歩く不幸
人知れず、今日もひとりでに不幸が街から街へあるいている、人のにぎわう場所をみつけては同じ顔をした不幸とばったり鉢合わせることもある、不幸は疲れをしらず人から人へ伝染し、より強い不幸になる事もあれば、分散する不幸になる事もある。自分がいつからそんな不幸の一部になったのか、この不幸はまるっきり思い出せない。ただ初めからそうであったようにいつからか不幸としてそこに存在していて、留まる事をしないで何かと結びついて新しい不幸となって子供をはらんでほかの人間へ分散される、その理由を不幸はしらない、不幸はただ名付けられただけだ。海辺によせて返す波の様に、人間の世界にも人間の心にも波があって、不幸はそれを模して不幸であるだけだ。その繰り返しの中に、不幸は新しい出会いを求めている。
不幸が新しいものとであって幸福に変わることがある。それは不幸が同じことを繰り返しているうちに、その延長線に偶然に不幸ではないものと出会う事があるからだ。不幸の名前をつけたのは不幸の持主だと不幸はいう。けれど持主には不幸が不幸であることしかわからない、苦し紛れに不幸を延長させることしかわからない、ただ不幸は偶然に自分の姿ににた幸福の姿を見かけることがあって、そのとき自身が不幸と名付けた言葉やしぐさや行動すべてが、不幸という名前ではなかったことを、不幸は思い出す事になる。その時にはいつも持主は、以前とはうってかわって不幸ではない多くの概念と結びついている。そんな旅を不幸は繰り返している。
歩く不幸