傘をさして帰る男

魚井一実

 半袖にチョッキを羽織っていたので、残暑のころだと思います。空は一面の青空。雨が降るくらいなら、ゾウが降ったほうがよさそうな具合の天気でした。
 電車がホームを出てからすぐのことです。向こうの山の稜線を超えて、低く、厚い雲の一群が迫ってきました。灰色というよりはにび色で、摩族が操る空中戦艦のようでした。私は次の駅で降りなければいけないのですが、傘など持ち合わせてはおりません。黒雲艦隊はぐんぐんとこちらに近づいてきます。電車は速度を緩めることなく弧を描き、暗黒船団が支配する山向こうへと走ってゆきます。扉と座席のわずかな隙間にコテッと頭をもたれて見ると、三、二、一、キューの合図とともに、リムスキー・コルサコフ編「禿山の一夜」が流れてくるのです。

 電車が駅に着き、ドアのがらりに合わせるかのように、土砂降りの大雨になりました(教室のドアの上のほうに黒板消しを挟んでおいて、先生ががらりと入ってきた途端に黒板消しが落ちて、先生の頭は真っ白け――というあのいたずらの拡張版みたいな感じ)。改札口はてんてこまいでした。頭にバッグを掲げて駆けるひと、携帯電話で家族にお迎えの電話を入れているひと、売店のひさしに身を寄せて、缶ジュースを手に雨宿りをしているひと、ただただ灰色の空を見上げているひと……。
 私は……というと、先ほど申し上げた通り何の用意もなかったものですから、全身ずぶ濡れの事態は避けられません。こんなとき、中学高校時代の同級生がポンと肩を叩いて、「お、やっぱりそうだ。久しぶり。いま、どうしてんの? あれ、傘、無いの? どう、入ってく?」と声をかけてくれたら、どんなに良いか。酒井若菜演じる小野妹子がガシっと腕にしがみついてきて、かわいらしい柄の小傘をかざして「ねぇ、一緒に帰りましょうよぉ」と甘い声をかけてくれたらどんなに良いかと、限りなく『あり得ない』に近い奇跡の訪れを待つより他にありませんでした。

 脇でバッと音がしました。コウモリ傘を広げていらっしゃる殿方が一人。ビシビシビッと音を立てて打つ雨の中を、霧立つ駅前広場を、まるでなんでもないかのように歩いてゆかれるのです。さながらそれは、エネルギー弾の一斉掃射なかを、フォースバリアに守られて進む超能力戦士のよう。超人ロック・雨の駅前広場編。

   §

 あれ? と思ったのは、家についてシャワーを浴びていたときでした(雨に濡れて重く張り付いた服を脱ぐのがどんなに面倒だったかというお話しは、今回は省きます)。あの御仁は、どうして傘の用意ができていたのでしょう。天気予報ですら予測できなかった突然の大雨、どうして傘が要ると知っていたのでしょう。
 照り降りに関係なく、毎日傘を持ち歩いている方だったのでしょうか。いや、それでしたら、持ち運びやすい折り畳み傘を忍ばせると思います。
 野生のカンのようなものを持っていて、家を出るときに、夕刻の雨を予感していたのでしょうか。チュチュンとスズメが鳴く朝露の空に、鼻をクンクンとさせて、
「……降る」
 だったのでしょうか。
「……行ってくる」
 と門を出たところへスズメが糞を落としても、上のほうなど見向きもせずに、ただ半歩、すっとかわして避けてしまうような方だったのでしょうか。頭のわきに手をかざして、いったい何をしていらっしゃるのかと思っていたら、朝練習にいそしむ野球部員の場外ファールを、どんぴしゃりでキャッチしてしまう方だったのでしょうか。
「……アウトだな」
 と、ひとこと言って、やはりそちらのほうなど見向もせずに、部員が構えるグローブの中へと正確無比にボールを投げ返してしまう方だったのでしようか。
 どんな格好の方だったのかは、今となっては思い出せず。ごくごく普通のおじさんだったような。コンビニエンスストアのレジ袋を下げていたような。目立たず尖らず。休日の午前は、愛犬の相手と庭木の手入れで過ごしているような。そんな感じの方だったと思います。

   §

 シャワーを浴び終え、精根尽き果てソファーにぐたりとしていた頃には、雨は霧雨になっていました。帰りの電車に乗るのがもう十五分早ければ濡れずに済みましたし、もう二・三十分遅ければ、上着一枚を湿らせる程度で済んだのです。ということはですよ。あの男性は、あの電車を含めた向こう二・三本の為だけに、傘を持って行ったことにはなりませんか。
 ピンポイントで傘の要り様を感じ取るとは、恐るべし野生のカン。もしかしたら、競馬をやれば万馬券、麻雀をやれば振り込みなしの超ギャンブラーなのかもしれません。(いや、これも野生のカンで、「博打で得た金など身につかぬ」と手を出さず、まじめにコツコツ勤めていらっしゃるのかもしまれせん)。
 むむむむむ。私も野生のカンを磨かなければいけません。

傘をさして帰る男

 雨が降ると傘をさすのは自然といえます。しかし、あまりにも都合よく傘が出てきてしまうと、逆に不自然に見えてしまうものです。

傘をさして帰る男

突然の大雨の中、こうもり傘を悠然と差していった人を見たときの話し。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-26

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