連載 『風の街エレジー』 18、19、20
18 「増飽」
「それは、春雄の勤めてる造船会社の事言うてるんか?」
銀一の問いかけに、ケンジはかぶりを振った。
「知らんよ。ただ船作る言うたらそれ以外思いつかんし、まあ、おちょくりがてら春雄君の顔でも見よるかて、その程度。でも春雄君は別に怪しい奴見てない言うてたわ。そらお前なんぼ平和ボケした狂犬・神波春雄でも、東京で志摩やらバリマツやら見たらぎょっとするで、言わずにはおれんと思うよ。せやし、ウソは言うてない思うで」
ケンジの話を黙って聞いていた和明が、口を開いた。
「てことはバリマツ、東京で殺されたんか。てっきりこっちでの話やと思うてた」
ケンジとユウジが眉間に皺を刻んだ顔を見合わせ、首を傾げた。
「ややこしいのはな」
と藤堂が言う。
「行方不明になってたバリマツが遺体で発見された時、普通は『東京で何かあった、東京で抗争に巻き込まれたか、現地の輩に襲われたか』、そういう発想になりよるのが筋や。所が向こうで、志摩の姿を見たっちゅう目撃証言が出たんや」
「え」
銀一達は顔を見合わせて、言葉を失った。状況が、嫌でも志摩を『黒』へと追い立てて行く気配を感じていた。藤堂が続ける。
「本来人探し程度の仕事ならケンジかユウジどちらか片方でええ。こいつら最近調子こいとるで、えらい法外な依頼料ふんだくってきよるでな。ただ志摩の姿が東京で目撃されたせいで、別の人間追わすにしても結局二人ともが東京行きや。しかも厄介な事にその目撃情報のおかげで、うちの方へ確認の為に使い回しみとうなガキがやって来た」
「四ツ谷組から?」
と和明。
「そうや。電話やのうて本家の方へ直接に見に来よった。今ちょっとおりませんと追い返そうとしたが、ほなお見えになるまで待たせてもらいますと来た。こっちは焦ったわ。どこ探しても志摩はおらんし、東京で目撃された言う話かて四ツ谷の策略かもしれんとは思いながらも、こらひょっとしてっちゅう疑いも消えん。ケンジらもよう見つけんとほざきよるし、どないせえ言うんじゃ、ほんま」
藤堂は今思い出しても腹が立つのだろう。苛立ちを隠さぬ口調でそう言い、手当たり次第にテーブルのグラスを掴んで酒を飲み干した。
竜雄が言う。
「志摩は、バリマツを殺すつもりで東京へ追いかけて行った、そういう事でええんか」
「そういう疑いを、四ツ谷所か身内の人間まで抱いてるっちゅう話やんけ。ただそうは言うても帰って来た志摩の首根っこ引っ掴んで四ツ谷に突き出すわけにはいかんやろ。仮に先走ってバリマツを殺ったとしても、それはあいつなりに組の事を思ってしでかしたんかもしれんからな。というか組のもんが考えられる理由はそれしかないし、こういうケースやと組内は大体賛否両論に分かれる。それでも身内を売るような真似はせん」
藤堂が答えると、竜雄は俯いて大きなため息を零した。事実関係がどうであれ、答えようがなかった。
「俺は志摩を側に置いて好き勝手に動かさんようにしとったんやけどな。今度は間を置かずに警官殺しや。何やら一年前の事件と関係がありそうやと西荻の家に目を付けたのはええが、…その件に関して志摩を動かすのは、どうにも上手くない気がしてな」
銀一達は頷いた。
ここまで聞けば、納得のいく話であった。
竜雄がずっと引っかかっていた、何故藤堂が自分達を利用したのかという理由も明白だった。自分達を利用したかったのではなく、志摩を自由にさせたくなかったのだ。所が、
「え、待って。お前らさっきから何の話しよるん。まさかお前、志摩が黒の巣や言うて、そういう疑いで話進めとんのか?」
意外にもここへ来てそんな言葉を口にしたのは、ケンジだった。
「ほなら何かい、三年前俺とユウジがやられた相手が、志摩やて言うつもりか? 待て待て、笑わせんなて。なんぼなんでも俺らあんなもんにやられはせんて。つうか待てや、ほな藤堂さんはアレか。志摩が怪しいと分かっていながらこないだ、俺とユウジをあいつにぶつけたんかい。いけ好かん言うた理由はなんやってん、おいおいおい、待て待て待て」
「どこへも行かんがな」
矢継ぎ早に言葉を繋ぐケンジに思わず藤堂は吹き出し、
「お前らの実力は俺が一番分かってる。せやし、お前らに負けるようなら志摩が黒である可能性は低いっちゅう算段もあった。実際、簡単やったて言うてたがな」
と答えた。
「おいおいおい、まじかいや」
ケンジは信じられないという顔で額に手を置き、隣のユウジを見やった。ユウジもまるで思い至らなかったいう顔で、首を振った。
二人を横目に見ながら、銀一達に向かって藤堂が言った。
「お前らも気つけよ。志摩はともかく、いつ四ツ谷が絡んで来るか分からんでな。今四ツ谷とうちが揉めとるんわ、その志摩の件があったからやし、なんかあったらいつでも言うて来いや」
竜雄はソファに座ったまま身を乗り出した。
「それはおかしないか? 俺が銀一から聞いた話と違うな。俺はこいつから、志摩はあんたの為に四ツ谷と揉めてる言うてたぞ?」
「どういう意味や」
藤堂は竜雄ではなく、銀一を睨んだ。
「四ツ谷に対して、バリマツを殺ったのは黒かもしれんとはよう言わんから、藤堂さんが殺った可能性もある言うて向こうの人間に匂わせたんじゃと言うてた。藤堂さんの代わりに四ツ谷の面倒見たってるんじゃいうて、得意そうに言いよったけど」
銀一の言葉に、黙って聞いていたケンジとユウジが笑い声を上げた。
「こらあ、完全に飼い犬に手噛まれてるわ」
とケンジが言う。
「銀一君、竜雄君、それはない。そっちの話の方がおかしいわ。藤堂さんな、ついこないだまで盲腸切って入院しとってん。バリマツなんか、とてもやないけど殺れるわけないで。今でもまだ本調子やないのに」
「チッ」
と藤堂は舌打ちして、テーブルに置かれた何が入っているか分からない誰かの酒を一気に飲み干した。尚もケンジが言う。
「その程度の事は四ツ谷の人間かて分かっとる。今更藤堂さんが殺した可能性チラつかせた所で誰も信じんよ。あいつらが今志摩を追い回しよるんは藤堂さんの代わりやない。あいつ自身が狙われとるんよ」
銀一は驚いた顔で藤堂を見やったが。すぐに深刻な表情を浮かべてケンジを睨んだ。
「笑い事と違うやろ。そしたらお前、バリマツを東京で殺ったんは誰やてはっきり名前言うてみい。同じ殺され方をした今井言う名前の警官殺したん誰なんか言うてみい。お前それでも笑ろてられるけ?」
「いや、…そない言うたかて…、あいつには無理やろう。志摩には」
銀一の気迫に気圧されたようにケンジは口ごもり、
「ほんまか」
と言った銀一の声に、ついにはケンジは押し黙ってしまう。
「あいしゅ、…強いしょ…」
ユウジがそう言った。『死体置き場』にて志摩をぶっ倒したユウジのドロップキックは、ケンジを救う為の条件反射だったという。事前の打ち合わせでは志摩の相手をするのはケンジ一人と決まっており、ユウジは手を出す予定ではなかった。ユウジの目から見て、ケンジと志摩の強さは互角であり、勝敗はどちらに転んでもおかしくなったそうだ。
竜雄が口を開いた。
「ただ、志摩の事もそうやけど、もう一つややこしいのはさっきケンジも言うてたけど、おかしな動きしとるんは実は二人おるんやないかという事やな。おそらくやけど、昨日殺された榮倉いう刑事から聞いた話では、その時代によって仕事しよる『黒』の頭数は多くはないらしいから、昔藤堂さんをひっくり返した男と、志摩が、そういう人間なのかもしれんと俺は思うとる。成瀬さんから、そういう話は聞いてないんか?」
竜雄の視線を受けて。藤堂は苦々しい顔で眉間に皺をよせ、低く唸り声を上げた。
「事の発端が西荻平左殺害から始まっとるなら、確かに志摩一人の犯行とは考え難いな。仮にバリマツ殺しが志摩の手柄やとしても、少なくとも今井という警官殺しの方は違う。ただその、榮倉たらいう刑事を殺したのが志摩かもしれんという話なら、分からんとしか言えん。恥ずかしい話やが、志摩と最後に会うたんはお前らが最後なんや。ケンジらにのされて以来事務所には顔出しとらんし、あいつが借りてるアパートにもおらんようや」
藤堂が言い終える前に、銀一が聞いた。
「なあ。藤堂さん。今まで聞いた話を考えると、確かに志摩は怪しい。それは、今この話を聞く前から俺達も思ってた事や。ただな、俺らもあんたらも、あいつの事はガキの頃から知ってるよな。仲がええかて言われたら分からんけど、同じこの街の出身である事は間違いないし、他所から来た素性の知れん殺し屋とかそんな絵空事の話やない。実際のとこあんたは何で、志摩が『黒』やと疑ってたんや? 血の気の多い、ふらふらした、ただの阿呆なんかもしれんよな。もしかしたら人を殺してるんかもしれん。けど『黒』ではないかもしれんよな?」
藤堂は、志摩が『黒』であって欲しくないと願う銀一の言葉を噛締めるようにして聞き、頷いた。
「俺かて、面倒見て来た立場から言えば、お前の言う通りやと言いたいがな」
そう答える藤堂に、察しの良い銀一を始め、ケンジやユウジまでもが驚きの入り混じった落胆の色を浮かばせた。
藤堂はそこにいる筈のない志摩を見つめるような、遠い眼差しを浮かべて言った。
「ここまで条件を揃えて、実は志摩は黒の巣やありませんでしたと、そういう結果になるもんならなってほしいわ。ただ、俺かて遊んでたわけやない。色々と調べに調べて、まあ、行きついた結果や。これは多分、素人さんや警察には辿りつけん事実なんと違うかの」
事実、という言葉に俯き加減だった銀一達の顔が上がる。
「どういう意味や。事実て何?」
と言ったのは和明だ。
「もうちょっと待っとれ。まだ俺が調べてた事の全てに結果が出てない。それが全部分かったら、しゃあないし、教えたるよ」
藤堂と、ケンジ・ユウジを残して銀一達は店を出た。入り口側の受付を通り過ぎる際、先程のまどかが和明を追いかけて出て来た。銀一と竜雄は気を利かせて二人だけで外に出る。しかし交わす言葉もなく、出て来るのは溜息ばかりだった。
やがて和明が追い付いて来ると、銀一達は彼の顔を見て尚一層大きな溜息を付いた。
「何よ、失礼しちゃう」
お道化た調子で和明が言うと、銀一は苦笑して首を横に振り、竜雄は乾いた笑い声を上げた。
「なあ」
と、笑い終えた竜雄が言った。
「もう、ええやろ」
竜雄の言葉は重く、短いながらもその一言で銀一達には全てが理解出来た。
「悪かった、銀一。和明も。俺が余計な事頼んだばっかりに、お前らを巻き込んでしもて、ほんまにすまんと思ってる」
竜雄はそう言い、奥歯を噛み締めて下を向いた。
銀一と和明は竜雄から目を逸らした。
「…毎日毎日、仕事忙しいもんな」
と和明が言った。銀一は頷き、
「ええ加減な事してると、怪我するしな」
と答えた。
「あとは成瀬に任せよ。明日、平助の見舞いに行って、三人で頭下げてこよか」
銀一がそう言い、竜雄と和明は吹っ切れたように笑って頷いた。
しかし、誰一人吹っ切れてなどいなかった。
殺された難波の事、志摩の事、一人東京へ戻った春雄と、志摩の妹・響子の事。そして何より、入院中の平助の元へ現れ、まるで銀一達を待ちわびていたかのように思える、犯人の行動。殺された榮倉刑事の事。庭師という、謎の存在。それら全ての現実が強靭な蜘蛛の糸のように、体のいたる所に張り付いて銀一達の自由を奪った。あらゆる角度で彼らの意識を引っ張った。こんなに重苦しい日々を経験した事はかつてなかった。
逃げてしまおう。竜雄がそう言ってくれなければ、今この場で押し潰されてもおかしくはなかった。しかし却って、言葉ではっきりと『終わりにしよう』と区切りを打った事で、現実に立ち向かう気丈な心を失わずに済んだのかもしれないと、銀一は後に考えるようになった。
例え終わりにしたくとも、逃げようとも、現実は向こうから追いかけて来る。
銀一達はその事を、既に知っていた。
翌日、夕刻。それぞれの仕事を終えた三人は連れ立って、西荻平助の入院する病院を訪れた。難波の殺された日から、一週間以上が経過していた。
銀一達はバツが悪そうな表情を浮かべて、受け付けで教えてもらった病室に足を踏み入れた。六床が並ぶ大部屋で、今は平助の他は一人しかベッドに寝ている者はいなかった。
「おう」
と竜雄が声を掛けると、仰向けに寝ていた平助の目が開いた。
「遅うなってすまんかったな、平助」
意識が定かでない平助に向かって竜雄が言うと、平助は視線だけを竜雄らに向け、そして微笑んだ。
銀一、竜雄、和明の三人は内心ほっと胸を撫で下ろす思いだった。病室に入り眠っている平助をひと目見た彼らは、予想以上に具合の悪そうな平助の顔色に一瞬息を呑んだ。管に繋がれてこそいないものの、痩せ細った平助の体は彼自身の力だけでは維持出来ないのではないか、声を掛けた所で平助の耳には届かないのではないか、そう思わせた。
平助はゆっくりと体を起こす。
「ええよええよ、寝とけ」
竜雄が平助の肩を抑えて、そう言った。和明は使われていない椅子を二つ持って来て並べると、
「すまんな、春雄はもう東京なんよ」
と声を掛けた。平助は微笑んで、首を微かに横に振った。気にするな、という事だろう。
「具合悪そうやな。血が足りてないんと違うか。はよ退院できるとええな、ええ肉用意して待ってるわ」
銀一がそう言うと、平助は両目に涙を浮かべて頷いた。
本当は、聞きたい事が山程あった。榮倉がこの病院で殺された日、一体何があったのか。この病室へ訪れたという人間は誰なのか。平助は何を見、何を聞いたのか。聞けるものなら聞きたかった。しかし憔悴しきった平助の震える顔を見て、銀一達はその願望を捨てた。
病室の外には警察官が椅子を置いて見張りについており、これ以上所平助の身に危険が迫るような事はないだろう。もし平助の容態が安定して快方に向かっているのであればと思っていたが、事態はそこまで甘くなかった。
銀一達は他愛のない事を一方的に喋って、言葉を返さない平助の表情だけを見て頷き、笑った。やがてそろそろ帰ろうとかという空気になった時、竜雄が言った。
「平助、必ずまた来るから心配すんな。それよりも、今聞いておきたい事はないか。あるいは、言うておきたい事はないか」
平助はじっと竜雄の顔を見返して、こう囁いた。
「ありがとう。もう、関わるな」
竜雄の目から涙が零れた。
ここへ来て一度も、竜雄らは平助に対して事件の話をしなかった。幸助の行方についても、難波の死についても、榮倉の殺害についても、何も言わなかった。あくまでも、怪我を負って入院した友人の見舞いにやって来た、その体裁を崩さず笑顔を絶やさなかった。
しかし、平助には分かっていたのだ。彼が竜雄に相談事を持ち掛けて以来ずっと今日まで、竜雄らが目に見えない恐怖から逃げずに戦っている事を、分かっていたのだ。平助自身、祖父である西荻平左の死や家族同然に暮らして来た難波の死に直面し、自らも発狂寸前の恐怖を味わっている。あるいはだからかもしれない。目の前に座る三人の友人が、平助と同じように戦っている事が、言葉はなくともすんなり理解出来たのだ。
「何を言うとるんじゃ。ええから、ゆっくり休んどったらええ」
竜雄は涙を拭ってそう答え、立ち上がった。
平助が、立ち上がった竜雄の手を握った。
「相手にしたら、あかん」
小さな声だったが、はっきりと平助はそう言った。
竜雄だけではなかった。銀一、和明の背中を震えが駆け上った。誰も、何も言い返せなかった。
そこから更に一週間が経過した。と場で仕事を終えた銀一を、藤堂の舎弟だと名乗る男が待っていた。帰り支度を終えて出て来た銀一と、銀一の父翔吉を呼び止め、その男は言った。
「兄貴が、銀一さんをお呼びです」
「…俺だけか?」
銀一は翔吉を横目に見ながらそう言うと、男は気のない口調で「へえ」と答えた。
19 「照葉」
「自分が殺された日」
その日の事を、後に伊澄銀一はこう語る。
そこから続く毎日は、貰い物のようでありおまけのようでもある。
例えばそれが壮絶な大病からの生還であったり、事故などで受けた怪我からの回復といった場面で発せられた言葉であるならば、前向きな捉え方が出来なくもないだろう。心構えという観点でものを見れば、自分に与えられた時間に感謝してこの先の人生を大事に生きて行かねばならぬという、決意に似た思いが込められていると感じる事が出来る。
しかし銀一の語る言葉の意味は、少し違う。
当時の状況を聞けば、本当に彼は死んでいてもおかしくなった。
ただ実を言えば、その日の銀一の記憶は曖昧な部分がとても多い。
同じく現場に居合わせた、竜雄、和明に関してもそれは同じだそうだ。
後々になって事の真相は解き明かされる。しかしこの時彼らの身に起きた出来事は、当事者である銀一達にしてみれば即座に理解し受け入れる事が容易な事態ではなかったのだ。
藤堂の舎弟を名乗った男に案内されて銀一の向かった先は、使われていない廃倉庫だった。
人目を避ける為だというのは理解出来たが、今更藤堂が自分をこんな人気のない場所に誘うだとろうかと疑う気持ちもあった。だが今回の事件に関して、分かった事があれば連絡すると聞いていた手前断る選択肢はなかった。
以前『マルミツ自動車』という整備工場が使用していた、大型の倉庫だった。一時預りや整備待ち保管の為に大型の車を何台か並べて止めておける広い倉庫だが、会社が倒産して機材が全て運び出されてから中には何も残っていないはずだった。だだっ広い空間と高い屋根しかないその廃倉庫には、銀一達も数年前までは隠れて煙草を吸う為に侵入していた思い出がある。
入口の前に、竜雄と和明の姿があった。銀一は内心ほっとして声を掛ける。
「お前らもか」
「おお、銀一」
「お疲れ」
竜雄と和明が手を上げて挨拶を口にした。
藤堂の舎弟は三人をその場に揃えると、御役御免とばかりにろくな説明もせぬままその場を後にした。去り際に一言、「中に、おりますんで」と言ったが、それが引っかかった。中に藤堂がいるなら呼んで来いよ。銀一達はそう思ったが、敢えて何も言わずに見送った。
和明が銜えていた煙草を地面に投げ捨て、言った。
「ああいう名前もろくすっぽ分からん、印象の薄ーい輩が意外に、黒やったりするんかのー」
竜雄は弾かれたように和明を見やり、
「お前、ろくでもないこと言うな」
と怒った。和明は、
「びびっとるの?」
と片眉を上げて竜雄を見返した。
「阿保言え」
竜雄は顎をしゃくってそう言い返すが、銀一の目から見れば二人ともが普段通りではなかった。それもそのはずだ、白状はしないが自分だってびびっているのだから。
「入るか」
と銀一が言った。
「もう一本吸わせ」
と答えて和明が煙草を取り出した。
銀一と竜雄は黙って一本ずつ拝借して、和明のライターで三人同時に火を付けた。
煙を吐き出す息はどれも溜息に近く、そして無言だった。
藤堂の舎弟を名乗る男に案内されている間銀一が感じていた通り、竜雄も和明もこの場に藤堂がいるとは考えていない様子だった。ここへ連れて来られるまでは半信半疑だったが、この廃工場を見上げてそれは確信に近い心境に様変わりした。工場の中にいるのが志摩なのか、あるいは別の人間なのかは分からない。ただ、ここに藤堂はいないだろうと、そう思ったのだ。
この場に竜雄と和明がいる事を、銀一は知らなかった。恐らく他の二人もお互いに知らなかっただろう。それでも、この場へやって来た。そんな幼馴染の横顔を見つめる銀一の頬が、少しだけ緩んだ。
「ほな、行こか」
銀一がそう言って煙草を投げ捨てると、それより遠くに竜雄が投げ飛ばした。和明は更に遠くへ投げ飛ばし、
「っしゃ」
と短く答えた。
倉庫の中には誰もいなかった。
相変わらず埃っぽいただの伽藍洞が広がっている。
冬が近いこの時期の夕刻となれば、普段は既に明るくはない。しかしこの日の夕焼けはひと際赤く、廃倉庫の破れた天井から仄かな明かりが差し込んでいた。風に吹かれて舞い込んできた枯れ葉が赤く染まり、銀一達の足元に落ちる事には汚れた黄土色となって、やがて地面に紛れて見えなくなった。
人が隠れるようなスペースはない。大人の男が両手で力を籠めねば開かない鉄製の扉を開けて中に入ると、そこは反対側の壁まで遮るもがほとんどないただの大きな箱だ。あるとすれば、地面から天井近い梁まで伸びている鉄柱が数本立っているだけである。その鉄柱とて、人が一人隠れられる程幅のあるしろものではない。
ジャリジャリと砂を踏む三人の足音だけが響く。しばらくは用心して誰も口を開かなかったが、やがて和明が大きく息を吸い込んで、
「うぉい!」
と叫んだ。うるさ、と耳を塞いだ竜雄の横で和明は咳き込み、
「埃!」
と相手もなく怒った。やはり何の反応もなく、誰も姿を現さない。人の影も気配すらもない。
銀一は鼻から息を逃がし、辺りを見回した。担がれたのだろうか?
銀一達が開けて入って来た扉が車の搬入口だとするならば、その正面に位置する壁にも小さいながら鉄製の扉があり、そこが事務所への通用口だと思われた。銀一は、整備工場だった施設の正面玄関とは反対側から入って来たのだと知り、
「ちょっと、向こう見て来るわ」
と言った。竜雄と和明も同じく通用口を見やり、
「ああ、ほな行こか」
と頷いた。
通用口は既に扉が開いており、外の光が差し込んで来ていた。一旦屋外へ出なければならないようだ。
「向こうて事務所やろ。多分何もないで」
と和明が言い、
「いや、向こうが玄関やろ、何かあるやろ」
と、銀一が返事をした時だった。
足音が聞こえた。
銀一達は踏み出していた一歩を無理やり止めて、つんのめった。
ザザ、ザザ、ザザ。普通に歩いてもそんな足音にはならない。聞こえて来る音に銀一達は身構え、通用口を睨んだ。足音はその向こう、倉庫の外から聞こえて来る。
「一人か二人やったらええなー。十人くらい来たら逃げよなー」
声を落として和明が言った。
「お前が一番逃げへんやろ、頼むでマジで」
何言うてるんや、という目で竜雄は和明を睨む。
「来たぞ」
銀一が言った、次の瞬間だった。足音は不思議な歩調を変えぬまま、工場に飛び込んできた。
「は」
と誰かが声を漏らした。
工場内に入って来たのは、花原ユウジを肩で担いで歩く、黛ケンジだった。ユウジの左脇に体を潜り込ませ、右肩で支えて担ぐようにして歩くものの、ケンジ自身も右足を引き摺っていた。聞き慣れない足音はその為だった。
「おい!」
「ケンジ!」
口々に叫んで駆け寄ろうとするも、二人の姿をはっきりと目で捉えた瞬間三人は立ち止まってしまった。
暴虐の喧嘩師と謳われた、当代きっての武闘派ヤクザ二人である。しかしまるで現実味のない光景がそこにあった。花原ユウジは原型を留めない程に顔面を腫らし、意識があるのかないのかすら分からない。首筋から上半身全てが血に塗れており、明らかに自分一人では立っていられない状態だった。片やそんな相棒を支えるケンジもまた無惨である。左腕は破壊されたように力なくダラリと垂れ下がり、真新しい血がボロボロの指先から滴り落ちている。右足は膝から下が不自然に曲がり、体を支える機能を失っている。常人ならば立っていられない程の状態にありながら、ケンジはそれでも尚ユウジの体を支えて離さなかった。彼の呼吸は激しく、充血した目をひん剥き前を睨んではいるが、しかしケンジの左目は潰され塞がっていた。血の涙が、右目から流れた。
「ああ、お、あああ」
言葉にならない声を上げ、ケンジの目が銀一達を捉えた。
「ケンジ?」
と、恐る恐る竜雄が声を掛けると、ビクっと痙攣したようにユウジの体が跳ねた。
「ユウジ!」
と和明が名を呼ぶと、ユウジはゴブリと血の塊を吐き出して、言った。
「疲れた…」
銀一の全身を鳥肌が駆けた。普段全く理解出来ないユウジの言葉が、短いながらもはっきりと聞き取れた。なんという、その言葉の響きの悲しかった事か。
ユウジの声を聞き、彼の体をギリギリの力で支えているケンジの両目から涙が溢れた。やはり、血の色をしていた。
「あかんかったわ」
とケンジが言った。
「待て、誰にやられんじゃ!志摩か!?」
と叫ぶように銀一が聞いた。しかしケンジは銀一を見返さず、薄れ行く意識を繋ぎ止めようと踏ん張っているように見えた。竜雄と和明が口々にケンジの名を叫ぶ。しかし、足枷を嵌められたように、誰もケンジ達には近づけなかった。
「ユウジ、今、逝きよったわ」
と、消え入りそうな声でケンジは言う。
「阿保言え!病院連れてこ!な!」
和明は言い、工場を出ようと踵を返しかける。
「あかん、あかん。分かるねん」
ケンジはそう答え、ついにユウジの体を手放した。どさりと音を立ててユウジの体が砂埃と共に横たわる。
「おい!」
怒りでも驚きでもない声を、銀一は上げる。
ケンジは両腕をだらしなく下げたまま天井を仰ぎ見て、鼻から細く長く息を吸った。
「煙草、吸いたいなぁ」
「おお、持ってるぞ、吸うか、火点けたろか!」
和明が上着の内ポケットから煙草を取り出す。
「ええわ。俺だけ、吸いとおない」
ケンジは答え、ゆっくりと銀一達を見やった。
「…任せたで。…仇、取ったってくれよ」
とケンジは言った。
「阿保言うな!体治してお前が取るんや!せやろ!」
竜雄が叫ぶと、ケンジは微笑んで頭を振った。小さく僅かな動きでしかなかった。
「ユウジを一人には、でけん。もう、俺らは、離ればなれには、なったらあかんのよ」
ケンジの言った言葉の意味が恐ろしくて、和明も竜雄も子供のように頭を振った。
「アカン!」
「死んだらあかんぞケンジ、こっち来い! 病院行こ。頼む!俺らと一緒に生きよう!」
竜雄の言葉にケンジは大粒の涙を零し、
「竜雄君、和明君、銀一君、そういうんは、もっと早うに、ユウジにも言うてやって欲しかったのう。俺は、あんたらがおる、この街におれて、幸せやったと思うんじゃ」
と、切れ切れにそう言った。言いながらケンジの右腕がゆっくりと背中に周り、そしてナイフを握りしめて戻って来た。
「ケンジやめろ!」
竜雄と和明、どちらかがそう叫ぶ。
「ああああ、はあああ」
喉を鳴らしてケンジは息を吸い込み、天井を見上げた。首筋にナイフをあてがう。
「血に塗れたクソみたいな人生やったけどよう、これはこれで…。お前ら絶対仇取ってくれぇ!ユウジ!今からそっち行くから待っとれよぉ!うわあああああ!」
最後の絶叫を上げるケンジの首筋で、ナイフが横にスライドする。
口々に名を呼ぶ声。
鮮血が飛沫となって一瞬舞い上がり、そして滝の如くケンジの体を流れ伝った。
すーっとケンジの背後から手が伸びて、ナイフを握る彼の拳を上から包み込んだ。
今まさに事切れんとするケンジの顔の後ろから、もう一つ顔が覗き見えた。
その顔が、ケンジの耳元に囁きかけた。
「お涙頂戴はあかん、よう見てられんのう」
「志ィィィィィ摩ァァァァァ!!」
誰とは言わず全員がそう叫んだ。ケンジの背後から顔を覗かせたその白い顔は、いつの間にかケンジの真後ろまで忍び寄り、まるで黒子のようにピタリと体を重ねて立っていた。今見れば、志摩がケンジの首をナイフで掻き切ったように思えなくもない。
「そういうガキ臭い無駄な感情の昂りが、お前らの弱さであり、敗因でしたと、日記にそう書いとけ。あ、お前らはもう無理やから俺が書いといたるわな」
この場にそぐわぬ飄々とした口調で志摩はそう言い、銀一を見つめた。
そこまでだった。
この日の銀一の記憶はここで途切れる。
ト。
と背中に何かが触れた感触があり、そのまま銀一の体は前のめりに倒れた。
砂利と埃と雑草が口に入り、視界を覆った。銀一は自分の体を跨いだ黒い革靴を見たように思うが、それも定かではない。
そしてそのまま、意識を失った。
そこから先は銀一自身の記憶ではなく、後に彼が聞いた話である。
銀一はあの日、刃物で背中のど真ん中を刺されて昏倒した。背後から誰かが忍び寄っていたことは、銀一はおろか誰も気が付かなかった。
銀一を刺したのは背の高い男性で、全身が黒い衣装に覆われていた事は誰もが覚えているが、肝心の正体については誰にも分からなかった。顔を見ている筈だがほとんど印象になく、庭師かと聞かれればそうかもしれないし、違うかもしれないという曖昧な記憶しか残らなかったという。複数の人間が同時に目撃していたにも関わらずだ。
実の所、竜雄も和明もそれどころではなかった。相手の顔を確認して犯人を特定、又は手掛かりを得るという、当たり前に出来そうな事がその場では至極困難だった。
銀一が声も上げずに倒れ伏せた時、竜雄らは銀一が死んだと思ったそうだ。突然どこからともなく現れた、立体的な影を思わせる黒い男と志摩という二人を相手に竜雄と和明の取った咄嗟の行動は、銀一の体に覆い被さる事だった。
和明は、腹部を切り裂かれ内臓の飛び出した難波の死体を見ている。竜雄も今また、人相が変るほど殴られたユウジの顔や、ズタズタに引き裂かれたケンジの腕や潰された右目を目の当たりにしている。竜雄も和明も、迫り来る二人を相手に受けて立つ心構えが出来なかった。その時はただ、銀一の体にこれ以上危害が加えられぬよう、守る事しか思いつかなったという。
結果的にはこの時の二人の行動が、銀一の命を繋いだと言える。誰もが凄惨な死に際を迎えた。その中で銀一が唯一生還出来たのは、致命傷を与えられながらもトドメを刺させなかった竜雄と和明の身を挺した行動が故であった。
その分、全く身動きの出来ない二人は殴る蹴るの暴行を受け続けた。これについては意見が分かれる。本来志摩やもう一人の男に殺意があったなら、瞬く間に竜雄と和明を死に至らしめる事が可能だったのだ。その時志摩達が楽しんでいたかどうかは分からない。しかし彼らに殺す気はなく、竜雄らの命を弄んでいるように感じられた。後々までこの時の屈辱を、竜雄と和明は忘れ去る事が出来なかった。
その一方で、あと数分藤堂義右と伊澄翔吉が駆け付けるのが遅ければ、あるいは殺されていただろうという見方もあった。
偶然その日、廃倉庫のある『マルミツ自動車』跡地の側を通りかかった男がいた。藤堂の待つ時和会事務所へ、歩いて向かう途中だったというその男は実は覚醒剤の運び屋で、賭場が開かれる前日になると藤堂の元へ届けるのが仕事だった。警察や強奪目的の輩の目を欺く為、その男は常に何パターンもの経路と移動手段を用いて藤堂の元へ向かうのだが、この日『マルミツ自動車』跡地の側を歩いて通る事はただの偶然にすぎなかった。
本来運び屋の通過する筈だった元々のルート上で、血まみれのヤクザを見かけて瞬間的に踵を返したそうだ。今厄介事に巻き込まれるわけにはいかないという嗅覚を働かせた判断だったが、状況から見て運び屋の目撃した血まみれのヤクザは、ケンジとユウジであろう。
そして別ルートを経由していた薬の運び屋は、『マルミツ自動車』跡地横の路上で断末魔のような男の声を耳にし、怖くなって一目散に時和会へと駆けた。
結果、意図せずしてケンジとユウジは銀一達の命を助けていた事になる。
無事藤堂本人に品物を納品した運び屋は、今しがた体験したヤクザの抗争と思しき話を面白おかしく聞かせてみせた。世間の関心は今、時和会と四ツ谷組の抗争に集まっている。関連話としても、仕事中のエピソードトークとしても旬の筈で、面白可笑しく会話に華が咲くと思われた。
しかし運び屋は藤堂に首を締めあげられ、「場所を言え、それはどこの現場じゃ」と凄まれた。
『マルミツ自動社』の跡地は、銀一達の勤務する『林原商店』からそう遠くない場所にあり、藤堂から連絡を受けた翔吉と、先に事務所を飛び出した藤堂はほぼ同時に廃倉庫へと辿り着いた。
その時藤堂と翔吉が見たものは、竜雄の背中に刃を垂直に滑らせ、文字を書くように斬り付けている、そのナイフの煌めきだったという。
志摩の姿を見つけた瞬間、藤堂は狂ったように、言葉にならぬ咆哮を上げた。
翔吉が無言のまま駆け寄ると、志摩と黒い人影はぱっと竜雄達から離れ、物凄いスピードで通用口から飛び出して行ったそうだ。
後から現れた藤堂と翔吉を新手の敵だと思ったのだろう。和明は銀一の体を掻き抱きながら絶叫し、竜雄はボロボロの体で立ち上がってファイティングポーズを取った。しかしそのまま、意識を失って倒れたそうだ。
銀一と同時に病院へと運ばれた竜雄と和明は、重度の打撲と刃物による裂傷を複数個所に負い即座に入院と判断された。しかし二人は翌日目を覚ますと銀一のいる集中治療室へと駆け付けた。顔を見る事も声を掛けることもできず、それでも二人は治療室の側を離れようとしなかった。後に銀一が父である翔吉から聞いた話では、竜雄も和明も本来歩ける状態ではなく、診察した医者に言わせれば自動車事故に近い程の重症で、「車に跳ねられでもしなければここまで酷い打撲にはなり得ない」と語ったそうだ。高熱による全身の震えと筋肉の痙攣に見舞われながらも、竜雄と和明は一言も弱音を吐かず、祈るようにして銀一の側に居座り続けた。
翔吉からの連絡を受けて東京から春雄が戻って来た。深夜遅くになって到着した春雄は、その時間になってもまだ銀一の手術が終わっていない事と予断の許されない状況を翔吉から聞き、藤堂からはケンジとユウジの死を聞かされ、病院の廊下で泣き崩れた。竜雄と和明が二人して春雄を抱きしめて、「すまん、すまん」と何度も謝りながら一緒になって泣いた。
銀一はなんとか一命を取り留めた。しかし銀一の背中を刺したナイフは神経を傷つけており、手術が終わった後も、首から下を動かす事が出来なくなっていた。
銀一が目を開けた時、足元には竜雄と和明が立っていた。手術が終わった日から三日目の夕刻だった。
銀一はその時点で既に医者から体が動かせない事を聞いてはいた。それでも眠りから覚める度に、言う事を聞かない自分の体に戸惑い、首から上しか存在しない生首のような存在になってしまったのではないかと、怖くて仕方がなかった。
病院に運ばれてから、竜雄達の姿を見るのはこれが初めてだった。竜雄と和明も同じ病院に入院しており、今も立っているのがやっとながら、二人は努めて明るい顔で笑った。
「お目覚めかい。もう夕方やぞ」
と竜雄が言った。
「体、動かんのんじゃ」
と答えた銀一の声は、痰が絡んでガラガラだった。
「すぐ良うなるよ、手術、成功したらしいから」
と和明は軽い口調でそう言った。ウソではなかった。手術は成功し、損傷した神経も回復の見込みは十分あるとの事だった。しかしそれは本人のリハビリに対する努力次第であり、『すぐに良くなる』というワケではなかった。元通りの生活に戻るまでにかかる日数は、医者の診断では三年と言われていた。
「今朝まで、春雄が戻って来てたんやけどな。こないだ帰って来たばっかりやろ。もうええわて、追い返したわ」
苦笑しながら竜雄は言い、銀一は頷き返した。しかし自分がちゃんと頷けていたのかも、自信がなかった。
「ケンジらは…、やっぱアカンかった」
そう言った竜雄の目から大粒の涙が流れた。隣では和明が俯き、歯を食いしばっていた。
「すまんかった銀一。…すまん」
竜雄はそう言って泣き、頭を下げた。
「阿保言えや。俺が生きとるのは、お前らがかばってくれたからやて、昨日父ちゃん言うてたわ。もう泣くな。こんなもんすぐ治る。おい、聞いてんのか。…なあ、頼みあるんや」
銀一の言葉に、竜雄と和明が顔を上げた。
「煙草吸わせてくれ」
病室の窓を全開にし、銀一の口に煙草を銜えさせて三人で火を付けた。
倫理的な問題ではない。大手術を終えて三日しか経過しておらず、背中の神経を損傷した銀一の体は呼吸器系、内臓も含めてかなり衰弱しており、咽るなどの生理的な反応に対し自発的な防衛行動(寝返る、体を抱え込む、身をよじるなど)を取れない状況での喫煙は、ほとんど自殺行為だった。
三人は駆け付けた医者に死ぬ程怒られた。しかし、生きている事が死ぬ程嬉しかった。
銀一が入院して一週間程経った頃に、成瀬が見舞いに訪れた。たった一度っきりであったが、銀一はその日の出来事をずっと覚えているとう。ベッドの上で目を覚ました銀一は、自分が今どこにいるのか前後不覚に陥り、体が動かない事も相まって、耐えがたい程の恐怖に襲われた。ふと視線を動かすとベッド脇の暗がりに人影が座っており、思わず絶叫しかけた程だった。
だがその人影が成瀬刑事だと分かると、不思議と恐怖と焦りが波のようにすうっと引いて行くのを感じた。
「目ェ、覚ましたんか?」
と言った成瀬の声はとても優しく、初めて聞く人間の声に思えた。
体の動かない銀一は、視線だけを成瀬に向けた。
「うん、うん」
と言って成瀬は頷き、人の好い老人さながら目を細くして笑った。
「よお、生きとってくれたの」
と成瀬は言い、銀一の反応などお構いなしに話を始めた。
「西荻の平助な、良うなったぞ。こないだ退院していきおった。お前の事も心配しとってな、うん。ワシ、その平助にえらい怒られてなあ、うん。…ワシは赤江の人間が嫌いやから、ついついお前らにもそういう態度で物を言うてまうんやが、平助は涙ながらに、銀一らを悪しざまに言うような人間に限って、ろくでもない生き方しかしてこんかったんじゃ、真っ直ぐに物が見えてない証拠じゃ、言うて、きっつう怒られたわ。誰に言いよんじゃクソガキがあ言うてしばきよったけど、まあ、あいつが正しいわ」
銀一は成瀬が何の話をしているのかさっぱり分からなかったのだが、かつてない程穏やかな成瀬の語り口は、いつまでも聞いていたくなるほど慈愛に満ちた安心感を滲ませていた。
「…すまんかったの、銀一」
そう言うと成瀬はハンチングを自ら取り、座ったままではあったが、確かに頭を下げた。そして、
「安心せえ」
と言って顔を上げたその表情は、いつもの成瀬に戻っていた。犯罪者に対して容赦がなく、常軌を逸するとまで言われた執着心で犯人を追う、老刑事の眼力が戻っていた。
「必ず、ワシが犯人を追い詰めちゃる」
念仏を唱えるが如く低く、銀一よりも自分自身に向かって言い聞かせているような声だった。
成瀬はパンと音を立てて自分の首を叩いた。
「例えこの老いぼれ、生首一つになったとしても、必ずや喰らいついて犯人を上げてみせる。それで許してくれや。のう、銀一」
成瀬は最後にもう一度優しく微笑むと、挨拶もせずに病室を出て行った。
いつの間にか銀一は眠ってしまい、翌日になって成瀬の来訪が夢ではなかった事を看護婦から聞いた。
それから大分後になって、銀一は藤堂から成瀬にまつわる思い出話を聞いた。
成瀬はまだ二十代の頃に妻と子供を亡くしているそうだ。既に刑事職についていた成瀬はその日、仕事を終えて自宅に戻ると、強姦されて殺された妻の傍らで、今まさに首を絞められている娘と犯人を見た。成瀬はその場で犯人を包丁で刺し殺した。犯人は赤江出身のヤクザで、買い物に出ていた成瀬の妻を尾行し、自宅に侵入して計画的な犯行に及んだという見立てがなされた。成瀬の妻が立ち寄った八百屋の店番が、犯人の顔を同じ時間帯に店の側で目撃していた事を証言し、それが単なる空き巣ではない事の裏付けとされた。夫である成瀬の職務が警察官であり怨恨の線も疑われたが、通報があった時点で成瀬が犯人を刺し殺しており、捜査はうやむやになった。現場の状況を鑑みて正当防衛であると判断されたが、成瀬自身はどうでもよかったそうだ。その時点では己の中の正義は失われており、ただ犯人を殺したかった。それしか考えていたかったと、後に成瀬は藤堂に語った。
成瀬が赤江の人間と犯罪者を憎む気持ちには、そのような重く苦しい過去が関係している。
ただ、と藤堂は付け加える。
これは成瀬自身が自覚している事だが、成瀬の刑事としての根幹に正義感はない。犯罪者を憎み、悪として裁きたいわけではない。妻子を救えなかった自分に対する罰であり、全ての犯罪者への個人的な復讐で生きている。だからこそ己の体を燃やすが如く執念を抱き、そこには常識も忖度も一切通用しないのだ。
だが藤堂は、こうも言った。
成瀬という男は、本当は優しい男なのだと。
術後の経過を見ながら少しずつリハビリを始め、三か月が過ぎ、半年経ってようやく自力で起き上がれるまでに回復した。
銀一が自らの足で立って歩く事が出来るようになったのは、彼が背中を刺されて意識を失った日から、一年近くが経過した頃だった。それでも医者に言わせれば、その回復力は驚異的だった。順当に行って三年、あるいは一生寝たきりになったとしてもおかしくない程の重傷だったのだ。
銀一がベッドから立ち上がって両腕を広げて見せた時、医者も看護婦も感動のあまり拍手をしながら泣いたとの事だった。
20 「銀友」
昭和四十六年。東京。
夏が終わり、緩やかに秋へと移り変わる、九月。
久しぶりに聞いた母の声を耳に残したまま、藤代友穂は再び電話の受話器を持ち上げた。
壁掛け時計の針は午後九時十六分を指している。
出ないかもしれないな、そう思いながらもダイヤルを回し、呼び出し音を聞きながら気持ちを整理する。緊張などしていない筈が、不思議と眉間に皺が寄った。考え事をすると眉間に皺を作ってしまう癖があるようだと、仕事中も同僚からよく注意を受ける。力の入った眉間に右手の人差し指を当ててぐいぐいと押していると、電話が繋がった。
「はい、神波です」
「響子?」
「…友穂姉さん?」
「うん、ごめんね、遅い時間に」
「ううん、それは全然。それに、そろそろ掛かってくると思うとったんよ」
久しぶりに聞いた響子の声に懐かしさを感じる暇もなく、友穂は不安に駆られて服の襟元をぎゅっと握り締めた。
志摩響子とは友穂が赤江に暮らしていた頃からの友人関係である。年齢で言えば響子が三つ年下の為、友穂にとっては妹のような存在だった。響子がまだ義務教育も終えない年齢で、好いた男の元へ逃げたいと相談を持ち掛けた時、笑って逃走資金を握らせてやった事も大分と昔な気がする。
今はお互いが東京でそれぞれの暮らしを送っている。同じ東京とは言え広いもので、街で偶然すれ違うなどはこれまで一度もなく、赤江を出てから二年の間で顔を見ながら話をした回数は片手で足りる程度であった。友穂は響子の事が好きだ。しかし友穂の性格が、馴れ合いを拒んでいた。
「…それは、何か、悪い話をしようとしてる?」
と友穂が聞いた。
「そうなのかもしれんし、私はそうは思わんけど」
相変わらず幼さの残る声で、響子はそう答えた。
「え?」
「友穂姉さん次第ー、みとうな部分もあるもんねえ」
「私? え、響子何の話?」
「友穂姉さんがこうして普通に電話してきてくれた時点で、私にはええ話に思える。うん、簡単に言うとね」
「…何の話?」
「んー。よう分からん」
「おいー」
響子が脈絡なく話すのは悪気ではなく、昔からだ。自分よりも早くに赤江を出た響子の口調にはまだ訛りがあり、後発で東京に移った友穂はすでに標準語を話す。そんな二人の対比に、ブレないな、と思いながら友穂は苦笑し、先ほど母と電話で話した内容を響子に聞かせた。
赤江で暮らす銀一、竜雄、和明の三人がこの一か月の間消息が不明な事。街中で見知らぬ人間を見かける機会が増えた事。しかし話をしながら友穂は、順番を間違えたなと思った。先に、自分が今日職場の病院で、銀一と再会した話をするのが先だったかと、そう考えていた。その間響子は黙って耳を傾け、最後に溜息を付いた。
「春雄と一緒に暮らしてる響子なら、何か知ってるかなと思って」
「そっか、おばちゃんともう、先に話しよったんやね」
「要領を得ん話になったけどね。何が何だか分からないけど、とりあえず向こうは心配してるみたいだし、何て言ったかなぁ、竜雄の恋人さんも、気を揉んでるだろうから。…いやだから響子が、私がそろそろ電話すると思ってたのは何で?」
「電話は絶対あると思うとったよ。ただ、何で今か、そろそろかなっていうのはさ、それはさ、ほら、なんていうのかな」
「はい?」
「どちらにせよさ、それはさ、あると思うよ、そりゃ」
「響子、大丈夫?」
「あはは。こういうの、なんて言ったらいいのか分からんもの」
「こういうのって?」
「友穂姉さん、今日、銀一さんに会うとらんの?」
「え?」
会った。だが会ったと答えるより先に、怖わ、と思った。響子は昔から素直で純情な子である。年齢より幼く見えるのも彼女の人柄が大きく関係しており、人を揶揄い笑いに換えるような場面は一度として見た事がなかった。真面目で、常に一生懸命な子なのだ。思いついた事をそのまま口に出してしまう場面も多く、年頃を迎えて成長したとは言え、話にとりとめがなくなるのはその為だ。今ここへ来て、その響子が友穂に対して驚かせてやろうなどと画策しているとは考え辛く、だからこそ純粋に、怖かった。
「…なんで?」
と友穂は受話器を握りしめて聞いた。
「声低。え、何でって。会うとらんの?」
「会った」
「だから今、私に電話してくれとるんやないの?」
「え、違う。いや違わんけど、私が銀一と会うた事なんで響子は知っとるの? ほいでその事と、竜雄らがおらんようなった話は何か、関係がありよるん?」
思わず友穂の口から故郷訛りが突いて出た。
「なんで知っとる言うたって…」
言い淀む響子の背後が急に騒がしくなる。
物音が聞こえたかと思うと、響子の側へ駆け寄る足音と雑音。誰や、と声が聞こえ、響子が電話口から遠のく気配が感じられた。
「友ちゃんか?」
友穂の耳へ飛び込んできたのは、男の声だった。
「…春雄?」
「おう、久しぶりやな。取りあえずは良かった。無事なんやな?」
電話の向こうでそう言う春雄の声が、更に友穂の不安を煽った。
「無事て何、何が?」
「無事ならええわ。銀とは、会うたか?」
「会ったんは会ったけど…」
「今、家か? とりあえず、怪しい奴ウロウロしとらんか、外見てくれん?」
「え、今? 外? 何で? 何が?」
「ええから、話はちゃんとするから、急いで!」
友穂は急かされるまま立ち上がった。しかし先程母と電話で話す最中窓を開け放っていた事に気が付いて、急に怖くなった。友穂の住む部屋はアパートの二階にあり、少し肌寒いと感じる夜風がカーテンを揺らしていた。ほんのついさっき、明るい気持ちで見上げた筈の夜空が今は殊更暗く見えた。電話の脇に置いた受話器から春雄の騒がしい声が聞こえて、友穂は一旦腰を下ろした。
「うん」
「おったか!」
「まだ見てないけど」
「おい!」
友穂は四つん這いになって窓辺に近付き、指先だけでそろりと窓を半分閉めた。友穂の部屋の前は自転車とバイクの駐輪場である。普段住人以外の往来はなく、午後九時を回ったこの時間に人がいると考えただけで恐怖が弥増す。
鼻から上を覗かせて、外を見下ろした。そして友穂は全力で頭を下げた。
いた。街灯の光の輪からは逸れて立っている為顔は分からないが、男のシルエットに思えた。友穂は震えながら四つん這いで電話まで戻り、受話器を両手で握りしめた。
「いた」
「ほんまか!」
囁いた友穂の声よりも大きな春雄の叫び声に、思わず友穂はぎゅっと目を閉じた。
「びっくりさせんといてよ。…誰なん」
「男か!? どんな奴や! 友ちゃんの部屋覗き見よるんか!」
言われて友穂は答えに窮した。内心人などいるはずがないと思っていただけに、シルエットが目に飛び込んだ瞬間震え上がる程の恐怖を感じたのだ。相手の特徴など確認していない。
「見てみる」
「今から行くわ!鍵閉めて静かにしとれよ!人が来ても絶対開けんなよ!」
喚きたてる春雄の声を、友穂は既に聞いていなかった。再び四つん這いで窓枠に両手を掛けると、息を止め、両目を出して外を見下ろした。そして慌てて電話まで戻り、
「春雄!春雄!」
と押し殺した声で叫んだ。
「春雄さん!友穂姉さん!」
家を飛び出す寸前だった春雄を響子が呼び止め、荒々しい音を立てて春雄が戻って来た。
「どないした!」
「大丈夫や」
「何が!?」
「大丈夫。…あとで掛け直す」
そう言って一方的に電話を切った友穂は、逃がしてなるものかと窓辺に駆け寄った。
街灯の輪の中で、今は男の体の左半分が浮かび上がっている。友穂の部屋を見上げるでもなく、誰の物とも知れない自転車の荷台に腰掛けて、男は座っていた。
友穂が音を立てて窓を開け放った。驚いた様子で、男が顔を上げた。
「寒ないのん?」
腰に手を当てて仁王立ちする友穂は、そう言って男を見ろした。
「まぁ、上がりーよ」
疲れの滲んだ顔で静かに微笑み、友穂を見つめ上げるその男は、
「なあ、銀一」
伊澄銀一であった。
二年という歳月が長いか短いかは分からない。そして時間よりも如実に、東京と赤江といういかんともしがたい距離が銀一という存在を遠からしめていてた。しかし手を伸ばさずとも触れられる場所に座っている銀一の姿を見て、友穂は懐かしさを通り越して二年前にタイムスリップしたような気持ちにさせられた。銀一は友穂の視線から照れ臭そうに顔を背け、嬉しさの隠せない表情を俯かせた。
物欲の無い友穂の部屋には家具が少ない。同僚に譲ってもらった真っ赤な丸型のテーブルも、狭い自分の部屋には小振りなサイズが丁度良いと見て、それだけの理由で使っている。そんな思い入れのないテーブルの横に想定外の男が座っている、その事が友穂にはおかしかった。飛びぬけて身長が高いわけでもないが、肉体労働で鍛えた銀一の体躯はやはり大きく、彼が隣に座ると丸型テーブルが子供の玩具に見えた。
友穂は包帯を手に戻って来ると、銀一の前に膝をついて座り、俯き加減の彼の横顔をまじまじと見つめた。夕刻見た通り、銀一の頭には乾いた血がまだ残っている。それもそのはず、車に跳ねられて救急で運び込まれたのだから、こうして普通に座っているが骨の二、三本が折れていてもなんらおかしくはないのだ。
「変わらないね」
友穂は静かにそう言った。
銀一は顔を上げて友穂をチラリと見やり、やはり照れ臭そうに俯いた。首の後ろにこびり付いている血の塊が見え、友穂は溜息を付いて包帯をテーブルに置いた。
友穂が立ち上がると、その動きを銀一は釣られるように目で追った。友穂はそんな銀一の視線を感じ取り、ふわふわとした居心地で頬を染めた。まるで自分の部屋ではないような、そんな気がした。
やがて濡らしたタオルを手に戻ってくると、友穂は何も言わずに銀一の首筋を拭いた。血の塊の下にはまだ新しい傷が見えた。友穂が一瞬下唇を噛む。
「痛い?」
「全然」
「ウソつき」
「痛ないよ」
「ほなコレは」
そう言って友穂が銀一のこめかみを押すと、銀一は眉間を曇らせて体を引いた。
「ごめん」
思わず友穂が謝ると、銀一は真顔で首を横に振って、
「痛ない」
と言った。
二人は見つめ合い、そしてしばし笑い合いうと昔を懐かしむように、笑顔のまま黙った。
あらかた見える部分の血を拭い終えると、友穂は銀一の頭に包帯を巻きながら言った。
「元気に、してた?」
「まあ、うん」
「びっくりした。突然病院に運ばれて来て、そのまま逃げて、街で会って、また逃げて」
「おう」
「今日久し振りにうちのお母さんと電話で話して。そしたら、あんた達みーんな街から消えたんだーってすっごい心配してて、私はなーんも知らないで、響子に電話したら、銀一さんと会うとらんのー? …だってさ」
「…おう」
友穂は包帯の端をテープで止め終えると、正座して銀一の横顔を見つめた。
「ほんまの事言うてみ。…元気に、しとったの?」
友穂の言葉に銀一は答えず、やがて眼を逸らすように顔を背け、そして俯いた。銀一の顔から次第に笑みが取れ、真顔になる。自然と友穂の表情も険しなったが、彼女は銀一から目を逸らそうとしなかった。
あぐらをかいて座っていた銀一が、右手の拳を少しだけ持ち上げて、どすんと自分の太腿に落とした。一瞬気を取られた友穂は、銀一の横顔に視線を戻して、はっとなる。
友穂は狼狽えた。昼間、路地裏へ引っ張り込まれた一瞬の出来事。それを防いでくれたように思えた銀一の怪我。電話で母から聞いた赤江の様子。春雄の慌て振り。何か良くない事が起きていると、漠然とそれだけは感じていた。しかし友穂の知る伊澄銀一はそれでも、人前で簡単に涙を流す男ではなかったのだ。
友穂は震える銀一の肩に手を伸ばした。
「色々あった」
友穂の手が触れる寸前、銀一がそう答えた。
「そうか」
「友穂」
「ん?」
「爆発しそうじゃ」
「…そうか」
友穂が銀一の肩に手を置いた。しかし銀一はその手を掴んで離し「あかん」と首を振った。
「すまん、そういう意味やない」
「そういう意味て何?」
友穂は努めて明るく笑い、膝立ちになって銀一の首に手を置いた。小柄な友穂はそうしなければ銀一の首の後ろに手が届かないのだ。
「難波が死んだ」
不意をついて出た銀一の言葉に、友穂は反射的に手を退けた。
「え?」
「ケンジも、ユウジも死んだ。ようけ人が死んだんじゃ」
友穂にとってそれは衝撃的な告白に違いなかった。しかしすぐには返す言葉が出て来なかった。
「ほんまは、全部にカタがつくまでお前に会いとうなかった。お前に会うたら俺は」
銀一はその先を言わず、友穂も彼が言わないであろう事が分かった。
友穂は銀一へと伸ばした手を引っ込めると、再び腰を下ろして俯いた。指先に残る体温を確かめるように、銀一に触れた手を反対側の手で包みながら、友穂はふっと笑った。
「よう、分からんのやけど、銀一は、精一杯やっとるんじゃない?」
友穂の優しい声と言葉に、銀一は下げた頭を、更に丸め込むように深く垂れた。
「私が知っとる銀一は、優しい男やもんね。…精一杯、やっとるんじゃない?」
おそらく顔を見なくても、銀一が泣いている事は分かる。それでも彼は涙を見られまいとしている。ならば、自分は決してその事に触れないでおこう。そんな風に冷静な判断が出来ていたにも関わらず、銀一へ掛ける言葉を口にしながら、友穂は何故だか泣けて仕方がなかった。
溢れるように頬を伝った涙の意味を、友穂自身理解出来なかった。難波やケンジ、ユウジの死が怖かったのか、只ならぬ銀一の様子に感化されたのか、理由を考える余裕もなかった。洪水のように流れ出る涙を抑える術がない中、ただ一つだけ、確かに言える事があった。
銀一を、心の底から愛おしいと思った。
「とりあえず、まあ、ゆっくり休むのがええんやない?」
友穂の声と呼応するように、銀一の握った拳が、彼の膝の上で震えていた。
「ありがたいが、今はまだ休めんよ。会うつもりはなかったがこうなったら仕方ない。安全な場所へお前を連れていく」
大きな拳で自分の目を拭い去ると、銀一ははっきりとした口調でそう言った。友穂は銀一の言葉の意味を推し量るように沈黙し、そして、
「…今から?」
と明らかに訝しむ声でそう聞き返した。
「今から」
「…今から?」
「ふふ、今からじゃ言いよろうが」
「…どこへ?」
「安全な場所じゃ」
「嫌よ、仕事あるもん」
「休め」
「無理言うなよ」
「どうせえ言うんじゃ」
「こっちの台詞よ。何から逃げるのか知らんけど、ここにおれば良いでしょうが」
「誰がじゃ」
「銀一が」
「何でじゃ」
「はああああ?」
「いや、安全な場所へ…」
「そんなもん、銀一の側が世界一安全なんと違う?」
「お前、そういう事を、ポンと、お前、…東京は怖いなぁ」
「あはは。私は何も知らされんまま連れ去ろうとするあんたが怖いわ」
と、目尻の涙を指ですくいながら微笑む友穂の仕草に見惚れながら、
「…萎えるわぁ」
と銀一は笑った。友穂はニンマリと笑みを浮かべ、そして口をすぼめた。
「ほお。…萎えたん?」
「…いや、全然」
俄然やる気の漲る表情で銀一が目を見開くと、友穂は両手を眼前にかざした。
「いやいや、ちょっと待って、こういうお笑いのノリ切っ掛けで抱かれるのは嫌かな。思い描いてたんと違う」
友穂の言葉に銀一は腹を抱えて笑った。体中の至る所が痛みで悲鳴を上げている。しかし銀一にはどうでもよかった。それ所か、友穂の側に自分はいて、大声で笑っている事が生きているという事なのだと、体の痛みが教えてくれているようにすら感じた。
笑いながら、涙が出た。友穂の口から『抱かれる』などという言葉が出るとは思ってもみなかったし、もちろん銀一はそんなつもりでここへ来たわけでもない。
多くのものを銀一は失った。しかしそれでも尚、まだ自分には失いたくないものがある。自分を受け入れてくれる愛すべき人がいる。その事が嬉しかった。それと同時に、自分の前から消え去った幾つもの命が強く思い起こされて、どうしようもなく悲しかったのだ。
友穂は唇をぐっと噛み、銀一の頭を抱きしめた。一緒になって泣いてはいけないのだという思いが、友穂の気持ちを支えた。
「ずっと会いたかったって、今気付いた」
そう言った友穂の言葉に、銀一の体が熱くなるのが友穂にも伝わった。
「なんでかって言うと。…二年前、言えなかった事があるの」
静かに涙を堪えて泣き続ける銀一の顔を胸に抱いたまま、友穂が言った。
「銀一がずっとこのまま赤江におるつもりなら、いつか、私は帰って来ようと思う。本当はそう言いたかった」
「…」
「ただ、それは旅立つ前に言うべき言葉じゃない気がして、言い訳を用意してると思われたくなくて、言えんかった。私はずーっと自分に自信がなかったし、色々あったから、そういう気持ちを頼りに生きて行かなくても済むように、人の役に立てる仕事に就いて、一人でだって生きていける、そういう人間になりたかったんよ」
「…」
「向こうを出る日、竜雄やら、和明やら、迎えに来てくれてた響子や春雄らの言葉とか雰囲気が、なんとなく、銀一の黙りくさった顔には意味があるんやと、教えてくれてる気がした。餞別や、お弁当や、洋服やらを皆がくれる中、銀一は、小さい頃ずっと隠れて泣きよった、あの神社のお守りをくれたね。嬉しかったよ」
「…」
「一緒に、二人で写真も撮ったな。今でも写真立てに入れて持ってる。お守りも、ずっと身に着けてる」
「…」
「私は確かに街を出たかった。逃げたかった。銀一は何も言わずに送り出してくれたけど、私あの時本当は、いつか帰って来ようと思っとるって、伝えておきたかったよ。そん時はあんたと一緒にハンマー振ってもええ。今でもどっかで、それは思ってる」
「…」
友穂は銀一の頭を抱いたまま、涙を零さぬよう睨みつけるように天井を見上げた。しかし堪え切れずにぎゅっと目を閉じ、銀一を抱く両腕に力を込めた。
「銀一。私は、本当は、いつかあんたの子を産みたいと思いよった」
堰を切ったように、抑え込んでいた銀一の喉から嗚咽が零れ出た。万力のような銀一の腕に抱きしめられながら、友穂は涙を堪えて何度も頷いた。
「だから負けんな。無責任な事言いよると思われようが、あんたは負けたらいかんのよ。あんたがおったから、私は負けんかったやろ? 今は私が付いてる。だから、銀一も負けたらいかん」
「春雄、来んなあ」
布団にくるまれて、灯りを消した天井の電球を見上げながら友穂が呟いた。
友穂が起きている事に気が付いて、銀一は彼女の頭の下に腕を潜り込ませた。正直小柄な友穂には銀一の太い腕枕は高く、寝心地はあまり良くない。なるべく銀一の体に身を寄せて、横向きになるようにしてもたれかかった。
「来るんか」
と銀一が言う。
「電話、掛け直すて言うたから。えらい心配しとったもの」
「来んよ。あいつ、勘がええから」
「あはは、勘かあ。想像はされとうないなぁ」
「想像したら殺す」
「物騒やなあ。あ、…今日、なんで逃げた?」
「友穂の、喋り方が変わりよったから、びっくりして」
「ウソつき」
「…友穂は、元気にしよったか?」
銀一は自分の腕の中で頷く友穂の体温と柔らかな髪の肌触りを感じて、全身に力が漲るのが分かった。性的な衝動ではない。ガス欠だった彼の中に、燃料が満たされていくのがありありと感じ取れたのだ。
「なら、ええ」
優しく答えた銀一の声を聞いて、友穂は布団の中で仰向けに寝返り、
「ああーあ、あかん、あかんなぁ」
と言った。
「何が」
「…私は一人が好き。私の事を誰も知らない都会の森で、周りから一定の距離を置いて、社会の歯車として、飄々と風のように生きて行くのが夢やった」
「…」
「朝は、パン。午前中急がしく立ち働いて、遅めの昼食は手作りのお弁当。ほとんど残業のない病院やから定時に終わって、夕暮れの街を歩く。繁華街よりも、住宅街の方が寂しげで、好き。知らないお家の夕ご飯の匂いがふわあっと流れて来て、私は今日は何が食べたいかなあって考える。一人は良いよお。何時までに帰って、何時までに夕飯の支度して、何時までに食べないと、とか考えなくてええもの。さんまが良いかなあ、まだ少し高いかなあ、焼き魚には日本酒が良いなあ。そうやってオレンジ色の街を歩いて、ぱぱっとお買い物を済ませて、この部屋に帰ってくる」
「…」
「…うん。一人は寂しい。けど、その寂しいという気持ちが、私は、今日を生きて明日に繋がる、そういう力になってた気がするなあ。赤江の事、嫌いなようで、やっぱり好きなのもある。思い出すのは良い思い出ばっかりで、お父さんやお母さんや、ミニー、覚えてる? ミニー」
「あの、雑種やろ?」
「言い方って、大事よ」
「ごめん」
「…うん、ミニーの事や、銀一の事も思い出してたよ。そうやって、自分のこの二本の足で立って、一人っきりで生きている事の贅沢さっていうものを、味わっていたわけですよ」
「うん」
「でも、あかんわ。何か、自分の中でそういうの、終わった気がする」
「何で?」
銀一の問いかけに友穂は答えず、天井を見上げたまま黙った。
銀一は、友穂の額から鼻筋、唇から顎にかけての曲線を指でなぞりたいと思いながら、
「分かる気はする」
と言った。
「広い世界に出て、自分がどこまでやれるか試してみたい、みたいな事やろ?」
「…喧嘩の話と違うよ?」
「馬鹿にしとんのか」
「ごめん、言い方が青春漫画みたいやったから」
「すんませんなあ」
「ただ私は、休憩してただけなんかなあ。なんか、そういう風に思うんよ」
「休憩? 東京でか? それはないやろ。詳しくは分からんけど、響子からお前の仕事聞いとるよ。看護婦て実際何しよるのかあんまり想像出来んじゃったけど、手術の手助けとかしよんやろ?」
「あはは、手助けか。面白いな。ただ、んー、仕事内容は多分どこで働いても、そこまで違いはないように思う。私は多分、もといた自分の場所を遠くから眺めて、いつかそこに戻りたいと思いながら、やっぱり休憩しよったのよ。だから、一人でおりたかったん」
「分かるような、分からんような」
「ええの。私は分かってしもうたから」
「何を?」
「うん。私、やっぱり、あんたと一緒におりたいわ。だからもう、休憩は終わりにする」
今度こそ、突き上げられるような欲動で体を跳ね起こした銀一であったが、すぐ隣で横たわる友穂の泣き顔を見て、胸の締め付けられる思いがした。藤代友穂という女性が、銀一の知らないこの街で生きてきた二年という月日が、実りある幸福な時間だったかは分からない。友穂の言うように、会わなかったこの時間全部が『休憩』だったのだとしても、銀一にとって友穂は誰よりも魅力的であり、二年前よりもずっと大切な存在に違いなかった。そして、ただ休んでいただけの人間が流す涙には、銀一にはどうしても見えなかった。
「ごめん」
と友穂は謝った。
「悲しくて泣いてるわけじゃない。ただ…」
銀一は体を倒し天井を見上げると、再び友穂の頭の下に自分の腕を滑り込ませた。
そして銀一は何度も、自分に強く言い聞かせた。
この先例え何があろうと、自分の体が砕け散ろうと、友穂を守り通そう。
連載 『風の街エレジー』 18、19、20