鸚鵡の夢

 鸚鵡は夢を見るのか。トリカゴの中で鸚鵡がピーピーと声をだす、彼等も自由に鳴く事がある。彼等は自由に夢をみるか?少なくとも鸚鵡ではない僕は自由な夢をみる、自分ですらその自由さ加減に恐縮する。僕の唯一のペットである鸚鵡は毎日同じ言葉を並べ立てる、僕の鸚鵡は気性が激しく気分屋だ、餌も小屋の掃除も、こっちの方が振り回される、まるで人間関係の気まずさを僕に教えを説くようだ。僕はときたま部屋に放すが、トリカゴは狭いし、見る夢は限られるだろうか?それなら彼は修行僧で、彼はずっとそこで修行をしていたのかもしれない。彼が言葉を真似する理由はなんだろう、種としての理念があるのか、彼等のそのマネは一芸だが、意味も知らない言葉をならべては、時に彼等はつたない言葉使いで何事かを発し、知ったかぶりをしてる風で、生意気に見えて人の感情を損ねることがある。ただ人が解釈したいように解釈をして、彼等が知的だという人もいる、けれど僕は一飼い主でそんなふりはしない、彼等は彼等、僕らは僕ら。僕は僕。

 鸚鵡は僕が起きると、自分からいつもおはようをいう、それは僕が幼いころからそうして話しかけたからだ、幼い、物心つくかつかないころに祖父の知り合いのある鳥売りのおじいさまから鸚鵡をもらった、鸚鵡はとてもめずらしい外国の生き物だった、そのころの記憶といえば、彼等鳥類についているくちばしやその形がとてもめずらしく、材質や、その役割について、もし自分についていたら、なんて考えたりした。彼等の眼はどこをむいているだろう、人間とちがって光の照り返しくらいでしか彼等の目線を探ることもできない。

 けれど一番考えていたことは、彼等に子供ができるのかについてだ、僕は番いで鸚鵡をもらったわけでもない。彼等は子供をつくることができるだろうか、たとえばそれが人間ならどうだ、同じ言葉を繰り返し、同じことを想ったり、あるいは人の言葉を都合のいいように解釈する鸚鵡は、どうやっていきるべきで、彼等自身は本当はどうやって生きることを望んだか、修行僧になりたかったか。彼等の子供もそうなるか、ならば彼等の子供も似たような夢と自由を手にするだけか、僕はどうだろう、僕は鸚鵡か、それはかなり息苦しいだろう、トリカゴの中にいるのもきまっている、トリカゴを選ぶこともできない、彼等は野良の鸚鵡ではないからか、だけどそれらすべては幼少の頃から、母が近所の人と話し込んでいたり、電話で長話をしていたり、そういうひまだったり、近頃学校の授業中に僕の見る空想だった、単なる妄想だった。

鸚鵡の夢

鸚鵡の夢

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-10

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