しあわせのみつば 2/こだま数える鳥の章

 夜に鳥

1.夜の微睡み
 夜の空を一つ二つめくったところに、鳥が眠っていた。夜目がきかずに眠っているのではない。鳥は梟。今は月のような目を樹上に光らせ、地上を惑わせている時間ではないか。しかし月は平和に輝く遥か遥かの一点のみだった。梟の沈思か、待っているのか、獲物を追うのが怠惰なのか。ただただ夜に薄く溶けている。
 梟は白い羽を持っている。夜に浮き立つ白を持ちながら、存在を誰にも知らせないのもその羽。彼は上手く存在を殺していた。
 退屈そうに胸が膨らみ、ため息が一つこぼれる。薄く目を開ける。軽くまどろんだ程度だったのか。眠ってすらいなかったのか。梟が住むのは常夜の街。いつだって彼の目覚めの時間。眠りと活動の感覚が衰え、そろそろ疲れが出ているのだ。
 眠らなくては、と梟は思う。

2.歪の果て
 まどろみの梟の眼下には歪な街がある。喧騒でもざわめきでもない、地を擦るどよめきに包まれている。不気味な、しかし一定のリズムは人の声だろうか。いや、それだけではない。街自体が律動しているのだ。古い街には人以外にも沢山のものが住み着く。犬猫ねずみ然り、幽霊や妖精然り、また街自体の命も然り。息衝くものたちが街の律動と共鳴する。そして奏でるこの街は、常に姿を変え続けるのだ。昨日あった路地はもう存在せず、路上で眠れば目覚めても夢か現か分からない。それで街に取り込まれていく。

 街は自然の流れに取り込まれている。街は壁を築いて自然を排したのではなかったか。湖に浮かぶ舟が呼吸したら、魚や水鳥に連なってしまう。
 湖面を這う大蛇は背に家々を乗せて永遠の夜に留まる。天球に蓋をしてしまえばどこを這おうとも闇。空をご覧、月や星は軌道を描かない。天の綻びから入り込む光を星とは呼ばないだろう。夜ですらないのだ。
 鼓動を帯びれば生命となる。人や獣の足音が鼓動となり、人の思惑や感情が繋がっては離れを繰り返すうちに信号となり、生命が街に宿る。街の人は歪の果てに命を生んだ。作ることに忙しくて、生まれた命や魔法になど見向きもしないだろうけれど。足元に魔法。壁や石畳で囲ったとしても自然からは逃れられない。自然は切り離された人々を受け入れたのではない。箱庭は自然に呑まれただけ。この地では、自然に下った街が人を呑む。利己と快楽を糧に、パッチワークの蛇は膨れ上がる。命の背に揺られているなど、ますます気付くには難しい。

3.地平の赤を切り
 街の一角で、細胞が一つ食われた。捕食は繰り返す営み。生も死もありふれている。街は欲を肯定する。細胞は獣であれ鬼であれ構わない。集い、溢れ、変化せよ。街が歓び、路地がうねった。
 返り血の影は、記憶に無い道々を適当に歩く。ただ歩けば良いのだ。辿り着く。考える者は迷う。彼は街の外からやって来た。移り住む者は多い。未だに人口が増えている。ただ、魔窟だと知って食われに来る者はいない。呼び寄せる魅力があるのだ。彼も街が囲うものに用事があった。目標には近付きつつある。しかし街に捕われてぬかるむ足を自由に動かすまでには至らない。遂げなくてはと影は思う。感情の浮かばない顔には焦燥のやつれがつきまとう。死神に追われている。いや、追い回すほどの執念の色。風体もまた異にして、近隣の国の者には聞き及ばない髪と瞳の色を持ち、身は分厚い黒衣に隠している。その黒は火中のはぜる炭ではなく、火を見下ろす冷めた星。暗黒星。
 星は高みから街を覗けど、その環状をした造りのおかげで、軌道から抜け出せない。彼であってもせいぜい鳥といったところだ。街には鳥の目も知らずに朽ちる者も居るから、良い方ではある。飛んでは壁に阻まれる。なんと広大で深い街。この場所は栄光の元に栄えている。欲が尽きる事など無い。
 ほら、欲を追った者がまた。

4.晩を引きて
 黒い影は駆けた。後を追われている。様子見の尾行がいつの間にか追いかけっこに転じた。時間も分からぬまま逃げて、今はいつかいずこか? どうせ夜だ。そしてどこでもない。敵は二人。簡素だが質の良い装備を携えている。そいつらは街に住む流れの連中とは少し違う。環状の街の中央に巣を構える者たち。それは兵士。王都の兵士。
 兵士は街の連中がとことん気に入らない。辛気くさいからか。或いは兵士がこうしてわざわざ街に踏み入るように、街の者も王都に向かう時があるからか。街は王都を抱え守りもするが、生かしもしない。それで時々、兵士がこうしてやって来る。治安維持という建前だが、ここには維持する法など無い。遊びでしかない。――それが街に喰われるという事だ。黒衣の男は笑った。刃の音がする。

「うしろの正面、だあれ」
 梟があくびした。椅子の上で長く伸びをして、それから窓から飛び降りた。鈍い銀が揺らいだ。一瞬、月が梟から陰を奪う。銀の髪。煤の装束。梟はまた街の陰に入り、揚々と石畳を歩く。
「帰りが遅いんじゃないの、相棒」
 夜が引かれていく。

5.常夜に迷う人
 兵士はすでに迷っていることを悟っていた。だからといって街の住人に帰り道を聞く気にもなれない。聞いたところで住人が道を知るわけもないが。兵士は好奇心を呪った。眼下の闇に手を伸ばしてしまった。手を掴まれた。逃げるわけがない。落ちるしかないだろう。
「否、明かりが見えた気がしたんだ」
 兵士が遺した言葉に、影の男は苦い顔をした。剣の血を払う。もう一人が斬りかかってくる。殺そうか逃げようか。考える暇はない、体に従え。声が割り込む。誰か。
「さあ相棒、逃げようぜ」
「仲間か」
「フクロウのやつ」
 兵士が身を引くので、影は体当たりを見舞って路地に滑りこんだ。

 声の方にフクロウがいた。煤を被っても白銀がちらつく。深い夜の路地でも見失いはしない。夜の猛禽に音も無くさらわれたのを情けなく思うが、それも今更か。
「迷うなよ、ハヤブサ」
 迷っているのは誰だ。影の中の隼が誰にともなく呟く。ここは迷い人が来る街だろう。

6.くり返す夜
 諦めきれなかったらしい兵士の靴音が迫る。こうるさい鳥たちを、一羽ずつ落とせば楽だと思ったか? からかうフクロウにつられて、追手は路地に入った。けっこうな忠義で。相棒にうながされてフクロウは逃げ足を早める。王都の兵士と街の住人と。朝と夜、月と太陽の追いかけっこ。住む場所が違うから追いつきやしない。時々蝕され、上へ下へ、正確なお仕事。
「帰る場所がある奴らは迷わせてしまえばいい」
「どうせ迷っているのだから、どこへ行こうと同じだ」
「おっと行き止まり」
「飛べ」
 短くなった月を飛び越え、開け放たれた窓へ着地。
「すまね、邪魔するぜ」
「誰も居ない」
 留守か、端から住む者などいないのか。窓から侵入したフクロウが扉から出ようとすると鍵がかかっていいて、建てつけの悪い家だとぼやく。しかしそんなことは無い。窓から侵入する輩などどこにでもいる。街は生き物だ、必要に応じて体を作り変える。さて、ドアノブをガチャガチャ回したり、蹴ってみたり、もたもたしていても鬼が来ない。諦めたか。ハヤブサが窓から顔を出す。上には低くなった月。随分下には兵士が転がっていた。窓を入り口にする事を躊躇ったのか。翻弄され、走り回った挙句落下してしまうのも不運。
「もうここで休め」
「コーヒーを残してきた」
「帰る場所は無いだろう」
「どこへ行こうと同じだって?」
 確かになとフクロウが笑った。血のにおいがする。帰る場所は無い。星はまわり、彼らは飛び続ける事を選んだ。安息の地を求めた夜の鳥。求める地はすぐそこ。

 海へ

1.あちらはどちら
「人が、流れている」
 ぼんやりと流れそうになった言葉を口にするやいなや、スイは駆けた。生した草のにじんだ匂いと共にただ川沿いを歩き続けた退屈が、飛沫に消える。飛び込む音だけ流されない。いきつくのは、どこか。

 それは暗い川だった。対岸は遠く、水底は深い。水面には時折跳ねるものもあるが、はたして魚だろうか。川辺の草花にさざめきも煌きも与えた水は寡黙。
 リピアさえ足音をひそめた。そうして歩いて幾日か。一行は対岸へ渡りたかった。しかし川向こう、季節の花が盛りの彼の地を前に、橋を探して川の流れと下るばかり。季節が終わってしまうとリピアが笑った。
 水面がもう一跳ね。静けさと、暑くなる午後の予感が広がる。その矢先のことだった。

 川は冷たくも速くもない。しかし拒むような温さで水中のスイを巻きこみ流す。いきなり飛び込んだのは軽率だったか。深みに引きずり込まれないように流れる人影を追う。水に浸かりながらスイは薄ら寒い感覚に捕らわれていた。泳ぐよりは浮く感覚に近く、水は透明だが自分の手足の輪郭がぼんやりとする。あの影に辿りついたところで、手を掴めるのか。そんな事を考えながらも手を伸ばしてみて、はたと気付いた。流れている人は助けを求めているわけではない、と。
 脱力した。退屈が足を引っ張る。水を呑んだ。

2.みずのこもるいのち
 水流。右に鉱石の残響を聴き、左に柔らかな雲が映っていくのを見た。轟音。水の玉が鳥の速さで飛んでいく。遥かな梢から見下ろす遠い景色が透明に霞んで、体がくるりと一度回って、耳が重くなった。圧がかかっている。水の中にいる。沈んでいく。浮かばない。ここに人は無く、みなみずのこもるいのち。

 誰が溶けた水だろう。声にならないまま彼は思った。そういえば水を呑み肺は詰まっていた。とぐろを巻きぶつかる水圧には手も足も出ない。抵抗できず水に転がされ。流れはスイを巻き上げ、包んで、逃がさない。引き込まれてしまった。いつしか轟音は自分の内から響くようになり、ひとの旋律を忘れた時、ローレライの唄を知った。音楽。波が高まり、落ちるように引いていった。その白……。

 白骨が絡みつき、臓腑に抱かれ、あの温い水を呑み、にわか離れていた意識が戻る。
「いる、確かに」
 見える。音の中に人の姿。人ではない人の姿。自分の姿によく似た。みなが流した過去、魚の骨のようなきみ、その感嘆するほど透明な瞳に、写る自分。
 たすけようか? そう尋ねた。どちらが。川は緩い流れに見合わぬ速さで時間を流す。一瞬から見る、過去の日から夢想の未来。ここに生きている、確かに、それは水のひと。過去とも先ともつかぬ水のひと。スイは追った。昔の影を追うようなあいまいな流れが手を引いて離さない。水が誘うまま深いほうへ。
 ほんのり汗ばむ時刻、水面下は少し温度を下げる。眠りにつく体のように。みなもの下に、抗えぬ眠り。午睡には寒すぎよう。すっかりふやけた手を伸ばしてみる。
「きみは、どこへ」
 走る水の流れに身をゆだねた水のひとは、一度、飛沫の人物を見た。

3.彼岸の岸辺
「スイが溺れた」
 何日続いたか分からぬ川の音が破られた。鮮やかな浄土、花に色付く向こう岸が笑い出す。ざわと風が走ったのか。はたと二人は顔を見合わせ、慌ててのどかな空気を風に飛ばした。
「飛び込んだの」
「どうして」
「どうかしていたんだね」
「あやうい」
 少女二人は川下に駆ける。足取りはどちらかと言えば軽やかで、祭り神輿を追う子供に似ていた。やんややんや、草と土の匂いを撒き散らして神の行列に加わる。川が旅人を連れて行く。長い平地を抜け、急流を越え、行き着くのは神の懐の闇なのか。
「川に落ちた猫を見る気分のような」
「川に流した木の実を追うような」
「そう、追わなければならない」
 二人は歌い跳ね転がりながら機会を窺った。本当に取り返しのつかなくなる一瞬を逃さぬよう慎重に。スイは猫だ木の実だと言われはするが子供ではない。流れるも浮くも自由だ。生きる術に裏打ちされた力は信頼を得ていることであるし。

 やがて流れが緩くなる場所に、金髪が水草と引っかかっていた。空はからからに青かった。時間を映さない空。水を払いもせず三人がみつめあう。とおい対岸は相変わらず並行に走っていて、夢を見ている気分になる。安堵の声も無い。ぽたりぽたり水が滴る。一滴、一滴また――ぱん! スイが一つ手をたたき、空が音を跳ね返す前に、少女二人が驚く前に、
「きみたちは、まったく、ひどいね」
空色の瞳を緩める。笑っている。恥ずかしいのかもしれない。それほどに冷え、濡れてしまっている。なんだかいっしょに微笑みながら、シェミネは、
「行き先が、同じなので」
心配などできやしないのだ、と言いずぶ濡れのスイを乾かしにかかる。

「行きたいのです。
 雨へ、流木のはかばへ、
 光とは別の次元、とおい彼岸。
 海は、どこですか」
 助けたのか助けられたのか、正直わからない。それは水のひとと呼ばれるもの。それは流れていた。抵抗を無くした猫のように、追う子のいない木の実のように。無口に求めるまま、ただ低い方に。執念に似る。ゆらゆら漂う輪郭に問えば、海を目指すのだと言う。水のひとの集落である「溜まり」を後にしてまで行くのか。海とはなにか。それは聞かなかった。まさに朽ちようとする水のひとが海へと流れる、それだけだ。

4.水の旅路
 水のひとの生はまことに静かである。生まれは魚の白い骨であり、水に入ったその他生物であるという。水の中に戻る事を許されたひとたち。その生活はさらに水へと戻るべくある。のぞむことなどなにもない。その静謐から抜け出す者は稀。どこへ行こうというのか。ここはどこか。きみはどこにいるのか。
「この先に、きっと」
 シェミネが川の行く方を指す。スイは半身を水に浸したまま、手を伸ばし、今にも失われそうな異種の旅人の手を握り、離した。音も無く、白い影はまた流れに取り込まれる。この深い川を見つめ傍らを歩き続けてきた数日。奇妙な川の白い影。錯覚の魚影。似た姿のちがうひと。異種のひとを想う。この川は地の果てに繋がる。海に繋がるのはどの川か。誰もが承知の事実を口にする怖ろしさ。しかしシェミネは知る。彼のひとが求める海はエメラルドの楽園ではないと。
「行き先が、同じなので」
 流れる人影を見、もう一度呟いた。
「還る場所も、行く場所も、決められてはいない。知っているだけ。あのひとは尽きるときに海を作るだろう。海を作ることを知っているから。何も無い地の果てを水平線に変えるだろう。そんな旅もある」
 がんばれ、とリピアが言った。渡り鳥の声をみなが刻んだ。さよなら、誰かが言った。
「私はきみたちのことが好きだよ」
「きっとだいじょうぶ」
 川はほどなくして浅くなる。交差して橋が架かっているのを確認し、三人は道の相談をする。
「渡るかい?」
「行きましょう。ひととき、蜜の香りに埋もれたい」
 では、と一行は橋を渡った。水のひとの影はもう無い。一行は川を渡りたかった。浄土のような対岸は通り道。その先とは。きみはどこへ。後行くスイが見守る。

 昼夜の谷

1.魚の腹
「我々は何から逃げているんだい」
「わからないわ」
「しかし、にげろ!」
 叫び声が遠ざかっていく。三人が走っている。逃げていると聞こえたが、追う者はいない。はて。
 必死よりかは悪ふざけ、いたずらではなく見えない何か。とにかく逃げなくてはいけない。そんな時も、たまにはある。

 ここは渓谷の道。頂は高く谷は深い。大昔水が枯れた川底を歩いている。魚の臓腑に入ったように感じる。龍の腹なら余程良かっただろうに。乾いた水草は水の夢を待ち眠っている。岩々に染み付いた流水音が風を呼ぶ。深い谷間では空の音はしない。だから人はこの地の破れ目を行くとき空を想像する。谷を歩く人からは、空はうねり泳ぐ辰に見えた。懐かしい空。
 彼らは谷を抜けなくてはならない。
「頂の手も届かぬ高さよ。空は確かな青を届けるのに、二つの壁の上端ときたらあんなにか細い。遠近の感覚が効かなくなる」
「この足元の暗さよ。大気の遥か向こうを見るような突き抜けた闇。足はすくみ縺れ、前に出る意思を失いそう」
 彼らひとは小さな生き物。遥かな天辺、深く濃い谷は人の恐れに触れる。必死よりかは悪ふざけ、いたずらではなく見えない何か。走り逃げろ、影が増していく。空の色は歩を進めるほどに失われる。空と谷しか無い魚の腹の中で。
「ここから見える空を辰と呼ぶなら、対の谷は彼が落とす影だろう」
「それが恐ろしいのだ」
 鉄砲水、落盤、奇襲、白い骨。何が待つか知れぬから、ここはひっそり進みたい。そこを彼らが。彼らが走って渡るのだ。叫ぶ声が幾重にも響き、自分の声に自分で返事する。撹乱され、また敵の正体がわからなくなる。敵、見えない敵。見えないものを敵と呼んで良いものか?

「我々はどうして走っているんだい?」
 ふとスイが同じ問いを繰り返した。自問すると同時に尋ねている。岩壁に染み入る水の声だった。走り続けたわりには掠れも弾みもしないから、ただ駆ける足音を追い越し吹き抜け、シェミネの足を止めるに至った。リピアが行き過ぎてから戻って来る。とことこ。そして反響が止む。少しだけ残されたこだまもやがて止む。じき空の音だけになる。

2.谷の道
 水の声より少しだけ大きな音をたてて雲が流れていく。上空は風が強いのだろうか。みな空をみやる。
 鳥の一羽でも見えれば良いのに。いいや、このか細い空では。
 立ち止まって、気付けば走ってだいぶ奥まで来ていた。入った頃よりも日差しが弱い。谷の壁はじき陰の一色になる。ここは昼夜の谷と呼ばれる場所。あちらの広い入口から、狭いこちらの出口まで、昼から夜が巣食うのだ。右手に見えますは太陽、左手には星……。夜の夢が白昼夢に食われ、脳は霞むような現を頼りに歩く。谷に食われた通行人は昼夜の籠に閉じ込められ、夢には尽きぬ渓谷の惑わしに、明けも暮れもしないまま沈んでいくこととなる。
「谷を流れていた川は、沈殿物を蓄えながら魚たちを流していった」
「川が流れきった。今はここは魚の腹。川を食らった魚の腹には、これからも澱が溜まり続ける」
「でも私たちは、お腹に居着いちゃあいけないね」
 そう、呼吸を整え立ち止まる。恐れを誘ったのは谷の闇か光かよくよく確認することだ。それからで良い、慎重に、走り抜けたこの場所が何であるのかを考えろ。ここは渓谷の道。昼夜が人を惑わす。昼も夜も無しに考えなくてはいけない事があるはずだ。ひたすら逃げた先に待つ、戻れない一本道の中で。ここは昼夜を再び分かつための思考の干渉地帯。
「そうだ。谷は極力静かに抜けなくては。川底の沈殿物を掻き回さないように」
「そうだ。谷に惑わされないように」
「行こう。……じき谷を抜けられる」
 魚の腹をしずしずと歩く。鉄砲水、落盤、奇襲、白い骨。何が襲っても良いように、互いに寄り添い気を向けながら。彼らは小さな人たち。小さな声で話す。彼らは何かを確かめている。恐ろしい谷の中で。例えば、そう。
「我々はどこに向かっているんだい。ねえ……シェミネ!」
 問われるべき問いを確かめている。スイが今度は尋ねた。シェミネに。それは、そう、昼夜も無く繰り返した問いだった。名前を呼ばれて少女は呼吸を静かに飲み込んだ。一瞬だけ。懐かしい表情をしたなとスイは思う。会ったばかりの頃の表情だった。夢の住み人のような、戸惑いと遠い精神の。彼女は考えているのだ。道程のこと、求めたいこと。でもここで考えたのは一瞬だけ。昼夜の中で探し続けてきたからには。
 聞いてくれたの、とシェミネ。
「今、聞こえなかった」とスイが慌てれば、いたずらに微笑まれた。耳の良いリピアが、くつくつと笑い声を風に流した。

 誰がここを昼夜の谷と呼んだのだろう。ただ一本の道を行く者たちは、長い思索にふけりながらそれぞれの目的地を目指した。かつて通った人々と一緒の出入口。誰もが夜明けを夕暮れを見た場所で、彼らもまた谷の終わりを見た。
 見えない敵を探し当て、渓谷を抜ける。三人は、もうしばらく三人でいる。 

寄り道.龍たちの通る道
 谷を見下ろしたいとスイが言った。寄り道を提案するとは珍しい。シェミネが頷いた。息を切らしながら近くの山道を登った。見下ろせる場所まで来たときに雨が降り始めた。うっすらとした雨だ。スクリーンのように、辺りを一枚向こうの世界へと引き剥がす。その向こうに見た。
 魚が水を飲み、谷が潤う。いつぞや降った大雨、昔々の水の気配に、人の足跡も獣の気配もそれから澱みも浸されて、青い線が出来上がる。辰に見えた空から今は見下ろしている。その視点からは、さらさらと流れる水流はか細い蛇の、その寝息ほど。しかし見よ、谷からは見えなかったこの山道は、また天に昇る龍のようで……。
「まあ、低い位置にいると怖いよ。相手が大きく見えるもんだ」
 思い思いの姿勢で眺めていた少女二人が言葉の意味を考える前に、スイはもう歩き始めていた。雨が引き、谷を通り過ぎた現象も再び黄色い砂に吸われ、過ぎる龍が虹を作って行ったことに、誰か気付いただろうか。

 あめつち

1.朝の陽
 ああ、気付かないうちに夢を見ていたんだな。
 それは幸せなものだっただろうか。鳥が散っていった空、しばらくして舞い戻った草原、羽虫が騒ぎ、一角にはざわめきが波紋する。波紋の先には何が待つ。……なにも。ただ綺麗に消えていった。また空を見た。鳥も今は空を見上げている。
 鳥は、どこにいる。
 生命に取り巻かれていながらの孤独。草原が静かなのは互いを草が阻むから。草すらも生命なのに。みな揃って無口。
 鳥が鳴く。鋭く鳴く。鳥はどこにいる。夢を忘れて、草原の寂しげな歌に耳を傾ける。
 いつまでもそうして生活していくのだろう。漠然とした安心感を感じた事があるだろうか。それは近く絶えるものの予感である。雲は忙しく動き続けている。雲を感じて、身体を押し流す風に気付いたなら、もう出来事の準備は整っている。事が起こるのを待つばかり。鳥が飛び立った。小さな影。ここには幾つの生物が潜んでいるのか。数えることはやめてしまった。帰ろうか。
「兄さん」
 少女は一人だったが、言葉を発した。自らに手を伸ばすように。風はまだ冷たい。吐く息が温かい。手に息を吹き掛けて温めた。言葉を握り固めているように見えた。特別な言葉を。一言、草原に転がして、少女は遠ざかっていった。

 幼年時代は視界に映らぬ生物と過ごしたから、無口だった。みな一つであり、互いは交わらないものであり、言葉をそれほど必要としなかった。

 繁った木々が続く。森の深くに彼女の住まいがあった。木に寄り添うように、いや隠れるように、お隣さんが点々と続く。起伏の所々、重なる木の陰に家が建つから日当たりは極めて優しい。洗濯物は風が乾かしてくれる。何世代かかけて整えられた場所。集落と呼んでも良い規模だろう。森は彼らがひっそりと暮らすには不自由は無かった。
 薄い光の中で見るからか、人々は陰が落ちたように淡い色の肌や髪色をしていた。好む衣服も木漏れ日の色。森に溶けて静かな営み。
「兄さん、ご機嫌いかが?」
「こんにちは、シェミネ」
 溶けてしまいそうな朝の終わり。その人も同様に陽を受けた色をしていたが、銀色に灯るようだったので浮いていた。光の粒を溢して街灯みたいな異邦人、少女は彼を好いていた。
「朝のお仕事を終わらせたの。お昼まで私は暇です」
「そうか。俺は今日薬草を探しに行くんだけれど、シェミネ嬢は午後からまた仕事があるのだね。猫の手を借りたいと思っているんだが。お父様も気をつけて行ってくるようにと」
「行くわ!」
 彼もまた小さなお嬢さんを好いていた。血は繋がっていないから近所のお兄さん。成長を見守ってきたから兄妹ほどに親しい。彼はよく面倒を見た。森を使う心得、生活に必要なもの、遊びを通して生き方が自然に備わる。
「着替えて来るので、待っていてくれますか」
 幼いながら人。人を保ちつつ森の一部になっていく。草原の静かな営みに馴染んでいく。透るような。その子供と過ごしてからの時間、自分が木々の隙間に隠れ消えていく錯覚を育てていった。それは俺なのだろうか。イメージの鏡面ごしにあちらに手を触れる。答えは無い。
 彼は木を育てている。止まり木を。

2.一日
「大きくおなり」
 もうじきよ。シェミネは答える。ここには土と雨がある。日光は少ないけれど、丈を伸ばせば少し手に入る。ゆっくりと雨を蓄えながら成長していく。
 森を歩いても果てを知らなかった。高台から見れば深緑の縁は分かるのに。その向こうの川が時折灰色の空気を押し退け強く輝くのに。焦がれても輝きに押し返されて森に向き直る。興味を持たないのではない。ここにいるものと定めてしまっている。そう、未だ子供なのだから。明日もまた暮れるまでの時間を過ごす。
 夕暮れ。太陽は森の箒木が黒で塗り潰した。陽は掻き消えるものかと思っているのに言葉の上では沈むのだという。ここに住み着く前の人は、沈む陽を見ていたのか。ルーツを想像するに至らず眠りにつく。

 火の手を見た。沈む陽を想像した。これが沈むという言葉ならば、なんと恐ろしい。夜とは終わりのこと。
 ある日ことだった。陽光が一足先に途切れた時間のこと。太陽がどこかの地平線に沈みきったときに、集落の方々から火が上がった。家々や木に落ちた太陽の光は、始め嫌なくらいに静かに空に煙を昇らせた。質量のわりに静かに逃げ道を塞いでいった。少女の故郷の喪失はそのようにして始まった。ほんの一夜の出来事である。

3.夕暮れ
 訪問者が多い年だった。平地から離れ森の迷彩を纏うも人の痕跡は完全には消せなくて、あるいは誘われるように迷い込んで家々を見付ける者もいる。ここは人と獣の領域のちょうど境目にある。住人は半ば人、半ば森。だから客は拒まない。時には物品のやり取りなどもあった。鳥や獣には難の無い道程でも人には厳しかったから、人のお客というのは稀だった。それが続くとなれば警戒しないでもなかったが。

 火の回りが早かったのは、様子を見に家を出た者から訪問者の手に掛かっていったため。火は赤々と燃え始め、夕暮れはいっこうに去る気配を見せない。小さな集落だ。事はあっという間に済むだろう。襲撃者達は淡々と任務を片付けていった。獣をいぶりだす手際の良さ。感嘆に値する。慣れた手つき。統率の取れた動き。同胞を同胞と思わぬ冷酷さ。仲間が一人また一人と消えていくのは、散らばった家々を個別に当たっているからだろう。襲撃者らは疑問も持たずに仕事を続けた。簡単な仕事だと警戒を怠る者を屠るのは楽だ。幾らでも隙がある。木を焼く煙の匂いに気付いた銀髪の青年が動き出していた。獣のごとく闇から刃を伸ばす。相手はごく軽装の兵士で、闇に紛れる衣装には小国の紋を刻み、彼らの王の命で戦っている。おまえたちか。青年が力を込める。王都の指揮者は止まるところを知らない。街の人は業にまみれている。理不尽に戦う理由は街に生まれたというだけで十分だものな。悪態をつくが、向かう先で待つはずの小さな妹の顔が過ぎったのですぐさま撤回した。彼女とて街の人で、自分が恨むものは街の人ではなく、大切なものを奪い侵す行動だ。向かって来る者に時間をかけてはいられない。少女の元へと走る。

 次第に争う音が広がる。一瞬の閃光、小さな刃の閃き、どこから汲み出したか大量の水が降り出し、風は火を広げまいと渦を巻き、戦いの場に壮絶な生命の炎を、少女は見た。
 父と母が自分を守って逝った。確かに生き物はみな死ぬものだ。もっと果てしなく先のことだと思っていた。このようにして死は訪れるのか。外気が熱かった。風が内に吹いているからで、頬は上気している。炎が少女の陰を切り抜き劇的に美しく見せていた。彼女は立ち上がろうとしている。戦う術は知らずとも、森の歩き方は知っている。もっと深くへ逃げ込むべきだ。森の深く、獣の領域まで。
 胸元に刃を感じる。見下ろす兵士。無慈悲な同胞は今まさにその手に力を込めるだろう。追い詰められて終わりは見えたが、少女は立ち上がろうとしている。死が迫ったこの時でも、当たり前のように。つ、と刃が沈んだ。それから儚げに刃が落ちた。男の手をすり抜けて、目の前に落ちたわりに、音は軽かった。目前の敵が血を吐いた。腹から刃が突き出てくる。男と少女は同じタイミングで背後を見る。誰かいる。
「お前、何を……」
 大きく背中を斬られてから腹も抉られた男は、喋らなくなる。崩れ落ちる。目前に立っていた男と比べると小柄な姿が現れる。同じ鎧を纏っているから兵の一人だ。同志討ちらしい。
 妨げるものが無くなり、少女は立ち上った。震える脚が情けない。目線が揃い、二人は見つめあった。シェミネより頭一つ分高い。年頃は少年。彼は彼女を助けた。無意識に体が動いて、結果的に助ける形になったので、少年は自らの行動に驚き何も言えない。仲間を斬り殺してしまったがそちらは何とでも言える。意識を纏める間、じっと少女をみつめていた。戦の火を統べる天使のように気高く見えた。損なってはいけないと答えが出る。
「きみを助ける」
「うしろ、あぶないわ」
 反逆を見てしまった兵士が駆けこんできたが、躊躇いもしない少年の手にかかる。
「仲間は幾らか失った。誤算は城では計りきれない。構わない」
「あなたは、どうなるか」
「構わないんだ」
 血に染まった子供たちが交わした言葉は僅か。酷薄の現場では語る言葉も汚れよう。
「飛んでいけるのだろう、天使のように。――行って」
 少年の前では足がすくんだ。彼の隠れた瞳の色を忘れることは無いだろう。戦場で生き生きとしていた。高台から臨む景色に似ていた。眩しい。外も陽も。今は森の奥、深くへと逃げよう。
「そうだ、今は逃げよう」
「兄さん。無事なの」
「シェミネ、強い。よく逃げた。小僧、ありがとう。お前は……しかし見逃せない」
 返り血も浴びぬまま道を片付けてきた青年は、姿を見せるなりもう一凪ぎ風を起こした。命令を受けた兵士よりも冷酷に、怒りをたぎらせて。それは一刀の元に小さな騎士を殺そうと放たれたが、少年のための天使が風をほんの少し反らした。
 傷は深い。生きるか死ぬかは定かではない。構わない。横たわる少年は血に浸り目を閉じる。

 集落は二度目の夕暮れを迎えた。まんべんなく火を放たれ、家々は焼け落ちた。木々とともに灰になる。住人の姿も確認出来ず、後に残すものもなく、血の繋がらない兄と妹は発っていった。

4.青く霞み灰に埋もれる景色
 しばらくは灰を踏みしめ歩いた。森も少し焼かれた。火は消せるが、木々の命までは戻らない。空も涙を忘れて灰を降らせている。森の色濃い青さが重く、口も開かずに歩いた。口を開かぬから考えは堂々巡り。夜を跨いでも理解が及ばぬ、見知らぬひとのこころ。きっとそれはどこかで向き合わなくてはならない。疑念と仮定で構築された空虚の中では生きられない。でも、今は逃げよう。
「森が、怖いわ」
 対価は暗い森への恐怖心。高い通行料。一歩ごとに決断を迫られる。森か人か。森が問う。木々が手を伸ばす。伸ばされた枝は蜘蛛の巣で、隠れ家を持たないさ迷う心を絡め取らんとする。二人の足音は不規則に重なる。三人目の足音が聞こえないか?
「恐れを感じることに間違いはないよ。昨日来た場所でもまるで匂いが変わってしまったね。ここはまだシェミネの庭の範囲だ。しかし失われてしまったということは、所有者が変わるということ。我々は去るけれど、またここに住む命がやって来るよ」
 語りかけてくれる兄の背中を見て歩く。歩みを止めて、振り返ることが出来たなら。そう考えたが、振り返った先は想像出来なかった。まだ燃えているかもしれない。一歩後ろは闇。左右を見た。取り囲む木。前に背中。想像しよう。その人が今どんな顔をしているか。
「あ、わからない」
 今、先導する背中が世界の全てにすら感じるのに、彼の思うことすら分からない。前も後ろも分からない。非力なのだと知る。足は浮くように体を運ぶ。まるで現実感がない。この足は存在を運んでいるはずなのに。進まなくては。決めなくては、木か人か。道無き道、歩き続けろ。
「煙で目が痛いな。顔でも洗いたいね。川を探そうか。近くにあるはずだから」
「そうしましょう」
「休もう、シェミネ。必要であれば、話そう」
 シェミネはしばらくののち返事する。
「私たちはどこへ向かっているの」
「ひとは時々鳥になるんだ。ほら、足がふわふわするだろう」
「あ、風」
「そら、高い空にも頭上にも鳥が」
 山の気流を捕まえて回る姿が、木の葉の隙間から見えた。大きな翼。木の葉かと思っていたものが不意に舞い上がった。甲高い鳴き声を思い思いに上げ、羽ばたきは空気を波打たせ、突然のことに目を瞑った間に、一本の木がすっかり枯れ木になっていた。黒い群れが一度旋回してから空に同化していき見えなくなった。
「今、誰にも見えない空を見ていたわ」
 喪失。鳥も消えていったこの空に、シェミネは少しの間、涙を流した。

5.再び、一日
 お伽噺だ。そう思った。少し広くなった空。こじんまりとした家。二人を受け入れた村、ここは温かさの中で時が止まっている、そう感じさせているのはしあわせを拒む心などではない。充分以上に満たされているのだ。何か忘れてはいないか? 引っ掛かりが生活を童話的にしている。
 夢を見ている。それは幸せなものだったろうか。そうか、これは夢なのだ。いいや、遠巻きに空から見るこの視点は、自分の夢ではなく誰かの夢。
 ぱんと洗濯物を張る。皺を伸ばす。もう一枚、ぱん。これで今日のお洗濯はおしまい。お昼までは暇。午後は薬草を探しに――。
「兄さん」
「起きて。お昼を用意したよ」
 誰の夢なんだ! 昼と夜を与え繰り返し、優しく揺り起こしては子守唄を歌わせる。
「兄さん、夢なの?」
「夢かい? 昨晩遅くまで読んでいた本の話? 予習しておくよ」
 そう、本を……こっそり夜更かししていたつもりで気付かれていたか。確かに毎晩のように明かりを灯していて油が減る。それでも朝は起きて、顔を洗い、洗濯をして……。
「今はお昼過ぎで、午後もやる事はあって、つまり、しまった! うたたねというやつね」
 兄は場所が変わっても相変わらず面倒見が良かった。村に住み着いてからも、泉から汲んだような知識をシェミネに分け続け、村の者も彼を頼った。なにしろその知識は有効、確実。森には近いが人の生活圏だから、知られていない森の知恵が多い様子。容姿も相まって珍しい異邦人。流れ着いた兄妹。
 村の離れに作られた家は森の指先と呼ばれるようになる。森の指先に住む二人はその場所にしっくり馴染んだ。時折動物が挨拶をしにきた。薬草を擦る音やハーブを蒸したり煎る音に、寄ってくるのだという。煙突がまあるく煙を吐く、いつも木の影に入って涼しげな小屋。
 お伽噺だ。そんな兄妹がいたのだという。ある日ふと、異邦人の姿を見ることは出来なくなった。

 選んだのだろうか?
 自分は選んだのだろうか、森か人か。はて、誰に問われたのだったか。何を選ぶというのか。森か人か。その選択はいつするべきものだったか。とっくに処理された問題だったか。不明である。まるで夢だ。繰り返し問われているのだ。一体何に。
 夢とは自分が見るものだ。深層の意識が作り出す実験空間。自我や超自我、さらにその奥に住まう物体が、夢を見ている。あなたは幸せなのか。その空間はどう名付けられるべき場所なのか。

 兄さん。ある日ふと、彼は姿を消した。まるで始めからそこにはいなかったかのように。異邦人である彼。鳥は濁すことなく飛翔、森の動物は林間に姿を眩まして、それっきり見ることは叶わない。風景に溶けて見分けがつかない。隠れた動物を再び見分けられるかどうかは彼らの意思次第。それでも探さなくてはならない。選んだのだろう。それでは私は? 森か人か。誰が問うのだ。空に隠れた鳥を追う。向こうが姿を見せるまで。夢を見ているようなのだ。足がふわふわするだろう。ひとは時々鳥になるんだ。

 これはシェミネの記憶である。

余話.夜と朝
 銀の髪色を探せ。奴は城下に潜み、迷い込んだ城の者を食い殺す。
 堀の鯉が不気味だ。王城はにわかに騒然としていた。王都の闇に潜む動物の獰猛さに皆の足が震え始めた頃、ぽいと兵が一人投げ込まれた。ぽつぽつと城下を歩く。堀を泳ぐ鴨。簡単に水の中に引き摺り込めたはずだが、うっかり声をかけてしまう。おいおい、懐かしいな。そんな言葉は殺気の後ろに引っ込めて、精一杯の愛想を、獲物に。
「あの日食い損ねた王都の兵士。未だ退かぬか」
「俺はどうも鯉の餌にされた様子。千切られて口を開く鯉に向けて投げられた。あなたに王都で会うとは思いませんでした」
「今の今まですっかり忘れていたというのに。放られて再びまみえるとは運が無い」
「餌に慈悲はいらない。感情はいらない」
「あの日、何故……いいや、聞く必要は無いか」
「俺は堀の鯉、住みついたフクロウを排除せよと命じられました。投げられた餌が獲物の首を引っ掛けずに帰るなら、釣り糸の先の主は残念な顔をするでしょう。どうぞあの日のように無慈悲に刃を抜いて下さい」
 兵士が先に剣を構える。夜の光が剣を光らせた。ここに来てからはいつ起きても夜だ。ああ、なんだかクラクラするぞ。池の鯉だって、泥の底に眠っていたい時はある。
「食べにおいで。少年」
 手をさっと振るうと、兵士の髪がチリリと舞った。相手が動きを止めた間に、鯉はのたのたと背を向け路地に滑り込む。街の奥に誘い込まれては、城に戻る術を失う。釣糸を手繰り寄せて貰わなければ帰れない。だが帰りを望まない者がいるのだから、帰る必要はもう無いか。両者街の陰に入る。
 あっさりと見失う。追ったはず。背中をトンと突かれた。例の如く刺されたかと思ったが、熱いのはその人の指先だった。
「爪が刺さってます」
「あの子を置いて来てしまった。今更ながら心配だなあ。一人で暮らしていけるように教えてきたけれど、よくよく考えると彼女、俺を探してしまうんじゃないか。浅はかだったかなあ」
 早口で呟かれてから背中を蹴られて、兵士は顔から石畳に突っ込んでいった。眼前を長い虫が通る。参った。この人ときたら雑念入り乱れ考えることは無茶苦茶だ。一瞬先に殺されても不思議は無い。何をやらかすか予測出来ない。
 ほら踏みつけられた。
「鳥は早く街を出て、母木にお帰り」
 言葉を結んだかと思えば体重は急に軽くなり、足音も羽音も無いままその人は居なくなっていた。

 異星の荒野

1.異なる星にて
 いつも一緒なわけではない。同じ道を行くのが意思でも、目的地を定めない旅路、ふと空に気を留めてたったの数分数十秒、意識の空白を作った後に、二人の姿が消えていた。
「何もない」
 初めから誰もいなかったかのように静か。自分は今まで一人で歩いていたのではと錯覚。神隠しなのか。街ももうすぐという殆ど人の手の届く領域で、神も悪戯なことだ。

 高木は少なくも大礫が目立つ。石に絡むように低木が延びる。大きい木は育たない環境だろうか。遮るものが少ないのだから見通しも悪くない。緩やかな下り坂が続いている。歩く者が転がり落ちたりは決してしない、慎重になだらかな坂。
「この星のようだな。同時に、別の星のよう」
 ふう、とため息。一人で旅していたようだなんて格好をつけたことを。独り言を寂しくそして恥ずかしく思ってしまった。それはこれまで三人で歩いてきたから。合いの手が無くても耳をピンと向けていた二人、今あちらがこの声を聞いたのなら、同時に自分にも二人を認識出来たはず。声の届く範囲にはいない。
 声はどこまで届くのか?
 経験は保障されない。ここは恐らく別の星なのだ。大気の状態も違うのだろう。意識は手の届く範囲にしか伸びないのかもしれない。もっと広いかもしれない。けれどとにかく、意識の及ばぬ場所は必ずある。盲点。人は予め見えない点を持っている。
 慌てずに探そう。歯欠けの視野に頼って。居ないのではなく無い部分から覗いているのだろう。妖精たちがひそひそと笑いながら。
「このまま二人と合流出来なかったとする。それでは困る。目的地は無い。しかし目的はそれぞれあるのだから。目的がばらけたから道が分かれたのだろうか。分からない。進むまでだ」
 歩くから旅と呼ぶ。時間を流すこともまた旅。時計のゼンマイを巻こう。別の星に今までと同じ軌跡を刻んでいく。足跡。曇天の空と揃いの地面は湿気っている。オリーブ灰の空気を深呼吸して取り込む。どんな味がしただろう。空気の味は他人事。ここは異世界なのだと思うとすっかりその気で、旅着の襟をかき集め、未踏の地を進み始める。
「俺は何によって動かされているんだろう」
 辿り着く場所は知っているが、どこで知ったのだ。知らない知識。耳から入ってきた情報のはず。聞いた声は無駄にはならない。胃でも消化しきれずに、声は人に留まり続ける。誰かの言葉のために動いているのだとしたら。言霊。それは魔法の原理と似ている。
 進む先に、変わっていく事象に、目的がある。

2.張り子の星
 違う星に来てしまったのか。
 何しろ大気はみずみずしさを失い、大切に抱えていた水滴をどこかに落としてきたかのように呆けた色をしている。侘しさが肌を乾かす。大気の陰を落とされて湿気った地面に足跡を残して、ふと気付く。一人になっている。

 ああ、違うことを考えていたから、少し離れてしまったのだな。ありうることで、それをどう処理するかが人によって違うだけ。二人を探すことが出来るだろう。過去に約束された信仰。振り返る。延々続く足跡を確認するためだったが、前から後ろに向く途中、不運にも異世界の繋ぎ目を見てしまった。紙と紙の重ね目に濃い色を見るように、ぼんやりと仕切られている。
「ここは居るべき場所ではない、と」
 足跡がやけに平面的に見えた。一人で歩いてはいるが、一人でいる気がしない。それは長く三人でいた時間の余韻ではない。もっとはっきりとした息づかいを感じられる。異星の上で一人ではない。これはそう、意識の中の見知らぬ星。今三人は自らに捕らわれ、ぼんやりと道を歩いている。
 私は探している。
 単調な足音に規則的な自問。
「私は見失ってしまった兄さんを探している。しかし彼の先にもう一つ、求めなければならないものがある。それを言葉に出来るかしら。示す名前は幾らでもあるけれど、どの呼び名も口にすると風に綻びてしまう。孵化する地まで運ぼうか。確かに胸に抱いて、出来るならば旅の仲間を連れて」
 長い散歩なのだ。この旅というものは。

3.この星の詩
「さあ二人とも、目を覚ましてね。異星の荒野で、星の記憶になってしまうその前に」
 世界地図が上手く繋ぎ合わせられていると思ったら、間違いだ。人の記憶と同じで、星の記憶もつぎはぎ。地図は軋んだ音を立て、一刻ごとに古くなる。長い一本道、地図から外れないと思ったか。
「踏み外すつもりではないのだろう。そうでなくても道は逸れるものだ。だからお喋りでもしよう。お互いがそこにいることを、呼び合う前に確かめて」

 星渡る
 ひとの心を知るものは
 循環する血液
 満たされた
 細胞の中の生暖かさ
 泳ぐ魚たち、はこぶ
 星と星の
 軌道の上……

 呼ぶ声。
 初めて会ったその日を覚えている。二人の声が聞こえた。歌うようにただ流れる会話には、複雑な言葉遊びの前に、生物の呼び合う単純な音があった。二人はそうして出会ったのだろうか。共に鳴りながら、歌いながら。呼べばまた会えるだろう。小さな声と適当なリズムで歌を紡いだ。独り言のようなものだ。頭が空になるまでどこまでも続く、言葉の行列。祭囃子に乗って練り歩く人々は祭そのものに化ける。それに似て、歌と足音で地を揺らすなら、道行く者、旅する者は星そのものに化ける。
「星の言葉で歌おう。この星を、先ず知るために」
 独り言、言葉の行列、荒野に蟻の行進を辿って、いつの間にか二人が合流。街が近付き、行き交う人が次第に増え、星を歌う詩人の列も、いつしか人の流れに加わった。暮らしという祭の列に。
「それからだ、別の星や空の視点を知ることは」
 非日常の呼び声がしようとも。異星に渡ってしまうには、やり残したことが多すぎる。愛しいやりかけの事柄たちよ。
「人の声がするよ。重なり合う足音が賑やかだよ。二人とも、異星の荒野から、よくぞ戻った!」
「おいしいもの、食べましょう」
「人の声の中で眠ろう」
 しずしずと行進は続く。

 谷と吊り橋の街

1.構造の中へ
「例えば道端に並んだ食べ物を奪ってはいけない」
「熟れた森の木の実を取ってはいけない?」
「例えば迂闊に信用してはいけない」
「私がきみたちについていったみたいに?」
「規則に沿って動けば自動歩道的に快適なのだが、リピアに合うかどうか。ほら、すぐそこだ」
「街の人の集まりだ」
「準備があるので長めに滞在します」
 久しぶりの。そして初めての街暮らし。
 荒野の一本道は人の住む場所に繋がった。緩やかな下りは街の半ばで一度途切れて谷になる。裂け目には大橋が架かる。橋を囲んで栄えた街だ。
「橋を渡るの?」
「そのつもり」
「荒野の中で谷を抱いて。街での暮らしはどんなもの」
 街は人が踏み入らぬ荒野を西に抱く。南回りに荒野を抜ける迂回路の目印も兼ねるように建つ。西は険しい道ではないが、他の種の住む領域に近い。街の人は通常異種の領域には近寄らない。何かをされるわけでも、何かをするわけでもない。互いに遠ざけ合う。それでも三人は種の違うひとの間や現象を縫ってやって来た。若いからだろうか、世間との繋がりが薄いことを気に留めないのは。
 彼らと同じように獣と人間との間を抜けて来た旅人もいる。商人もいる。物がやり取りされている。橋の向こうの文化を手に取れる。さて、彼らは何を運ぶ。
「なるほど、これが街。賑やかな土の森だ。声があちらこちらから呼んでいる。人が溢れ出来事に溢れ、さて寸劇の舞台、どの幕に首を突っ込もう」
「リピア、人の生活に首を突っ込んではいけない」
「そう、『風のように吹き込み、買うもの買って去るべし』と」
「心配だなあ」
「何度でも言うが私は子供ではない。良識ある森のひと。街で生まれても、森から生まれても、我々はひとである。だから、うむ、天地や左右、東西南北の構造程度は分かる」
「離れないように」
「了解した」
 旅着の襟を直し、社会の構造の中へ帰っていく三人。

2.魔女ふたり
「街に住むのが魔女ならば、森に住むひとは何と呼ぶ?」
「呼びはしない。避けるから」
「禁忌がひっそりと街に降りてきたぞう」
「避けるけれども、排しもしない。人波にまぎれて、天使も妖精も」
 悪魔もいるから、気をつけるんだよ。スイは言う。悪魔は大昔に姿を消した。森からの密かな訪問者は焼き菓子をつまんで根城はどこにあるのかと尋ねる。
「悪魔は我々が飼っている」
 隠しているのさ。焼き菓子の半分を子供に分けてやる。テラスには二人だけ。
「彼女は魔女と呼ばれたことがあると思う?」
「あるいはね。この旅路では呼ばせはしないけれど」
 シェミネは道中草をむしりながら歩く。知らないうちに脇野に手を伸ばしたり分け入っているらしい。それで人里に着くと薬屋を探す。資金を得る他に、草の知識も仕入れる。「私の庭から外れつつあるので」と特に熱心な時期もあった。今回も、谷のあちら側から草の種類が少しずつ変わっていくだろうからと時間を取っていた。
 森の知識を操る者を魔女と呼んだりもする。その言葉は日向に引きずり出されるまでではなくとも街に生きている。森の知識になど頼らずとも暮らせるのだ、そう言う者もいる。リピアはほう、と頷いた。森から生まれないものとは何かと問う。スイは、色々あるのだろうけれどよく分からない、とりあえずお茶はおいしい、とカップを片手に答えた。
「魔女は魔女という種かもしれない」
 街を外れつつある街の人、という意味で。ひとというのは根は同じなのだ。生まれた地が枝の分岐になる。どう暮らしたいか、環境とどう関わりたいかをそれぞれが選択した結果。また、他の者を見るときの意識を表したもの。
 お茶を飲む人々はみな違う顔で物事を考え、通りを眺めている。

「私は魔女と呼ばれるけれど、あなたは魔女と呼ばれたことはある?」
「留まり呼び名が増えるうちに、魔女と呼ばれたこともありました。この呼び名、私にとって枷ではありません」
「そうだよね。私もこの仕事が好き」
 この街で魔女と呼ばれる人の元にいる。薬草を売ったり、薬を買ったりする。荒野の街は森から遠く、森の教えもうっすらとしか伝わらない。魔女はシェミネに興味を抱いた。彼女の知る事柄を欲した。遠方からの客人をもてなし、互いの知識を補完した。
「今は魔女と呼ばれることはないけれど、では私は何かと言われると、曖昧です」
「魔女と呼ぶ人々だって、魔女が何かを知らないから。知らないから、魔女と名前をつけたのね。はじめは何者でもないのよ」
 シェミネは名乗り、魔女の名も尋ねた。曖昧さに輪郭を与える。魔女は快く名を教える。
「この街で魔女は恐れられますか」
「そう、恐ろしい魔女が、街の隅でこぢんまりと店を持つ。疎まれつつも必要とされている。悲しい死人が出たら、その責任を負うでしょう。原因から埋葬まで」
「曖昧な許容」
「それが魔女。良いのです。私の居場所」
 薄暗い部屋に草のにおいが漂う。森の貯蔵庫。蔵を整え入り口を守る魔女。
 シェミネにはこの場所が懐かしい。湿度が住んでいた家に似ている。魔女の蔵に似た部屋と仕事に育まれた。そんな自分は魔女ではなく流浪の旅人。自分には名前が無いような気がした。旅路の中で肩書きを風に飛ばしたような気がした。

「魔女からあなたにお願いが。お使いに行ってくれない?」
「黒猫に、カラスになりましょう。この街の者ですらないけれど、探索がてら行ってきます」
「それだから頼むのです」

3.街の中の森
「お使いを引き受けてしまいました」
 旅の仲間に報告する。
「いいさ」
「ありがとう。リピアには飴玉あげます」
「これは! 森のにおいのする飴玉!」
「そんな名前の飴玉だったわ」
「して、何を頼まれたのか」
「探し物を。ただ、果たさなくてもいいと言われた。街の広場の、森のにおいのするものだそうで」
「それは……オアシスのような、鎮守の森のような」
 一体何を探せばいいのか。スイは途方に暮れてみせようかと迷ったが、そんな必要はないのだ。これは探し物というほど深刻なものではないだろう。街を散策するには丁度良い謎かけ問題。
「この飴玉の香りのようなものだろうか。荒野の裾野で木を匿う街、おもしろいね。行こうよ」

 広場へと向かう。各々イメージする森の匂いを探している。目的は曖昧、辿り着くのか探し物への道。気楽に散策。緑色に目を向けながら歩くと一つのことに気付く。家々の前に飾られた花の鉢は、どれも侘しい色をしている。土だけ残して片付けられてしまった株もある。花の季節が終わるには早過ぎる。植物の勢いの足りないこの土地で、青々とした森には出会えそうもない。探し物は本当にオアシスや木の枝茂る涼しげな森で合っているか? 荒野の端の孤独な森。森のかおりのするもの。小さな一粒の飴玉。荒野の砂粒。
 広場で待つであろう探し物の姿がどんどん小さくなり、スイの思考は景色から外れていく。探し物は本当に存在するか。我々に見つけられるものだろうか。スイはシェミネをそっと見る。シェミネは探しものをしている。今日この時ではなく、出会ったその日から。当初は聞くべき事ではないからと問わなかった。今は意味合いが変わり、スイはたまに問う。問うのは何度目か、そう思いながらも聞いてしまう、
「きみ、探しものを見つけられる?」
 何を探すかも分からないのに。どこにあるか知る術も無いのに。そう続けようとした。しかし、
「見つかるわ」
はっきりとした答えが返ってきた。そう、彼女はいつも何かに向かっている。それは分かる。
「森のかおりを辿っているのかい。きみには見えているのかい」
「スイ、きっとすぐそこよ。渡り鳥は種を落としていくの。種はすぐには芽吹かないけれど、思うより小さいかもしれないけれど、そこは確かに森のにおいの始まりよ」
 シェミネが言ったのは単に今日のお使いの内容なのだろうが、スイの中で歯車が噛み合った。スイは答えに満足した。迷いの森で惑っているわけではない。惑う彼女を導こうと手を引く必要はない。見えないものに手を引かれ、進んでいく。そう、気楽な散策だということを忘れてはいけない。自然に呑まれてはいけないし、人に呑まれてもいけない。久しぶりの人の街で、思考の渦に巻かれたか。そして、見えないものが見える者もいる。
「あそこに、ほら」
 リピアが森を探し出した。

4.森に安らう
 人は荒野になぜ鎮守の森を置こうとしたのか。探し物は小さな獣の像で、広場の一角の緑の中に置かれていた。広場と呼ばれるものだから開けた集いの場だと思っていたが、建物を建てないようにしていたら自然と空白が生まれたという具合で、日当たりも十分ではない。建物の森に囲まれて、獣の像は広場を飾るオブジェに見られても仕方ない。
「こんにちは」
 リピアがオブジェに向かい話しかけなければ、完全なお使いには至らなかっただろう。リピアはここに種があり、小さな森があると言う。弱々しい緑地でも、宿る精霊がいるようなのだ。知る者も少なく、参る者などいるのかどうか。忘れられた一角に、それでも空き地がある限り、ここは精霊の場所であり続ける。
「シェミネ、伝言か何かがあるの?」
 シェミネにも見えてはいない。リピアの声にはっとしてポーチから小瓶を取り出す。
「もしなにか居るようだったら、この水をぐるりと撒くようにと」
「なるほど、なるほど。やってみて!」
 促されて水を撒く。弱い日差しの中に水の玉が零れていく。像が一度笑う。
「街の植物も、すこしだけ元気になるかもしれないね」
 街の森でしばし休息を取った後、三人は人波の中に戻っていった。

 シェミネは空の小瓶を魔女に返却した。
「そう、あなたは森のにおいを辿れるのではないかと思ってお願いしたの。あなたが森のひとのような気がしてね。ここにはたまに帰る場所を失った森のひとが訪れるの。砂漠の中のオアシスみたいに」
「ここに私と同じ森の教えを持ち込んだ者はいますか?」
「いたと思う。交わした言葉は少なかったけれども、近い地域の人なのでしょう。その人も同じように精霊に水をあげに行った」
「それは私の知り合いかもしれません。ここには様々なものが集まるのですね」
「不思議ではないでしょう。魔女がいるのだからね。またおいで」
「進む道の導になりました。ありがとう。また」

「さて、谷の向こうに進むには」
 三人は奈落を覗いた。いやいや、転がり落ちても地面はあるのだが、戻って来られるかはさて分からない。
「吊り橋を渡りたいのだが、料金というものが要る」
 吊り橋の両端に栄えた街だ、橋を維持するのも街の役目。
「相応の仕事を探して稼いで来ようかな」
 と、スイお父さん。果敢にもリピアも働くと申し出たのだが、
「見世物になるかい? それならすぐにでも橋を渡れそうだ」
「きみたちのためにも見世物にはなれないな。すまないね、スイ」
 あっさりと断った。
「いいってことよ」
「街とは面倒なものだね」
「そうでもない。役割をこなせばいい。昨日知らぬ顔が集団に交ざっていても、同じ目的を持つ者と知れば恐れはない。すなわち、お金。俺も一時、街の人に戻ろう」
 シェミネの得た銅貨も合わせれば簡単に橋を越えられるが、街を楽しむのも良いだろう。しばし立ち止まる。

しあわせのみつば 2/こだま数える鳥の章

しあわせのみつば 2/こだま数える鳥の章

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1.  夜に鳥
  2.  海へ
  3.  昼夜の谷
  4.  あめつち
  5.  異星の荒野
  6.  谷と吊り橋の街