あなたに巡り合うために…
別れの歌
「さよなら」
私は振り返らなくてはいけない。何があっても。振り返ったその先にある『もの』だけには返事をしなければならない。最期の一時くらいは。最期の別れの一時だけには……。
無情にも私の足は前へと進む。踵を返し後戻りをする素振りはない。機械的に動かされる足。まるで自分の意志とは無関係になってしまったのではないだろうか。首は頑なに前方を直視し続ける。私に別れを、哀しみを感じさせる時間は生憎準備されていないようだ。機械的に作動する私の身体。しかし口だけは、口だけは自分の意志に従った。
「さよなら、さよなら瑠璃……。私の……」
私と彼の間柄は奇妙なものだった。それは、彼自身が望んだ結果であり、同時に私自身が望んだ結果だった。此処ではそれが認められる。此処でだけはそれが認められた。
しかし、仕方がないこと。いずれこの日が来ることは解っていた。理解はしていた、けれど、心はそれを認めなかった。
この歪んだ心が引き起こした悲劇だというのならば、私はこんな愚かなことには手を染めなかったことでしょう。
これは私に対する罰なのかもしれない。どんな罰も受ける覚悟はできていた。いや、できていたつもりでしかなかったのかもしれない。
第一章 さよなら
「さよなら」
使い古した言葉。過去に何度もこの言葉を使ってきた。それは事実。そして人を傷つけ、自分自身も傷ついてきた。これも事実。
「……わたしも、なの?」
彼女が選んだ日付。聖夜祭で賑わう街並み。綺麗なイルミネーションツリー。様々なクリスマスソング。恋を歌った詩。その中で肩を寄せ合う恋人達。生まれてくる恋と、死んでゆく恋。歓喜に包まれる者と、哀しみに浸るもの。彼女は後者だった。
「何故……。やっぱり、わたしもなの?」
「ごめん。……ごめん」
踵を返したまま答える。
「やっぱり、わたしもなのね……」
哀しい声が後ろから聞こえる。そんな声で囁かないで、僕が振り返ってしまう。振り返ってはいけない。振り返ってはならない。これでいい。これでいいのさ。お互いが一番傷つかないで済む……これでいい、のさ。
別に好きな人がいる訳でもない。しかし何故か好意を寄せ切れない。僕には他に好きな人がいる。誰かは思い出せない。でも、確かにいる。いた、筈。
大切な人がいた筈。そうとしか言い様が無い。それが誰だか分からない。はっきりとしない。意識と無意識の狭間にぼんやりと覚えている。
もしかしたら此所には、この世界にはいないのかもしれない。
でも、確かにいた。
誰かがいた。
「さよなら」
頭の中で反芻する言葉。好意を寄せてくれた人に対して捧げた言葉。そのこと、そのことしか僕の頭にはなかった。それしかなかったのだ。そんなぼんやりした頭だったからだろうか、それとも、それが僕の運命だったのか、それは定かではない。しかし、これだけは定かだ。この日、僕は死んだ。その事実だけは変わらない。
死ぬと言うことは思いのほかあっけない。ほんのちょっとしたことで簡単に生は失われる。ちょっと打ち所が悪かっただけ。ほんの少し当たりどころがずれていたならば、こういうことにはならなかったでしょう。
そう、運が悪かっただけ。最悪に悪かっただけ。
しかし、運が悪くてよかったと思ってしまった。何故か、思ってしまった……。
最期に見えたのは、十二月の満月と輝けるイルミネーション。最期に聞いたのは安っぽい天使のラッパと午前零時を告げる時計台の鐘の音。あいつの悲鳴。
不思議と痛みはなかった。しかし、痛みをこえた何かを感じていた。口の中が血の味で満たされる。苦い鉄の味。衝撃が身体に走ると共にぐらりと世界が揺れ、僕の身体は宙に舞った。ぐしゃりというアスファルトからの鈍い着地音が耳にかろうじて届いた。
嗚呼、あいつの声が聞こえる。そんな声で泣かないでおくれ。振り返ってしまう。僕は振り返ってしまう。
あいつはもう僕がいない僕を必死に抱き留める。血が白いブラウスにシミを作る。誰がどう見ても助からないことが分かる。それはあいつも同じ。あいつもそれを理解している。でも、認めない。ただそれだけ。僕を支点に周囲がざわめいているにもかかわらず、この場で唯一、僕だけが第三者で、ただ上から眺めているだけであった。
気がつくとよく分からない場所にいた。初めて見る景色。見たことも想像したこともない景色。足下に広がる青。足下を流れる雲。辺り一面に並べられたら岩。きちんと綺麗に整列しているそれは、一つ一つの形こそ歪だが、その歪さまでが計算されているかのような、全体的な集合的美しさがあった。足下の青さが目に沁みる。
「嗚呼、懐かしいな」
不意に言葉が零れた。
此処へは初めて来た。しかし、既視感が収まらない。
「嗚呼、帰ってきたんだ」
零れ続ける言葉。止められない。
「帰ってきたんだ。此処に……この、終わりと始まりの地に……」
第二章 ただいま
青く透き通った丘に上がると、そこから先には街が見えた。どこか懐かしい、しかし見たことのない形の建造物達。
見たことがない、しかし懐かしい。この矛盾した二つの思いが頭の中を交錯する。理解できない感情が気持ち悪い。
急に吹いた風が僕を襲う。その風の中で僕は確かに聞いた。『お帰りなさい』と。
気のせいかもしれない。空耳かもしれない。でも、確かに知っている、懐かしい声で僕に囁いた。それは、意識と無意識の狭間にある記憶。いつからそこにあったのか、何処の記憶なのかは分からない。そんな、記憶。
まるで風にせかされるかのように丘を下る。僕は何かを期待している。心の奥底、記憶の深淵で何かが歓びの詩を歌っている。軽やかな旋律が僕を包む。何の歌かは分からない。ただ、楽しそうに歌う。足は真っ直ぐに街へと向かう。僕を、僕の帰りを待っている人がいる。大切な人がいる。名前も分からない、でも確かにいる。この確証はあった。根拠のない自信。
白い町並み。足下を流れる雲と同じ色。漆喰でもレンガでも粘土でもない、ふわふわとした綿菓子のような建造物達。それらが立ち並ぶ道、メインストリート。ふわふわと刹那に形を変える建物。建物かどうかすらもはや怪しい。でも、僕は分かる。僕は知っている、これが建物であることを。そう、そこには皐月がいて……。皐月?
彼女は十二の中の五番目を担当する『もの』だと僕に告げた。
あちらでの記憶が薄まると共にこちらでの記憶が息を吹き返す。忘れると共に思い出す。僕は皐月が好きだった。今まで何故それを忘れていたのか。……本質的には知っていたのかもしれない。でも、思い出せなくなっていた。知っていたが、理解できていなかった。こちらにいた恋人、彼女を忘れられなかった。
だから僕はあちらで彼女の幻影を求めた。皐月の幻影を求めた。しかし、彼女の幻影すらいなかった。彼女はある一点で違いすぎていたのだ。大した問題ではないのかもしれない。しかし、人である僕と彼女の立場は違い過ぎていた。
僕はいずれ帰らなければならない。人が人として生きる世界に。此所ではない何処かに。帰らなければならない。
メインストリートを歩く。いるべき『もの』がない。あるべき『ひと』がない。この場所は死んでいる。あの頃の輝きは見当たらない……。
第三章 またね
「さよなら、ゴメンね。母さん。先に逝くことになって。ゴメ……」
命の燈火が消える。眠るよりも分かりやすい。はっきりと感じる。今、自分の命が失われていることを。さよなら、さよなら。さよ……。
『此所は、何処?』
そう感じた。此所は何処と感じた。一面が青い、青い世界。ふわふわと浮かぶ岩。言葉は知らない。忘れてしまった。でも、最期に見た哀しげな顔だけは覚えている。あれは母さん。
丘を下る。白い町並みに出る。そこに彼女がいた。
建物と同じふわふわした衣を纏った、純白の翼をもった彼女に出会った。これが初めての出会い。初めての出会いのつもりでいた。
彼女は十二分の五と名乗った。僕を導く存在だと名乗った。
此所に来た人間は久しいと彼女は告げた。普通はもっと高い場所に逝くそうなのだ。若しくは、もっと下へ……。此所は狭間。微妙なバランスで成り立っている世界。誰もいない世界。彼女一人の世界。
彼女には『名前』がなかった。ただ、五番目の者と名乗るだけであった。だから僕は名前を作った。皐月と。十二分の五番目の者という意味を込めて。
この狭間の世界の管理人。それが彼女の役目だった。
時折やって来る僕のような存在を導く、それが彼女の役目だった。
此所での生活は楽しい日々だった。僕と彼女、そして彼女の唯一の友達だったフェレットとの三人での生活。
彼女は何も分からない僕を受け入れ導いてくれた。それは生の喪失から生まれた何かだった。
、意思の疎通は図れた。しかし、言葉などいらない。
実に幸せな、特別な日々達。あちらにいたことも、何もかもがない、全てを忘れた、零から始まった生活。
そんな生活の中で僕に芽生えた感情は嘘ではないだろう。恋にも似た、切ない感情。
それは彼女も同じだった。同じ感情を共有していた。そう、僕たちは恋をしていた。しかし、それは許されない。根本的なこと。考える必要のないこと。僕と彼女は余りにも違い過ぎていた。立場も姿も何もかも。
愛し合うことはできたのかもしれない。しかし、それを立場が封じた。彼女は導く者で僕は導かれる者であることは変わらない。それがお互いに与えられている役目だった。覆せない関係だった。
いずれ訪れる喪失。いずれ訪れる別れ。それは残酷なまでにも僕達を軽々と引き裂いた。
その日がやってきた。僕が新しい僕になる日がやって来た。一人と一匹が僕を見送る。
『さよなら、またね』
彼女は笑顔で僕を見送った。そのスカイブルーの瞳から零れ落ちた涙の結晶が地面に当たり砕けた。彼女は泣きながら笑っていたように感じた。彼女の顔は見えなかった。でも、そう感じた。
『さよなら、また会おう!』
お互いにそう思っただけだった。口にはしない。しかし、それが伝わる。偽りのない、本当の気持ち。
また、また会おう……。またね。
第四章 はじめまして
私はここにあり続ける。私とこの子だけの世界。名前など必要ない。私を呼ぶのはこの子だけであるし、私が呼ぶのもこの子だけ。一人と一匹だけの世界。
淋しいとは感じない。それが当たり前の景色。それだけの事。でも、もし淋しいという感情を知ってしまったならば、今のこの気持ちは淋しいのだろうか。
「ねぇ、私は淋しいの?」
哀しげな鳴き声が返って来る。
「そう、まだ分からないわよね」
口に出す必要はない。けれどそうしていたい。
「淋しいって何だろうね?」
何かは分からない。感じたことのない感覚。
そんな時に彼は来た。
いつもの仕事。ごく稀にやって来る魂の迷い子を導くのが私の役目。久し振りの仕事。
「はじめまして。此所は廃れているからね。滅多に人なんて来ないのさ。此所にいるのは私とこの子だけよ」
「――っ。――」
「無理して喋らなくていいの。此所に来る者は皆、言葉も何もかも忘れるから。ただ思えば良いだけ。それで伝わるから」
それが、彼との一番初めだったっけ。
それからの日々はとても充実したものになった。彼は私に十二分の五という役職でしか呼ばれなかった私に『皐月』という名をくれた。彼、瑠璃の世界での十二分の五という意味らしい。何故彼がこのことを覚えていたのかは、私にも分からない。今までに事例がない不思議な出来事だった。
そのせいか、私は彼に興味が湧いた。何も知らない。言葉すら分からない。最も初歩的な状態に戻っている彼が私に捧げた名。初めて私に名をくれた存在。私の存在をはじめて認めてくれた存在。
彼を手放したくなかった、その感情は嘘ではない。本当の本当に手放したくなかった。私のことを認めてくれる存在。彼への興味から別の感情へと移り変わるまでにそう時間は掛からなかった。大切な存在。
これが『恋』。初めての出会い。初めての感情。初めての会話。何もかもが新鮮で色鮮やかに私の瞳に映った。事務的に役目をこなす、それが本来の私の姿。その今まで過去の姿にさえ疑問が芽生えはじめた。
これが、恋。
色鮮やかな生活。悲しきかな、それは長くは続かなかった。私は役目に束縛され、彼は仕組に束縛された。時間がやって来たのだ。私は忘れない。私が見て来たこと全部。絶対、忘れない。
彼は帰らなくてはならない。人として再び生きるために……。
私は分かっていた。いつかこの日が来ることを。私と彼は根本的に違う。決して結ばれることはない。
初めての本当の別れ。自らの手で帰さなくてはならない。この苦しみは初めての感情。帰したくない。彼はここに置いておきたい。私のそばにずっといて欲しい。行かないで欲しい。放したくない。
大切な人。
私は忘れない。あの輝ける日々を、絶対に。再び彼と巡り合うために。私は忘れない。
暖かく接したい、最期は。彼が安心して行けるように。でも、冷たく接したい、私がこれ以上傷つかないために。
想いと身体が矛盾する。始まりの祭壇。此所とつながる唯一の門。
心は叫ぶ。離れたくない。共に居たいと。身体は踵を返し背を向ける。彼が居なくなる瞬間を見たくない。
その時、初めて私は『淋しい』を理解した。哀しいこと。一人は淋しい。とてもとても哀しいこと。瞳から雫が零れて砕けた。キラキラと輝くこれが涙。私、泣いているの?
そして、また一人と一匹になる。
始まりの歌
僕は再び此所に来た。存在しない記憶。皐月は最期に僕に魔法をかけた。零時になっても解けない魔法を。
向こう側での記憶と引き換えに甦ったこちら側での記憶。存在しない筈の記憶。
「皐月!」
声が出る。言葉が分かる。
「皐月!」
返事は無い。
「皐月!」
自然と涙か零れた。此所は本来僕のいる場所では無い。でも、本来いるべき場所の何処よりも暖かい場所だった。嘘の無い。本当の意味で心が通じる世界。
「皐月!」
白い人影。美しき白の翼。小さなフェレット。
「皐月!」
人影が振り返る。そして、再び物語が始まる。
彼女は涙を浮かべて決まり文句を呟いた。
「はじめまして」
あなたに巡り合うために…
あとがき
12/5に執筆開始と共に完結。この日付が微妙に重要だったりそうで無かったり。一日だけでつくるという何とも無謀なことには突っ込みをいれないで置いてくださいです。
色々細かいところは敢えて省きました。そのせいでただでさえ抽象的なお話がスカスカになっていますが、この文章を今読んでいる――勿論最初から読んで此所まで来た――あなたが、補完してくだされば幸いです。←うわぁ、丸投げだ。
さてさて、会話が殆ど無い。且つ、内容が薄く、しかも最初と最後の繋がりが微妙で短いこんな理解し難い(今始まったことでは決して無い)お話にお付き合いいただきありがとうございました。
2009/12/5
野由原皐月