夜這い星へ
暗い気持ちで書いたSS。それでも夜空は瞬くし、太陽は照るのだろうから、私は息をしたい。
目が覚めれば、当たり前のように柔らかいベッドの上にいて、今まで私が揺蕩っていた世界は夢と呼んで、否定される。それが少しだけ、寂しいような気がする。
違う。私は。
手を伸ばしてみると、白いだけの天井が遠くにあって、なにも掴めなくて、骨ばった白い私の手の甲が視界で、幽霊みたいに揺れる。なんにも収まらない掌は、虚しく空を掻いて、夢の続きに焦がれるのだった。
窓から零れる光で、朝が来てしまったのだと理解して、私は溜息をついた。もう少しだけ、眠っていたかった。それは、代わり映えのない日常に別れを告げて、あの空の中で会った誰かと、永遠に語らいたいから。現実を否定して、あの空で、溺れてしまいたかった。そうすれば、私は名前も知らない誰かと、ずっと一緒ににいることを、許してもらえる気がしたから。
誰の許可を得て、あの空での時間を選ぼうとしたのだろう。
「辛いなぁ」
零した言葉を拾って、私に返してくれる人なんていないのに。言葉はひとりでに落ちて、雨粒のように床に染み込んで、消える。ろ過できない感情は、埃になって床の上に溜まっていく。埃まみれのフローリングには、私の感情が降り積もって、行き場を無くしている。
身体を起こすのも億劫なので、私は目を閉じて、瞼の裏の夜空を見上げる。星一つない、途方も無い闇が広がって、酷く不安になるけれど、直ぐに微睡みが私を連れ去ってくれるのも、知っているから。
「迎えに来たよ」
あなたが来る。気が付いたら、空を埋め尽くすビルの明かりと、地上に広がる星空に挟まれたあなたが、そこに立っていた。
男なのか女なのかも分からない、中性的な顔立ちのヒト。その声すらも中性的で、だけど私はそのヒトを彼女と呼ぶ。
彼女がゆったりとした足取りで私に近づいて来て、一歩を踏み出すごとに、星空が波紋を立ててぶれた。私はそれを黙って見守る。
「本当にいいの?」
彼女は少しだけ寂しそうに微笑みながら、私に問う。だから、私は首肯する。理由の説明もいらないだろう。
彼女は物心付いたときから毎晩この空で私の前に現れて、私の話を聞いてくれていた。今日はこんな事があった。それをどう思った。こうすれば良かったんじゃないか。でも私にはそれが出来なかった。今度同じことがあっても私は同じ選択をするのだろう──。ぽつりぽつりと私が話すと、彼女は決まって「大丈夫」と言って笑った。「次は上手く行く」「君ならそれが出来る」そう言って笑う。根拠も無い、煌めく言葉。私も大丈夫だと思おうとした。でも、駄目だった。駄目だったよ。私は駄目なんだ。泥に足を取られて、転び続けるみたいに。前に、進めない。
駄目だったよ。「大丈夫」駄目だったよ。「大丈夫」駄目だったよ。「大丈夫」消えたいの。「…………」
私はゆっくり膝を付いて、地面に手を伸ばした。星空に手を浸すと、水のように冷たい感触が伝わってくる。それを両手で掬い取って、口を付ける。冷たくて甘い。渇いた身体に染み渡って、少しずつ、私を私でない物で満たしてくれている。
私は、私の中を夜空で満たしたいのだ。星屑を飲み干して。全部全部。私はあの光の粒に。溶けて、消えて。無くなりたい。儚い光のように、居なくなりたいのだ。
もう一度、地面に両手を伸ばした。その腕を、彼女が柔らかく掴んで、制止する。彼女はやっぱり寂しそうに微笑んでいた。
「やめなよ」
「止めないで。消えたいの」
彼女は静かに首を振る。いつも肯定してくれていた彼女が、初めて私の行動を否定している。私のこと、全部分かってくれていると思っていたのに。私は彼女に、裏切られたような気がした。
私の顔を覗き込んで、彼女は優しい声で言う。
「そんなことじゃ、消えられないよ。だって、君の感情はろ過しきれないから。感情の残渣は底の方に溜まっていくばっかりで、何処にも行けないんだよ。泥濘になって、君の感情はずっと底に溜まってる」
「感情を消し去るには?」
「消えやしないよ。身体を星屑で満たしたって、君は君のままだし、その泥濘は薄まったりしない」
一層悲しくなって、私は深く息を吸い込んだ。やっぱり、泥が邪魔をする。この重たい泥濘が、足を掴んで離さない。
唇を噛み締めてないと、余計な言葉を吐き出してしまいそうだった。そんな私の様子を優しく見つめて、彼女はだからね、と言葉を紡ぐ。
「生きなよ。いつか、その残渣を愛せる日が来る」
「来ないよ。今まで邪魔で邪魔で仕方なかったもの。誰かを羨んだり、妬んだり、恨んだり、嫌ったり、好きになったり、腹を立てたり、期待したり、失望したり。もう、疲れたの」
そう言って、私は再び星屑を両手で掬い上げると、口を付けた。冷たくて甘かったはずなのに、どうして今は、塩辛いのだろう。知ってる味だ。此れは涙の味。
気が付いたら、私の両手は空っぽで。上手く掬え無かったのだろうか。両目からはポロポロと、透明の星屑が溢れてしまう。折角飲みこんだのに。光を放ちながら零れて、地上の星空に還っていってしまう。私の中から、星屑が消えてゆく。私は、ただの私になる。
違うか。私は最初からただの私だ。何も変わりはしない。変われはしないのだ。溜まった泥の中に沈んで。何処にも行けないのだ。
夜空。暗闇の中に、ポツポツと光が浮かんでいて、その全てに名前があって、その光の並びにすら名前があって。私も知っている、あれは大犬座。あれはオリオン座。それから、あれは子犬座。その中で一等輝くのは、シリウス、ベテルギウス、プロキオン。冬の大三角形。それを飲み干して、私の中身を満たしたい。変わりたかったのだ。光り輝く何かに。
彼女は私の目元に指を伸ばして、涙を拭ってくれた。まだ微笑んでいたけど、それは暖かくて優しい笑みだった。
「大丈夫」
聞き飽きた言葉が、彼女の口から溢れる。もう聞きたくなかった。耳を塞ぎたかった。
なのに、紡がれる。煌めく言葉。
「大丈夫。きっと辛いことばかりじゃないよ。少なくとも、僕は君を愛してる」
思わず私は顔を上げて、彼女を凝視した。やっぱり笑っていた。なんで彼女はいつも、そんなに笑うのだろう。どうして、そんなに笑えるのだろう。
「君もいつか、愛を知るよ。辛いことばかりじゃないよ。苦しいことばかりじゃない。悲しいことばかりじゃない。暖かくて、幸福に包まれてる。君は誰かを愛せるよ」
「……綺麗事だ。あなたはいつも、恒星みたいな言葉を吐くだけだ」
私が欲しい言葉を的確に投げかけてくれる、だけ。だから、その言葉はあの一等星よりも眩く瞬くけど、所詮は空で燃え尽きる屑と何も変わりないのだ。塵を引きながら、朽ちてゆく。夜這星の輝きに近しい、儚くて空虚な光。
彼女はふふ、と笑ってからそうかもね、と私の言葉を受け止める。否定、できないのだ。否定して欲しかった。今日の彼女は、こんなに側にいるのに、遠いところにいる。
「笑ってよ」
彼女はそう言いながら、私の頬に手を伸ばしてきた。暖かい掌が頬を包みこむ。
「ヒトは幸せだから笑うんじゃなくて、幸せになるために笑うんだよ」
彼女は笑う。だから真似して私も口角を上げてみるけれど、きっと、とてもぎこちない。それを彼女はおかしそうに見つめて、でも、馬鹿にするような目じゃなくて、凄く優しい眼差し。
「あなたはなんのために笑うの」
「僕はきっと、怖いから笑うんだよ」
そうやって、寂しそうに言った。燃え尽きそうな声だった。最後の光を放ちながら、消えゆくの待つだけの。
ああ、時間か。
「おはよう。きっと、素敵な一日が始まるよ」
彼女なりのさよならを聞き届けると、世界はぼやけてゆく。
最後に見えるのは、闇の中に散りばめられた、数多の光。宝石箱みたいだって、いつも思っていた。夜空が、ドロドロと溶けて、私と綯交ぜになって。
目を開けると、やっぱりあの夜空は夢だったということになってしまう。何度目かも分からない彼女との別れに胸を痛めながら、結局は上体を起こした。
半開きのカーテンを引くと、優しくない朝の陽射しが私の目を焼く。太陽は嫌いだ。いつも人の気も知らずに、平等に照らしてくるから。見たくないものも、よく見えるから。そのくせ、見たいものは、隠してしまうから。
昼間でも、星はそこにあるはずなのに、どこにも見えやしない。澄んだ青の中、輪郭の曖昧な水蒸気の塊が空を揺蕩っている。星を隠す太陽なんて、嫌いだった。
彼女を。夜空を隠す朝は、嫌いだった。
星を食べる夢は、凶夢だと聞いたから。星を食べれば、消えられると思って。身体を光の粒で満たせば、星になれると思って。私は星屑を飲み下したのに、結局涙として逃してしまった。彼女が、それを許さなかった。彼女は私に生きろと言った。愛してると言った。私も、誰かを愛せると言った。
私は、彼女の愛したものを、愛してみたい。
私は、私を愛せるだろうか。
自分の人差し指を使って、口の両端を、軽く持ち上げてみる。窓に映った私の、不格好な笑顔。彼女の笑顔とは程遠いけど、少しだけ近いかもしれない、なんて思う。私の中に、彼女は溶け込んでいるだろうか。そうだったら、いい。
私は今日も、息をする。
***
お題箱より「溶けかけの夜空」
夜這い星へ