Fate/Last sin -16

 膿み始めている傷口を無理やり覆い隠すように、有り合わせの布を繋いで作った包帯で腹部を縛った。その様子を見ていたイングランドの騎士王はあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
「―――醜いな、貴様は」
 空閑灯は、その冷ややかな言葉に返事をしようとして、初めてからからに乾ききった口内に気づく。それから額に汚れた手のひらを当てて、真冬だというのに噴き出している汗を払いのけた。そしてやっと口を開いた。
「見苦しいのなら、目を背けていればいいんですよお」
 状況にそぐわないその口調に、バーサーカーは尚のこと機嫌を損ねたようだった。
「その傷の事ではない、馬鹿者が。お前は最初から醜く見苦しい。―――何だ、この有様は?」
 そう言ってバーサーカーが軍靴の先で小突いたのは、乾いてから数日は経った血液の飛び散っているローテーブルだった。
 数個の間接照明がぼんやりと浮かび上がらせる、空閑灯とバーサーカーの拠点は凄惨を極めている。
 かつては美しい何らかの装飾だった調度品はそのほとんどが叩き割られるか粉々に砕け散っている。凝った織の絨毯は大量の血で染め上げられ、ボロボロにほつれたり、或いは強く引っ掻かれたように裂けている。壁には乾いた血液の跡が点々と残り、いま灯とバーサーカーのいる客間の、目玉であっただろうシャンデリアはただの大量の硝子の破片となって血塗れの床に散乱し、片付けるのが面倒になった人がそうするように、部屋の片隅へと追いやられていた。そしてこの部屋の有様と同じような光景が、玄関、廊下、寝室、果ては厨房に至るまで――この小さな西洋風の館の内部、全てに広がっていた。
「よくもまあこれほど汚せたものだ。魔術師が聞いて呆れる。冬眠を阻まれた熊でさえ、これほど人の住処を荒らすのは難しい」
 バーサーカーは軍靴で小突いたローテーブルの上に片足を乗せ、大きなソファーに座って腹を押さえるマスターに言い放った。その女は顔色一つ変えずに、
「そうですねえ。……貴方ならもっと綺麗に始末できましたか?」
 と、のんびりした口調で答える。バーサーカーはその問いかけに片頬を引きつらせたかと思うと、脚を掛けていたローテーブルの天板の下に爪先をひっかけ、反動をつけて思い切り蹴り飛ばした。激しい音がして、ローテーブルは部屋の壁に衝突して穴を一つ開ける。
「俺は貴様に最初に言い置いた筈だ。この騎士王たる俺を、畏れ多くもサーヴァントとして使うならば、貴様はその出鱈目でふざけた魔術を絶対に使うな、と。よもや忘れたとは言うまい」
「……」灯はすうっと目を伏せ、表情を消した。「ええ、聞きましたねえ」
「貴様の―――」
 バーサーカーは虚空から、鞘に収まった一振りの簡素な剣を掴むと、その先端を灯の傷口に容赦なく突き当てた。灯はわずかに喉の奥で呻き、それをこらえるように唇を固く閉ざす。
「貴様の、生き様は、この膿んだ傷のように醜い。出鱈目な魔術を使い、たかが小僧二人に手酷く追い詰められ、膿んだ傷の癒し方さえ知らん。手当たり次第に思い付きで破壊しては損害ばかり増やす。そんな貴様が、実に無駄の多い貴様が、何故聖杯を獲れると思った? 答えてみろ、そして無駄に語ってみろ。俺は貴様の膿み傷を抉って、今度こそ一思いに殺してやる」
 バーサーカーは傷口を圧迫する鞘の先端を、より一層力を込めて押した。流石の灯も苦痛にほんの少しだけ目を閉じて、すぐに口を開いた。
「家族と、約束をしたからだ。……だから私は聖杯を獲れる、獲って約束を果たすからだ」
 灯の言葉に、バーサーカーは一瞬だけ言葉を失った。
「―――――――は、」
 呆れたような、蔑んだような、驚愕のような、呆然のような、それらすべてのような、その短く長い一呼吸の後、バーサーカーは冷たいエメラルドグリーンの瞳で、ぐるりと血濡れの客間を見渡した。
 それからその視線を最終的に自身のマスターに向け、醒めたようにつと逸らした。傷口に押し当てていた鞘を放り捨て、灯に背を向ける。
「つまらん。俺のマスターが破綻の極みとは、どちらが狂っているのか知れたことではない」
 バーサーカーは血濡れの絨毯を数歩踏んで霊体化しながら、思い出したように、灯の方を振り返ることすらせずに言い放った。
「ああ、今夜、この部屋から出るか、魔術を使えば、絶対に殺してやる。熊でもその程度の躾は覚えておけ」
「……待ってくださいよお、何処へ行くかくらい教えてくれても良いじゃないですか~」
 灯は普段の調子に戻って、薄く微笑みすら口元に浮かべて問う。軽い口調に打って変わって、バーサーカーの消えかけた背を見る目は鋭い。
 バーサーカーは、ほんのわずかだけ灯の方を目だけで振り返ってから、何も答えずに霊体化する。
 サーヴァントの気配が血濡れの客間から完全に消えた頃、灯の鼓膜の奥に直接言葉が響いた。

『――――ああ。今夜は殺す。殺す。殺す。無駄な死、無駄な生贄となる無駄な生命に成り果てた民は、無駄であるからな』

 独り言のような、恨み言のような、その呟きを最後に、灯への言葉は途絶えた。





 風見市は、その土地のほぼ中央を真一文字に横断する断崖線によって、南北に大別される。最北には殆ど人の手の入らない森林に覆われた丘陵地があり、丘陵地のダム湖から一筋、新海川(あらみがわ)という小規模な河川が風見市の最南端である風見湾まで流れ込んでいる。新海川の南側、下流のあたりに近年再開発が進んでいる風見中央駅があって、再開発が進むと共に年々賑わいを増す繁華街となっていた。
 その風見中央のビル群から少し外れた、未だ工事の終わっておらず作業用クレーンが林立している一画、繁華街の光も騒ぎ声も遠い冬の夜の闇に包まれた地上十階程度の商業施設の屋上に、真紅のマントと鈍く光る白銀の鎧を纏った金髪の青年と、ひどく腰の引けた長い茶髪の少女がいた。
「セイバー! も、もう無理、降りていい?」
「何を言っているんだ、まだ来て三分しか経ってないぞ!」
 閉鎖中の商業ビルの屋上はほとんど明かりが無く、おまけに真冬の北風が吹きつけてひどい状況だった。楓は偵察用の使い魔すら使えない自分に初めて恨みすら感じながら、必死にセイバーの左腕にしがみついている。
「全く、まずは戦況の確認から始めようと言ったのは楓じゃないか。意外にも的を射たことをいうから、俺は少し楓を見直したところだったぞ」
「じ、自分も行かなきゃいけないとは思いませんでした」
 情けない声を上げる楓に、セイバーは苦笑いで肩をすくめる。
「俺も楓がここまで高所恐怖症だと知っていたら連れてくるか迷ったが、この聖杯戦争ではあいにく俺の横が一番安全なんだ。辛抱してくれよ」
「う、うう」
 なるべく下を見ないように目を固く閉じた楓に、セイバーはふと何気なく疑問を覚えた。
「楓、そんなに臆病なのに何で逃げないんだ?」
 思えば幾らでも逃げる機会はあったはずだ。そもそも、楓は自分自身が一番良く分かっているだろう。自分が全くもって聖杯戦争に、ひいては魔術師に向いていないことに。
 楓は北風に煽られないようセイバーの左腕の鎧をしっかり握り、目を閉じたまま風にかき消されそうな声で答えた。
「……だって、私は魔術師に向いていないから」
 言葉の意味を測りかねてセイバーが黙っていると、楓はやや大きめに出した声で付け足した。
「姉さんが聖杯の力で戻ってきて、望月家の跡を継ぐのが一番、家にとって……お母様やお父様にとって良い事でしょ? 私は魔術師に向いていないから……私みたいなダメ人間より、姉さんみたいな才能ある人がちゃんと跡を継ぐのが、きっと良い事なんだと思う」
「楓……」
「この十一年間、お母様やお父様の期待を裏切ってばかりだった。聖杯戦争は怖い。他のマスターやサーヴァントも怖い。だけど私は……姉さんがこのまま一生帰ってこなくて、私みたいな出来損ないがあの家を背負って生きていかなきゃいけないことの方が、もっと怖いよ」
 セイバーは何か反論を返そうとした。そんなに後ろ向きになるなとか、もっと自分に自信を持てだとか、そういう言葉を掛けたくて口を開いた。けれど何も言わず、静かにその唇を閉じて、代わりに自分の左手にしがみつく楓の白く柔らかい手の甲に、重い右手を置いた。
「……セイバーは、何も言わないんだね」
 楓が呟くように言う。その表情はなぜかいつもより緩んでいるように見えた。セイバーは頷いて、
「俺が何か言える立場ではない。自分の心の有り様は自分にしか決められないからな」
 と努めて穏やかに伝える。それから何か付け加えようと再び唇を開いたが、不意にセイバーの視線が目の前の楓から地上の繁華街へと流れ落ちた。
「……どうしたの?」
「静かに」
 セイバーの顔が険しくなったかと思うと、彼は唐突に屋上の縁へと足早に近寄った。左腕にしがみついていた楓も半ば引きずられるように、柵も何もない淵に立つ。――突然眼下の景色が開けた。数歩踏み出せばあっという間に数十メートルは落下するだろう、足先にはもうほとんど地面が無い。眩むような高さに足がすくみ、抗議の声を上げようとした楓だったが、セイバーがこれまでにないほど厳しい視線を眼下の繁華街へと向けているので大人しく口を閉じた。
 一体何が―――セイバーの視線を追って目を向けたのは、ちょうど楓たちがいるビルの、大通りを挟んで向かいの建物だ。高さはそう変わらないが、こちらと違い向こうは内部に明かりが点いている。商業施設がいくつか入っているようだ、と何気なく眺めながら、次の瞬間、楓は息を呑んだ。
「人が!」
 地上八階はあるだろうビルの最上階の飲食店のものと思しき窓の一つから、一人の男性が身を乗り出している。楓は慌てて何か救出できる道具はないか、魔術はないかと頭を巡らせたが、ビルの間の通りは軽く三車線分はあり、多くの自動車が行き交っていて、とてもどうにかできる状況ではない。治癒魔術ならある程度扱えるが、それは傷を負ってからの話だ。この高さなら――あまり想像したくはないが――治癒魔術が役に立つとは思えなかった。
「どうしよう、セイバー……」
「待て、静かにしろ。……何かおかしいと思わないのか」
 厳しいセイバーの声に眉をひそめてもう一度通りを見下ろす。大きな窓から身を乗り出している男、米粒のような眼下の人影たちに目を凝らして、楓はやっと何かに気づいたように小さく声を上げた。
 それは異常な光景だった。
 夜の大通りを行く老若男女の人々、飲食店の人間、窓から身を乗り出している男性と席を共にしていたであろう女性さえ、その場にいるほぼ全ての人間が男を見ているにも関わらず、まるで静かに舞台鑑賞をしているかのように全てが微動だにしない。示し合わせたかのように、誰もが地上八階の窓にしがみつく男性を眺めている。誰も悲鳴を上げず、誰も制止の声を上げず、そこにあるはずの騒動の気配は微塵も無い。
「何だ、これはまるで―――」
 セイバーが訝し気に言いかけて、すぐに血相を変えた。瞬時に腰元から剣を引き抜くと、「まずい」と呟き、屋上から飛び出そうと右足を踏み込む。だがその時、左腕にしがみついている自分のマスターの存在を思い出し、一瞬動きが止まった。
 そしてそれが致命的な遅れだった。
 男が遂に窓から完全に身を投げ出した。色とりどりの光に溢れる繁華街の底から大衆たちの無数の目がそれを見ている。人々はその瞬間を待っているように、息をひそめ、落ちて来る男の身体をただ眺めている。しかしセイバーが危惧したのは、それではなかった。
 男の身体がアスファルトの底に叩きつけられる直前、セイバーが予感していた方角と全く同じ方向から、一つの人影が躍り出る。
 獅子のように逆立った髪。薄紅の外套。白い、高貴な軍靴。右手には、両刃の剣がしっかりと握られている。その人影はそのまま風より速く男の落下地点へ滑り込むと同時に、右手の両刃剣を男の頸椎へ向かって下から上に振り上げる。
 セイバーは彼が何者か、よく覚えていた。
「―――――――」
 一瞬の後、耳を塞ぎたくなるようなおぞましい音が響いて、頭と胴体が離れた男が地面に転がる。男だったモノの額に浮かび上がっている赤い薔薇と十字の刻印を、男の首を両断したばかりの剣で突き刺して、エメラルドグリーンの瞳の青年は事も無げに血に濡れた剣を引き抜き、何かを呟くように小さく唇を動かす。
「バーサーカー……!」
 セイバーは全身の毛が逆立つような怒りを覚えながら、かろうじて楓の方を振り返った。楓はたった今、目の前で起こったことを未だに理解できずに、ただ顔色を悪くして呆然としている。
「気分が悪くなるだろうからあまり見るな、ここで待っていてくれ」
 セイバーは言い置いて、右手に握った真紅の剣を再び握り直すと、今度こそ力を込めて屋上の縁を蹴る。狙ったのはバーサーカーの背後だったが、剣先がその背に届く寸前に勘付かれ、血濡れの刃が激しくセイバーの刃を迎え撃った。
 刃の向こうで、燃えるような瞳が爛々と輝く。
「セイバー、異邦の騎士王! 俺と再び相見えた事がどういう事か、覚えているか? 俺は覚えているぞ!」
「黙れ! お前のような英霊に教える名など無い!」
 セイバーは怒りに任せてバーサーカーの剣を押し返すと、そのまま深く切り込んだ。胸元を上から下に切り崩そうとした燃えるような真紅の刃は、僅かにバーサーカーの肩を掠めるだけに留まる。斬られた当人は涼やかに、笑みすら浮かべる。
「今日は随分と滾っているではないか、うん? それほどまでに俺を殺したいか」
「当然だ! 救うべき民を逆に剣で切り捨てるとは、王はおろか、人だったモノの為すべき事か!」
 セイバーの怒号もさらりと流して、獅子心王は刃のこぼれた剣を余裕のこなしで空へ捨てた。そして代わりの新しい剣を魔力で編みながら、赤い剣を握って自分を睨みつけるセイバーに、顎で大通りの方を指した。
「見ろ。奴らは何だ? 本当に王が守るべき民か」
 そう言われたセイバーは眉間に皺をよせ、訝しがりながらも男性の遺体が転がる通りを振り返る。――そして硬直した。
 自分とバーサーカーの周りを、何処から湧いてきたかも分からないほどの人数が囲んでいる。彼らはどう見ても通りすがりの一般人たちだった。青年から老人、男から女、ひいては子どもさえ、二人を取り囲む輪の中に混じっている。そして彼らの額には一様に、薔薇と十字の赤い刻印が浮かび上がっていた。彼らは皆同じ無表情で、時折なにかをぶつぶつと口の中で呟いていたり、膝を折ってうずくまるように地面に這っていたりする。
「これは……どういう事だ、魔術か、呪いか……?」
「知らなかったのか? 今日の黄昏時より、この街の民には呪いが振り撒かれた。それ以来、あのように―――」
 バーサーカーが剣の先で示した方向で、ワァッと歓声が上がる。見れば、先程の男性と同じく一人の人間が繁華街のビルの窓から、今しがた身を投げたばかりだった。セイバーは顔を背け、奥歯を食い縛る。
「……これも聖杯戦争の影響か。誰が何の為に、このような罪深い―――規則違反では済まされないぞ」
 絞り出すように声を出したセイバーにバーサーカーは満足気に答えた。
「あの魔術師のサーヴァントなら考えそうなことだ。これはな、セイバー、実に効率の良い機構だぞ。この街全体の住民ほとんど全てにあのような呪いを振り撒けば、二人に一人は自死するような仕組みだ。あの刻印を埋め込まれた、キャスターの『従者』――『信者』か? あれが死ぬと魂がそのままキャスターの魔力に変換される。ならば自死する前に俺が斬ってみたらどうだろうかと試したが」
 つらつらと言葉を並べるバーサーカーは不意に群衆の輪の中から、一心不乱に自分の首を締めあげていたブルーのコートの女性の髪を掴むと、喉笛を剣で一突きにした。セイバーが身じろぎ一つする暇も無く、喉笛から血飛沫が迸って、女性は地面に倒れて動かなくなった。
「……このように俺が手を下せば、自死にはならないようだ。魂は魔力にならず、キャスターはまた一人生贄を失う」
「……やめろ。殺すな!」
 セイバーは苦しげに、目を細めてバーサーカーに言う。
 バーサーカーはその言葉を嘲笑した。
「何故だ? あれらは全て無駄な生贄。無駄な生命。無駄な民だ。彼らはもはやキャスターの奴隷となり、キャスターの為の機構の一部だ。俺の国の一部ではない。俺はこれから、この夜のうちにこれらの無駄を全て始末するつもりだ」
「そんな行いは聖杯戦争の規律から更に外れ、混乱を招くだけだ! それは―――」
 セイバーが言いかけた時、大通りの向こうでまた大きく歓声が上がった。わざわざ振り返って確認せずとも、また儀式が遂行されたのだろうと分かる。セイバーは苦痛をグレーの瞳に滲ませて、激しく首を振った。
「駄目だ。とにかく、この土地の人々を聖杯戦争に巻き込んではいけない。一刻も早くキャスターを討たなければ、このまま更に犠牲が増える」
 バーサーカーは血に濡れた剣を退屈そうに一瞥して、「ほう」と一言声を上げた。
「それで、何か策はあるのだろうな」
「……無い。私とマスターは今までキャスターに接触したことが無い」
 狂戦士は歩道の大きな並木のイチョウにもたれかかって、この時を待っていたと言わんばかりに口にした。
「貴様がキャスターを討つというなら俺は協力してもいい。俺はキャスターの真名と、宝具と、砦の内部を知っているからな」
「本当か!」
 大きくなっていく喧騒の中で、セイバーは勢いよく目を上げてバーサーカーを凝視した。
「ただし条件がある」
 エメラルドグリーンの瞳が、嘲るように細められた。

「キャスターを討ち果たしたら、貴様はその真名を明かし、宝具を明かし―――そして俺のマスターと再契約しろ」

Fate/Last sin -16

Fate/Last sin -16

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-04

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work