おるすばん*
アールグレイと噴水
その紅茶は、お姉さんが送ってきた大きな段ボール箱を開くと、無造作に入っていたもので、味の良し悪しはわからないものの、退屈な少女にとっては、なんだか心休まる気休めになっていたものでした。
「ベルガモットで風味をつけた紅茶。」机にぽつんと置かれた広辞苑を、小難しそうにイントネーションをつけて読み上げながら、少女は紅茶をすすります。
「ミカン科の常緑低木。レモンに似、果頂の尖った球形の果実をつける。」次に読んでいるのは、ベルガモットの説明です。
少女の部屋にあるものは、この広辞苑を除けば、ごく基本的な家具と、ほとんど自分の好みにそぐわない洋服ばかりでした。広辞苑は、少女の唯一の趣味と読んでいいようなもので、何か新鮮なものにふれたときには、いつでもこうして、ふざけて引いては、その内容を読み上げてみるのでした。
紅茶を飲み終えると、少女はシンクの中に、無造作にカップを積みあげます。今は小皿が三枚に、四つのカップが置かれているだけですが、ひどい時にはシンク全体が白い食器の墓場のようになりました。
少女には行く宛がありません。ただ時間と若さだけがあります。だけれども、物もなければ、お金もあらず、姉の仕送りがなければ、ここにただ住んでいることさえもできていないでしょう。
少女はもう一度窓辺のテーブルの前へ座り直し、ぼうっと外を眺めています。
事件が起きてほしいな、と思っているわけではありません。もしもこのままずっと座っていられるのなら、それよりいいことはないと思っています。
すこしして、怠けることへの集中力が途切れはじめた少女は、屋台の縁日で買ってあったスライムをとりだして遊びはじめました。
スライムの冷たさに、まるで顔に風が吹き上がってくるような爽やかさを感じながら、しばらくいじっていましたが、しだいにあたまを机に垂れ下げて、そのままもう眠ってしまいそうに目を細めています。
少女には、求める人もいなければ、求められる人もいませんでした。両親は彼女が12歳だった時、交通事故で亡くなってしまい、それから六年後に、お姉さんが結婚を決めてから、少女は自分から、家をでることにしたのでした。
お姉さんの仕送りは月に18万円で、去年の11月から、もう六ヶ月にわたって続いています。
家に出るときに持ってきたものはたった数冊の本だけでした。家具はシンプルで安いものをこちらにきてから揃えたものです。
以来少女は時々街へふらりと出かけるばかりで、それ以外はずっと部屋の中で、ビー玉をいじくってみたり、クッションをだきながら壁をじっと見つめていたり、そうでなければずっと寝たままで、こうしてぼうっとしているのです。
お姉さんが少女に向かって叱るとき、口癖のように発した言葉が気にかかります。「生きてることって、全部面倒くさいんだよ」この言葉が気にかかるとき、たいてい少女は公園に出て、ベンチに座って噴水の音をずっと聞いていましたが、今日この日はベッドに寝転んで、天井をじっと眺めているのでした。
テレビとイタリアン
それから三日経った日のこと。少女にぷるる、ぷるると電話がかかってきました。この部屋はずいぶんがらんどうですから、電話の音はひどく騒々しく聞こえます。
「はい」
「もしもし、私なんだけど」と、お姉さんからの電話でした。
なにやら神妙な声で話しかけられます。
「今日暇なら、会って話がしたいんだけど」
少女はいつでも暇でしたが、今暇か、とあえて聞かれると、なんだか何かしなくちゃならないような気持ちになって、お姉さんとの約束の時間まで、少し出かけてみることにしました。
といっても、特に行くところもなく、いつもどおりの道を通って、あの噴水公園に向かうのでした。
塀の上には見知らぬ猫。少女をみやり少し駆け足になります。等間隔で並んでいる電信柱。おばあさんが退屈そうに座っているタバコ屋さん。
噴水公園でぼうっと鳩を見て過ごしていた少女は、陽だまりの中、ほわほわしている気分でありながら、しかしなんだかそわそわとした感じがしてきて、まだ二十分しかたっていないというのに、家に帰ろうという気がし始めていました。それでもなんとか、四十五分ほどたえてから、家にせこせこ帰り始めました。
いざ帰り始めると、なんだかおでこが明るく照らされているみたいに浮かれてきて、手足や顔も、ほてってきているように感じられます。
そのまま歩き続けていると、ゴミ置き場に、小さなアナログテレビが落ちていることに気が付きました。
少女はそれが気になって、ついにはえいっと抱えて、そのままアパートへ帰って行きました。
それからお姉さんがやってくるまでの二時間は、あっという間のことでした。いや、あっという間だと思ってはいなかったのですが、なんだか心ここにあらずのまま、ふと気が付くとピンポーン、となんだかマヌケな音が鳴ったのでした。
お姉さんは、「何もない部屋、」と言いかけましたが、ふと視界に入り込んだ黒いものに気づいて、「なに、このテレビ、」と少し顔をしかめました。でも、お姉さんは、けっして悪人ではございません。まあいいか、とでも言った感じにそのテレビから目をそらすと、すっかりそれを忘れてしまったようになりました。それどころか、今日の話はなんだったかな、と、わざわざ話をしにきたというのに、その要件まで一緒に忘れてしまっているくらいでした。
「それで、そう。あの、あんまり良くない話なんだけど。」と、さっそく切り出したかと思うや、何かから逃避するように、「いま、通帳、ある?」と聞きました。
少女はすっくと立ち上がり、ふとあたりを見渡すと、ほとんど空っぽの本棚に、ぽつんと通帳が置かれているのがわかります。
「これ、泥棒がきたら、ひとめでわかるよね、」と、お姉さんは少し面白がっています。少女がお姉さんにそれを手渡すと、すぐに開いて眺めました。普段はあまり怒らないおねえさんは、すこし怒ったようになって、「これ、いつもこういうふうにしてるの」と言いました。通帳をみると、お金が振り込まれると、そのだいたい4日から5日あとには、ほとんど全額が引き出されているのでした。
「こんなに使っちゃうの?」
毎月十八万円振り込まれているのでしたが、少女はそれを、何に使ったか覚えていませんでした。
家賃は光熱費込みで十万円でした。残りの八万円を、少女は何に使ったのか、うまく説明できませんでした。
「たぶん、自炊していないから、お金が、」とお姉さんはいいました。でもお姉さんは、お金が、というと、あとに続く言葉が見つからないようにふっと黙ってしまいました。
少女はすこしうつむくと、たくさんお金を使っているつもりはないけれど、月の終わりになると、お金がたりなくて、何も食べないような期間があることを思い出しました。
「もうすこし残ってるかと思ってたけど、そんなに多くなかったし……」というと、お姉さんは、本当は言いたくないことを言い始めました。
「仕送りのおかねだけど、少しずつへらして行きたいと思ってるの」
「うん」といいます。それは少女には、あまり興味が無い話なのです。
少女がお金の話に興味が無いのを、薄々ですが、知っているお姉さんは、何か言いたげにしていましたが、「どこか食べに行こうか」といって、駅前のイタリアンに連れて行ってくれました。食べている間は楽しい話ばかりをしてくれました。そのあともう一度部屋についてきて、これからお金を稼ぐために、何かしないといけないよ、ということを話してくれました。午後六時ごろになると、そろそろ帰らなきゃ、と言い残し、なんだか名残惜しげでしたが、帰っていってしまいました。
少女は、ぽっかり何かを失ったような気がしました。お姉さんを失ったというよりも、もっと大きなものを失くしてしまったような気がしました。
少女はそれからすぐにお風呂に入って、まだ日も沈んだばかりなのに、さっさと寝てしまいました。
翌週、少女の家には小さな手紙と一緒に、バイト情報誌が届けられました。その手紙には、お姉さんは三年間中国にいかねばならないんだということが書かれてありました。その間、かならず手紙をたくさん書くからね、とも書いてありました。さらにその翌週、少女がいつものように、お金を引き出しに行くと、いつもは18万円振り込まれているはずなのに、13万円しか振り込まれていませんでした。
それでも少女はお姉さんを、けして恨めしく思いませんでした。
おるすばん*
(続く)