神奈川沖浪裏
2018/12/19 加筆修正しました。2018/12/30加筆修正しました。
神奈川沖浪裏
知る人ぞ知る、葛飾北斎の代表作と云われる「富嶽三十六景(追加の10枚を加えると四十六枚)」を代表する名画である。
このタイトルを知らない人も、絵を見れば「あぁ、これか」と目に浮かぶはずだ。
だいたい北斎は有名な割に、正式なタイトルが知られていない。俗に「赤富士」といわれているのは「凱風快晴(がいふうかいせい)」右下に稲妻が描
かれているのは「山下白雨(さんかはくう)」、そしてこの「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」が「富嶽三十六景」を代表する三枚である。前
二枚には人物は描かれていない。「凱風快晴」は夏の早朝。朝日浴びて真っ赤に染まった富士、午後には猛暑となり、木陰で休む行商人の汗が地面に滴
り落ちて落ち一瞬で地面に吸い込まれてしまう、そんな情景を思わせる。「山下白雨」は夕立である。柚野あたりか、雨具を持たない旅人が雨宿り先を求めて尻っぱしょりで駆けだす情景が目に見えるようだ。描かれていない人々の姿まで目に浮かんでくるのが名画の所以なのかもしれない。(※個人のの感想ですww)
一方「神奈川沖浪裏」は逆に30人近い人物が描かれている。しかしながらその表情を窺い知ることはできない。まず目につくのは画面のほぼ左半分を占める大波。そしてまさに砕けんばかりの波頭の一つ一つは猛禽類の爪を思わせるように鋭く尖って下の三艘の小舟に襲いかからんとしている。飛沫が遠景の富士山に降る雪のようにも見える。右下は大小のうねりである。うねりを滑り降りる舟と、大波に向かっていく舟。さらに手前にもう一艘、新たなうねりに向かっている。しかし、この大波に対して三艘の小舟のひ弱さは何だ?吃水も深くない。外洋航行のための廻船というより、むしろ河川舟運に使われる平底船を思わせる。船首には積み荷、船尾にはそれぞれ八人の男たちが乗っている。帆も帆柱もないところをみると漕ぎ手なのであろう。また
船頭の姿も見えない。八人のうちの一人がおそらくリーダーなのであろう。前のほうに二人ほど乗っている船があるが、これは漕ぎ手の交替要員なのか、絵から窺い知ることはできない。いずれにせよ貨物船にしても旅客船にしても中途半端である。同型の舟、三艘はたぶん船団を組んでいるのだろう。
しかしながらこの絵が有名になったのは、当然絵画的誇張やデフォルメがあるにしても人の心を動かす合理的な説明が可能だったからだろう。やはり、人の生活の真実を描いているのだ。
私たちがこの絵を理解しきれないのは現代の生活が当時とは乖離してしまっているからだろう。海はレジャーや旅行の場所でなく間違いなく生活の場だったのだ。
この絵から伝わってくるのは「板子一枚下は地獄」の言葉や男たちの意気、気合いである。荒海を承知で乗り出したのか、途中で天気が急変したのか、定かではない。しかし、彼らは乗り出してしまったのだ。何がどうあっても乗り越えるしかないのだ。
誤解を招きやすいのはタイトルの「神奈川沖」だ。いまでこそ「神奈川」は「神奈川県」だから、背景の富士と相俟って、相模湾あたりだと思ってしまうが、この当時の「神奈川」案外狭い地域で「神奈川宿(広重も東海道五十三次神奈川宿として描いている)」あるいは近くの「神奈川湊(みなと)」である。現在の住居表示でいえば横浜市神奈川区神奈川本町あたりだ。日米和親条約では神奈川を開港する約束だったが神奈川宿は当時としては人口密集地だったので外国人と万が一トラブルがあっては、との配慮から、鄙びた寒村である横浜を開港した。それにに伴い、安政6年(1859)に「神奈川奉行所」を置いた。アメリカは抗議したが、横浜も神奈川の一部であると強弁して煙に巻いたという。なので当時は大っぴらに横浜と言えなかったとともにその後、六浦県(横浜市金沢区)や足柄県(小田原市を含む)を統合して現在の神奈川県が成立した。したがって当時の神奈川と現在の神奈川県とは無関係である。
富士が冠雪しているから冬である。この季節の江戸湾は台風並みの季節風が吹くという。
実はこの舟は房州館山や伊豆、相模の須賀湊あたりから江戸に向かって新鮮な魚を届ける「押送舟(おしょくりぶね)」と呼ばれる高速船なのだ。七丁櫓または八丁櫓で江戸まで百三十里を一晩で漕いだという。水押(舳ともいう)造りで外洋にも対応して湾内や運河を進むこともできる。ひ弱どころか最強の万能高速船だったのだ。文献によれば長さ14~5メートル幅1.5メートルほどのかなり大きな舟で武蔵、伊豆、相模、安房、上総で使われたとある
。北斎自身も「千繪の海・房州銚子」で同様の押送舟を描いている。さて、伊豆、相模、安房、上総は海に面してるからわかるとして、武蔵というのは何だろう?実はこの武蔵というのが武蔵の国神奈川宿・神奈川湊なのだ。東海道は高輪の大木戸を出て品川宿から六郷川(多摩川)を渡り、川崎宿、神奈川宿、保土ヶ谷宿までが武蔵だったのだ。現在でも武蔵の地名は東京・埼玉・神奈川に散見されるから、元はこの一都二県(の一部)は一つの国だった。
暮れの七つあたりにそれぞれの港を出航し気温の低い夜間を漕ぎ続け明け方近く漸く神奈川沖までたどり着いたのだ。月があれば月明かり、星があれば星を頼り、月も星もない夜、真っ暗な中を漕ぎ出すのは相当な胆力が必要だったろう。なにしろ下は地獄なのだから。現在位置を知るための山立ても夜間となれば使えない。しかし、この大波を乗り越えれば隅田川に入り永代橋あたりから運河をたどって日本橋の河岸はすぐだ。広重の日本橋雪中には、雪景色ではあるがこの情景が描かれている。100万都市江戸の胃袋を満たすには近海で獲れる魚だけでは間に合わなかったのだろう。季節は違うが江戸っ子の好む初鰹もこうやって運ばれてきたに違いない。
絵に戻る。
当然ながらこの絵は写実ではない。北斎の心象風景である。
勝川春章の門下となったのは十九歳だが、画業に志して六十余年ひたすら絵を描いてきた。
おのれのいる場所すらわからぬ暗闇の中、漕ぎ出したのは押送舟の水手(漕ぎ手)達と同じだ。
白い月が波頭を照らす夜もあった。燦めく星たちにに導かれる夜もあった。
月も星もなく吹きすさぶ風の音だけが波の底から這い出てくるような夜もあった。
ひたすら、波を描いてきた。
そして今、この変幻極まりない波の姿を描き遂せたのだ。
俺は画業を極めることができるかもしれない、そう確信した瞬間であったろう。
空が白んできている。最初の曙光が富士の姿を顕にする。
しかしこれは北斎にとってあらたな地獄の始まりだったかもしれない。
九十歳になった北斎は、死の直前、「天、我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と言った、と伝えられている。
神奈川沖浪裏