摩周湖の夢
中学校の修学旅行で見た摩周湖が霧に包まれて見えなかった。
もう一度摩周湖を見たいそんな想いが募り札幌の中学校へ赴任した
民子であった。
夢を追う
伊勢崎藩主の子孫として生まれた民子は、医師である
父牧人と小学校教師である母の3女として生まれた。
名家として育てられた民子は、恵まれた環境の中で育ち
厳しさも、世の中の厳しさも冷たさも、体験したことが
ない。
名門の高校から教育大と進み中学校の教師となった。
高校の修学旅行で北海道の旅に観た摩周湖が、
忘れられずに札幌の中学校に赴任したのだ。
その時の摩周湖は霧に包まれて、残念ながら湖面は見る
ことが出来なかった。
心の残りの湖水をもう一度見たかった想いが、北の地で
働きたいと思ったのだ。
札幌の中学校に赴任した民子は、札幌は寒いと思ったが
学校の先生方も、アパートの住民も、みんな親切で
暖かかった。
寒さなど気にならないほど、親切な人達に囲まれて
3ヶ月が経った。
札幌市内の篠塚中学校は、緑に囲まれた、広い校庭の
真ん中に校舎があり、緑の風が部屋中に広がる。
9月の風は、緑を腹一杯食べた気分にさせてくれる学校だ。
青年教師や女性教師が8人も居た。
北のロマンを求めて本州から来た青年教師が多い。
民子もその一人であった。修学旅行で見れなかった
摩周湖への想いが、北の地の教師になろうと言う想いを
駆り立てた。
北の大地に憧れた男性教師が何人も居た。
9月の空が澄んだ頃、摩周湖を見れるかも知れないと、
密かに職場の話を探って居た。
6月から8月は霧が多いと先生方が言って居た。
真冬は摩周湖が見える確立が高いと言うが寒いので
避けた。
9月なら見えるだろうと想い 同学年の牧瀬幸樹を
誘ってみた。
牧瀬幸樹は同学年の主任である。
民子の誘いに快く引き受けてくれた。札幌生まれの
幸樹は、案内人になれるほど、詳しく摩周湖の
環境や気候を知って居た。
幸樹は、民子に摩周湖の様子を話し始めた。
小さい時から体に刻まれた摩周湖の風も、雲も、光も
霧も知って居た幸樹は、身を乗り出して生々しく
説明をした。
摩周湖の水量が年間通して変わらないのは、神の子
池と摩周湖が地下でつながり、一日12000tもの水が
湧き出ているからだと言った。
そのため、流れ出る小川は視認できるが、流入する川は
地表には存在しないんだと言う。
池の底のあちこちから湧き出ている水が透けて見える
と説明してくれた。
晴れた摩周湖を見ると婚期が遅れるという諺まであると
幸樹は笑って言った。
民子は吸い込まれるように眼を輝かせて聞いて居た。
高校から熟さぬ夢の花が開く時だ。篠塚中学校に
赴任したことに民子は自信を持った。
幸樹が9月の天候を調べて誘った日は9月25日だった。
快晴ではなかったが、夢に見た摩周湖の湖面が見えた
幸樹は馴れた口調で摩周湖の風景を、次々と民子に
話しかけた。
「これが摩周湖だよ。高校の夢が実現したね。」と
民子の顔を覘いた。
民子は摩周湖のエメラルドの湖面が目の前に広がった
興奮に、幸樹の話しかけにも応えずに展望台の先に
走り寄った。
民子はただ黙って涙ぐんで湖面を見詰めた。
幸樹は民子の興奮が納まるのを少し離れてじっと待った。
何時か必ずと~思った夢の摩周湖の展望台に今ここに
立って居る。
暫く見詰めて居た民子は、この現実に赴任までの経緯を
思い起こして居た。
北海道の学校を志望した時は、家族から反対され
それを押し切っても北の地を選んだ自分に満足した。
北の地に永住する覚悟で篠塚中学校を志望したのだ。
民子は赴任した訳を延々と同じ学年の先生にも話して
居たのだ。
幸樹は民子の気持ちを知って居たので、今の民子の興奮が
納まるまで待った。
何時かは見ると言う、一途な夢を実現させて良かったと
民子は思った。
エメラルドグリーンの湖面に陶酔した民子は周囲を
見回すと、カルデラ湖の周囲は、断崖絶壁が切り立つ
その側から羽衣のような霧が這う風景が、神秘的に
見えた。
湖水を目の前にして幸樹は出かける前の話しに付け足した。
摩周湖は水が入って来る入り口もなく、水が流れ出る
出口もない湖水だと言う。
その秘密を幸樹は面々と話した。
断崖絶壁と霧の織り成すドラマだと・・・
その合間 から、カムイヌプリが見られた。
幻想的な風景が魅惑的だった。
幸樹の好意に感謝した。
夢が実現し、摩周湖に立つ自分にエールを送った。
幸樹は午前に誘った訳を民子に話して摩周湖をあとにした。
「幸樹先生ありがとうございます。私の夢を叶えてくだ
さった恩人ですわ、私の人生はこの北の街に根付かせようと
思ったの・・・。」と言って一礼をした。
幸樹には民子の興奮が摩周湖よりも綺麗に観えて
ほっとした。
民子の住むマンションの入り口まで見送って別れようと
したが民子はこのまま別れるのは寂しかった。
「幸樹先生 少し休んで行きませんか
お茶を一杯飲んで喉を潤してください。疲れたでしょう。」
そう言った民子は幸樹を部屋に誘った。
幸樹は一瞬迷ったが、知らない地に赴任して来た民子の
心境を知って居たので、民子の誘いのままに部屋に入った。
民子はほっとした。男性への警戒心など意識しなかった。
身寄りのない地に赴任した寂しさが体の奥から噴出し
幸樹と別れたくなかったからだ。
3才年上の幸樹が兄のように思えたのだ。
再び 摩周湖へ
摩周湖を観た民子の興奮は幸樹の目に熱く焼き着いた。
民子の興奮の綺麗さに理想像の女性の姿を観た想いだった。
また喜ばせてあげようと思った幸樹は、再度摩周湖に
誘うと密かに思って居た。
絶対に見せたいのは、摩周湖の夜の流れ星である。
幸樹は土曜の休日を選んで誘おうと民子の
教室を訪ねた。
生徒の帰った放課後は、民子が一人教材の研究をして
教室に居た。
「お~~一生懸命ですね。教材の研究ですか。」と
幸樹は民子の教室に入って行った。
びっくりしたのか、民子は慌てて立ち上がり、机の上の
冊子を引き出しに隠した。
「何を研究して居るのかね。真面目ですね。」と幸樹は
民子の動きに疑問を持ったが、何気なくそうに言った。
「は~はい 今少し暇なので、摩周湖の思い出の写真を
観て居ました。一生忘れられない思い出になりました。
感謝します。長い間の願いが叶いましたわ。」と満面に
笑みを浮かべて幸樹に言った。
「そうかあ・・ 良かったね。遠い北の地に赴任して
良かったのかな。」と幸樹は案内したことに満足した。
「ところでもっと素敵な 摩周湖を見せたいね。
夜の摩周湖だよ。どうですか。行きますか。?
夜だけど観光のバスが出て居るんだよ。」と言うと民子は
急に幸樹の話に乗り気になった。
「バスが出て居るんですか。? それなら幸樹先生と
ご一緒させて頂きたいわ。是非お願いします、」と
民子は教卓の周りを一周して喜んだ。
幸樹は金曜日までの疲れがあったが、民子の喜びに
休まず身の回りの持ち物と、高感度レンズの望遠鏡を
準備した。
民子は幸樹の誘いに夜も眠れず、興奮の一夜を過ごし
簡単な飲み物も準備した。
9月も終わりに近づき、30日を選んで、バスを
予約した。
天候も晴れの予報だ。
バス会社も「流れ星が見えますよ。」と言った。
夕方2人は予約のバスに乗った。
バスは摩周湖の夜を観光する人で満員だった。
摩周湖の夜なんて考えただけでも、ロマンに包まれる
想いで胸が高鳴った。
バスの窓の外を眺めながら静かに口ずさんだ。
霧に だかれて しずかに眠る
星も見えない 湖にひとり
と民子はうる覚えの歌詞を口ずさんだ。
隣に座って居た幸樹もいつしか民子の歌に誘われて
2人で歌った。
民子は嬉しかった。今まで感じたことのない親しみ
を感じた。これが恋かも知れないとふっと思った。
幸樹は歌のリズムに載せて民子の体を揺すった。
歌詞のリズムに心がひとつに解け合うのを民子は
感じて居た。
幸樹も寄り添う民子の体の温もりに、何時までもこの
ままで 居たい心境に駆られた。
バスを降りた2人は摩周湖の夜の星を追いかけた。
夜空にこんなに星があったのかと改めて見上げた。
手を伸ばせば星が掴めそうな気がした。
幸樹は持って来た高感度レンズのカメラを三脚に
しっかり据え付けた。
「ほらここから覘いてごらん、ほら流れ星だよ。」
と民子の手を引っ張った。
民子はカメラを覘きながら興奮した。
流れ星が速い~~瞬きの間に目の前を流れる
暗闇に走る光の糸があちこちに見える
幸樹がまたカメラを覘き、民の子の肩を抱いて~
「ほら~~あっち、あっち・・ほら~こっちだあ~。」と
言う。
2人の肩は暫く重なり合い、交互にカメラを覗き込んだ。
光が肌に刺さるように感ずる速さの流れ星を追った。
1時間で数十個の流星を観察すること が出来ると幸樹は
昂奮して言った。民子は幸樹の言うがままに流れ星を
追った。
幸樹はまた話しかけて来た。
「民子先生今夜は生涯の思い出を創れますよ。数え切れない
程ここに来たけど、僕も今夜は民子先生と見た摩周湖の
流れ星は一生の思い出になるよ。」と言ったのは、愛の告白
でもあった。
民子も同じ想いで聴いて居た。
カシオペアや、オリオンなど中学代に教わった星座を
眺め、星座にまつわる神話へ思いを馳せたが今夜の星は
愛の囁きでもあった。
きっと忘れられない一夜になることを2人は感じて居た。
「夏のペルセウス座流星群の三大流星群はピーク時に
1時間で数十個の流星を観察することが出来るんだよ。
それは見ものだよ。夏にまた来ようね」と摩周湖の
夜の印象を強めるかのように繰り返し民子に強調した。
何時までも眺めたい星空だったが帰りの時間が来た。
バスは午後9時に摩周湖の星に別れを告げて家路に
着いた。
幸樹は民子をマンションまで送って来た。
「幸樹先生本当にありがとうございました。摩周湖の夜は
一生の宝となりました。絶対忘れないだろうと思います。」
と言った。
このまま別れることは辛いと思った幸樹は民子に
こう言った。
「民子先生、同じ思い出を共有出来た僕は幸せだよ。
冬が来る前にもう一度行きませんか。」と言いながら
別れたくなかった想いを約束することで心を静めた。
初恋の人
高校の先輩に慎也と言う初恋の人が居た。
慎也は店の長男として生まれ将来は店を継がなけれ
ばならない。
経済大学を出た慎也は勤めることも許されず、母の
八百屋を継がなければならない。父が若くて他界した
からだ。
だんだん重いものを持てない母を見て居るのが辛
かったのだ。
母は父に代わって仕入れをして店を切り盛りして居た。
大学を通うことも迷ったが、どうにか卒業した慎也は
八百屋を引き継いで働くことになり、民子との恋は諦め
ざるを得なかった。
民子は慎也との恋を諦める意味もあり、摩周湖の
想いを捨てられなかったことも理由のひとつだが、
遠い札幌の教員試験を受けて合格したのだった。
新しい地での勤務は新鮮であり、始めての教育現場は
思ったより大変であった。生徒に接して居ると慎也と
の別れた悲しみも紛れたのだ。
札幌の生活にも馴れて、生徒との交流も楽しくなった頃
突然慎也から手紙が届いた。
明後日札幌へ行くと言う手紙であった。
民子は慌てた。
隙間なく学校の行事が続いて居るからだ。
休みなど取れない。休暇も取れないと思ったからだ。
すぐに手紙を送った。
夏休みが来るから、その時に家に帰る。それまで
来ないで待って居て欲しい。と返信した。
だが慎也は急いで居た。
「嫌 急いで話したいことがあるから、飛行機で行けば
日帰りも出来る。だからこれから飛行機に乗る。」と言う
メールが来た。
時計を見たらもう慎也が飛行場に居る時間だった。
返信する暇もない。
民子は成り行きに任せる方法しかなかった。
摩周湖の夢
夢を追う民子は札幌の篠塚中学校に赴任して
幸樹と言う同僚に出会い摩周湖の夢を実現した。
兄のような幸樹に恋心が芽生えるが、初恋の
慎也が民子を追いかけて来ることになった。