しあわせのみつば 4/地平に墜つ月の章

ほがり 仰夜

  1.  霧の別れ
  2.  少女二人のただいま
  3.  鳥は空へと
  4. エピローグ

 霧の別れ

1.無題の童話
 まだ帰れるさ。森の瀬の小さな小屋で、木陰に染まっていくその前に。

「おはよう、シェミネ」
「おはよう、兄さん」
 一日を始める。小さな体が忙しく動き回っている。俺はこんなにのんびりしていて良かったんだっけ。寝過ぎた頭は溶け落ちてしまいそう。朝の身支度よりも先に植物に水をやる。シェミネに声をかけられる。大きくなったわね。鉢に移した植物のことだ。そうだ、大きくなった。のんびりしていたら時間が過ぎたのだ。森と街の境目に居場所を借りて、留まり暮らし始めた。この地に馴染むくらいの時間。低い屋根の下に二人。
「シェミネは少し背が伸びた?」
「どうかしら。木々の背丈には届かなくて、いつまでも小さいままのようなの」
 暮らしやすくて、時間の流れが行ったり来たりするようで、童話のようなこの小屋は、現実と現実の境目。境界からどちらに踏み出すかなんて、まだ選ばなくたっていい。夢を見ているわけではないのだから。ここはうつつ。
 背中を綴じ紐で結ばれて、表紙を綺麗に飾って貰って、墨で描かれた物語は本棚に収められる。タイトルが見当たらないね。筆が入らない続きのお話。終わりはまだ来ない無題の童話。名前の付いた本と一緒に埃をかぶれば、未完成とて同じように染まるだろう。
「今日は天気が良いのでお掃除します」
 箒で追い出されて、窓から中の様子を覗く。本棚の埃が落とされていく。きみはいつか、無題の童話の閉じ紐を解き、物語に手を入れるのだろうな。
 幸せな物語になるといい。

 きみは今幸せだろうか?
 まっさらになった故郷は、きみの中でまだ暗く燃えているのか。あの日の夕暮れが続いて、長く伸びた影が足を掴む。きみは夜の中にいて、何度も巡り来る朝など夢の中の出来事として昨日の朝に踏み止まる。虚ろな太陽に手をかざして透ける赤色を確かめたって何も浮かびやしない。
 あの日の夕暮れに生き続けるきみにあげられるのは、夜か、朝か。故郷の喪失。きみは火を放った同胞を恨むかい。時折森の隙間から街を覗いていることを知っている。土の家々をどう見ているのか。かつて失ったとしても、土の森はきみの体の還る場所。
 森と木々に染まるその前に、もう一度街を歩いてみないか。きみの生まれを呪うことなく憎むことなく。どうか幸せであれ。

 一冊の本を食卓に置いて、彼女は面白かったと語った。円いテーブルを囲む。向かい合い座る。頬杖をつけば互いの額が当たりそうなので姿勢を正して。小さな頃のようにぶらつかせた足と足が当たることも無くなった。二人きりの家で他者を挟む。他者について語る。話し終わりに彼女はいつも遠くを見る。少女は高い空を見る。同じ空を見たくて言ってみた。
「急いで選ばなくてもいいのさ」
 ひとや事情は変わるし、鉢植えの植物は大きくなっていくけれど、変化を追いかけることはない。歩いていれば自然と追いつくものだから。駆け出さないように、愛しい少女の手を掴みたくなった。
「辿り着く先は同じなのでしょう」
 彼女は眩しげにこちらを見る。空の鳥を見るように。もしも空ではなく鳥を見ていたのだとしたら、きみはやはり追ってはいけない。ゆっくりと、きみの時間を、人の歩幅で歩いてお行き。

 渡り鳥とは時間から切り離されたもの。空と地の間に薄いガラス一枚が敷かれている。

 処刑台で首を刎ねられる自分を見ていた。母木の喪失とはそういったもの。刃が落とされたというのに、何故俺はまだこの場にいるんだ。
 鳥が巣に戻ってみれば寝ぐらが見当たらない。高い空でくるくると回り続けるその鳥は既に迷子。一時、地上の宿を借りたとして、失われたものを探してまた空に戻ってしまうのさ。望みが潰えていようとも。探し続けるんだ。
 俺は恨んだ。そのわりに今は随分のんびり暮らしている。街も森もみな焼き払ってしまおうかと思っていた。そんなこと出来やしない。誰かの家の暖炉まで壊すには意志が足りない。こうして家を守っている方が穏やかでいい。ずっとこのまま暮らしていける。ずっととは、いつまでか? 還る場所を失い彷徨うひとびとは永遠の中に取り残された。だから、いつまでも。

 世の移り変わりとは水に投げ込まれた石。石は波紋を描く。どこまでも広がっていく。笹の小舟は揺られる。投げ込まれた石の音を聞いたかい? 沈む石を見たならば備えよ。石が投げ込まれたと知らずに波と戦うならば一度遠くを見よ。森の奥で倒れた木の音を聞くものがいなければそれは倒れていないことと同じだと言えたならば良かった。ひとはみな小舟に揺られ、波に揺られ、流れを下っていく。
 きみは進むだろう。流れに身を任せ、水を掬い遊ぶ。絶えない水流の恩恵を生活に取り入れる。水と共に。川はいつか果てへ。その旅路が穏やかであれ。きみを一人乗せた小舟を俺が操舵することは出来ないが、行く道を整えることは出来るんだ。だから今は、少しだけさよなら。
 断たねばならない。石が投げ込まれるならばその手を、木が倒されるならばその風を。
 俺は一本の木であるから、これから、少しだけそのように生きてみようと思っているんだ。つまり森の手指として、石を投げ込むその街の人の手を落としに行く。戦場に戻るならばきみとの糸を断たねばならない。またいつか会えるだろうか。俺は選んだのだろうか。森か、ひとか。散歩のような旅路だった。小さな子が育つほどの時間を歩いた。幸せなものだよ。今日までずいぶんとのんびりした。もう一度だけ、軌道の上に戻ろうか。

 きみが棚から一冊の本を手に取り寝所に上がっていった。夜遅くまで火を灯しているから昼にうたた寝をしていることも知っている。眠りの延長のようなきみの日々。暗転の隙間に俺は消えよう。
 留守にすることは珍しくなかった。二人で暮らすようになってからは遠出をしなかったにしても。放した鳥の帰りが遅いと不安に思わずにいておくれ。ちょっとそこまで散歩に行ったのだろうと、変わらず過ごしてくれたらいい。寝所の灯りが消された。夜が灰のように降り積もるので重い。灰を漕ぎながら玄関を開ける。月明かりが風を起こす。高い窓から空気が逃げる。こそこそと妖精が笑う。寝静まった者が起きてしまうじゃないか。
「あなたの背中の糸を切りましょうか」
 こんな真夜中に。
「このままで」
 切っておくれと言いかけて、言えなかった。扉を閉める。

 ここはうつつ。きみの旅の終わりは故郷の炎の中だろうか。せめて灰から芽吹く木を探して育てておくれ。大きくなるから。
 二人でここまで歩いて来たから、大丈夫、鳥は戻ると分かっているね。止まり木を守ろう。飛び立つための風を起こそう。風を魔法で呼ぶなら簡単なのにな。ひととして、ひとの手で風を作るには俺も不慣れだ。しかし今に天井に穴を開けて風を呼び込む。長い夜に、星や月のような穴を開けたら、季節の導がきみを呼ぶだろう。星の地図を手に、確かな道を流れてお行き。きみのための朝が待っている。夜が明けるよ。

 きみを小さな家の中に置いてきた。扉を閉じてしまえばきみはいつまでも眠り続ける。箱の中の猫は死んでいて、きみは生き続ける。俺もまた空を渡るだろう。探してくれるかい。

2.箱の中の生死
 炎の中に小屋一つ。扉は放たれており、熱の中で崩れ落ちた者を見た。
 記憶の小箱は炭化しているが、蓋を開けば火は燃え続けている。赤光に手を伸ばす事も出来ず、本棚に置いたままになっていた。黒煙を吐く箱の埃は払ったところで再び煤を被る。外箱を掃除することで、内にしまったものは徐々に意識の外に掃き出される。ゆるやかに忘れる。忘却に罪の意識は無いか? 芯が燃え続けるのが痛みの証拠。綺麗に掃除しているならば、箱を開く時が必ず来る。彼女にとってはそれが今。星明かりと焚き火にあたっていたら、鍵がキラリと光って呼んだものだから。
 口を開けた小箱は地獄の釜。火床を長く見ていれば目を盗られる。それではこの先困るから、最短を探るのだ。準備は万端。火に向かう。小屋の中、伏した人物はやがて血に浸る。熱風に巻かれ、自ら流した暖かな血に溺れていく。私は彼を助けられただろうか。シェミネは小箱を見つめる。記憶を再生するだけでは傍観していたあの日と変わらない。かつて私はその場所から逃げた。逃げた日から呼び声が続いている。木や人を焼いた火が手招くので行かねばならないのに、どう動けば彼が助かるのか考え込んで動けない。炎に溶けるは我が身か、彼か。熱源に差し出した手が霞む。両の手を反して見ると赤黒く汚れていて安心した。器用な夢物語の天使や不思議を操る幻想種ではなく、殺し生きる人なのだと確かめられる。取り繕う必要はない。この手で触れられる。奥に向かう。炎の芯に手を伸ばす。焼ける小屋の玄関をくぐり、足元の火を踏み越える。熱に感覚が叫ぶ。身が爆ぜて散らかる。小屋の中を漂う。身が熱に押しつぶされ、肺から焼けていこうとも、恐れることはない。熱風を吸って言葉を吐いた。
「懐かしい部屋。ただいま」
 これは刻めなかったページ。後悔と共に背を向けた炎の夕暮れ。固く閉ざされていた時間の続きを紡ぐ。過去を懐に呼び、切れ込みを入れて綴じ直せる。あと少し。炎に伸ばした手が焼ける。爛れ、痛みを伴おうとも触れなくては。開いた赤い池に腕まで突っ込んでまさぐる。あの日、閉じられた箱の中で生死が不明になっていたままの、彼に会わなくては。

「幾夜の冷気にさらされた記憶。大丈夫、触れられる」
 鳥から木へ。ひとから木へ、全ては混ざり合っていく。
「選んだのかしら、森かひとか」
 暗い一本の川を歩いている。一つ見つけ、一つ落とした。流れに沿って下流へ、下流へ。落とした物も流れが運んでくれる。持ち物はだいたい全部川の中。落としたことも忘れて、ある日同じものを拾い上げて、ああそうだったと間抜けに声を上げる。何度でも川底の光を見付ける。忘れていく。思い出していく。繰り返す営み。さざ波を立てながら進む。星空の地図を読み解く。拾い上げた光を夜空に加えて孤独な星々と繋げれば、名前とともに記憶しておけるだろうか。
 その日、手にした記憶の一片を星空に浮かべるために、シェミネは木に登った。星が明滅する。電球が切れる前に取り替えなくては。見上げると遥か上方の枝で小さな足が揺れている。今夜の見張りはリピアの番だ。星よりは近い隣人の元へ。
 忘れ溶けていくことも一つの定め。波に揉まれる小舟よ、流れに抗うならば櫂を忘れずに。舵が効かずに小舟がくるくると回されたならば、同じように景色と星々が回る。星の導を失ったとしても、暗中すら遊び場だと笑ってしまえ。
「それで、さて、どうしたのかな」
 森の奥を見ていたリピアが向き直った。隣にシェミネが座る。忘れてしまう事柄を綴じるためにと本を開いたが、綴る言葉が見付からない。言葉に辿り着くきっかけも掴めずに筆が止まる。だから今夜は見通しの良い場所に登りたくなった。
「隣で夜風に当たりたいの」
「もちろん、いいとも」
 空の星を繋いでみる。雲が出ている。ピースが足りず形にならない。
「初めて会った日の夜、木の腕に座り星を眺めてお話したわね」
「覚えているよ。あの夜に決めたのさ、母木を離れ、木から木へと渡ろうと。きみたち二人もフラフラと飛んでいたから。探しものの旅ならばちょうどいい。探しものは見つかった?」
「どうやら一つ見付ける度に一つ忘れていくようなの。今夜は書き留めるつもり」
 シェミネは手帳を取り出し、ペンを走らせ始めた。文字と絵が並んでいる。雑多なメモや日々が綴られていた。リピアが興味深げに覗き込んだので手渡す。絵を追ってページを遡る。旅の記録も取られており、植物や風景のスケッチについて尋ねたり、見覚えのある場所を当てたりした。
 リピアは街のひとの文字を習得中だ。同時にシェミネに森の言葉と文字を教えている。メモの終わり頃は街と森の文字で取られており、森の文字で書かれた部分には目を走らせているように見える。ページを追う目の動きが一部で止まった。
「あれ、読めない」
と声が上がる。詩のようで目についたのだが、奇妙に映る。知らないだけではなく、似ているようで読めない文字が混入している。違和感の正体は見慣れた文字に加え魔女らが使う文字も組み込まれていたためだ。知っているようで意味の異なる言葉。いつか読んでみたい、リピアが言う。
 リピアは街で買った詩集をポシェットに入れている。何冊か読んだ内の一冊で、捨てるに惜しいとしまい込んだ。出典は不明、古い時代の詩が何度も考察や翻訳を経て書き直された本だ。見習得の文字だけではなく、シェミネやスイであっても首をひねる表現が多用されており、解読には時間がかかるだろう。分からないまま終わるページもありそうだ。それで良いのだという。大事に持って歩いている。装丁が気に入ったらしいその本は、街の文字習得のきっかけでもある。詩集のイメージを重ねて言う。
「シェミネの言葉は詩集の余白を思わせる」
 表現のために置かれた単語のインクは余白をいっそう浮き立たせるためにも働く。語らぬことを書くためにインクを垂らす。文字列が語らない色々が余白の水溜りに溶けている。図を反転させて浮かび上がるものが彼女の言葉。ひとは共通の言語を使い多種と鳴き交わすけれど、もう一つ、別の種類の言語を内に抱いている。余白のような、線のような、濃淡や歌に似た言葉。星と語るための言葉だ。そして星と繋がる者達との言葉。星に連なるものとしての自分自身と語ることが出来る。波紋を広げ、遠く光年の先に輝く別の星は、隣を歩くひとの光である。闇空の揺らぎに身をまかせる。空白に身を任せる。手帳の詩はシェミネそのものなのだろう。だからいつか読みたいとリピアが言う。
「忘れていく事柄の中にもきみは居る。記憶に出来た余白は語らないだけかもしれない。きみにはまだ読めない文字で綴られているだけかもしれない」
 先頭まで戻ると、書きかけのページを開いて返した。線が数本走っている。シェミネは再び情報を足していく。線が交差し、ある部分は塗り潰される。白が残ったままの部分は何になるのかと想像しながらペン先を見つめる。図が出来上がりつつある。
「出会ったときのスイとシェミネは、きっかけを掴めないようで見ていてもどかしかった。今はどうかな。余白の文字が浮かんできたのかな」
「その一息を、言葉にしてみたくなったの」
「山に登って、やっほーと言うようなものだね」
 話す間に樹上からの風景が紙の上に切り取られた。そう、声を上げてみたくなるようなものね。シェミネが答える。
「やっほー」
 寝ている者を起こしてはいけないので、リピアは小声で山彦を呼んだ。返事は受けられないが、シェミネが横でやっほーと返した。
「いつだって真っさらな場所にいるきみが望んでページを埋めるのだから、小さな声でもよく響くことだろう」
「探しものの声に耳を澄ませてみるわ。リピア、ありがとう」
 ページを変え、昼間見た植物の絵を描き込んでいく。その一つにリピアが反応する。
「この植物があれば良い薬を作れるね。気難しい植物だからなかなか探し当てられないんだよね。幸運だ!」
「採ってきたけれど、他の材料が足りなくて。こちらももう一息というところね」
 リピアが手を打ち鳴らし、ポシェットから瓶を取り出した。
「お嬢さん、不足はこいつではございません?」
「まさしく!」
 幸運だ! 少女二人はハイタッチし、しばらく手遊びをしながらそれぞれの観察力を讃えていた。

 夜が明けてから、リピアは熱心に書きものをしている。文字や絵を残す習慣に興味を持ったらしい。昨夜ノートとペンを贈られたので、手付きはぎこちないが愉快そうに線を引いていく。雑草を写してはウムウムと眺めている。その横にお茶が置かれたので一服して、続きに取り掛かる。昨晩遅くまで植物と薬の話をしていたが、朝も早くに起き出したシェミネが火を見ていた。日が昇りきる頃、淹れたお茶が適温になった。
「スイ、起きてちょうだい」
「しまった、寝過ごした」
「違うの、ごめんなさい、起こしたいから起こしたの」
「これは驚いたな。いいよ。おはよう、シェミネ。お茶が入っているみたいだから一口頂いてから用事を聞こう」
 彼女が手を引いて歩く。
 行こう、と誘われるまま森の中を歩く。思えば手を引かれて歩くことなどなかった。スイは青い外套を半肩に引っ掛けて、軽装で散策を楽しんでいる。肌寒さが心地いい。草を採取するために立ち止まっては歩き、何に効く薬草だとか、ぽつりぽつりと話してくれている。
 これは、何か探しているようだね。スイが聞く。手を引かれたまま微笑まれる。そしてまた草を分けながら歩く。木立の合間を上手く縫って、残る朝露も落とさない。こうして横顔を見ていると、森のひとを追っているように思えてくる。緑の回廊はスイが知る道に繋がったが、まだ街の領域には遠い。日差しは燦々と降り注ぐが、迷いやすい森なのだ。
 彼女がついに立ち止まる。予め決めていたようにぴったりと。暫く黙っていたが、これ、と一種類の草を指した。指先を伝い示された植物を探す。見慣れぬ植物も多く、どれを指しているのか検討がつかない。
「足元にも未知の世界は広がっているものだ。注意深く見れば見るほど分からなくなる」
 足元に気をつけながら二人はしゃがむ。シェミネが手袋をはめた手を伸ばし、ナイフで切った。
「これは薬。目立たないけれど、大切な材料なの」
 手元で葉に埋もれそうな小さな花が揺れ、スイの目を引いた。その薬草で、シェミネは自分の肩から胸までをなぞり「痛まない?」と短く聞いた。間が空くがシェミネは気にしない。揺れる不思議な花弁を観察していたスイは、はっとして自分の肩口を掴んだ。
「これか」
 外套を羽織り直そうとしたが、距離が近いとはいえ上衣を着ていれば見えはしない。傷を視認して口にしたわけではないようだった。傷痕があると知っている。覚えていたのか。あるいは思い出したということ。スイの思考が落ち着くと、シェミネは小さく頷いた。彼女がなぞってみせた線は、スイの傷痕と確かに重なる。驚いたとスイは笑い、首元を広げて僅かに傷を見せた。大丈夫。たまにしくしく痛むんだけれど、それくらい。古い傷だから。上衣を整えながら視線を外す。もしも少女が痛ましいような表情を浮かべていたらと思うと顔を上げられない。きみの前で負った傷ではあるけれど、きみのせいじゃない。言葉を付け足そうか迷って顔を上げるが、
「三分間調剤薬局。今日は既に調合したものを用意しております。あなたにあげます」
薬師は変わらぬ表情で効能と煎じ方を説明してくれた。先ほどまでの沈黙を押し出すように言葉を重ねる。ここまで聞いておいて受け取らない理由は無いでしょうとでも言うように、最後にもう一言。
「薬なのですごーく苦いわ」
「分かった。頂戴するよ。楽しみだ」
 渡された瓶の中で、何かの生物の目玉が瞬いた気がしてぎょっとする。これ、植物の他に何か入っているのかな。瓶を凝視したスイに、苦いのよ、と魔法の言葉が降りかかった。

「この傷は、治らないんだ。その、生えてくるんじゃないかと思っている」
 生えてくるとの奇妙な言葉にシェミネが振り返った。
「南瓜とか、西瓜とか、鳥とか。だから、治らないのさ」
 帰り道。おどけてみせてから、スイは傷を負った後の話を少しだけ教えてくれた。
「あの日、猛る炎の中で、広がる血を床の木が吸っていき、還っていくのだろうと思った。家の中に」
 二人それぞれの落とし物を抱えて、小屋は燃え続けた。灰に還ることもなく、雨は火を消し止めようともせず。拾うことは叶わないと諦めていた。忘れようとしていた。燃える小屋に小さな自分を落っことして、さぞ助けに行きたかっただろう。忘れもせず、捨てもせず、そして今、あなたが来てくれたから。きみが生きていてくれたから。観測は再開された。閉じられた箱の時間が動いた。この目で確かめなければならない。恐ろしくても。
 子等は血の池の中にいる。炎に焼かれる。剣の山を登る。果てない地獄の風景を、蓋を開けて覗き見る。血の川の中にいる。みな赤い川の中におり、流れの果てへ還っていくのだと知る。針の山を一歩踏み出せばまた忘れてしまうのだけれども。箱の蓋を閉じてしまえば棚に戻すことも出来るのだけれども。お伽話だと遠ざけるだろうか。虚空を天使が行くのだと言う。川は果てへと繋がる。暗い海では全てが混ざり合う。還っていくのだと、誰もが一度淵に立ち身に刻む。柱に付けた傷をすっかり忘れようとも、煤で隠れようとも、燃え落ちようとも。還っていくのだと、みなが知る。その傷を、もう忘れちゃいられない。ただ進め。還る場所へと。
「終わっていく。だからもう少しだけ続けと願うの」

 地の釜の淵から子等を掬って庭に放す頃合いだ。その手を離せるか。
「過去のあなたと手を繋ぎ歩いていたのね。今日までずっと一緒に。ありがとう。守ってくれて」
 子供は大きくなるものだ。小さな騎士を庭に送ると、たった一人になる。隣で同じように手を振って一人になった青年が微笑む。大きくなったものね。私もあなたも。シェミネはもう一度だけ振り返る。過去と今が繋がる。小さな自分がいつの間にか大きくなっていた。どうやら一人で歩けるみたい。一人だから身軽。見通しは良好。
「森でもなく街でもない場所で育ったわ。森と暮らしていた私たちは、それでもまだ街の括りの中に有るのかしら。既に異種なのかしら」
 そんなとき、分からなくなる度に、小箱の中で小さな騎士が教えてくれたのだ。
「あなたが救ってくれたのは、同じ人としての私だったのでしょうね」
 人であることを煙の中で見失おうとも、何度だって問う。人か森か。人である自分を保つために封をした小箱。何度だって立ち上がる。人であり森である。肩を並べて歩くスイが、来た道を振り返りながら語る。
「火床を見つめていると時々悪魔が笑うよ。悪魔と呼ばれるようになった種は環の外に降り立ち、滅びの選択を星の軌道に置いていくという。鋼とは星から生まれ悪魔が鍛えた贈り物ではないか。火を囲う我々の街とは星の病巣なのか。環から外れた街の人とは悪魔に成り得る存在だと言われたら、その気になるだろう」
 街を築く者の出自は全て環より弾かれた先にある。住処を作る力を持ちながら、生まれながらに彷徨う種である。街に住むから街の人。内に悪魔を飼うから悪魔と囁かれたならば、刷り込まれてしまうだろう。自分とは何かを定めるために、子供は耳を澄まし辺りを見回している。
「決断に際してあなたが絶ったのは森や街。守ったのは人。炎に溶けるのでもなく、鬼や悪魔でもなく、人の中に身を置くと定めたのでしょう。その上で問うのね。森か人かと。人とはなにかと」
「そして星とはなにかと」
「人としてのあなたの前で、私も一人の人として認められている。あなたを探していたの。返さなくては、繋げなくてはと」
「幼さはあの日に殺したつもりだった。きみの中に生きていたとは。自分自身というものは常に我が身の内に抱えているものだと思っていた。過去の自分は損ねて戻らないはずだった。悪魔だとしても構わなかった。この意識が払拭されることはないだろう。ただし街での営みを受け入れはしても、歓ぶわけではないことも確かだ。生まれる感情を生かし、殺し、選択した上に成る。失ったとしても、悪魔であろうとも、後悔など無いけれど、灰を被ったまま息をしていた子供が今、蠢いてくすぐったい。生きていたとは。ならば捨てた可能性を連れて行こう。問い続けよう。何者になるでもなく繰り返そう」
 一つの根っこから色んな枝葉が生えるようなものと、シェミネがいつかの言葉を拾い上げた。
「きみの手を取りたかった。けれど出来なかった。俺は確かに選んだのだろう。両の手に鋼を抱え、自らが放った炎の中で生きることを。きみも、おそらく選んだのだろう。その上で問い続けるのだろう。森か人かと。きみが炎の中に身を投じる必要はないというのに。次からは声をかけて。きみの庭で落ち合おう」
 過去の自分を、故郷の庭で遊ばせておこう。現在に戻って、子等の声を背中で聞く。
 空にぽっかりと穴が空いていた。月は刳り抜かれており、長いこと新月の夜を歩いていたようだった。並べた星は月の抜けた穴から渦を巻いて消えていく。行く道は照らされない。来た道は闇に沈む。炎が落とした残照がいつまでも居座って、目は闇に慣れもしない。
「赤い夕暮れが終わっていく。夜の帳は月光の道を写し取る。夜が来れば月も見えるようになることでしょう。居場所が示されたならば、行きましょう、月の方角へ」
 
「それにしてもよく眠ったわ。長くて幸せな夢だった」
 本棚にしまわれた絵本の続き。余白に短く名前をつける。こんなに幸せな旅路だったから、名前をつける。本を綴じる。
「この手をすり抜けていくから。人とは風。告げなくては。せめて別れを」

3.厳かな食事
 するすると肉を削ぎ、細かな骨を断ち切った。少女二人は膝を揃えて刃の行方を見守る。
 熱が積まれていく。太く白い骨が露わになっていく。空の朱はさきほど落ちた。しんしんと冷えていく。集めた枝に火がついた。
「きみたちは何故食す」
 火で炙る頃には日が暮れていた。動物の解体には時間がかかった。体が冷える前に炎の前へ。 
「死と生を分かつため」
 目に残っていた動物の血の色もやがて闇に溶けていく。
「明日の生死を決めるため」
 その闇をがさりと掻き分けて、スイが顔を出した。川に浸かって身を整えてから戻って来たので濡れている。今日は少し寒いと言って焚き火の前に座った。シェミネが毛布を渡す。葉を磨り潰していた手を一度止めて、沸いた湯を火から下ろす。
「お茶も一杯どうぞ」
 三人が揃い火を囲んだ。始まりの問いの主はリピア。歌の一節のように流れ出た。死と生は自他の境目。争いの小さな終着点。闇の中で混ざり合え。己の腹が裂かれるときにはまた会おう。
「我々は夜毎選択する。食べることとは、明日生きる意志」
「選ぶのだね」
 ここで振り返るわけにはいかない。
「頂こうか」
「頂きます」
「いただきます」
 お待ちかね。厳かな食事風景。白骨が背中の方で笑っているから一心不乱、目の前だけ見て肉を食む。何度目の晩餐か。茶に花が浮いている。数多の骨たちが花の香りにうっとりと目を細めたら、夜の寒気も和らいだ。腹に肉が落ちていく。立ち上る煙を追って見上げる。雲の切れ目で星が瞬いた。星は天の闇から落ちてくる血の雫だろうか。森の隙間は大きな動物の胃袋。子供たちはすっぽりと収まって談笑している。
「あなたの死と生に触れるため」
 なんと暗くて居心地の良い胃袋だ。シェミネは夜の胃壁を探すように体を引いた。肉はすっかり平らげられた。一つの命を分け合った、隣のひとの熱を感じる。
「きみたちの死と生に触れたい」
 それは胃袋の中に。生と死がそれぞれの住処を分ける。道が分かれる前に、胃袋の中でお喋りしよう。声を上げると腹の持ち主が驚くから、小さな声で。腹の中には生ぬるい風が吹くものだ。呼吸のリズムで揺らいでいる。湿った波に身を任せていると、こつんと頭に衝撃があった。何事か。そろそろと見上げると赤みが差していた。暮れて落ち着いた時間帯。太陽が忘れ物を取りにやって来たのか。ノイズが走り、辺りを見回す。天からの飛来物、次は焚き火に飛び込んで粉を散らす。三人はどじょうを掬う動作で散った火を消す。胃袋に雨が降る。
「亡霊からの花束かい」
「噛み砕かれた骨かな。ああ、星が降ってくる」
「大粒の消化液ね。積もるかしら」
「高い場所に上ろう」
「急げ、急げ」
 焚き火を消して隕石雨から逃げる。降り積もる暗黒に呑まれるとくしゃくしゃの種になって塵の海を漂うことになるらしい。手を取りながら上へ。丸い岩を積んで作られた石塔の隙間に落ち着く。星が降ってきて明るいのは幸いなこと。海面に当たった星が跳ねる。夜食を探す動物達も今日は大人しく星屑飴を舐めていることだろう。見張りもそこそこに、今日は三人で纏まって寝てしまおう。
「眠れないよ、星の夜だもの」
「言うと思った」
「こんなに明るい夜だから!」
「では少しだけね」
 星の雨に照らされる。本も読めそうな明るさ。寄り合いながら思い思いの方向を見ている。窮屈な岩の隙間でも息苦しくはない。いつまでも降る星を見ているリピアの横。スイは小刀を取り出して工作を始めた。骨を削っている。器用な手元に関心したシェミネが話しかけた。
「こうして夜を過ごしていたの」
「明日や、そのまた明日の準備だよ」
「骨は何になるの」
「釣り針になるよ。きみたちにもあげよう。これから使うかも、しれないからね」
「そうね」
 シェミネは頷く。星屑の海は足元の宇宙。魚影は無い。星座の魚も眠る夜。天も地も無い。出来上がった針を借りて糸を結んだ。暗い海面すれすれに針を下ろして賢人を真似る。姿を写すだけ。血肉の海で針に引っ掛けたいのだ。その日のご飯を。
「殺さずにはいられない」
 魚も泳がぬ果ての暗黒。森の胃袋。石塔の胎内。食らったつもりが、食らわれてしまった。終焉の空に星は止め処なく降り続ける。溶けていくのだろう。様々な生物と混ざり合う。継ぎ接ぎの動物が星の合間を縫っていく。星座になる前の未完成の動物。白骨が笑う。お前も亡霊のようなものさ。継ぎ接ぎの動物は食事する。新たな肉を取り込んでは古い部位を切り捨てる。先日会ったあなたと今日のあなたは別な生物。分裂し統合され練りこまれ、団子になってふっくら蒸されてまた腹の中。一つの腹に収まって、スイが尋ねる。
「木に喰われるとはどんな感じ?」
「そう、こんなかんじさ」
 森のひとの死に触れる。
「森に還るとき、私は消えるけれど、森の糧となる。またどこかで会えるかもね」
 環を描く命の在り方を呑みこんだ。森に隠れた動物は、彼らの意思なくして再び巡り会うことなど叶わない。リピアならば、物陰に隠れていたずらを仕掛けてくるだろうけれどもね。言われてすかさずスイを小突いたリピアは嬉しそうであり、あの手この手で振り向かせるよと受けて立った。釣り糸を巻き上げたシェミネも毛布に包まり、そろそろ本当にお休みの時間。
 過ぎ行くもの。愛しいもの。
 川が流れていく。流れが見えるかな。ただただ黒くて。追いかけていく。闇に消えゆく流れも、行く先は同じだ。また会おう。一つの腹の中へと潜り込む。流れを手で掬う。
「今だけは時間が流れない」
 指を伝ってさらさらと流れていく。
「冷たいねえ」
「寒くなってきたわね」
「時間とは流れるものだね」
「この先に何が見える?」
「黒い。ただ広がる道が」
「枝のように黒々と伸びている」
「影と光が木の葉を浮き彫りにして遊んでいる」
「光明、夜明けと黄昏の無音。世界が衣を切り替えるので、押し黙って見守る」
「魔法の言葉を囁く子供の声に自然さえ踊る」
「水の流れを信じる。いつか……」
「いつか海へ」
「知っている。世界の視点、鳥の視点、どこに向かっているのか」
「黒い道、一本の道を知っている。我々は辿っているだけ」
「どこに?」
「……何に?」
 わからないけれど。いつまでたっても。きっと辿り着いても。きみに会っても。なにかが始まり、終わっても。
「探していたの、あなたを」
「ああ、そうか。でも、きみも戻って来てくれたんだな」
 巡り巡る。
「きみたちは何故食す?」
「私たちはきっとまだ環の中にあるのでしょう」
「生まれは違うがきみたちも命だ。巡り巡ってまたどこかで会おうね」
「一つの胃袋の中にあるのだから会えるだろうね」
「溶け合ってあなたが誰だか気付かないかもしれないわ」
「溶けてしまったならばそれはそれ」
「探してみるわ」
「追って来てね」
「これが食べるということ」
「これが、生きるということ」

4.涙雨、発つ孤舟
 雨の中を走る、走る。小糠雨を纏いリピアが踊る。
 進もうか、止まろうか。陽炎を追って急ぐと風邪をひくよ。親父の小言と小糠雨はあとで効く。泳げそうなほどの湿り気。突き出している岩は鯨の口先、黒々と空睨む。飛び台にしてリピアが跳ねる。伸ばした指先が軌跡を白く引いていった。

「もうすぐなのでしょう」
「行こう、行こう」
 昨日血を流した川は透明な色をして動物たちの生死など素知らぬふり。川は運ぶ。みんなの秘密を透明にしながら。川に流したものは留まらない。川の水を瓶に汲む。出立の準備も整った。
 森を抜けひたすら草原が続く。影の鳥が抜けていく。取りかこむ山々は青く寒々と聳える。この道で色彩を取り落とす来訪者は多い。
 川のように透明な雨が降る。昨日のことなんて忘れてしまうのさ。
 街道に出た三人は、王都の方角への目印となる立木を目指す。スイがよく知る道なのだが、雨のスクリーンが様々な幻想を映し出し境界越しの異界が可視のものとなっている。本当に王都に向かう道なのだろうか? 夢の続き、童話の一節なのではなかろうか。上映会場は正午前ながら幕に覆われ暗い。雨に映り込みながら飛ぶ龍。山の木々に群がる虫。風の描線に乗る猿。雨を集める河童。足元を見れば雨宿りの真似をする妖精が纏わりついている。ひととひとの間を抜けるうちに自らも変質したのではないだろうか。握る手の平や踏み出す足は自分自身のもので、よく言うことを聞くというのに、見知らぬ生物でもあるのだ。見えるものが変わった。あるいは認識する範囲が広がった。今の自分とは何者なのだろう。スクリーンに映し出される景色はいずれ忘れる夢だろうか。隣を盗み見る。同じものが見えているかどうかも分からない。警戒も恐れも無くひょうひょうと小走りを続けている。
「――?」
 怪奇を眺めていたら誰かの声を聞き逃した。いいんだ。雨の日とはこんなもの。
 幻想は雨が止めば消えてしまうだろうか。触れようとすれば逃げて行くだろうか。なかなかいい景色だ。夢でもいいか。スクリーンのお伽話を楽しもう。水溜りの魚と目が合った。笑いかけそうになったがやめた。雨に体を重くしながらやけに温かな心地だ。
「失われた時代の走馬灯のようだよ」
「戻りたい場所はあった?」
 首を降ったら隣の少女は笑ってくれた。魚があぶくを吐く。泥の泡が弾ける音だけが上映会場に響く。幻想の前に立ち止まりはしない。前から後ろへと流れる事象を目の端に留めるだけ。絵巻物が繰られる。場面を区切る雲を掻き分け次へ。平面な幻想たちの井戸端会議を邪魔しないようにさらに次へ。リピアが羽ばたき風に乗る真似をした。
「夢幻はひとがたなびかせる尾。ひとの後に優美に広がっていくもの。今日は背中から風が吹いているから、後方の出来事も見える。去った過去に包まれることもある」
 涙の銀幕に描くのは誰か。過ぎたものが涙したなら、腐らぬように花を乗せた風を送ろう。天が泣こうと旅路を信じる。
「この手で拭ってあげられなくてごめんね」
 天の涙は地の掌からも溢れる。忘れられた動物たちの涙に尊き人でも言葉を失う。銀幕の向こうの影は現実に落ちているのにどうしてこうも遠いのか。両の手から溢れていく。海が誰かの掌ならば、みな受け止めて貰えるだろう。ひとの掌が海となるなら、天や過去やきみの涙は確かに受け止めた。安心して泣いておくれ。涙を捕まえた小さな手を握り締め走る。
「雨で濡れた体は重いかい」
「海を行くよう」
「涙の海はなんて静かなんだ」
「悲しいほどに」
「道標が見えた。もう一走りだよ」
「おや、風向きが」
 変わったと、リピアが言い切る前に煙る雨が途切れていく。たなびく尾は風に従う。導の木が雲間に浮かんでいる。近付くほどに雨は薄れ、駆け足から並み足に。海から上がると大気は温い。雨で落とされた色彩が虹となり消えた。呼吸を整える。一本の木の下に辿り着く。

5.岩礁の銀花
 雨宿りだと腰を降ろすと雲が切れた。僅かに晴れた午後だった。
「おい、こら、きみたち」
 頭上から声が降ってきた。木の上から。スイは飛び上がり少女二人を背に庇いながら距離を取る。ぎろりと木を睨み、かさかさと鳴る葉の間から覗く顔に気付く。樹上の生物がにかりと笑った。ほんの一瞬。「なんと」とスイが低く声を漏らして、背後に隠した少女の肩をむんずと掴んで前に押し出す。立ち位置が入れ替わった。矢面に立たされてシェミネがスイを振り返る。肩に置かれたままの手が、樹上を指差す。目を白黒させるシェミネが、乱れる木の葉の間にようやくその人を認めて、探してここまで来た道のりが彼に結びついて、
「ああ、きれいね。兄さん」
やっと声をかけた。

 背中の糸を切りましょうか。シェミネが言うと、それまで木の上でそわそわと落ち着かなかったフクロウは、素直にバタリと地面に降りてきた。木漏れ日が木から落っこちてきた。きれいねとシェミネが言ったその人の姿、銀色の花。陽光に焦がされてしまわないように、木の陰の中で掴まえる。道の導の小さな木の下で、儚い木漏れ日を掬う。幻だろうか。霧が出てきた。手を取ると、帰ってきたよと、家で交わしたような挨拶がこだまする。幻だろうか。指の先が温かい。森に住んでいた頃、海のような木漏れ日を泳いだ子供の日は、やはりこの手を取って森を泳いでいた。あれは薬、あれは毒、少しだけ混ぜると薬、長い指がゆっくりと草を分けていく。森の木々が身を反らし、退いていく。指先が最後に示した分かれ道の小さな木、ここは取り残された海。引く波と一緒に帰れずに、陸に残った潮の溜まり。日に照らされては気化してしまう。一つの風も立ててはならぬ。白波から零れる一滴も逃したくない。忘れられた海の切れ端で、過去と今を繋いで、溺れるように彼は言う。
「すまないね。頼む、よ」
 いつもの距離で、声を聞いては、陰の中で、一筋涙も溢そうか。海の足しになればと。
 木漏れ日を掬い上げて、海に返そう。シェミネは片手を解き、まだるげに腰のポーチをかき混ぜて、小さなナイフを取り出した。
 妹が顔を下げたとき、後方で身構えるスイとフクロウの目が合った。それからスイの後ろから丸い目を向けてくる小さな太陽の様子も伺う。昼間に降り立った夜の鳥が、眩しそうに、眠そうに、一度瞬きしてから、妹と繋がれた片手を解き、背を向けた。背中の糸を切りましょうか、と。反芻する前にぱちり。記憶の絡んだ糸を切る。あの日の糸を紡ぎ直す。大丈夫よ、とシェミネ。
「辿り着く先は同じなのでしょう」
 糸を切られ、軽くなる。足がふわふわするだろう。ひとは時々鳥になるんだ。
 しっかりと羽ばたかねばならないね。

 夢を見ているようなのだ。黒い衣の背中に木が見える。鳥が去った骨張った枝が。青く霞む森をこの背中が背負っていた。記憶の絡んだ糸を切る。あの日の糸を紡ぎ直す。
「兄さん、大丈夫よ」
 鳥になって、飛べるのだろう。風に散った木の葉は戻らない。朝に出掛けた鳥は夕に帰る。鳥が集えば、幻のように枯れ木に花が咲く。
「今、誰にも見えない空を見ていたわ」
「もう少し眠っておいで、幸せな夢だったんだろう」
「兄さん」
「もうじき夜が明けるよ」
 森か、ひとか。選んだのだろうか。選んだのだろう。そして、夢のままでいい。我々とは夢のようなものなのだから。
「この先は王都。きみたちはお帰り」
 手繰る糸が切れたならば。微かな声で子等を制す。
「日向の二人。今、俺はきみたちそれぞれに名乗れない。許しておくれ。頼めた義理ではないが、妹を宜しく頼む」
 青年と子供がそれぞれに頷く。シェミネ、彼らに俺を紹介しておいてくれ。フクロウが目を細める。日差しが暖かいな。一歩踏み出せば忘れてしまうけれど。幸福とは、昼間に見る夢なのか。
「雨の後に霧が出るんだ。霧狼に気をつけな。膝まで伸びた草の中で待ち構えているぜ。がぶりと食いつかれると、色んなことを忘れちまうんだ」

 惜しみもう一度両の腕に収めて問う。
「俺とは夢だろうか」
「鳥は空に隠れ、動物は木と同化する。それは夢。そして私とは夢。夢に溶けようとも、繋がっていると思うの。全ては夢。探します、あなたのこと」
「どうもありがとう、探してくれて。糸が切れたから、一歩先でいつもきみを待つよ」
 何度か妹の名前を呼んで、ホウホウと森にこだまするフクロウの声が、波に一粒ずつ散り、残された海は霧となり消える。
 三人はいまいちど木陰に身を寄せ、言葉少なに行き先を確認し合う。

6.忘却の草原
「きみはどこへ」
 話さなくては。きみがどこにいるのか忘れてしまいそうだから。
「あなたは、どこへ」
「忘れてしまうかな?」
「いつかは」
「風に聞かせましょう」
 居場所はいつも変わるから、問いかけて、声を上げて、答えに耳を澄ませて。風に話しかける。忘れてしまうけれど、声にしてみる。ひと吹きの風になる。

「忘れてしまうことは怖いけれど、そっくり置いて行くのも良いのでしょうね」
 シェミネの言葉に周波数を合わせて、荷物を確かめたら立ち上がる。体の泥を払い合う。一歩先は忘却の草原。霧の草原を下りきると王都が見える。がらんと空いた草原に立つ。景色がうら淋しい。白化した草で肌を擦る。草で覆われた足元に重なるのは忘失の品。色は褪せ意味を失い、脆い体で転がりがらんどうな腹を晒している。踏み抜いて微かな身震いが伝わる。白浜に落ちる涙は誰にも悟られない。振り返っても落し物が誰の所有物だったか知る術は無い。自分が落とした物さえも、音もなく残骸の浜に沈むのだろう。遺し進む。繋がりも足跡も草原が攫っていき、自分に残るものは何一つ無い。怖くもない。
「この先に、海はきっとあって、みなそこを目指すのでしょう」
 遠吠えが湧いて風が散った。草葉のコンパスは狂乱する。気流に揉まれて声が飛ばされていく。無線は平坦なノイズを垂れ流す。狩猟場に捕らわれた。霧狼がやって来る。狼の笑い声が接近する。
「私とは鳥。私とは風」
 狼に答えるようにリピアが言葉を放った。群れを作り渡る鳥が、風に溶けてなお飛び続ける。呼び合う相手がいながら一人きり。一人きりだから鳴いて確かめる。反響を頼りに渡る。霧の中は狼の縄張り。住処を横切るのだから目が合ってしまったらひとまず挨拶を。ここを通らせて下さい。大事なことも、そうでもないことも皿に盛って献上する。眠る草原に足音を響かせる代償を恭しく納める。
「そこにいるの」
「いるとも」
 残骸を含み撒き上がる咆哮が耳元に迫る。彼らも彼らの言葉で何事か交わしているのだろう。三人も頷き短く交わす。進路は定まっている。霧を渡る。
「手を繋ごうか」
 忘却の草原を三人は手を繋ぎ渡る。道連れの記憶が最後まで残るように。もしも忘れてしまっても、手を繋いでいるのだから体温で挨拶しよう。忘れる度に初めましてと。何度でも出会うだろう。この旅路を忘れたくない。いつかは忘れてしまうけれど。

 幸福は一歩歩けば忘れる。川に落っことして、流れが運んだものをまた拾うのだろう。幸福とはここにある。透明な流れが含み抱え磨いてくれているのなら、わざわざ拾い上げることもないのかもしれない。流れに預ける。失ったものは戻らない。草原の骸は淋しげ。幸福であっても良いのかしら。狼に巻かれて呟いた。シェミネは一頭ずつ撫でてやっては切り離す。たまに振り返る。霧に呑まれたものを探す余裕がある。リピアが狼と挨拶を交わしている。数は少ないが、彼らには共通の言葉が残されている。
「大丈夫だよ。幸福とは誰かから奪うことも出来ず、奪われることもない。幸福は流体だ。止まることはない。水とともにこの手からすり抜けていくんだね。川底で小石がきらりと光るだろ。何かなって思って拾うだろ。光に当てるともっと綺麗だったり、水の中で見た色と違ったりもする。楽しくなったり驚かされたりする。そんなもんでいい」
 川で魚の影を見る。森で獣と目が合う。季節の花に会いに行く。幸福の尻尾を見る。道の途中で立ち止まって石を拾ったり、振り返って木を見上げたりする。幸福ってそんなもの。幸福の尾を掴んだ。今ここに留まればずっと幸せだ。しかしこの場の幸福には別れを告げて進もう。染まると本当に風になって消えてしまう。見届けなくてはならないことがあるから、もう少し羽ばたきたい。だから翼は奪わないでおくれ。狼が笑う。霧の住人にも幸福は奪えない。そんなことは知っているだろと、幻界の狼と森のひとは、異種間の約束事を確かめ合う。
 空になる。皿の中身は平らげられ、霧狼は満足げに喉を鳴らす。器を霧で洗う。器ごと散っていく。空っぽになったなら、これからの出来事全てをまっさらな部屋に連れて行ける。
「王都に行くんだね」
 スイが最後と言うように確認をした。たまに膝にごつんと当たる狼に声を上げながらシェミネは答える。
「行くわ」
 忘却の歯型が残りはしなかった。噛みちぎり食い散らかされ野に干からびるのかと恐れていたから、ナイフとフォークを持つような狼たちの食事風景は静かなもので、霧の景色に相応しい。霧が景色を呑むように分け隔てなく舐め取られる。綺麗に平らげられた皿を下げると気付くだろう。我々が初めに持っていた皿は、形の無い虚なのだと。
「これが幸福というやつなんだなあ」
 守られた約束について、リピアが緊張とともに吐き出した。確かに幸福とは定められた死の先にあった。けれど他の場所にもあったみたいだね。元の形には戻らないけれどもさ。落っことしたドングリが芽吹いてさわさわと葉っぱを揺らしていてやっと気付くようなもの。

 霧狼の野を抜けて王都に向かうルートを選ぶ者は、フクロウが止まっていた平野の一本木を目指す。目印とは言え主街道から離れていて探し当てるには難しく、ひとびとは霧狼を恐れるためよほどの理由がある者でなければ近付かない。異種の縄張りを横切る以外は、危険な地形も無く、王都の兵や行き交う者との遭遇を避けられる比較的無難な道だ。狼の機嫌が良かったのだろうか。運のいい旅人は難題への不安も一つ片付き、次の道を確認し合う。王都の兵に追い回されたくないリピアも、いつになく慎重に状況の整理をしている。城下の警戒は厳重ではないし、余程暴れなければ入る分には問題無い。城に近付かなければ街で兵に会うこともほとんど無い。
「ああ心配だ」
 問題なのは、街から出られなくなることなのだ。あの街は生き物だから。スイが念押しする。腹に入ると口をこじ開けなくては出られない。城下に眠る怪物は、街の人が生み出した魔術や混沌そのものだと言われる。物の怪や妖精が路地の向こうに通路を作り行き来しているだとか、部屋の隣に住み着いているだとか、真面目な顔で話しても冗談だと笑う者はいない。
「街の魔法を見てみれば、きみたちがどこから来てどこに行くのか、未来を覗けそうな気がしないかい」
 同胞の墓参りではないよ。眉間に皺を寄せるスイをリピアがよしよしと言って撫でる。
「スイは魔法を恐れる?」
「その絶対的な力の前に竦まない戦士は勇敢だ。でも、リピアの呪文は隣人の歌声だ。きみの歌声を戦場でも探そう」
「荒ぶる神でもなく森のひとでもなく、ただ一人のひととして、隣人として旅路を共にしてくれてありがとう」
「きみには助けられた。ありがとう」
「リピア様って呼んでもいいよ」
 えへんと精一杯大きくなってみせると、スイの心配も引っ込んだ。
「いいよ。リピア様。スイ様って呼ぶ?」
「我らがおとうさま」
「まいったねえ」
「まいったねえ」
 冗談に笑っていると、不意にリピアが飛びかかってくる。捕まえようと腕を伸ばすが、するりと抜けられ、肩の位置に落ち着いた。
「空が近いねえ。とても静かだよ。スイの見ている世界は眩しいくらいに静かだ」
「きみたちの声が聞こえているよ。せめて高く飛ぶ鳥をいつまでも見送ろう。日陰を作ってあげるから、降りておいで」
「街はざわめきに満ちている。けれどみんなこんなにも静かな世界にいるのだろうか」
「あるいはそうかもしれない」
「ここは道の途中なんだ」
 スイの肩にぶら下がり揺られる。静かな空に言葉を失ったリピアが、低い位置に降りて落ち着いた。息を吐く。
「色々な道を踏み外した先が極楽浄土だなんて、思ったかい」
 霧に呑まれ、眩しい光が寄せ、静かで真っ白い未来が胸の中に生まれた。一歩進むごとに霧を散らす。忘れていく。思い出していく。それでいい。縁取られた陽だまりの中に隣人の世界がある。縁を一歩越えると空気も変わる。虚空を魚が泳ぐ。境界を縫う旅路。あちら側から見た自分たちの住処にはひとの気配がまるで無い。遠い空から見下ろす寂しさ。名前を付けて慈しんだものたちを、名前の無い場所に帰してやる必要がある。一人きりだから、魚となり鳥となり木々になる。進んでいけ。それが道。幸福とは身の内に抱えずとも歩く先々で見付かるから、旅路は身軽なままでいい。踏み出そう。月が落とした陰の中に。これは夢だろうか。過ぎた魚の陰を追いかける必要はない。空が広がっている。夢であり現実。隣人の世界を渡り歩く。
「この旅路は二度と辿ることは出来ない。日向はいつも移ろうから。季節と旅をしよう。影を踏んで遊ぶ。木漏れ日を追いかける。虚空を進め」
 忘却の草原を行く。一歩ごとに手放していく。ポケットの穴からドングリが落ちる。振り返りはしない。忘れていくのだから。いつか森になったとき、ふと見上げることもあるだろう。子供たちのポケットから零れた拾い物で出来た小さな森。動物が住み着くといい。
「ひとは時々鳥になり、風になり、また木にもなる」
 感覚を木の枝のように広げて、リピアは詠い紡いでいく。街の魔法の腹の中、終わらぬ夜の月である白銀のフクロウの影を指して言う。
「シェミネ、きみにしか彼は追えないのだろう。森と街と魔女の旅路。きみは運命に従う者のあるがままを受け入れる。きみは彼の止まり木。彼はそのことに気付いていないのだろうけれど。いつ気付くのかな。きみは追わなくては」
 夜を追い、眠らぬ月が輝く白黒の景色に踏み込んでいく。ずぶずぶと濡れて沈んでいく。身の重さを感じる。地に足が着く。現実とは重さのこと。手中の空白の重さにリピアが気付く。
「ああ、そうか。きみは誰にも見えない空を見ている。鳥が飛び立ち、木はすっかり葉を落とし……それは虚空の三角州。無為の地で待つ小鳥。空白の小鳥の名前を知っていた気がする。我々は虚ろな皿を持ち、空白をあらかじめ持っている。空白が波打っている」
「世界の始まりは海なのだというわ。深くゆらぐ粒子の苗床」
「そこから来たのか」
「どこに行くんだろう」
 明日の真っ白いこと。昨日は泡のように水面を目指す。浄土はどちらか。現実とは重さ。沈まぬ月が水面に辿り着くまでは、お祭りが続く。子供たちも眠らない。月の糸を切ったから、天へ地へ、白いフクロウは染まっていける。兄について少女が語る。彼は幼い頃より手を引いてくれていた。不器用ながら手を繋ぎ歩くことを望む人だったと。
「真夜中に飛び立った彼を見送ります」
 子供の時間に別れを告げる。遊び笑う姿を見届けたら箱に閉じ込めて封をする。子供を幸せな庭に置いて、外界への門を抜けよう。幸せってなんだったかな。
「今こうしていられること。これまでの選択全てを抱えた上でまだ続く道が見える」
「触れられないとしても、今なら躊躇わず手を伸ばせる」
「星とともにあること。たとえ飛ぶ鳥でも、地面との繋がりは途切れない」
 草を踏み分けて蛇行した線を描く。霧に午後の光は遮られ、水中を行く心地。川が窪みをなぞるように、低い場所を選びながら慎重に道をつける。行き先は決まっている。
「行っても良いだろうか」
「歩き続ける生に祝福を」
 狼の鼻先を撫でながら彼らの住処を横切る。狼の腹に入った思い出は螺旋の階段を抜けて黒い箱の丘に流れ込むのだろう。腹を覗けば深淵が広がるが、失うことはそれほど怖くはない。裂けた狼の口が語る。
「過去に決別を。過去に溶けたり、切り離し身から削ぐことなく抱えていくために。すると、断片化したように感じる日々に芯が通る」
 手に触れる草を引き抜いて葉を数える。青い香りが手に残る。
「彼はきみの兄として我々に言葉を向けた。俺はきみの旅路を守るよ」
 きみがいるから幸せなのではない。自ら立ち上がって広がった景色に、同じくらいの背丈になったきみの頭があるから、ああきちんと立ち上がれたのだなと分かって、それがまた力になるものなのだ。
 幸せとは動物のようなものだ。手からすり抜ける。捕まえることは出来ない。幸せの頭も立ち上がった景色の中にあると気付いて、この場所に揃った様々なものの顔ぶれに満足する。
「幸福だけが風に乗り残ればいい。理想や夢も、霧の侵食に任せて」
「いつか海へ。あなたにはあなたの道があるのでしょう」
「道が見えるよ。ひととひと、異種と幻想の間に延びた旅路がまだ続いているように見えるんだ。預けるから。俺は行ってもいいだろうか」
「恐れないでね、スイ。私はあなたとその剣を信じます」
 この旅路は故郷を失った日の続き。今の上にあるようでいて、随分遠くまで来たようでいて、伸びた影を踏んでいただけだった。私もまた帰る場所を失った鳥だった。喪失と言葉にするのも寂しいものね。だから失ったものには鳥と名前を付けて、空に飛ばしてやる。
「シェミネ、きみの探しものは見付かった?」
 狼たちが駆け抜けて、草原は徐々に静かになり、しんがりの一匹もくるりと輪を描いて霧の中に消えた。あ、とシェミネ。幸せとは風。いま、幸せが頬を撫でて通った。
「スイ、探しもの、見つかったわ」
 言葉にしよう。風に流そう。届くように。
「幸福には形が無くて、今もつむじ風と踊っているけれど、この旅路の上に、確かに幾つもの幸せを見たわ」
「俺にも見えたよ。風の尾が。魔法の切れ端なのだろうか」
「きみたちの中に眠っていたものさ」
 リピアがそっと教えてくれたのは、煌く魔法。隣人の歌声。風が見えると、空間はステンドグラスのように裂かれていると気付く。風の通り道を隔てて隣のきみの手を握るには遠い距離がある。届けようとしても届かないのか。両の手に収めるものは、幸福や過去や隣の誰かの片手ではなく、何も無くていい。忘却のついでに空虚に挨拶する。ここは地図の継ぎ目に隠された、空白の地点。観測されない隙間に建てる秘密基地。置いて行くものは無いから、朽ちるものも無い。子供心が疼いたら、幸福の尾をさっと掴んでこの場所に来られる。思い出すことが出来たなら。背が伸びると見える景色が変わるけれど、入り口の目印まで視点を下げたなら、ドアノブはすぐに見付かる。探し続けるのだ。空の器にも黙って収まっていられない幸福の尾を。探すことすら忘れてしまったら、空白の基地は世界の果てが迫るまで眠らせておこう。空白は夢を見続けるだろうから。継ぎ接ぎの地図には夢が敷かれている。子供たちが隠した幸せな夢は、陽も当たらぬまっさらな空間で芽も出さずに眠り続ける。
「失くした昔をきみが抱え連れていてくれたように、この空白の散歩道も守っていてくれるのだろうね」
「大切に預かるわ。きっとあなたが戻って来られるように」
「夢から醒めたなら、俺はさらに多くのひとを殺すだろう」
「あなたはあなたの生まれを否定しないわ」
「探してくれるかい」
「探します。あなたが私を探していてくれたように」
 木の実の貯蔵庫を忘れた栗鼠は森の植林の貢献者だが、もしも彼が貯蔵庫を思い出せずに飢えたとしても笑い飛ばさずにいてほしい。誰もが世界に落ちたその日から、多くの忘れものをするものだ。手の届かない穴に落っこちたおにぎりに涙を流し、いつか回収するからと遠ざかった約束が霞んでは涙を流し、ふと我が身をまじまじ見つめると子供らしさが硬く縮こまり乾いていたから涙を流し。不安定に組んでしまった足場が揺れて、それでも建て続けるべきか、諦めて壊すか、飛び降りようか。選択は月が欠けた分、降り積もり重なる。止まらぬ満ち欠け。
「ひとは泣きながら生きるのだけれどもね。小舟が浮かぶ川は、どれくらいが涙で出来ているのだろう」

 もうすぐ街の灯りが見えるよ、とスイ。繋いでいた手を解き、少女たちの行き先を指差す。地平に蠢く夜はすぐそこ。あの日の夕暮れが常夜の街へと繋がる。この旅路は散歩道だという。夕暮れの散歩道。故郷はまだ暗く燃えているか。忘れてみるのも良いのかもしれない。未だ見ぬ王都が迫る。星々の軌道に乗る。夜の中に一点の星を探して、きみの中に終わりがあると思っているんだと告げる。お散歩もひとまずお終いね。星を探しながらシェミネ。
 大丈夫かなあ。
 大丈夫よ。
 そうだね。
 蟻の行列の背中に乗って、絶えない草原のざわめきに紛れて、世界に滲み透る幸福や涙の粒。季節もひとも移ろうものだけれど、この場所に戻って来られる。旅路を守ってきた青年が立ち止まる。二人に向き直った。少女らは手を繋いだまま姿勢を正す。
「……俺は、ここまでだ」
 一歩二歩、遠ざかってから思い出したように振り返る。
「海へ行きたいな」
 手を上げて、今度こそ振り返らない。もう少しだけ続けと願い、霧を纏い別れを告げた。さよなら、と。

 幸福は流れる。我々もまた流体である。迷い子よ、きみの瞳は曇ってはいない。まだ流れる生命のうちの一つなのだ。

 少女二人のただいま

1.舞台袖より
「スイは川に飛び込んで行ってしまったね」
「相変わらずね」
「うん。だから追わなくても大丈夫」
 痩せ細った月、次にお前が現れるとき、同じ月のままなのか。眠りから目覚めた自分が同じものだと言い切れない。自分自身から手を離し、夜明けと共に繋ぎ直した意識の空白をどう埋めよう。それは例えば夢などで。あるいは約束などで。離した手に再び巡り会うことが無くても落胆はしない。夜明けの残酷な光のことなど、今は忘却の遥か彼方にあるのだから平気。目の前の夜に向かって一歩また一歩。明かりが弱くなっていく。夜の先に朝が無くとも奥へ。星が非常灯のように遠慮がちに瞬く。しがらみには羽を生やして逃してやった。少女たちがこそこそと笑う。闇に包まれると高揚する、と言わんばかりに。開演前の騒めき。
「ここでいいの?」
「迷わないようにね」
「迷わないよ」
「忘れないようにね」
「手を繋いでくれる?」
 荷物を置いて、空いた手を伸ばす。これから語られる転換を見届けるためにやって来たけれど、その前にちょっとばかり街の幻想を堪能しよう。
「そうしましょう」
「では行こう」
 身軽な二人。互いが飛んで行かないようにと手を握って、まずは喫茶店でも探しましょう、などと話しながら扉の向こうへ。袖幕を揺らさぬように舞台上へと。

 大通りには宿屋が大きな看板を出していたので、滞在の拠点を探すには苦労しなかった。常夜の街は近寄りがたい闇で稀の旅人を迎えたが、入ってみれば生活が営まれる人の街であり、ひとである以上拒まれはしない。
 リピアは深めに被ったフードの中できょろきょろと街を見回した。正門を避けて入市した少女二人は、幹の通りを選んで進み、スイの事前の勧めに従い大通りへと向かった。利用者の少ない通りから街の中枢部へと向かうにつれ、すれ違う人数が増えていく。影の流れに交わる。
 常夜の街と聞いていたから、手元も見えない暗がりを歩くことになるのだろうかと心配していた。山野を抜けて来た旅人も、夜は月とカンテラが無ければ進めない。夜歩きなどする切迫した状況に陥ることも稀で、暗中の行軍には不慣れである。カンテラの燃料を確認していざと向かった王の膝元は、しかし案じた漆黒の胃ではなく、随所に仄かな光が落ちている。腹の膜をすり抜け届いた光が丸まって眠っている。暗闇をそれほど苦にしないリピアはもちろんシェミネもカンテラを引っ込めて十分に歩ける。
 目が慣れたらもう少し街を歩こうよとリピアが誘った。少女二人、楽しげに夜を遊ぶ。今は宿の次に目指した喫茶店に収まり一服している。スイが情報収集と言ってお茶を飲みに行くのに付き合ううちに、揃ってぞろぞろと店を探すようになったのだった。この旅路でついた癖のようなものだから、彼が不在となった今でも続く。スイはひとの出入りが多い店の、会話を拾いやすく、それほど目立たない席を選んで座った。これは好みというよりも便宜上のものである。彼が選ぶであろう場所に陣取り、以降この街での滞在中は同じ席を憩いの場とする。

2.夜のカフェテラスより
 蝶の翅を織って仕立てて、龍に着せる衣としたと。
 そんな昔話になぞらえた噂の一つ。曰く、一つの生物を作り上げるほどの業の深さを持つために、王は異形に見初められた。祝福として送られたのが夜の王衣だとか……。少女らそれぞれが断片的に聞き取った情報をかき集め、繋ぎ直している。街歩きには彩りが必要だ。闇の中で思うように動けないから、口伝えの物語集めにも熱が入る。

 また別の話題も聞こえてくる。少女らは料理を頬張りながら耳をそばだてる。
 足元の影が消えてしまったら、守るものも無くなった。恐れるものの無い夜の道を歩む人々について。曰く、我々は腹の中の生命だと。
 路地に迷い込んだことはあるか? 無いだろうな、お前さんがここにいるということは。路地の鼠を追いかけて、帰って来なくなった奴がいたよ。どんな顔だったかな。何人いただろう。複数の者が帰らなくなった事は確かだが、誰が誰だったか判別し難い。奴らを示す要素が、沈んだ舟の周りに浮かんでいる。断片的なカードをどのように組み合わせたら元の個に戻せるのだろう。そんなものだろうか、記憶から去った者とは。街の奥でよろしくやっているのだろうか? 帰らぬ者の噂を聞く度に、ここは既に腹の中なのだと怖れが染み入ってくる。
「冗談じゃあないぜ、酒が回ったのかい!」
「なんの、まだまだ」
 昼か夜かなど悩まない。心行くまで酒を嘗める。彼らは出来事に気付いているだけで、知っているわけではない。昨日あった道が今日は無い。街は常に胎動しており、細路地に入ろうものならあっという間に現在地を見失う。複雑な海流にさらわれると、元の場所に戻ることは難しい。なにしろ流されたことにすら気付かない。意識を街に食われてしまう。街は生物だ。しかし腹にあることを恐ろしいとは感じない。奇妙な街だと思わない。侵食されて、思考の道まで作り変わる。街の変動にも緩急があり、骨組みに近い部分は空間の歪みが少ない。幹の通りは航路のようなものだという。常にひとの往来があったり、要となる物質がある場所では、多数の目により認識や道理は比較的保たれている。
 幹の道を幾つか過ぎた先に王城が佇んでいる。兵は城の周囲に住居を構える。王城や城下と呼ばれる地域は壁に囲われていて、その中に兵舎も含む。壁の中は街の侵食が入り込まない。兵らも目的が無ければ街には出ない。
 先に建ったのは城であり、取り巻く街は後に発生したという。山を桶状にくり抜いた地形で、壁面は垂直に削ぎ落とされている。自然が作り出した難所に、粗末な拠点を設けたのが始まりだった。桶底には小さな台地がある。盛り上がりを生かして見た目よりも巨大な建造物に見える居所を、王は手早く整えた。その頃王は傭兵の一人でしかなかったが、衆人の前に立ち、理想を説き、鼓舞するうちに高い場所へと押し上げられていった。傭兵らには先導者が必要だった。地形の有利が戦いの役に立ち、王が拠点に長居するようになると、傭兵らは設備をどんどん加えて要塞として作り上げ、守りが整うと居住区も整えて城が出来上がっていった。飾り気も愛嬌も無いが頑健で、見晴らしは桶の底としては悪くない。城がぽつんとあるだけだった桶の中に、水が湧くように人が増えていった。王が青年時代から壮年を駆け抜けて息が切れて立ち止まる頃には、孤独な要塞をぐるりと取り囲んで、欲望の波が揺れていた。王と呼ばれるようになった初老の男がある日街を眺めて呟いたという。
「この街や城は生きるために纏った鎧か。あるいは追い詰められて逃げ、城の奥に押し込められただけなのか。俺には自ら築いたものだと言い切れない」
 偶像を背負った王は、自らの手の届かない街を好いていたようにも思える。だからこそ好きに膨れるままにした。街も含めて王都と一括りにされるから表向きは治めていることになっている。だから王もわざわざ公言はしないのだが、街を独立した個体として認めているのだという。
 街も元は変哲のない住居の集まりだった。人が住み着くのだから、他の生物だって住み着く。街が広がり生物も成長する。生物が大口を開けて呑むと夜が降り、腹の中に収まった。
 街が生物であっても街から見た城はそそり立ち霞む権威の象徴。王が街を認めるように、生物も王を侵さぬものと認めたらしい。とぐろを巻いて居城を取り囲み、回り続けているという。城は波間の孤島だった。兵らは奇妙な街をその危険性から嫌いはするが、堀よりも広大で人を寄せ付けない生物との共生関係に守られている。

 桶に雨水が溜まるように発生した闇の街。街の奥はどうなっているのか?
「彼らは街の奥から現れる」
 深部の住人について語る者がいる。闇を自由に渡り歩き、城の討伐隊を幾度も細路地に引き込んだ。帰って来る兵はいないという。亡霊が住んでいて生者を食い尽くすだとか、どの街の裏道にもありそうな噂だが、この街では亡霊も実体化して隣で笑っていたって不思議ではない。生者すら亡霊のようなものだ。だから街の者は亡霊をそれほど恐れない。
 夜の鳥の話は冗談混じりに伝えられる。膝元の街に鳥を撃ち落そうと躍起になる者はいない。首を取れば金を貰えるとふれが回ったが、挑んだところで返り討ちだ。入りたくないような路地をすいすい逃げ回り、ひょうひょうと笑ってあしらわれることもあるらしい。格が違うのだし、だいたい彼らは金よりも愉快な娯楽を繰り広げてくれるのだから、そうそう簡単に撃ち落とされてはならない。追いかけ回す者も今やすっかり減って、たまに街中で立ち回った日などは、芝居にお決まりの見栄と文句、大仰な殺陣を披露して通行人から拍手と投げ銭を貰っていたのだから、何をやっているやら。たまに酒を飲みにやって来ると、話しの輪に加わりに来たり、端っこで縮こまっていたりする。
「彼らを王城の兵はどうして追いかけ回すのか、因縁を知っているか? 彼らは城に付き纏う亡霊だという。復讐の姫君と、ねぼけた災厄なのだと。姫君は可憐なのかって? 期待を裏切るが、異国の旦那のことだよ。無口で真っ黒なもんだから、本人の口から何か聞いたやつなんか居ないんじゃないか。兵士のお喋りから情報を引き出せるだけだ。災厄のあんちゃんはよく顔を出すんだけれどもな。あれ、最近は見ないかな。派手な立ち回りもしなくなったものな。寂しいな。影のように動き回っているのだろうよ。街の路地をさ」
 忠誠の兵士らを除けば、王に向ける視線だなんて淡白なものだ。王の弁説を熱愛したり、金が必要な者は兵に志願する。その他の者は降って落ちた地が桶の中だったという雨粒の一雫。星に降る雨、有象無象の人々は、街の背に揺られ、眠るように桶の底に沈んでいく。知らず深淵へと、自重に任せて。これも一つの還る場所だ。街のひとが見付けた安息の形の一つ。街の深部には淀が溜まっている。生物が体を振るい、桶の栓が抜かれると、どこかへと流れゆく。
「こんなに高く深い山の腹の中から、どこへ?」
「どこへ? そう、海かしら」

3.檻の中の空
「人が暮らしているね」
 旅の中で通り抜けてきた街と変わらない。闇に吸い込まれていく人影を目で追いながら、リピアは自分と同じ銀色の髪を探してみた。闇の向こうの王城に、何人かはいるだろう。森から引き離された迷い鳥が。夜空に羽ばたく銀の鳥を見た。蠢く一体の生物と例えられたこの街にパクリと食われぬよう、もっと高く飛べ。糸の月が輝く。月なのだろうか。雲が横切り、一瞬、銀盤に青空の染みが広がった。月の形にくり抜かれた空は、鳥が飛ぶにも難儀しそうな狭さだ。
「青空が見えた」
 鳥籠に封じられた青空が。銀盤から覗く空がこの街の空なのか。あんな空で鳥は飛べない。籠の中の空だ。リピアは見たままをシェミネに伝えることにした。ここは異界だと森のひとは言った。空間が独立していて理屈が通じぬのだと。街のひとは追い出された環の外で、さらに世界から切り離された方舟を作り上げた。工作上手が新世界を作るのか。箱の中の異界。舞台の異様な閉塞感にリピアは息喘いだ。
「この街は湖の底にある」
 なんと遠い空だろう。羽ばたこうとも辿り着かない。ひとは飛べやしないのだ。空の穴から救いの糸が垂らされるだなんて、信じることにも草臥れると、ついに月の神話は燃やされる。月を失い夜と朝を失った。頭上の光源が告げる時間に目を向けず、うたた寝を繰り返すと、今がいつだったか気にする者はいなくなる。空を拒み時間の流れから方舟を切り離した。舞台装置を組み上げて非日常を積み上げる。夜はいらない、朝はいらない。芝居を続けよう。眠る月が朝日と手を繋ぐことを阻んで横たわる。どこに向かおうとしているのか、この街は。どこへ行こうというのだ。掴みきれないリピアの想像を補うように、シェミネが一言添えてみる。
「夢を叶えようとしているのでは」
 現実に限りなく夢を近付けるためには、夜をいつまでも続けるのだ。夢を見続けよう。
「夢の続きを見たいの?」
 一体誰の夢なんだ。
「王は夢を抱いた。環の中に還るのだと。街の者も還ることを望む」
 おそらく私の中にも還る場所を環の中に求める部分があるわとシェミネは補足する。強く意識せずにいただけで、本能として持つ感覚なのかもしれないと。死と還ることは違う。これは環の中にあるひとにはよく分かる。死を嫌い、還ることを終着とする。
 街は泡のような夢を生かそうとする。王の抱いた理想を光として寄って来た者はどれほどいるのだろう。城には太陽を燃やし続けようと集った兵たちがいる。そして太陽に引っ張られた星々が街に溢れる。自ら太陽に向かった者も、軌道から抜け出せない者も、気付くと街に取り込まれ。光の無い地に輝くものがあるならば、目は自然とそちらに向かうだろう。ひとは光に何を見るのか。それは目映く本質を隠し、ただ寡黙。寡黙ゆえにひとは自らの願いを光になぞる。鏡のように。王の意思をひとは知らない。王はただ輝かしい。幻のように。誰もが夢を見ている。王の膝下で、王を知る事なく。なんと昏いのだ、この街は。それぞれの願い、欲望を動力とし、街は混沌を深める。そう、この闇は混沌。だから呑まれてはいけない。還ってしまうから、混沌の海に。街の人が組み立てた生と死の波止場。渦の先を知る者はいない。果てへと繋がっているものだろうか。人がどこまで世界を作れるものか? 渦巻いているよ、とリピアが震えた。あの糸の空は栓で、水が流れ込む口なのかなと。沈んでいく。穴の空いた船。
「誰かが見た夢の続きがこの街にも流れ込む」
 夜の街で眠らぬフクロウを想う。
「彼の成そうとする事を、私が止めるわけにはいかないの」
 この街は沈んだ方舟だ。

4.火と水の方舟にて
 街を歩きながら、人や煌めきとすれ違う。
「暗いから光がよく見える。太陽のにおいを含んだ風が僅かに吹き込んでいる」
 夜なのではない、光が届かないのだ。湖底の舟。ここは水のにおいがする、とリピア。火の揺らぎもあるんだけれど、自分は火の扱いは得意ではないからと断ってから一動作。指先で空気を擦って、火を灯してみせた。これくらいしか出来ないかな、と。火と水の気配が陽炎の揺らぎとして見えるんだ。この地は昔、水溜りだったのかもしれないね。湖と言えば良いのかな。街の底にも栓があって、蓋をするとまた水溜りに戻るのではないかと。長い年月をかけ、湖になるのではと。そんな場所だとリピアは見た。
 煌めきを指差して、そこかしこに星が散らばっていない? とリピアが聞いた。シェミネは言われてみればと辺りを窺う。木箱の横に現れては消える風。階段の奥でぽたりと落ちる雫。庇の上で踊る動物。路地の奥からさらに呼ぶ光が。ふらりと脇道に逸れる。夜から追い出された星が降りて来たのか。
「そうね」
 シェミネは暗さに目が慣れないのかと瞬きをする。光の梯子は流星のごとく神出鬼没。よほど敏捷な妖精の出入り口なのだろうと、目の端で捉えるだけに止める。
「こう、かき集めて」
 リピアが小麦をこねる仕草をした。真似ると、手の中で星が踊った。温度の無い水の雫をシェミネは手の中で転がした。とぼとぼと路地を歩く二人。すれ違う者はいなくなった。カンテラの代わりに駄菓子のような星を掌でもてあそぶ。取り落すと、床で弾ける前に誰かの掌に包まれて消えた。遊び続けていたリピアが、演奏を締めくくる指揮者のように手を結んだ。たった二人の役者の前に観客はおらず、拍手は湧かない。しかし静止を破るリピアの言葉には熱がある。
「そう、それが、魔法」

5.岩の森の道標
 迷っては戻れなくなるとあれほど言ったのに。太陽の昇らぬ街で、ぐるぐるぐるぐると、星のように周り続けている。
「シェミネ、ここはどこ?」
 街の角を何度曲がったか分からない。帰るつもりも無いのだろうか、右に左に心のままに。繋いだ手だけ、見知らぬ生き物とすり替わっていないかと確かめて。一息つこうとするとちょうど良くベンチが現れる。座らないわけがない。
「わからないわ!」
 落ち着いてから一息吐いて、朗らかにシェミネが告げた。あはははは! リピアがベンチで笑い転げる。ベンチには背もたれが無く、腹を抱えて仰け反ると反対側に落ちる。逆さまになってベンチの脚の間から向こうを覗くと、そぞろ行く白い足を見た。同胞の行列だ。音も無く、景色はモノクロ。脚の数を数えるでもなく目で追っていた。追うべきだろうか……否。ねえシェミネ、今ね。報告しようとして起き上がったら街は身動いだ後だった。シェミネがいない。
「シェミネ、ここはどこ」
 問うも声は届かない。では同胞の足を追おうか。何故か足だけがチラチラと見えるのだ。同胞は確かに街にいる。王は魔法の力を戦力として欲している。手を貸さない者の首は切り落としたにしても、それなりの数が兵として抱えられている。囚われの同胞に会ったところで語り合うでもないのだが、顔くらいは見たいものだ。逸って同胞の幻想を追いかけてしまうなんて浮わついたものだ。頭をコンコンと叩いてから、リピアは空回りする期待に乗っかり駆けた。同胞は安らかに生きているだなんて、期待は儚く散ると理解していても駆ける。
 期待とともに高く、高く。階段を登っていく。木の枝を登るように、窓から窓へ、庇を踏んで、疲れたら窓枠に腰掛けて。もたれた背中が軽くなったと思ったら室内に転げ入った。一転、二転。ここで踏ん張って直ぐさま体制を立て直し、力を込めて飛ぶ。再び窓枠を踏む。再度飛ぼうとするが目の前に階段。先ほどは無かった。労力はかけず階段を上る。上ったつもりが下りている。騙し絵でもいい、法則に従う。空は暗く、地面も暗い。街の奥はもっと暗い。上っているつもりで、より暗い街の中心部へと向かっている。物見台がある。屈まねば通れない低い入口を潜る。緩やかにぐるぐると螺旋を描き、登りきると視界が夜一色になる。高い場所に出た。
 街の闇の溜まりに浮かぶ、無骨で堅牢な塊が見えた。王城だ。息衝く岩々が無造作に繋げられた気高きシンボル。生きた街の中から見ても異様な風態だった。岩の森の主人に挨拶をする。語る言葉を持たないからと、リピアは黙って膝をついている。謁見の間で、孤独と無言を貫いている。

 ここはどこ? ここは迷い込んだ路地の中。リピアの問いに、シェミネは答えようと思った。でもきっと、ここが地図のどの座標上であろうと、無かろうと、どこだって良いのだろう。リピアも同じように言うだろう。目的など無かったのだから。散歩のようなものだ。木漏れ日の森で迷った日を思い出す。木漏れ日を描いてみようか。光を灯そう。太陽は昇らないが、街に落ちた星の光をもう一度集めよう。小麦をこねる仕草を再び。これが魔法だとリピアは言った。魔法とは何か? 分からないまま掌で転がした。あれ、どうやって作ったのだったかしら。小麦をこねるような、粘土で成型するような、肩を揉むような、土を耕すような。種に水をやる、火に風を送る。どれもイメージに沿わない。柔らかなものを掴む感覚。これだ、近い。もう一捻り。イメージを濾過する。
「魔法とは、隣人と手を繋ぐような」
 筆が決まり、また木漏れ日を描こうと思った。そうね、インクが無くても描けるのだわ。はぐれたリピアを想いながら指を走らせる。軌跡が光を落とし、夜に降り積もる。

 岩の街登りもそろそろ気が済んだ。高く高く登った次は、さてどうしよう。ここはどこだろう。一本の木の上。迷ったら二度と森へは戻れないのだろうか。囚われの同胞に問いかける。そう、おそらく彼らは戻らない。還る場所が無いから。進みようが無いと錯覚するはずだ。暗中に扉は開かず。抵抗を破られたら自分だって牢の中にいたのだ。でも今はまだ囚われてはいない。街にも、王にも。城を前にして、押し潰されそうな孤独に浸ろうとも屈してはいない。足は止めても思考は止めない。帰り道はどちらかと想像を巡らせる。さらに上へ、天を目指すか。頼りない青空の窓が輝く。羽根ある者は天を目指す。なるほど、出口は天であろう。けれど今はシェミネの隣に戻りたい。小鳥は木を目指す。帰るならば下へ、下へ。木の梢は種から伸びる。たった一粒の種を目指そう。それでだ、来た道を戻って帰れるのだろうか。帰れるとも。転げ落ちたベンチまで。どの枝、どの座標軸の上にいようとも、種は天地に腕伸ばす。道を辿れば種に辿り着くのだ。下へ、下へ。着くのかな? 不安になる。枝のように伸びた路地。呼吸の度に組み変わる壁。居場所は見当が付かない。少し下って見回した。鳥、銀の鳥が横切った。亡霊を見たかのように足が縺れる。下って離れているはずが、全く変わらぬ王城の大きさ。王が立ち塞がる。捕らえられてしまっただろうか。胃が冷たくなり身体がひっくり返る。リピアは転げ落ちた。奈落へと続くのではないか、この街は。空縫いの時計塔で見た、星の深部を思い出す。落ち続けても面白そうだと、好奇心の声が再び脳裏を掠めた。懐かしいねと笑い出す。迷ったら戻れなくなるとあれほど言ったのにと、スイは怒るだろうか。シェミネは駆け寄って来るだろうか。あの日と同じように、小さな窓が照らす踊り場を見て身を捻る。今のところ奈落よりも面白そうだからと、光の溜まりの中へ。

 果たしてリピアは、ベンチから笑い転げ落ちたままの格好で我を取り戻した。シェミネが光で何かを描いているようだったので、むっくりと起き上がり眺めた。笑いの波もすっかり引いて、真っさらだ。帰りたいけれど、私たちはまだ帰れないねと呟いた。
「ここはどこ?」
「ここは道の途中」
「シェミネがいる」
「おかえりなさい」
「ただいま。光の溜まりが見えたよ」
「あなたの手を掴んだわ」
「おかえり、シェミネ」
「ただいま」

6.再びカフェテラスより
 まぶたが閉じられていても、物事は動いているものだ。
 幹の通りに戻ってみると、眠るような静けさの中にざわめきとひとの熱を感じ取れる。夜闇に隠れて言葉が交わされている。内容や声の出所は探れない。吐息が低く垂れ込め流れていく。
「まだまだ見えない部分ばかりだよ。でも、この街の色に目が慣れてきた」
 薪が積まれた横を通り過ぎる。篝火はいつ点火されるのだろう。祭りでもあるのだろうか。薪は一定の距離ごとに積まれていた。どこまで続くのか見に行こうとリピアが言うので、明日の散歩道が決まった。二人はいつもの喫茶店で一服してから宿へと戻った。

 宿に着くと二人はお喋りをしてから寝床に潜る。狭い宿では同じ寝床に潜ったりもしたが、今回は寝台が二台備えられているのでそれぞれ好きに手足を伸ばしている。一日の報告は泡を吐くように淡々と行われる。整頓してまた明日。お喋りならば暗闇でも出来る。話し足りないらしくリピアが毛布の中で蠢いた。寝台が軋む。水の気配のする街で眠ると、舟に乗ったような心地になる。街の人は湖を作ったのかとリピアが揺られながら呟いた。「湖かどうかは分からないけれど、溶けるように眠る幸せは変えがたいものよ」とシェミネは微睡みながら答える。目の奥でチカチカと光る魔法の輝きが消えない。
「帰る場所を失ったら、もう戻ることは出来ないわ。だから夢を見るわけだけれど。夢の地を現実に作り出そうとすると、新天地となる」
「なるほど、もはや別の地なのか。街の人が夢見たのは全ての者が還るべき大海の懐ではない。全ての内に含まれなくなったのだから。その手で作り上げた林や湖の懐に収まろうと言うのかな。方舟、だから底へと沈んでいくのか。舟が沈んだとして慌てないのか。街の胎動を受け入れるのか。深い深い海溝へと街は向かう。この感情を何と呼ぼう。鳥を見送る切なさを。シェミネ、きみもまだまだ潜るのかい?」
「王の街に運命を託すには憎すぎる。街の人として沈んでいくのが種の定めだと仮定しても、私は今のところはまだ浮きを手放さない。潜る前に水面に浮かんでお日様を浴びていたい」
「この街の答えも、シェミネの寄り道も、数多のひとの空虚も、それからおそらく王の理想も、たった一つの選択だ。選択肢としての枝葉が無数に伸びているよ。これと決まった枝を選んだならば、伸びきるところまで見に行こう。お隣の枝とは違う景色を見ることになるだろう」
「帰れないわね」
「うん、まだ帰らない」
 遠く離れた生まれの地を想う。帰るという言葉は鮮やかに景色を描く。残酷なまでに克明に、失った故郷は描かれる。戻る場所はまだ残り火を抱えていると夢を見ていた。灰の中で死した命が呼吸を続けていると夢想した。灰に手を沈め、水の冷たさを感じてなお生きていると。別れを告げた故郷に戻れると、切れそうに痛い指先に息を吹きかけながら歩いて来た。夢を見よう。夢を見続けよう。忘却の野に捨てて来たはずの幻想は、水のごとく湧き上がる。
「泡のように高く高くへ昇ってみようかな。空へ。空はまだ夜の帳の奥だけれども。街の人は還ることを絶対の目的としているわけではないと考えられる。私たちは死を失ってなお還ろうと足掻く。夢を見ているようなもので、そもそも幻想なのだと。ではどこへ……どこへ行こうっていうんだ。追いかけるように街の人たちは走る。作る。何かが見えているのか? 環の中からは決して見えない理想が。還らずにどこへ帰っていくんだ。ああ、遥かな言葉で語るだなんておかしいね。夢に、理想だって。なんて遠いんだ」
 夢を現実のものとするために、不器用な工作を繰り返す。日の届く地から離れようとも。土の壁、木の柱で空を覆っても。街の人は死を持つが、死が環の中の安楽へ導くなどとは誰も信じぬ。弾かれた者は弾かれた先で生きて死ぬだけ。戻れぬ定めを背負った生命は、屍を踏み越え先へ、積んで上へと、流刑地を開拓していく。戻れないと理屈を理解しながら、未だ環へと還る夢を見る。終わってしまった卵を温め続ける。
「だからか、きみたちは儚い」
 行き先を失った森のひと、途方に暮れるほど遥かな闇に縮こまりながら呟いた。光は照らさない。死は見えず、先が定まらない。自らの答えというものは、常に闇の波を分けて見るものだ。誰かと一緒に見ることは叶わない。たった一つの太陽を、大勢で見上げ祝うこととは訳が違う。生とは目に見えぬものの部類に入り、唯一の宇宙だ。この街はいつだって暗闇に沈んでいる。王の生、王の答えが溢れ出た湖。果てしない宇宙を泳いでいる。
「ひとは、遥かなるもの。ひとは、海溝の深さを内包する」
 互いの手は夢の灰の中で冷え切っていると知ってはいるけれど、求めた温もりは一緒だから、シェミネはリピアの手を握った。夢の温度を思い出して眠りに落ちる。

 細路地で一度彷徨ってからは二人とも気が済んだようで、深く入り込まないようにした。拒まれないから恐ろしいということもある。幹の通りを歩き回る。兵士とはまだ出食わさずに済んでいる。王都に力を貸せと追いかけ回されるリピアが領内にいると知られたら厄介だ。お忍びの観光だ。入市時わざわざ避けた正門だが、遠巻きに眺めに行ったりもした。
「兵は何を守っているの?」
「大切な王様を」
「私は大切な故郷を守れなかった。あまりに無力」
「今ここで大暴れしましょうか?」
「すっきりするかな」
「誰もリピアには敵わないわ」
 リピアは「そうかい」と悪い笑顔を作る。うんと力を溜めた後、高く跳ねた。遠い空を掴み、気流に乗って舞う兵器となり、そのまま星を滅ぼしそうだったから、シェミネはリピアの手を引いた。弾丸の速度で飛び出されたら、追うことは不可能だ。やんちゃな兵器は手を振り解くこともなく地へと降り、門から離れて再び市街へと戻る。
「環から離れきみたちはどこへ行こうとしているんだ。環へと戻れず私たちはどこへ行くんだ」
 昨晩の答えもまた枝の一つに過ぎない。誰が何をしているかだなんて掴めやしない。何度でも問う。納得出来る地盤が出来るまでは何度でも問いに戻る。憎んだ一人の人、王の宇宙にぷかりと浮かび、太陽を探す。
「行き場を失った虚しさは、決して埋まらないものなのだ」
 空虚は湯船に空いた穴。水が抜けて虚ろになった桶を夢で満たす。王にとっての夢を生み出す装置は、環の中のひとびとや魔法の力を部品として動く。街の人はしばしば争う種である。動力を求めて街の者同士傷つけ合ってきた。街の歴史は血の川と共にある。屍を積み上げ土台とし、より高い風景を見る。どれほど屍を積んでも糸のような青空は未だ近付かない。遠くなっていく。逃げ水を追う。争いに疲れ、月の神話を鼻で笑い飛ばした。蜃気楼の尻尾を捕まえて、環の中に戻ったら何をするかだなんて、無邪気な未来を破り捨てる。戻れやしないのだ。湯船を埋めた夢が空虚と同じものだと気づいて湯を捨てた。ただ空しいだけ。
 夢は現実を生き抜く希望。夢は作られ続けなくてはならない。たとえ空虚は埋まらないとしても、装置を止めてはならない。街のひとは同胞を殺す。そして環の中の隣人を殺す。希望を生かすために命を奪い殺す。食すように自然に行われる。
「悲しくても生きなくては」
 王の夢を叶えるためにこの街は出来上がった。この街の歴史にも無数の死が刻まれている。飽和した仕組みを解体しなくてはならない。悲しくても生きるのだ。帰りたい、でもまだ帰れない。
「よし、やろう……と身を矢としたのがきみの兄さんだ。フクロウ」
「私は故郷を失い、これから大切な兄をも失おうとしている。非力」
「止めに行こうか?」
「いいえ。見届けなくてはね」
「そうだね。私たちはせめて踏み止まらなくては。どうすれば王を、夢の装置を止められるのか見当もつかない。激情や幻想を胸に戦場に踊り出してはならない。街の海に喰われるだけだから。無力で非力でおまけに右も左も分からないときた。呆れた我が身だけれど、嘆くだけならば簡単だ。しかし目を閉じることなかれ。たとえ我々が見ているものが夢だとしてもだ」
 夢の中で鳥が鳴く。鋭い猛禽の声を聴き逃すはずはない。夜に鳴く鳥の一言、一言が錆びた時を動かす。念入りに状況を探って飛び立った猛禽の爪は、必ずや生物を捕らえるだろう。
「シェミネとフクロウは対等だよ。彼はきみに罪を負わせるために事を起こそうとしているのではない。彼なりの答えを出し、勘定を支払うために席を立った。森のひととしての生への答えを、ポケットの中で握りしめている」
「証明するために兄は森を発った」
「私も森のひととして彼を注視しなくてはならない」
「彼が二度と帰って来ないであろう家で、幾つかの季節を空っぽな心で過ごしてふと、このまま彼を失ってはいけないと思った。今度こそ立ち上がれなくなってしまうだろうから。だから私も少しでも歩き進むことにした。この目で確かに見届けることで、立ち上がって遠くまで見通し、先を選択する力になると信じているの」
「暴れてもいいけれど、私も冷静に周りを見回してみるよ。じっと耐え忍んで、最良の一手を探そう。今は、先を歩いた者が築いた答えを目に心に焼き付けよう。流れを受け入れて、私たちはさらなる石を積もう」
 屍を登るだけの我々は無力だけれども、とリピアはフードから顔を覗かせる。銀色の瞳が人混みの中に向けられる。
「水の流れに飛び込んで出来た波紋の力も、信じるよ」
 小さな波紋も広がり、時に新たな波紋を呼ぶものだと。水面で鎖が編まれていく。逃れられやしない。ひとはみな同じ川の流れに浮かぶ小舟。

 さて、入市してから何日目だろう。喫茶店に通う二人の元に、お茶が運ばれてくる。オーダーは入れていないが、いつもの、だ。
「ありがとうございます。お代を」
「既に頂きました。お連れ様から」
「あれ」
 互いに顔を見合わせる。どちらともなくくつくつと笑い出す。周りを見回してはいけない。姿勢を正し、受領書と一片のメモを受け取った。紙片に顔を寄せる。『親愛なる小鳥たち 伝言 舞台はすぐそこ』。走り書きの神託には、日時も場所も記されていない。少女らは次なる導きを待つ

 鳥は空へと

1.まどろみ落ちる月
 昼夜と ねむれ 牡鹿飛び行き 灘の向こう
 無に 無に ねむれ 草の音もやがて 静まり
 空に立つ 天も 地もなく――

 フクロウが歌っている。子守唄が低く柔らかな声で紡がれていく。眠らぬ街に向けての歌か。否、彼は極めて穏やかな声量で、たおやかに歌い続けている。窓縁に腰かけて、外を向いている。彼の先に、ひとは一人もいないが、誰かのために歌っている。懐に幼子を抱えるように繊細に、子の眠りが続くようにと途切れなく。
「雨が降っているようだ」
 闇の溜まりが口を開く。漆黒の男は雨に濡れる子守唄を傍らで聞き続ける。

2.遺言
 夜とて目が慣れれば明るいものだ。今日も指定の窓際に座り、フクロウは手紙を書いている。歌うように文字を落とす。インクが染みる音だけが辺りに広がる。ペン先が薄氷を踏む。水溜りに張った氷を壊さずに歩く。雪は蛍に姿を変えて舞い遊ぶ。フクロウは光を肩に積もらせながら手紙を書いている。蝋燭は灯された形跡が無い。蝋燭の火ならば風に踊る姿を見ながら書けるだろうに。月明かりは揺らがない。揺らがぬ眼に射止められると、ひとは簡単に狂気に陥る。光は天からの来訪者。
「気を抜いちゃあいけないんだけれどもさ。月光が温かいな」
 月の神話を葬った街で、屈託のない話をしよう。先日のピクニックは楽しかったな、だなんて話し始める。用事もありやしないのに、揃って出かけるなんて無いことだ。良い休暇だった。
「散歩のようなものだよ」
 短い間だったけれど、お前は相棒だよ。いつものように相棒と呼ばれたハヤブサは、彼らの仕事の終わりを意識する。月に中てられたのは誰か。かつては思いもしなかった選択肢を抱えて、今夜飛ぶ。
 ハヤブサは窓際に歩み進む。フクロウがいつも眺めている街並みを、同じ窓から覗いてみたくなった。席を半分譲られて、月光を遮らない位置に落ち着いた。街は作り変わるから、窓からは毎日違う景色が見えていたのだろう。自分の体が昨日と同じ入れ物であることが不思議でならない。あるいは体も街のように変化し続けているのかもしれない。隣に居る者には名前が無いのかもしれない。名前はあるけれど、中身が違う場合もある。 変化する。姿や、思考が。昨日が無い。さっきも無い。けれど、だからと言って、隣の相棒を信頼しないことはない。問い続けるのだ。変化を見定めるために。定めた目的に向かう相棒を見送る位置を、ハヤブサは探してみた。
「眠らぬフクロウ、夜明けはまだ遠いのか」
 夜の街を見下ろしながら、言葉を交わす。目的に向かう。視認する。毎日変化する景色を、昨日と繋げる。毎日忙しいんだ。
「遠いさ。でも、ハヤブサ、お前が去ったら一眠りさせてもらおう」
 淀みなく筆が進む。森のひとの言葉で書かれた内容をハヤブサは所々追う。美しい文字を持つ種だと思う。
「眠りに誘われるままにするといい。フクロウ」
 朝を連れて飛び立つから。夜に居残るフクロウとでも、夜明けの光を共有出来る。暁のフクロウ。まどろむ迷いびと。
「蝋燭に火を灯してくれないか」
 ハヤブサが片手を伸ばす。風を遮るように、芯を手の平で包む。手を離す一瞬に、火が灯った。魔法をせがんだフクロウは、星に願いを唱える声音で、物語の未だ語られぬ部分を空想する。
「原初の炎の守護者よ。答えておくれ。天使はいる?」
「ああ、いるともさ」
「夢と消えてしまうとしても、この想いは遂げたいのだ」
「お前と引き換えなどとは決して言わない。また会おう。夢の中で」
 高空には、それはそれは大きな鳥が住むという。天使の物語の語り始めを、フクロウは一つずつ引き出していった。
「ただ一つの夢の守り手が、細い翼で飛んでいる。解れた糸で吊られているようだ」
 相棒、と呼びかける。天使はお伽噺の中に戻してやろう。まだしばらくは眠っていて貰おう。俺たちが起きている間、もう少しだけ眠り続けておくれ。全てが夢とともに消えてしまわないように。だから紡げ、物語を。果てしない夜、天使を起こさぬように灯し続けろ、千の夜に物語を。まどろみの先の夢の檻で、空に溶けることもなく、死へと還ることもなく漂う。空や海や、眠りに染まるわけにはいかない。語り部は紡ぎ続ける。
 天使を語れ。空白が増していく。いつか覆る日が来るのか。空白を空白のまま生かし、呑まれていく。眠りは眠りのまま。故郷が遠く霞む。もう戻れない。けれども進む先の地が見えた。空っぽな未来に、綿を掴んだ種子が降り立つ。空白に呑まれようとも、種を蒔く。芽吹きはしないが、道を照らす篝火になる。
 相棒、とフクロウが呼びかける。ほむらの身に問う。
「お前の帰る場所は」
「遠き地に」
「気長に行こう」
 火の粉の行方。風の終端。歌声の尻尾。光の羽衣。鳥の道は、遠きものを探して迷う。呼ばれる地へと渡る鳥は海を目指す。尽きようとも、その目は帰る場所を見る。
「太陽を背に負う昼の鳥。その身を再び黒く焦がしても、苦しみは既に遠のいただろう。お前に朝を返そう」
「彷徨う月光、夜の鳥。道は定まったな。お前に眠りを返そう」
「これからの道は果てしない」
「次は果てにて」
「それでは、相棒、さようなら」
「ありがとう。また会うだろう。我が友」
「ありがとう。照れてしまうな。行こうぜ」
「旅路の幸運を」
「夜が明けるぜ」
 目に映る地は同じだから、しばしの別れ。夜闇の向こうは果てしない空白。尽きようとも、悲しくとも飛べ。風に乗り、空を裂く。待ち望んだ夜明けは、必ずこの手で。
「生命とは奪われ損なわれるだけのものではないんだ」
 フクロウは書く手を止め、溶けて傾く蝋燭を見る。手元に近付いた火が、ちりちりと熱を放っている。身を焦がそうとも。署名してからペンを置き、折り目をつける。封をした手紙を、フクロウは焼いた。
「それだけを伝えたくて」
 風よ、天使よ、空気を震わせ伝えておくれ。

3.白緑を積もらせて
 この生は若木の夢だ。木へと還り夢を終わらせるはずだった。眠ったまま起きない主人を想うとどうしようもなく悲しいじゃあないか。目覚めよ。目覚めよ。頬を撫でることすら出来ない。空を撫でるこの手をただ泳がせていた。夢に沈んでいく。手で魚の腹の煌めきを作る遊びの空虚。
 水を掻き分けるために力をこめた。川は流れるものだけれども。流されようとも泳ごうと。出来るならあの子の手を引きたかった。けれどこの身はとうに浮き上がれやしない魚である。夢の淵に巣食う魚。
 雪のような灰が降る。世界は灰に埋もれていくよ。肩に雪を積もらせて。呼吸の度に体は重くなっていく。我々は灰へと沈み、川もやがて流れるのを諦める。
 目覚めよ、目覚めよ。終わりが来るとしても。
 我々は灰となる。体が風化することにも気付かずに、体や記憶が零れ落ちてみな一つの星、まあるい星に戻る。たった一つの星になる。そのとき、私とあなたは無くなり、唯一さえも無く、寂寞とした空を漂う。どうしようもなく悲しいじゃあないか。夢の終わりの空っぽな寝起き。
 旅路がさよならの先だとしても、灰に霞む景色に一本の道を作りたい。ひっきりなしの雪に埋もれ、風に均され消える道だとしても。追いかけて来る声が聞こえるから。どこかでまた会おう。灰を踏み固め道を作るから。ゆっくりと先へ進もう。小さな足で追いかけておいで。灰の原の道を辿って。行く先は同じだけれども、その歩みの迷いを引き受けるから、軽やかにもっと先へと進んでおくれ。世界が終わるその日まで。

 還る場所は何者にも開かれているというのに、灰により閉ざされた理想への道。代わりの安息を、ひとは知らない。ただ、一夜の眠りを暖炉の前で過ごす安らぎに、名前をつけることもなく、記憶を抱える。箱は空けておこう。きみへの贈り物の花を詰めたいけれど、大地には花が溢れる季節だ。
 寂しげな地に消えてしまうとしても。一瞬をこの目に焼き付けたいのだ。舞台の幕が芝居の最中に降りてしまうなんて、寂しいものだろ。役者がさ。夢から覚めないでおくれ、劇場の唯一の観客席よ。檻の鍵持つ支配人よ。
 天使よ、きみは世界を愛したか?
 そうだな、俺ならば、もう少し続けと願う。

4.方舟は舫いを解かれ
「来たか、籠の鳥」
「待たせたな、籠の中の王」
 黒衣の鳥が、籠の中に舞い戻る。まるで自分の部屋に戻るように、漆黒はノックもせずにやって来た。部屋の片隅まで椅子を引き、座して衣を整えた。かつて暮らした城だから。鳥は瞬く速さで場内を駆け抜けた。小さな要塞は来訪者を迷わせる。増築を重ね、たくさんの曲がり角と不自然な通路、突拍子もない扉、中二階、軸の歪んだ部屋と部屋。結線の上を歩いていても、直進しているとは限らない。堅固に、複雑に絡み合う廊下。変遷の歴史を見てきたハヤブサは、迷うことなく城の最深部、王の寝所に辿り着く。
 兵の妨害もあったかどうか。王の居室まで届かぬ騒ぎ声。鳥の影を踏んだ兵は黄泉に引きずり込まれた。漆黒の溜まりを作りながら、ハヤブサは目的を果たすためにやって来た。王城への潜入は、計画に沿って狂い無く遂行されて、フクロウとは先ほど別れた。彼はしばらくしてから騒ぎを大きくし、観衆を集め、彼のための舞台を整えるだろう。互いの目的を果たすために、ハヤブサもまた言葉を紡がなくてはならない。自分のために。王の寝所が彼の舞台だ。
 暫く見ぬ間に王は小さくなった。衣を一枚脱いだように。体つきは相変わらずしっかりしていたが、押し倒されそうな気迫がそっぽを向いている。天上の塔にまします街の王は、手中に収まらない高い空だけを見ている。鳥を、天使を探している。告げようか、迷った。王の意識をこちらに向けようと、ハヤブサは言葉を探した。言葉が出ない。敵を屠るならば一息なのに。
 部屋の暗がりから出てこない鳥に、王が再び言葉を投げた。飼い鳥を相手に王は長く語ったものだった。語った理想の幾つかが、城を潤し街を育てた。二人の間で語るのはいつも王だった。
「お前の意思でこの部屋に入ることなど、今まであったかな」
 殺しに来たのだろうと王。夜の街に巣食った二羽の鳥は、城の兵を貪り食らった。城の力を削ぎ落とし、骨を道にして、城へと繋いだ。答えるハヤブサは否とだけ。ハヤブサは答えを持って来たのだ。これまでは歴史を読み上げて答えとしてきた。史実の語り部、歌う鳥。しかし歴史を歌っても王の求めるものには辿り着かなかった。過去を共有し、作り上げたいのは自分のこれから。未来なんて有って無いようなものだけれども、細る川の行く末を渡る心は、確かにそれぞれの内に有る。籠から飛び立ち逃げた鳥は、長い不在の末、彼にとってとびきりの獲物を咥えて舞い戻った。たった一人の観劇者相手に披露しよう。部屋の片隅、暗やみの溜まりから、夜の明かりが射す舞台へと。入口からも離れた部屋の奥、窓際へと進み出た。場内は未だ静かに開演の一声を待つ。
「共に飛ぼうではないか、迷い鳥たち」
 幕が上がる前の舞台で最後の調整。整えた舞台も経過点の一つに過ぎない。未だ見ぬ空へ。相棒よ、上手くやっておくれ。今から俺は王を引っ掴んで夜を飛ぶ。

 夜の僅かな光に照らされて役者が言うには。
「何故人を喰らうのか。人の王よ」
 話し相手を求めて来たのかと王は笑った。「あなたは鬼なのだろうか」と続けるハヤブサに、王は寝台に座り直して会話を繋いだ。
「天使を語る。鬼を語る。お前は神話の語り手。鬼はもうこの世界から去ったのだろう」
「そうだな。神代の生物が街を闊歩するのではない。鬼が蔓延り、魍魎が喰い尽くす悪夢は去った時代の話」
 あなたは人だとハヤブサは繰り返す。その身に鋼を忍ばせて、ひとや同胞を裂く。時代の流れを裂く。街の人は何を造る。高空への橋か。悪魔のように砂時計を返すのか。鬼のように喰い尽くすのか。
 悪魔や鬼は、天使の時代の住人だ。彼らはどこに消えたのか。星の外へと消えたのか。砂の下に沈んだか。いずれにしても、在るのだろう。木とひとが混ざり合い、眠りにつくように。たまに雫はひとの形として世を歩き、また環の中へと戻っていく。ひとびとが環と呼び、求め慈しむもの。それは一つの海。一つの星。悪魔は溶け、鬼は溶け、同じ流れの水となり、全てが混ざり合っていく。天使は不在だが、いずれは。枝葉を広げて分化した生物は、一つの収束点へと帰っていく。星の赤い焦点は、生物の目を奪って離さない。
「街の人よ、眠りの時間を外れてどこへ行く」
 王はこのように答える。
「眠るにはまだ惜しい。夜よもう少しだけ続けと願う。ここはすっかり夢の中だというのに。これほどまでに儚い夢は、喰らっても味は無かろう。天使よ、夢持つひと、一人のひとよ。お前の後の命は全て、夢を見る。天使に会うならば伝えよう。永遠なれと」
 枝から離れた葉が、少しの間風に舞うように。天使の夢は、終わらない。王は人の身で、夢を血に浮かべて方舟とした。赤く染まったあぶくの庭は、海を知らず空をも知らない。小さな球体の世界。
「あなたが積み上げた犠牲は、一つの還る場所となった」
 街の人は円環の外にある。街の人しか居ない環の外で、あなた達はあなた達の方舟の中で、作り続け、生まれ、死ぬ。あなた達の中で喰らい合う。飛ぶ鳥を引き込んでは羽根を切る。街の人とは迷い子。羅針盤を失って、何を導に進むのか。ハヤブサは問うが、ひとはみな、還る場所を求めているだけなのだと王が答えることを知っている。求め、侵すその爪に、天使の羽根が引っかかってはいないだろうか。悪魔は生まれ出づる。あぶくのように。
「環から溢れた街の人よ、悪魔の現し身よ」
 向かい合った互いの爪は、多数の鳥の羽根にまみれている。どれが天使の羽根だったか。悪魔はたまらず笑みをこぼした。
「お前は人を悪魔と呼ぶだろうか」
 ハヤブサは、王に、そして街に敬意を込めてこう呼ぶ。
「いいや。あなたたちは、作り上げたそれぞれの街で生きる者。街の人」
 ひとと人。越えられない隔たりの向こう側で生きる種は、魔法を失い、還る場所を失い、放浪の先で街を作った。隔たりを含んで用いられる呼び名に、ハヤブサは親愛を乗せて呼ぶ。名を失った王の元に、呼び名を返す。そのために戻って来たのだ。ハヤブサの言葉を飲み込むと、王は再び表情を隠す。
「お前の羽根は切られたか」
「羽根は無くとも飛べるので」
「そうだな。切られた羽根で夜を裂き、城の天辺までよく来たものだ」
 王は気怠げに顔を向けて、炎の守護者への恐れを表した。鳥を籠に入れたところで、環の中と外は交わらない。それぞれの流れは層になって、平行線。海水と淡水の層は、向こう側の住処を隠す。あちらとこちらを行き来する扉は開かれない。澄みきり晴れていて、高空に届いたとしても。星を喰らっても。彼らと街は異なる存在。多種への潜在的な恐怖を、対面して思い出す。悪魔とて、怖いものは怖い。
「たった二羽で、積み上げられた城を切り崩す。旧世代の守り人よ、木々の育んだ命よ。お前たちは荒ぶる神の化身か」
「いいや、ひとさ。神代の獣や鳥や、あるいは悪魔の血を継いだ。あなた達もまたひとである」
「お前の問いは、遥か高空からの雷、審判なのだろうか」
「いいや、王よ、寄る辺無き流れの中で、空を想うだけ」
「高い空があるのだな」
 ハヤブサは一言ずつ意味を編む。王よ、あなたもまた街の人。街の王は、人に喰われる。街は王の手を離れた。方舟の綱を切り離せ。見送らないか、共に。星を探しに行かないか。指針となる星を。観測点より軌道を記録し、放たれた月の白道を読み解いてみないか。街は回帰するだろうか。街と環の内外には、違う到達点があるのではないだろうか。航路の先に、ハヤブサは期待の篭った目を向ける。
 ひととはあぶくのようなもの。球の内に何を囲う。無数の星に問うてみたい。捕まえられるものならば、その一つを手の内に、逃さぬように壊さぬように。王よ。小さなあぶくよ。光抱える星よ。手にした輝きを持って水面まで。
 神話の先を聞かせておくれと誘うハヤブサを、王はまじまじと見つめた。何か言わなくてはならない。
「お前はいつも耳を傾けていたのだな」
「問うていたさ、天使を掲げたあの日から」
「お前が知らぬものを、俺が知るはずもない」
「そうでもないさ」
「街は留まる場所でしかない。答えは金槌では作れない。帰る場所は別にあるらしい」
「みな迷う渡り鳥」
「天使は」
「いるとも。ひとや物が最後に流れ着く場所に」
 王は窓際へと歩み寄り、黒衣の鳥と肩を並べた。二人はしばし景色を眺める。見慣れた街を、煙が遮った。階下でわっと声が上がる。王は同胞を案じるが、一方で新たな図面が引かれ、金槌が振るわれる音を聞く。一つ頷く様子を見て、ハヤブサは声の調子を和らげる。
「とりあえず出掛けないか」
「どこへ」
「旅へ」
「旅の道に戻るのか」
「長い散歩だったな」
「流れの身が帰る場所は旅の道か。それも良かろう。だが旅路はすっかり過去の地だ。この街を住処としたのだ」
「街の人として生きるのだな」
「心は街に」
「荷物は纏めたか」
「散歩のようなものさ」
「また戻って来るのか」
「心の一部くらいは、な」
 ハヤブサは窓辺に腰掛ける。相棒の見ていた街が広がっている。先程まで共に眺めた街は、今夜姿を変えるから、二度と見ることは叶わない。ひとは変わる。街の姿も。問い続けるのだ。昨日を忘れられないから。夜の街を過去へと押し出す。舫いを解いて見送る。流れるのだ。あるべき姿を見たいだけ。俺が何を差し置いてもそうしたかっただけだ。望みはこの手に。
「それでは、飛ぼうか」
 王を伴い、ハヤブサは飛び立つ足に力を込める。
「街の王の命、貰い受ける」

5.暁までには
 告げなくては。森で獣に出会う度に囁かれたっけ。何を告げるのか? 何と告げるべきなのか? 獣は続く言葉を引き出す前に、姿を隠してしまう。獣たちが姿を隠すと、俺は暗い路地に突っ立っている。ああ、ここは森じゃない。木々はざわめかない。緑の声がざらざらと溶け落ちて、雪崩れた跡に土の壁が現れる。街の壁に戯れの像を映したところで、気付けば空虚。もう森には戻れない。
 告げなくては。森の動物の囁きがこだまする。獣たちは言葉を使わない。俺も告げるべき言葉を持たない。獣たちは歌を歌う。彼らほど厳かには歌えないが、森の子守唄を贈ろう。愛しい子へと。歌が枝葉を広げ生き続けますように。きみは街の子。きみは森の子。
 もう一度、木々の歌を歌った。夜明けがやって来るよ。まだ少しだけ眠っておいで。これは夢だ。暁に眠る者へと贈られる子守唄。

 フクロウは適当な時間城内を散策し、埃のにおいに飽きた頃に、計画に沿って騒ぎを起こした。フライパンを叩いて兵士を起こす。指揮棒を取り、城内に仕掛けた起爆剤を鳴動させる。何箇所かの外壁が崩れ、風通しが良くなった。作ったばかりのテラスに立てば、向かいの塔から矢を射られる。フクロウが出たぞと聞くと、戦場に戻って来たなと感慨深い。しかし今回は恐怖を血で洗ったり、旗取り合戦をするつもりは無い。寝惚けた暁のフクロウ、今日の獲物は定まっている。今まで明確な目的があって戦場に立ったことなどあっただろうか。体は風に乗り浮く。徐々に増える兵を気紛れに屠り、気紛れに生かす。武器庫もちょちょいと塞ぐ。おまけに通路には油と火を放っておいた。適当な仕事だから早々に消し止められてしまうだろうけれども、最後の火の粉を見送り仰ぐ彼らは聞くだろう。王冠がカタンと音を立てて落ちる音を。
「上手くやっておくれよ、相棒」
 フクロウは、王の寝所に駆け込む兵を見送った。輝かしい王が、夜の黒点にぱっくりと飲み込まれる様子を見ることになるだろう。王はどこへ行ったのか? それは、フクロウが夜の外へと咥えて行ったのさ。このように語ってくれたら良いとフクロウは思う。誰一人、王の生死を掴めはしないだろう。

 フクロウは駆ける。相棒の仕事を見届けることはないけれど、惜しみはしない。フクロウは振り返らない。風の道は足を離すとがらがら崩れる。成功も失敗も見届けることは出来ない。後も無く、先はもうじき終点だ。駆けるだけ。
 恐れたままでは全体が見えない。龍の背中に乗っているのだ。風が身を抉る。これ以上、何を恐れることがあっただろう。羽を毟られ痩せた体で、もう一踏ん張り。
 何から逃げ回っていたのかな? よく覚えていないんだけれどもさ。流星が手放した星の屑。地表に一粒、はらり、はらり。木の葉として落ちる。闇雲に逃げて走った。
 歌を贈ろう。きみの中で枝葉を広げる木になれば、そこは俺の還る場所。いつか必ず帰るから。告げなくては、さよならを。きみの眠りが安らかであるように。満ち足り眠れ。ひとの子よ、天使の夢よ、海へと溶けろ。
 さあ走れ。 祭りの会場まで。フクロウは篝火を縫う。染め上げられた川を渡り、作り上げた舞台へと向かう。
 暁までには。

6.きみの空は青いか
 生物が身動ぐ。街は猛禽が飛び立つのを感知して、篝火に点火した。
 通りには最近やたらと出店や屋台が増えていた。日毎姿を変える街と、即席の屋台を引いて歩く人々。人は異界をあっという間に作り上げる。火が灯ったのを合図に、通りにふらりと人が現れる。得意の楽器を手にした者が、一人また一人と篝火の道を遡る。行列となり、厳かに祭りの拍子を取る。思い思い鳴らす祭り囃子が、やがて一つの流れとなる。囃子方が練り歩き、人々が窓から顔を出す。少女らも、宿で囃子を聞いて支度を始める。
「幾つ夜を数えたかしら」
「覚えていないけれど、待ちかねた!」
 王都に明かりが灯った。祭りの明かりだ。その日、幹の通りは祭りの熱に沸いた。篝火が舞台へと導く。少女二人は、浮かび上がる炎の川を遡る。浮き足立って、もつれ転げて、囃子を追いかける。祭りの列は、止められやしない。流れ、進め。街が蠢き歌うので、合わせて歌った。低い唸りの歌声は、行列を推し進める櫂となる。兵士が列を追い越していく。兵士らを通すために人の波はその都度割れるが、隙間はすぐに埋まってしまう。油に線は描けない。
 油と油がくっ付く前に、出来た隙間をすり抜ける少女らの姿が見え隠れする。信託を懐に入れて、最前列を目指す。招待状はメモの切れ端。差出人の名前も無い。けれど間違うはずもない。離れないようにと繋いだ片手。空いた手で、リピアが兵士の足を引っ掛けるのをシェミネは見た。路地の奥から駆けてくる兵士が揃って足を絡め取られ、暗がりでもがいている。阻まれたところで、いたずら程度の魔法を気に留める者はいただろうか。一刻も早く城へと戻らねばならないこんな時に。邪魔になりそうな兵士の足を遅らせながら、リピアは繋いだ片手の先を見た。シェミネの顔が赤いのは、さっきちょっとだけ流れた涙を拭ったせいだ。祭りの列で涙する者は、よく見れば他にもいることだろう。華やぐ葬列は、一夜の幻。泣きながら笑っている。夢の中はいつも夜で、目覚めを覚えることもなく過ごしている。月の齢を数えるには、人の生は短いものだ。月は隠れ、今の年齢が分からない。道端で見かけた白骨、もしかしたら月の頭骸骨だったのかしら。月に背中を押されて、夜の谷を駆ける。
「シェミネの空は今も赤いの?」
「リピア、あなたの母木は燃え続けているの?」
「広がっているね。王都の深い夜が」
「月が、落ちるわ」
 街の石畳を踏むと、沈み込む。石畳が呼吸した。あるいは鱗。もっと沈んでいけ。生物の身の内に入る。
「シェミネは月の向こう側を見ているの?」
 月の焦点、光を遡り、空の穴の向こう側。行列が目指す場所の、その向こう。
 スイは終わりを見たと言う。シェミネは空を見たと言う。飛ぶ鳥を掴みたかった。弧を描く鳥と重ねると、手は赤く透けた。いつか鳥が飛ぶ高い空を、自分も行ける。羽根のように広げた手を握る。鳥は手の内には収まらない。ひとは鳥ではなかったのだと、空を手放したのはいつだろう。花は驚いて枝を離す。地へと落ちる時間、何を思う。草原に打ち上げられた鯨は、草の海で息をつく。隣り合う見知らぬ地で生きる生命があれば、尽きる生命もある。この地は誰にとっての彼岸なのか。我々が目指す先は、誰のための生きる地なのか。人の住む地からも、果てがうっすらと見えている。名前があったような気がするのだ。持っているけれども、知らない。空白を何度も見つめて繰り返す。人の中に打ち上げられた森のひと。リピアも月の焦点、その向こう側を見てみる。人の波の中から、うっすらと見える。還る道。鳥を追う心地でリピアが言った。
「どこへ行こうか」
「終わったら、そうね、私も森へと帰ろうかしら」
 シェミネが笑った。その顔が好きだから、私も一緒に森へ行きたい。リピアは片手で忙しく兵士を邪魔しながら、繋いだ片手を羽根のように青色に染める。
「道が見える。フクロウが照らした道が」
 篝火を辿る。フクロウは舞台へと導く。
「兄は一つの答えを出した様子。兄を信じ、私は止めない。見届けられるならば、それも幸福なことでしょう」
 そしてスイを信じると、シェミネは言った。
「別れのために、ずいぶんな時間をかけてしまった」
「いいのさ」
 見届けるために、人々に紛れて一点を目指す。子供たちは、灯りと喧騒に導かれて広場に辿り着く。祭事の空間には、こぢんまりとした広場が選ばれた。建物に囲まれており、声が反響する。森の精霊のオアシスに通じる泉でもありそうだ。この場所を舞台として選んだ者は、立ち位置に落ち着いて開演を待つのだろうか。忘れ去られて埃を被った木箱の横に、人が並ぶ。建造群が恭しく肩を下げた先で、王城が見下ろしていた。あまりにも遠く、舞台装置ほどに平坦な城は、今日はぷかぷかと煙を吐いていた。城を背に、方々から声が聞こえる。
「尖塔から突き落とされて、王は真っ逆さま」
 天使の昔話のように伝えられた。

7.獅子、再び舞う
「やれやれ、再び袖を通すことになるとは誰が思おうか」
 舞台の幕に隠れて、衣装に身を包んだ役者がぼやいていた。篝火と囃子に連れられて来た観衆が、広場を埋める。何人かはフクロウたちの賛同者だろうけれども、それにしてもよく集まった。十分な数の目が、熱を持って舞台に注がれている。間も無く開演だ。
 演じ、紡ぎ、笑い遊ぶ。転げながら空を見た。真っ暗な空を。帰らなければならない夕刻はとうに過ぎたというのに、どうして夜空の下にいるのだろう。暗闇は鬼の時間。可憐な花が三日月に光り、木々が鋭い牙を見せる。見慣れた景色は昼の中にのみある。闇に恐れを抱きながら、残照が消える瞬間の高鳴りも覚えている。夜は特別な時間。予感にはしゃいで眠らぬ子供のために。明日を案じて眠らぬ大人のために。夜を思い出せ。
 大人を目指し現実へと走る子供たち。先導者は幻想の種を蒔き子等の道を作る。夢を見よう。大きな歩幅でラッセルしていく先導者も、歩みを止める日がある。追いついた幻想と現実が波を立てて組み上げる、祭りの日。火を焚き夜を彫刻する。日常の循環から離れて。神様も呼んで。隣人も誘って。輪になり踊れ。旋律に乗せて歌え。神輿に乗って手を振る非日常が過ぎたら、街には熱と眠りが居心地良く降り積もる。雪や埃のように。衣装を手に、みな集え。
「祭りは楽しまなくてはね」
 埃を舞い上げる箒は持たないが、彼は魔法使い。フクロウがおでましだ。群衆の間にひらりと降り立った。彼の通り名を、観衆が口にする。恐れや好奇を含んでまばらに漏れた呼び声に、フクロウは恭しく一礼する。顔を覆った頭巾を外す。月光よ照らせ。森のひとたる証、銀色の髪が観衆の前に晒される。背にした篝火の加護が、髪の一糸、一糸を針のようにぬるりと光らせる。視線を縫い付ける輝きが、異郷の森を織り上げる。人々は木漏れ日を見た。伐り倒され、炎にくべられる枝を見た。木々の子供が街に降り立つ。猛禽の瞳で一瞥し、ばさりと好奇の糸を断ち切った。舞台は遥かな高み。観衆と語る脚本は用意されていない。自らの過去を嘆く役柄でもない。では彼は何をするのか。兵士の包囲が固まりつつある。最前列は予約済み。逃げ場は無い。
「よろしい。王城を蝕む池の鯉。振り返って同胞殺し。いかにも、俺は暁のフクロウと渾名される森のひと。樹木が創りし子供。兵よ、街の王は鳥の手により墜ちた。王の子等よ、お前の帰る場所はあるか?」
 兵士は言葉を返さずに、剣を抜く。
「還れるとも」
 鋼の声が開演を告げる。舞台は一度暗転する。火が息をついて、照明が瞬いた。風か。衆目が再び舞台に向けられて、フクロウは口上を述べる。
「さて、遊ぶ星、惑う星、迷い星。夜空を見上げていると、いつもウロウロ定まらない星がいることに気がつくだろう。星座のように編隊を組まず飛行する単機の光。雲と季節と星座の網を縫う迷い星。道を失い、空を彷徨う星に惑わされているのは誰なのか。迷うように見えるだけで、星は彼らのための軌道に乗っている。観測者と同じ流れの中にあり、それだから気付かない。迷うように見えるものこそ、思ったよりも近くにあるもので」
 フクロウは一呼吸置き、銀河を映す黒装束をするりと脱いだ。畳みながら言うには。
「彷徨うこと幾星霜。迷うならば、金の狼や大烏に聞いてみな。世を惑わす詐術の星と呼ぶならば、ここに。星は落ちる。夜が終わる。街の子よ、果ては見えているか。互いの道は違うだろうが、時には手を取り踊ることもあるだろう。今日この手を取るのは誰か」
 兵士の輪から一歩進み出た者がいる。制帽を深く被り、襟は締め、草臥れたブーツは磨かれて誇らしげ。袖のボタンが一つ飛んで、肘と膝に擦れが見られるが、この騒ぎでは転んだって仕方がないことだ。解れを除いて整った姿の兵士は、抜き身の長剣で他を制し、フクロウの前に立つ。
「そうか、お前も舞台に上がったか」
 こくりと兵士は頷いた。フクロウが招くから、長剣の間合いまで詰める。立ち位置を確認する若者に、声を低くして城の敵は退路を勧める。
「一度舞台に立ったら、観衆の目には戻れない」
「いずれは誰もが舞台に立つ。ならば俺は、今」
「覚悟があるのか」
 人は忘れていく。記憶は継ぎ接ぎの映像フィルム。今宵の立合いもいずれは物語に呑まれ、登壇者を虚像に押し込める。けれど、紡げ。祭りに願いを乗せて。歯車を蹴飛ばし、月と太陽を回す。星を揺り起こすために。明日が来るから。涙も英雄も教訓もいらない。欲しいやつだけ持って行け。闇の向こうの明日に声を投げかける舞台。フクロウは短剣を抜く。
「舞いて、刻もう」
 風をチリリと爪で引き出す。銀糸を手繰る爪で掻き鳴らす。人は忘れていく。お前のことを。記憶の瓶を開いたときに、お前は名も無き一人の役者。それでいい。フクロウは距離を縮める。たった一人の役者を相手に、広場中に通る声量で告げる。
「街を築きし識者の走狗、森を焼いた王の兵士よ。智慧の炎は城に広がり、王は堕ちた。残されてなお、森に牙を剥くか」
 兵士は個ではない。フクロウと対峙する兵士の言葉は、背景に佇む城の意思となる。
「森の賢者とて力を振るえば害となる。改める時間はとうに過ぎた。今ここで城の敵を討つ」
 森のひとは王を討たねばならない。王を刈り取られたならば、城の兵は報復しなければならない。怨嗟の図式の前に、個の思想、義や服従は不要。火の粉が舞う。夜の底で、祭が始まる。剣が冷たいため息をつく。見計らったように舞台に礼衣が投げ込まれた。役者は煌びやかな衣装を受け取り羽織る。剣を地面と水平に捧げ持ち拝礼。地を耕す力強さで演舞を始める。凍る冬に、篝火と舞で春を呼べ。腰を落として踏み込み、啼いた。気迫に楽隊が歓ぶ。観衆は頭を低くする。追従するのはフクロウが放つ一撃。頭を掠める風が、飛び立つ獅子の速度を奪う。小礫が降って、足元がざらつく。手を繋げる距離まで間合いが詰まる。砂利を鳴らしながら、兵は片脚を支点に半円を描く。動線をずらしてから、勢いに乗せて剣を振る。大きく回る間に、立ち位置は逆転。方向転換に付いてきたフクロウは、優雅な動作で片手を掲げる。星を握り潰すと、どろりと光が溢れる。閃光に目を焼かれる。街の中に居ながら器用に自然を引っ張り出して、舞台装置を動かすフクロウに感心する。視界を取り戻すと次の魔法が飛んで来る。森のひとを相手に真っ向勝負など、無謀なことを。目眩しに使った星の残骸が、隕石となり飛んで来るのかと思いきや、花吹雪。
「方舟は冬の底。でも春が来るよ」
 降る花びらを取ろうと、無邪気な人々は手を伸ばした。光は透けて遠ざかる。舞台上の兵は腕で払う。光の種が地に蒔かれた。足元に目を向けている場合ではない。半身引いてから跳ねて獲物を抑える。噛みつかんばかりの獅子を、発芽し地面から伸びる光がくすぐった。幻想を前に狼狽はしない。伸びた植物は刈り取る。このまま伸ばしておけば、昼の明るさを取り戻せるだろうに。いいや、求めるのは蛍を詰め込んだ街灯ではない。街が森になってしまう。兵は畑に降りて剣を振るう。刈り入れが済む頃になると疲れて動きが鈍る。豊作を祝う間は与えられない。収穫物が矢となり放たれる。返し損ねた何本かを身に受ける。血が滲む様子は無いが、ピリピリと光が纏わり付く。よろめくと軌跡に星が散る。立ち止まるよりならば前へ。薙ぎ払う。届かない。狙いを定めて追撃。フクロウの肌を薄く裂く。赤い炎が舌を出し、流れる血を舐める。兵は立ち止まらない。距離を一定に保つフクロウは、舞台の裾に近付く。演者に触れられる距離と見て、観衆が熱狂で舞台上に雪崩れ込む。首輪を解かれた兵たちだ。裾を引いた腕を切り、声を上げようとした口を引き裂く。乱入者の首が飛ぶ。フクロウが花道を歩く。向かい来る者は斬り伏せる。飛び入った兵の血が川となる。血の中に立ち、不気味なほどに滔々と台詞を流す。
「果てなど無いものだとばかり。脇道に逸れて、立ち止まる。 見渡すと花鳥が清風に遊び、大気の壁の向こうには明月がおわす。みな巡り、還り廻り、果てまでの旅路を共にするもの。愛しいものを連れて歩こう。古いものがいつか追いつくその日まで、先を歩こう。天使は世界を愛しただろうか。俺ならば、もう少しだけ続けと願う」
 呼応して観衆の手が掲げられる。光の蔦と白い手が天を指す。広場に森の幻影が呼ばれる。森を背に負った賢者に向かい、もう一人の役者は再び歩み寄る。気押されはしない。フクロウとてひとだから。
「古い時代を薙ぐ暁の星。その身を燃やさずとも、もう一度黄昏を待てば良かろうに」
 ざわめきが反響し大騒ぎ。役者は声を張り上げて木霊のいたずらに対抗しなくてはならない。あまりの騒々しさに半ば自棄で叫んだ。宥めるフクロウは、周囲が静まるタイミングを緩々と計る。
「そうだな、黄昏時になったら起こしてくれ。また飛び立つから」
 物語の上でならば、優しい言葉の種も芽吹くだろう。燃え尽きた灰を寝床にはしない。日の出を呼ぶ声が聞こえると眠くなる。再生の鳥ではないけれど、街に一本の木を植えてくれとフクロウは戯けた。青桐でも植えてくれたら、日の出までには伸びるだろうよ。嘘を真に。広場に木立が現れ、鳥の囀りまで響く。木々は手を屋根まで伸ばし、大輪の花を咲かせ、弾けて散る。花びらがどろどろと流れ落ち、青灰色の森となり、木々は枯れ落ちた。冬が来ると、倒れ重なり合った枯れ枝が獣や悪魔に見える。顔の無い獣が地中から覗く。静まる大地を表情無く眺める。化け物とて水泡の命。花は枯れ、鳥は落とされ、風は滞り、月は狂気を植えつける。
「ひとは幸福なんかじゃないよ。だから川底の石が光るのを喜ぶし、見逃さないんだ」
「あなた達に問うことなど出来ない。街の者は汚濁の中に。汚れた手では、奪い、損ねてしまうだけ」
「個としてのお前の問いを受けよう」
「幻想に濡れて語ろう。幸せはどこに」
「楽園に」
「楽園の景色をあなたは見ただろうか」
「見たとも。花や鳥、風や月の美しい日に。帰りたくなるような景色があるだろう。ひとの中に。暖炉の火の前にも」
「覚えがあるよ」
「この街の景色、暮らしていると分かる。良いものだな。街に住まう者たちよ、お前たちもまたひとであったな。だから、覚えているだろうとも。忘れてしまうけれどもね」
「夢に消えようとも生きよとあなたは言う」
「その通り」
 おやすみ、今はおやすみ。天使の夢の中で。幸せは夢に沈み、人は幻想に沈み、考え事はまた明日。
「石は投じられ波紋を作った。変わっていく。変わっていかねばな。俺はちょっとしか変われないけれど、世界は俺よりももっと長い寿命の中で、少しずつでも積み重ねて変化するだろう。俺も流れに身を投じ、池の底に積もる小石となろう。流れは変わるかな。いつか変わるかも知れないな。俺は変わったのかな。流れの底で考えるとしよう」
 フクロウは同胞への祈りを捧げ決別を告げる。廻る命の膝元で、同胞よ、木々へと還れ。ひとの身の虚しさはあれど、失うことはあれど、求める地は不変。還れるさ。忘れていく。失っていく。思い出せ、始めは一本の木だったこと。万物は流転するとされるが、我々の中からは失われてしまったのだ。記憶の虚が広がる中に、きみ自身が残っているだけ。飛び込んでみるかい? それもまた良し。空いた穴に灰を詰め込んで埋めるのかい。失った者は、穴を埋めるために、誰かの暖炉を奪うのかい。
「我々は森を焼いた街を許しはしない。けれど王の崩御をもって、怨みも捨てよう。空っぽになるには憎すぎる。怨みぬくには愛しすぎる。森のひとを望んだ木々が、ひとを愛さないわけはない。森は街を許さない。お前たちの前にあるものは、一本の木」
 幻想を語ると身に棘が刺さる。現実を語ると帰れなくなる。舞台の上で溺れる。
「分かっているんだ。もう戻れないと。しかし、還れるよ。木に喰われ、森の一部に戻ることで、我々には終わりが訪れるけれどもね。溶けて混ざり合い、流れ着く先に海があるのだとしたら。行く場所を失った我々は、自身の足で歩いてもいい。街の人々はどこへ行く。海を目指し共に行こうか」
「いずれは、同じ流れの中へ」
「街の王は問いを投げた。俺もまた、石を投じて湖面を波立たせた。それは罪。小舟は凪の道を行け。そんな時代が来ればいい。憎く愛しい隣人よ。旅路に幸あらんことを。俺は、これにて舞台から去る」
 身を投じ、川底に積もる石となる。水に浸かった身ならば沈むまで。あなたを失うなど惜しいと兵士が止める。問うのは誰の覚悟だろうか。
「石が投じられ、流れが変わる。気付きから、転換する。一つの時代の幕が降り、夜が明ける」
 おはよう、おやすみ、さよなら。時を告げなくては。
「異邦の友よ、城の仇を討ち正しさを示せ。寄る辺無き同胞よ、異端の同胞殺しを摘み取り安寧を拾い上げろ」
 炎が燃え上がり、枯野を焼き払った。爆ぜる音の中でそれぞれの意思は定まった。舞台を作り上げたフクロウと同様、躍り出た役者も仕上げにかかる。触れれば奪い、他を損じるのが街の者としての生ならば、それはそれとして生きようか。王都の制服に身を包み、剣を構える。
「あの日の傷を返そう」
 何故獣を殺す。食べるため。何故同胞を殺す。理想の渦に放り込むため……理想すら建前。剣を振るわずにはいられない。殺さず歩む道もあるのだが、今は博愛で濁すわけにはいかない。剣を取らねば。命を奪おう。この手に亡骸を抱いて、高らかに勝利を掲げる。そう、この手に亡骸を。
「さよならとは最後の幸福。繋がりを約束しよう。木々と森、花や鳥、一本の川。我々は同じ場所に」
 言い終わったフクロウは、後はもう動かなくなった。兵士は凭れた仇を抱える。
「戦場の傷は俺にとっては悲しみではない。一人のひととしては、あなたを助けたいと思っている」
 早口の独白を、演舞の終了に総立ちで喝采を送る観衆が聞き留めることはない。王都の兵が王殺しを討ち取った。それだけが伝わっていく。知らせに走るにはまだ早いと、役者は再びの称揚を求めた。亡骸と抱擁する。かつての敵は去った。掲げる剣の下にあるのは一個の命。命をこの手に抱いている。兵士は声を上げた。民衆よ悼め。これなるはフクロウ。街に牙を剥き同胞に背を向けた神代の鳥である。あなたがたの剣として王都の兵が討った命、せめて小舟に乗せて送り出すことを許したまえ。彼が森へと還るように道を開けよ。何者も森の鳥を阻むことは出来ない。言い終わるや亡骸を抱いたまま兵士は歩き出す。空を裂く音と共に剣を振り下ろし、道を切り開く。これにて幕。事実は隠匿されている。そしてきみはただの舞台の役者だ。

 通り過ぎる英雄を見送る中に、少女たちも佇んでいた。祭りの終わりを小声で締めくくる。
「彼のしたことを復讐と、どうか言わないで」
「街と森の狭間に、標の木として立ったのだ。街は彼の背後に森を見る。森は彼の向こうに街を見る。それに、そう、これはお芝居だから」
 シェミネは見届ける。役者たちを。憎みもせず、喜びもせず。
「水の流れを堰き止めはしない」
 流れの始まりが清らかな地であればいい。終わりが広々としていたらいいな。

8.満ち足り眠る月
 月よ泣け。星を降らせ、闇を落とせ。
 空白を持っている。空っぽの箱の中に天使が座っている。おとぎ話をみなが聞いた。街角や、眠りの前や、植物のざわめきから。獣も天使の物語を持っているよ。木々も、語る。
 空は命を持たず青いまま。生物があらかじめ持つ名前の無い空間には、悲しみや災いが詰まっていて、もしかして開けてしまったのだろうか、パンドラの箱。部屋にちょこんと座って最後まで居残る天使が、希望であればいいと夢を見る。夢かもしれないけれど、望みを物語に託す。天使を知らない。けれど伝承する。希望とともに。
「天使はいる?」
「いるよ」
 子供たちはそれぞれの天使の物語を披露しながら笑い合う。

 フクロウは森のひととして生きる道を見付けた。還れたのだろう。私たちは、森のひととして最期の瞬間まで生きられる。リピアは言った。フクロウは渡り鳥たちの道を拓いた。届いた、届いたよ。森への地図を読み解こう。永遠の生に、さよならする日まで。彼は希望が存在し闇の先が明るいことを、我が身を薪として炎に投じて知らせた。
「間違いなく、これはきみに宛てた舞台だ。シェミネ。ただ、きみが責任を負う必要は無い。フクロウが、きみを通して得た答えを形にしたくなったのさ。きみのための森のひと、フクロウからの手紙」
 輝く炎だけが我々の前に残っている。きれいだね。そうだね、疲れたのだろう。疲れたのだろうね、夜の鳥。闇の街で松明が猩々と燃えている。朝がじきやって来る。くたびれたなら、休むといい。炎を見送る。今は、さよなら。
 同胞よ、フクロウの爪で闇が裂かれ、溢れた朝を見ているかい。見ていなくとも、私が伝え広げよう。同胞よ、共に森へ還ろう。フクロウもまた希望を抱いていたのだ。希望の種火を戦火の外で拾った。種火を探し当てたはいいが、燃やすものが無いからと、枯れたその身を焼いた。不器用な上に疲れきっていた。彼の火はよく燃えた。火の加護でも得たのだろう。火を絶やしてはならない。灰は新たな草原を育む。いつか森になる。
「みな終着地を探している。終着地に辿り着いたとして、選んだ地に答えを埋めることが出来るだろうか。定めてしまうにはまだ呼ぶ声が多すぎる。風がくすぐったい。シェミネ、私たちは渡り鳥だ。旅人だ。私たちは何処に行くのかな」
「長い散歩のようなもの。いつかは帰るけれど、今は海へ」
「広いお風呂でたゆたう。海は広いと聞く。何処にも辿り着かない、星の夢」
 わたしたちはうたかたみたいなものだ。続きがあると。朝が来ると。灰が積もるように出来た道。散歩から戻らぬ子供。永遠の夕暮れのカラス。声が聞こえるはず。いずれまた会おう。きみの元が、帰る場所。
「大丈夫、きみは選んだ」
 自分の生き様を曲げることなく生き、再び巡り合えたなら。そして笑うきみが迎えてくれたならば。ひとの道に正しさは無いけれど、それでも実りを結んだと誇りたい。辛くても生きなければ。虚しくとも立ち上がらなければ。
「立ち上がるには、特別な力はいらないんだ。でも、とても難しい」
 行きましょうかと、少女が席を立った。軽やかに。子供に手を差し出して。子供は優雅に少女の手を取って立ち上がる。今日も良い夢を見ようと、宿に戻っていく。
 少女らは今のところ、立ち上がる事だけを選んだ。まだまだ力は足りないけれど、立ち上がる者は前に進むことを許される。立ち上がる少女らを守る瞳がふっと緩む。道が拓かれていく。少女のための散歩道が。

エピローグ

1.海に鳥
 はじめに呼び声が聞こえた。向かって行けば、何かあると思った。
 陸を舐め取る音が迫る。この地はなんと寂しい。潮騒の手招き、撓る風、空が震えている。進もうか戻ろうか。頭では不安を覚えながら、進路は変わらない。満ち引きに捕まった心は、この音を知っていると言う。本当だろうか。
 雲は厚いが、裂け目から陽が射しているらしく、重く引き摺るローブの裾を縁取っている。上空の妃の歩みは早い。海鳴りはこんなに早い風に乗って来るのか。見上げた子供が呟いた。草の波を掻き分けて、小舟が進む。海へ。

 遠くから臨んだだけではまっさらに見える浜にも、近付くにつれ磯のかおり、漂着物、生物の足音など、生態が見えるようになる。潮風にそよぐ植物の背中を支えてやると、拗ねた顔をして海の方を向いてしまった。小枝や貝は青い手触り。塩の粒がざらざらとくすぐったい風は絶えず吹く。広い浜を、時間をかけて横切る。目に入る物に刻まれた波紋に耳を傾ける。立ち止まっては手を伸ばす。
 海藻を並べて絵を作る。集めた貝殻は掻いた穴に放り込む。流木を立たせてオブジェとする。波打ち際の一角は美術館になっていた。一通り遊んだ後らしい。
「なにもないねえ」
 磯辺にすっかり馴染んだ頃に、長く伸びて子供が言った。砂の城が波にさらわれている。やっと辿りついた果てに座って、釣り糸を垂らすことにした。
「釣れるのかしら」
「釣れるのかなあ」
 遊び疲れた二人は、海の風に吹かれるままに。 骨を削って作られた釣り糸は、餌を付けずに海を漂わせる。骨が辿りつく先も海なのだろうか。暗い沖に泳ぐ魚影は巨大。釣られているのはこちらではないだろうか。いつか大口を開けた波に連れられて海中に転がりこむしかなくなるのだ。
 恐る恐る片足を水に浸し、纏わり付く砂にざわりとし、膝まで入って衣を濡らす頃になると歓声が上がる。再び賑やかに遊び始める。浜に固定した釣り糸の周りに、疲れきって座る。鳥が横切れば追いかけてどこまでも走って行く。夜が来れば茂みの窪地で丸くなって眠る。どれほど時間を潰しただろう。
「釣れるのかしら」
「溶けてしまったのかな」
 相変わらず海を漂うだけの釣り糸が、まどろむ少女たちの手から引き上げられた。背の高い陰がかかって、見上げるとそこだけぽっかり青空が見えていて、久しぶりの空色に手を伸ばす。それぞれの手を取って、温度を確かめ合う。
「釣れた、わ」
 少女がくしゃりと表情を崩した。
「きみたちは、まったく……」
 空は相変わらず曇り続きで、雲がひっきりなしに流れ続け、その中に一点現れた空色の瞳は、続く言葉を探せない。三人は何も言わず海に向かっている。海は白く暗く、変わらぬ音を響かせている。ここには何もない。存在や、記憶や選択は、足元に染み込んでしまったし、掘り起こしたところで水が湧くだけ。柔らかな砂の地面。混ざり合って、朧になって。流れが見える。龍のようにうねりながら海を目指す、水の流れの間の出来事、いかなる汚濁も見据える視点。一本の生の流れが、留まらず続いていく。
「探しものはなに?」
 青年が問う。その瞳を見つめながら少女は、海なのね、と呟いた。それはあなたの世界の果て。私の探しもの。流れ込む一点。鳥の形の空白よ、海にも空にも染まらずに、どこへ行く。
「飛び続けるだなんて、残酷なことね」
 そして愛しいこと、と少女は答えた。浮かんでいた海鳥が発つ。舞い上がってみれば、何羽浮かんでいたのだろうか、羽音がこちらまで聞こえて来る。魚が跳ねる。足元で貝があぶくを吐く。波が寄せて、空いた穴や足跡を消す。海が呑み込む。
「生きることは、怖くない」
「ならば、進もうか」
 しばらく海を眺めていたけれど、動くものがなくなって、日が落ちることを風が知らせて、青年がくしゃみをした。ここは寒いよ。青年が促すと、少女らの影も付いて行く。寒い、寒いと口にしながら。体をさすり、じゃれ合ううちに、草の原で転げた。また来たいと子供が言うから、二人はそれぞれ返事を返した。寝転がり、空を見上げる。染み込んだ空っぽを連れて。
「帰ろう」

しあわせのみつば 4/地平に墜つ月の章

しあわせのみつば 4/地平に墜つ月の章

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  • 中編
  • 全年齢対象
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