼ばれ、ペティアはすぐに反応した。



「あんたはこっちに向かってたのか? ついでだから乗って行けよ。礼もしなきゃな」

「あ、はい。ありがとうございます」



 ペティアは馬車に乗り込んで、少女の隣に腰を下ろした。



「ひやひやしたぜ……けど、目を覚ましたらどんな顔すればいいんだ、俺」



 そんな男の呟きを合図にしたかのように、馬車が動き出した。



―――――

 買い物を終えたペティアは、夕日を追いかけるように、男――カツゲの家へと向かっていった。



 町の中は建物が密集していて気づかなかったが、カツゲの家のある郊外に来ると、その寂しい風景に、はっと現実に帰ったような気分になった。

 家の隣には、小さな馬小屋があるだけ。あとは通って来た道と同じく、ぽつんと立った木と、セピア色の平野が広がるだけだった。


「あら、おかえり」



 ドアをノックすると、肩まで髪を伸ばした女――カツゲの妻のミヒが現れた。ミヒは待ってましたと言わんばかりに嬉しそうにペティアをリビングに通すと、コーヒーを出し、どこから来たのか、どうして旅をしているのか、興味深げに尋ねた。



 フィツエルネスのことは、思っていた通り知らないみたいだった。パルテリアの場所もわからなかったようで、パルティア山があるところだと言うと、ミヒはようやく理解したように、なるほど、と頷いた。

 ついでに地図を見せると、ミヒはその遠さに驚いていた。久々に地図を開いたペティアも、パルテリアからここまでの道の長さに少し驚いていた。知らぬ間に、自分は随分と遠くへ来たらしい。窓から見える桃色の空を眺めながら、ペティアはぼんやりと、パルテリアの風景を思い出していた。


「ここへは歩いてきたの? じゃあ小屋には世話になったでしょ」



 小屋? と二つ目の砂糖をコーヒーに入れて、ペティアは目を丸めた。



 ミヒの話によると、ここ――アチサテンタ西部連邦では、一部の小屋のみ、誰でも許可なく使用していいことになっているらしい。というのも、主に旅人に向けてであり、どうしても野宿がままならないときのために開放されているのだそうだ。



 ペティアは昨日林で見つけた、あの小屋のことを思い出した。ドアの上部に刻まれたあのマークは、使用していい、という意味なのだという。

 けれど、昨日のがそうだったように、そのほとんどは今は所有者をなくしたおんぼろな小屋で、毎月警察による検査と巡回は行われるものの、基本、使用は自己責任とされていた。



「いずれは撤去されるような話もあるから是非使ってちょうだい。ま、私のじゃないけど」

「実は昨日、嵐が酷くて使わせてもらったんです。最初は入っちゃいけないのかなって思って、ドアの前で野宿してたんですけど」

「印があるなら大丈夫よ。この辺りは多いらしいわ。過疎化も悪くないわね。旅人の役に立って何よりだわ」



 と、皮肉を言った後で、そうだ、とミヒが思い出したように目を開いた。



「あの子、起きたわよ。どうやら腕も少し痛めていたみたいね。長いこと馬車に踏まれていたもの」

「風邪の方は大丈夫ですか?」

「うん、まあ……軽くはないけど、薬も貰ったからうちで何日か安静にしていれば治るでしょ。いやぁ……昨夜は本当酷い嵐だったわね。そんな中半日も馬車の下敷きになってたら、そりゃあ腕も痛めるし、風邪だって引くわ」



 ミヒの話す通り、昨夜は本当に酷い嵐だった。林の木々も強風で体を反らしていて、ペティアも叩きつけるような雨に目を覚まし、結局小屋の中に入って一晩を過ごしたのだ。



 だけど、この辺りはもっと激しかったらしく、馬車を走らせていたカツゲも、目も開けられないほどの強風に歩くのを余儀なくされたのだという。



 けれど、道を曲がる途中、突風に煽られ馬車が転倒してしまい、馬車を置き去りに、馬だけ連れて帰ることにしたのだそうだ。


 少女が馬車の下敷きになったのは恐らくそのとき。だけど、そんなことは一つも知らなかったと、ここに来るまでの間、馬車に揺られながらカツゲは話していた。びゅうびゅうと吹く風のせいか、悲鳴も聞こえなかったそうだ。



「あの子、どうやら馬車の中で嵐を凌いでいたみたいね。長旅で疲れてすぐ眠ってしまったそうよ。だから、気づいたときには馬車の下敷きになっていたってわけ」



 ミヒ曰く、少女が馬車に乗り込んだときにはカツゲと馬の姿はなかったらしい。カツゲが話すには、そのときはちょうど、近くにあった森に馬に水を飲ませに行っていたのだという。



 あの辺りは小屋もなく、屋根のように布を被せた馬車だけが少女を嵐から守ってくれる存在だった。だから、慌ててカツゲが馬車に戻ったとき、少女は既に馬車の中にいたのだ。



「風邪のせいで元気ではなかったけど、しっかりした感じの子だったわ。大変な目に遭ったのに、馬車に乗り込んだこと、とても申し訳なく思ってたわね。まだ眠っているとは思うけど、もうしばらくしたら様子を見に行ってちょうだい。あなたに会いたがってたわ」


 カツゲも帰ってきてしばらくすると、ペティアは少女の様子を見に席を立った。



 少女の部屋は静かだった。ノックをしても返事はない。



 ペティアはミヒに言われたことを思い出してそっと部屋に入り、たらいの置かれた机に向かった。



 すると、目の端に何かが映った気がして、ペティアは窓の外に目を向けた。窓の隙間から、茶色い髪を伸ばした少女と目が合う。



 ん、と開けていた口を閉じ、ペティアはベッドを見た。そこには抜け殻のように膨らんだ布団しかなかった。


 裏口から外に出て、ペティアは少女のもとに向かった。角を曲がると、窓の前にいた少女は、少し奥の馬小屋の前に立っていた。



「あ、ごめんなさい。窓からこの子の鳴き声が聞こえて、それで少し、会ってみたくなったんです」



 馬を撫でながら少女は言った。パジャマの上に白いケープを羽織った少女は、風邪のせいか、顔が少し赤くなっている。



「もしかして、ペティアさんですか? 緑のニット帽を被った人だって、ミヒさんから聞きました」

「うん。えっと……名前、ミヒさん達から聞いてなかったな」

「ブロッセスです。あの、助けてくれて、ありがとうございます。お礼は……大したことは出来ないかも知れないけど……」

「ううん、いいよ。それに、僕は見つけただけで、馬車の下敷きになってたブロッセスを助けたのはカツゲさん達だし」

「カツゲさんとミヒさんには、風邪が治ったら何かお返しをしようと考えているんです。だけど、ペティアさんは旅の人なんですよね……」



 ぶるる、と鼻を鳴らした馬を慣れた手つきで撫でて、ブロッセスはゆっくりと、傍に立つ木を見上げた。ペティアも同じように木を見上げる。日が暮れ、黒いシルエットとなった枝と枝の間から、薄紫色の空が覗いていた。



「……ペティアさんは、どこから来たんですか?」

「パルテリアってところからだよ」

「パルティア山があるところの?」



 うん、とペティアは頷いた。こんな遠くでも、パルテリアを知っている人はいるらしい。



「ブロッセスも旅をしてるって聞いたけど、僕と同じ北の方から? パルティア山も知ってたし」

「パルティア山を知ってるのは歴史に興味があったからですよ。私は、ジャーニータウンと言うところから来たんです。ほら……あの山の向こう側から」



 そう言って、ブロッセスは西側を指さした。

 低くて細長い山脈に、真っ赤な夕日が飲み込まれようとしている。山の向こうは農業が盛んで、旧ラクマノル国の食糧庫のような役目をしていたため、蓄え山脈、と呼ばれているらしい。



「パルテリアって結構距離がありますよね。どうして旅に?」

「ちょっと調べものがあって。今はラクマノルに向かってるんだ」

「調べもの? 私にもわかるのでしょうか?」

「えっと……フィツエルネスって知ってる?」



 フィツエルネス? と、ブロッセスは首を傾げた。


 長い歴史の中で、今まで一人しか見たことがないと言われる鉱物で、空を映したという何色かわからない色、形は四角っぽく、中は膨らんでいる……。


 そう、ふわりと丸めた両手を重ねて説明したが、やはり知らないらしい。どこにあるのかわからない、と話すと、ブロッセスは急に暗い顔を浮かべて、そっか……、と呟いた。再び馬を撫でるブロッセスの目は落ちている。



 フィツエルネス……と、慣れない言葉を何度も口の中で繰り返し、ブロッセスは喉を傷め、んん、と咳き込んだ。



「大丈夫?」



 と、そこまで言って、ペティアは、あ、と思い出したように言い出した。



「そうだ、そろそろ部屋に戻らないと。またぶり返したら面倒だしね」


 ペティアと一緒に部屋に戻り、ブロッセスはベッドに入った。

 たらいの水を取り替え、冷やした布をブロッセスの額に置くと、今度はペティアが尋ね出した。



「ブロッセスの方は、どうして旅をしてるの?」

「私、相棒を探しているんです。新しい相棒……」

「相棒?」

「はい。来年の三月に、町に古くから伝わる成人の儀式があって、それに参加するために。だけど、つい二ヶ月前に相棒のデオンがコヨーテに喉を噛み切られて死んで……それで、新しい相棒を探さなきゃいけないんです。儀式に参加するにはその相棒が必要なので……」

「喉……噛み切られたの……?」



 残酷な姿を想像してしまい、ペティアは具合が悪そうに顔を歪めた。

 それにしても、成人の儀式があったり相棒がいたり……世界には、自分の知らない変わった文化があるようだ。



「え……じゃあ、僕でもいいのかな? もしいいなら手伝うよ。その町のことも気になるし。あ、でも、ラクマノルでフィツエルネスの話を聞いてからだけど」



 ブロッセスはぽかんと口を開けた後で、申し訳なさそうに眉を潜めて小さく笑った。



「相棒は、馬なんです」

「馬……?」

「はい。私と同じで、儀式の頃には成人した馬。ジャーニータウン、それから、その周辺の地域は、昔から馬との関わりが深いんです」



 馬……、と呟きながら、ペティアは納得したように何度も頷いた。



 ブロッセスのいたジャーニータウン――ラクマノル地方の蓄え山脈を挟んだ西側は、昔からたくさんの馬が生息しているらしい。ラクマノル国が西側の開拓を行う際、馬はそれを大いに手助けてくれたらしく、その地域では、馬に関する文化が深く根付いているのだそうだ。



 ブロッセスの話によると、その地域は十二歳になると子供の馬――相棒を授かるのだという。これは、子供のうちから馬に慣れさせることで、楽に開拓を手伝ってもらえるようにと始まったことらしい。



 そして、自分の力で相棒を育て、大人になった馬と一緒に成人の儀式を迎えると、一人前として認められる……。



 だけど、他もそうであるように、時代変わっていた。


「今はもう開拓も終わったので、この儀式も少し緩和されているんです。昔は儀式までに相棒を失ったら、どの人も必ず、次の相棒を探しに行かなければなりませんでした。一人前にならないまま成人したら、きちんと相棒を管理できなかったって白い目で見られるから……。けど、今は必ず儀式に参加しなくてもいいことになったんです。それに、形だけの相棒と言うその伝統も、もう必要ないんじゃないかって話も出てきています」



 それでもその儀式に参加したいと思っているのは、古くから伝えられているこの伝統を大事に思っているからだ、とブロッセスは言った。



 開拓の時代が終わったのは約七十年前。今の時代になっても相棒を授かる理由は、最早なくなっている。



 けれど、長く続いたこの伝統には何かしらの意味がある……。



 ブロッセスはそう固く信じ、昔の人の文献を読んだりして、伝統の真の意味を理解しようと努めていた。



 しかし、相棒のデオンと接しているうちに、明瞭としていなかったその意味が、何となくだが分かるようになってきた。

 それはきっと、本来の意味と違っていたけれど、ブロッセスにとっては価値のあるものだった。



「初めはどうやったら立派な馬になるか、そればっかり考えて育てていたんです」



 もともと、課せられた使命には全力で取り組むたちだ。そんなブロッセスの努力のかいあって、デオンは立派な馬に成長していった。確かめる術はなかったけれど、きっと、他のどの馬よりも素晴らしい馬になったに違いない。



 だけどあるとき、ブロッセスは気づいたのだ。これは、デオンの望みではないと……。



 人目のつかない馬小屋で、落ち込んでいたブロッセスが一人、涙を流していたとき、デオンはいつものように撫でてくれると思ったのか、無邪気に鼻を前に突き出していた。



 デオンは自分を好きだったのだ。そして何よりも、信頼してくれている……。



 立派な馬に育てるためには、パートナーとの信頼関係は大切だ。だから、そんなことは分かり切っていた。



 けれど、意外だった。

 こうなってほしくて、自分は今まで一生懸命デオンに尽くしていたのに……途端、そんなことを考えていた自分が恥ずかしくなった。


「デオンは私にとって、かけがえのない存在です。昔の人が書いた文献通り、私にとっては自身の成長のために必要な存在だったと思います」



 それからは、純粋にデオンと過ごす時間を楽しむようになった、とブロッセスは話した。

 デオンが今まで勘違いしていた時間……それを少しでも取り戻したかった。



 そうして十七歳の春、ブロッセスはデオンに乗って、一人遠くの海に出かけた。夕暮れの砂浜で、真っ赤な夕日が沈んでいくのを見たとき、デオンがいなければこんな風景も見ることはなかっただろうと、ブロッセスは心の底からそう思ったのだそうだ。



 ブロッセスは枕元に置かれたネックレスを取り出した。革紐で繋いだ小さな入れ物の中には、そのとき海で拾った白い砂が入っている。



「デオンとはもう式に参加することは出来ないけど、それでもやっぱり参加したいと思ってます。友達は、やりたくない馬の世話はただの重荷だ、って言ってました。兄も両親も、いつかは時代に飲まれていく伝統なんだ、って言っています。でも私は、新しい相棒を見つけてでも参加したいと思っているんです。この伝統の意味は、本当はないかもしれません。けど、こうして新しい相棒を探すのが許されている以上、確かめる価値は残されていると思います。だけど……厳しいですね。儀式は来年の三月。あと半年しかありません」

「あれ、そういえばさっき野生の馬がたくさんいるところだって聞いたけど、その馬じゃ駄目なの?」

「はい。掟があって、十二歳に仔馬を授かる以外、野生の馬に触れてはいけないことになってるんです。だから、生活のために馬が必要なときは、馬を買うことになるんです。だけど、買ったとしても仔馬だし、やっぱり難しいと思います」



 儀式の参加条件は、人間と相棒、双方が大人と呼べる年になっていること。この儀式における人間の大人とは、一八歳を迎えた少年少女のことを指していて、ブロッセスは来年の一月にその一八歳になるのだ。



 本来であればその時点で、授かった相棒も大人になっているはずだった。



 けれど、相棒のデオンは亡くなってしまった。

 それも、つい二か月前に。



 そうなれば、半年後の儀式に向けて新しい相棒を探す場合、どうしても探すのが容易な仔馬では間に合わなくなってしまう。



 大人の馬でなければいけない。

 しかし、それが問題だった。



 何しろ、仕事のためであれ何であれ、大人の馬は既に、誰かの相棒になっている可能性が高いのだ。



「家族には無理をするなって言われたけど、私はこの短い旅で、どうにかして相棒を探すつもりです。もし駄目なら、そのときは諦めます。だけど、三月までは頑張ってみます」



 ネックレスを握りしめるブロッセスの目は真剣そのものだ。ゆっくり瞼を閉じると、ブロッセスはもとの穏やかな表情に戻して言った。



「……あの、よかったらペティアさんの話を聞かせてくれませんか? ペティアさんはどうして、そのフィツエルネスを探そうと思ったんですか?」



 ぬるくなった布をもう一度洗いなおしてから、ペティアはそのわけを話して聞かせた。



 ブロッセスはペティアの話を聞きながら、やがて眠りに入っていった。



 翌朝ペティアが目を覚ましたのは、皆が朝食をとった後だった。

 リビングのソファで毛布を掛けて眠っていたペティアは、瞼の裏でちらちら動く光に起こされ、目を開けた。



「おはよう、ペティアさん」



 食器を持って立ち上がったブロッセスが、こちらを見て微笑んだ。



「あ……おはよう。どう? 具合は」

「はい、まだ少し体が重いけど、薬のおかげで熱も下がって、今はだいぶ良くなってます。食欲も回復したし」



 そっか、とペティアはブロッセスの持った食器を見やった。皿は、余すものなく空になっている。



 カツゲとミヒに言われ、ペティアは朝食をとるためにブロッセスの隣に座った。出された朝食はどれも美味しそうで、プーティンと呼ばれるジャガイモの料理とスープからはいい匂いがしていた。



 このプーティンのジャガイモは、一昨日カツゲが、離れて暮らす息子からもらったものだそうだ。

 スープに入った山菜ときのこは、例の蓄え山脈を通る際、ブロッセスが採ってきたものだという。



 足りないが礼のつもりだ、とブロッセスは言った。ペティアは礼を言って、喜んでそれを食べた。


「短い間だったけど世話になったな」



 朝食を終え、旅立つ準備をするペティアに、カツゲが言った。



「まだ宿代を出した方が良かったかもな。こんなソファしか貸せなかったし」

「いいえ、いいですよ。プーティンも貰ったし、こちらこそありがとうございます。……これ、良かったな。また食べれる」

「気を付けていくのよ、ペティアさん」



 と、ミヒが励ますように片目を閉じて言った。



「パルテリアのことは、後で調べておく」


 リュックを背負って玄関を出ると、ミヒに呼ばれたブロッセスが、部屋から出てきてペティアの元に向かっていった。



「私、手持ちも少ないので、しばらくはここで働かせてもらうことになりました。ペティアさんとはどうだろう……また会えたら嬉しいけど、お互い目的も違うし、難しいかもしれませんね。なので、そのフィツエルネス探し、頑張ってください。私も応援してます」

「うん、ありがとう。ブロッセスも頑張ってね」

「大したお礼が出来なくてごめんなさい……」

「ううん、いいよ。それに、昨日のブロッセスの話、面白かったし、十分」

「え?」



 急に驚かれて、ペティアも思わず目を丸めた。よく考えてみれば、ブロッセスは昨日、切羽詰まった旅をしている、という話をしていたんだった。



 けれど、それが率直な感想だった。

 そんな町があるなんて知らなかったのだ。



「えっと……やっぱり、面白かったかな」



 ブロッセスは、ふふっ、と笑い出した。



「私もそうかもしれませんね。フィツエルネスっていう鉱物、確かに今まで知りませんでしたから」


 町を離れ、ペティアは再び、空と大地だけのだだっ広い平原を嬉々とした様子で歩き始めた。



 見飽きていたはずの風景だが、この日は何故か、新鮮に見える。



 秋晴れの青い空には、山の向こうの町や、そこに住む会ったことのない人達、そしてカツゲとミヒとブロッセスが映し出されている。


 そういえば……、とペティアはフィツエルネスを教えてくれたあの男のことを思い出した。


 いつも似たような風景だけど、同じではないんだった。



―――――

 それから二日後、ペティアはようやく目的のラクマノルに辿り着いた。



 最近過疎化が進んでいるというラクマノルは、フリスアと比べ先進的ではないものの、大国だっただけあって大きく、何より威厳を感じた。


 年季の入ったホテルで少し休憩をとったペティアは、ラクマノルの町に出てその例の研究所を探して歩いた。

 フリスアとはまた違うどこか雄々しく高い建物の群れが、橙に染まった町に大きな影を落としていた。


「懐かしい名前ね……確か、あそこを右に曲がってまっすぐ行った先にあるはずだわ。違ってたらごめんなさい」


 町の人に尋ねてみた研究所は、この町の南側にあるという話だった。

 以前はフリスアと争うほどの都会だったためか、研究所の数も膨大で、その人も全ての研究所を把握しているわけではなかったが、とりあえずそこに向かってみることにした。



 大きな通りを抜けた先には、背の低い住宅の並ぶ郊外があった。

 辺りを見渡していると、少し離れたところにぽつんと大きな建物が建っているのが見えた。



 ペティアはすぐさまそこに駆け寄って、『ベルジー研究所』と書かれた門の表札を確かめた。だけど、その隣の低い門の扉は傾いている。



「あれ……?」



 ペティアは蝶番の外れかけたその格子の扉を掴んで、改めて研究所を見やった。



 三階建ての研究所は、中が暗く、人の気配を感じない。

 よく見ると、門の扉同様、建物の扉も塗装が酷く剥がれていて、すっかり廃れていた。



 ペティアはそっと門の中に入って建物の周りを一周した。

 暗い窓を覗くと、そこは、薄紫色の空を映した反対側の窓が見えるだけで、もぬけの殻となっていた。何かあったとしても、古びた机と、空になった本棚だけだ。



「あの……」



 と、柵の向こう側を歩く男に、ペティアが尋ねた。

 白髪の中に少しの黒髪を残したその老人は、突然のペティアの声に少し驚いている様子だった。



「すいません。この研究所は今はやってないんですか? 僕、ここを目指して旅をしていたんですが……」

「旅? ここへは一体何の用で」

「調べものです」

「調べものとは?」

「フィツエルネス、という鉱物です」

「フィツエルネス……」



 硬かった表情を解いて、男は徐々に笑みを浮かべた。



「懐かしい響きだ……確かにここは扱っていた」

「知ってるんですか?」

「ええ、近所なのでね。詳しいことはさっぱりなんですが、何を研究していたかはわかります。基本は鉱山関係でしたが」

「フリスア大学でその話を聞いて、それでここなら詳しいことがわかるんじゃないかって言われて来たんです。そのときは確か、ここと連絡を取らなくなったって聞いたんですが、こういうことだったんですね」

「ここは二年前に撤退したんですよ。理由は分かりませんが、とにかく急にベルジーさんにそう言われて、彼女もここを去って行ったんです」

「じゃあ……そのベルジーさんはもうこの町にはいないんですか?」

「そうでしょうね」

「どこにいるかは……」

「まったく教えてくれませんでした」



 口を噤んでペティアは俯いた。一か月もかけてここまで来たのに、また振り出しに戻ってしまったなんて……。



「あの、じゃあ、その人は何か言ってませんでしたか? フィツエルネスの話とか……。何でもいいんです。少しでも手掛かりが欲しくて……」

「……なら、わかりました。少し待っててください」



 そう言って男は、研究所の向かいにある家に向かっていった。


 しばらくして、男が妻に見送られて家から出てきた。



「一応中には入れますが、期待しないほうがいいでしょう。この中にあった資料は全部、撤去されたんです。けど、手掛かりが欲しいそうなので」



 男は持ってきた鍵を握り締め、研究所の扉に向かった。この建物、もといこの土地は、ベルジーがここを去る際男に譲ったのだそうだ。



 鍵を開け、男はペティアと一緒に中に入った。中は、窓から見たとおり何もなく、埃っぽくて、二人は思わずくしゃみをしてしまった。



 広いホールも、奥にある部屋も、机や本棚の木と鉄の塊があるだけで、手掛かりになるようなものは一つも見当たらない。



 夕日が差し込む廊下を歩いて、二人は一番奥の部屋で足を止めた。

 そこは所長――ベルジーの部屋だったのか、立派な机と椅子とソファが置かれてあった。



 しかし、この部屋だけ、他の部屋と違い額縁が置かれていた。

 けれど、壁に掛かっているのではなく、部屋の角で、追いやられたかのように立てかけられている。



 ペティアは部屋に入って、額縁に近づいた。埃をかぶった額縁には、アチサテンタの地図が入ってる。



 額縁の前に屈み込み、ペティアは何の気もなしにそれを掴んで裏を覗き込んだ。



 すると、居留守の蜘蛛の巣の奥に、折りたたまれた紙が落ちていた。



 蜘蛛の巣の隙間から指を入れ、ペティアはそれを取ると窓辺に向かった。

 長い間陰に隠れていたというのに、その紙は随分と色褪せている。



 四つ折りにされたその紙を、ペティアはそっと開いた。



「……どうですか?」



 ペティアの隣に立って、男もその紙を覗き込んだ。



 黄ばんだその紙には、色鉛筆の柔らかな色調の、少女と石の絵が描かれていた。

 長い髪を銀色に光らせた真っ白な肌の少女が、草の上に置かれた虹色の石を優しく撫でている。



 これだ……、と小さくペティアが呟いた。



「手掛かり、ですか? これが……?」

「はい。この石の色と形、フィツエルネスですよ、きっと。僕が聞いたのとまるっきり同じだし。……けど、この女の子は知らないな……」



 フィツエルネスと一緒にいる少女の話は、あの男も話していなかった。



 この絵の少女は何気なく描かれたものなのだろうか……。

 だけど、もしかしたらこれが、新しい手掛かりになるのかもしれない。



「……これ、もらっていいですか?」

「まあ、ここのものは皆、譲ってもらったも同然なので別に構いませんが……本当にそれが手掛かりになるんですか?」

「はい、多分……。女の子のことは知らないけど、この石はフィツエルネスだし」

「それがベルジーさんを探す手掛かりになるかもしれませんしね……」

「あ、それもそうですね。……ベルジーさんは、どこにいるんだろう」

「南ではないことは確かです。あそこにも人は住んでいますが、連邦の人が暮らすには厳しい環境です。ましてや彼女には……。可能性があるとすれば……北東、ですね。この町を去って行くとき、北東に馬を走らせていくのを見たので」



 北東……、と呟いて、ペティアは額縁の中の地図を見た。男に言われた北東は、ペティアもまだ行ったことがないところだ。海も山もない大地が広がっている。



 夕日も沈み、部屋の中は真っ暗になった。



 ペティアは男と一緒に研究所を出て、男の経営している酒場へと向かった。



 石壁の傍の席で料理を待つ間、ペティアは先ほどの紙をランタンに照らして眺めていた。

 さっきまでは気づかなかったが、紙の裏面には、消えかけたインクで、短い詩が綴られていた。


 山から帰った男が語る

 暗闇の先に、旅した空の色



 あの石は歩いた証明だ

 白い少女はペンもなく記す



 フィツエルネスは旅の色



 そっと紙を畳んで、ペティアはそれをポケットにしまった。


 あの女の子はやっぱり、絵の中だけの存在じゃない。



 少なくとも、詩の中でも生きている。

5.異国、故郷


 何本もの剣を刺したような黒い格子の窓から、涼しい風が流れ込む。朝日を受けた白い漆喰の壁が、机とベッドだけの質素な部屋を明るく照らしていた。



 乾いた地面に角砂糖を並べたみたいな町を窓から眺め、ペティアは上着を着、宿を出た。先日ラクマノルで、北東にベルジーが向かうのを見た、と言われたペティアは、その北東を目指しここ――コトントに来ていた。



 今までもそうだったが、ここもまた見たことのない風景が広がっている。空気も違い、十一月だというのに、ここは少し乾いていて日も僅かに熱く感じた。



 これまで当たり前だと思っていた硬貨も違うらしく、昨日も宿をとる際、硬貨が違うと言われて換金所に案内された。

 どうやらこの先にある町でも、ここで交換した硬貨を使わなければいけないらしい。



 風景だけじゃない、空気も暮らし方も全てが違うところまで来てしまったようだ。



 だけど、それはまだ序の口だった。




 コトントを発って一週間ほどが経過した頃だった。ペティアは草木すら見当たらない、砂の這う道をただひたすらに歩いていた。



 ここの気候は、北国育ちのペティアにとって辛かった。時折吹く風は涼しいが、雲一つない青空に浮かんだ太陽は、袖まくりをした腕をじわりと熱くして、小さい頃から苦手だったパルテリアの真夏を思い出す。



 けれど夜になれば、そんな昼間の疲れも一瞬で吹き飛んだ。



 昼と打って変わり夜は涼しく、廃墟になった小屋で寝袋に入りながら見る星は、吸い込まれそうなくらい美しかった。


 北東に進んでいくにつれ、ぽつぽつとしか見えなかった緑がようやく増えだした。



 しかし、そこで見る植物はどれも初めて見るものばかりだ。

 一枚一枚の葉が大きい植物や、天辺にだけ細い葉がついた背の高い木……。

 そこに咲いている花も見慣れないもので、辺りに漂う匂いも違う。


 少し進んでいくと、やがて巨大な外壁が現れた。

 大きな門を潜ると、ペティアはそこに見えた異世界かと思うような風景に、思わず眩暈めまいを覚えた。



 ここは、これまでやって来たどの町とも違う。建物、人、匂い、空気……全てが想像も出来なかったものだ。



 壁に細かな装飾を描いた神秘的な建物……。漂う香りはどこか甘くて、不思議なこの街の雰囲気に、一瞬で飲み込まれてしまう。



 大きな町を歩くたくさんの人も、ペティアから見れば皆風変わりな人達ばかりで、日焼けをしたみたいに黒い肌をした人もいれば砂色の肌をした人もいて、服装も少し変わっていた。

 動きやすい軽装をした人や、大きな布一枚を羽織ったような鮮やかなローブを着た人もいる。



 だけど一番新鮮な感覚は、ペティアに注がれる視線だった。

 この格好が珍しいのか、怪しんでいる様子はないが、皆一度は不思議そうにこちらを見ている。


 ペティアはひとまず足を休めようと、町の奥に見えた噴水に向かった。建物と建物を繋いだアーチを潜り抜け、ふう、と息を付きながら、涼しげな色のタイルを散りばめた噴水の縁に腰かける。



 とにかく、この暑さで足が蒸れて仕方がない。ブーツと靴下を脱ぎ、ペティアは開放された足を前に伸ばした。



 その間も、あの珍しそうな視線は続いている。

 隣に座る若い青年も、新聞を片手に茫然とこちらを見ていた。



 袖を捲った白いシャツ。V字に大きく開いた襟からは砂色の肌が覗いていて、水色のベストを羽織っている。

 ふくらはぎまでの紺色のズボンから出た足には、木の根を絡めたようなサンダルをしていて、青年はこの町特有の独特な雰囲気を漂わせていた。



 ペティアは気にせずブーツをひっくり返し、中の砂を落とした。

 男は新聞に目を戻し、隣に置いていた昼食を食べだした。けれど、やはり気になるのか、横目でちらちらとペティアの方を見ている。



 しばらくして、ペティアは匂いに誘われるように隣の男を見やった。

 その匂いも嗅いだことのないものだったが、美味しそうなのは伝わって来た。



「あの、すいません。それってどこかに売ってるんですか?」

「え……?」



 銀色に光る髪を揺らして、男は振り向いた。



「それ、美味しそうなので、売っているなら僕も買ってみようかなって思って」

「ああ……これはあっちの市場、アーチを抜けてすぐのところで買ったんです。あと、このバクラヴァも同じところで……」

「あ、あそこですね。わかりました」



 ペティアは靴を履くと、すぐにその市場へ向かいだした。



 この町の市場は、他の町のどの市場よりも広く、大勢の人で賑わっていた。売られているものも、見慣れたものから初めて見るものまで、たくさん並んでいる。



 ペティアは例のパグラヴァというお菓子を見つけ、もう一つ、先ほどの男が食べていたものを見つけた。



 ペティアが財布を取り出して店員に声を掛けようとすると、突然隣から、誰かが現れた。



「このサディモリカ、最高だぜ。最後の方が美味いんだよ。肉汁が染みついててさ」



 見知らぬ少年が、その例の食べ物――サディモリカを指さして、ペティアを見上げた。



 唐突で、しかも妙に馴れ馴れしいその少年に唖然としながら、ペティアは、へぇ、と呟いた。



「パグラヴァも食べるのか? じゃあ早く食べようぜ。感想を聞かせてくれよ」

「感想……? うーん、いいけど、なんで?」

「大した理由はないよ。いいから早く頼もうぜ」



 ペティアは少し鬱陶しそうな表情をしながら、パグラヴァと例のサディモリカを一つずつ頼んだ。

 少年は食いつくように、



「おれはパグラヴァ二つで!」



 と、元気よく言った。



「あ、あとね、おれに先ちょうだい! 早く食べたくてさ」



 無愛想な店員が、紙に包んだパグラヴァを二つ少年に渡した。

 少年は、そこからはみ出た白くて透明感のあるパイ生地に、にたりと笑みを浮かべた。



 ペティアも頼んだものを受け取ると、用意していた代金を不器用そうに確かめ、店員に渡した。だけど店員は、手の平の硬貨を数えて、財布を下ろしてしまったペティアを訝しむように見つめた。



「パグラヴァ二つ分が足りない」

「え……そんなに頼んでないですよ。一つずつしか」

「さっきの子供は? 連れじゃないのか?」



 いいえ、とペティアが首を振って隣を見ると、そこには既に少年の姿はなかった。

 

 やられた……、というように店員が下唇を噛んでいると、後ろから誰かがやって来た。



「失礼します。先ほど、少年が商品を受け取ったままお金も払わず逃げたという通告を受けたのですが、本当でしょうか?」



 呆然と立ち尽くすペティアの代わりに、店員が、ああ……、と答えた。



 赤い帽子に赤い服……。

 濃い髭を生やしたその男は、ここに初めて来たペティアが見てもはっきり分かるほど、特別な制服を着ていた。



「では、間違いないようですね。今、部下が先ほどの少年を追いかけているところです。……ところで」



 と、赤い制服を着た男は、つま先から頭まで、じっくりとペティアを見やった。



「少々無礼なことをお聞きしますが、ここへは初めて来られたのでしょうか?」

「え、はい……えっと、あなたは?」

「申し遅れました。私はサウセモリカ警察、西区間の警察署の署長を務めている者です。その恰好から察するに……この国に迷い込んでしまったご様子でしょうか?」



 国……? とペティアが呟くと同時に、署長がペティアの後ろをはっと見やって、カラベール! と叫んだ。振り返ると、署長と同じ格好をした焦げ茶の髪の青年が、先ほどの少年の腕をしっかりと握り締めて、こちらに向かってきていた。



 先ほどの調子のいい笑顔はどこへ行ったのか。少年の顔は不貞腐れていて、すっかり別人のようになっている。



「通告通りでしたね。お小遣いを使いたくなくてしたようです」

「そうか……君、署へは連れて行くが、代金があるなら今すぐ払いなさい。それからこの方達に謝罪をするように」



 財布から渋々お金を出して、少年はそれを店員に渡すとそのまま黙り込んでしまった。

 カラベールがそんな少年の頭を掴み、早く謝るの、と軽く揺すって催促すると、少年は、ごめんなさい……、ともごもご言いながら傍のペティアを睨んだ。



 そうしているうちに他の警察官もやって来て、少年は署へ連れて行かれた。署長とカラベールは、ふぅ、と息をついてから、安堵の笑みを浮かべた。


「早めに解決してよかったですね、署長。パグラヴァを全部食べ切られていたら、証拠を消されるところでしたよ」

「通告した人の勘が鋭かったんだろう。初めは何となく怪しい、というふうにだけ言われたんだが、しばらく様子を見ていたら、逃げるように去って行くのを見てな。そしたら案の定そうだったってわけだ。……さ」



 と、署長が、ペティアの方に振り返った。



「お伺いしたいことがあるので、しばしお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

「はい」

「ありがとうございます。ただその前に、少しいいでしょうか? 通告してくださった方に、お礼をしなければいけないので」



 ほら、あの方ですよ、と署長は歩き出しながら前方を見た。

 そこには、先ほどペティアの隣に座っていた、あの銀髪の男がいた。

 男はさっきと変わらず噴水の縁に腰かけ、今度はパグラヴァを食べていた。



「あ……兄さん」



 兄さん? と隣を追い抜いていくカラベールに、署長は尋ねた。カラベールが確かめるように男の傍に近づくと、その男――兄さんは、こちらに気づいてゆっくり立ち上がった。



「通告した人って、兄さんだったんだ……」

「うん、まあ……あ、それで、先ほどの少年はどうなりました?」

「ええ、やはりあの少年は二人を騙していたみたいでしたよ」



 と、署長が微笑みながら言った。



「カラベールが捕まえてくれたんです。今、詳しいことを署で聞くつもりです」

「そうですか、良かった……。初めてここに来た異国の人らしかったから、何となく心配になって見ていたんです。気のせいかとも思ったんですが、そうだったんですね」

「おかげで早めに解決できましたよ。ありがとうございます」



 署長の隣で、ペティアもその兄に礼を言った。兄は安堵の笑みを浮かべると、改めてペティアの恰好を不思議そうな目で見やった。



「ああ、もう一度失礼なことを聞くようで恐縮なのですが……」



 と、署長が、ペティアに向き直って言いだした。



「あなたはもしかして、この国に迷われて来たのでしょうか? 恰好を見る限りですと、この国に何か、目的があって来られたようではなさそうなので……」



 署長の言葉が少し気になるが、ペティアはひとまずここに来たわけを話した。


 ここへ来たのは、ベルジーという人物を探しているためだ。

 その人は、自分の旅の目的である鉱物――フィツエルネスの研究をしていたという。



 旅に出て二か月……。分かったことと言えば、首を傾げる三人の反応が示す通り、フィツエルネスの存在はあまり知られていないということぐらいだ。



 そのベルジーには、まだ会ったことはない。

 けれど彼女は、今自分が唯一頼りにしている、貴重で、重要な人物だ。


「……じゃあ、そのベルジーさんはここにいるんですね?」

「えっと……はっきりしたことは分からないんです。とりあえず、ラクマノルでその研究所を探してたら、もう引っ越したって言われて……それで、北東に向かっていくのを見たらしいので、そこから北東を目指してここに来たんです」



 隣でカラベールの兄が、ぼそりと呟いた。



「ラクマノル……じゃあやっぱり、連邦から来たんだ」



 連邦、という呟きに、ペティアはしばし瞬きをした後で頷いた。



 ペティアの住んでいる国は四十五年前、四つの国を一つに統合し、大陸の西側を広く占めたことから、アチサテンタ西部連邦、と呼ばれている。



 子供の頃地理の授業で習った記憶では、確か西部連邦の東側には、細々こまごまとだが多くの国が点在していたはずだ。



 ということは、ここは連邦の外にある、どこか別の国なのだろうか……。



 連邦から、と言っていたということは、恐らくそうなのだろう。迷ってきたのか、という署長の言葉も理解できる。



「連邦のラクマノルの北東か……」



 と、署長が、顎に手を当てて難しそうに顔を歪めた。



「確かにこのサウセモリカは当てはまっているかもしれない……。けど、連邦の人がここに越してくるというのは、少々考えにくいかもしれませんね。商売人ならともかく、研究を続けているのであれば、山も近くにないここに越してくるということは恐らくないでしょう。気候も合わないでしょうし……」

「南の方もないだろうって、ラクマノルでそのとき言われました……。そこも気候が合わないだろうからって」

「なら同じ理由で、ここにもいないかもしれませんね……。思ったのですが、その方は、連邦内の北東……つまり、確か……ファヴルスの辺りに行ったのではないですか?」



 少し間を置いた後で、そうかもしれません……、と、ペティアはそれを認めるように言った。

 リュックから地図を取り出して、そのファヴルスを確かめる。署長の言った通り、ラクマノルから少し北寄りの北東に進めば、確かにそのファヴルスがあった。


 ちなみにここは、サウセモリカという小さな国らしい。

 アチサテンタの東側にある国の中では、連邦に近い方だという。



 コトントという町で換金をしなかったか、と聞かれたが、それはどうやら連邦から外の国に出ることになるかららしかった。

 連邦の最東端にあるコトントは、連邦と他国を繋ぐ橋のような役割をしているのだそうだ。



「では、慣れないことばかりで大変だったでしょう……。けど、運がいい方でしたよ。なにせ今は冬の初めですからね。道中もまだ日差しが弱くて過ごしやすかったはずです」



 額に溜まった汗を拭いて、ペティアは話を聞いていた。



 そうか、今は十一月の半ば。

 あ、じゃあこれは冬なんだ。



「一応、あなたと同じように連邦の方も時々いらっしゃいますよ。ほら、あの方とかもそうですね。ここに来られる方は、あのようにローブを羽織っていることが大半なんです。ここの気候に合う服で、簡単に用意しやすい服ですし、何よりここと連邦は、つい二十年ほど前に個人間での交流を始めたばかりですからね。注目を集めてしまうと何かと不便なのでしょう」



 署長の見つけたその人のように、連邦からこの国にやってくる人は、ある程度ここのことを学んでやってくる人がほとんどらしい。



 やはり自分は迷子になったんだ、と、目深にローブを被ったその連邦の人を見て、ペティアは思った。



「ここと連邦では食事の仕方から違っていますからね。慣れないうちは戸惑うかもしれません。宿は少し進んだ先にありますが……しばらくは案内が必要ですね」

「ああ、それなら」



 と、カラベールの兄が言い出した。



「私の家はどうですか? 今なら客室も空いてますし、この国のことも説明できるかもしれません」

「それはいい案ですね」



 突然の提案に驚くカラベールの隣で、署長は満足げに頷いてからペティアを見やった。



「だそうです。どうでしょうか?」

「あ、はい。いいですよ」 

「では、そうしましょう。時間を取らせてしまい、申し訳ありません。……そうだ。お名前を伺わなければいけませんね」

「ペティアです」

「わかりました。では、私達は署に戻ります。何かあればそちらに伺いますよ。どうか、帰りもお気をつけて」



 じゃあね兄さん、と言って去って行くカラベールに、兄は、ああ、とだけ答えた。



 アーチの向こうの広場に二人が消えていくと、ペティアと兄の間に一瞬静かな空気が流れだした。



「ペティア、か……。本当にこの辺りじゃ聞き慣れない名前だな」



 カラベールの兄が、噴水の縁に置いた紙袋を掴んで言った。



「あ、そうだ。俺はストンクスって言うんだよ。よろしく。えっと……どうしようか。さっき買ったの、食べてからにする?」

「うーん……いいです」



 と、ペティアは首を振った。

 話をしているうちに、空腹もどこかへ行ってしまった。


―――――

 ストンクスに案内され、ペティアは再びサウセモリカの町を歩き出した。



 ここが連邦ではない他の国と聞いたからか、更に興味深い町に見えてくる。



 確かに、アーチも工芸品をくり抜いたような形をしていて、売り物も独特な柄と色遣いをしている。

 今まで考えも及ばなかった美的センスだ。だけどその分、とても魅了されてしまう。



「やっぱり、注目されるな……」



 と、きょろきょろ辺りを見渡すペティアの隣で、ストンクスは恥ずかしそうに呟いた。



 市場を離れたから人は少なくなっていたが、それでもやはり、異邦人のペティアに目を留めない者はいない。



「この国にしばらくいるなら、後で俺の服を貸すよ。……あ、でも」



 と、ペティアの目、それから頭の天辺を見やり、ストンクスは苦笑した。



「ちょっと俺より背が高いか……じゃあ、厳しいかもしれないな。けどまあ、駄目だったら相談してみるよ。ローブぐらいなら貸せるけど」

「いいんですか? ありがとうございます。そっか……ストンクスさんも宿で働いていたんですね。それも親子で」

「宿……? ああ」



 と、何かに気づき、ストンクスは笑い出した。



「違うよ、うちは宿じゃない。ま、確かに、客室は三部屋はあるけど、それじゃあ宿にしては少ないよ」

「違うんですか?」

「ああ。自分で言うのも変な話なんだけど、俺の家はどちらかというとお金持ちの方で、父親がハールーン商会っていう小さな商会の会長を務めているんだ。だから、それに見合った家に住んでるってわけ。だから客室もそれくらい。たまにお客さんも来るからね」

 

 それより……、とストンクスは、興味深げな目でペティアを見やった。



「連邦というか、異国の人って、ちょっと気になってたんだよ。連邦のどの辺りから来たの?」

「パルテリアってところからです」

「パルテリア……それってどの辺? ラクマノルのことは習ったことがあるから知ってるけど」

「えっと、北の方です。ラクマノルの……まっすぐ北だと思います。今は雪が降っている頃かな……だからここに来て驚きました。季節が戻ったかと思って」

「そっか、じゃあ全然真逆のところから来たんだな。雪か……この国で雪なんか降ったら、次の日新聞に載るほどの騒ぎだよ。四年くらい前に一度降ったらしいけど、そのときは見逃してさ……」



 と、そこまで言いかけて、ストンクスは何かを思い出したようにズボンのポケットを触った。



 お尻のポケットには、先ほどまで読んでいた新聞が折りたたまれてしまってある。

 それを確かめると、ストンクスはそっと手を下ろした。



「そういえばさっき、フィツエルネスっていう鉱物を探してるって言ったけど、どうして探してるの?」

「どうして……うーん……気になるからかな?」



 なんとも微妙な答えに、ストンクスは思わず唖然とした。



 自分でも呆気なくて曖昧な答えだとは思うが、それが本心だ。



 フィツエルネスと言う言葉は、どこか面白く、不思議な響きをしている。

 それに、自分にフィツエルネスを教えてくれたあの男は、情報が少ないにもかかわらず、ずっとフィツエルネスを想い続けていたのだ。



 だから、あの男を惹きつけるフィツエルネスが何なのか、純粋に気になった。今まで忘れていたが、それが旅をしている理由なのかもしれない。



「へぇ……面白い。そんな理由で旅を始めたんだ。……あ、いや、変な意味じゃないよ。そういうの、なんかいいなって思って。……あ、そうだ。年はいくつ? カラベールと近そうだけど」

「今年の春で二十歳になりました」

「あ、じゃあカラベールと同い年だ。その年で一人旅なんてすごいな。俺じゃ無理かも。尊敬するよ。行動力もあるし」

「ちょっと照れくさいな……そうやって褒められたの、初めてかもしれません。あ、でも僕、迷ってここに来たんだった」

「確かに」

「ストンクスさんは旅とかは?」

「ああ……俺は、子供の頃に一度、家族と近くの国に旅行に行ったくらいかな。後は父の仕事を見学しに連れられたくらい。一人旅はないかな」



 あ、それから、とストンクスは言い出した。



「別に敬語じゃなくてもいいよ。三つしか違わないみたいだし。それにペティアって、連邦の人とか関係なく、何かそういう堅苦しい雰囲気しないし」

「そう? じゃあ、そうしようかな」

「昼の分はさっき買ったみたいだけど、夕食はうちでご馳走するよ。……あ、そうだ、何か苦手なものとかある? 聞いておかないと」

「苦手なもの……うーん……実は子供ってちょっと苦手なんだよね。うるさくて」

 

 きょとんと目を丸めた後で、ストンクスはふふっ、と笑い出した。

 狭い路地を抜け、広々とした住宅街に来たからか、その笑い声が青空に響いて聞こえた。



「ん、何?」

「いや……ここと連邦じゃ、そんなにも食文化が違うのかって思って」


 それから五分もしないうちに辿り着いたストンクスの家は、言葉を失くしてしまうくらい豪華な家だった。



 この辺りの家は皆そうだが、ペティアの知っている家の五倍くらいは建物が大きく、庭も広いのだ。



 家の重厚な扉を開けた先も外観と同じで、サウセモリカ特有の魅惑的な雰囲気を感じる。



 芸術品のようなランプに照らされた、薄暗くも幻想的な廊下。渡った先にある、美しい中庭……。

 中庭には噴水とテーブル、それからサウセモリカにある全種類を集めたようなたくさんの花や植物が植えられていて、細かな装飾を施した回廊がそんな庭をぐるりと囲っていた。



「一階は女中とか召使とか、あとは仕事関係の部屋だよ。二階は俺達家族とか、お客さんのための部屋。昔はもっといたけど、今は十人くらい住んでるかな」



 庭の端にあるしなやかに捻れた螺旋階段を上り、ペティアは吹き抜け沿いにあるストンクスの部屋へと向かった。



 部屋の中も勿論広く、紺色の壁に囲まれた部屋には、大きなベッドと上品な机、本棚があり、奥にはベランダまであった。



「しばらく来客はなかったから、客室はすぐには用意できないな。今話しておくからここにいてよ。本もベッドも好きにしていいし。……、じゃあ、俺は仕事の途中だからひとまずここで。あ、ジエーヌとマリフラって人に客室の用意を頼むんだけど、何かあったら二人を呼んで。今ここに来させるから」



 ポケットに差し込んでいた新聞を机に置いて、ストンクスは部屋を出て行った。


 ほどなくして、部屋のドアをノックし、女の人が二人部屋に入ってきた。

 こんがりと焼けたパンのような茶色い肌に、艶やかに光る黒い髪。姉妹なのか、重そうな瞼は、二人ともそっくりだった。



「先ほどお話を伺いました。名前は確か、ペティアさん、でしたね?」

「はい。えっと……ジエーヌとマリフラさんでしたっけ?」

「はい。私がジエーヌ。それから、こっちが妹のマリフラです」



 ウェーブのかかった長い髪を揺らして、ジエーヌはその顔つきと同じ落ち着いた声で、けれど、少しけだるい口調で言った。

 その隣の短く髪を切り揃えたマリフラは、澄ましたように挨拶すると、持ってきたお茶を机に置いた。お茶の隣には、豆のようなものもある。



「こちらはデーツと、姉の淹れたお茶です。ミルクと砂糖もご用意いたしましたので、ご自由にどうぞ」

「あと、丁度乾いたところですので、こちらを仮の着替えにしてください。今着ている服は、後でお洗濯しておきます」



 差し出された服を手に取ると、ジエーヌがその無表情でじっとこちらを見つめた。



「えっと……どうしました?」

「いえ、ちょっと……。ただ、お客さんを、それも年の近い人を連れて来るなんて滅多にないことでしたから……。まぁでも、異国の人で、それもあなたのような人なら納得できます」


 マリフラに案内されて、ペティアはベッドの後ろにある壁の裏側に向かった。

 小さなその空間で、一人服を着替えながら、ペティアは壁越しに、旅の理由やストンクスと出会った経緯などを二人に話した。


「あ、ところで……」



 と、着慣れない服に違和感を覚えながら、ペティアが尋ねた。



「ジエーヌさんとマリフラさんは、さっきストンクスが言ってた女中さん、ですか? 僕、こういうところへは初めて来たので、女中って何なのか、よくわからなくて」

「召使と同じですよ」

「召使もわからないんですけど……」



 ペティアとジエーヌの話を聞いていたマリフラの、くすくすという笑い声が、壁の向こうから聞こえて来た。



「女中と召使は、その家の家族や来客の身の回りの世話をする人です。部屋の掃除をしたり、料理を作ったり、今みたいに飲み物を持ってきて、こうしてお話ししながら着替え終えるのを待ったり、服の洗濯をしたり……」

「宿の仕事と似てるんですね。服の洗濯とか着替えを待ったりとかはしないけど……」

「まあ、今ちょうど行なっているこの仕事は、私もほとんど経験したことがないのですが……まぁ、大体こういった感じになります。召使の方は男性なので、庭の手入れや力仕事など、私達に代わってやってくれるんです」

「へぇ……でも、ちょっと大変そうですね。この家のものって、皆どれも綺麗で高そうだし、うっかり汚しそうで」

「そうですね。……けど、この部屋のものに関してはそこまで気になさらなくても大丈夫かと思います。あまり気に掛けない人ですから、ハールーン様と同じで。そうでなければ、私のように荒んだ人を雇ったりはしませんよ。よく雇ったものだな、と今でも思います」


 着替えを終え、ペティアは脱いだ服を持って二人の前に現れた。

 この服はストンクスのものだったらしいが、通気性がいいはずのズボンとシャツは、少し窮屈に感じた。

「あ、このニット帽は優しく洗ってくださいね」

「はい。……わ、すごい素材……」



 初めて触る毛糸のニット帽を軽く引っ張って、マリフラはジエーヌと二人、部屋を出て行った。


 それからベランダに出てみたり、本を見てみたり、ベッドのシーツの触り心地を確かめたりしながら過ごしていると、ストンクスが客がいるのも忘れて、ノックもせずに入ってきた。



 棚の上に置かれた黒猫のぬいぐるみに手を翳していたペティアを見て、ストンクスはにやりと笑った。



「ああ。いいよ、別に、思う存分触って。古いのだけど」



 指先でさわっ、とぬいぐるみを撫でると、あといいや、とだけ言ってペティアはそっと手を下ろした。



「涼しい恰好になったな。やっぱり小さかったみたいだけど。……あ、そうだ。父上に話をしたら仕事を早めに終わらせてくれたんだけど、ちょっと庭にでも行く? 朝やり忘れたことがあってさ」

「うん、いいよ」

「そっか、ありがとう」



 部屋を出て行こうとして、ペティアが、あ、と思い出したように机の上に置かれた新聞を手に取った。



「これ、さっき見てたんだけど、読めなくて……。連邦の字とすごくそっくりなんだけど……」



 と言いながら、ペティアはストンクスのもとに行って、その新聞を見せた。



 自分にとって馴染みの深い文字が使われているはずなのだが、少し違っている。

 文字の上には、一つの単語をまとめるかのように線が重ねられていて、その線を避けて読もうとしても、知ってる言葉は見つからない。



 ストンクスは一瞬、真剣な表情を浮かべた。そしてすぐに微笑しながら答えた。



「これはテン文字って言って、この辺りの国で使ってる文字なんだよ。連邦の文字と大体一緒らしいよ。アチサテンタのずっと東の方に行けば、さっぱりわけのわからない文字を使ってるらしいから、ここの文字は大昔に連邦から流れてきたんじゃないかな、よくわかんないけど」

「へぇ……でも、同じ文字なのに読めなかったよ?」

「ああ、向こうは読み方が逆なんだっけ? こっちは右から左に読むんだけど」

「右から左……。あ、なるほど」



 と、ペティアは、適当な位置に指を置き、なぞるように読みだした。



「した、殺害、押し入れて、溶鉱炉に……被害者を……」



 不器用に読み上げていきながら、ペティアはゆっくりと指を下ろした。



 単語だけでなく、文章そのものも右から左に読むらしかったが、ペティアは今、それよりも気になることがあった。



「これ、怖い話だね……。溶鉱炉って確か、鉄を溶かすときに使うあの熱いのでしょ? 何があったの?」



 力なく苦笑して、ストンクスは答えた。



「ああ、どうやら鍛冶屋で揉め事があったらしくて……そこで働いていたイーサーって男が、上司と言い争って殺したらしいんだ。詳しいことはよくわからないけど、ちょっとした喧嘩がもとだったんだって。この新聞はその前に、何度か鎚で殴ったって書いてあるけど……」

「酷い事件だね……」

「ま、知り合いでも何でもないから、関係ない俺達が気にしてもね……それじゃ、行こうか」



 ペティアから受け取った新聞をまたポケットに入れて、ストンクスは庭へと降りていった。

 庭の角へ向かい、園芸用のハサミを手に取ると、ストンクスは植物の葉をよく吟味して、選ぶようにそれを切っていった。



 庭のこの一角は、園芸を趣味にしたストンクスのものらしい。仕切りを作るように大きな植物も伸びていて、小さなこの空間を、ちょっとしたプライベートなものにしている。



 傍には布を敷いたベンチがあり、ペティアはクッションを置いた背もたれに寄りかかりながら空を見上げた。



 ベンチを覆った屋根のその大きな隙間から、雲一つない青空が見えている。目を細めるような眩しさと、心地の良い風が、眠気を誘うようだった。


 一年の半分が冬のようなパルテリアでも、ネリーの綺麗なお母さんは、毎年熱心に花を育てていたな……。


 半ば眠った状態でストンクスと話をしながら、ペティアはふと、故郷を懐かしんだ。



 故郷の面影が一つもない遠い異国でも、こんなふうに思い出すこともあるんだ……。



「……あ、そういえばさっき、ストンクスの部屋のベランダから女の人を見たんだけど、あの人がストンクスのお母さん? 黒い髪で、綺麗な人だったけど」

「ああ、違うよ。あれはラビアさん。兄の母親だよ。俺の母親は、一二のときに亡くなったんだ。カラベールの母親もつい二年前に亡くなって、残っているのは兄の母だけ。カラベールには昔、妹もいたんだけど、その子も幼いうちに亡くなって、それ以来、誰も子供を産まなくなったんだよ」



 予想もしていなかった答えでよく意味が分からず、ペティアはきょとんとした。



 ということは、継母ままははということだろうか……。

 そんなふうに考えていると、ストンクスがペティアに気づいて、ははっ、と笑い出した。



「ごめん、じゃあこれも、連邦にはないことなんだな。えっとね……この国では一応、男の人は四人まで奥さんを娶ることが出来るんだよ。……ああでも、金銭的な問題もあるから、今の時代にやっているのはよっぽどの人なんだけどね。父上の場合はそうだな……両親が人脈作りに積極的だったんだよ」



 ストンクスが話すには、父親のハールーンは、将来を見込まれて三人の女性と結婚することになったらしい。というのも、ハールーンはもとから今のような家柄ではなく、もとは貧乏で、自力で今のような地位を築いたからだった。



 といっても、ほとんどが本人の意思ではなく、彼の両親の意思だらしい。

 ハールーンをとある商会に入らせ、分離化に伴い新しい商会も開設し、有力な家柄の三人の女性と結婚させたのも、皆、熱心な彼の両親がしたことだった。


 ペティアはその話を、不思議そうに聞いていた。

 そういった理由で結婚する、という話は聞いたことがあるが、四人の女性と結婚できる、という話は初めて聞く。そんなルールもこの世界には存在しているのだ。



 風景や雰囲気だけがその国の全てではないのだと、ペティアは感心したように思った。



 それから二時間ほど、ペティア達はベンチに座って話をしていた。屋根から見える空はいつの間にか橙色に変わっていて、夜の瞼をゆっくりと閉ざそうとしていた。



「……あ、このお茶、面白い。さっき部屋で飲んだのも美味しかったけど、こっちはすーす―してる。これって、サウセモリカのお茶なの?」

「え、連邦は違うの?」

「うん、多分。紅茶って好んで飲まないんだけど、ここのは美味しいかも」

「そう? じゃあ後で茶葉をやるよ。そっか……別に普通だと思ってたけどな……」



 そんな話をしていると、植物の間から、ひょこっ、と顔を覗かせて、ジエーヌが現れた。

 ジエーヌは相変わらずの愛想のないような表情で、二人の前に立った。



「夕食の準備が整いましたが、どうなさいますか? ハールーン様達は既に食堂にいらっしゃいますが」

「もう時間? じゃあ、行こうか、まだ紹介してなかったし。あ……どう? お腹はまだ空いてない感じ?」



 うーん、と唸ってから、いいよ、とペティアは頷いた。先ほどオレンジを食べたばかりだからまだ腹は減ってないが、近くからしてくるいい匂いには勝てない。



「あ……でもこの服に紅茶零したんだった……。着替えた方がいいかな?」

「ん、別にいいよ。父上はあんまり気にしない人だし、ラビアさんはどちらかというと厳しい方だけど、ちゃんと理解してくれるいい人だから」



 それでも服の汚れは目立っている。

 ペティアが誤魔化すようにそれを擦っていると、ジエーヌがそっと口元を綻ばせた。



「ストンクスの方がいいようなので、多分大丈夫ですよ。それよりも、早く夕食を済ましてしまいたいのだと思います。もうじきカラベール様も帰ってきますし、そうすれば、あまり時間がないんでしょう」

「ジエーヌ」



 と、ストンクスが、眉を潜めて遮るように言った。

 ジエーヌは一旦口を閉じると、悪びれる様子もなくストンクスを見つめ、わざとらしく目を落とした。



「すみません……ストンクス、様、でしたね……」



 閉じていた口を開いて、ストンクスは、ふっ、と噴き出した。



 そんな堅苦しい言葉遣いは、一緒に過ごした年月を思えば最早気味が悪い。



「そんなの、今更気にしてないの」


 庭を出て食堂に入ると、ハールーンとラビアは既に食事をとっていた。

 夕焼けが見える窓を背に、卵の入ったサラダを食べていたハールーンは、二人を確かめると、席を立ってペティアの元に向かっていった。


 大きな肩幅のせいで初めはどこか怖い印象だったが、話してみるととても穏やかな人だった。

 挨拶が遅れた、と鼻髭を揺らして笑う姿は、フィツエルネスを教えてくれたあの男を彷彿とさせる。傍に座るラビアも、目は少し吊り上がっていたが、ベランダで見たのと変わらず、真面目で上品な人だった。



「ストンクスから話を聞いたよ。大変だったろう。分からないことばかりで」

「はい。でも、ストンクスや警察の人が助けてくれたので、どうにか……。あ、僕、お洗濯してもらった服が乾いたら、連邦に戻ろうと思ってるんです。それまでの間、ここでお世話になります」

「いいよ。面白い子だから、ストンクスも喜んでいてね。仕事に身が入ってないんじゃないかと思って机を見たら、案の定数が一ケタ多くなってて焦ったよ……。さ、食べようか。君の口に合うといいね」



 席に着き、ペティアは初めての異国の料理を、周りを確かめながらぎこちない仕草で食べ出した。



 見慣れた具材もあるが知らないものある。知っていたとしても、連邦では見ない調理の仕方がされたものもあって、初めは少し、食べるのに躊躇われた。



 だけど、口に入れればすぐに安心感のある味が広がった。風変わりでありつつも美味しく、その後は食べ慣れているかのように食が進んだ。


 しばらくすると、カラベールも食堂にやって来た。カラベールは、昼間とは打って変わり、すっかり敬語を取り払ってペティアと楽し気に話している兄を見て、意外そうな顔をしていた。


 旅の話などで、和気藹々とした雰囲気が食堂に流れた頃だった。

 ストンクスはしきりに目を動かして、ドアの向こうを気にし始めた。



 すると、何分かして、ドアが開きだした。



 出てきたのはラビアと同じ、黒い髪を艶っぽく光らせた、背の高い男だった。

 男はテーブルの奥に見慣れぬ金髪の青年を発見すると、ぴたりと足を止めた。



「いつもより賑やかだと思ったら……客人がいらしていたのですね」



 男はその顔と同じ、凛々しい足取りでテーブルに向かい、大きな目でこちらを見るペティアをじっと見つめ、その隣で静かに食べるストンクス、そして奥のバールーンを順に見つめた。



「紹介するよ。連邦からいらしたペティア君だ。ペティア君、あれは私の長男のアズードル。ラビアの子で、ストンクスとカラベールの腹違いの兄だ」



 席に着いたまま、ハールーンはその男アズードルをペティアに紹介した。ペティアが挨拶をすると、アズードルはどこか事務的な口調でそれを返し、席に座ってまず水を飲んだ。



「連邦からとは、珍しい客人ですね……。商売をしている方でしょうか?」

「ううん、旅をしてたんだって」



 答えたのはカラベールだった。



「ちょっと事件に巻き込まれて、そこで俺達と知り合ったんだよ。この国に慣れてないみたいだからどうしようかって話になって、そしたら丁度一緒にいたストンクス兄さんが、案内を買って出たんだ」

「ストンクスが……?」



 珍しい、というような目で、アズードルはカラベールの奥のストンクスを見やった。

 ストンクスは手を止めて、確かめるようにアズードルを見ると、すぐ夕食に目を戻していった。



 その後もアズードルを入れて会話は続いたが、ストンクスだけは話し疲れたのか、先ほどよりも大人しかった。


「あ、そういえばさっき訊くの忘れてたけど、客室の掃除はもう終わったんじゃないか? 今案内するよ」



 ペティアが大体食べ終わったのを見計らって、ストンクスは席を立ち、ペティアと一緒に食堂を出た。


 外はすっかり暗くなっていた。庭の植物の間から、二階からの微かな灯りと、雲一つない星空がうっすらと見えていた。



「アズードルさんって、こんなに遅くなってから帰るんだね」

「そうじゃないときもあるけど、まあ、ほとんどそうだな。兄は、裁判長をしているラビアさんのお兄さんのところで働いているんだよ。だから忙しいときは、寝ている間に帰ってくることもある。……俺は父上の傍で働いているから、兄に比べたら自由な方だな……」



 ペティアと一緒に夜空を見上げながら、ストンクスはぼそりと呟いた。食堂で熱くなった体を、夜風が心地よく冷ましていく。



 二人はストンクスの部屋にペティアの荷物を取りに行ってから、客室に向かいだした。



 すると、丁度良く客室からマリフラが現れた。客室の用意は既に出来ていたらしい。



「何か必要なものがないか訊きに来たんです。もし何か用があれば、下の階の私達の部屋にいらしてください。それから、お洗濯したものは、明日の朝には乾くと思います。風通しのいいところで干したので、あの面白い素材の帽子も大丈夫でしょう」



 安堵した様子で礼を言うペティアを見て、ストンクスは寂しげな笑みを浮かべた。



「そっか、服が乾き次第出発するのか……。まあ確かに、用もないのに長居しないよな」

「やっぱり。いずれそうなるんじゃないかって、姉さん言ってた」



 と、呆れたような顔でマリフラが言った。



「さっきペティアさんの前でも話してたけど、お客さんなんて滅多に連れてきませんからね」

「……聞いてればジエーヌって、陰でも余計なことしか言わないんだな」

「いつもですよ。姉さんって気づけばそんな話ばかりしてるんです。本当、疲れますよ」



 マリフラが去って行くと、ストンクスは部屋のドアを開けた。ペティアはベッドに荷物を置いて、上質なシーツの手触りを確かめた。



「それじゃあペティア。俺も部屋に戻るよ。また明日迎えに来る」

「うん。今日はありがとう。おかげで初めての国でもなんとか過ごせたよ」

「と言っても、家に連れて来ただけなんだけどね……でも、良かった。あ、言うのはまだ早いけど、今度は迷子にならないようにね。うちに来る分には大歓迎だけど」



 それじゃあおやすみ、と言って、ストンクスはドアを閉めた。



―――――

 柔らかなベッドに吸い込まれるように眠ってから数時間後、ペティアはぱっと目を覚ました。

 ベランダから漏れている外の灯りは、まだぼんやりしている。



 ゆっくりベッドを降りて、ペティアはベランダまで向かっていった。カーテンを開け、外に出ると、昨日の昼間では考えられなかった冷たい風が、ぴしゃっ、と水を浴びせたかのようにペティアの頬を冷やした。



 空はまだ暗い。紺色の空で星が灯っている。

 だけど、頭上を見やると、星は白く色褪せていく空に合わせて、徐々に灯りを消そうとしていた。



 ベランダの縁に手を置き、ペティアはまだ眠っているサウセモリカの町をぼうっと眺めた。



 小さなこの国をぐるりと囲った壁の先には、自分が旅してきた、連邦へと繋がる広大な大地と空がある。



 そこからの景色を眺めた後で、ペティアは思い出したようにストンクスの部屋を見つめた。



 この部屋は、元はストンクスの母親のだったらしい。



 きっとここから、ベランダで過ごす息子の様子を見ていたんだろう……。



 そんなことを思いながら、覗き込むようにベランダを見やる。あるのは椅子の上に置かれた植物だけで、ストンクスの姿は見当たらない。

 けれど、部屋に繋がるドアは微かに開いていて、ストンクスが一度、ベランダに出た跡があった。



 すると、下の方から、ぶるる、と馬の鳴き声が聞こえてきた。見たことはないが、この家にも馬はいるらしい。



 ペティアは誰もいない玄関を見下ろして、しばし呆然とすると、ベランダを後にし、部屋を出て行った。


 静かな廊下を歩き、庭に降りたときだった、近くから人の声と共に、馬が(ひづめ)ひづめを鳴らす音が聞こえてきた。



 玄関と反対側にある鉄格子の扉の先――裏口からだ。

 ペティアは声の中にストンクスを確かめると、そっと裏口へと近づいていった。


「……そうか、これはお前のだったのか」


 アズードルの声だ。

 黒く雄々しい馬の前で、手綱を掴んでいるのが僅かに見える。



「アルマクの小屋の前で先ほど見つけたんだ。昨夜帰ってきたときには気づかなかったが」

「多分、風に飛ばされたんだと思うよ。昨日はここに来てないし、恐らく、庭の方で落として……」

「しかし、どうしてこれを探していたんだ? 新聞なんて、普段持ち歩かないだろう。初めはただのゴミかと思ったが」

「ちょっと、気になることがあって……」



 ストンクスの声は小さい。

 ジエーヌとマリフラ、そしてペティアに見せていたのと比べ、どこか緊張した様子だ。



「……なるほど、これか」



 と、アズードルが少し間を空けて言った。



「確かにこの新聞は、この家には配達されていないものだな。……しかし、この事件のことが気になるのであれば、仕事柄、私に聞いた方が早いと思うが……」

「それは……」



 と、ストンクスは苦笑交じりに口ごもった。



 だって、それを言ったとしても……。



「どうした」

「いや……ちょっと言いにくいような気がして」

「言いにくい……?」



 ははっ、と笑い声を上げながら、アズードルはアルマクの背中に飛び乗った。だんだんと明るくなっていく空を、遠い目で見やる。



「……まあ、気持ちはわからなくもないな。こんな痛ましい事件は初めてで、私も未だ驚きを隠せずにいる。営利目的だったわけでも、積年の恨みがあったわけでもない……犯人は、一時の激情で、長年の恩を仇で返したんだ。紙を破いて気を晴らすのと同じ……我儘が過ぎて呆れてものも言えない」

「……そうじゃない」



 低く暗い声が、ストンクスの口から絞り出された。



 アズードルは思わず弟を見やった。不安げに眉を潜めているが、毅然ともしている。



「うん? 何が?」

「犯人なんだ。その……俺が気になったのは」

「犯人、イーサーか?」

「ああ……変な話だけど、初めてこの事件を知ったとき、何故かイーサーの気持ちがわかるような気がして……」



 気持ちが、わかる? と、アズードルは呟いた。

 静かな声だから聞き違いかと思ったが、弟は確かに、そう言っていた。



「もう少し詳しく聞かせてくれないか?」

「詳しくって……あとは、特には……」



 ストンクスは弱気に顎を引いて、目を落とした。兄が自分の発言を疑わしく思っているのは、顔を見なくてもわかる。



「ただ、孤独だったんだろうな、っては思う……。信じられる人も誰もいなくて」

「確か、彼には両親も兄弟もいたはずだ。普通の家庭で育ったし、そんな家庭のおかげか、仕事にも真面目だったと聞く。辛い記憶が蘇り、耐えれなくなった、と言っていたが、しかし、そういうことは誰にでもあることだ。人を殺していい理由にはならない」

「……それは、わかるけど……」

「なら、どうして共感できると言うんだ?」



 答えを待つような沈黙が流れたが、ストンクスは何も言わなかった。



 答えたところで意味はないと、体が、思い出したように口を閉ざす。

 そのまま押し黙るストンクスから、アズードルは目をそらした。



「残された遺族を思えば、たとえ私がこの立場でなかったとしても、そんなことは言えない。イーサーの罪は重い……本人も、それを理解している」

「わかってるよ、勿論。俺も、酷いと思ってる……。遺族のことだって……。だけど、それでも、イーサーが気掛かりなんだ」

「お前の話はどうも引っかかる……私には無神経な発言に聞こえるな……。……まあいい。そろそろ行こう。客の前だ。少しは謹んで言うべきだったかもしれないな」



 格子の扉を掴んだペティアを見つけ、アズードルは言った。



 手綱を握り、ストンクスを見て、アズードルは驚いたように目を丸めてから、首を降りながらため息をついた。



「……私はただ、少し忠告しただけだ……」



 それだけ言うと、アズードルは後は何も言わず、裏口の門を潜って外に出ていった。


 ストンクスはその場に立ち尽くしたまま、張り付いたかのように動かなかった。



 ペティアは冷たい鉄格子の扉を開けて、ストンクスの傍まで向かった。



「ストンクス、おはよう」

「あ……ああ。おはよう」



 ストンクスは自分の肩を見るかのように、僅かに振り返るだけだった。



「ストンクスのお兄さん、何だか機嫌悪そうだったね……」



 言うや否や、ペティアはくしゅん、とくしゃみをした。ストンクスは笑い声を上げながら、触れるようにそっと、片手で頭を掻いた。



「朝は寒いだろ……部屋に戻ろうか」



 ペティアも待たずに、ストンクスは格子戸を横切って廊下に出た。



 その後ろを追いかけたペティアは、何の気もなしにストンクスの隣に駆け寄った。

 すぐさま顔を背けて、ストンクスはまた、片手で頭を掻く。そこに一瞬見えたものに、ペティアは思わず、え……、と声を漏らした。



「……どうしたの……?」

「いや……ちょっと……」



 声を震わせると同時に、ストンクスの下瞼に溜まっていたものがぼろぼろと零れだした。



 ストンクスは観念したように手を下ろすと、恥ずかしそうに苦笑した。



「ごめん……こんななんだよ、昔から……」



 熱く濡れる頬を拭うストンクスに、ペティアはどう声をかけていいかわからなかった。



 口を半開きにさせたまま自分の声を待つも、そこから言葉は出てこない。



 すると、傍から誰かの足音が聞こえて来た。土を踏んで現れたのは、寝間着姿のハールーンだった。



 ハールーンはストンクスの前に立つと、お前らしいな、と言って、優しい笑みを浮かべた。



「何をそんなに気に病む必要があるんだ、ストンクス。私が陰から見ていても、そんな必要はどこにもなかったぞ」

「そう……でしょうか? 俺は、酷いことを言っていたと思います……」

「本当にそうか? 私には本心を言っているように聞こえたぞ。珍しいなと思ったんだ。いつもは意見を飲んでばかりだったから」

「でも……俺が思っていたことは、やっぱり違ったのかもしれません……。何だか悔しくて、つい本音を零してしまったけど……思っていた通り、とても、受け入れられないことで……」

「いい加減にしなさい、ストンクス」



 と、ハールーンは強い口調で言うと、一瞬で逆立たせた眉を少しずつ解いていった。



「アズードルの意見だけが全てじゃない……。それに、あの子は昔からああで、それがあの子のいいところなんだ。お前のそれも、勿論素敵なところだ。亡きルルも繊細で、優しかった」



―――――

 それから各々の部屋に戻って、ペティアは冷えた体を温めるように再びベッドに入った。



 一時間ほど眠って目を覚ますと、ベランダの方から零れていた外の明かりはくっきりと影との間に境界線を描くぐらいになっていた。



 することもなく、ペティアはリュックの中身をベッドに広げて荷物の整理をしていた。



 朝食の頃にまた来る、とストンクスに言われていたが、まだ来ないらしい。



 しばらくして、ドアをノックする音が聞こえて来た。

 ペティアがドアを開けると、ストンクスは目を細めて微笑していた。赤くなっていた目は、元通りになっている。



「とりあえず来てみたよ。何してた?」

「少し眠って、リュックの中を片付けてたよ」



 そっか……、と呟いて、ストンクスは恥ずかしそうに苦笑した。



「朝は、迷惑かけてごめん……。兄も昔からああなんだけど、俺も昔からこんななんだ。何か、気が弱くて……」



 そう言いながらベッドに向かい、ストンクスはそこに腰かけた。ベッドの上に置かれたペティアの荷物を、じっくりと見渡す。



「……驚いただろ。あんな話してて。それも朝から」

「うん。でも、その後のストンクスと比べたら、そんなに」

「俺の話は……嫌じゃなかった? ペティアは昨日、酷い話だねって言ってたけど」

「うん、その人のことは酷いと思ったよ。だけど、そんな事情知らなかったから……」



 ストンクスは納得するように俯いた。



 けど、どうして犯人のイーサーのことをそんなに気にしているのだろう……。



 ペティアが隣に腰を下ろすと、ストンクスはそれを察したかのように話し出した。



「実際に会ったことはないんだけど、イーサーにはなんか、自分と似たものを感じるんだよ。最初事件の話を聞いたとき、何か予感がして……それで調べてみたら案の定そうで、境遇も少し似ていたんだ。イーサーは孤独だった……。多分、俺が母親を失くしたあの頃と、同じ気持ちだったと思う……」



 自分も、それをきっかけに心を閉ざしたときがあった、とストンクスは静かな声で話した。



 あの頃は父も仕事で忙しく、母が死んだショックもあって、常に欝々としていた。義理の二人の母も、女中も召使も、皆自分に優しくはしてくれたが、それでもいつも傍にいた母がいなかったからか誰も真の自分を見てくれないように感じた。



 イーサーが抱いたような強い怒りも、経験したことがある。



 今思えば殺意だったんだろう……自分も、自分を追い込んでくる学友の一人を、階段から突き落としたことがあった。



 結局自分がやったということはばれず、その子の傷も一週間で治ったのだが、そのとき聞いた悲鳴と次の日に見た傷は、ほぼ自分が受けたも同然のものだった。



 どうしてそうしたんだろう……怒りを鎮める手段はいくらでもあったのに……。

 ひどく後悔して、今でも夢に出る。



 だからこそ余計イーサーのことが気になるのだと、凛としつつも震えた声でストンクスは言った。



 イーサーのことは捨て置けない。

 自分は運よく過ちを犯さなかっただけだ。そうとすら思っている。



 だけど兄は、そんな自分の気持ちをわかってくれるだろうか。



 兄が見ているのはイーサーの罪だ。自分はと言うと、そんなイーサーの罪を無視しているのだから、理解を得れないのも仕方がなかった。



「ペティアのお母さんはどう? 元気にしてる?」

「ううん……僕が四歳の頃、急に姿を消したんだ。育ての親のステッツアさんに言われたこと、今思い出したんだけど、近所の人から嫌な噂をされていたみたい。だけど、鈍感だったから全然気づかなくて……働き始めてからようやくその話を聞かされたんだよ。今は落ち着いたけど、昔はお母さんの悪口を言われていたって」

「……お母さん、失踪しっそうしたの?」

「うん。でもステッツアさんは、息子を置いていくような人じゃなかったから、きっとどこかで事故に遭って死んだんだって言ってたけど……」



 そうか、と呟いて、ストンクスはしばし黙り込み、ベッドから立ち上がった。ペティアはストンクスの真剣な顔を見、先ほどの話を思い出しながら、寂しげに俯いた。



「……ねぇ、ペティア。俺も一緒に旅に出ていい?」



 うん……、と相槌を打つようにぼんやり答えた後で、ペティアはふっと顔を上げた。



「え……旅?」

「ああ。一緒についていこうかなって思ってるんだけど……駄目かな?」



 あまりに唐突な話で、ペティアは表情に困った。



「え……でも、お仕事とかは?」

「勿論、父上には話していくよ。急には出て行けないし」

「けど、ストンクスがいなくなって困らない?」

「仕事の話? それなら大丈夫。今の俺の仕事は、もともとは今もいる秘書がやってた仕事だから」

「でも昨日、もう迷子になるなよって言ってたのに……」

「そのときはそうだったろうけど、今は気が変わったから、いいの」



 ストンクスは自分に言い聞かせるような、少し強めの口調で言った。これで、自分の決心が本物になる。



「前から、ここじゃない世界がどんななのか、自分の目で確かめたいって思ってたんだ。今は丁度、旅に慣れたペティアがいる。……ただ、そのときが来たってだけだよ」


 ノックの音が響き、ジエーヌとマリフラが、洗濯を終えたペティアの服を持って入ってきた。



 ストンクスは早速二人に旅に出ることを話した。



 旅……? と驚くマリフラの隣で、ジエーヌは、ふうんと納得したような声を上げた。



「さっき朝食はいらないと言ったのはそういう理由があったからってわけね。……それで、ペティアさんは大丈夫なんですか?」



 聞かれてペティアは、時間をかけてぎこちなく頷いた。断る理由を一生懸命探してみたが、結局何も思い浮かばなかった。



「わがまま言ってごめん、ペティア……。食料とか、準備費用は俺が出すよ。……そういうわけで、服も乾いたみたいだから、そろそろ出るよ。しばらくは帰ってこないと思う。二人も、今まで迷惑かけてごめん」

「本気なの?」



 と、部屋を出て行くストンクスにマリフラは尋ねた。

 ストンクスが無言で頷くと、マリフラはジエーヌの服を摘まんで引っ張った。



「ね、本気だって。止めなくていいの?」

「そう言われても、私達にそんな権限はないし……。それに、ホームシックになってすぐに帰ってくるでしょ」



 どうかな、と小さく呟いて、ストンクスは部屋を出て行った。



 それから十分もしないうちに、ストンクスがペティアの部屋に戻ってきた。



 先ほどここに来る前に既に用意はしてあったのか、肩から腰にかけて斜めにかけられた鞄には、しっかり荷物が詰め込まれている。



 着替えを終えたペティアは、ストンクスと二人部屋を出て行った。

 何だかディフカとフリスアで再会したときのことを思い出す。

 生乾きのニット帽を掴むペティアの顔は、どこか不服そうだ。


 一階に降りて、ストンクスは庭の角を見つめながら回廊を歩いた。

 あの一角にある小さな庭は十年前、寂しそうにしていた自分を見て、老いた庭師がくれたものだった。



 そこに浮かんだ懐かしい光景を消すように、ストンクスはそっと目をそらした。

 すると、開けっ放しの執務室からハールーンがこちらに気づいてやってくるのが見えた。



 ハールーンはストンクスの大きな鞄を見て、寂しげに口を引きつらせた。



「……荷物の確認はしたか?」

「はい……本当にごめんなさい、父上。相談もなしに、勝手に決めて……」

「いや、いい。私も、お前に謝らなければいけない。私はお前を手元に置いたまま、自由にさせれずにいた。……お前はどこか、窮屈そうにしていたからな」



 目頭が再び熱くなるのを感じながら、ストンクスはゆっくりと俯いた。



 父上は何も言わなくても、本当に自分のことをよくわかってくれている……。



 だけど、父上が謝る必要は、勿論、一つもない。



「しかし寂しくなるな。どのくらい旅に出るつもりか知らないが、手紙をくれるか、それか、三年に一度くらいは私のところに戻ってくるんだぞ。それができるなら、私も快くお前を見送ることができる。……それから、ペティアさんには絶対迷惑をかけないように。気を付けてな」


 家を出て市場に向かい、二人は朝食のサディモリカを食べた。それから昼食を買い、サウセモリカの門を潜るまで、ストンクスの声には張りがなかった。


 サウセモリカの外には、広大な大地が広がっている。



 二人は西の地平線の先にある連邦を目指して、固い地面を蹴るように歩き出した。


 やがて、二人だけを写した閑散とした景色に赤い光が差し込んだ。



 ペティアは赤黒く染まった夕空を見ながら、そういえばあの紅茶の茶葉を貰っていなかった、ということに気づいた。



 けど、それを伝えることは出来なかった。



 ストンクスはあの箒で雲を散らしたような空と同じ、必死で何かを取り払おうとしているみたいだった。



 

6.掴んだ食糧


 西部連邦と他国を繋ぐコトントの町を発ってから一週間。辺りの風景は、すっかりペティアにとって馴染み深いものとなっていた。



 からからと地面を転がる枯葉と、淡く澄んだ青空。それらが、半月ほど忘れかけていた今の季節を教えてくれている。



 パルテリアではもう、雪が積もっている頃だろうか……。

 手にした地図の中に故郷の姿を思い浮かべながら、ペティアはファヴルスまでの道のりを歩いていた。



「寒い……」



 そんな台詞が時折聞こえてくるが、ペティアにとってこの冷たい空気はむしろ気持ちよかった。



 今は十二月の初め。北の方から渡り鳥がやってきて、風も鋭くなる頃だ。

 しかし、北国のパルテリアとは違い、ここは温暖な気候にあるからか、昼間はずっと外にいても風が少し眠気を覚ますだけで心地よく過ごせた。



 けれど夜はというと、やはり冬の初めというだけあってぐっと冷え込んだ。



 だからか野宿の日が続いたときは、ストンクスは寝不足で、虚ろなままその日を過ごしていた。

 寒さに慣れていないだけでなく、闇の中の突然の羽ばたきやほんの微かな音までもが気になる夜の野宿は、ストンクスからすれば辛いものがあった。昨夜も気を紛らわすように満月を見上げ、それがかえって不安を煽り、寝不足のせいか感傷的になっていたのもあって、寝袋の中鼻をすすりながら眠ったのだ。



 だけどこの日は、昼を過ぎるととある町に辿り着き、久々に宿に泊まることが出来た。



 ストンクスはコトントや他の村とは違う、初めて見る連邦の町に驚嘆していた。ペティアもどこか見慣れた、けど初めてやってくる町に興味をそそられていた。



 二人はコトントのときからしていたように、何か美味しそうな食べ物を求めて町を歩いた。

 見立てはペティアがして、ストンクスもそれに合わせるのが常だった。ペティアの見立てたものは異国の人間からしても美味だったし、その感想を言い合うのは二人の道中の楽しみでもあった。


「異国だからって、全部が全部俺のいた国と違うわけじゃないんだな。だって、ほら」



 と、小川の見える公園のベンチに腰掛けながら、ストンクスは前を見た。カボチャを練り込んだパンのサンドイッチを一口かじってペティアが目線を辿ると、道行く人が皆、一度はこちらを見やっていることに気づいた。



「興味の対象は一緒みたい」



 そう笑うストンクスと一緒に膝に目を落とすと、そこには白いソースのついたキャベツが落ちていた。

 ペティアは何ともない顔で、そっか、と呟くと、手でそれを弾き飛ばした。


 町で一晩を過ごし、二人は再びファヴルスへと足を進ませた。



 寒さに耐えきれず、昨日の町で上着を買ったストンクスは、それでもまだ慣れない寒さに苦難していた。



 冬に入ったため、日の入りはサウセモリカに迷い込む前よりも早くなっていた。夕日が鮮やかな空の色を引き連れて、西の地平線に帰っていく。



 すると突然、何の前触れもなく空が暗くなり、強風が吹き始めた。

 二人は風に背中を押し付けられながら、あぜ道を駆ける落ち葉を追うように暗い森の中を早足で歩いた。



「ペティアはこういうときどうしてたんだ?」

「どうだったっけ……あ、小屋に泊まってたよ。こういうときのために使っていい小屋があるんだって」



 暗闇の中、ランタンの僅かな明かりを頼りに、二人はよく目を凝らして森の中にあるであろう小屋を探した。



 ようやく見つけた小屋は、シルエットからしておんぼろな小屋だった。薄い板を並べただけのような小屋は、いかにも古く少し歪んでいる。だけど、屋根と壁があることには変わりない。



 小屋のドアを開けようとし、ペティアは思い出したようにドアの上部を見やった。

 丸の中に『許可』の頭文字……。安堵の笑みを浮かべて、ペティアはドアノブを引っ張る。

 しかし、鍵がかかっているのかドアは開かなかった。ストンクスと二人、ノックをしたり呼びかけてみたり、もう一度開けようとしたりしたが、中に人はいないのかドアは開かないまましんとしていた。



「……こういうこともあるの?」

「僕は初めてかな……」



 強風に髪を乱されながら、二人はしばし無言で見つめ合っていた。


 入れないのであれば、ここにいても意味がない。とりあえず、他の小屋を探すことに二人は決めた。



「じゃあ、ドアにあの印がついていればいいんだな?」

「うん。前に知り合ったミヒさんって人がそう言ってた」



 そのときだった。突然小屋の中からがたがたと音がしだした。



 歩き始めていた二人は、驚いて振り返った。

 すると、誰もいないと思っていた小屋の中から、誰かが、あの微動だにしなかったドアをそうっと開けて、こちらを覗き込んできた。



 くりっとした金色の瞳と、凛と伸びた眉毛。胸元で不安げに握られたランタンに照らされたその顔は、ペティアにとっては初めて見るものではない気がする。



 ペティアとストンクス、そしてその誰かは、風の音だけを耳にしながらしばらくの間硬直していた。

 やがてその人は、大きく目を見開いた。



「ペティアさん……!」



 ドアを開けて現れた声に、ペティアの方もはっとした。

 背中で揺れるポニーテール。まだ幼いながらもどこか大人びた印象を受ける顔……。はっきりした声に、あの風邪で辛そうだった様子は微塵も感じない。



「えっと……ブロッセス?」

「はい。また会えるなんて、思ってもみませんでした」



 びゅうっ、と風が音を立て始め、ブロッセスは二人を中に入れた。

 中は外観と同じく、古く傷んでいて少しかび臭かった。

 ブロッセスはドアを閉め、夕食は? と尋ねた。これからとるところ、と返事を聞くと、ブロッセスはドアをじっと見やり、鍵は閉めずに二人の元へ向かっていった。



「初めまして、ブロッセスと言います」



 と、ブロッセスが、ペティアの隣のストンクスに目を留めて言った。



「ペティアさんのご友人の方でしょうか?」

「あ……うん、多分。こちらこそ初めまして。あ、俺はストンクスっていうんだよ」

「ストンクスさんはどちらから来たんですか? 私はジャーニータウンというところから来たんですが」

「……これ、知ってる? サウセモリカっていうところから来たんだけど」

「サウセ……どこですか、それ」

「連邦の東の方にある小さな国だよ」



 国、と聞いてブロッセスは目を丸めた。ということは、彼は異国の人なのか。だけど、一体どういう経緯で知り合い、一緒に旅をすることになったのだろう……。



 そんなふうに思っていると、ストンクスの隣からペティアが説明しだした。どうやらペティアが勘違いで連邦を離れ、その国に迷い込んでしまったことがきっかけらしい。

 ペティアからパンを受け取ったストンクスは、少しほっとしていた。自分が旅に出た理由を、ペティアは言いはしなかった。



「それにしても、ブロッセスも旅をしてたんだね」



 と、何故か意外そうな顔をしていたブロッセスにペティアが言った。



「あれから体の具合はどう? 腕も怪我してたんだっけ?」

「はい。ペティアさんが発って三日後には完治しました。それからしばらくは、カツゲさんの勧めで雑貨屋で働かせてもらったんです」



 そこで旅の資金を作っていたのだと、ブロッセスはそのときのことを懐かしむように言った。旅を始めたのは一か月ほど前だという。

 そういえばそんな話もしていたな、とペティアは千切ったパンを食べながら思っていた。こうしてブロッセスと話していると、あのときのことが昨日のことのように蘇る。忘れかけていたカツゲとミヒの顔も思い出せそうな気すらする。



 確かこの子は馬を探していなかっただろうか……。



「そうだブロッセス、あれから馬は見つかったの?」

「いいえ、まだ……だからこうして、町から町へと移動しながら今も探しているんです」

「あ、そっか……ごめんね」



 ランタンに照らされていたブロッセスの顔が、僅かに暗闇に離れて行ったような気がしてペティアは申し訳なく思った。

 そうでなければこんなふうに馬もなく再会することもないのに、何可笑しなことを訊いているんだろう。


 風は更に強まり、小屋の薄い壁板を軋ませていた。

 夕食を終えた三人は、明日に備え今夜は眠ることにした。

 ペティアとストンクスは中央に寝袋を広げ、そこに入った。ブロッセスは二人から離れ、壁の傍で眠った。ペティアは隣のストンクスがいつもみたく幼虫のように丸まりながら寝ているの確かめて、ランタンの灯を吹き消した。


 夜が明け、薄青の光が小屋に差し込む頃になると、風は音を失くしていた。

 ペティアとストンクスは、枯葉の張り付いた小さな窓から外の景色を覗いていた。林の中はまだ暗かったが、白い霧がぼうっと掛かっている。まるで雲が林の中に降りて来たみたいだ、と二人は寝起きで目を半目にさせながら思っていた。



「あの、ペティアさん」



 寝袋を片付けていたブロッセスが、窓を眺めていたペティアに尋ねた。



「ペティアさん達はどこへ向かってるんですか?」

「ファヴルスっていうところだよ。とりあえずその町を目指しながら、そのベルジーさんを探そうと思っているんだ。ブロッセスは?」

「私は特に……ただ、南の方から来たので、このまま北上することになると思います」

「北上……じゃあやっぱり、ファヴルスの方かな?」

「そうなりますね」



 と、一旦口を閉ざしてから、ブロッセスはゆっくり言い出した。



「あの……良かったら私もご一緒していいですか?」

「……旅?」

「はい。……私の探し物は、特にどこにあるというものじゃありません。連邦中にいるわけですから、基本目的地となるところもないんです。ペティアさんは以前、旅をする際に馬車は使わないって言ってました。ですからペースも合うかと……」



 少し考え込んでから、いいよ、とペティアは答えた。ストンクスもペティアがそうしたため、異論もなく頷いた。



「ありがとうございます。……では、お世話になります」



 朝食を済まし、三人は小屋を出た。ペティアが何気なく開けたドアは、抵抗もなく簡単に押すだけで開いた。



 昨日はミヒという名前を出すまで鍵が掛かっていたが、今は掛かっていない。



 きっとブロッセスは、見知った顔に安堵したんだろう。ブロッセスとは出会ったばかりだが、それは何となくストンクスにもわかる気がした。



「朝は冷えますね。けど、歩いていればいずれ暖かくなりますよ。日もそのうち高くなるだろうし」



 ブロッセスのその言葉が、何故か一瞬、自分達の思考を遮って言っているように聞こえた気がした。けれどそれは、枯れ木から覗いた眩しい朝日ですぐに消え去った。



 三人は晴れた林の中を、北を目指して進みだした。



―――――

 旅の連れが二人に増えたことは、何もペティアにとって悪いことばかりではなかった。確かに一人旅と比べ気楽ではないものの、毎日新しい発見がある。



 皆、生まれも違えば性格も違って、考え方も様々だった。一人では気づかなかったことも、三人だと気づくときもある。旅の途中でする話は楽しく、実も多かった。三人は今日も、地べたに座って休憩を取りながら話をしていた。細長い葦の先に見える沼では、カルガモの群れが泳いでいた。



「ブレスデン、私も行ってみたいです」



 脱いだブーツを脇に置いて、ブロッセスが言った。



「以前寄ったラクマノルもそうでしたが、あの場所は歴史的遺産が多いらしいので興味があるんです。昔はあのフリスアを領地にしていたんですよね? だから、小さい国だったというその町がどんなところなのか、是非この目で見てみたいんです」

「フリスアって、領地だったの?」



 と、ストンクスが、放心するペティアの隣から顔を覗かせて言った。



「俺も昔、ブレスデンの本を読んだんだよ。けど、フリスアのことは一切書かれてなかったから、てっきりそこまで領地は広げてないもんだと思ってたけど」

「南のラクマノルと戦っていたときはそうでした。けど、北東からファヴルスが攻めてくるようになって、それで急いでフリスアに拠点を置くようになったんです。……ストンクスさんのその本、何ていう本ですか? ブレスデンのことが書かれているのに、フリスアのことが書かれていないなんて珍しいですね」

「『ブレスデンの騎士物語』っていう本だよ。……あ、そうそう。これ、歴史書でも何でもないただの児童書なの。史実をもとに書いてるけど」



 ペティアは驚いたように目を丸めて、ストンクスの方を見やった。



「ストンクスのところに、そんな本があったんだ……」

「ああ。一般的な小説は訳されてないけど、児童書は割と多かったから読んでたかな。騎士ってよくわからなかったけど、とにかく憧れたんだよ。一匹の子猫のために、わが身を犠牲にしたりしてさ」

「その本、私も読んだことがあります」



 と、嬉々とした様子でブロッセスが言った。



「ラクマノルが一方的に悪役にされるのも歴史を感じますね。フリスアのことは確かに書いてなかったですが、歴史の資料としては優秀だったと思います。武器にレイピアを選んだのは、子供の頃から訓練していたからだったんですね。持ったことはないけど、剣の中では軽い方だそうです」



 ストンクスとブロッセスの会話を聞きながら、ペティアはぱちくりと目を瞬かせていた。



 ストンクスのいたサウセモリカにも連邦の本、それも児童書があったなんて驚きだ。

 自分は存在自体知らなかったが、ブロッセスも読んだことがあるらしい。思えば自分は日常的でくすっと笑えるエッセイの方が好きだったし、好んで物語は読んでこなかった。



「その本、知らなかったな……僕も読めばよかったかも。そうしたらあのレイピアの試合もまた違った目線で見れたのかな」

「試合?」

「うん。ブレスデンの森で出会った、レノアさんっていう女の人に見せてもらったんだ。その人演武場をやってて、観光客にレイピアの試合を見せてるんだって」



 へぇ……、とストンクスとブロッセス、二人の興味深げな声が揃った。



「今でも見れるんだ……。じゃあカッコよかっただろうな、そのレノアさんっていう人」

「伝統を伝えるための演武場ですか……素敵な仕事だと思います」



 そんな話をしつつ、三人は昼食をとり出した。ブロッセスは膝上に零れたパン屑を払いながら、隣に置いたブーツの踵を掴んだ。やはり冬の冷たい風だけでは、水溜りを踏みつけて染みたブーツはなかなか乾かないらしい。



 ペティアとストンクスの靴は、既に真冬に備えたものだという。ストンクスは連邦に来て新たに買い、ペティアはパルテリアからずっとその靴と一緒に旅をしているのだそうだ。ペティアのブーツには雪国ならではの細工がされており、滑りにくいよう靴の裏がごつごつとしていた。今までペティアの好みのデザインとばかり思っていたのだが、そういった機能もあったのかと、ブロッセスとストンクスの二人は感心していた。ただこのおかげで、コトントやサウセモリカは歩きにくかったそうだ。



「……そう考えれば、私のこの靴はこれから向かう先では合わないかもしれません。私のところも確かに雪は降りますが、降ったとしても表面にうっすら積もる程度だし……ファヴルスに着いたら買い直すことにしますよ。この靴も、父にもらってからかれこれ二年は経ちますし」



 父、と聞いてペティアはふっとブロッセスを見た。ブロッセスに両親がいるのは、前にも聞いて知っていることだ。だけど、今日はいつになくそれが新鮮に思える。



「……そっか。ブロッセスにはお父さんとお母さんがいたんだよね」

「はい。あと兄と。……そういえば、ペティアさんは?」

「僕は、四歳のときには二人ともいなくなっていたんだよ。お父さんは旅先で死んで、お母さんも多分、死んだみたい。だから、ステッツアさんっていう人が僕の親代わりをしてくれたんだよ。二人がいなくなる前から僕もその人に慣れてたから、あまり不安にはならなかったかな……。最初は二人がいなくて泣いてたみたいだけど、すぐに元気になったみたい」



 そっか、ブロッセスには両親がいてストンクスにも父親がいるのか、とペティアはカルガモの群れを見ながら思った。あの一列になって泳ぐカルガモ達にも……。



「そうだったんですか、そんな小さい頃に……じゃあ、二人の記憶もあまり残ってないんじゃないですか?」

「うーん……お母さんの記憶はあるけど、お父さんのはあまり……。あ、でも、冬のパルティア山に登ったとき、オーロラを見たのは覚えてるよ」



 オーロラ? と首を傾げてブロッセスは奥のストンクスと顔を見合わせた。

 詳しいことは分からないが、ペティアが話すにはオーロラは空で揺れる大きなカーテンだという。虹色に光り、寒いところでよく見られるのだそうだ。寒さで表情もなく固まってしまった自分を父が抱き上げたとき、そのオーロラを発見して寒さも忘れてしまったことは今でも覚えている。



「へぇ、ペティアのところだとそういうのも見れるんだ。こっちでいう陽炎かげろうみたいだな」

「陽炎?」

「ああ。暑い日に地面が太陽で熱されて、景色が歪んで見えるようになるんだよ。それは別に透明なんだけど、そのオーロラには色がついてるんだな。ちょっと見てみたいかも」

「寒いところじゃないと見れないけど……」

「……まぁ、確かに厳しいかもな。けど、やっぱり見てみたいかも。ペティアも見たことあるんならさ。寒いだろうけど」



 そう言われて、ペティアはその陽炎を想像した。この間サウセモリカに行ったのは、十一月の中頃。そのときに見れなかったということは、それよりも暑くなければ見れないということだろうか。



 僕は絶対嫌だな、とペティアは思った。



「陽炎なら、私のところでもたまに見ますよ」

「へぇ……連邦でも見られるんだ。てっきりこっちでしか見れないと思ってたけど」

「ラクマノル地方とゴルシテア地方の連邦の西側は、連邦の中でも暑い方なんです。けど、ストンクスさんのところと比べたらそうでもないかもしれないですね。本格的に暑くなってくるのは七月の前後ですし」

「そっか……その頃じゃもう俺のところは真夏だな」



 そんな話をしながら、ストンクスはふと、その頃のことを思い出していた。

 あのときはそう、自分の誕生日があって、父上が汗だくになりながら机の下にプレゼントを隠していた……。

 あの机は今、どうしているだろう。父上も、元気にしているだろうか……。



 父上のことは尊敬していた。最近手入れを怠り始めた髭を除けば、自分は父上の大体が好きだった……。



 そういえば……、とブロッセスは切なげに目を落とすストンクスを見て思った。私はまだ、この人が旅をしている理由を知らない。



「あ、そうだ。ペティアとの話を横から聞いただけでちゃんとは知らないんだけど、ブロッセスのいるそのジャーニータウンには古くからの伝統があるんだっけ?」

 唐突に顔を上げて尋ねるストンクスに、ブロッセスは、はい、と頷いた。

「連邦って、統合されてから結構変わったような話だったから何だか意外で……。さっきもブレスデンの話を聞いたんだけど、そこ以外でもまだ昔ながらの伝統が残っているんだなって思ってさ」

「けど、あの場所は観光地ですよ」



 そう言ったブロッセスの声は、驚くほど味気なかった。



「ブレスデンのようにそれが町の収入源になるのなら良かったけど、ジャーニータウンのはあやふやで、ただ昔からの考えを引きずっているだけです。ブレスデンとは比べ物になりません。その伝統も、本当に必要なものかと言われればそうでもない気がします」



 その横で、ペティアは唖然としながらブロッセスを見ていた。ブロッセスの顔はどこか冷たく、話も以前聞いたものと少し違っている気がする。

 だから、それを確かめるために意気揚々と相棒探しに出たのではなかっただろうか……。こんな突き放すような語調ではなかったはずだ。



「それでも儀式に参加するために相棒を探してるって、正直無茶なことをしているなって自分でも思います。私は少なくとも、あの伝統は自分にとって必要だったから、今でも伝統が好きでその真理を知るためにこうして相棒を探しているんです。だけど、こうして旅をしていると、よりこの伝統は無意味なものだったんじゃないかと思うんです。この伝統は足枷になってる、って皆は言ってたけど、きちんと重みを理解して言っているんだなと最近思います……」



 和気藹々とした空気はいつのまにか深刻なものに変わってしまった。



 再び二人と共に歩きながら、ブロッセスは自分のような人がもしかしたら迷惑になっているのではないかと、憂うでもない、どこか自分を俯瞰した様子で言い出した。



 まだカツゲとミヒのもとにいた頃、二人は自分に協力してくれ、相棒となる馬を探してくれた。二人の息子も農家をしているらしく、老馬でもいいから譲ってもらえないか尋ねに行ったこともあった。けれど、たとえ老馬であっても、彼は大切な馬だと譲るのを躊躇った。



 それからも、彼のように仔馬ならいいと言ってくれる人はいた。だけど、ブロッセスの求めているような大人の馬を譲ってくれる人はいなかった。それほど難しい理由ではない。皆、自分がデオンに抱いたのと同じ気持ちを抱いている。



 文献に書かれていた人は、どうやって新たな相棒に出会うことが出来たのだろう……。

 そんなことを、ブロッセスは今更ながらに思っていた。



 彼らが新たな相棒を、独特な村の外の、最早異国ともいえる地で授かった理由。

 それは、今よりも不穏な時代に、それでも誠実に生きた彼らの勇姿が讃えられたからだ。



 だけど、平和になった今の時代の、どこにそんな機会がある?



 時代遅れの伝統のために馬を譲ってほしい……。そうただ誠実な姿勢で訴えたところで、返ってくるのは不審な目だけだ。意外でも何でもない、自分だってそうする当たり前の反応だ。



 固い決心で飛び立ったはずのこの旅は、ただその当たり前に気づかされる、そんな旅だった。



「それじゃあブロッセスは、その相棒探し、やめるの?」



 ペティアの問いに、ブロッセスはいいえ、と頑固に首を振った。



「一応、式までは粘ってみるつもりです。戻ったところで自分が納得しないのは分かり切っています。それに、もともとそんな覚悟で旅に出たんです。儀式まであと三カ月……それまでは探してみるつもりです」



―――――

 それから一週間が過ぎると、三人はようやく目的のファヴルスへと辿り着いた。



 夕方に着き、すぐに宿に泊まった三人は、今初めてファヴルスの朝を迎えようとしていた。



 一週間もすればブロッセスもすっかり二人に慣れてきて、今日も小さなホテルの玄関で段差に腰掛けながら二人を待っていた。



 露が消えたばかりの早朝の空の下で、未だ瞼を重そうにしているペティアと、寒さからか大きく目を見開いたストンクス。

 馬を譲ってくれそうな人がいないか朝早くから町を散策していたブロッセスは、二人がようやく来たのを確かめて、眠気も寒さも微塵も感じない、いつも通りの落ち着いた口調で言った。



「この通りを曲がった先に市場を見つけたの。そこに朝食によさそうな店も見つけたからひとまずそこで食べよう。値段は少し張るかもしれないけど、野菜もふんだんに使われているみたいだから今のうち栄養を摂っておかないと。今まで野宿ばかりでお肉とパンぐらいしか食べてなかったでしょ? 摂れるうちに摂らないと病気になるかもしれないし、そうなると面倒だと思う。軽い風邪だって馬鹿には出来ないし、薬を貰うにしたってお金もかかる。旅の経費と時間を考えれば、栄養を取るためのこの出費は安い方だと思うな」


 そう言ったブロッセスに案内された市場は、川に沿った大きな、というより長蛇の市場だった。

 まだ空も寝ぼけたような明るさだというのに、既に出店の店員は、野菜や果物などを箱から溢れんばかりに詰めて売り出している。朝早くにもかかわらず客も多く、皆大きな籠を腕にぶら下げていた。



 市場の中央にあるパラソル付きのテーブルに座って、三人は朝食をとっていた。出されたサラダとスフレオムレツ、それからムニエルは皆、この市場でも売られている野菜と卵、そして目の前の川から摂った魚を使ったものらしい。



 ペティアは気難しそうに眉を潜め、小骨を奥歯で噛みながら、傍に見える川を見やった。

 冷たい風に吹かれた風は、周りの景色と朝日を映した水面を、小刻みに震わせている。



 頼んだ紅茶がやってくると、ストンクスはすぐさまそれを手に取って飲んだ。先ほどストンクスは、部屋の中で水道水を口に含んでいた。だからその気持ちはペティアにもわかる。


「じゃあそうだな……俺は奥の方で聞いてみるよ」



 紅茶を飲み、どこか安心したような顔を浮かべてストンクスは言った。

 ストンクスが見つめる市場のずっと奥には、果物の出店を最後にして繁華街に続いている。ホテルに繋がる道にも何十店か店が出ており、三人は一旦、手分けをしてベルジーの情報を探すことに決めた。



 ストンクスは紙とペンを取り出して、ベルジーの詳細をテン文字で書きだした。



 以前はラクマノルで鉱山関係の研究所を運営していて、フィツエルネスのことにも詳しい女性……。それだけが、手掛かりだ。



「この絵も見せたら、何かわかるかな」



 折りたたまれた紙をテーブルの上に広げ、ペティアはそこに描かれた絵を見やった。

 石を撫でる銀髪の少女の絵は、鮮やかな色遣いの色鉛筆で描かれていて、どこか絵本の挿絵を彷彿とさせる可愛らしい雰囲気をしている。



 今でも絵を描く人なら、この絵柄の面影は残っているだろうか……。



 折角あの研究所跡で見つけたのだから、少しでもベルジーを探す手掛かりになってほしい。

 そうペティアが思っていると、ストンクスが突然何かに気づいて紙の裏を覗いた。隣のブロッセスもそれを見やる。紙の裏には短い詩が書かれていて、その文字は紙と同化するように薄くなっていた。



「これ、ずっと日の当たるところにあったの?」



 と、ブロッセスが文字を睨むように見つめて尋ねた。



「えっと……ううん。研究所の部屋の中の、地図の裏にあったんだ。だから多分、そんなに日は当たってないと思うけど」

「じゃあ、古いものということ? ……これ、本当に、そのベルジーさんが描いたの?」

「わからない……。けど、とりあえず僕はそう思ってる。何でこの絵があの場所にあったのか、それは分からないけど……」


 二人と別れて、ペティアは出店に向かい、早速ベルジーのことを尋ねて回った。

 説明して絵も見せてみるが、やはりベルジーを知っている人はいない。



 けれど他の町と違って、何人かはそのベルジーという名前に反応してくれた。

 どうやらその名前はどこかで聞いたことがあるらしい。



 名前を聞いたことがある……それだけでも、ベルジーに近づいたような気分だ。



 ペティアが出店でジャムを買い、店員にベルジーの話を持ち掛けたときだった。隣にやって来た若い男性客が、ペティアの手に掴まれた絵に目を留めた。



「あ」



 と、男の視線に気づいたペティアが、振り向いて絵を見せた。



「すみません、こんな感じの絵、見たことありませんか?」

「これは……」



 と、小さな声で呟く男の後ろから、すらっとした老婆も姿を現した。老婆にもその絵を見せてみると、老婆はいつの間にか開けていた口をそっと閉ざした。



「ベルジーさんという人を探しているんです。その人のことについて、何か知りませんか? この間まで、ラクマノルの方で研究所をやってたみたいなんですけど……」



 男は自分の肩でも見やるように、そうっと後ろに振り返った。老婆は軽く目を瞑ると、ゆっくり首を振った。



「ごめんなさい、知りませんね……」



 男もそんな老婆の様子を見てから、私も……、と申し訳なさそうな顔を浮かべた。

 二人は出店の売り物を見るでもなく、ゆっくりとペティアを横切って、そのままその場を去って行った。


 一通り出店を尋ねて回ると、ペティアは待ち合わせの公園の前に向かい、ストンクスとブロッセスの傍に行った。



 街灯の隣のベンチに腰かけていた二人は、オレンジを食べてペティアを待っていた。

 ペティアも貰ったオレンジは、ストンクスが市場で買ってきたものらしい。

 ストンクスが話すには、この果物屋はベルジーを知っていたという。といっても名前だけで、隣の花屋がよく、常連のベルジーの話を聞かせてくれるのだそうだ。



 その花屋ならきっと、ベルジーの居場所を知っているだろう。



 けど……、というブロッセスの目線を追って、ペティアは前方の市場を見やった。本来ならその花屋は市場の入り口で店を開いているそうなのだが、今日は休業しているらしい。



 三人は仕方なく、明日の朝を待つことにした。

 その後も一応ベルジーを探しては見たがやはり見つからず、その日は一日、ファヴルスを歩いてブロッセスの靴を買ったり、甘い香りに誘われるまま名物のデザートを食べたりして過ごした。


 翌朝、その花屋を探しに市場に向かうと、例の果物屋がストンクスの姿を見つけてゆっくり頷いた。その隣には探していた花屋がいて、眼鏡をかけた四十代ほどの女性が花の手入れをしていた。



 ペティアは早速その花屋にベルジーを知っているか尋ねた。花屋が頷き、絵も見せてみると、花屋は、まあ、と高い声を上げた。 



「可愛い絵ね」

「この絵、そのベルジーさんが描いたんじゃないかなって思ってるんですけど……」

「そうかもしれないわ。絵柄がそっくりだもの」

「そうなんですか? じゃあやっぱりそうなのかも。そのベルジーさん、どこにいるかわかりますか? それとも、待っていた方がいいですかね?」

「そうね。いつも必ず、一週間に一度来るんだけど、最後に来たのは一昨日だから、少なくとも今日は来ないと思うわ……」

「そうですか……じゃあ、そのベルジーさんの家がどこにあるか知りませんか? 僕、その人を探しているんです」

「ええ、何度か配達に行ったことがあるもの、知ってるわ。だけどちょっと……どうかしら……教えてあげられないかもしれない」



 え、と思わずペティアは目を瞠った。



「うーん……だって、ベルジーさんは大切なお客さんだもの。仲良くさせてはもらっているけど、ただの店員の私が、お客さんの迷惑になるようなことは出来ないでしょ?」



 ペティアは静かに絵を畳みながら言い出した。



「あの、僕、フィツエルネスという鉱物のことを知りたくて、そのベルジーさんを探しているんです。ベルジーさんは以前ラクマノルで研究所をしていて、そのフィツエルネスのことも研究していたみたいだから、どうしても会って話を聞きたくて、それで探しているんです。今のところ、フィツエルネスに詳しいのは、その人だけだと思うから……」

「あら、そうだったの。勤勉なのねぇ」



 と、花屋は訝しげな表情を解いて微笑んだ。



「じゃあちょっと待っててね、今地図を描くから。そうだったの……それは知らなかったわ」



 椅子に置いたカバンの中から紙とペンを持ってきて、花屋は簡素な地図を描きながらベルジーの家の場所を説明した。

 説明を終えると、花屋は地図を渡し、頑張るのよ、と手を握ってペティアを見送った。


 ペティアは地図を片手に大きな公園の中を通って、ベルジーの家のある住宅街に向かった。



 これでようやく、ベルジーと会うことができる。

 ペティアの顔は嬉しそうだった。



「さっきの人、真面目でいい人だったね。頑張ってねって言われた」

「そりゃあ急に家の場所なんか聞いたら教えないよな、普通。最初怪しまれたとき、正直こっちも気まずかったよ」

「花のいい匂いもしてたよね」

「花屋だからな。ん……ああ、そういうこと? まぁ俺もわからなくもないけど」


 地図を頼りに住宅街を歩いて、ペティアはベルジーの家を見つけた。



 ベルジーの家はこんまりとした階段の横にあって、家の後ろに小さな庭を作っていた。



 ごろごろとした岩を置いた庭には点々と花が咲いている。玄関と窓にも、木でできたプランターが飾られていた。



「じゃあ私達、そこで待っているね」



 と、そっと足を止めたペティアに、ブロッセスが階段を指さして言った。

 けれど、ペティアは曖昧に返事をするだけ。何故か先ほどの朗らかな表情を失くし、その場に突っ立っている。



「……どうしたの? ペティアさん」



 うん……、とペティアは茫然と窓を見つめた。



 そこに動く人影は、昨日のあの、じっとペティアの絵を見ていた男性だった。窓を開け花に水をやりながらあくびをしていた男性は、ペティアに気づくと、まるで猛獣に出くわしたかのような表情で恐る恐る後ずさって窓とカーテンをぴしゃりと閉めた。



「あの人……昨日、知らないって言ってなかったかな……?」


 玄関へ向かい、ペティアはドアをノックした。ブロッセスとストンクスはペティアを心配し、少し離れた場所でこちらの様子を見守っていた。



 しばらくすると、客の姿を覗き込むように、ドアが少しずつ、そうっと開かれた。

 ペティアがドアの中を覗き込むと、ドアを開けた先ほどの男性は、白い手と顔だけをドアから出した。黒くて長い前髪の下で、男性はぎこちなく微笑んでいた。



「おはようございます。こんな朝早くに、どうされました?」

「あの、ベルジーさんに会いに来たんです。ここがそうだと言われたので」



 と、ペティアは花屋に描いてもらった地図を男性に見せた。男性は地図を見て、噛むように口を閉ざした。

 この地図によれば、確かにここがベルジーの家だ。



「ここがそうですよね?」

「はい、恐らく……少々お待ちください。今、聞いてきますので」

「ベルジーさん、いるんですか?」

「そちらも、聞いてきます……」



 ほどなくして、男性が老婆を連れて帰って来た。半開きのドアから見えたその老婆は、昨日見たときと同じく、すらっとした体型で腰も曲げず、どこか優雅にも見える歩き方でこちらにやって来た。



 老婆は半開きだったドアを大きく開いてペティアの前に立った。白い髪を上品に結い上げた七十代ほどのその老婆は、たるんだ頬と皺を引き上げて、優しく微笑んだ。



「おはようございます」

「はい。えっと……ベルジーさんですか?」

「あなたのお名前は?」

「ペティアです」

「初めましてペティアさん。私は、ベルジーと申します」



 躊躇のない老婆――ベルジーの答えに、ペティアは思わず、え、と声を漏らした。



「でも、昨日あの市場でベルジーさんのことを聞いたとき、わからないって言ってたのに……」

「あれは、昨日見せていただいたあの絵を描いたベルジーという人を知らないか、というような話し振りでしたので、知らない、と答えただけです。私はあの絵を知らないので」

「じゃあ昔、ラクマノルの研究所で所長をしていて、フィツエルネスの研究もしていた人のことは知りませんか? その人が、僕の探しているベルジーさんなんですけど……」

「さあ……わかりません。その人のことも……」



 申し訳なさそうに眉を潜める老婆の後ろで、男性は気まずそうに目を反らしていた。



 ペティアは例の絵を取り出して、そこに目を落とした。



 なら、このフィツエルネスの絵を描いたかもしれないベルジーは、一体どこにいるというのだろう……。



「じゃあ……この絵は本当に見たことないんですね?」

「ええ……絵は描きますが、この絵は見たことありません。……ああ、よければ、その絵をしばらく貸してくれませんか?」



 と、ベルジーが突然、思いついたように言い出した。



「自分で言うのも少々おかしな話ですが、私は友人が多い方なのです。ですのでその絵を知人に見せたら、あなたの探しているそのベルジーさんのこともわかるかもしれません」



 ペティアはしばし絵を見つめ、



「いえ、いいです」



 と、断った。ベルジーは間を空けてから、そうですか……、と残念そうな顔を浮かべた。



「力になれなくて申し訳ありません……。それでは、私は用がありますのでこの辺で。健闘を祈ります」



 さっと背を向けて、老婆は隣の男を置き去りに奥の部屋に帰っていった。その歩き方はやはり、まるで足を引きずっているかのようにゆったりだった。



 男によってドアが閉まると、ペティアは両手で絵を掴んだまま家を離れた。ブロッセスとストンクスが傍にやってくると、ペティアは絵をしまい、もう一度ベルジーの家を見やってから、ひとまず繁華街の方へ歩き出した。


 あの家の老婆ベルジーは、ずっと探していたあのフィツエルネスを知るベルジーではなかった。



 だけど、何かが引っかかる……。



 傍で様子を見守っていたブロッセスとストンクスも、あのベルジーを怪しんでいる様子だった。



「名前の話をしたときのあの言い方……何か事情があるんだろうな。……まあ、あんな年だから記憶が飛んでいても可笑しくはないんだろうけど、見た限りそんな様子も見当たらなかったし」

「私はやっぱりあの人がペティアさんの探しているベルジーさんだと思う。助けを得にわざわざ訪ねてきた人にあんな対応を取るのは、正直と研究所の所長を務めていた人のやることにはとても思えないけど、何か事情があるのかもしれないね」



 二人もやはり、あの老婆がペティアの探していたベルジー本人だと思っているらしい。

 ここまで来てまた振り出しに戻ってしまったようには、どうしても思えない。



「とりあえず、またベルジーさんを探してみることにするよ。これで他にベルジーさんがいて、その人が僕の探している人だったら困るし……。それに、あのベルジーさんがフィツエルネスの研究をしていた人だっていうはっきりした証拠があれば、本当のことを話してくれるかもしれない」


 それから行く先々でベルジーのことを尋ねて回り、夕方になった。

 ペティアは朝市の次に人が集まるらしい酒場に行って、ベルジーの情報を集めることにした。



 酒場へはペティア一人で行った。ストンクスとブロッセスの二人は、近くでペティアの帰りを待つことにした。



 柵に寄りかかりながらストンクスは、酒場の外にあるテーブルで、ペティアが隣の客に話しかけているのを茫然と眺めていた。酒を飲んだ客達が、熱心にペティアの話に耳を傾けているのが見える。



「頑張るな……ペティア」



 後ろに振り返って、ストンクスは柵の向こうの川を見やった。

 夕日に照らされた川が、揺れる水面に合わせて鈍く輝いている。東の空はうっすらと暗い。あのずっと奥は、もう夜だろう。



「無理もないよ」



 と、真下の川を見下ろしていたブロッセスが、遠くの景色に目をやって言った。



「ペティアさんの探しているフィツエルネスは、今のところベルジーさんくらいしか知っている人がいないもの。だから、それに賭けてみないと、ペティアさんが求めているものが手に入らないんだと思う。……正直、無謀な挑戦だなって私は思うな。本当にあるかわからないものを探しているわけだし。……けど、そんなこと言う資格、私には一つもないよね。比べ物にならないかもしれないけど、私の探している相棒とフィツエルネス、少し似ているし」



 そっか、と隣のブロッセスから目を離し、ストンクスも遠くを見やった。



 ペティアとブロッセス。

 二人と自分には、はっきりとした違いがある。



「二人はこの旅に、目的があるんだったな。自分がどう歩けばいいのか、きちんと把握してる」



 ブロッセスが何かを尋ねる前に、ストンクスの方から突然、その答えを言い出した。

 それは本当に急で、何の前振りもなかった。



「あ、そうだ。俺、ペティアの旅にただついてきただけなんだよ。特に目的があるわけじゃない。あるとすれば……あの国、というか、あの場所を出ること。それが目的かな」

「……それって、家出ってこと?」

「まあ……そうだね。二三になって恥ずかしい話だけど、とりあえずあの場所にいたくなかった、それだけが理由なんだ。ペティアを見ていたら、自分も旅に出れば少しでも息苦しさから解放されるように思えて……それでついて行くことに決めたんだよ。俺があの場所にいても意味がないような気がして……」

 

 どうして? というブロッセスの質問に、ストンクスはまた気恥ずかしげに苦笑しながら答えた。



 腹違いの兄のこと、それが一番最初に思いつく。

 兄はとにかく、自分が言いたいことを聞いてくれず、言葉を交わしてもどこか表面的で、その奥の心の声には耳も傾けてくれないみたいだった。



 それだけでなく、あの場所はどこか窮屈に思えた。

 誰も自分を必要としていなくて、誰も自分の気持ちを分かってくれない、そんな気がした。



 父のように自分を理解してくれる人は勿論いる。

 けれどそんな中でも、満たされない気持ちを抱いているのは事実だった。



「ペティアやブロッセスと比べたら、つまらない理由だよ」



 と、ストンクスは言って笑った。

 ふうん……、と川に目を戻しながら、それはちっとも否定できないな、とブロッセスは思っていた。



「ストンクスさんは今、どう思っているの? こうして旅に出て、少しは気持ちが和らいだの?」

「そうだな……したとは思うよ。あの場所だけが世界じゃないってことが、身を持って証明されたわけだし。……けど、正直言うと、ちょっとまだあの故郷のことを思って不安になるかな。いい別れ方でもなかったし」

「……それって、ストンクスさんがその故郷にいなきゃ解決できない問題なんじゃないかな。こうして旅をしていたところで、その不安は消えないんだと思う」

「……まあ、そうだな」

「ストンクスさんは、自分が自分のためにしなきゃいけないことを手放してるだけだと思う。……少なくとも、私はそう思うな」



 ふうん……、と今度はストンクスが冷たく声を漏らした。ブロッセスから反らしたその目は、不機嫌そうでもあり、悲しげでもある。



「ま……分かってないわけじゃないよ。……それに、そこまで不安かと聞かれれば、そうでもない気がするし」



 川に背を向けて、ストンクスは再び柵に寄りかかった。

 それでもブロッセスは、兄よりも自分の話を聞いてくれている。不満げな表情は続いていたが、ストンクスはそう思っていた。


 それから間もなく、ペティアが帰って来た。予想よりも早い帰りだったが、酒と熱気のせいか、顔は既にほんのり赤くなっていて、眉も何故か吊り上がっていた。



「行こう。あの人達酔っぱらって、絵、取ろうとするし」


 三人は繁華街を歩いて、夕食を取るためのレストランを探した。



―――――

 西部連邦の中でフリスアの次に先進的なこの町ファヴルスは、夜になっても人が多く、暗い空の下を明かりと活気で賑わせていた。

 人の声と馬車の音。ばたばたとした足音も、繁華街中に響いている。匂いも様々で、この時間の繁華街は、食欲を誘う匂いがあちこちから流れてきていた。

 

 ペティアはトマトのいい匂いを嗅ぎつけ、小さなそのレストランで夕食を取ることに決めた。橙色にぼんやりと照らされたレストランの中は、どのテーブルも人で埋まっているようだった。



「奥の方なら空いていますよ」



 と、近くを通りかかった女性の店員が、ペティア達を見て言った。



「四人ですね。なら丁度良かった」

「えっと……三人ですけど」



 店員は驚いたように口を開けると、すみません、と言って奥の席を指さし、厨房に戻っていった。不思議に思ったペティアがそっと後ろに振り返ると、ストンクスとブロッセスのその先に、男が立っているのを見つけた。

 その男は、ベルジーの家の、あの男だった。男は肩を上下させ、汗も流している。



「あなた方を探していました……私も、ご一緒させてください……」



 走って来たのか、男の息は切れている。四人は奥のテーブルに座り、ひとまず飲み物を注文した。紅茶を頼むストンクスに、私も……、と言って店員を驚かせたその男の声は、まだ枯れていて苦しそうだ。



 それから飲み物が来るまでの間、四人は小さなテーブルで無言でいた。やがて飲み物が来ると、男は紅茶を飲んでようやく言い出した。



「今朝はすみません……折角来ていただいたのに、あんな対応しか出来なくて……そのうえ追い払うような形になってしまい、本当に、申し訳ありません。実は、話したいことがあってあなたを探していたんです。尋ねに来たときから変に思っていたかもしれませんが、あのベルジーさんが、あなたの探していたベルジーさんで間違いありません」

「……やっぱり、そうだったんだ」

「ええ。以前ラクマノルで研究所をやっていて、フィツエルネスのことにも精通しているベルジーさんは、あの人以外にいないと思います。あの……もう一度、あの絵を見せてもらってもいいですか?」



 ペティアは絵を取り出して、それを男の前に広げた。綺麗だが、どこか古さを感じる絵だ。



「そうですね……やはり、研究所の所長室で見たことのある絵です。これは、どちらで手に入れたものなんですか?」

「僕が最初に行った、ラクマノルの研究所です。ベルジーさんに建物を譲ってもらったという近所の人が僕を中に入れてくれて、それで、一番奥の部屋でこれを見つけたんです。地図の後ろに隠れていて……」

「地図……じゃあやっぱり、所長室にあったんですね。あの中のものはほとんど処理したつもりだけど、これは残っていたんだ……。ああ、すみません、申し遅れました。私はギリザと言います。昔はその研究所で、研究員として働いていたんです」



 四人はひとまずメニューを見て夕食を決めた。ペティアはラタトゥイユという料理と、いい匂いのしてくる隣の席を見て、鴨の肉も頼んだ。



「鉱石とか鉱山の研究を主にしていたって聞いたんですけど、本当にそこで、フィツエルネスの研究もしていたんですか?」

「ええ。けど、ほぼベルジーさん一人で研究していましたね。フィツエルネスはどちらかというと考古学に近いので、私達もほとんど関わらず、あくまでついでのような感じでした。……あ、協力者は何人かいたようです。ベルジーさんは足が悪いので、たまに研究所を訪れてくる人の話を聞いて、フィツエルネスの研究を進めていたそうです」



 ペティアは今朝見たベルジーの姿を思い出した。確かにゆっくりとした歩き方だったが、あれは怪我をしていたからだったのか。



「でも、どうしてベルジーさんは嘘をついたんですか?」



 真正面に座るブロッセスが、身を乗り出すようにして尋ねた。



「それは……わかりません。あの家でベルジーさんと過ごしてから三年は経ちますが、研究所を急に閉鎖した理由も、未だに教えてくれないんです。ただ……」



 と、ギリザは暗い顔を映した紅茶に目を落とした。



「恐らく、で申し訳ないのですが、ベルジーさんはフィツエルネスを嫌っているのだと思います」

「嫌っている……?」



 と、ペティアが意外そうに目を丸めた。 



「どうして?」

「それは……わかりません。……けど、ここに越してから何回か、フィツエルネスという言葉を口にしたことがあるんです。そのときのベルジーさんの顔は、いつも煙たそうでした。あまりそれを好ましく思っていないような、なるべく関わりたくないような……そんな感じです。……だから、嘘をついたんだと思います。気を悪くさせてすみません……ベルジーさんはきっと、フィツエルネスと関わる人間も遠ざけたいんだと思います」



 ベルジーについて気になるところはいくつかあるが、あとは分からない、とギリザは申し訳なさそうに言った。研究所を閉鎖する際も、所内で噂が流れていたのだろうが、特に親しい人もいなかったため、情報も薄いのだという。



 けれど、研究所をやっていた頃は、確かにベルジーはフィツエルネスの研究に熱心だった、とギリザは言った。フリスア大学を卒業してベルジーの研究所に入ったとき、ベルジーはフィツエルネスの話を嬉しそうに語っていたという。夕食が来て、今は仕舞われてしまったあの絵も、ベルジーはそのとき見せてくれたそうだ。



 ベルジーがフィツエルネスを好きなのは、まだ入って間もないギリザから見ても明らかなことだった。ベルジーが鉱山や鉱石の研究を始めたのも、フィツエルネスを追いかけている途中に、それらにも興味が沸いたのがきっかけらしかった。数少ないフィツエルネスの情報が、時々訪れる協力者たちによって少しでも解明されたとき、ベルジーはとても嬉しそうにしていた。まるで、しおれかけていた草が水を得たかのように、老いを忘れていきいきとしていた。



 だから、何故そんなベルジーが突然フィツエルネスを避けるようになったのか……ギリザには分からなかった。研究所を閉鎖する際も釈然とせず、どうしてもやめなければいけないかと、思わずそうベルジーに吐露したのだそうだ。

 求めていた答えは返ってこなかったが、ベルジーはその代わり少し考え込んでから、引っ越した先で手伝いをしないか、と提案した。それから今の仕事に就き数年が経ったが、ベルジーは未だにあの頃のことについて心を閉ざしているみたいだった。



「少し伺ってもよろしいでしょうか。ペティアさんはどうして、フィツエルネスを追いかけているんですか?」



 ベリーソースのかかった鴨の肉を食べようとして、ペティアはゆっくりと答えた。



「僕の住んでいた村に、フィツエルネスを探していた人が来たんです。その人は病気ですぐに亡くなって、フィツエルネスがないと言われているところに来ていたけど、フィツエルネスと旅の話を嬉しそうにしていて、それで気になって僕も追いかけることにしたんです。……あと、その言葉、何だか不思議に思えたから」

「フィツエルネスのないところ、というと?」

「パルティア山のあるパルテリアです。長い間大きな川で塞がれていたところだから、そこにはないって言われているみたいで……」

「パルテリア……そこからずっと、ベルジーさんを探していたんですね」



 ラタトゥイユも食べながら、ペティアはぼんやりとこれまでの旅路を思い出していた。



 パルテリアからここまで、地図では簡単に着けるが、とても長い道のりだった気がする。くぼんだ川の跡と、そこですれ違ったエクにリンゴをもらったこと……。あれからまだ半年も経っていないが、随分と昔のことのように思える。



「あの、よろしければ明日また私達の家にいらしてください。ベルジーさんが少しでもあなたにフィツエルネスの話をするよう、出来る限り説得してみます。……私も、あんなに熱心だったベルジーさんが何故ああなってしまったのか気になるので……」



―――――

 それからレストランを出て、ペティア達はギリザを送りにベルジーの家に向かった。

 賑やかだった繁華街と比べ住宅街は静かで暗く、点々と建った家と街灯が、道を優しく照らしていた。



 辿り着いたベルジーの家は、ベルジーが既に眠ったため真っ暗だった。隣に立つ一本の街灯が小さな庭を照らし、ごろごろとした岩の間に咲いた植物を、ほのかな炎の色に染めている。



「珍しい植物を育てているんですね……この辺りでも見ないです」



 ええ……、とギリザが、話しかけてきたストンクスに答えた。



「私も詳しくは知らないのですが、山の中でよく咲いている植物だそうです。フィツエルネスだけでなく、鉱石や鉱山の話もすっかりしなくなりましたが、山の中にあるというこれだけがまだベルジーさんの興味を引いているのは、ある意味救いなのかもしれません……」



 そう話しながら庭の方へ進んでいったときだった。ペティアが何かに気づいて、ふっと足を止めた。

 ギリザが追うように前方を見やると、そこにはベルジーがいた。白髪の長い髪を簡単に結い上げた寝間着姿のベルジーは、ギリザを睨み、街灯の明かりを浴びながらゆっくりと前に進み出た。



「夕食も済ませたというのに、何故こんな遅くに出歩く必要があるというのです? それも、今朝の人達を連れて」

「……起きていらしたんですか? ベルジーさん」

「ええ。どうしてか眠れなかったものですから。……それで、何故あなたはこの人達を連れてきたのですか? もうこんな夜中だというのに、彼らも迷惑ではありませんか」

「あの、それには理由が……」

「さ。あなたも帰ってきたことですので私はもう寝ます。心配事も一つ減りました。もう私の許可なく勝手に出歩かないように。たった一言言えばいいだけの話ではありませんか」



 そう言って、さっさと家に戻ろうとするベルジーを、ギリザは慌てて呼び止めた。



「あ……待ってください、ベルジーさん……!」



 玄関の階段に足を掛けて、ベルジーはゆっくりとギリザに振り返った。

 ギリザの顔は不安げでありつつも、珍しく黒い眉が凛々しく逆立っていた。



「……お願いします。ペティアさんに本当のことを話してください」

「本当のこと? 一体何の話?」

「知ってるはずです。……私は可能な限り、ペティアさんに真実を述べさせていただきました。折角遠いところから……それも、ラクマノルの研究所にも寄ってここに来たんです。このまま嘘をつき続けるなんて、とても出来ません、私には……」



 そう、とベルジーは掛けていた足をそっと下ろした。ギリザを見やった目は、冷然とギリザを睨んでいる。



「……どうせ、そうだろうと思っていました。けど、これは私の問題です。あなたがお節介を焼く必要などどこにもないのですよ。気持ちはとても嬉しいですがね」



 けど、そう言ったベルジーの声には怒気が込められている。



 すると、ギリザに代わって、今度はペティアが前に出て言い出した。


「ベルジーさん、お願いします。ベルジーさんが今まで研究してきたフィツエルネスの話を聞かせてください。……ギリザさんから、大体の話は聞きました。ベルジーさんは、何か理由があってフィツエルネスを避けているって……。だから、一度きりでいいんです。そうしたらあとは聞かないので」



 深くため息をついた後で、ベルジーはけだるそうにペティアを見やった。



「いいでしょう……教えて差し上げます。フィツエルネスはあなたの持っていたあの絵の通りです。あのような形をしていて、何色かわからない空の色をしている……。だけど、それだけです。あの絵の裏に書いた詩を読んだかは知りませんが、フィツエルネスを詠った詩には少女のことが書かれていたので、私は銀髪の少女をあの絵に描きました。……けれど、それだけです。……ね、ペティアさん。あなたが今知っているものとまるで同じでしょう?」



 ペティアはすぐに言葉が出なかった。あまりに呆気ない答えだ。



「え、だけど……ベルジーさんは長い間研究していたって聞きました」

「ええ、していました。……だけど、どんなに長い間研究していても、結局大した情報は得られなかったのですよ。所詮は大昔に詠われたというだけの詩……。だから教えなかったのです。教えるべきものもないのに、答えられるわけがないではありませんか」



 隣のギリザが、そっと目をそらすベルジーを険しい目つきで睨んだ。

 嘘なのはわかり切っている。皺らだけのベルジーの唇は、震えている。



「お願いします、ベルジーさん。ペティアさんに、本当のことを話してください」

「本当も何も、これが真実です。成果はなかった。だから話さなかった」

「いいえ。そんなことはないはずです。私はベルジーさんがまだ研究所にいた頃、旅から帰って来た方の話を聞いて、喜んでいたのを間近で見ていたんです。何故ですか、ベルジーさん……。どうして急に、あんなに好きだったフィツエルネスを避けるようになったのですか?」



 震える唇をぎゅっと噤んで、ベルジーは自分の足に目を落とした。そっと前に突き出した右足が、昔を思い出して微かに疼いていた気がした。



 この足の怪我は、今にしてみれば馬鹿馬鹿しいものだ。そして忌々しい……。


 自分の足でフィツエルネスを探すことを断念させたこの怪我は、何も自分だけを苦しめたわけではない。



「そんなの……簡単な理由です。私はもう重責を負いたくないのですよ。私のこの足の怪我のことは知っているでしょう? これは、私がまだ教師をしていた二十代の頃、フィツエルネスの研究のために近くの山に登ったときに負った怪我です。……だけど、こんな怪我は何も、私に限ったことではないのですよ。皆フィツエルネスを追って、何かしら不運に遭いました。私のこれなんて、彼らと比べたら軽い方です。私はむしろ、もっとひどい仕打ちを受けるべきでした……」



 自分は半ば人殺しだ、と、ベルジーはひどく低い声で言い放った。

 彼らの不運の始まりは、他でもないあの絵だ。あの絵が彼らにフィツエルネスを教え、彼らの人生を狂わせてしまったのだ。


 怪我をした自分が性懲りもなく研究所を始めたとき、久々に再会した彼らは進んで自分に協力してくれた。

 自分はそれがとても嬉しくて、彼らのために可能な限りの指示とアドバイスを掲示した。



 けれど、所詮は絵の中の存在。ただ彼らを不確かな提案で振り回しただけだ。



 それだけでなく、皆旅先で命を落としたり、生きていたとしてもそれまであったものを失くしていたりと、必ず悲惨な目に遭っていた。



 後悔する自分を励ます仲間達も勿論いた。

 だけど、そんな彼らだって自分のせいで一生を無駄にしたに違いない。四年前に研究所にやって来たあの協力者が最後だ。縁を切るには遅すぎた。


「……私があなたに協力しない理由は、十分ご理解いただけたはずです。私はこれ以上、責任を負いたくありません。どうかお引き取り下さい。もう夜です。大声を出して近所に迷惑も掛けたくありません」



 ベルジーはそう言うと、放心するペティア達から顔を背けて、家に帰っていった。ギリザはベルジーの消えたドアを見、はっとすると、すみません、とだけペティアに言って後を追いかけた。


 ベルジーは暗いリビングの中にいた。テーブルの前の椅子に深く腰掛け、繁華街からの明かりが僅かに漏れる窓を眺めていた。



「……ごめんなさいね、ギリザ。折角私が協力してくれるだろうと信じてくれていたのに出来なくて……。けど、私はもうフィツエルネスの話をする気はないのですよ。それにあの人、私を探すためとはいえ、人の絵を勝手に見せびらかすような人ですし……」

「すみません、ベルジーさん……」



 と、ギリザは暗闇と化した廊下で立ち止まって、呟くように言った。



「そんな事情があるとは知りませんでした……辛い質問をしてしまって、申し訳ありません」

「いいんです。二年も一緒に生活しながら、話さなかった私も悪いのですから。……さ、少し小腹がすきましたね。この間花屋の人に貰ったブッションでも食べましょうか」

「……けど、ベルジーさん」



 と、ギリザは、立ち上がろうとするベルジーを見て、弱気な、けれど真摯な顔で言った。



「ペティアさんには、それでもやっぱり、協力した方がいいと思います」

「……何故? さっき、もうフィツエルネスの話はしないと言ったはずです」

「ペティアさんは、ベルジーさんを頼りに旅をしていたんです。……勿論、だからこそ話したくないのかもしれませんが、それでも話をするべきだと、私は、思います……」

「先ほどの話を聞いていなかったような言い方ですね、ギリザ。私は親切心からあの人に話さないのですよ。空を飛べるわけでもないのに、高いところから飛び降りてみようなんて、そんな無責任なこと言えるわけがないじゃないですか」

「だけど……」

「何です?」



 小さくも冷たい言い方に、ギリザは肩を震わせ俯いた。こんな自分が、とても不甲斐ない。



「今日はいつになく反抗するではありませんか。……まぁ、それは別に、私も構いません。けれど、この件に関しては別です。あなたは特に、フィツエルネスに熱心だったわけではないではありませんか」



「ベルジーさんやペティアさんに比べたらそうです。……だけど、私もフィツエルネスは好きなんです」

「好き? どうして?」

「恐らく……ベルジーさんがフィツエルネスを好きだったからだと思います」



 意外な答えに、ベルジーは思わず言葉を失くした。ギリザも言いながら、そんな自分に驚いていた。



 だけど、そうだ。ベルジーだ。



 そして何も、フィツエルネスだけじゃない。



「……こんなことを言うのは恥ずかしいですし、失礼なことかもしれません……。けれど、何となくベルジーさんは、私のことを信頼してくれているように感じるのです。あの日、ベルジーさんが私にこの仕事を勧めたのも、きっとそうだったからだと思ってます。それに、研究所にいたときだって……ベルジーさんは他の人とは違うふうに私を扱っていたように思うのです。フィツエルネスの研究の手伝いをしていたあの人が旅から帰ってきたとき、ベルジーさんは私に、私だけに、接客を任せてくれました。……気のせいかもしれませんが、客人と話していたときのベルジーさんのあの嬉しそうな笑顔は、研究所に入ったとき以来で、他では見せなかったものだと思います」

「……ギリザ……それは何故だかわかります?」



 いいえ……、と首を振り、ギリザは静かなベルジーの目を見つめた。



「そのとき既に、私の噂があの中で流れていたのですよ。ただ鉱石の研究に専念すればいいのに、フィツエルネスに狂い、挙句他人まで不幸にするような老婆だ、って……。研究所を閉鎖するとき、あのように真剣な顔で聞いてきたのはあなたぐらいです。私が思っていた通り、何も聞かされていないんだなって、そのとき初めて思いました」

「今も昔も、臆病な性格なんです。研究所に入ったのも、フリスア大学に入ったのも、皆、私が臆病で、ただ周りに合わせてきた結果です。小さいときから、ずっとそういう人でしたもの。真剣に私を相手にしてくれる人なんて、家族も友人も、誰一人としていませんでした。ベルジーさんだけだと私は思っています。自分が恐らく望んでいた、家族のような人は。ベルジーさんはどうか知りませんが、私の方は少なくともベルジーさんを尊敬しています。研究員としても、家族としても……。ここに来たのは、皆、自分が流されてきた結果です。でも、今思えば、良かったことなのかもしれません。だから、純粋に、昔好きだったフィツエルネスを憎むベルジーさんが気掛かりなんです。ペティアさんに協力をしたら、少しは変わるような気がして」

「……結局、その話に戻るのですね……」



 ギリザから目をそらし、ベルジーは小さく肩を落とした。



「何度も同じことを言わせないでください。私はあの人に協力しません。これ以上罪を重ねたくないんです」

「罪なんて……そんなことはありません」

「いいから、もうそのことについては放っておいてください。私が家族だというならなおのこと。部屋に戻りなさい。頭が痛くなってきました……」



 疲れたような顔で頭を抱えるベルジーを見て、ギリザは仕方なく部屋に戻っていった。



 テーブルに座りしばらくすると、ベルジーは先日買ってきたブションを取りに、窓の明かりに照らされた奥の棚に向かった。ファヴルスの川の絵が描かれた箱の中には、チョコとナッツを詰めた、コルクのような形のお菓子が並んでいる。手に取ったブションのナッツは角の丸い正方形をしていて、まるでフィツエルネスのようだった。


 何を馬鹿なことを考えているんだろう、と、ベルジーはふっと鼻で笑って一口ブションをかじった。

 そうだったとしても、噛み砕いてしまえばいい。口の中で正方形の塊を見つけて、ベルジーはそれを奥歯で噛み砕いた。ナッツの香ばしさとチョコの甘みが口中に広がった。



 そういえば、とベルジーは二つ目のブッションを手に取って思った。このブションに出会ったのは、あの花屋がきっかけだった。

 種の配達ついでに、彼女はファヴルスで一番のお気に入りであるこのお菓子を持ってきて、自分に勧めてくれたのだ。

 そのときに持ってきてくれた種は、今は元気に岩ばかりの庭で咲いている。この辺りでは見ない花の種を求めたとき、彼女はそんな花も知っているのかと嬉しそうにしていた。



 彼女とは今も、休日も共にお茶をする仲になっている。



 だけど今思えば、どうしてそうなったんだろう。

 そうだ。研究所をやめてここに引っ越して来たからだ。



 けれどそもそも、何故しなくてもよかったあの研究所を始めたのだろう。

 そうだ。当時はこんな苦い結果になるとも知らず、フィツエルネスに夢中だったからだ。


 ふと、ベルジーは先ほどのギリザの話を思い出した。



 戻ってくることができない。

 どう計算しても、過去が違えばと願えば、今のこの状況に戻ってくることが出来なかった。



 フィツエルネスは嫌いだ。



 だけど、自分はわざわざこれを選んだのだ。



 花屋もブションも、そしてギリザも、それについてきた。

 


―――――

 翌朝、ベルジーは庭に立って辺りを見渡していた。夜中に雨が降ったのか、あちこちには小さな水の粒が落ちていたが、雲のない晴天の乾いた風がそれを吹き飛ばしてくれていた。



 しばらくすると、ぺティアがやってきた。二人の連れもなく一人で歩いていたぺティアは、庭の中の白い頭をみとめると、そっと立ち止まった。



「おはようございますペティアさん。昨夜のようなことがあったにもかかわらず、よくいらしましたね」



 ぺティアの傍まで歩きながらベルジーが言った。けれどそうでなければ、ここに立っていた意味も、今手にしている箱を持って来た意味も無い。



「私は昨日、全てを話したはずですよ。それなのに、何故今日も朝早くからこちらへいらしたのですか?」

「昨日ギリザさんが、明日また来てくださいって言ってたんです。ベルジーさんのことを説得してみるからって」

「昨夜のあの状況で、ギリザが私を説得できたように思えます?」

「でも、あのあとすぐベルジーさんを追いかけて行ったので……。何もしなかったようには思えないし……」



 そう言いながら、ぺティアはそうっとベルジーを見やった。どこか挑発的な物言いながらも、ベルジーの顔は穏やかだ。笑ってはいないが、それが笑顔なのかと思ってしまう。



「それも確かにそうですね……まぁ、その話はいいでしょう。さ、ぺティアさん。これを一つお取りになって。ファヴルスの名物のブションです」



 ぺティアは言われるがままそれをとり、ベルジーに案内されて庭に向かった。

 座るよう言われた岩は表面が少し濡れていたが、ベルジーが構わず座ったため、ぺティアもそこに座った。ようやく口にしたブションは、ナッツの香ばしさと生地とチョコの上品な甘味でとても美味だった。



「今度は私の方から質問させていただきますが、ぺティアさん、あなたはどうしてフィツエルネスなんかの旅を始めたのですか?」

「うーん……気になるからです。初めてその言葉を聞いたときどこか懐かしい気持ちになって、それからしばらく頭から離れなかったんです。旅を始めたのは、僕にフィツエルネスの話をしてくれた、あのおじさんの影響もあるかもしれないけど……」

「その方があなたにフィツエルネスの話をしたのですか?」

「はい」

「そう……誰かしら」

「わかりません……名前を聞き忘れちゃって、そのままその人は亡くなったんです」



 膝に箱を置いたまま、ベルジーは寂しげに俯いた。けど、すぐに顔を上げて質問を続けた。



「あなたは確かパルテリアの出身でしたね。その方と会ったのもその場所ですか?」

「はい。フィツエルネスの旅を再開していたみたいなんですけど、余命が近くなってアチサテンタ中を見渡せるというパルティア山に来たみたいなんです。結局どちらも果たせなかったけど……」

「そう……」

「けど、フィツエルネスとか旅の話を嬉しそうにしていたから、僕もそういうのいいなって思って旅に出ることにしたのかもしれません」



 俯いていたベルジーはいつのまにか優しげな表情を浮かべていた。



「ところで話は変えますが、あなたはまだ、ゴルシテア地方へは行かれてないのですか?」

「いいえ……どこでしたっけ、それ」

「フリスアの西の、山を登った先にある場所です。勤め先のそばに運良く山がある……それだけの理由で簡単に見つかるはずもないフィツエルネスをこんな足になるまで探していたのですが、今思えばそう検討違いでもなかったのかもしれません。そこは、私がまだ教師をしていた頃、念入りに調査をしていたところなのですよ」

「はい……」

「今ならはっきりわかります。やはり、フィツエルネスの出どころはあの場所以外にありえません。それが結局、私が何十年もかけて導き出した答えです」



 ぺティアはそこでようやく、話が進んでいたことに気づいた。これこそ、自分の知りたかった答えだ。


 ベルジーがあの研究所で半生をかけて出したフィツエルネスの数少ない情報は、西部連邦以外にフィツエルネスはおろか、フィツエルネスの伝説もないということだった。進歩というのも躊躇うような小さな進歩だけれど、それでも予感を確信に変えた大きな進展だった。



 平坦な地形ばかりの西部連邦内で山と呼べる山は、パルテリアのパルティア山と、ラクマノルとジャーニータウンのある荒野を繋ぐ蓄え山脈、そしてゴルシテア地方の山々だけだ。パルティア山がその出所でないのは既に歴史が証明している。そうなれば西部連邦の西側にそのフィツエルネスがあるのではないかと、ベルジーは話した。



「勿論、フィツエルネスが存在していればの話です。しかし、この詩の作者のほとんどの作品は実話を元に作られていました。けれどこれは、作者が実際に見た話ではありませんから少し疑念が残るところです。しかしながら私達はそれを信じ、何年もの間研究に取り組んで来たのです」



 ベルジーはふと、家の裏口の方に目を留めた。裏口にはギリザが立っていた。すくっと立ち上がったベルジーが気まずそうに目をそらすと、ギリザが不思議そうな様子で二人のもとに歩いて行った。



「ベルジーさん……」

「さ、ぺティアさん」



 と、ベルジーはギリザの話を遮るようにぺティアを向いた。



「私の話は全て終わりました。あとはあなたの好きになさい」 



 柔らかな笑顔を浮かべて立ち去ろうとするベルジーを、ぺティアは慌てて呼び止めた。



「ベルジーさん、これを持って来たんです」



 ぺティアはお尻のポケットに手を入れて、折り畳まれた紙を広げた。



「これ、結局ベルジーさんのだったから返した方がいいのかと思って持って来たんです。あまりいい思い出がないみたいだからいらないって言われるかもしれないけど、今はどうかと思って」

「ええ、今も必要ありません……」



 掴んだ絵を静かな目で見つめてベルジーは言った。



「これが原因で人生を狂わせた人がいるのも事実ですから、今でもこれは私にとって不吉な絵です。必要であれば、この絵はあなたが持ってなさい。これが辛いときでも誰かの支えになるのなら、もしかしたら私もいつか好きになれるかも知れません」



 ベルジーは絵をぺティアに返し、くるりとギリザの方を向いて、持っていた箱を開けた。



「さぁ、ギリザも一つ貰いなさい。最後の一つは私が食べます」



 ギリザがブションを取ったのを見届けて、ベルジーも一口かじると、もぐもぐ口を動かしながら後ろのぺティアに微笑んだ。



「このブションはどうでした? なかなか良かったでしょう」

「あ、はい。周りがサクサクしててとても美味しかったです。この町の名物なんですね。このお店、どこにあるんですか?」

「ここから一番近くの橋を越えたすぐの場所です。気に入ってもらえて何よりです。きっと知らないでしょうから、一度味見させた方がいいと思ったのですよ。そのあとどうするかは、あなた次第ですから」

旅人のくちばし(上)

旅人のくちばし(上)

フィツエルネス――それは、ある男が運んできてくれた不思議な言葉。 鉱物と言われていること以外、謎に満ちているその言葉には、あのとき見た男の姿と同じ、壮大な何かが秘められている気がした。 宿屋で働く青年ペティアが、ある男との出会いをきっかけに旅に出る、そこそこ日常に近い物語。

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