葬送

paeonia

 何もやることがなかった、というよりも、何かをやることが怖かった、と言うんだろうか、わたしは背後から誰かにじっと見られているような不安感に追われてふらふら家を出て近所の道路脇でしゃがみこみながら、近所に落ちていた犬の糞を熱心に観察する小学生男子のような体勢で、いつの間にか訪れていた夏の日差しの暑さを背中と後頭部に受けながら、考え事にならない考え事をしていた。わたしがこんな姿勢になっている具体的な理由をあげるならば、今日は母も茉莉もショッピングモールに出かけてしまい、父はいつもどおり書斎に引きこもって出てこないせいだった。
 アスファルトの道路脇の排水溝はカラカラに乾ききって、生命のせの字も想像できないような爽やかな灰色をしている。わたしは動くものを見たくなったけれど、蟻やダンゴムシをわざわざ探すような無駄な気力も持ち合わせていなくて、かわりに小さな蟻の列を想像して、想像上のそれを聖母マリアのように優しい目で眺めていた。
 「おお、わたしよ こんなところで終わりとは、情けない」わたしは心の中でつぶやいた。勇敢に部屋を出て道路脇にしゃがみこんだわたしは幻想された蟻の一列という壁に突き当たり、行き止まってしまった。過去から未来へは一方通行で引き返すことができないから、蟻の一列を発見したところで私の冒険はジ・エンドなのだった。とはいえ聖母マリアの視線は優しく、つまり蟻という幻想の小生命を生み出したのと等量の奇跡で私の斜め後ろに親しい友人の影を生み出した。
 人が振り返るときというのはどういうときだろうか?それは自分をでなく、人を思うときにはじめて振り返るのだ。なぜなら自分の過去は自分自身がきちんと記憶していて、あるいは記憶していない限りはもう手に入らないものだから、それをいちいち振り返ることは停滞にほかならないけれど、他人の過去を見るときは掘り返せば掘り返すだけ新しいものが生まれ、そしてわたしの過去の一部にそれを取り込み前進することができるからだ。
 ゆえにわずかのためらいもなく私はそれまで禁断事項であった振り向きを実行したのだったが、「親しい友人」という言葉を生み出すのに必要な容量がたった10byteで済むのに対し、親しい友人という像を生み出すのに必要な容量はその数万倍に至るせいだろうか、そこに幻想されていたはずの友人の姿は出現せず、かわりに私は振り向きという空虚な行為のもとに進むべきあたらしい道という充実を見つけていた。
 「おお、わたしよ この旅はまだ終わってなどいない」こう言って私はツァラトゥストラのように力強く立ち上がり、少女が死んだ親のそばで涙を流すのよりずっと大量の汗を流しながら、一旦家に帰ることに決めたのだった。

 部屋でよく効いたクーラーを浴びているおかげで涙を流す少女の比喩はこれにて無事埋葬されることとなった。親が死んでしまうということはたった一度きりのことだけれど、生活していくということは365×年齢だけの苦労の量になる。だから人はどんなに大切な人の死に向き合っても真夏にかく汗のほんの数十分の一のミネラル分をしか排泄することが出来ない。それ以上を流してしまうと生きていくために流すためのミネラルが足りなくなってしまうから。
 わたしはふと、一人部屋でクーラーをギンギンに効かせた部屋でこんなことを思ったり考えたりしていると、闇が深いとか思われそうだと思ってしまった。わたしはいつも自分で勝手に第三者の批判を胸中に響かせては恥ずかしい思いをする。でも大丈夫だ、わたしが一人部屋でクーラーをギンギンに効かせながら心の中でつぶやいたことなど、わたしの記憶の中に残っても、それ以外の誰の記憶にも残りようがないのだから。
 さて、そんなことより、なにより、本当に危機感を持っていることは、学校でも茉莉とばかりタッグを組んでしまい、その外に友達がほとんど作れていないということだ。これは理解できない人には理解できない話だが、学校で話すくらいの友達と、休日遊びに誘い誘われるレベルの友達との間にはベルリンの壁よりも分厚い壁がある。その壁を乗り越えられない東側のわたしはいつでも休日という言葉と孤独という言葉をセットにして考えている。いや、実際はわたしには茉莉がいるおかげでずいぶん助かっているのだが、それでも孤独者が二人集まったところで孤独は孤独なのである。
 そうである。よく考えれば、友人が一人や二人いたところで関係ないのである。「けいおん」や「ゆるゆり」のようなアニメ作品に出てくる頭空っぽ少女たちならともかく、孤独という二文字の影に一度でも突き当たったことのある人間はもうどうしても孤独なのだ。人と会ったり友達と過ごすことでできることは孤独を癒やしたり失くすことではなく忘れることに過ぎない。友達の有無などに振り回されるのは要するに頭空っぽガールズだけなのであって、そうでない人々は一人部屋でぼんやりギンギンのクーラーで孤独について思索を深めるべきなのだ。
 クーラーギンギンのわたしは目をつむりながら親を失くした少女が泣き止んでいるという比喩を唐突に持ち出して、さっきは架空の友人を幻想しようとしたけれど容量不足で失敗したことの反省を受け、今回は脳裏でその少女の姿を思い浮かべることにした。
 泣き止んだ少女の姿は思ったよりぼんやりとした姿でしか思い浮かべられない。その表情なんか細かすぎて見えたものではない。人間の想像力というのは案外この程度のものなのだ。これはわたしの能力の問題でなく、人間の脳の限界がもうほとんどこんなものなのだ。

 明日で夏休みが終わりになる。今更言うことじゃないけれど、休めと言われても、休むってなんだろう、と困惑してしまう。
 というのも、テレビを見てぼんやりしていたり、ベッドで寝ていると、それは何もしないうちに、それも急速に、休日の残り時間を縮めていくという逆行の行為だということに気がついたからだ。友達と遊んでいてもそれは同じことで、要するに休むということは実際にやってみようとすると、どうやっても労働の開始時間を近づける結果になってしまい、休むということと矛盾してしまうのだ。
 この疑問が生まれたのはちょうど去年の高校一年の夏のことで、そのとき軽く茉莉に語ってみたら、「たしかに永遠の休みはないけれど、その場限りの休みはあるよ」、という答えをもらった。この答えは普段の茉莉にそぐわないとても優れた答えだったから、そのあと友達や近親者が茉莉の無学を侮ったり馬鹿にしたりする言葉を聞くたびに、「いや、茉莉はその場限りの休みという立派な理論を発明したんだよ」と心のなかでこっそりつぶやくようになった。
 この胸中のつぶやきは私の立ち居振る舞いや表情にほんのわずかな影響を及ぼし、それが明らかには目に見えないものの微妙な雰囲気へと伝わり、そしていつか友人関係や家庭内において茉莉が見直されるときがくるはずだ。
 茉莉の「その場限りの休み」というのは非常にシンプルな発想で、わたしが考えていたみたいに、「よし!休むぞ!」という姿勢でのぞむと、休みというものは存在できないもののように思われるけれど、「○○をやらなければならない」という他の行為が存在するときには、「やらなければならないことをやらない」という形で「休み」というものの存在が明らかになるということだ。
 この発想は「なぜ夏休みは休みなのに宿題が存在するか」という大きな謎を見事に解き明かしてくれる。つまりただ、「休め」と言われても休みかたがわからないという「休み」の矛盾を解消するために、「夏休みの宿題をやらなければいけない」という状況を設定しておけば、「夏休みの宿題をやらない」という休みを選択することができるようになるという寸法である。

 宿題をやらない理由を繰り広げておきながら、いざ登校するときにはきちんと全ての宿題を終えているような不埒な者たちとは違って、わたしは本当に宿題をやらなかった。宿題を行うという行為はわたしにとって色鮮やかなしゃぼん玉が空中に浮いているのをつついて消していくような鉄面皮かなにかにしか到底なしえない無粋な行為だと、心の中でどこかほんとうにそう思っていて、宿題をやろうとするとなにかそわそわ気が散って仕方ないので、結局わたしには宿題をするというのは無理なのだった。
 だけれど創作の世界での「宿題やってきてませーん」「バカモーン!(げんこつ)」みたいな竹を割ったような展開を期待することはできなくて、現実に繰り広げられるのは嫌味、失望、嘲笑あるいは具体的な罰則などのいくらかの向こう側からの積極的な批判をくぐり抜けた後、ある段階を超えると突然教師は優しくなり、あるいはカウンセリングを勧められるなどという事態になって、そうなると痛々しいことこの上ないのであるが、結局落ち着くべきところに落ち着いたなという気がして楽になるのも確かだった。
 それでもわたしは真面目に授業を受けているから、四十人弱のクラスで上から数えて30番目には入るくらいの成績を取り、きちんと勉強にはついていけているのである。そしてこの順位はほとんど茉莉と同じ順位だった。

葬送

(終わり)

葬送

怠惰をこじらせた小説です

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted