理想と現実
自宅で夕飯を食べ終わるとき、頬杖をつきアンドロイドの園子を見ながら、あまりの平凡、あまりの異常、私はひっそりうれしさに感動の涙を流していた。小太りの中年が食卓で何もなく涙をながす、私は変なのだろうか、私は彼女が好きだ、しかしそれはおかしな事で当然、私には家族があるので、彼女は機械なので、娘や私の妻に感じる愛とは別の感情だ。それは私の趣味としての感覚なのだ。私は今だに子供じみた感覚をもっていて、逃げられずにいる。それは狂気じみていて、私はこれほど人間じみた、それでいて人間とは全く異なる、完成されたしぐさと、不自然でありながら不自然でない生物のコピーデフォルメの異形が好きだ。しかし、そのいびつな芸術に向けられた愛情が、この年まで感動と癒しを持っている事に、少し自分の感動に違和感をもっていないでもない。
「ご主人様、どうかなさいました??」
私がトーストを口に運ぶ、皿のうえに小さなパンくずがぽろぽろ落ちる、朝食のテーブルをはさんでその異形のアンドロイドがいる、日常にとけこんで、もはや初めからそういう生物であるかのような何食わぬ顔でそれは、エプロンをしてそこに立っている。園子、いわばアニメじみた萌え系の外貌。ツインテールに、年齢を感じさせない簡略された目鼻立ち、アンドロイドを発注してはや半年、園子に要望をだしたり、園子自身が経験をつみあげ、学習し、人工機械が理想により近いものに近づいていく、今や完全にとても近い。近頃それが日常の中、私、いや私だけではなく、我々の問答無用で最優先の趣味になった。私たちの生きる意味は、生まれる前からあったわけじゃない、こんな風にあとから好きなものができて、あとから生きる意味が生まれる、矛盾だと思うのに矛盾に気がつかなくなる、だからこそ、異質だろうと私たちはそれに感動する。なぜだ、私はとうに、これらから卒業したはずだった。そのうち園子は私の視線に気がついた、入れてきてくれたコーヒーを、丁寧なしぐさでおじぎをするように受け皿とともにテーブルにおいて、また同じ場所へ一歩ひいて、背筋をのばしながらこういった。
「わたくしの顔に何かがついているのでしょうか?あら?あらら?なにもついていませんでした、ウフフ」
わざとらしい、だがそれが人間にないわざとらしさを演出している、不自然だからこそ意味がある。いびつだからこそ、平凡な日常の中にぽつりとおかれて際立つ意味がある。園子、これは人間の心の弱さの体現だ、ありとあらゆる玩具、オタク的趣味は、そうした現実逃避のテイをなしていると思う、ならなぜ私はそれを求めているのか、私だけではない、それは私たち夫婦間の問題だ。
私は真剣な顔をして、園子からこっそりうけとったハンカチで涙をふいて、一瞬、それとわからないように妻に視線をおくった。
私は、園子をなぜ作ったか、わざわざ現実逃避のシンボルを、自分のそばに置き、自分のそばで平凡の中で見つめる意味とは。私は実はというほどでもないが、昔から体がよわくて陰気なたちだった、それでありながら好奇心は人一倍、で臆病でありながら退屈していたのだ、なによりも病的にこだわりがあり、それでいて場合によって興味がなかったことは人間の外貌と内面の違いについてだ。私は、全ての人間が同じ程度の価値しかないと思っているの、それなのに場合によって人間による人間への扱いは外貌により大きく違いがあり、左右される事に、違和感があった。性別もそう、良し悪し、好みもそう、よくも悪くも。それは一向かまわないのだが、私の場合その違和感がとても大きく、世間との認識にズレがあり、少し違った困った問題があるのだ。第一に私は人の顔も名前も覚えられないし、第二に、人の好みというものがよくわからない。例えば好きになる同性異性がいたところで、結局ガワが違っても、内面の違いがほかの人間と大差ないように感じてすぐに飽きがきてしまう、私にはギャップが多すぎたのだ、世間の人に対する扱い威の不公平感のギャップが。私は、隣でキッチンにたちにこにこしている女性を見た。
「百合子……」
そうだ、それこそが私の妻の名前、しかし私は彼女をも、その容姿と内面がとても遠いものに感じてしまう、日ごろから外貌は妻と結びついているものとは思えない、妻ですらそうなのだから、他の人では得にそうだ。それは一風変わった私の病理なのだ。妻は、私とは違った意味で病んでいるのだが、それこそが私たちが恋人になる原因であり、まだ小太りのおやじが今のように太っていなかった頃から、長い時間をかけ、二人で愛をはぐくみこうして一緒になった原因でもある。彼女は、自分の容姿を毛嫌いしている、百合子は小さなころから、見た目より大人びて周囲の人間にあつかわれた。すべては大人びた容姿のせいだった。彼女自身は大人びた内面などもっていないのに、つねにその対応をもとめられ、つねに周りにあわせて、大人っぽい自分をえんじつづけ、その外貌が原因で求められる要求は、年々自分のキャパシティを超えていって、我慢に我慢をつづけるが、思春期をすぎ、ついに百合子も、高校生の頃には精神的苦痛に耐えきれなく、私と同じように、オタク的趣味を影でひっそりと極めるようになった。
その共通点が、あの頃まだ発展の浅かったミニチュアの機械人形——アンドロイドとはまだよべない——共通趣味だった、それがきっかけで、モデルをしていた彼女と、映画業界にいた、自分の接点はうまれた。
この平凡な食卓で、私は幸福だ、それは当然私は幸福だ、しかし、私は本当の意味で彼女の容貌さえ愛しているのか。私はデフォルメの顔がすきなのだ。つまり、欲を言えば、自分の妻もその種の——今では不自然ではない、人体改造―—をしてもらいたいと思うこともある、しかし、それでは私の苦痛も私たちの苦悩も、過去も消えてしまう、それは寂しい気がする。第一妻本当に望むことではないから、彼女とともに、私たちのメイドとして園子を迎え入れ、私たちの共通の趣味の象徴として、いまも私たちの生活の最も近くにおいているのだ。
妻はキッチンをはなれ、一瞬こちらに機械的な表情の笑顔をむけた、私はそれが恐ろしく顔をまるで犬のようにぶるぶると横にふった。そしてそのあと、私はもう一度妻をみると、妻はもっと自然で、妻らしい表情をしていて、私はそこで、妻と妻の内面が、皮で一つにつながっていると実感できた。そして二人がそろい、朝食がはじまった。
私たちが、なぜ園子をつくり、こんなに生活の中の象徴として表現するのか?私たちは、私たちの痛みも、喜びも、両方とも愛し、私たち自身の糧としている。私たちの中にくすぶる疑問も、善悪も問答無用で、強烈。それは当然初めからなかったように消えるようなものでも消えるべきものでもない。それは私が園子を見る時の、開放的な、無心で好意を抱くような感覚ににている。それでも、私は園子が、私たちの完成された理想が実現したとき、それでも俯瞰で見ている自分をみた。どこかで、こんなものか、と思った、なぜだろう?私たちの理想の人形はここにあるのに、不満なのだろうか。
……不満があるわけではない、私は人の中に、人の容貌に、何かを探し続けていたころから、ずっと同じ感覚の理想をもっていた。自分の疑問も、不満も、完全に満たされることはない、だからこそ誰かが作るものなのだ、誰かと一緒に作り上げるものなのだ、だからこそ私はユリコを愛した、技術の進歩に期待し、感動して、特注で、機械の園子を作りあげた。きっと私も、私たちも、園子でさえも完全にその心が満たされることはないだろう、しかし充たされず、不満がたまりすぎない、ギリギリの生の感覚が、ここにあるのだ。それが私たちのシンボルにふさわしいから、園子はこうしてここにいるのだ。
理想と現実