カタツムリ

 「はあ」

 とおおあくびをした。なぜだろう、こんな朝っぱらから絵を描いている、さえない瞳でクマとむくみの——決して人には見せたくないような顔と表情で——私は早朝5時の目覚めのすぐあとから、服も着替えず趣味のひとつ、スケッチを始めていた。いつもはそれほど早くの時間からスケッチを始めることはないが今日は早起きで気分がよかったので気分転換に試みた。発端は今朝目覚めたとき、今日のスケジュールを確認したとき、日曜だけど今日は少し出掛ける用事があったのだと荷物を整理して、昨日買いものに行ったことをおもいだし、それから買っておいたテーブルの上に置いておいた花束を確認、その中にカタツムリがまぎれこんでいたのを見たからだ。

 私は昨日花束を買った。今日はお見舞いにいく予定があるのだ、その始まりに心地よいスケッチがいいかとおもった。それは親友の母が、持病の病で入院していて、大したものではないのでそう気負いすることは少しもないのだったが、近頃仕事や用事でばたばたしていて、それでこの顔のクマで、友人にもその母親にも久しぶりに会うので、少し意気込んでいい花を買った。それにしても窓の外をみるとくもひとつない、天気予報もそんな様子で、これから晴れるに違いないだろう、と思われる日曜日のそんなときに私の大嫌いな生き物を、それも室内で見つけてしまうなんて、それからおいはらったり外へほうりだすのもおっくうになり、同じくリビングの中心、一番大きなテーブルの上に飾るようにおいてあったスケッチブックをとりだし、何をおもったかスケッチをはじめたのだった。

 私はなぜカタツムリを嫌いなのだろう、小学生のころ、男の子の餓鬼大将のような小学生にいじめられていたのだろうか、私は女の子なのによくその子にちょっかいをうけた、でも周りの女の子が助けてくれたし、それ自体そんなにしつこいものじゃなかったように思う。その子がカタツムリがすきで、私にみせびらかしていたからだろうか?

 そもそももっと昔からカタツムリが嫌いだった。あのつきだしたひとみをみると、どこか宇宙人みたいな、まるで何かのさなぎや幼虫のような印象をうけるのに、カタツムリはあれ以上大きくなったり形をかえたりはしないのだ。それにカタツムリは雌雄同体、これは大きくなってから知ったことから少し違うだろうか?

 一番よくカタツムリをみたのは、姉と遊んだ近くの公園の、特に雨上がりだった、姉は面倒見がよく、歳が10近くはなれていたこともあったので仲が良かった。わからない事はすべて姉にきいた。家族のこと、日常のこと、みのまわりのこと、ならばきっとカタツムリの名前を訪ねたのも姉が最初だろう、姉と一緒にいく雨上がりの公園の映像がとてもすきで、水たまりや、ときに虹が見えるのがすきだった。
 
 そこでふと私は感づいた、私はただカタツムリが嫌いなだけだっただろうか、たったいまでさえ、いくつもの記憶がバラバラのつぎはぎで脳内で再生された、けれど記憶は、結局のところ最後には脳内でひとかたまりの形になっている。そうか、あの地面をはううろこのような皮膚や、べとべとした粘液、ぷにぷにした感触、私はあれが恐ろしいんじゃなくて、あれが弱弱しく、あれがあれでなくなるのが恐ろしいのだ、あれがひからびたり、からだけころがっている雨上がりでないときの公園が恐ろしかった。だからきっと、恐ろしい記憶はひとつの過去を連想させて、私の幼少期の想い出を想起させた、そして午前8時半に完成したカタツムリのスケッチをみて、私は私の強烈な嫌いの感情によって、一瞬だけ子供じみた心が私の中に戻ってくるのを感じた。

カタツムリ

カタツムリ

スケッチ 花束 入院 お見舞い 親友 母 姉

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-15

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