冬枯れのヴォカリーズ前半

Rika.F

冬枯れのヴォカリーズ前半


  小説 「冬枯れのヴォカリーズ」 Vol.1      (全vol.32)


 つんとした青空に黄色の葉が映える、私が一年中で最も好きな季節がやってきた。
 教室の窓から見えるその欅の大木に、よく見ると、先程から三羽のシジュウカラが枝に止まって、くちばしをつつき合っている。

「一羽はヒナかな?今の季節にしては珍しいな…」

 などと、ぼんやり思いながら黒板に目を移すと、教科書は既に二ページ進んでおり、慌ててシャープペンを走らせる。

「P141 7.2.1 シュレディンガー方程式の不変性…」

 正直言うと、量子力学2の授業は、もはや私の頭では考えられない、それこそ雲をつかむような内容になっていた。

 今に始まったことではない。大学一年の頃は、まだ高校の延長のようで、力学にしろ、物理学概論にしろ、微・積分にしろ、なんとかくいついていくことができた。いや、物理学概論ではA+までもらったし、自分は数学・物理の分野で一角の人間になれるんじゃないか、など大それた考えもしたものだった。

 それが二年になると電磁気学でつまずき、今、三年の後期となって、この量子力学2の授業は、退屈以外の何ものでもなくなっていた。
  しかし、こうして、内容は分からずとも、とりあえず出席して、窓の景色を眺めている、こんな時間が実は嫌いでもなかったりする。
                            

  「理美、お昼どうする?」

 授業が終わり、ザワついた廊下で奈歩が聞いてきた。

「うん、三限空きだから坂下って食べてくるわ。奈歩も行く?」

「もち!」

 高木奈歩とは大学一年からの大親友で、時間割もほとんど一緒なのでこういうことができる。それに対して緑…永井緑は、数学を専攻したので、三年になってめっきり時間が合わなくなってしまっていた。

 私の大学は東京の文京区、目白台という所に建っている。私のいる理学部は、数学・物理系と化学・生物系、二つの学科があり、私たち三人はいずれも前者だ。 

 この周辺には学校が多い。坂を下ると早稲田大学があり、奈歩と緑と私は、インカレの『ベジェッサ西早稲田』というフットサルのサークルに、一年の時から所属している。

 だから、松崎大志のことも、奈歩と緑は、私たちが付き合い始めた頃からよく知っている。

 松崎とは、一年の四月に新歓コンパで知り合って以来、その夏ぐらいからは、もうサークル公認の仲になっていた。同じ三年生だ。

 松崎は、東京のど真ん中で生まれ育ったのに、すれたところがひとつもなかった。彼ほどにピュアな人間を、私は今まで見たことがない。自宅は白金台にある。南仏を思わせる白い壁とオレンジ色の屋根のマンションで、黒ねこがいる。名前は「ルル」という。

 松崎のお父さんは、山梨のぶどう農家の長男だそうだ。東大出で、なんでも半導体技術の開発で成功したということだ。
 お母さんは、浜松出身で、お父さんがヤマハの重役だったらしい。自宅で、ピアノの先生をしている。リビングに置いてあるグランドピアノは、結婚する時に親に買ってもらった、いわば嫁入り道具だ。

「ルルはいつもはりきって、近所をパトロールしているんだ」

 そんなことを松崎は、目をきらきらさせて、私に話す。 


 私は、自分の大学から坂を下りて早稲田大学へ行く、そのほんの十分ぐらいのコースがとても好きだ。学校を『束縛』と例えるならば、ベジェッサ西早稲田は『解放』だ。

 奈歩との他愛もない会話も、この爽やかな秋空の下では、最高に気分がいい。

 坂の上から見えるマンションの中庭には、遅咲きのコスモスが一斉に咲き誇り、松の木には、大きな松ぽっくりがなっている。ほんとにここは東京の中心地だろうか、と疑いたくなる、そんな景色だ。

 坂を下りてすぐのところにドラックストアがあり、奈歩と私はよくそこでドリンクを買う。今日も立ち寄って、奈歩はお茶、私はスポーツドリンクを買い、店を出る。

 二分程歩くと、神田川にさしかかる。神田川沿いの桜の木も、一様に紅葉していて、早くもその葉を落とし始めているが、歩道にも道路にも落葉がほとんど見当たらない。きっと、この辺に住む人たちが、早朝に竹ぼうきで落葉整理をしているに違いない。

 ラウンジに着くと、池上雄一郎と小川修平が、私たちを迎えた。

「待ってました!」 

 と、おどけた調子で修平が手を振る。

 修平は、中肉中背で、目は細いが愛嬌があり、髪型は坊主を少し長くした感じで、毛先を立たせているのがトレードマークだ。カラオケ屋でバイトしていて、彼のスマイルでお客さんも増えたとか。
 池上くんは、髪の毛は真っ黒で、耳が隠れるぐらいの長さで、目つきが鋭い。背丈も180近くあり、神楽坂でバーテンダーをしていて、学費も自分で稼いでいるしっかり者だ。

 口に出してこそ言わないが、奈歩は、このサークルでは指折りのマドンナだと思う。男なら、誰しも夢中にならずにはいられない、そんなオーラが奈歩にはあるのだ。身長は152センチしかなく、ぱっちりした二重まぶたで、色白で華奢な体つきだ。相手を自分の領域に踏み込ませない、そこんところに男は病みつきになるらしい。修平は可哀想に、すでに一年の時、振られていた。

 私は奈歩とは対照的で、身長は164センチあり、目は一重で、肌はけして白くはなく、太ってはいないと思うが、痩せているわけでもない。

 松崎はいなかった。少しホッとした。三年になってから彼は、専門の液晶ディスプレーの研究に日夜明け暮れていて、会えるのは多くても週一くらいになっていた。


「なあ、今日は天気いいから大隈庭園で食わねぇ?」

 と修平が提案したので、皆それに乗って、近くのコンビニでサンドウィッチやおにぎりを買って、庭へ向かった。

 大隈庭園は、今日も大繁盛だった。無料で入れる割に、上品に手入れのされているこの庭は、早大生はもちろんのこと、近隣の主婦やシニア層などにも人気がある。

 私たちは庭の中央付近に陣取った。芝生は、もう黄はだ色になっているが…。
 隣には主婦が二人、いずれも一歳か二歳ぐらいの子どもを連れて、立派なお弁当を広げて談笑している。
 前方には、つば付き帽子をかぶったおじいさんがいて、子犬を…あれはマルチーズだろうか…愛おしそうになでている。


「今日さ、オレ大失敗したんだよね。昨日夜遅くまで飲んでてさぁ、二限出席重視なのに遅刻してさぁ、ちょうどオレが教室入った時にオレの次のやつの名前呼ばれてて。なんかついてねえよぉ~」

 修平はいつもこんな調子だ。

「昨日の時点で誰かに代返頼むべきだったね」

 奈歩の意見はもっともだ。

 それからしばらくの間、皆秋晴れの空の下、自分の買ったものをほうばった。

 ふと、池上雄一郎が顔をあげた。

「そういや、永井は元気か?」

「それがねぇ、目白祭終わってからデンマにも来なくなっちゃって。ほら、彼女数学専攻だから授業でも会わなくなっちゃったし…」

 目白祭とは私たちの大学の文化祭の呼び名だ。
 デンマとは、奈歩と緑と私が所属しているデンマーク体操のこと。バレエや新体操やジャズダンスの基礎となったもので、NHKラジオ体操も、実はデンマーク体操が基となっている。

「でも、メールぐらいしてんだろう?」

「出してもさ、返事来ないんだよね…」

 と言って、私はため息をついた。

 「それはやばくないか?いつぐらいからだ?」

 いつもは平静を保っている池上が、珍しく目を見開いている。

「もう一週間経つかなぁ…」

 私たちの間では、ケイタイメールに一週間返事が来ないというのは、相手がかなり忙しいか、単に忘れているか、それでなければのっぴきならない事情があるか、のどれかだ。

「今日、夜電話してみるよ」

 私は、目白祭の発表会の為に、毎日のように練習していた八月、九月頃の緑を思い出していた。その時は忙しかったこともあって、あまり気にはしていなかったけれど、そう言えば緑は八月に彼氏に振られていた。
 それ以来、元気がなかったのは確かだ。緑に限って、メールの返事を忘れるということはまずあり得ないのだ。

 緑の彼氏というのは、緑が大人っぽいせいもあってか、15歳も年上の工藤勇哉と言うやつだった。

 工藤勇哉と緑との出会いの場には、私と奈歩も居合わせていた。

 一年の春休み、三人でフィリピンのセブ島に旅行へ行った時、旅先で知り合ったのだ。
 
 日本でなら、単なるナンパだったのだろうが、ビーチにいた時、ジェットスキーに誘われたのだ。南国の解放感も手伝って、私たちはすんなりと仲良くなった。
 夜もホテルのバーベキューに入れてもらったり、ショーパブなんかにも連れていってもらったりした。
 今にして思えば工藤は、始めから緑ねらいだったのだろう。それなのに最終日、私たち三人全員に、ティファニーのネックレスを買ってくれたのだ。


 急に風が吹き出した。主婦の一人が帽子を飛ばされている。
  私たちは急いで庭を後にして、ラウンジに戻った。  





    ⁑

  その日の夕方、私は東中野のファミレスにいた。

東中野は、私が福島から東京に出てきて初めて一人暮らしを始めた町だ。ここには五歳年上の姉がはじめに借りて住んでいたが、姉が就職で埼玉に引っ越しが決まったのと、私がこちらの大学に受かったのがちょうど同じ時期だった為、そのまま私が更新を続けて住んでいる。姉の美香は、ストレートで教員採用試験に合格し、晴れて家庭科の教師となって、今年で三年目だ。

 東中野は新宿に二駅と便利なわりに、近所には、昔ながらの豆腐屋さんやお肉屋さん、それに銭湯やお寺がいくつかあり、駅から続くギンザ商店街には、大きいスーパーからいつも負けてくれる八百屋さん、電気屋さん文具屋さんお茶屋さんまで、何でも揃っているので結構気に入っている。

 私は先程からドリンクバーだけを注文して、週明けに提出予定の応用物理学実験のレポートと、関数電卓をたたきながら格闘していた。

 このファミレスは山手通りと早稲田通りの交差点の一角にあり、すぐそばには地下鉄東西線の落合駅もある。日中は洋楽ポップ、夜はジャズが流れるのが好きで、よく利用しているのだ。

 店内は、夕食にはまだ少し早い時間だからか、空席がまばらにあって、しばらくは店員の目を気にせずレポートに打ち込めそうだ。

 今回の三週間に渡って行われた実験テーマは「ホログラフィー」だった。真っ暗い部屋で、レーザー光を物体に当て、その回折と干渉の性質を利用して虚像を浮かび上がらす、といった内容だ。

 私は懐かしく思い出していた。一年の夏休みに松崎とディズニーランドに行ったとき、「ホーンテッドマンション」を見終わった後、松崎が私に熱心に説明してくれたことを…。

「これはホログラフィーとは違うかな、ハーフミラーのトリックだね。ホログラフィーってのがあってね、それは、こんな風に虚像を浮かび上がらせる技術なんだけど、仕組みは全然違ってね。周波数や波長が微妙に異なる二つの光を同時に入射して、その干渉縞を記録してね、それにまたレーザー光を当てて、干渉縞による回折光を観察するんだ。そうすると、干渉縞には物体光の強度と位相の両方が記録されるから、立体になって見えるんだ。宇宙ってね、明在系と暗在系の二つからなる『二重構造』にあるんだよ」 

 話しの内容はさっぱり分からなかった。ただ分かったことは、松崎は純粋に物理を愛しているということだった。

 ドリンクバーを取りに席を立った。引き出しから新しい温かいカップをとる。さすがに十月末ともなると冷たい飲み物には手が出ない。

 このファミレスは、聞くところによると、もともとはコーヒーショップから始まったということで、コーヒーにはこだわりがあるらしく、確かに香りも良く味わいがある。

 さっきから煎茶ばかりだったので、今度はカフェラテにしようと思い、並ぶ。

すると、前の人…大学生らしい…が何やら悪戦苦闘している。どうやらボタンを押しても出てこないらしい。
五回ぐらい押しても出てこなくて、その人はちらっと私の方を気にして、 

「なんか、出てこないんですよね…」

 と苦笑する。 

 私はハッとした。その人の横顔は、私が高校時代三年間片思いだった須藤にそっくりだったのだ。
白いシャツのボタンを上二つ外し、茶色の細身のズボンを履いている。首には女性的な細い銀のアクセサリーをつけている。

「すみません、カフェラテが出てこないんですが…」 

 その人は通りがかったウエイトレス呼び止める。

 ウエイトレスはしばらく機械を確かめた後、

「これで大丈夫だと思います」

 と言い、ボタンを押すと、勢いよくカフェラテが出てきた。

 私はウエイトレスが作業をしている間、ずっとその人の横顔から目が放せなかった。もしかして須藤本人かもしれないと、くるっとふりむいたところを正面からぬすみ見ると、やはり須藤ではなかった。それどころか、切れ長の二重まぶたの目、整った鼻と口、身長は175センチぐらいだろうか、須藤より二枚目だ。私は席へ戻るその人の後ろ姿を思わず目で追っていた。スラッとした長い足、小さいお尻、なんとも優雅な歩き方だ。

 私は無意識に煎茶のティーパックを破り、そこへカフェラテを注いでしまった。慌てて煎茶を取り出し捨てる。

 席へ戻り、しばらくぼうっと辺りを見渡した。すると、右斜め前方にさっきの彼が…。ほおづえをつき、片手にもった本に目を走らせている。表紙には「ランボー詩集」と書いてある。その表情は、涼し気で、まるで周りの空気がミント色に染まって見えるようだった。明らかにファミレスにはふさわしくない、まるで静寂な湖のほとりにいる少年のような表情であった。

  私は、少し距離があることをいいことにして、しばらくの間その人を観察した。レポートはうわの空だった。カフェラテを飲むしぐさも、これ以上ないほど優雅だ。その人の飲むカフェラテだけ、本当に、イタリア仕込みなんじゃないかとさえ思えた。


 20分程経っただろうか、その人は腕時計をちらっと見て、おもむろに本を閉じ、黒いショルダーバッグにそれをしまい、席を立った。

 私は、私は…後を追いたい衝動にかられた。本当に、もし机の上がこんなにいっぱいじゃなかったら、そうしたかもしれなかった。でも当然のことながら、席を立つ勇気はでなかった。

 窓の外に視線を移す。会計を済ませたその人が、交差点で信号待ちをしている。私は、その人が視界から消えるまで、ずっと、ずっと、見つめていた。


 家に着いたらちょうど七時のニュースが始まったところだった。あれから結局レポートは手につかず、すぐ帰ってきてしまったのだ。

「今日、午後1時43分頃関東地方で強い地震がありました。そのため交通機関に大幅な乱れが生じました。現在も一部の路線で運転を見合わせています……」

 大隈庭園を出てラウンジへ向かう途中、グラッと揺れたように感じたのは気のせいではなかったのだ。

(山手線も総武線も動いてたけどなぁ…)

 さっき、近所で帰り道に買った豆腐と豚肉で、手早く炒め物をして、冷凍していたご飯をチンして、ニュースを見ながら夕食を食べる。

 ニュースをぼんやりと眺めながら、頭の中はカフェラテの彼でいっぱいだった。それと同時に、須藤を好きになった時の、言いようもない切なさが甦ってきた。

 高校のアルバムを取り出す。何回も開いて跡がついた三年F組のページ。須藤とは一年だけ一緒で、あとは別のクラスになってしまった。こちらを正面から見て微笑んでいるその大好きだった人に、あんなに似た人がいるなんて…。

 皿を流しに置いて、お茶も淹れずに私は、高校一年の時須藤から薦められて買った、ミスチルの『花』を久しぶりに出して、ロフトに持っていって聴いた。

 音量を大きくして布団をかぶって電気を消して、聴いた。涙が出てきた。心の隅っこに確かに封印したはずの、あの感情…。

 何回もリピートして聴いているうちに、心も体も高校一年の教室にワープしていた。



 どれくらい眠っただろう。気がつくと、11時を回っていた。藤の湯は0時半までだ。私は週に1~2回、近所にある銭湯藤の湯を利用している。と言っても銭湯に通い出したのはごくごく最近、今年の九月ぐらいからだ。

 松崎とのデートが減って、無意識に自分の楽しみを探していたからかもしれない。銭湯に行けば、少なくとも寂しさは紛れるから…。

 藤の湯は最近リニューアルして、浴室はもちろん、脱衣所やお手洗いもきれいになって、待合室にも大画面のTVが入った。今日は、大きなお風呂につかって、色々なことをゆっくり考えたい気分だった。

 L.L.Beanの濃紺のフリースを着込み黒いマフラーをして、いつもの銭湯セットを持って家を出る。

 アパートの端に植えられている金木犀は、いつのまにか花が散ってしまった。 

 私のアパートから藤の湯までは、ものの2~3分だ。ゆるやかな坂を上りきったT字路の奥がお寺、左角がコンビニ、右角が藤の湯になっている。歯磨き粉をきらしていたのを思い出し、まずコンビニに寄った。週刊誌も読みかじる。

 ここは、家族経営で、いつも受付には40代過ぎの、おせじにもダンディとは言えないが見るからに人のよさそうなおじさんが座っている。

 私がささやかながら気を遣っていることがある。それは、おつりの出ないように、必ず400円玉4枚を用意して行くことである。何故そんなことにこだわるかは、たぶん田舎の母の影響かもしれない。

 福島に帰省すると決まって行く温泉がある。そこでは、両親はもうお得意さんになっていて、通常500円のところをいつも400円で入れてもらっている。

「だからおつりをもらったら申し訳ないでしょう」

 と言って、母は必ず小さなお金を用意して行くのだ。

 藤の湯では、安くしてもらう訳ではないが、その母の習慣を私もまねているのだ。

 夜も11時を回ると、さすがに学生の時間帯になる。

 私は、自分と同年代の女の子が、どういう普段着を着て、どういう下着を身に付け、どういうシャンプー、洗顔フォーム、化粧水を使っているのか、といった事が、ここに来ると良く分かって、とても安心するのだ。それから、同年代の子の裸を見るのが、知らない人だからか、好きだった。プロポーションのいい子は、密かにチェックしたりしている。そういう子の使っているボディーソープをまねして購入したこともある。

 浴室には全部で四人いた。いずれも私ぐらいの歳の子だ。

『本日の湯』のコーナーは、今日は『コーヒー風呂』だった。

 髪を洗い、化粧を落とし、体を洗い、浴槽につかった。ゆっくりと目を閉じ、泡のボコボコという音に身を委ねる。

 夕方の出来事が脳裏に浮かんだ。あの人もやはりこの辺りに住んでいるんだろうか。大学何年生かな。ランボーの詩集読んでたから文学部かな……。

 それにしても明日は土曜日だというのに松崎からは何の連絡もない。彼とは、親も公認の仲だし、いずれは結婚も…とぼんやり考え始まっていたけれど、研究に没頭する彼を、手放しで応援もできず、末っ子根性かもしれないが、もっと構ってもらいたくて寂しかった。

 1・2年の頃はよく大学の周辺でも、空き時間などに暇さえあれば、ちっちゃなデートをしていた。公園とか、川沿いとか…どうってことのない小道を、二人でただ歩くだけで、とても楽しく感じられたものだった。それが今では…。

 たぶん、恋愛に対する温度差が違うのかも知れない。


 ずいぶん長い間入っていたのだろう。気がつくと、他の四人の姿はなく、大きな浴室に私だけになっていた。時計を見ると0時を回っている。

「まだ大丈夫じゃん」

 入場は0時半までだが、閉まるのは1時だ。

 誰もいないことを分かって、少しかえる泳ぎをしたり、ラッコみたいにくるくる体を回してみたりした。とは言っても、手や足の指もふやけてきたので、上がることにした。

 脱衣所にはまだ一人いて、その子は初めて見る顔だったが、キュートな人だった。濃紺に銀の縁取りのしてあるブラジャーをして、腰から下にはイヴ・サン・ローランの大きなロゴのバスタオルを捲いて、ドライヤーで髪を乾かしていた。髪には軽くウェーブがかかっている。

 私はその子を横目で見ながら、さっと服を着て、髪はタオルドライだけにして一つに束ねて、その子より先に脱衣所を出た。

 待合室の大画面には、今日のプロ野球のハイライトが映し出されていた。

 人は2~3人いた。いずれも学生風の男の子だ。

 私は横に揃えて置いてある新聞を取り、第一面に目を通す。 

 90円で瓶のコーヒー牛乳を買って飲む。

 新聞を返しに席を立った、その時だ。前に座っている男の子に目が止まった。そうだ、間違いない、夕方の彼だ。

「あれ?さっきファミレスで、あのカフェラテの…」

 私はとっさに話しかけた。あの人だった。

「ああ、先程はどうも」 

 彼は真っ白い歯をみせて、恥ずかしそうに笑った。

 よりによってこんなところで再会するなんて…。こんなことならもっと入念にドライヤーして、まゆぐらい描いてくればよかった。さっきの子のように…。

「この辺りに住んでるんですか?」

 私は会話をとぎれさせたくなくて質問した。

「ええ、コンビニの裏手です。今日、地震ありましたよね」

 言葉には、少し訛りがあるようだったが、その声はきわめて爽やかで、上品な響きだった。

「あ、そうそう、千葉県沖が震源だったらしいですよ」

 私は七時のニュースを反復して言った。
 コンビニの裏手ということはすごく近所ということになる。

 私はまたも質問した。

「あの…学生さんですよね?」

「はい、早稲田の一年です。失礼ですが…」

「ああ、私は、近くの女子大の三年です。早稲田のサークル入ってるから早稲田にはよく行きますよ。今日もお昼いました」

「何て言うサークルですか?」

「ベジェッサ西早稲田っていうフットサルのサークルなんだけど…」

「あれっ、そしたら小林早苗さん知ってますか?」

「え?知り合いなの?もちろん知ってるわよ」 

 小林早苗。池上雄一郎の彼女で、大柄で関西弁の、頭がキレる豪傑だ。基本的には同じマネージャーで仲はいいが、有名進学塾で講師のバイトをしたり、マスコミ系サークル活動に勤しんだりと、彼女の行動エリアは広く、とても同じ三年生と思えない、別世界の人間という印象がある。彼女の前だと、どうしても卑屈になってしまうのだ。

「それならあなたは早苗と記者クラブで一緒なんですね」 

 早苗は、一年の時から「記者クラブ」というサークルをかけもちしていた。

 ショックだった。早苗は、この美少年と四月から知り合いだったとは……。

「お名前教えてもらってもいいですか?」

 私は丁寧にお願いした。

「高村優っていいます」

 私も自己紹介しようとした、その時、先程脱衣所で一緒だった子が、高村くんの方へ向かってきた。

「ごめん、遅くなって」

 浜崎あゆみみたいな、ハスキーな声だった。

 え?知り合い?

  「…」 

 高村くんは下を向いて、また恥ずかしそうに笑った。

「それじゃあ、おやすみなさい」

 はぎれのいい声で、高村くんが礼儀正しくお辞儀をした。私もぺこんと頭を下げ、

「おやすみなさい」

 と言った。それがやっとだった。

 後ろでハスキーボイスの彼女が、私が知り合いかを詰問している声が小さく聞こえた。


 あの子は、高村優くんの彼女さんに違いない。

 残っていたコーヒー牛乳を、水道にジャっと流して、ため息をつきながら、ゆっくりとかがんで瓶を置く。

 よりによってあんな美人さんが彼女だなんて。絵に描いたようなスーパーカップルじゃないか。
 
 私はバッグから木の鍵を取り出し、夏にバーゲンで買った派手なサンダルを履いて、ズルズルと歩き出した。

 ぬれ髪が風にあたって、すごく寒かった。



         **


 次の日は冴えない土曜日だった。

 誰からの遊びの誘いもなく、ブランチの後、昼間からジュリア・フォーダムの『哀しみの色彩』をかけながら、趣味のビーズをやっていた。今は、12月10日が誕生日の緑の為に、とびっきり難しいネックレスに挑戦していた。

「そうだ、緑に電話するんだった」

 ケイタイは八回呼び出し音が鳴った後、留守電に切り変わった。
 その後、緑の目白のアパートにかけたが、こちらも留守電だった。

  緑は島根から上京し、二年までは大学の寮にいたが、今は目白のアパートで一人暮らしをしている。
 まさか、と私は思った。まさか、島根にいるのでは……。そう思い、普段はあまり開かないクラスの名簿を取り出し、緑の実家の番号を調べる。午後二時だ。自宅にかけるには悪くない時間帯だろう。緑の実家にかけるなんて初めてだな、と思いながら、CDのボリュームをおとし受話器を手に取った。

「はい、永井でございます」  お母さんが出た。

 私はちょっと緊張してとりあえず名乗る。

「あの、私、緑さんの大学のクラスメートの夏木と申します。あの、緑さんは…」

「ああ、夏木理美さんね。いつも緑がお世話になっております。緑は、今、ちょっと体調を崩して戻ってきてるんです。ご心配おかけして申し訳ございませんねぇ」

「…そうですか。少しかわっていただけませんか?」 

「それがね、実は入院していまして…。お電話あったこと伝えておきますね。本当にどうもありがとうございます」

「わかりました。緑さんによろしくお伝え下さい」

 緑…。電話を切った後、色々な思いが頭をよぎった。三年後期のテストは、学部学科を問わず盛り沢山だ。一月のテストまでに、なんとか元気になって戻ってきてくれるだろうか。

 奈歩にメールを打った。デート中なのか返事はすぐには来なかった。

 私はその日、ネックレス作りもほどほどに、ロフトで音楽もかけずにボーっと横になって過ごした。


 気がつくと七時を回っていた。どうりでお腹が空いたわけだ。
 外は寒そうだったが、土曜日に一人分の夕食を作る気がしなかったので、ギンザ通りのドトールに行くことにした。
 ちょうど母に葉書も書こうと思っていたので、絵葉書とペンケースをバッグに入れて、普段着にメガネのまま、フリースを着込み、家を出た。

 豆腐屋のおばちゃんが、近所の人と立ち話をしていた。みすぼらしい格好で出てきて、まずった、と思ったが、笑顔を作り軽く挨拶をする。

 日はとっくに落ちて、どこからともなくカレーのいい匂いがしてくる。

 早稲田通りに出て、2~3分高田馬場方面に歩いて行くと、ギンザ商店街はある。東中野駅まで150mくらい続く商店街だ。ドトールは、その真ん中よりも駅側にある。

 店内に入り、まず二階の窓側の一人用の席を確保する。そしてまた下に降り、ジャーマンドッグとブレンドコーヒーを注文し、ジャーマンドッグの出来上がるのを待つ間、ちょっと店内を見回した。

 学生風の男の子、若いカップル、60を過ぎていそうな新聞を読んでいるおじさん、土曜なのに紺のスーツを着ている20代後半の女性…。私以外は、土曜のディナータイムということを気にしている人は、誰もいないようだ。

 急な狭い螺旋階段を、用心して上り、席に着き、フリースは着たまま、まずコーヒーに砂糖を入れかき混ぜ、そこにミルクを落とし、一口飲む。


 窓の下の八百屋さんをぼんやり眺めた。
 近くに大きなスーパーがあるとは言え、その八百屋さんにはひっきりなしにお客さんが入っていて、品物とお金の交換が忙しく行われている。お金を天井から吊るしたざるの中に入れているのは、結構合理的だ。

 ケイタイをいじる。松崎に、何度もメールしそうになった。

(今日は何してた?)
(研究忙しいのは分かるけど、土曜ぐらい連絡くれたっていいんじゃない?)
(明日どこか行かない?) 

 色々な言葉が頭に浮かんだし、実際文面にしてみたりもした。でも、結局出さなかった。返事が来なかったらどうしよう、と思うと出せなかったのだ。迷惑女にだけはなりたくなかった。こういう時は、相手の立場にならないと。ひょっとして土曜日も研究室行っているのかもしれない。

 とにかく松崎にメールを送るのは諦めて、立ち上がり、フリースを脱いだ。

 活気のある八百屋さんを眺めながら、ジャーマンドッグを食べる。声は聞こえないけれど、きっと威勢のよいかけ声や挨拶を交わしているんだろう。お客さんも店の人も笑顔だ。ちょっとだけ元気をもらったような気がした。

 食べ終わると、コーヒーをまた一口飲み、母に葉書を書いた。



 拝啓  

  萩も咲き終わって、そろそろ庭の木も色付いて来た頃でしょうか。
 その後お変わりありませんか?食事療法やマッサージもちゃんと続けていますか?
 私の方は相変わらずで、授業も難しいですが、なんとか頑張っています。
 先日はデンマーク体操の発表会に来て頂きありがとうございました。頑張って練習していたのでとても嬉しかったです。あれからお姉ちゃんの所には寄ったのですか?
 前から話していた通り、今度の連休に友達を連れて福島に行きます。よろしくお願いします。
 それではまた。お体くれぐれも大切に。 
                           かしこ      理美 


   私の母は乳ガンを患って丸五年になる。忘れもしない、私が高校一年生の秋に、検査で右のおっぱいに小さなガンが見つかり手術をしたのだった。
 母は、運良く早期に発見されたので、乳房は残し、ガンとその周囲だけを取り除く、いわゆる温存手術というのをしたので、おっぱいは今も健在だ。
 その後、二年ぐらいホルモンの注射とかを受けに定期的に病院へ行っていた他は、仕事にも復帰したし、まだ一度も再発はしていない。
 けれどもガンにかかってから、食事は玄米中心に変え、動物性のタンパク質を極力とらないようにしているし、最近は健康茶などを意識的に飲んでいる、とこの間の葉書には書いてあった。

 母は、福島市にある設計デザイン事務所に勤めている。インテリアコーディネーターだ。ショートカットでシックな色の服を好んで着るので、女優の樋口可南子に雰囲気が似ているし、今脚光を浴びているかっこいい職業をしているお母さんはパイオニアだなぁ、と誇りに思っている。

 おっぱいを全部切らなくて良かった、と母は振り返る。全部取ってしまうと、取ってしまった側の腕がむくんでしまったり、力が入らなくなったりするのだという。

 母は昔から、穏やかだけれども辛抱強い、というところがあって、それは言い換えるならば、真の女の強さみたいなのを持っている人だな、と子どもながらに感じていた。物腰が柔らかく、どっしりしているのだ。母は、兄や姉にはどうかわからないが、少なくとも私には、とても寛容だった。基本的にやりたいことをやりたいようにさせてくれた。
 もしかしたら母は、兄や姉の子育てに一段落して、母親として成長したのかもしれない。私はすぐ上の姉と五才も離れているから。今の私なら、遠くからそんな分析もできるようになった。

 平日は多忙だけれど、週末になると、よく一緒にお菓子を作ったり、天気が良ければ、家族でドライブに出掛けたりした。
 父も母も農家出身だからか、自然が大好きだ。母は本や新聞も大好きだ。

 仕事に行く時はおしゃれをほとんどしない。おそらくインテリアを扱っているから、自分自身は極力シンプルにしていよう、というポリシーがあるのだろう。ちょっと明るめの服を着るのは、私たちの入学式や卒業式、それと年に1~2回お友達と温泉にお泊まりの時くらいだ。

 両親は演劇が好きで、演劇鑑賞会なるものに入っている。熟年カップルになっても、そうやって二か月に一度夜二人で出かけ、食事などをする両親は、とてもオシャレだなと思う。それから母は、とても筆まめだ。私も負けないくらい筆まめなので、こうやってよく葉書の交換をしているのだ。


 兄の厚太はロンドンでロックミュージシャンをしている。昔から独自のワールドを持った人で、中学ぐらいからエレキギターを四六時中かき鳴らしていた。そんな兄を見て育ったからか、すぐ下の姉は模範的な人間に成長した。私は小さい頃、てっきり姉の方が年上だと思っていたほどだ。姉は地元の中学ではもちろんのこと、高校でも常にトップだった。マンガやTVを観ている姿はほとんど記憶にない。


 メールが立て続けに二通来た。受信箱を開けると、奈歩と姉からだった。
 奈歩は、緑のことの返事、姉は明日新宿に出るから少し会わないか、ということだったので、明日も何も用事がなかったから、姉と会う約束をした。

 明日の予定が入ったので急に嬉しくなって、まだ閉店までは時間があったが、いそいそと片付けてアパートに戻っ
 


      **    
 

   日曜日の新宿というのが、私は好きだ。

 サラリーマンも、OLも、学生も、みんなその日は自分の身分を解放して、ただの男や女になって買い物をし、遊ぶ。そんな雰囲気が、街全体にあふれているからだ。

 そして姉も、今日は一人の女になってやってきた。普段仕事の時はいつも一つに束ねているという髪の毛をおろし、学校には絶対に履いて行けないジーンズを履き、結構明るめの口紅をしている。

 サザンテラスにあるアフタヌーンティーに行った。

 二時過ぎだったが、店内はとても混んでいて、待ち合いの椅子にしばらく座って、20分ぐらいしてようやく通された。

 姉の美香は、埼玉の川越で、長澤さんという人と同棲している。長澤さんは今日、大学時代の友人とサッカーの試合を観に神宮に行ったのだそうだ。来るとき一緒で、試合が終わるまで新宿で過ごすことにしたとのこと。試合は14時キックオフ。

 一番奥の窓側の席に通され、思わず二人ニッコリ顔を見合わせる。

 メニューを見ると、前から知ってはいたがやはり値段は高めで、迷っていると、姉が、

「理美、今日はおごりだから。好きなの頼んでいいわよ」

 と言ってくれたので、遠慮なくケーキセットを頼むことにする。

 店内は圧倒的に女の人が多かった。すぐ右隣には、私ぐらいの大学生風の女の子二人組がいて、ランチからずっと長居しているらしく、テーブルにはパスタが少し残った大皿があり、小声で話し込んでいる。
 大きな高島屋の紙袋を隣に置いて、話に花を咲かせている左隣の四人は、成城学園あたりに住んでいるに違いないマダムたちだ。

 姉と私は、一通り近況報告をし合い、それから実家の話になった。

「お母さん、今は元気だけど、油断はできない状態だと思うの。いつ再発してもおかしくはないわ。再発したら万が一、ね…わからないでしょ。だからね、お姉ちゃん来年早々結婚式をしようと思ってるの。長澤とは学生時代からの長い付き合いだし、同棲して半年経つけれど、これと言って問題もないし、お姉ちゃんも今年で26だしね。お互い仕事も落ち着いてきたし、長澤は栃木の人だけど、母のことを話したら、結婚式は福島で挙げようって言ってくれたの」

 姉の結婚の話を聞いて、羨ましくもあり、また少し淋しくもあった。松崎とのことは、結局話さずじまいだった。



   

       **


 

11月3日の文化の日は、今年は月曜日だったので、三連休になった。

  それで、前からこの連休には、サークルの皆で母の実家に泊まりに行くことにしていた。 

 母の実家は福島県伊達市霊山町、という所にある。祖父母は既に他界しており、この家は、七年前から空き家状態になっていた。それで、母の兄弟が交替で掃除をして、家を守っている。

 霊山では、父が野菜を作っている。今の季節だと、大根、牛蒡、人参、白菜、京菜、葱…などがあるとのことだったので、皆で鍋を囲もうと考えていた。

 メンバーは、池上、早苗、修平、奈歩、そして松崎と私の六人だ。

 車はレンタルにした。池上はお父さんが不在で、お母さんも車は運転しないし、修平のお父さんは小型の普通車だし、松崎のお父さんはトヨタのクラウン。

 レンタカーは七人乗りのにした。
 運転は男性陣が交代でしてくれることになった。私は今年の夏二か月実家に戻り、やっとの思いでマニュアル免許を取得していたが、できることなら運転はしたくなかった。


 前日の金曜日、松崎は私のアパートに泊まった。終電ギリギリまで研究をし、東西線に乗って、落合駅まで来てくれたのだ。久しぶりだ。

 普通は直接家に来てもらうのだが、今日はお気に入りの赤いPコートを着て、駅まで迎えに行った。目白祭のデンマーク体操の発表会を見に来てくれて以来だから、実に二週間ぶりだ。

 早稲田通りは七割かたタクシーだった。テールランプの赤い光がずっと先まで続いている。

 0時40分、松崎が現れた。いつもの着慣れたラルフ・ローレンの紺のダッフルコートに、グレーのマフラーをしている。髪は軽い天然パーマで、やわらかい髪質だ。染めたことは一度もない。染めなくてもいい自然な栗毛なのだ。まゆはわりとしっかりしたヘの字で、目はお人形さんのようにパッチリしている。表情は常に穏やか。松崎のことを私は『大ちゃん』と呼んでいる。


「大ちゃんお疲れさま。明日の朝食、トヨクニで買ってくね」

 私は松崎に付き合ってもらい、駅とアパートの間にある深夜までやっているスーパートヨクニでパンと牛乳とヨーグルトを買った。普段は一番安い食パンにするのだが、松崎に食べさせるから、ちょっと高めの美味しそうなのにした。

「理美ちゃん、最近会えなくてゴメンね」

 肩を並べて歩きながら、松崎が謝った。

「ううん、ほら、私だって夏ずっと免許取るのに実家帰ってたじゃん。でも、大ちゃん、待っててくれたもん」

 心とは裏腹なことを口走っていた。本当はこの二週間、松崎がいなくて寂しかったし、もともと、夏実家に戻ったのも、少し距離を置いてみよう、としてのことだったのだ。

 それからしばらく無言で歩く。

 今日久しぶりに松崎が来てくれるということで、いつになく早めに帰り、家じゅうをピカピカにしていた。玄関の派手なサンダルは靴箱にしまい、ロフトのベッドスペースには、ベッドメーキングした後ラベンダーの香りをスプレーした。近くの花屋で小ぶりのピンクのバラとかすみ草を買ってきて、テーブルに飾った。トイレもきれいにして、お気に入りのサボテンの位置を直し、トイレットペーパーの端を三角に折った。

 料理は、カボチャのポタージュスープと、トマトソースのスパゲッティと、スモークサーモンのカルパッチョにした。

 もしも、松崎も一人暮らしだったら、そして彼がおぼっちゃまでなければ、もう三年目でこんなに気を遣うことはないのかもしれなかったが、一年の時からお泊まりは多くて月一、松崎の実家に初めてお邪魔したのは二年の秋で、それ以来2~3か月に一回ほどお邪魔しているが、未だに泊めてもらったことはない。


「あっ、大ちゃん、ねこいるよ」

 早稲田通りを右にまがりアパートへ続く細道に入ると、猫が二匹いた。この辺りでよく見かける猫で、一匹は茶トラ、もう一匹は乳牛のような白に黒ぶちの模様だ。その二匹はまるで立ち話しているみたいに見えた。
 私たちに気付いても逃げる様子もない。

  「そうだ、ルルは元気にしてる?」 

 その猫を見ながら私は尋ねた。

「バリバリ元気だよ。最近寒くなったからよくオレの寝床に上ってくるんだ」

 松崎はルルの話になると、いつも目を輝かせる。 

 アパートに着いた。四月の誕生日に松崎からもらった、コーチの花の形をしたキーホルダーで、鍵を開ける。

 私は4月1日生まれだ。だから誕生日を聞かれるのは好きではない。理由は、ややこしいから。4月1日生まれっていうのが、学年の最初なのかそれとも最後なのかわかっていない人が多い。そもそもたった一日違いで一学年上になるなんていう制度自体おかしくないか?本人の希望で選べるべきだ。因に4月1日生まれは、その学年で一番最年少だ。


「先入って。私ブーツだから」

 松崎は、かがんで、履き慣れたこげ茶色の革靴のひもを、外す。私は韓国で買った黒い革のロングブーツを脱いで、手を洗い、早速パスタを茹でる鍋とポタージュスープに火を点ける。


 私の部屋は1LDKのロフト付きだ。天井が高い。キッチンから松崎の様子が見える。松崎は見慣れているはずの私の部屋をキョロキョロ眺めまわし、テーブルの花を見て、にっこりしている。

 松崎には、特に指図をしないことにしている。松崎が誰よりも束縛を好まない自然児だということを、付き合い三年目で充分知っているからだ。 

 松崎は、あまり話し好きではない。頭がいい人というのは、必要以上にあまり話さないものなのだろう。しかも松崎は、いたってトゲがなく、めったに怒ったりすることもない。

「パスタ茹でるまでちょっと待っててね」

 私が言うと、松崎は「うん」と言ってマフラーを外し、ダッフルコートを脱いで、自分でハンガーにかける。コートの下には、おじいちゃんからもらったという、お気に入りの、紺と茶の千鳥格子のシャツを着ていた。


 松崎はTVを付けてゆったりソファに凭れかかっている。 

 食事は美味しくてほめられた。松崎はいつも残さず食べてくれる。私がスパゲッティを少し残したら、

「理美ちゃん、残しちゃだめだよ」  と言った。

「どうして?自分の作ったものだもの、残したっていいじゃん」 

 私は大笑いした。松崎のそういう生真面目さもすごく好きだ。きっと、お母さんの教育が行き届いているんだろう。

「明日早いから、もう寝ようね」

 小学生の子どもに話しかけるように、松崎に言う。松崎は何も言わずにお風呂場に行く。 


「あっ、バスタオル置いておいたから」

 私は松崎が、まるで自分の家のように私のアパートを使ってくれるのが好きだ。



 ロフトに二人が落ち着いた時には、既に二時を回っていた。私はいつものように枕元のCDラジカセで、バッハの無伴奏シャコンヌをかける。明日の朝早いし松崎も疲れている様子だったので、手をつなぐだけにして、目を閉じた。

 それでも、ちょっとして、松崎の方にぴったりとくっついて、右手はにぎったまま、左手を松崎の心臓にあて、鼓動を確かめてみる。松崎の心臓は世界中の誰よりも正確なリズムだ。こうして、松崎のぬくもりを感じながら眠りに就くことは、どんな精神安定剤よりも効き目がある。私は握った手に力を込めた。

 翌朝は、西早稲田で池上くんがまず車を借り、早苗と修平を拾い、その後七時に、私のアパートの前まで来てくれることになっていた。池上くんは西早稲田が実家、早苗は兵庫の姫路出身で、西早稲田に一人暮らしをしている。宮前平が実家の修平は、前日に西早稲田の友達のアパートへ泊まっていた。



 私は、はりきって五時半に起きた。松崎を起こさないようにして、梯子を下り、朝食を作る。フライパンを熱して、オリーブオイルをさっと引き、ベーコンを敷いて卵を落とす。松崎は半熟が好きだ。

 6時10分に、松崎を起こして朝食を食べる。カーテンを開けると、快晴だった。いい日になりそうだ。

 朝食の後片付けを手早く済まし、いつもより少し丁寧に、お化粧をする。ベージュのVネックのニットに、ブルージーンズを履き、松崎からクリスマスにもらったハートのネックレスをつけた。6時50分にはスタンバイOKだった。

 七時十分頃、下で車の音がしたので、行ってみると池上くんたちだった。みんな上機嫌だ。

 私は、松崎と一緒に、後部座席に乗り込んだ。 「それじゃあ出発」

 助手席に乗った早苗がそう言って、オーディオを操作する。修平オリジナルセレクトのJポップが流れ出した。この日の為にパソコンで編集したようだ。最初の曲はゆずの『いつか』だった。

 車は奈歩の住む羽生へ向かって、山手通りを北上する。奈歩とは八時半に羽生インターで待ち合わせだ。そこから高速に入ることにしていた。

 連休の初日だからか、さすがに道は混んでいたが、渋滞するほどではなく、順調に流れている。

 本当に清々しい日だった。空には一点の雲もなく、どこまでも突き抜ける青さだ。

 途中、コンビニに寄り、飲み物とガムとお菓子を買った。松崎はKOOLで一服している。


 風景は次第に郊外っぽくなっていく。ドン・キホーテや安楽亭といったファミレス系が目につく。

 私は早苗に、高村優くんのことを聞きたかったのだけれど、松崎が隣にいるのでやめておいた。それに、しばらくの間は、早苗にも内緒にしておいた方がいいかもしれない。
 

 羽生インターに着いた。奈歩はここまでお母さんに送ってもらったそうで、ちゃんと時間通り待っていた。お母さんもまだ帰らずにいて、

「いつも奈歩がお世話になっております。よろしくお願いしますね。運転くれぐれも気をつけていってらっしゃい」 

 奈歩に似て小柄な、明るいお母さんだ。

 修平がやけに上機嫌だ。それもそうだろう。六人のうち池上と早苗、松崎と私が付き合っているわけだから、必然的に奈歩は、修平の隣に座ることになったからだ。 

 奈歩は、黒いコートに真っ白のマフラーをして、ヴィトンのボストンバッグを持っていた。肩からは赤い小さなショルダーバッグをさげている。よく見ると、爪はきれいなローズ色だ。


 車は高速へ入った。スピーカーからはスピッツの『ローテク・ロマンティカ』が流れ出した。修平はかなりご機嫌で、

  「おい池上、あの車のろくねぇー。抜かしちゃえよ」 

 と身を乗り出して言っている。修平はスピード狂だ。

 奈歩はそれを聞いてすかさず、

「ちょっと修平やめてよ、事故ったらどうするの?」 

 修平は、ごめんごめんと言って、機嫌を直してよ、的な目線を奈歩に送る。それを後ろから見て、松崎と顔を見合わせて肩をすくめ、声を立てずに笑った。



 車が一定のスピードで、単調に果てしなく北上して行く間、車窓の景色をぼんやり眺めながら、一年前の夏、松崎と那須に行った時のことを思い出していた。紺のヴィッツを借りて、松崎はその頃免許取ったばかりで…。初めてのドライブだったから、隣で運転する松崎の姿がとてもかっこよくて、写真もバシバシ撮った。松崎は、その性格そのままの運転の仕方だった。いたって安全運転、無理は一切しない。

 那須ではコテージに一泊した。前から行きたかったニキ美術館や、銀河高原ビール、ステンドグラス館、世界の絵本館、南ヶ丘牧場、ボルケーノハイウェイ、殺生石などに行った。二人の仲がいっそう深まった素敵なお泊まりデートだった。


「そろそろ運転交代しようか?」  SAに車を停め、トイレ休憩をし、ここからは修平の運転になった。修平は一気に二台、三台と抜かし、恐ろしい運転だったが、みんなスリル満点で楽しんだ。

 紅葉がちょうど最盛期を迎えていて、車窓からも、赤や黄色の木々が見える。

 東京に住み始めて、何か違和感があった。それは山がないってことだった。私は今、久しぶりに山々を眺め、言いようもない安心感に浸っていた。

 あっという間に、本宮インターまで来る。安達良SAで、今度は松崎がバトンタッチをする。私は助手席へ移動した。

 福島西インターで高速を下り、国道115号線を走り、フルーツラインに入り、しばらく行ったところに、ひろしおじちゃんの経営するそば屋「麺善」がある。

 ひろしおじちゃんは父の末の弟で、おじちゃんにはあらかじめ、今日12時半頃六人でお邪魔すると伝えておいた。時間もちょうどいい。


 「麺善」は実は去年の秋にオープンしたばかりで、ひろしおじちゃんは、それまでは電気屋を営んでいた。小さい会社だったので、不況の影響で、経営が苦しくなっていた。そんな時、趣味で始めたそば打ちが功を奏し、まずは電気屋を続けながら土・日・祝日だけで営業を始めた。それが思わぬヒットをし、今では電気屋をたたみ、ほぼ毎日休みなしで営業している。

 麺善のそばは、十割そばと言って、そば粉を100%使用した本格的なそばだ。そば粉にもこだわって、北海道の農家から特注しているそうだ。

 店に入ると、一階は全部席が埋まっていたけれど、ひろしおじちゃんは、普段は使っていない二階の座敷に私たちを通してくれた。座敷には長テーブルが二つ置かれていて、その上に、六人分の割り箸やコップ、小鉢などが既にきれいに並べられていた。

(ひろしおじちゃん……)  私は、親戚っていいもんだなあ~と身にしみて感じた。
 VIP扱いをされて、みんなの表情にも、疲れは見当たらない。 

 しばらく待って、六人分のそばと天ぷらが揃ったのは一時を過ぎていたけれど、待った分だけさらに美味しく、みんな大満足の様子だった。お代は、シコシコのそばに、天ぷらと、山菜の小鉢と、サラダなどが付いて、たった千円だった。東京では考えられない値段だ。 

 そこから、母の実家までは引き続き松崎の運転で、私がナビをしながら向かった。  霊山は、そば屋から車でさらに40分ほど北東に行ったところにある。

 福島にいた頃は、何回も通った道だったけれど、実際にナビをすると意外に難しく、何度か曲がるはずのところで通りすぎてしまったりしたが、なんとか辿り着くことができた。 

 周りは紅葉した山々に囲まれ、近くには広瀬川という阿武隈川の支流が流れている。 

 母は1947年、終戦の二年後に、この地に生まれた。広瀬川で昔よく遊んだそうだ。雄大な自然があり、美味しい川カニもたくさん取れたという。昔の方が、そういう意味では贅沢な暮らしだったんじゃないだろうか。昔は笹薮だった両岸は今ではコンクリートで固められ整然としてしまった。それによって生態系にもかなり影響があって、川カニはもちろんいなくなったし、魚も種類が激減してしまったそうだ。
 母は六人兄弟の三番目だ。女女女男男女という構成だ。小さい頃は、アンゴラうさぎを飼っていて、そのエサをあげるのが仕事だったこと、秋になると栗を拾いに裏山へ行き、いくつ拾えるか兄弟で競い合ったことなどを、母は前に話してくれたことがあった。 

 「すごーい、広いねー。うちのおばあちゃんちに似てるわ。」

 早苗が珍しくはしゃいでいる。早苗は兵庫県姫路出身でご両親も確か関西か九州の人のはずだが、日本全国、田舎の家というのはどこも似ているのかもしれない。

 霊山では、夏はスイッチを入れないだけで、炬燵が一年中出ている。大きな炬燵なので、スイッチを付け、六人であたる。私は、裏の戸から外に出てガスの元栓をひねり、お湯を沸かしお茶を淹れる。

 この家には、皿もコップも箸も、何でも20~30人分揃っている。母は六人兄弟で大家族だったからだ。

 松崎は早速、各部屋を探険し始める。こういうところは、まるで小学生の坊やみたいだ。  池上くんは、奥の部屋にあった「霊山町史」という分厚い本に興味を示し、ペラペラめくっている。

 床の間に、生け花が生けてあるのを見つけた。おそらく母が生けてくれたんだろう。紫色の清楚な菊を中心として、すすきや野の花をあしらってあった。布団もちゃんと六人分きれいにたたんで重ねられていた。

「お布団、この間の日曜日干しておいたから、押し入れに入れずに手前に置いておいたからね」 

 電話で母がそう言っていたのを思い出した。


 時刻は四時を回ろうとしていた。明るいうちに温泉に行こうと思っていたのでみんなに伝えると、各自準備を始める。

 温泉は、ここから車で三十分ぐらいのところにある両親がお得意さんの穴原温泉『元岩荘』にした。そこは、今どき珍しく商売っ気のないところで、しかしお湯は源泉100%、私の母は、ここに通って更年期のアトピーがすっかり良くなったという。きっと乳ガンの再発防止にもなっているんじゃないだろうか。 

 玄関は木枠の硝子戸で、右端に、『郡山 安斎 様』と言うように、今日の泊まり客のお所とお名前が、ご主人の毛筆で書かれてある。今日は連休初日とあって、いつもより多い、五組のお客さんのお所とお名前が書かれてあった。
 お客さんが多くても、ここの温泉は客室にそれぞれ温泉が付いているので、ご主人は快く六人を迎えてくれた。母が事前に頼んでくれていたようで、400円で入れてもらえたのもありがたかった。

 内風呂で、まず髪や体を洗う。化粧は取らないでおく。
 ゆっくりあったまってから、今度は階段を下りて、露天風呂へ。ここも商売っ気がないからか、本当に天然という感じで、落葉が水面を埋め尽くしていた。

「なんか私たち、サルやタヌキみたいね」 

 奈歩がタオルを全身にあてて苦笑している。 

 男湯がすぐ隣で、少なからず意識しながら、早苗と奈歩と私は、まず洗面器で落葉をすくい、夕焼けに染まる晩秋の山を眺めながらゆっくりとお湯に浸かる。空気は冷たいが、お湯が熱めなのでかえって気持がいい。虫の音がリンリーンと涼し気に聞こえる。男湯からは修平の笑い声が聞こえてくる。どうやらわざと大きい声を出しているらしい、困ったやつだ。 

 昨日あまり寝ていなかったので、ふーっ、と眠くなって、しばらく目を閉じ、じんわりと温まる。

 それから内風呂に戻り、体を拭き、脱衣所で着替えて、ロビーに行くと、男三人は既に上がって待っていてくれた。めいめいスポーツドリンクやお茶など冷たい飲み物を飲んでいる。

 松崎が私に、

「どれがいい?」  と言って飲み物を買ってくれた。

 早苗は池上くんの飲んでいたお茶を横取りして、飲む。 

 修平は、ちょっと考えて、 

 「奈歩ちゃん何か飲む?」  と聞いたが、

「いいよ、自分で買うから、ありがとう」  爽やかに断られて、ちょっとがっかりしている様子。 

「昨日も、ご両親お見えになりましたよ」  とご主人が言う。 

 私たちはご主人にお礼を言って、車に乗り込んだ。

 霊山に帰る途中のスーパーで、鍋に入れる材料を買うことにした。海鮮鍋にしようということになって、海老、鱈、帆立などがセットになっているものを二セット、それにきのこや豆腐などを買う。

 松崎が、 

「これもいいかな?」  と言ってかごに入れたのは蛤だった。

「んじゃこれもいい?」  と言って修平は白子をかごに入れそうになったので、

「何それ!気持悪いからやめて」  と奈歩にピシャリと言われて傷付いた様子。 

 お酒とおつまみも買った。買い物袋三つ分になったので男性陣が持ってくれた。松崎は普段も、私の荷物を持ってくれる。


 
 霊山に戻った頃には、六時半を過ぎていた。

 日はとっくに沈んで、辺りには、カンタンやコオロギなどの虫の音が鳴り響いている。

 温泉に行っている間に父が来たらしく、玄関の脇に、大根、白菜、人参、牛蒡、葱、京菜、春菊が、きれいに洗って新聞の上に並べられていた。


 それを見て早苗が、

「理美のお父さんってまめだねぇー」

 と野菜に近付いて、しげしげと眺めている。

 買ったものは、すぐ使うものがほとんどだったから、飲み物と朝食の材料だけを冷蔵庫に入れた。

 早苗と奈歩が材料を切り、土鍋を火にかけ、だしを入れる。

 男性陣はカセットコンロを用意し、炬燵で寛いでいる。 

 「こんな合宿みたいなのは、二年の夏の苗場以来だな」

 池上くんが大きな伸びをしながら、眼鏡を外し、目をこする。 

 「あの時はもっと大人数だったけどね。バス貸し切りだったし」 

 と修平が言って、無意識にTVをつける。チャンネルはNHKになっていて、ローカルニュースをやっていた。しばらくすると天気予報になった。松崎が珍しがってにこにこしながら観ている。

 私はコップや皿や箸を念のためもう一度洗って、布巾できれいに拭いて炬燵に並べる。気持ちは弾んでいた。親戚にしか会わないこの場所に友達がいるなんて、なんだか皆が一気に近くなったみたいな気分だったからだ。

 残りの材料を大きな皿に並べて、土鍋をカセットコンロに移し、鍋が始まった。松崎の隣に私、池上の隣に早苗、そして修平、奈歩が向かい合わせの席順だ。

 私はまずお玉で松崎に帆立や鱈、蛤、それに野菜などをきれいによそってあげる。 

 大きな家で、天井も高いので、湯気はすぐ消え、換気もしなくてよかった。 

 どんな時でも食事っていいものだ。ここに来る間、実は複雑な想いだった。今回の旅行は最初松崎と二人で来るつもりだった。だけど、二人だけの時間に自信がなくて、結局みんなを誘った。松崎がそのことについてどう思っているかも、まだ聞けずにいた。今、鍋を目の前にして、そう言ったことを取りあえず考えるのをやめることができて、食べる事に集中している自分にほっとしている。親しい友人との他愛もない時間……。松崎が近いようで遠かった。


 鍋奉行は早苗だ。

「鱈と帆立と海老は全員分あるんやけど、蛤は四つしかないんよねぇー。どうする?」

「じゃあさ、松崎以外の三人は、クイズに正解した人からもらうことにしようぜ。まずはオレから問題出すよ、誰も当てらんなかったら出題者の勝ちね。」

 修平がそう言って食べる手を止めて、ビールをゴクンと一口飲んだ後、問題を出した。

「オレのかけもちしてるバンドのサークルのやつらでさ、去年の冬、闇鍋やったんだよね。でさぁ、五人がそれぞれ変なの持ち寄って入れたんだけどさぁ、納豆、魚の頭、チョコレート、とうがらし、あと一つ何だったと思う?ヒントはナマズのヒゲみたいなの」

 修平はにやにやしながらみんなの顔を見渡している。

「さあ、スルメの細長く切ったのとか?」 

 私が言った。

「いや、ちがう。ぜってい当たんない自信ある!」

 修平がにこにこしている。

「うーん、スパゲッティとか?」 

 早苗が言う。 
 
 「いや、違うね。」

 修平は得意気だ。 

 「わかった!ハーブ系でしょう。ローズマリーとか。」

「げ…どんぴしゃ。奈歩ちゃんすごい…」 

 修平は食べる手をぴたっと止めて、真っすぐ奈歩を見つめている。

「じゃあ蛤もーらいっ」 

 こんなことをしながら次に池上くん、最後の一個は私が当てた。

「でもさぁ、この家、普段誰も住んでないなんてもったいないよな。オレのおばあちゃんちも、将来はこんな風になるのかなぁ」

 池上くんが、真面目な顔をして言う。

「日本ってさぁ、いい田舎いっぱいあるんよね。でもさ、うちらみたいに東京とかに集まっちゃってさ。過密状態で。かたや、こんなに空気もお水も美味しい田舎が空き家で…」

 早苗もしんみりとした表情。

「それにしてもこの鍋美味しいね。美味しいお水と、理美のお父さんの野菜のおかげだね」 

 奈歩が、止めていた箸を、再び動かす。

「ぽん酢入れると美味しいよ」

 私はぽん酢派だ。

「鍋を囲むとさぁ、なんか『家族』って感じしない?」

 と修平。

「うちもな、ちょうど今そう思っとったとこや」 

  早苗が同調した。

 私も、うんうん、と頷いた。

 切った材料は、ほとんど残さず、皆お腹いっぱい食べた。

「これで終わりやないねん」 

 と、早苗は席を立ち、台所からご飯と卵と葉葱の刻んだのを持ってきた。

「じゃじゃ~ん、雑炊だよー」 

 早苗は少し残っていた鍋の中の具をすくって、汁だけにした後、ご飯を豪快に入れ、汁に馴染ませて、煮立ったところに卵を回し入れ、葉葱を加え、すばやく火を止める。

「できたよ。さあさ、どんどん食べて」

 早苗がみんなに取り分けてくれた。卵が半熟ですっごく美味しかったが、お腹がはちきれそうだった。 

 ご飯の後、お酒はワインや日本酒に変わり、おつまみなどを出して、皆で寛いだ。  そこへ修平が、新宿ルミネの吉本グッズ売り場で買ってきた、というトランプを出してきた。それで、二年の夏、苗場合宿で皆がマスターしたセブンブリッジをすることになった。

 松崎はあんまり乗り気じゃなさそうだったが、取りあえず参戦する。

「じゃあ、親は四月生まれの理美ちゃんで」

 と修平が言ったのであきれて私が、

「私は四月っていっても一日よ。だから一番若いのよ!」 

 「あっ、そうだっけ…」

 結局親は、六人の中で唯一浪人組の早苗になった。 

 五回戦で、意外にも松崎が一位になった。三回目の時なんて、最初からいいカードだったらしく、一周する前に松崎が、

「オレ、勝っちゃうけどいい?」

 とかわいく笑って、ジャンジャ~ンとポンとチーを一組ずつ、それにハートの7を並べて上がってしまった。この時ばかりはもう皆びっくりし、無念さをかくしきれず、それぞれ、

「えーもう?」

「あちゃー」

「ぐおー」 

 などと口々に不平をもらした。

 意外に楽しいトランプ大会だった。 


 明日は午前中、紅葉ドライブ、午後からは父の実家のりんご園でりんご狩りをして帰ることにしていたので、もう寝ようということになり、部屋割りを決めた。部屋数はたくさんあったが、シンプルに下の階だけを使い、男女三人ずつに分かれることにした。

 時計を見ると11時少し前だった。さっきトランプ中にTVでやっていた天気予報では、明日もまた晴れるらしい。誰か晴れ運の強い人がいるんだろう。松崎かな…とふと思った。彼は真夏の8月2日生まれだからだ。それに、いつもどこかにデートに出かける時は、雨に降られたことがほとんどなかったように思う。

 顔を洗いコンタクトを取り、布団を敷き、男三人におやすみを言って戸を閉めた。 

 今日は、松崎と居ながらにして松崎と居ないような一日だった。昨日の、久しぶりに一緒に寝た、手をつないだ感触が、まだ体に残っていた。 


 「電気消していい?」 

 と早苗が言ったので、

「一番暗い電気はつけといてくれる?」 

 と私が言って、三人は寝床に就いた。

 男女を分ける戸は簡単なふすまだったけれど、音が漏れるほどではなかったので、私たち三人は、横になりながら、小声で色々と語り合った。 


 「奈歩さあ、修平のこと、どう思う?」 

 早苗が露骨に聞き出した。

「ただのサークル仲間よ。それ以上でも以下でもないわ。ただね、好きか嫌いかって言われれば、好きな方かな。私にはあんなユーモアないし、そういうとこけっこう尊敬してる、実は」

 三人でクスクス笑った。

「早苗こそ、池上くんのどういう所が好き?」 

 奈歩が尋ねる。

「あのオタクっぽいとこ。知的な感じが私にはセクシーに映るんよ。彼、眼鏡を取ると、驚くほどハンサムなんよ。精悍な眼差しで…。それとな、精神年齢が高いとこ。池上んちは母子家庭やからな、池上はお母さんをしっかり支えとる、自活しとるとこがかっこええなと思うんや」

 早苗が、池上くんを素直にほめている、そのことが、奈歩と私に距離を感じさせず、同じ女の子としての早苗を見た気がした。

「理美は、松崎のどこが好きなん?」

 早苗は私に話題を移した。私は、しばらく考えた。少しの沈黙があった。


  「ピュアなところ、かなぁ…。松崎ってね、人を素直にさせる力があるの。彼の前では、どんな仮面もたちどころにはがされちゃうの。心が裸になるの。その感じが、好きなんだ。彼と対面してると、細かい煩わしいこと、悩み、なんかが一気に解決しちゃうの。なんていうのかな、彼と会うと、ニュートラルに戻るっていうのかな。私、そういう彼が好きなんだと思う」

 松崎の良いところを、こんな風に具体的に口に出して言ったのは、初めてだった。三年になって研究に没頭する彼に、もの足りなさを感じ、心が離れていく、そのことが寂しかったけれど、本質的な部分では、今でも彼が好きなんだと言うことが、早苗と奈歩に話したことで、自分の中で再確認できたような気がした。

「恋愛ってさ、当人以外には到底わかんないような『秘密の絆』があるんよね。それをさ、二人だけがわかっていることをさ、外のわかんない人があれこれ言える権利はないんやと思う」 

 早苗は、今日はすごく優しかった。

 頭の中には、冬ソナの軽快な挿入歌が流れていた。

「三年になってから、実は松崎に距離を感じていたんだ。彼、専門の研究に没頭しててあんまり会えなくなって。でもね、なんか今、解決した感じ。今度、研究のことも、もっと聞いてみようかな。それと、寂しいことをちゃんと言って、無理にものわかりのいいフリはしないかなって」

「そうや、理美。うちなんて、池上とは何でも話しとるよ。無理すると長続きしない、嫌なとこははっきり言うし、それでも譲れない部分ってあるから、そういうところは歩み寄ったりしてな」

 早苗は遠くを見るときのように目を細めて、そして微笑んだ。

「松崎はね、あんまり話し好きじゃないんだ。自分から何でも話すんなら、そんなに悩まずに済むのかもしれないけれど…」

「そこは理美の力量で、うまく話しを引き出してみるんよ。案外松崎も色々話したいのかもしれんよ」

「そっか。話しを引き出す…のね。なるほどね、ちょっと今度試してみるよ。ありがとう」 

 早苗にアドバイスしてもらい、絡まっていた糸がほどけたように、気持がスッキリした。 

 朝が早かったせいもあり、私たちは12時前にはもう夢の中だった。




 翌日も秋晴れのよい天気だった。朝食を済ませ、家の中をきれいにして、九時過ぎ霊山を後にする。

 今日も私がナビをするということで運転手は松崎だ。私たちは、磐梯吾妻スカイラインを目指して出発した。

 霊山から県道をしばらく走り国道115号線に出て阿武隈川の橋を渡り、国道四号線を南下し、福島市街を横切って高湯街道に入る。高湯街道はさすがに連休中の行楽日和だけあって混んでいた。

「まだ十時前なのにね」

 やっとスカイラインの料金所に着いたのはそれから一時間が経過した11時過ぎだった。

 それにしても、道中素晴らしい眺めだった。真っ青な空に、紅や黄色や緑や、それらの中間色が贅沢なほどにちりばめられていて、(おそらく錦色とはこういう色を言うんだろう)、山々はただ目で見ているだけではもったいないような見事な紅葉で、私たちは車の中から身を乗り出し、無我夢中でシャッターを押しまくった。写真を撮るにはのろのろ運転でちょうどよかった。

 松崎もオートマ車なので運転も楽みたいで、ぱっちりした目で嬉しそうにその爽快な眺めを味わっているようだ。

 スカイラインをしばらく行き、浄土平で車を停めて木道を散策した。家族連れや老夫婦や、犬を連れた若いカップルやシニアの団体客など、がいる。私たちは興奮しながらシャターを押す。デジカメなので無駄にたくさん撮れる。便利な世の中になったものだ。

 木道の周りには、高山植物と思われる、白い小さな花やブルーベリーのような木の実がなっている。それから、びっくりしたのは、水が湧いているところがあったことだ。  木道の行き止まりの所に、こぢんまりとした湖があり、ものすごく深い青色をしていて、その群青色と、周囲の錦色とのコントラストが絶妙で、私たちはそこで記念撮影をした。修平が近くにいた年配の女の人に、シャッター押してもらうようにお願いしてくれたのだ。

 お昼は、ドライブインで、地元の人たちが振る舞っていた豚汁といそべもちを食べ、それからスカイラインを反対方向に下り、土湯峠を抜けて父の実家の『夏木りんご園』へ向かった。

 りんご園は、父の兄、誠一おじちゃんが継いでいて、到着すると笑顔で迎えてくれた。なんとそこには家の両親もいた。母には話しだけはよくしていたけれど、松崎と両親が会うのはこれが初めてだったのだが、松崎が、背筋をピンと伸ばし丁寧にお辞儀をしてくれたのにはびっくりした。そこにはいつもの、のほほんとした松崎の姿は全く見受けられず、育ちの良さが全面に現れていて、私は誇らしかった。

 到着して早速、かごを片手にりんご畑に向かう。試食用にナイフと剥いた皮を入れるナイロン袋を持っていく。

 池上くんも松崎も東京出身だし、修平は神奈川だし、早苗は関西だし、奈歩は埼玉だと言うことで、りんごがなっている木というのが珍しいらしく、皆、目がりんごに釘付けになっていた。

 私の実家にはほぼ一年中りんごがある。中学の友人には、

「理美の家はりんごの匂いがするよね」

 とまで言われたこともある。そのくらいりんごは日常的な代物で、私は正直食べ飽きていた。りんごがこんなに皆を喜ばせられるものとは、全く予想していなかった。

 畑を周りながら誠一おじちゃんは、りんごの品種や味、育てる上で心がけていることなどについて講釈を始めた。

「この甘酸っぱいパリパリした食感のがジョナゴール。これはゴールデンと紅玉をかけ合わせたもので、酸味があり実が硬く、若い世代の人に好まれる品種だ。こちらの木は世界一。サクサクして味も淡白だ。こっちの木は清明と言って、上品な甘味が特徴の、男性に人気のりんごだ。今の時期だとこのあたりが食べ頃で、あとは一般的なのが富士。富士はもう少し後に収穫するので、今は葉つみや玉まわしをしていい商品にしている。この、一見酸っぱそうな青りんごは、王林と言って、香りが良いのが特長だ。ゴールデンデリシャスと印度をかけ合わせたもので、食べてみると分かると思うが、見た目と違って甘いんだ……」 

 私も知らないようなこともあった。皆にとってりんごとはりんごであって、りんごにこれだけの種類と味の違いがあるっていうこと に、カルチャーショックを受けたようだった。

 松崎はどうやら清明が気に入った様子だ。修平は、

「…マジっすか!」  完全におじちゃんの話にのせられている。 

 
  皆がりんごに夢中になっていると、いつのまにか、そばにリリーがスクッと立っていた。リリーはりんご園で飼っているシャム系の猫だ。その走り方は野性的で、サバンナのジャガーのようにかっこいい。リリーは必要以上に人なつっこくもなく、かと言って臆病な訳でもなく、近頃は夏木りんご園のちょっとした人気者になっているらしい。

 松崎はリリーに気付くと、中腰になって口笛を吹きながら手招きをしている。 

 お昼が少なめだったので、りんごの試食は、皆ほぼ全種類制覇した。

 皆、思い思いに気に入ったりんごを木からもいでかごに入れる。一人暮らしの早苗はその手を少しセーブしている。

 畑を一通り廻った後、倉庫に戻り、誠一おじちゃんがみんなのりんごを量って値段を付けてくれた。かなりサービスしてくれたようだった。奈歩は親から頼まれたということで、倉庫に置いてあったりんごを足して箱で買って、郵送する手配をしてもらっている。

 家の両親は、終止笑顔だった。久しぶりで会えたことに加え、私の仲間が皆いい学生だったからではないだろうか。誠一おじちゃんもすごく満ち足りた表情をしている。若い衆に講釈をするというのは気持のいいものなのだろう。

 帰り道は、池上くんと修平が交替で運転してくれた。松崎と私は一番後ろに乗った。 

 松崎が眠ってしまうと、私は右手をそっと松崎の左手の上にのせた。車の中から紫色と橙色の交じった素敵な夕焼けが見える。両親が松崎と会った瞬間を反芻した。そこにはやわらかな空気があった。松崎は、あの大きな目でめいいっぱい親しみのある表情をしてくれた。そしてあんなにも礼儀正しかった。それに昨日の夜は早苗とも親密な話しができたし、結果的には今回の旅行は成功だったかな、そう思った。

 私も那須インターを過ぎた辺りから急に睡魔が襲ってきて、ミスチルのバラードを子守唄にしながら、目を閉じた。


連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」vol.6.7.8
2008-12-15 20:23:26 | 連載小説
 楽しい連休が終わり、また平凡な日常が戻ってきた。

  デンマーク体操部は、体育会系の部活としては不真面目な方で、目白祭が終わってから一月の試験が終わるまでは週二、月曜と木曜だけの活動になっていた。活動内容は夕方五時から六時までは「アップ」と言って、学生だけで準備体操のようなものをする。そして六時から後半の一時間は、コーチが来て、コーチの指導のもと、音楽をかけながら体を動かす。コーチは私の大学出身で、デンマークに体操留学したことのある中村コーチ、それに佐々木コーチの二人が交替で来てくれる。中村コーチはバレエ的な動きが得意で、音楽もリラクゼーション的なものが多く、かたや佐々木コーチはパワフルで、音楽も躍動的なものを多く取り入れている。お二方とも、立派な子どもさんのいるお母さんだ。 

 デンマーク体操は、勝負や記録を目的としない。万人の健康・体力づくりに焦点を合わせた体操で、動きが上手か下手かということよりも、身体機能のバランスづくりに重点を置き、音楽を取り入れ楽しく動きを消化できるようにしたもので、今、特に中高年の人の間で静かなブームになり始めているらしい。とは言ってもやはり私の部活には、元バレエや新体操などをしていた子が半分以上を占める。  

 今日は中村コーチの日だった。中村コーチはプラダのバッグを何種類も持っている。今日はベージュのトートバッグだ。
 坂本龍一の音楽で、ゆっくり首や肩、足首などを回すところから始まる。デンマーク体操の基本は『脱力』だ。いかに大胆に脱力できるかがポイントで、それは一年の時からじっくり繰り返し教わってきた。これをすると、言い様もない快感に浸れる。今日は目白祭の後最初の部活だったので、中村コーチも新しいことは特にやらずに、今まで習ったものの中から優しい動きのものを選んでゆっくりと指導してくれた。 

 部活が終わり、目白駅で奈歩や後輩たちと別れる。
 山手線に揺られながら、私は、 (高村優くんに、りんごをあげたいなぁ…)  などとぼんやり考えていた。この間銭湯で会った時、家の場所を聞けばよかったと後悔したが、彼女さんがいたんだから無理もない。

 松崎からは、旅行以来、また連絡なしだった。だからって許されることじゃない、それはわかってる。でも…。波長が合わないことは、今に始まったことじゃない。それなのに、最近は、自分を抑えられなくなってしまった。あの旅行は、せっかく、いい時間だったのに…。

 東中野に着いて改札を出て歩き出す。ギンザ商店街はもう八時だというのに人通りが多かった。私は、今日は何を食べようか、またいつものように豚肉と豆腐の塩コショー炒めでいいか…などと考えながら前方をボーッと見て歩いていると、向こうからやってくる、缶コーヒー片手に優雅に歩くかっこいい人が目に入った…それはまぎれもなく、あの、高村優くんだったのだ。こんなにバッタリ会えるなんて…。私は、目白駅のトイレで化粧を直してきて良かったと心底思った。 

「あれっ、偶然ですね。これからどちらへ?」
 私は急に笑顔になって、そう尋ねる。
「いやぁ、夕めし食おうと思って、どっかないかなぁと歩いていたところです。あ、もし良かったら、夕めしまだだったら一緒にどうですか?」 
 思わぬ誘いだった。夕食はまだだったから、いや、もし食べた後だったとしても間違いなくこう答えたはずだ。
「ええ、私もこれからなんです。じゃあ、この間のファミレスにでも行きましょうか?」 
 私が提案すると、高村くんもそれがいいということで、二人で歩き出した。私は、内心興奮していたが、極力お姉さん面を装い、彼の左側の半歩後ろあたりを、歩く。松崎にこの界隈で会うことはまずないだろう。そんなことをとっさに考える自分もいた。もし、電話がかかってきたらどうしよう、メールきたら返事しないと…など頭をよぎったが、それは、心配なかった。連絡をあまり取らない松崎が、今は有難く思えた。

「あの、この間名前をお聞きしなかったんですが…」  と高村くんが言ったので、
「私、夏木理美って言います。福島出身で、七才上の兄と五才上の姉がいます。高村くんはどちらの出身ですか?ご兄弟は、たぶん、妹さんいらっしゃるでしょう?」  なぜか、まだ他人同様なのに、スラスラと言葉が出てくる。
「オレは広島出身です。兄弟は、夏木さんのご察知のとおり、妹が二人います。あ、偶然ですがオレのおばあちゃんちも福島なんですよ」
「へぇー、福島のどこですか?中通り?」
「いや、浜通りです。双葉郡の小良ヶ浜っていう所で、車で二十分ぐらいのところに原発があるんですけどね。灯台があって、そこからの景色が最高なんです。いつだったか初日の出を見たこともありましたよ」 

 高村くんはきわめて明るく、爽やかで礼儀正しい話し方だった。やはり第一印象は外れていなかったのだ。その後は、確か差し障りのない世間話をしたはずだが、心が浮ついていて、何を話したのかも忘れてしまうほどだった。しかし、これだけは言える。見事な程会話が弾んだって言うこと。まだ他人同様なのに…。  彼は途中、コーヒーの空き缶を、自販機の脇に置いてあった空き缶入れに、スルっ、と投げ入れた。その仕草はこれ以上ないほどスマートだった。それに、びっくりしたのは、すごく紳士的だということで、まだ大学一年生には思えない落ち着きがあった。しかしそれは老けていると言うのとは全然違くて、むしろ瑞々しいボイス、表情、話し方、仕草、何もかもが静かな活気に満ちあふれていて、まるで貴公子のよう。

 そうこうするうちにファミレスに着く。
「おたばこお吸いになられますか?」  と店員に聞かれ、二人で顔を見合わせて、 
「禁煙でお願いします」  と高村くんが笑顔で言う。
 実は私は、アパートのベランダでは、たまーに、ごくたまに煙草を吸う。メンソールの1mgだ。このことは松崎も知らない。誰にも言ったことがない…秘密だ。フォションのラズベリージャムの空き瓶を灰皿代わりにしている。

 店員は、店の一番奥の窓際の席へ通してくれた。高村くんは一旦家に戻り普段着に着替えたのだろう。フレッドペリーの白いジャージにブルージーンズというラフな格好だった。あの銀色のアクセサリーを今日も身に付けている。

 まるで夢のような時間だった。話題は面白いほど出てきた。銭湯藤の湯のこと、スーパートヨクニのこと、コーヒーが大好きだということ、好きな音楽や映画のこと、意外にも二人共小さい頃うさぎを飼っていたこと、実家は瀬戸内海に浮かぶ島で、中・高バレー部だったということ、お父さんは建築家だということ、大学の講義のこと、お互いのサークルのこと、最近公示になった選挙のこと……。

「コーヒーにはちょっとしたこだわりがあるんです。こっちに来て一人暮らしを始めて、家具とかを買う前にまず真っ先に買ったのが、注ぎ口の長い銅製のポットで…。豆は色々試したんですけど、グァテマラのやや深煎りがオレは一番好きです。コーヒーはオレの生活の中で、かなりのウェートを占めています」

 高村くんとの会話は本当に面白かった。彼は外面だけでも充分かっこいいのに、考え方やセンス、ウィットに飛ぶ話し方といった、ルックス以外のところも本当に魅力的だった。 

「それにしても、この間銭湯で会ってからまだ間もないのに、又こうしてお会いするなんて、行動パターンが似ているんでしょうかね」 

 などと言ってひとしきり笑い合ったりしたのは、これ以上ない幸福だった。  つい二週間前にあんなに憧れ、望んだ、この人と向かい合うこと、目を合わせること、会話していること、信じられなかった。会話に集中するあまり、何を食べたかもわからないくらいだった。

 ファミレスを出たのは、なんと11時を過ぎていた。ファミレスからの帰り道、私は、そう言えばりんごをあげたいと思っていたことを思い出し、

「この間の連休に実家へ行き、りんごをたくさんもらってきたんです。よかったら少しいかがですか?」  と言うと、高村くんは、
「いいんですか?果物は大好きなんです。広島は温州みかんが美味しいですよ」
 それで、まず私のアパートに寄った。
「ここが私のアパートです。ちょっと待ってて下さいね」 
 高村くんを下に待たせて急いで階段を上り、アパートの鍵を開け、りんごを、なるべく大ぶりの色や形のよいものを三個、ランコムの白い小さな紙袋に入れる。

「お待たせしました」  ここで別れても良かったんだが、私は、どうしても名残惜しかったので、 
「あ、私、ちょっとコンビニに買い物あるから」
 と嘘をついて、高村くんと歩き出した。
「夏木さんのご実家って、りんご園なさっているんですか?こんなに素晴らしいりんごを見たのは初めてですよ」
 と高村くんが言う。話の振り方とか誉め方がとてもうまいなと思った。私は、自分の実家ではなく父の実家だということや、この間のりんご狩りのことなどを楽しく話しながら、あっと言う間に坂の上まで来てしまった。
「僕のアパートはここ、すみれ荘って言うんです。古いでしょ。でも結構落ち着いてていいですよ。通りにも面してないし。ここの二階のいちばん奥です」 
「へぇー、本当に静かでよさそうですね。銭湯にも近いし。今日は遅くまでありがとう。それでは、また」 
 さよなら、とは言わなかった。私は高村くんと別れ、満たされた気分でいっぱいになってアパートに戻った。いつもの寂しい銭湯からの道のりが、まるで違って見えて、早々とイルミネーションを飾っている家の横を通ったときなんか、無性にウキウキして、これから始まるこの恋に、躊躇がある反面、もうこの気持ちを止める事なんてできないような気がしていた。 



     § 

 次の日の金曜日、松崎が珍しく夕食を一緒に食べないか、と誘ってくれた。教授が学会で留守なのに、ちょっと実験に問題が生じ、先に進めないのだと言う。六時に新宿駅東口交番で待ち合わせた。 
 ここのところ、急に寒くなっていて、今日は今年初めてオーバーを着てみた。母から大学一年の時に買ってもらった茶色ので、襟刳りには取り外し可能な、黒いファーが付いている。今日はちょっと大げさかな、と思い、外してきた。
「これなら大人になってもずっと着れるわね」
 お母さんはそう言って選んでくれたのだ。 

 待ち合わせより少し早めに来て、紀伊国屋書店で立ち読みをして時間まで過ごした。昨日高村くんが話していた国際政治論の話しが気になっていたので、普段は寄り付いた事のないその分野のコーナーへ行き、『難民問題』、『アメリカ主流の世界』等の本を手に取ってパラパラとめくって読んだ。それから楽譜のコーナーに行き、ベートーヴェンのソナタ第十七番『テンペスト』の楽譜をピースで買った。お目当ては第三楽章だ。 

 私は小さい頃からピアノだけは続いている。あ、あと体操と日記も。小学校ではバレエを習わせてもらった。小学校三年の発表会では、生まれて初めてお化粧というものを、それも宝塚のようなバッチリした化粧をしたのを、今でもはっきり覚えている。中・高は新体操部で、中学の時は団体で県大会二位になった。あの頃はショートカットで、随分ストイックに練習に励んでいたものだ。日記は中学に入ると同時に始めて、それ以来九年間、ほぼ毎日欠かさずに書いている。
 大学に入ってから、一年の時は何もかもが目新しく、松崎との毎回のデートに夢中で、ピアノを辞めていたことに何の不自由も感じなかった。二年になり、色々と落ち着いてきた時、何か物足りなさを感じて、そうだ、私にはピアノがあったんだ!と、急にまた弾きたくなって、大学とアパートのどちらかに近い教室をインターネットで探した。目白駅から徒歩五分の『アルル音楽学園』という所に決めて通い出したのは、新緑の綺麗な五月の連休が明けた頃だった。今井先生とはとても仲がいい。先生も同じ東北出身だから気が合うのかも。今は月三回レッスンで水曜の八時からだ。

「ごめんごめん。」  遅れたわけではなかったが。
 松崎は、先に来て待っていてくれた。松崎のいい所の一つは、待ち合わせには絶対早めに来てくれるという所だ。昨日の夜の、高村くんと歩いた時のことがまだ頭から離れなかったけれど、松崎に会ったらホッとした。

 夕食は高島屋十三階のパスタ屋さんへ行った。松崎と向かい合って、なぜかいつもよりも親切な自分がいた。高村くんと会ったことへの懺悔の気持があったからだろう。会話も松崎が話しやすそうなことを限り無く優しく、聞く事ができたように思う。意外だったのは、松崎が実験パートナーを嫌っているということだった。

「…女なんだけど、いつも自分の用事でオレに押し付けるんだ…。それに測定の仕方も全然先のことを考えずにやっていて、値はくるってないから良いけれど、なんていうか、話し相手にならなくて…。オレはこの実験にすごく意気込みを感じていて、就職も液晶分野に強いメーカーを希望してて。あ、でもオレ院まで行くことに決めたよ。だから必死なのに、彼女は、ただ出さなきゃ卒業できないからしかたなくやっている感じなんだ。頭にくる…」 

 実験パートナーが女だなんて初めて知って、少なからずその女への嫉妬を感じたが、内心にっこりした。松崎もこんなに感情があるんだ。嫌いな人なんているんだって思って。でも、ちゃんと深刻そうな顔をしてこう言った。

「大ちゃん院まで行くんだ。そっかぁ、将来性があって羨ましいな。私なんて、その女と似たりよったりかもしれないよ…。大ちゃん、その人にさ、今度、基本的なことも面倒がらずに説明してあげたら?きっとその人、分からないから面白くないんだと思うよ。私がそうだからよく分かるんだ。」 

 我ながらいいこと言った、と思ったら、松崎も、

「そっか…オレはもしかしたらかなりレベル高いとこまで解かってんのかなぁ。好きだから知識は勝手についたんだよね。分かった、ちゃんと優しく説明してみるよ。理美ちゃんナイスアドバイス、ありがとう」 

 それから今日は松崎が泊まりたいと言ってきたので、ゆっくりビデオでも観ようと言うことになり、総武線に乗って東中野まで来る。トヨクニの向かいの「ビデオR」で『猫が行方不明』というフランス映画を借りた。

 このビデオ屋さんには、気持ち悪い店員がいる。大槻ケンヂをさらにかなーりオタクっぽくした感じの人で、私と松崎は彼のことを『オタケン』と呼んでいる。真っ黒な油っぽい櫛の入っていなさそうな長髪を、横の髪は垂らし、後ろは一つに束ねている。今日も、いた。私は、その店員に観察されているような一種の恐怖感みたいなものがあって、店に入るときはドキドキするし、借りるものまで気を遣ってしまうし、今日みたいに男と一緒だと、なんとなくその店員の対応が冷たいような気がするのだ。けれども家から近くて種類もまあまあ豊富なビデオ屋さんはここしかないので、しょうがなく使っている。 

 アパートへ続く小道に入ると、またあの二匹の猫がいた。私と松崎が立ち止まって、 
「チェ、チェッ」  と言うと、 
「ニャー」  と気怠そうに鳴いて、それでもやはり逃げようともせず、舌で熱心に体じゅうを舐めまわす。 

 アパートに着き、部屋に入る。まずセラミックファンヒーターをつけて、それから紅茶を淹れて、ソファに凭れて紅茶を飲みながらビデオを観た。

 ルルと同じような黒猫を飼っている女の人が主人公だった。ある日猫がいなくなったので家じゅうを探し、近所を探し回り、街じゅうに貼り紙を貼って探したあげく、一週間後に、家の戸棚から痩せ細って出てきた、そんなストーリーだった。大切なものは実は近くにあるんですよ、と言うことを言いたかったのかなと心の中で思った。 

 ビデオを観た後、久しぶりに一緒にお風呂に入った。アパートのお風呂は、トイレとはセパレイトになっているが、それでもけして広くはない。私はお気に入りの『バリ島エステ入浴』という水色とオレンジのパッケージの入浴剤を入れる。浴槽に、お互いの足を交差させて向かい合って入る。お湯はちょっと熱めにした。ココナッツミルクのいい匂いに包まれ、ゆったりとリラックスする。しばらく目を瞑ってお湯に浸かっていると、そのうち手持ち無沙汰になり、顔は見つめ合ったまま、松崎の大切な部分を触る。そしてゆっくりと上下にしごき始めた。キスも何回もした。そのうち松崎が、
「理美ちゃん、オレ、もう我慢できないよー。」  と言って髪も体も洗わずにお風呂から上がり、急いでロフトに上って、抱き合った。松崎が私の上に覆い被さり、お互いの背中をさすってきつく抱き締めた。こうするのが松崎は好きだ。そうしてしばらく抱き締めた後、私は顔を下の方にもっていって松崎の大切な部分を優しく舐め滑りやすくして、松崎は優しく私の中に入り、しばらく動かし快楽に浸る。松崎は達する直前にいつも顔を高潮させる、それが合図だ。顔を高潮させてなんだか酔っぱらったようになる松崎が可愛くて好き。

 果てた後、思い出したように枕元のCDラジカセをつけ無伴奏シャコンヌが流れ出す。音楽もかけずに始まるなんてよっぽど急いでたんだな。何回か深呼吸をする。解放感でいっぱいの気分だ。ロフトの天窓からは綺麗な形の三日月がくっきりと光って見えた。 



     § 

 次の日は、午前中からフットサルの練習試合が『フットサル世田谷』という体育館であった。来週の秋季リーグ戦「オータム・カップ」へ向けての練習だ。今日の対戦相手は明治大学の強豪エストレージャ駿河台。遅い朝食の後、松崎と一緒にアパートを出る。松崎はちゃんと試合の準備をしてきていたので、そのまま向かった。

 ベジェッサ西早稲田のレギュラーメンバーには、池上、修平、松崎の他に、内山、大西、秋元というのがいる。内山、大西は三年、秋元は二年だ。内山はチームのキャプテンで兄貴肌、背丈は標準だが体は細い。小田急線の経堂から通っている。大西はがっしりした体つき。東武東上線の大山に住んでいる。秋元は二年とは思えないくらい老けていて無精髭を生やしていているが、サッカー暦は長く足裁きはピカ一。あとの五人は補欠、それから十人ぐらいは一年だったり幽霊部員だったり。 

 奈歩は、二年の時、この明大エストレージャ駿河台の、サッカーで言うところのFWにあたるPIVO(ピヴォ)の稲葉洋介に、合同飲み会の後、店の前でデートに誘われ、以来、彼氏とまではいかないが友達以上の付き合いを続けている。奈歩には、そんな友達以上恋人未満の男が五人ぐらいいる。

 今日も稲葉洋介はスタメンで出ていた。対するベジェッサ西早稲田のPIVOは修平だ。修平は、奈歩と稲葉の仲を知ってから、エストレージャ駿河台との試合では俄然燃え上がる。稲葉に明らかにファールとなる試みをするのだ。けれども稲葉は、そんな修平にお構いなく、ポーカーフェイスでプレーする。稲葉は足裏でボールを操るのがとても上手い。修平はどちらかと言うとがむしゃらに勢いでプレーしている感があって、こんなこと言ったら可哀想かもしれないが無駄な動きが多い。

 フットサルは1チーム5人で行われる。そのうちの1人はゴールキーパーだ。試合時間は基本的に前後半に20分ずつで合計40分だが、練習の時は適当に短縮したり延長したりする。 

 エストレージャ駿河台の、赤と黄色のユニフォームはとても目立つが、私はペジェッサ西早稲田の、青をベースとして緑のラインのあるユニフォーム、の方が気に入っている。私の中で『サッカー=青』というイメージがあって、それはおそらく日本代表のユニフォームの色だからかもしれないが、とにかくそれ以外の色はあまりかっこいいと思えないのだ。

 終了間際、稲葉が鮮やかにインステップ・キックをし、0ー1でエストレージャ駿河台が勝った。

連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.9.10
2008-12-16 14:35:29 | 連載小説
   


  § 


 天気予報は、仙台で初霜を観測したと告げた。 

 週明けの月曜日、四限の後、学内の喫茶店で奈歩と私は、緑に会いに島根に行く計画を立てていた。

 飛行機じゃ高いから夜行バスにしようと言うことになり、日程は緑の誕生日に一番近い週末の、12月6日金曜の夜出発、ということにした。

「緑には言えないけど、私、昨日の新聞で、工藤勇哉の会社が倒産した記事を見たの。工藤って、関西でも指折の不動産会社の社長だったのね、あんなに若いのに…。それもそうよ、私たち三人にティファニーのネックレス買ってくれたんだもんね、やっぱり普通の人じゃなかったんだ」 
 その不動産会社は、かなりの数の物件の住宅ローンを水増しして組み、一年間でおよそ7000万の利益を得ていたことが明るみに出たのだった。緑は、誰がどこから見ても悪い男に引っ掛かったという構図になる。

 次の日の夜、私は翌週に提出予定の応用物理学実験のレポートを、例のファミレスでやっていた。今回は「弾性体の共振現象」というテーマで、前回の「ホログラフィー」に比べると分量も少なく、だいたい見通しはたっていた。

レポートに取りかかりながら、高村くんのことを考える余裕もあった。 
 この間、ここで夕食を食べた時、高村くんにケイタイの番号とメールアドレスを教えてもらっていた。それは、既に登録済だった。早々と登録はしたものの、彼女さんがいることに気を遣って、そして、自分も松崎がいる手前、ためらわれて、あれからメールはしていなかった。でも、レポートに飽きて、高村くんのメールアドレスを凝視し、メールしてみたくなった。

「夏木です。この間は偶然お会いでき、夕食ご一緒できてとても楽しかったです。ところで、今日は銭湯に行く予定はありますか?」
 自分でもびっくりした。夜中のデートに誘ったようなものだ。送信した後ものすごく後悔した。 
 2、3分して、すぐ返信がきた。緊張して受信ボックスを開く。 

「僕も今日は銭湯行くつもりです。よかったら12時にロビーで待ち合わせましょう」 
 おいおい、いいのか?彼女さんいるのにいいのか?今日は思いきって彼女さんのこと、聞いてみようか。
 私は急にそわそわし始めた。よし、レポート提出までまだ日数あるし、今日はここで終わらせてアパートに戻ろう。
 帰り道、久しぶりに豆腐屋さんに寄ってみた。なんだか心が弾んでいておばちゃんに初めて話しかけてみた。
「私このすぐ近くのエレガンス東中野に住んでいるんです。ここのお豆腐はスーパーのと全然味が違いますよね。いつも朝早くから作ってらっしゃいますよね?この間朝早くドライブに出掛けた時、5時半頃ゴミを出しに下に降りたらもう開いていたので…」 
 いつもの1個150円の大きめのお豆腐一丁を、容器に入れるおばちゃんの手付きを眺めながら、そんな風にベラベラとしゃべった。 
 するとおばちゃんは顔をくしゃくしゃにして、
「そうなんですよ。豆腐屋はみんな早起きなのよ。うちはね、ほら、そこの小学校あるでしょ、あそこの給食に使ってもらっててね。それでなんとかやっていけてるんですよ」
 私はおばちゃんの話を聞いて、地域の商店っていうのはその地域と密接に関わっているんだな、と妙に納得した。

 夕食を簡単に済ませ、早速うきうきして、どの服を着ていくか選ぶ。

「たかが銭湯に行くのに、オシャレしたら変だよなぁ。さりげない普段着ってどんなかなぁ…」
 結局色々悩んだ末、黒の五分袖のニットにジーンズにした。でも今日はL.L.Beanのフリースではなく、赤いPコート。
「ブーツじゃ大げさかなぁ」
 近所に買い物に行く時によく履くプーマのスポーツシューズに足を入れる。

 銭湯では、はりきって体を磨いた。もしかして、もしかしてロビーで話した後…とはまさか思わなかったけれど、高村くんと私なら、何があってもおかしくはないように思われた。つまり、高村くんは彼女さんがいるのにこの間私を夕食に誘ったし、私は私で松崎がいるのに今日高村くんを銭湯に誘った、そして二人共その誘いに乗ったこと。そんなイケナイ二人なら何かあってもおかしくはないじゃないか。『二股』の二文字が頭に浮かんだ。 

   早めにお風呂から上がる。時刻は11時20分。今日は入念にドライヤーで髪を乾かす。替えの下着は、自分が持っている中で一番高く気に入っている、表参道で夏のバーゲンに買った青紫色のフランス製のエレガントなのにする。半額になっていたにもかかわらず上下で8000円もしたもの。

 鏡の前で自分の顔をじいっと見て、風呂上がりにおかしくない程度のナチュラルメイクにすごい時間を使って、自然なまゆを描き、薄くピンクのグロスをぬる。髪は、ワイルドさを出そうと思い、わざと束ねずに、前髪と脇の髪だけをざっくりとバレッタで後ろに一つにする。私は、髪質にだけは自信がある。特に整髪料をつけなくてもツヤのあるサラサラのストレートで、松崎も私の髪を触るのが趣味だ。 

 11時45分。ロビーに行く。心臓がバクバクいう。今頃高村くんは、このすぐ後ろで湯船に浸かっているんだろうか…。 

 11時53分。緊張でたまりかねて、内容に集中できないと分かっていながら新聞を取り、読んでいるような格好をする。

「あ、夏木さん、どうもお待たせしました」 

 11時59分、彼が上がってやってきた。約束は冗談じゃなかったのだ。白いTシャツにジーンズ姿が、これ以上ないほど爽やかだ。
 大画面の深夜のニュースを眺めながら、私たちはその夜、銭湯が閉まるギリギリまで、身辺のこと、サークルのこと、最近のニュースの話題、高田の馬場のよく行くお店のことなど、色々語り合った。

「この間もバリ島でテロありましたよね。ニューヨークのテロ以来、世界情勢が不安定ですね…」

 それから私は、この間の彼女さんのことを聞いてみた。

「美雪は、同じ広島出身で。彼女とは地元で同じ高校で、高校一年の時から付き合ってて…。オレにとって美雪は、青春そのものです。地元では、よく自転車の後ろに乗せて、出歩いていました。海にもよく行きましたよ。オレの青春は、美雪といることで生き続けるんです。こんなこと言うと傲慢かも知れないけれど、美雪にとってもオレに変わる人はいないと思ってます。美雪は、聖心女子大ってとこに通っています。一人暮らしです。彼女は、何度も同棲したいって言うんですけど、オレは学生の間は自分の時間も大切にしたくて…。いい距離感で付き合えていますよ。いずれ社会人になって一緒に住むつもりです」 

 一時になったので銭湯を出る。ここの銭湯の閉店の音楽は蛍の光ではなく、グリーンスリーヴスによる幻想曲だ。銭湯にしてはなかなかシャレている。 

 ツンとした寒さが身にしみる。

「この近くに公園があるんですよ」  と、私を促すように目配せして歩き出した。そんなに大切な人がいるのに私なんかと夜中の公園に行っちゃっていいのかな…。こういうのがいわゆる『二股』って言うんだろう、と言う後ろめたい思いが、頭をよぎった。けれども、この先の公園での彼との時間を想像すると、どうしても自分の気持ちを止められなかった。 

 その公園は、以前散歩をしていて立ち寄ったことのある所だった。ベンチが二つあって、無造作に高くもない低くもない木がざっと15本ばかり植えられている、ひっそりとした公園だ。

 高村くんと私は、奥のベンチに腰を下ろした。

「…オレ、将来は新聞記者になりたいって思っているんです。国際政治にすごく関心があるので、できれば特派員とかになって、世界の情勢を伝え、その後40ぐらいで独立して、ジャーナリストやルポライターになれたらいいなっ、なんて思ってます。今、サークルでは、いろんな業界の人に会って、インタビューしたりして、すごく充実しているんです。マスコミってすごい力があるなって感じています…」 

 なんだか眩しかった。それに引き換え私は、三年も半分を過ぎたと言うのに、未だに将来の方向性はぼんやりしたままだ。

「オレ、九月に二十歳になったんですけど、サークルの先輩に誘われてM党議員の選挙活動のお手伝いをしているんです。少しの力かもしれないけれど、オレ、何かせずにはいられなくて…」 

「へぇー、高村くんは本当に精力的に活動しているんだね」  私は誉めてあげた。 

 前の家の二階の部屋に、ふいに明かりが点く。ちょっと緊張したけれど、考えてみれば傍からみれば恋人同士に見えるだろうから、怪しまれる心配もない。

 静かな夜だった。木々も、まるでこちらの話に耳を傾けているように、息を殺して立っていた。空を見上げると、月明かりで意外と明るく、星もたくさん出ている。高村くんは、話題を変えた。

「夏木さん、ランボーっていう詩人をご存知ですか?オレ高校の時に彼の詩に出合って、とても興味を持って。第二外国語フランス語にしたのは、ランボーの詩を原書で読みたかったからなんです。けっこう文法難しくてまだほんの一部分しか読めていないんですけど。日本語訳はもちろんあらゆるものを読み尽くしていて。ランボーの詩は、あの荒々しい文が生き物のようで好きなんです。まるで紙から飛び出してくるような…。そんなエネルギーのたくさん詰まった詩に触れると、自分の心の中と一体化して、逆に気持ちが安定して、精神が研ぎ澄まされるんです」  

高村くんが自分のことを、こんなにありのままに、素直に、情熱的に話してくれていることが、私に気を許してくれているなぁ、と感じて、愛おしかった。しかも今は深夜の三時。とても不思議な時間…。

「高村くんって、何て言うか、ちゃんと目的をもって生きている気がする。私はさ、もう三年なのに勉強も中途半端で、少し自慢できることって言ったら一年からずっと続けている体操と、家庭教師のアルバイトぐらいかな」

「それはすごいことじゃないですか?夏木さん、体操やってる雰囲気ありますよ。続けていることは大切にした方がいいですよ。あっ流れ星!」

 高村くんが空を指差す。私にも最後の尾だけ辛うじて見えた。

「うわぁ、東京のど真ん中で流れ星なんて見たの初めて」 

 なんだか、また運命を感じてしまう。でも、自分の気持ちはまだ言えない。言うべきではない。言ったらまた須藤の時のように終わってしまうのが怖かった。  

 本当はすごく寒かったはずなんだろうけれど、気持が高潮していたせいか、そこで四時まで話していても寒いと思わなかった。

 朝方、高村くんと別れ、まだ興奮はしていたがさすがに睡魔が襲ってきて、奈歩に一限流体力学の代返を頼むメールを打ち、ロフトで爆睡した。 


 起きたら十時だった。二限が空きだから、久しぶりに落合駅から東西線に乗り、早稲田のラウンジへ行く。 

 ラウンジには修平がいて、後輩の男の子二~三人とだべっていたが、私に気が付くと修平は、後輩の子たちを残し、

「理美ちゃん、ちょっと相談したいことがあるんだけど…」  と言って、カフェテリアでお茶しようと言うことになった。

「修平さん、いいんですかぁー?松崎さんにおこられるんじゃないですかぁ?」  後輩のひやかしの声を尻目に、カフェテリアへ向かう。
 カフェテリアで飲み物を注文し、席に着くと、修平が切り出した。

「相談っていうのは…」 
「奈歩のことでしょう?」  私は先走って言った。

「やっぱわかちゃった?っていうかオレ昨日、サークルの一女から告白されたんだ。オレ、それまでその子を、全然意識したことなかったんだよね。なのにその子、四月に会ってからずっとオレのこと好きだったって…。でもさ、オレ、即答できなかった。可愛い子なんだけど、オレ、どうしてもまだ奈歩ちゃんが諦められなくて…。でもさ、オレ奈歩ちゃんにはもう既に振られてるわけじゃん。その子には、少し時間くれる?って言ってあるんだ。オレ、その子のこと全然知らないし、合うか合わないかなんてわからない。もしかしたら好きになれるかも知れない。けどさ、オレ、恋愛でだけは妥協したくないんだよね。恋愛で妥協するくらいなら、原宿のど真ん中で腹踊りした方がマシだって思うくらい。理美ちゃんの言う通りにするから。ね?オレどうしたらいいかなぁ…」

 それで、私は、いつも持ち歩いている私の恋愛のバイブル…廣瀬裕子の『LOVE BOOK』…を取り出し、次のページを修平に見せた。

     
   あきらめること 

 気持ちはしばることができない。 
  だから、自分の思いとちがっても  
  あきらめなければならないこともある。 
  どんなに自分がすきでも  
  相手に気持ちがないとき、  
  その人の感情が冷めてしまったとき、 
  はなれていく気持ちは、  
  だれにも止められない。  
  しばれない。  
  それは、苦しいことだけど、 
  あきらめることが、 
  さいごの愛情になる。  

  がんばれば、
  あきらめなければ、   
手に入るものは、
 いくつかある。 
  だけど、
  人の気持ちは、 
  それとはちがう。 
  すきだからあきらめる。  
  こころを整理する。 
  つらくてもさいごに  
  そういうことが必要なときもある。 

   修平がいつになくしょんぼりしてしまった。
「…わかった。オレ、奈歩ちゃんを諦めるよ。その子に前向きな返事をするよ。理美ちゃんありがとう」 

 私は、修平の悩みは痛い程わかった。高校一年で、同じクラスになった須藤に告白したけれど振られ、そして、三ヶ月後告白された他の子と付き合った経験を思い出していた。両想いなんて、この世には存在するのだろうか。  でも、私は修平を励ましたくて、こう付け加えた。 

「でもね、奈歩、この間の紅葉ドライブの時、修平のことは好きか嫌いかって言ったら好きな方だって言ってたよ。修平のユーモアのあるところが、好きだって…」
 修平は力なく笑った。
 それから昼食を簡単に済ませ修平と別れて、坂を上って三限に出席した。 



     § 


 東京も最近では吐く息が白くなり、朝起きだすのが辛くなってきた。ベランダから見えるモミジの木が、紅葉の最盛期だ。 

 私は、一年のゴールデンウィーク明けから家庭教師のアルバイトをしている。今は、ユウナちゃんという中学二年生の子をもっている。基本的には毎週木曜の八時から二時間で、都合の悪い時には火曜にしてもらうことが多い。中間テストや期末テストの直前には土曜日もやってあげたりする。東池袋なので、大抵は木曜のデンマーク体操の後、徒歩で行く。有楽町線は走っているけれど、護国寺に歩いて行くのとユウナちゃんちに行くのがだいたい同じくらいの距離なので、歩くことにしているのだ。途中にはお墓があったりする。あまり歩いていて楽しいコースではない。ユウナちゃんちも高速道路の真下で、けっこう騒音がする。 

 家庭教師を付ける家庭には、二通りあるような気がする。いわゆる教育ママがいて、東大や医学部などに我が子を入れたいが為に付ける裕福な家庭のタイプ、それから、成績が悪くてどうしようもないとか、いじめにあっていてお友達がいない子などに付ける、ごく普通の家庭のタイプ、ユウナちゃんちは後者だ。

  ユウナちゃんのお母さんは化粧品の販売をしている。その上、週に2日は、夜中パン工場のアルバイトにも行っていて、工場からもらってくるパンを、私もよく頂く。美味しいし、一人暮らしにはとても助かっている。ユウナちゃんのお母さんは、いつも家の中でも目のさめるような朱色の口紅をしている。でも、人は見掛けで判断してはいけないということをこのお母さんから学んだ。とにかくすごく人がよくて、私のことをまるで神様のように扱ってくれるのだ。こんな経験は今までなかった。ユウナちゃんもお母さんに似て、とても素直ないい子だ。でも勉強ができない。来年は高校受験だから、と言う事で四月から家庭教師を探していて、私が派遣されたのだ。
 三月までで終わった子の後、場所等の条件を出して、しばらく紹介待ちをしていたところだった。派遣会社を通しているので、時給1600円と、家庭教師の相場としてはそれほど高くはないが、立ち仕事などに比べると楽だし、早苗のように、大勢の生徒を前に講義する塾講師は自信がなかったのと、家庭教師のある日は、食事の心配をしなくていいのが気に入って続けている。

 ユウナちゃんのお父さんは自動車整備士で料理も上手く、いつも行くと最初にお父さんの手料理が出てくる。

「こんばんは。おじゃまします」 

 私がピンポンを押すと、お母さんがまず出てきてくれて、その影からユウナちゃんがはにかみながら挨拶する。ユウナちゃんの家は平家だ。けして広くはない。そしてズングリムックリな三毛猫がいる。名前は「くり」。

 ユウナちゃんの下には妹がいる。まだ小学二年生だ。普段は二人同じ部屋を使っているが、家庭教師の日は妹がお茶の間に移ってくれる。

 ユウナちゃんの部屋には二段ベッドがあって懐かしい。私も小さい頃は姉と二人部屋で二段ベッドだったからだ。ユウナちゃんはいつもコロンを付けている。私は中学二年の時なんてコロンはもちろんのこと、リップすら付けなかった記憶がある。 
 ユウナちゃんは国語や社会はまあまあできる。だから都合がいい。なぜなら私は国語や社会が苦手だからだ。それで、いつも数学、英語を中心に指導している。たまにテスト前は理科も教えたりする。 

 でも、私の仕事は勉強を教えるだけではない。ユウナちゃんの学校生活の悩みなんかを聞いたりしてあげるのだ。もしかしたらそっちの方がメインかもしれない。ユウナちゃんの悩みは色々ある。部活の苦手な先輩のこと、席替えで一番前の席になってしまったこと、好きな子がいるのだけれどその子には別に好きな子がいると最近分かったこと…などなど。ごく普通の中学生だ。

 今日もお父さんの手料理(今日はマーボー豆腐だった)を食べながらユウナちゃんは学校での出来事を話してくれた。家庭教師の日は家族が気を遣って、夕食はユウナちゃんの部屋に持って来てくれて二人で食べるのだ。私はこの食事の時間もユウナちゃんを知るために貴重だと感じている。 

 ユウナちゃんは中学二年生とは思えない、私も羨ましく思うほどのナイスバディだ。小柄だけれども胸がすごく大きくて(あれはきっとEカップくらいだろう)足は細くて、まつ毛がすごく長くてつぶらな瞳で…なのにいつも自信なさそうなオドオドした眼差しをしている。そんな表情とは裏腹に、本人も自分の大人っぽさを意識しているのか、いつもきわどい服を着ている。それにしても、どうしてこんなに不安そうなのだろう。私は彼女に自信をつけさせてあげたいのだ。 

 今日も、マーボー豆腐を食べながら、

「くりはいいなぁって思うんです。何にも苦労しないでいいんだもん…」  その発言には、さすがにどういうフォローをしていいか分からなかった。 

 自信をつけるには、とにかく少しでも、日常の授業について行けるようになるのがまず一番だ、と思い、食後に早速問題に取りかかった。

「三角形の内角の和は180度である、っていうのはこれからも色々応用で使うから、今日はなぜそうなるのかを証明してみようね。一回ちゃんと理屈を分かって覚えると、忘れないから心配ないよ」 

 ユウナちゃんはちょっと身構える。

「それじゃあいくよ。この三角形ABCのそれぞれの頂点の角度をa、b、cとするね。まず、辺ACに平行な線をちょうど頂点Bが重なるように引いてみて。…そうそう。そうするとaの同位角はどこでしょう?」

「ここ?」 

「その通り。しかも平行線の同位角だから角度も等しいね。それじゃあついでにcの錯覚はどこでしょう?」

「ここ?」  ユウナちゃんはちょっと迷ったけれど当たっていた。

「そうだよ!よく覚えていたね。それで平行線の錯角も等しいんだったよね?っていうことは、見てごらん。abcが一直線上に並んだでしょう。だから180度となります」

「うわぁ本当だ。私ずっと分かんなくて」  ユウナちゃんの顔がパアッと明るくなった。

 その日は、いつもにも増して満たされた気分で、足取りも軽く家路に着いた。

 大学生になって、自分が何か役に立つことをしていると感じるのが、家庭教師をしている時だ。少なくともそこでは私はまぎれもなく『先生』であり、良いことをしてお金を頂いている。自分の存在が人のためになっているなんてこんないいことはないじゃないか。


連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.11
2008-12-16 14:36:06 | 連載小説
 
     §  

 その週の土曜日、11月16日に代々木第一体育館で、フットサルの秋季リーグ戦「オータム・カップ」があった。  こうやって他大との交流試合をするようになったのは、つい最近になってからだ。一年の時はフットサルの認知度はまだまだ低く、三年になってやっと8チームまで増えた。しかし、運営費などの関係で、まだ会場を二日間借りたりはできないので、トーナメント戦で行われる。 

 全試合が終了したのは夕方五時過ぎだった。ベジェッサ西早稲田は惜しくも4位、まずまずの成績だ。六時から渋谷で交流を兼ねた合同飲み会が開かれ、ドライブ以来皆が顔を合わせた。

 松崎もいたが、席が遠かった。この間の深夜から朝方の高村くんと過ごした、あの、なんとも言えない神秘的な時間の余韻が残っていて、後ろめたさを感じ、松崎の近くにいくのがためらわれたのだ。

 私は、飲みながら、周りの人の話を聞いているフリをして、ぼんやりと、遠くにいる松崎を見ていた。高村くんのことも反芻しながら…。 

 飲み会場は、広々とした座敷で、8人が座れるくらいのテーブルが、合計12卓あった。ざっと数えても90~100人いる。すごい団体だ。

 私のテーブルにいる池上くんと早苗は、さっきからいちゃついている。池上の食べかけのやきとりを早苗が食べたり、お互いのお酒を交換して味見したりしている。ほんとに仲がいい。修平は、というと、隣の後輩たちのテーブルにいて、おそらくあの子が修平に告白したのだろう、と思われる子と隣り合って、楽しそうにおしゃべりをしている。

 奈歩は、あれ?奈歩がいないなぁと、思って、ついでにトイレに行こうと思って、席を立った。この店はビルの八階にあって、トイレは、一旦店を出て七階に下らなければならない。  エレベーターがなかなか来ないので、非常階段を使おうと思って人気のない階段を下ろうとした、その時だ。 

 八階と七階の間の踊り場で、キスをし合っている男女がいる。私はなるべく目を合わせないようにして、でもちょっと興味があって、ちらっと彼等を見た。 

 …奈歩と稲葉洋介だった。 「奈歩…」  私は、声を押し殺し、二人に気付かれないように、そそくさと、だけど静かに階段を下り、トイレに駆け込んだ。 

 今見た光景を、頭の中で再現してみる。 
 特定の彼氏は作らず、キスまでできる男が五~六人いることを、親友として忠告したこともあった。しかし奈歩の言い分はこうだ。

「私は、セックスをしたら二股だけど、キスまでは二股とは言わないって思ってる。それに、大学時代は広く浅く色々な人と知り合いたい。だから特定の彼氏は作らない。そして、男友達の中に、キスまでする人が何人いたって、私がそれぞれの相手とそれぞれの時間を過ごして、どの人にも、他の男の話をしないことにしている。それが最低のマナーだと思ってるわ。それさえできれば自由にしていいと思う」

 だが、もしも、相手が奈歩の素性を知ったら、ショックを受けるんじゃないだろうか。キスだって、ちゃんと付き合っている人とじゃなかったら、それか、付き合おうと思っている人とじゃなきゃできないんじゃないだろうか。
 奈歩にとって、きっとキスとは、どこかの国でのそれのように、挨拶代わりぐらいのものなのかも知れなかった。セックスだって挨拶代わりみたいな価値観の国だってあるぐらいだ。人それぞれでいいと思う。でも……。 

 私は、私は、松崎と別れないうちに、高村くんとキスすることは、できないだろう、と思っていた。高村くんが男女の付き合いについてどう感じているかは分からないけれども、少なくとも、自分自身を欺くことになる。美雪さんの存在を知っているのだから、なおさらそんなことはできない。

 でも…。今の私はもう、そういう自信はなかった。今度高村くんと会ったら、手ぐらい繋いでしまいそうな予感がした。キスだって、絶対ないとは言いきれない。

 飲み会場に戻ると、なんだかみんなべろんべろんに酔ってすごいことになっていた。ふと松崎を目で探すと、松崎は他大の同期の男の子数人と話していた。おそらく理系同士の真面目トークか、それでなければフットサルのことだろう。

 私は、さっきの奈歩と稲葉のキスシーンを見て、急に寂しくなって、松崎の方へ近寄って行った。

 松崎は、他大生の前で困ったような顔をした。松崎は、顔に似合わずヒゲも濃くひそかに立派な胸毛もあって、欧米人の血が流れているようにもかかわらず、公衆の面前でいちゃいちゃしたりすることを何よりも嫌う。私は、もちろんこういう場でキスはしないにしても、池上と早苗がしているような、食べかけのものを食べたり同じコップの飲み物を飲んだりするくらいいいじゃないかと思う。でも、松崎は、そういうことにもいい顔はしない。たぶん、いい解釈をすれば松崎は私を大切にしているのかもしれない。私との時間は神聖なもの、スキンシップは秘めやかに行いたい、と…。

 飲み会は10時にお開きになり、その後カラオケに流れた。2時間歌って、アパートに帰った時には既に1時を回っていた。松崎は誘ったが来なかった。

 翌日の日曜日、まだ布団でぐずぐずしていると、実家から電話がかかってきた。 

「理美、昨日は夜遅かったの?何回か電話したのよ。それはそうと、今日午前中に届くように野菜送ったから…」 

 「ありがとう」  私は眠い目をこすりながら、あまり働いていない脳からやっとその言葉を出す。

「理美、年末の予定はどうなってる?お姉ちゃんは長澤さんを連れて12月30日から帰ってくるんだって。理美もその頃帰ってきたら?」

「うん、ちょっとまだわかんないや。もう少し近くなったら連絡するよ」  とにかく眠くて、適当に返事して切ってしまった。

 11時頃、玄関のベルが鳴り、野菜が届いた。箱を開けると、いつものように、各野菜を新聞紙で包んで、筆ペンで「ダイコン」とか「ゴボウ」とか書いてあった。野菜の他に、乾燥したプルーンやコーンの缶詰、カットわかめなども入っていた。私はそれらを冷蔵庫や戸棚にしまい、ひと休みして、出かける準備を始めた。午後、松崎と目黒の庭園美術館へ行くことにしているのだ。時間を決めてなかったから、
「2時半に目黒駅東口改札でいい?」とメールをして、着替え、化粧をしていると、十分ぐらいして
 「了解」と返信が来たので安心する。 

 松崎は、メールもあまり好きではない。出しても返事はすぐに来ないし、来ても最低限のことしか書いてこない。でも、男の人は大抵皆そうなのかもしれないから、あまり気にしないようにしていたが、高村くんは違った。丁寧に長いメールをよこしてくれる。

 庭園美術館では、企画展『マリー・ローランサン展』が開催されていた。幼い頃、長野に家族旅行に行った時、初めてマリー・ローランサンの絵と出合い、子供心にも、なんて素敵な色合いの絵だろうと思ったことがあった。パステル調の、ピンクや白やラベンダー色を使い、女の子や動物などをモチーフにしている絵だ。数週間前、電車の中刷り広告でこの企画展のチラシを見て、松崎を誘ったのだ。  

 松崎は白金台に住んでいるから、目黒駅に来るよりは直接庭園美術館へ行った方が近かったのだろうが、庭園美術館は初めてだ、と言うと、快良く駅まで迎えに来てくれた。松崎は小さい頃よくお母さんと弟と一緒に、この美術館へは散歩のついでに立ち寄っていたらしい。 

 美術館の正面入り口には、なんと大好きな『ルネ・ラリック』の作品が待っていてくれた。女神が羽を広げているガラス細工だ。

 展示物は、素晴らしかった。『接吻』は、淡いピンク、ブルー、グレー、そしてアクセントにブラックが使われていて、どこか哀しさが漂う。『狂乱の1920年代』と言われるお祭り騒ぎのパリ社交界で人気画家だった時代の代表作だ。晩年を飾る大作『三人の若い女』には、憂いの面影は消え、暖色系を使った楽しげな心模様が映し出されている。

 松崎と私は、終始無口だった。もちろんこういう場で大きな声でしゃべるのはどうかと思うが、お互いの感じたことを小声で言い合うのはいいと思うのだが、松崎は無口だった。私は、もし高村くんだったら、高村くんとだったら、色々話しながら楽しく鑑賞できたんじゃないだろうか、そんなことばっかり考えていた。

 展示を見終わった後、木の渡り廊下を通って、別棟にある喫茶店でお茶をした。店内にはベートーヴェンの交響曲『田園』が流れている。この喫茶店は、普通の家の応接間にあるような木製の低いテーブルにゆったりとしたソファだった。窓はとても大きく、庭の景色が見える。松崎はさりげなく私を窓側にしてくれた。 

 「理美ちゃん何頼む?」  ケーキセットを頼んだ。
松崎はコーヒーを頼む。松崎はKOOLで一服する。

 一生懸命話すことを考えた。それで、この前のりんご狩りの時早苗に言われた『話を引き出してみる』ことを実践してみようと、研究のことを初めて聞いてみた。 

「ねえ、大ちゃん、液晶ってさ、正体はどんなものなの?」  理系とは思えないような幼稚な質問だっただろう。けれども、松崎は『液晶』と言う言葉を聞いたとたん、顔にひまわりが咲いたのだ。それからは思いもよらぬ、松崎のオンステージだった。

「まあ、確かに正体って言い方が合ってるね。あのね、液晶って一言で言うとね、液体と結晶の中間の物質のことを言うんだ。結晶とはそもそも、例えば氷の結晶の場合水分子H2Oが一方向を向いてるように、原子や分子が規則的に並んだ状態のこと。それに対して液体は、例えば氷が溶けて水になると、分子がいろんな方向を向いてある程度自由に動けるんだ。これは分子間力とか熱による力の関係によるんだけれど。さらに水がもっと温度上昇すると水蒸気になるでしょ。この状態になるともう、分子は自由奔放に動きだすよね。この固体(結晶)、液体、気体の三体の存在がこれまでの地球上の物体の状態であるというのがこれまでの考えだったのね。1800年代頃までの…」 
 ここまで松崎が話したところで、松崎のコーヒー、私のケーキセットが運ばれて来た。  松崎はコーヒーを右端によけて、続けた。

「液晶は、液体と結晶の両方の性質を持っているんだ。外観は半透明でドロドロしたものと言っておこうかな。液晶には『粘弾性エネルギー』っていうのが働いていてね。液体って、実は不安定なんだ。考えてもみてごらん。氷はそれこそマイナス273℃からあるし、水蒸気は100℃以上ですごく高温にもなるけれど、水っていう状態は0℃から100℃の間だけなんだ。液晶は有機化合物だよ、ベンゼン環って習ったじゃん?あの形態が基本になってるんだ。で、温度は常温が最適温度とされる。25℃くらいかな。それ以上でも液晶状態が保たれる組み合わせもあるけどね」 

 松崎がこんなに雄弁なのは今までで初めてだった。ちょっとびっくりした。松崎はコーヒーを一口飲んだ。私は、素朴な疑問を投げかけてみた。

「じゃあさ、液晶テレビと普通のテレビの違いは?」 
 松崎は、にこっと笑って、また話し始めた。 

「液晶と液晶テレビって言ったらまた別の話なんだけどね。普通のテレビ(ブラウン管)はね、それ自体が光ってる、すなわち『発光』と言う現象を用いているテレビで、自発光型って言われてる。液晶テレビ以外はすべてこのグループに入るんだ、プラズマテレビやFEDや有機ELなんてものが今出てるかな。それに対して液晶テレビっていうのは、非発光型って言われてて、液晶そのものは光っていなくて、液晶の裏にある光源からの透過量をコントロールしているだけなんだ」

 松崎の眼は、すっごく生き生きしていた。松崎の頭の中は、私には想像できない位の世界が入っているみたい。
 私は、松崎の情熱に圧倒されて、ただただ、ふ~ん、と頷くしかできなかった。松崎は、こんなことを言った。

「理美ちゃん、この世の中って不思議なことの固まりじゃないかな?発光って言う現象もね、人間の目に見えるほんのちょっとの波長の間でのことでさ、本当は目に見えてる世界なんて、全体のごく一部にすぎないんだ。オレさ、前から思ってることなんだけどね、同じ人間や哺乳類でも、瞳の色によって見えてる世界って違うんじゃないかって。オレと理美ちゃんだって見えてる色が違うかもしれないよね…」 
 松崎って、そんなこと考えていたんだ。やはり松崎はとてつもない人なのかもしれない。  それから松崎はふと思い出したように話題を変えて、

「理美ちゃん井上祥って覚えてる?上智休学してカナダ行ってるヤツ。井上が年末帰ってくるんだ。昨日パソコンにメールきててさ。でね、カウントダウン・ライヴに行こうと思うんだけど、理美ちゃんも誰か一人友達誘って、四人で行くのはどうかな?」 
 井上祥。松崎と中・高一緒で、一、二年の頃はたまに一緒に飲みに行ったり、クラブに行ったり、と親しくしていた。

「いいね!じゃあ香織にでも声かけてみようかな」  田中香織は、中学二、三年で同じクラスになって以来の友達で、唯一高校でも同じクラスになった友達だ。地元で一番の親友だ。

 カウントダウン・ライヴっていうのに一度行ってみたいと私が去年だったか言ったのを、松崎はちゃんと覚えていてくれたんだ。両親はちょっとがっかりするかもしれないけれど、こういう年明けに憧れていたし、ライヴから福島に直行すれば、数日は帰省できる。 

「夜通し、かあ~。楽しみだぁ」  その日は実家にはお邪魔せずに、目黒駅で別れた。 



 翌日の月曜日、銭湯に行ったら閉まっていた。 

「そうだった、月曜日は休みなんだっけ…」  がっかりして、アパートに戻ろうとして、ふと、高村くんの家の方へ足が動いていた。  すみれ荘の二階の奥の部屋。明かりが点いている。なんだかそれを見ただけで、心の中にもポーッと明かり点いたような気分になった。


連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.12.13.14
2008-12-16 21:46:00 | 連載小説

     § 

  その週の木曜日、物性論の後、デンマーク体操に行った。奈歩は友達と映画の約束があるということで休んだ。きっと男とだ。奈歩が、奈歩の恋愛の自由さが、少し羨ましい気もした。

 デンマーク体操を躍っている時は、頭の中が白紙状態になって、心がときほぐされるようなリラックス感がある。今日は佐々木コーチだった。佐々木コーチが、整理体操で使うヒーリングミュージックがすごく好きだ。この曲はラジオでも一度偶然聴いたことがあっていい曲だなぁ、と思っていた。佐々木コーチは整理体操の時に、一人一人を回って、肩を揉みほぐし足をブラブラ揺すってくれる。これが何と言っても好きだ。きっとみんなも、心待ちにしているに違いない。

 練習の後は、ずっと先延ばしになっていた、目白祭の反省会を兼ねた飲み会が、池袋の『カプリチョーザ』であった。佐々木コーチがタクシーにしましょう、と言ってくれて、不忍通りで三台やっとつかまえて、カプリチョーザの場所を知っている私が先頭の助手席に乗り向かった。久しぶりのアフターだ。

 着くと、中村コーチは既に着いていて、席で待っていてくれた。 
 デンマーク体操部の飲みはいたって健全、コーチが保護者のようで安心感のある飲み会だ。アルコールの入らないお食事会も多い。女ばかりなので妙な色気も出す必要がないので、とてもゆったりのんびり気楽に楽しめる。女ばかり十余人の団体に、なんとなく店員さんの応対も丁寧で気持がいい。世の中、女は得にできている。 

「それでは、目白祭お疲れ様でしたー」 
 曲がりなりにも部長の私が、乾杯の発声をする。ビールの人が一人もいない。皆カシスオレンジとか、ファジーネーブルとか、甘いカクテル系で、中にはソフトドリンクの人もいる。 

 乾杯の後しばらくして、後輩の女の子が、

「私、理美先輩の動きが憧れなんです。すごく伸びやかで柔らかくて、顔の付け方とかも上手いですよねー」

「そう?ありがとう」  後輩にそんな風に見られていたかと思うと単純に嬉しくて、残りのカクテルをグイッと飲み干した。 

 奈歩は、会が始まって30分くらいして顔を出した。デートを早めに切り上げたらしい。
「奈歩の好きなトマトとニンニクのスパゲッティまだ残ってるよ」  奈歩によそってあげた。

「永井さん、このところ顔見ないけど、どうしたのかしら?」  と中村コーチに聞かれ、私は一瞬止まったが、中村コーチは一年からの付き合いで、気心も知れているお母さん的存在なので、ありのままを話した。 

「そうだったの…。可哀想に。何にもしてあげられなかったわ」  と、とても悪がっていた。

 何ごとも未然に防げたらそれは願ってもないことだ。でも起こってしまったことについて、誰を攻めることもできないし、恋愛って特にそういう要素が強いんじゃないかと思う。

「近くにいたはずの奈歩や私でも手助けできなかったんです。でも、もしかしたら緑にとって、目白祭の練習は、唯一気が紛れた時間だったのではないでしょうか?彼と別れたのが八月の中頃だったと思うので。とにかく、今度12月に奈歩と島根に様子を見に行って来ようと思っています」 

 店を出たのは九時半過ぎだった。みんな気分良く酔ってすっかり和んで、手を繋いだりして駅まで歩く。奈歩や中村コーチたちとは池袋で別れる。新宿方面の3~4人で一緒に山手線に乗り、新宿で皆と別れた。

  東中野からの帰り道、酔った勢いで高村くんに電話してみたくなったけれども、話すことも見つからなくてやめた。     

  
    
    §  


 11月最後の週末は、松崎に予定があって、久しぶりに土・日が空いていた。  私は土曜日の11時頃、高村くんにメールしてみた。

「11月もあっという間に終わりですね。ところで今日、もし良かったら午後近所でお茶でもどうですか?」
 2、3分してすぐ返事が来る。
「大丈夫、空いてます。では二時半にアパートの下に迎えに行きます」  高村くんとデートだ。これはもう完全に二股だ。でも…奈歩と比べたら大したことではないだろう。高村くんとは手も繋いでないし、キスもしてないんだし。
 私は、随分迷った末に、グレーで前にワインレッドとピンクとシルバーのダイヤ型の模様の入ったセーターに、黒と白の細かいチェックの、脇に黒いベルベット素材のリボンの付いているミニスカート、そして黒のロングブーツにした。コートは言わずと知れた赤いPコートだ。お化粧は、格好に合わせて暗めのアイシャドウにマスカラはあまり濃くない程度に吟味して付け、口紅はいつもよりも濃い色のにした。われながら季節にふさわしい満足のいくオシャレができた。

 2時28分、メールが来る。 

 「着きました」 

 お気に入りのヴィトンのショルダーバッグに化粧ポーチとお財布と携帯とハンカチを入れ、さっと黒のロングブーツを履き、鍵をかけ、下へ降りる。 

 高村くんも、今日はオシャレをしていた。紺のPコートを羽織り、ボタンは閉めずに、中には白いシャツに私と偶然同じダイヤ型のカラフルな模様のベスト、そして黒い細みのズボンを履いている。 

「今日は、ファミレスじゃなく、連れて行きたいところがあるんです」  高村くんはそう言うと、ゆっくりと歩き出した。もしも、私が手を差し出せば繋いでくれそうな、そんな雰囲気だった。でも、この距離感が心地よくて、手を繋がずに二人並んで歩いた。

 街路樹は葉っぱをすっかり落とし、風も冷たく、道行く人たちも皆、冬物のコートを着込み、マフラーをしっかりしている。手袋をしている人もいる。今年の流行は毛布を捲いたような袖無しニットで、ポンチョとか言うらしい。

 五分ほど歩いただろうか、スーパートヨクニの手前で、高村くんは細い道に入った。立て掛け式のオシャレな焦茶色の看板に『Cafe 傅ーDENー』と書いてある。その奥に、ひっそりとした喫茶店があった。近所にこんなオシャレな店があったとは知らなかった。高村くんは美雪さんと、いつもこういう素敵な所でデートしてるんだなぁ、と想像した。

 聞くと、この店は高村くんの秘密の場所で、高村くんはよくここで、本を読んで時間を過ごすのだそうだ。

 中に入ると、店内のカウンターにオーナーらしき、グレーヘアーに整えられた口ひげのダンディなおじさんがいて、コーヒーカップを真っ白い布巾で磨いていた。 

 「お好きな席へどうぞ」
 愛想よくも無愛想でもなくオーナーはそう言って目配せをする。 

 店内には、私たち以外誰もいなかった。そもそもこの店はオーナーの趣味で始めたらしく、特に儲けようとしてはいないのだと高村くんは言った。 

 私たちは、一番奥の端の席へ座った。
 大きなガラス張りの窓の外には、綺麗な深い緑色のツタの葉が茂っていて、その奥には形のいいもみじの木がすっかり葉っぱを落とし立っていて、私たちを興味深そうに見ている。 

 店内には、バッハの平均律が流れている。 
 照明も蛍光灯ではなく白熱灯で落ち着いた雰囲気だ。
 メニュー表もおしゃれで、和紙に筆文字で書かれてある。高村くんは、

「いつものブレンドお願いします」  丁寧な頼み方にすごく好感がある。どうやら店員さんにも顔を覚えられている様子。
 私はケーキセットを頼んだ。飲み物はこの店自慢の炭焼ブレンドコーヒーにしてみた。

 二人はしばらくの間窓の外を眺め、心からリラックスしていた。もう最近では初めて出会った頃の、息の詰まるような、むせるような緊張感は取れていた。  

 この喫茶店は、天井が高いからか、美術館のように声が響く。彼のボイスがとても心地よい。
 そして、今日も、実にさまざまなことを話した。おじいちゃんは被爆者で車椅子生活をしていること、記者クラブの活動のこと、好きな本や食べ物のこと、音楽のこと…。

「世界中の核兵器がなくなることを、おじいちゃんは願っています。ヒロシマ・ナガサキの惨事が再び繰り返されることのないように、と。ほんとに優しい心を持った人だから、オレもおじいちゃんの想いを受け継いでいきたいって思っていて、今、おじいちゃんの書いた手記を英訳してるんです。この間はNPOの集会に参加してきたんですが、けっこう学生も多くて、今後様々な事業を展開していこう、という活気に満ちあふれた集会でした。その後の懇親会にも出席したんですが、尊敬するフォトジャーナリストも来ていて、少しだけ話をすることができて、それはもう感激でした」   
 
 彼の話し方、声のトーンや抑揚はとても上品で、その声を聞いているだけですごく満たされた気分になった。そして、その端正な顔を見ているだけで…。

 高村くんは、人に分かりやすく話すことに関して天才的だった。

 時間はあっと言う間に過ぎ、日も傾きかけてきた。

 気が付くと、初雪が降っていた。

「あっ、雪」  高村くんがちょっと興奮気味で言う。

 私は窓の外を見た。ふわふわのとても柔らかそうな、綿を小さく千切ったような雪が風に舞い散っている。高村くんは雪が珍しいらしく、

「夏木さんはウインタースポーツ何かされるんですか?」  と聞いてきたので、 

「ええ、三才ぐらいからよくスキーに連れて行ってもらってたよ。だから上手かどうかはともかくも、恐怖感っていうのはないの。私、スキー場で見る樹氷がとても好き。それからリフトで流れている音楽も」

 地元のスキー場を懐かしく思い出す。

 それからは雪にまつわる話になった。

「美雪は12月24日、なんとクリスマス・イヴ生まれなんです。広島でクリスマスに雪が降るのは珍しいんですが、美雪が生まれた日は、真っ白な雪が降って。それで、美雪っていう名前が付いたんです」

 高村くんが美雪さんの話をすることに、不思議と嫉妬は感じなかった。むしろ、高村くんが発音する「ミユキ」という響きが、とても綺麗で、憧れのようなものさえ抱くようになっていた。

 すっかり暗くなったと思い、時計を見ると、あっと言う間に五時半になっていて、そろそろ出ようということになった。こんなに素敵な場所に連れてきてくれたお礼に、お代は一緒に払った。

「ありがとうございます」  丁寧にお礼を言われた。 

 それから高村くんは、馬場でサークルの人たちと飲みがあると言うことで、店の立て看板の所で別れて、落合駅の方へ歩いて行った。少し寂しかったけれど、それでも十分幸せで、アパートに帰ってからもその日はずーっと余韻が残っていた。 

 夜、お風呂を沸かして入った。部屋の明かりを消してロウソクの炎で入るのが好きだ。バラの入浴剤を入れてお湯は熱めにする。お風呂に入りながら、やっぱり考えることは高村くんのことだった。 




     § 

 早苗に高村くんのことがバレたのは、翌週の月曜日だった。 
 珍しいこともあるもので、午後からの応用物理学実験がお休みだったので、二限のLL教室での英語の授業の後、いつものように奈歩と坂を下りラウンジに行った。そしたら早苗もいて、

「ちょっと来てよ」  と私と奈歩をカフェテリアに連れていって席に着くなり、

「理美、どういうこと!うち、聞いとらんよ」  といきなり切り出した。

「優のことや。高村優。あんた知ってるの?いつからよ?どういう関係?松崎はどうしたんよ!」

 あまりの剣幕に、私と奈歩はちらっと周りを見渡した。 

 高村くんのことは、実は奈歩にもまだ内緒にしていたから、私は返答に困った。

「早苗には言おうと思ってたんだけど…」

「優は、同じ西の方出身で、一年の中では唯一話が通じる、かわいい弟のような存在なんよ。土曜、サークルの飲み会やったんけど、優が理美のこと聞いてきたんでびっくりして。いつから知り合いなん?知り合ったきっかけは?え?」 

 私は、まずいことになったと思った。早苗に知られたということは池上くんに流れるのは時間の問題で、そこから松崎にバレるのは確実だ。

「高村くんは、近所のファミレスでよく顔を合わせてて、ある日話すきっかけがあって、それ以来友達になったの。でも早苗、誤解しないで。高村くんとは、単なる近所の友達で…」 

 と自分に都合のいいような無難な返答をする。

「二人で会ったりしてるんじゃないの?」  早苗が詰問する。私は涙目になった。

「二人で会ったことはあるけれど、本当に友達としてよ。キスはもちろん、手を繋いだこともないのよ」

「松崎がいるのに、他の男と二人で会うっていうのは、もうそういうのは二股って言うんよ!」  早苗は容赦なく言い放った。

「じゃあ奈歩はどうなのよ。奈歩はキスまでする相手が五人もいるじゃない。それでも私は悪いのかな」

「奈歩は同罪やない。奈歩は特定の彼がいないから許されるんよ。そういうことができてるんやから。そやけど理美、あんたには松崎がいるんよ。松崎がもし知ったらどう思う?悲しむわよ」 

 私は下を向くしかなかった。

「理美、うち池上にも松崎にも言わんどいてあげるから、自分でちゃんと解決するんよ」 
 早苗は、厳しいのか優しいのか分からない。

 五時からデンマーク体操だった。部活の後、中村コーチに悩みを打ち明けた。

  「私、好きな人が二人いるんです。一人は一年からずっと付き合っている人で、この間の発表会にも友達連れて観に来てくれました。彼とはもうすっかり落ち着いていて、ちょっとマンネリ気味で…そんな時、もう一人、高村くんって言うんですけど、を最近すごく好きになってしまって、彼に内緒で会っているんです。彼、最近研究で忙しくてあまり会ってくれなくて…高村くんは彼と何もかもが正反対で、とても新鮮で。この間も近所の喫茶店に連れて行ってくれて、とても楽しくお話したんです。彼とは高村くんほど話が盛り上がったりしたことがなくて、今、正直高村くんとの時間の方がすごく楽しくてドキドキするんです」 

 すると中村コーチはこう言った。 

「恋愛って楽しいことばかりじゃないわ。時には辛くなる出来事もあるものよ。今理美さんは大事な時ね。高村さんは、理美さんに彼がいることを知らないからそういう振る舞いをしているのだと思うわよ。だから理美さんは、このままだと彼と高村さんの両方を失ってしまうかもしれないわよ。自分の気持ち、整理してみて。彼とのこれまでの軌跡を簡単に壊しちゃだめ。ダメージを受けるのは理美さんあなたなんだから…」 

 その晩、私はアパートで、TVも音楽もつけず、部屋の電気もつけず、考えていた。そうか、高村くんは、私に彼氏がいることを知らないんだ。それなら高村くんは悪くないのか。でも美雪さんに対して後ろめたい思いはないのだろうか…。悪いのはすべて自分なんだろうか…。 

 私は耐えられなくなって、アパートを飛び出した。向かったのは高村くんの家だった。  高村くんの部屋を外から眺める。明かりは点いていた。2~3分寒い中立ち尽くして、ずっと高村くんの部屋を見上げていると、犬を連れたおばさんが不審そうに私をじろじろ見て、そうして去って行った。それでも私はまだその場から立ち去ろうとはしなかった。 そのうち、明るいカーテンにちらちらっと人影が見えた。 

 (あっ、高村くんだ)  と思ったら、すぐ後にもう一人の人影が見えた…。 

 (美雪さんだ……)  知ってはいた。けれどショックだった。私は入れない高村くんの部屋に入れてもらってベッドで戯れている美雪さんに、私が嫉妬しないはずがなかった。私はもと来た道を小走りで引き返す。分かっていたはずなのに…。それなのに…。涙が出て来た。

 アパートに戻っても、まださっき見た光景が頭に焼き付いて離れない。涙がじんわり流れ出して、だんだん大粒になり、止まらなくなった。私は無意識にケイタイを取り出し、検索して通話ボタンを押す。

「理美、どうしたの?」  奈歩は心配そうに言う。こういう時に聞く親友の声って、なんて柔らかいんだろう。私は奈歩に今の出来事をありのままに話した。 

 「うんうん、わかるわ。理美、辛いね」  奈歩は肯定も否定もせずに、私をただ、受け止めてくれた。


連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.15
2008-12-16 22:33:07 | 連載小説

     § 

 12月6日の金曜日は、前から予定していた奈歩と島根に行く日だった。十日ほど前に緑のお母さんに連絡したら、

「来て下さるなんて、申し訳ないです。緑に外泊取らせますね、本当にありがとうございます」と言ってくれた。

 ハチ公前で奈歩と七時に待ち合わせ。出発は八時だ。私は三限まで出て、四限は休み、一旦アパートに戻って、バッグに荷物を詰めた。なんとか仕上がったビーズのネックレスを綺麗にラッピングして、荷物の一番上にそっと置いた。

 遠出は、紅葉ドライブ以来だった。今の時期に島根に行っても海水浴も楽しめないけれど、今回は緑に会いに行くのが目的なのだからそんなことは気にしない。

 七時に奈歩と落ち合い、バスの発着所へ向かう。一泊なのに二人共けっこうな大荷物だ。
 夕食は近くのカフェで簡単に済ませた。二人共コンタクトは取ってメガネにしてきたので、しかも二人共、縁がカラフルで太いメガネなので、傍から見たらデザイナーのように見えたかもしれない。

 19時45分、バスに乗り込む。空いていた。確かにただでさえ東京ー島根間はマイナーな路線だし、時期も中途半端だからだろう。真ん中あたりの席だった。私は奈歩に窓側を譲る。
 ゆったりした座席で、一番後ろには温かい飲み物を自由に取れるところがあって、お手洗いも付いていた。

   バスは八時を少し過ぎて出発した。 

 いつもは徒歩か電車での移動がほとんどの東京の街を、大型バスから眺めると、又違ったように見える。これから夜の遊びに繰り出すらしい若者の集団、スーツにネクタイ姿のサラリーマン、露店で商売しているアラブ系外国人、カラオケ屋、飲み屋の勧誘の店員…などが小さく見える。 

 ほどなくしてバスは東名高速道路に入った。バスの中の明かりが暗くなる。私と奈歩は、コートを膝掛け代わりにして、後ろに人がいなかったので、おもいっきりリクライニングした。

 奈歩とこうして二人で旅行するのは、考えてみれば初めてだった。一年の始まりから、松崎がいたので、旅行は専ら松崎と行っていたし、そうじゃない時は緑と三人だったりした。

 まだ眠くなかったので、最近の、高村くんと出会ってからの私を反芻していた。本当に降って湧いたような恋。私は奈歩に話してみた。

「奈歩、この間はありがとう。なんか、切ないよ。高村くんとは、ひとたび会って話始めたら、あんなに楽しいのに…。もともと叶わなぬ恋だったんだよね。なのになんで美雪さんがいるのに、会ってくれるんだろ。余計辛いよ。私、どうすればいいかな?早苗にも中村コーチにも、高村くんのことは反対されてる。まずは高村くんに、私に彼がいることを伝えるべきなのかな…」

「理美、理美はね、自分が特別な経験をしているように思っているかもしれないけれど、私たちみたいに多感な時期には、二人の人を同時に好きになってしまうことって珍しくないと思うわよ。私はね、そういう経験、中・高でさんざんしてきて…。昔そういうことあって。だから、私は特定の彼を、結婚を考えられるぐらいの人が現れるまでは、作らないことに決めたの。そのことで、安住する人がいない、不安になることもあるけれど、深く付き合うことに臆病になっちゃったのよね。一方を傷つけるくらいなら、最初から深入りしないようにって。理美、松崎にも高村くんにも、まだ何も言わない方がいいわ。次に高村くんに会う時に、まず告白してみて。美雪さん云々ではなく、あくまでも自分の気持ちを大切にして。正直に自分と向き合ってみて。気持ちって言わないと伝わらないと思うの。でもね、私高村くんに会ってないから何も言えないけど、これだけは言えるわ。松崎は、真っすぐに理美のことを想っているってこと。大切にしてくれているってこと。松崎にとっては、理美以外にいないってこと。松崎を傷つけるくらいなら、少しの間嘘をついてあげて。そのくらい松崎は…」

「わかった。奈歩の言う通りにする。私、高村くんに出会ってね、今まで松崎を基準にしてた恋愛観そのものが見事に壊されたって言うか打ち破られたって言うか…。高村くんは、松崎と何もかもが違うの。そう、女性的って言うのかな。話しやすいし、メールも丁寧に打ってくるし、考え方、目線なんかが似ていて、親近感が湧いてしまって…。私、そういう気持ちって男の人に対して抱いたの初めてなの。松崎とは、確かに一緒にいて心底落ち着くし、同じ物理専攻で色々教えてもらえたり、お母さんがピアノの先生だから嬉しかったり…。でも、震えるような刺激は感じないし、物足りなさを感じているのも事実で…。比べられることじゃないのかもしれないけれど、高村くんが新鮮だったのね。付き合えないって分かっても、気持ちだけ伝えてみるよ。」 

 バスは秦野中井ICを通り過ぎてゆく。 

 でも、好きとか言ったら、また須藤の時みたいになってしまうようで、内心、迷っていた。好意を抱いた男の子と、振られたからって友達として続いた試しは、未だかつて、ない。

 時計は九時を回ろうとしていた。リクライニングを戻し、後ろから温かいお茶を取ってきて飲む。

 車窓からのキラキラした夜景を眺めていたら奈歩がふいにこんなことを言った。

「理美覚えてる?松崎の友達で今カナダに留学している井上くん。彼がね、この冬帰国するんだ。私ね、メールのやり取りはずっとしてたんだ。一年の時四人でスノボー行ったことあったじゃん、あの時実は井上くんに一目惚れしたんだ。でも、あの時は彼には素敵な彼女さんいたじゃない?で、私、あれ以来特定の彼氏って作らなかったじゃない。それってね、実は井上くんがすごく好きで諦められなかったからなの。でもね、今は一人なんだって。メールで話してくれたんだけど、カナダ留学決意したのも、元カノの影響なんだって。彼は振られたの。元カノの麻里絵さんは、帰国子女でかなり頭のきれた人だったそうよ。井上くんは彼女の視野の広さ、考えの深さ、大人っぽい部分にいつも嫉妬してたって言うか、悔しかったみたい。もっと自分が、彼女と対等なくらい英語ができたり、視野の広い会話ができたりすれば、振られなかったんじゃないかって、彼なりにすごく悩んだ時期があったみたいなの。それで、カナダ留学したんだって。提携してる大学に行けば単位も一部は振り替えてもらえるとかで。それが二年の九月からね。学校は今年の八月で終わったんだけど、彼、今三ヶ月の世界一周旅行に出てるのよ。旅先から一週間おきぐらいにエアメールが来るの。私、夏に思いきって告白したの、『帰ってきたら私と付き合って下さい』って。そしたら、『いいよ、こちらこそよろしく!』って返事がきて。だから私も、今まで中途半端に付き合ってきた人たち、稲葉とかね、12月までに清算するんだ」

 奈歩が井上くんとそうなっていたなんて…。

「奈歩、良かったじゃない!私も嬉しいよ。また一年ん時みたいに、四人でダブルデートもしようね!」  それならカウントダウン・ライヴは奈歩を誘おうと思った。香織には幸い、まだその話をしていなかった。 

「松崎もこの間、井上くんが帰国するんだ、って嬉しそうに話してて、年末カウントダウン・ライヴのチケットを四枚取ってくれるらしいの。私が誰か友達を誘って四人で行こう、ってことになってて。じゃあ奈歩絶対一緒に行こう!」 

 松崎の友達の井上くんと、私の友達の奈歩が付き合いはじめる…。私は思った、奈歩もこの一年、寂しかったんだろな、と。遠距離恋愛のようなものだったんだもんな。  バスはあっと言う間に浜松まで来ていた。

15分の休憩があり、用はなかったが降りて、伸びをし、うなぎパイを買った。  それから後は、バスのエンジン音が眠気を誘い、深夜にトイレに起きた以外は朝まで熟睡した。 


   朝六時過ぎ、日の光で目が覚める。程なくして島根県の県庁所在地松江に到着した。ここで乗客の約半分が降りた。緑の実家は出雲だ。その後、宍道、玉造、と停車し、出雲に着いたのは七時半過ぎだった。 

 バス停には緑のお母さんが車で迎えに着てくれていた。 

「遠くからありがとうございます」  お母さんが車から出て挨拶してくれた。緑は?と思って車の中を見ると、後ろの座席に、乗っていた!表情は明るかったが随分と痩せていた。
 その姿を見て、私は即座に「拒食症」「対人恐怖症」と言う単語が頭に浮かんでしまった。

 奈歩と私は車に乗り込む。私たちは久しぶりの再会にしばし喜び合い、緑の実家へと向かった。ちょっとよそよそしい緑を感じて、

(ああ、緑はまだ治ってないんだな…)と悲しい気分になったが、表面上はそういう素振りはせず、きわめて明るく接した。

「島根はもっと暖かいのかと思っていましたが、やはり12月ともなると寒いんですねー」 
 私は当たり障りのない会話をした。

「そうなんですよ。島根って南の方だから冬は雪が降らないと思っている方もいますけどね、実は積雪量がけっこうあって、スキーも出来るんですよ」 
 とお母さんは運転しながら、優しい声で言う。

 20分足らずで到着する。住宅街の一軒屋で、ごく普通の家だ。  前に緑が話してくれたことがあった。緑のお母さんはとても心配症で、3~4日に一回は必ず電話をよこすのだ、と。おそらく十月に、緑の異変に気付いたのだろう。そしてたぶん両親が上京し、アパートに来たら、緑は目に隈を作って、冷蔵庫は空っぽで、もしかしたら廃人のようだったのではないか…。明らかに精神の病と察知できたのだろう。  いわゆる精神病院に入れることはためらったに違いない。が、今、島根県立医大付属病院の精神科に入院しているそうだ。昨日一泊だけ外泊を許されたとのこと。

 どこかで聞いたか読んだのだが、対人恐怖症になると、まずは外界と遮断する時間が、平均丸一ヶ月は必要だそうで、拒食症も伴うと、規則正しい食事の時間も回復につながるということで、それなりの順序と時間を要し、こうやってその道のプロに任せるのが最も早道らしい。

 お母さんは気を利かせて、私たちを緑の部屋に通し三人だけにしてくれた。

 緑が、ポロリ、ポロリと話し始めた。

「私、一年の春休み以降、工藤に夢中だった、工藤が私のすべてになってた、工藤に寄り掛かり過ぎてた。なんであんなにのめりこんだのか…彼にはそういう力があったのだと思う。工藤は、自分の世界を強く持っている人だったの。工藤の考え方は建設的だったし、ゆるぎない心と言うか、自信、気迫みたいなのがあった。それに金銭面でも、デート代は100%彼が持ってくれたし、とにかく私、工藤という人間に身も心も惹き付けられていったの。そうして知らないうちに彼に従順にもなっていった」 

 ここまで話すと、トントンとノックの音がして、お母さんがお茶を運んで来てくれた。みかんも三つ添えられていた。お茶を一口飲んで、緑が続けた。 

「忘れもしない8月17日、横浜でのデートの最後に、夜の海を眺めながら、工藤はこう言ったの。緑には、もう魅力を感じなくなった。他に好きな人ができた。そして会社が忙しくて、もう会えないって…。魅力を感じなくなったって言われたの、ショックだった。私、自分を亡くしてしまっていた。従順になり過ぎて…捨てられたのよ。で、気が付いたら、周りに誰も友達がいなくなってた。と言うか、自分でそう決めつけていたのね。捨てられたこと、奈歩や理美には恥ずかしくて言えなかった。自分だけでなんとか現実を受け入れようとしたんだけど、工藤に裏切られたことでどの人も信じられなくなって。人に会うのが怖くなってしまったの。それで九月は、デンマにだけは頑張って行ってたけど、バイトも辞めて、ほんとに最低限の人にしか会わずに、食事の準備もできず…料理やその他、普通にできていたことが急に難しくなって。お母さんが島根からお父さんと二人で駆け付けてくれて。即、帰ることになって。奈歩や理美だけにはちゃんと話したかったんだけど、入院しちゃってケイタイも使えなくて…。ほんとに心配かけてごめんね」 

 やっぱり想像した通りだ、と思った。深いため息が出てしまった。緑が、あんなに大人っぽくしっかり者の緑がどうして、どうして…。工藤が憎らしかった。別れるには、もっと別のセリフがあってよかったんじゃないか。好きな人ができたなんて正直に言えばいいってもんじゃないだろうが。でも、これだけ緑が過去を認めて振り返ることが出来ていることに、ああ、これなら病気も快方に向かってるんじゃないかと思いホッとした部分もあった。ただ、始末が悪いのは、緑が今でも工藤を、過去の幻影を懐かしんでいることだった。奈歩が、

「緑、工藤はね、悪い男だったのよ。緑もそれを認めて早く立ち直んなきゃ。緑、自分を大切にして。工藤はもう戻ってこないんだから」 
 と必死で緑を見つめた。

「緑にふさわしい人はこの先いくらだって現れるわよ。工藤を卒業すればね」
 私も励ますように、肩を叩いた。

 緑はこんなことを言った。

「私、付き合ったのって初めてだったの。中学の時はそういうコト考えすらしなかったし、高校は女子高で。私、初めて付き合ったのが工藤だったの」

 同情せずにはいられなかった。最初に付き合った人というのは、強烈にその後のその人の人生を左右するって、どこかで聞いた事がある。 

 それから、またお母さんが、今度はケーキと紅茶を持って来てくれたので、ひとまず話し合いは中断してお茶をした。私は、このタイミングはちょうどいいと思い、バッグからネックレスを取り出し、

「はい、誕生日のプレゼントだよー」  持って来たネックレスを渡す。ラッピングは、緑のイメージに合わせて、エメラルドグリーンにオフホワイトのリボンを結んできた。

「うわぁ、理美、ありがとう」  緑は早速包みを丁寧に開ける。
 そのネックレスは、水色のビーズと透明なビーズを使った、自分で言うのも何だけれどとても精巧なもので、真ん中には緑の誕生石であるターコイスのちっちゃい丸い石をあしらってある。

「作ったものなんだけどね…」  私は照れ笑いをする。 

 奈歩もプレゼントを出してきた。それはセリーヌ・ディオンのバラードコレクションのCDだった。

「病院ではCDは聴けるんじゃないかって思って。これを聴くと芯から癒されるわ」 

 すると緑は、今まで我慢していたのか、突然箍が外れたように、わっと泣き出した。

  「泣きたいだけ泣くといいのよ。涙は汚いもの全部洗い流してくれるわ」  奈歩も私も、もらい泣きして、三人で声を立てて泣いた。


 しばらく経って、お昼になったので、リビングに下りる。緑のお母さんがお昼を準備してテーブルに並べて待っていてくれた。スパゲッティナポリタンにクラムチャウダー、それにレタスとパプリカのサラダだった。

 お昼を食べた後、リビングの端にピアノがあったので、緑の為に、浜崎あゆみの「ボヤージュ」を弾き語りした。
 緑が真剣に聴いてくれて、終わったらいつまでも拍手してくれたのが印象的だった。
 その後、さすがに長旅で疲れていたせいか睡魔に襲われ、緑の部屋で二時まで昼寝をした。

 一眠りしたらさっぱりして、天気もよかったので、出雲大社に参拝に行こうということになり、準備をして出かけた。 

 緑の実家から出雲大社まではほんの十分足らずで着いた。道中うっすらと雪が降っていた。

 出雲大社は鼻高山という山の入り口にあった。縁結びの神・福の神として親しまれているということで、皆、思い思いの願いを込めて、かなり長く手を合わせていた。  帰り病院へ寄り、緑は病院へ戻った。奈歩と私は、

「明日、帰る前に病室に寄るね」  と言って別れた。 

 その日の夜は、緑の実家で手巻き寿司をご馳走になり、ご両親と色々お話した。大学のことを話すとお父さんは、

「遠くに出したのが悪かったと思った。こんなことになってしまって…。でも、緑にはこんなに良いお友達がいたんだね。緑は良くも悪くも私に似て、自分の思いを内に閉まってしまうところがあってね。今回のことで、緑は随分苦しんだ。大切なのはこれからどうするかだ。起こってしまったことはどうすることもできないのだからね。これから緑が学校に戻っても、どうかそばにいてやってください」  と私たちに頭を下げた。 

 緑は、お父さんが言うように、性格もお父さん似なのかもしれないが、顔も、目が細めだけれど優しく、鷲鼻のところなど、バッチリお父さん似だ。

 その後順番にお風呂に入らせてもらい、十時にはもう緑の部屋へ行き眠りに就いた。  

 次の日、帰る前に緑の病室を訪ねて行った。
 受付を済ませて病室へ向かう。
 緑の病室は四人部屋で広々としていて、時間の流れがゆったりとしているようだった。ベッドもスチール製ではなく木製で、あまり病院という感じがしない。  
  緑は私たちを見ると、目を輝かせた。きっと自分が、普通の人とは違ってしまったような激しい悲しみがあったのだろう。だから、普通の人であろう奈歩や私が、この病室に入ってきてくれた、そのことが本当に本当に嬉しかったに違いなかった。  ベッドでは狭いからと言って、緑は笑顔をいっぱいに興奮しながらデイルームという淡い木の色のテーブルと椅子の置いてある部屋へ連れて行ってくれた。  緑は、昨日よりもスッキリした表情をしていた。  一人、色黒で目がギョロギョロした年配のおばさんが、こちらを興味津々に見ている。

「マサエさん、私の大学の友達なのよ」  緑は、そのおばさんと仲がいいのだと言う。  マサエさんは、急にくしゃくしゃと笑顔になって、

「あ、どうもどうも。ごゆっくりしてらっしゃーな」  と言って背中に太陽を背負って去って行った。

「マサエさんはね、この病棟のボスなの。患者間の情報をいち早くキャッチしてる、すごく頭のいい人よ。あの人を味方につけとけば、ここの病院は過ごしやすいわ」 

 私は、ここが「過ごしやすい」と言っている緑にちょっと不安になった。それで、
「緑、でもさ、もちろんゆっくり休んで治して欲しいけど、一月の試験、なるべく受けられるように頑張って戻って来てね」  と優しく言った。

「分かってるわ、ありがとう。実は病院暇だから試験勉強してるんだ。茜が試験範囲とか色々情報教えてくれて」

 茜…戸田茜は、同じ学科のクラスメートで、戸田・永井・夏木と出席番号が並んでいて、二年までは緑の実験パートナーだった。今は彼女も数学を専攻しているので緑にとっては一番の友達だ。因になぜ奈歩とは出席番号が離れているのに仲良くなったかと言うと、入学式でたまたま隣に座っていて、私から声をかけたのが始まり。

「それはいいね。暇つぶしにどんどん勉強して。でも無理はしないでね」

 帰りはお母さんが飛行機の手配をしてくれていて、出雲空港に送ってくれた。 

 「色々、ありがとうございました」  丁重にお礼を言われ、

「こちらこそ、お世話になりました。それでは」 

 と、三回ぐらい頭を下げながら別れる。 

 行きは丸十時間以上かかったのに、飛行機に乗っていたのはたった一時間半足らずで、あっと言う間に羽田空港に着いた。


OLE オブジェクト

連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.16
2008-12-17 10:33:35 | 連載小説

    
 § 

 島根旅行から帰った翌週の火曜日、フットサルの練習試合が『ミズノ藤沢』という体育館であった。12月21日に開催されるクリスマス・カップへ向けての練習だ。
今日の対戦相手は慶応藤沢キャンパスのチーム『コルミージョ藤沢』だ。ベジェッサ西早稲田は交通費がかかるということで、体育館の使用料はコルミージョ藤沢のメンバーでもってくれた。
 奈歩と私は四限が終わり次第直行したが、さすがに藤沢は遠く、六時からの試合に少し遅れて到着した。 
 松崎はいなかった。研究が忙しいのだろう。ベジェッサ西早稲田の今日のスタメンは池上、修平、内山、大西、秋元だった。
 コルミージョ藤沢のメンバーは揃いも揃ってかっこいい。特にその中でも、柏原崇似と谷原章介似の二人がいて、類は友を呼ぶとはまさにこの二人のことかと思う。いつだって一緒なので、ますます目立つ。ターコイズブルーと白のボーダーのユニフォーム姿もかっこいいが、何と言っても私服姿がかっこいい。私はこのチームとの試合の時は、だいたい予定を返上して顔を出す。まるで、本物の芸能人に会うようなそんな気分なのだ。こんなこと言ったら松崎に怒られそうだけど…。  

  早苗は、今日は大した授業はなかったということで、池上くんたちと一足先に到着していた。  コルミージョ藤沢と対戦するのはオータム・カップ以来で、あの時は0ー3で大敗してしまった。
 コルミージョ藤沢は、何と言っても連携プレーが持ち味だ。相手がボールをキープしている時、連携しながらプレッシャーをかけていく。修平などは急いでボールを奪おうとするので、相手の選手にすぐかわされてしまうが、コルミージョ藤沢の選手たちは、腰を落としてジリジリと間合いを詰めながら、パスのコースを消していく。それも、なるべくゴールから遠い場所へ相手を追い詰めていくのだ。  

 コルミージョ藤沢側にもマネージャーが二人いて、彼女たちは一年から一緒で顔はよく覚えている。なにせ二人共美人なのだ。きっと、選手の中の誰か二人は間違いなく彼女たちの彼氏なんだろうな。やっぱりあの柏原&谷原かな…。 

 応援をがんばった疲れを取ろうと思い、夜、銭湯に行った。11時を回っていたけれど、たっぷり一時間入れれば満足だ。いつものように受付のおじさんに100円玉4枚を渡し暖簾を潜ると、今日は脱衣所が混んでいた。一番下の真ん中のロッカーが辛うじて空いていたので、両脇の人に気を遣いながら遠慮がちに割り込む。

  『本日の湯』のコーナーは『レモングラスのお風呂』だった。 
 いつものように、まず髪を洗い、次に化粧を落とし、最後に体を洗って、『レモングラスのお風呂』に入る。レモングラスの匂いに包まれて極上のひととき。  

 すっかり温まったので上がって、ロビーでひと休みし、持ってきたケイタイを取り出す。この間早苗に言われたことや、中村コーチに言われたことが気になっていた。中村コーチの言うことも正しいのかもしれない。けれども奈歩のアドバイスを信じたかった。高村くんに、思いを伝えなくては。

 銭湯を出て、静かな夜道でもう一度ケイタイを出す。画面がすごく明るくて懐中電灯のようだ。

 高村くんを検索する。
 寒い中、何十分も考えた。お寺の方にも歩いて行って、また銭湯に戻って、うろうろしていたから、誰か見ていたら、相当怪しまれただろう。

 そして、約30分後に、思いきって通話ボタンを押した。 
 
 手が震える。

 呼出し音がヤケに大きく聴こえる。 

 五回呼び出し音が鳴って、高村くんが出た。 

 「はい、もしもし」  歯切れの良い、あの声。 

「あ、私、夏木です。突然ごめんね。今大丈夫?あのね、今藤の湯を出たところなんだけど、ちょっと出てこない?」
 私は、何気なさを全面に出して、さりげなくこう言った。

「そうですか、いいですよ」  高村くんが二階から降りてくるのと、私がすみれ荘の入り口に着いたのはほぼ同時だった。

 あんなに狂いそうになるほど考えて電話したのに、いざ会うと、笑顔で、季節の挨拶などをしてしまう。

 しばらく家の前で立ち話していたが、高村くんは、

「寒いから、良かったら入りませんか?コーヒーでも淹れますよ」  と言った。 

 「えっ?本当に?」  耳を疑った。松崎の顔が浮かぶ。それから美雪さんのことも…。ためらいは、高村くんには伝わっていない。スタスタと階段を上って行ってしまう。
 どうしよう…。階段を上る。一歩一歩をゆっくりと…。
 二階に上がって初めて気付いたのだが、高村くんの部屋の向かい側の家では、二階のベランダでうさぎを飼っていた。結構大きな小屋で、私が初めて見る顔だと知ってか、足をダンダンと踏み鳴らし威嚇している。

 いつも外から明かりだけを見ていた部屋…。その部屋にまさか入れるなんて。信じられなかった。
 高村くんは鍵をかけずに出てきたようで、鍵はかかっていなかった。

「汚いですけど、どうぞ」 

 玄関には、靴がごちゃごちゃと五足ぐらい置いてあった。高村くんはつっかけを脱いで、玄関の靴を急いで靴箱にしまう。部屋の匂いはエキゾチックな香水の香りと、なんとも言えない小学校の体育館のような懐かしい匂いがミックスした感じ。部屋全体が雑然としていて、高村くんのかっこよさとのギャップに思わず気持ちが緩んだ。  ざっと見たところ、確かにきれいではなかった。けれども、その雑然さに、妙にあったかい人間性みたいなものが見え隠れしているような気がしてホッとした。人間、完璧な人なんてそうそういないんだなぁ。

 玄関に入ると、手前にまず六畳ぐらいのキッチンがあり、料理はあまりしないのか、流しにはコーヒーカップが二個置いてあるだけで、ガス台には鍋類は見当たらず、前に話してくれた注ぎ口の細い銅製のポットだけが目に入った。

「どうぞ、汚いですけど」  いつものあのパリッと決まった高村くんが、今日は部屋着らしいグレーのアディダスのトレーナーに、やはりトレーナー生地の紺の先がつぼまっているズボンを履いている。すごくアットホームだ。 

 キッチンを通り、奥の部屋に向かう。そこの空間に入った瞬間、脳内からα波が出たように感じたのは気のせいではないだろう。和室を洋室風に使っていて、つまり、畳には薄いブルーのカーペットを敷き、左側にはグレーのカバーのソファがあり、真ん中にはガラスのテーブル、そして右側に21インチぐらいのTV、それにオーディオがあった。そして部屋の奥の窓側をベッドが占めていた。見てはいけないものを見たような気持ちになった。ソファやカーペットと同系色の、グレーと青のチェックの布団カバーで、枕もお揃いのカバーだった。シンプルで、とても居心地のよい感じの部屋だ。

 確かに雑然とはしているのだが、それは綺麗な汚さだった。例えば机の上に食べかけのカップラーメンがあったり、服が脱ぎ捨ててあったり、そういういかにも生活臭い感じはなく、本とCD、それから新聞や雑誌、そういったもので床やテーブルが埋まっている、敢えて言うなら、無機質な汚さだった。

 壁に目を移すと、電話器の上にはヨーロッパの田舎の風景カレンダー、そしてその傍には『グレン・グールドの生涯』という映画のフライヤーや、東京ジャズフェスティバルのチラシ、などが無造作に貼ってある。

「どうぞ座って下さい。今コーヒー淹れますから」 
 そう言って、台所でお湯を沸かし、コーヒーを淹れる準備を始める。 

 ゆっくりとソファに座る。すぐ手が届くぐらいの所に本棚があって、社会学や政治学などの専門書や、小説、そして詩集がズラッと並んでいる。忘れもしない高村くんに初めて出会った時、彼が読んでいた『ランボー詩集』もあったので思わず手に取ってみたくなって、

「ちょっと詩集見せてもらってもいい?」  と言うと、 
「どうぞ、オレのコレクションなんで、見てもらうのは嬉しいですよ」  と爽やかに言われ、『ランボー詩集』を手にした。ページをパラパラ捲ると、すごく、こう、力のある言葉、そしてちょっと乱暴な言葉がちりばめられていた。

(またみつかったよ!何がさ?永遠)

 という素敵なフレーズもあった。裏表紙にランボーの顔写真があった。びっくりしたのはその顔や雰囲気が、高村くんにとても良く似ていたことだった。

「高村くんってランボーに似てるんじゃない?」  と言ってみたら、

「そうなんです。実は、高校の時の現代文の先生にそう言われて、興味を持ったのが始まりなんです」 

 気が付くと、いつのまにかけたのか、オーディオからはマイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」が小音でかかっていた。私はもう一度部屋を見渡す。カーテンの桟には、三、四着のコートやジャケット、それにいろんな色のマフラーがハンガーにかけてある。その中には、この間秘密の喫茶店に連れて行ってもらった時に着ていた紺のPコートもあった。

 TVの下の戸棚に、DVDが十本ぐらい入っているのが見えた。私はそこに近付いてみる。『スモーク』『トリコロール/青の愛/白の愛/赤の愛』『太陽と月に背いて』など知っているものもあったが、『汚れた血』『水の中のナイフ』『袋小路』『桜桃の味』といった知らないものもあった。それから『世界遺産』が数本あった。 「スモーク私も好きよ」  と高村くんに言うと、

「やっぱり。今度貸そうかなと思ってたところなんですよ。絶対好きそうって思って。最後の盲目のおばあさんと孫になりすました主人公のクリスマスストーリーとかね。太陽と月に背いてはランボー役がディカプリオってのは許せないんですけどね…」 

 と高村くんが話しながら、コーヒーを運んでくる。

 二人でソファに座る。 

 今日電話したのは、思いを告げようとしてのことだった。でも、高村くんの姿を見て、高村くんの部屋に入って、肝心な言葉が出て来なかった。告白したら終わってしまう怖さもあって…。

「そう言えばトヨクニ潰れちゃったの知ってる?夜逃げだったんですって。今度あの敷地には、ドラッグストアができるみたい」

 私はいつものように近所の話題を出してみた。高村くんにとって私の存在は、きっと、単なる近所の友達になりつつある知り合い、っていう程度なんだろう。なのに、そんな話をしたら困らせるだけだし、二度ともう会えなくなるのは嫌だった。 

 「そうそう、びっくりしました、突然だったから。東西線使ってるからトヨクニはよく使ってたんですよ。まぁ、ドラッグストアも便利だけど…」

 高村くんはそう言って、ゆっくりコーヒーを飲む。

「そういや、りんご、とても美味しかったですよ。美雪も喜んで食べました」 

 私はそれを聞いて一瞬ドキッとした。高村くんが美雪さんに、私からもらったとかそういうことを言ったのか気になったが、言葉にはしないでおいた。  そこからは、また訳もなく話が弾んで、映画のこと、好きな音楽のこと、国際政治論のこと、私の実験の失敗談などなど楽しくおしゃべりしてしまった。

「グレン・グールドの生涯、観に行ったの?私結局行けなかったんだ。私ね、ピアノずっと習ってて。大学に入ってからも二年から再開して。目白にある音楽教室に通ってるの。でもグレングールドのことは、母が好きで結構前から知ってたの。彼は一九三二年、カナダのトロントに生まれたのよね。お父さんは毛皮商、お母さんは声楽教師で、親戚には確かあの偉大な作曲家グリーグがいたはず。彼のCD一枚だけ持っているんだけど、あのノン・レガート奏法が私は好きだわ」 

 「夏木さん詳しいですね。オレの家でも親父が好きでよく流れてたんです。きっと夏木さんのお母さんとオレの親父は同年代で、見たり聞いたりしたものが似ているのでしょうね。彼、ある意味変人だったらしいですよ。芸術家って多かれ少なかれそういうところあるんでしょうね」 

 私は、高村くんと共通の話題が沢山あることに、言い様もなく満たされた。  

 高村くんが、CDを変える。 
 サロンで流れているような曲が流れ出す。

「これって、聴いたことある。何て言うんだっけ?」

「エリック・サティの『ジムノ・ペディ』っていう曲です。これも結構好きなんです」 

 彼の話し方、身ぶり手ぶり、心地よい声、切れ長の目、整った鼻と口…本当はそれらを見ているだけで嬉しくてしょうがなかった。それにプラスして、こうやって共通の話題が多いのは本当に楽しく、素晴らしい時間だった。こんな時間が、本当にあっていいのだろうか…。高村くんは明るい。そして、たまにポロッと出す広島弁がとても可愛い。高村くんはどこまでも礼儀正しかった。そのことが、私との間に明らかにある一定の距離を置いているように感じられたが、その距離感までもが心地よく上品に思えた。

 話している間、高村くんには頻繁にメールが来ていた。おそらく美雪さんだろう…と、

「どうぞ、返信してあげて」  と言ったけれど、

「大丈夫ですよ、ありがとうございます」  と明るく言われた。 

 あっと言う間に午前二時を回ろうとしていた。

「ごめんなさい、こんなに遅くまで」
 私は時間に気付くと謝って出ようとしたが、高村くんは、

「オレは、授業いつも午後からなので、二時ぐらいは平気で起きてるんです。三時からのNHK総合の『映像散歩』好きでよく見てますよ。その後の『視点・論点』まで見ることも…なので気にしないで下さい」 
 なんと明るいフォロー。どうしよう、告白するなら今かな…。でも…。

「あ、オレ、家まで送りますよ。この時間に女の子の一人歩きは危険ですから」  と言って彼はコートをさっと着て、マフラーをした。

 すみれ荘を出ると、外はすごく寒かった。あまりに寒くて、私は思わず高村くんに寄り掛かった。

  「寒い」

 高村くんは避けなかった。

 ほんの2~3分、こうして身を寄せ合って歩いた。恋人の予感がした。私はどうしようもなく高村くんが愛しくて、この時間が永遠に続いてくれたら、と本気でそう思いながら一歩一歩大切に歩く。

 途中誰ともすれ違わず、シンと静まり返った住宅街に二人の靴の音だけが響いた。  エレガンス東中野に着く。 

 向かい側の家の犬が私たちに気付くとひとしきり鳴いて、そうしてまた鳴き止んだ。

「それでは夏木さん、また」 

 高村くんが私の腕をゆっくり離し、手を振ろうとした…その時、私は、離れて行く高村くんを引き止め、抱き締めた。Pコートは、かすかにエキゾチックな香りがした。 

  時間が止まったようだった。ずっとこうしたかったんだ。すごく切なくて、嬉しくて…。私は高村くんの胸に顔を埋めた。

  「夏木さん…」 

 高村くんは冷静だった。私をゆっくり引き離し、両肩に手を置いて、

「夏木さん、こういう風だったら、もう会えないですよ。オレも、美雪がいるから、夏木さんとは近所の良いお友達でいたいんです。それじゃ駄目ですか?」  

 高村くんの目はとても真剣だった。  私は、

「高村くん、私、あなたのことが好き。本当にこんなに好きになったのは高村くんが初めて。友達でいたいけれど、こんなに好きじゃ友達にもなれない…」

 隠さず正直に話してみた。すると高村くんは、

「大丈夫、オレの気持ちはしっかりしていますから。だから友達としてこれからもまた楽しい情報交換しましょうよ、ね、夏木さん」 

 高村くんは、私が好きだと言う気持ちを告白したからか、とても綺麗な笑顔を見せてくれた。 

 アパートの鍵を開け、真っ暗な部屋に戻る。

 さっきの抱き合った余韻が、いつまでも残っていた。


連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.17
2008-12-17 10:49:34 | 連載小説
   
     
      § 


 欅の大木はすっかり葉を落とし、ジョウビタキの雄が裸の枝に寒そうに止まって、頭を下げ、尾を細かく振って「クワックワッ」と鳴いている。 

 私は昨日の余韻のさめやらぬまま、量子力学2の授業に出席していた。

「P185 8.3.2 HーJ表示のハミルトニアン…」 

 一月のテストへ向け、最低限ノートだけはまめに取っている。 

 授業が終わり、奈歩と坂を下りサークルへ行く。

 坂の中腹に建つマンションの中庭には、パンジーがきれいに並べて植えられている。ここのマンションはいつも花が絶えない。 

 ラウンジには早苗がいた。私を待っていたようだった。

「理美、カフェテリア行かへん?」  席に着くなり、早苗が切り出した。

「どうや?それから解決した?優のこと」

「高村くんとは近所の友達なの。彼もそう思っていて、それ以上には思っていないわ」

 昨日高村くんのアパートへ行ったことは話せなかった。

「うちはあんたがどう思ってるかを聞いてるんよ!」 

  早苗はきつく言った。

「理美は、理美の気持ち的には、優は本当に単なる近所の友達なん?この際徹底的に話し合わんと」  早苗は続けた。

「優だから心配なんよ。理美は絶対引き寄せられていくと思うんや。うちかて彼にはすごい惹かれとって、池上に話すことが憚られるくらいなんよ。優はね、ある意味危険な人や。彼とは友達以上にはならん方がええ」

「なりたくてもなれないのよ。昨日、そう言われたわ」

 静かに言った。

 早苗は口を開けたまま、私を凝視し続ける。 

「この先、近所の友達以上になることはないわ。私の気持ちが緩んだとしても、彼の気持ちが緩むことはないと思う。そういう確かな意志を感じたわ」

 私がそこまで言うと、早苗は、今度は同情の眼差しになって、

「理美、ごめんな。うちてっきり二股してるんかと思っとって。うちもな、優は憧れの存在なんよ。池上と比べてとか、そういうことやなく…。きっと、優は万人に愛される何かを持っているんよね。優と話をして嫌がる人がいたら見てみたいくらいや」  すると、それまで黙っていた奈歩が、

「二人共、れっきとした恋人がいるのにそんな不純でいいのかなぁ?」

 遠慮がちに言って、そして続けた。 

「私もね、冬からは正式に彼ができるわよ。理美には話したけど、松崎の友達で上智を休学してカナダに行ってた井上祥っていう人なんだけど、この冬帰国するの。メールのやりとりをしていて、帰ったら付き合うことになったの。私ね、ずっとこういうことを夢に思い描いてたんだ。井上くんのこと、初めて出会った時から好きだったから。でも自分から言うことってずっとできなくて…」 

「良かったやん。奈歩にそういう人ができるの待っとったよ」 

 早苗は明るく言った。 

 「うち、正直奈歩のことは軽蔑することもあったんや。うちと考えがあまりに違って。広く浅くの意味を取り違えていると思っとったんよ。特定の彼を作らないっていうのは、都合はいいんやろけれど、得るものも限られる。人を本気で愛して得られるものは、宝物やと思うんや。今度井上って子が帰ってきたら本気で愛してみ。怖くないから。もし何かダメになってもいいやん。当たって砕けてみなよ。ダメになった時にはうちらがクッションになってあげるから…ねぇ理美?」 

 「そうよ。広く浅くって言っても、ちゃんと付き合ってみなければ本当のことは分からないと思う。だから奈歩、がんばってみて。でも、今までも、きっと、中・高の経験があってのことだと思うし、悪くなかったと思うわ。過去の自分を責めなくていいわよ」 

 早苗も奈歩も、それぞれに思い思いのことをしゃべり、顔には陰りがなく、明るい表情だった。私は…ちょっと疲れていたかもしれない。高村くんと、これからどうなるのかは、まるで想像がつかないし。なんとなくもやもやが残っていた。 「さてと、食べましょうか!」 

 早苗は、きのことベーコンのスパゲッティ、奈歩は煮魚定食、私は一番安いカレーライス。

「冬物の服でどうしても欲しいのあって倹約してるんだ」

   私は頭をかいてみせた。 


   その週の金曜の夜、研究の後、松崎が直接アパートに来てくれた。

 私は、松崎が来る前、ベランダで久しぶりに煙草を吸った。高村くんの胸に飛び込んだ自分を反芻しながら…。

 寒かったのでグラタンにした。ちょうど支度が終わった頃に「トン・トン」とドアを叩く音がしたので覗き穴で碓認し、中に入れる。

 松崎に会うのはすごく久しぶりだった。島根に行く直前も結局会えなかったから、実に20日ぶり。

 松崎はいつもと変わらない雰囲気で、今日で研究が一段落したんだ、とにこにこして言った。

  「ワインとチーズ買ってきたよ」 

 コンビニのビニール袋を渡す。

「うれしい。ありがとう。今日は大ちゃんの好きな、エビととり肉のグラタンだよ。今ちょうどできあがるとこ。あと2~3分待ってね」 

 松崎はダッフルコートとマフラーをハンガーにかけ、洗面所で手と顔を洗ってうがいをしようとして、

「理美ちゃん、オレ、ちょっと風邪気味でさぁ」

 と言った。

「大丈夫?あれ、確かうがい薬あったはず、ちょっと待ってて」 

 私は押し入れの奥に閉まい込んでいた薬箱を取り出し、中からうがい薬を取り出した。

  「これ、使ってみて。ちょっと古いかな…」 

 私は松崎にそのうがい薬を差し出した。 

 その後、テーブルに水色のビニール製のランチョンマットを敷き、赤と白のギンガムチェックのキッチン手袋で、グラタンをテーブルに並べた。ワイングラスがなく、小さなガラスのコップで代用した。

  「サラダもあるのよ」 

 私は冷やしておいたサラダを出してきた。
 今日はきゅうりとレタスとピーマンのグリーンサラダにした。

「理美ちゃん、ここんとこ会えずにいて、ほんとごめんね。でもこれからしばらくは試験もあるっていうことでひとまず研究お休みできることになったから。明日は久しぶりにオレの実家に遊びに来ない?理美ちゃんのピアノもどのくらい上達しているか聴きたいし」 

 ドキッとした。最近島根に行ったり高村くんと夜会ったりしていて、ピアノの練習があまりできていなかった。

「ピアノね、最近あんまり進んでないんだ。月の光が終わって、ベートーヴェンのテンペスト第三楽章が始まったんだけど、ほんの少ししか進んでない」

「それでもいいよ。そんなこと家のお母さんに言わなくてもいいし」 

 グラタンはすごく美味しいと誉められた。

「理美ちゃんってさ、料理の本見ないで作ってるんだよね。天才的だね」 

 確かに私は、参考にこそするが、一から十まで料理本の通りに作ったことは一度もない。でも、別にそれは自慢することでもない。

「そうそう、緑にね、会ってきたの。彼氏のことは引きずってたけど、元気そうだったよ。病院もとても落ち着いた環境で、暇がたくさんあるからテスト勉強もできてるみたいなの」

「がんばって作ったネックレスも渡せた?」 

 つぶらな瞳で、松崎が私の顔を覗く。

「うん、泣いて喜んでくれた。苦労して作った甲斐があったよ。ビーズで大ちゃんにも何か作れるものがあったらいいのになぁ」 

 「この間ケイタイストラップ壊れちゃったんだよね。理美ちゃんとおそろいで作ってくれないかな?クリスマスプレゼントそれだけでいいよ」 

 とてもよい提案だ。

「いいよ。色はやっぱり青系?緑系?どっちも混ざったようなのにするね」

  夕食の後紅茶を入れ、松崎にこの間の島根旅行の写真を見せた。

「出雲大社って有名だよね。理美ちゃん何を祈ったの?」 

 松崎にそう言われて、戸惑った。なぜなら、松崎とも高村くんともうまくいきように、と祈ったからだ。あの時とは、だいぶ状況も変わって、複雑な気持ちだった。でも、それは顔には出さず、

「大ちゃんの研究がうまくいきますように、って祈ったよ」 

 ウソをついた。

「理美ちゃん、自分のことも祈ったでしょう?」 

 大ちゃんは、大きな目でこっちを見ている。私は、

「うん。一月のテストがうまくいきますようにって」 

 と言った。実際そんなことも祈ったような…。

「そう」 

 松崎は一通り写真を見終わると、アルバムを机の上に置き、ベランダに出てKOOLを吸い始めた。自分のジャムの空き瓶は隠し、松崎用の缶にしておくことは、いつも忘れない。高村くんとのことを、松崎に言えない自分が、すごく嫌らしく感じられた。

 そんな思いを振り切るようにして、お風呂を沸かした。入浴剤を入れる。

「すっごく寒い!」 

 煙草を吸い終わって、両腕で体をかかえて部屋に戻り、急いで窓を閉める。

「今、お風呂沸かしてるから」 

 私はTVの脇にあるミニコンポに、ショパンのノクターン集のCDを入れ再生を押し、ソファに凭れた。一曲目は哀愁漂うOP9ー1。大学に来て初めての発表会で弾いた曲だ。

 松崎も隣に座った。そして20日ぶりにキスをした。

 しばらくして唇をそっと離し、松崎は私の顔を正面からじいっと見た。

「理美ちゃん、好きだよ」 

 松崎は優しくそう言った。 

 私は、もう限界だった。もう、本当は全て見透かされているような気がした。涙が出かかった。

「大ちゃん…」 

 抱き合って、貪るようにキスし合った。

「大変、お風呂忘れてた」  

 急いで止めに行ったが、既にお湯はあふれかえっていた。

「今日私生理だから大ちゃん先入って。お湯たぷたぷだから、最初に髪や体を洗ってね」 

 松崎がお風呂に行くと、私は、力が抜け、ソファに横になった。

 ノクターンを聞きながら、何も考えないように、目をきつく閉じ、眠る。

 突然メール音がする。ケイタイを取り出し、見る。二通来ている。そのうちの一通は、なんと高村くんからだった。

「この間は楽しかったです。あとで思ったんですが、夏木さん、もしかして何か用事があったんじゃないですか?オレでよかったらいつでも相談のりますよ。それではまた」 

 高村くんは何を考えているのだろう。私の告白は、『用事』にも入らなかったのか…。空しかった。読むだけで返信はしなかった。

 もう一通は、香織からだった。

「お久しぶり。12月22日からフランスに行ってきます。何か買って来て欲しいものあったらリクエストして。年明け二日に成田からそのまま福島に帰省する予定なんだけど、時間あったら向こうで会わない?」 

 こちらにも、今は返信する気力がなく、閉じる。

 松崎がお風呂から上がって、Tシャツと短パン姿でリビングにやってきた。このラコステのTシャツと短パンは、松崎が初めて私のアパートに泊まった一年の夏、持参して以来私のアパートに置きっぱなしになっているお決まりのだ。何年も丁寧に洗濯され上品に色落ちしている。

 私もお風呂に入る。生理の時はお風呂に入らない人もいるようだけれど、私は、医学的にどうかはわからないが、そういう時こそお腹を温めてあげようと思って、いつもより長風呂をする習慣だ。

 浴槽はちょっと汚れたけれど、次に誰が入るわけでもない。ちゃんと洗えば済むことだ。

 お風呂に入りながら、自分の、このところの信じられない行動を、後悔していた。  冬用パジャマを着てリビングに行くと、松崎はTVを点けたままソファに横になって眠っていた。研究で相当疲れてるんだな。私はその横顔を眺め、とてつもなく愛おしくなった。松崎はまつ毛も長い。その無防備な表情が何とも言えなく可愛い。私は洗面所に行ってコンタクトを取り、化粧水と乳液で肌を整え、歯磨きをする。  優しく揺すって、

「大ちゃん、歯磨いたら?」 

 と促す。松崎は少しの間ぐずぐずしていたが、起きて洗面所へ行った。

 松崎はコンタクトをしていない。目がいいのだ。ただ最近、研究でパソコンもよく使っているらしく、少し視力が落ちてきたようだ。

 その後、ロフトに行った。

 松崎が求めたわけではなかったが、セックスできない代わりに口でしてあげた。体の繋がりに頼るしかなかった。そうやってしか、今は、愛を示せなかった。

 相手の気持ちになって舌を上手に使って、私は松崎を快楽の世界へ連れて行く。松崎は目をきつく閉じ、うなり声は次第に甘い声に変わっていった。
 
 「だめだよ、もう」 

 と必死で言うので、 

 「大丈夫、口に含んであげるから」 

 と、優しく、さらに激しく、上下に動かす。 

 松崎は、悪がりながらも快楽に勝てず、間もなく射精した。精液は、甘いような渋いようなしょっぱいような何とも言えない味がした。

 時計は12時を回っていた。  ロフトに戻ると松崎はつるんとした良い表情で早くも寝息を立て始めていた。

 高村くんとは、もう会ってはいけない。そう強く思い、目が冴えていたが、波の音楽を小音でかけ、しばらくして眠りに就いた。


連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.18
2008-12-17 11:24:19 | 連載小説
 

     § 

 翌日、いつもより遅めに十時頃起きる。ユウナちゃんのお母さんから頂いたパンと牛乳で簡単な朝食を摂り、松崎の実家へ向かった。

 目黒駅で降り、アトレでケーキを買って、天気も良かったので地下鉄に乗らずに歩いて向かう。

 この間行った庭園美術館の前を通る。とても緑が多くて、通りにもオシャレなお店が多くて気持がいい。

 松崎の家のマンションは、よくある四角形ではなく、上の階に行くにしたがって狭く台形のような形になっている、とてもゆったりした造りのマンションだ。エントランスも広々としていて、アーチ型の大きな門があり、バラの木が植えられていて、その周りには春になると花がたくさん咲く。
 松崎は昨日のうちに、お昼頃着くと電話をしてくれていて、ご両親が土曜日なのに出掛けずに待っていてくれた。

 玄関には一足早くクリスマスリースが飾られていた。きっとお母さんの手作りだ。ヒイラギの葉をふんだんに使い、銀色の玉をちりばめ、ナンテンの実をあしらってあって、リースの上部真ん中にはベルが二つ、紺と金のリボンを付けてある。それは重厚な玄関の戸にとてもよく似合っていた。

 戸を開けると 「ニャー」  とまずルルが挨拶してくれた。
 それからお母さんが出てきた。松崎はお母さんにそっくりだ。松崎のお母さんは、薄く化粧をしていて、白いブラウスにピンクのカーディガン、花柄の茶色のロングスカート、それに赤いエプロンをしていた。

「こんにちは、お久しぶりです。お邪魔します」

 松崎の家の間取りは4LDKで、LDK部分がすごく広い。リビングは南向きで、グランドピアノもそこの窓際に置いてある。

 松崎のお母さんは、昼食の準備をしてくれていた。イースト菌のいい匂いが漂っている。

 松崎のお母さんは料理が上手い。ピアノももちろん上手い。総じて器用な人なんだと思う。松崎も小学生の頃から工作や絵が得意だったと前に聞いたことがある。でも、バイオリンやピアノは続かなかったのだそうだ。その代わり歌がとても上手い。高校の時友達とバンドを組んで、ボーカルを担当していたと言う。今はそのメンバーはみんなバラバラになってしまって、バンドは消滅してしまったらしいが、たまにカラオケに一緒に行くと、私も歌を歌うのが好きなので、二人で平気で二時間は歌っている。松崎は普段はねちっこい声なのに、歌になると別人のような美声になるのは不思議だ。

 私は先程買って来たケーキを差し出した。

「まぁ、ありがとう。さあさ、どうぞお上がりになって」 

 とお母さんは私をリビングに促しながら奥へ歩いて行って、キッチンへ行き、ケーキを冷蔵庫にそっとしまう。

「今日は久しぶりにピザを焼いてみたの」 

 ああ、この匂いはピザだったのか。

 松崎は反抗期もなかったのだそうだ。このような家庭では反抗する材料もないだろうけれども。

 松崎のお父さんはリビングのソファにゆったりと凭れて新聞を読んでいた。私に気が付くと 

 「ああ、理美ちゃんいらっしゃい」

 と笑顔で挨拶してくれた。私が来るからちょっと気を遣ってか、ワイシャツにVネックのセーター姿だった。

 松崎のお父さんは、ちょっと変な例えかもしれないが、リンボウ先生に桂文珍の雰囲気を加えたような、知的で穏やかな方だ。

 南向きの窓からは、12月だというのに明るい日射しが入ってきていて、大きなバルコニーにはパンジーが咲いている。学校から坂を下る途中にあるマンションの中庭にも、植えられていたっけ。
  出窓には、サーモンピンクのような色の、大きなポインセチアが飾られている。ソファとピアノの間に置いてあるベンジャミンの木も、手入れが行き届いていて、つやつやの葉を繁らせている。

 このリビングに飾ってある、大きなルノアールのレプリカ、が私は大好きだ。女の子が三人、野外で敷物を敷いてピクニックをしている風景画。昔家族でニューヨークに行った時に、メトロポリタンミュージアムで買って来た思い出の品だそうだ。日本に来てから額装してもらったとのこと。額も素敵なので絵が引き立っているのかもしれない。

 ルルが、我がもの顔でソファに寝そべっている。ルルも年だ。顔をよく観察すると、まゆげとあごひげのところには白髪のような、白い毛がたくさん生えている。松崎が中学校に入ると同時に飼い始めたというから、もう十年ぐらい経つんだな。それにしても可笑しいのは、目をつぶって寝ているのになぜかしっぽを定期的にピヨ~ンピヨ~ン、と振り回していることだ。

 ピザは、今まで食べたことのあるどこのピザよりも格段に美味しかった。味は二種類あって、ベーシックなモッツァレラチーズとトマトのピザで、上にフレッシュバジルがさりげなくトッピングしてある。もう一方はきのことベーコンとほうれん草のピザだった。 

「理美さん、よかったらもっと召し上がって。遠慮しないでね。昔はこの子の弟もいて、今は名古屋の大学に行っていて家を出ているのだけれど、英文はよく食べる子でね。それで昔の癖でいつもたくさん作ってしまうのよ。大志もほら、もっと食べて」 

 松崎の弟さんが英文くんと言うことは一年の時に聞いて知っていた。

「…英文は文系で。ピアノはオレと違ってずっと上手いんだ。背もオレより高いし…」
 なんて愚痴ってたっけ。

 お昼を食べて、後片付けを手伝った後、窓の方へ行って、

「ちょっとバルコニーに出てみてもいいですか?」

 と言って外へ出る。

 下には冬枯れの前庭が見える。春には濃いピンク色の額をつけるハナミズキも、あの色はいったいどこから来るのだろうと不思議に思うほど今は無彩色で、春の来るのをじっと待っているかのようだ。

 戸をなるべく狭く開けて部屋入り、すばやく閉める。松崎の隣に戻って、目を上げると、ソニーの大画面液晶テレビには、どこかヨーロッパらしい素敵な風景…両側が瑞々しい緑の河、近くにお城が見える…が映し出されている。

 ルルはいつのまにかお父さんのひざの上にのっかって頭をなでてもらっている。 

 時計の針はちょうど二時を指した。

「理美さん、コーヒーとお紅茶どちらがよろしいかしら?」

 と聞かれたので紅茶を頼む。

 アトレで買ってきたケーキでお茶をした。ウエッジウッドの、苺の絵柄のお皿とカップ。スプーンもピカピカだ。私なんて食器はほとんど100円ショップのだから、たまにこういうものに触れると本当に優雅な気分になる。

 お母さんがポットを傾ける。アール・グレイの香りが部屋に広がる。濃さもちょうどいい褐色で、地が真っ白のティーカップによく映える。

 松崎はお母さんのことを、 「オレのお母さんは教育ママだったよ」  とこぼしていたことがあったが、少なくとも私の目には全く厳しい方には見えず、憧れの存在だ。私も将来こんな風に年を重ねられたらいいなぁと、松崎のお母さんに会う度にしみじみ思う。

 ふと、母のことを思い出した。私の母はいつも仕事に追われていた。だからお弁当は自分で作っていたし、学校の行事にもあまり出てはくれなかった。かぎっ子で、いつも誰も居ない家に帰って行くのが本当は嫌だった。三時のおやつが出てくるような友達が羨ましかった。それでも、働くお母さんはかっこいいなと思ったし、自分も将来は仕事を持ちたいと思う。でも母はちょっとがんばりすぎていたんじゃないだろうか。さまざまなストレスがガンを呼び起こしたのだと考えるならば、やはり仕事の無理が祟ったんじゃないだろうか…。

 ケーキは二種類選んだ。お父さんと松崎にはニューヨークチーズケーキ、お母さんと自分には四種類のベリーの乗った、ババロアとスポンジが二層になった筒型のケーキ。

 ルルも物欲しそうにこちらを見ている。

 この部屋にいると、すべてのことは成るようになると素直に感じてしまう。この家は、世間の些細な荒波にはびくともしない、動じない雰囲気がある。お母さんも、単なる教育ママとはきっとひと味違ったんじゃないだろうか。松崎をみれば分かる。何ものにも突き動かされない安定感というかポリシーみたいなもの、を持っている気がするのだ。

 ケーキを食べ終わると、松崎が自分の部屋に誘ってくれたのでリビングを失礼して松崎の部屋に行く。

 松崎の部屋は九月に来た時と全然変わっていなかった。そのことは妙にほっとした。

 松崎は少し古いごっついノートパソコンを使っている。お父さんのおさがりだそうだ。その『アクセサリ』の中にちょっとしたゲームがあって、私はひそかにそれが好きで、今日もやった。
 それは『ケロケロケロッピのおいかけっこ』というゲームで、パソコンの中で、サイコロを振り、その数字の分だけ進み、二匹のカエルが追いかけっこをするゲームで、ちょうど同じマスになってつかまえた方が勝ち、という簡単なゲームだ。およそ大学生の遊びには幼稚すぎるのだが…。
 マスは池のようになっていて、進むごとに『チャポンチャポン』とかわいい音がする。五分もしないうちに私は松崎のカエルにつかまえられてしまった。 

 ゲームの中のことなのに、松崎は実際に私にとびついてきて、

「つーかまえたっ!」

 と嬉しそうに抱き締めてくれたのは、とても可愛かった。

 それから松崎は窓を開けてKOOLを吸った。松崎の部屋は西側に窓がついている。小さなベランダもあって、煙草はいつもそこで吸う。 

 松崎の煙草デビューは中学二年の短期留学先でだったそうだ。ロンドンから少し離れた田舎町に、夏休み三週間ホームステイをした時、そこの家の高校生のサムウェル君に教えてもらったという。教育ママのお母さんに見つからないように、日本に帰って来てからも隠れて吸っていたという。

 四時ぐらいになって、またリビングへ行くと、

「理美さん、今日よかったら夕ご飯も召し上がって行きません?これから近くのスーパーに買い物に行くのだけれど、一緒にどうかしら?」

「はい、もちろんです」

 即答した。嬉しかった。

 サッとお化粧直しをし、茶色のコート(今日は黒いファーも付けてきた)を羽織り、ヴィトンのショルダーバッグを下げて、玄関に行き、ブーツに足を入れる。

 お父さんを残し、三人でスーパーに買い出しに行った。近くなのに車で行った。松崎がクラウンを運転する。

「大志は日曜にはよく買い物に付き合ってくれるのよ」 

 松崎は本当に優しい子だ。 

 着いたのは、聞いたことのない立派なスーパーだった。駐車場はさほど混んでいなかった。  自動ドアがスーッと開き、松崎がかごを持ってくれる。

 店内にはアッパークラスのマダムが多かった。松崎はこのスーパーでよく芸能人に会うのだそうだ。でも、周りの人はそういう人がいてもいちいち反応しないのだそうだ。  松崎のお母さんは、

「お昼がピザだったから、夜は和食がいいかしら?お刺身に茶わん蒸しなんてどう?」

 と高級食材を、次から次へとかごに入れる。


 マンションに戻ると、素敵な外灯が灯されていて、白い外壁をぼんやりと照らし、まるで軽井沢辺りの避暑地に立つホテルのよう。 

 夕食の準備のお手伝いはとても楽しかった。流しはピカピカで使いやすい配置になっていて、コンロは四つもあって、とにかく何もかもがゆったりしている。  準備しながら、松崎のお母さんも心なしか嬉しそうだ。

「息子が二人でしょ。だからね、理美さんが来てくれると、娘ができたみたいでね…」 

 そして松崎の小さい頃のことなんかを懐かしく話してくれた。

「大志は、立てるようになったのも話せるようになったのも普通の子よりずっと遅くてね、それはもう心配したものよ。でもね、いつもにこにこしていてかわいい子だったから、気長に育てたの。だって他の子と比べてもしかたないでしょう?だから元来マイペースなのよ、大志は。困ることあったらピシッと言ってあげて下さいね。あ、理美さん、この冷ましただし汁とたまごを合わせて混ぜてくださる?」  

 ダイニングテーブルにお料理を並べて午後七時、夕食が始まった。
 お刺身は、なんと鯛やアワビやまであって、豪華なものだった。ふと秋に皆で母の実家に泊まりに行った時、松崎がスーパーで蛤をかごに入れたことを思い出した。 
 茶わん蒸しにはとり肉、しいたけ、かまぼこ、そして底の方にギンナンが入っていて、上に三つ葉が添えられていた。器も素敵な茶わん蒸し専用のもので、まるで料亭で出てくるもののようだった。

「こんなに美味しい茶わん蒸しを頂いたのは初めてです」 

 お世辞ではなく、自然にそんな言葉が出た。

 お酒も少し飲んだ。 

 夕食の後片付けを手伝った後、お父さんの中国出張土産というジャスミンティーを淹れてもらって飲んだ。

 お父さんは気分よく酔ったらしく、

「お母さん、久しぶりにアレをやらないか?」 

 と言ってバイオリンを取り出して来た。

 松崎のお父さんはバイオリンが上手い。松崎のお父さんとお母さんは学生時代同じ音楽サークルで知り合った、と前松崎が話していた。

「それはいいわね」 

 お母さんも手を合わせてそう言って、壁側にある大きな楽譜棚の戸を開けて、楽譜を探し始める。

「あったわ」 

 お父さんがピアノの真ん中辺りの『ラ』の音を中指で弾いて、先っぽのネジで弦の張りを調節する。 

 そうして始まったのは、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』だった。  松崎の実家に初めてお邪魔した時に、ご両親が披露してくれた、思い出深い、曲。「後悔」「やるせなさ」を訴えているような、切ないのに力もある、壮大なストーリー性のある曲。そのストーリーは例えて言うならば、別れ別れになった二人が、二度と戻らぬ愛の日々を追憶するような、それでも現実を受け入れて人生は進んでゆく…そんな感じに聴こえる。メランコリックで美しいメロディーで、不思議と今の季節にも合っている。

 曲の中盤で、知らず知らずのうちに涙が出てきた。高村くんとの恋の挫折が、自分では思いもよらないくらい、深く根を這っているのかもしれなかった。そして、松崎のことを、少しの間であっても欺いてしまったことへの、自分への怒り、そんなことをしてまで、好きになってしまった人…。 

 キレイゴトかもしれないが、松崎を好きな気持ちと高村くんを好きになった気持ちを、同じ天秤にかけることは出来なかった。それらは同じ器機で量れる性質のモノではなかった。
 そもそも、間違っていたのだ。松崎でいいじゃないか?私はいったい何がしたかったんだろう。もう松崎だけを見て生きていこうよ。今からならまだ間に合うよ。  高村くんとの思い出は、心の奥底に閉まって、鍵をかけよう。


 時刻は九時になろうとしていた。

「理美さん、もしよかったら今日泊まっていかない?ほら、英文の部屋が空いているし」 

 初めてだった、こんなこと言われたのは。松崎はそのお母さんの言葉を聞いて、急に顔を輝かせた。

「いいんですか?ありがとうございます。それではお言葉に甘えてお世話になります」

 松崎の実家に泊まれる。下着がないとかパジャマはどうしようか、なんてことはどうでもよかった。ただただ、お母さんの気持ちが嬉しかった。

 お母さんはお風呂を沸かしに行った。

 ヴォカリーズの余韻が部屋じゅうにまだ漂っていた。松崎はルルを抱き、喉の下をなでてあげている。  お父さんに、

「理美ちゃんもピアノで何か弾いてくれないかね?」  と言われたのだけれど、

「いえいえ、あんなに素晴らしい演奏の後では、弾ける曲がありませんよ」  と答えた。実際そう思ったから。

 その後お風呂を頂いた。

「確か新しい下着があったはずなんだけど…あったわ。理美さんこれ、良かったらどうぞお使いになって。それから化粧水や乳液も、私ので良ければどうぞお使いになってね」

 松崎が毎日入っているバスルームに入る。脱衣所には、よくあるピンクや黄緑色のプラスチックのかごなどはどこにも見当たらず、広々としていて、余計なものは一切置いてない。洗面所は、大袈裟ではない大理石調で、大きな鏡が付いていて、傍らには、ライム色のポトスが透明の花瓶のようなものに水指ししてあって、まるでどこかの高級ホテルのようだ。

 バスルームの中も掃除がゆき届いていた。まずおそるおそるシャワーを出して周りに跳ねないように気をつけながらお湯を体にかけ、髪を洗わせてもらう。意外にも、シャンプーは庶民的な安いものだった。高級なフランス製の、何千円もするのとかじゃなくてホッとする。それから体を洗い、ゆったりと湯船に浸かった。なんて優雅なんだろう。心からリラックスすることができた。最近、頭を使い過ぎていた。

 上がる時に髪の毛が浮いていないか何回も碓認し、バスタオルでよく体を拭いてから脱衣所に上がる。用意してもらった新しい下着とパジャマを着る。サイズはぴったりだった。松崎のお母さんと体型が似ていることに、初めて気付く。

 最近、松崎の実家に来ていなかった。その間に高村くんと出会って、松崎を蔑ろにしてしまっていたのを、今、すごく反省している。私には肝心な部分が見失われていた。高村くんの実家はどんな家なのかは分からないが、とにかく私は、やはり松崎と別れることはあり得ない。

 付き合うって、もちろん本人同士の問題だろうけれど、家族ぐるみの付き合いを始めた以上、責任があるんだ。そして、それは重たいものではなく、かえって二人の支えになり、クッションになり、二人を繋いでくれる大切なものであると…。 

   翌日午後二時半、松崎の実家を後にして、目黒駅で松崎と別れ東中野に帰る。  松崎は別れ際に、 

「理美ちゃん、ヴォカリーズ聴いて泣いてたよね。オレもね、あの曲は訳もなく切なくなるよ」

 昼下がりの山手線は健全だ。これから原宿の竹下通りにでも繰り出すだろう、まだあどけなさが顔に残る中学生の男の子六人組や、二十代前半ぐらいの小綺麗な女の人、オシャレな革製のハンチング帽を被り、新聞に目を通しているおじいさん、なんかが、皆穏やかに電車に揺られている。

 中学生六人組は予想通り原宿駅で降りた。空いた席に座り、車窓の景色を、ただぼんやり眺めていた。

 東中野に着いて、まっすぐ家に帰っても良かったのだが、お母さんにはがきを書こうと思って、駅前の文具屋さんではがきを買い、ドトールに寄る。あの二階の窓際の席が今日も取れた。

 オーダーして席に着く。

 私にとって、高村くんは全く異色な出現だった。それは例えて言うなら、現実の中の『夢』の世界、という感じの時間だった。現実的でない現実…。どんな人にも、そういう時間っていうのは与えられているのだろうか。

 窓の下には、いつもの八百屋さんが見える。冬なのに真っ赤なトマトとかピカピカのきゅうりとか、いろんな色のいろんな種類の野菜がまるで芸術品のように並んでいる。まだ夕方の買い物客もいなくて閑散としていて、店員さんも暇そうだ。  そんな景色を見ながら、金曜に受信したメールのことを思い出し、受信箱を開く。

 高村くんへの疑問が、また浮上してくる。高村くんは、美雪さんを大切にしている。なのに、なんで私と二人で会ってくれたのか。朝方まで公園で話したり、真夜中に部屋にあげたり。それでいてあくまでも礼儀正しく、健全であり続けようとする。その態度が不可思議で、私は、そのことをちゃんと聞いてみたいと思った。でも、そんなことを聞いて、いったい何になるというのだろう。

 高村くんには、きっと、美雪さん以外の女友達なんて沢山いるのだろう。それで、その女友達たちのことは、女として見ることはないのかもしれない。そして、高村くんはきっと、私を含め、女友達とは、自分の男友達と同じように付き合っているのかもしれない。同性の友達と夜通し話し込むなんてことよくあるし、同性の友達とするようなことを、普通に異性の友達ともしているに違いない。そんな結論に達した。

 冷めた残りのコーヒーを飲む。
 結局、色々考えた末、高村くんには次のようなお別れメールを出した。

「高村くん、ずっと言ってなかったのだけれど、私には一年の時から付き合っている彼がいます。でも高村くんに出会って、貴方に急速に惹かれ、すごく迷い、本気で彼と別れることも考えました。でも、この間高村くんの気持ちを知って、諦めることにしました。付き合えない以上友達とはどうしても思えないから、これからはもう連絡しないようにします。短い間だったけれど、こんなに楽しく話せた人は高村くんが初めてでした。どうもありがとう。貴方のことは一生忘れないと思います。私高村くんの考え方が好きです、きっといいジャーナリストになれますよ。頑張って下さいね。それでは元気でね、さようなら」

 最後の言葉に高村くんを非難するようなことは書きたくなかったのだ。書いた後、何回も読み直して、修正して、送信した。

 これでいいんだ。私は自分に言い聞かせた。

 それから母にはがきを書いた。 



 拝啓  目白通りの銀杏並木もすっかり葉っぱを落とし、街はクリスマスの飾りで賑やかになってきました。その後体の具合はどうですか?  私の方は、サークルもピアノも楽しく頑張っています。家庭教師のアルバイトも続けています。  ところで、年末なのですが、カウントダウン・ライヴに行くことになったので、一日のお昼頃帰ることになると思います。大学は六日からなので五日に東京に戻ります。それでは久しぶりにお会いできるのを楽しみにしています。

                         かしこ  理美  


 手帳の帯から50円切手を取り出し、貼る。

 それから急に、松崎にケイタイストラップを作る約束をしたことを思い出した。 

(クリスマスまであと十日もないな。さっき原宿で降りてビーズ屋さんに寄ればよかったなぁ…) 

 表参道に、よく買いに行くビーズ屋さんがあるのだ。まだ明るかったので、ドトールを出て表参道に向かった。定期は新宿までだけど…。

 原宿駅の表参道口はいつものことながら大混雑だった。改札で手前の人が『ピーッ』となって、あからさまに嫌な顔をしてしまう。

 すれ違う人の中には、白人系外国人の姿が結構あった。それから自意識過剰なロリータ・ファッションの女の子達もいる。

 ここのビーズ屋さんは、店内が暗くて正確な色がいまいちはっきり分からないのは不満だけれど、今まで行ったどこのビーズ屋さんよりも圧倒的に種類が豊富で、だいたいイメージ通りのものが手に入る。

 今日も、満足のいく買い物ができた。 

 高村くんにも、何か作って渡せたらよかった。


連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.19
2008-12-19 00:33:19 | 連載小説

 
 水曜日はピアノの日。

 この間松崎の実家へお邪魔した時に、満足に弾けるものがなかったことにすごく後悔していた。次に松崎の家にお邪魔する時までにテンペスト第三楽章を弾けるようになってご両親に誉められたいと、今日はレッスンの後夜中まで練習しようと思い、一旦アパートに帰り、自転車でアルルに行った。
 八時からのレッスンの前にも30分くらい練習できて、先生に誉められた。  レッスンの後、どの部屋もレッスンで埋まっていたので、(レッスン室が空いている時、そこは練習室として使えるようになっている)待合室で、持って来た文庫本を読んだ。
 アルルの待合室は、赤茶色のビニール製のソファがあって、すぐ手の届く所にあるマガジンラックには「音楽の友」や「ぴあ」などの雑誌、それに新聞が置いてあって、横の本棚には、ヘレンケラーやキュリー夫人などの小学生が読むような、マンガの伝記ものが数冊、それから手垢の付いた、村上春樹などの文庫本が、十冊ぐらい置いてある。同じく待っている人たちは、会社帰りの50代ぐらいのおじさんや大学生などだ。

 今井先生がレッスン室から出てきた。22時7分だった。

「あーら、夏木さん待ってたの?ここ、もうレッスン終わったから、どうぞ使って。頑張ってね」

 レッスン室に入り、荷物を横のパイプ椅子の上に置く。楽譜とケイタイを取り出し、練習を始めた。

 テンペストが書かれた頃、ベートーベンは聴力をほとんど失っていたそうだ。ニ短調のこの激しくも哀しげな調べは、音楽家にとって致命的なハンデを背負った絶望や苦悩を乗り越え、孤高の精神で突き進むという感じを表現しているのだと今井先生は教えてくれた。
 仕上げの時はテンポを速めるが、今日はゆっくりめに弾いた。 

 ピアノをやっていると、どの曲にもそれぞれの『言葉』があるように感じる。私の解釈ではこの曲は『迷い』『葛藤』『悲痛』という言葉が似合う。かきたてるような焦燥感とでも言おうか。作曲家というのは本当にすごい。

 ピアノを弾くと、自分と対話しているような感覚になる。心が澄み渡るのだ。感情が研ぎ澄まされて、まるで鍵盤を押す指からストレスがピアノに吸い込まれていくよう。  ケイタイも目にくれず没頭した。なんとか二ページ目の最後の段までを弾けるようになったところで、顔を上げると、壁時計の針はちょうど0時を指していた。手を止め、耳を澄ます。他の部屋から小さく音が聴こえ、まだ誰かいるということで安心する。自転車で来たので終電も心配しなくていい。

 テンペストは一旦終わりにして、今まで弾いたことのある曲で、指が覚えているものを、ランダムに弾き始めた。
 ドビュッシー月の光、ショパンのノクターン数曲、シューベルトの即興曲NO.3、リストコンソレーション第三番、ベートーヴェンソナタ悲愴第二楽章、風の谷のナウシカのテーマ曲、加古隆のパリは燃えているか…こうして弾いてみると、意外とレパートリーはあった。

 自分の中にあった、もやもやした気持ちが、ピアノを弾くことで解決していくように感じられた。まるで大声を出してスッキリするような感覚だった。高村くんへの気持ちの清算も、できたような気がした。

 あっという間に一時間が過ぎた。さすがに疲れてきたので帰ることに。エアコンを切り、ピアノの鍵盤をハンカチでさっと拭いて、赤いカバーをし、静かに蓋を閉じる。
 部屋を出ると、待合室には誰もいなくなっていて、他の部屋から漏れる音も一人いるだけだった。
 階段を降り、目白通りに出る。この時間でも交通量はけっこうある。自転車にまたがり、山手通りに向かって自転車を漕ぎ出す。 だ。
 あったかいダウンジャケットに分厚いマフラーをして一生懸命漕いだからか、外気はかなり冷たかったのに少し汗ばんできた。
 中落合付近、山手通りの道沿いに、この間通った時は建設中だったマンションが完成していた。とても立派な大きなマンションで、松崎の実家のようなライトアップがされていた。

 次の日は目覚ましをかけていたはずなのにいつのまにかまた消してしまったようで、起きたら9時5分前だった。

(またやっちゃった)

 急いで奈歩に代返を頼むメールを打つ。終電の心配をしないついでに、一限の心配まで忘れていたのだ。
 すぐに「了解」の返事が来てほっとする。
 カーテンを開けるとよく晴れていた。どうせだからと洗濯機を回し、朝食を作る。
 木曜の時間割りはよくない。二限がないからついつい一限を軽んじてしまう。  
 この前の家庭教師は、すごく充実した時間だった。

 四月から四年になる。研究室も決めて卒業研究で忙しくなるだろうし、院に行く予定はゼロなので、とりあえず就活も人並みにしなければならないだろう。けれども家庭教師は続けたいと思う。バイト代はやはり貴重な収入源だし、何よりもやりがいがある。ユウナちゃんは最近見る見る自信がついてきたようで、私はそれが何よりも嬉しいのだ。

 洗濯機があのいやな『ピーピーピーッ』という音をたてて止まった。洗濯機を作るメーカーは、この音をもっとマシにすればいいのに…。   

 十時半に家を出て、落合駅から東西線に乗りラウンジに寄る。ラウンジには誰もいなくて、ノートを見ると『戸山公園で筋トレ』と修平の汚い字で、でっかく書いてある。とても天気が良かったし、三限までまだ時間があったので、ちょっと顔を出そうと思ってラウンジを後にし、早大生の顔に摺り替え、なるべく堂々と意識して構内を歩く。

 校門を出て、しばらくゆるい上り坂を歩く。定食屋さんやメガネ屋さん、不動産屋などが軒を列ねているここの通りには、早大生がうじゃうじゃいる。

 早稲田通りを横断し、文学部の前を通り過ぎ、しばらく行くと戸山公園がある。
 戸山公園はけっこう広い。でも、ベジェッサ西早稲田のメンバーが練習するエリアは大抵決まっていて、奥の方の藤棚の近くだ。他の体育系サークルの色々なグループの間を通り抜けてゆく。

 広々としていて、枝だけ剥き出しになった高い木を仰ぎ見、深呼吸をしてみる。吐く息は白い。

 やわらかな、白い冬の太陽光線が、心地よく体に染み渡る。まるで、一瞬にして地元の裏山にでも来たような錯覚に 陥るほど、長閑でゆったりしている。が、カラスがたくさんいることで、やはりここは都会の中なのだ、と我に返る。
 カラスと言うと、さも汚いものの代名詞のような響きだけれども、彼等をよくよく観察してみると、つぶらな瞳、がに股の歩き方、なかなかあれで愛嬌があると思うのは変だろうか。

 私に最初に気付いてくれたのは、後輩のマネージャーの子で、修平に告白した智子ちゃんだった。そして修平もいた。なんと松崎もいた!研究が休みになって余裕ができたっていうことだろう。松崎は私を認めると、まんざらでもない顔をしてみせた。その他には、内山、大西、秋元、それに後輩が五人ほどいた。池上くんはいなかった。それにしてもけっこうな出席率だ。そう、土曜日は今年最後の大会クリスマス・カップだ。

「それじゃ、今度は各自ももあげ50回に腹筋50回、これを三セットだ」

 内山が号令をかける。

 私は久しぶりに松崎の練習を手伝った。

  「1、2、3、4、…」 
 二セット終えて少し休憩する。

 顔を上げると、周りの木々は軒並み紅葉を終え、まばらに木に残った枯葉が、頼りなく風に揺れている。高い木の上に停まり、しきりにビービー鳴いているのは、ヒヨドリだろうか。空気は美味しくて、鼻からいっぱい吸い込み、吐く。そばをしっぽのこじれた茶トラのねこが優雅に通り過ぎる。少し離れた広場では、大きな犬を二匹連れた男の人が、犬を放し飼いにして、テニスボールを投げ遊ばせている。

 練習が終わると、皆その場で着替えをする。いつもその間はなんとなく目のやり場に困るので、少し離れたベンチに座り、智子ちゃんと話をした。

 私は基本的にあまり詮索好きではない。だから智子ちゃんにも修平のことは特に聞かず、六本木ヒルズやこの冬流行するものなんかの話をした。

 12時に公園を後にして、文学部の斜向かいにある激安ファミレスでアフターのランチをした。

 店内はけっこう混んでいたけれど、内山がご来店お客様控えの紙に名前と人数を記入すると、三分も待たずに通された。

 メンバーは今日、はりきって九時に集合して、まず箱根山の周りをランニングしたそう。箱根山というのは戸山公園の裏手にあって、丘みたいな小さな山だ。ここには昔、陸軍戸山学校というのがあったらしく、山の中腹に石碑が立っている。箱根山周辺はアップダウンがあるから、脚力をつけるにはうってつけのコースだ。オータム・カップでの雪辱が、練習の原動力になっているらしかった。

 そんなわけで皆腹ぺこだったみたいで、(男の子の一人暮らしなんか、朝食はろくに食べないに違いない)席につくなり、皆無言でメニューに目を落としている。

 ここは、とにかくびっくりするくらい安いので、ビンボー学生にはかなりありがたい店で、よくアフターで重宝している。

「決まったか?」
 内山が皆に碓認すると、ボタンを押し店員を呼ぶ。

「イタリアンハンバーグにスープセットでスープはコーンスープで」
「半熟卵のミラノ風ドリア」
「三点セットと包み焼きハンバーグ」
「あ、それをもう一つ」
「野菜ときのこのピザ」
「三点セットに厚切りランプステーキで」
「ハヤシ&ターメリックライス…」

 そんなに食べられるのか?と不安になるほど頼みまくる。私は朝食も遅く、さほどお腹は空いていなかったので、フォッカチオとコーンスープだけ注文した。  
 当り前かもしれないが、皆といる時は、松崎に話したいことがあっても、なるべくみんなに共通の話題だけで話すようにしている。席だってわざと遠くに座ったりもする。でも、この間初めて実家へ泊めてもらって以来、松崎との距離が縮まっていたので、躊躇することなく、すぐ向かい合わせのところに座った。だいたいメンバーはそういうことにさりげない気遣いをしてくれる。

 サークルの心ってあったかい。三年もすれば、サークル内で一年の時付き合っていた子が別れたり、他の子とくっついたりってことはよくある。けれども、皆そんなことを把握しつつも、必要以上に割り込まないし非難中傷などもちろんしない。それで当人同士も、サークルという柔らかなクッションで、ひと休みし、充電して、再生し、角がとれ、また成長してゆく。考えてみたらこんな環境、後にも先にもないんじゃないだろうか。

 大学生っていうあまりにも宙ぶらりんな、それでいて自分の心がけ次第で、どんなことでも成し遂げられそうな、根拠のない自信もあったりする今の環境がたまらなく愛おしい。こんな時間が、永遠に続いてくれたら…と時々考えてしまう。その一方で、日々の勉強への焦りや、親からの援助がなければ成り立たない生活へのもどかしさ、未だ定まらぬ自分の将来の方向性など、色々な葛藤があるのも事実だ。でもこうした貴重な仲間たちとの時間が、そういった焦りや葛藤を、薄めてくれている気がする。ノアの箱舟じゃないけれど、運命共同体がいることは本当に心強い。

「じゃあ私、悪いけどもう行かないと」
 と私がお財布を取り出すと、向かい側にいる松崎が、

「いいよ、一緒に払っておくから」 
 と小さな声で言う。こんな時私は、なんだかとても守られているという気持ちでいっぱいになる。

「ありがとう、じゃあ悪いけど」 
 黒いファー付きの茶色のオーバーを着て店を出ると、さっきまであんなに天気がよかったのに、なんと粉雪が舞っていた。私は急ぎ足で歩き、坂を上って大学に向かう。

 学内喫茶店で奈歩が待っていた。

「理美、流体力学遅刻多いね、私、理美の声まねうまくなったよ」

 皮肉なことなのに明るく言うから奈歩は憎めない。というか自分が悪いのだから…。

 午後は輪講だ。これは来年の研究室をどこにするか、自分がどこに向いているか、二~三か月ずつ一通りの研究室を経験してみる、教授を囲んでの少人数ゼミのようなものだ。今は全然興味のない研究室だから、頭も全然動かさないで、英語の辞書をペラペラめくって読んでいた。輪講ではだいたいは論文の和訳なんかをする。英語は好きだけれど、専門の英語はまるで別の言語のように理解が難しく、珍妙な訳をしてしまったりする。 

 デンマーク体操の後、家庭教師へ行った。このあたりはイルミネーションを飾っている家が少ない、などと思いながら、凍えるような寒さの中、急ぎ足で向かう。

(今日もユウナちゃん元気かな?どんな服を着ているだろう…)
 既に私はユウナちゃんのファンだ。

「こんばんは」
 お母さんがいつもの満面の笑顔で応対してくれる。ユウナちゃんもその後ろからはにかみながら顔を出す。今日はザックリ目のキラキララメ入りの胸元が大きく開いている黒いセーターに、ピチピチのジーンズ生地のミニミニスカートだ。セーターの袖を指でつまんで伸ばしているのが可愛い。

 今日も集中して楽しく教えることができた。

「六角形の内角の和を求めよ、って言う問題だね。これを解くにはユウナちゃんならどうする?」
 ユウナちゃんはさっぱり検討がつかない様子。

「それじゃまずね、頂点AからCDEに対角線を引いてみてごらん。そうそう。そうすると六角形の中に三角形が四つできたでしょ。三角形の内角の和は180度っていうのはこの間やったよね?だから六角形の内角の和は180×4=720度となります!」

「へぇーすごーい!夏木先生魔法使いみたい」 

 ユウナちゃんは目を大きく見開いて、両手を何回もパチパチ叩いて喜んでくれた。

 帰りの電車の中でその情景を何度も反芻して、充足感でいっぱいだった。   

 アパートに着き、郵便受けを見ると、テレクラの小さなチラシや引越業者のチラシの合間に、あの見慣れた文字が見えた。母からのだ。 

 母は、私がはがきを出すと100%返事をよこしてくれる。はがきを大雑把に眺めながら、鍵をあけ、誰もいない部屋に入る。
 明かりを点けて、留守録を解除して、早速はがきに目を通す。


 拝復   お便りありがとう。今年も残すところあとわずかとなりましたね。体の事を心配してくれてありがとう。ランと毎朝散歩するのが日課で、最近は寒くて億劫になりますが、ランに引きずられるようにしてがんばって行っています。健康に良いようです。  お父さんは先日学会で神戸に行ってきました。霊山の畑は、もうあまり忙しくないようです。  年末は何か予定があるとのこと、くれぐれも無理をしないように。それではお正月に会えるのを楽しみにしています。                     
                             かしこ  母より 

 ランと言うのは実家で飼っている犬で、明るい茶色のトイ・プードルだ。母が乳ガンを患ってしばらくして飼い始めた。私は一年しか一緒にいられなかったけれど、両親は可愛がってあげているようだ。

 その後松崎にメールを打つ。明日は金曜日だ。

「明日は何か予定ある?なかったら夜ご飯一緒に食べない?」

 20分ぐらいして返事が来る。

「明日は試合の前日だから、個人練習をするんだ」
 すぐに返事を書く。

「どこで?私付き合ってもいい?あと、千駄ヶ谷は一本で行けるから、泊まっていって明日一緒に行かない?」 

 20分ぐらいして「わかった」と返事が来る。


 次の日の夕方、高田馬場で松崎の筋トレに付き合った後、東西線に乗りアパートに来てもらった。

 片づけは朝のうちにしておいた。ロフトのベッドスペースにはベッドメーキングした後今日はユリの香りをスプレーし、掃除機をかけ、洗い物をし、トイレをきれいにした。お気に入りのサボテンは、冬だからか最近元気がない。

 今日は、簡単で栄養のバランスもいい、八宝菜にかきたま汁、を作った。こういう定食風のメニューは、きっと松崎の家では出てこないんだろうなと…と心配していたが、松崎からは、

「美味しい!」
 という言葉が出たので、ほっとする。 

 その後、松崎が思わぬことを言ってきた。 

 「理美ちゃんってさ、近所の銭湯によく行ってるって言ってたじゃん?オレ、最近筋トレがんばったから、ちょっとゆったりお風呂入りたくてさ。そこ、連れてってくれない?」 

 考えてみれば、松崎を銭湯に誘ったことは今まで一度もなかった。お金持ちの子は銭湯なんて入りたがらないだろう、と決め込んでいたのだ。

 高村くんのことがちらっと頭をよぎったけれど、時間も早いからカチ合う心配はないだろう。

「うん、いいね。私、大ちゃんとほんとはずっと前から一緒に行きたかったんだよ」 

 そして早速、バスタオルやタオル、松崎用にお泊まり用のシャンプー・リンスなどを用意して、藤の湯へ出掛けた。


連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.19後半
2008-12-20 19:00:05 | 連載小説

 
  藤の湯は、ちょうど十日前、高村くんの部屋に初めて入れてもらった日以来、久しぶりだった。なんだか、あれからずいぶん経った気がする。

 でも私は、自分の中で、もう高村くんとの時間を封印したつもりでいた。実際私の気持ちは、松崎に急速なスピードで戻っている。
 いつもは一人で歩く寂しい藤の湯までの道のりが、松崎と歩くと、まるで違ったように感じられる。クリスマス間近で、道沿いの家のベランダや庭木には、色々な趣向のイルミネーションが、キラキラ光って賑やかだ。あの、先走って一番乗りに点灯を始めた家の前を通り過ぎた時、連休明けに、高村くんとバッタリ会って、すみれ荘までついて行った自分を、一瞬思い出してしまった。

 松崎は銭湯に入るのが、なんと生まれて初めてだと言う。
 靴箱を見て、

「居酒屋みたいだね」

 と、見慣れない所に来た時の、好奇心いっぱいの小学生の目をして言う。

 受付の人は、今日は運よくいつもはあまりいない、杖をついたちょっとボケの入ったおじいちゃんだった。松崎はスッと千円札を出す。当然のように私の分も払ってくれた。
 
  時計を見て、
「じゃあ、まだ時間早いからゆっくり十時まで入ろう。ロビーでね」

 そう言って、別々の暖簾を潜る。 

 今日はいくぶん空いていた。ロッカーもちょうど手が届きやすく着替えもしやすい、下から三段目の端が空いていて、内心にっこりする。番号も27、私の大好きな数字だ。

 私は、なぜか数字への感度が高い。三で割り切れる数っていうのが好きで、特に12と27が好きだ。 「ロト6」って言う宝くじを、秘かにたまーに思い付いたように買って、好きな数字を塗る。六つの数字のうち、12と27を外したことはない。私にとってのラッキーナンバーだと信じているのだ。

 そんなことを考えながらいつのまにか裸になり、シャンプーやボディーソープのセットを持って、お風呂場のガラス戸を開ける。

 中には全部で7~8人いた。時間が早いからか、お母さんと来ている小学生高学年らしい女の子もいる。

 『本日の湯』は、高村くんと出会った日と同じ『コーヒー風呂』だった。
 体が冷えきっていたので、温かいシャワーを頭からかけて、前髪をかきあげ、しばらく流しっぱなしにする。それから頭を洗い、化粧を落とし、体を洗って、髪を一つに束ねて、湯船に浸かった。

 ここはリニューアル後、モザイクの富士山の絵がなくなってしまった。

 泡のぼこぼこという音に身を委ね、ゆっくりと目を閉じる。

 無意識に頭に浮かんだのは、高村くんにファミレスで初めて出会った日、ここのロビーでバッタリ再会したシーンだった。その後は、次々と思い出が甦った。ギンザ商店街でまたまた偶然会った時の高村くんの笑顔。コーヒーの缶をスルッとゴミ箱に投げ入れた瞬間のこと。りんごの入った袋を手渡した時の高村くんの喜んだ顔。深夜の神秘的な公園デート。そして…つい十日前、高村くんの部屋に初めて入った、あの得も言われぬような時間…。

 封印するにはあまりにも刺激的な思い出ばかりだった。でも、終わったんだ。もう、すべては終わったんだ。そう自分で決めたんだから。私の中には不思議と惜しいという気持ちはなかった。高村くんとの凝縮した一か月半よりも、何十倍も長い松崎との時間、培ってきた絆へのいとおしさの方が今は勝っていた。

 15分は優に入っていただろう。周りのメンバーは大方入れ替わっていた。一旦浴槽から出て、ぬるめの水シャワーを浴びる。

 その後、今度はコーヒー風呂に浸かった。

 また目を閉じる。

  『カフェ傅』でのオシャレな大人っぽいデートが鮮やかに頭に浮かんだ。あの初雪の一粒一粒さえも手に取るように…。

 …もう終わったんだ。

 久しぶりに顔のマッサージをしてみた。あごのライン、まゆの間、鼻の周り、口の周りなど、ゆっくりと指圧する、落ち着く。

 そんなことをしているうちにあっという間に10時10分前になっていた。

(やばっ)

 急いで上がり、タオルをきつめにしぼって体を拭き、さっと着替えて、暖簾を潜りロビーへ行く。

 十時を少し過ぎてしまった。松崎は、借りてきた猫のように、TVニュースを見ていた。

 もしかして、と少し心配した高村くんの姿がなかったのですごくホッとして、

「トントン」 

 と松崎の肩を優しく叩く。

「おまたせ」

 その後、私は90円で瓶のコーヒー牛乳を買って、松崎の隣に座って一緒に飲んだ。

 特に会話という会話はしなかったけれど、ちょうど10時のニュースが始まったばかりだったから、しばらく見ていた。

 それが間違いだった。

「そろそろ行こうか」 

 10分ぐらいして私は立ち上がり帰ろうとした。コーヒー牛乳の瓶をコンテナにストンと戻して、靴箱の木の鍵を取り出し、出口へ向かおうとしたその時だ。玄関をガラッと開けて入って来た男の子はまさしく高村くんだった。

「ああ、夏木さん、こんばんは」

「あっ高村くん…」

 松崎の方をちらっと見る。松崎はその会話を見逃してはいなかった。高村くんをまっすぐ見ていた。目が点になっていた。

 靴箱の鍵を持つ手はかすかにふるえていた。

「それでは、おやすみなさい」

「おやすみ…」

 高村くんは状況を察知して、でもやはり丁寧に明るく挨拶をして、中に入って行った。

 高村くんが去った後、平然を装って私はこんなことを口走っていた。

「あのね、早苗のかけもちしてるサークルの後輩の子でね、前にカフェテリアで偶然早苗のサークルと隣になった時に、さっきの子もいて。顔知ってたんだけど、一か月前くらいにここで偶然会って。近所みたいなんだよね」

 自分でもよくこんなしらばっくれたうそが言えたと思う。けれども松崎は明らかに何かを感じたらしかった。帰り道、松崎はひとっ言もしゃべらなかった。私が、なんとか話題を変えようとして、

「初めての銭湯、どうだった?」

 と聞いても、よかったとも悪かったとも言わずうわの空でただ、

「ああ…」 

 とだけ言った。とても気まずい沈黙のまま、アパートへの一本道を歩く。たった二分ぐらいなのにものすごく長い時間に感じられた。

 やっとアパートの目の前まできて、松崎はぼそっと、

「そんな話、一度もしたことなかったよね」 

 と言った。いたたまれない気持ちだった。私はきわめて明るくこう言った。

「うん、このへん学生多いし、特に珍しいことでもないしさ、わざわざ報告することもないかなと思って。それにあの子に銭湯で会ったのはつい一か月前くらいで、最近大ちゃん研究忙しかったからあんまり会ってなかったじゃん。それに…」

「もういいよ」

 松崎にしては珍しくややきつい言い方で私の『弁解』を遮った。

 アパートの鍵が、ガチャリ、と開いて、真っ暗な部屋に入る。

 松崎は黙って靴を脱ぎ、お風呂セットを黙って私に渡し、リビングに入る。ソファに背中を凭れずに座り、TVもつけずに、ずーっと俯いて、貝のようにしっかりと口を閉じている。私はその様子を気にしていないフリをして、

「大ちゃん、緑茶と紅茶どっちがいい?」

 とさりげなく聞いた。返事がない。

「…じゃあ緑茶にするね」 

 私は声だけ明るく、心はどんより沈みながら、茶つぼを開けティーポットの網にトントンと力なく入れる。

 松崎はお茶が入る前に、

「ちょっと具合悪いから、上行ってる」

 と言って、歯も磨かず、服も着替えずに、ロフトに行ってしまった。

「大ちゃん大丈夫?うん、休んでて」

 本当に気持ち悪いのかもしれない。松崎はもともと結構弱くてすぐ風邪を引くから。でも…。

 高村くんのことを疑われてしまったに違いない。頭がいっぱいになる。本当のことを話した方がいいかな。どうせもう終わったことなのだし。

 でも…奈歩が島根行きのバスで言ってくれた言葉が頭をよぎる。

(…松崎を傷つけるくらいなら、少しの間嘘をついてあげて。そのくらい松崎は理美のことを…)

 体の関係もない、キスさえもない。でも、この一か月半の『心の浮気』はまぎれもない事実なのだ。もしこのことを松崎に話したら、いくら温和な松崎だって、許してはくれないだろう。最悪、別れを切り出されるかもしれない。

 私は高村くんのことを一切言うのはやめた。

 二人分用意した湯飲み茶わんを一つしまい、ティーポットにお湯を注ぎ、リビングに持っていって机に置き、静かにソファに座った。 

 松崎の実家に泊めてもらった、あのヴォカリーズを聴いた夜に、高村くんとはもう会わない、メールもしない、とあれほどまで決意した。なのにこんなことになってしまうなんて。

 上はシンと静まり返っている。でも松崎は、たぶんまだ寝ていないに違いない。きっと何か、私の言葉を待っているはずだ。

 でも、今は何を言っても逆効果になるような気がしたので、とにかく松崎はただ気持ちが悪いだけだと思い込むようにして、そっとしておいた。

 そう言えば明日は、マネージャーが手分けして、選手のお弁当を作って行く事になっていた。私はご飯釜が小さいということで、おにぎりは自分と松崎の分だけで、代わりにおかずを二品ぐらい作って行くことになっていた。

 戸棚を開け、朝食の分も考え、釜に米をカップ四杯入れる。

 時刻は10時40分になろうとしていた。無意識にお風呂を沸そうとお風呂場へ行く。ふとお風呂はもう入ったことを思い出す。洗面所で洗面台に両手を付いて、ボーッと自分の顔を見た。カエルみたいな情けない目をした自分がそこにはいて、思わず顔を両手でぐいぐいマッサージする。歯を磨き、電気を消してロフトへの梯子を静かに上る。

 その夜松崎は壁側を向いたまま、一度も私の方を向くことはなかった。天窓からは月も見えず、風も強く、寒々しい長い夜だった。


連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol20
2008-12-20 19:11:05 | 連載小説

 クリスマス・カップの開会式は九時半からだった。目覚ましは六時にセットしたはずだった。だが、目覚ましの鳴る前に目が覚めた。 
 松崎がパッチリ目を開いて、私の髪をなでていたのだ。
 私が起きたのに気付くと松崎は、

「理美ちゃん、愛してる」
 と言った。

 朝起きぬけにそんなこと言われたのは今までなかったので、びっくりして、ああ、そういや昨日…と思い出し、

「具合良くなった?良かった。愛してるよ、大ちゃん」 
 と言って、仲直りした形になった。

 私は心のもやもやが少しは消え、下へ降り、おにぎりとおかずを作った。のりはいつも実家から送られてくるのがたくさん余っていた。味は、梅と、シャケと、シーチキンマヨネーズの三種類にした。おかずは、ありきたりだけれど、卵焼きとソーセージ。
 松崎はTVをつけて、ニュースを観ていた。

「大ちゃん、今日はベジェッサどこまで行くかな?」

 松崎が普段通りに戻ってくれたなぁと思い、すごくホッとして、おにぎりを握る手が弾む。

「わかんないけど、今回、オレたちメンバーは、結構練習がんばったと思うよ」  
 窓の外を見ると、ところどころ雲はあったけれど、良く晴れていた。室内競技とは言っても、天気がいいのは嬉しい。
 おにぎりは、なかなか上手にでき、皿の上に並べて冷ます。その間におかずを作って、使い捨てランチボックスに綺麗に詰める。おにぎりは松崎の分三つと私の分二つを、それぞれアルミホイルで包んだ。

 朝食を済ませ、8時20分、家を出る。服装は、いくらスポーツ観戦とは言っても夜は飲み会だし、と思い、お気に入りの赤いPコートにした。でもスカートではなくジーンズにし、上もカジュアルな五分袖の黒いセーターにした。松崎は、ユニフォームには向こうで着替えるということで、白地に細い紺色の格子模様の入ったカジュアルなワイシャツに、グレーのVネックセーター、それにブルージーンズ、そしてお決まりのダッフルコートにマフラーだ。

 住宅街の細道を歩き出すと、朝なのにあの二匹の猫がいた。二匹はうずくまって、私たちの方をあまり関心なさそうに見て、前足で顔を拭くポーズをする。松崎が近寄って触ろうとすると、ひょいっと逃げてしまった。

 東中野から松崎と一緒に電車に乗るのは、この間実家に泊めてもらった日以来だった。総武線は大抵座れる。今日も空いていた。

 新宿でかなり人の出入りがあったが、千駄ヶ谷まではあっと言う間で着いた。  
 東京体育館には、既にたくさんの学生が詰め掛けていた。大半は知っている顔だ。

「よぉーっ!」
 後ろから声がしたので、振り向くと修平だった。修平はこの寒いのに、上に何も着ずユニフォーム姿でやる気マンマン。そんな格好の人は誰もいなかったのでちょっと恥ずかしい。

 そうこうするうちに、みんな集まったので中に入る。

 九時半、開会式が始まった。前回のオータム・カップ同様8チームが参加だ。コートが二面しか取れないということで、今日もトーナメント戦で行われる。  

 開会式で目を惹いたのは『アミーゴ日芸』と言うチームで、なんとみんなサンタクロースの帽子をかぶって登場したのだ。なかなかユニークだ。 

 そしていよいよくじ引き。これでもし、初回に強豪と当たったらかなり厳しい。みんな息を飲む。

 内山が引き当てたのは、あのサンタクロースの帽子のチームだった。思わず皆から笑みがもれた…あそこのチームは東京六大学野球の東大のように、万年負け続きだからだ。しかも、黒板に貼付けられた大きなトーナメント表を見たら、なんとオータム・カップでの上位二チームが初回に激突する!トーナメント戦っていうのはこれだから分からない。ある意味今日はついてるんじゃないか?

 ベジェッサ西早稲田のメンバーはみんな輝いている。そんな中、池上くんだけなんとなく元気がない。早苗もいつもの弾けるようなパワーがない。さてはケンカでもしたのかな?
 修平の彼女の智子ちゃんは、修平と一緒にいることが嬉しくてしょうがない、と言った様子。修平のタオルを握りしめ、終始笑顔だ。

 初回は、後半で少し詰め寄られたものの、前半に大量得点していたのであっさり勝ってしまった。修平は彼女の前でいいプレーを見せたいのだろう、いつもよりさらにハッスルしている。実際前半の頑張りは見ていても気持ちが良く、おもいきったプレーが目立った。

 それから午後の試合まで時間が空いたので、その間にやっていた『コルミージョ藤沢』の試合を観ていた。柏原&谷原は今日も好調だ。柏原がボールをキープし、美しく正確なインサイドキックを谷原に。谷原はうまくトラップし、左右にドリブルしながら敵を交わす。あっと言う間にゴールに近付き、ため息のもれるような鮮やかなシュートを決めた。

「なぁ、今のうちに昼めしにしようぜ」
 と修平に声をかけられ、観客席に行って弁当を広げる。私は何の変哲もないおにぎりだったけれど、奈歩はいなり寿司、智子ちゃんはなんとサッカーボールをイメージした球形に、六角形に切ったのりを付けてきた。ソーセージや卵焼きはありきたりで恥ずかしいと思ったけれど、みんな残らず食べてくれた。

 二回戦は『エストレージャ駿河台』とだった。ああ、運のつきもこれまでか…と思いきや、前の黒板を見ると、初回弱いチームにわずか一点差で勝ち進んだようだ。あのエストレージャ駿河台がどうしたのだろう。

 稲葉の様子がおかしいと気付いたのは、試合開始後間もなくのことだ。エストレージャ駿河台は、ハッキリ言うと彼がキーパーソン的存在で、あとは意外にみな並のレベルだ。でも役割をきっちりこなすから、チームとしてのまとまりはあるのだが、シュートはどうしても稲葉が断然上手く、他に代わりがいないのだ。

 普段はポーカーフェイスで果敢に攻める彼が、今日はまるで試合に集中できていない。パスの出し方も、受け取るタイミングもちぐはぐで、まるで別人のようだ。

「稲葉くん調子悪いね」
 私は奈歩に向かって言ってみた。

「うん…」
 奈歩は何か心当たりがあるようだったが、話してはくれなかった。

 ついに決勝戦だ。相手はなんと『コルミージョ藤沢』だ。 

 「ピーッ」 
 アミーゴ日芸のキャプテンの笛で、試合が始まった。交流試合では、審判も学生たちでする。 

 ベジェッサ西早稲田のメンバーは、生き生きしていてみんな動きがいい。引き分けのまま、後半戦へ突入する。
 後半はゴール際での松崎のシュートが決め手となり、見事逆転で勝った。

 全試合が終了したのは午後3時半だった。その後表彰式が行われた。ベジャッサ西早稲田はなんと優勝してしまった。

 夕方六時から高田馬場で合同飲み会があった。高田馬場になったのは、今回の飲み会の幹事がたまたまベジェッサ西早稲田に回って来たからだ。他のチームの交通の便を考えると、新宿辺りが無難だったのだろうけれど、いつも使っている飲み屋で気に入っているところがあり、会員割引もあるから、と馬場にしたのだ。

 奈歩は飲み会を欠席した。帰国後初めて、井上くんと会う約束をしたのだ。

「まさか優勝するとは思っていなかったから…」
 と悪がっていたけれど、

「ドキドキだね!楽しんで来て」
 と明るく送り出してあげた。

 六時にビックボックス集合。

 クリスマスが近いから待ち合わせに使う人でかなりの混雑だ。日中あんなに天気が良かったのに、ポツッポツと雨が降って来た。

 松崎はいつ何時でも折り畳み傘を持っている。松崎に入れてもらった。他の人で傘を持っている人はほとんどいなかった。なんとなく悪かったけれど、お姫さまのような気分で嬉しかった。とは言ってもお店は駅から近かったのでみんなそんなに濡れずに済んだ。

 今日の飲み会は鍋。一つのテーブルに二つ。海鮮よせ鍋に豚キムチ鍋。私は松崎のすぐ隣に座って、鍋をよそってあげる。

「それじゃ、ベジェッサ西早稲田の初優勝を祝して、乾杯!」
 と内山が中ジョッキを一気に飲み干すと、続いて修平、大西、秋元が揃い踏み一気をする。松崎はその様子をにこにこして見ている。智子ちゃんはとても心配そう。それでも三人が飲み干すと、どっと拍手が沸き起こった。

 向かい側にいる早苗は、普通はよく飲むのだが、今日はやけに ピッチが遅いので、

  「どうしたの?具合でも悪いの?」 
  と一応聞いてみたけれど、

  「うん、ちょっとね」 
 と早苗らしくない、しおらしい視線で、池上くんの方を向く。やっぱり何かあったんだな。

 鍋はあつあつで美味しくて三回おかわりした。

 修平と智子ちゃんは今が一番いい時期なのだろう。修平の器によそってあげたり口に運んであげたり、甲斐甲斐しくお世話している。きっとクリスマスあたりに初Hかな。

 それにしても今日の松崎のプレーはかっこよかった。松崎は普段の性格はとても穏やかなのに、フットサルになるとすごく機敏になる。相手からボールを奪うのも上手い。決勝戦での逆転は、松崎がゴール前での攻防の末、こぼれ玉をすかさずシュートしたことで入った点だった。とにかく選手みんながうまくフォローしながらチャンスを無駄にしなかったのが、今日の勝因だろう。

 奈歩は今頃、新宿辺りで感動的な再会をしているかな。

 お店を出たのは九時半過ぎだった。雨脚が強くなっている。今夜いっぱい降り続くようなシトシト雨だ。身震いする。

 二次会は特に設定していなかったので、

「大ちゃんどうする家来る?雨だしタクシー乗ろうか?」
 とか相談していると、早苗が急にみんなに向かって、

「今日、みんなに家来て欲しいんや」 
 と西早稲田のアパートに誘った。それで、三年の六人が早苗のアパートに行くことになった。

 タクシー二台で早苗のアパートに向かった。松崎と私は後ろの方に乗る。私の乗ったタクシーの運ちゃんはとても陽気な人だった。

「あいにくの雨ですがね~こっちはありがたいもんでね、雨の日は普段の何倍も忙しいんですよぉ~」 
 助手席の名前をチラッと見ると、「寿 喜一」とある。

「そうですか」 
 誰も反応しないので私が相槌を打つ。

「あなたがた早稲田の学生さんでしょ?うちのね、向かいの家の娘さんも早稲田受かりましてね、今一年なんですけどね」

 苦笑しながら、
「へぇ~そうなんですか」
 と言うしかなかった。

 ちょっと道が混んでいたものの、あっと言う間に早苗のアパートの前に着いた。松崎が千円札をスッと出す。

 早苗のアパートは早稲田通りから少し奥まった、理工学部材料技術研究所の近くで、何回かお邪魔したことはあった。

 早苗のアパートは結構古い、木造だ。しかも女の子なのに一階だ。早苗のそんな無頓着さはやはり男っぽい。

 ゾロゾロと、皆濡れた靴を脱いで上がる。玄関にいる文鳥は今日も元気だ。松崎は文鳥を見つけると、指を網の間に入れたり出したりして遊んでいる。

 早苗のアパートは和室で、炬燵が出ていた。

「みんなこたつにあたって、いまスイッチ入れたから」 
 みんな酒が入っているから遠慮なくズカズカと言われるままに炬燵に入る。早苗は全然気にしない、むしろ嬉しそうだ。

「湯飲み茶わん人数分ないな」
 などと独り言をいいながら早苗は台所でお湯を沸かし始める。

「なんか手伝うよ」
 私はまた立ち上がる。湯飲み茶わんは三つ、あと残り四つは大小色も様々のマグカップだった。よくあることだ。

 炬燵でみんな顔を寄せ合い、今日の試合をまた振り返り、改めて良かったプレーについて語り合った。

「最初の内山のくじ運が最後までもったんだね。エストレージャの稲葉の不調とかもあったしな。あとはやっぱメンバーの実力もついたんだと思うよ。箱根山ずいぶん走ったしね。松崎の最後のシュートはホントすごかったな…」 

 軒下に雨粒の落ちる音がして、窓側の私の座っている辺りは隙間風が入って寒い。 

 それから一瞬の沈黙があって、早苗が、 


  「うち、子供ができたんや」

 確かにしっかりとそう言った。皆一斉に早苗の方を向く。

「親にはまだ言うてない。反対されるのはわかってる。そやけどうち、池上の子を生むつもりや」

 表情は心なしか明るく、そしていつもの豪快な早苗ではなく、やわらかな女性的で穏やかな表情の早苗がそこにはいた。 

 さっきの飲み会で、お酒をほとんど飲んでいなかったのは、こういう事情だったとは。それにしてもびっくりして、現実を理解するまで、しばらく時間がかかった。まだハタチそこそこ、しかも学生、来年丸々一年まだ残っているのに…。  

 そんな私の心の声を聞いてか、早苗は、

「卒業はするつもりや。休学してでもな」 

「すっげーかっこいい。やっぱ早苗は根性あるよ」
 大西が羨望の目指しで、そう言った。

「今、何か月?」  私は聞いてみた。

「今月生理が遅れてたから市販の検査役で調べたら陽性だったんで、すぐ病院行ってきたら二か月って診断された」

 と早苗。

「ということは、ええと……七月か八月生まれになるね!」
 結構すぐだ。

「オレの誕生日に近い」 
 松崎が早苗のアパートに来てから初めて口を開いた。

「早苗と池上くんの子なら、芯の強い優秀な子になること間違いなしだね。あーなんかすごいね」 
 私は、羨ましかった。

「ってコトは結婚式も近々やる?」

 内山が尋ねる。

「うん、そこの奉仕園で、形だけ挙げちゃおうかって池上と話してたんよ。きっと家の方の親戚はゼロや思うけど…。みんな来てくれる?二月安いみたいやから二月の中旬頃に、と思うんやけど」 

 と早苗がちょっと自信なさげに言うと、内山は間髪入れずに、

「絶対やった方がいいよ。オレの姉貴は、今時ダサイとか言って一切やんなかったんだけど、その後よく友達のにお呼ばれされてるみたいで、行く度に、やっときゃよかったって後悔してる」

 早苗の花嫁姿を想像した。きっと早苗ならタイトな大人っぽいドレスが似合いそう。

「うち、塾講のバイトでお金はたまっててな、挙式とか出産とかはなんとかなりそうや」

 池上くんは終始黙ったままだった。どうも最近様子が変だと思っていた。責任を感じているのだろう。

「池上くんも半年後にはパパになるんだねー。そんな浮かない顔してないで、さあさ、乾杯しなくっちゃ。早苗何かお酒ない?」 

 私は池上くんを励ますように言う。

「あー、いっぱいあるよ。どうせしばらく飲めんから、消費してってもらえると助かるワー」 

 そう言って早苗は台所から次々とお酒を出して来た。『久保田』『雪中梅』『八海山』など日本酒が3~4種類、そして芋焼酎、ジンロ、およそ大学生の女の子とは思えない渋いコレクションだ。

「おつまみ買ってくる」
 と松崎が立ち上がったので、
「待って、私も行く」 
 と立ち上がり、Pコートを着る。

 雨はだいぶ弱まったようだが、それでもまだシトシト降り続いていた。
 松崎と相合傘をして、一番近いコンビニへ行った。

 コンビニには、夜遅いのにもかかわらず、早稲田生らしき学生が三~四人も立ち読みしている。

 夜のコンビニは、やけに明るい。『街のホットステーション』というキャッチコピーのコンビニがあるが、まさにそういう感じだ。

 おつまみを三~四種類かごに入れる。それから松崎は、

「お祝いだからね」
 とハーゲンダッツのアイスクリームを七つかごに入れた。

 帰り、早苗のアパート近くの路地裏でキスをした。雨の中、結構長く…。

 早苗のアパートに戻ると、音楽がかかっていた。早苗の好きなミーシャだ。

 松崎がテーブルにおつまみを出し、アイスを早苗に差し出した。

「うわぉ、松崎ありがとう」
 ハーゲンダッツを嫌いな人は滅多にいない。

 そうしてめいめい飲んでみたいお酒をコップに注いで、早苗はウーロン茶を渋々注ぎ、内山が、

「では、早苗のおめでたと今日の優勝に、乾杯」
 と言ってコップを高々と持ち上げた。

「乾杯」

 皆が声を揃えて、コップをカチンカチャンと合わせた。文鳥がびっくりして鳴く。

 この頃には、池上くんの顔にもやっと笑みが戻って来た。もともと愛想がいいタイプではないけれど。

 ふいに私のメール音がした。時刻は既に11時を回ろうとしていた。早苗がちょっと怪しんで、

「理美、こんな時間に誰や?」 
 と聞く。メールはすぐ見ないと気が済まないタチなので、もし高村くんからだったらとちょっと心配だったが、その時は適当にごまかせばいいと思い受信箱を開く。
 香織からだった。明日出発とのメールだったので、すばやく返信する。

「明日フランスに旅立つ友達からだった」 
 と一応早苗に報告すると、早苗は、

  「ふぅーん」 
 といぶかし気に私を上目遣いで見る。松崎が早苗と私を交互に見ている。

 カクテル派の私にはどのお酒も合わなかったが、松崎は黙って、『八海山』を手酌で飲んでいる。松崎に、また疑われてしまったかな…。

 皆がいい気分に酔い始めた頃、池上くんが突然話し始めた。

「オレの親父はオレが五才の時家を出て行った。真相は知らないけれど、おそらく外に女ができたんだと思う。おふくろは当時からスナックで働いてたんだけど、その後店長になって、ずっと店を維持してきた。今にして思うと、早々と店長になったのは、家計を安定させるためだったんだと思う。小学校でオレが成績いいと分かって、おふくろは中学受験させてくれて。おふくろはオレのことを誇りに思ってくれてる。だから今回のことはまだ言えずにいるんだ。いずれ言わなければならないけれど…」

 早苗はその話は全部知っているらしかった。

「アイスでも食べよか」 

 冷蔵庫からハーゲンダッツを取り出して来て、皆で食べる。

 アイスを食べ終えると、0時半になろうとしていたので、

「早苗は体に毒だから、もう寝た方がいいわ」
 と私が言うと、早苗は、

「うちが誘ったのに、何や悪い気がして」
 と言うので、そんなことはないから、と寝床に連れて行った。

 それから私は、やかんにお湯を沸かして、みんなにお茶を淹れた。

 ほどなくして、大会で大活躍した松崎、内山、大西も炬燵で横になって、グーグー眠ってしまった。

 残された池上くんと私は、この二人だけで話すってレアだな…とお互い意識しながらも、色々話し込んだ。

「池上くんはさ、お母さん想いだし、自活しているし、なんか同い年とは思えないよ。私なんてね、親からの仕送りがなくちゃ成り立たない生活だしさ。かと言って学部の勉強もちゃらんぽらんで。早苗とのこと、池上くんのお母さんならきっと分かってくれるんじゃないかな」

「夏木は松崎とはうまくいってるのか?」

 私は高村くんの話はせずに、

「うん、ずっと付き合っていきたいと思ってるよ」と答えた。 

 その後、雨の音を聞きながらお茶を啜っていると、池上くんが、

「永井は最近見ないけど大丈夫なのか?」
 と聞いてきたので、

「緑ね、体調崩して今島根の実家に帰ってるの。この間奈歩と会いに行ってきたんだ。元気そうだったわ。あの調子なら一月のテストまでには、なんとか戻って来れるんじゃないかな」

「そうなのか。永井って何か自病とかあるのか?」

 と池上くんが聞いたので、

「男、よ。失恋のショックで…」 

 と言ったら、池上くんは、

 「そうか…」と言って、じっと湯飲み茶わんに目を落としていた。 


  雨は止んで、早朝の早稲田通りは閑散としていた。ツンと寒く、まだ空が生白く、カラスがゴミの上に止まって、ゴミ袋を突ついている。

 私は先程、松崎をそっと起こし、寝ている皆を起こさないようにして、短い書き置きを炬燵の上に置いて、早苗のアパートを出て来たところだ。 

 松崎はまだ半分寝ている感じだったが、駅に近付くと、

「オレ山手線で帰るよ」 
 とJRの改札を指差すので、また連絡するね、と言って別れた。

 私は東西線で一駅乗り、落合で降りる。

 徹夜明けというのは、疲れているにもかかわらずなぜかハイテンションになる。ドーパミンの分泌量が狂ってしまうのだろうか。用もないのにコンビニに寄りたくなって、普段読まないような雑誌まで手を伸ばして、20分も立ち読みした。けれどもさすがに疲れは限界まで来ていたので、アロエヨーグルトだけを買い、店を出る。

 アパートに着くなり、バサッと荷物を放り投げて、辛うじてコンタクトを取り、化粧を落とし、服はそのままでロフトになだれ込んだ。  


2008-12-24 12:56:56 | 連載小説
  連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.21

   § 

 クリスマス・イヴの朝は、霜が降り、霞んでいて、太陽は控えめに、その顔をちょっとだけ覗かせていた。天窓から見えるその様子は、いかにも寒々しい。それもそう、まだ6時20分だ。朝方のちょっと変な夢で早く目が覚めてしまったのだ。 
 枕元のCDラジカセに、ヒーリングミュージックをリピートにしてかけ、しばらく微睡む。
 やがて陽の光が差し始め、霞が消え、明るくなってくる。今日は良い天気のようだ。
 ロフトを降り下のカーテンを開けたのは八時半だった。CDは優に三周はしたみたい。

 こんなに早く起きても、約束は午後だ。場所は恵比寿。ガーデンプレイス方面出口に二時。

「理美ちゃんは、何も考えなくていいから」
 とメールにあったので楽しみだ。 

 洗濯物がたまっていたので、洗濯機を回す。そして思いきって布団を干した。ロフトだと下に下ろすのが面倒で、なかなかこまめに干す気がおきなくて、ついついずっと干さずにいたりする。 

 松崎に少し前、

「クリスマスは久しぶりにどこかにお泊まりしたいなー」
 と値だって、 

 「うんいいよ、考えとく」
 と言ってくれていたから、部屋片付けはあんまりがんばらなかった。

 久しぶりにマライア・キャリーのアルバム『メリー・クリスマス』を取り出し、かける。
 気持ち良く聞きながら朝食を用意し、ソファに座り食べていると、またあの嫌なブザー音が鳴り、急いで食べ終えて皿を流しに片付け、洗濯物を干す。

 干し終わって、スッキリして時計を見ると、十時になるところだった。

 待ち合わせにはまだ早かったので、しばらくTVを観て、11時になって、お化粧を始めた。

 アイシャドーはニットの雰囲気に合わせ、明るめのシルバーにした。メイベリンの安い一色のだけど結構重宝してる。チークはキツくない仄かなピンク色に抑えて、口紅はランコムのヌーディーなピンクベージュのを塗り、その上から透明なグロスで包んだ。髪型はしばらく迷った末、久しぶりにアップにしてみた。もしもフォーマルなレストランとかだったらその方がいいと思ったのだ。備えあれば憂いなし、だ。ネックレスは相変わらずフォリフォリのハートの。実はネックレスはあまり持っていないのだ。珍しくイヤリングまで付けてみた。小さいパールのだ。私はピアスには憧れるのだが、どうも穴を開けるのが恐くて未だにイヤリング派だ。

 マニキュアも上品なシルバーで決めてみた。いかにもクリスマスという感じだけれど、まさにそうなのだから自信を持って…。薬局で少し前に遊びで買ってみたネイルアートのセットを取り出し、親指と薬指にだけ白い小さなストーンを、爪の根元と右端に置いて、透明なマニキュアで接着した。右手に付ける時はちょっと大変だったけれど、ピアノをやっているからか、左手も意外と器用に使えたのは新たな発見だった。

 予定より少し早く、14時10分前に恵比寿駅東口改札に着いたのに、松崎はいつものように既に待っていてくれた。

 松崎は、特別な時にしか着ない黒いカシミアのコートを着ていた。足元もピカピカの革靴だ。髪型も、いつもは無頓着で平気で跳ねたりしているのに、今日はかっこよく決まっている。私はおもわずにっこりしてしまった。 

 松崎も穏やかな表情で、

「こっち」
 とガーデンプレイス方面を指差して、歩き出した。

 恵比寿ビールの広告なんかを眺めながら、スカイウォークをのんびり進む。これはじれったい時もあるけれど、松崎と一緒だと、まるでアミューズメントパークに来たような気分にもなれるから好きだ。

  後ろに居る松崎が、
「今日は髪型がんばったね」
 と誉めてくれた。松崎はいつだってストレートだ。 

 信号が青になって、向かった先は三越の先にある映画館だった。ここはよく単館ものを上映していて、たまに変わった映画もやったりする。

「ユーロスペースのロシアアニメと迷ったんだけどね」
 松崎が繋いでいた手を放し、映画館のドアをゆっくり引く。

 中に入るとすごく混んでいた。けれど、松崎はなんと待ち合わせの前に、14時45分からの回のチケットを買って、整理番号をもらってくれていた。私はその心遣いがすごく嬉しくて、まずお礼を言った。 

 ロビーは、ほとんどが男女のカップルだった。幅広い年齢層の人がいる。着飾っている人もいるが、普段着の人もちらほら。表情も華やかだ。

 映画は『スコルピオンの恋まじない』という、犬猿の仲の男女が恋の呪文により惹かれ合ってしまう様を描いた、ロマンティックコメディだった。とても気楽に観れた。

 映画館を出ると、辺りは暗くなっていた。ガーデンプレイスは、至る所がライトアップされていて、とても幻想的な光景。バカラのガラスも素晴らしかった。いったいいくらするのか…なんて考えるのは、今はよそう。

 松崎と手を繋いで、身を寄せ合って歩くこと5分、小さな洋風の白い建物に着いた。外にメニュー表が出ていて、小さな照明で照らされている。

 松崎は何も言わずに、ドアをゆっくり開けて私を中に促し、自分はその後ろから入り、ドアを静かに閉める。

「予約していた松崎です」
 と松崎はジェントルマン風に言う。

 普段喫茶店などで注文するときはねちっこい控えめな声なのに。きっと松崎はTPOって言うのをちゃんとわきまえているのだろう。

「松崎様ですね、お待ちしておりました。コートをお預かりします」
 バリッとした白いシャツに、黒いベスト姿の店員さんが、とても丁寧な気持ちのよい笑顔で言う。コートを脱ぎ、店内に案内してもらうと、松崎は随分前に予約してくれていたのだろうか、一番奥の窓側の席に通された。椅子を引いてもらって座る。なんだか一気にお姫さま気分だ。髪をアップにして、パールのイヤリングをつけてきて正解だった。

 松崎がすごく紳士的に見える。私は高校の時から英単語の本来の意味を調べるのが好きだった。ジェントルと言う形容詞も調べたことがあった。穏やかな、優しい、親切な、おとなしい、ゆるやかな、静かな、礼儀正しい、上品な、家柄の良い…まさに松崎を形容している言葉だと、出会ってしばらく付き合ってそう思ったものだ。それが、最近はそんな素敵な松崎がすぐそばにいるのに、高村くんに心が移ったりしていたのは何だったのだろう。高村くんにも紳士的な要素はある。けれども、松崎とは何かが違うのだ。松崎の振る舞いには安心感がある。 

 店内にはブラームスのセレナード第一番がかかっている。周りを見渡すと、内装は白を基調とした、いたってシンプルな装いで、それがかえって高級感を引き出しているように思えた。

 ディナーには少し早い時間だからか、席はまだ空いていたが、やはりイヴの夜とだけあって、それとも、もしかしたら隠れた人気のお店でいつもそうなのかもしれないけれど、どこの席にも『Reserved』の札が立ててある。そして各テーブルの上には、透明の小さな花瓶に、小輪の深紅のバラとカスミソウの小枝、それにシダの葉っぱが生けられている。

 ここは気取らない南仏料理の店だった。最初にシャンパンを選んだ。ボトルではなくグラスにした。クリスマスのコースを予約してくれたみたいで、オーダーしないのに前菜が出てきた。トマトとアンチョビ、モッツァレラチーズの乗ったブルスケッタで、上に乾燥したハーブが細かくパラパラとかけられていて、食べてみるとバジルやオレガノの風味がしてにんにく、オリーブオイルも全体の味と見事に調和していて、

「美味しいね」
 と松崎とにっこり目を合わせた。 

 松崎とは、もう特に改まっていろいろしゃべるということはない。ただ、言い様もない安堵感がある。松崎とのこんな穏やかな時間がやっぱり一番居心地がいい。   それでも、今日は映画の話なんかを楽しく話した。

「オレ、ウッディ・アレン好きなんだ。独特のワールドっていうか、人間哲学みたいなのがあるんだよね」

「そうだね。私は脇役で出てたシャーリーズ・セロンが好きなの。『ヴァガー・バンスの伝説』って言う映画もいいよ、今度ビデオ借りて見よう」 

「『酔っぱらった馬の時間』も、案外よかったよね」 
 何の脈絡もなく松崎が言うので、

「ああ、ロードショーに行ったのに席ガラガラだったやつ?あれ地味だったじゃん」 
 と笑った。

「あのさ、さっき映画館入る時言ってた、ユーロスペースで始まったロシアアニメってどんなの?」
 ユーロスペースという映画館も単館もののいい映画を上映する。
「酔っぱらった馬の時間」もそこで観たのを思い出して言うと、

「『クルテク』っていう映画で、好奇心いっぱいのもぐらのお話なんだ。オレさ、小さい時『もぐらとずぼん』っていう絵本好きだったんだけど、それが映画化されたみたいなんだよね」

 それじゃあ今度それも観に行こうね、と約束した。 

 カニのだしが効いたクリームスープは絶品だった。 

 メインディッシュは鴨肉のローストだった。付け合わせのアスパラのソテー、ニンジンのグラッセ、エリンギにマッシュルーム、スナックエンドウも色とりどりできれい。白地に金と青緑の縁模様のしてあるお皿も素敵だった。

 私はここで、持って来た長い細い小さな箱とメッセージカードを取り出した。合鍵の方はまだ出さないでおく。

「はい、これ、約束していたものだよ」
 と松崎に両手で差し出す。松崎は、

「ありがとう」
 大きな目をさらに大きくして、早速リボンを解き、箱から中味を取り出した。

「おーいいねぇ」 
 気に入ってもらえるか内心不安だったので、その言葉でとても救われた。

「そう?これ見て。私のもお揃いで作ったんだよ」
 私は、まだケイタイに付けずにバッグに忍ばせてきた、赤とピンクのケイタイストラップを取り出し、松崎に見せたら、

「オソロイって初めてだね」
 普段モードの松崎になって、はにかみながら笑う。

 考えてみたら今まで長く付き合ってきたのにお揃いって買ったりしたこと一度もなかったなぁ。

「ここではなんだから、後で一緒にケイタイに付けてみようね」
 と言って、ストラップをしまう。

 すると今度は松崎が、内ポケットから小さな水色の箱を取り出し、

「はい、これはオレから理美ちゃんに」
 と言って左手で差し出す。

 私は、 「えー、ありがとう!嬉しい。何かな?」 

 と言って、それを両手で受け取り、ゆっくり白いリボンを解き、箱をそうっと開けてみる。

 それは、とても華奢な、シルバーのネックレスで、トップは綺麗な石がはめ込まれた小さな十字架だった。私は、丁寧にそれを取り出し、手に取って眺めた。なんて綺麗なんだろう。

「ネックレスって、服とかによって選べるように、色々持っててもいいかなと思って」 
 松崎は恥ずかしそうに、にこにこしながら言う。

「大ちゃん、いつのまに選んでおいてくれたの?すごく気に入ったよ。ありがとう」 
 私は今日最高の笑顔を見せた。

 ちょっと冷めちゃったけれど、メインディッシュの味はとてもよく、松崎のスマートなナイフとフォークさばきを眺めながら、ゆっくり噛んで味わった。

 その後デザートが運ばれてきた。ガトーショコラ、ダークチェリーのタルト、パンナコッタが乗っていて、周りには赤いソースで小さなハートがたくさん描かれてある。コーヒーと紅茶が一緒に運ばれてきて、それを飲みながら、三種類を交互に味わった。  とても素晴らしいディナーだった。

 お店を出て、又松崎は何も言わずに歩き出す。

 
  次に連れて行ってもらったのは、大通りから少し入った、こぢんまりとしたホテルだった。そこは、エントランスに趣味のいい一色だけのイルミネーションが、目線より下の植え込みにバランスよく光っている。行ったことはないけれどパリ郊外の隠れ家風プチホテル、と言った感じだった。扉も、病院などの無味乾燥な透明な自動ドアではなく、ダークブラウンのかなりの高さのある扉で、自動ではあったのだけれど、普通よりも開くスピードがゆっくりな気がした。

「松崎ですが」  松崎はまたジェントルマン風に早変わりして、大人っぽい声で受付の小西真奈美風の素敵な女性に伝える。 

 松崎が宿帳に記入している間、私は傍にあったアール・デコ様式を意識した、硬めのソファに腰をおろし、緊張して待つ。隣には木の戸棚があって、中には香水の瓶が沢山飾られていた。こんな所があったなんて恵比寿はまだまだ未開の地だ。  エレベータもレトロな感じで、やはり色はダークブラウンで、三階に着いた時の、 「チン」  という音がなんともアナログ的でオシャレだった。松崎は扉が開くとさりげなく私を先に通してくれて、

「307だよ」
 とだけ小さな声で言う。私は表示に従って、奥に進んで行く。

 廊下には絨毯が敷いてあって、靴の音はしない。 

 カード式のカギで扉を開ける。部屋に入り、キーボックスにカードを差し込むと、明かりが灯った。

「うわぁ、素敵だねぇ」

 私ははしゃいでそう言った。中はけして広くはなかったけれど、なんと言うのだろう、趣があって、色にしても統一感があってかっこいい。壁の色は薄いくすんだ水色で、白い傘が被さった間接照明が数カ所にある。洋服ダンスやソファは皆ベージュ色。カーテンは壁の色に似た水色に白と紺の縦縞が交互に入っている。

「ほんとはウエスティンに泊まりたかったんだけど、予約いっぱいでさ」 
 高くて、ではなく予約いっぱいで、と言うのが松崎らしい。

「私ここで充分満足だよ。最高だよ!大ちゃん、今日は何から何までホントにどうもありがとう」 

 そうお礼を言って、私はまだコートを着たままだったけれど、松崎に抱き着いた。

 松崎のコートを脱がせてあげてハンガーにかけ、自分のも脱いで隣のハンガーにかける。 

 その後、備え付けのポットに電源を入れ(水はあらかじめ入っていた)お湯を沸かす。
 松崎はやはりここでも小学生の坊やに戻り、タンスの引き出しを開けたりバスルームに行ったり、部屋中を色々チェックする。 

 そして、ベッドの脇にあったオーディオをいじり、ラジオをクラシックのチャンネルに合わせると満足気な顔で窓辺に行き、カーテンを開けて外を見た。

「ここの部屋は南向きだね、さっき入って来たエントランスのイルミネーション見えるよ」 
 こっちに来な、と手招きするので、

「どれどれ?」 
 と私も窓辺に行って、松崎と顔を近付けて外を見る。

「本当だ、月も出てるね」 
 窓ガラスが息で白くなる。

 松崎は、私の顔をまじまじと見て、

「理実ちゃん、きれい」 
 と言った。松崎の言葉はいつだってシンプルだ。そしてシンプルだからこそ胸にグッとくる。

「髪アップにすると大人っぽくなるね」 

 とまた髪型を珍しそうに観察して、前髪に手櫛を入れて斜めに流してくれた。

「こうしてちょっと固めると、もっと大人っぽくなる」 
 松崎って、意外にセンスある。私もその方がいいかなとは思ったのだが、何せ直毛なので諦めていたのだ。 

 松崎と接していると、いつのまにか心が裸になる感じを今も味わっていた。相手の心との間にバリアを作らない、それでいて自分から土足でズカズカ入ってくるわけでもない。松崎は安心を引き寄せるホントに不思議な力を持っている。

 それから松崎は先程のケイタイストラップを取り出して、自分のケイタイに付け始めた。私はお湯が沸いたので紅茶を淹れる。

「理美ちゃんも付けてみてよ」
 と言うので、紅茶を注いでからケイタイとストラップを取り出し、付けてみた。
 二人して見せ合った。部屋の柔らかな照明が、石、ビーズ、一つ一つに注がれ、透明なビーズは、雨上がりのアジサイの葉に乗った雫のように見えた。

 時刻は九時半になるところだった。 

 私は一息ついて、バッグから小さな箱を取り出し、

「大ちゃん、これは私からのもう一つのクリスマス・プレゼントなの」 
 松崎に箱を差し出した。

「え?、なんだろ、ありがと」 

 松崎は早速包みを開け箱の中味を見た。

「これって…」

 松崎が一瞬固まった。目がとても真剣だ。 

「そうだよ、私のアパートの。これからはいつでもこれ使って開けて入っていいよ。ロフトで寝ても構わないし、ベランダで煙草吸っても構わないし、好きに使っていいよ。あっ、火の元には気をつけてね。私の大ちゃん用の扉は24時間オープン致しております」 

 ちょっと照れくさくて、そんな言葉を言い終わるか終わらないうちに、私の体は、松崎の胸の中に包まれていた。松崎は私をしっかりと抱き締めたまま、耳もとでささやいた。 

 「理美ちゃん、ありがとう。すごく嬉しいよ」

 そうして、そのままベッドに倒れ込み、待望のキスをした。深く、長く、お互いを夢中で吸い合った。

 洋服のボタンを一つ一つ外してもらって…なんていう時期はとっくに過ぎた。服も全部脱ぎ捨て生温かい肌をぴったりと合わせて、松崎は私の体の隅々にキスをする。繊細な指先は私の感じるところすべてに見事なまでにフィットし、あとはもう無我夢中で快楽を貪った。

 月が優しくこちらを見ていた。 




連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.20後半
2008-12-22 16:14:20 | 連載小説
   

 起きたら二時だった。
 ロフトの天窓から陽の光が差し込んできて、まるで春のような暖かさだ。ロフトは、夏は勘弁だが冬は都合がいい。

(ビーズでケイタイストラップ作るんだった)

 クリスマス・イヴまでもうあと二日しかない。どんなものにするかはビーズを買う時にだいたいはイメージしておいた。
 ロフトの梯子を降り、冷蔵庫からジンジャーエールを取り出し、グビグビッと飲む。二日酔いは大丈夫そうだ。

 部屋の空気を入れ替えよう、と窓を開ける。風は冷たいが、陽射しは暖かく、前の家の庭の、裸になったこぶしの木の梢に、雀が3~4羽来ていて、チュンチュンと仲良く並んで横っ跳びをしている。あまりに長閑で気持ちがよかったので、大きく伸びをして、深呼吸を2~3回した。
 
 それからベランダの物干の隅に下げておいたあんぽ柿を一つもぎ取る。この間野菜と一緒に送られて来たやつだ。いつもこの時期になると一さげ送られて来る。

 母の実家の霊山は、全国でも有数のあんぽ柿の産地で、祖父祖母がいなくなった今でも、11月の休日に兄弟が集まって『柿剥きのイベント』をやっている。特にこまめな手入れをしなくても、畑の周りに生えている柿の木々は、毎年たわわに実をつける。自家製なのにちゃんと燻したりするから、色も綺麗なオレンジ色だ。

 窓を閉め、セラミックファンヒーターをつける。スチームの水がなくなっていたので水を足し、あまった水を隣のベンジャミンにあげる。それからお茶を淹れ、あんぽ柿をクチャクチャ、音を立てて食べた。この食べ物は不思議と音を立てて食べた方がうまい。

 大学は先週の金曜日で終わり、冬休みに入っていた。とは言っても冬休みはとても短い。その上休み明けには盛り沢山の試験が待受けている為、あまり解放感がない。それでも明日から学校がないと思うとホッとする。 

 ミニコンポに、ジェーン・バーキンのベストアルバムを入れ、再生を押す。このアルバムは、だいぶ昔に一度出たものだそうだが、近年ドラマの挿入歌に使われ、ジャケットを変えて再発売されたものだ。ドラマで知っていいなと思っていたら、たまたまコンビニで見つけて買ったのだ。

 気だるい調子の一曲目『無造作紳士』を聞きながら、ダイニングテーブルの上を片付けて、この間買ってきたビーズを、机の上に広げる。 二曲目の私が大好きな『哀しみの影』が流れ出す。

 ストラップだからデザインを凝るよりは、デザインはシンプルでも石やビーズで個性を出したい。松崎のと私のはデザインは一緒で色違いにしたいと思って、石やビーズもそれを想定して買って来ておいた。
 ビーズは、松崎には青と透明の、私には赤と透明の、そしてアクセントに天然石を使った。松崎に私が選んだのは『ラリマー』という優しい水色の石だった。愛と平和を表す癒しの石と説明書きに書いてあったのも気に入った。自分には『ローズクォーツ』(和名=紅水晶)という、仄かなピンク色の石を選んだ。感情面の安定を促し、若さと健康を保つ、恋愛成功の石、女性に優しさを与えてくれる石、と書いてあった。

 ものすごい集中力で、二時間足らずで完成した。思ったよりよくできた。世界に一組だけのお揃いのストラップ。そう思うとにんまりしてしまう。ちょっと女の子っぽい気がしないでもないが、松崎は結構可愛いもの好きだしOKだろう。  

 お腹が空いたので、もう暗くなっていたけれど、気晴らしもしたかったので、ギンザ商店街まで行くことにし、ダウンジャケットを着込み、アパートを出る。  

 住宅街の細道には、どこからともなくさんまの焼く匂いが漂ってくる。  久しぶりにスーパーのお惣菜でも食べてみようかと思って、ギンザ商店街の中にある大型スーパーに入り、ちょっと立ち読みしてから地下に降りる。目立つ所にシャンパンのコーナーが開設されていて、クリスマスムード満点だ。

 お惣菜コーナーには、ポテトサラダ、中華サラダ、野菜の煮付け、揚げ物、一通りのものが揃っているが、やたらと目を引いたのがカボチャとあずきの煮たもので、異様にたくさん置いてあって半額になっているものもある。

(そうか、今日は冬至だ)

 田舎ではいつも母が健康にもいいからと、22日前後には必ず作ってくれた。懐かしくなって、

(どうせ帰ってすぐ食べるんだから)
 と半額のをかごに入れる。

 スーパーからの帰り道は、強風が吹き荒れ、目にゴミが入ったりして、やっとの思いでアパートに戻った。

 食事の後、紅茶を淹れ、気ままに本を読んだり、TVを観たりした。

 お風呂を沸かして入った。今日は入浴剤を切らしていたが、銭湯はこの間のことがあって、しばらく自粛している。


  天皇誕生日は冬休みに入ってるから、全然ありがたくない。

   松崎はクリスマス・プレゼント、ケイタイストラップだけでいいよ、と言ってくれたが、やはりそれだけでは少しもの足りないと思って、ブランチの後、一人で新宿高島屋へ出掛けた。素敵なプレゼントを考えたのだ。 

 まず駅前の合鍵屋さんへ行き、アパートの合鍵を作ってもらった。五分もかからなかった。

 そして高島屋へ向かう。キーホルダー売り場であれこれ迷ったあげく、黒い革の小さいシンプルなのに決め、店員を呼ぶ。

「このキーホルダーに、これを付けてラッピングして頂きたいんですが…」

 店員に鍵を見せる。店員さんはにっこり笑って、

「かしこまりました。それではサービスカウンターの方へどうぞ」

 いつもの高島屋のバラの花の包装紙ではなく、クリスマス用のラッピングにしてもらった。

 その後、高島屋の中に入っている東急ハンズで、ストラップを包む為のラッピング用品と、メッセージカードを買って、サザンテラスにあるスタバへ向かう。  

 道ゆく人たちは、しっかりとコートに身を包み、マフラーをして、気のせいかみんな前かがみで、スタスタと歩いて行く。中には帽子を被っている人もいる。曇り空で寒く、顔に力が入る。

 ここのスタバはいつ行っても混んでいるが、辛うじて狭い一人用の席を確保し、荷物を置き、財布とケイタイを持ってカウンターに並ぶ。スターバックス・ラテを注文し、席へ運び、サザンテラスを眺める格好で座る。

 時刻は三時半を過ぎようとしていた。

 しばらくぼうっとサザンテラスを眺めながら砂糖を入れてゆっくりかき混ぜて、少しずつ口へ運び、一息つく。

 買って来たメッセージカードは、全体がエメラルドグリーンで、中央に色とりどりの飾りが付いているもみの木が描かれていてるデザインだ。銀色のラメがちりばめられていて、まるで雪が降っているよう。

 松崎にメッセージを書いた。


 大好きな大ちゃんへ 

 大ちゃんと三度目のクリスマスを迎えることができました。とても幸せです。大ちゃんがいることで、私はいつも穏やかで優しい気持ちでいることができているように思います。安心感があるのです。大ちゃんは私が困っているときいつも助けてくれます。どんなに心強いことでしょう。この間ご実家に初めて泊めて頂いて、すごく距離が近くなったように感じてとても嬉しかったです。大ちゃん、これからも末永くよろしくお願いします。研究がんばってね、応援しているよ。私も大ちゃんに負けないようにいろいろがんばりたいです。Merry Christmas!!   理美より 


 それから奈歩と松崎にメールをした。奈歩には早苗の妊娠のこと、松崎には明日の待ち合わせの碓認メールだ。 

   その後、持って来た文庫本をたっぷり一時間は読んだだろうか、ふと顔を上げると外はとっぷり暗くなっていて、イルミネーションが点灯していた。ちょっと色を使い過ぎな気もしたが、賑やかで綺麗だったので、しばらく眺める。

 この三年間、松崎とは特に何の疑問もなく、当り前のように付き合ってきた。だから誕生日やクリスマスといった記念日に心細い思いをすることはなかった。でもこうやってサザンテラスを行き交う人を眺めていると、いろいろな人がいて、必ずしもクリスマスを喜べない人だっているのかなぁ、などとぼんやり考えた。緑は外泊できるかな…。 

 東中野に戻り、帰り道に近所で豚肉と豆腐を買う。閉店間際だったのでまけてくれた。

 誰もいないアパートに入り、留守録を解除して、音楽をかけ、料理を始める。料理と言うほどのものではない、いつもの豚肉と豆腐の塩コショー炒めだ。食に関して割にグルメな面はあるけれども、日常的には健康と美容だけを気にしている。豆腐は、特にあの店の豆腐は、イソフラボンがたっぷり含まれているだろうし、豚肉に含まれるビタミンBは肌のトラブルにいいみたい。それで手っ取り早く摂取できるこのメニューをあみ出したのだ。味もいいし、何と言っても飽きがこないのがいい。

 食事の後、明日着て行く服をコーディネートした。松崎はどうやら何か考えてくれているらしい。
 この間倹約して買った、グレーのアンサンブルのニットが、いよいよ出番だ。パール(イミテーションだが)のコロコロしたボタンが付いている。スカートは前から持っている黒と白の細かいチェックの、脇に黒いベルベット素材のリボンが付いているのにしよう。

 ストッキングがまともなものがなかったので、坂の上のコンビにまで買いに行くことにした。幸いさっき新宿から帰ってきてからまだ部屋着に着替えていなかった。
 軽く化粧をし、髪を整える。 

 茶色の、お母さんから買ってもらったコートを着て、ブーツを履き、コンビニへ行く。

 昔は、そう遠くない高村くんに出会う前の私だったら、たかが近所のコンビニに行くのに格好に気を遣うなんてことはなかったのだが…。あんな事があってからも、心の奥底で、まだ高村くんをすっぱり諦めることができないでいたのかもしれない。

 細い住宅街の道沿いには、今日も各家が競い合うようにして、イルミネーションを賑やかに点灯させている。 

 コンビニが見えてくる。闇の中にポッと浮いたように見える。

「いらっしゃいませこんばんは」

 ここの店員のお決まりのあいさつだ。いつも思うのだが、コンビニの店員のあいさつに応える客っているのだろうか…。

 店内のお客さんを碓認しながら、まずストッキングのコーナーへ。思いの他結構充実した品揃えで、私がイメージしていた、黒い細かい網タイツもあったので、迷わずそれに決める。それからちょっとデザートのコーナーを覗きに行く。 

 高村くんはいなかった。いなくて少しがっかりしたけれど、ホッとした部分もあった。帰りも、もう高村くんの部屋の明かりを見に行ったりはしなかった。


冬枯れのヴォカリーズ前半

冬枯れのヴォカリーズ前半

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