20180930-青春だなあ
一
一九九一年、バブルがはじけた。株価は急落し、景気が一気に冷え込んだ。企業は、生き残りを掛けて解雇や早期退社、ときには酷いいやがらせをして自主退職に追い込んだ。そのため、多くの会社員が安い賃金の職業に着かざるを得なかった。ひどい時代である。
その頃、佐藤武史も就職に失敗して、その日その日をバイトで食いつないでいた。中でも、コンビニのバイトは、店長がいい人で、もう三年続いている。
「佐藤くん、昨日は三時から穴埋め、悪かったね。今日は、もう上がっていいよ。後でタイムカード押しておくから。ご苦労さん」
「ありがとうございます、店長」
いつもより二時間早い、午前六時前のバイト上り。登りはじめた太陽に思わず手をかざす。その中に見えるものは、夜勤明けの男の疲れ切った顔だった。思わず、コンビニ定員の挨拶が出てしまう。
「お疲れさまです」
疲れ切った男は、不思議そうに目線を上げて武史を見る。
「ああ、コンビニの。お疲れさま」
男は、ニッと笑って首を下げて、コンビニへ吸い込まれていった。戦友、そう思っているに違いない。武史は、生きづらい時代を必死になって生きている仲間として、わずかなエネルギーを得た思いだった。
夜食は午前五時に食べている。これからは、歩いて十分のアパートへ着いて顔を洗い、シングルベッドに百七十六センチの身を投げ出すだけである。そう思うと、なんと気持ちいいことか。
築二十年の六畳一間と、一体型バス・トイレ付。家賃四万二千円は学生街では、普通だろう。武史は、このアパートに大学一年から住んでいて、かれこれ七年もお世話になっている。まさか、これほど長く住むとは思っていなかった。もうそろそろ出て行きたいが、いかんせん金が掛かる。それゆえ、ここから動けないのである。武史は、眠い目をこすりながら、アパート一階の一〇三号室にたどり着いた。
そのとき、不意に一〇二号室のトビラが開いて、出て来た女と目が合ってしまう。三十歳ぐらいか。百六十センチほどのスリムな身体に、ジーパンにジャンバーといういでたちで、キャップをまぶかに被っている。武史は、またしても口癖が出てしまう。
「お疲れさまです」
「え?」
女は、目を白黒させていたが、探るように「お疲れさまです」と返した。
「あ、すみません。いつもの口癖が出てしまって」
「そうでしたか。えーと、私は一か月前に引っ越してきた、向田です。よろしくお願いします」
そう言って向田は、キャップを取って頭を下げた。ボブカットが美しい放射線を描く。そのうなじに、武史は息を飲む。
それにしても、引っ越してきたなんて気づかなかった。よほど、気を使って荷物を運びこんだのだろう。そう思い、武史は感謝の気持を表した。
「俺はコンビニ店員をしてます、佐藤武史です。お弁当は、いつもニコニコ、丸さんコンビニへ。お茶、サービスしますよ」
「あら、そうなんですか。そのお店だったら、きのうの昼、行ってきましたけど?」
「それは、どうも。でも、俺は夜番なんで、午後八時からなんですよ」
「それじゃ、今晩、お茶をご馳走になりに行きます」
「わかりました、待っています。では、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
向田は、敬礼をしてさっそうと歩いて行った。もしかして、警察官かなと思いながら、武史は一〇三号室のカギをまわして、部屋に入って行った。眠かったはずなのに、向田の顔が浮かんで、なかなか寝付けない。ひさしぶりに寝酒をあおった。
二
午後三時。佐藤武史は、目覚ましを止めて、起き上がる。カーテンを開けると、強い日差しに目がくらんで、手をかざす。今日は、うっとおしいほど天気がいい。
半分眠っている顔を洗って、トーストした食パンにマーガリンを塗ると、ゆっくりとそしゃくして、コーヒーを味わう。食べ終える頃には、すっきりと覚醒する。武史は、歯を磨くと、ゆっくりと新聞に目を通した。
一九九四年四月二十七日、水曜日。昨日、航空機事故があったらしい。死者二百六十四名の痛ましい事故である。武史は、もし自分が乗っていたらと思うとぞっとする。できたら新幹線で移動したいものだと思った。もっとも、乗る予定はないのだが。
新聞の見出しにさーと目を通すと、ほかに気になる記事はなかった。続けて挟んであるチラシに目を通すと、パン屋が新規オープンしたらしい。武史の好きなクロワッサンが、クーポンでなんと百円である。急いで身支度をすると、パン屋を目指した。
コンビニとは反対側に歩いて十分のところに、パン屋は開店していた。ベーカリー芳江の看板が新しい。その前は、確か回っていないお寿司屋さんだったが、景気が悪くなって客足が減ったのだろう。その代わり、庶民の見方、安くて美味しいパン屋に生まれ変わったのだ。これも、時代の盛衰として歴史に刻まれて行くのだろう。
店の中へ入って行くと、客でごった返しである。主婦と学生たちが目を輝かせてパンを選んでいる。武史は、残りわずかとなったクロワッサンをうれしそうにトレーに乗せた。
「あれ! 佐藤さん」
その声に振り向くと、向田がたくさんの客をかき分けて、にこやかに近付いて来る。白いユニフォームに、清潔そうな帽子を被って、手の甲には白い粉が付いている。その指先を見ると、なにも塗っていない爪が短く切りそろえられている。武史は、その指にも魅力を感じた。
「向田さん、こんにちは」
「今朝から開店したんですよ。あなたにも知らせようと思ったんですが、時間がなくてすみませんでした」
「ええと、もしかして向田さんのお名前が、芳江ですか?」
「ええ、そうです」
そう言って、向田はバツが悪そうに笑った。たぶん、親がお金持ちなのだろう。そう武史は思ったが、触れられたくないことだと思い、話題を変える。
「今日が開店で急いでいたのに、声を掛けちゃってすみませんでした」
「いいえ。ところで、このグリッシーニはぜひ食べてくださいね。おやつのように食べれますから。それじゃ、わたし焼き上がったパンを並べなきゃいけないので、これで失礼します」
そう言って、向田はあわただしく厨房へ消えて行った。
武史はその姿を見送ると、五本のグリッシーニをトレーに取って、それにチキンサンドも加えた。夜食には充分である。トレーを年配の女性が待ちかまえるレジのカウンターに置くといらっしゃいませの声が響いて、手早く種類ごとに袋に包まれ、それが大きな袋にまとめられた。きっと、準備期間中に練習したのだろ。武史は、その接客に気持をよくして、お尻のポケットから財布を出した。
「向田から聞いております。本日は、サービスですのでお代はけっこうです。ありがとうございました」
「え! どうも、ありがとうございます」
たぶん、千円はする。これは、ぜひともお返しをしなくては、と武史は思った。しかし、飲み物で返すには金額が大きすぎる。そこで、飲み物を複数回に分けてお返ししようと思った。その方が、自然にできるからである。
パン屋を出ると、学生街は夕日に染まっている。講義を終えた学生たちが、たむろってどこかへ出かける。食事か、それともコンパかわからないが、みな楽しそうになにかを話している。
武史は、最近仲のいい友だちはいなくて、一日の内で話すのはコンビニの業務連絡ぐらいなものである。それを、べつだん寂しいと思ったことはなく、返ってわずらわしくなくて、いいことだと思っていた。
だが、今日出会った向田ともう少し話していたいと言う欲求がふつふつとわいて来た。武史は、その思いを振り払うように、コンビニへと入って行った。
三
午後九時すぎ。武史は忙しくコンビニで働いていた。相棒の根岸はまだ学生で責任ある仕事は任せられないので、武史が仕切ることになる。製品の補充と発注、弁当の受け入れと賞味期限切れの弁当の廃棄、電気代などの入力、そして店の清掃。やることは多い。武史は、それらをソツなくこなしていた。
そのとき、ピンポーン、ピンポーンとチャイムが鳴って、客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
武史がそう言って入り口を見ると、向田がキャップに手を掛けて微笑んでいる。つられて、武史も笑顔で頭を下げる。体温が少しだけ上がった気がする。
向田は、手にカゴを持つと、まず弁当とお茶を選んでいる。やはり、パン屋だとは言っても、三食それだと飽きるのだろう。向田は、それから雑誌コーナーで文庫本をゆっくりと選んでいる。武史は、その姿を時折盗み見て、弁当の搬入をしていた。
武史が、空のコンテナを下げて去って行く弁当センターの業者に「ありがとうございました」と挨拶すると、向田はカゴを手にして、レジにやって来た。
「いらっしゃいませ、向田さん」
「どうも、佐藤さん」
「今日は疲れたでしょ?」
手を動かしながら、言葉を返す。当然、目線は常に商品に行っている。
「ええ、でも今日は完売でしたから疲れも吹き飛びました。明日も、こうだったらうれしんですけど。それで、どうでしたか、味は?」
「すみません。まだ、食べていません。夜食にしようと思って。でも、自信があるから開店したんでしょ? 美味しそうだもの」
「はい、自信はあります。でも、万人に受け入れられないと。だから、ひとりひとりの感想が欲しいんです」
「わかりました。明日のこの時間でかまわないですか?」
「はい、よろしくお願いします」
「えーっと、四千六十二円になります」
「はい」
「三十八円のお返しです。お待たせしました。お約束のお茶、選んでくださいね」
「それじゃ、これお願いします」
武史は、お茶を別会計で清算をして、向田に差し出す。
「はい。ありがとうございました」
「ありがとうございます。それじゃ、また、あした」
微笑みながら、向田は店を出て行った。後ろ姿も格好いい。
「先輩。あの格好いい女性と知り合いなんですか?」
一緒に見取れていた根岸が、武史のコンビニの上着を引っ張って、言った。
「ああ、あの人はアパートのお隣さん」
「先輩。うらやましいです」
「なに言ってるんだ。ただの隣人で、これからはアダルトビデオもボリュームしぼって聞かなきゃいけないんだ」
「わざと大きくして聞かせるとか?」
「バカ」
「へへへ」
武史は、深夜零時に夜食を食べた。クロワッサンはバターがほどよく効いていて、サクサクした触感が食欲を誘う。チキンサンドのパンはちょっと硬めの食感で、表面をカリッと焼いたチキンにほどよく合う噛み応えである。そして、グリッシーニはサクサクしてまるでおやつのように胃袋に入ってしまった。
なるほど、これだけの腕があれば、勝負してみようと思っても、不思議ではない。武史は、一度でファンになった。
四
武史のシフトは、夜八時から朝の八時まで。週に一日、不定期に休みを取っている。その方が、ありがたられ、時給がいいのである。そして、常に夜番で時給は跳ね上がる。それで、月二十万以上もいただいているのである。
バブルがはじけた時代。バイトでこれだけもらったら文句は言えない。まじめにコンビニ店員を勤めていた。
またしても、午後九時すぎに、向田は現れた。今夜の服装はガラッと変わって、あわい色のセーターに、ベージュのフレアスカートを身にまとっている。店内にいた人は、みな彼女にくぎ付けである。もちろん、武史も思わず見とれてしまって、いらっしゃいませの声が上ずった。
「こんばんは。それで、食べてみた感想は?」
向田は、よほど武史の言葉が聞きたかったように、矢つぎばやに言った。まるで飼い主に餌をねだる子犬のように。
「美味かったですよ」
「本当ですか? よかった。で、どこがよかったですか?」
「全体にサクサクした噛み応えで、俺の好きなクロワッサンなんて香ばしくて、なにも付けずに全部食べちゃいました」
「本当に? うれしいな」
向田は、満面の笑みでよろこんだ。武史は、思わず抱きしめたいと思ったが、ふたりはそんな関係ではない。おまけに、今は勤務中である。武史は、コンビニ店員の自分があまい期待を抱かぬように、トーンを下げて言った。
「すみません。俺、今バイト中なんですよ。しかられますから」
「佐藤さん、バイトの時間って、いつまでなんですか?」
「夜八時から朝の八時までです」
「私が、朝六時から晩の八時までですから……」
「合いませんね、時間が。それに、俺のお休みは、大抵、平日ですから」
武史がそう冷たく言うと、向田は固まってしまった。
「すみません。それじゃ」
そう言って、武史は通常業務に戻って行った。
「先輩。もしかしてフラグが立っていますよ。コーラを補充している場合じゃないでしょう?」
後輩の根岸だけではない。コンビニにいる者は、みんなそう思っているに違いない。だが、武史の考えは違った。向田は、パンの評価をよろこんでいる。決して、コンビニ店員が好きになったのではない、そう思っていたのである。
そもそも、武史が向田にはじめて会ったときに、コンビニ店員だと告げたのは、世の中に対する引け目からだった。どうせ俺なんてバイトを職業としていて、一度も正社員になれなかったのだから、誰も好きになるはずはない、そう信じていたのである。
だが、向田の受け取り方は違かった。コンビニ店員であることに誇りを持って、どうどうとそれを告げる武史を、精神的に大人であると思ったのである。
ふたりの初対面は、はたから見たら上手く行ったように見えて、その実、決してまじわらない平行線だった。
向田は、肩を落として帰って行った。まるで、己が交際を断られたように。
五
武史が拒絶した翌日、向田は変わらずに午後九時すぎに現れた。前日と同じ柔らかい色の装いで。
「いらっしゃいませ」
無言で会釈をする向田。ゆっくりと弁当を選ぶと、カウンターにカゴを置いた。
「いらっしゃいませ」
武史の声に対して、やはり無言である。それを見ている根岸は、息を止めてうかがっている。
「五百二十円になります。それから、お茶は、サービスですので選んでください」
向田は、六百円をカウンターには置かずに、武史に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
受けとったときに、向田の手が触れる。武史は、気を持たすのは止めてくれと心の中で叫んだ。
「あの」
「はい」
「どうせ、いつかバレると思うから聞くけど、私の前の職業がキャバ嬢だから?」
「え! ち、違いますよ」
「そう、よかった」
武史は、このときはじめてあの美しさは、そういう世界で身に付けたものかと思った。だが、向田の美しさは、男に媚びを売るようなものではなく、うちからにじみ出る知性によるものだと思った。
「佐藤さん」
「はい」
「バイトの前に、私の仕事場へ来ていただけませんか?」
「え?」
武史は、思わず手を止めてしまう。
「私の仕事を知ってもらいたくて」
向田の目は真剣である。
武史は、前々からパン工房に興味を持っていた。だが、募集が中々なくて、あきらめていたのである。それを見せてくれると言うのだ。向田との気まずい関係を考えないで、思わず言っていた。
「ぜひ、見せてください。お願いします」
「よかった」
「向田さん……」
「ほら、さっさと会計してね」
「すみません」
向田は、会計を終えると、にこやかに会釈をして店をあとにした。
「先輩、よかったですね」
根岸はそう言って、武史のわきばらを小突いた。
「いて」
「まったく、先輩は意固地なんですよ。コンビニ店員だって、恋する権利はありますよ」
「根岸くん……」
「明日は、早起きして行ってくださいよ。そして、パンの作り方、よく見て来てください」
「そうするよ。ありがとうな、根岸くん」
そのとき、お客のひとりが言った。
「青春だなあ」
六
翌日の午後一時すぎに目が覚めてしまった。あいにくの雨だった。武史は、シャワーをあびると、朝食もそこそこに傘をさして表へ出た。この雨は、夜半には止むと今朝の天気予報で言っていた。それにしても、激しい雨である。武史は、ジャンバーの襟を立てて歩いて行った。
ベーカリー芳江に着くと、傘の水滴をはらって、店の中に入って行った。今日も大勢の客が来ている。武史は、客の中をかき分けて店員に声を掛けると、厨房のトビラを開けた。
向田は、白いユニフォームに身を包み、ステンレスの台の上で、生地を折っていた。武史が、来たのがわからないほど、真剣にその動作を繰り返している。武史は、唾が飛ばない距離で、声を掛けた。
「こんにちは、向田さん」
「ああ、ビックリした。佐藤さんでしたか」
向田は、うれしそうに微笑んだ。武史もそれにつられて笑顔になる。
「今、クロワッサンの生地を折っています。これを、五十四回繰り返します」
「大変ですね」
「そうでしょう? あと十回ほど折ったら、食パンを仕込みますから、ちょっと待っててくださいね」
「はい」
厨房の中はひんやりとするくらいの温度で、十八℃くらいか。その中で、向田はもくもくと生地を折っている。きっと、クロワッサンを折るには、中に折り込んだバターが溶けないくらいの温度がいいのだろう。
それでも、向田の額には汗がにじんでいるので、かなりの重労働のようである。長袖のユニフォームで腕は見えないが、スリムな身体のわりにきっと太いだろう。
「できた。あとは冷蔵庫に一時間、寝かせてから焼き上げます。そうすると、ちょうど夕食の時間に合いますから、匂いにつられてみなさん、買ってくれます」
そう言いながら、向田は切り分けた生地をすばやく冷蔵庫に入れて行った。
「寒いでしょう? 今、厨房の温度、上げますから」
そう言って、向田はクーラーの設定温度を上げた。そして、汗を手拭いでぬぐうと、ひと口、ペットボトルの水を口に含んで、両腕を上げてひとつ伸びをした。
「やっぱり生地を冷蔵庫に入れても作業している間に、温度上っちゃいますか?」
「ふふふ。やっぱりパン、作ったことあるのね。どこでやったの?」
「そんな大したことやってないですよ。家でちょっと焼いただけですから」
「それじゃ、私の苦労もわかるわね?」
「はい。女性なのに、ひとりで店のパンを焼くなんてすごいですよ」
「そうなのよ。それでこのルーティンが必要なの。ひと作業終えるごとにすると、疲れが溜まらないから、佐藤さんもやってみてください」
「わかりました。コンビニでも作業をひとつ終えるたびにやってみます」
「それじゃ、パン作りの基本、食パンの仕込み、はじめますね」
向田は、小麦粉の袋からステンレスの容器に計り取ると、大きな撹拌機に入れた。そして、水、砂糖、塩、バター、ドライイーストを次々と加えると、撹拌機のスイッチを押した。
「どう? 食パンは疲れないでしょう? 手でこねるのは、焼く前の形を整えるときだけだから」
そう言って、向田は再び顔を拭いて水を飲むと伸びを打った。無意識の内にできるらしい。
「明日から、やってみる?」
「え! いいんですか?」
「コンビニの仕事ぶりから、目を付けていたのよ。それに、思ったようにまったくの素人じゃないし。それで、スカウトしようと決めたわ」
「本当に?」
「本当に。明日は四時に入ってくれる? その時間に、翌日に店に出す食パンを作ってもらうから」
「わかりました」
「よかった。それじゃ、食パンの仕込み続けますね」
「はい」
そう言って、向田は撹拌機から生地を出すと、三十℃のホイロ(恒温機)に入れた。そして、隣りのホイロから生地を出すと(たぶん、なん十分か置いたのだろう)、ガスを抜いてすばやく切り分けて、形を整えた。そして、四十℃のオーブンで三十分置くと、食パンの型にショートニングを塗って生地を載せると、二百℃のオーブンに入れた。
「食パンは、形を整えるのが肝ね。うまくやらないとパンがきれいにさけないから」
そう言って、向田は手で引きさく動作をした。
タイマーで三十分後に、焼き上がった食パンをオーブンから出すと、いい匂いに厨房が満たされる。武史は、こんな匂いに包まれて仕事ができる幸せを感じていた。
「どう、いい匂いでしょう?」
「はい、本当に」
向田は、その言葉に満足そうに微笑んだ。
「それで、給料だけど時給千六百円しか出せないの。それで、いいかしら?」
「え! そんな、もらえませんよ。教えてもらっているのに」
「佐藤さん。覚えるのも仕事だよ。すぐに、戦力になってもらうからそのつもりで真剣にやってね」
「わかりました」
「これで、私の労働時間が十二時間切るわ」
俺は、十六時間労働になると言おうとしたが止めた。いずれコンビニを辞めなくてはいけないと、武史は思った。
そのとき、雷が鳴り響いて一瞬電気が消えた。
「きゃ!」
そう叫ぶと次の瞬間、向田の身体は武史の腕の中にあった。その感触を武史は味わう。そう言えば、セックスしたのはもう四年も前になる。就職が上手く行かず、女に見限られたきりだった。
「す、すみません」
そう言って、向田は背を向けた。それは、真っ赤になった顔を見られないためか。
「佐藤さん。もう、コンビニの時間ですよ」
その声に、腕時計を見ると、あと十分で午後の八時だった。武史は、失礼しますと言うと、雷を気にしながら傘をさしてコンビニへ走って行った。
七
「先輩、ねえ先輩!」
「ああ、根岸くん。どうしたんだ?」
「しっかりしてくださいよー」
根岸は、泣きそうな声でそう言った。
「え?」
武史が手元を見ると、空き缶のバーコードをなんども読み取っていた。お客が、心配そうにレジに立っているのに気が付くと、あわてて間違いを消去して会計をはじめた。
いつもの武史は、テキパキしているのに、今日の彼はまるで魂を抜かれたように別人だった。
レジを打ち終えると、武史の意識は再びどこかにさ迷っていた。根岸は、ため息を付いて武史の両手を抑えると、お願いした。
「先輩は、今日はなにもしないでください。僕が、やっておきますから」
「……でも、根岸くんは搬入なんかしたことないんじゃ?」
「大丈夫です、先輩の仕事ずっと見ていたから、できます」
「根岸くん……」
今日の根岸は、いつになく頼もしく見える。武史は、自分で何でもやり過ぎたと反省し、ありがとうと言うと、バックヤードに消えた。
武史はイスに腰掛けると、ボーっとした頭で根岸とお客の会話を聞いてしまう。
「いらっしゃいませ」
「ねえ、今日の彼、おかしいんじゃない?」
「お客さんも、そう思いますか?」
「あれは、きっと恋わずらいだよ。にやけた顔を見るとわかるよ」
「実は、パン屋の美人にラブコールを受けて、今日行ったんですよ。そして、帰ってきたら、ああなってました」
「やっぱり」
「治るでしょうか?」
「治ると思うけど、きっと長引くなー」
「はあー」
「あははは、青春だなあ」
そう、うらやましいそうに言って、お客は店をあとにした。雷が鳴り響く中、お客の足取りは軽やかだった。
八
次の日から、武史は午後四時からベーカリー芳江で働き、午後八時からコンビニでバイトをすると言う生活になった。身体はつらいが、真剣に製造に取り組み、最初の食パンから店に出せるだけの仕上がりを見せた。
なぜ、これほど優秀なのに正社員として就職できなかったかと言うと、バブルがはじけたこともあるが、武史のプライドが高かったことも大きい。
偏差値七十二。それが武史の高校入学時の偏差値だった。そんなポテンシャルを持っているのに勉強をせずに遊びほうけて、入った大学は三流のなんの技術も身に付かないところであった。
それなのに、就職活動ではへんなプライドを持って、一流企業しか受けなかったのだから、就職に失敗するのは当然だった。親にも見放された武史は、やむなくコンビニのバイトの面接を受けたのである。
だが、徐々にいい方向に変わり始めた。それを、武史は身体で感じていた。
午後十時、コンビニの客はまばらで、いそがしい時間をすぎた頃だった。武史は、先に休憩を取って、しばし目をつむって仮眠をむさぼっていた。そのとき、根岸がバックヤードへあわてて入って来た。
「今、先輩にお客さんが」
「……ああ。ありがとう」
武史が、眠たい目をこすって店頭に顔を出すと、そこには黒いスーツを着た女がいた。
「くるみ……」
「武史、ひさしぶり」
「どうしたんだ?」
麻生くるみ。卒業以来、三年ぶりの再会である。確か、文具メーカーに就職したと思うが、化粧が上手くなって、ますます遠いところへ行ってしまったと、くるみをまぶしそうに見つめる武史。大学一年から付き合って喧嘩もしたが、心底愛していた。だが、武史の就職が中々決まらないうちに、くるみは距離置くようになり、卒業と共にお別れをした。
そして、誰からか聞いたのであろう、武史の勤めているコンビニへ訪ねて来た。きっと、アパートに会いに行くと勘違いされるのがいやだったのだろう。
武史はそう考えると、一体なぜ会いに来たのかわからなかった。
「元気そうね?」
「まあまあね」
「その分だと、世の中のきびしさがわかったようね?」
「ほんと、バカだったよ、俺」
そう言って、武史は力なく笑った。それを見て、ほっと安心したようなくるみ。
「ねえ、小さな事務用品の会社だけど、正社員になる気はない? もちろん、給料は安くてサービス残業はあるけれど、社会保障はあるから安心よ?」
「くるみ……」
なぜ、俺に就職を世話してくれるのか疑問はあったが、くるみの申し出は、正直ありがたい。
だが、今は向田に付いてパン作りを学んでいる所だ。これが、生涯の職業になるかはわからないが、途中で止めるわけにはいかない。
悩んだ末に、向田について行こう。そう、武史の中で答えを出した。
「ありがとう。でも、今はやりたい仕事があるんだ。だから、その話は遠慮するよ」
「仕事ってなに?」
「パン作りだよ」
「パン? それで、その仕事は安定なの?」
「いや、俺はやり始めたばかりだし、開店したのはついこの間で、まだ安定なのかはわからない」
「それでも、やってみたいのね?」
「うん」
「……わかったわ。でも、気が変わったらすぐに電話してね」
「電話番号は?」
「ポケベルは、あの頃から変わってないよ」
そう言ったくるみの顔はひどく心配そうで、無理に笑っているのがわかる。くるみの後姿は、駅に向かって歩いて行って、やがて見えなくなった。
九
なにもかもが順調だった。武史は、はやばやと食パンの製造を任せられ、難しいクロワッサンもOKが出た。そして、器用さが求められる折り込みパンも、またたく間に覚えてしまった。あとは、総菜パンを手が空いたときに覚えることにした。
一方、コンビニのバイト時間を徐々に減らしてもらってきたのだが、もうそろそろパン職人一本にしぼろうかと思い、バイトの代わりを募集してるときだった。
朝、ベッドにもぐると、すぐに電話がなった。武史は眠い目をこすりながら、受話器を取った。
「はい、佐藤ですが?」
「こちら、長野総合病院ですが」
一気に目が覚めた。武史は、緊張して用件を聞くと、母が倒れたと言う。すぐにコンビニとベーカリー芳江に電話して事情を話すと、駅へ走った。
長野に向かう列車の中で、武史は親不孝な自分を恥じた。小学校のときに父が死んでから、たったひとりで育ててくれた母。大学の学費を奨学金にたよらず、必死で仕送りをしてくれた。それなのに、就職もできずに心配かけた自分が恥ずかしい。
武史は、はじめて後悔の念に駆られた。
長野総合病院に着くと、すぐに病室を尋ねた。名札を確認して病室へ入って行くと、母は眠っていた。三年見ぬ間にますます痩せたようである。看護師に病状を訊ねると、若い女性医師が説明をしてくれた。
「お母さん、ずいぶん無理していたようで、腎臓がだいぶ弱ってました。透析をして、今は落ち着きましたが、これからは無理できないですね」
原因は、過労と心労による高血圧と説明された。
「母さん、これからは俺が面倒見るから、ゆっくり休んでね」
その言葉を、眠っている母に語り掛けた。
十
雨の降る中、夜行で東京へ帰った武史は、出勤する向田を待っていた。やがてカギがまわり、向田はくらい表情で武史の前に現れた。
「佐藤さん!」
「さっき、帰ってきました」
「それで、お母さん、大丈夫だったの?」
「はい。どうにか持ち直して、よく眠っていました」
「よかった」
向田は、自分の母親のように、よろこんだ。目じりに涙までためている。その向田の表情を見て、武史はこれから言うことに躊躇した。だが、言わなくてはならない。喉の奥から鉛を吐き出すように口を開いた。
「向田さん、本当にごめんなさい……。パン工房を辞めさせてください」
武史は、それしか言えなかった。向田は、思いも掛けないその言葉に、声を失う。呆然と、流れ落ちる雨を見ていた。静かに、時間が過ぎて行く。
「それで……、どうするの?」
「大学時代の知り合いに、仕事を世話してもらって、正社員として働こうと思います」
「そうか……。お母さんのためだよね?」
「はい、俺が守ってやらないと」
「わかったわ。お母さん、大事にしてね。それから、今日までのバイト代は、振り込んでおくから」
「ありがとうございます。それじゃ、失礼します」
「さようなら」
向田は別れを言うと、雨の降る中、足早に歩いて行った。傘をさして、口に手をあてて、声をもらさぬようにして。
武史の足は重たかった。あんなによくしてくれたのに、これから告白しようと機会をうかがっていたのに、これで終わりだなんて。
だが、前を向いて歩いて行かなければならない、母のために。武史は、自室のカギをまわすと、くるみのポケベルにメッセージを入れた。
十一
「さあ、挨拶して」
「今日からお世話になります佐藤武史です。よろしくお願いします」
小さな事務用品の会社のまばらな拍手が、少ない人数をさらにきわだたせる。
その後、十数人いる社員の自己紹介が続いたが、それを全部覚えてしまった武史。それを見て満足そうにうなずく社長。
「いや、やっぱり頭のいい子を入れてよかったよ。その調子で、仕事をどんどん覚えてくれたまえ」
先輩社員が説明してくれたのだが、この前辞めた社員が、あまりにも物覚えが悪くって頭を痛めていた社長が、取引先の文具メーカーに勤めるくるみに愚痴をこぼすと、それじゃ高校時代の偏差値七十二の男はどうですかの言葉に、興味を示したそうだ。
しかし、いくら高校時代の偏差値が高くても、やる気をなくしてへいぼんな大学へ行ったのは明白である。それでも、今はコンビニの仕事でもまじめに取り組んでいる。昔のあまさは感じられないと言って説得したらしい。
武史は、くるみに感謝をして、新しい仕事を必死になって取り組んだ。
事務用品の会社で働きはじめて一か月がすぎた。一日の仕事を終え、喫茶店で待ち合わせた武史とくるみ。軽食をつついて、武史の近況を報告する。
「どう、仕事は?」
「順調だよ。給料も、思ったよりもあるしね。くるみのおかげだよ、ありがとう」
「よかった。それで、お母さんは元気?」
「ああ、もうすっかりよくなったよ。今は家事だけをやってもらっているけど、退屈だって」
「ふふふ、よかった」
そう言って、コーヒーをすするくるみは、穏やかな表情だった。
「それで、なにかお礼がしたいんだけど、なにがいい?」
くるみは、コーヒーカップを受け皿に置くと、ゆっくりと話し始めた。
「私ね、こんど結婚するの」
くるみはそう言って、にっこりと笑った。その笑顔は、無理に作ったものであることは武史にもわかった。
「でも、武史のことが心に引っ掛かっていたの。それで、会いに行ってみると、昔の人をバカにしたような態度はなくなって、おだやかな顔になっていた。ああ、この人は変わったんだと思って、就職のお手伝いをしたのよ」
「くるみ……」
「ねえ、結婚を祝福してくれる?」
「……結婚おめでとう、くるみ」
「ああ、これでやっとお嫁に行けるわ。まったく世話焼かせるんだから」
「すまない」
「それじゃ、私、いくね」
「ありがとう、くるみ」
くるみは、最後ににっこりとほほ笑んだ。そして、一度も振り返らずに歩いて行った。武史は、後ろ姿を見送って、別れを惜しんだ。さようなら、俺の愛した人とつぶやいて。
十二
武史が事務用品の会社に勤めて、はや七年。武史も三十二歳になっていた。その間に結婚もして子供もできた。妻はよくできた人で、看護師の仕事と、母の買い出しの助けをしてくれる。おかげで、武史は仕事に専念することができる。妻にとても感謝しているのだった。
そんな折り、小さな仕事が入り、なつかしい学生街を訪れた。ところどころ、見慣れない建物が立って、道を間違えないようにするのが骨だった。それでも、無事、取引先に到着すると、注文の品をバンから下ろして、請求書を渡した。
その後、通いなれたコンビニを訪ねてみると、ライバル店の看板に代わっていた。武史は、しばし呆然とたち尽くす。気を取り直して中に入ると、知らない人が忙しく働いていた。その人に聞いたのだが、お世話になった店長も、後輩の根岸の名前も知らなかった。武史はさみしく思い、ベーカリー芳江へ車を走らせる。
行ってみると、まだ、ベーカリー芳江はあの場所に立っていた。うれしくなって中をのぞくと、そこには白いユニフォームを着た根岸の姿が。まさかとは思ったが、武史は店のトビラを開けずに立ち去った。顔に、やられたと言う表情がにじみ出ているが、目が笑っている。
武史は、帰り道の信号待ちで、向田の顔を思い出そうと思い、目をつむったが、どうしても思い出せなかった。青春は、終わったんだと思うと、頬に涙がこぼれた。
(終わり)
20180930-青春だなあ