しあわせのみつば 3/星揺り起こす風の章
岩間のひと
1.精霊の言うとおり
「精霊を助けてくれたそうだね」
怪しげな男に話しかけられてシェミネの心臓は跳ね、心底逃げようと思った。
旅人というものは警戒されるし、旅人も他の者を警戒する。優しげに声を掛ける者とは距離を取るべしとリピアにしつこく教えた。恐れる出来事が起ころうとしているのか。スイも軽く息を止めて男の次の動作に注目した。三人が一目散に逃げ出さなかったのは、僅かに心当たりのある単語が引っかかったからだろう。
「精霊ってなんのことかな?」
再三知らない人と話してはいけませんと注意を受けたリピアが、男に返事をした。
リピアは何も知らぬ動物や幼子とは違い、確かに良識ある森のひとだった。街の生活を体験したばかりではあるが、三人で歩く範囲での問題は無いようだった。珍しい建物や装飾を面白く見て歩き、記号や絵に関心を持ち、たっぷりの睡眠と食事をとった。次の街がよほど危険でない限り、気ままに自由行動を楽しもうと話していたところだ。
森と街の暮らしの違いはあるけれど、我々はひとなのだとリピアは言う。壁はあるが、意識は近い場所にある。ではさて、旅路の三人はひととしてどの程度理解を深めてこられたか。そして今は怪しげな男とどのように分かり合うか。
共有する語句は精霊。精霊とは、街のひとが忘れつつある存在。リピアに見え、シェミネは森を通して僅かに繋がっていて、スイには見えない。街の人が忘れても、精霊はそこにいる。ただ見えないことは少しさみしい。街を住処と決めた精霊は、たまに振り向いてくれる者を待っている。
「私は岩間のひと。岩壁の隙間から視線を感じることがあるだろう。岩に耳あり。石に目あり。私はきみたちをいつも見ている」
「うそでしょう……?」
「嘘でしょう」
シェミネが衝撃に身を震わせながら小声で言うのにかぶせて、リピアが低く切り払う。
「うそです。我々は地に根付き動かぬことを選んだ種。情報には消極的だ。橋の街より下った場所にある集落にひっそりと暮らしているよ」
街の人は、ひとの輪を追われて孤立している。魔法を失った代わりに金属を用い力とするようになった。その金属は、場所によっては岩間のひとの領域とかぶる場所で採掘される。争わず力添えもしないが、交渉、取り引きは行われる。物を通じて、街の人も多少は受け入れられている。
「若い三人は、街の人と、森のひとのご一行だろうか?」
「その通りです。はじめまして」
「広場の精霊はここらの緑に力を与える存在。我々も僅かな緑を健やかに生かしたいと、たまに精霊の様子を見に行くのだが、今日は何故か草木がご機嫌で。さてはと思い来てみれば、珍しい森の香りがしたものだから、つい声をかけてしまった。驚かせてすまないね」
岩間のひと、彼らはどちらかと言えば無口な種であり、集落からほとんど動かず過ごす。目の前の者からは、岩のごとき人々を想像出来ない。精霊が異種間の交流を育んだか。流れ者たちの、おかしな出会い。
2.隙間のトンネル
集落を見学して行くかい。人懐こい岩間のひとが三人を誘う。我々が入り込むことを集落の人々は嫌わないか、スイが聞く。
「美しいと思うよ。鉱石が取れるんだ。それから街の人の出入りは、他の集落と比べると多い。鉱石のやり取りがあるんだ」
「ねえ、スイ。見てみたいな」
「リピアの好奇心に我々の運命を委ねよう」
お願いしますと返すと、男は颯爽と歩きだす。岩の街道には、そこかしこに暗い口が空いていた。街の吊り橋から下を覗いても谷底は見えなかった。どれほど深いのだろう。谷底に通じるのだろうか、この岩と岩の隙間。入って行こうとは思えない闇を一つ選んで、岩間のひとは半身を滑り込ませた。闇の向こうから手招きする。石に惑うことなく彼に着いて行かなくては。
地中へと招かれていく。足音と、水の落ちる音が不規則に重なる。連なりぞろぞろポタポタと、多足の生物になったよう。音の反響と動かない空気。トンネルを振り返りもせず歩く。入り口は既に見えない。
「私はおそらく君の生まれた街を知っているよ。砂と黄色い風吹く、鍛治の街の人だろう」
口数の多い頭が尾に話しかけた。即ち案内人からスイ。
「今や街の名前も忘れてしまったけれど、おそらく今、あなたと俺は同じ風景を思い起こしているでしょう。ご存知なのですね。街の鉄はきっとあなた方から譲り受けた物なのでしょう。それにしても、俺は街を離れて久しい。それでも分かってしまうものですか?」
「君は鉄や鋼と仲が良さそうだからね。あの街の近くにも、岩間の集落があるんだよ。忙しかった頃があってね、何度か赴いたよ。しかし、そうだね、今の君は街の人ではなく旅路にあるのだから、君の街の様子を聞くことは出来ないよね」
暗闇のトンネルに風を見つけようとするかのように、スイは匂いを確かめた。土は繋がっている。鍛えた鉄の中に、この土から出たものもあったかもしれない。生まれの街の匂いを思い出そうとする。暗闇にしみ入る湿気った匂いがする。乾いた砂の匂いは見付からなかった。忘れてしまったのだろうか。思い出そうと試みる。
「作物の育ちにくい不毛な山地で、代わりに岩の恩恵は受け、鍛治を頼りに生活する、比較的大きな街でした。それゆえに今は無いかもしれない。あったとして、行けるかどうか。出ることは簡単だったのにな」
「スイ、行けるかどうか、確かめよう」
「ああ、行ってみるよ」
「スイ! 私たちも行くよ!」
「そうなのか。ありがとう。今はここが帰る場所だけれどもね。この旅路が」
リピアはものを作る人々の暮らしを想像する。街は森のようだ。旅装に最低限の荷物を背負う旅路も良いものだが、街の暮らしも楽しいのだろう。買い物籠を腕から下げてみたり、様々な道具を腰に下げたり、とりどりの商品の色に溺れたり。スイもシェミネもそのようにして暮らしていて、旅路にあっても街のかおりを引いている。
旅路へと帰る身だとスイが言うので、シェミネは微笑んで、共に過ごせることを感謝した。
「スイがいなければ、私は自分の庭をぐるぐる歩き回っているだけだった」
「ここは誰の庭なのかな」
「誰かの通った道なのね」
「シェミネが庭を歩き回らなければ、俺はテラスで優雅にお茶を啜って見ているだけだったさ」
テラスから庭へ、庭から野へ、野から森へ。この旅路は長い散歩だとシェミネは言う。気ままに歩き、帰る場所とはどこか。
「認識の外に出ることは、他のものの力が必要なんだ。森のひとも、認識を自ら広げることは出来ない。きみたちを追うから、私はこれほど遠くまで来られる。渡り鳥なのか、鳥に運ばれる種なのか。……おっと、なんだ、やや」
リピアが踊り、言葉を切った。後退し、シェミネに抱きとめられる。ごめん、言いながら足元を見ると、キラリと一瞬光るものが。大きな宝石だ。持って帰ろうか。いいや、それは動き回る。
「虫なのか」
宝石は地を這いまた闇に消えた。スイが光を手にしながらそちらを見る。
「硬く冷たくそわそわしたものが纏わりついたのさ、驚かせてごめんよ」
リピアが詫びる。怪我は無いかなと岩間のひとが尋ね、害のないものだと教えてくれる。
「あれは鉱石虫。石なのか虫なのか分からないんだけれど。認識の外の生物なのかな。鉱石虫はひとをも身の内に招き、空のまた向こうを目指し、高空を彷徨うというお話があるよ」
「空の向こうへは行けないのですか」
「石であり虫でありひとである。何かは出来るかもね。認識の外の生物は、誰の認識を受けるんだろう」
「空かな」
岩間にて、空を想う。
ひとやものの繋がりが道になる。旅するものは誰かに呼ばれ、西へ東へ、見知らぬ世界へ。輪の中を廻り続けるひとの道から外れた街の人は、誰を求めて飛び出したのか。しずしずと廻るひとたちは、何を知っているのか。鋼や鉄と共にひとの間を行く彼、岩間のひとは、疑問に触れる。
「街の人は作り出すことを選んだ。何かをするために。環の中の我々が、木に岩に溶け込むことを選んだのは、日々の穏やかな眠りのため。環の外の街の人は、何をしようとしているのか。眠れない理由でもあるのかな? 環から外れた今の君たちを、我々はよく知らない。そこに壁がある。私は興味がある。だから私はひとの間を伝い歩き続けるよ。それから君たちは、とても面白い」
長い長いトンネル。気の長いお喋り。
3.案内人の言うとおり
そこには深い闇が広がっており、ときおりチラチラと瞬く光は星のようで、岩間のひとの集落からならば、空の向こうを想う鉱石虫も育つのだろう。
「ようこそ、ここが我々の集落だよ」
灯りの下、岩間のひとが作業をしているのが見える。集落の規模に対して灯りは弱く少ない。岩間のひとはあまり動かない。作業をする者の他は、瞑想するように過ごす。集落は静かだが、気で満ちており淋しくはない。
上よりも下に深いようで、鉱石虫の星空は眼下に眺める形になる。夜空に潜っていく。円くくり抜かれた空間であり、壁に沿って回廊があり、細かいトンネルや、小さな上下階段、小部屋といった構成。壁に掘られた階段や、下りのトンネル、誰かに挨拶をして、作業場などを通り過ぎ、またトンネル、階段を上った先は壁沿いの回廊なのだが。はて先程立った場所と同じであったか。暗闇と、それから円というものは感覚を狂わせる。慣れれば快適なのだ、と案内人は笑った。
「どうだい、少し散策してみては」
集落の長への挨拶が終わってから、好きに歩いてみると良いとの案内人の提案。いつだって旅路は知らない道を行くものだ。ここが集落ならば迷って飢えることも無い。次の街に着いたら自由に行動しようと決めた三人は顔を見合わせる。好奇心は顔を出さない。修行僧のような岩間のひとの生活空間と、空に似た無限の闇の質量と、僅かな生活の灯りが星のように瞬く、ここは神秘の空間。間違いなく異文化。答えがまとまり、リピアが意思表示する。
「岩間のひとと森のひとは、住む場所違えど土と根で関わり合っている。隣人である。木がもっと深い場所に根を伸ばすわけにはいかないけれどもね。構造はそう、東西南北が分かるくらい。いや、分からないか。案内はもちろん、あると嬉しいな」
なにしろ来た道さえ曖昧で、彼から離れると後から合流するのは難しい。何日か彷徨えば道も覚えるだろうし、急ぐ旅ではないが、それにしてもだ。案内人は、住み着いても構わないと茶化す。
「迷宮のようだろう? 私たちにとっては見知った道なのだけれど」
「本当に。通るたびに姿が変わる」
「岩は動かず変わらず静かなものだけれど、そういえばそんな場所があるよね。街の人の作った都市だよ。街が生きているんだ。王都だよ」
「なんと、奇怪な」
リピアが声を上げる。岩間のひとは、スイを見ながら続ける。
「我々ひとの住処を知ったら、今度は自分自身を知るといい」
引き続きご案内致しましょう、恭しく頭を垂れ、歩き出す。
4.彗星の通り道
集落やその周辺では鉱石が採れる。手作業でトンネルを掘り進めるのは大変な労力だが、彼らはそれで生活しているわけではない。鉱石の声を聴いた者が、ただ呼ばれて岩を削る。掘られた鉱石は彼らの生活に組み込まれたり、街のひとの求めに応じて外に出したりする。鉱石が動くのは好かないから、外に出すことは少ない。やり取りは気紛れに行われる。案内人なども気分次第の仲介のようだが、不思議と取引先が集まる。
縦横に掘られていったトンネル、小部屋、階段を見、顔を出した鉱石やそれらが蓄えられた部屋もちらりと見た。いずれ下層にも中央の空間のような広間が出来るのではないか、集落は地下深くまで広がっていくのかと聞くと、いいやそこはある程度というものさ、と答えた。
「木の根の届かない場所に住んではいるが、岩の入り込めぬ場所もあるのさ、それに広くし過ぎたって寂しいだろう、お隣さんが見えなくなってさ」
中央の空間も、彼らの手によるものではないそうだ。岩に溶け、闇に拡散し、しかし孤独ではなく生きる彼らの中を歩く。湧き水の部屋や、光り苔の空間にしばし身を置き、闇と光がちょうどよく目に入るようになってくる。湿った空気に身体が馴染んでくる。階段の途中、足元や頭上で鋭く反射する鉱石虫の光にも慣れた頃である。
「もしここで私がふと消えてしまったら、君たち外に出られるだろうか。出られるだろうな。君たちだから。森のひともいる。そう、迷ってしまう人もいるんだ。君たちでも迷うかな? 迷うとどうなるだろう。外に出たときに、見える景色が変わるかな? 同じ景色の違う場所に出るだろうか」
鉱石に惑わされないようにね。いたずらっぽく言った彼は、階段の先の闇のと同化した。おかしい、目は慣れてきたはずなのだが。
「そこにいるのですか」
「いるよ、階段を上っておいで」
スイが先頭に立ち、シェミネの手を引き上っていく。お互いの顔が見えず、手元の光も威勢がない。闇の濃さは生暖かさを伴い、喉が詰まる。まるで火の前にいるような。
「君は金属を鍛えるとき、魂をすこしだけ注ぐだろう。大丈夫、魂が導くよ。街の人である君は、そうして旅をするんだね」
金属には導かれている気がしない。スイがもごもごと言う。それは大きな力を持ち、火の中で怒鳴り合うように槌を振るい会話する。腰のあたりで大人しくしている剣や、どこかで血を吸った剣が何かを見出すとでも言うのか。
「君は鉄や鋼と仲が良いからね。ところで最近、金属の流れが一箇所に集まっている。そんな声も、聞こえているのではないかね」
岩間のひとが、そこでぴたりと口を閉じた。温度が消えた。
「……スイはいつも道を照らしてくれるわ」
ここまでだったのだろう。案内人は呼びかけに応じない。光源に顔を寄せ合い存在を確かめて、三人は歩き始めた。お喋りな彼がいないので、なんだか静かだ。
「その道はシェミネの中にあるんだ。俺が出来ることは照らすこと。点から線になれば空間が広がることと同じ」
スイが先頭に立ち、体はロープで結び迷子防止。シェミネがリピアの手を引き、空色の外套を追う。
「私は自ら先に進めないけれど、二人について行くことで進めるようになるんだ。二人は私の空間を開いていく」
幾つか分かれ道があった気もするが、なにしろ見えない。岩の隙間から広がった空間は、天体のごとく旅人を引き寄せ泳がせ、ほいと軌道から放り投げる。竜宮の亀ならば律儀に浜に返してくれるのに。しかし玉手箱を持たされるようでは困る。自力で元いた場所に戻るのだ。
「同じ星の上で、誰かの描いた軌道に乗りましょう」
彗星が白く燃えた。光の尾を掴み、速さに乗って。
「シェミネ、俺はきみの中に終わりがあると思っているんだ」
外の光に高揚し、スイはぽつりとそう言った。
ブラックボックス
1.黒い箱の丘
見慣れない光景だった。いや、この旅の中に見慣れた景色などなかったが。それとはまた違った意味で、得体の知れない恐ろしさが漂う景色。近付くべきか迷った。近付いてはならない気もした。足音が眠る者を起こすような気がした。分厚い雲の間から光の梯子が射す。曇天の下、なだらかな丘陵地帯の、濃く陰影が落ちた場所。黒い箱が等間隔に並んでいる。墓石だろうか。広範囲に渡る。一つの丘の斜面から、土砂崩れのように表面をざらりと埋め、谷に裾を広げている。箱は冷えた溶岩のようにねっとりと黒光りし、遠くからでも亀裂が駆けているのが分かった。丘の草も、青白く痩せているように見える。
「おむすび転がしねずみの浄土へ」
連なる丘を見ていたリピアが呟いて、なんとなくそれを聞いてしまった残りの二人。誰ともなく黒い箱の並ぶ方へと進路を変えた。
息を潜めながら歩いた。空気はすうっと通り抜け、灰色の雲の隙間から時々光が注ぎ、背丈低くカサカサと鳴る足元の雑草は、野山のそれと比べると絨毯のよう。
喧騒の中にいるわけでもないのに、方々から声が聞こえるような気がした。黒い箱に掛かる影の営みがあるようだった。蟻の生活を眺める事と似ている。三人が立ち入ったことで影が混乱する様子も無かったので、散策を続ける。この場所は誰かの手が掛かっており、街と言っても良さそうだった。
黒い箱はシェミネほどの高さがあった。三人が並んで通れるほどの間隔で、碁石のように並べられている。傾斜地なのでそれほど圧迫感もない。石で出来ているようにも見えるが、有機物めいた佇まいをしている。冷たい命がぼんやりと光を放っているようなのだ。表面を走る太い亀裂の奥に触れたら熱を感じるだろうか。墓石、あるいは機構とも表現出来そうだ。
「おや、これ」
黒い箱の横に、籠が置かれている。ふわりと被せられたレースのハンカチの下に、柑橘の実が半分ほど、コロコロと入っていた。
どう見ても置き忘れ。
「近くに誰かいる?」
注意して見回すが、丘を風が渡るだけ。
「シトラスころころ転がして……」
リピアがぱくりと一つ食べた。
「転がさずに食べてしまっては、物語が進展しない」
「拾いものを食べてはなりませぬ!」
「大丈夫さ、渡り鳥はシトラスとの親和性が高いんだ」
親和性だなんて何もかもを納得させるような言葉を放り込んで、二人が一瞬黙った隙に、
「忘れ物を届けに行こうよ。ほら」
一つの柑橘を転がした。コロコロ、呼ばれるままに丘を下る。黒い箱の間を上手にすり抜けて。コリントゲームの遊戯台の上、穴の先は天竺か、常世か。
2.侵緑の洞
台の上の球は、打ち込まれた無数の釘によって幾つもの進路を取り、一枚の盤上で毎回違う旅をする。落ちる穴は違っても、辿り着く場所は同じだから、好きに跳ね回ればいい。
そんな想像をしており、草で出来たうつろな洞に入ったところで、二人を見失った。一つの柑橘を追いかけていたはずなのに、はぐれるとは器用な。これまでの旅の中でも何度かこうしてはぐれたが、不思議と三人に戻るのだ。それにしても、転がる黄色まで見失った。
過去の積み重ねが未来を決定する事は無い。別れは再会に繋がらない。このまま誰も見つけられなければどうなるんだろう。シェミネはたった一人の旅路を想像する。これまで来た道を一人で歩き直す。同じ旅路など辿れやしない。見つけなければ。心を定め、すとんと切り株に腰を下ろす。目を瞑る。
目を瞑ると、瞼の端から木漏れ日がしずしずと訪れた。森はどこまでも続いていた。この場所からも、きっとずっと続く。地平が見える場所があるならば行ってみよう。森から伸びる糸を辿る。三人で抜けた数々の森と、見上げた空。木の葉たちが手を伸ばす。もっと光を。赤が射す。リピアの森の鮮烈な風景。スイと歩いた森の深かったこと。かつて住んでいた森の隅々や、逃れ歩いた夜の冷たさ。過去へ過去へと遡る。一本の道をつける。
彼女の意識はうつろいやすい。今居る森はどの森か、彼女は意識しているのか。三人で居ながら一人であったり、ここに居ながら別の場所を歩いている。記憶を取り出し、絨毯のように敷いて、踏み込めばその場所に行ける。彼女は幾度も同じ景色の中を旅する。盤上で弾かれた球のように。そんな彼女は、今日は道連れ二人を探すため、静かに記憶を見つめ直す。絨毯の端を探し、抜け出して、くるくる纏めて記憶の棚に仕舞おうと。そうして今を探そうとしている。記憶の中に、今が紛れ込んでいる。今の上に立たなくては。
3.水路通ず
丘の割れ目の湿地。きのこにシダに、小さな家々。一件一件ノックして探そう。切り株から立ち上がる。そう、一歩目がいちばん重い。自らの記憶だって未知のものだ。記憶の上は一人で歩かなくてはならない。ぼんやりと迷い込めば、森の出口は現れない。定めて行くのだ。立ち上がったならば、次はもう一歩。進もう。おそれは無い。過去に体験した不安や怖さは無くならない。喜びも、過ぎて消えて無になることなどない。大切にしまわれている。おそれることはない。少なくとも、あの二人が居る場所に、おそれは無い。
「私はそこにいるのでしょう」
そう、三人で。
リピアが歌った歌をはなうたで紡げば、一つの家から人が出てくる。不思議な歌ね、と声をかけられる。そうなの、異郷の隣人の歌なの、と答える。暮らしには歌があふれている。ひとは、しばしば歌を紡ぐ。旅路で聞いた歌を紡ぎ直す。それぞれの種の、地域の、言語の。分岐し隔てた暮らしをしているけれど、歌を歌う。シェミネもまた、彼女の歌を織り込んで歌った。
奥まった家に歌が届き、声が聞こえた。森のひとの歌によく似た歌を紡ぐ、あなたはだれ。私は誰なのかしら、シェミネは微笑み答えた。街を離れた人の下に生まれ、森に迎えられた人々が集まる集落で、鳥と虫の囁きと、あめつちの間に育った。攻め落とされた集落から逃れ彷徨った。曖昧に。ひととひとの間で。
共にあった銀の髪の美しい隣人は、そう、その人はつまり森のひとで、なにもかもが少しずつ違う隣人が当たり前にお茶を飲みに来て、世話を焼いて、生に触れていた。本人も周囲も森のひとという呼称を使いはせず、ただ単純に彼を名で呼び、何かである前に兄であった。そして狭間を渡り歩く私は渡り鳥であり、兄にとっての妹であり、スイやリピアの道連れで、この場所の中では誰であるとも言えない。
きっと私は何かになる途中なのね、だから私は私なのね。そう言って笑った。そう、常に何かである必要はない。どのような道を辿ってきた者であっても。
笑い声にくすぐられて、一つの窓からこちらを見ていた幼い女の子も笑った。それでいいのよ、シェミネは言う。幼子は文字を彫りはじめた。日記だろうか。記念だろうか。記憶を残しておくための呪文だろうか。熱心な彼女はあっと言う間に昼を板に注ぎ込み、太陽が降りてきて、真っ赤な夕暮れ時となった。
足元も見えない、こんな真っ赤な闇の中で。
生まれの集落が焼け落ちた日の色は、瓶に詰めて棚の奥に入れられており、たまに足を滑らせて落ちて、とっぷりとした緋色の絵の具に浸かる。瓶の中で手足はいつも重く、時の流れは遅く、死んだ者が絡みつき、無気力である。
炎が身を焼くのを待つばかりだった。蹂躙する側の兵士の刃が降りてくる、その光景を何度も描き、また溶かして瓶に詰めなおす。濃度を増す赤。瓶の中で漬けものになる私を見ている。私はあちらにいる。しかし私が私を見ているのは、助けられたからだ。
焼ける家の中であの人が、仲間である兵を切り捨て、私に向かい、行け、と言う。地平線からやって来た青を映した瞳で。救われたのだ。私は立ち上がる。歩き出して、そして今を見つけ、二人を見つけ、背中に声をかけ、名前を呼ぶのだ。
「スイ」
4.常緑に寄せて
ここは記憶の眠る丘。
各地の、誰かの、記憶の断片が、墓石に刻まれていく。黒い箱を守るひとが、洞(うつろ)のひと。
「届けてくれたの。大変だったろう。転がり落ちてきたものね」
柑橘の入った籠を手渡すと、洞のひとは目を細めて三人が来たことを喜んだ。
集う記憶は、彼らの手で大切に管理されていく。図書館のようだ、とスイが言う。黒い箱は本のようには開けないけれど、中に膨大な記憶を湛えて丘に安置されていく。誰のため、何のためかも分からない、丘の一角、異様な風景。
「この中に、きみたちの記憶も保存されているかもしれないね」
黒く均等に並んだ箱が、日を受けて燦然と立ち並んでいる。
ここにあるの。
ここにいるのね。
ならばきっと大丈夫ね。
記憶は消えないわ。
記憶をくるくるとたたみ、シェミネは棚に収めていった。
「大丈夫?」
「スイ」
「走りながら、ぼんやりしていたでしょう。たまにぼんやりしている。俺もたまにぼんやりして、今日なんか、きみたちを巻き込んで転がってしまったけれどね。リピアなどは果てしなく笑って、洞のひとがいることにもしばらく気付かなかった」
「スイ」
「大丈夫?」
シェミネが笑い出した。あはは、と、声をあげて。スイの手を取って、
「驚いたけれど、大丈夫よ」
やっとそう言って、しばらく笑い続けた。リピアも笑い出して、洞のひとは柑橘をかじりながら稀の旅人を眺めていた。記憶と過ごすひととき。記憶の集う場所に荷を置いて身軽になったら、また彼らは飛び立つだろう。今が帰ってくる。
光明の丘
1.リピア、森をみる
振り返り、ああ、これが森なのかと思った。木の葉と光、影。木々は寄り添い、動物や赤い花の園や母木を隠した。森を旅立つ日、みな遠く。
外から見た森は一つの生物だった。生物が身の内に宝物を抱えているならば、口をこじ開けて入りたくなるのだろうか。王都の兵が通ったであろう道を遡る。悲しみは好奇心に置き換えて。虚ろは空に放て。渡り鳥となれ。
王都を知ろう、街の人を知ろうとリピアは定めた。街の人は環の外の存在だけれど、根はいつだって一つ。恐れずに。
この広い空も、森であればいいと思った。蒼い木の葉がざわめく天井、一つの森。空の下。
2.白いたてがみ
同胞の住まう地は、なんとなくわかる。住みたい場所だなと思えば誰かしら居るものだ。旅では出会わなかったにしても。種が好む環境というものがある。丘の上からその場所を見たとき、リピアはやはり住みたいなと思った。誰かいるだろうか。同胞の声を聞けるだろうか。獅子の鬣のような木立を目指し、ぴかぴかと光る草原、獣の背を下りていく。
「この場所は新しい」
なんとなく口にした。白い幹の低木が波を描いている。櫛で撫でられ、寝転ぶ獣。高地にそよぐ風。囁きあう虫。小鳥のいない空。
スイが一度口を開いて、閉じた。何だ、とリピアは見上げる。隣を歩くスイ。リピアとスイでは身長差がある。こうして近くを歩くと表情が見えにくい。スイも獣の鬣を見ている。リピアの見ていた白い林。
「あの林まで歩いたら、今日は休もう。丘陵地帯を抜けると、歩きにくい道になる」
一つ二つと丘を見送り、長く歩いた後だった。まばらな木々と、短く揺れる草の原。穏やかな晴れ間も冷たい雨も、霧や雲も抜けて、見慣れてきた丘陵地帯も終わりにさしかかる。うねりが次第に緩やかになっていく。標高はやや高く、晴れ間は気紛れで、さきほどまで機嫌良く昼寝していた獣が身を震わす。雲は低く降りてきて、さわれそう。
示された場所まで歩ききる。白い若木がしなやかに伸びている。雨を防ぐには頼りない、細い腕。雲に飲まれ視界が狭くなる。身を寄せ一息つく。
「降ってくるかな」
「どうだろうね。雲が厚くなっただけかもしれない。でも屋根を張るよ」
スイが居場所を整える間に、リピアとシェミネは白い林を軽く散策した。誰かの縄張りならば一声かけなくてはならないなと、口にはしないが探しものをする足取り。奥に踏み入る背中をスイが横目で追う。静かだ。なだらかに崩れる天気の足音を聞いている。雲の足音は遠雷。遠来は軍楽隊の太鼓。留まる旅人に関心を寄せる者はなく、こちらからも近付くべきでもない。雲の向こうから呼び戻そうかという頃に、二人が戻って来た。何事も無かったとの報せ。湯を沸かして飲む。誰かの喉がこくりと鳴るのが聞こえる。
落ち着くと、シェミネは木にもたれて目を閉じた。いつもなら付近の草の観察や採集を始めそうな頃だが、物見のついでに済ませたのだろうか。あるいは体調を崩しているのだろうかとスイが様子を伺っていたが、微睡む姿は穏やかだ。それで安心する。暫く眺めている。
雲が冷たく這い、流れていく。静かだ。時間が雲に流されていく。自分と相手の距離が可視化するようだ。二人きりみたいだな。おかしくなって、ねえリピア、話しかけようとしたら、居ない。二人きりだった。
3.ひとは森へ、涙は地に
腐敗。命が滞る、先が見えぬ、木が崩れ落ちる。邪魔になるものは何も無い、と思った。手枷も、猿轡も、痛みも。しかし、光が闇であると気付き、自らの思考が急に鈍った事に気付き、伸ばした手は何に向けて、天に向けて、誰に向けてのものだったか理解出来ない。私が崩れ落ちる。なにもかも終わるのか。
足元を見ると、一つ、種子があった。ぎょろぎょろとした目で、溶解する世界を見ている。それで母木から生まれ落ちる日の風景を思い出した。そう、何ものの名前も知らなかったから、景色はみな渦を巻き、光に溶けていて。
還ろうかな、森へ。そう、私は森に生まれ、木を母とし、生きていた、森のひとである。森を侵され、母木を失い、帰る場所を見失い、捉えられて枷を嵌められ貪られ呆然としていたけれど。
崩れる景色を、燃える木々を、名前を失うものたちを、恐れなくても良かったのだ。
種子を育てよう。還ろうかな、森へ。私はここで果てるとしても。
リピアが涙を落とした。そこは小さな木が整然と並ぶ空間だった。
「そうか、ここは」
意識が何ものかと混ざり合い、ただ涙が落ちる。
「まいった、止まらない」
涙が落ちるだけ落ちるのを待つ。どこまでが自分だったかわからないから、みんな流してしまおう。地に返そう。
4.若木の墓標
スイは焦った、時間の感覚を失っていた事に。リピアは心配いらないはずだ。ここは森だから。いいや、林。つまり、何者かの手により木が植えられ、手入れされている。ではリピアにとって安全なのか。
人の気配は無い。探しに行くべきか。
「スイ、うしろだよ」
リピアの声に振り返る。スイは再び焦った。近くにいて気が付かないはずがない。いいや、それは思い違い。相手が姿を見せようとしなければ、木々の懐で、森の子は探せない。獣のように気配を消していたリピアに笑われた。
「散歩しようよ」
手招きされて、スイは立ち上がる。
「大丈夫、ひとはいないよ。住みたいくらいの場所なんだけれどもね」
リピアの背を見ながら歩くのは、出会った日以来だった。歩調を合わせて歩く。ゆっくりと、雲の中。
「既に誰かが住んでいるものだと思った。しかし誰もいない」
出会ったあの日、リピアが放った魔法はスイの片腕を氷づけにした。とんでもない牙を持つ子供だった。恐怖や痛みは残らなかったが、今もうっすら痕が残る。森で見た光景は傷痕より鮮やかだ。それから焼けた大木のにおいだとか。
「ここを還る場所にしてもいいのでは、なんて考えていたよ。しかし何か違う。スイ、ここは新しい。でも、うっすらと焦げた匂いが残る。スイは遠目に、ここを林と呼んだね」
湧く煙の合間に火がちらつく。雲だと分かってはいるけれど、熱と焼けた木のにおいが重なる。
「リピア、ここは昔、戦場だった。森のひとと、王都の者の衝突があった。互いに犠牲が出た。記録が残されている」
小さな姿が炎に揺らいだ。出会いをスイが思い出していたのは、あの日と同じ、怒りをたたえたリピアの背中を見たからだった。
ここは同胞の墓場なのだ、とリピアが呟いた。還る場所に辿り着けなかった者たちのために、誰かが墓標の代わりに木を植えた。争いや服従の末に絶命したり、寄る辺を失った森のひとを想う者がいる。
私はここに眠るべきなのか? リピアは自らに問う。それではいけないと、すぐに振り払う。この場所に居られるのは、林を維持する者と死んでいった者だけだ。
「私はどこへ向かうのか」
空に飛ばした虚ろを見上げる。空も一つの森ならばいいな。いつまでも森で暮らしていけるから。
好奇心と空虚な心は同居する。部屋をどれほど充てるかで気持ちが違うだけ。小さな部屋を与えた空虚に、言葉をかけてみた。答える者はいない。だから考える。部屋に置くべきものは何もない。空の部屋に似合うものを飾ってもいいだろう、しかし。リピアは思う、答えを一つ住まわせるだけで十分なのだと。だからまだ空っぽのままでいいのだと。
同胞の墓場でするべきことは、共に眠ることではなく、弔うこと。
5.獅子、演舞
「スイ、剣を抜いて」
沈黙の背中を見ていたら、そんな声が聞こえた気がした。彼女が振り返る。つまり、と聞き返す前にもう一言付け足される。
「たまには手合わせでも」
手合わせが始まるのは珍しくはない。剣と魔法で、互いの立ち回りを確認してきた。戯れ合う程度の型の見せ合いは、どちらともなくちょっかいを出して始まるのが常であり、今日のように改まって申し込まれると戸惑うが、いつものように短剣を抜く。手に収めたところで向き合う者から一言。
「もう一振りの剣を抜いてほしいな」
スイは沈黙する。戸惑いが吹き去る。背の重しが引き摺り出される。
「リピア、まさかこの細い木々の間で長剣を振るえと言うのではないだろうね」
一呼吸して、意を確かめる。剣を抜くのは旅の道連れとしてか。それともかつての王都の兵としてか。
「背中の長剣を抜いてほしいな」
木々がその身体を低め、一斉にこちらを向いた気がした。スイが背にかけた長剣をするりと構えた。森のひとの魔法を前に、鈍く光るその剣は息を詰めた。持ち主は呼吸を揃えた。一拍。スイが新しい空気を細く取り込むその呼吸に合わせ、風の波がごうと押し寄せ、喝と口を開く。緑の刃が突き刺さる。微細な傷。
「この戦いを同胞に捧げる」
「……なるほど」
相手は風に乗り後方に距離を取り、剣の間合いから外れていった。スイは追う。背中が軽い。剣の重みのまま前に出る。リピアが嬉々として言う。
「スイ、速い」
風に巻かれ草に足を取られながら、しばし追いかけっこ。木の間をすり抜けて、妖精とダンス。雲の通行人が時に足を止めるだけ。銀色の子供が笑う。いつものように。鈍色の剣が妖精の軌跡に沿う。忠実に。リピアが強めに刃を放つ。スイは避けない。距離を保つ。踊り出したら止まらない。
「背負うものが無いとスカスカだ。また、手に抱えるには重すぎる」
スイは背に掛けた長剣を、この旅路の中で一度として抜かなかった。それは自らが鍛治師として鍛えた剣で、かつて兵として、王の求めに応えて振るった剣だった。
「こんな形で抜くことになるなんて」
王都の者として、森のひとに向けることになるなんて。一方、剣は久しぶりの緊張を喜ぶ。木の葉の軌跡に沿いながら閃く。高揚が、昔の戦場と今を繋げる。封をしたつもりの熱気が溢れ、血が沸き、噴流を辿り、一撃を放った。加減が効かず、リピアの肌が薄く裂ける。体が動くままに追撃を繰り出す。
「そう、一撃で止まったら、私の刃がスイを切り裂いただろう」
スイ、すんでのところで切っ先を止める。
「良い戦士だ」
讃えられた彼の体は傷だらけ。
「スイ、きみは剣を持ちながら、その身まで剣にするんだ」
「すまない、傷をつけてしまった」
はぐらかすようにスイは言い、手当てをしようとリピアの腕を引いた。懐に引き入れられたリピアは、スイの足を力いっぱい、小指を狙って踏みつけた。いて、と声が上がる。続いて手を振りほどき、チョロチョロと後ろに回り、背中をパチンと叩く。鬼は交代、追いかけっこの続きが始まる。
6.君は開かて誰が開こう
「初めて会ったあの日、私は本当に危ういと思った。きみは強い。心まで刃にして。きみはどうしてそのようにして戦うのか」
「言えない」
「言えなくてもいい。ただ、死に急ぐなよ」
間合いの外からリピアの連撃。細い木の間を動き続けるしかない。動きを読まれやすく、距離を詰め難く、逃げるのにも疲れ、向きを転じる。枯れ草色の獅子が吼えた。細かな傷が彼の毛皮を汚すことなどない。痛みを上回る、身の内の熱に焼かれているのだ。
「恐れてなどはいない。ただ、空いた穴が悲しいだけで」
再び詰められつつある距離の中にリピアは見た。少し悲しそうな空色の外套の背中や、高くにあってよく見えない表情が、焦点を結ぶ距離。見えた表情は、いつもの穏やかな彼のものだった。
スイの心は定まっているのだ。
「行く先などではない、旅路こそが、きみの意味になっていくのか」
大きな風に吹かれようとも獅子は居場所に立つのだろう。隠した重しを振るう罪にも捉われない。リピアはめいっぱいの魔力を練る。眠る同胞に呼び掛ける。
「私は、渡り鳥として生きよう」
空に飛ばした虚ろは自身だ。見送るのではない、もう飛んでいる。母木を誇りに思い眠る者たちよ、生まれた森の糧となり眠ることが叶わなかった同胞よ。空に舞い上がり、旅を楽しむことを、許したまえ。
答えて若木が揺れる。雲が渦巻く。対象を取り巻く。水流のごとく、白い手が幾重にも伸び、スイに雪崩れ込んだ。もがいて深みに引きずりこまれる。剣を地に刺し踏みとどまる。押し寄せる白い手は、優しく撫でながら意識を奪っていく。思考が飛ぶ。耐えきれず呻きをもらす。千の手の波が去るころ、膝から崩れながらも、やっと言葉を発す。
「自然から取り出すこれが魔法だと言うのなら、リピア、きみは、荒ぶる神なのか」
「いいや、ひと、さ」
夢から醒めたシェミネは、木々の間で戦う二人をぼんやりと見ている。勝機がリピアに傾いてひと段落つきそうなところで、
「二人とも、いい加減になさいな」
殺し合いに近い戯れをする二人に向けて、あくびをしながら。それでリピアはピタリと手を止めて、「はーい」とごはんに呼ばれた子供のように返事をした。殺気は収められ、魔法に巻かれていたスイが崩れるのを見る。お茶を淹れて、戻ってきたリピアに差し出す。
「殺し合いをしていたの? 私は夢を見ていたわよ」
「違うよ、子供の喧嘩さ」
「そうなの。スイは助け起こした方がいいのかしら」
「大丈夫だよ。でも、お茶は冷める前に持って行ってあげて」
ごろんと横になって、リピアは息を整える。落ち着けば、そのまま眠ってしまうだろう。
7.若木の夢
「スイ、私はスイとその剣を信じた。委ねよう」
リピアが駆けていった。なるほど、今日の手合わせはお終いで、一勝一敗。地面に頬を擦りつけて、倒れたままに。地面に刺した長剣が見える。肌から離して見るなんて、久しぶりじゃないか。惚れ惚れしていると足音が近付いてきて、近くに座った。リピアだろうか、目線だけ向けると、シェミネだった。気恥ずかしくなり、体を起こそうとする。力が入らない。長剣を納めたかった。きみの同胞を斬ったこの剣を。きみは横に座り、突き立ったままの剣を見ていた。
「シェミネ、聞いて」
久しぶりの、ふたりきり。あれ、また何を話せばいいのか、わからなく。
一言の後、また口を閉じたスイ。言葉を待ち、倒れていた彼がもぞもぞと動き出すと、シェミネは肩に手を回して起き上がるのを手伝った。
差し出された茶を含んでから、スイは話し始める。
「俺はきみのことを天使だと思ったんだ」
すこし緊張を解き、そう微笑んだ。微笑み慣れたスイの、しかし今の笑みは、砂に描いた線のよう。風が撫でれば崩れそうで。
「守らなくては、と思ったんだ。あの場所で」
シェミネは言葉を待つ。おそらく察している。けれど、割って入らない。
「つまり、きみの故郷を、我々が襲い 焼いた日だ」
スイはそこで言葉を切った。何度も言おうとして繰り返した言葉なのだろう。悔い、責め、しかし言葉にならずに閉じ込めてきた。
シェミネがただ頷く。目を閉じ、ゆるやかに。顔を上げると、砂糖を溶かすように言葉を繋ぐ。
「地平から来た青色は、明けの色。朝は非情に追って来るけれど、もう恐ろしくなどないの。良ければ、聞かせてね。私をたすけてくれた昔のあなたのことを。私を守り旅をしてくれている、今のあなたのことを」
旅路を重ねるごとに共有する言葉が重なる。交わす言葉が増えると、自然と互いの空白を把握して、水溜りを避けて通る。けれど雨ばかり降らせていては、通る道も狭くなる。雨空に切れ目を。
「あなたがいる今は大切な時間。これまでも。いつまでも」
若木の影が長く伸びた。雲に空の色が混ざり、天に近くも海中のよう。落ちる陽も、間もなく雲の海の雫になる。
「罪からは逃れられない。まるで、今は、夢のようだ」
「ならば私は、あなたの夢を旅しているのね。もう少し旅を続けましょう」
波が冷たい。手で包んだカップはまだ温かく、一口で流し込む。
「王都へ行きたいの。私の探している、人がいるだろうから」
「王都はもうすぐそこだ」
スイが立ち上がり、長剣を引き抜く。汚れを払い清める。雲が日暮れとともに去り、刀身は残光を集めた。
「この身は人を裂かずにはいられない。兵として、剣そのものとして」
納刀せず、シェミネに向き直り、跪く。
「後悔の剣を棄てられないこと、許してほしい。この剣は、夢の中では二度と抜きますまい。しかし今は、あなたを守るための剣として生きたい」
「ありがとう、助けてくれて。旅路を委ねます」
夜の帳が降りると、夕暮れの若木の夢も陰に沈んだ。夢も見られぬ闇夜が続こうと、いずれは自らの影よりも高く背丈を伸ばすだろう。
ハヤブサと夢の檻
1.彷徨う天使
「天使を知っているか」
彼の口から童話や寝物語の登場人物が飛び出すとは、よもや思いもしなかった。話しかけられたもう一方の、まんまるな月のように白く輝くその人は、部屋に戻ってすぐに投げかけられた問いに神妙な面持ちで答える。
「吟遊詩人が歌っていたような。各地の母が子をあやすためにその言葉を紡いだような」
そんな優しくて懐かしい、しかし実態の知れない言葉を、今日の黒衣の彼は持ち出した。難しい顔をして、相変わらず闇に上手く溶けて、意思をひたすら隠しているような者が口にする言葉か。
違和感の理由は他にもありそうだが思い当たらない。何故か。天使とは何かを知らないからだ。その言葉の並びには覚えが無く、異国の言葉のように音だけが響き、思考から溢れる。思考を空白へと連れて行く。天使はみなの記憶に焼き付けられている。しかし、天使に纏わる記憶は持たない。持たされた覚えのない、使い方を知らないものを持っている。空白を持っている。
「ハヤブサ、それはお伽話のものとは違うのか」
仕事を終えた手を清めながら、実態を掴めない点では難しい顔のハヤブサとお伽話の天使君は同じだなんてぼんやり考える。やけにフワフワとした気持ちだ。このまま眠ってしまえば幸せだろうか。
フクロウが窓辺に腰掛ける。彼の定位置。そこに座ると相棒を間近に発見する。月明かりが作る小さな空間に二人が納まる。月の作る道を見ながら一息。それから視線を部屋に戻すと闇に目が眩む。ハヤブサの眼差しにぶつかる。その眼光はいつもの彼の瞳だが、このように近くで見つめたのは久しぶりのことで、以前どこで見たかと記憶を巻き戻すと戦場だった。いつかの戦場を思い出せば、空白を彷徨う心地良さは煙に消える。
「……違うんだな、ハヤブサ。お前は甘やかなお伽話を言っているのではない。しかし、何のことか、本当に分からない」
持っているのに触れない。言葉の中に並べてみたいのに適切な位置を探せない。目の前の相棒に触れられないように。空白、闇、ひと。自分の外は全て空白のようだ。天使が飲み込むようだ。
「それでも居ると言えるのか」
寡黙なハヤブサが、今日は言葉を続ける。居ると言えるのか。天使が不在の中会話が進む。いいや、フクロウの中には不在であるが、ハヤブサの中にはおそらく、居る。
「お前がそこにいるのなら」
今日は目の前の相棒に触れられるような気がした。
2.ある戦場の光景
「フクロウだ! フクロウが出たぞ」
危険を周囲に知らせてからふと目を落とすと、闇から睨む銀の瞳と目が合った。戦場の熱気も血の赤も鎮まり、美しいなと思った。それが最期。
雑兵の断末魔を目指して、一人の戦士が動き出す。その人は戦場を瞬く速さで駆け抜けた。遥か高空を行く鳥の目を持つように無駄も無く、風に捕まり真っ直ぐに。彗星のごとく進み、煌々と燃える火球でその身を隠す、黒衣の鳥。彼は幽塔の隼と呼ばれていた。通り名で呼ぶ程度には見慣れていても、彼と言葉を交わした兵はいない。
いつの頃からか王の側に置かれ、使えていた。王の居室にほど近い塔に部屋を与えられ、巣から放たれれば鬼のごとく目標を狩り、また舞い戻る。高い塔から物憂げに空を眺める姿もさらすこともある。戦場の幽鬼か、幽閉の姫君か。王の鳥を動かす意思は誰にも見えない。
前線で、ハヤブサはフクロウの姿を捉える。
その人は玲瓏たる銀髪を黒衣に閉じ込め、いつの頃からか戦場に現れていた。彼は眠る梟と呼ばれた。現れていた時期が誰の記憶にも不明瞭なのは、戦場に紛れるのが上手かったからか、傍観していたからか、参戦すらしていなかったからか。彼を現象だと思う者もいたほどだ。神出鬼没な梟。戦場に眠り、暁、目を輝かせて飛び立った梟の一刀は、鋭く敵を屠る。
戦場で眠りこける梟と、王の飼い鳥が対峙する。
「提案する。俺はお前を助けよう」
「ほう」
二人はかつて戦場にいた。
互いを相棒として認め合う二人は、初め敵対する陣営に属していた。ハヤブサは王都で、フクロウは森のひととして。
王都は街の人により構成される。そして侵攻先はひとの環の中。
街の人がひとの環より弾き出されてどれくらいの時が経ったのか。先祖の意思は薄れ、世の中が何故こんな構造になったのかを知る者の声は世に響かない。代わりに響いたのは辺境の男の声。
「我らは何故環から外れたのか。愛しき隣人たちと我々街の人の違いは何か。我々は取り戻せるはずである、環の中に故郷を。我らの意思は鋼の下に」
除け者の立場を嫌い、失った魔法の力を惜しみ渇望する声は一定数あったから、男の元に人が集うのもすぐだった。男を礎に人が動く。それが王都の始まり。
王の飼い鳥は、森の猛禽を狩ることを求められていた。それが、かっさらって飛び去ってしまうなどと誰が思っただろう。あまりにも自然に戦場を離脱した二人に疑問を抱く暇はなく、ぼんやりと見送った王都の兵士は悪態をつかれることになる。以降二羽の鳥は王都の敵に回る。話を持ちかけたのはハヤブサで、今や王都を脅かす。王の鳥は、城を見上げる街の一画に降り立ち城を睨んでいる。
ハヤブサは今も戦場にいた時と同じ眼差しをしている。彼は未だ戦いの火を鎮めない。当然だ。王都に背を向けたのは逃げるためではない。王都側で振るっていた剣に彼の意思はなく、王の理想が乗っていた。主や同じ陣で戦った者に刃を向けたところで、罪の感情も湧かない。王都を好んで住まいを求めたわけではないのだと、フクロウは聞いたことがある。彼は今、彼の目的のために剣を振るう。
「王を討たなければならない」
首のみを求める理由は、そのときは聞けなかった。二人の目的は王の首。ただそれだけで寄り合った。理由をわざわざ聞き出す必要はないと思ったのは、あの日、戦場で交わしたわずか一言で全てを理解した気がしたからだろう。戦火の陽炎の中に、ハヤブサの意思を。だけれど今は街の冷えた暗闇で、天使などが降り立って、淀み滞り探れない。空白。ハヤブサについてフクロウが知ることは少ない。
種火が黒炭の僅かな隙間から睨んでいる。炎の芯に触れるには、この身を焦がさなくてはならない。樹木に寄り添うフクロウは、炎に触れたなら二度と止まり木には戻れないことを感じている。戻ったならば、我が身、止まり木だけならず、森ごと焼き尽くすだろう。フクロウの戻るべき母木は、とうに切られてしまったけれど。切られ失った母木の元に、生まれの地に、まだ戻ろうなどと夢を見ている。振り返れば戦火に全て呑まれているというのに。目の前の炎にも触れずにいる。火の輪を前に、あくびしながらちょこんと座り込む夜の鳥。戦場を離れても、梟は眠っている。
3.暁の霞
居眠りすれど、フクロウも王に歯向かう意思を持つ。
ある夜、火種を覗き込みながら、フクロウはハヤブサに打ち明ける。
「先ほど、王都の兵士を逃がしたんだ」
二人は王都の敵であり、彼らの潜む城下の街には何度か討伐兵が放たれている。しかし城の堀に飛び込む兵は、鯉に放られる餌でしかない。ある者は迷い呑まれ、ある者は淀の底に沈んでいった。街は生きており、日々姿を変え、訪問者をその身に絡め取る。怯え戸惑いながら踏み込めば街に殺され、鳥の巣に辿り着いた者もあっさりと退けられる。
見逃したというのはいつもの気まぐれだろうか。フクロウは生かしも殺しもする。叩き続けてもきりが無いから逃がす場面も何度もあった。だから報告するまでもないことで。さてと向き直りハヤブサは問う。
「その逃がした兵士とは」
「昔、見た顔だったんだ」
「助けたい者だったのか」
「兵士の小僧っこについては興味がないんだ。ただ、彼を逃がしたことにより気付いてしまったのだが、俺は迷っている」
思考を整理するためにフクロウは言葉を止めた。なにしろこんな話を相棒にするのは始めてだ。一人の兵士を逃がした動機を説明するために、道無き森のひとは、妹の名を口にした。懐かしい響き、胸が詰まる名だ。
「道を開きたいんだ。彼女の散歩道にでもなればいい」
森のひとの生まれに家族という区切りは無い。先祖がいて父母がいて子へと命が繋がる、そういった意味での家族は存在しない。母木があり森のひとが産み落とされまた木へと還る命だ。フクロウの言う少女とも血の繋がりは無い。それでもあえて妹と表現された存在を、ハヤブサは丁寧に拾い上げた。その少女は、二羽の鳥が乗っている風そのものだ。
「彼女の生まれは確かに街だが、その集落はほとんど森のひとの領分にあった。森に暮らす事を望んだ者が集ったのだという。人の作った街でありながら、俺にとっても居心地が良かった。街の人が森の暮らしを真似るのだ。静かな暮らしぶりの中で少しだけ理解した。街の人として生まれながら、森に生きようとする。彼らは、街の人とは選択する者なのだ、と。彼らは変化する。もしかしたら大きな変化の一角を見ているのかもしれないな。我々は、ひとは、変化を求めなかった種だ。それが街の人との隔たりとなるのだろうか。しかし還る場所を失ってみればどうだ。みな彷徨っている。魔法を失いひとの環から弾かれたのを憂う街の人のように。失ったならば考えなくてはならない。探さなくてはならない。探し物をしているのは、我々も街の人も同じだろうな」
人が好きなのだろう。とんだ世話焼きな一面を見てしまったとの感想をハヤブサは呑みこむ。還る先を失い、彷徨い、寝床を渡り歩いた森のひとが、道の導となることを想うなら、迷うに値する。
「行き場を失った森のひとは、原因である王都と長いこと交戦中だ。お前を初めて見たのも戦場で、王都もお前には手を焼いた。それがある時からすっかり姿を見せなくなったことも俺は知っている。戦場で見出すものは無かったのだな」
「戦場に溢れる怨嗟の声がうるさくて、何も聞こえやしなかったんだよ」
「それなのになぜ戦場に舞い戻った」
「同胞は未だ血の海の中にあり、彼女の生活もまた脅かされ続けるだろう。王を討たねばならないと、その一心で」
「迷っていると言ったのは、つまり」
「俺は憎くて王を殺そうとしている。回り道の先で、未だ燻っているのさ。生れ落ちた人の子がすっかり成長するほどの時間を経てなお収まらなかった」
街に、森に、人に、そして自分の心に迷うこともある。進むごとに振り返っては確認していた止まり木、遠く離れた景色は霞むので、定めた心、止まり木に置いてきた心が見えない。思考の積み重ねの末に得た答えが絶対だとは限らない。歩くごとに変わるのだ。進むごとに霞むのだ。記憶の中の止まり木を、何度描いたところで歪みが増すだけ。たまには帰ろう、いや帰れない。新たな土地で思考し直すには、思い出が愛しすぎる。帰るつもりだったのだ。長い散歩のつもり。巣がどこにあったか覚えているだろうか。故郷は森に、人の中に、戦場に、それとも彼女の居る場所に。怒りに、慈しみに、空虚の中に。
「どこに帰ろうか迷ってしまった。憎しみに景色が霞み、このまま王を殺すようであれば、俺は再び帰る場所を失うだろう。戦場から離れた十数年は失いがたい時間で、それは霞みゆく夢のようだ。逃がした小僧に、俺は願いを込めた。放たれた鳩が巣に帰るように、せめて俺の夢も帰るようにと。愛しい思い出の中へ。俺は今、争いの只中に居て、王を殺すだけが目的だ。争いの中には理由も感傷も大義も必要無い。生きるか死ぬか。殺すか殺されるか。争いの中を、今は帰る場所としているのだから、迷うことも無いのにな」
寝惚けたことを言ってしまったかなと、最後に視線を逸らしたフクロウが、もう一度顔を上げるまでハヤブサは黙っていた。身動きして時間を動かさないように。
「一度離れた戦場に舞い戻ったお前は、暁に輝く銀星だった。目覚めの時間を知らせるために現れたのだろう。俺はそう思ったよ。夜の街に日が昇る。フクロウの一刀によって。俺はお前を助けよう。先ずは、お前が放った鳩が射ち落とされないように、手を回して来よう。王都の兵が命令も無く外に出て行けるとは思えない」
火を灯して月明かりの外に置いた。その火を消してくれるなよ、そう言ってハヤブサは鳩を追う。
4. 黒煙を吐く鳥
いつものように呼び出されて、城内を歩いていた。飼い鳥は城内を自由に散策する許可を得ている。王の呼び出しを伝えるために、兵士はさんざん城内を探し回っただろう。亡霊探しを気の毒に思う。王は飼い鳥をただの話し相手として、時に軍師として部屋に呼ぶ。馳せ参じるのが仕事で、それ以外の時間は何をするでもない。城の外にも出る気になれば出られた。首輪や縄をかけられているわけでもないのに、王の鳥は部屋としてあてがわれた塔に舞い戻る。城にこもりきりでも退屈などとうに感じない。時間は静止しているようなもの。王とのやり取りを楽しんでさえいた。
勤務時間と定められた昼の城には健康的な声が響いていて良い。昼とはいっても暗い。ただ、城は街よりも高い位置にあり、天が近いためか闇が薄い時間帯がある。かつては昼と夜が通る場所だったというのに。天が霞み、やがて日照は消えたのだという。空を見なければ青い色など忘れる。王都に住めば、昼があったことなどすぐに忘れる。中庭で熱心な兵士らが稽古をしている。数人が、横切る黒い影を凝視した。幽霊だと思ったか、ハヤブサは声をかけようとしてやめる。王が待っているのだからさっさと出向こう。
無骨な城だった。造りは頑丈だが装飾には全く興味が無いのだろう。石材の冷たさが増すようだ。拠点の一つとして運用されていた頃の名残だ。必要に応じて建て増しているからおかしな通路も多く、明かりの届かない空間も多数。王城がこれだから、城下の街も気ままに変化を続ける生物となってしまうのだ。
中庭から離れて城の奥。負傷者を収容する為の一角がある。暗い部屋に一人寝かされている。若い兵士だ。肩から胸にかけてを裂かれて戻って来た。眠り続けている。彼を含む小隊に割り当てられたのはごく簡単な遠征のはずで、兵の損失の計算などしなかったという。街を棄て森と共に暮らす者らが脅威となる前に殲滅するという名目で度々部隊が送り出されていた。殺すことに理由など必要だろうか。見回り・調査も兼ねた一隊は、今回も慣れた者と新米の混成で粛々と発っていった。半数以上が戻って来ないなど誰が予想したか。生きて戻った者も、酷いと戦線に復帰出来るかどうかという有様。ここでも声を掛けようかと思ってやめた。ハヤブサは静かに通り過ぎる。死神だと勘違いされても縁起が悪い。
王に付き添っていた頃の話だ。昼も夜も無く呼び出しを受けていた。異種族を侵す非道者は、熱心な勉強家の一面を持ち、ハヤブサの持つ知識や意見を貪欲に欲した。
「人とは何か」
「境界です、王」
「魔法とは」
「境界に一度目を瞑ることです」
「自然に還ったひとの中から我々は抜け出したという。草木や水の揺り篭を離れて自ら寝床となる街を作り、魔法を失ったから道具を使った。我々が我々である限り、環の中には戻れないのか。ひととして認められることは、これからも無いのか」
「魔法の力が境界線なのではない。街の人の意識の問題だ。そして、環の中の者たちの問題でもある。戻る可能性があったとして、性質が変わることはない」
「環の中に還ることが出来たなら、街の人が持つ争いという病原は無くなるか」
「街の人は消費を前提に生きる。種がそう定めた。資源や土地や食料についての争いは無くならないでしょう。しかし、街での生活を棄てることは、環から離れた祖先の意思を否定することになりませんか。祖先は何の為に環を抜けたのか。居所を整えるために物や土地を消費してまで。知る者はもういない。探さなくてはならない」
「それを知りたいのだ。お前が知らないことなどあるものか」
「ひとの意思までを握ることは叶いません。王、あなたのことだって私は知らない」
「どれほど話したところで、知るに至らないのは何故か」
「だからあなたは書物を集める。人の生活や言葉や伝承を辿る。争いの只中を渡る。私以上に人に触れてきたでしょう」
城に住む前、王は彷徨う一人の傭兵だった。行く場所も帰る場所も求めない。ただ歩き、争いがあれば傭兵として加わり、路銀を得て、また放浪する。意味を求めないから、どこに居ても同じだった。彼にはただ彼があれば良かった。そんな孤高の傭兵を、生まれが縛る。同胞が絡み付き、問いの渦に巻き込んでいく。なぜ我々は孤立したのか。なぜ我々は失ったのか。なぜ。街の人という生まれに取り殺されようとしている。殺されてたまるかと、自らの生まれに刃を突きつける。同胞を斬り払うのだ、問いの声を静めるために。異種を絶やすのだ、始まりの静けさを取り戻すために。争いに生きるようになった今、王は書庫で答えを探していた。答えとはこんな狭い城に転がっていたものだろうか。探さなくてはならないと飼い鳥が言った。何を。
ラルカクテナ、と名を呼ばれて、黒い影と目が合った。そういえば名前があった。名は埋もれかけている。呼ばれ、埃を払われても、自分のものだという感覚が薄い。それはもう一人の自分だ。向かい合って、お互い椅子に深く座り、気だるく足を組んでいる。
ラルカ。もう一度呼ばれて、黒い影は自分自身ではなく異国の飼い鳥の姿に戻る。鳥は黒煙を吐き出しながら、ものぐさげに鎮座している。打ち落としたくなるほど高遠な鳥。手中にあってなお遠い。黒い影に問う。
「人とは何か」
「あなたが移り変わるものならば、人もまた移り変わる。それでも何かと尋ねる、それがあなたであり、人だ」
「過去の姿を思い出せない。だから自分自身がここに無いように感じる」
「名を捨ててはいけませんよ」
低く淡々と相手をする彼の名を、王は知らない。鳥刺しが彼を城に連れて来た。お探しの鳥です、滅多に世に現れない黒い鳥。商品を床に転がし囁いた。猿轡を外せば神話を語ります。目隠しの下には明日を見る夜空色の瞳を持ち、手足の枷を外せば地を焦土に変えます。異国の守人のお話です。王ならば知っておりましょう。求めておりましょう。
買った鳥に呼び名を付けた覚えは無いが、いつの間にかハヤブサで通るようになっていた。
「神話の一つでも語ってみせろ」
「夢でも見るおつもりか」
「夢の中に答えがあるならば」
「夢の中から見る現実は、いよいよ寄る辺がありません。忘れてしまえるから夢なのです。終わってしまったから神話なのです。それで、王、あなたが立つのは夢の中でよろしいか」
「お前はどこにいる」
「私は夢の中に」
答えるまでに一拍間を置かれた。読み上げていた本を放って言葉を探したのだ。その奇妙な沈黙の中に、ハヤブサは何か示さなかったか。空白。王は部屋を去るハヤブサに問うことが出来ない。優しくて懐かしい、しかし実態の知れない言葉が降り積もっていく。埃と共に吸い込んでいき、問いは増すばかり。始まりの静けさはいつまでも過去のものだ。ノスタルジーに蓋をされている。生まれとは呪い。
寝込んでいた少年兵が目を覚ました。体を動かしてはいけないと追いかけられている。寝ているわけにはいきません、頑なに撥ねのける声は震えている。
回廊を渡るハヤブサが、急く声を聞いている。灯りの陰に入りながら城内の静かな場所を転々としていた。今日は訓練の声の響かない場所を選んで居座る。矢狭間から細い空を眺めていると、逆に向かったはずの少年がひょっこり現れた。その頑固に結んだ口が驚きに声を上げるのは抑えられ、瞬きを幾つかするうちに静かな表情に戻った。声を掛けようか。迷って横に座るように促した。
「ここは静かだからな」
初めて聞いた王の鳥の声に少年は身を固くしたが、大人しく連なった。兵士らが畏怖する塔の幽霊と肩を並べて空を見る少年兵。少年の方が青白い顔をしている。死に急ぐこともなかろう。今ここには誰もいない。時間が流れない。
世話をする気は無かったが、青白い顔のまま眠り込んでしまった少年を抱えて病室に帰した。
傷が塞がった彼は今まで以上に物静かで穏やかになった。黙々と稽古場や書庫に通い、戦場と城を行き来した。幾つかの戦場と、城内の静かな場所で、二人は度々顔を合わせることになる。
「ああ、また」
「今日は地下に来たか」
「武器庫に荷物を置いて、ついでに。先日はすみませんでした」
「構わない。もう追う者はいないか」
「はい、誰も」
「戦場で聞いた声はお前を苦しめるか」
「今俺を急きたてるのは、自分の声です。どう生きるのかと、問われて出来るのは剣を振るうことだけで」
「お前は王都の兵士だからな。それも正しいだろう」
「正直、分からないのです」
街の人は街に、森に、生に迷う。迷うのは、行き先があるからだ。
「損なったとしても、俺は進みたい」
飛ばした鳩が、巣を目指す。
「人とは何か」
幾度となくこの問いは繰り返された。王が一つの答えを出せば、都は強固な一つの生命体となっていくだろうに。紛いものでも完成すれば、新たな道を切り開く足がかりとなるだろうに。王は答えを出さない。孤独な王は誰を想う。民か、己か、人か。街の人の定めから外れず同胞と殺し合い、異種を知ろうとして殺す。この街は夜に沈んでいる。
「あなたはかつて知っていたはずです」
迷わぬ傭兵だった頃、彼は自らの居場所を持っていた。そこに戻ればいいだけのこと。始まりを、夜に、郷愁に沈めてはならない。
混迷の城の主として他を排しておきながら、なぜ人を放っておかないのか。街の生まれに呪われながら、街を愛するのか。他者の問いの声に耳を傾けなければ、彼が苦悩することもなかった。
王の慈悲は剣の形をしている。
「私にはあなたに語ることの出来ない言葉があるのですから、何度答えたところであなたを納得させられはしない」
生きる都の天辺を、さて、どう動かすか。鋼の慈悲を奪い喉元に突きつけようか。叩き折ろうか。溶鉱炉に放り込もうか。王が問う度に、ハヤブサも積み上げてきたのだ。人の行く先の可能性を。
目覚めを知らせる鳥になってもいい。鶏の真似事でもしてやろう。太陽が昇らぬならば火を放ってやろう。石の貝を脱ぎ捨てる。鯉が龍になる。泥のあぶくから命が生まれる。ひとが自然に還る。可能だ。生命よ、望み進め。
「王よ、夢に生きる覚悟はあるか」
不死の鳥が禁書を紐解く。
5.二十六夜の抜け道
虫も鳴かない夜。上空では早い雲が流れ、二十六夜の細い月光は途切れ途切れになる。切れかけの豆電球、空に昇って取り替えようか。
「暗いな、火をくれないか」
ランタンを差し出すフクロウのために、ハヤブサは火を作ってやった。闇の中で行動する彼らが火を持つこの夜。岩陰から前方を睨み続けるフクロウに明かりを持たせた。
山に走った亀裂を、早足で抜けていく一団がある。亀裂の道は夜空よりしいんと静か。月が落とした影の道は、王都から外に抜けるルートの一つ。知る者は内部でも僅か。横を見れば突き出た岩、ふと下を見ればさらに深くに続く穴。所々に奈落への入り口があるから、足を滑らせないように慎重に。山の腹に入ってしまえば、容易には抜けられない。
地獄の炎がちろりと舌を覗かせた。隠密の道に、白い影一つ、ランタンを掲げて待っている。
一団がぱらりと散った。隠れる場所はいくらでもある。王都の者が使う抜け道に出た白い幽霊を排除するためだ。か弱い街の人が迷い込んだのであれば、機密に触れた運の悪さを呪う前に屠られただろう。白い影は狙ってくれと言わんばかりの目立つ格好に明かりを持って一団の進行方向を塞いだ。
フクロウは進み出る。光を集めながら飛び跳ねる。ランタンが弾けたので放る。蝶のようにふらふらと、扇がれながらさらに前へ。目をこらすと礫が飛んでいる。がらりと背後の岩が崩れ、掴みかかってくる。夜露は凍って撒き菱となり足元に散らばる。
「隠密集団は違うね。森の同胞よ!」
声を上げて突風を吹かせる。崩された岩を舞い上げ叩きつける。岩陰から一つ悲鳴が聞こえ、相手の攻撃の手が止まる。
「帰らないか」
王都が魔法の力を欲する理由が、この集団を見れば分かる。恐れる敵の力を指揮下に置けば鋼同士の争いで優位に立ち、魔法とぶつかる場合でも統率力の差でねじ伏せる。
一団には森のひとが目立つ。森は比較的街に近く、生活も他の種と比べて目につきやすい。単独行動の者が多く、一本の木や森を焼けば引きずり出せるから狙いやすい。
「お前は、フクロウか」
「よくご存知で。道案内に火を灯してお待ちしておりましたよ。不知火の木のお方」
「導の若木の子。……現れたか。殺しに来たのか」
「お話を。何故木を焼く者の側に立つのかと」
「聞くのか、フクロウ。王都の人間を少しずつ削ぎ落とし弱体化を狙う暗殺者。そして振り返って同胞殺し。森を背に戦うことを止めたお前は、両者に刃を振り下ろす。狂ったのか? いいや、違うだろう。同じことを考えているはずだ。私に言わせたいか」
「俺は木を焼く者を殺します。迷う鳥が増えないように。還る場所と目的を失った同胞も殺しました。空虚を彷徨い磨耗する前に」
「お前は火を絶つのだな。降りかかる火の粉の元を断ち、燃える森の火を消している。だが街の人がいる限りは燃え続け、広がるだろう。街の人を消し去るか」
「竃や暖炉を奪うなら、今度は我々が侵略者となる。俺はそこまでは求めない」
「いつまで続けるつもりか。疲れきってしまうぞ」
「とうに。同じですか、こんなところまでも」
「憂いことを聞いてしまったな。すまない」
不知火は散開した仲間たちを確認する。負傷者は出たが、いずれも軽症だ。隊服を整え、表情は少し崩した。戦う気が失せた。同胞殺しのフクロウも、今晩は衣を汚すつもりではないと見える。白い鳥が笑みすらたたえて離脱を勧める。
「森に帰りませんか」
「今は王都の血肉だ。捕らえられてなお生に執着した者と共に居よう。大きな差は無いさ。お前と私の理由に。森と街で争うことに。さあ、フクロウ。私は命じられて今から木を焼きに行く。王都の敵、森の異端がのこのこと出て来て邪魔をしようというか。私にはお前を殺せるぞ」
「俺もあなたを殺せますよ」
「こんなことを言い合っていると、街の者のようだな。森の生から外れた時点で、我々も環の外に立ってしまったのかな。環の外の人には、帰る場所は無いのだろうか。そんなはずはないだろうな。我々は定められた死を失ってしまったが、新たな道の上で見付けられるだろう」
「みなが見付けられるでしょうか。温かい場所であればいいなあ」
「お前など、暖炉の前で寝ていればいいものを」
「月が落ちるまであと少し。夜明けまでは眠りません」
大地の亀裂の道。さらに地底に落ちぬよう、尖った岩をひらひら渡る。同じ岩の上で鉢合わせたら、一緒に落ちるか、避けて通るか。二十六夜のお祭り騒ぎと、出会った記憶、欠けたランタンは穴に放った。
「我々は母木とともに一度死ぬ。それから鳥になって、空を渡るだけさ」
「すまない、相棒。ここまで手を回して貰ったというのに、王都の灯台を壊し損ねた」
「いいさ。城から離すことが目的だった。……鳩はまだ戻らないが、そろそろ城に出向かねばならない」
今夜の月が沈めば、しばらくその姿は見られなくなるだろう。切れかけの豆電球、今度こそ外されて。
「暗いな、火を落としたからな。あれ、マッチ、俺が持っていた」
「点けなおそうか」
「明かりはいらないさ」
黒衣が優雅に揺れたと思えば、ハヤブサが指先に火を宿している。焦げてしまう、唖然としたフクロウがピントのずれた心配をする。
「煙を昇らせておいたっていいだろう。行こうか」
6.故郷
「あの森も、もう俺が手を入れる必要はないだろう」
母木を失って、木を植えた。弔いのために。誰の。仲間の為か自分の為か償いか。故郷を作り直すつもりか。
「目の前で失ったのにな。まだ故郷を求めてしまう。どこにも無いものを。……ハヤブサ、お前の故郷は?」
そう聞くと、ハヤブサが微かに笑みをこぼした。フクロウは思わず目を見開きそうになる。ハヤブサの感情が見えるだけでも珍しいというのに。懐かしみ、誇るようであった。
その日はそれだけで、何も話して貰えなかった。
「出掛けようぜ、ハヤブサ」
森に誘われたのは初めてだった。二人で夜中のピクニック。道案内は森のひとに任せよう。夜目の利くフクロウに。夜の街も森も、彼ならば飛び抜けられる。昼間はよく眠れたか。夜の街に昼は来ないから眠らなかったよ。息を潜めて暮らしていたから、こんな会話も必要無かった。夜の街を抜けるにも手間取らないほど慣れていた。
街に入るのは簡単だ。闇の中にぽつりぽつりと灯る明かりが魅力的。漁火に誘われるまま石畳を踏めばいい。あとは街に飲み込まれるだけ。蠢き形を変える生物は環状で、歩けども同じ軌道の上。それが心地よくなっていけばもう抜けられない。
王の首を狙って街に住み始めた頃だ。世話をしている森があるのだと言って一人出掛けたフクロウを見送ってから数日。距離を見れば戻らないことに不思議はないが、街の中を彷徨っている姿が浮かんでハヤブサは慌てて探す。案の定、街の出口を探したフクロウ、どうにも出られない。どころか同じ場所にも帰れない。広い街でも手懐けてしまえば移動は楽だ。しかし易々と外には抜けられない。血肉は体の外に出られない。血肉だと意識に刷り込まれているから出られない。
「街ではなくひとなのだと、今一度意識せよ」
やつれたフクロウを連れて帰る。とんだ休日になったな、体を休める迷子に声を掛けたら、故郷という言葉が出てきた。故郷か、そうだな、懐かしいな。
これは擬似的な里帰りだ。
「玄関を出て、ただいまと帰ってきて、変わらない家の中の景色が広がっていたとしたら、安心するよな。この街は帰る場所がいつも違うけれどもさ。かつて住んでいた場所がまだ同じ姿で残っていたら、今俺が確かめられなくても現実だと思っていいかな。あの小さな森の端の家が、そうであればと」
森を目指し歩く。フクロウの声が流れてくる。離れた場所には戻れない。無くしたものは帰らない。返り血は濯げない。そうだな。分かっている。だから、
「失ったわけではないんだ」
こんなことにだってもう、気付いているだろう、相棒。
「故郷への道は遠いか」
「長いと思っていたこの道も、迷わず、寄り道しなければ近いものだ。思案しながら歩いたものだ」
森のひとの道を歩く。獣の道とも違う。草木が指差す方向へ、上へ、下へを繰り返す。考え事をしていればたちどころに迷わされてしまうのではないか。慣れないハヤブサ、それでも息を切らすことなくついて行く。木々が森のひとを導く様を見て感心する。
「ピクニックと聞いたがね、山を越えるとは思わなかった」
「このルートが一番早いぜ」
上に行くと神域だ、フクロウがちらりと目線を投げてから崖を飛び降りる。獣も上らない。ひとと獣、言葉は通じないが幾つかの了解があると言う。
岩窟を潜り抜けたら陽光の下に出るかと思えば木が光を遮るのでおあずけ。鬱蒼とした山腹に細い川が這う。水辺で一服。
「太陽が恋しいか? この道にはほとんど陽が射さないんだ」
夜に起きる体には十分。光降り注ぐ目的地まで、木のトンネルの中で光に目を慣らそう。夜から昼に抜けるには痛みがある。夕暮れがいつまでも続けばいい。夜明けが長く続けばいい。トンネルには時間が流れない。薄明のまま。
「このままでいい。ぼんやりとした時間の中に。生死とは不変だと思っていた」
朝への長い道。記憶の山道。フクロウは朝を目指す。
「復讐だった」
「王の命を絶つことが全てだった」
「違う道を探しては切り捨てて」
「長かった。段取りを整えながら、片方で安穏と昼を過ごす」
「答えがやって来る、と思う」
「フクロウ、結論を出したのだな」
「ハヤブサ、教えておくれ。お前が王を討たねばならないと、定めるまでに切り捨てた可能性を。やれるか、王を殺さずに」
「お前がいるならば」
「夜の道案内はそろそろ終わりだ。昼の帰り道は任せるからな」
未明。道は下りが多くなる。足元に気をつけてくれよとフクロウ。今更の忠告だ。地面は乾いている。草木の密度が下がった。視界が開けたから顔を上げた。ここから目指す丘が見える。そして丘には白く佇む影が並んでいる。他界に旅立つ行者の列か、留まる亡者か。
「お、っと」
「夜に慣れた目だ、景色に足を取られたか」
踏み外したハヤブサをフクロウが支える。ここにも白いひとが。
「故郷は遠いか」
「見えてきたよ」
「相棒、お前はどこに帰るんだ」
「うん、まだ帰らない。やることが出来た。お前の手を取ったんだから」
行者の待つ丘に近付く。白い若木が行儀よく並んでいた。木は人によく似た立ち姿をするときがあるのだ。木々に紛れ込む森のひとを追う。ここで手を放してしまっても良かった。お前は帰れと。帰る場所は定まったのだろうに。夕暮れに、夜明けに、留まることが出来る。夜の鳥が朝に踏み出す必要は無い。だが意義を見出した。フクロウは結論を出した。ハヤブサは再び手を取らなければならない。白く佇むひとびとの中に踏み込む。ここはかつて戦場だった。もう一度、手を取ろう。
戻れぬほどに深く踏み込む心構えが出来たのか。迷っていたのはどちらだったか。
「俺もまた亡霊だ」
そう言って差し出されたハヤブサの手を、フクロウは掴む。境界は曖昧で、空白があって、どこまでも続く暁のトンネル。亡霊の手を掴む。トンネルの先には天使が待つのか。天使が飲み込むようだ。まどろみの中で欠伸している。このまま眠ってしまえば幸せかもしれない。けれど、まだだ。夜明けまでは眠らない。火に身を投げる必要がある。一羽、銀環の月から、熱の矢の中へ。夜から昼に抜けるには痛みがある。
「ひととは何か」
「それは痛みだ」
「かまわない。業が火と剣の山に導く。痛みを重ねようとも進もう」
血の雨の中で同胞が泣いた。青灰の森の底で少女が膝をついた。白い若木の林で夢を見ている。
「なあ、相棒、お前の故郷は」
夜が明ければ、纏う闇が消え去ってしまう。だからこそ今聞くのだ。
「遠く東の果てに」
光が射す。フクロウの森に。夜を手放すと、照らされていく。闇の中で見慣れた互いの姿が眩しい。今にも逃げ出したい光の下で見た。日に照らされても闇が残る相棒の姿。昼の空の下に引き出せば散ってしまうと思っていた、瞳と髪は光を返さない黒。燃え上がるのを待つ炭の色。伝え聞いた異国の守人。
「火の司祭の一族……」
フクロウは頭を垂れた。
「火を操り、火をもたらした、起源に近い一族」
火種に触れたならば戻れないけれど、木々は十分育った。後に続く者の声が聞こえるから、先に行こうか。
「火を守る一族という生まれから切り離されることは無いが、俺は追放された罪人だ」
炎を生む人が、再び目線を揃えたフクロウに語り始める。
「迷っていたのは俺かもしれないな。お前もまた奈落に突き落としてしまうのではないかと恐れている。一族が守る炎とは、神話の時代の残りもの。俺は一度、人に禁書の内容を吹き込んだ。今の王都の頂点に神話を聞かせた。神話は歪みだ。消化出来なければ腐れてしまう。持ち出した火によって王の狂気を増幅させたのは俺だ。救済ではなく地獄の炎だ。王を止めるには討つ他に無いと思っていた。今はお前がいる。頼っても良いのか、相棒。俺は王を都から引きずり出し、荷を放った一人の街の人としての彼と話をしたい」
「火中でお前の火は俺の光明となるだろう。どこに在ろうとも」
狙いは王だけなんだ、予定と変わらないさ。いたずらの準備はもうじき済む。東雲を迎える。移り変わっていく。時刻が、季節が、生命が。
「相棒、天使はいるんだな」
空白に想いを馳せよ。誰もが持つ共通の空白。創世の火、真白き光明、高空の声。ひとびとは彷徨う。朽ちない命を抱えて渡り鳥。
「やはり聞こえないよ。分からないさ。気流に揉まれて。だから航路を見つけよう。故郷は遠いよ。求めながら離れていくのさ。遠ざかるほどに霞むものだ。どこに向かうんだろう、暖かな場所であればいいな」
不変だと思っていた風景が過去へと流されていく。笹舟がさらさらと流れていく。笹舟を、色々なものを見送ってきたつもりだった。同じ場所で。見送る自分自身も歩き続ける生命だなんて、気付かないものだ。視点はいつも同じなのだから。鳥になったとき、新たな視点を持てるだろうか。
「名前とともに故郷を思い出せる。霞む度に呼んでもいいかな。今きみが生きているから」
ひととは隊列を組んで渡る鳥だ。同じ季節を生きているから、名前を呼べばやって来てくれる。会いに行ける。会えるだろうか? その人もまた過去になってしまったのではないか。意識しない間に。眠りこけて夢を見ている。離れた地には帰れない。ここは戦場だ。今は戦場に生きている。持っているのは武器一つ。思い出は愛しすぎて置いてきた。そのはずだったけれど、背中から声が聞こえる。追い風だ。名前を呼んでくれるのか。名前を捨ててはいけない。隠そうとも留めておくのだ。過去が呼ぶ、同胞が呼ぶ、きみが呼ぶ。名前とともに故郷を思い出せる。
故郷とは過去だ。
渡り鳥はどこに向かって飛んでいく。ひとは迷う。けれど獣が道を知るように、空を鳥が行くように、ひとの航路もあるのだろう。軌道から外れて放り出された空。ひととは何かと問う。答えは温かな場所に降りていけ。地上で燃える火の元へ。暖炉の前で眠ってしまえ。追い風が吹いている。過去が遠ざかる。光に向かい飛ぶ。振り返らなくてもいい。
「分かっているさ、それでも迷ってしまうんだ」
フクロウのとりとめもないお喋りを、ハヤブサは聞いている。一つの答えがやって来る、フクロウの予感は確かなものになった。鳩が戻った。一つ先に進める。積み重ねていくのだ、答えも業も。間怠いやり方だ。それでも、同じ季節を渡る者の手を引いて一歩一歩。後に続く者が背負う問いをもっとシンプルに、軽く。フクロウは問う。
「相棒、お前はどこにいるんだい」
「夢の檻の中に」
「進めるだろうか、共に」
「お前の手を取ったんだ、相棒」
夢の先など無いことを知っている。せめて森のひとが生まれその足で拾い集めた物事を母木に渡しに行くように、夢の先に持って行けたとしたら。
「夜明けが王都にも流れ込む。行こう」
夢が醒めてしまう前に。
影の庭
1.草原は奏でる
未成のもの。彼らは人か。人に成ろうと言うのか。蠢く集合体。人を真似ている。お前たちは何者だ。お前たちは人なのか。
小さな村だった。規模もそうだが、住人が。彼らの声はひそひそとしか聞こえてこない。小さな声。声だろうか。会話を真似ているだけで、高低のリズムを付けられた音が飛び交っているだけかも知れない。風に揺れる草。高くでざわめく木。彼らの音を音楽として聞く。
物音を立てて驚かせてはいけないからと、三人は集落の外れに腰掛けて昼食を摂っていた。
未成のもの。彼らは人を追う。人とは何か。我々とは何者か。人として生まれたから人と呼ばれていると思っていた。それで正しい。三人は曖昧さをそのまま残して受け入れることにする。
「同じ根っこから生えた一本なのかな。同じ地面から生える別の一本かな。言えることは一つ、私に彼らを定義する力は無い」
「我々はうつろうのか」
「見えていると見えていないの境目のよう。色と色の境目に別な色を見つけたような。光の気紛れで名前の示す範囲から取り溢れた色。その色にいつか再び会えたとして、気付けるかしら」
「きみはきみなの」
「移ろうのね」
囁く声で話していてもよく聞こえる。三人はお喋りを続ける。声が聞こえ溶け合って音になっていく。さわさわと笑ったのは草か、未成の彼らか。異なる音はさらに溶けて、みながみな楽しくなってくると音楽になる。虫も鳴き出し草むらの演奏会。聴衆だと思っていた、我々とて楽器であった。だれが聞こうと聞くまいと続く演奏会。
欠伸。はふ、と丸く飲み込まれた空気と時間。喋り疲れたら休めばいい。寝そべる音を端の者まで聞いた後、トーンを落として音楽は続いていく。
演奏の隙間を縫って、二、三の未成のものが、寝転がる者を覗きに来た。「眠っているのさ。もう少しだけこの場所を貸しておくれ」とスイが言うと、彼らはふらふらと揺れてから離れていった。
2.小瓶の舟
小さな人の形を取るが、未成のものは遠目に見ても人とは違う。ぬるりとした表皮から手や足が形作られ生えている。上手く手指まで再現している個体や、四本の棒がぱたぱたと動いているくらいのものなど様々。感覚器官は持たないように見えるが、仲間同志で集い頭部を寄せ合う姿は何らかの方法で交信していると言われたならば信じられる。影絵の芝居を見るようだ。箱庭で芽吹いた生活。こちらとあちらを分ける壁とは何か。箱庭に踏み入れば言葉の無い音楽会。彼らの庭で共に奏でることが出来る。種が違うというのに人と同じ方向を向いている。それでは例えば彼らが人に成ったとして、さらに人と同じ未来を目指すかどうかは分からない。旅の目的地が同じであっても、終着点はそれぞれ。
「彼らの心を覗けない。それは彼らが人ならざるものだからだろうか。それではと、同じ旅路のきみの心を覗こうとすると星の海が横切り淵に取り残されてしまう」
スイが歌うように吐露した。みな眠っているからと、控えめな鼻歌に交ぜて流した言葉。またハミングに切り替えて、忘れかけている曲を辿る。どこで聞いた曲だったか。先を思い出せなくなって、考える間に目線が落ちて、そこでシェミネと目が合った。寝転がっていただけで起きていたようだ。
「遠く感じるかもしれない。けれど大丈夫、私はここにいるわ」
「夢のようなのさ。過去の俺が見ている夢」
「夢でもいいわ。何度だって会いましょう」
「きみに会いたいと」
「うん」
「会ってどうするでもなくて。ただ……」
スイは言葉を切る。尊い針の光、星に声は届かないと思っている。か細い糸が途切れることのないように、いつものように愛しく撫でて、言いかけた言葉は息と飲み込む。
言葉が出てこなくたっていい。少しずつ形作っていくのだ。沈黙だってものを言う。見えないもの、見えるもの。時間の川が流れている。川の音を聞いている。川の音が言葉を掻き消すのだ。言葉にならないよ、スイが笑う。言葉は消え入る。
「海を見ているのね」
シェミネは川底で光る言葉を手に取る。
「星の海。そう。海とは深いものだろうか」
川から音を拾い上げ、波が寄せる音として頭の中で組み立ててみる。海を見たことはないけれど、波の寄せる音を知っている気がした。だから描けると。知らない記憶を持っている。ただの想像に肉を付けて、存在させた気になっているのだろうか。それだけでは物足りないから、いつか海へ。海はここからでもまだ遠い。想像の波の音が呼んでいる。
海を想うその人は道を行く。旅をする。一人の旅人。「そして、あなたは人」同じ海を描いてみながら呟いた。そのシェミネの声に、スイは一度目を閉じた。海が見えるのだ。手を伸ばしたくなる。代わりに問う。
「きみはどこに」
「移ろうのね」
繰り返し。繰り返し。寄せて、尋ねて、書いた答えを波は浚い、さらさらと砂の崩れる音を聞きながら、日が暮れるまでだって遊んでいよう。
「あなたは私を探してくれている。過去のあなたが、今のあなたが、時間をかけて拾い集めてくれている。それは闇の中に星を放るような作業。それは距離ではなく、あなたの中に私の居場所があるということ。人の中だからとても近くて、触れられないから遠い」
隣を歩く道連れは、まるで見知らぬ鳥や獣ではないけれど、それでも問い続けなければならないのだ。声は波が浚ってしまうから。
「きみはどこに。いいや、きみはここに。星の海はきみと繋がっている。きみが生きていることを知らせてくれるだろう」
揺れる水面に手を伸ばしたならば、川に笹舟を流そう。海に瓶詰めの手紙を托そう。手を取らずともそこに在る。
少女は水が運ぶ便りを楽しむ。
「あなたの中の私には、私も触れることは出来ないわ。大切にしてね。さよならの時まで」
分かりあうことは出来ないの、とシェミネ。
「『私』とは苗床。『あなた』とは芽。芽を育てているの。出会った人々から芽を分けて貰って旅をする。ふかふかに耕した土の上で誰しも気付くでしょう。ただ一人であると。空の下、自分やあなたの周りには、誰も居やしないのだと。静かなものね」
淀みなく歌い上げれば、孤独に浸り凪ぐ草原。耳を澄ました。静かなものだ。聴衆は一人で、あるいは隣人と微笑み合った。空の下にあなたの場所がある。
「同時に今、スイが、リピアが、兄さんが、かつて父母が助けてくれたことを大切に抱えながら行くの。一人ではあるけれど、沢山のことを覚えている。思い出していく。忘れていく。空の下、私の畑で芽を育てていく」
私という唯一を、出会った者と分け合っていく。
「分かりあうことは出来ないの。ただ森や海が広がっていくだけ。あなたの海が、いつか満天の星の光で照らされますように」
「畑には何の種を蒔こうかな。私は木の実を蒔きたいな。木になって、やがて森になれば、鳥は羽を休めることが出来るね」
寝ていたと思っていたリピアが、ぱっちり目を開けていた。畑の話を気に入って加わりたくなったのだ。
「みんな起きていたんじゃないか」
すっかり聞かれてしまったなと、少女二人の横でスイが縮こまる。そのままパタンと横になり、二人が覗き込んだ頃には気の抜けた寝顔を見せていた。
未知の生物の箱庭で、あなたの中の私に出会う。
3.森の音叉
スイは穏やかな昼間に一度眠る。夜中に火の番をしている事が多いから、危険の少ない場所では細かに眠っているようだった。三人の旅路に大きな危険が降りかからないのは彼が細心の注意をはらうから。それからもう一つ、リピアが魔法の網をレーダー代わりに使って周囲に警戒の目を向けていたからでもあり、彼らは人や獣との衝突を避けてきた。スイが眠り、警戒の片目が閉じられた事によりもう片方の目はどうするかと言うと、そわそわし始める。
「異種との関わりは極力避けるべきなんだ。集落の一画を借りてスイが寝ちゃうほど危険度の低い種でもね。接点には熱が生まれる。温もりを分け合うつもりで、大火事にしてしまう事だってある。旅人とは色々なものの領域を借りるものだ。静かに静かに通り抜けなくてはならないと、スイは今日もそう言っていたんだけれど」
長く葛藤を演じて見せてから、リピアがついに立ち上がる。
「私は遊びに行っちゃう」
保護者の目を盗んで抜き足差し足。手招けばシェミネもそっと立ち上がる。
小さな集落の中をリピアが歩く。青年少女より一回り小さい未成のものは、つまりリピアと並ぶ丈だ。並ぶ家々の、低く感じる屋根の張り出しに屈もうか考える手間も無く、するりと影絵に踏み込む。写し取られた人の世界。そう、ここには屋根がある。箱状の建物が並んでいる。未成のものは隠れるように森で、川で、山で暮らしを作っているものもいれば街を作るものもいる。山の間にぽっかり空いたこの野では街の暮らしが再現されている。
ぐるり取り囲む山々が、それぞれ異なる形の影を投げる。太陽が天頂にかかる正午を除けば、どの時間帯でも山の影が落ちる。畑の食物は細い蔦を伸ばしている。僅かな実りを腹に納めるのは小鳥や獣たちばかりのようだ。日陰の肌寒さを未成のものは嫌わない。彼らは影とも親しい。雲が太陽を隠し影が薄れると彼らも消えてしまうのではないかと見回すが、実体はあるのだから当然薄れも消えもしない。彼らはあまりに物静かなだけだ。声はすれど風の囁きのようなもの。人を真似れど暮らしの温度は生まれない。違う世界の影がここに落ちているようだ。影の箱庭。あるいは記憶装置により再生される事象。過去を再現する思念体。異種の住み家は違う時間が流れる場だ。長居をして閉じ込められぬように。別の時間の流れに知らぬ間に乗らないように。異種との関わりに危険はつきもの。時間の流れの遅い流域。時間はこの地を避けながら流れていく。差が開いていく。法則さえも歪むのだ。そのひずみを渡り歩いて旅をする。時計なんて気にしたことは無かったからと、影の庭で旅人は休む。
リピアは歌を歌いながら家々の隙間を歩いていく。彼女の歌はシェミネにとって懐かしい響きを含む。音は知るが、森のひとの言葉をシェミネは知らない。歌を一つ教わってみようか。今日は奏者も聴衆も入り混じり舞台に立つ日なれば。頷いたリピアがゆっくりと音を繋いでいく。シェミネが真似る音を心地良さそうに聞く。
「森のひと独自の言葉もあるけれど、基本的に一つの言葉で繋がることが出来る。私とシェミネがお話出来るようにね。鳥や獣とも、お喋りはしないんだけれども共通の認識を幾つか持っているよ。ひとがひとになる以前は、動物とも混ざり合っていたみたい。一本の木だったということ。枝のあちらとこちらで、おーいと手を振るんだ。ここから先、どんな枝が伸びるかな」
音の取り方に慣れてきたところで、合わせて歌い始める。枝のあちらとこちら、手を振り合って歌声を溶かす。
合いの手が入った。
さわりさわりと風が鳴る。風の中でもう一つ知らない音が鳴っていないか。二人は顔を見合わせる。異種の彼らがノイズの奥から顔を出した。周波数が合った。歌ったように感じた。
「言葉にならない言葉がある」
耳を澄ます。静かなものだ。波がさらっていく。スイが言葉にしなかった想いも聞こえるはず。周波数が合うまでは、音として蓄えておく。自然の中に遊ばせておく。
「喉を震わせて声を出す。身振りで風を起こす。胸に耳を寄せれば鼓動を聞くことが出来る。私のはじめの音は体の中にあった。もっと耳を澄ませよう。ここは静かな世界。鼓動と呼吸で満たされた世界。もう少し歌っていよう」
三つ目の音は微かに二人の耳に届き、再び聞こえることは無かった。未成のものが音で伝達する種なのかも知りやしないのだ。揃って調子良く勘違いをしたのだろうか。消えた音を次に思い出そうとしても叶わない。認識の外にある音。幻か、脳が見せた都合の良い理想か。分かりあうことは出来ない。けれど耳を澄ませる。
小さな声でリピアは歌い続ける。歌いながら確かめる。確かめては問う。強く、弱く。
「私たちはどうやってひとの姿を選んだのか。森でありながらひとである。私とは森である。私たちはやはり森に帰らなくては。母木を失ったとしても。迷い子を出してはならない。渡り鳥は風に導かれる。迷い子にとっての風とは何か……」
はたとリピアは指揮の手を止める。音を纏わない指揮棒をくるくると回す。シェミネを仰ぎ、目を丸くしたまま再び口を開いた。
「シェミネ、きみは、きみは森に還ることが出来るのではないか? 望むなら」
風に揺らいだリピアの瞳に憶測の淀みは無い。森のひとが持つ銀の光は、推測の輝きを透している。自信が満ちるような温かさ。リピアが手を伸ばした。シェミネは温もりを返そうと、小さな手を取る。
「そうだとしたら、リピアも在るように在るのでしょうね。今の形であっても」
きらめきを湛えた銀の光が懐かしいとシェミネ。向こうに兄を見てしまったと。
「銀色の瞳?」
「そう」
「シェミネ、きみのお兄さんは、きみを探しているはずだ。きみは彼の風なんだろう。風。その人は風を掴んだのか。私にとっての風とは何か。……そうだな、今、私の畑から広がった森が見えた気がした。そこに降りよう。まだ飛んでいたいから、もう少し、風に歌を溶かして遊ぼう」
未成のものの合間をリピアがすいすいと渡っていく。異種はあるものは道を譲りあるものは共にステップを踏み、まれびととの時間を共有した。少女二人がスイの元に戻る頃には皆何でもない顔に戻って、戯けた山間からの風がひゅうひゅうと機嫌良く通り抜けるだけ。
「寝過ごしたかな」
「時計の針も、スイが寝ている間は動かなかったよ」
「音楽は流れ続けていたみたいだけれどね」
少女二人がにやりと笑うのを見て、スイは居眠りで出来た空白の時間を埋めた。
4.微細な機構
未だ成らざる未知の種族と共にある。不可思議だと思えども、我々とてひとであり、かつては獣、遡って星の自然。曖昧な陰であったのだ。影絵の向こう側。陰の対である陽はどこに? 例えば触れられないものの中に。扉の向こう側。あなたの中。時間が避けて通る場所。予め置かれた空白。例えば天使。
「それは細胞」
「遥か空の彼方から」
「人の目線で人を見る。写し鏡かと覗き込めば手を振られ」
三人が思い思いに言葉を紡いでいく。それは記憶の小箱、予測される未来、声は届くと思う。それは隣人、森に住まう子供たち、街を作る人々、渚で目を合わせた人魚、我々の言葉を解す龍、それは天使の抜け殻……、「天使?」誰かが聞き返したけれど、誰が放った言葉だったか。顔を見合わせてからまた紡ぎ始める。
未知を前に、何度でも問え。彼らとは何か。ひととは何か。あなたは誰かと。
「森に還ったから森のひと、街を作ったから街の人、ひとを真似る未成のもの。私たちの言葉ではこのように呼ぶのだ。境とは見出すもの」
「彼らの言葉の上で、彼らを表す言葉を知りたい」
「彼らは『なにでもない』とも言えるだろう。ひとがなにでもないように」
ひとはひとでないならば、我々とはなにか。問う度に移ろうのだ。姿を変えられる。存在を溶かし混ざり込む。いのちの海に溶けている。
「私は変わってしまったのかな」
「木からひとへ、ひとから鳥へ」
変化を恐れよ。問い続けるために。
「蛹のように体を作り変えていく。何かに成っていく。渡り鳥も、未だ成らざる者なのだ。分かってはいるんだ。私たち森のひと、みな分かってはいるんだ。それでも問うてしまうんだよね。過去を向いて問うことを許してほしい。還るべきだった場所が懐かしくてさ」
ゆらゆらと海に溶け、かつて暮らした陸を見る。陸に恋した人魚はひとに。ひとからあぶくになるならば、鳥は風に。形を細かに砕いて雲に。人魚の涙も空から降るというのか。ひとも空を目指す。高空で彷徨う。誰が呼び始めたのか、未成のもの。初めに呼んだ誰かも、自分に迷っていたのか。
「私の中の私を、育てていける。あの日のままで留まっていた私を。苗が育つならば還ろう。私とは何か。私とは森である」
ひとは森へと行き場所を求め、森は鳥を慈しみ、鳥となればひとと歩きたくなる。鳥の視点で眺める。旋回する。昇る気流の中。環の中にいる。流れの真ん中に畑を作る。畑の中にただ一人。育てば森になる。出会ったあなたの苗を貰って、あなたを通した私を意識する。忘れ去られる昨日の、過去の、あの日の私を覚えている。育てていく。環の中で、軌道を持ち、時と共に変わる景色。畑に刻んだ鍬の跡だけはそのまま。
「ひとは移ろう。想いのままに」
畑から伸びる蔦を透かして人影。自分の中に留まる自分の姿を認める。
「あなたはどこへ行くの」
スイは緩やかに一つ頷いて、
「そうだな、向き合える」
こんなに静かな場所だから、音も立てずに微笑んだ。薄い光の中で、落ちる影さえ優しい。そのまま目を閉じてしまってもいい。眠ってしまってもいい。だが音楽はまだ鳴り止まないから、もう一言、音に隠して。
「ひとまず俺は、シェミネの前で、一人の旅人でありたい」
「育てましょう。あなたの星の海に、生命が満ちるわ」
未知なるものと歌い奏でる。即興の旋律は波にさらわれ海へと返る。消えゆく。忘れゆく。けれど進む。重ねていけ、海が満ちるまで。海に身を沈めたならば、旋律を聞くだろう。ついに聴くものは現れなかった演奏会。進む、されど残る。覚えている。希む者たちが記憶する。それぞれの旋律を奏でた当人だけが知っている。意味はもう波にさらわれてしまった。
流れる旋律。誰の心も分からない。けれど混ざり合えば音楽に。生まれ育つ異種族。分化するひと、異種の箱庭で、私は何者でもなくなる。
5.子等の歌
森と、海と、ひとを縫う旅人と。在るように在れ。
「進んでいく、変わっていく。忘れていく。思い出していく」
時間の川を眺めながらシェミネが語る。
「兄はもう帰って来ないんだと、予感が実感に変わったわ。それが旅立ちのきっかけ。彼が何も言わずに去ったのなら、追ってはいけないことなのだと。それでも発たずにはいられなくて」
森に惑い、海に立ちすくみ、道は見失う。どこへ行くのかと問われた。奇妙な散歩道。私とは何かと問う。見失ったとき、ただ一人だと気付く。異種の中で、隣のあなたさえ遠い。皮一枚隔てて在るのは唯一つのいのち。旅人は境界を縫い歩く。
「在るように在れと望みながら、ちぐはぐね」
理想は現実に作用する。現実とは歪なものだ。歪みを知ってしまえば戻れない。けれど今日のところはお目溢し。少女の望みは環に還る。人魚はあぶくに、鳥は風に、思いも雲に。環に還り、望みよ、思いの限り続いていけ。ひとがかつて続いていけと望んだように。混沌の海、虚空の天使。水と空を行き来して、陰と陽が混ざり合って、いずれ体もどろりと溶ける。消えてしまうような温かな眠りの前に、まだ少し飛べる。
「歪だけれど、行かなくては」
「歪が流れ込む街がある。王都のことだ。きみも行くのか、本当に」
シェミネはスイを見る。
「忘れていく、変わっていく。そんな中でスイ、あなたは引き返してきてくれたのね。あの日、赤い日没からの時計が動いたわ」
「苗に水を運んだか」
「慈雨。苦しみは無い」
上昇気流、天高く。生命の環もまた螺旋状なのか。宇宙は収束する。歪だから転がり続ける。物語はいつから始まったのだろう。
「変化しないことを望んだわ。永遠のまどろみを。それでも変わっていく。兄さんにはいつかさよならを、私は言わなくてはならない。彼が渡りながら永遠に生きるなら。彼の中で私は変化するものなのね。物事も、ひとも現実の前に歪。スイ、流れる血が温かいわ」
「立ち上がるきみを、再びこの目で見ようとは。……行こう」
どろりとした血に身を浸し、少女は呼ぶのだ。人のままの姿で、衣の裾を染めながら屍の山を登っている。生きるならば。
「血は流れるのか」
赤い川を渡ろう。
「手を繋ぎ進むことは叶わないけれど、今は一つの旅路にある」
地に横たわり、空に道を見出す。道が見えたらまた進もう。雲の地図はすぐに書き変わるから行き先なんて定まらないけれど。散歩なのだとそぞろ歩く。
「あなたが私の元に現れたのは偶然かと聞いた。雲を追う旅路のようだとあなたは言った」
スイが一人歩いた道はどこに続いていたのか。シェミネは続ける。
「それは偶然?」
「雲を追う旅路だ。そして必然」
スイは白状する。
「歩きましょう。長い散歩道。一歩先が霧で見えなくても、雲が気紛れに道を分けようとも、あなたは居るのでしょう」
「探してくれるのかい」
「探すわ。望むなら」
「きみはどこへ行くんだい」
「スイはどこへ行くの」
「さて、どこに行こう」
異種の住処を通り過ぎるならば、汚さないように静かに。光の丘で、陰の庭で、子等は遊ぶ。変化を恐れても留まるな。遊び、笑いながら問い続けよ。現実がひとを追い回す。その現実を追いかけて笑う子供たち。
「笑って向き合えるかしら」
「大丈夫」
蒼翠の回廊
1.緑の機関
おうい、おういとリピアが呼んでいる。姿が見えない。草むら、岩陰、木のウロ、だまし絵の中。探すも見当たらない。
細かな起伏の多い一帯を越えていた。追い越し、追い越され。すり抜け、頭の上を飛び越えられて。三人は上へ下へ、障害物競走。朽ちた木を踏み台に高くへ。蔦を握って段差を滑る。水の溜まりは隕石モグラの掘った跡。朝露をなぞる蜘蛛の糸を弦にして、歌う子鬼らとは目を合わせるな。調べを邪魔しないように遠回り。追いつき手を取り、木も岩も越えていく。
さんざん飛んで跳ねたので、重力があるから下が分かるものの、壁や天井を旅の仲間が歩いていたってもう驚かない。だまし絵の小径。奇怪な障害物。おうい、おういと笑いながら呼ぶリピアの声だって、地形に狂わされた方向感覚では四方から呼ぶようだ。
「上だよ!」
なんとか声を辿って近付いた。ヒントが具体的になる。足を止め、顔を上げると風が抜けるのが分かる。火照った肌に心地良い。さすがに息が切れる。樹上を探せば良いのだろうか。はたまた木よりも高い岩の上か。上も下も広がり続けている。見通そうとすると目が眩む。断崖を目にしたわけでもないのに。
深くもないのに果てが無い。目をこする。閉じた一瞬、落ちる感覚。慌てて見回す。夢から飛び起きたように体の在りかに急ぎ戻る。四肢を確かめる。手を取られた。どこの妖精の仕業か。
「そう、ここだよ。登っておいで」
森のひとの小さな手だった。
見下ろしたその小径は彩り良いサラダの皿のようで、ドレッシングを片手に踏み入ったは良いものの、容器をバトンにリレーする事になろうとは。注文を取りに来るウェイターはもちろん居ない。注文の多い一本道ではなかったが、はて、巣穴に入ってしまったのだろうか、食前の運動の激しさでバターになってしまう。
斑紋の美しい蝶が伏していたような場所だった。伏しているとはつまり翅は広げられていた。広げて待つのは蛾の方で、取り違えたかなあとうっかりを悔いる。あるいは標本箱の磔の蝶だったのか。硝子越しに覗く目を探す。
迷って辿り着くのが美しい庭ならば、つい気が抜けてしまうのだ。リピアの森の、赤い花畑だってそうだった。赤い花に導かれ、森の妖精の片手で踊った。血と炎は木々を異界への門のように赤く塗り、空間を分けていた。結ばれた赤い焦点を通して、門の奥で祀られる太陽と月を交互に追いかけて、ここはどこなんだろう。妖精が微笑む。ここは見晴らしが良いよ。
楽園を模す庭。虫や妖精や怪奇が、蝶の背の上に作ったのだろうか。一本の道に入り込み、進んでいたかと思ったが、無限回廊。同じ場所を回り続けていたようで。これはとんだ運動会。白線の間を走り、ゴールを目指してぐるぐると皿の上を走り続ける。右に回ればずっと下りで、左に向きを変えればずっと上りで。いたずらに作られた永久機関。発電するために日夜走る小鼠。あんぱんでもぶら下がってはいないものか。リピアに手を引かれて登った木の上で、やはり目が眩む……。
この子供は荒ぶる神、妖精、異なるものなのだと改めて実感して、頭を軽く押さえたスイが、リピアの顔を見て何か言い出そうとしたのだが、この子供の顔は決して遠くにあるわけではなく、目が眩む現象でもなく、単なる隣人なのであり、そんな事を考えながらやはり何も言わずに見続けるので、そろそろ穴が空いたリピアが、ぺちぺちとスイの顔を叩いた。リピアの手はまだ熱を持っていたが、触れた相手の肌は火照りが引いてひんやりしていて、さらにもう二、三度手を頬に置いたりしてじゃれ始める。遊びながら、目は口のようにものを語るかもしれない、けれどそのようにまじまじと見られては困ると訴える。木の上で器用に縺れる二人。スイがやっと、「不思議なのさ。妖精と戯れ合うこの時間が」と口を開いて笑ったので、木の上は静かになる。
「お腹が空いたあ」
リピアが木に座り直して辺りを見回す。
「見晴らしが良いでしょう」
上り続け、下り続ける道ではあるが、木々の根元を飛び回るよりは見通しがきく。高い場所に落ち着けば辺りを見回せる。木登りなんて久しぶり。葉の間から顔を出して景色を楽しむ。空縫いの時計塔を思い出す。上り続ける螺旋の階段。はっとしたシェミネが、
「落ちては、だめよ」
と口に出す。
「落ちたら落ち続けるのかな」
落ちて来る自分を受け止めようとでも言うのか。リピアは見上げている。ここで自分自身が降ってきたら大問題だ。時間の歪みに入ってしまったことになる。奈落に向かって落ち続けるのも厄介だが、同じ場所を落ち続けるのも困りもの。そんな事にはならないようにと気を引き締める。ぐうと腹が鳴く。そうだった、腹が減っていた。
「木の実が生っていたから上に呼んだのさ」
見通そうとして登ったわけではないと言う。空腹に助けられるなんてなかなか無いことだ。ありがたい。溺れる者は藁をも掴み飢える者は木の実を掴む。木の実とはどこにあるのか。リピアの視線を追った二人が救いの色や形をそれぞれに思い浮かべる。散りばめられた紅玉。粒なりの蒼玉。堅く閉じた琥珀。海の底の真珠。手の平に収まる金。よく熟れた黒曜。輝きを探すが、これといって見当たらない。リピアのようにおういと声を上げてくれたならば気付いただろう。翅を休める蝶のように儚ければ寄っただろう。しかし果実は無口。実りを鳥に奪われることを拒むように無口。
「これだよ」
木の実とは擬態上手なのか。リピアが示したものは確かに目の前に幾つもぶら下がっていた。これと指されると次々目に入ってくる。翠玉の……と言えばそれらしいが葉の形に似た痩せ細ったえんどう豆だ。食べる部分はあるのだろうか。剥いて食べるのだろうか。彩り豊かなサラダ皿の上でありつくおやつ。リピアが食べる様子に倣う。木から取ったら剥かずに囓る。なるほど。奇妙な生物が隠れる森の食べ物だ。何があるか分からない。本当に安全か。慎重に口に入れる。うん、うまい。
ほんのり甘くて香ばしくてほろ苦い。滅多にお目にかかれない植物なんだけれども、運が良かったとリピアが言う。二つ、三つと口に運ぶ。えんどう豆のようなこの木の実。一体中には何が詰まっているのやら。シェミネがするりと筋を取り背中を開ける。あ、と声を上げた。内部からむくりと起き上がるものがある。数本の筋が探るように這い出した。ぺたんこなサヤが膨らんで、身動きしているらしい中の様子が手に伝わる。両手で持ち直そうかと凝視していると、目の前を緑色の熱源が昇っていった。これは安全な食べ物なのか。
「背中のチャックを開けると、中身が驚いて飛び出してしまうんだよ」
残ったサヤだけ齧ってみたら味気なかった。
飛んでいった方向に首を回すと目の前がチカリと光り、爆発音。空中で幾つか花が咲いて、音のわりには味気ない花だったのだが、それでも拍手で散るまで囃す。空が破裂するものだから呆然とする二人と、笑い転げるリピア。彼女はそのまま下まで転げていった。落ちてとっさに上を見てしまったシェミネ。再び聞こえてきた笑い声は地面から。大丈夫かい、声をかけたスイもつられて笑い出す。
森に捕らわれてしまって抜け出せそうにない。その日、森のひとが遊び疲れるまで、緑の永久機関で走り続けたという。
2.無言の青滝
無限の回廊も星に根を張る木々を抱えるのだから、生白い根が作った隙間に抜け道がある。遊び疲れたリピアが、それでもまだ惜しいのか振り返る。心地良く身体は疲れ、緩慢に根を伝い、土に滲み透る水のように細道を下る。
根と岩が絡み作り上げられた構造は建築と言ってもいい。獄舎ならば逃げられやしない。
「いいや、ここは緑のコリドー。残された通り道。森の生物は森から抜けられない。海の生物が好んで陸に上がらないようなもの。それでは生まれとは檻か。群れを離れて旅することは、種から遠ざかることなのか。亡霊のようだと考えたりもするけれど、渡り鳥の生活も定めのうちなのだろう」
黴のにおいを払いながら薄明かりを辿る。隙間から生暖かい手を伸ばす亡霊を横目にまだ下る。振り向いてはいけないよ。おどろおどろしく警告をした先頭のリピアは、後方に笑いかけた。早速振り返っているではないか。冗談なのだろう。根に腰掛ける岩がぬらりと笑った。冗談だろうか?
亡霊か彫刻か。石となり留まり続ける命だ。通行者を引き止めようと目論む誘いが増える。露天の客引きならば愛想もふりまくが、今は正面だけ向いていよう。正面には小さな森のひと。近寄る亡霊を小突いたり木の根を操り払っていた。まったく危ないではないか。リピアを小突く。
「そう、きみたちは彼らに触れない方がいいかも知れないね。認識の外にあるものだから」
無力だと縮こまるスイをリピアは慰めた。きみも今は森に関わる命だから無力などではないと。亡霊たちがまた笑った。からかいを引っ込めて、見守る距離で。笑いが引くと、亡霊彫刻は私語も止め、姿勢を正し始めた。黙っていれば良い彫刻だろと言わんばかりに。
道に規則性を認め、アーチが整い、採光窓が設けられ、視界が広がる。入り組んだ獄舎が神殿の佇まいとなった。やがて下りは終わり道幅が広がると、リピアは先頭をシェミネに任せた。
この旅路は空白の中にある。
歩いていく。少女の背中を追って。透明な幕を潜りながら導かれていく。何度も道が折れる。壁に再び彫刻を見た気がする。無機物に刻まれた、寡黙でしなやかな躍動。ひとを表すものか、動物なのかは霞んで分からない。
道を形作る岩は雨雲のように折り重なっている。隙間を青い草が覆っている。雲を渡るようだ。均されていない道。対して等間隔に並ぶ石柱。無骨な腕で支える天井は青い空。湿気の向こうは涼しげな色。天然の道を装飾した者がいるのか、石柱にもやはり彫刻が施されているように見える。風化してのことか、そもそも彫刻ではなく雨風のいたずらか、彫りを見ても生物の名は浮かばない。でたらめなのだ。これが生物であれば機能を無視して体を切り貼りされている。図だとすれば入り組んだ流線が躍動を生み美しい。文字のようでもある。
見えぬ幕を潜る度、歩みが重くなってくる。幾重にも折れた道に畳み込まれた神殿。雨と宇宙の間に張り巡らされた通風管。この下は雨模様で憂鬱だろうか。暗い夜に沈んでいるのだろうか。遺された神殿は大気の揺らぎから隔絶されてただ静かなお天気。天空が霧や雫となって神殿に降り注ぐ。草が両手を広げて空の欠片を受ける。欠片は雨後の水溜りのように青く凪いで鏡となる。果てしない回廊。植物と同じく両手を伸ばせば青に染まるのだろうか。天にも地にも染まらず歩み続ける寂しさよ。
「染まってみましょうか? 空や、岩や、森に。ひとの中にいるからひとであるだけ。ここは空。下った先で空と鉢合わせてしまったみたいね。隔たれた地で、そこに有るものに染まらないのは寂しいけれど、居着いてしまっては渡り鳥とは呼べないから、今はまだこのままで」
回廊を抜けたつもりが、根の道は新たな回廊へと繋がった。川の音が上から、下から響く。落ち続ける。昇り続ける。回り続ける。再び捕らわれてしまった。ぽっかりと抜かれた空を辿る。青く霞み灰に埋もれる景色。少女は異界の切れっ端を恐れない。どこまでが彼女の散歩道なのか。気楽に、静かに、風景の変化をただ受け入れる。染まらぬ背中をしばし追う。
千切れ雲の綿帽子が付いて来た。行列を作りしずしずと歩く。ざわめきにつられて旅人らもぽつぽつと言葉を紡ぐ。開けた口から雲を飲んだ。足の速い雲の一群が先を急ぐ。通行雲が増えてきて、白亜の壁となる。互いの姿を確認すると、白い雲の衣を纏ったようだった。
羽衣を翻してシェミネが指差す先にステンドグラス。太陽の方向に五色の彩雲がちらついていた。はぐれてはいけないよ、手を取ろうとするが、憚られた。大丈夫、見失いはしないと言い聞かせ、浮かせた腕を引っ込める。幾多の光芒が伸び、視界が白く焼かれていく。交わす言葉が光の中で欠けていく。
少女の背中を追う。緩く結ばれた髪が踊っている。紫雲に馴染む髪色だ。雲に包まれながら、彼女が育った森の色を見た気がした。淡い光に溶け、流れ、木漏れ日に隠れて過ごす。静寂に食まれ、光に身が欠け、森に溶けていく。やがて森になる。収束へと向かう彼女の始まりの景色。遠い囀りを追いはしない。草原に寝転ぶ。その手を取れたなら……。否、彼女は行き先を知っている。閉じられた回廊の解れを探せる。探すその手を塞げば最後、青い空に染まってしまう。そうではなく、鳥は有るべき森へと帰らねば。彼女がふと煙となって消えてしまうことはない。律儀なものだから、さよならと言うまでは。
長い時間をかけて森に溶けていくのだと思っていた。火に焼かれて終わりが早まると、溶けずに灰になって彷徨った。
灰が吹かれて散った。焦げた木に降りかかって、花は咲かないが双葉が伸びる。花がつくには時間がかかる。森が出来上がるまでどれほど待つことか。おとぎ話のように上手くいけばいいのに。耐え忍ぶ間に折れもする。強くもなる。
柱と壁を彩る名も無い生物の彫刻は、祈り、嘆き、怨嗟を体現する。静寂の中でそれぞれの物語は聞けないが。名も無く、言葉も持たぬ礼拝者は、短い歓迎とともに先を示す。
霧が押し寄せた。雲が歩みを止めて、地面に近いものは白い衣を地に置き首を垂れる。遠いものはぷかりと高度を上げてまた飛んでいった。雲の無い空間が出来上がる。旅人は空間に二、三歩踏み込んでから気付く。神殿に相応の静けさが戻った。服が重く濡れていく。探せど水の気配は無いが、滝壺に近付いたかのような圧に押されて旅人は跪いた。……それで、どうしようか。しばし固まる。祈ろうか。神殿ならば、適当だ。捧げる祈りの為にここまで来たのだろう。各々祈りの姿勢を取る。何を捧げる場所なのかと小声で尋ねると、シェミネが手を合わせたまま呟いた。
「夕暮れが再びやって来るようにと」
烏が鳴くからその日にさよならを告げるだなんて寂しくて、もっと続けと切なく願う日もあった。力の続く限り遊び、体が言うことを聞かなくなるまで立ち上がり、それでもやって来るのは終わりや眠り。起き続けていても、走り続けられない。昼夜駆け回っても、朝や夕暮れは変わらず巡る。雨雲の上に留まり続けても、日は傾く。ならばせめて、今日の終わりは共に夕日を見送ろう。明日は来るとも知れないが。
「過ぎる日々を。忘れる心を捧げましょう」
去る事柄を奉る場所。連なる日々に区切りを。みな祈る。遊び回った満足を。体のどこかでまだ冷めない声を。烏が鳴いて夕日に急かされて惜しむ心を。忘れるために、同時に思い出せるように祈る。
「時間をここに置いていくことにするわ」
今日が終わっていく。昨日が遠ざかる。過去が積み重なり埃をかぶる。善きも悪きもこの手から零れ落ちていく。持って行けないから安置する場所が必要だ。透明な幕の最奥、見えない滝壺に沈めておこう。鎮めて進もう。名も無い神殿に、子供の時間を置いてきた。
礼拝者は再び雲に紛れた。雲に従い滝壺を避けて通る。滝の裏手に回ると下る洞穴があり、火を灯して進み入る。洞穴からの風で灯りが揺れる。
寄り道をして、どこまでも続いていく旅路。空白の時間の散歩者。この旅には同時に終わりがある。
「ずっと続けばいいのに、今日は去っていく。この場所は、いつか振り返る日の目印となるでしょう」
リピアは今度こそ満足して、シェミネの言葉に一つ頷いた。またこの時間に戻って来ようと、指切り。
しあわせのみつば 3/星揺り起こす風の章