すくらんぶる交差点(3-3)
三の三 山川 陸美 の場合
「急がないと。急がないと」
口癖化した言葉。時間に遅れる。時間に遅れる。心がどんどん締め付けられる。早く変われ、この信号め。山川睦美二十三歳。こども二人、五歳の女の子と三歳の男の子。夫はいない。三年前に離婚。母子家庭だ。子どもは近所の母親に預け、保育所に連れて行ってもらう。自分は、朝から晩まで仕事だ。午前中はコンビニの店員。夕方からは居酒屋で働く。1日二回職場を変わる。仕事が終わるのは午後九時頃。実家に帰り、夕食を食べ、子どもを連れて家に帰る。こんな生活が何年も続いている。夫とは、中学を卒業後、プータローしていた時の遊び仲間だ。いわゆるできちゃった婚。相手も同じ年齢。当初はうまくやっていたが、夫は働かず、睦美が働いた金を使うようになる。
注意すると怒りだし、あげくに果てには、手を挙げ、足で蹴る。いわゆるDVだ。三年間の長いようで短い結婚生活を区切り、離婚。子どもは睦美が引き取った。体だけが大人で精神年齢がガキの夫に、子どもを任すわけにはいかない。自分もちゃらちゃらした生活を送っていたが、夫よりもましだと思う。その夫が今、どこにいるのか知らない。以前、このT市のショッピングセンターで見かけたけれど、女と一緒だった。もう、未練はない。かえって、せいせいした気持ちだ。なんで、あんな奴と結婚したんだろうと、自分が不思議で仕方がない。
睦美の母も母子家庭だった。父親は、睦美が物心ついたときにはいなかった。以前、母親に聞いたけれど、詳しくは教えてくれなかった。どうせ、自分と同じようなものだろう。その反動か、結婚生活、父親に対する、男に対する憧れが強かったのかもしれない。その夢が、叶うとともに、もろくも電光石火のように崩れた。所詮、夢を抱いた方が悪いのだ。今は、子どもを育てることが先決だ。そのためにも、目の前の信号が変わり、商店街にあるコンビニに飛び込まなければならない。隣を見る。自分と同じように出勤を急ぐサラリーマンやOLたちがいる。一歩でも先に飛び出さないと。よく見みると自分と同じ年頃だ。
片や、離婚で、子どもがいて、朝から晩まで働いている。片や、一流企業のオフィスで、九時から十八時まで働き、アフターは、お茶やお花を習い、週に一回は、フィットネスクラブ、会社の同僚との飲み会、など、など。自分と、全く異なる人生。いや、想像することもできない。もし、変われるものならば、この服を取り換えて、人生までも、取り替えて欲しいと思う。そんな考えもすぐかき消えた。
信号が青になった。うざく、うっとおしい店長だけど、お金のため、子どものため、そしてわかんないけれど、この流されていく自分のために、コンビニに行かないと。あっ。急ぐあまり、ハイヒールが脱げた。「だから、ハイヒールなんて、履かなければいいのに」。母親の顔が思い浮かぶ。でも、いくら、子持ちでも、離婚していても、コンビニで働こうが、居酒屋で働こうが、ハイヒールは履きたい。いや、同じ年齢の女性より劣っていたり、見栄えが悪いなんて、自尊心(そんなものがあったかどうかしらないけれど)が許さないのだ。
ハイヒールは、あたしが生きていく上での支えなのだ。自分がダメなんだと自覚しているからこそ、いつも他人から見下されていると感じてしまい、つい、どうでもいいことでも気になってしまう。自分が劣っていることを認めたくないばかりに、あんたとあたし、どれだけ違うんだ、と口に出してしまう。もちろん、相手は、あたしのことなんか、構ってくれない。相手にもしてくれない。うすら笑いするだけだ。それでも、必死に、その笑いの幻影に向かおうとする。
急いで!心の中の自分が叫ぶ。脱げたハイヒールを履こうとする。痛い。誰かに足を踏まれた。完全に脱げたハイヒール。ない。スクランブル交差点では、多くの人が行き交う。なんとかの大行進じゃないけれど、主人のあたしを置いて、右のハイヒールだけが、交差点を渡ろうとする。待って!人の脚の間を見るが、靴は見えない。片足だけじゃ、店には行けない。靴はあたしの宝物。信号が点滅している。急がなくっちゃ。あった!ほとんどの人が交差点を渡りきり、空白地帯の真ん中に靴がポツンと取り残されている。走る。睦美がハイヒールを履き直した時には、完全に交差点の真ん中で取り残されていた。
すくらんぶる交差点(3-3)