無我
茸小説です。PDF縦書きでお読みください
京都東山は京都の文化の始まりの場所という。水の足りない京都に琵琶湖から水が引かれ、疎水は人々の生活の基盤となっただけではなく、京都の庭園の発展の源ともなったのである。
東山の一角にある林の中に、一つの茸が生えた。
茶色の茸はまだ傘が十分に開いていないところを見ると、成熟しきっているわけではない。それにもかかわらず、孔雀羊歯の葉の下で、しっかりと前を見据えて瞑想に耽っている。しかし、かすかだがときどきからだが動く。なかなか瞑想に打ち込めない様子が見て取れる。もうすぐ傘が開くという青年の茸である。
そこに、ちょっといかつい身体つきの鴉が一羽舞い降りた。
ぴょんぴょんと飛び跳ねて、茶色の茸が下にいる孔雀羊歯の前で尾羽を広げようとした。しかし、尾羽の一枚がちょっと脇に飛び出しただけである。
鴉は足を踏ん張った。
茸は瞑想をしようとしていたのだが、なかなかうまくいかないところに、鴉が舞い降りたものだから、気持ちを落ち着かせるどころか、体中が刺激されてしまった。
見ると鴉が目の前にいる。孔雀羊歯の下にいる茸は、鴉が何をやっているのかと、眺めていた。鴉は日本足を踏ん張って、真っ黒な尾を、少しばかりであるが開いた。そう、扇子の一つがちょっと広がったイメージである。
やっと出来たといった様子の、真っ黒な鴉の目は、ちょびっと嬉しそうだ。毛に覆われた鴉の顔では笑窪があるのかどうかわからないが、毛がなければ笑窪がよって、笑顔があらわれていたことだろう。鴉はそんな顔をして飛び立っていった。
何が嬉しいのか茸にはわからなかった。
茸はまた瞑想の状態になろうと努力し、体中の眼を閉じた。
カタツムリがそばを通っている。
茸はその些細な音で目が開いてしまった。ともかく気配を感じた茸は、瞑想の途中から現実に気持ちが引き戻されたのである。
「わしが、通っただけで、目を開けるとはなっとらん、もっと、精神を統一しろ」
カタツムリは茸をしかった。
実は茸は全身が目だったのである。体が周りを見てしまう。だから、目をつむると言うことはとてもむずかしいことで、瞑想というものはどのようなものか、試してみているのである。まず、目を瞑ることが最初だろうと思って努力していた。
茸はカタツムリのじいさんに言った。
「じいさま、おっしゃる通りで、まだまだ、修行が足りないんだ、だがねえ、じいさまは目を引っ込めれば周りが見えなくなって、瞑想に入ることができるかもしれんが、体が目、目が体の茸には容易なことではないんだよ」
「ほー、そんなものか、努力しなすってるんだな、悪いことを言った、がんばってくれや、ところで瞑想で何を思わっしゃるのじゃ」
カタツムリのじいさまは、さっきからほんのちょっとしか先に進んでいなかった。
「瞑想とはな、何かに思いを馳せて、それに集中することじゃ」
茸が見ると、じいさんは片目を縮めて、残りをのばしてゆっくりと歩いていく。どうも、半分瞑想をして、半分で動いているようである。
「じいさまは、半分目を引っ込めて居る時は、何を瞑想しておらしゃる」
「ふふん、わしゃ、足は遅いが、片方の目であゆんで、引っ込めた目で瞑想することで、心は宇宙の果てまで飛んでるんじゃ」
茸は蝸牛の殻が、宇宙空間を疾走しているところと想像した。それはすごい、瞑想するとはそういうことか、茸は蝸牛のじいさんの後姿を見送った。
さて、自分は何を思おうとしているのだろう。おれは動けない、蝸牛の爺さんは遅いが歩くことができる。動けない俺はせめて鳥のように京都の空を飛ぶことを夢想しよう。
そう思って瞑想にはいろうとしたときに、また頭の上が暗くなり、ばさばさと五月蝿い音とともに鴉が降りてきた。
茸は目を開いた。
鴉はちょんちょんと前に出ると、孔雀羊歯の前で、尾羽を少しばかり開いた。
茸が様子を見ていると、鴉は尾をもっと開こうと努力しているようである。なかなか大変そうだ。しかし、鴉は自分にそれを見せようとしているわけではないことに茸は気が付いた。
鴉の目は孔雀羊歯をみつめている。
そこで、やっと理由がわかった。孔雀のように、尾羽を広げたいのだ。鴉は孔雀羊歯を見ながら練習をしていたのだ。いや、努力家の鴉だ。
鴉の尾が前より少し開いた。鴉は嬉しそうだ。
つい、茸は言ってしまった。
「よくできたじゃないか」
鴉は何かが話しかけてきたので驚いた。そこで、孔雀羊歯の下に茶色の茸がいるのにやっと気がついた。真っ茶色で、土にとけ込みそうな地味な茸である。
「おや、茸の兄さん、そこにいるとは知らずに、恥ずかしいところをお目にかけちまった」
「いやいや、その努力たいしたもんだ、おいらは、なかなか瞑想に入れなくて、何しろ、体中が目なので、すべてをつむることがむずかしいんだよ」
「いや、そんなこととは知らず、じゃましちまって、すまんことです」
「どこか瞑想するによいところはないもんかね」
「それならば、銀閣寺に続く東求堂(とうぐどう)の四畳半だろう」
「ほうそれはどこにあるのかね」
「東山にありますぞ」
「なんと、この近くですな」
京都東山の奥の足利義政が建てた慈照寺銀閣には、それに続く東求堂に書斎の四畳半間がある。その同仁斉と呼ばれる狭い空間は、質素な美をあつらえた書院づくりで、四畳半の起源とも言われる。
「四畳半からの景色もよいが、室内の落ち着いた趣、その畳ときたら、まさに瞑想をするにはもってこいの場所ということだそうですぞ」
茸は思った。上質の土の上に生えるのはまことに気持ちのよいものである。しかし、一度、畳という家の中に生えてみたいものと思った。
「茸は体が目だが、足がない、残念ながら、その部屋には行けないが、想像はできる、様子を教えてくださらんか」
そのとき鴉の尾が丸く開いた。
「あ、孔雀のように尾が広がった」
鴉の黒い眼が大きく見開かれ、こんな奇蹟が起こるとは信じられないといった面持ちである。鴉は尾を閉じてみた。すぐ元に戻った。今度はまた開いた。綺麗に丸く広がった。自由自在だ。
「みごとですな、鴉の旦那さん」
茸も体中で祝った。
「いや、茸の兄さんと話していると、気が休まる。気を休めるとからだが自由に動くようになるのですな」
「あまり一生懸命になりすぎるのもうまくいかないもんだ、力んじまうからね」
「茸の兄さんも、気楽にやってみたらいいでしょう」
確かにそうかと思って、茸は半分目を閉じてみた。カタツムリのようにである。体半分の目を瞑ってみたのである。
空の上の雲を想った。たしかに、気が楽になって、より気持ちが集中できる。
「うん、なんとかなる」
「そりゃ、よかった、それじゃ、俺は、彼女のところに行って、尾を広げるよ、鴉で孔雀のようなことができるのは俺だけだからな」
そう言って、鴉は飛び立っていってしまった。
なんだ、女のためにやっていたのか、あ、いかん、そんな雑念は瞑想の敵だ。茸はただ鴉を祝福し、鴉の彼女のことは忘れるようにした。
頭の傘の目をなんとか閉じてみた。見えなくなることはないが、上のほうが暗くなった。これはいい。柄の上半分を閉じた。確かに落ち着く。その状態で傘の目を開けてみた。上が明るいと瞑想に入るにはだめだ。傘の目は閉じるべきだ。柄の下半分を閉じてみた。たいした違いはない。
そこで、からだすべての目を閉じて、足元だけ目を開いた。周りは見えているがうす暗くなり、土の表面の様子が入ってくる。あの大好きな土のつぶつぶだ。これは落ち着く。空の上の雲が頭の中に浮かぶ。
茸はやっと一番いい状態を見つけた。足元の目だけ開いておくのである。それによって、ただ閉じこもるのではなく、外の刺激がほど良く瞑想に入る状況を作ってくれるようである。もし足元が畳だったら、もっといいのかもしれない。
やっと悟って、さて、瞑想に入ろうとしたとき、大きな羽の音ととも、周りが暗くなった。びっくりして、茸は体中の目を開けた。
目の前が真っ暗と思ったのは間違いで、真っ黒だったのだ。たくさんの鴉が茸の方を見つめている。二本の足を踏ん張っている。あの鴉と同じことをしている。尾を広げようとしているのだ。
ひいふうみいよお、いつむうななや、茸は数を数えた。
八羽の鴉が尾っぽを広げようと踏ん張っている。
きっと便秘の動物が力むような感じなのだろう、茸は勝手に想像して笑った。
「おい、鴉のみなさん、あいつはどうしてる」
力んでいる鴉は、あ、こいつだという顔で茸を見た。
あいつと言っただけで誰のことを言っているのかわかったようだ。一番前にいる鴉が答えた。
「親分は雌に囲まれてご満悦だ、わいらも練習をしてこいと、おっしゃって、ここにきたわけだ」
「あの鴉、親分になっちまったのか」
「そりゃあそうだ、孔雀のように尾羽を丸く広げることのできる鴉はいないからな、雌におおもてだ」
「だが、何で、あいつに教わらない」
「自分で工夫しなければ、身に付かぬとおっしゃってな」
確かに一理はある。
「それに、孔雀羊歯の下にいる茶色の茸に教わったと言っておられてな、あんたさんのことだろうな」
「おらは何も教えていないさね、ただ話をして、緊張をほぐしただけだ」
そんな話をしていると、八羽の鴉は尾羽をちょっと広げることができた。
「どなたか、東求堂の書斎の四畳半間のことを知っていないかね」
「あのあたりはよく飛び回るが、中に入ったことはないな」
「親分の鴉は知っていたが」
「ああ、それは、自分が入ったのではない、高足蜘蛛にきいたんだろう、銀閣にすんでいる蜘蛛の頭領でな、あの国宝に自由に出入りしている」
そんな話をしていると、鴉たちの尾が少し開くようになった。
小一時間も練習していると、鴉は疲れてきた。何せ地上で足を踏ん張るというのは得意ではない。
飛び立っていくと、次の日も、次の日もやってきた。
茶色い茸は、そうやって鴉が来ていても、足元だけ目を開けておくと、不思議と落ち着くようになってきた。
それで、四日目、とうとう、八羽の鴉が、みんな、尾羽を丸く広げることができるようになっちまった。
「ほら、尾羽を自由に操れる、茸の兄さんのお陰だ、ありがとうさんでござんした」
茶色の茸は瞑想をしながらも、
「そりゃよござんした」と、鴉を祝福した。
「おらも、瞑想に入るようにがんばるでな」
飛び立つ鴉たちを見送った。
足もとの目だけ開けておくと、雑念はそこだけになり、気持ちは空の上に行くことが出来た。想像で銀閣寺が見えた。東求堂が見えた。あそこに四畳半がある。と想ったとたん、目が開いてしまう。あそこに生えたいと想う気持ちは邪念である。ただただ空に浮かびたいと想わなければ瞑想にならない。こりゃいかん、銀閣寺の上の空に思いをはせるのはいかん、ただ空に浮かびたいとだけ思え、そうして、また瞑想に入った。
茶色の茸は一日のうちかなりの間、ゆったりとするができるようになった。
そんな時、一羽の鴉が、孔雀羊歯の前におりてきた。
「しばらくだった、茸の兄さん」
茸は全身の目を開けた。鴉はなぜか、もじもじして、尾羽を丸く広げた。最初にきた鴉で、親分になった奴だ。
「立派に尾を広げることができるようになったねえ」
「ああ、子分たちもみんなできるようになった」
「それで子分たちはどうした」
「みんな、親分になっちまってな、東山のあちこちにちらばっていっちまったよ」
「あんたさんは大親分になったわけだな」
「いや、あいつ等が親分になったので、もう子分はいない、だから親分じゃない、ただの鴉だ」
「それで、何しにきたんだ、もう孔雀羊歯から学ぶことはできないだろう」
「ああ、だが、あんたさんから教えてもらうことがまだある」
「なんにもないよ」
「いや、体中が目の茸の兄さんが、瞑想をするというのは大変なことだとわかってきたんだ」
「なかなか難しい」
「そうだろうな、俺は目が二つしかないが、目をつぶっても、雑念を払うのは大変だ、茸の兄さんが瞑想する努力をしているのはたいしたものだ、それで瞑想のこつを教えてもらおうと思ってきたわけさ」
「こつと言えば、やっと瞑想の入口がわかってね、足元の目だけ開けておくと土の粒が見えて、むしろ落ち着くことがわかった、それに何を瞑想したいのか思わなければならない」
「俺はもう隠居しようと想う、瞑想する場所を探して、瞑想の中で世界を見て回りたい」
「それはいい思いだな」
「俺たち動物には体と頭がある。茸の頭の傘の中に脳味噌があるのかね、思うのは脳みそがやっていることだろう」
「いやそこにはない、体中が脳味噌だ、だからその脳味噌を無にして、想うことが瞑想で、なかなかできないので、苦労している」
「なに、茸は体中が目ではなかったのか」
「体中が、目であり、脳味噌であり、腸であり、すべてだ」
「ふむ、体が分業体制ではないのだな」
「なかなか、まとめかたがうまいな、その通り」
「と言うことは、おれたち鴉の方が瞑想に入りやすいと言うことか」
「そりゃそうだ、二つの目を閉じれば、とりあえずは瞑想の入り口がみえる。茸はそうはいかない」
「確かに、そうだな」
「ところで、なぜ隠居して、瞑想するのかね」
「いや、お恥ずかしい、子分達に雌をみんなもっていかれて、俺一人になっちまった、それで、もっと精神を鍛える必要があると思ってな、そこで茸さんを思い出したってわけで」
鴉はそう言っちまうと、尾羽を広げ目を閉じた。
茸も瞑想に入るため体の目を閉じ、足元だけ目を開いて、体の脳味噌の働きの一部を止めて、空の上だけを思い描いた。
だが、やっぱり瞑想には入るのは容易ではない。土の上に生えたのはしょうがない、しかし、畳の上に生えたら、もっと深い瞑想にはいれるのだろう。四畳半に生えてみたい。そろそろ胞子を飛ばして、しおれていかなければならない茶色の茸は、次に生えるところを選ぶ必要がある。
鴉は目をつむって、瞑想しようと努力している。この鴉なら、瞑想の場所を探して、東山の辺りを飛び回るだろう。
そう思った茸は、このときばかりと、からだに力を入れると、傘をぐーんと開いた。傘のヒダから胞子が空中に漂いだし、瞑想しようと目をつぶっている鴉の周りを包み込んだ。
鴉の羽の間に茶色の茸の胞子が入り込んでいく。
しばらく目をつぶっていた鴉は、とりあえず気を休めることができたと、目を開けた。ありゃ、孔雀羊歯の下の茸がしおれてしまっている。
「おお、茸の兄さんは瞑想に入られたか」
鴉は茸が瞑想の極地に達すると、しおれるのだと誤解した。わしも瞑想の場所を探そうと、孔雀羊歯の前から空へ舞い上がった。
茸は意識を胞子の中に移し、鴉の羽の中に潜んだのである。
やがて、茸が思っていたとおり、鴉は瞑想の場を探して東山の空を舞った。
銀閣寺の屋根が見える。そばには東求堂の屋根が見える。
鴉は東求堂の四条半を思い出して屋根に降りたった。窓の縁に止まったのだが、開いていていないので中には入れない。窓が少し開けてある。鴉はそこから中を覗いた。
部屋の床の間には白い花が一輪いけてある。中に入ることができれば落ち着いて、瞑想に耽ることができそうではある。狭い隙間からからだを中に入れることは無理だ。しょうがない、あきらめて他を探さそうと、鴉は羽を広げ飛び上がった。
その拍子に鴉の羽の間にあった茸の胞子が宙に舞った。それは風に乗り、東求堂の小さく開けてある窓から四畳半に入り込んだ。それはやがて畳の上におちた。
畳の目の中に胞子はもぐりこんだ。もうちょっと水気が欲しいと思ったが、空気中の水分を吸って菌糸を伸ばした。梅雨の時期に一気に畳の中に菌糸を広げた。
暑い夏をしのいで、やがて秋風が四畳半に入ってくるようになった。
茶色の茸が顔を出した。しっとりとした畳の匂いを嗅ぎながら、むくむくと一晩で大きくなった。
秋晴れの朝、窓が開け放たれた。
窓の外に紅葉した東山の景色が茸の目に飛び込んできた。
畳の上に生えた茸は、あまりにも心地よく、四畳半の空間と窓から入ってくる自然の色が、茸からすべてを忘れさせた。からだ全身の目を開けたまま、無我の境地に達した。
茸は瞑想の状態を求めていたのではなかったことに気が付いた。無我の境地を求めていたのである。どちらにしろ、目を閉じる必要のないことを茸は悟った。
赤蜻蛉が覗いている。
無我