向後風香はおこっている

paeonia

 向後風香は怒っている。

 電車に乗り込み、さて開いている席はと探し始めた途端に異臭があたりを漂っていることに気が付き、その臭いの特に強い方向を見やると貴重な座席のひとつを吐瀉物が専横しているのを発見したときと、ほとんど同じような表情をしている。
 それでも、玄関で靴を履いている最中の彼女はいまさっき目を覚ましたばかりのはずであり、服を着替え、トーストを食み、歯を磨き、今から出かけようというところで、何か怒る対象が見つかるような状況ではなかったから、たしかに表情は嫌悪と手をつないだ怒りの様子だったが、本当に怒っているのかどうか、判断はそうたやすくはなかった。
 実際、いつも怒ってるように見えるおじさんが、口を開いてみれば気の良い性格だったりすることはよくある。人は無口でいるとそれだけで怒っているように判断されがちである。なぜ猫や犬が無口でいても、こいつ怒ってるな、とはならないのに、人間の場合はそうなるのか、やや不公平な気もするが、「お前は犬や猫と違い喋れるんだから喋れよ」ということなのかもしれない。「できることはやれ」という暗黙の了解が社会を滞りなく回していることも事実だ。
 とにかく、向後風香は怒っていた。アメリカ建国の父、ベンジャミン・フランクリンは、「怒りにはいつも理由がある。ただし、正当な理由はめったにない」と述べたが、それはまさに彼女の状況を説明するのにうってつけの言葉だった。彼女は一体何に怒っているのか、自分でもうまく説明できなかった。それでも正当な理由で怒っているわけではない、ということは彼女自身によく分かっていた。そして正当な理由で怒っていないという事実そのものが一番腹立たしかったのである。

 昨日彼女はいつも通り、普通の生徒より気持ち早めの時間に登校していた。下駄箱を抜け、まだ静かな職員室前を何事もなく通り過ぎようとしていたところ、不意に担任の吉見に声をかけられたとき、彼女がつい予期したような叱責への心当たりは何もなかった。実際吉見の表情は明るく、一見何も用事がないのに声を掛けてみたような印象だった。
 「あ、向後」と呼びとめられ、風香は一瞬身体をこわばらせて振り向いた。担任教諭の表情を伺い、怒られるわけではないのだな、と認識した後、それでも未だ、なんとなくこわばった口調で
 「なんですか」と応えた。担任はすかさず、
 「宿題、やっぱりやらなくていいよ」と風香の肩を優しく叩いた。
 「はあ、」そうですか、と続きそうな言い方で答えた。風香には宿題、と聞いてすぐに「あのことか」とわかるような宿題があった。
 先々週、風香は期末試験の最終日を風邪で休んでいた。社会と国語で、得意教科でもあったから、休みたい理由も特になく、風香にとっても不本意の欠席だった。欠席者は赤点の生徒と同時に追試を受けることになったが、赤点の生徒に課される宿題がなぜか欠席しただけの風香にも課されることになった。理由はわからない。赤点の生徒は十数人いたのに対し、欠席者が一人だけであったことによる混乱なのかもしれない。
 風香も「え、わたしもですか」くらいの抗議にならない抗議をしたが、「決まりだから」の一言で悠々完封されてしまった。だからきちんと抗議しなかった彼女自身の責任でもある。とも言える。ただこの論理はごめんなさいと言ったほうが悪いというアメリカ的発想に近いものがあるような気もする。
 とにかく風香はその状況を受け入れ宿題の七割程度をすでに終えてしまっていた。
 もともと怠惰な成績不振者に出される宿題だから、提出期限も長く、あと二週間は残っていたから、まさかもう七割を終えているとはつゆしらず、吉見先生が今更「やっぱりやらなくていいよ」と笑顔で言ってきたのも理解はできる。それに不慮の事故で出された宿題を「やらせてください」と言うのもおかしい。彼女が本来やらねばならなかった残りの三割から解放されたのも事実である。
 とはいえ風香はやっぱりどこかもやもやした感情を抱いていた。そして特に引っかかったのは吉見先生の笑顔と、きちんと抗議しなかったことを今更悔やんでいるということと、こんなどうでもいいことを気にしている自分自身の小ささについてだった。
 それに加えて、急に呼び止められたときの緊張感からの内容の落差がその肩透かし感を強調しているらしかった。
 とはいえ、向後風香はそのとき別に怒っていなかった。ただもやもやしていただけである。

 教室に入ると、いつも通り、まだ数人の生徒しかいなかった。
 風香は静かに席に座って、これまたいつも通り机にほっぺたを押し付けてその冷たさを味わっていた。
 朝の教室の一番の喜びは静かな空間で机の冷たさを味わうことだった。
 冬にはキンキンに冷えた机が寝ぼけた頬の火照りを貫通してくる清々しさが好きだったし、夏のうだるような暑さのなか相対的に冷たく感じられる机のオアシス感も好きだった。
 その状態のまま目をつむって、ただただ時間に取り残される。
 それから騒がしい生徒たちの時間が動き始めるまではそう長くはかからない。
 その日もいつも通り騒がしい生徒たちが教室に沸きはじめ、それまでひとりだった風香の時間を巻き込んで強制的に動き始めた。
 風香が友達だと思っているうちのひとり、有衣が視界に入った。
 隣の席だから良く話す。
 鞄を机に下ろしながら、「おはよう」と声を掛けたのは有衣のほうだったが、「あ、有衣。」と一瞬顔を上げて、またほっぺたを付けた後、「――結局あの宿題やらなくっていいってさ」と、話題を持ち出したのは風香のほうだった。
「何?やっぱり?」と有衣。「最初から風香は赤点じゃないって言ってるのにね。」
「頭でっかちだからさあ」と、両手で机を押し返し、椅子に深く腰掛ける体制になりながら、
「もうほとんど終わってたのに」とぼやいた。
 有衣はただ笑いながら、教科書や文房具を鞄から出しはじめた。
 風香は一度も有衣に、私たちは友達なのか、と聞いたことがなかったけれど、有衣が良い人間であることはよく知っていた。
 教室を見回しながら、ほとんど全員が登校してきていることを確認し、また今日も一日が始まったのかあ、と心の中でつぶやき両腕を前に伸ばして机の上に伏せた。

 昼ご飯のことである。外食派と弁当派で分かれるが、風香も有衣も弁当派だったから、一緒に食べることが常だった。
 風香と有衣が机をくっつけていると、後ろのほうから彩夏がやってくる。
 彩夏はいつも水筒に味噌汁を入れてくる。風香はそれを見て良いなあと思っていたが、今やるとあからさまに真似をした形になるから、あきらめていた。大学に入ってからやろうなどと暢気なことを考えていた。
 風香は食べることには執着がないわりに、ふしぎに弁当が好きだった。ご飯やおかずが冷めているのがたまらなかった。わざと冷ましては出せないような絶妙な冷め具合だと感じられた。

 ご飯の冷え具合を舌で確かめながら米本来の甘みを楽しんでいると、彩夏が突然「CとOの違い」について話し始めた。
 いったい何の話だろうと思っていたら、英語の文型の話だった。
 風香は英語が嫌いだった。英語が嫌いだというよりも、英語の先生が嫌いだった。また、英語が得意であるということがどうやっても気取るような感じになるような感じが嫌いだった。ディズニー映画もハリウッド映画も嫌いだった。でも深夜流れていたら暇つぶしに見てしまう。
 嫌いにも二種類ある。そのものを見聞きした瞬間全身が嫌悪感をバクバク波打たせ、それを視界から消せという電気信号が脳を介さず身体を駆け巡るようなものと、嫌いは嫌いだけど、さわやかな嫌いだという感じのものと。
 それでも嫌いは嫌いだったから、できればその会話は外側から聞いていたいと思った。わざわざ会話に入って「風香は英語苦手だからね」などと言われたくなかった。
 〇〇ができない、というとかっこ悪い感じがするけれど、人間は好きなことをやればいいのだと思っていた。それが出来るということで、人から良く見られたいがために好きでもないことをやるというのはおかしいと思っていた。
 「わたしは英語が嫌いなのだ」と思いながら彩夏と有衣が文型の話をするのを聞いていた。

 彩夏が「それでさあ、」と言いながら持っていたノートを広げようとした瞬間、右手の甲が彼女の味噌汁のコップを押しのけ風香の鞄の上にビシャッと落ちた。
 一瞬の出来事だった。
 鞄のジッパーが開いていたままだったのは最悪だった。
 彩夏は気の抜けた声で「あっ」と言ったあと、鞄に散乱したわかめを見つけ「うあっ」と汚めの声を出した。
 有衣と彩夏と風香は別々に雑巾を持ってきて、急いで拭いた。
 ひと段落終えたとき、風香は嫌だったというよりも、なんとなく心が痛かった。
 自らが相手の立場になったとき、きわめて他愛無い事件とはいえ、取り返しのつかない類の失敗をしてしまったときの気まずさを思うと、それが一番心の重荷に感じられた。
 「本当にごめん」と謝る彩夏の本当の謝罪心を認めたけれど、自分が人に謝罪するときの経験上、本気で謝るというのは不可能だということを知っていた。謝罪というのはどこまで行っても暖簾に腕押しのようなもので、代償が支払えない分、本心を込めれば込めるほどむなしくなってしまう代物だ。武士が切腹する理由も少しわかると風香は借りた自転車で電信柱にまともにぶつかり籠をゆがめてしまった時のことを思い出していた。
 風香は何か起こるとすぐに、「泣きそうになってる」ように見られてしまう。自分自身は悲しくも何ともないのに、周囲からは泣きそうに見えてしまうらしいのである。すると悲しくもなんともないのに、泣きそうな気分になってくる。それはやっぱり悲しいわけではなくて、その状況の痛々しさがつらいせいなのだと思う。
 それでも風香は怒ってはいなかった。総括すればただただいろんなことが面倒くさいと思っていた。
 スカートに飛び跳ねた味噌汁のあったかさが布を通り抜けてそれが気持ち悪かった。風香は早く家に帰って寝たいと思った。

向後風香はおこっている

(終わり)

向後風香はおこっている

泣いてるわけじゃないという話

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted