結局、預言者について考える私。
鼓舞してほしい
衒学趣味を批判する。そして人を家畜呼ばわりするが。
私には夢がない。人は夢を持てという。だが私にはない。そんなもの必要ないし馬鹿らしいの極みだろう。私はこうみえてリアリティだが夢という言葉に騙されるほど幼稚ではない。人は馬鹿の群れだろう。大衆迎合向けのインテリジェンスなど馬鹿の極みで幼稚であほで間抜けで動物的本能で忘れっぽくて熱しやすくて愚かだろう。そんな奴らに合わせる必要などない、私はそう思う。以前にこんな言葉を耳にした。
人間は考える葦である
パスカルの言葉だが、この言葉を実践して普段から考えている奴はどのくらいいるのか。皆無に等しいだろう。パスカルのような哲学者自体まれな人種だしな。あと、世間一般では哲学者はまれだ。
民衆なぞは家畜と考えていいものだ。大概は自分で考える事を放棄した人間なのだ。そんな奴らに同情なんて無駄。家畜に同情するか?しないだろう。腹の足しになればそれだけでいい家畜の存在意義なんてそんなもの。
考えない奴等が多すぎる。まぁ多少考える奴もいるが、人のふんどしで土俵を取るのが多すぎるのだ。人の思考を真似して知性的に振る舞う下衆がいる。ぼくはそいつらが大嫌いだ、しかもそいつらは謙虚さがない。人のふんどしを借りている知的謙虚さが足りないのだ。あたかも自分は賢人である、とのような面構えが腹が立つ。もちろん言動も。
私はパスカルの言葉の真意の底にはなにか謎があるような気がする。以前に本で読んだが、考える葦とは預言者の事を指すらしい。預言者は考えに考えていき神にたどり着いた偉大な存在だ。しかもただ考えるだけではダメだ。神からの召命なければ。自分でなろうとしても悪霊にたぶらかされるだけ。険しい山に登っても、その山から神の階段とでも言おうか。その階段に登らなければならない。しかもその階段は知性的にも高く心が綺麗でなければならない。
人間は預言者である、のか。もちろんそうだ。人間は預言者である。最後の最後に神から預言が全人類に降り注ぐのか?多分それはない。預言者はイスラムでは打ち止めのはずだ。だとしたら、預言者はいつ出るのか?その考察はここではいらないだろう。私が考えたいのは人間は考える葦である、という言葉だ。
最近、なにも考えられない。空の青さも感じられない。
苦痛が我が身を襲う。人はなぜ生きるのか。そして死ぬのか。死んだら終わりだ。
本当に死んだら終わり。この世で生を受けて死に、来世で生を受けて死ぬのか。
永遠の楽園なんてないだろう。
洗脳されるな。気を付けろ。劇場のイドラに惑わされるな。
自己のいのちを信じきろ。
結局、預言者について考える私。
いのちを信じきろ