灰かぶりのスペクトル

四時限前の地学室は、乾いた泥のにおいがした。
誰もいない教室の所々に、静まり返った化石がそっとたたずんでいて、壁にそって置かれたロッカーには埃をかぶった顕微鏡たちが並べられている。ひっそりしたそれら調度の中、教室の後ろで、錆付いた扇風機が、ただ一つ、ざらざらと音を立てて首をふっていて、さながら掘削機である。
残暑でゆであがった校舎にあっても、やはりここは変わらず地学室なのだな、と思う。
教室の前に一人立っていた私は、薄暗い教室に入り、電気スイッチを素通りして窓側の一番前の席に座る。木製の床やいすは、私の体重をそっと吸い込むように少しだけたわみ、そして、静かにあるべき形に戻っていく。木の板の反動が心地よく、私はふっと息をつく。窓のほうを見ると、すぐ目の前にあるグラウンドの砂が、少しくもったガラスにカチカチとぶつかって、桟に堆積しているのが見える。その砂山が風でくずれ、無数の石英や輝石や黒雲母の結晶が散り散りに落ちていく。そこに、また風が新しい無数の結晶を運び、うすい地層を作っていくのだった。そんな見苦しくめまぐるしい砂の連結の変化は、地学室の中から眺めるだけでも私をいらいらさせる。砂は払うと汗で手に付くので大嫌いなのだ。木で作られた机に手をかけると、いつの間にか沸いていた汗が、真っ黒な木目に吸い込まれていった。
四時限前の地学室はいつも変わらない。淡々と静かだ。扇風機だけが不釣合いに音を立てている。
扇風機は、錆をこすり合わせながら教室内の空気を追い立てるが、対流はおだやかで、滞ったままだ。上隅に当たって降りてきた空気は、雨上がりの校庭のにおいがしてそれがまた心地いい。脇に目をやると、レプリカのアンモナイトが薄暗い部屋の中でゆるやかに泥のような色をしたとぐろを巻いている。机の引き出しを引いて鉱石標本を取り出し、石灰石を選んでつかんで、じっと眺めてみる。私の知らないどこか遠くで、私の知らない月日を過ごしてきたこの石は、白い顔を凛とすましながら、私の手の中に納まっている。
「あなたは、どこから来たんですか」
小さく呟く。答えは無い。地学室には相変わらず、扇風機の音が耳障りに鳴っているだけだ。もう一度尋ねようかと思ったが、無駄に違いないので、止めた。

 「また、君は早いんだね」
 砂利をこすったような低い声が聞こえる。びっくりして振り返ると、地学の綿貫先生がいた。
 先生は、準備室のドアから頭を出し、白髪混じりの後頭部をこりこりと掻いている。
「先生も、いつもより早いんですね」
と返すと、先生は、立つ瀬がないな、と呟いた。
「穴ぐらも夏の間はやっぱり暑いですか」
と、笑いながら言ってみる。先生は、しみが浮かんだ眉間を微かにしわだたせて笑った。

綿貫先生は、六十を少し過ぎた老教師である。定年退職した後も、後任の地学教師がいなかったため、臨時教員として私の高校で教えている。骨ばった体に緑のチョッキを着ていて、髪もまだ豊かである。
先生は、いつも、たいていの先生が集まる職員室ではなく、埃臭い地学準備室でコーヒーをすすっていて、授業が始まりそうになると、のっそりと、教室のはじから体をのぞかせる。それが狸の穴倉から出てくる動作と似ているのだ。体型が似ていないのに「たぬき先生」と呼ばれているのは、綿貫という名前のせいだけではないのだろうなと、授業のたびに思う。
だから、私は地学準備室を「たぬきの穴ぐら」と呼んでいる。穴倉は地層や地学となかなか近しい。思いついてすぐふさわしいあだ名だと思った。

その穴ぐらから出てきたたぬき先生は、ずんぐりとした鼻に手をうつし、鼻頭をつまむように掻きながら。
「他の子らとは来ないんだね、やはり」
と尋ねる。
 あ、やっぱりたぬき。
「まあ、いつもどおり」
苦笑しながら私が答えると、そうかい、と先生は不快そうな顔をして、くしゃみをし、ティッシュをとりに、穴ぐらへ帰っていった。
 苦笑の意味を悟られただろうか、と思いながら、アンモナイトの頭をなぞる。先生がつけたのだろう。いつの間にか明かりがついていて、アンモナイトは先ほどより柔らかな土色に光っていた。

廊下から騒がしい足音が聞こえてきて、黒板の上の時計を見上げると、十一時二十二分。授業まであと三分ある。アンモナイトから手を除けて、机の脇によけておいていたノートを適当に開く。開いたページには先週やった地質図の問題が解かれている。解かれた後、もうたいして意味を持たなくなった想像上の地層を、少しだけ眺める。どの傾斜もきれいに四十五度でそろえられた地質図は、いかにも無機質で無意味だった。私の書いた尾根を示す直線だけが、ゆるやかな弧を描いて浮かんでいる。今日の授業に使う白紙のページを探そうとして、次のページをつまんだ時、扇風機の風が押し流すようにノートをめくった。がさがさと紙とさびの音が耳障りに鳴る。急に私のほうへ風が向いたことに驚いて、後ろを見ると、扇風機は、何事も無かったように私のほうから顔を背け、床に落ちた埃を追い立てている。いつのまにか、羽根が下を向いていたようだ。首を境にして対流の仕方が変わった空気の温度差のせいで、体が二等分されたような感じがして少々気味が悪い。あの老人めいた送風機は時々、こんな具合に、急に首を落とすことがあった。そのたびにむやみに強い風が吹き付けるので、私たちは手早く首を上げてやらなければならなかった。
私は、立ち上がって教室の後ろ隅へ駆けて行き、扇風機のスイッチを切った。しゅうしゅうと音を立てて回転が緩んでいき、やがて静止する。動きの止まった空気がゆっくりと教室の床に積もって、私を埋めていっているような感じがした。蒸し暑かった。
介護人のように、私は扇風機の首の後ろに手を回し、その機械の顔を上向きにして、ねじを回し固定する。ふさわしい姿に戻ったそれはスイッチをつけると、また、ゆっくりと教室の空気をかき混ぜ始めた。風が耳の裏をとおり、髪をなでる。涼しさと汗の滑る感触に深い息が漏れて、扇風機とは偉大だと思ってしまう。それでも、錆付いた扇風機の羽根の音は耳障りだし、首の介護をしなければならないのは億劫だった。
風を避けるように、扇風機の後ろに立ってみる。滞った地学室の空気はしっとりと暖かく私を包んだ。さっきより微かに涼しくて、快適なのは、おそらく扇風機が回っているからだろう、と思った。苦笑いがこぼれた。

チャイムが鳴る。
あわてて席に着く。すると、廊下側のドアからクラスメイトらが、木の床をぎしぎしと鳴らしながら入ってくる。思い思いの歩調に乗ったその音は、秩序無く騒がしい。生徒らのほとんどが教室に入ると、穴ぐらのほうからたぬき先生が現れる。先生の足音は、静かで、ゆったりとしている。
「はじめます」
先生が言う。
急に人が入ってきたせいで、酸素が薄くなった空気にめまいをもよおしながら、起立、と号令をかける。遅れてやってきた数人の生徒が、半ば転げるように机の前に駆けていく。
お願いします

少し間があって、数人が、お願いしますと続けた。私が冷ました空気が滑稽なのか、後ろで息を潜めた笑い声が聞こえる。下品な音がこれ以上地学室の静けさを侵すのがいやで、
着席。といい、笑い声を断ち切る。
 「よろしくお願いします」
本当に静かになった教室で、先生は授業を始めた。
 先生の授業は、かわいらしいあだ名に反して、ひどく淡白だ。若い教師のように話し合いをむやみに促したりしないし、授業を断ち切って質問をするとひどく不機嫌になる。老教師によくある、見せつけるだけの講義だ。だから、生徒の半分は机に突っ伏してまぶたを閉じ、残りのおきている生徒も、ほとんどは虚ろに視線を泳がせている。授業を聞いているのは、おそらく私くらいしかいない。だから、先生の授業は静かで、とても地学室に似つかわしかった。他の教科のときは騒がしいクラスの誰も、この地学室の静かさを侵せないことが、私は嬉しかった。
「えー、諸君らにもプリズムを見たことがある人はおりましょうが」
静寂が積もった教室に、先生の声が響く。「諸君」なんて古風で奇妙な呼び名を笑う声は無い。
 窓を見ると外は晴天で、少し黄色がかった光が、桟の地層の石英に反射されている。石英は他の土色の鉱石の間から顔をのぞかせ、ひっそりと光っている。グラウンドの遠くの方で、土煙がこちらに向かっているのが見えた。この石英は、もうすぐ吹き飛ばされて、どこかのつまらない砂場に埋もれてしまうんだろうと思う。思って、自分の気障な考えに鳥肌が立った。私の考えにしてはあまりにロマンチックだった。
「プリズムを通してみますと、光は七色、正確に言うとそれよりもっと多くの色になって出てくるわけですが、これは光の要素が分かれているに過ぎない。光はいつも透明に見えますが、それは、気が遠くなるほどたくさんの種類の色が混ざり合って、透明にしているにすぎないんです。この、光を作る色の要素を、スペクトル、といいます。」
 誰に聞かせているのか、浮かれたような声で先生は語っている。
 私は、そんな先生の前で、小さく「スペクトル」と呟いてみる。質感の無い音が、唇の隙間からもれだして、ふわふわと天井に浮かんでいった。窓のほうを向く。窓の外では相変わらず日が照っているが、光は近づいてきた砂煙にあたって、茶色く光っている。
桟にあった土の山は、もうどこかへ行ってしまっていた。桟の脇にあるアンモナイトは、ガラスをくぐった光を受けながら、なおくすんだ泥の色をしていた。
 もう一度「スペクトル」と呟いた。異国の呪文のようなそれは、依然としてふわふわと、白黒の時計の周りをいったりきたりしていた。


 授業が終わった後、先生のところにいく。先生はチョッキについた多様な色のチョークを払いながら、こちらを向いた。気づいていないのだろうか、右の袖口にはまだ、チョークがたくさんついていて、シャツの白をエキゾチックな模様に染めている。ところどころ、色が重なった部分があるが、色は透明ではなく泥に近い、グロテスクなものである。
「先生」
というと
「はい」
と返ってくる。淡々として、しかし愚鈍な動物らしいところは、いつものたぬき先生である。
「さっきの、あれ、スペクトルっていうのがよく分からないんです。」
「というと」
「色が混ざってできるのが透明だなんて、ちょっと信じられなくて」
「しかし、そうなるんだよ、不思議にも」不思議にも、という言葉とは裏腹に、口調は淡白だ。
「でも」
納得できなかった。スペクトルの話も、それを話したのが穴ぐらのたぬき先生だということも。それを納得してしまったら、下品に笑っている、あのクラスメイトたちの群れに、私が負けてしまうような気がした。
「でも、といわれてもね」先生が、どうでもよさそうに言いながら、また鼻頭を掻く。背筋を幾分か曲げて、先ほどより心なし獣らしい。
「だって、例えば、ここはどんな時だって土色じゃありませんか。授業中も、私が一人でいるときも。それに、先生の袖口はチョークが混じって変な色をしているし、黒や白の雲母が混じっているはずのグラウンドは、そんなの無かったみたいに、砂色をしてるじゃないですか。」
 変に興奮していた。自分が自分で無いような、わけの分からない頭の中を、クラスメイト達ののむらのある足音が、ぎしぎしと、軋みながら回っている。熱くなった耳を、扇風機の対流させた風が、ゆっくりと冷やしていった。
長いせりふを一息に言ったので、息切れした私を、首を傾げて、要領を得ないという顔で見ていた先生は、思い出したようにシャツの袖口を払った。そして、ふむ、と口を小さく尖らせ、しばし考え込んだ後
「君は、水晶を見たことがあるかね」
といった。質問の内容も、質問されることそれ自体もあまりに突飛だったので、私は、あっけにとられて、いや、としか答えられなかった。
「知ってのとおりあれは透明の鉱石だが、さて、あれが何から作られるかは知っているかい?」
「それは、Sio4四面体です、たしか」戸惑いながら答える。先生は首を振った。
「そうではなくて。もっと抽象的な話だよ。答えを言えば火山灰、噴火のかすだね。」
あとは分かるね、といった風に先生はこちらを見つめた。老いてにごった目はじっと動かない。ふと、先生の目が透明だった時代を思い浮かべてみようかと思ったが、あの大きな石英と先生の白んだ瞳が重なって見えたので、やめた。そうして先生の目から目を離し小さくうなずく。
「つまり、透明は灰にまみれた色なわけですね。すばらしいものではなく、澄んでいるに過ぎないと」
私が言うと、先生はまた首を振り、
「少し違う、澄んでいることは、それだけですばらしいことなんだ。ただ、中身がすべて美しく、楽しいものなわけではないと、そういう話さ。私は、もう、興味が無いがね」
といって、顔をしかめた。「もう」という部分だけ変にちいさかった。私は、先生の茶色い額のしわが細かくよっていくのをみて、狸の模様のようだと思い、同時に、先生は自分のあだ名を知って知らぬ振りをしているんだろうなと考えた。皺の下の瞳はやはり白いままだが、もう石英とは重ならなかった。少しだけ、先生の瞳の歴史が見えたような気がした。
「先生の目は白いですね」
思い切って言ってみる。
「老いるにつれて、色彩感が希薄になってきてね」
困りはしないが、とうそぶきながら、先生は下手なウインクをした。
閉じられなかった片目に夏の日差しが当たって、よりいっそう白く見えた。その白は、ペンキに塗りたくられたようにべたべたとして、澄んでいるようには見えなかった。
「先生は、地学室と職員室、どっちが好きですか?」
最後に聞いてみる。先生は
「どちらも嫌だな」
と答えた。先生の瞳が澄むことはもう無いのだろうな、と、ひっそり思った。

先生に会釈して、地学室の入り口まで進む。廊下で、数人のクラスメイトがげらげらと騒いでいるのが見えた。彼らの目は、きっと透明で透き通っているだろう。たぬき先生ではない先生達も、誰も彼もが、きっとそう言うだろう。
では今、私の瞳は、澄んでいるだろうか。単色のスペクトルが濁らせた瞳は、濁りを保ちながら透き通りはしないものなのか。そんなことを考えた。

後ろを振り向く。先生はもう穴ぐらに消えていて。微かにコーヒーの匂いがする。苦い香りが舌で転がって、ああいいな、と思った。先生のコーヒーを飲んでみたいと思った。そうして、もう、私は透き通った濁色になどなれないのだなと分かった。窓際のアンモナイトが、馬鹿にしたように机上に座っているのが見えた。
廊下では、まだクラスメイトの数人がぐずぐずとたむろしている。私は、その中の一人、できるだけ内気そうな男子を選んで、声をかけ、次の時間割を聞いて、群れに混ざった。

後ろを振り向く。昼休みに差し掛かった地学室は、相変わらず淡々と静かだ。私が場違いなくらいに。
「さようなら」
あの大きな石灰石や、窓際のアンモナイトや、埃をかぶった顕微鏡に、小さく挨拶をして、残暑で煮込まれたクラスルームに向かう。
白く透き通った地学室が、私たちの歩みにそってだんだんと遠くなり、曲がり角を進んだところで消えた。
 



5時限目のクラスルームで見た夢は地学室の夢だった。
透明な私が、教室の真ん中の席に座っていた
私から引き離された地学室は、なお淡々と静かだ。
窓辺に置かれたアンモナイトは、一人ぼっちで、透き通った土色のとぐろを巻いている。窓の外にある桟には、新しい砂山ができていて、先ほどよりも多くなった石英が透明に光っている。石灰石は、憮然と箱の中に納まっている。
そうして、扇風機は依然として静かに、泥と灰のにおいのする空気をとろとろとまわしているのだった。
アンモナイトに手を伸ばしてみる。アンモナイトは宙に浮かんで消えた。
鉱石標本を開けてみる。石灰石は砕けて消えてしまった。
夢の中の透明な私は、アンモナイトが消えた天井を少し見つめたあと、扇風機の首が傾かないかを確かめに、教室の隅へと歩いていった。

灰かぶりのスペクトル

灰かぶりのスペクトル

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-02

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